『スキャンダルの世界史』海野弘を読書。
世界の様々なスキャンダルを紹介。時代は古代から現在までで、総数は150を超えます。
著者はスキャンダルを「高みに上った人が転ぶ事」としています。またスキャンダルの主要テーマは政治/女/お金としています。
スキャンダルの主役は時代と共に変化します。
お勧め度:☆(500ページを超える大著)
キーワード:<スキャンダルの仕掛け>転ぶ、観客、古代/中世/近代、<古代ギリシャ>リュディア王国、ペロポネソス戦争、喜劇、ヘルメス像の破壊、ソクラテス/プラトン/アリストテレス、<ローマ>アエネアス、ルクレチアの凌辱、カトー、ユグルタ、カティリーナ/キケロ、アウグストゥス/ユリア、ネロ、五賢帝時代、コンスタンティヌス/キリスト教/東西分裂、<中世>メロヴィング朝、カロリング朝/カール大帝、カペー朝、カノッサ屈辱/グレゴリウス7世/ハインリヒ4世、十字軍/エレアノール、テンプル騎士団、イザベル、100年戦争/ジャンヌ・ダルク、リチャード3世、<ルネサンス>メディチ家、サヴォナローラ、ボルジア家、チェンチ家、ミケランジェロ、ヘンリー8世、エリザベス1世/メアリ1世、カトリーヌ/アンリ4世、ルイ14世/モンテスパン侯爵夫人、<18世紀>ゴシップ、南海バブル、地獄の火、ジョン・ウィルクス、姦通罪、ファニー・ヒル、ジョージ3世、エマ・ハミルトン、ポンパドゥール夫人、冒険家、王の秘密/エオン/サンジェルマン伯爵、カサノヴァ、首飾り事件、ミラボー/サド侯爵、<19世紀>改革/小説、ジョージ4世、米国/アーロン・バー、ナポレオン皇妃、キャロライン王妃、バイロン卿、オノレ・ドーミエ、ジョルジュ・サンド/男装、オナイダ、ナポレオン3世、マネ/近代美術。”ボス”トウィード、パナマ運河事件、切り裂きジャック、オスカー・ワイルド、ドレフュス事件、<1900年代>エヴァーリー・ハウス、ニューヨーク社交界、シオドア・ルーズヴェルト/企業献金、シスター・キャリー/アメリカの悲劇、女の戦い、裸足のイサドラ、クリッペン事件、<1910年代>タイタニック、ピルトダウン人、産児制限、ラスプーチン、ロマノフ家、前衛芸術、<1920年代>ハリウッド/アーバックル事件/テイラー事件、ホワイトソックス、ハーディング大統領/ティーポット・ドーム事件、ロイド・ジョージ/爵位問題、サッコ・ヴァンゼッティ事件、<1930年代>リンドバーグ事件、スタヴィスキー、ヒューイ・ロング、ボニーとクライド、エドワード8世/シンプソン夫人、火星人来襲、<1940年代>ミッドフォード姉妹、ケニア、トロツキー暗殺、赤いブラックリスト、アルジャー・ヒス、エロール・フリン、<1950年代>マッカーシズム、原爆の父オッペンハイマー、プレイボーイ、ラナ・ターナー、マーガレット王女、クイズ・ショック、<1960年代>ジョン・F・ケネディ、マリリン・モンロー、プロヒューモ事件、モハメド・アリ、シャロン・テート殺人事件、エドワード・ケネディ、<1970年代>ウォーターゲート事件、エルヴィス・プレスリー、セックス・ピストルズ、ジェレミー・ソープ、ハーヴェイ・ミルク、ネルソン・ロックフェラー、<1980年代>ジョン・レノン、ロナルド・レーガン/イラン・コントラ事件、デロリアン、クラウス・フォン・ビューロー、ロック・ハドソン、<1990年代>ベルサーチ、クリントン、ダイアナ、O・J・シンプソン、ウディ・アレン、ウディ・アレン
<スキャンダルの仕掛け>
・スキャンダルを辞書で引くと、恥辱/不面目/名折れ/醜聞/疑獄などが並ぶが、「転ぶ事」と云える。またスキャンダルには3要素が必要で、「転ぶ人」「転ばせた原因」、さらにそれを笑う「観客」が必要である。またスキャンダルは「他人の恥を覗きたい」欲望の表れでもある。
・「転ぶ人」(主役)はできるだけ地位の高い人が良い、国王/貴族/大金持/有名人/映画スター/スポーツ選手などになる。「転ばせた原因」(事件)は政治/女/お金が多い。※これは人間の3大欲望かも。
・本書では時代区分を、「古代」「中世」「近代」に分ける。「古代」の終わりを、500年頃とする。476年西ローマ帝国が滅亡している。
・「中世」の終わりは、1450年頃とする。1492年新大陸発見、1498年インド航路発見、1517年宗教改革があった。この「中世」は、動力がローマ帝国の奴隷による人海戦術から、水車/風車/牛馬に代わった時代である。
・「近代」の始まり(1450年)は、グーテンベルクが初めて印刷物を製作した頃である。これはスキャンダルにも大きく影響を与えている。それまでは目/口/耳で直接伝えるしかなかった。しかし以降は新聞/雑誌などの活字メディアが伝達手段になる。さらに20世紀にはラジオ/テレビ/インターネットなどのメディアが加わる。※人類最大の発明は活版印刷だと思う。
<古代ギリシャ>
○ギュゲスと魔法の指輪
・前13世紀頃「トロイ戦争」が起こる。この戦争は、トロイ王がスパルタ王の妃を略奪した事から始まった。これが前800年頃に書かれたホメロス『イリアス』に語られている。
・ヘロドトス『歴史』は、「ギュゲスが小アジアのリュディア王国の王を殺し、王国と王妃を奪った」と記している。一方プラトン『国家』は、「ギュゲスは自分が見えなくなる指輪を得てリュディア王妃と通じ、王を殺し、王国を奪った」と記している。
○神々も転ぶ
・前421年ペロポネソス戦争(アテネとスパルタの戦争)で「ニキアス和約」が成立する。その頃アテネでアリストパネスが演劇『平和』を上演する。農夫トリュガイオスが最高神ゼウス/門番ヘルメスを訪れ、「平和の女神」を連れて帰る演劇である。この演劇はゼウスなどの神々を散々冒瀆している。
・その後権力を握ったアルキビアデスは戦争を再開する。さらにシチリアへの遠征を始める。この時多くのヘルメスの像が傷付けられる事件(後述)が起こる。この事件でアルキビアデスは有罪になり、前415年敵国スパルタに亡命する。
○喜劇とスキャンダル
・前510年アテネはクレイステネスにより「民主政」になり、ペリクレスにより完成する。「民主政」により喜劇/スキャンダルが認められる。前421年アリストパネスの『平和』は、そんな時代の喜劇であった。
・前411年アリストパネスは演劇『女の平和』を上演する。この演劇は、戦争を止めない男達に女達がセックスを拒否し、平和を取り戻す演劇である。
・喜劇/スキャンダルは高く上がったものを、叩き落す作用である。これにより不平等/格差/差別/対立を緩め、ストレスが発散された。
○ヘルメス像スキャンダルの真相
・アテネはペリクレスの時代まで男性中心社会であった。前415年ヘルメス像の破壊は、正確には男根の破壊であった。当然アルキビアデスは犯人でなく、偉そうにしている男達を女達が躓かせたのである。前411年上演のアリストパネスの『女の平和』が、それを明かしている。※本書では男女関係が大きなテーマ。
・その後アテネは傾き、前404年スパルタに降伏する。30人僭主による恐怖政治を経て、「民主政」が復帰する。この時アルキビアデスや30人僭主の師であったソクラテスが処刑されている。
・ソクラテス/プラトン/アリストテレスの表現方法を比較すると、ソクラテスは全く著作を残していない。ソクラテスの言葉をプラトン/アリストテレスなどが書き残しているだけである。プラトンは多くの著作を残したが、「対話」形式である。アリストテレスは記述/論文など客観的な形式を取っている。※この短い間にも変遷があるんだ。
・アリストテレスはマケドニアの出身で、アレクサンドロス大王の庇護を受ける。前323年大王が没すると、アリストテレスは「神を冒瀆する詩を書いた」として告訴され、アテネから亡命する。アテネでは告訴業者が繁盛していた。※西洋の裁判好きは、この頃からか。
※哲学者について余り知らなかった。
・アテネでは「僭主政」「民主政」で、どちらが良いかの対立があった。「僭主政」は繁栄する可能性があるが、暴君を生む恐れがある。「民主政」はそれを避けるための陶片追放(リコール制)があるが、衆愚政治になる危険がある。
・前5世紀スキャンダルは政治的陰謀/ゆすり・たかりの手段になり、アテネは没落していく。その転換点になったのが、前415年ヘルメス像スキャンダルであった。
<ローマ>
○スキャンダルがローマを作った
・ローマの詩人ウェルギリウスは『アエーネイス』に「トロイの勇将アエネアスがカルタゴに着き、その後イタリアに渡った。彼の子孫ロムルスがローマを建国した」と書いている。この中に「アエネアスはカルタゴ女王と恋に落ちていたが、ファーマ(噂の神)がこの事をユピテル(ギリシャのゼウスに相当)に訴え、アエネアスはイタリアに出発した」とある。ローマはスキャンダルによって建国されたのである。※建国神話は面白い。
・リウィウスは『ローマ史』142巻を書いたが、内35巻しか残っていない。その第1巻「王政のローマ」に「ルクレチアの凌辱」が記されている。この事件によりローマは「王政」から「共和政」に替わる。
・ローマの7代目の王は暴君と云われるタルクイニウス2世であった。ローマ軍が南の都市を攻めていた時、タルクイニウス2世の王子セクストゥスとコラチヌスが、どちらの嫁が貞淑か口論になった。ローマに帰るとセクストゥスの嫁は宴会を開いていたが、コラチヌスの嫁(ルクレチア)は糸を紡いでいた。その後セクストゥスはルクレチアを強姦し、ルクレチアは自殺する。前509年コラチヌスとブルートゥスは反乱を起こし、王族を追放し、2人は執政になる(共和政)。
・その後平民の反乱が起き、「護民官」が作られる。前451年平民の権利を拡大する「十二表法」が制定される。その後も貴族と平民を妥協させる法律が整備され、「共和政」が確立する。
○カトーと名声
・ローマとカルタゴは3次に亘る「ポエニ戦争」(前264~前146)を戦う。新貴族(ノビレス)カトーはスキピオ軍の浪費を批判し、注目される。前195年彼は執政に選ばれる。この年「第2次ポエニ戦争」が終わったので、女性の贅沢を禁止する「オッピウス法」が廃止されるが、彼は女性と対立した。
・カトー時代に裁判が急増する。彼も告訴したり/されたりで、44度も被告席に立つが、大半で勝利する。この裁判の急増は、個人崇拝の兆候でもあった。
・前149年彼は没するが、ローマは彼が恐れたギリシャ文化により頽廃する。
○アフリカ汚職事件
・北アフリカにローマと友好的なミディア王国があった。王が亡くなり、2人の王子アドヘルバル/ヒエンプサルと、その従弟ユグルタ(以下彼)が王位を争った。アドヘルバルと彼の分割統治になるが、彼はアドヘルバルを殺害する。
・ローマはこれに怒り、使節や征討軍を何度も送るが彼に買収される。前107年彼に買収されなかった新人(新貴族?)マリウスが執政になり、彼を捕える。ローマはお金で何でも買える時代になった。
○カティリーナの陰謀
・前63年騎士階級出身のキケロは元老院で「カティリーナが陰謀を企んでいる」と弾劾演説する。彼はカティリーナを捕え、民会での判決を経ずに処刑する。しかしこの強行により彼は引退するが、ブルートゥスにカエサルの暗殺を委ねる。
・その後ポンペイウス/クラッスス/カエサルの「三頭政治」になる。前49年カエサルはポンペイウスを破り、「独裁官」になる。しかし前44年カエサルはブルートゥスに暗殺される。
○ローマ皇帝のスキャンダルと悪女達
・前27年オクタヴィアヌス(以下彼)は「アウグストゥス」の尊号を受け、初代皇帝になる。彼は3度結婚するが、実子は娘ユリアしか生まれなかった。彼女の最初の夫は若死にし、2度目はアグリッパと結婚し、5人の子供を産む。ところがアグリッパも亡くなり、彼の3度目の妻リウィアの連れ子ティベリウスと結婚させる。しかし彼女の乱交により、ティベリウスはロードス島に引籠る。彼女の2人の息子は亡くなり、彼はティベリウスの養子ゲルマニクスを後継者とする。ゲルマニクスの息子が3代皇帝カリグラ/5代皇帝ネロである。※超複雑。
・14年彼が亡くなると、ティベリウスが2代皇帝になる。19年養子ゲルマニクスが亡くなると、ティベリウスの母(彼の3度目の妻)リウィアとゲルマニクスの妻アグリッピナの争いが始まる。するとティベリウスは今度はカプリに引籠る。
○カリグラとネロ
・37年2代皇帝ティベリウスが亡くなり、カリグラが3代皇帝になる。彼は狂気の皇帝であった。彼は全ての妹と関係を持ち、見世物で野獣に囚人を与えた。
・41年カリグラが護衛隊員により殺され、カリグラの叔父クラウディウスが4代皇帝になる。彼はカリグラの妹アグリッピナ(小アグリッピナ)と5度目の結婚をする。
・54年皇帝クラウディウスが亡くなり、小アグリッピナの連れ子ネロが5代皇帝になる。彼は皇帝になると大盤振舞をした。祭/戦車競走/芝居/剣闘士試合などの見世物をし、食べ物/金銀/宝石/家畜などをばら撒いた。彼の性欲も異常で、杭に縛られた男女を犯し、最後は自分が奴隷に犯された。また「黄金の館」などを建設し、国費を使い果たした。ローマが老朽化したとして、焼払った。さらに母小アグリッピナ/叔母/妻を殺した。
・68年ネロの時代はローマ内部からではなく、ガリアの反乱により彼が自殺して終わる。これによりカエサルの血統が絶える。
・69年ウェスパシアヌスが皇帝になり、「フラウィウス朝」が始まる。96年この「フラウィウス朝」も3代で終わる。
・96年元老院議員ネルウァが皇帝に擁立され、「五賢帝時代」(ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス)が始まる。彼らは皇帝の養子になり、元老院に承認されて皇帝になった。ハドリアヌスは美少年アンティノオスを溺愛し、彼がエジプトで水死するとアンティノオポリスを建設した。
・マルクス・アウレリウスは『自省録』を書き、「哲人皇帝」と云われた。しかしこの時代に各地で反乱が起き、ローマ軍はペストを持ち帰り、多くの市民が亡くなった。
・180年マルクス・アウレリウスの実子コンモドゥスが皇帝になり、「五賢帝時代」は終わる。コンモドゥスは歓楽に明け暮れ、192年彼は親衛隊に殺害される。
・193年セプティミウス・セウェルスが皇帝になる。彼は初めてのユダヤ系アフリカ人の皇帝であった。211年彼が没すると、彼の息子カラカラが皇帝になる。カラカラは巨大建造物の建設や、弟の殺害でネロの再来と云われた。カラカラも親衛隊に暗殺される。※暴君は大概身近な人に殺される。
・その後将軍が皇帝になる「軍人皇帝時代」が50年続く。
・284年ディオクレティアヌスが皇帝になる。彼は首都を小アジアのニコメディアに移し、帝国を4分割した。
・307年内乱を制したコンスタンティヌスが皇帝になる。彼はキリスト教を国教とし、首都をコンスタンティノポリスに移した。彼はキリスト教の大恩人なので美化されているが、息子と妻を殺している。最初の妻との間に息子クリスプスがいたが、再婚し3人の息子と3人の娘を儲ける。彼は帝位20周年の儀式でクリスプスを処刑している。さらにその後、後妻も殺している。また彼は帝国を5分割し、3人の息子と2人の甥に統治させた。337年彼が亡くなると帝国は内乱になり、395年帝国は東西に分裂する。476年西ローマ帝国は滅亡する。
※何かローマは真面な時代がないな。
<中世>
○中世のスキャンダル
・中世を476年(西ローマ帝国滅亡)~1450年とするが、幾つかに区分できる。800年フランク王カールがローマ皇帝に戴冠され、8世紀までは「プレ中世」である。12世紀は社会的/文化的な転換が見られ、「中世ルネサンス」である。12世紀~14世紀が中世の最盛期で、「古典時代」である。15世紀は中世からルネサンスへの過渡期で、言葉の技巧や遊びが流行る頽廃期で、「修辞学の時代」である。
※これらは覚えて置きたい。本書は東洋/イスラムを除外しているため、キリスト教世界(西洋)の歴史/スキャンダルである。
・欧州ではフランク王国(メロヴィング朝)が強力になり、496年クロヴィスはランスで戴冠する。561年クロヴィスの息子クロタール1世が没すると、息子4人が領土を分割し、兄弟戦争になる。最後は三男の王妃ブルンヒルドと四男の王妃フレデグンドの争いになるが、四男の息子クロタール2世がフランク王国を統一する。
※ゲルマンは分割相続かな。
○シャルルマーニュの尻軽娘達
・「メロヴィング朝」では次第に宮宰ピピン家が権力を握る。732年ピピン2世の息子カール・マルテルはガリアに侵入してきたサラセン人(イスラム教徒)を「トゥール・ポワティエの戦い」で撃退する。このサラセン人の侵入により、欧州は東方から切り離され、欧州文化/中世が始まる。
・751年カール・マルテルの息子ピピン3世がフランク王になり「カロリング朝」が始まる。
・ピピン3世の息子がシャルルマーニュ(カール大帝)である。800年彼はローマでローマ皇帝として戴冠される。彼には妻が5人、妾が4人いた。彼は娘達を可愛がり、何時も帯同した。また娘達の結婚を禁止したため、宮廷は華やかで、宮廷文化(カロリング朝ルネサンス)が生まれた。※カール大帝はハートのキング。
・843年フランク王国は東フランク/西フランク/ロタール(中フランク)に3分割される。
・987年西フランクで「カロリング朝」が断絶し、ユーグ・カペーが王に選出される(カペー朝)。ユーグ・カペーは息子ロベールをフランドル伯の未亡人と結婚させる。996年父が亡くなり、彼が王になると、妻と離婚し恋人と結婚する。そのため彼は法王により破門され、隔離生活を送る。
○カノッサ屈辱
・911年東フランクは「カロリング朝」が絶え、ザクセンのハインリヒが王に選出される(ザクセン朝)。962年その息子オットーはローマで神聖ローマ皇帝として戴冠される。オットーが法王を選ぶなどローマ教会は混乱した。
・1049年ハインリヒ3世(ザーリアー朝)はレオ9世を法王に選ぶ。レオ9世に仕えたヒルデブラント(グレゴリウス7世)は教会を改革する(グレゴリウス改革)。
・1056年ハインリヒ3世が没し、幼いハインリヒ4世が王になると、1059年教会は「法王は枢機卿が選出する」と規定する。さらに1073年グレゴリウス7世が法王になると、1075年「俗人による聖職者叙任」を禁止する。法王とハインリヒの対立は深まり、ハインリヒは破門される。1077年ハインリヒはカノッサ城で法王に謝罪する(カノッサ屈辱)。しかしその後も法王とハインリヒの対立は続き、1085年法王はローマを追われサレルノで没する。
・教会はハインリヒの長子コンラートをイタリア王とし、親子対立させるが失敗する。しかし1105年ハインリヒは次男ハインリヒ5世により廃位され、翌年没する。
・当時の王は絶対的世襲ではなく、諸侯/教会/都市の評判を気にする必要があった。皇帝も法王も書簡などの宣伝文書をばら撒き、これにより知識学(スコラ学)が鍛えられ、知識人が尊重され始めた。
○十字軍スキャンダル
・ビザンチン皇帝はセルジュク・トルコの進出でローマ法王ウルバヌス2世に援軍を要請した。1095年法王は「クレルモン教会会議」で十字軍派遣を宣言する。人々は罪を許されるとあって熱狂した。隠者ピエールは乞食のような農民隊でエルサレムに向かったが、壊滅した。
・第1回十字軍(1096~99年)は下ロレーヌ公/ターラント公(南イタリア)/トゥールーズ伯/ノルマンディー公/フランドル公が参加し、アンティオキア/エルサレムなどを占領し、それぞれ国を建てた。
・第2回十字軍(1147~48年)はフランス王ルイ7世/ドイツ王コンラート3世が参加する。
・ルイ7世の王妃はエレアノールであった。彼女は広大な領地を有するアキテーヌ公ギョーム10世の娘として生まれた。ギョーム10世の父ギョーム9世はトルバドゥール(吟遊詩人)の草分けである。ルイは彼女を伴って十字軍に出発する。ルイはアンティオキアに到着する。アンティオキアはギョーム10世の弟レイモンが領していた。ルイはエルサレムに向かおうとするが、彼女が反対するため、彼女を捕えてエルサレムに向かった。彼女がエルサレム行きを拒んだのは、レイモンと不倫していたためと話題になった。
・ルイは十字軍で惨敗し帰国するが、彼女と離婚する。1152年彼女はアンジュー/メーヌ/ノルマンディーを領するアンジュー伯アンリ(ヘンリー2世)と再婚する。これによりフランスの半分が2人の領土になる。
・さらにアンリの母マティルダはイングランド王ヘンリー1世の娘だったため、アンリに王位継承権があると主張する。アンリはイングランドに乗り込み、1154年イングランド王ヘンリー2世になる(プランタジネット朝)。これによりエレアノールはフランス王妃からイングランド王妃になった。
・彼女は息子達が成長すると夫ヘンリーと戦わせた。しかし彼女は敗れ、捕えられ16年間幽閉される。
・1187年エルサレムが奪回されると、第3回十字軍が計画される。これにリチャード(ヘンリーの三男)/フランス王フィリップ2世(ルイ7世の息子)/フリードリヒ1世(コンラート3世の息子)が参加する。1189年ヘンリーが没し、リチャードが王になり、彼女は留守のイングランドで摂政になる。リチャードは帰国途中、オーストリア公レオポルトに幽閉される。彼女の尽力でリチャードは解放される。
・1204年彼女は修道院で、82歳で没する。彼女は12世紀の見事な女性であった。※エレアノールは有名だね。
○テンプル騎士団事件
・「テンプル騎士団」は、正確には「テンプル騎士修道会」で、修道士が騎士として戦うため、聖俗両面の性格を持つ。他に「聖ヨハネ騎士団」「ドイツ騎士団」がある。1118年エルサレム巡礼の警備隊が、神殿(テンプル)を宿舎としたのが、「テンプル騎士団」の始まりである。騎士団は特権を認められ、厖大な土地/財産を持った。莫大な資金を持った「テンプル騎士団」は金融業を営み、欧州全土で為替業務を行った。
・第7回十字軍(1248~49年)は失敗し、1291年アッコンを失う。十字軍が終わった事で、巨大な軍事力/資金力を持つ騎士団は、王/法王の目障りになった。
・1307年フランス王フィリップ4世は、「テンプル騎士団」が神を冒瀆する「入社式」を行ったとして、一斉検挙する。法王クレメンス5世はこれに抗議し、騎士とその財産の引渡しを求めるが、フィリップは「三部会」を味方につけ、下級の騎士のみを引渡した。1312年法王は「テンプル騎士団」の廃止を宣言し、その財産は「聖ヨハネ騎士団」に移された。1314年「テンプル騎士団」の幹部が火刑に処せられる。
・1314年フィリップ4世の3人の息子の妻が、一斉に不義密通で逮捕/幽閉された。これはフィリップと娘イザベル(イングランド王エドワード2世の王妃)が計画したとされる。
・1320年エドワード2世がヒュー・ディスペンサーを愛人にしたため、イザベルはフランスに戻り、自身もモーティマーを愛人とした。さらに彼女はモーティマーと共に夫エドワード2世を攻め、1327年息子のエドワード3世を王位に就ける。エドワード2世は残酷に処刑された。しかし1330年エドワード3世は彼女とモーティマーを逮捕し、モーティマーを絞首刑にし、彼女を幽閉した。※過激だな、
○ジャンヌ・ダルク裁判
・フランス王フィリップ4世の3人の息子が亡くなり、1328年「カペー朝」が絶え、ヴァロワ伯フィリップ(フィリップ6世)が王になる(ヴァロワ朝)。
・14~15世紀は中世後期で、①経済の停滞②100年戦争/黒死病③技術革命が特徴である。商業は自由経済から政府/ハンザ同盟/職能ギルドによる「統制経済」になる。「100年戦争」により、イングランド/フランスは諸侯連合から「国民国家」に変わる。
・1337年イングランド王エドワード3世がフランスの王位継承権とガスコーニュの領有を主張し、ノルマンディーに上陸する(100年戦争)。彼は大勝するがイングランドに帰る。
・1356年イングランド王エドワード3世の息子エドワード(黒太子)がフランスに侵入する。彼はフランス王ジャン2世(フィリップ6世の息子)を捕え、帰国する。1359年3回目のフランス侵入をする。
・1364年捕えられていたジャン2世がイングランドで没し、息子のシャルル5世がフランス王を継ぐ。彼は有能でフランスは国力を回復し、1369年休戦していた戦争が再開される。
・1380~1415年両国とも国内騒乱により休戦する。フランスではオルレアン公(アルマニャック派)とブルゴーニュ公(ブルゴーニュ派)が対立し、ブルゴーニュ公ジャン(無怖公)はイングランド王ヘンリー4世(ランカスター家)と組む。
・1412年イングランド王ヘンリー4世の次男トーマスはフランスに侵入する。1415年/1417年イングランド王ヘンリー5世はフランスに侵入する。
・1419年フランスではブルゴーニュ公ジャン(無怖公)が殺害され、息子のフィリップ(善良公)がブルゴーニュ公を継ぐ。
・1422年イングランド王ヘンリー5世とフランス王シャルル6世が共に没する。フランス王位をシャルル6世の息子シャルル7世とイングランド王ヘンリー6世(シャルル6世の娘とヘンリー5世との息子)が主張し、フランス王が2人になる。
・1428年イングランド軍はオルレアンを包囲する。ここにジャンヌ・ダルクが表れる。※流石に100年戦争、登場までが長い。
・1412年ジャンヌ・ダルクは生まれる。13歳の時、神の声を聞く。1428年フランス軍の指揮官に任命され、包囲されたオルレアンに入城する。オルレアンの守備隊は反撃に出て、オルレアンを解放する。1429年ランスでシャルル7世の戴冠式が行われる。
・1430年彼女はイングランド軍に捕えられる。パリ大学は彼女を異端裁判に掛けるため、引渡しを要求する。パリ大学はイングランド王による両国統治を主張していた。彼女は異端裁判で魔女/男装/神への非服従で有罪になり、1431年火刑に処せられる。
・1453年フランスはボルドーを解放し、「100年戦争」は終わる。※100年戦争/ジャンヌ・ダルクの本は読んだ事がある。
○リチャード3世の悪名
・イングランドは「100年戦争」が終わると、「ランカスター家」と「ヨーク家」が争う「薔薇戦争」(1455~85年)になる。1455年ヨーク公リチャードが反乱を起こし、1461年ヘンリー6世を廃位し、息子エドワード4世を王位に就ける。
・1483年エドワード4世が没する。彼には2人の王子がいたが正規の結婚でないとし、弟リチャード3世が王位に就く。1485年リッチモンド伯ヘンリー・テューダー(ヘンリー7世)がリチャード3世を討ち、「テューダー朝」を開く。
・リチャード3世は「醜い、せむし、エドワード4世の2人の王子を殺した」など悪名高い。これらはヘンリー7世が作った醜聞と思われる。
<ルネサンス>
○ルネサンスとユマニスム
・ルネサンスとは再生の意味で、中世と訣別し古代へ復帰する事を指す。ルネサンスは自由を愛し、お金を稼ぎ/生活を楽しみ/芸術・学問に関心を持つ個人主義である。人間中心主義(ユマニスム)とも云える。本書では15~17世紀をルネサンスとする。※結構広いな。
・以前名声/悪名の対象は英雄/聖者に限られていたが、ルネサンスではあらゆる階級が対象になった。有名人の生家や墓は聖地になり、彼らに対し悪口が喧伝された。その先頭に立つのがフィレンツェであった。
○メディチ家の盛衰
・15世紀初め、フィレンツェはリナルド・デッリ・アルビッツィが率いる「貴族派」とコジモ・デ・メディチが率いる「富裕商人派」が対立していた。1429年破廉恥者を追放する「破廉恥者法」が成立した。この法律によりコジモはヴェネチアに亡命する。しかしリナルドも失脚し、アルビッツィ家は追放された。1434年コジモはフィレンツェに帰還し、メディチ家の支配が始まる。※シビアな法律だ。
・1469年コジモの孫ロレンツォがメディチ家を継ぐ。メディチ家に対抗したのは、メディチ家と同じ銀行業のパッツィ家や法王シクストゥス4世であった。1478年彼らはロレンツォと弟で人気者のジュリアーノの暗殺を実行する。ロレンツォは致命傷を逃れるが、ジュリアーノは殺害される。
・この事件によりメディチ家はフィレンツェの支配を逆に強め、パッツィ家は廃絶になる。ボッティチェリは警察本部の壁に、逮捕されたパッツィ家の人々を描いた。
・1484年シクストゥス4世が亡くなり、次の法王インノケンティウス8世の息子にロレンツォの娘が嫁ぐ。その後ロレンツォの息子(レオ10世)とジュリアーノの息子(クレメンス7世)が法王になっている。
※メディチ家の本は読んだ事がある。
○サヴォナローラ現象
・1492年ロレンツォは没する。1494年メディチ家はフランス王シャルル8世の自由通行を認める。これによりメディチ家はフィレンツェを追放される。フィレンツェは「共和制」に戻り、説教師サヴォナローラが「神権政治」を始める。
・1497年サヴォナローラは法王アレクサンデル6世と対立し、破門される。翌年フィレンツェ政府はサヴォナローラを逮捕し、処刑する。
○ボルジア家の悪徳
・法王アレクサンデル6世(本名ロドリゴ・ボルジア)はスペイン北部のボルジア家の出身である。1443年アラゴン王アルフォンソ5世がナポリ王になる。これによりアルファソンの秘書をしていたボルジア家のアロンソ(ロドリゴの伯父)は枢機卿になり、ロドリゴもローマに来る。1455年アロンソが法王カリトゥス3世になる。
・ロドリゴはアラゴン王フェルナンドとカスティーリャ女王イザベルの結婚を仲介する。1492年ロドリゴは買収によって法王アレクサンデル6世になる。
・法王アレクサンデル6世は親族を要職に付けた。彼らはスキャンダルを撒き散らした。1497年法王の息子ガンディア公ホアンは殺害される。1498年法王はフィレンツェのサヴォナローラを処刑にする。
・法王の息子チューザレはフランスの協力でイラモ/フォルリ/ロマーニャ/ナポリを陥落させる。法王領の全てがボルジア家の支配になった。チューザレは恐怖政治を行った。1502年チューザレはウルビーノを占領し、反対派を全員処刑にした。
・1503年法王とチューザレは共にマラリアに罹り、法王は急死する。チューザレはナポリに逃げ、ナヴァルに逃げ、1507年そこで戦死する。
※この法王は普通の領主よりあくどそう。
○チェンチ家の悲劇
・16世紀始め、名門チェンチ家のクリストーフォロ・チェンチが枢機卿になる。クリストーフォロの息子フランチェスコは放蕩息子として育つ。彼には7人の子供がいた。1577年娘ベアトトリーチェが生まれる。
・彼の放蕩は止まず、1594年ソドミー(男色)で裁判に掛けられる。法王クレメンス8世の目的は彼の財産であった。彼は多額の釈放金を払い、ナポリのペトレッラ城に居を移す。彼はこの城で子供達を虐待し、性的暴行を始める。家族は計画を練り、彼を殺害する。
・しかし遺産相続で揉めた事で、殺害が明らかになり、裁判になる。ベアトトリーチェ達は情状酌量で流刑を期待していたが死刑になる。法王クレメンス8世の目的は彼らの財産で、死刑ありきの裁判であった。
※この先裁判の話が多くなり、男色の話も度々出て来る。
○ジョルダーノ・ブルーノ裁判
・1548年ジョルダーノ・ブルーノはミラノ近郊に生まれる。1566年サン・ドメニコ修道院に入る。その後欧州を転々とし、1591年ヴェネチアに戻る。戻ったヴェネチアで異端裁判に掛けられ、有罪になり、1600年処刑される。
・ロンドンではフランス大使館に滞在し、フランスのスパイであったらしいが、逆にイングランドのスパイのウォルシンガムとの説もある。
○カラヴァッジョの罪
・ミケランジェロ・メリージは、1571年ミラノ近くのカラヴァッジョで生まれ、「カラヴァッジョ」と呼ばれた。ミラノで画家の修行をするが問題を起こし、1593年ローマに出る。
・フランチェスコ・デル・モンテ枢機卿が彼のパトロンになる。彼は詐欺師/犯罪者/娼婦などと付合い、彼らを描いた。1599年「ユディットとホロフェルネス」を描く。ユディットは娼婦がモデルで、ホロフェルネスは自身とされる(※ユディットはハートのクイーン)。
・1606年彼はケンカでならず者を殺し、ミラノに逃れる。1607年「マルタ騎士団」(聖ヨハネ騎士団)の画家になり、マルタ島で絵を描く。ここでも問題を起こしミラノに戻ろ。1610年熱病で没する。
※ミケランジェロって、こんな人だった?ルネサンス期のミケランジェロとは別人でした。
○ヘンリー8世と6人の妻
・16世紀前半はヘンリー8世(位1509~47年、以下彼)/フランソワ1世(位1515~47年)/神聖ローマ皇帝カール5世(位1516~56年)の鼎立時代であった。フランソワとカールが争っている間、彼は結婚に励んでいた。
・1502年彼の兄が急死し、兄に代わり彼がアラゴン王とカスティーリャ女王との娘キャサリンと結婚する事になる。1509年結婚式を挙げる。彼は17歳。キャサリンは23歳であった。2人の関係は旨く行ったが、娘(メアリ1世)しか生まれなかった。
・1526年彼はアン・ブリンと恋に落ち、結婚したいと思うようになる。1533年カンタベリー司教に結婚を認めさせるが、ローマ教会から破門される。そこで「イギリス教会」をローマ教会から分離させる。これは結果的には大成功で、576の修道院を潰し、財産を得た。またフランス/ドイツのような悲惨な宗教戦争を回避できた。※これも英国が産業革命を起こせた要因かな。
・しかし生まれたのは娘(エリザべス1世)だけであった。彼は次にジェイン・シーモアに心を移す。1536年アンと弟ジョージは逮捕され、姦通罪で処刑する。直ぐに彼はジェインと結婚する(※さらっと述べられているが、恐ろしい話だ)。1537年ジェインは息子エドワードを生むが、急死する。
・1540年フランス/神聖ローマ皇帝/法王のカトリック連合に対抗するため、彼はプロテスタント諸侯の「シュマルカルデン同盟」のクレーフェ公女アンナと結婚する。しかし6ヶ月後にこの結婚を無効とし、彼女の女官キャサリン・ハワードと結婚する。しかしこのキャサリンも姦通罪で裁判になり、1543年処刑される。20歳であった。
・1543年年齢が近いキャサリン・パーと6度目の結婚をする。彼女はメアリ/エリザベス/エドワードに立派な教育を受けさせた。1547年彼は没する。
○エリザベスの処女伝説
・ヘンリー8世は6度結婚するが、エリザベス1世(処女王)は一度も結婚しなかった。しかし愛人はいた。
・1553年ヘンリー8世とキャサリンの娘メアリ1世が王位に就く。彼女はカトリックで新教徒を弾圧した。またアン・ブリンの娘エリザベスを憎んでいた。彼女はスペイン王フェリペ2世と結婚し、フランスと戦うが、カレーを失う。1558年彼女は病死し、エリザベスが王位を継ぐ。
・エリザベスにとって、スコットランド女王メアリ1世(ヘンリー7世の曾孫)は王位継承権で宿命的なライバルであった。エリザベスの後にメアリの息子ジェームズが王位を継ぐ(スチュアート朝)。
・エリザベスの愛人にレスター伯ロバート・ダトリーがいた。2人の関係は紆余曲折あったが、長く続いた。1579年彼女が45歳の時、アンジュー公フランソワ・アンリ(23歳)との結婚話が持ち上がるが、流れる。
・1584年頃から彼女はエセックス伯ロバート・デヴルーをペットのように愛す。しかし彼は戦争での失敗が続き、1601年処刑される。
・1542年スコットランド王ジェームズ5世が戦死し、メアリ1世は生後1週間で王位を継ぐ。そのため彼女は母と共にフランス宮廷で育つ。1558年フランス皇太子フランソワと結婚し、翌年彼は即位するが、次の年に没する。1561年彼女はスコットランドに戻る。
・しかし彼女はスコットランドで歓迎されなかった。1565年彼女はダーンリー卿ヘンリー・スチュアートと結婚する。しかし1567年彼は殺害される。
・1567年動揺した彼女は、夫の殺害者と疑われるボズウェル伯ジェームズ・へバーンと結婚する。この2人の王位に貴族が反乱を起こし、彼女は退位し、イングランドに亡命する。息子のジェームズ6世が1歳で王位を継ぐ。※彼女はこの時まだ25歳。
・1571年スコットランド王メアリ/フィレンツェの銀行家リドルフィ/ノフォーク公/スペイン王フェリペ2世/法王などによるエリザベスを殺害する陰謀が発覚するが、メアリは処刑を免れる(リドルフィ事件)。
・若い貴族アントニー・バビントンはメアリと蜂起計画を手紙でやり取りしていた。1586年秘密情報機関長フランシス・ウォルシンガムはこれを入手し、バビントンを処刑する。1587年メアリも処刑される。1588年イングランドはスペインの無敵艦隊を破る。
○カトリーヌ・ド・メディシス
・16世紀前半はヘンリー8世/フランソワ1世/カール5世の時代であったが、半ばでエリザベス1世(イングランド)/アンリ2世(フランス)/フェリペ2世(スペイン)/フェルディナンド1世(※マクシミリアン2世?)(ドイツ)に世代交代する。
・1533年アンリ2世はメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスと結婚する。彼女は10人の子供を産んだ。1559年アンリが急死し、息子のフランソワ2世が即位するが、1年で没する。その弟シャルル9世が即位する。カトリーヌは1589年に亡くなるまで30年間摂政を務める。
・当時は3つの党派が争っていた。「ブルボン家」はユグノーでエリザベス女王がバックであった。「ギーズ家」はカトリックでフェリペ2世がバックで、一族のメアリがスコットランド女王になり、さらにフランソワ2世と結婚したので、急速に勢力を増した。「モンモランシー家」はカトリックが中心だが、ユグノーもいた。
・1562年「ブルボン家」の当主ナヴァール公が戦死し、幼いアンリがナヴァール公を継ぐ。1572年カトリーヌは娘マルグリットとナヴァール公アンリを結婚させる。彼女は「モンモランシー家」のコリエ提督の殺害を試みるが失敗し、彼女はユグノーの反撃を恐れ、大虐殺を行った(聖バルテルミーの大虐殺)。
・1574年シャルル9世が没し、その弟アンリ3世が即位する。1577~84年はカトリックとユグノーの抗争が続く。1584年アンリ3世はカトリックのギーズ公を殺害する。そのショックのためか、カトリーヌも亡くなる。1589年復讐に燃えたカトリックはアンリ3世を殺害する。ナヴァール公アンリがフランス王(アンリ4世)を継ぐ(ブルボン朝)。
・1598年アンリ4世は「ナントの勅令」を出し、宗教対立を緩和させる。1610年彼も暗殺される。
・彼とマルグリットの関係は冷え切ったもので、子供はできなかった。彼には愛人ガブリエル・デストレがいたが、1599年ガブリエルは急死する。翌年彼はメディチ家のマリ・ド・メディシスと結婚する。彼はメディチ家に借金があった。次の年彼女はルイ13世を生む。
○ルイ14世と毒殺ネットワーク
・1643年ルイ13世が没し、幼いルイ14世が王位を継ぐ。1661年イタリア人宰相マゼランが亡くなり、彼は長い親政(~1715年)を始める。1682年ヴェルサイユに宮廷を移す。
・1660年彼はスペイン王フェリペ4世の娘マリー・テレーズと結婚していたが、ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール/モンテスパン侯爵夫人/マントノン夫人などを愛人にした。
・1676年ブランヴィリエ侯爵夫人が毒殺を行ったとして処刑される。過去に遡って調べると、ルイ14世の愛人アンリエット/フォンタンジュの毒殺事件もあった。
・その後も毒殺事件が相次ぎ、彼は特別裁判所を設置する。この特別裁判所は魔女ラ・ヴォワザンを摘発する。彼女の自供でモンテスパン侯爵夫人の名前も挙がり、有名人が次々と裁判に掛けられた。ルイは宮廷での拡大を恐れ、1680年彼女を処刑する。
・ところが彼女の娘が証言を始め、モンテスパン侯爵夫人が秘密の祈禱「黒ミサ」を行っていた事が発覚する。彼は特別裁判所からモンテスパン侯爵夫人を除外する事で進めさせ、1682年特別裁判所は終結する。
<18世紀>
○おしゃべりな18世紀
・18世紀は「大王の世紀」と云われるが、「新しい時代」「理性の時代」は17世紀末から始まっていた。1687年アイザック・ニュートンは『自然哲学の数学的原理』、1690年ジョン・ロックは『人間悟性論』を出版している。18世紀「哲学」は一般化/大衆化し、「啓蒙」と云われた。また本を読む中流階級が増えた。
・しかし18世紀の前半と後半は大きく異なる。前半は「理性の時代」と云えるが、後半は「スキャンダルの時代」である。前半は国王などの上流階級が、ポープ/スウィフトなどの権威ある作家に書いてもらっていたが、後半は上流階級の事が「ゴシップ」として丸ごと書かれた。メディアとしては文学だけでなく、新しいジャンル(絵画、戯画、諷刺画など)が追加された。
※「ゴシップ」はうわさ話で、「スキャンダル」は事件かな。
○南海のバブル
・1694年「イングランド銀行法」により、イングランド銀行が銀行券を発行した。1715年公債の発行を独占する。ただし他の民間銀行も銀行券を発行していた。
・1711年オックスフォード伯ハーリイが「南海会社」を設立する。1714年アン女王が没し、ジョージ1世が「ハノーヴァー朝」を開く(名誉革命)。
・1715年フランスではルイ14世が没し、幼いルイ15世が国王になり、フィリップ・ドルレアンが摂政になる。
・ジョン・ローはフィリップ・ドルレアンの信頼を得て、銀行や植民地との貿易を独占する貿易会社を設立する。国債と「ミシシッピー会社」の株を交換する事で、「ミシシッピー会社」の株が180倍に高騰した。1720年この株が暴落し、暴動が起こり、ローは破産し国外に逃げた。
・英国でも同様に、公債と「南海会社」の株と交換する案が議会に出された。「ホイッグ党」は反対するが、「トーリー党」の賛成で可決される。1720年「南海会社」の株が暴落し、上流階級が巻き込まれる。1721年ロバート・ウォルポールが首相になり、この後始末をする。彼は1742年まで首相を務め、ゴシップの標的にされた。
○地獄の火クラブ
・18世紀は商業の発達で、大衆がコーヒーハウスなどに入るようになり、そのため貴族は閉鎖的/エリート的クラブに籠るようになった。その代表が「地獄の火」クラブだったが、それにはオリジナルと第2次がある。
・18世紀にクラブが流行したのは、思想/信仰/行動/快楽など、あらゆる面で自由が許されたためである。
・フィリップ・ウォートン公爵は「ホイッグ党」であったが、パリでは「ジャコバイト」に参加するなど、政治的には無節操であった。1719年彼は「地獄の火」クラブを結成した。クラブのメンバーは貴族だが、女性もいた。三位一体などに扮する仮装パーティーを酒場で開いた。1721年「地獄の火」クラブは禁止される。
・「フリーメーソン」は、1718年モンタギュー公爵が初代グランドマスターになりグランド・ロッジを酒場で開いた。1722年ウォートン公爵もグランドマスターとして「フリーメーソン」に入会する。しかし彼は多くの借金を抱え、1725年パリに逃れ、欧州を遍歴し、1732年パリで没する。
○とてつもないウィルクス
・1760年ジョージ2世が没し、孫のジョージ3世が王位を継ぐ。ジョージ3世は「ハノーヴァー朝」で初めて国政に取り組んだ国王である。
・ジョン・ウィルクスはこの国王/政府を激しく批判し、何度も投獄される。彼は「業火クラブ」(第2次「地獄の火」クラブ)のメンバーであった。
・「業火クラブ」は1750年頃、フランシス・ダッシュウッド卿が開いた。メンバーにサンドイッチ卿/詩人チャールズ・チャーチル/カンタベリー僧正の息子などがいた。このクラブの前半は儀式、後半は乱痴気パーティーが行われた。
・ジョン・ウィルクスはこのクラブに飽き、扇動政治家になっていく。1757年下院議員に当選すると、『ノース・プリトン』を発行し、実名でビュート首相/ジョージ3世の母オーガスタなどを批判する。ビュート首相は辞任し、ジョージ・グレンヴィルが首相になる。
・1763年彼は『ノース・プリトン』で国王を批判し、グレンヴィルにより告訴されるが、大衆の支持で解放される。1764年彼は猥褻/誹謗文章で有罪になり、公権を奪われる。大衆は「ウィルクスとリバティ」運動を起こす。
・1768年彼は帰国し、ミドルセックスで当選し、公権回復を求める。再び「ウィルクスとリバティ」運動が起こる。1769年彼は人権擁護の協会を作り、大衆運動に守られ、公権を回復する。1774年彼はロンドン市長になり、大人しくなる。
・彼は革命家ではなく、「自分の好きな事をして、好きな事を言う自由」に拘った。彼は新興中流階級に支持された。新興中流階級は貴族の特権に不満を持ち、「ウィルクスとリバティ」運動を起こした。ジャーナリズムが発達し、中流階級が本/新聞/雑誌を読み、政治に発言する時代になった。
※凄い人だ。
○ヘンデルの『メサイア』、スキャンダルを救う
・1741年ダブリンでゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルがオラトリオ『メサイア』(救世主)を上演する。これは病院や収監者への慈善事業であった。スザンナ・シバがコントラルトを歌った時、「あたたの罪が許されますように!」との掛け声が掛かった。※「オラトリオ」、ピンと来ない。
・18世紀初め「クライン・コン」(姦通罪)が流行った。妻の姦通を発見すると、莫大な罰金を間男から取れた。
・スザンナ・シバはシオフィラス・シバと結婚していた。2人とも有名な俳優であった。1737年彼女がスローバーと姦通したとして裁判になった。しかし女中が「これは夫シオフィラスの指示」と証言し、罰金5千ポンドが100ポンドに下げられた。
※この頃から国王/貴族でない人もスキャンダルの主人公になる。
○『ファニー・ヒル』猥褻と検閲
・1749年『ファニー・ヒル』(原題『ある娼婦の回想』)が出版される。当書はポルノグラフィの原典である。しかし当書が猥褻として裁判になったのは、1964年である。ジョン・ウィルクスの『女性論』は当初から厳しく取り締まられた。その違いは『女性論』は国王などを批判し、政治を妨害する可能性があるが、当書は単に猥褻なだけで、特定の誰かを批判するものではなかった。
・ジョン・クレランドの父は、スペクテーター・クラブのメンバーで放蕩者であった。クレランドも博打や女に明け暮れ、借金で投獄された。その返済のため当書を書いた。
・英国では、18世紀は猥褻に対し曖昧であったが、1787年猥褻な出版を禁止する条例が出され、1857年「風俗壊乱出版物取締法」が制定される。
○ジョージ3世のスキャンダル一家
・ジョージ3世(位1760~1820年)は真面目な人で、好きな人がいたが国の事を考え、メックレンブルク・シュトゥレリッツ公家シャーロットと結婚する。彼女も真面目な人であった。しかし彼の兄弟は恐ろしく不真面目であった。
・弟エドワードは不健康な生活に明け暮れ、急死した。次の弟ウィリアムは未亡人と秘密結婚した。末弟ヘンリーはグロヴナー卿の夫人と親しくなった。これはグロヴナー卿の罠だったのか、「クライン・コン」(姦通罪)で裁判になり、国王が賠償金1万ポンドを払った。次に材木商の妻を誘惑したが、王室の御用を与える事で裁判を逃れた。その後国王の許可なく、別の未亡人と結婚した。
・1772年国王はこれらに懲りたのか、王室の結婚を規制する「王室結婚令」を発令した。しかし彼らは逆に結婚を繰り返した。大衆はこの法律を「乱交と不倫を勧める法律」と皮肉った。
・姉オーガスタはブランズウィック公と結婚するが、彼には愛人がいて、ほとんど別居状態であった。妹キャロラインはデンマーク王と結婚するが、彼はホモセクシュアルだった。彼女と首相の情事が発見され、首相は処刑され、彼女は幽閉された。
・国王は兄弟のスキャンダルに悩まされるが、子供達が成長すると子供達のスキャンダルにも悩まされ、精神を病んでしまう。
※生活に不安がない人達はこうなるのかな。
○美女ありき エマ・ハミルトン
・1765年頃エマ・ハミルトンは生まれる。彼女は見事な肉体美を持っていた。国会議員チャールズ・グレンヴィルの愛人になり、教養ある貴婦人になった。彼は彼女を叔父で駐ナポリ英国大使のウィリアム・ハミルトンに譲った。ハミルトンは彼女を妻にした。
・1798年ネルソン提督は「ナイル作戦」で英雄になる。しかしネルソン提督は腕を切断したため、ナポリに戻り、エマが看護する。1800年ナポレオンがナポリを占領し、ネルソン提督とハミルトン夫妻は英国に帰国する。エマはネルソン提督の子を産むが、1805年ネルソン提督は「トラファルガー海戦」で戦死する。
・エマは夫の指示で名画のポーズを取った。これがナポリで「アティチュード」(姿勢)として評判になった。当時は美とエロスの区別はなかった。エマはナポリ王妃とも関係があったとされる。
○ルイ15世の時代
・1715年ルイ14世が没し、曽孫のルイ15世(位1715~74年)が5歳で国王を継ぐ。フランスの18世紀はルイ15世の時代と云える。1723年までオルレアン公フィリップが摂政を務めた。次に国王の家庭教師であったエルキュル・ド・フルーリが宰相(1726~43年)を務めた。1725年国王はマリ=レクザンスカと結婚し、彼女は10人の子供を産んだ。
・1745年決定的な女性が表れる。ジャン=アントワネット・ポワソン(ポンパドゥール夫人)である。彼女は1764年亡くなるまで、国王の側近であった。彼女は政府の大臣の人事を支配した。彼女はヴォルテール/ルソーなどの文人を後援し、「ロココ文化」を咲かせた。しかしこの治政は不安定で、「フランス革命」を準備させた。
・1774年ルイ15世は没し、孫のルイ16世が国王を継ぐ。
○アベ・プレヴォの冒険
・18世紀後半「アヴァンチュール」(冒険)が注目され、多くの「アヴァンチュリエ」(冒険家、山師、詐欺師)が出現した。シュテファン・ツワイクは7人の「アヴァンチュリエ」(ジョン・ロー、エオン、コルシカ王ヌーオフ、山師カリオロス、赤帽党トレンク、魔術師サンジェルマン)を挙げている。
・アベ(神父)・プレヴォも「アヴァンチュリエ」の一人である。1697年彼は北フランスに生まれ、僧院に入ったり飛び出したりを続けた。フランスにいられなくなり、オランダに行き、2人の女と結婚した。国王の黒幕とされるコンティ公の尽力でフランスに戻るが、1728年逮捕命令を受け、英国/オランダに亡命し、1743年パリに戻る。旺盛な著作活動を行い、修道院長になり、1763年没する。
・1731年長編小説『貴人の手記』全7冊を完成させるが、その7冊目が娼婦への愛に溺れる小説『マノン・レスコー』で、これだけが出版された。この時代、娼婦に寛大だったとされるが、そうだったのだろうか。
○エオンは男か女か
・ルイ15世はポンパドゥール夫人に閨房政治を行わせていたが、その内部に男性だけの機関「王の秘密」を持っていた。彼は少年時代、ホモセクシュアルに浸っていたとされる。この「王の秘密」の長は、ルイ=フランソワ・ド・コンティ公であった。
・「ポーランド王位継承問題」が起こると、コンティ公は立候補するが、それにはロシア女帝エリザヴェータの同意が必要であった。そのためエオン(シュヴァリエ・デオン)を女装させ、ロシア宮廷に侵入させる。1755年彼は女帝からルイ15世への返書を持って(一旦?)帰国する。彼は1760年帰国するまで情報を送り続けた。コンティ公はポンパドゥール夫人と対立し、「王の秘密」の長はテルシエに代わる。
・1756年プロイセンとオーストリアは「7年戦争」を起こす。1763年「パリ条約」により終戦するが、ルイ15世は不満であった。彼はブロユ伯爵/テルシエ/エオンなどに英国上陸を計画させる。1762年エオンは駐英大使の秘書になり、英国の機密情報を収集した。フランス政府はルイ15世の秘密行動に反対し、エオンに帰国を命じるが、彼はフランスの機密文書を握り、帰国を拒んだ。しかしフランス政府は駐英大使に「王の秘密」のデュランを任命し、機密文書を取り戻した。エオンは体制に楯突いたとして、ロンドンで寵児になった。
・ポンパドゥール夫人が没すると、ルイ15世はデュ・バリ夫人を愛妾にした。するとロンドンに亡命していたモランドなる男が、デュ・バリ夫人の性生活を暴露する『ある娼婦の秘めたる手記』を出版すると脅してきた。モランドを買収し。出版を止めさせた。
・1774年ルイ15世が没すると「王の秘密」は廃止になる。ロンドンに亡命していたエオンは機密文書を握り、退職金を要求してきた。これらの要求も認められ、女装するなら帰国も許された。1777年彼は女装し帰国するが、1785年ロンドンに戻り、1810年まで生きた。
○魔術師サンジェルマン伯爵
・サンジェルマン伯爵の出自は明確でない。1740年「オーストリア継承戦争」(~1748年)が始まると、化学/医学の知識のある彼はフランス軍の指揮を執るベル=イール元帥にセラピストとして雇われる。
・1757年英国は「プラッシーの戦い」で勝利し、英国のインド支配が確立するが、彼はインドでのダイヤモンド収集を手伝った。
・同年フランスに戻るとポンパドゥール夫人に気に入られ、ダイヤモンドの傷を直した事でルイ15世にも信用され、「王の秘密」に雇われた。
○カサノヴァ回想録
・ジャコモ・カサノヴァはヴェネチアに生まれる。彼は多才であった。1753年フランス大使フランソワ・ド・ベルニスと知り合い、尼僧と共に乱交する。
・1757年ポンパドゥール夫人の腹心であったベルニスは、外務大臣になる。ベルニスは彼を秘密情報員として高額で雇い、対英国の秘密作戦のためオランダに派遣し、フランス国債を転売させた。
・ルイ15世は奇妙なスパイを集め、フランス政府とは別の秘密行動をさせたが、フランスのためにならなかった。
○マリー・アントワネットの首飾り事件
・1785年宝石商「ベーマー」が、ロアン枢機卿を通して既に納めた首飾りの代金を、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットに請求してきた。それは2800カラットのダイヤを散りばめた首飾りであった。王妃が調査し、事件が明らかになった。
・ロアン枢機卿はウィーン大使になるが、そこでの女遊びでマリア・テレジア女帝/王妃マリー・アントワネットに嫌われた。フランスに戻った彼は、王妃との関係を修復しようと、ラ・モット伯爵夫人を仲立ちに、王妃に手紙を書き始める。王妃からの手紙は、次第に恋文になった。実は王妃からの手紙は、ラ・モット伯爵夫人の偽造であった。
・ラ・モット伯爵夫人は彼に、王妃に首飾りを献上する事を提案する。彼は宝石商「ベーマー」から首飾りを受け取り、それを彼女に託した。彼女はそれを解体し売り払った。
・事件が解明され、ラ・モット伯爵夫人は処罰された。ロアン枢機卿は無罪になったが、笑いものになった。王妃は無関係だが、中傷された。
○ミラボー 革命の伊達男
・1789年「フランス革命」は国王と貴族/僧侶の対立で始まった。その対立に「第三身分」(市民)が割り込んだが、ミラボー伯オノレ・ガブリエル・リケティは伯爵だが、「第三身分」に加わった。
・1749年彼はミラボー伯爵の息子に生まれる。彼は放蕩を繰り返すので、父は何度も息子を牢獄に閉じ込めた。この死闘は1789年「フランス革命」まで続いた。
・彼は賭博/恋愛事件/脱走(?)により、18歳の時に投獄される。軍隊に入り活躍し、1771年大尉になりパリに戻る。浪費で借金を作り、1774年投獄される。翌年地元の人妻を誘惑し駆け落ちする。オランダに逃れ、そこでフリーメーソンの思想に触れ、旧体制を批判するパンフレットを出版する。1777~80年父により投獄される。解放されフランス政府批判を続けると、逆にフランス政府に雇われ、ベルリンの秘密外交官になった。1789年「全国三部会」が召集された時には、彼は「第三身分」の指導者になっていた。
○サド侯爵 性の革命家
・サド侯爵の青春時代はミラボーと類似している。1740年彼はプロヴァンスの伯爵の息子としてパリで生まれる。「7年戦争」に従軍し、1763年パリに戻るが放蕩生活が始まり、投獄と放蕩を繰り返す。1767年父が亡くなると、放蕩は益々酷くなった。
・1768年彼は女性を鞭打ち、投獄される。その後プロヴァンスのラ・コスト城に謹慎する。1772年女性に興奮剤「斑猫」を飲ませ肛門性交する「斑猫事件」を起こし、裁判になる。彼はラ・コスト城に隠れるが、「少女のスキャンダル」を起こす。。1777年逮捕/投獄される。この投獄生活で『ソドムの120日』『美徳の不幸』などを書いている。
・1790年解放されるが、反革命的とされ投獄される。その後精神病院に入れられ、1814年没する。
※18世紀は過激だが、ユーモアがある。
<19世紀>
○混乱からリフォームへ
・18世紀末、2つの革命(産業革命、フランス革命)があった。19世紀は3つに区分できる。英国では、1837年ヴィクトリア女王の時代が始まり、1867年新しいリフォーム法(?)が出される。フランスでは、1830年「7月革命」でルイ・フィリップによる「7月王政」が始まる。その後ナポレオン3世による「第2帝政」になり。1870年「普仏戦争」で「第3共和政」になる。
・このように19世紀は、18世紀の混乱を引き継いだ第1期、社会的改良改革を行うが妥協的な第2期、改革は普及するが矛盾が露呈する第3期に区分できる。
・また19世紀は「小説」が確立した時期で、スタンダール/バルザック/ユーゴー/デュマが登場する。スタンダールの『赤と黒』は、「クライン・コン」(姦通罪)の『法廷新報』から生まれた。『赤と黒』は地位/財産/権力/女性の征服を目指す若者を描いた。それは正にスキャンダルで、「小説」とスキャンダルは深く結び付いている。
○快楽王子ジョージ4世
・ジョージ3世はハノーバー家では珍しく真面目であった。ジョージ3世が没した時、皇太子ジョージ4世はすでに58歳だった。彼は乱交と放蕩に明け暮れたため、ジャーナリズムの餌食であった。
・1762年彼はジョージ3世の長男に生まれる。17歳になると女優を愛人にした。恋文を公表すると脅され、一時金5千ポンドと年金500ポンドを払った。
・次にハルデンブルク伯爵夫人との関係が『モーニング・ヘラルド』に報じられた。国王が彼を叱責すると、反国王派に加わった。『ザ・タイムズ』には「皇太子は政治より女と酒が好きだ」と書かれた。
・1784年彼はマリア・フィッハーバート夫人に魅せられ、秘密結婚した。その後も女性遍歴を続けるが、何時も彼女の所に戻った。女優に1万ポンドの宝石を与えるなどの浪費で彼は50万ポンドの借金を負い、国王と議会に付けを回した。
・1795年キャロラインと結婚し、唯一の子供(娘)を儲けるが、それ以降は遠ざけた。その後もリストに愛人が追加された。
・1820年ジョージ3世が没し、彼が国王を継ぐ。彼の愚行は女/酒から芸術に移った。ロイヤル・アカデミーや美術館を援助し、ブライトンにパヴィリオンを建設した。
○アーロン・バーの決闘
・19世紀になると米国がスキャンダルに加わった。1783年米国は「ヴェルサイユ条約」で独立を認められる。1800年大統領選で共和党ジェファーソンが勝利し、第3代大統領になる。米国はジェファーソンの時に基礎が固まった。1803年ナポレオンより150万ポンドでミシシッピ川以西のルイジアナを買収する。
※正しくは民主共和党だが、本書では共和党としている。
・アーロン・バーは共和党で、ジェファーソン大統領の時、副大統領(1801~05年)を務める。1804年彼は政敵である連邦党アレクサンダー・ハミルトンと決闘し、射殺する。これにより政界を追放される。
・当時は中央集権の「連邦」か、各州のゆるやかな「連合」かが問題であった。ジェファーソンは当初は「連合」主義であったが、大統領になると「連邦」に傾いた。彼はこれを裏切りと見て、ジェファーソンと対立した。
・彼はルイジアナ/フロリダ/メキシコなどからなる独立国を構想し、西部を巡った。彼はこの構想を人に聞かせた。1807年「反逆罪」で逮捕されるが、裁判で無罪になる。
○ナポレオンの2人の妃
・ナポレオンにはジョセフィーヌとマリー・ルイーズ、2人の妃がいた。2人は生まれも育ちも全く異なったが、共通点があった。それは2人とも多くの愛人を持った点である。
・ジョセフィーヌは西インド諸島マルチニク島で生まれ育った。叔母によりパリに呼ばれた。結婚して2人の子供を生むが、夫はロベスピエールの恐怖政治で処刑される。その後ポール・バラス総裁の愛人になり、そのバラス邸でナポレオンと出会う。
・1796年ナポレオンの求愛で結婚する。ナポレオンはイタリア遠征に彼女を呼ぶが、彼女は別の男と戯れた。ナポレオンがエジプト遠征から戻ると、別の男が入り浸っていた。
・1804年ナポレオンは皇帝になり、彼女は皇妃になった。彼女はスキャンダルのネタになった。1809年ナポレオンは後継ぎを生まなかった彼女と離婚し、翌年オーストリア皇女マリー・ルイーズと結婚する。1811年ルイーズはナポレオン2世を生む。
・1814年ナポレオンは退位し、エルバ島に流される。ルイーズはエルバ島に呼ばれるが、さっさとウィーンに帰国する。その後彼女はパルマ侯爵夫人になり、監視役であったネイぺルクと結婚する。
※2人とも自分の気持ちに素直なのか。
○キャロライン王妃
・1795年ジョージ4世と結婚したキャロライン王妃は、1814~20年欧州旅行に出る。国王(※正式には摂政)は何とか彼女と離婚したいため、彼女にスパイを付け、イタリア人従者ペルガミとの「不義密通」で裁判を起こした。
・1820年ジョージ3世が没したため、彼が国王を継ぐ。彼女は旅行から帰国する。裁判が始まるが民衆は彼女を支持した。裁判で彼女は有罪になるが、首相は結果を否定せざるを得なかった。1821年戴冠式が行われるが、彼女は出席を拒まれ、その後衰弱死する。※同情する。
○バイロン卿のスキャンダル遍歴
・1788年バイロンはロンドンに生まれる。1811年地中海を旅し、帰国する。議会での自由主義的な発言、長詩『チャイルド・ハロルドの遍歴』で時代の寵児になる。彼は女達に群がられた。特にメルボーン伯爵の次男と結婚していたキャロラインは熱烈であった。
・彼は異母姉オーガスタ・リー夫人にのめり込んだ。しかしメルボーン伯爵の姪アナベラ・ミルバンクと結婚するが、1年で別居した。彼はスキャンダルになったため、大陸に逃れた。彼はシェリー夫妻と夫人の妹クレア・クレルモンと旅をした。クレルモンに娘アレグラを生ませた。
・『チャイルド・ハロルドの遍歴』『ドン・ジュアン』など、彼は自我の絶対的自由を求めて遍歴を繰り広げた。彼はスキャンダルの限界に挑戦する冒険家であった。
○洋梨とルイ・フィリップ王-ドーミエ風刺画事件
・1830年「7月革命」により「共和政」になると思われたが、オルレアン公ルイ・フィリップによる「ブルジョア的王政」になった。
・1808年マルセイユで生まれたオノレ・ドーミエは、1814年パリで版画工房で奉公を始めた。1830年パリで暴動が起こる。シャルル・フィリポンは彼に政治風刺画を描かせ、それを風刺新聞『カリカチュール』に載せた。彼はルイ・フィリップを洋梨に見立てた。彼は禁固/罰金を求刑されるが、フィリポンにより無罪になった。
・彼は国王を風刺する「ガルガンチュア」を発表した(※ウィキペディアに載ってる)。この絵で禁固/罰金になる。禁固中に国王/政府を風刺する絵を『カリカチュール』に載せ、1832年刑務所に入れられる。
・1833年解放後も政治風刺画を描き続けるが、反動化により、1835年「9月の法」により政治風刺画が禁止される。これにより彼は風俗風刺に移る。
・1835年以降の彼の作品は評価され、版画のバルザックと云われが、その前の1830~35年に描いた「洋梨」は大変面白い。
○ジョルジュ・サンドの男装
・ジョルジュ・サンドの本名はオーロール・デュパンで、ジョルジュ・サンドは男名のペンネームである。1831年彼女はパリに出て、王政を批判する記事を新聞『フィガロ』に書き始める。逮捕されるのを期待したが、何もなかった。
・彼女は男装の代名詞であるが、ほとんど男装はしていない。彼女は「経済的/機能的な理由から男装した」と言っている。パリに出た頃、経済的に苦しかったので、男装したそうだ。またパリを歩き回るのに機能的で、天気にも影響されないので、本人は気に入っていた。その後も時々男装して、回りを驚かせた。
※相当有名な女流作家みたい。
○ヴィクトリア女王のスキャンダル嫌い
・1837年ヴィクトリアが女王になる。ヴィクトリア時代は3期に分けられる。第1期は夫アルバートの死去まで(~1861年)、第2期は引き籠もって「ウィンザーの寡婦」になった期間(~1876年)、第3期はそれ以降(~1901年)である。
・ヴィクトリア時代はスキャンダルが御法度になり、貴族は大慌てになる。首相はメルバーンで、その夫人はバイロンを追っかけ回した。女王は宮廷でのディナーで猥褻な話を禁じた。また愛人の出席を禁止した。首相になったベンジャミン・ディズレーリは離婚問題を隠した。
・それ以上に女性に厳しく、離婚した女性には会わなかった。不倫の噂だけでも謁見を許さなかった。
・夫アルバートの死去で引き籠もっていたが、ジョン・ブラウンがひっくり返った馬車から女王を救出し、女王は彼を寵愛するようになる。1866年頃2人は週刊誌の風刺画になった。しかし2人の関係については未だ議論がある。
・ヴィクトリア時代は表面的には道徳的で悪徳は隠された。ただしスキャンダルになると徹底的に弾劾された。
○エロスのカルト集団「オナイダ」
・19世紀の最初の30年間、米国ではユートピアの建設が試みられ、「第2次覚醒」の時代であった。この宗教的目覚めは、奴隷制廃止/女性解放/貧民救済/禁酒運動/売春婦更生などと結びついていた。
・1811年ジョン・ハンフリー・ノイズはヴァーモント州に生まれる。彼は完全主義で、これに魅せられたハリエット・ホルトンと結婚し、彼女の財産で教団を作った。知り合いと財産を共有し、雑貨店や農場を運営した。しかし多重結婚が騒ぎになり、1848年ニューヨーク州オナイダに移る。
・オナイダに移ると、続々と信者が集まった。農場を運営し、靴/衣類/家具などを製造販売した。これは利益を上げた。性に関しては多重結婚であったが、男性の射精を抑制し、出産をコントロールした。さらに「優生学」が適用された。
・1870年代まで「オナイダ」は順調に運営されていたが、ノイズが息子を後継者にしたため分裂が始まる。1879年ノイズはカナダに逃れた。『ニューヨーク・タイムズ』などがスキャンダルを報じた。この性的共同体は分裂・解散したが、「オナイダ」は株式会社として発展し、1970年代には1億ドルを売り上げる大企業になった。
※不思議な話があるもんだ。
○ナポレオン3世のノンストップ・カーニヴァル
・1848年「2月革命」によりルイ・フィリップは退位し、「第3共和政」になる。この混乱を経て、1852年ルイ・ナポレオンは皇帝(ナポレオン3世)になる。
・彼が皇帝になった時、愛人ミス・ハワードを連れていたが、独身であった。テバ伯爵の娘ウージェニー・デ・モンティホに夢中になり、皇妃にする。
・「第2帝政」は、光と影が対照的な時代であった。皇妃の宮廷ファッションはパリ・モードの始まりになり、オスマンはパリを大改造した。一方で出版は厳しく統制され、反対派は逮捕された。
・フランスは「クリミア戦争」(1853~56年)に続き、「イタリア独立戦争」に巻き込まれる。小国に分裂しオーストリアに支配されていたイタリアは、かつて「炭焼党」に参加していた皇帝に期待した。「サルデーニャ王国」の宰相カヴァールは、カスティリョーネ伯爵夫人をパリに送り、皇帝に色仕掛けをした。ところが皇帝が伯爵夫人の邸から帰る時、暴漢に襲われ、色仕掛けは失敗する。1858年にもマッツィーニ派のフェリーチ・オルシニによる皇帝暗殺未遂事件が起こる。この事件により皇帝は「イタリア遠征」を決意する。
・皇帝は公務を皇妃に任せ、女漁りに精を出す。プロセインはビスマルク宰相の鉄腕で強大になり、フランスは「普仏戦争」(1870~01年)で敗れ、皇帝は退位する。
※マルクスはナポレオン3世を「ならず者」としている。
○マネのヌード・スキャンダル
・ナポレオン3世の「第2帝政」は「印象派」と関係がある。1863年「サロン」の展覧会で多くの作品が落選し、皇帝はそれを救済するため「落選者展」を開いた。マネはそこに『草上の昼食』を出品し、スキャンダルになった。1865年「サロン」にマネは『オランピア』を出品し、轟々たる非難を受ける。両作品は「近代美術」の記念碑的作品である。
・この時代に作品が商品化され、作品の批評家が表れた。「印象派」は見え方を重視するグループである。「印象派」の登場はスキャンダルであった。『草上の昼食』は森の中で、裸の女性が2人の男性と座っている絵である。批評家はこれをいかがわしいと批判した。時代を変革する時は、スキャンダルとして登場するのである。
○アメリカン”ボス”トウィード
・米国で「ボス」と云えば、ウィリアム・マーシー・トウィードである。彼は1823年ニューヨークに生まれ、家具/雑貨の販売をしながら、政治運動にも参加していた。1852年市会議員に当選する。民主党はニューヨークに「タマニー・ホール」と云うクラブを結成していた。「タマニー」はインディアンの英雄の名前である。
・1821年財産による投票制限が撤廃され、民主党は多数派になるが、政治腐敗が始まっていた。彼は1857年から13年間、ニューヨーク州のスーパーヴァイザーになり、その象徴であった。
・1870年彼は『ハーパース・ウィークリー』『ニューヨーク・タイムズ』などで批判された。サミュエル・ティルデンが調査委員会を立ち上げ、彼は裁判で有罪になった。その後民事訴訟で投獄され、1878年監獄で没した。これは政治的陰謀との説がある。
・1876年大統領選で彼を追放した民主党ティルデンは勝利するが、20票が無効になり共和党ラザフォード・ヘイズが逆転勝利する。※この話は読んだ事がある。裏取引があったらしい。
○パナマ運河事件
・1879年フェルディナン・ド・レセップスは「パナマ運河会社」を設立し、運河建設に着手する。彼は「スエズ運河」を作った国民的英雄であった。資金難になり、「富くじ」の発行権を得るため、政治家に厖大の献金をした。しかし1889年「パナマ運河会社」は破産する。
・破産によりフォン・レーナク男爵が広報費として900万フランを受け取り、政治家に賄賂を置くていた事が発覚した。裁判になると、レーナク男爵は急死した。ド・レセップスは有罪になり、彼は名声を失い、国民はショックを受けた。政治家への波及はなかった。
○”切り裂きジャック”はスキャンダルか
・1888年ロンドンのホワイトチャペル付近で多くの娼婦が殺され、市民はパニックになった。この事件は今でも解明されていない。
・1889年「クリーヴランド街の醜聞」がスキャンダルになった。男娼宿にアーサー・サマーセット卿/ユーストン伯爵/プリンス・アルバート・ヴィクター(通称エディ)などが出入りしていた(※エディはヴィクトリア女王の孫で、父に次ぐ2番目の王位継承者)。
・1970年代になって、”切り裂きジャック”は、フリーメーソンが「クリーヴランド街の醜聞」を隠すため工作であった、との説が出た。
○オスカー・ワイルドの世紀末
・1854年オスカー・ワイルドはダブリンに生まれる。彼は詩/戯曲を書き、有名になりたい野心が強かった。また唯美主義で、長髪/ビロードの上衣など派手な衣装を纏った。これらは男装のジョルジュ・サンドに似ている。
・興行師リチャード・ドイリー・カートは彼をモデルにした『ペーシェンス』を大ヒットさせた。米国での公演に彼を連れて行き、彼に講演させた。彼は米国でも反響を得た。
・彼は『ドリアン・グレイの肖像』『ウィンダミア夫人の扇』『サロメ』を発表した。『サロメ』は猥褻として、上演中止になった。
・彼は美青年アルフレッド・ダグラスとの関係を見せびらかすようになった。しかしダグラスの父に訴えられ、1895年監獄に入れられる。彼はスキャンダルにより有名になったが、スキャンダルにより葬られた。
○ドレフュス事件 軍事スキャンダル
・1894年フランス参謀本部が仏軍の大砲などの秘密情報を記した文書をドイツ大使館から入手する。砲兵出身でユダヤ人のドレフュス大尉が逮捕された。情報部のアンリ少佐が調査し、彼は軍法会議で有罪になった。
・この結果に疑問を持った参謀本部のピカール中佐が再調査し、エステラジー少佐が浮かんだ。しかし軍法会議でエステラジー少佐は無罪になった。
・1898年新聞『オーロール』にエミール・ゾラが「われ弾劾す」を書き、ドレフュスの無罪を主張した。これにより世論の場で、「知識人」と反ドレフュス派が論議するようになった。
・反ドレフュス派が再調査すると、アンリ少佐の偽造が発覚する。アンリ少佐は自殺し、エステラジー少佐は逃亡した。
・ドレフュスの軍法会議が再審されたが、再び有罪になる。外国からも非難が出て、ドレフュスは有罪だが、釈放された。
・この事件では世論の場で「知識人」が特別な役割をなし、20世紀の先駆けになる事件であった。
<1900年代>
○20世紀スキャンダル特急
・スキャンダルのテーマは性/お金/政治であるが、20世紀に入ると多元化/スケールアップ/スピードアップした。政治がオープン化した事でジャーナリズムが発達した。メディアは新聞/雑誌に映画/ラジオ/テレビが加わった。スキャンダルの主人公は欧州の王侯に米国大統領が加わり、映画/ファッション/音楽/スポーツなどの有名人も加わった。
○シカゴの悪徳の噂
・1900年エヴァーリー姉妹が米国第2の都市シカゴに、高級売春宿「エヴァーリー・ハウス」をオープンさせた。ゴールド/シルヴァー/コッパー/ムーリッシュ(イスラム)/レッド/グリーン/ブルー/オリエンタル/チャイニーズ/ジャパニーズ/エジプシャンの各部屋は違った装飾であった。他にダンスホール/図書館/画廊などがあった。娼婦は文学的教養を学ばされた。世界中から名士/王族貴族/大金持が訪れた。
・1905年エヴァーリー・ハウスがスキャンダルに巻き込まれる。百貨店王マーシャル・フィールドの御曹子が「エヴァーリー・ハウス」で何者かに殺害される。しかしこの事件はウヤムヤにされた。
・1910年女性の人権を求める運動が盛んになり、「エヴァーリー・ハウス」は閉鎖された。エヴァーリー姉妹は100万ドルの利益を持って、ニューヨークで優雅に暮らした。
○ニューヨーク社交界の殺人
・1906年マンハッタンのマディソン・スクエア・ガーデンの最上階でのディナー・シアターで、花形建築家スタンフォード・ホワイトが射殺された。犯人は新興成金の息子ハリー・ケンドール・ソーであった。
・ホワイトは万能のデザイナーでプレイボーイで、16歳のネスビットを愛人としていた。
・一方ハリーは、鉄道株で財産をなした父ウィリアムの道楽息子で、1901年ニューヨークに出て来て、遊び回っていた。彼は「コーラス・ガール」をしていたネスビットに迫り、結婚する。しかし彼女がホワイトとの情事を告白すると、彼はホワイトに嫉妬し、射殺した。
・また別の見方もある。当時社交界ではレヴューに出る「コーラス・ガール」をパーティに呼ぶのが流行っていた。ハリーは彼女達を怒らせ人気がなく、彼女達はハリーのパーティをキャンセルして、ホワイトのパーティに集まった。そのためハリーはホワイトに怨みを持っていた。これは「オールド・マネー」と「ニュー・マネー」(新興成金)の抗争でもあった。※レヴューって、これか。
・1回目の裁判では、ハリーの弁護士が「ホワイトは少女を堕落させる色魔」と主張し、評決が割れる。2回目の裁判では、ハリーが錯乱し、責任能力がないとして無罪になり、精神病院に入れられる。
○シオドア・ルーズヴェルトの時代
・シオドア・ルーズヴェルトは1901~09年、米国大統領を務める。彼は大企業の独占を規制し、弱い者を守り、格差をなくそうとしたため、人気の大統領である。
・1858年彼はニューヨークに生まれる。1889年ニューヨーク州知事になり、1900年マッキンリー大統領の副大統領に選ばれるが、翌年大統領が暗殺され、大統領になる。
・大統領1期目では、「トラスト」に対し訴訟を起こしたり、ストライキへの介入を行った。外交では「モンロー主義」から転換し、フィリピン/キューバ/アラスカ/ドミニカ/ベネズエラなどに介入している。
・大統領2期目では、「ヘップバーン法」「雇用主責任法」を成立させ、自然環境保護に取り組んだ。外交では「日露戦争」の終戦で「ノーベル平和賞」を受賞している。
・1904年大統領選は商務省長官ジョージ・ブルース・コートリューが指揮し、政党は多額の企業献金を受けた。これが企業献金の始まりで、「コートリュー主義」と呼ばれるようになる。企業献金はスキャンダルになるが、大統領は返金し、企業を厳しく規制した。しかし返金したのは一部で、共和党議員には影響を及ぼした。
○マックレーカー(醜聞摘発者)
・シオドア・ルーズヴェルトは、選挙スキャンダルをほじくり出すジャーナリズムを「マックレーカー」(肥えを掻き回す熊手)と名付けた。
・この頃資本主義の行き過ぎを暴露する新聞/雑誌が激増した。これらはスラム街/人種差別/児童就労/高額価格設定などを掲載し、世論が沸き立ち、「ヘップバーン法」「純良食品・薬剤法」を成立させた。スタンダード石油トラストの解体もこれに含まれる。
○『シスター・キャリー』のトラブル
・この頃社会派のリアリズム小説家が出て来る。シオドア・ドライサーもその一人である。1900年彼は長編『シスター・キャリー』を書いた。当時当書は不道徳とされ、出版でゴタゴタする。
・当書は主人公キャリーがニューヨークで女優として成功する話だが、2人の男性が彼女に誘惑され、家族を捨て没落する。当時キャリーは不道徳で、罰せられる立場であった。彼はダブルディ社と出版契約するが、千部しか出版されなかった。
・1925年彼は『アメリカの悲劇』を書いている。当書は実話をモデルにしている。工場長の甥(主人公)が可愛い娘と付き合っていて妊娠する。しかし主人公には上流階級の娘との結婚話があり、彼女を湖で溺死させ、主人公が死刑になる話である。彼は主人公を同情的に書いている。彼は米国の欲望社会を批判したかったのか。
○エドワード朝の女の戦い
・1901年ヴィクトリア女王が没し、エドワード7世が国王を継ぐ。大衆は堅苦しさから解放され、自由/快楽的になる。特に女性がそうだった。
・1903年フェミニストの「女性社会政治連盟」(WSPU)が結成され、多くの行動的女性が集まった。会長はパンクハース夫人であった。
・1905年議会で「婦人参政権法」が討議され、WSPUは抗議デモを行った。パンクハース夫人達は刑務所に入れられる。
・その後も女性達は暴れ回り、ヒステリー状態であった。この頃女性がショーウインドーなどの窓ガラスを壊すのが流行った。※映画で見たような。
・1918年「婦人参政権」が認められ、女性達の運動は鎮静化した。
○裸足のイサドラ
・1877年イサドラ・ダンカンはサンフランシスコで生まれる。踊りが好きな彼女は、海岸で裸足で踊っていた。1895年彼女はニューヨークの劇場で働くが認められず、良い仕事はなかった。
・1899年彼女はロンドンに向かうが、丁度英国はフェミニズムの時代で、裸足の踊りは評価された。彼女は欧州を巡業する。
・1904年演出家ゴードン・クレイグと恋に落ちる。ベルリンにダンス・スクールを開くが、裸足の踊りと不倫で経営は難しかった。
・1909年大富豪パリス・シンガーが彼女のパトロンになった。
○殺人鬼と無線通信-クリッペン事件
・大西洋横断汽船モントローズ号はアントワープを出港し、モントリオールに着岸した。そこでホーリー・ハーヴェイ・クリッペンとエセル・ル・ネーヴが逮捕された。
・1862年クリッペンはミシガン州で生まれ、「ホメオパシー」を学んだ。「ホメオパシー」(同種療法)は「アロパシー」(異種療法)の反対で、自然療法/民間療法/東洋医学に近い。一方「アロパシー」は近代医学に近い。※こんな名前があるのか。
・彼は歌手コーラ・ターナーと知り合い、結婚する。1883年クリッペンは英国に渡り、妻は劇場で事務員/舞台員として働いた。彼はあやしいドラッグを扱う医院を開いた。彼は雇ったエセル・ル・ネーヴを愛するようになった。
・1910年コーラがいなくなり、クリッペン/エセルもいなくなった。彼の家の床下から、コーラの遺体が発見された。
・モントローズ号の船長が「無線通信」し、2人はモントリオールの港で逮捕された。裁判でクリッペンはエセルをかばい、彼は死刑になるが、彼女は無罪になる。この事件は「無線通信」と云う、新しい世界との出会いでもあった。
<1910年代>
○タイタニックの陰謀
・1912年処女航海でタイタニック号が氷山に衝突し沈んだ。1503名の命が失われた。これは20世紀の運命を象徴する事件であった。
・北大西洋航路は、「キュナード汽船」がリードし、次に「ホワイト・スター汽船」が続いていた。「キュナード汽船」の船はルシタニアなど、語尾に「イア」が付き、「ホワイト・スター汽船」の船はタイタニック/オリンピックなど語尾に「イック」が付いた。
・タイタニックと同型船のオリンピックは度々事故を起こし、タイタニックが進水する時、同じ造船所で修理していた。
・タイタニックはニューヨークに向け出航し、ニューファンドランド沖で沈む。船長は度々事故を起こしたジョン・スミスであった。
・「ホワイト・スター汽船」はモーガン財閥の会社で、J・ピアポント・モーガンはタイタニックに乗る予定であったが、キャンセルしている。タイタニックには陰謀説があり、「ホワイト・スター汽船は経済的危機にあり、タイタニックを沈めて保険金を搾取した」「沈んだのはタイタニックではなくオリンピックである」などがある。
○人類の起源の偽造 ピルトダウン人
・1912年英国のピルトダウンで、アマチュアの考古学者が古い頭蓋骨を発見した。当時ネアンデルタール人/ジャワ原人が発見されていたが、これらの脳の大きさはサルに近かった。しかしピルトダウン人の脳の大きさは現代人に近かった。A・S・ウッドワード博士/アーサー・キース教授はピルトダウン人を現代人の直系の祖先と強く主張した。
・1940年頃から猿人の化石がアフリカで次々と発見された。1953年オックスフォード大学ジョセフ・ワイナーがピルトダウン人が偽造である事を暴露する。
・この偽造は誰が行ったのか。アマチュア考古学者/ウッドワード博士/アーサー・キース教授、さらに『シャーロック・ホームズの冒険』の作者でピルトダウン近くに住むアーサー・コナン・ドイルが疑われた。これは学会のスキャンダルである。
○『春の祭典』戦争
・1913年パリのシャンゼリゼ劇場で『春の祭典』が上演された。ディアギレフの「ロシア・バレエ団」/作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキー/画家ニコラス・レーリヒによる製作で、原始的なロシアの生命力を表現していた。しかし古典バレエに慣れ親しんでいた観客は怒り、騒ぎ始めた。
・スキャンダルによって既製の芸術がひっくり返されるモダン・アートの時代が始まった。
○サンガー夫人-避妊は罪?
・1879年マーガレット・サンガーはニューヨークに生まれる。病弱の母が次々と出産し、消耗していくのを見ていた。
・避妊の方法としては膣外射精が古くからあり、1837年チャールズ・グッドイヤーによりコンドームが開発された。1873年「コムストック法」で避妊具が猥褻とされるまでは、避妊具は売られていた。19世紀後半米国への移民急増により、人口問題が注目され始めた。
・1902年彼女は結婚し、自身も出産に苦しんだ。彼女は社会主義運動に参加し、「育児制限」を訴えた。1912年『ザ・コール』に避妊を勧めるコラムを書き、発禁になる。英国に亡命し、パンフレット「育児制限」を発行した。
・1916年帰国し、全米を講演旅行した。ブルックリンに「産児制限診療所」を開設するが、そこで逮捕される。1920年ロンドンに渡り、世界的な運動を展開する。1966年没する。
・1970年「コムストック法」が改正され、猥褻物が没収されなくなる。しかし今でも大統領選の度に、避妊/中絶が争点になる。
○ラスプーチン ロシアの惨劇
・1894年ロシア皇帝アレクサンドル3世が没し、ニコライ2世が皇帝を継ぐ。皇妃アレクサンドラは皇太子アクレセイを生むが、「血友病」であった。1905年「血友病」を治す僧としてラスプーチンが呼ばれた。同年首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」が起きている。
・1907~17年は噂と陰謀が渦巻いた。1916年ラスプーチンはフェリックス=ユスポフ公爵の陰謀で暗殺される。翌年「ロシア革命」により皇帝は退位し、ロマノフ朝も崩壊する。
○消えたロマノフ家 ロシア革命
・1917年3月「2月革命」が起き、皇帝ニコライ2世は戦線からの列車の中で退位を決意する。7月皇帝一家はシベリアに送られる。翌年7月皇帝一家全員が殺害される。
・しかしその後皇帝一家の生き残りが度々登場した。特に皇女が4人いたが、末娘アナスタシアを名乗る女性は度々現われた。
○芸術の死、スキャンダルの生
・1917年米国で「アンデパンダン芸術協会」が展覧会を開いた。マルセル・デュシャンは便器を「泉」と題し出品するが、展示されなかった。
・米国がキュビスム/フォーヴィスム(?)の洗礼を受けたのは、1913年「アーモリー・ショー」であった。この展覧会に欧州のセザンヌ/ヴァン・ゴッホ/ピカソ/マティス/デュシャンなどの作品が展示された。これらの作品は轟々たる非難を浴びた。しかしそれが逆にスキャンダルになり、各地の展覧会で観客を集めた。
・1915年ウォルター・C・アレンズバークが前衛芸術のパトロンになり、デュシャンは米国に招かれ、芸術活動を行った。
・1999年「泉」のレプリカが100万ドルで落札されている。
<1920年代>
○ハリウッドの笑いが止まった日
・20世紀初め、映画はニューヨークで作られていた。しかし広い野外スペースが必要になり、1909年モーション・ピクチャーは「ハリウッド」にスタジオを作った。これが始まりで、1920年代「ハリウッド」は映画の都となった。「ハリウッド」は酒/麻薬が溢れ、映画スターなどのセレブリティ(有名人)はスキャンダルのネタになった。
・太っちょのロスコー・アーバックルは鉛管工であったが、そのユーモラスさからパラマウント社と300万ドルの契約を結ぶ。
・ある日彼は乱痴気パーティの後、ヴァージニア・ラップと寝室に消えた。間もなく彼は、彼女が騒ぐので、「彼女をどうにかしてくれ」と言って、寝室から出て来た。数日後彼女は病院で急死する。
・パーティに出ていたモード・デルモントが「彼が彼女を圧死させた」と訴えた。モード・デルモントは、女の子に処女のふりをさせ、「強姦された」と有名人からお金をゆすっていた。アーバックルは無罪になるが、「ハリウッド」から追放された。この事件により、「ハリウッド」に自己検閲機関「ヘイズ機関」ができる。
・またウィリアム・ランドルフ・ハーストの新聞は写真の偽造までして、この事件を煽った。この新聞はスキャンダルで売上げを伸ばしていた。
※彼女は何で急死したんだ?
○デスモンド・テイラー殺人事件
・1922年美男子の映画監督ウィリアム・デスモンド・テイラーが自宅で殺害される。隣に住んでいた女性が複数の知人に電話したため、彼の愛人で女優のメーベル・ノーマンド/同じくメアリ・マイルズ・ミンター/スタジオのボス/パラマウントなどが現場に集まり、警察が来る前に証拠を焼却してしまった。
・「ハリウッド」は郵政長官ウィル・H・ヘイズをお目付け役に迎えた(ヘイズ機関?)。しかしこの事件はウヤムヤになった。
・しかしこの事件は、1967年名監督キング・ヴィダーが解明したが、発表しなかった。1986年シドニー・D・パトリックがこれを発表する。犯人は女優メアリ・マイルズ・ミンターの母シェルビー夫人であった。
○汚れたホワイトソックス
・1919年第1次世界大戦が終わり、ワールド・シリーズが行われた。予想に反し、ホワイトソックスが敗れた。八百長の噂が立ち、アーノルド・ガンディルなど選手8名が八百長を認めた。ホワイトソックスはケチで、選手は給料に不満を持っていた。
・1920年最初の裁判で有罪になる。しかし選手の告白文書などが盗まれ、1921年再審では選手達も証言を覆し、無罪となる。※何といい加減な裁判。
・その後野球界はコミッショナーにイリノイ州判事ケネソー・マウンテン・ランディスを任命する。彼は8選手を球界から永久追放する。これは世間が許さなかったからである。
○ハーディング大統領の不思議な死
・1865年ウォーレン・ガマリエル・ハーディングはオハイオ州で生まれる。新聞社「マリオン・スター」を経営し、記事を書いた。彼は妻フローレンス・クリング・ドウォルフの力で上院議員になり、さらに1921年大統領になる。彼は映画スターのように格好良かった。
・彼は大統領になると国政を仲間「オハイオ・ギャング」や専門家に任せた。1923年復員局/外国資産管理局/法務省/オハイオ・ギャングなどの疑獄事件が表沙汰になった。復員局長官チャールス・フォーブスは辞職し、フォーブスの右腕チャールス・クレーマーは自殺した。ジェッシー・スミスも自殺した。彼も倒れ、急死する。
・彼の死後もスキャンダルは収まらず、彼の取り巻きは収監/追放された。愛人ナン・ブリトンは告白本を出版した。彼は妻に毒殺されたとする本も出版された。
○ティーポット・ドーム・スキャンダル
・1912年ウィリアム・タフト大統領は海軍の燃料を石炭から石油に変えた。カリフォルニアのエルク・ヒルズ油田/ブエナ・ヴィスタ油田を海軍用に確保した。次のウィルソン大統領はワイオミングのティーポット・ドーム油田を海軍用に確保した。
・1920年「石油地区貸与法」が成立した。大戦が終わったため、海軍用に確保した油田を民間に採掘させる法律である。管轄も海軍から内務省に移った。
・1921年ハーディング大統領は内務長官にアルバート・フォールを任命する。フォールは入札もせず、エルク・ヒルズ油田の採掘権をパンアメリカン・ペトロリウム・アンド・トランスポート・カンパニーに与えた。さらにティーポット・ドーム油田の採掘権をマンモス・オイル・カンパニーに与えた。こちらは公表もされなかった。
・この件を新聞が報じ、議会が調査を始める。しかし法務総裁はハーディング大統領の腹心ドハティだったため、進展しなかった。1929年フォールなどが有罪になる。
○英国貴族の爵位売ります
・1916年自由党デイヴィッド・ロイド・ジョージが首相になる。1918年戦後内閣を組織するが、この時自由党はロイド・ジョージ派とアスキス派に分裂していたため、彼は保守党と連立する。
・1922年ギリシャとトルコの紛争が起こる。彼はギリシャを支持するが、保守党はトルコを支持したため連立は解消され、総辞職する。
・しかしこの総辞職の裏には爵位スキャンダルがあった。彼の内閣(1916~22年)で貴族94人/ナイト1500人が誕生している。貴族はそれまでの2倍、ナイトは20倍である。彼は貴族/ナイトの乱造で謝礼を稼いでいる、との噂が流れた。
・ある精肉屋は「戦場で冷蔵設備を無償で提供した」として叙爵されたが、十分に支払いを受けていた。他に戦時中に武器産業で荒稼ぎした者や、詐欺で有罪になる者も叙爵されている。
・この爵位問題も連立解消の原因とされる。もっともその後も爵位の売買はあったようで、それを斡旋する業者が繁盛している。
○サヴォイ・ホテルの出来事
・1923年ロンドンのサヴォイ・ホテルでエジプトの富豪の息子アリ・ファミィが妻アルゲリッツにピストルで射殺された。
・1890年彼女はパリに生まれる。貧しかったので金持の愛人になった。パトロンと遊びに行ったエジプトで彼と出会った。彼は彼女に魅せられ、結婚した。しかし結婚生活はうまく行かなかった。
・2人は夏になるとエジプトを避け、欧州で過ごした。1923年2人は演劇『メリー・ウィドウ』を観た後、サヴォイ・ホテルのスウィート・ルームに戻った。離婚話になり、彼女は彼をピストルで撃った。
・裁判ではマーシャル・ホールが彼女の弁護をした。ホールは「彼は異常性欲者でホモセクシュアルである」と彼女への同情を誘った。また「東洋の異常な彼こそ責められるべきだ。彼女はその犠牲者だ」と主張した。結果、彼女は無罪になる。
○サッコとヴァンゼッティ
・1920年マサチューセッツ州で製靴工場の従業員2名が殺害され、従業員の給料が強奪される事件が起きた。間もなく靴工ニコーラ・サッコ/魚行商バルトロメオ・ヴァンゼッティが逮捕される。2人は有罪となり、再審請求するが、1927年処刑される。
・ヴァンゼッティとサッコはイタリア生まれで、大戦中は徴兵を逃れるためメキシコに行った。そこで2人は知り合い、2人とも「無政府主義」に惹かれた。大戦後、2人は米国に戻る。当時「赤狩り」が盛んに行われていた。
・1921年裁判で犯人は5人組とされたが、残りの3人は問題にされず、盗んだお金も発見されなかった。しかし2人は有罪になる。弁護団が結成され、再審請求を行った。
・1925年マディロスが自分が犯人と名乗り出た。1927年弁護団が州知事に助命を請願するが、3人の委員(ハーヴァード大学総長、マサチューセッツ工科大学長、遺言検認裁判所前判事)は体制に反する事なく評決を承認し、2人は処刑される。
・この事件の前年、同じマサチューセッツ州で製靴会社の従業員の給料を積んだ現金輸送車が襲われ、未遂に終わっていた。1925年マディロスが犯行を自供した時、モレリ5人兄弟の名が出た。この事件当時、モレリ兄弟はロード・アイランド州(マサチューセッツ州の隣)で靴/衣料品を積んだ貨車を荒らし、裁判になり、弁護費用を必要としていた。
※冤罪だな。日本の戦前と同じだ。
<1930年代>
○リンドバーグ 栄光から悲劇へ
・1932年米国の空の英雄チャールズ・リンドバーグの息子チャーリー(チャールズ・オーガスタス)が誘拐された。この事件は「1930年代」と云う不吉な時代を象徴する事件であった。
・1927年彼は大西洋横断無着陸飛行に成功する。1929年アン・モローと結婚し、翌年チャーリーが生まれる。
・1932年彼のニュージャージー州の邸宅からチャーリーが消えた。犯人は2階の部屋から梯子を使い、チャーリーを連れ出したと見られた。
・ジョン・F・コンドン博士が犯人と仲介すると言ったため、通し番号で5万ドルを渡したが、チャーリーは帰らなかった。
・その後チャーリーの遺体が発見される。頭蓋が激しい打撃で割れていた。精密な検屍はされず、直ぐに火葬された。
・1934年通し番号の紙幣を使ったとしてハウプトマンが逮捕される。この紙幣は知人の遺産であった。1936年ハウプトマンは殺人罪で処刑される。
・その後「犯人はリンドバーグ自身で、妻を驚かそうと、息子を2階から連れ出す時に、落して殺してしまった」と云う本が出版された。
○スタヴィスキーの怪死
・1884年アレクサンドル・スタヴィスキーはロシア系ユダヤ人で、ウクライナに生まれ、パリに逃れる。彼は若い時から、怪しい商売をした。1926年ココ・シャネルのモデルのアルレット・シモンに惚れ、結婚する。
・盗品を買い取り、それを自身の宝石店で売っていたが、質入れした方が簡単なのに気付く。オルレアン市の質屋から300万フラン、さらに偽のエメラルドで100万フランを引き出した。結局は1700万フランを借りた。
・彼は怪しまれたが、首相カミーユ・ショータン/アルベール・ダリミエ商業大臣と繋がりがあり、裁判を免れた。
・さらに彼は証券を乱発し、巨額のお金を集め、パリ社交界で浪費した。彼はバイヨンヌの助役を信用させ、公設質屋を任された。
・流石に調査が始まり、彼はシャモニーの山荘にかくまわれた。1934年警察が踏み込むと、彼は自殺していた。しかしその真相(本当に自殺したか)は不明である。
○悪名高きヒューイ・ロング
・1893年ヒューイ・ロングはルイジアナ州に生まれる。8番目の子供で大学に入れず、セールスマンをして大学で法律を学び、弁護士になった。
・彼はスタンダード石油などの大企業を批判し人気を集める。1928年手段を選ばない選挙活動で、ルイジアナ知事に当選する。議員を買収し、州議会を牛耳った。公共土木事業を盛んにし、人気を得た。
・1932年上院議員に当選し、ワシントンに入る。ルーズヴェルト大統領は「ニューディール政策」を掲げていたが、彼はこれに対抗し「シェア・アワー・ウェルス」(SOW)を掲げる。「SOW」は金持から税金を取り、それを公共投資/失業手当などの財源に充てる政策であった。しかし実際はルイジアナ州での自分勝手な浪費に過ぎなかった。
・余りにも彼は暴君になったため、反対派が暗殺を考えるようになった。1935年彼は州の議事堂で撃たれ死亡する。
○ボニーとクライド 俺たちに明日はない
・1933年頃、米国では「ビッグ・クライム・ウェーヴ」(大いなる犯罪の嵐)が吹き荒れた。ディリンジャー/マシンガン・ケリー/プリティボーイ・フロイド/ベビーフェイス・ネルソン/マ・バーカーなどの悪のヒーローがいた。地方警察ではお手上げなので、FBIが登場する。
・1910年ボニー・パーカーはテキサスで生まれる。ダラスで結婚するが、夫は家を出た。1929年彼女はクライド・バロウと出会う。
・1909年クライドはダラスで生まれる。彼は自動車が好きで、自動車泥棒になった。兄バックと共に金庫破りなどをした。
・1932年クライドは仮釈放され、強盗を再開した。ボニーもこれに加わった。オクラホマで保安官と撃ち合いになり、保安官1人を殺した。彼は運転が上手く、フォードV-8に乗り、警察は追い付けなかった。
・1933年ミズーリで警察隊に包囲され、警察2人を殺した。ミネソタで銀行を襲った。ミズーリで撃ち合いになり、兄バックが死んだ。
・1934年アーカンサスで待ち伏せされ、2人は蜂の巣となって死んだ。遺体は展示された。
※この映画はみたような。
○王冠を揺るがす恋 シンプソン夫人
・1936年英国王エドワード8世は「国王」と「結婚」の選択を迫られ、シンプソン夫人との「結婚」を選択し、在位1年も経たず退位する。
・1895年シンプソン夫人はベッシー・ウォリス・ウォーフィールドとしてペンシルバニアに生まれる。1916年海軍中尉ウィンフィールド・スペンサーと結婚するが、1927年に離婚する。翌年大金持アーネスト・シンプソンと再婚し、ロンドンの社交界で知られるようになる。
・1931年エドワード皇太子(エドワード8世)は彼女に出会う。彼女は美人でなく、強い母のようであったが、彼は夢中になる。彼は彼女との結婚を願うようになる。また彼はヒトラーに共感するなど色々問題があった。
・1936年1月ジョージ5世が没し、彼が国王を継ぐ。10月彼女はシンプソンと離婚する。スタンリー・ボールドウィン首相は彼に、「国王」か「結婚」か迫り、彼は「結婚」を選択し、12月退位する。
・2人は英国から追放され、パリで結婚する。その後彼は英国領バハマ諸島の総督を務める。
○火星人来襲 オーソン・ウェルズ演出
・1938年CBS放送で「臨時ニュースを申し上げます。火星人が来襲し、多くの死者が出ています」などのラジオ放送があった。これはオーソン・ウェルズが制作したドラマ『火星人来襲』の放送に過ぎなかった。しかし多くの国民がパニックになった。
・CBSにもオーソン・ウェルズにも、特に措置はなかった。それから3年後、米国は真珠湾を奇襲される。
<1940年代>
○英国流ファシズム
・英国に「ミッドフォード姉妹」がいた。父はデヴィッド・リズディル男爵で、長女ナンシー/次女パメラ/三女ダイアナ/四女ユニティ/五女ジェシカ/六女デボラがいた。何れも美人であった。
・長女ナンシーは文才があり、作家になった。次女パメラは堅実に生きた。三女ダイアナは大富豪の息子と結婚するが、BFU(英国ファシスト連合)党首サー・オズワルド・モーズリーと恋に落ち、ヒトラーを心酔する。四女ユニティは純粋にヒトラーに心酔した。五女ジェシカは逆に共産主義者になり、「スペイン市民戦争」に参加し、米国に亡命する。六女デボラはデボンシャー公爵夫人となる。
・1930年代は政治的/思想的な対立が激化し、若者はファシストとコミュニズムの両極に惹きつけられた。英国ファシズムのリーダーがモーズリーであった。彼は結婚していたが、多くの愛人を持った。
・1933年ダイアナ/ユニティはニュルンベルクで開かれた「第1回党大会」に招待される。1936年「ベルリン・オリンピック」でも2人は招待される。ダイアナはベルリンでモーズリーと秘密結婚する。ヒトラー/ゲッベルスが出席した(※凄いメンバー)。ユニティはヒトラーの許に残った。
・1938年独国はオーストリアを併合する。翌年独国がポーランドに侵入し、「第2次世界大戦」が始まる。ユニティはピストル自殺するが、命を取り留める。
・1940年モーズリー/ダイアナは逮捕され、投獄される。1943年2人は釈放されるが、ファシズム運動は再開できなかった。
※この話は初めて聞いた。
○ケニアのスキャンダル天国
・1941年ケニアのナイロビでロード・ジョスリン・エロルが自動車の中で射殺されているのが発見された。やがて59歳のサー・イブリン・デルヴス・ブロートンが逮捕された。
・当時ナイロビはロンドン社交界の隠れ家で、特に「ハッピー・ヴァレー」は治外法権で、セックス/麻薬がフリーであった。
・エロルはロンドン社交界の女たらしであったが、レディ・アイディナ・ゴードンに夢中になり、結婚する。彼女は彼より8歳年上で、淫乱女で、2度離婚していた。
・2人はケニアに逃れた。彼女はフリーセックス/フリードラッグのサロンを開き、女王となった。これが「ハッピー・ヴァレー」の伝説となった。エロルは「ハッピー・ヴァレー」のドンファンになり、女達を誘惑した。
・大金持のサー・ブロートンはロンドンでダイアナ・コールドウェルにのぼせ、妻と離婚し結婚する。2人はナイロビに戻るが、ダイアナは「ハッピー・ヴァレー」のエロルに誘惑され、彼女はブロートンに離婚を求めた。その直後にエロルが射殺された。
・ブロートンの動機は充分で、銃弾も彼のものであったが、肉体的に無理があり、彼は無罪になる。
・その後もダイアナの浮気は収まらなかった。ブロートンは彼女に「愛人と別れないと、過去の罪をばらす」と脅迫する。1942年彼はリヴァプールで自殺した。
○トロツキー暗殺
・1924年レーニンが死去し、スターリンが後継者になる。1929年トロツキーはスターリンによりソ連から放逐され、1933年フランス、1937年メキシコに逃れる。
・1938年トロツキーはパリで「第4インター」を結成するが、書記は暗殺され、彼の長男も急死した。
・1940年4月メキシコのトロツキーは機関銃で襲撃されるが、九死に一生を得る。8月彼はトロツキー派シルヴィア・アーゲロフのボーイフレンドのジャック・モルナールにピッケルで頭を刺され死亡する。
・ジャックはパリでシルヴィアを誘惑し、メキシコで彼女と暮らしていた。彼はソ連の「秘密警察GPU」のスパイであった。
○ハリウッドの赤いブラックリスト
・1938年米国下院議会に共産主義者を監視する「非米活動調査委員会」(HUAC)が設立された。「HUAC」の委員は超保守派で、共産主義者だけでなくニューディーラー/インテリ/ユダヤ人にも反感を持っていた。
・1947年冷戦時代になり、「HUAC」はハリウッドの作家/監督10人(ハリウッド・テン)を召喚する。彼らは議会で質問に答えず、議会侮辱罪になる。これを機にハリウッドはブラックリストを作って、リストアップされた人に仕事をさせない体制に変わった。裏切り/密告が横行する「ならずもの時代」になる。
・1951年「HUAC」は再度召喚した。今度は自分だけでなく、密告が要求された。監督エリア・カザンは11名を密告して、ハリウッドに留まった。彼は名作『波止場』を残したが、それが密告の代償とすれば、素晴らしさに曇りを感じる。
※どちらが共産主義か分からないな。
○アルジャー・ヒスの偽証事件
・アルジャー・ヒスはニューディール/大統領の顧問/国務省官僚/ヤルタ会談/サンフランシスコ会議/国連総会米国顧問/カーネギー平和財団総裁など輝かしいキャリアを持っていた。
・1948年「非米活動調査委員会」(HUAC)は鉾先をヒスに向け、彼を共産主義者として告発した。「HUAC」は共産主義だけでなく、ニューディーラーにも激しい敵意を抱いていた。
・告発者は『タイム』誌の編集者ホイテッカー・チェンバーズで、「国務省の秘密文書をヒスが持ち出し、それを自分がソ連に渡した」と告白した。その秘密文書がチェンバーズの農場で発見される。しかし後にこの秘密文書は偽造で、「HUAC」のリチャード・ニクソン/チェンバーズ/FBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーが偽造に関わっていた事が判明する。
・このスキャンダルには、上昇した者を引きずり下ろす憎しみが隠されている。※ニクソンが出て来た。
○エロール・フリンはスパイか?
・エロール・フリンはスマートで伊達男の映画スターであった。1909年彼はオーストリアで生まれる。船でボーイをしていてスカウトされ、1935年代役で出た『海賊ブラッド』で一躍スターになる。
・1940年代彼はスキャンダルに見舞われる。1942年17歳の少女ハンセンと性行為をしたとして、裁判になりかける。その後15歳の少女サタリーとの淫行で裁判になる。この裁判で無罪になるが、以後人気が陰り、酒浸りになる。1959年心臓マヒで急死する。
・1980年チャールズ・ハイアムが『エロール・フリン 語らざる物語』を発表する。「フリンは戦時中、ナチのスパイであった」という内容である。また「1941年に製作された映画『急降下爆撃機』で海軍航空基地を撮影させ、秘密情報を日本に与えた」と書いた。※どっちのスパイ?
・1990年トニー・トーマスは『エロール・フリン スパイでなかったスパイ』を発表する。これはハイアムの説は根拠がなく、それを否定する本であった。フリンの遺族がハイアムを名誉棄損で訴えるが、法廷は却下した。
<1950年代>
○マッカーシーの台頭と転落
・ジョセフ・R・マッカーシーはいきなり登場し、米国世論を引きずり回し、あっと言う間に消えた。
・彼はウィスコンシン州の上院議員で、ケチな利権を漁っていた。1950年彼は名前を売るため、共産主義の攻撃に出る。婦人会で「国務省には205人の共産主義者がいる」と発言した。彼はこの説を繰返し、大衆は熱狂した。共産主義者は誰かと問い詰められ、オーエン・ラティモアの名前を挙げた。ラティモアは中国の理解者であったが、国務省職員でも共産主義者でもなかった。彼の周りに元FBIなどが集まり、彼に情報を提供した。
・1951年「朝鮮戦争」が始まる。彼は今度はジョージ・キャトレット・マーシャル元帥(国防長官)の批判に出る。ルーズヴェルト大統領/マーシャル元帥が、ソ連を承認した事/日本を決定的に敗北させた事を批判する。この説は筋が通っており、ジョージタウン大学の「修正主義歴史学派」の説と思われる。
・1953年彼が応援した共和党アイゼンハワーが大統領になる(※この政権交代が日本の内政にも影響したのかな)。彼は「政府活動委員会」の委員長に就き、共産主義者/同性愛者の摘発に乗り出す。彼は弁護士ロイ・M・コーン/G・デイビッド・シャインを引き入れる。この2人はホモセクシュアルの関係であった。
・今度彼は軍の腐敗を攻撃目標にした。しかし軍が抵抗したので、公聴会が開かれた。すると彼のいい加減な答弁/コーンの私的な陸軍への干渉が問題になった。公聴会では、陸軍を代弁したジョセフ・ウェルチに好感が集まった。大衆も彼のデマゴーグに飽き始めていた。
※こんな人がたまに現れる。
○オッペンハイマー追放裁判
・ロバート・オッペンハイマーは原子爆弾を開発し、「原爆の父」と云われる。1953年「原子力委員会」(AEC)の元スタッフのウィリアム・ボーデンが「オッペンハイマーはソ連のスパイである」と云う手紙をFBI長官フーヴァーに送った。彼の妻と弟は共産党員で、共産党員の友人も多かった。また原爆投下後、彼は水爆開発反対に転じた。
・水爆開発を巡っては推進派と反対派が対立していた。AECの委員ルイス・ストローズは推進派であった。1950年「トルーマン声明」で水爆開発のゴーサインが出る。
・1953年ボーデンは「オッペンハイマーは水爆開発を妨害した」との告発状を出す。彼は「公職からの辞職」を拒否したため、1954年聴聞会が開かれる。「ソ連のスパイ」「水爆開発の妨害」何れも証明できなかった。しかし「性格に問題があり、国家機密を漏らす危険がある」として公職追放される。
※現代のこんな人を蹴落とす話は嫌だな。こんな人にたまに出くわす。
○男の酒池肉林『プレイボーイ』創刊
・1953年男性雑誌『プレイボーイ』が創刊される。これは当時の「性的革命」の産物であった。戦前は男女別々のベッドで寝ていたが、トウィンベッドが認められるようになった。
・当書を創刊したのは20代のヒュー・ヘフナーであった。当書はピンナップ写真が売り物で、誰でも知っている有名人やオフィスガール/ステュアデスなどの「近所の娘」のヌード写真を載せた。
○ラナ・ターナー ハリウッドの落日
・ラナ・ターナーはその美しさと7度の結婚などのロマンスで記憶に残る。1921年彼女はアイダホ州に生まれる。1936年彼女はソーダ・ファウンテンでスカウトされる。端役を与えられ、セーター/タイトスカート/ヒールで75フィートを歩いただけで注目された。彼女はマーヴィン・ルロイ監督に「ラナ・ターナー」の芸名を与えられる。MGMで『初恋合戦』『美人劇場』などに出演し、トップスターになる。
・1940年アーティ・ショーと結婚するが、2ヶ月で分かれる。1942年実業家スティーヴン・クレーンと結婚するが、1944年に分かれる。1948年大金持ヘンリー・トッピングと結婚するが、4年後に分かれる。この時彼女は自殺未遂している。1953年俳優レックス・バーカーと結婚するが、4年しか続かなかった。
・その時ギャングのジョニー・ストンパナードが彼女に近づき、同棲を始めが、喧嘩が絶えなかった。娘チェリルと3人の共同生活が始めるが、チェリルが2人の喧嘩を見て、ストンパナードを刺殺する事件が起こる。裁判で弁護士ジェリー・ギースラーが「ストンパナードは暴力的で女の敵である」と主張し、チェリルは正当防衛で無罪になる。
・その後彼女は『悲しみは空の彼方に』『黒い肖像』などのヒットを出し、3度も結婚した。
○マーガレット王女の冒険
・エリザベス女王の妹マーガレットはスキャンダルの女王になった。彼女は父ジョージ6世に溺愛されたため、年上の男に惹かれた。
・1948年18歳の時、米国のエンターテナーのダニエル・ケイに夢中になる。王室は彼を米国に帰国させた。次に銀行家の息子ジョン・プロヒューモに夢中になる。
・次に空軍大佐ピーター・タウンゼントに惹かれる。1951年彼は妻と離婚する。1952年ジョージ6世が没し、2人は結婚を望むようになる。しかしエリザベス女王の夫フィリップや王室が反対し、タウンゼントは身を引いた。
・彼女はナイトクラブに入り浸るようになり、写真家アントニー・アームストロング=ジョーンズと出会い、1960年結婚する。しかし生まれも性格も全く異なり、別居する。彼女は西インド諸島の別荘で暮らすようになる。1978年離婚する。
○クイズ・ショック
・米国では、1948年にテレビ時代が始まった。1950年代に人気になったのは「ゲーム・ショウ」(クイズ・ショウ)であった。クイズ番組はコマーシャルになり、製作費も安いため次々と作られた。
・番組『トウェンティ・ワン』でハーバート・ステンペルが勝ち続けた、それをチャールズ・ヴァン・ドーレンが破り、彼も勝ち続け、12万9千ドルを稼いだ。彼は爽やかな青年だった。
・1958年ステンペルが「あの番組はヤラセだった」と暴露した。翌年ニューヨーク地方検事が調査を開始する。ヴァン・ドーレンもプロデューサーもインチキを認めた。
<1960年代>
○ケネディの栄光と悲惨
・1961年ジョン・F・ケネディが大統領に就任した。彼は同じく暗殺されたリンカーンと比較されるが、実績は乏しい。彼は伝説化されたが、彼の不道徳な情事により国家機密は危機に晒された。ここでは「キューバ侵攻」について記する。
・1959年「キューバ革命」によりカストロ政権になった。米国はキューバの共産主義化を憂慮し、CIAは「キューバ侵攻」を計画する。
・1961年彼は「キューバ侵攻」にゴーサインを出す。ゲリラ隊がピッグス湾に上陸するが、期待した反カストロ派の蜂起もなく、ゲリラ隊は捕えられる。この「キューバ侵攻」にはマフィアが深く関わっていた。
・1960年大統領選で彼は女優ジュディス・キャンベルと親しくなる。しかし彼女はシカゴ・マフィアのサム・ジアンカーナの女で、彼はそれを知っていて、彼女をジアンカーナとの仲介に使った。彼はジアンカーナから選挙資金を受けていた。一方弟のロバート・ケネディ司法長官はマフィアを取り締まり、最大の目標はジアンカーナであった。
・1963年彼は暗殺される。共産主義者のL・H・オズワルドが逮捕され、オズワルドの単独犯行が政府見解となった。これに対し彼をアイドルとしたリベラル派は、マフィア/CIA/政府/ジョンソン副大統領による陰謀説を絶やさない。
○マリリンよ、安らかに眠れ
・1926年マリリン・モンローはロサンゼルスに生まれる。父は分からず、母とも別れて、孤児院などで育つ。16歳で結婚する。1949年ヌード・カレンダーで話題になり、1953年『ナイヤガラ』『紳士は金髪がお好き』『百万長者と結婚する方法』がヒットする。
・1953年上院議員だったケネディは、ジャクリーンと結婚する。彼は義弟が俳優だったため、女を紹介させ遊んた。1954年彼とマリリンは出会う。彼女もジョー・ディマジオと結婚したばかりであった。
・1961年彼女はアーサー・ミラーと離婚する。この頃、酒と睡眠薬の飲み過ぎで、精神が不安定であった。彼が大統領に当選すると、2人はデートを楽しむようになる。この情事は盗聴されていた。
・弟ロバートは兄をスキャンダルから守ろうとしている内に、彼女と親しくなった。しかし忠実なロバートは彼女に別れを告げる。
・1962年彼女は受話器を握ったまま死亡する。睡眠薬の飲み過ぎによる自殺と発表された。1963年彼は暗殺される。1968年さらにロバートも暗殺される。
○プロヒューモ事件のドタバタ
・1942年クリスチーン・キーラーはバッキンガムシャーに生まれる。15歳でロンドンに出て、売子/ストリップ・バーなどで働く。彼女はスティーブン・ウォードと親しくなる。
・スティーブン・ウォードは1970年代に大流行するオステオパス(指圧療法)の整骨院を開いていた。上級階級のお客も訪れていた。ウォードは彼女をジョン・デニス・プロヒューモに紹介した。1960年彼はマクミラン内閣の陸相をしていた。
・彼女はソ連海軍武官エフゲニー・イワノフの愛人であった。そのためプロヒューモは陸軍省のシークレット・サーヴィスから彼女と付き合わないよう警告され、それに従った。
・しかし彼女が事件に巻き込まれ、彼女はイワノフから「プロヒューモから情報を聞き出して欲しい」と頼まれていたと告白する。プロヒューモはマクミラン首相に辞表を提出する。ウォードは売春の罪を問われたが、自殺したため全ての事件が尻切れトンボになった。
○モハメド・アリ タイトル剥奪
・1964年カシアス・クレイ(モハメド・アリ)はヘビー級チャンピオンになる。彼はキリスト教的白人社会への反抗から改名する。
・1967年兵役を拒否し、裁判で有罪になり、試合の出場資格を失う。彼は講演やステージに立って食い繋いだ。再びボクシングができるようになるのは1970年で、1974年にチャンピオンに返り咲く。
・マイケル・ジョーダン/タイガー・ウッヅそして彼は、アフリカン・アメリカンの3大スターである。前者2人は政治的に中立であったが、彼は反体制/反米で世論を激震させた。
・1960年代は人種闘争/ヴェトナム戦争の時代であった。彼の発言「ヴェトコンは、俺をニグロと呼ばない」は人種問題とヴェトナム戦争を結び付けている。
・彼は兵役を拒否し、イスラム運動に参加し、米国人を怒らせた。米国は彼からチャンピオンの名誉を奪い、ボクシング界から追放した。しかし米国はヴェトナム戦争の泥沼にのめり込み、戦争の意義に疑問を抱き、彼の反抗に共感を寄せるようになる。彼は歴史的なヒーローになった。
※深イイ話だ。
○シャロン・テート殺人事件
・1960年代はヒッピー/カウンターカルチャーの時代で、ドラッグ/ロックンロール/フラワーチルドレンが横行した。背景にはビートルズの「ヘルタースケルター」が流れた。
・1969年7月ゲアリー・ヒンマンが殺された。8月ロマン・ポランスキーの大邸宅で妻のシャロン・テートなど5人が殺された。同じく8月2人が殺された。
・「ヒンマン事件」からチャールズ・マンソンの「ファミリー」が浮かんできた。彼は31歳の時、サンフランシスコに来た。ドラッグ/ロックミュージックをやり、少女達が集まり、「ファミリー」を形成した。ロサンゼルスに移り、ドラッグ/フリーセックスありのヒッピー生活をした。彼が殺せと言えば、「ファミリー」は殺人もした。
・ポランスキー邸が襲われたのは、彼がレコードを出してもらうはずだったテリー・メルチャーが、以前そこに住んでいたためだった。※極悪非道。
○チャパキディック事件のもみ消し
・1960年代ケネディ家は憑れていた。兄二人が暗殺され、末子エドワード・ケネディに2人目の大統領の期待が掛けられた。
・マサチューセッツにマーサズ・ビリヤード島があり、その東にチャパキディック島と云う小島がある。1968年7月ケネディ家が選挙運動で働いてくれた女性をここに招いてパーティを開いた。パーティを終え、彼は車にメアリー・ジョー・コペクニを載せ、マーサズ・ビリヤード島に向ったが、ダイク橋から転落してしまう。彼は泳いでマーサズ・ビリヤード島の宿に戻り、そこで寝込んでしまった。事故から8時間経過し、彼は通報するが、彼女は溺死していた。
・ボイル判事は彼に逮捕状を出さなかった。また地方検事も彼を起訴しなかった。ボイル判事は事故現場から逃げたとして、2ヶ月の執行猶予を科しただけであった。ボイル判事はこの判決後、判事を辞する。彼は何事もなかったように上院議員に再選された。
・この事件もあり彼は、1972年/1976年大統領選への出馬を諦める。1980年大統領選では民主党候補をジミー・カーターと争って敗れる。1984年大統領選では、ケネディ家を推す人はいなかった。
<1970年代>
○ウォーターゲートをくぐって
・「ウォーターゲート事件」はリチャード・ニクソン大統領の辞任と云う、米国史上、前代未聞の結末になった。
・1972年6月民主党本部に5人(ジェームズ・マッコード、フランク・スタージス、バーナード・バーカー、ユージニオ・マルチネス、バージリオ・ゴンザレス)が侵入し、彼らはカメラ/盗聴器などを持っていた。マッコードは「ニクソン再選委員会」の警備主任であった。この「再生委員会」はニクソン再選のために、あらゆる手段を取る組織であった。
・この事件を指令したのは、大統領補佐官の下にいたハワード・ハント/ゴードン・リディであった。彼らは「プラマーズ」(鉛管工)と呼ばれた。「プラマーズ」はダーティな仕事を引き受け、コールガール/ドラッグなどを使い秘密を探り、家宅侵入なども行っていた。よって「ウォーターゲート事件」は氷山の一角に過ぎない。
・ホワイトハウスは隠蔽工作を行い、クラインディーンスト司法長官はニクソンを正当とした。1972年11月大統領選でニクソンは大勝し、再選される。
・しかし民主党本部に侵入した5人/「プラマーズ」の2人は裁判に掛けられた。彼らは「ウォーターゲート・セヴン」と呼ばれた。彼らは分裂し、マッコードが「ホワイトハウスからの指令」と自白する。クラインディーンスト司法長官などは辞任し、ニクソンは裸の王様になった。
・大統領執務室に秘密録音装置があった事が分かり、提出を求めるが、ニクソンは出し渋った。最高裁は全てのテープの提出を命じた。1974年8月ニクソンは大統領を辞任する。
○プレスリー死す
・1935年エルヴィス・プレスリーはミシシッピで生まれる。貧しい白人の子で、黒人と親しみ、ロックンロールを生んだ。1956年『ハートブレイク・ホテル』1957年『監獄ロック』が大ヒットする。
・1958年2年間の兵役に就き、大人に受け容れられた。除隊すると『GIブルース』『ブルーハワイ』など、映画界で活動する。1967年プリシラと結婚する。
・1968年音楽界に復帰する。1973年プリシラと離婚する。この頃からメンフィス・マフィアに囲まれ、精神安定剤/睡眠剤/興奮剤などを食物のように摂った。1977年メンフィスの豪邸で亡くなる。
○セックス・ピストルズ
・シド・ヴィシャスは、1970年代の「パンク現象」を代表する「セックス・ピストルズ」のメンバーである。「パンク現象」とは、若者の大人に対する反抗/憎悪/侮辱を、ファッション/音楽で表現する現象である。1970年代これが挫折し、若者は自虐的になり、セックス/ドラッグ/ロックンロールに走った。
・パンクロックの「セックス・ピストルズ」は、ロンドンの「セックス」と云うブティックで始まった。ジョン・ロットン(本名ジョン・ライドン)/シド・ヴィシャス(本名ジョン・ビヴァリー)などがメンバーであった。
・1977年シドはナンシー・スパルゲンと出会う。彼女は彼にドラッグを教えた。同年末「セックス・ピストルズ」は米国公演に出る。酷い公演で、グループはバラバラになって帰国する。
・1978年8月彼と彼女は米国に行き、ソロで売り出す。10月2人が泊ったホテルで彼女は血まみれになり死んだ。彼はフラフラで何も記憶していなかった。
・1979年2月彼は釈放され、母のアパートに戻るが、ヘロインを打って死亡した。※似た話が多いな。
○ジェレミー・ソープ事件
・1975年男性モデルのノーマン・スコットが襲われ愛犬が撃ち殺された。直ぐにアンドルー・ニュートンが逮捕され、2年の刑を受けた。1977年彼は出所すると、この事件は前自由党党首ジェレミー・ソープの指示だったと告白する。1978年ソープは殺人未遂事件の共同謀議で告発される。
・1929年ソープはロンドンに生まれ、1959年下院議員に当選したエリートであった。1960年乗馬クラブでスコットと出会い、ホモセクシュアルの関係になる。
・1966年ソープが自由党党首に就くと、スコットはお金をせびるようになる。1968年ソープがキャロラインと結婚すると、スコットはソープとの関係を彼女にぶちまけた。彼女は離婚を求めるが、1970年交通事故で亡くなる。
・1973年ソープはマリオン・ヘアウッド伯爵夫人と再婚するが、今度もスコットが嫌がらせを始めた。ソープは自由党幹部デヴィド・ホームズにスコットの処理を頼んだ。1975年10月この事件が起こった。
・1976年5月ソープは突然、自由党党首を辞任する。※同年3月この事件の裁判が行われ、ニュートンはソープに罪を負わせず、2年の刑を受けている。
・1977年ニュートンは出所すると、ソープとの関係をマスコミにしゃべる。共同謀議の疑いで裁判になるが、ソープは無罪になる。英国の裁判は、上流階級に有利に傾くようになっている。
○ハーヴェイ・ミルクのサンフランシスコ
・1978年「ゲイ・ブーム」の中心サンフランシスコで、市長モスコーニと市政委員ハーヴェイ・ミルクが射殺された。犯人は市政委員ダン・ホワイトであった。
・ミルクは『タイム』誌で20世紀の100人の英雄に選ばれている。また映画『ミルク』はアカデミー賞を取っている。
※知らない人だ。「ホモセクシュアル」から「ゲイ」に言葉が変わったみたい。
・1930年ミルクはユダヤ人としてニューヨークに生まれる。保険会社に勤め、ジョーと暮らした。
・1972年サンフランシスコの「カストロ・ストリート」に移った。「カストロ・ストリート」はゲイ・タウンとなった。1973年彼は政治に目覚め、ゲイを公表し、市政委員に立候補するが、選挙で敗れる。
・1975年リベラル派のモスコーニが市長になり、流れが変わる。ミルクは市政委員に立候補するが、惜しくも敗れる。
・1977年彼は市政委員に当選するが、反ゲイのダン・ホワイトも当選した。1978年「ゲイ公民権法」が国民投票で勝利した(※意味不明)。同年11月ホワイトは市長室でモスコーニ市長を射ち、市政委員室でミルクを射った。
・裁判では故殺とされ、軽い刑になった。サンフランシスコは、1970年代後半激動したが、1980年代は鎮静化する。
○ロックフェラーの情事
・1979年ネルソン・ロックフェラーが心臓発作で急死する。ロックフェラー・センターのオフィスで倒れたと公表されたが、実は彼の邸宅で、ミーガン・マルシャックと一緒に美術コレクションを整理していた。
・彼はロックフェラーを大財閥にしたジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの次男である。長男ジョン・D・ロックフェラー3世は実業界に留まったが、彼は政界に進出し、大統領を狙った。
・彼はニューヨーク州知事を4期務め(1958~73年)、フォード大統領の下で副大統領を務め(1974~77年)、政界を引退した。美術コレクションには美術品だけでなく、美女も含まれていた。
<1980年代>
○ジョン・レノンとアメリカの狂気
・1980年ジョン・レノンは、ニューヨークのダコタ・アパートの自宅の前で、マーク・デヴィッド・チャップマンに射殺された。チャップマンは「フォニー(まがいもの)への戦いを実践した」と言った。この殺害には政治的陰謀説がある。ケネディ暗殺/キング牧師暗殺/ロバート・ケネディ暗殺の犯人同様、チャップマンも夢遊病者のようであった。
・1966年頃からレノンはFBIとCIAに狙われるようになる。1968年レノンの前にヨーコ・オノが表れ、「ビートルズ」は分裂してゆく。2人はニューヨークに住み、1976年永住権を得る。
・1980年『ニューズウィーク』がレノンのカムバックを伝えた。チャップマンもこれを読み、「フォニー」(インチキ)と感じたようだ。彼はハワイから出て来て、ダコタ・アパートの前に何度か来て、彼を殺害した。
○レーガン大統領はスキャンダルに強い
・1980年代はロナルド・レーガン大統領の時代であった。彼は大統領を2期8年務めた。2期務めるのはアイゼンハワー以来であった。
・レーガン時代での最大の危機は「イラン・コントラ事件」である。この事件は「ウォーターゲート事件」と比較されるが、そんなケチな事件ではない。この事件は敵国イランに武器を輸出し、その代金をニカラグアの反政府ゲリラ「コントラ」に提供する二重に不法な秘密工作である。
・彼の大統領当選に、イランが大きく関わっている。1979年イランでクーデターが起き、ホメイニ師が支配者となった。ホメイニ師は米国大使館を占拠し、66人を人質にした。カーター大統領はこれに対処でず、人気を落した。レーガン大統領には就任後に人質解放と武器輸出をする取引があったと噂されている。武器はイスラエルに送られ、そこからイランに送られた。※イスラエルからイラン?
・米国はニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」を支援した。「コントラ」支援を進めたのが、CIA長官ウィリアム・J・ケーシーであった。
※1979年ニカラグアではサンディニスタ民族解放戦線による革命で共産化していた。この革命政権に対抗したのが反革命勢力「コントラ」である。この説明がない。
・1984年コントラへの資金援助が禁止になった。そこで充てられたのが、スイス銀行の秘密口座にあったイランに秘密で売った武器の代金であった。
・1986年この内容がレバノンの新聞『アル・シラア』で報じられ、大問題になった。1987年両院で調査委員会が開かれ、国家安全保障担当大統領補佐官ジョン・M・ポインデクスターなど4人が有罪になり、大統領には及ばなかった。
※この事件は知らなかった。驚きだ。
○デロリアンのハイスピード人生
・1925年ジョン・ザカリー・デロリアンはデトロイトに生まれる。彼はクライスラーに入り、「ゼネラル・モーターズ」(GM)に入る。1960年代彼がGMで設計した車種「ポンティアック」が爆発的に売れる。
・1973年GMはスキャンダルを撒き散らす彼に我慢できなくなり、辞職させる。
・1975年彼は「デロリアン・モーター」を設立し、小型スポーツカーの設計を終える。工場がなかったため、英国から5400万ポンドの融資を受けて、北アイルランドに工場を建設する。1981年生産を始める。
・彼は3万台売れると豪語していたが、3千台しか売れず、しかも故障が多かった。資金に困った彼は麻薬取引に手を出すが、囮取引で現行犯逮捕される。
○クラウス・フォン・ビューローの疑惑
・これはクラウス・フォン・ビューローとその妻マーサ・フォン・ビューロー(愛称サニー)との事件である。
・1931年サニーは生まれる。父は「コロンビアガス」「コロンビア電力」を所有し、莫大な遺産を彼女に残した。
・1957年彼女はハプスブルク家の末裔と結婚するが、1966年離婚し、クラウス・フォン・ビューローと結婚する。
・彼は女優アレクサンドラ・アイルズと親しくなり、彼女に結婚を迫られる。1979年クリスマス、サニーは昏睡状態になり、救急車で運ばれる。翌年クリスマスにも昏睡状態になり、植物人間になる。
・サニーと前夫との子が、「クラウスが母サニーを殺そうとした」として告訴する。1審は有罪になるが、再審で無罪になる。
※裁判って、明らかに有罪が無罪になったり、逆に無罪なのに冤罪になったり。恐ろしい行為だ。
○ロック・ハドソン
・ロック・ハドソンはハリウッド黄金時代の最後のロマンティック・アイドルである。『ジャイアンツ』『武器よさらば』『夜を楽しく』『恋人よ帰れ』『花は贈らないで』などの名作がある。
・1985年彼は「エイズ」で亡くなる。彼をハリウッドにスカウトしたヘンリー・ウィルソンがホモセクシュアルであった。彼はフィリス・ゲイツと結婚するが、長く続かなかった。男性の愛人にトム・クラーク/マーク・クリスチャンがいた。
※この本はやたらにホモセクシュアルの話が多い。
<1990年代>
○ベルサーチとアメリカン・デカダンス
・1997年7月マイアミで世界的デザイナーのジャンニ・ベルサーチが射殺される。この事件はサウス・ビーチ/セレブリティ/ホモセクシュアルから大きなニュースになった
・1978年彼は独立し、「ベルサーチ」はアルマーニ/フェレと並ぶイタリア・ブランドになった。彼にはホモセクシュアルとマフィアとの関係の噂があった。
・事件の犯人は直ぐに、アンドルー・クナナンと分かった。彼はサンディエゴで生まれ、ゲイボーイとして生活していた。
・1997年4月彼はサンディエゴを出発し、ミネソタ州/イリノイ州/ニュージャージー州で4人を殺害した。ベルサーチは5人目の犠牲者だった。しかし事件の数日後、自殺する。彼はベルサーチに助けてもらおうとして断られ、彼を殺害したと思われる。
○クリントンのセクハラ騒動
・1990年代はクリントン大統領の時代であった。この時代はスキャンダルまみれの時代であった。スキャンダルで政敵の足元をすくう政治を「ゴッチャ政治」(I`ve Got You)と呼ぶ。
・彼はJ・F・ケネディに憧れていたが、女にだらしないのも似ている。1992年大統領候補になった時点で、ジェニファー・フラワーズが性生活を『ペントハウス』に告白した。「ホワイトウォーター事件」は重大であった。夫人ヒラリーが不正に絡んだとされた。この事件は2000年にやっと解決する。
・彼の女性スキャンダルは次々とニュースになった。モニカ・ルインスキーとの関係はマスコミに暴露され、1999年弾劾裁判を起こされる。弾劾裁判を受けた大統領は、彼とアンドルー・ジョンソン(1868年)しかいない。
○ダイアナの短い生涯
・1981年英国チャールズ皇太子とダイアナ・スペンサーは婚約した。彼は独身生活を楽しみ、カミラ・シャンドとは深い関係にあった。2人の関係は続き、ダイアナは過食と拒食を繰り返す。1992年完全に別居し。1996年離婚する。
・彼女は世界を漂流し、華やかなパーティに現れる、一方慈善活動を行った。彼女はジャンニ・ベルサーチとマザー・テレサに惹かれていた。
・彼女はエジプトの大富豪アルファイドと親しくなる。1997年彼女はパパラッチに追われ、事故死する。
○O・J・シンプソンの無罪
・1994年黒人のスポーツ・ヒーローであるO・J・シンプソンの元妻ニコール・ブラウン・シンプソンとロン・ゴールドマンが、自宅で何者かに殺された。ゴールドマンは巻き添えであった。彼女の葬式で、犯人とされたO・J・シンプソンは車で暴走し、警察との追跡劇になった。
・1969年彼はバッファロー・ヒルズに入り、有名人になる。白人で美人のニコールと結婚する。彼は彼女に嫉妬し、1990年代に別居する。1994年この事件が起こる。
・1995年最高裁判所で裁判が開始される。陪審員は黒人8人/ヒスパニック1人/混血2人/白人1人であった(※これは極端だな。宗教の話は聞いた事があるが)。弁護団「ドリーム・チーム」は人種カードを使い、彼は無罪になる。
○ウディ・アレンの重罪と軽罪
・ウディ・アレンはミア・ファローと出会い、映画『サマー・ナイト』『カメレオンマン』『カイロの紫のバラ』『ハンナとその姉妹』を生んだ。
・彼女はスンイなど6人の子供を連れていた。さらに1985年ディランを養子にし、1986年彼との間にサッチェルが生まれる。彼はスンイとディランを異常に可愛がった。しかし1990年代2人の仲は旨く行かなくなる。
・1992年彼は子供達の「保護監察権」を求める訴訟を起こし、スキャンダルになった。70年代は自己中心の時代でセックスに対し寛容であったが、80年代からは懺悔を求められる時代になり、アレンは不道徳として弾劾された。
・1998年彼はスンイと結婚する。この年現代社会を諷刺する『セレブリティ』を作っている。
<エピローグ>
・人は有名人が転ぶと笑う。スキャンダルの歴史は、人間の愚かさ/卑しさの歴史と云える。
・人間は賢くも愚かでもあり、純粋でも極悪でもある。その中途半端さから人間は面白い。
・人間はまた転ぶであろう、どんな転び方をするのか楽しみである。どうせなら派手に転んで欲しい、しかしまた起き上がって歩き始める。
<あとがき>
・「陰謀」「スパイ」「ホモセクシュアル」「スキャンダル」と世界史を辿るシリーズが4冊になった。※本書は4冊目か。
・著者がスキャンダルに興味を持った切っ掛けは、ハリウッド・スターのスキャンダルを題材にした『ハリウッド・バビロン』の翻訳である。
・当初は18世紀以後のスキャンダルを対象に考えていたが、古代/中世のスキャンダルも面白いので本書に含めた。