『近世広島の暮らしと自然を考える』佐竹昭を聴講。
今は豚を家畜として飼い、それを食しますが、江戸時代にその習慣はありませんでした。
一方山には野生動物が生息しており、江戸時代の人は猪から田畑を守るため「シシ狩り」をしたり、「シシ垣」を作りました。
以上2点について解説を受けました。
割りと身近な話なので、楽しく聞けました。
時々山登りするので「シシ垣」に注意したいと思います。
講師の佐竹昭氏は、広島大学総合科学部の名誉教授をされています。
キーワード:<家畜>豚、朝鮮通信使、<野生動物>南北問題、動物相、シシ狩り、シシ垣
<人々の暮らしと動物-家畜>
・考古学者・佐原真は世界の農業/家畜を調査し、欧州では麦-牛/豚/羊、中国北部では麦(?)-豚/羊、中国南部では稲-牛/豚、西アジアでは麦-羊/豚だが、日本は稲-家畜なしとした。日本に家畜がいないのは異例であった(ただし沖縄はブタを飼っていた)。
・その理由は豊富な漁獲があり、美味しい米も十分収穫できた事が考えられる。一方世界では、それ程美味しくない麦などを家畜に与え、家畜を食したと考えられる。
・十二支の「亥」は、中国/朝鮮/ベトナムではブタだが、日本はイノシシである。これは日本にブタがおらず、野生のイノシシが当てられた。中国語の「猪」はブタを指す。
※イノシシ=猪のシシ=ブタの肉。イノシシは動物自体ではなく、ブタの肉の事?
・天明2年(1782年)日本中を漫遊した京の医師・橘南谿は『東西遊記』を記す。そこに広島城下は全国でも珍しく、禿げた黒い豚がいると記している。
・天明8年(1788年)神辺の漢詩人・菅茶山は、管弦祭の日に広島城下を訪れ、豚の多さに驚き、漢詩を残している。
・広島城下に豚がいたのは、「朝鮮通信使」を饗応するために豚を取り寄せ、余った豚を城下に放したためであった。貞享2年(1685年)には、すでに城下で「豚狩り」が行われている。狩られた豚は島々に放たれた。
<人々の暮らしと動物-野生動物>
・江戸時代の交通/運送手段は船であった。そのため安芸藩の山間部では人口が増えなかったが、沿岸部/島嶼部(安芸郡、御調郡、佐伯郡)では人口が数倍に増えた(南北問題)。
・沿岸部/島嶼部では木を切り、薪として売り生計を立てた。薪は塩の取得にも使った。木を切った傾斜地を「草山」にして肥料を取得したり、畑にしてサツマイモ(唐芋)を作った。※当時の薪は今の石油ですから。
・『芸藩通志』(1814年)の基資料となった「国郡志書出帳」から、各村の動物相が分かる。各村で猪/鹿/狸が見られるが、山間部(山県郡、佐伯郡)ではさらに熊/狼が見られた。逆に島嶼部(安芸郡、佐伯郡、豊田郡)では人による開発が進み、猪が見られなくなった。
・過疎化/減反/林野の放置により、現代の方が野生動物が増殖していると思われる。
・獣害対策として以下がある。①攻撃的対策-鉄砲を使う「シシ狩り」、②中間的対策-番小屋での番、③防衛的対策-「シシ垣」を築く。
・延享元年(1744年)倉橋島で大規模な「シシ狩り」を行った。島のウェストに当たる部分に柴垣(高さ2m、長さ2.2Km)を作り、そこに追い込んだ。
・この様に島嶼部では農作物を守るため、しばしば「シシ狩り」「鹿狩り」を行った。
・一方内陸部では「シシ垣」によって猪を防御した。
・以下の「シシ垣」を写真/地図で解説。呉市安浦町内平(全長4Km、石碑あり、『芸藩通志』に記録あり)、小豆島(全長120Km)、滋賀県高島、西彼杵半島(全長40Km、起点石は県指定文化財)、大分県佐伯市鶴見町、愛媛県愛南町外泊(「石垣の里」で有名)、三重県尾鷲市羽後峠(落し穴「シシ壺」あり)。