『ブラジルの環境都市を創った日本人』服部圭朗を読書。
日本の大学を出て、ブラジルのクリチバ市に移住し、公園などを整備した中村ひとし氏の半生記です。
彼が日本に残っていたら、創造的な業績を残せなかったと思います。
ブラジルは重要な国なので、もっと学ぶ必要がある。
お勧め度:☆☆☆(夢がある)
キーワード:<はじめに>クリチバ/環境都市/ジャイメ・レルネル、<奇跡を起こした日本人>中村矗、<ブラジルに発つまで>バスケットボール/ハンドボール、久美子、ブラジル、<ブラジルへの旅立ち>実験農場、公園庭園係、<公園づくり>造園会社、<レルネルとの出会い>イグアス公園、街路樹、公園部長、道路公園/花通り、バリグイ公園、動物園、公園部庁舎、<パラナ州への転職>環境教育、<環境局長への昇進>自転車道路、ファベラ/ゴミ買いプログラム/ゴミとゴミでないプログラム/緑との交換プログラム、環境寺子屋、<ランドスケープ・アーキテクトとしての活躍>環境市民大学、植物園、9月7日通り、タングア公園、チングイ公園、パサウナ公園、大坂花博、針金オペラ座、伐採禁止条例、<ローカル・アジェンダ開催とグレカ市長>ラファエロ・グレカ、シティズンシップ・ストリート、知識の灯台、日本庭園、<パラナ州の環境局長>綺麗な湾、牡蠣養殖、マルンビル山、メル島、観光産業、パラナグア、パルミート、河川保全、農薬ゴミ、植林事業、環境保全税、パラナ松、平和の鐘公園、収賄疑惑、<黄金時代の終焉>環境市民大学、ブラジリア、<宴会のあと>解決、<取り巻く人々>ジャイメ・レルネル、せいこ/きよし、久美子、<南米から見た日本の課題>協調性、実行力、人を大切にする、<贈り物>生き様
<はじめに>
・クリチバ市(以下クリチバ)のバリグイ公園には緑があり湖があり、人々が休日を楽しんでいる。羊は草を食みながら、ゆっくり移動している。
・テレビ塔に登ると、都心から伸びる4本の道路に高層ビルが整然と並んでいるのが見える。高層ビル街に行くと3本の道路が平行に走っている。両脇の道路は片側通行である。中央の道路の真ん中はバス専用道路で、赤色の三連バスが走っている。
・クリチバ中心部にある「オソリオ広場」から、長さ1Kmの歩行者専用道路「花通り」(後述)が伸びる。この道路には花壇やベンチが設置されている。
・クリチバはパラナ州の州都で、人口180万人(大都市圏360万人)の地方都市である。しかしクリチバは交通問題/環境問題を解決した環境都市である。
・著者は米国に留学していた90年代前半、環境先進都市としてクリチバを多く学んだ。その後クリチバを度々訪れ、2004年『人間都市クリチバ』を著した。
・クリチバの都市開発は、1971年ジャイメ・レルネルの市長就任に始まる。中心部の「花通り」がその最初である。また交通計画と土地利用計画の整合性がその特徴である。人口1人当たりの緑地は49㎡もある。ファベラ(スラム)地区に対する政策も秀逸である。
<奇跡を起こした日本人>
・環境都市クリチバを築いたのは市長レルネル/ラファエロ・グレカ/カシオ・タニグチではなく、中村矗(ひとし)である。
・クリチバには自然の観光地がなく、人工の植物園/タングア公園/チングイ公園/バリグイ公園/針金オペラ座/環境市民大学が観光地になる。これらは全て中村が作った。
<ブラジルに発つまで>
・1944年中村ひとしは疎開先の千葉県で生まれる。父は船乗りの穆(きよし)、母は精子(せいこ)である。小学校1年の時、神戸市に引っ越す。
・魚崎中学校でバスケットボール部に入る。この部は名門だった。中学2年で明石市に引っ越し、大蔵中学校でもバスケットボール部に入部する。
・進学校明石高校でもバスケットボール部に入部する。背は低いが機敏な選手であった。性格は優しく、分け隔てなく誰とも接した。
・大阪府立大学の農学部造園科に入学する。バスケットボール部に入るが4部と弱く、面白くないので、ハンドボール部に移る。彼は両手で放つ、風変わりなシュートで得点をよく取った。2部で優勝するが、3年連続で1部昇格はならなかった。
・彼は妹加代子に頼まれ、明石高校の女子バスケットボール部のコーチを始める。当部は兵庫県ベスト4/関西ベスト4の成績を収める。この時後に妻となる久美子と出会う。久美子は大阪教育大学を卒業し、ブラジルでは日本語学校の教員を勤める。
・彼は大学で海外農業研究会にも入会し、ブラジルに行く。当時のブラジルの農業は投機的で、彼はブラジルに農業学校を作る夢を持った。両親は息子のブラジル行きに反対した。久美子の両親にもこれを伝えるが、同じく反対された。大学院を卒業し、弘前のリンゴ農家などで2年間バイトする。
<ブラジルへの旅立ち>
・1970年中村ひとしは神戸港を発つ。彼はリンゴの苗木を持って行き、ブラジルに植えるが、旨く行かなかった。後述する小川和己がリンゴ栽培を成功させ、サンタ・カタリナ州はリンゴの大生産地なる。
・彼はブラジルに入国すると、クリチバの南西にあるコンテンダ市の実験農場に入る。ここは大学の1年先輩山下が管理していたが、赤字経営であった。中村達は7Km離れた先生リタ・シッピオルの家でポルトガル語を習った。また中村達は経営改善のためブラジルの歴史/地理のゼミを開いた。これは日系移民に好評で、日系移民が集まった。
・案の定、実験農場は倒産する。ポルトガル語の先生シッピオルの従兄がクリチバの建設局長をしており、公園庭園係に入れてもらう。これは彼の夢からすると、本意ではなかった。しかしこの2ヶ月後(1971年1月)レルネルが市長に就くのである。
・当時クリチバは人口60万人で都市整備されておらず、交通渋滞が問題であった。1964年市は都市計画の案を公募した。これで最優秀賞を取ったのが、当時パラナ大学の学生であったレルネルらのグループであった。この案は4本回廊に沿って都市を拡張させる案で、公共交通システム/道路システム/土地利用/歴史保全が考慮されていた。1966年クリチバはこの案を基に「マスタープラン」を作る。
・中村は市営農場の管理をしていたが、給料は最低賃金なので少なく、国際協力機構(JICA)の試験を受けると合格した。転職を考えていると市が引き止めに入り、設計技師に格上げされ、給料が3倍になった。
・1972年久美子が大学を卒業し、ブラジルに来る。しかし1ヶ月後に大事故に出遭う。山下が運転する車の後部座席に2人は乗っていたが、スポーツカーと正面衝突する。2人は車から投げ出され、中村は10ヶ所骨折し、3ヶ月入院する。
<公園づくり>
・当時クリチバには公園は「パセヨ・プブリコ」しかなく、中村の仕事は、この公園と街にある広場の管理であった。しかしレルネルはパリに留学し、公園の重要性を認識していた。
・中村は土日使って、庭師の仕事をしていた。受注が順調に増え、東京農業大学出身の福西、コンテンダの農場仲間の山下/工藤、トマト栽培をしていた中谷が加わった。中谷は苗木の栽培に優れていた。会社名を「エデンの園」とした。妻久美子はブラジル人の弁当を作り、事務/経理の仕事をし、電話番もした。一方平日は日本語学校「純心学園」で教員をした。彼は公務員としてランドスケープを管理し、一方でランドスケープの設計をしていた事になる。この会社はパラナ州で最大の造園会社に発展する。
・1976年両親がブラジルに来て、一緒に住むようになる。父きよしの忠告で会社の名義が問題になる。彼は会社の名義を山下として会社を辞める。しかしこの会社は間もなく閉鎖になる。設計者中村を失った事が大きかったようである。
<レルネルとの出会い>
・当時の建設部長は土木出身のため都市計画を理解していなかった。”緑を重視”するレルネルは、公園庭園係を建設部から市長秘書室付に移し、十分な予算を付け、街路樹などの植樹を行った。それを担当したのが中村であった。
・レルネルの4年間の市政を引き継いだのがレルネルの友人のサウル・ハイーズで、中村は公園課長補佐に昇進し、”緑の仕事”を継続する。
・1972年レルネルは公園整備事業に取り掛かる。クリチバの南東を流れるイグアス川の川沿い800ヘクタールを「イグアス公園」として整備する(※800ヘクタールは1Km×8Km相当)。この下流に有名な「イグアスの滝」がある。クリチバは源流に近いので水量は少ないが、度々洪水を起こした。また不法占拠も絶え間なくあった。この場所は砂を取っていたため穴が沢山あり、それを繋いでボート競技場にした。
・1977年中村は公園課から市長直属で計画権限を持つ都市計画研究所「イプキ」に出向する。彼はここで街路樹と照明のゾーニングを行う。重要な場所には「イッペイ」「カシャ」を植えた。「イッペイ」はブラジルの国樹で、黄色の花が咲く。
・1979年レルネルが市長に返り咲く。これを機に公園庭園係は市長直属の公園部に格上げされる。この公園部の部長に中村が任命される。管理職に就くにはブラジル国籍が条件のため、彼はブラジルに帰化する。この公園部長の時、道路公園/バリグイ公園/動物園/公園部の庁舎などのプロジェクトをなす。
・レルネルが1回目の市長で最初に取り組んだ事業が、「11月15日通り」(通称花通り)の歩行者専用道路化である。当時自動車が増え、中心部の商店街のアメニティや歩行者の安全性が損なわれていた。レルネルは商店街の店主の反対を押し切って、これを強行した。しかし結果的には店を訪れる人が増え、商店街の売上は増えた。この”人間のための道路空間”がクリチバの都市計画の方針になる。
※「花通り」は「Google ストリートビュー」で見れます。
・「イプキ」が計画するスポーツ施設はミニゴルフやスカッシュであったが、これらは上流階級のスポーツで広い面積を必要とし、管理費も高く付いた。中村はバスケットボールやフットサルの施設を望んだため、計画権限を「イプキ」から公園部に移す提案をする。これを認められ、彼は現場の状況に合わせた道路公園を作る。
・クリチバの西部をイグアス川の支流バリグイ川が流れていた。この川も洪水と不法占拠があり、公園部長になった彼は、ここに40ヘクタールの「バリグイ公園」を作る。
・1979~82年彼は「イグアス公園」に隣接する場所に57ヘクタールの動物園を作る。彼は設計図を作らず、現場でアドホックに指示を出し、これを完成させた。妻久美子は「夫が最も没頭したプロジェクト」と述懐している。彼はこの場所に自生するパラナ松を極力残し、また当時はユーカリの電柱がコンクリートの電柱に代る時期で、ユーカリの電柱を利用した。
・1983年公園部はご褒美として公園部の庁舎を「バリグイ公園」に建てる事を許される。彼は庁舎とは別に「隠れ家」(部長室)を作ったが、レルネルに見つかり、奪われて市長室になった。
<パラナ州への転職>
・レルネルの2回目の4年の任期が終わると、中村は公園部長から係長に格下げされる。ほどなく彼はパラナ州総務省の修繕部に出向し、学校の修繕に当たる。
・1985年ブラジルは軍事政権から民主政権に移行し、それに伴いクリチバ市長選も行われる。ここでジャイメ・レルネルに勝利したのが弁護士出身のロベルト・ヘキオンであった。ヘキオンは彼を出向から戻し、公園部のヒラ職員にし、弁当を運ぶ仕事を与える。彼はこれに耐え切れず、市の職員を辞める。
・就職活動を始めるが、パラナ州から来て欲しいと言われ、州の職員になる。彼は中学校長に環境教育のオリエンテーションを行い、賛同した学校で環境教育を行った。環境教育は生徒に校庭で樹木を植えさせるなど、実践的であった。
<環境局長への昇進>
・1989年レルネルは3回目のクリチバ市長に就く。中村はパラナ州に籍を置いたまま、クリチバの環境局長に就く。彼は建築家の組合/土木技術者の組合などのシンジケートに参加しておらず、この人事には批判も多かった。彼は「ベレン川で魚を釣ろう」を掲げ、ベレン川沿いに35Kmの自転車道路を整備する。
・クリチバにもファベラ(スラム)があり、そこはゴミが溢れ、ゴミ収集車も入れない悲惨な状況であった。彼はレルネルからファベラの改善を指示される。しかしファベラの住民はインセンティブがないと動かない人達である。そこで彼は、ゴミをバス・チケットと交換する「ゴミ買いプログラム」を考案する。彼はこれをファベラのリーダーに実施させた。これは驚くほどの成果を収める。
・しかしこの交換されたバス・チケットを父親が奪い換金し、麻薬/お酒を購入する問題が起きた。そこで彼は豊作不況で余った野菜と交換するように変えた。これらのアイデアは、彼が憶する事なくファベラ乗り込んだ事で生まれた。
・1990年この「ゴミ買いプログラム」は国連で表彰される。レルネルは表彰状のコピーし、全リーダーに手渡した。
・彼は「ゴミ買いプログラム」を実施する前に「ゴミとゴミでないプログラム」を実施していた。ブラジルではリサイクル可能なゴミも、全て埋め立てていたため、ゴミを分別する習慣がなかった。そこで小学校で環境教育を行って、ゴミの分別を教えた。
・このプログラムを浸透させるため、切らずに済んだ木の本数(例:91万・・本)を市役所に掲げたり、子供達に分別収集に応じて、再生したおもちゃやノートを与えた。
・ゴミ収集車が入れる低所得者の居住地では、「緑との交換プログラム」を実施した。これはゴミ4に対し、野菜1で交換するプログラムで、「ゴミ買いプログラム」の延長に当たる。「ゴミ買いプログラム」を卒業した地域は、この「緑との交換プログラム」を実施した。
・彼は「環境寺子屋」を作り、ファベラの学校に行けない子供に環境教育を行った。当施設には農園/遊び場/スポーツ広場/ヤギ飼育場などがあり、約300人の子供を収容した。作物つくり/料理/皿洗い/掃除などを通して環境教育を行った。
・ファベラはその住人でないと、その状況を理解できない。そのため「環境寺子屋」の先生には、子供達の母親を当てた。それでも軌道に乗るまでは、ひと悶着ふた悶着あった。施設に包丁/食器/冷蔵庫などを置いていたが、それらが盗まれた。しかし「環境寺子屋」が自分達のための施設であると理解すると、それは止んだ。
・現在は「環境市民大学」が「環境寺子屋」を運営しているが、資格を持った先生が教え、食事は業者が作る給食になっている。彼はこれに疑問を感じている。
※彼は本当に現場主義だな。
<ランドスケープ・アーキテクトとしての活躍>
・次に中村がクリチバの環境局長時代に手掛けたランドスケープのプロジェクトを紹介する。彼はバリグイ河川敷や石切り場跡など、使いようのない土地を確保し、緑地にした。
※これらのランドスケープは全て「Google ストリートビュー」で見れます。
①環境市民大学
・クリチバ北部の石切り場跡に「環境市民大学」を作った。石切り場の穴を池にし、沼地の上に木橋で道を作った。1992年「環境市民大学」は開校し、市民に環境政策の説明/タクシー運転手に環境都市クリチバの講義などを行った。
②植物園
・中心部に近い場所にゴミ捨て場があった。そこを植物園にした。土地の所有者がフランス人だったので、幾何学的な花壇を作った。また香水の瓶を思わせるガラス張りの温室を作った。この温室はクリチバのTシャツにも描かれ、クリチバのランドマークになっている。
・開園して間もなく、温室のガラスが割られる被害があった。犯人は近くのファベラの若者であった。彼は彼らを植物の管理人として雇った。
③9月7日通り
・都心から西に延びる4車線の大通り「9月7日通り」があった。ここは住宅地であったが、交通量が多く危険であった。そこで道路を2車線にし、左右を自転車専用道路にし、植栽を施した。
④タングア公園
・クリチバ北西部の石切り場跡で、産業廃棄物の処分地になっていた場所に「タングア公園」を作った。土地は「開発権移転制度」を適用し、民間から確保した。石切り場の穴は池にし、崖に滝を作った。彼は「タングア公園」でも設計図なしで作った。この手法だと樹木や地形をそのまま活用できる。
⑤チングイ公園
・バリグイ川はよく洪水を起こした。そこで「バリグイ公園」と「タングア公園」の間に、38ヘクタールの「チングイ公園」を作った(※38ヘクタールは200m×2Km相当)。洪水を防ぐことが最大の目的だったため、池を多く配置した。土地の所有者がウクライナ系移民だったため、ウクライナ風の建物を建てた。隣接する土地はクリチバ屈指の高級住宅地になった。
⑥パサウナ公園
・クリチバはイグアス川から取水していたが、水が不足してきたので、パサウナ川に貯水池を設ける事になった。そこで貯水池の周辺650ヘクタールを「パサウナ公園」として整備した(※650ヘクタールは1Km×6.5Km相当)。3ヶ月後にヘキオンが州知事に就くため、突貫工事になった(貯水池は州の管轄)。
⑦花博
・1990年大阪で「花博」が開かれた。本来大阪市/大阪府と姉妹都市のサンパウロ市/サンパウロ州が参加する予定であったが、サンパウロ市が乗る気がなく、クリチバが出展する事になった。彼はそこに「花通り」を再現する。しかしクリチバの予算が取れなかったため、自腹を切った。また連日徹夜作業になった。しかし14の賞を受賞し、結果的には大成功であった。また日本の「花の壁」「花の塔」などの植栽技術の高さを認識した。さらに大阪市と交流が始まり、1994年環境に関する姉妹都市協定を結んだ。
⑧針金オペラ座
・ブラジルの劇関係の全国大会がクリチバで開かれる事になった。適当な劇場がないため、クリチバ北部の石切り場跡に「針金オペラ座」を急遽作った。劇場は総ガラス張りでクリチバのランドマークになった。
⑨伐採禁止条例
・ブラジルでは連邦政府により樹木の伐採が禁止されていたが、罰則も監視体制も不十分であった。そこで彼はその権限を市に移譲してもらった。樹木を伐採した場合、1本に付き2本の植樹を強制した。パラナ松(クリチバの木)/イッペイ(ブラジルの国樹)を伐採した場合は4本の植樹を強制した。
・1994年環境教育プログラム「水に注意しましょう」を実施する。これは小学生に水を検査する用具を提供し、水の変化を調査させるプログラムである。
・1995年彼は環境局長を辞めるが、市の18%が緑地になり、1人当たりの緑地は49㎡になった(東京は4㎡)。
<ローカル・アジェンダ開催とグレカ市長>
・1992年レルネル市長の最後の年、リオデジャネイロで国連の「世界環境会議」が開かれた。それに合わせクリチバで「ローカル・アジェンダ」が開催された。しかしそのための会議場がなく、「バリグイ公園」に会議場を作った。この会議により、クリチバが環境都市として世界に知られるようになる。
・レルネルはバス停留所の施工を建設局でなく、中村の環境局に任せるなど、彼はレルネルの”切り込み隊長”として働いた。
・レルネルが次の市長に推薦したのはカシオ・タニグチでなく、ラファエロ・グレカであった。彼もグレカを応援し、グレカは市長に当選する。
・グレカは市長になると「シティズンシップ・ストリート」「知識の灯台」を作った。「シティズンシップ・ストリート」はバス・ターミナルに設けられた公共施設で、行政サービス/商店/スポーツ施設/レジャー施設を収容している。「知識の灯台」は小学校に隣接する小さい図書館で、子供達に勉強の場を与えた。
・またグレカは多様な民族の文化/歴史を記念する公園を作る。「ドイツの森」「ウクライナの公園」「イタリアの門」「日本庭園」などを作る。「日本庭園」には金閣寺に似た建物が建てられた。
<パラナ州の環境局長>
・1994年レルネルはパラナ州知事に立候補する。レルネルの「クリチバを見て欲しい」との選挙方針から、中村はクリチバのバリグイ公園/植物園/環境市民大学/針金オペラ座などを巡る「観光ツアー」を企画し、州の人々に見てもらう。この「観光ツアー」は評判になり、最初はバス1台だったが、20台位に増える。これによりレルネルはパラナ州知事に当選する。
・レルネルはパラナ州知事になると、まず組織改革に当たる。従来は縦割り組織であったが、全ての企画を企画局で行うようにする。そしてその企画局長にカシオ・タニグチを任命する。
・また環境局長に中村を任命し、環境局の権限を強化し、公共土木事業も行えるようにした。これにより河川管理/森林保全も環境局の仕事になる。ちなみにパラナ州の面積は日本の約半分で、人口は1000万人を超える(※広大だ)。彼はクリチバ(1992年)を始め、8つの自治体の名誉市民になる。以下に彼のパラナ州環境局長での仕事を紹介する。
①「ゴミ買いプログラム」
・パラナ州の海岸は自然環境が保護され、動植物の採取が禁止されていた。そのため漁民は貧しかった。彼は「ゴミ買いプログラム」に相当する「バイア・リンパ」(綺麗な湾)を実施した。
②牡蠣の養殖
・彼はパラナグア湾で牡蠣の養殖を始める。ここの牡蠣は塩分が少なく、日本の牡蠣より美味しい。ブラジル人は牡蠣を常食しないが、ここ10年で魚市場で見かける機会が増えた。彼の長男健太郎はこの場所にある水産試験場で牡蠣養殖の研究をしている。
③マルンビル山の観光
・クリチバとパラナグアの間に大西洋海岸山脈が走る。中でも威容を誇るのがマルンビル山である。ドイツの開発銀行から融資を受け、登山ルートの整備し、放置されていた鉄道駅周辺を環境教育の場とし、宿泊施設などに改装した。
④メル島のエコ・リゾート整備
・パラナグア湾の湾口にメル島(蜜の島)がある。当時は麻薬パーティなどの乱痴気騒ぎの場になっていた。そこで彼はこの島を家族向けリゾート地に変える。
・店の営業時間を夜10時までにした。桟橋を整備し、無許可の渡船を禁止した。桟橋の整備は、本来は交通運輸局の仕事だが、環境局が行った。水の確保から1日の観光客数を5000人に限定した。
・これらの政策により、この地域を代表するリゾート地になった。なおこのメル島には自動車が走行できる道路はない。※宮殿があるな。
⑤衰退地域の観光産業
・マルンビル山の東に人口1万5千人のモヘテスがある。モヘテスはかつては金鉱脈があったが、当時は衰退していた。彼はモヘテスとマルンビルを結ぶ街道に、トイレ/売店/バーベキュー施設を整備した。保護地区でもエコ・ツアーのための施設を作れるように法律を改正した。また「パルミート」(※食用のヤシ)の苗木を作る農場を整備した。
・パラナグア湾の人口2万人のアントニーナやパラナ州北部の人口1万人のプリメイロ・デ・マイヨでも観光産業の促進政策を行った。
⑥パラナグアの再生
・パラナグアはパラナ州で最も歴史のある町で、最大の港町であり、州が手出しできなかった。ファベラでコレラが発生した事により、州の関与が始まる。彼はまずゴミ問題に取り掛かる。またゴミ捨て場になっていたマングローブの保護にも取り掛かる。今は小奇麗な街に変容している。※エクアドルでもマングローブの保護があった。
⑦パルミートの保全
・彼は「パルミート」に思い入れが強い。「パルミート」は食用として高く売れるため、種を作る成木になる前に伐採されてしまう。そこで彼は60レアル相当の生活用品(米、トイレット・ペーパー、オムツなど)と「パルミート」の種の交換を始める。その種で苗木を育てた。7年経過し種を作る成木になると、種の提供者に伐採の許可を出した。彼はこの制度を「緑の貯金」と呼んだ。
・彼はさらにパラナグアに「パルミート公園」を作り、そこに「パルミート博物館」を建て、環境教育を行った。
⑧河川保全
・円借款314億円を受け、河川の水質問題/農薬問題/下水処理問題に当たる。パラナ州にはイグアス川/ピキリ川/イヴァイイ川/チバジ川/パラナパネマ川があり、これらの河川敷を公園として整備した。
⑨農地でのゴミ対策
・彼はクリチバと同様にパラナ州でもゴミ対策プロジェクトを実施する。農地には農薬ゴミが問題があった。農薬の梱包物/使用済みの農薬を収集し処分した。
⑩貧しい農家の植林事業
・南に隣接するサンタ・カタリナ州との境にリオ・ネグロという町があった。ポルトガルの製紙工場をここに誘致した。そして貧しい農家に植林を委託し、苗木代/肥料代/技術代を製紙工場に負担させた。
⑪環境保全税の還元
・1995年水源地を有する自治体は土地利用規制が厳しいため、流通税の5%を自治体に還元した。人々の環境意識が高まっても、お金がないと対策が取れないからである。彼の長女で環境コンサルタントに勤める麻友美は、この制度が彼の環境局長時代の最大の成果と評価している。
⑫インディオ居留地区におけるパラナ松の保全
・パラナ州の南西部にインディオ居留地区があった。ブラジルの憲法でパラナ松の伐採は禁止されていたが、インディオはこれを伐採し、電気製品やアルコールなどと交換していた。パラナ州ではパラナ松が1%しか残っていない状況であった。
・本来インディオ居留地区は連邦政府の管轄であるが、彼はヘリコプターで乗り込み、酋長と「パラナ松を売らせない」「パラナ松を植えたら食物を与える」などで合意する。さらに森林警察の監視を強化させ、パラナ松の伐採を防いだ。
・パラナ州の南に隣接するサンタ・カタリナ州ラーモス移住地(フレイ・ロジェリオ市)に「平和の鐘公園」がある。この公園は、この地でリンゴ栽培に成功し、サンタ・カタリナ州をリンゴ輸出州にした小川和己が関係している。小川は長崎の被曝者であった。長崎県の国際親睦協会長がラーモスを訪れた時、小川が「平和の鐘」を送って欲しいとお願いすると、本当に送ってきた。
・1995年小川がパラナ州の環境局長中村に相談すると、彼は公園の整備を提案した。この提案がサンタ・カタリナ州議会で認められ、「平和の鐘公園」が作られた。この公園には折り鶴を彷彿させる記念碑や原爆資料館が建てられた。
・ブラジルでは賄賂が潤滑油の役割を果たしていたが、彼は決して賄賂を取らなかった。2000年「イタイプ・ダム」の建設で魚道の整備を行っていたが、地盤が軟弱で、これを強化し予算がオーバーした。これを正しく会計しなかったため、彼は収賄の疑惑を持たれ、地元の新聞に報道された。
・この疑惑は彼だけでなく、日本語学校の校長をしていた妻久美子/ランドスケープ事務所を設立した長女麻友美にも影響を与えた。正義感の強い麻友美は弁護士を雇って、裁判を起こした。彼女は裁判で勝訴し、新聞社は謝罪記事を掲載し、彼に弁償金を払う事になった。しかし彼は弁償金の受け取りを拒んだ。結局彼女が12万レアルの弁護士代を払った。
・環境局に「農地整備」セクションがあり、”土地なし農民”の対応を行っていた。”土地なし農民”は公有地を譲渡を要求するが、彼がこれを拒んだため、彼らが武器を持って環境局に押し掛ける事があった。しかし彼は何事もなかったように、彼らの間をスタスタと通って帰宅した。
<レルネル-中村の黄金時代の終焉>
・レルネルはパラナ州知事を2期(1995~2002年)務める。クリチバでは斬新な都市政策/交通政策/環境政策を行った。パラナ州では経済政策によって、同州のポテンシャルを顕在化させた。レルネルは200億ドルの投資を呼び込んだ。パラナ州には世界一の発電所「イタイプ・ダム」がある。レルネルはこの電力を売りにして、フォルクスワーゲン/ルノーなどを誘致した。
・中村はレルネルの”切り込み隊長”であったが、ルールに抵触する事もあった。そのためレルネルは法務局長に「中村の法律的失敗の後始末をしろ」と命じていた。
・レルネルの次に彼の天敵であるヘキオンが州知事に就く。彼は「環境市民大学」に逃げ込む(2003~07年)。彼はここでパラナ州の水道局と連絡を取り、イグアス川/パサウナ川の河川保護事業を行う。しかし「環境市民大学」では顧問的立場だったため、忸怩たる思いで仕事をしたと思われる。
・2007年彼はパラナ州環境局を退職する。彼は長女麻友美の環境コンサルタント事務所に籍を置く。しかし彼は引く手あまたであった。特にカシオ・タニグチがブラジリアの都市住宅局長に就くと、タニグチはレルネル・チームを招聘し、ブラジリアの公園事業を手掛けた。
・ブラジリアは1960年から供用されるが、当初の計画人口は50万人であった。しかし当時は200万人を超えており、世界で最も計画されていない都市であった。
・彼はパラノア湖畔の公園/衛星都市タグアティンガ市のタグア公園/ヌクリオ・バサンタンティ市のヴィラ・カウイなどの公園を整備した。また自転車道路を河川敷に整備した。
・彼のアプローチに感銘を受けた環境局長は、自生するセラードを1本伐採したら、30本の木を植える条例「ブラジリア・パークシティ」を制定した。
・2010年タニグチがブラジリアを去り、パラナ州に戻ると、レルネル・チームもブラジリアを引き上げた。
・2012年彼はパラナ州グアラパーバ市の「アリャカウ公園」を整備する。当公園は100ヘクタール(※約1Km四方)と広大で、博物館/人工池/環境教育施設などを配置した。
<宴会のあと>
・中村がクリチバを離れて20年経過し、「環境寺子屋」は前述したように大きく変容した。ゴミの分別は金属/ガラス/紙/プラスチック/その他の5つに分別されている。彼はこれらを批判的に見ている。2008年日系移民100周年を記念して「記念公園」が作られた。しかしこの記念館のデザインは斬新過ぎるため、彼はこれも批判している。彼はクリチバの強みは、”人の結び付き”と考えていたため、今はそれが失われていると感じている。
・パラナ州でも同様で、メル島ではコンクリートの建物が建ち、海岸も汚れ始めた。
・ここで彼の半生のまとめを終える。彼はブラジル規模/世界規模で活躍できる人材である。彼は「問題は解決である」をよく口にする。多くの人がそれぞれの課題に取り組む事により、良い社会になっていくであろう。
<中村を取り巻く人々>
○ジャイメ・レルネル
・ジャイメ・レルネルは中村の能力を見抜き、クリチバ/パラナ州で中村に活躍する場を与えた。クリチバで緑地が増大し、「ゴミ買いプロジェクト」などのプロジェクトは中村のアイデアであるが、彼のカリスマ性が余りにも巨大なため、中村の存在が見落とされている。
・1937年彼はクリチバに生まれ、市長を3期(1971~74年、1979~82年、1989~92年)務める。彼は”人を尊重”し、低所得者でも質の高い公共サービス/公共空間を享受できるようにした。それは彼が政治的意思/戦略/市民との結束などを強く意識していたためと思われる。
・彼はその後パラナ州知事を2期(1995~2002年)務める。そこでパラナ州の経済状況を改善させた。2003年「世界建築家協会」の会長に選出され、ブラジルを始めカラカス(ベネズエラ)/サンファン(プエルトリコ)/上海/ハバナ(キューバ)/アンゴラなどの都市計画/交通計画を策定している。
・彼は日本に何度か訪れているが、接待でなぜフランス料理を出すのか疑問視している。また下北沢などで、なぜ広幅員の道路を通すのかも疑問視している。
・彼は中村の長所/短所をちゃんと見抜いていた。中村には幾らでも予算を付けたが、弁護士を付けるのも忘れなかった。彼の妻は、「夫の機嫌が悪い時は、中村の話をする」そうである。
○母せいこ
・中村の母せいこの実家は木更津の醤油問屋である。彼女は教育熱心で、中村に進学校大蔵中学に越境通学させた。1976年彼女はクリチバを訪れ、そのまま住み着いた。そこで花屋を始めたが、ポルトガル語ができないのに商売は順調であった。
○父きよし
・中村の父きよしは松江市に生まれる。船会社に勤め、家に余りいなかった。彼は寡黙であった。2003年クリチバで亡くなるが、葬儀は盛大でインディオの酋長も参列した。
○妻久美子
・中村の妻久美子の父は校長先生で、母も教員であった。明石高校でバスケットボール部に入部し、中村の妹加代子と一緒になる。彼女は正義感が強く、ブラジルで車に乗っていて銃で脅され、車を奪われるが、これを友人の車で追いかけ、取り戻した事がある。この正義感は娘麻友美にも引き継がれた。
・彼女は単身ブラジルに渡り、直ぐに交通事故に遭い、日本語学校の教員をしつつ造園会社を手伝った。夫はその造園会社を他人に譲り、市役所は辞めてしまう。彼女はこれらに耐えた。しかし2000年の収賄疑惑には応えたようである。
・長女麻友美は環境コンサルタント会社/長男健太郎は牡蠣の養殖/次男規代典は神戸大学大学院で環境問題を学んでいる。3人共、父の仕事を継承した事になる。
<南米から見た日本の課題>
○日本人
・中村は日本のヒエラルキーな社会を嫌ってブラジルに渡った。しかし彼の発想/デザイン/仕事のやり方は日本的であり、クリチバの環境市民大学/オペラ座/イグアス公園/植物園なども日本的である。彼は日本で絵の技術を学び、ブラジルで絵を描いたと云える。彼は自然を生かすため設計図を書かない。これも日本的と云える。
・彼は大震災での日本人を見て、日本人の「協調性」を素晴らしいと思っている。一方で建築などをわざわざ外国で学ぶ事に疑問を持っている。また大震災で解決が最優先されるのに、東京電力/役所の石橋を叩いても渡らない行動に疑問を持っている。
○何よりも実行
・彼の「実行力」を評価する人は多い。彼がファベラなどを訪れると、「いつ環境局長に戻って来るんだ」と必ず言われる。彼はファベラのゴミ問題で、とことことファベラに入ったが、彼の部下は今でも尻込みしている。
・また「彼は絶対に諦めない」と語る人も多い。彼は規則を守る事より、プロジェクトの実行に価値を置いた。彼は「法律は悪い事を起こさないためにあるが、良い事を妨げてはいけない」と考える。
・彼の判断力が優れているのは、公園の芝刈りを羊にさせた事からも理解できる。これは維持費の節約/肥料/子供の楽しみになっている。
・役所が本気になれば、住民は協力する。この点を日本の政治家/公務員も理解すべきである。
・クリチバのバス政策は特異だ。最初はバス専用レーンを作った。利用客が増えると2台連節/3台連節と増やした。またチューブ・ステーションを作るなど、ダイナミックに展開した。
○人を大切にする
・彼もレルネルも人が好きで、人を面白がる点で似ている。彼は貧しさ/金持ち、頭の良さ/悪さに関係なく、分け隔てなく人と接する。
・彼の人に関するエピソードは多い。仕事に就けなかった福西を自分の造園会社で雇った。建設業者の親戚の学費を支援した。冬の工事現場にワイン5リットルと料理を持ち込んだ。クリスマスにシャンペン/鶏/お菓子などを部下に配った。パラナ湾では漁師と友達のように接した。
・ファベラでの成功は、住民に「ここは自分達の街だ」と思わせた点が大きい。「環境寺小屋」により住民は集まり易くなった。そこは手続き/予防注射などの行政サービスを提供する拠点になった。
・街路樹の水やりを市民にお願いした。レルネルは「クリチバを作ったのは、クリチバ市民」と言っている。
・これらの意識は日本と大きく異なる。日本では「ゴミは分別しないといけない」である。道路事業で住民から反対運動が起こっても、整備される。原発で反対運動が起こっても、反映されない。
・日本人は炊飯器/洗濯機/冷暖房、いずれもないと我慢できなくなっている。彼は「日本人は皆で水を汚し、高度で高価な浄化装置を開発している」「キャンディーを一つ一つ紙包装している。森林破壊をする一方で、快適な生活ばかり追求している」と矛盾を感じている。※日本は経済成長至上主義なので。
○周りを活かし、自分も活きる
・レルネル・チームにはカシオ・タニグチ/ラファエロ・グレカ/中村などがいるが、彼が一番レルネルに忠誠を尽くした。彼にもクリチバ市長/国会議員などの話があったが、タニグチ/グレカと違い、全て断った。
・ブラジル人は腰が重い、ただ動き出すと凄い能力を発揮する。彼はブラジル人を起動させるのが旨かった。
<中村ひとしと云う贈り物>
・彼は空間/社会を利用する人のために、その空間/社会をデザインした。ファベラのゴミはなくなり、子供達はすくすく育った。まるで”花咲じいさん”のようである。
・彼は「堂々と生きる」事を後輩に勧めた。今の日本の若者は社会に対し諦め観/無力感を抱いている。ブラジル人は「一度きりの人生」をよく口にする。彼のダイナミックで、自分に正直な生き様は、日本の若者に勇気/希望を与えてくれる。
・レルネルは「中村がクリチバに来てくれた事は、最高の贈り物である」と答えている。
<あとがき>
・東京でレルネルの講演会が開かれた。ある聴者がレルネルに近付き、「ゴミ買いプログラムには感動しました。あなたは天才ですね」と言った。しかし「ゴミ買いプログラム」は中村のアイデアである。彼は控え目なので、このままでは彼のクリチバでの功績が忘れ去られてしまう。これが本書を書く切っ掛けである。
・また今の日本人は官僚主義/サラリーマン根性/事なかれ主義で自分らしさを殺し、小さく纏まろうとしている。彼の生き様は現状の再考を促し、未来への希望を呈示してくれると思う。