『平安京のニオイ』安田政彦を読書。
平安京における様々なニオイを解説しています。
生活臭もあれば、『源氏物語』などに出て来る香りもあります。
古文が多く引用されているので、文系の方向け。
お勧め度:☆
キーワード:<糞尿都市>今昔物語集、御樋殿、側溝、<屍臭都市>地震、大雨洪水/鴨川、火災、疫病、死臭/腐敗臭、<生活の中のにおい>猫/狐/牛/馬、犬、沐浴、枕草子/清少納言/藤原定子、白粉、灯火、<物語が描く匂い>仏教、薫物、源氏物語/紫式部/藤原彰子、追風用意、衣香、薫の君、<貴族の生活環境とにおい>花の香、邸宅
<臭いと匂い>
・平安京は『源氏物語』『枕草子』などから、優雅な貴族生活を思い出させるが、全ての人がその様な生活を送っていた訳ではない。
・本書では藤原道長の摂関政治時代(10・11世紀)を中心に解説します。この頃は家格が成立し、固定化/序列化する時期であり、漢文学が集大成された時期です。
<糞尿都市>
○『今昔物語集』における臭い
・『今昔物語集』には、においを示す漢字として「匂」「薫」「香」「臭」が使われている。31巻で構成され、巻11以降が本朝仏法部、巻22以降が本朝世俗部となっている。
・同書巻20に「狗(いぬ)の屎(くそ)」、巻28に「狗の尿」、巻27に「狐の尿」が臭いとある。
・同書巻30に「樋洗(ひすまし)童」が貴族の排泄を始末したとある。巻28に聖人の屎を覗き見たとある。
○平安時代のトイレ
・『延喜式』内匠寮に「樋筥」「虎子」が規定されている。儀式書『満佐須計装束抄』には、休憩所に大臣用に大壺、大納言用に穴を設ける規則の記載がある。
・『今昔物語集』巻29には、身分の高い女が路傍排便で4時間動かなくなったとある。身分の高い女は便器を使用していたためだろう。
・19世紀滝沢馬琴は京の女性の立小便を記載している。当時は家の前に桶を置き、糞尿と野菜を交換していた。
・『御堂関白記』などに「御樋殿」の記載があり、貴族の邸宅には「御樋殿」と云う便所があった。
・『源氏物語』には、排泄物の世話をする「樋洗童」を使いに出したとある。『枕草子』では「御厠人(みかわやうど)」と云っている。
・貴族が出かける時、従者に「大壺」「尿筒」を持たせた。
・「樋筥」は側溝で洗浄し、排泄物を流したと考えられる。藤原京/平城京では、側溝から水を引いた水洗式トイレが発掘されている。これらは多くの人が利用する共同便所と考えられる。
・藤原京では土坑形汲取式トイレが発掘されている。筑紫館(鴻臚館)では便壺抗が発掘されている。
○平安京の道路と溝
・平安京の朱雀大路(幅84m)には幅1.5mの側溝、その他の大路(南北は幅30m、東西は幅24m)には幅1.2mの側溝があった。また平安京の東北隅は海抜50m、西南隅は海抜25mで傾斜がある。
・太政官符(855年)に側溝の管理について書かれており、「近年、大雨により側溝が溢水する」「道路に面する役所/邸宅は側溝を掘る事」などが記載されている。
・側溝には排泄物だけでなく、人/動物の死体も流れた。実際朱雀大路の側溝から、牛馬の骨や人骨が発掘されている。
・邸宅内に水を引く方法は2通りある。①側溝を堰き止める②木樋を設置する。①は溢水の原因になるため禁止され、処罰規定を設け、京職/弾正台に監視させたが、高級貴族は従わなかった。
○庶民の排泄とトイレ
・庶民の排泄は、側溝や空き地が利用されたと思われる(路傍排便)。
・『小右記』(1015年の条)に、「北辺大路の汚穢が甚だしいので、検非違使に清掃を命じた」とある。
・『令集解』囚獄司条(724年)に、宮中の掃除は主殿寮/左右衛門府/囚獄司が担当したとある。
・『延喜式』弾正台式に、「宮城内外の非違/汚穢を巡検せよ」と規定されている。
・左右京職は朱雀大路の溝/神泉苑/大学/穀倉院などの掃除を担当した。
※二官八省一台五衛府・・。
・『続日本紀』(706年の条)に、京城内外の穢臭の問題が記載されている。この問題は古くて新しい問題で、明の北京(17世紀)/パリ(19世紀)にもあった。
・当時平安京には約12万人が居住していた。路傍/側溝排便であったなら、多少の雨で側溝から汚穢が路面に溢れたと思われる。この事は『落窪物語』『地獄草子』などに記載されているが、その臭いは日常的な臭いだったと思われる。
<屍臭都市>
○平安京の災害
・平安時代にも様々な災害あり、平安京でも死体を見たり、屍臭を嗅ぐ事が多かったと思われる。『方丈記』に「養和の大飢饉」(1181年)の記載があり、「平安京の東半分で4万数千の死体があった」とある。
-地震-
・近代では京都近郊で以下の地震が起きている。1891年濃尾地震(M8、死者7273人)、1909年姉川地震(M6.8)、1925年北但馬地震(M6.8)、1927年北丹後地震(M7.3、死者2925人)、1944年東南海地震(M7.9、死者1223人)、1946年南海道地震(M8、死者1330人)。
・平安時代では827年京都地震(M6.5以上)、858年京都地震(M6以上)、868年播磨・山城大地震(M7以上)、880年京都地震(M6.4)、887年南海大地震(M不明)、890年京都地震(M6)、934年京都地震(M6)、938年京都・紀伊地震(M7)、976年山城・近江地震(M6.7)などの地震が起きている。
-洪水-
・近代では1934年室戸台風(912hp、死者3036人)、1945年枕崎台風(940hp、死者3756人)、1959年伊勢湾台風(死者5098人)などの台風被害があった。
・集中豪雨では1910年大水害(死者1359人)、1953年西日本豪雨(死者1013人)、同年南紀豪雨(死者1124人)、1959年諫早豪雨(死者722人)などがあった。
・平安時代では、938年鴨川が氾濫している(『貞信公記』)。鴨川が決壊氾濫すると、「防鴨河使」が任命され、堤の修築を行った。
・『日本紀略』『左経記』『小右記』に、980年大雨洪水、996年鴨川氾濫、1017年鴨川氾濫、1022年大雨洪水などの記載がある。
・『日本紀略』に、944年大風暴雨、989年大風で宮城門舎が顚倒(てんとう)したとある。他に『小右記』『御堂関白記』にも建物の顚倒が記載されている。
-火災-
・『方丈記』には「太郎焼亡」(1179年)「次郎焼亡」(1180年)の記載がある。「太郎焼亡」では平安京の1/3が焼失した。
・他に914年大火、969年大火(以上『日本紀略』)、1011年大火(『権記』)、1016年大火(『日本紀略』『御堂関白記』)、1027年大火(『小右記』『日本紀略』)の記載がある。火災の原因は失火/放火であった。
○疫病の蔓延
・『日本紀略』には993年「疱瘡(※天然痘)盛んなり」994年「疫癘(えきれい)盛んなり」995年「疫癘盛んなり」とある。995年疫病で中納言以上12名中8名が亡くなった。生き残った藤原伊周と藤原道長は内覧宣旨(関白相当)で争い、道長がこれを得る。
・『日本紀略』には他に、998年疱瘡、1000年疫癘、1001年疫癘、1020年疱瘡などの疫病が記載されている。「道路の死骸、その数を知らず」とあり、他の災害と比べ疫病は多くの犠牲者を出した。
・『延喜式』弾正台式では病人を路頭に放置するのを禁止したが、これで改められる事はなかった。
・『今昔物語集』には「路頭に捨てられた少女が、犬と食い合った」、『日本紀略』には「捨てられた病人を狂女が食った」、『本朝世紀』には「死童が犬に食われ、手足がなかった。その後頭だけになった」などの記載がある。※地獄だ。
・『類聚符宣抄』疱瘡事には、735年から1036年の間、平均30年間隔で疱瘡が大流行したとある。
○『今昔物語集』にみえる死臭/腐敗臭
・『今昔物語集』巻19「参河守大江定基、出家の語」には、「愛する妻が死に、日を経て口を吸うと、臭い香がした」とある。同巻「春宮蔵人宗正、出家の語」には、「愛妻が死に、十余日経て棺をのぞくと口鼻が臭く、噎せた」とある。同書には、死臭/腐敗臭の記載が幾つかある。
・同書巻13「運浄持経者、法花を誦して蛇の難を免れる語」には、「大毒蛇の洞窟が生臭い」とある。同書巻15「北山の餌取の法師、往生の語」には、「馬牛の肉を煮ると臭い」とある。他にも動物臭を生臭いとする記載がある。
・同書巻11「智証大師、初めて門徒を三井寺に立てる語」、同書巻12「魚化して法花教と成る語」に魚の臭いが臭いとある。
・においの強さを示す「官能相対値」は、くさや468/ふなずし470/シュールストレミング(スウェーデン)8110でシュールストレミングが圧倒的に臭う。
・『続日本後紀』(842年の条)に「鴨河原などの髑髏5千5百余を焼かせた」とあり、鴨河原に屍が多かった。鴨河原は京外だが、屍臭が左京を漂ったと思われる。
・貴族は死穢を極度に嫌った。犬が死体を喰い散らかす事が多く、これを「咋入れ」と呼んだ。『御堂関白記』(1011年の条)『小右記』(990年の条、1015年の条)『醍醐天皇御記』(927年の条)『権記』(999年の条)などに、「咋入れ」が散見される。
・京内の死体は病者の成れの果てだけでなく、『小右記』(1024年の条)『今昔物語集』巻29には、女性が強盗に襲われ亡くなった記載がある。
・『日本紀略』で貴族の葬送の15例を見ると、平均5日前後で葬送している。
<生活の中のにおい>
○身近な動物
-飼い猫-
・『枕草子』7段『源氏物語』若菜上の巻『宇多天皇御記』(889年の記事)に「飼い猫」の記載がある。
-六畜-
・『日本三代実録』『扶桑略記』(896年の条)『今昔物語集』巻27「狐、女の形に変じて播磨安高に値ふ語」に複数の狐が生息したとある。
・『日本紀略』には熊、『扶桑略記』『日本紀略』には鹿、『御堂関白記』『小右記』には豚(猪)の記載がある。
-牛馬-
・『源氏物語』蓬生の巻に、牛馬の放牧の記載がある。※京内で放牧なんだ。
・『源氏物語』夕顔の巻/夕霧の巻/総角の巻に、騎馬の記載がある。急ぎのおりや山越えなどでは馬を利用した。『御堂関白記』にも藤原道長が馬を利用したとある。
・『源氏物語』賢木の巻/須磨の巻/胡蝶の巻/柏木の巻に、門前の牛車/馬の記載がある。邸宅内には厩舎があり、動物臭/糞尿臭が漂ったと思われる。
・『源氏物語』若菜上の巻/宿木の巻に、往来の牛車/馬の記載がある。往来にも牛馬糞の臭いが漂ったと思われる。
○動物の死骸
・『御堂関白記』(1012年の記事)『小右記』(1013年の記事)に、牛馬が斃れる記載がある。当時は「河原人」を呼んで邸宅内で解体し、持ち帰らせた。邸宅内には、これらの屍臭もあったと思われる。
・『御堂関白記』(1004年の条)には、「犬の死穢」の記載が4例ある。『御堂関白記』『小右記』(1011年の条)にも、「犬の死穢」の記載が4例ある。藤原道長の生涯(966年~1027年)を見ると「犬の死穢」は68例ある。牛馬や牛は身近な動物であった。
○平安貴族の衣食住
・貴族は「寝殿造」に住んだが、間仕切りはなく、几帳/屏風/簾で仕切った。
・食材は穀物/野菜/果実/魚肉で、調味料には塩/酢/醤(ひしお)/煎汁(いろり)/油が使われた。
※衣服は省略。
-沐浴-
・『類聚名義抄』『伊呂波字類抄』に、”沐”は頭部を洗う事、”浴”は全身を洗う事とある。『延喜式』木工寮には、沐槽の大きさや浴槽のある湯屋/湯殿について規定されている。
・『枕草子』29段に女性の沐浴の記載がある。『九条殿遺誡』『御堂関白記』『源氏物語』に、沐浴は吉凶で日を選んで行ったとある。
・『枕草子』42段『源氏物語』空蝉の巻に、汗の臭いの記載がある。
-『枕草子』-
・『枕草子』は、一条皇后の藤原定子の女房であった清少納言の作で、①類聚的章段②随想的章段③日記的章段に分類される約300段からなる。
・藤原定子は、藤原道隆(道長の兄)の娘で15歳で入内する。995年道隆が没すると、道隆の弟道長が筆頭大臣に就く。999年道長の娘藤原彰子が12歳で入内し、定子が「皇后」、彰子が「中宮」になるが、1001年定子は25歳で没する。
・『枕草子』には、藤原定子の一条内裏(元太政大臣藤原為光邸)/職曹司/三条邸(権中納言平惟仲邸)での華やかな生活が描かれている。
・『枕草子』182段『源氏物語』『栄花物語』に、墨の記載がある。
・平安時代は白粉による濃化粧の時代で、『枕草子』27段/31段/260段に、その記載がある。『源氏物語』胡蝶の巻にも、その記載がある。
・『枕草子』1段/175段/177段/189段/280段には、炭櫃/火桶の記載がある。
・『枕草子』142段には「松明(たいまつ)」、同書208段には「牛の鞦(しりがい、紐)」の記載がある。これらからも何らかの「におい」がしたと思われる。
-灯火-
・当時、明かりには、松明/灯台/紙燭/篝火(かがりび)/灯籠があった。
・『源氏物語』は灯台を「大殿油」とし、澪標の巻/葵の巻/御法の巻/梅枝の巻/橋姫の巻に記載がある。灯火は女性美を描写する小道具に使われている。『枕草子』41段/218段にも、灯台の記載がある。
・『延喜式』主計寮上には、調として海石榴(つばき)油/胡麻油が規定されている。『延喜式』内蔵寮には、大宰府が海石榴油を毎年供進する規定がある。これらが灯火に利用されたと思われる。
・『源氏物語』胡蝶の巻/篝火の巻/常夏の巻に、篝火の記載がある。
-その他-
・1016年藤原道長は土御門第を消失するが、1018年に新造している。996年藤原実資(※『小右記』作者)も邸宅を消失するが、1019年新造している。新しい邸宅では白木の香りがしたと思われる。
・『源氏物語』橋姫の巻には、袋/書物の黴臭さの記載がある。
・『今昔物語集』巻12「神名睿実持経者の語」『源氏物語』帚木の巻には、にんにくのにおいの記載がある。
・『今昔物語集』巻2「天竺に、焼香に依りて口の香を得たる語」には、口臭の記載がある。
※同じ人間なので、今も昔も変わらないのか。
<物語が描く匂い>
○『今昔物語集』と匂い
・『今昔物語集』には名香(仏教に関するにおい)/薫物(たきもの、室内にくゆらすにおい)/衣香(えこう、衣服に焚きしめるにおい)の記載がある。『源氏物語』にも薫物/衣香の記載がある。
-仏教-
・藤原道長時代の仏教は、阿弥陀如来を信仰する「浄土教」が中心であった。「衣服」「音楽」「匂い」は仏教世界の一要素である。『今昔物語集』巻5「国王、盗人のために夜光玉を盗まれたる語」に「栴檀/沈水の香を焼いた」とある。
・『今昔物語集』巻6「震旦(※中国)の悟真寺の恵鏡、弥陀像を造りて極楽に生まれたる語」巻7「震旦の絳州の僧徹、法花経を誦して臨終し瑞相を現ぜる語」巻11「聖徳太子、この朝において始めて仏法を弘むる語」巻13「摂津国菟原の僧慶日の語」巻15「鎮西の餌取法師、往生の語」に、「成仏が香し(馥ばし)き匂ひ」とある。
・『今昔物語集』巻19「信濃国の王藤観音、出家の語」巻20「比叡山の僧心懐、嫉妬によりて現報を感じたる語」巻2「婢、迦旃延の教化によりて天に生まれる恩を報ぜる語」に、「香を焼き花を散らした」とある。
・『日本書紀』(595年の条)の「沈水、淡路島に漂着す」が香の初見である。754年鑑真和上が香を薬用として持参し、その後衣香/薫物が調合された。しかし仏教界では香は必需で、『延喜式』玄蕃寮式『御堂関白記』(1016年の条)『源氏物語』などに名香が散見される。
・『源氏物語』鈴虫の巻/葵の巻/賢木の巻/総角の巻に、名香の記載がある。
・『栄花物語』は藤原道長の栄華を主題とした編年体歴史書で、40巻から成る。『栄花物語』にも名香の記載がある。
-薫物-
・『今昔物語集』巻10「聖人、后を犯して国王の咎を蒙りて天狗と成れる語」巻19「村上天皇御子の大斎院出家の語」巻24「延喜御屏風、伊勢御息所、和歌を読みし語」巻30「平定文、本院侍従に懸想せし語」に、高貴な女性の薫物の匂いを記載している。
・『今昔物語集』巻20「陽成院の御代に、滝口、金の使に行きて外術を習ひたる語」巻24「碁擲ち寛蓮、碁擲ちの女に値へる語」巻24「女、医師の家に行き瘡を治し逃げし語」巻27「三善清行宰相の家渡の語」巻27「狐、女の形に変じて播磨安高に値ひし語」には、高貴でない女性の薫物の匂いを記載している。
・『今昔物語集』巻31「大蔵史生宗岡高助、娘を傅し語」巻22「時平大臣、国経大納言の妻を取る語」巻26「藤原明衡朝臣、若き時、女の許に行きし語」では、男性の薫物の匂いを記載している。
・薫物は6種類(梅花、荷葉、侍従、菊花、落葉、黒方)が基本で、それを調合した。
・『今昔物語集』巻21「仏物の餅をもって酒を造り蛇を見る語」には、酒の匂いを記載している。
○『源氏物語』と匂い
・『源氏物語』は3部構成とするのが通説である。
第1部は「桐壺」から「藤裏葉」までの33帖で、光源氏の誕生から青年期まで。光源氏は葵の上と結婚するが、藤壺/紫の上/六条御息所/明石の君/朧月夜の君/花散里/朝顔斎院/秋好中宮/玉鬘/空蝉/夕顔/末摘花などと関係を持つ。※フィクションです。
第2部は「若菜上」から「幻」までの8帖で、光源氏の壮年から晩年まで。光源氏は女三の宮を正妻とするが、女三の宮は柏木と密通し薫の君を生む。
第3部は「匂宮」から「夢浮橋」までの13帖で、薫の君/匂宮/大君/中の君/浮舟が登場する。
・『源氏物語』には紫式部が理想とする「におい」が表出され、衣香/移り香/薫物が多く描写されている。
・『源氏物語』の作者紫式部は、藤原宣孝の妻となるが死別します。1005年頃中宮彰子に出仕し、1013年頃没します。紫式部は中宮彰子に従い、土御門第/一条内裏/枇杷殿に居します。『源氏物語』は藤原宣孝との死別後に書き始めたとされます。『紫式部日記』も書いている。
・中宮彰子は999年一条天皇に入内し、中宮になる。土御門第で敦成親王(後一条天皇)/敦良親王(後朱雀天皇)を生む。1074年没しています。宮廷(定子)サロンの中核は清少納言で、彰子サロンの中核は紫式部であった。
-衣香-
・人が通り過ぎた後の匂いを「追風」と云い、意を用いる配慮/工夫/嗜みを「用意」と云った。『源氏物語』はまさに「追風用意」の世界である。
・『源氏物語』帚木の巻/空蝉の巻/夕顔の巻/末摘花の巻/若菜上の巻/蓬生の巻には、源氏の君などの「追風用意」の記載がある。
・『源氏物語』若紫の巻/若菜上の巻には、源氏の君の移り香/残り香の記載がある。
-薫の君-
・『源氏物語』の後半は薫の君が中心になる。同書幻の巻/紅梅の巻/竹河の巻に、彼の身体から発する香りは芳ばしいとある。同書匂宮の巻に、対抗する匂宮は香を焚きしめたとある。※二人とも名前が凄いな。
・『源氏物語』橋姫の巻には、薫の君の「移り香」、同書匂宮の巻には、薫の君の「通風」の記載がある。同書宿木の巻/東屋の巻にも薫の君の「移り香」の記載がある。一方匂宮は薫の君を装って、浮舟(八の宮三女)と契る。
-薫物-
・『源氏物語』賢木の巻/初音の巻/蛍の巻/常夏の巻に、薫物の香と名香/衣香とのハーモニーを記載している。同書柏木の巻/横笛の巻にも、薫物の香を記載している。
・『源氏物語』梅枝の巻には、紫式部が理想とする薫物の調合を記載している。同書絵合の巻には、薫物/衣香の贈与の記載がある。
・『栄花物語』巻24/巻32/巻34にも、薫物の記載がある。同書巻11には、三条帝中宮(妍子)に白粉/薫物を贈ったとある。『小右記』(999年の条)『御堂関白記』(1006年の条、1012年の条)にも、薫物の賜与の記載がある。
-扇、紙-
・『源氏物語』玉鬘の巻/若菜上の巻/胡蝶の巻/若菜下の巻/橋姫の巻/夢浮橋の巻には、香を焚きしめた手紙の記載がある。
・『源氏物語』夕顔の巻/宿木の巻には、扇の移り香の記載があり、『枕草子』にも、移り香の記載がある。
<貴族の生活環境とにおい>
○文学と花の香
・花の香では菅原道真の「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 ・・」が人口に膾炙している。『源氏物語』末摘花の巻/初音の巻/胡蝶の巻にも、梅/柳の香の記載がある。
・『源氏物語』梅枝の巻/早蕨の巻/手習の巻には、梅の香と薫物/衣香のハーモニーの記載がある。
・『源氏物語』花散里の巻/蓬生の巻/蜻蛉の巻には、橘/藤の香の記載がある。
・『古今和歌集』『後撰和歌集』『蜻蛉日記』などの和歌にも花の香、特に「梅の香」が多く詠まれている。一方『枕草子』には花の香は見当たらない。清少納言は花は「めでるもの」と考えていた様である。
○生活空間、移動
-貴族の住環境-
・貴族の邸宅は「寝殿造」と云われるが、これは「書院造」に対する語で虚構とされる。貴族の邸宅は1町が多く、園池を有し、その周りに植栽がなされた。
・『源氏物語』花散里の巻/少女の巻/若紫の巻には、木々の豊富な庭園の記載がある。『枕草子』にも、同様に緑豊かな邸宅の記載がある。
・白河上皇/鳥羽上皇が院政を行った「鳥羽離宮」では10種類以上の樹木が確認され、20m以上に成長した樹木もあり、豊富な樹木に囲まれていたと思われる。
-貴族の行動範囲-
・藤原行成(太政大臣一条伊尹の孫)は、995年蔵人頭、996年権左中弁に任じられる(何れも重職)。彼の日記『権記』を見ると、ほぼ毎日内裏と土御門第(藤原道長邸)を行き来し、さらに近衛殿/内大臣邸/親王邸/崋山院などを訪れている。彼の行動範囲は、左京の御所から三条までに限定される。
・清少納言の行動範囲を『枕草子』で見ると(実際に行ったかは疑問)、京中では三条邸(平生昌邸)/一条大宮邸(今内裏)/東三条南院(関白邸)/高階明順邸/法興院(関白の父の邸宅)などを訪れている。京外では、東山阿弥陀峰/白河/清水寺/紫野辺/賀茂社/太秦、さらに伏見稲荷/初瀬/長谷寺も訪れている。
・貴族達も鴨川を越えれば、河原に散在する屍の臭いを嗅いだと思われる。
<記録されないにおい>
・平安時代の日記や『枕草子』『源氏物語』に臭いの記述は少ない。貴族達は緑豊かな邸宅で香を焚き、臭いに接する機会は少なかったと思われる。しかし当時の人々が「におい」に敏感なのは、当時の「闇の世界」が臭覚を敏感にさせたと思われる。