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『経済成長という病』平川克美(2009年)を読書。

今世界は進化しているのか、退化しているのか。そんな疑問を投げかける書籍です。
著者の基本的な考えは、「今の日本は成熟社会で、それに応じたシステムが必要」です。

著者は一般の方で、経済学者ではありません。

お勧め度:☆☆

キーワード:<まえがき>経済成長、<私達も加担者>内的な必然、退化、<経済成長という神話の終焉>擬制(フィクション)、素人、専門家、神話、グローバル化/グローバリズム、イスラム/近代化、消費の多様化/労働の多様化、<溶解する商の倫理>国富論、倫理観/株式会社、国際分業、金融市場、ビジネス/ギャンブル、経営、中小零細企業、ホスピタリティ、<経済成長が作り出した風景>携帯電話、虐待/正義、銃/マーケティング、教育、お笑い番組/消費者ローン、非正規化/協同するシステム、中国/近代化・都市化、秋葉原連続通り魔事件、<本末転倒の未来図>未来図、人口減少

<まえがき>
・2000年著者は日米ベンチャーの橋渡しをする会社を作り、それに専念する。この頃人々の考え方や言葉遣いに奇妙な変化を感じた。これが本書を書いた原因の一つです。

・20世紀が「政治の時代」とすれば、21世紀は「経済の時代」である。東西冷戦の終結でイデオロギーの角逐が終わり、経済力が一義的な指標になり、「経済成長」が最も重要になった。産業は製造業中心から、サービス/ソフトウェア/金融にシフトした。しかしその結果リーマン・ショックでバブルが弾けた。

・リーマン・ショックにより、昨日までCSR(企業の社会的責任)と言っていた会社はリストラを断行した。書店では昨日まで「グローバル戦略に勝ち抜くため」とか「レバレッジ投資戦略」などの本が並んでいたが、グローバリズムやレバレッジ金融を批判する本が並んでいる。何と「薄っぺらい世界」なのか。

・「バカな」人間だけによって経済成長や欲望を肯定する言説が流布されたとは思わない。誰もがそれを嬉々として受け容れたのである。
・本書では21世紀に入り、10年間で起きた出来事を振り返ってみようと思う。

<私達も加担者>
・米政府は金融機関に7千憶ドルの公的資金を投入した。三菱UFJはモルガン・スタンレーの株式取得に9千憶円を拠出した。これらの巨額のお金は、私達が手にしているお金と同じものなのか。この記号(お金)は何の失敗を清算しようとしているのか。世界のベスト&ブライテスト(ベトナム、LTCMなども)は必ず失敗する。しかし私達も何処かでこれに加担している。私達は目の前で起きている出来事に対し、「見えているもの」と「見えていないもの」があるのでは。

・2001年は「テロとの戦争が始まった年」、2008年は「新自由主義の経済体制が終わった年」として記憶されるだろう。しかしそこには自分が欠落している。
・この10年間利益性/効率性が追求され、成果は数値化/技術は標準化/行動はマニュアル化された。その前提は経済成長(トリクルダウン効果)への信憑性にあり、それを深く考える人はいなかった。

・必要な事は「歴史を解釈する事」ではなく「歴史の加担者である自分達を理解する事」である。
・投資家ジョージ・ソロスは「将来を予測する事はできない。それは今の状況に、我々が如何に関わるかによるからである」と言う。彼は世界に対し抑制的態度であり、責任を引き受ける姿勢を表明している。※難解。

・著者が試みたいのは、新自由主義経済の中で自分を何処に位置付け、どの様な思いを抱いていたかである。これにより「内的な必然」が浮かび上がると思う。
・何故自分は「秋葉原連続通り魔事件」の被害者でも加害者でもなかったのか、住宅ローンの借り手でもなく、証券化商品の売り手でもなかったのか。これらの「事件」が「特殊な人間」によって起こされたで片付けてしまうと、また同じ事を繰り返す。二度目は喜劇として。

・戦後日本は経済発展し、民主主義を発展させ、科学技術の進歩で利便性を発展させた。これらの進歩の一方で、人間は退化したのでは。

<経済成長という神話の終焉>
○リーマンの破綻、擬制の終焉
・2008年に起きた事は、経済的繁栄の切り札は「金融ビジネス」であると云う幻影の崩壊である。
・1999年シリコンバレーで小さな会社を作った。当時は貸しオフィスはベンチャー企業で埋まっていたが、数年経つと閑散となった。
・米国には「基底」(人が生きていくための温床)がない。家と家との広すぎる空間/高すぎる壁/広すぎる道路/共同体的な分断などがそれを感じさせる。これらは人間の生態から乖離している。この米国の理想を正当化するためには「擬制」(フィクション)が必要であった。※擬制?

・米国の政治的/経済的覇権を正当化するためには「擬制」が必要であった。「フェミニズム」は女性蔑視の裏返し、「自由」は先住民の征服を正当化し、「チャンス」は下層民の不満をなだめるために唱えられた。
・市民社会の形成には民主主義/自由主義などの「擬制」を取らざるを得なかった。しかし過去10年の米国は、謙虚ではなく、尊大へ傾け続けた。

・今回の金融危機はバブル崩壊/信用収縮/金融システムの調整の問題と考えられているが、日本の不動産バブルの比ではない。リーマン・ブラザーズ/メリル・リンチなどは山一証券/長銀などと違って、米国が世界に振りまいた労働価値観/経済価値観の中核となった会社である。
・換言すれば、米国が世界に押し付けた経済成長/環境/民主主義などの価値観が、元々無理筋であった表れである。

○宵越しの金は持たない
・規制緩和と金融を経済成長の切り札とした人達は、どの様な思想的立ち位置にいたのだろうか。彼らは起きている事柄に追従するだけの言説ではなかったのか。もし本質的/長期的な解決を考えるなら、実体的なものと幻想的なものを切り分ける必要がある。

・お金とお金を交換する経済行為は「博打」と云える。「博打」がいけないと言っているのではない、「博打」をするなら「宵越しの金は持たない」覚悟が必要である。
・新自由主義/市場原理主義が酷薄/野蛮なシステムと批判しているのではない。これらの思想が自由/正義に読み替えられ、自己の資産形成/キャリアデザインとして疑われなくなった事が問題である。
・素人が自らの立ち位置を踏みしめ、市井に生きる意味を吟味する以外、壊れた社会を再構築する処方箋はない。

○専門家は米国システムの余命を見誤った
・金融危機により「米国システム」は崩壊した。サブプライム・ローン破綻以降、米国の5大投資銀行は廃業に追い込まれ、米国の大手金融機関は軒並み国有化された。この方法は10年前に彼らが日本を批判した「護送船団方式」である。このドラスティックな崩壊を誰が予見しただろうか。

・2007年4月日銀「経済/物価情勢の展望」では「2008年も生産/所得/支出で好循環が維持される」としていた。何故専門家が見解を誤るのか。それはレバレッジ/デリバティブなどの専門用語は事実/結果を説明するには有効であるが、状況の判断や将来の推論には何の役にも立たないからである。逆に専門用語への過信が、彼らを鈍らせている。

・統計学が有効なのは、統計学的条件の内側だけである。その外側では統計学の期待値からかけ離れた結果を生み出す。
・ギャンブルに関する「賭け事で儲けた奴はいない」「飲む/打つ/買うは身上を潰す」は真である。※最近諺に関心がある。

○経済成長と云う病
・「失業対策/財政問題/環境保護/貧困対策など、あらゆる問題は経済成長で解決される」とされ、政治家/企業家/経済学者/メディア、さらに一般人でさえ、それを唯一の目標と信じている。
・そもそも「経済成長」は生産物/サービスの増加分であり、文明化が一定の水準に達すると経済は成長を止め、均衡へ向う。当然人口が減少すると、経済成長はマイナスになる。

・何故その「神話」から脱せないのだろうか。それは全ての国家が文明化/都市化/民主化と云った歴史を辿っており、「衰退」を経験していないためである。人は経験していない未知の事象をイメージする事ができないからである。
・飽食した市場/人口動態などは人為的にコントロールできるものではなく、結果である。経済成長を至上命題にするのではなく、この経済が右肩上がりを止めた社会を、どう作っていくかを考えるのが、自然な道だと思う。※多分多くの人がそう思っているが、方向転換できない。

○グローバル化に逆行するグローバリズム思想
・エマニュエル・トッドは「世界はまだら模様だが、民主化している」との収斂仮説を持っている。彼の心構えには共感と感動を覚える。しかし将来を予測する事は蓋然性の一つに過ぎない。

・「グローバル化」は民主主義/科学技術の発展を背景とした自然な流れであるが、「グローバリズム」は米国などが世界の富を収奪し、貧富を固定化するための国家戦略である。「グローバリズム」の大義は、世界を同一市場/同一ルールで運用し、紛争/戦争リスクを軽減し、経済発展する事にある。しかし現実に起こっている事は、多国籍企業による富の独占である。

・トッドが見ているのは、人口動態/識字率と出生率の相関などの自然な「グローバル化」である。これは非対称を対称化し、異質を等価的にする自然な流れである。逆に「グローバリズム」は世界を非対称で固定化し、秩序と利益を得ようとする戦略である。

○イスラムとは
・エマニュエル・トッドは『帝国以後』を著し、米国の凋落を予言した。続編『文明の接近』でイスラムの正体を暴いた。トッドは同書で「近代化は収斂する」を前提とし、人口動態/識字率から、「イスラムは民主主義を相容れず、近代化の阻害要因であり、世界と和解できない」を否定した。
※この節以下、大幅に簡略化。

○「多様化の時代」という虚構
・小泉首相/竹中平蔵は新自由主義を推進した。既得権益/利益誘導の陋習を破壊し、官僚システムを見直し、郵政民営化/規制緩和などの構造改革を推進した。その結果、大企業優位の税制/規制緩和、所得格差/地域格差の拡大、小規模事業の淘汰(※?)、フリーターの激増、若年者の自殺を招いた。

・リーマン・ショックにより期間労働者/派遣労働者が解雇され、街に失業者が溢れた。経済的打撃/社会不安/所得格差などは当然の問題だが、この十数年間に風靡した効率主義/合理主義への信仰は、より深い心理的禍根を残すと思う。
・国民は「消費の多様化」「労働の多様化」に加担した。街には過剰な商品が並び、過剰な欲望を喚起している。その兆しは、週休二日制になり、人々の関心が労働から消費に移った80年代にあると思う。「労働の多様化」は、労働力を商品の様に、欲しい時に欲しい量だけ自由に使うための虚構である。

・多様性/国際性/市場性/実効性/自己責任/自己実現などの言葉は、グローバル化の中で打ち勝つための経済合理性を担保する言葉である。この文脈で日本語は世界に通用しない言語と貶められ、巷で英語教育が偏重されている。
・水村美苗は『日本語が亡びるとき』で、何よりも日本語が読める事を枢要に置いている。日本近代文学は、多様な表現/多様な感覚/多様な形式/多様な方法をお互いに参照し、共有してきた。これこそが多様性である。
・米国合理主義は、欲望の目先を細分化し、自己決定/自己実現をしようともがいている光景である。多様性は個人の中に棲んでおり、人々が分割され、交流を失った社会を「多様性の時代」と称するのは、間違いである。

<溶解する商の倫理>
○自由で傲慢な市場
・2007年世界での売上高トップは「ウォルマート」であった。当社は1962年創業の小さなディスカウント・ショップである。それが従業員130万人の巨大企業に成長した。当社の功罪は市場原理主義の行く末を感じさせる。

・18世紀アダム・スミスは『国富論』を著す。当時は国家間の争いや宗教戦争があり、近代国家が生まれた時代である。当書での「市場」は、英国あるいは欧州を想定した「市場」と考えられ、当書は重商主義/植民地主義に警鐘を鳴らす本であった。その後、自由貿易/市場主義を原則とする資本主義が発展していく。
・『国富論』から200年後、ケインズ主義などで修正された資本主義は退けられ、市場原理に基づいた経済(グローバリズム)が復活する。これは持てる国が持たざる国を奪取する植民地主義/帝国主義に似ている。自由ゆえに強い者は独り勝ちし、弱い者を飲み込む。一つの企業が「帝国」の様に市場を支配した。
・『国富論』は分業の効用から書き始め、市場は活性化し、自律的に安定するロジックを説いた。もしスミスが今『国富論』を書くとしたら、国際分業/競争により経済システムは膨脹し、自律的に破壊すると書くのでは。

○何が商の倫理を蒸発させたか
・グローバリズムの影響は金融だけではない。食品関係では、「赤福」/船場吉兆/「比内鶏」/名古屋コーチン/ミートホープ社/雪印食品など枚挙に暇がない。何故彼らは倫理観を失い、コストカットに走ったのか。

・経営者の倫理観の欠如が原因と考えられるが、彼らが追求した金銭的欲望は、私達も共有している。また法律の内側か外側かで、倫理観を測れるものではない。この問題は、彼らが会社の利益を最大化するために努力した結果であり、株主も世間もそれを期待していた。
・利益至上主義/株主利益優先の考え方が倫理観を失わせている。この問題の本質は株式会社と云うシステムにある。逆説的に言えば、かれら経営者はミッションに忠実であり、倫理的であったと言える。
・所有(株主)と経営が分離された株式会社では、株主主権となり株主利益の最大化が至上命題となる。これが会社観/経営観であり、政府も世界でも常識として流布している。
※非営利法人が置き換われるのか。

○私達は自分達が何を食べているか知らない
・コンピュータシステムは、システム全体の停止を防ぐため分散化した。
・2008年オーストラリアでの旱魃と国内での牛乳生産の調整により、スーパーからバターが消えた。食糧問題が一時的な需給アンバランスや途上国の過渡的現象なら問題ないが、投機的欲望により人為的に生み出されたのであれば問題である。

・日本の食料自給率は39%である。コンビニ弁当の鶏肉はブラジル/エビはタイ/サケはデンマーク/金時豆はボリビア/ゴマはトルコ/野菜は中国から供給されている。これは「比較優位」で国際分業が行われているためである。
・この国際分業システムは双方の国が経済的/政治的に安定している限りは有効だが、何らかの理由で貿易に支障が出ると突然死する恐れがある。この国際分業システムは持続可能性の低いシステムである。

○ギャンブラーの自己責任論
・寺山修司は「ギャンブルには一つだけ必勝法がある。それはイカサマである」と言っている。
・「ビジネスはギャンブルだ」と言う人がいる。本来ビジネスは商品/サービスを顧客に渡し、対価として金銭を得る。しかしビジネスの複雑化/多様化により商品らしくない商品で取引が行われている。
・金融工学がやろうとしている事は、勝敗を事前に確定しようとする試みである。彼らが余人が知り得ない情報を予め入手し、ゆえに利益を得ていたらイカサマである。そもそも金融市場の参加者が、全く平等に情報を得ているとは思えない。

・ギャンブルもビジネスも最善の努力をし、最後は運に任せるしかない。そう云った体験により自己の限界を知り、人は成長する。
・ライブドア事件のビジネスマン/物言う株主のファンドマネージャー/米国投資銀行の巨魁達は、ビジネスのグレーゾーンを発見した才覚を認めるが、その失敗を世間の嫉妬/司法のフレームアップ/経済の風向き/政治権力のせいだと思っているなら、ギャンブラーとして失格である。

○名経営者との会話
・「肩書が多い人は信用できない」と言いながら、著者は8社の取締役をやっている。一つだけ役得があるのは、多くの会社を見比べられる事である。

・ある経営者と会食した。彼は自分が設立した会社と自宅を往復するだけの生活を信条とする。彼の言葉には得心がいく点が多い。「年功序列が良い。成果主義/実力主義が云われるが、人の実力差はない」「社員に売上げを伸ばせと言わない。問題は売上げを伸ばす方法である」(※この辺は、まあ納得)。「会社から報連相をなくせば良い」。これは会社のコミュニケーションの基本である。彼は「報連相はエクスキューズのシステムで、仕事に全責任があれば、創意工夫する」と言う。

・経営の課題は効率化/生産性の最大化であるが、畢竟従業員一人ひとりが仕事に打ち込める環境を作る事である。※仕事しない人が多いからね。これこそ生産性向上。日本の生産性が低いのはこれかな。

○寒い夏を生きる経営者
・2008年4月日銀の展望レポート「経済/物価情勢の展望」は、見通しを「穏やかな成長を続ける可能性が高い」とした。しかし中小零細企業の倒産が相次ぎ、その経営者達はこれまで経験した事がない不況感を感じていた。
・大企業はストックがあるので、景気動向によって生産調整/在庫調整で生き延びれる。しかし銀行からの借入と売掛金の回収で回している零細企業は、大企業が蛇口を閉めるとひとたまりもない。零細企業は今やれる事/やるべき事を点検し、最低の生存ラインを確保するしかない。

○ホスピタリティは日本が誇る文化
・2007年「ミシュラン・ガイド」で東京のレストランの格付けがフランスに次いで最多になる。著者が利用する箱根の旅館でも、近年外国人客が増えた。これは日本のホスピタリティによるのでは。
・グローバリズムにより対価さえ払えばそれに見合う財やサービスを受けれる「等価交換」が世界に広まった。しかしホスピタリティは価格に表示できないサービスである。

<経済成長が作り出した風景>
○利便性の向こう側に見える風景
・人間の能力には限界がある。裸で生まれ、走れる様になるが、豹の様に草原を駆け抜ける事はできない。しかし人間は自動車/携帯電話などの利器を発明してきた。産業資本主義時代の最大の発明が自動車なら、消費資本主義時代の最大の発明は携帯電話である。
・携帯電話により得たものはあるが、失ったものもあると思う。リアルに他者と出会うと、そこには時間的/空間的な多様性が存在する。これこそがコミュニケーションで、携帯電話はそれを失わせた。

○暴走する正義
・2007年夏北九州の病院で病棟課長が高齢者4人の爪をはがす「虐待」が起こる。看護師は「ケア行為」と主張するが、病院は告訴する。病院側の記者会見が放映されたが、そこには具体的な再発防止策が見られないと正義の鉄槌を振り下ろすマスコミと、おろおろする病院の構図があった。これは福知山線脱線事故/食品擬装事件と同様である。
・重要なのは「事の真相」ではない。問題は「事の真相」こそが事件のゴールと考える思考にある。

・2002年米国で戦争シミュレーションゲーム「アメリカズ・アーミー」が開発された。高校生を米軍に誘うのが、このゲームの意図である。そこに登場するのは、明らかに正義の戦士と、悪を絵に描いたようなテロリストである。
・イラクには核兵器製造施設はなかったし、その後の民主化も進まなかった。いずれの戦争目的も作られた正義であった。経済成長をゴールに定め、合理化を進める思考も同根と云える。

・人間社会は善悪/正邪で単純に二分できる社会ではない。介護者は好んで「虐待」しようとは思わないし、根っからの「虐待者」がいる訳ではない。では「虐待」は何故起こるのか。人間が行動を起こす前には幾つもの選択肢がある。結果をもって善悪を判定し、原因を遡行する思考を持つ限り、この陥穽から逃れられない。

○新自由主義と銃社会
・米国では銃乱射事件が続発しているが、全米ライフル協会のスローガンは「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」である。また憲法修正第2条には「人民が武器を保有し携帯する権利を侵してはならない」と記されている。
・協会のスローガンにも、新自由主義を背景とするグローバリズムにも、米国の特徴的な思考が潜んでいると感じる。米国には「個人は自己決定し、自己責任で行動し、自己実現を果たすべき」との思考が敷衍している。

・人間には生きてゆくのに必要な最低限の欲望が備わっている。しかしそれ以上の欲望(贅沢、虚栄、羨望の的)は、何らかの外的要因がなければ励起されない。これらは高度資本主義のマーケティング技術により作り出された欲望と思う。

○教育とビジネス
・時代の変化は「言葉遣い」に現れる。90年代後半はビジネスの「言葉遣い」に変化が見られた。例えば戦略/リスクとリターン/効率化/投資/自己責任などである。

・2007年「教育再生会議」の第3次報告書が提出された。そこには「教育に投資しなければ日本は・・。効率化を徹底しながら・・」と書かれている。ここで使われているている言葉はビジネス用のもので、”教育”を”産業”に置き換えても自然な文章である。
・この「教育再生会議」のメンバーは、現職教師一人を除いて大企業の経営者などである。政府は「教育の問題」を「経済の問題」と考えているのだろうか。ビジネスでは投資により利得を得て、一定期間でそれを回収できるか数値化できるものである。

・医療ビジネス/教育ビジネスなどが存在するが、教育はビジネスと最も距離を置いた課題である。ビジネスは「等価交換」であるが、教育での先生と生徒の間に「等価交換」などは存在しない。先生は生徒に知識を授けると共に、授け方/方法/プロセスなど全てのものを授けている。教育をビジネスの言葉で語るのは、軽率過ぎる。

○テレビが映し出した異常な世界
・オバマが大統領に当選した夜、テレビを付けたが特別番組もなく、お笑い番組を見た。お笑い番組は痙攣的な笑いを誘う番組であるが、近頃はドラマ/トーク番組/ニュース番組でさえも「脊髄反射的な反応」を誘う傾向が見られる。
・お笑い番組で「笑う側」は集団的な価値観を共有しており、笑えない奴は鈍感で、空気を読めない奴になる。「笑われる側」は強者の場合もあれば、弱者の場合もある。前者であれば風刺/批判になり、後者であれば集団的リンチになる。※お笑い番組は見ないが、そんな気がする。
・番組が終わり苦笑した。アコム/プロミス/アイフルのコマーシャルが続くのである。おまけに「借り過ぎに注意」とくる。

・テレビは力道山のプロレスで普及し始め、NHK紅白歌合戦/大相撲中継/野球中継などで全盛期を迎える。テレビは国民的統合の軸となり、高度経済成長を果たす。当時テレビを支えるスポンサーは、電気/機械/自動車/食品/化粧品/ファッションメーカーであった。
・今は当時とは隔世の感がある。かつてのスポンサーは販促宣伝費の削減で雑誌やインターネットに分散し、代わって登場したのが保険/金融/消費者ローンである。

・オバマ大統領の誕生は、ここ数十年の米国モデルが立ち行かなくなった事を示している。一人の英雄により世界が救われると考えるのは幻想である。ではどうすれば良いか、それは一人ひとりが、ここに至った経緯を見つめ直す事である。

○雇用問題と自己責任論
・「労働の非正規化」が問題になっている。派遣労働/パートタイマーと云った労働形態が、低賃金の労働力として社会に固定化しつつある。これにより「格差問題」も起こっている。「格差問題」は購買力を削ぎ、社会の活力を失わせ、場合によっては秋葉原などの事件を起こす。「格差問題」と「労働の非正規化」は相関関係はあるかもしれないが、因果関係は証明されていない。※ほぼ直結していると思うが。
・多様な労働形態は多様な収入方法でもあり、多様な生活形態を可能にした。「労働の非正規化」については2つの視点で考える必要がある。1つは非正規雇用での労働者の視点、もう1つは雇用者の視点である。

・1986年「労働者派遣法」が施行される。当時著者は翻訳会社を経営していたが、派遣業から人を雇う事も、自ら派遣業に手を伸ばす事も考えなかった。それは人件費を単にコストと考えるのではなく、社員への投資と考えていたからである。
・「労働者派遣法」を労働者は、共同体のしがらみ/年功序列の不透明な賃金制度から解放され、自由に時間を使い、自己実現が可能な「等価交換システム」と歓迎し、自らが選択した。実はここに問題の難しさがある。

・2008年末、大手企業は期間従業員/派遣従業員の大量解雇を行い、日比谷公園には「年越し派遣村」が設置された。企業を擁護する評論家は派遣労働者の「自己責任論」を持ち出した。対する労働者側は企業の責任放棄と反論した。
・この問題はどちらに正義があるかと云う2項対立ではない。労働者には自ら選択した者もいれば、そうでない者もいる。一方企業側も必要な時に必要な労働力を手に入れれるシステムがある以上、それを利用するのは当たり前である。
・私達は企業が利潤獲得のため利己的に振る舞うのに同意してきた。この問題解決のためには、企業の利潤獲得のための利己的な行動と労働者の利益が協同するシステムを見つけ出さなければならない。

○砂上の国際社会
・2008年5月中国四川省で地震が起き、死者は6万人を超えた。イラク戦争での米兵の死者は4千人余、阪神淡路大震災での死者は6千人余である。
・中国には圧倒的な富の不均衡/非対称が存在する。中国は近代化/都市化が進行しているが、日本の1億総中流の様な時代は来るのだろうか。
※来ない。スタートから格差がり、さらに広がるだけ。

・北京オリンピック前、チベット仏教徒を弾圧する映像が世界に流れた。これは多民族を抱え込む実験国家の国内問題である。
・国威発揚を掲げ、チベット支援者を攻撃する中国人を見ていると、東京オリンピックを儀式として近代化/都市化に邁進した日本を思い出す。

○「かれ」と出会う
・北京オリンピックの2ヶ月前、近代化を終えた日本で「秋葉原連続通り魔事件」が起きた。ニュースは、残虐非道の加害者と無辜の被害者/切れる性格・挫折・苛立ち/会社でのトラブルと社会への呪詛/甘い銃刀法/自己顕示欲とバーチャルな社会/秋葉原劇場などを伝えた。しかし「かれ」をこの様に解剖学的に暴く事で、この事件が解決するのだろうか。

・どのマスコミも「真相究明」を掲げ、犯人の異常性/特異な家庭環境/格差社会/派遣労働/秋葉原の特殊性/バーチャルな世界で拡大した自我をその原因とした。しかし原因を断定した瞬間に、この事件の最も重要な意味を見失ってしまうと思う。「犯人の異常性」「格差社会の歪」と言った瞬間に、自分は正常であり、格差社会に加担した覚えはないと、自らをこの事件から切断する事になる。
・この事件を「異常な犯人」で片付けてしまうのは、社会全体が健康であるのが前提である。もし社会全体が病んでいるなら、この判断は成立しない。
・「かれ」の特殊性に目を向けるのではなく、反対に「かれ」と自分との同意性に目を向ける方法もある。直接的に、あるいは間接的に、あるいは迂回して「かれ」との繋がりを考える方法である。
※ある事件に対し、犯人を糾弾するだけでなく、その背景となった社会全体を見るのは重要と思う。

<本末転倒の未来図>
・半世紀前、著者は高層ビルの間をモノレール/高速道路が走る「未来図」を描いた。しかしそこに描かれたものは、それ以前に『科学画報』などで魅せられたものを、子供なりにアレンジしたものである。
・今の日本は欧米先進国にキャッチアップし、交通渋滞/排気ガス/交通事故などの公害に苦しみ、ジャンク情報の洪水に浸っている。今の子供達はどんな「未来図」を描くのだろうか。

・日本は1970年代より「出生率」が低下し、2005年をピークに人口が減少している。元々人間の「出生率」は1.8程度で、社会の発展段階における「出生率」の高さが異常と考えるべきであり、「出生率の低下」ではなく、適正人口への自然回帰と考えるべきである。※既婚女性の「出生率」は低下していないので、「出生率」の低下は未婚が直接的原因です。また未婚は、女性の社会進出が進んだためと思います。
・政治家/企業家は、人口減少が適正人口への自然回帰である事を認め、人口減少に応じた設計をすべきである。

・人間は成長し、体力/知力が増し、経験を通し視野が広まる。しかしやがて成長は止まり、退行プロセスが始まる。これは普遍的事実である。
・経済評論家から経済成長を前提とした国家戦略/企業戦略を聞く。しかし成熟期に入った今、一人ひとりが成熟によって得た知徳で未来図を描いてみてはどうか。

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