『江戸時代の医学史と広島』川和田晶子を聴講。
3人の医師、吉益東洞(江戸)/富士川游(明治~昭和)/三枝博音(昭和)について解説を受ける。
医学も様々な分野がありますが、医学史などに影響を与えた著名人です。
3名共博識です。また3名共、何らかの繋がりがあります。
キーワード:<吉益東洞>親試実験、万病一毒説、李朱医学、『類聚方』、腹診、華岡青洲、<富士川游>『日本医学史』、『東洞全集』、<三枝博音>『日本哲学全書』、『三浦梅園の哲学』
<吉益東洞>
・吉益東洞(1702~73年)は広島市中区に生まれます。金創(外科)を学び医者になり、やがて古医方(漢方)を学びます。
・彼は後漢の『傷寒論』を重視しますが、「これは中世歪曲され、信用できず、現実の患者で証明しなければいけない」(親試実験)と信条とします。
・30歳の時、「全ての病の原因は唯一の毒で、毒(薬)にてそれを除去する必要がある(毒をもって毒を制す)」(万病一毒説)を唱えます。※「毒をもって・・」は彼の言葉?
・当時の医学は「李朱医学」で、「気を補って体力をつける」「水を補って熱を冷ます」など補助的な医学でした。よって彼の医学は過激ですが、西洋医学に近いものでした。
・彼は37歳の時、京都に移住します。1747年(46歳)日本で初めて人体解剖した山脇東洋と懇意になり、彼も出世します。※蘭学医の前に人体解剖があったのか。
・彼は72歳で他界するまで、臨床に関する様々な著作をあらわします。特に有名なのが『類聚方』で、漢方の作り方/処方量/処方時期などが記され、当時のベストセラーになりました。
・他に『方極』『建殊録』『医事或問』『薬徴』『方機』などを著しています。
・当時は「脈診」を主であったが、彼は「腹診」を行い、それは完成の域に達した。
・日本で最初に「通仙散」で全身麻酔した紀州藩の華岡青洲は彼の孫弟子です。この話は有吉佐和子『華岡青洲の妻』で有名です。
<富士川游>
・富士川游(1864~1940年)は広島県沼田郡に生まれる。広島医学校(広島大学医学部)を卒業後、医学ジャーナリストになる。1904年(39歳)医学史の大著『日本医学史』を出版する。12年帝国学士院恩賜賞を受賞する。
・彼の活動は医学に留まらず、法学/歴史/文学/宗教/芸術に及んだ。
・1898年(33歳)ドイツに留学。神経病学/理学的療法を学ぶ。
・1904年(39歳)『日本医学史』を著すが、当初原稿は3千ページあったが、印刷に困り、1千ページ強に圧縮される。
・本書は10章(第1章:太古の医学、第2章:奈良朝以前の医学、~、第9章:明治時代の医学、第10章:疾病史)からなり、神話まで調査している。何時/どんな病気が流行ったか知る事ができる。
・本書では方術(療法)の歴史に詳しい。また医学史を文化史の中に位置付けている。
・本書は初版後、8版(1974年)まで出版されている。
・1918年(53歳)呉秀三と『東洞全集』を出版する。本書は吉益東洞の『医事或問』『古書医言』『薬徴』『類聚方』『方極』などを当時の活字に直した。
・1940年(75歳)鎌倉で逝去する。
<三枝博音>
・三枝博音(1892~1963年)は広島県山県郡に寺院の4男に生まれる。第4仏教中学(崇徳高校)を卒業し、僧侶を3年務める。その後東京帝国大学文学部で西洋哲学を学ぶ。
・1922年(30歳)この頃から富士川游に師事する。
・彼は西洋哲学を学び、「唯物論」(無神論)に傾注し、1928年(36歳)「無神論運動」を起こす。
・1933年(41歳)「治安維持法」違反で検挙される。大学から追放され、富士川游の下で、日本哲学史/科学技術史の研究/著作に入る。
・1936年(44歳)『日本哲学全書』を出版。1941年(49歳)『三浦梅園の哲学』を出版。※彼は三浦梅園を気に入ったみたい。
・1946年(54歳)「鎌倉アカデミア」の2代目校長になり、教育者になる。1961年(69歳)横浜市立大学の4代学長になる。
・1936年(71歳)国鉄鶴見事故で他界する。
<星野良悦>
・星野良悦(1754~1802年)は「星野木骨」を作製した。
※前半はゆっくりで、後半は特急。また調べないといけない点が幾つもある。