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『黒いチェコ』益田幸弘を読書。

チェコの歴史を都市をベースに解説しています。
前半は首都プラハをベースに中世史/近世史を解説し、後半は5つの町をベースに近代史を解説しています。

チェコは強国ドイツ/オーストリアなどに囲まれ、頻繁に支配者が変わり、隣国ポーランドと似た歴史に思えます。
またチェコは歴史的事件に度々関わったのが分かります。さらに文化的にも重要な国と感じます。

都市ベースの解説は、歴史を解説するユニークなアプローチだと思います。
チェコとプラハの地図があれば、もっと良かったのですが。

お勧め度:☆☆

キーワード:<まえがき>神/人間、民族/国家、<プラハⅠ>ヴィシェフラッド城、レヴィー・フラデッツ、プラハ城、ヴァーツラフ1世、ルクセンブルク家/カレル4世/新市街/カレル橋/聖ヴィート大聖堂/金印勅書、ヤン・フス/フス戦争、<プラハⅡ>ハプスブルク家、ルドルフ2世、フェルディナント2世/30年戦争、マリア・テレジア/オーストリア継承戦争、オーストリア帝国、チェコ人/ソコル、ユダヤ人/カフカ、<プラハⅢ>第1次世界大戦/トマーシュ・マサリク、ナチス/ラインハルト・ハイドリヒ、エドヴァルド・ベネシュ、共産体制/プラハの春/ビロード革命、<クトナー・ホラ>銀山/プラハ・ダロッシュ、<チェスキー・クルムロフ>エゴン・シーレ、ロマ人、<テレジーン>ゲシュタポ/刑務所、要塞、ユダヤ人/ゲットー、<リディツェ>暗殺、破壊、<ズリーン>トマーシュ・バチャ/大量生産、都市計画

<まえがき>
・チェコは欧州のほぼ中央に位置する人口1千万人の共和国です。チェコの前身は「ボヘミア王国」であり、その最後の400年はハプスブルク家が支配した。1918年第1次世界大戦で「オーストリア=ハンガリー帝国」から「チェコスロヴァキア共和国」として独立するが、その後もナチス/ソ連の影響を強く受けます。これらの体制の転換が起こる度に、歴史は書き換えられた。

・17世紀の宗教をめぐる「30年戦争」を経て、啓蒙思想により「神」の概念は「人間」に変わった。19世紀には「民族」の概念が生まれ、「チェコスロヴァキア」と云う「国家」の概念が生まれた。「第2次世界大戦」後には社会主義国になり、1989年「共産体制」崩壊後は「グローバリゼーション」の波に飲み込まれていく。

<中世の幻 プラハⅠ>
・7世紀頃「プシェミスル家」の女王リブシェが「ヴィシェフラッド城」を築いたのが「ボヘミア」の始まりとされる。
・紀元前ケルト人が住んでいたが、ゲルマン人が侵入した。6世紀後半スラヴ人がプラハの北「レヴィー・フラデッツ」(右の砦)に定住した。9世紀後半、ここに伝説の王「ネクラン」が住んだとされる。

・870年「プシェミスル家」のボジヴォイ1世が「ボヘミア公」に就き、神話の時代が終わる。彼は「東ローマ帝国」から派遣された聖職者から洗礼を受けた。884年「レヴィー・フラデッツ」に最初の教会を建てる。彼はプラハに「プラハ城」「聖母マリア教会」などを築き、プラハに移った。

・プラハの「聖ヴィート大聖堂」は、ボジヴォイ1世の孫ヴァーツラフ1世が建てた「ロトゥンダ」(円形建物)が基になっている。ヴァーツラフ1世は聖人になり、クリスマス・キャロルに謳われている。
・この頃(10世紀半ば)のプラハの様子を、アラブ系ユダヤ人商人(※イスラム教徒?)が残している。プラハにスラヴ人/ロシア人/ユダヤ人/トルコ人が商売で訪れた。貨幣として「キラート」(デイゴの実。カラットの語源)や麻布が使われた。ドイツのハレから来る塩は貴重であった。

・1230年ヴァーツラフ1世(※こちらは公ではなく王)が「ボヘミア王」に就くと、旧市街(ヴルタヴァ川右岸)を濠/城壁で囲んだ。その名残が「ナ・プシーコピェ通り」である。彼はボヘミア/モラヴィアにドイツ人を呼び寄せた。彼はプラハ城下(ヴルタヴァ川左岸)の「マラー・ストラナ地区」も城壁で囲む。

・1306年ヴァーツラフ3世が暗殺され、「プシェミスル家」の男系が絶える。1310年「ルクセンブルク家」の「神聖ローマ皇帝」ハインリヒ7世の子ヨハン(ヴァーツラフ3世の妹エリシュカが妻)が、13歳で「ボヘミア王」に就く。1316年ヨハンにヴァーツラフ(後「神聖ローマ皇帝」カレル4世、「ボヘミア王」カレル1世)が生まれる。

・カレル4世はパリ宮廷で育つ。彼はフランス語/ラテン語/チェコ語など5ヶ国語に堪能であった。1333年プラハに戻る。1346年父ヨハンが亡くなり、「ボヘミア王」を継ぐ。
・彼はパリに似せ、プラハを改造する。「カレル大学」を創設する。また旧市街が手狭になったため、その外側に城壁を築き「新市街」を作る。「新市街」には馬市場(現ヴァーツラフ広場)/家畜市場(現カレル広場)/干し草市場(現セノヴァージュネー広場)などを作る。また「ヴィシェフラッド城」を再建し、「ナ・スロヴァネフ修道院」を建立した。プラハは欧州でパリに次ぐ最大級の都市(人口4万人)になる。ヴルタヴァ川の橋は洪水で流されていた。1357年彼は石橋(後カレル橋)の建設に着手する(完成は1402年)。1344年彼はプラハを大司教座にするため、プラハ城内に「聖ヴィート大聖堂」を建設する。

・1346年「神聖ローマ皇帝」ルートヴィヒ4世の対立王として、「ローマ教皇」クレメンス6世に支持され、彼は「ドイツ王」(神聖ローマ皇帝)に就く。「カノッサ屈辱」は1077年で、当時の教皇はアヴィニョンにいて、「バビロン捕囚」(1309~77年)と呼ばれ、教会の力が揺らいでいた。

・1356年彼は「金印勅書」を発布する。これは「神聖ローマ帝国」の憲法に相当し、31条からなる。これに7人の「選帝侯」を定め、「選帝侯」に裁判権/貨幣鋳造権/関税徴収権/鉱山採掘権/ユダヤ人保護権などを与えた。
・プラハは「神聖ローマ帝国」の首都として栄え、チェコの各地に”カレル”の地名がある。チェコ人は彼を”祖国の父”と見ている。
※カレル4世はこんな偉大な人なのか。

・1400年カレル4世の後を継いだヴァーツラフ4世は教会と対立し、「神聖ローマ皇帝」を廃位される。「カレル大学」からドイツ人などの外国人が去った。「カレル大学」の学長で聖職者のヤン・フスはチェコ語で説教を始める。これは「宗教改革」の先駆けである。ヴァーツラフ4世は彼を支持した。
・1410年ヴァーツラフ4世の異母弟「ハンガリー王」ジギスムントが「神聖ローマ皇帝」に就く。彼もフスを支持するつもりだったが、1415年フスは焚刑(ふんけい)となる。1419年フスを支持した人々が暴動を起こし、市長/議員を窓から放り投げる。間もなくヴァーツラフ4世が亡くなり、ジギスムントが「ボヘミア王」を継ぐと決まると、商人/職人が反乱を起こす(フス戦争)。
・1436年「フス戦争」は終結するが、翌年ジギスムントも亡くなり、「ルクセンブルク家」による約130年間のボヘミア支配は終わる。1438年「ハプスブルク家」の「オーストリア王」アルブレヒト5世(「神聖ローマ皇帝」アルブレヒト2世)が「ボヘミア王」に就く。

<同化と対立 プラハⅡ>
・カレル4世は「ルクセンブルク家」による皇帝世襲を目論んだが、それを成したのは「ハプスブルク家」であった。「ハプスブルク家」の「オーストリア王」ルドルフ4世はカレル4世の娘カテジーナを妻とした。彼は「選帝侯」に選ばれなかった事もあり、ボヘミアに対するライバル心が強かった。「カレル大学」に対抗し「ウィーン大学」を創立し、「聖ヴィート大聖堂」に対抗し「シュテファン大聖堂」を改築する。彼が今のウィーンの基礎を築いた。1365年彼は夭折するが、1438年アルブレヒト2世以降は「ハプスブルク家」が「神聖ローマ皇帝」を独占する。これは1918年ハプスブルク帝国(最後はオーストリア=ハンガリー帝国)が崩壊するまで、約500年間続く。
※「ハプスブルク家」は「ルクセンブルク家」の後塵を拝していたのか。

・1576年ルドルフ2世が「神聖ローマ皇帝」に就く。1583年彼は首都をウィーンからプラハに移す。彼は芸術家/文学者/科学者/天文学者/錬金術師などの文化人をプラハに招いた。彼は画家アルチンボルドの「だまし絵」を好んだ。ヨハネス・ケプラーもここで天体観測した。

・1617年「ハプスブルク家」のフェルディナント2世が「ボヘミア王」に就く。彼はプロテスタントを排除する。翌年プロテスタントがプラハ城に侵入し、役人を窓から投げ落とす。これが起点となり「30年戦争」(1618~48年)が始まる。1620年プラハの貴族とオーストリア軍(皇帝フェルディナント2世)が「ビーラー・ホラ」で戦い、彼は勝利する。彼はプラハの貴族27人を処刑にする。彼はカトリック以外の信仰を禁じる。
・ボヘミアは「領主制」から「絶対君主制」に変わる。皇帝軍人アルブレヒト・フォン・ヴァルトシュテインが「ヴァルトシュテイン宮殿」を建てる。しかし彼は1年後に皇帝により暗殺される。
・「30年戦争」末期、スウェーデン軍がプラハに侵攻するが、カトリックになったプラハはこれを撃退する。「30年戦争」により、ボヘミアの人口は170万人から95万人に減少する。プラハからプロテスタントが去り、ドイツ人などのカトリックが入って来た。街の建物はゴシック様式から、ルネサンス様式や大仰なバロック様式に変わった。
※フェルディナント2世は「分割相続」から「長子相続」に変えている。

・1740年マリア・テレジアの相続を認めないプロイセン/バイエルン/フランス/スペインは連合し、「オーストリア継承戦争」(1740~48年)を起こす。オーストリアは英国/オランダと同盟する。ボヘミアは一時(1741~43年)連合軍に占領される。
・彼女は義務教育/徴兵制/税制/行政機構などの改革を行う。
・1756年「7年戦争」が始まる。今度はオーストリアはフランス/ロシアと同盟する。フリードリヒ大王が率いるプロイセンは英国と同盟する。この戦いで、オーストリアはシレジアの大部分をプロイセンに割譲する。

・1805年チェコのブルノ近郊のアウステルリッツでフランス軍(ナポレオン)と神聖ローマ帝国/ロシアの連合軍が戦う。神聖ローマ帝国は敗れ、「ライン同盟」と「オーストリア帝国」に分裂する。

・プラハの貴族は音楽を愛した。1786年モーツァルトは『フィガロの結婚』を演奏し好評を博す。1808年「コンセルヴァトワール」(プラハ音楽院)が開校する。

・1848年フランス「2月革命」で王制が倒れ共和制になり、欧州で民族意識が高まる。1862年プラハに「ソコル」(プラハ体操協会)が設立され、チェコ各地に広まる。「ソコル」によりチェコ人としての連携が強められた。1867年に成立した「オーストリア=ハンガリー帝国」はドイツ人とハンガリー人による帝国であった。
・1868年プラハで「国民劇場」の建設が始まるが、これはチェコ語でオペラを上演するためであった。一方ドイツ人は、1888年「新ドイツ劇場」の建設を始める。こちらはドイツ語でオペラを上演するためであった。
・1879年チェコ語が「オーストリア=ハンガリー帝国」の行政用語として認められる。プラハ市議会は街路標示をチェコ語に統一する。「カレル大学」はチェコ語の授業を始める。学校/図書館はチェコ語系とドイツ語系に分かれる。

・13世紀の「ボヘミア王」オタカル2世はユダヤ人の私有財産を認めた。この時に建てられた「旧新シナゴーグ」は欧州最古のシナゴーグの一つである。18世紀初頭プラハは人口の1/4がユダヤ人になる。
・1883年フランツ・カフカはプラハのユダヤ人家庭に生まれる。彼の父ヘルマンは「シェーヒター」の出で、母は名家の出であった。彼はドイツ語の学校で学び、カレル大学の法学部で博士号を取得する。「労働者傷害保険協会」に勤める一方、小説を書き続け、『変身』『審判』『城』などを残した。多くのユダヤ人はユダヤ性を否定するが、彼は「イディッシュ劇団」に惹かれ、「イディッシュ語」を学び、イスラエルに移住する事を考えた。

<さまよえる街 プラハⅢ>
・1880年代ボヘミアは「オーストリア=ハンガリー帝国」の中で工業が発展する。ガラス/繊維/鉄鋼/機械が盛んになる。1891年プラハで「内国博覧会」が開かれ、ドイツ人は博覧会をボイコットするが、盛況に終わる。
・旧市街広場から新市街に通じる道は「パリ通り」と改名され、セセッション様式(ウィーン)/アール・ヌーヴォー様式(フランス)の建物が建てられた。「ヴィシェフラッド城」「聖ヴィート大聖堂」なども改築された。

・1914年サラエヴォで「オーストリア=ハンガリー帝国」の皇太子夫妻が殺害され、「第1次世界大戦」が始まる。サラエヴォはイスラム文化の中心都市で、オーストリアへの反発が爆発した事件であった。
・この大戦はチェコには不思議な戦争で、ロシアなどに住むチェコ人/スロヴァキア人が義勇兵「チェコスロヴァキア軍団」を組織し、「オーストリア=ハンガリー帝国」などの同盟国と戦っている。スロヴァキア人はハンガリーに抑圧され、オーストリアに抑圧されるチェコ人と同様の状況にあった。またチェコ人/スロヴァキア人は共にスラヴ人で言語も似ている。1917年ロシアが戦線から離脱したため、「チェコスロヴァキア軍団」はシベリア鉄道を経由し、東回りでフランス軍に合流する事になった。1918年8月日本は「チェコスロヴァキア軍団」の救出を口実に、「シベリア出兵」する。

・1918年10月トマーシュ・マサリクは米国フィラデルフィアで「チェコスロヴァキアの独立」(チェコスロヴァキア共和国)を宣言する。彼は民主主義を追求し、学校で民主主義を教えた。マサリクの名を冠した地名は各地にある。1920年代チェコスロヴァキアで優れた文化が育まれた。カレル・チャペック/ヤロスラフ・ハシェクなどが小説を残した。

・1929年「世界大恐慌」により、全てが覆る。チェコスロヴァキアも深刻な影響を受ける。ドイツでは「国家社会主義ドイツ労働者党」(ナチス)が生まれる。
・1921年の統計では、チェコスロヴァキアはチェコ人/スロヴァキア人66%、ドイツ人23%、マジャール人(ハンガリー人)7%などで構成されていた。1938年「ミュンヘン協定」によりズデーテン地方(ドイツとチェコスロヴァキアの国境地帯)がドイツに併合される。翌年チェコはドイツの「ボヘミア・モラヴィア保護領」になり、スロヴァキアはドイツの従属国になった。プラハにはドイツの旗が舞い、通り名/看板/ポスターはドイツ語が併記された。
・1941年ラインハルト・ハイドリヒが保護領の副総督に任命される。彼はナチスのチェコ支配を強めた。1942年5月英国にある亡命政府のエドヴァルド・ベネシュ大統領は副総督ハイドリヒを暗殺する。これにより統制はさらに強まった。※後述するリディツェと関係する。

・1945年5月5日プラハ市民は銃を持ってドイツ軍と戦う。5月11日プラハはソ連軍により解放される。
・大戦が終結すると、チェコスロヴァキアは「第3共和国」になる。ベネシュ大統領は「ポツダム協定」に従い、ドイツ系住民の市民権を剥奪した。その数は300万人に及んだ。ドイツ人が去った家にチェコ人が住み着いた(※後述するチェスキー・クルムロフと関係)。ベネシュ大統領はドイツに協力した工場を国有化する。チェコスロヴァキアはソ連が来る(共産体制)前から社会主義の地盤があった。

・1948年2月クーデターにより共産体制が始まる。13万6千人が粛清され、ヤーヒモフのウラン鉱山で9千人が強制労働させられた。1960年代に入ると共産党政権への批判が始まる。
・1958年ブリュッセル万博/1970年大阪万博でチェコスロヴァキア館は高く評価される。チェコスロヴァキアには自動車メーカーが3社あった。ブルノで「国際グラフィックデザイン・ビエンナーレ」が始まる。これは今でもデザイナーの登竜門になっている。

・1968年共産党第1書記アレクサンデル・ドゥプチェクは、「人間の顔をした社会主義」を目指し、改革「プラハの春」を始める。しかしワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアに侵攻し、改革は頓挫する。
・共産体制は価値観が逆転した世界であった。1940年代よりプラハの路面電車の終点には団地が作られ、パネラーク(パネル工法の建造物)が建てられた。美しい街並みは破壊は免れたが、高級レストランは安っぽい居酒屋になり、アール・ヌーヴォー様式の豪華ホテルはディスコになり、広場は養豚場になった。大学教授はボイラーマンになり、技術者はガードマンになり、作家は道路清掃夫になった。人々は監視し合い、誰もが密告者になった。国境は厳しく監視され、1万9千人の国境警備隊が監視した。

・1989年11月学生デモが行われ、これを機に体制がスムーズに移行する(ビロード革命)。このデモで秘密警察が死体のふりをして、これが逆に反体制を呼び起こした。
・1989年ヴァーツラフ・ハヴェルが大統領に就く。彼はブルジョワジー出身で、「憲章77」と云う人権グループを組織し、反体制運動をリードしていた。国営企業は株式により民営化された。多くの会社は「グローバリゼーション」の波に呑まれ、倒産または外資に吸収合併された。国名は「チェコおよびスロヴァキア連邦共和国」になるが、1993年それぞれ別の国になる。
・共産体制が崩壊すると「ルドルフ2世の時代のように、プラハは世界の文化の中心になる」と期待されたが、社会主義から資本主義に移行すると、文化は見捨てられた。チェコは宗教色が弱く、地方の名物料理/お土産もない。これはナチスや社会主義により、伝統/習慣が根絶やしにされたためである。

<光と影 クトナー・ホラ>
・13世紀(ボヘミア王はヴァーツラフ1世)クトナー・ホラの修道院が所有する土地で銀鉱脈が発見される。この銀山は約400年間(13~16世紀)採掘され、欧州の銀の1/3を産出した。鉱山は「聖バルバラ大聖堂」の下にあり、鉱夫はオイルランプを頭に付け、白い作業着で坑道に入った。※クトナー・ホラは「世界遺産」。

・ヴァーツラフ2世は「鉱山法」を定め、鉱山採掘権を王の権利とする。1300年/1303年「神聖ローマ皇帝」アルブレヒト1世がクトナー・ホラに侵攻するが、彼はこれを退けた。1403年「ハンガリー王」ジギスムントがクトナー・ホラを包囲し、異母兄の「ボヘミア王」ヴァーツラフ4世から多額のお金を巻き上げた。
・1300年ヴァーツラフ2世は国内にあった全ての造幣所を閉鎖し、クトナー・ホラに「中央造幣局」(イタリア宮殿)を開き、ここで純度938パーミルの銀貨「プラハ・ダロッシュ」を製造する。「プラハ・ダロッシュ」の純度は、ヨハンの時代に883パーミルに、カレル4世の時代に750パーミルに下がる。ヴァーツラフ4世の時代になると、「プラハ・ダロッシュ」の刻印がズレたり、なかったりするものがある。1419年「フス戦争」が始まるとクトナー・ホラも戦場になり、荒廃する。

・1526年フェルディナント1世が「ボヘミア王」に就き、「ハプスブルク家」によるボヘミア支配が始まる。1543年彼は大型銀貨「タラー」の製造を始める。これには「ザンクト・ヨアヒムスタール」の銀が使用された。1547年「プラハ・ダロッシュ」は製造中止になり、1727年クトナー・ホラは閉山する。

<死の街 チェスキー・クルムロフ>
・チェスキー・クルムロフはヴルタヴァ川の上流に位置し、”クルムロフ”は川の屈曲を意味する(※Googleストリートビューで見ると凄い)。14世紀貴族「ローゼンベルク家」がクルムロフに城を築いたのが始まりで、16世紀「ローゼンベルク家」はボヘミアの有力貴族になる。17世紀にルドルフ2世の所領になるが、その後は領主が代り、街は停滞する。1992年「世界遺産」になったのが、再興の切っ掛けである。しかし街の中心部に美術館「エゴン・シーレ・アート・セントルム」があるが、肝心なものが抜け落ちている気がする。

・1890年エゴン・シーレは生まれる。母の生家がクルムロフにあり、彼は度々訪れた。彼はエロティックな女性像も描いたが、クルムロフの風景画も描いた。グスタフ・クリムト(1862~1918年)の影響を強く受ける。彼は「ウィーン美術アカデミー」に入学するが、1909年退学し、クルムロフで画家生活に入る。
・彼はクルムロフをモティーフに『死の街』シリーズを描く。恋人ヴァリィ・ノイツィールの絵も描いた。アルトゥル・レスラーがウィーンで彼の絵を売った。しかし保守的な街の人の顰蹙を買い、彼はクルムロフを追い出される。
・1914年彼は「第1次世界大戦」に徴兵され、1918年スペイン風邪で亡くなる。

・1910年クルムロフは人口8,662人中、ドイツ系住民7,367人で、ドイツ人の街であった。「第1次世界大戦」が終結すると、チェコスロヴァキア軍が占領した。1938年「ミュンヘン協定」によりクルムロフを含むズデーテン地方がドイツに併合される。しかし「第2次世界大戦」が終結すると、チェコスロヴァキア領内の300万人のドイツ系住民は、市民権/私有財産を没収される。共産体制は誰もいなくなったクルムロフに「ロマ人」を移住させた。

・1989年共産体制が崩壊すると、クルムロフは”世界で一番美しい街”として観光化する。しかし一歩裏路地に入ると廃墟に出会う。やはりクルムロフは”死の街”なのだろうか。

<要塞と刑務所とゲットーと テレジーン>
・テレジーンは、プラハとドレスデンの中間にある。「第2次世界大戦」時、テレジーンは「ゲシュタポ」(ナチスの秘密警察)の刑務所であった。今は「テレジーン・メモリアル」として整備されている。
・刑務所には共産主義者/レジスタンス/戦争捕虜/政治活動家/規律違反したユダヤ人などが収容された。※刑務所としての詳しい説明があるが省略。

・1780年マリア・テレジアを継承した「神聖ローマ皇帝」ヨーゼフ2世は、プラハをプロイセンから守るため、要塞都市テレジーンを築いた。テレジーンは”テレジアの街”を意味する。テレジーンは小要塞(2.5万㎡)/大要塞(36万㎡)とその間の平地で構成され、サザエを二つ合わせた形をしている(※要塞としての詳しい説明があるが省略)。しかしテレジーンが要塞として使用される事はなく、「ハプスブルク家」は牢獄として使用した。
・「第1次世界大戦」が終結すると、「チェコスロヴァキア共和国」はテレジーンを刑務所として使用した。

・1944年6月「赤十字」は「ドイツ赤十字社」/SSからテレジーンに招かれる。ユダヤ人は街をきれいにし、オーケストラを演奏し、これを迎えた(※映画で見た気がする)。これにより「赤十字」は、ナチスによる”ユダヤ人の大虐殺”を見逃してしまった。
・1938年9月「ミュンヘン協定」によりチェコはドイツの保護領になる。しかしチェコ人/ユダヤ人の生活が急激に変わった訳ではなく、少しずつ確実に変化した。チェコはユダヤ人を最初に認めた国で、安住の地であり、ユダヤ人は「ゲットー」に住み、法律家/医師/音楽家/芸術家など様々な職業に就いていた。しかしナチスは商売相手をユダヤ人に限定したり、ユダヤ人の資格取得者を20%に限定するなど、徐々に規制を強めた。1939年9月ドイツがポーランドに侵攻すると、ユダヤ人に夜間外出禁止令が出され、短波ラジオの所持も禁止された。さらに電話の使用禁止/預金の凍結/自動車運転免許の剥奪などが行われた。

・1941年10月プラハのユダヤ人がポーランドの「ウッチ・ゲットー」に移送された。翌11月342人のユダヤ人がテレジーンに移送された。ナチスはテレジーンの小要塞を刑務所として使用し、大要塞をユダヤ人を「絶滅収容所」に移送するまでの一時的な抑留場所「ゲットー」として使用した。
・1941年11月プラハで召集されたユダヤ人は、所持金/貴重品/身分証明書を奪われ、テレジーンに移送され、以降番号で管理された。チェコ各地に9万人のユダヤ人がいたが、内7万6千人がテレジーンに移送された。
・テレジーンの「ゲットー」でユダヤ人は簡易住宅に住んだ。「ゲットー」にはSSの指令本部があり、チェコ人憲兵が警邏した。※「ゲットー」の詳しい説明があるが省略。

・1942年10月テレジーンから絶滅収容所「アウシュヴィッツ=ビルケナウ」への移送が始まる。計8万7千人が送られ、解放まで生き延びた人は3,800人であった。テレジーンではチフス/紅斑熱などの伝染病も流行った。絶滅収容所/ゲットーで生き延びたユダヤ人の運命も過酷であった。帰る家もなく、預けた財産は不明になり、親族/知人は誰もいなくなっていた。
・大戦が終わると、テレジーンは逆にドイツ系住民をドイツへ移送するための収容所になった。

<消された村 リディツェ>
・かつてプラハの西20Kmにリディツェと云う村があった。隣接するクラドノは鉄鋼業が盛んで工業都市になり、リディツェもその影響で発展した。しかし大戦中、ドイツはリディツェの住民を虐殺し、全てを破壊した。かつてはホラーク農場/聖マルティン教会/学校/共同墓地などがあったが、今は草原になっている。※現地の詳しい説明があるが省略。

・1942年5月27日「ボヘミア・モラヴィア保護領」の副総督ラインハルト・ハイドリヒが暗殺される。彼はチェコからチェコ人を追い出し、ドイツ領土にする役割を担っていた。
・ナチスは暗殺犯を見付ける事ができないでいた。6月3日クラドノ近くの工場で働く女性マルシュチャコヴァーに男性から手紙が届いた。彼女が休みだったため工場長が開封するが、謎めいた内容だった。ナチスはこの手紙から、リディツェに住むホラークを暗殺犯と結論付けた(実際は不倫を清算する手紙)。6月9日ヒトラーは保護領の国務大臣に「リディツェ壊滅指令」を下す。

・6月9日ゲシュタポ/地方警察官がリディツェを封鎖する。男性はホラーク農場、女性/子供は学校に集められた。女性/子供はトラックでクラドノに送られ、さらに女性184人はドイツの刑務所に、子供88人はウッチの刑務所に送られた。6月10日男性173人は銃殺される。
・リディツェの農機具/機械/布団/ラジオ/ミシンなどは強奪され、火が放たれ瓦礫となった。その後「ドイツ国家労働奉仕団」が来て、墓を暴き、全てを埋めた。この作業は翌1943年一杯続いた。

・1945年4月生き残った女性143人が故郷に帰る。彼女達は子供の発見を望むが、見つかったのは17人だけであった。しかし子供達はドイツ語しか話せなかった(※幼少だとそうかな)。
・1947年リディツェの再建が決まる。1948年に始まる共産党政権はリディツェをプロパガンダに利用した。

<未来都市 ズリーン>
・チェコの東のはずれにズリーンがある。ズリーンは製靴会社「バチャ」の企業城下町で、建築家ル・コルビュジエが基本計画した。しかし今ズリーンを訪れても廃墟があるだけである。

・1876年トマーシュ・バチャはズリーンに靴職人の子として生まれる。1894年彼は独立し工房を構える。彼は借金を抱え、それを返すために布製の靴を作る。これが大ヒットし、1897年にはチェコで10指に入る製靴業者になる。
・1904年彼は米国に渡り、一労働者として働き、「大量生産」に驚愕する。帰国すると二交代制勤務/販売部門の新設/近代的工場の建設などを行う。従業員は1,500人に増える。
・1913年再度渡米し、ヘンリー・フォード(フォード・モーター)/フレデリック・テイラーに学ぶ。帰国するとコンベアの導入/作業の標準化/在庫管理などに取り組む。「第1次世界大戦」で5万足の軍靴を受注する。従業員は4千人に増える。

・1918年大戦が終わると戦争特需も終わり、どの企業も経営危機に見舞われる。また「オーストリア=ハンガリー帝国」が解体したため、彼は売掛金を回収できなくなった。1920年彼は米国/英国/オランダ/ユーゴスラヴィア/デンマーク/ポーランドなどに海外進出する。同時に原料の海外調達も始める。また社内銀行も始めた。さらに廃材・ゴミの再利用/製品の標準化/新しい機械の導入などにより生産性を高めた。1936年チェコスロヴァキアの一人当たりの靴の保有数は世界一になった。
・彼の会社はレンガ/タイヤ/ストッキング/玩具/家具なども製造した。またマーケティング/広報宣伝も取り入れた。1929年「世界大恐慌」になり、各国が自国の製靴産業を保護するが、アジア/中東/アフリカを開拓して乗り切る。
※全く今でも通用しそうだ。

・彼は会社だけでなく、ズリーン/チェコスロヴァキアの発展も望んだ。1923年彼はズリーン市長になる。1925年ズリーンの人口は8千人に増え、1931年には3万人を超える。
・1924年ズリーンは彼とル・コルビュジエの理念に基づいた都市計画「庭園の中の工場」を始める。基準寸法「ズリーン・モジュール」(6.15m四方)が住宅/工場/オフィスで使われた。「レトナー地区」には今でも「バチャ」の社宅が残る。
・「バチャ」は福利厚生も厚かった。週休2日制/週40時間労働制を取り入れ、食堂もあった。映画館/スポーツセンター/図書館/ホテルなども作った。彼は教育熱心で労働学校も作った。そこで経済/財務管理/予算などを教えた。街の東に総合病院も作った。この病院は今でも営業している。

・1932年彼は航空機事故で亡くなる。会社は義理の弟ヤン・アントニーン・バチャが継いだ。1935年地上16階の本社社屋が建設される。これは当時欧州で一番高い「21ビル」であった。社長室は約5m四方のエレベーターになっている。

・「第2次世界大戦」が始まると、「バチャ」の幹部/従業員は世界各国に散った。「バチャ」の工場は軍需工場になり、連合軍の空爆を受けた。
・大戦が終わるとチェコスロヴァキアは解放されるが、トマーシュ・バチャの子トマーシュ・バチャ・ジュニアはチェコスロヴァキアでの再建を諦め、本社をカナダのバタワに移す。1945年11月「バチャ」はファシズムへの協力を問われ、チェコスロヴァキアの関連施設は国有化される。共産体制下で、これらの施設は製靴工場「スヴィット」として稼働した。共産体制崩壊後「スヴィット」は民営化されるが、既に市場競争力はなく、2000年倒産する。
・今やズリーンには製靴研究所/製靴学校もなく、製靴博物館があるだけである。バチャの名を冠した「トマーシュ・バチャ大学」の学園都市になっている。

<あとがき>
・著者は子供の頃、1970年大阪万博/1972年札幌オリンピックでチェコスロヴァキアを意識した。
・1989年著者は初めてチェコスロヴァキアを訪れるが、社会主義崩壊の直前のプラハは廃墟に思えた。1992年『プラハ カフカの生きた街』を書くため、再びプラハを訪れるが、街の様相は変わっていなかった。2006年から4年間プラハに住んだ。その後はスロヴァキアに住んでいる。本書は著者の四半世紀の取材を基に書いた。

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