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『明治国家と万国対峙』勝田政治を読書。

明治初期(1871~81年)の政治を解説しています。
この時期を3期、征韓論政変まで(~73年)/大久保暗殺まで(~78年)/明治14年政変まで(~81年)に分けています。
それぞれ西郷、大久保、大隈/伊藤の時代と云えます。

彼らは万国対峙(不平等条約改正)を目標としていますが、それぞれ異なった政策を取ります。

概要を知るには良い本と思います。ただし時々当時の熟語が出てきます。

お勧め度:☆☆

キーワード:<万国対峙>近代国際法/万国公法、条約改正、<明治維新政府>府藩県三治体制、版籍奉還/廃藩、軍事力強化、<留守政府>岩倉使節団/条約改正の延期、学制/裁判権/徴兵令/秩禄処分/地租改正法、内閣議官、島津久光、反対一揆、副島種臣/マリア・ルス号事件、琉球・台湾問題、<政変>民力養成、征韓論、即行論/延期論、民力養成論、<大久保政権と内務省>参議省卿兼任制、愛国公党/民撰議院設立建白書、佐賀の乱、島津久光/左大臣、台湾出兵、政規典則、<大久保政権>大阪会議/立憲政体/参議省卿分離、警察行政/勧業行政、府県職制、江華島事件/日朝修好条規、農民一揆、秩禄処分、敬神党の乱/秋月の乱/萩の乱/西南戦争、三新法、<立憲制>工場払下げ、自由民権運動、国会期成同盟/私擬憲法、自由党/立憲改進党、国会開設の勅諭、政党内閣制、大隈陰謀説、<その後の万国対峙>武備、条約改正

<万国対峙>
・70年代は「近代国際法」により国際秩序が成立していました。「近代国際法」は世界を文明国/半文明国/未開に区分していました。日本/中国/トルコは半文明国に含まれます。この「近代国際法」は、日本では『万国公法』として流布していました。

・91年山県有朋は第1議会で「国是は万国と対立(対峙)する事である」と演説している。この「万国対峙」は具体的には「条約改正」で、1911年(明治末年)になって達成されます。
・67年「大政奉還」の上表文には「政権を一元化する事で、万国と並立できる」と記されている。また同年岩倉具視の意見書にも「現在の様に名分が紊乱していては、万国と対峙できない」と記しています。

・本書はこの「万国対峙」を切口とし、近代日本の形成過程を追跡します。対象期間を廃藩置県(71年)~明治14年政変(81年)とし、征韓論政変(~73年)/大久保暗殺(~78年)/明治14年政変(~81年)の3期に分けます。それぞれの中心人物は西郷隆盛、大久保利通、大隈重信/伊藤博文です。

<明治維新政府>
○万国対峙の表明
・71年8月「廃藩置県」が実施され、幕藩体制(地方分権体制)が中央集権体制に移行した。

・明治政府初期の様々な文書(大阪遷都、教育振興、常備軍創設など)で万国対峙(国威挽回、国威光耀、皇基振起、万国対立など)を国家目標として掲げている。
・一方民間においても、啓蒙結社「共存同衆」(小野梓創設)の条例に「万国対峙は人民の責務」としている。民権結社「愛国社」(板垣退助創設)の合議書では、結成の主意を「欧米諸国と対峙屹立させるため」と記している。※他にも多数紹介しているが省略。

○万国対峙の提起
・明治政府の最初の地方行政は、68年6月「政体書」で定められた「府藩県三治体制」であった。府県は政府直轄地で、「戊辰戦争」で没収した土地である。

・68年木戸孝允/伊藤博文が「版籍奉還」の建議を行う。翌年3月薩摩/長州/土佐/肥前の4藩主が「版籍奉還」の建白を行う。7月「版籍奉還」が許可され、藩に対する政府の影響力が強まる。
・70年盛岡藩知事の辞職が認められ、盛岡藩は廃藩になる。71年徳島/鳥取/熊本/名古屋などの大藩から廃藩建白が出される。

・69年12月弾正台(警察機関)から軍事力強化の建議が提出される。70年6月兵部省からも軍事力強化の意見書が出される。71年2月帰郷していた西郷は「殖産興業より軍事力強化が必要」との意見書を提出し、中央政府に復帰する。※建白書/建議書/意見書の違いは、その内調べよう。
・71年8月徳島藩から華士族の家禄を廃止すべきと云う建白が提出されている。

<留守政府>
○岩倉使節団
・条約では72年7月より条約改正が可能であり、70年10月外務省は「条約改正掛」を設置して作業を始める。翌年6月改正案(関税自主権には触れず、領事裁判権の双務化)を纏める。

・71年10月参議大隈の発議で「使節派遣」が決定し、岩倉の大使就任も決まる。木戸/大久保/伊藤/山口尚芳が副使となり、12月横浜を出港する。第1の任務は「聘問」で、第2の任務は「条約改正の延期」で、第3の任務は「国内改革のための調査」であった。
・出発前、太政大臣三条実美はこれらの主旨を「事由書」として岩倉に渡し、同意を得ている。

・使節団は、米国では人民の「自主自治」に感嘆し、キリスト教と学校の役割を知る。英国では鉄/石炭による工業力と貿易が重要と知る。仏国では「パリ・コミューン」を弾圧した大統領ティエールを評価する。独国ではビスマルクの「万国公法」への欺瞞性にショックを受ける。ロシアに対しては奴隷が存在する専制国家と失望する。

○西洋化へ
・正院(留守政府)は太政大臣三条/参議西郷/板垣/大隈が担ったが、留守政府と使節団との間で「約定」が交わされていた。「約定」の第6項で「新規の改正は行わない」としていたが、第7項で「廃藩置県」に関する実施は認められていた。

・しかし実際は使節団の派遣前から、西洋化政策のラッシュが続いていた。71年5月「戸籍法」を制定している。
・72年9月文部省(文部卿大木喬任)は「学制」を制定し、小学校などを設立している。しかし国民への教育費の負担から、一揆が頻発する。
・72年9月司法省(司法卿江藤新平)は「司法職務定制」を制定し、地方裁判権を大蔵省から司法省に移管させる。
・73年1月陸軍省(山県)は「徴兵令」を制定し、「国民皆兵」となる。
・72年3月大蔵省(大蔵大輔井上馨)は「秩禄処分」案を内決するが頓挫する。
・71年10月大蔵省(大蔵卿大久保、大蔵大輔井上)は「地租改正」案を纏め、73年7月「地租改正法」が公布され、土地私有権が確立し、地租を地価の3%とする「近代租税制度」が創出される。

○改革の反動
・各省が急進的に改革を進めたため、72年6月大蔵省は緊縮財政方針を打出し、各省と対立する。73年1月頃には参議板垣/西郷、司法卿江藤などが辞意を述べる様になる。
・この混乱を招いた要因は「太政官制」にもあった。正院は太政大臣/左大臣/右大臣/参議からなるが、各省の政策決定権/人事権はそれぞれの省にあった。※この辺り重要。
・そのため73年4月司法卿江藤/文部卿大木/左院議長後藤象二郎を参議に増員する。さらに5月正院に「内閣議官」を設け、立法/行政の当否を「議判」する。

・西洋化ラッシュは士族の反発も生じさせた。72年7月天皇が鹿児島を行幸したおり、島津久光は14項目の意見書を提出する。久光の不満は収まらず、西郷/大久保の罷免を要求する様になる。※困った人だ。
・73年4月久光は士族250名を伴って上京する。5月久光は「麝香間祗候」(維新の名誉職)に任じられる。

・71年より西洋化政策への反対一揆が起こり始める。73年北条県(岡山県)で「美作血税一揆」が起き、2万7千人が処罰された。彼らは学制/地租改正などを否定した。※他にも多数紹介しているが省略。
・政府はこれらの一揆を警察/鎮台兵にて鎮圧する。また「告論」(徴兵令の必要性を諭すなど)を出す事もあった。

○国権拡張政策
・71年12月外務卿岩倉の後任に副島種臣が就く。彼は73年10月「征韓論政変」で辞職するまで、「国権外交」を展開する。
・彼は天皇と英国公使/ロシア公使の会見を「立礼」ではなく「座礼」で行わせる。一方自身の「日清修好条規」批准での清国皇帝との会見では「跪拝」ではなく「立礼」を行わせた。

・72年7月ペルー船マリア・ルス号の苦力が逃亡する事件が起こる。この事件で2回(①船長の苦力に対する暴力②苦力契約の是非)の裁判が行われる。英国上海高等法院の支援で①は有罪だが無処罰、②は契約無効と判決する。この判決は海外から評価を得た。

・71年12月琉球人の舟が台湾に漂着し、54名が殺害される事件が起こる。翌年11月外務省は清国に外務卿副島を派遣し、①琉球に対する日本の主権を認めさせる②殺害事件の補償を求め、応じない場合は出兵する(台湾出兵論)、を決める。

・69年2月明治政府は朝鮮に「新政府樹立の通告文」を送るが拒否され、国交が停滞する。これにより「征韓論」が起こる。72年9月釜山の倭館を接収し、国交は断絶する。

<政変>
○使節団の欧米体験
・使節団のメンバーは「西洋化は時間を要する」と実感し、留守政府の急進的な西洋化政策に批判的になる。

・大久保の感想を要約しよう。使節団は米国に7ヶ月滞在するが、彼は条約改正に追われ、それ程感想を残していない。次に英国で繁栄の要因は工場と貿易と感じ、鉄道の必要性を特に実感する。仏国では大統領ティエールの政治能力に感服している。独国では小国プロイセンを大国にしたビスマルクに感銘している。

・留守政府への批判は内部からもあった。73年5月太政官制の改革に対し、大蔵省の井上馨/渋沢栄一が辞職する。彼らは「西洋化政策は『形』ではなく『実』を重んじるべし」との建議書を提出している。また井上は「台湾出兵論」への反対意見書も提出している。

・73年9月岩倉/伊藤/山口が帰国する(大久保、木戸は帰国済み)。使節団の結論は①条約改正は容易でない②「民力養成」が求められるであった。

○外征策の高揚
・73年3月外務卿副島は「日清修好条規」批准のため清国に向かう。清国に「琉球人殺害事件」について問うと「先住民は『化外』」と回答する(ただし文書はない)。
・73年4月島津久光は旧装/帯刀の士族250名を連れ上京する。5月井上馨は辞任する。7月副島が清国より帰国し、「台湾出兵」の機運が高まる。

・73年6月末頃、太政大臣三条、参議西郷/板垣/大隈/大木/江藤/後藤で閣議が開かれ、朝鮮への使節派遣がほぼ決まる。
・73年8月16,17日西郷欠席の6名で閣議が開かれ、朝鮮使節派遣が「内決」し、岩倉の帰国後に決定発表する事が決まる。

○西郷隆盛
・西郷の「征韓論」は、①使節を朝鮮に派遣し、朝鮮はそれを「暴殺」する②これを開戦の「道理」とし、朝鮮を「討つ」であった。また西欧の支配が及んでいない中国/朝鮮を「略取」し、「万国対峙」を図るべしと考えていた。当時は小国が軍事力にて国権/自主を保持する事は認められていた。またこの背景に不満士族の反乱を避ける目的もあった。

・74年白川県(熊本県)の士族宮崎八郎は「征韓論」を主張する建白書を提出している。なお彼は「台湾出兵」では義勇隊を組織し、「西南戦争」では西郷軍に付き、戦死している。※他にも「征韓論」を唱える多くの士族がいるが省略。

○西郷隆盛の辞職
・使節団帰国後の73年10月、大久保/外務卿副島が参議に就く。大久保は士族反乱/財政危機/富国路線の挫折/ロシア南下/条約改正の障害などから「西郷使節派遣論」に反対していた。

・73年10月14日太政大臣三条、右大臣岩倉、参議西郷/大久保/大隈/板垣/副島/江藤/後藤/大木(計10名)で閣議が開かれる。樺太問題を優先し使節派遣を延期する「延期論」が出るが、西郷は反対する。最終的には「延期論」が大勢になるが、翌日に持越しになる。
・翌日西郷は欠席し、9名で閣議が開かれる。議論は分かれ、決定は三条/岩倉に委ねられた。ここで三条は西郷の「進退」を心配し、「延期論」から「即行論」に変節し、「即行論」が閣議決定となる。これに対し岩倉/大久保/木戸は辞表を提出する。

・10月17日三条が昏睡状態になり、岩倉が太政大臣代理となる。ここで大久保は、閣議決定(即行論)と岩倉見解(延期論)を天皇に上奏し、「延期論」を選択させる「秘策」を思いつく。さらに上奏前(20日)に宮内省経由で「延期論」を天皇に伝え、同意を得た。
・10月24日上奏し、天皇は「延期論」を受入れる勅書を出す。これにより西郷/板垣/副島/江藤/後藤は辞表を提出し、受理される。

・この政変は西郷「征韓論」と大久保「民力養成論」の争いであった。両者は共に「万国対峙」を目的としたが、この政変で「外征策」は否定された。
・英公使パークスは本国に「日本政府は平和的解決を選択した」と賛意を示している。同様に米『ニューヨーク・タイムズ』も好意的に報道している。

<大久保政権と内務省>
○内務省の創設
・73年10月大久保は「参議省卿兼任制」(大久保-参議兼内務卿、大隈-参議兼大蔵卿、大木-参議兼司法卿、伊藤-参議兼工部卿、勝海舟-参議兼海軍卿)を実施する。大久保を大隈/伊藤が補佐する大久保政権の誕生である。

・73年11月大久保は参議で「内務省創設」を議題にする。同月勧業行政(民力養成)/警察行政/地方行政を職掌とする内務省が創設される。内務省には勧業寮/警保寮/戸籍寮/駅逓寮/土木寮/地理寮/測量司が置かれる。
・大久保は民力がまだ不十分のため、「君民共治」(立憲君主制)を構想する。彼は「佐賀の乱」「台湾出兵」に追われ、74年は東京に4ヶ月半しかいなかった。そんな中彼は建白書で「民業振興論」を唱えている。

○大久保政権への反発
・「秘策」を用いて政権を奪った大久保政権への反発が始まる。74年1月板垣/後藤/副島/江藤らは「愛国公党」を結成し、「有司の権」(大久保政権)を制限するため「民撰議院設立建白書」を提出する。

・74年2月江藤は「征韓党」(征韓論を主張)と「憂国党」(封建制復帰を主張)に合流し、「佐賀の乱」を起こす。しかし間もなく大久保/大阪鎮台により平定され、江藤は処刑になる。

・島津久光は73年5月「麝香間祗候」、12月「内閣顧問」(いずれも実権なし)に任命されていたが、不満を持ち鹿児島に帰県する。そのため74年4月太政大臣に次ぐ「左大臣」に就任させる。※この人は自分が将軍になると思っていたのか。
・久光の「左大臣」就任を周旋したのが、華族で「麝香間祗候」の中山忠能/嵯峨実愛/大原重徳(以上公家)/伊達宗城/松平慶永(以上元藩主)らであった。
・74年5月久光は西洋化政策を否定し、礼服復旧/租税復旧/兵士復旧などの意見書を提出し、「大久保を罷免しなければ、自身が辞任する」と迫る。

○台湾出兵
・73年11月陸軍省、12月海軍省から台湾に出兵し、台湾東部の「蕃地」を植民地とする意見書が出される。また74年1月外務省からも同様の提案がされる。
・74年4月「台湾出兵論」は領有を目的とする「台湾領有論」に発展し、大久保不在の閣議で議題になり、決定される。「台湾蕃地事務局」が設置され、事務郡督に西郷従道(以下西郷)、事務局長官に大隈、事務局准2等に米国人リジェンドルが就く。
・5月出兵軍は長崎を発ち、5月下旬に台湾南端に上陸し、6月同地を制圧する。

・6月柳原前光が駐清公使として派遣される。清は「台湾は自国領で、撤兵しなければ清軍を派遣する」と回答する。
・7月「止む得ないならば開戦」が閣議決定される。また柳原に①賠償金を獲得し撤兵する②琉球両属の解消を訓令する。
・8月大久保は最終決定権を委任され清国に入る。※忙しい人だ。
・9月14日から10月31日、計7回の会談が行われ、「日清協定」が調印される。清国は墲恤金(賠償金)50万両を払い、日本軍は撤兵する。しかし琉球両属に関しては合意に至らなかった。

・英『ノース・チャイナ・ヘラルド』英『タイムズ』米『ニュウヨーク・タイムズ』何れの新聞も、清国の統治責任を問うた日本外交の勝利と評価した。翌年5月横浜に駐屯していた英軍/仏軍が撤兵する。

○木戸孝允
・74年3月18日木戸は「台湾出兵論」に反対し、辞表を提出していた。彼は「民力養成論」から台湾出兵に反対した。73年7月頃、彼は万国対峙のためには「政規典則」が必要との意見書を提出している。また9月頃「人民の知識がまだ不足しているので、有司が議論し、天皇の独裁で憲法を制定すべし」としている。
・一方の大久保は「君民共治」(立憲君主制)を掲げていたが、「民力養成」を最重要とした。

<大久保政権>
○立憲政体
・75年1月22日帰県していた木戸(立憲政治論)は、井上馨の仲介で板垣(民撰議院論)と会談する。29日大久保/木戸/伊藤が会談し、木戸の政府復帰で合意する。2月9日大久保/木戸/伊藤が会談し、憲法/地方議会の開設で合意する。11日大久保/木戸/伊藤/板垣/井上らが会談する(大阪会議)。

・75年3月木戸/板垣は参議に復帰する。「政体取調委員」が設置され、大久保/木戸/板垣/伊藤が委員に就く。4月元老院/大審院/地方官会議を設立する詔書が出される。
・75年9月江華島事件(後述)が起こる。これにより「参議省卿分離論」は延期となる。10月板垣は参議を辞任し、再度下野する。

・74年7月左大臣島津久光に元老院議長兼任させる案があったが流れる。
・74年8月嵯峨実愛/中山忠能ら華族は、左右大臣(久光、岩倉)が各省を担当し、太政大臣三条の力を弱める意見書を提出する。
・74年10月久光は「三条免官」を要求する上書を提出するが、天皇に却下される。これにより板垣と同時に、久光も左大臣を辞任する。

○内務省の事業
・75年5月大久保は内務省事業の建議を提出し、①農業/牧畜業/農産加工業の勧奨②山林行政の推進③地方警察の整備④海運業の振興を政策とする。75年末までに警察行政(③)が完遂される。
・勧業行政(①②④)は76年より順次実施される。①では、勧業部門を農/工/商の3課とした。実施においては「体」「用」に区分した(※ピンとこない漢字)。「体」は恒久的事業で、「内藤新宿試験場」など各県に「試験場」が作られた。「用」は臨機的事業で、堺紡績所/富岡製糸場/新町屑糸紡績所/千住製絨所/下総牧羊場/取香種畜場を設立した。
・海運業/鉄道業のため②山林行政を重視したが、山林局の設置は79年になる、
・④海運業では「三菱」に官船が無償で払下げられ、「三菱」は横浜-上海航路から英米を退け独占する。76年勧商局が設立され、三井/広業商会/新燧社/朝陽館などが直輸出する。

・75年11月「府県職制」が制定され、地方行政機構が統一される。各府県は第1課(庶務)/第2課(勧業)/第3課(租税)/第4課(警保)/第5課(学務)/第6課(出納)の6課制になる。また76年3府59県から3府35県に統合される。
・76年度予算(76年7月~77年6月)は台湾出兵により減額要求されていたが、内務省は突出した増額になる。

○朝鮮との国交樹立
・73年12月朝鮮で「癸酉政変」が起き、攘夷路線の大院君から閔妃に政権が代わる。
・74年6月外務省官吏の森山茂が調査のため朝鮮に派遣される。9月朝鮮官吏の玄昔運との会談がなり、国交樹立に向う。
・74年9月軍艦雲揚号が江華島から砲撃を受ける(江華島事件)。

・75年2月黒田清隆全権使節団が江華府に入り交渉が始まる。目的は国交樹立で、「江華島事件」の賠償請求はその手段であった。同月不平等条約である「日朝修好条規」が調印される。

○反大久保政権
・74年4月「征韓論政変」下野した板垣は片岡健吉/林有造らと民権結社「立志社」を結成する。75年2月「大阪会議」後、「愛国社」を結成する。「愛国社」も「万国対峙」を掲げていたが、板垣が参議に復帰すると自然消滅する。
・「民撰議院設立建白書」(74年1月)が新聞に掲載されると、新聞/雑誌で賛否両論が展開される。75年6月政府は「讒謗律」「新聞紙条例」で言論活動を抑制する。

・「地租改正法」は73年7月に成立していたが、74年までに終了した府県はなかった。75年3月「地租改正事務局」を設置し、76年までの完了を目指す。
・これに対し各地(茨城、岐阜、愛知、三重、堺、和歌山)で農民一揆が起こる。75年12月に起こった三重「伊勢暴動」は大規模で、鎮台兵/警視庁を派遣し武力鎮圧する。77年1月より地租は3%から2.5%に軽減される。

・76年3月「帯刀禁止令」が出される。8月「秩禄処分」(秩禄に代え金禄公債を給付)が実施される。
・76年10月「敬神党の乱」(熊本)/「秋月の乱」(福岡)/「萩の乱」(山口)が起こるが、鎮圧される。
・77年2月西郷は「尋問の筋がある」(檄文はない)と反乱を起こし、上京を始める(西南戦争)。7月西郷は自決し、最大の士族反乱が終わる。

・77年5月木戸が亡くなる。彼は急進的な「地租改正」「秩禄処分」に反対し、また立憲制のリーダーでもあった。
・77年8月「第1回内国勧業博覧会」が開かれる。102日間で入場者45万人、出品8万点で盛況であった。
・77年5月「起業公債証書発行条例」が公布される。これにより内務省(水路、道路、士族授産、納牧畜)/工部省(鉄道、鉱山)/開拓使(鉱山)で初めて国債が発行される。
・78年5月大久保が暗殺される(紀尾井坂の変)。
・78年7月「三新法」(郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則)が公布される。区画は府県-郡区-町村となる。府県は地方税を徴収し、府県会も設置される。

<立憲制>
○大久保路線の修正
・78年5月大久保は紀尾井町で士族6名に襲われ暗殺される。士族らは大久保政権を「有司専制」と批判している。内務卿には伊藤が就き、大蔵卿大隈と共に大隈/伊藤体制が始まる。

・内務省の勧業行政は松方正義(勧農局)/河瀬秀治(勧商局)が担っていた。松方は勧業資金貸与と官営模範事業(富岡製糸場、堺紡績場、下総牧羊場、試験場)が民力養成の障害と批判し、勧業資金貸与は金融機関の整備を、官営模範事業は民間への払下げを主張する。80年11月大蔵卿大隈により「工場払下げ概則」が公布される。
・81年4月大隈/伊藤の建議により、「農商務省」が創設される。農商務省が勧業行政の主体となる。
・84年「工場払下げ概則」が廃止され、払下げが本格化する。三井/三菱/浅野総一郎/古河市兵衛/大倉喜八郎/川崎正蔵/田中長兵衛など、後の財閥が獲得する。
・農業では、全国に12農区が設けられ、農区会が設置され、郡には農事会が設置された。
・緊縮財政により勧業行政は直接的政策から間接的政策に修正されたが、大久保路線(民業振興)は継承された。

○自由民権運動
・75年「愛国社」が結成されるが、自然消滅する。79年3月第2回大会が開かれるが、西日本士族に限定された大会であった。しかし79年11月第3回大会は河野広中/杉田定一などの農民結社も参加し、様相が変わる。

・自由民権運動の主体は都市の結社であった。「嚶鳴社」は『嚶鳴雑誌』を刊行し、東日本で演説会を開いた。「交詢社」は『交詢雑誌』を刊行し、東京で演説会を開いた。
・「共存同衆」は74年9月小野梓を中心に結成された。メンバーには政府官員/ジャーナリスト/弁護士や万里小路通房(公卿)/松平信正(元亀山藩主)などもいた。『共存雑誌』は67号発行され、講演会は47回開かれた。※詳細省略。
・80年4月「集会条例」が制定され、集会/結社に警察の認可が必要になる。しかし民衆は過激な演説会に集まった。

・80年3月「愛国社」第4回大会が開かれるが、その頃「国会期成同盟」が結成される。これは国会開設を国民の権利とし、「建白」と異なる「請願」をする。4月「国会開設請願書」を政府に提出する。
・80年11月「国会期成同盟」第2回大会が開かれ、翌年の第3回大会で憲法案(私擬憲法)を持寄る事が決定される。
・「私擬憲法」は約70確認されている。大半は英国流の議院内閣制(政党内閣制)/二院制である。「交詢社」案は、皇権/内閣/元老院/国家院/裁判/民権の6章からなる(※詳しく解説されているが省略)。

・「国会期成同盟」の分裂を避けるため、政党結成が別に行われた。80年12月「自由党結成盟約」を定め、河野広中/山際七司/沼間守一(嚶鳴社)などが集まった。
・81年10月1日「国会期成同盟」第3回大会が開かれるが、翌日は「自由党」結成が目的となる。26日総理板垣/副総理中島信行で「自由党」が結成される。
・81年10月12日政府は「国会開設の勅諭」を出し、90年に国会を開く事を宣言する。
・82年4月「立憲改進党」(党首大隈)が結成される。※他にも各地で結成されるが省略。

○明治14年の政変
・76~80年元老院は憲法案を起草するが、「君権」に対する国会の制限が強く不採用となる。
・79~81年政府は全参議に立憲政体の意見を求めた。「伊藤意見書」は、今行うべきは①元老院の拡張②府県会議員から会計検査員を公選し、財政を「公議」する③天皇の詔勅により、民間の「躁急」を収めるとした。要は「躁急」な国会開設を考えていなかった。

・一方「大隈意見書」(81年3月提出)は、「交詢社」矢野文雄が起草し、英国流の政党内閣制を中核とする立憲政体であり、「民智」は向上したとして、81年憲法制定/83年国会開設する案であった。また大隈の憲法案は政党内閣制/人権保障を規定していた。
・太政大臣三条/右大臣岩倉は「大隈意見書」の検討を井上毅に命じる。井上は「大隈意見書」の英国流の政党内閣制は「国体」を損なうとして批判し、プロイセン流の非政党内閣制の採用を主張する。
・81年7月末には岩倉/伊藤/井上/黒田/西郷/松方らの政府首脳は「大隈意見書」排斥で固まる。

・81年8月1400万円投じた官有物を38万円で「北海社」に払下げる事が決まる。これにより開拓使長官黒田と政商五代友厚の癒着に民間から激しい批判が起こり、大隈の国会開設意見書への支持が高まる。
・81年9月政府は「大隈陰謀説」(世論を扇動し、薩長勢力を追放し、政府の実権を握る)を立て、大隈追放を決める。
・81年10月12日「国会開設の勅諭」を出し、払下げは中止になり、大隈は参議を免官される。

<その後の万国対峙>
・89年「大日本帝国憲法」が発布され、翌年国会が開設する。最初の国会で山県首相は「今後の万国対峙は『武備』である」と演説する。山県は軍事費予算の削減を要求する政党(民党)と対立する。一般会計における軍事費は、70年代は10%台、83年に20%を超え、92年に30%を超える。
・条約改正を成すのは、1911年日清/日露戦争後であった。

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