『「福音書」解説』溝田悟士を読書。
新約聖書の福音書(主にマルコ福音書)を解説。
「マルコ福音書」を言語学的に解析し、その隠された意味を解説しています。
「福音派」を知りたかったのですが、全く御門違いでした。
また聖書の知識も、言語学の知識もないので、よく理解できなかった。
お勧め度:☆
キーワード:<複数の「復活」物語>福音書、パウロの手紙<最初に書かれた福音書>若者、<逃走する若者は誰か>文献学、カイサリア型、ユダ、アンブロシウス/使徒ヨハネ説、エピファニウス/主の兄弟ヤコブ説、ヴィクトロス/弟子説、テオフィラクトゥス/エウチュミオス/両論説、クリスティアン・フリードリッヒ・マテーウス/モスクワ写本/著者マルコ説、水瓶を運ぶ男、<著者マルコ説の台頭>カエタヌス、カエタヌス、<『秘伝のマルコ福音書』の発見>スミス、語用論/意味論、<「逃走する若者」と「墓の若者」は同一人物か>不定代名詞、フォン・レストルフ効果、同一性言明、<テクストとしてのマルコ福音書>推考散策、イエスの変容/復活、ペトロ、<マルコ福音書の文学構造>復活/コロケーション(共起)、再読構造、予型/円環的、<削除された「若者」>マタイ福音書/天使/地震、ルカ福音書/二人の弟子、<福音書が伝えたい事>復活信仰
<複数の「復活」物語>
・新約聖書にはマタイ/マルコ/ルカ/ヨハネの福音書が並んでいます。これらには若干の食い違いが見られます。本書は「キリストの復活」での食い違いを解説します。※「古事記」と「日本書紀」の関係みたいだな。
・キリスト教を広めたパウロは「パウロの手紙」に、「最も大切な事(言い伝え、信仰告白)は『キリストの死と復活』」と記している。
・本書は「パウロの手紙」以降に書かれた福音書のテクストを言語学の方法論を用いて分析します。
<最初に書かれた福音書>
・マタイ/マルコ/ルカの福音書は類似しているため「共観福音書」と呼ばれます。
・4つの福音書はマタイ/マルコ/ルカ/ヨハネの順で冊子にされ、作成順も長くこの順とされていました。しかし19世紀に「マルコ優先説」が登場し、さらに「マルコ福音書」と「Q資料」(未発見)を先行資料とする「2資料説」が有力になっています。本書は「マルコ優先説」を公理(前提)とします。
・「マルコ福音書」には「イエスは十字架に掛けられ死に、墓に埋葬される。3人の婦人が墓を訪れると、白い長い衣を着た若者がイエスの復活を告げ、『イエスはガリラヤに行かれた』と言う」(16章)と書かれています。「マルコ福音書」はここで終わっています。
・「マルコ福音書」の要点は、①「パウロの手紙」に書かれていた「イエスはケファ(ペテロ)に現れた」がない(※「現れる」って何?)②若者が復活の宣言をした、にある。
・復活の宣言は「マタイ福音書」では「主の天使」、「ルカ福音書」では「二人の人」となっています。本書は「若者」が「主の天使」「二人の人」に書き換えられた原因を探ります。
・「マルコ福音書」ではイエスが逮捕される場面で、「弟子は皆逃げてしまった。一人の亜麻布を着た若者は、それを捨てて逃げた」(14章)と書かれています。この「若者」はマルコ自身との説がありますが、決着していません。
・「逃走する若者」「復活を告げた若者」を追求するのが本書のテーマです。
<逃走する若者は誰か>
・聖書学者バークレー(1907~78)は「ヨハネ・マルコの母の家が最後の晩餐の場所で、『逃走する若者』はマルコ自身」と主張します。
・福音書の解釈を巡って、多くの神父/神学者が文献を残しています。過去の文献を分析し、歴史を評価する手法を「文献学」と云います。聖書には幾つかの系譜があり、それらを文献学的に見ていきましょう。
・聖書には地方毎に多くの写本が存在します。アレクサンドリア型(ヴァチカン写本)/アンティオキア型(古シリア語訳シリア写本)/カイサリア型(コリデティ写本、小文字写本)/イタリア・ガリア型(ベザ写本)/カルタゴ型(古ラテン語訳ボビエンシス写本)/ビザンチン型(多数派本文、アレクサンドリア写本(※ここ?))が存在します。
・アレクサンドリア写本では①「逃走する若者」に「ひとり」を加え、②「逮捕する若者達」に「かの」を加えています。カイサリア型もこれを継承しています。
・カイサリア型は、3世紀教父オリゲネスがアレクサンドリア(エジプト)からカイサリア(トルコ)に移住した時に持参した「写本」が源流です。
・よってエジプトの「写字生」が、イエスを逮捕する群衆と「ユダ」を「かの若者達」と加えたのです。また「逃走する若者」に「ひとり」を加え、それが「ユダ」である事を推測させるよう改変しました。
・キリスト教は、ラテン語を共通語とする西方教会(ローマ・カトリック教会、プロテスタント)とギリシャ語が支配する東方教会(ギリシャ正教会、ロシア正教会、コプト教会)に分かれます。
・4世紀ミラノ司教アンブロシウスは「講解」で「逃走する若者」を「使徒ヨハネ」と同定しています。西方教会ではこの解釈が主流となります。その後教皇グレゴリウス1世/尊者ビードが「ヨハネ説」を継承します(※詳細省略)。
・一方の東方教会には「逃走する若者」について様々な解釈がありますが、西方教会の「ヨハネ説」は存在しません。
・東方教会のサラミス(キプロス)主教エピファニウス(315~403)は、著書『全異端駁論』で「逃走する若者」を「主の兄弟ヤコブ」と同定しています。しかしイエスが昇天した年、ヤコブは72歳で「若者」と言えない。※ヤコブには大ヤコブ/小ヤコブがいるが別人みたい。
・『ヤコブ原福音書』にはイエスの父ヨセフと母マリアの結婚話が書かれており、ヤコブの年齢は確かです。しかし東方教会ではその正当性を問われず、「主の兄弟ヤコブ説」が伝承されます。
・アンティオキア(シリア)主教ヴィクトロス(400頃)は「マルコ福音書」の注解を書き、「逃走する若者」を「『最後の晩餐』(=過ぎ越しの食事?)に出席した12弟子の一人かもしれない」(弟子説)とします。
・東方教会では11世紀頃、見解に変化が見られます。オフリド大主教テオフィラクトゥス(1055~1107)は「逃走する若者」を「過ぎ越しの食事をした弟子のようだが、ある人は主の兄弟ヤコブという」と「両論説」を取ります。論争家エウチュミオス(~1118)も同様な解説をしています。
・文献学者クリスティアン・フリードリッヒ・マテーウス(1744~1811)は、「モスクワ写本」の注解で「著者マルコ説」を主張します。
・この影響で13世紀のコプト語の福音書写本に「著者マルコ説」が注解されます。
・マルコ福音書で、イエスは「最後の晩餐」を行う場所を決めるのに、「水瓶を運ぶ男」に従うように命じています。6世紀のキプロス人僧侶アレクサンドロス・モナコスは「水瓶を運ぶ男」を「マリアの子マルコ」としています。この説とヴィクトロスの「『最後の晩餐』に出席した・・」(弟子説)が結合し、「モスクワ写本」(著者マルコ説)が生まれたと考えられます。
<著者マルコ説の台頭>
・『神学大全』を著したトマス・アクィナス(1225~74)は、聖書解釈『黄金の鎖』では「著者マルコ説」に触れていません。
・ルネサンス期にギリシャ語聖書を各国語に翻訳したデシデリウス・エラスムスは、「逃走する若者」について「弟子説」「主の兄弟ヤコブ説」と西方教会の「使徒ヨハネ説」を挙げています。
・ルターの論敵でドミニコ会士カエタヌス(1469~1534)は『説教者の朝餉』で「逃走する若者」について詳しく分析しています。彼は年齢から西方教会の「使徒ヨハネ説」を否定しています。また「弟子は皆逃げた」として、「弟子説」も否定しています。彼はイエスに従い寝床にいた「亜麻布」(寝巻き)を纏った若者とします。
・西方教会に「著者マルコ説」が広まったのは、1775年マテーウスが「モスクワ写本」の注解(前述)を出版したのが原因と考えられます。
<『秘伝のマルコ福音書』の発見>
・1958年古代史教授モートン・スミスがエルサレム東南のギリシャ正教の聖サバ修道院で、アレクサンドリアの神学者で異端カルポクラテス派に反対するクレメンス(150~215)がテオドロスに送った書簡を発見しました。この書簡にマルコ福音書の拡大版である『秘伝のマルコ福音書』が引用されていました。
・書簡には『秘伝のマルコ福音書』の経緯が記されていました。①マルコ/ペトロはローマでマルコ福音書を完成させた②ペトロ殉教後、マルコはマルコ福音書と「ペテロの言葉の備忘録」を持ってアレクサンドリアに移った③マルコはこの備忘録から『秘伝のマルコ福音書』を完成させた④異端カルポクラテス派が『秘伝のマルコ福音書』を手に入れ改竄した。
・『秘伝のマルコ福音書』には、「逃走する若者」に似た人物が登場します。「イエスは兄弟が死んだ女性と墓に行く。その若者は目覚め、イエスを敬愛する。イエスは若者の家に行き、亜麻布を纏った彼と夜を過ごす」。※復活したのは若者。イエスの逮捕/死/復活は書かれていない?
・スミスは『秘伝のマルコ福音書』の「若者」は「逃走する若者」「空虚な墓の若者」(マルコ福音書)/「金持ちの若者」(マタイ福音書)/「やもめの若者の復活」(ルカ福音書)と特徴が一致し、関連していると指摘します。
・『秘伝のマルコ福音書』では「『若者』は復活によりキリスト教の信仰を悟る」と改変されています。この様にマルコ福音書しか存在しなかった初期においては、様々な解釈が行われていた証拠と云えます。
・これまでの解釈は神学的な解釈で、テクストの構造を無視した分析と云えます。いかなるテクストでも「前提と推論」が解釈の基本です。次章からは「表現の用いられ方」(語用論)「自然言語に存在する倫理の構造」(意味論)などの理論から分析します。
・そのためには以下の努力が必要です。①筋書きを「推論」する努力②「推論」が「思い込み」でない事を示すため、普遍的/形式的な方法を取り入れる努力③「安易な決めつけ」を排除する努力④反論する時は、反対証拠/合理的な論証を用いる努力。
※超難解。
<「逃走する若者」と「墓の若者」は同一人物か>
・1951年ジョン・ノックスは「亜麻布を纏った『若者』が逃走した様に、イエスも逃走した」とします。日本では高柳伊三郎は「逃走する若者」と「墓の若者」の同一視を否定しています。牧師上林順一朗は、マルコ福音書の「墓の若者」はマタイ福音書/ルカ福音書/ヨハネ福音書では天使をイメージさせると指摘し、「逃走する若者」と「墓の若者」を同一視しています。
・聖書学者アデラ・ヤルブロ・コリンズは同一視に対し、「もし同一人物なら『墓の若者』は不定代名詞”neaniskos tis”(ギリシャ語)/”a certain young man”(英語)ではなく、定冠詞”the young man”が使われるはず」と反論します。
・しかしギリシャ語の不定代名詞”tis”は、名前は分かっているが、あえて名前を挙げない場合にも使用するため、定冠詞と酷似しています。日本語で云えば”例の”に相当します。
・まぜ「逃走する若者」は不定代名詞で「墓の若者」は裸名詞(※どっち?)なのかを、著者は「逃走する若者」を強烈に印象付けるため不定代名詞を使用したと提案します。この不定代名詞で「記憶」させ、裸名詞で「想起」させる効果を「フォン・レストルフ効果」と云います。この「フォン・レストルフ効果」はヨハネ福音書の「サマリアの女」でも使われています。
・同一の対象が指示されるかを問題にする議論を「同一性言明」と云います。「翌朝昇る太陽は同一なのか」「宵の明星と明の明星は同一なのか」など、同一性の問題は言語哲学/論理学で長く論じられてきました。※科学での証明と文学での証明は別次元と思う。
・マルコ福音書では「若者」に対しなぜ同一性の問題が生じるかに関心があるのではなく、どんな方法でテクスト分析されて同一人物と云えるのかに関心があるのです。※普通そうだと思う。
・「マルコ優先説」が与えられるならば、「逃走する若者」と「墓の中の白い長い衣を着た若者」の同一性を否定する事は、マルコ福音書が掲示するテクストの「世界」からは否定できない。※この辺り難解。
<テクストとしてのマルコ福音書>
・テクストの「関連性」を判断するのに「結束性」が使用されます。
・マルコ福音書の「若者」が結束性を持っているとすると、物語は以下に簡素化されます。①「若者」が亜麻布を着ている②「若者」が亜麻布を捨てて、逃げる③イエスの遺体が亜麻布で包まれる④「若者」が白い長い衣を着ている。
・「亜麻布」を「死装束」(死)とすると、以下になります。①「若者」は「死」を着ている②「若者」は「死」を捨てて、逃げる③イエスが身代わりに「死」を着る④「若者」が「死」の代わりに、白い長い衣を着ている。
・能動的な読者は「推考散策」を行います。「推考散策」をすると、「『若者』が逮捕されていれば、『若者』が死に、墓には『若者』の遺体がある」となります。この推論は「若者」とイエスの対照的な関係を示しており、この関係は「亜麻布」の交換とも直結します。
・「墓の若者」は「白い長い衣」を着ますが、「白い」はマルク福音書「イエスの変容」(9章)にも出てきます。「イエスは変容し、真っ白に輝いた」「イエスは『人の子が死者の中から復活するまで、今見た事を誰にも話してはいけない』と命じた」と書かれています。この「イエスの変容」は「イエスの復活」と関連が見られます。
・つまりイエスは「若者」の代わりに死に、「若者」は「白い長い衣」を着る事で「復活」します。その「復活」をあらわしているのが「イエスの変容」です。
・では、なぜ「墓の若者」は右側に座っていたのでしょうか。
・マルコ福音書の15章でイエスは十字架に掛けられますが、左右の十字架に強盗が掛けられます。イエスの逮捕により、殺人犯「バラバ」が釈放されます。したがって本来は「強盗A-バラバ-強盗B」となるはずでしたが、無罪のイエスが交代になり、「強盗A-イエス-強盗B」となります。※何が言いたいのか。右=強盗B?「若者」=バラバ?
・マルコ福音書の10章「ヤコブとヨハネの願い」で、ヤコブとヨハネがイエスの左右に座る事を願います。イエスは二人に「杯」と「洗礼」を受ける事ができるかと問うと、二人は「できます」と応えます。イエスは「私の左右に誰が座るかは、私が決める事ではない」と応えます。
・「杯」は「受苦」、「洗礼」は「死」を意味します。この章はヤコブとヨハネが殉教する事を予告しています。要するにヤコブとヨハネの殉教後に、この章が書かれた証しです。
・マルコ福音書の9章でイエスは「一番最初になりたい者は、全ての人の後になりなさい」と諭しています。よってヤコブとヨハネはイエスの左右に座る事はありません。
・イエスの左右に座る人のヒントは「イエスの変容」(9章)にあります。イエスの変容を目撃し、他言を禁止されたのはペトロ/ヤコブ/ヨハネです。ヤコブ/ヨハネは除外されるので、「墓の若者」はペトロしかいません。これは新説です。
・「墓の若者」がペトロと想定されなかったのは、「墓の若者」が婦人達に「イエスの復活を、弟子達とペトロに告げなさい」と言っているからです。しかし一人称(話し手)が自身を三人称で語る事例は数多く見られます。
・ペトロは教会で重い役割を背負わされ、彼の殉教がマルコ福音書を書かせたのかもしれません。信者はペトロもイエスの様に復活し、あの世でペトロに再会できる事を希望し、過酷な現実を生きたのかもしれません。
<マルコ福音書の文学構造>
・「墓の若者」の復活宣言では「復活」に”egeiro”(ギリシャ語)が使われています。他では同じく「復活」を意味する”anistemi”(ギリシャ語)も使われています。この二語は意味が異なるのでしょうか。
・ここで「コロケーション(共起)」と云う分析方法を使用します。マルコ福音書には「手を取って起こす」が3ヶ所に出てきますが、いずれもこの「起こす」には”egeiro”が使用されています。よって二語は明確に区別されており、”egeiro”は「(永眠から)目覚めさせる」、”anistemi”は「(寝た状態から)立ち上がる」を意味します。
・マルコ福音書には「3日後に立ち上がる」が3ヶ所で予告されていますが、これが実現された箇所がありません。
・これはマルコ福音書が「再読構造」になっているためです。15章でイエスが十字架に掛けられた時、神殿の幕が「裂けます」。冒頭(1章)でイエスが「洗礼」(死)を受けた時、天が「裂けます」。これは「語彙的結束性」から「再読構造」になっています。
・墓の中のイエスの遺体は、いつ立ち上がったのでしょうか。1章に「イエスは朝早く暗い内に起きて(立ち上がり)・・」とあり、これは共に日曜日で、行先もガラリヤで一致します。これも「再読構造」になっている証拠です。
・キリスト教には時間に関し2つの概念が存在します。①「予型」による円環的な時間概念モデル②「予言による証明法」での直線的な時間概念モデル。マルコ福音書は①により「永遠の生」を表現しようとしたと考えられます。※「予型」って何?
・マルコ福音書では「イエスの洗礼」が「イエスの臨終」と関連を持つ「再読構造」になっていますが、マタイ福音書/ルカ福音書ではその様な構造になっていません。
<削除された「若者」>
・マルコ福音書では「若者」が「イエスの復活」を宣言しますが、マタイ福音書/ルカ福音書では、それぞれ別の者に代わっています。それを考えてみましょう。共観福音書では「復活した人間は、天使に似た存在である」が共通認識になっており、これがヒントになります。
・マタイ福音書では「若者」が「主の天使」に代わっています。しかもその「天使」は役割も大きく変わっています。婦人達が墓に行くと「地震」が起こり、「天使」が登場します。そして「天使」は墓の石を除きます。
・マタイ福音書では「イエスの臨終」直後の「聖徒の復活」(27章)でも「地震」が起きます。「空虚な墓」「聖徒の復活」は共に「地震」が起き、「語彙的結束性」が認められます。※復活の瞬間に地震が起こるのかな。
・この「聖徒の復活」はマタイ福音書にしか存在しません。「イエスの臨終」の直後に「聖徒の復活」を置く事で、イエスの死により「聖なる者達」が復活した事を明確に示そうとしています。
・またこれにより「逃走する若者」も「墓の若者」も不要になり、「墓の若者」は墓の石を除ける「天使」に代わりました。
・ルカ福音書では「墓の若者」は「二人の人」に代わっています。ルカ福音書の「エマオ物語」(24章)には、エマオに向かう「二人の弟子」が書かれています。この「二人の弟子」もイエスの復活を告げる「二人の人」も同一人物で、殉教し復活した(天使の様な)ヤコブとヨハネと考えられます。※詳しく説明されているが省略。
<福音書が伝えたい事>
・共観福音書はキリスト教の「復活信仰」を円環的な再読構造で表しています。この「復活信仰」は福音書が書かれる以前から教義の核心で、無意味に見える現世の希望であったのです。