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『近世広島のやきもの-江波焼』倉橋清方を聴講。

江戸時代、広島の江波で陶磁器を焼いていました。その概要を教えて頂きました。
広島高速3号線の工事を機に、「まぼろしの江波焼探偵団」が、発掘/調査を行いました。

江波に窯があったとは、驚きです。土も炭も外部から持って来る必要があったと思います。
九州の陶工は「朝鮮出兵」の時に連れて来られた人達ですが、広島の場合はどうなんでしょう?

かなり駆け足になったのが残念です。

キーワード:<広島藩と竹屋窯>保田家文書/西村晃、<E・S・モース>陶磁器収集、<江波窯>藩主視察、<江波窯の破壊>採集、<江波窯の開窯当時>瓦焼き窯/陶磁器(登り)窯/楽焼き窯、<誤認された江波焼>志田焼、<多様な江波焼>広島高速3号線(広島南道路)、小皿/湿台、<「江山」銘>雅号/雅称、<江波窯の終焉>休職

<竹屋窯の誕生と広島藩の国産奨励>
・文化14(1817)年広島藩は物産方を設置し、地産地消を推奨した。
・備後には姫谷焼(全国に流通)/洞山焼(府中)/岩谷焼(日用品)/木之庄焼/鞆焼があった。安芸には仁方・野呂焼/竹屋焼/江波焼/淵崎焼があった。

・西村晃氏による『保田家文書』(保田家は商人)の研究で、竹屋町にあった「竹屋窯」の実態が解明されています。「竹屋窯」「江波窯」の窯元は共に油屋忠右衛門でした。「竹屋窯」には7室の「陶磁器(登り)窯」と「楽焼き窯」があった(窯の種類は後述)。

<E・S・モース来る!>
・エドワード・S・モースは米国人で、1877年初来日し、「お雇い外国人」となった。本来は動物学者ですが、大森貝塚を発見している。
・彼は全国から4,646点の陶磁器を収集した(広島21点)。収集した陶磁器は「ボストン美術館」が保管している。※多量だな。持ち帰るの大変そう。

<江波窯の築窯と整備>
・『村上家乗』に、文政11(1828)年江波皿山の南側に藩の資金で窯を作ったと記録がある。
・『今中大学日記』に、文政12(1829)年藩主が皿山の窯を視察している。

<江波窯関連遺跡の破壊>
・以前は江波皿山と江波山は、桜山などの微高地で繋がっていた。昭和7(1932)年微高地を崩し、西の養魚場を埋め立てた。これが江波窯混乱の原因になる。
・「江波窯」跡から昭和10(1935)年/昭和48(1973)年に陶片などを採集した。また広島高速3号線の建設に伴い、陶磁器などを採集した。

<開窯当時の江波>
・「江波窯」には「瓦焼き窯」「陶磁器(登り)窯」「楽焼き窯」があった。
・「瓦焼き窯」は窯の形から、ダルマ窯とも呼ばれる。熊野町光教坊の鬼瓦は、天保3(1832)年銘の江波製である。
・「楽焼き窯」では小規模の物を焼いた。「宮島焼」は江波で製作した。宮島の「御床浦」の土を混ぜて焼いた。

<誤認された江波焼>
・昭和7(1932)年の埋め立てで、窯跡の主要部が破壊され、混乱の原因になった。
・採集された陶片の多くは佐賀県塩田町の「志田焼」だった。

<多様な江波焼>
・広島高速3号線(広島南道路)の工事区域から、夥しい陶磁器片や窯道具が採集された。
・採集品を4つに分類した。変形した物/数量の多い物/半製品/窯道具を第1類とし、これを「江波焼」とした。
・「江山」銘のある皿片/小皿20枚/半製品/湿台(轆轤に乗せる円筒形の台)などが採集された。

<「江山」銘は個人の雅号か窯の雅称か>
・「江山」銘が染付けられた皿片(磁器)や「江山」印が押された陶器が4件ある。※判定結果は「窯の雅称」だったと思います。

<江波窯の終焉>
・『御領分諸色有物帖』に「今は休職している」と記述がある。『平村之内南之濱 手製陶器皿山記録』に「新五郎が伊予に引き抜かれた」とある。これらより断続的に焼かれたと思われる。

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