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『広島藩内の港町と商業組織』下向井紀彦を聴講。

広島藩は「西廻り航路」の中継点でもあり、多くの港町が存在しました。
廻船の荷は米や塩が中心でした。

港町では資金の融通が重要で、様々な融資システムが生まれました。
日本は世界で最初に先物が導入されるなど、金融が発達していたのが分かる。

講師の下向井氏は「三井文庫」に勤務され、「三井越後屋」の研究もされています。

キーワード:<江戸時代の海運と港町>西廻り航路、六十余州名所図会、<広島藩の港町>地乗り/沖乗り、町方/浦方、<広島藩の主要商業港>尾道、宮島、竹原、忠海、御手洗、<港町商業>問屋商人層/小商人・職人層/浮過層、問屋株、問屋掟、<倉庫金融業>問屋座会所/御札場質物貸/諸品会所、出来銀、擁護銀/敬重銀、<客船誘致>興行/富くじ/茶屋/遊女、浚渫/塵芥

<江戸時代の海運と港町>
・江戸時代は海運が発達した時代です。河村瑞軒により「東廻り航路」(1670年)「西廻り航路」(1672年)が整備されました。従来のルートは敦賀→琵琶湖→京都でしたが、積出港→大坂に移行します。
・航海には風待ち/潮待ち/補給/商売が不可欠で、「西廻り航路」の沿線に港町が発達します。
・歌川広重は『六十余州名所図会』を描いていますが、港町が多く描かれています(備後:阿伏兎観音、安芸:厳島神社、周防:錦帯橋、長門:下関)。

<広島藩の港町>
○公用交通の寄港地
・公用交通の海上路は2ルートありました。沿岸を通る「地乗り」(寄港地:鹿老渡→三之瀬→忠海)と沖を直進する「沖乗り」(寄港地:御手洗)です。

○町方と浦方
・町方-城下に次ぐ町で、町奉行が置かれた。宮島/尾道。
・浦方-領内に71ヶ所あり、内15ヶ所に藩の舟が置かれた。上記2港/広島川口/宇品/似島/音戸/倉橋/蒲刈/小坪/芝島/竹原/高崎/大長/鷲島/余崎。

○領内米集荷地
・領内米集荷地-領内米輸送の拠点で、「浦辺蔵」が置かれた。三津/竹原/忠海/三原/尾道。※東に集中している。

○商業港
・他国船寄港地-宮島/広島川口/倉橋/蒲刈/竹原。
・領内産品積出港-小方/玖波/宮島/地御前/廿日市/海田/矢野/竹原/生口島/尾道。※こちらは広島周辺が多い。
・「西廻り航路(沖乗り)」の港町-御手洗。

<広島藩の主要商業港>
○尾道
・尾道は領内第一の港町です。人口は宮島の3倍、竹原の2倍ありました。周辺農村への必需品供給/年貢米・特産品の積出/他国船の中継商業などが役割でした。「荒神堂浜」「薬師堂浜」の築出があった。下関-兵庫間の有力港を自認していた。

○宮島
・宮島は厳島信仰と興行の港町です。浄瑠璃/歌舞伎/芝居が興行され、市/富くじが行われた。

○竹原
・竹原は中継商業港で、製塩業の町です。1742年成井川の流路を変更します。1828年「問屋座」を設置し、塩問屋(2株)/諸国万大問屋(3株)/諸国万中問屋(7株)で構成された。

○忠海
・忠海は「西廻り航路(地乗り)」の寄港地です。干鰯/米穀/雑穀などを移入し、鉄/麻苧/紙/煙草などの特産品を移出した。万問屋8軒/魚問屋1軒があった。

○御手洗
・御手洗は「西廻り航路(沖乗り)」により、近世後期に発展します。住民の多くが港町商事の従業者であった。

<尾道にみる近世の港町商業>
○港町商業の担い手
・港町商業は問屋商人層(株仲間)/小商人・職人層/浮過層(仲仕、日雇)が担いました。

○商業組織と取引
・元文5年(1740年)問屋が65軒に増加し、問屋株仲間を結成し、「問屋会所」を設置し、問屋掟/問屋口銭を定める。
・明和3年(1766年)問屋株を48株に整理縮小。問屋商事を監督する「問屋役所」を設置する。
・安永9年(1780年)融資のための「問屋座会所」を設立する(後述)。
・天明6年(1786年)「御札場質物貸」を始める(後述)。

・元文5年(1740年)17条からなる「問屋掟」を定める。①新規入船に対する規則②客船の船宿替に関する規則③取引に関する規則などを定めた。

・天明期(1781~89年)寛政期(1789~1801年)で米/雑穀の入津量・売買額が減少(※飢饉の影響?)。化政期(1804~30年)には株の持主が頻繁に入れ替わる。

<取引資金の確保と倉庫金融業>
○尾道での取り組み-問屋座、御札場
・安永9年(1780年)「問屋座会所」を設立します。問屋に無担保/短期間で正金銀を貸付しました。資金は問屋・仲買からの口銭を積み立てた。

・天明6年(1786年)御札場で質物貸を始める(御札場質物貸)。問屋・仲買は穀類/綿/干鰯類を質入れし、銀札を貸付された。資金は藩からの貸下金。

○尾道での取り組み-諸品会所
・天保10年(1839年)「諸品会所」を本格的に始める。資金は藩からの貸下金と町年寄からの補填。貸付対象者は他所廻船・商人/領内商人/国産品製造者。他所廻船・商人には正金銀を、他は藩札を貸し付けた。返済は正金銀。
・弘化4年(1847年)「諸品御役所」と改名。販売代行も始める。御場所での売買は手数料を取った。

・「諸品会所」「諸品御役所」には以下の特徴がある。①商品の制限がない②領内商人だけでなく、廻船/他所商人にも貸付③委託販売(※販売代行?)を行った。
・「諸品会所」「諸品御役所」は、他国船誘致/正金銀の獲得に有効であった。

○御手洗での取り組み-出来銀
・雁木・寺社修復/水主役銀のため備蓄銀「出来銀」を始める。問屋口銭の1割を上納させた(茶屋が主な出所)。問屋への貸付も始める。

○福山藩での取り組み-擁護銀、敬重銀
・明和8年(1771年)「沼名前神社」への神納/氏子救済を目的に、「擁護銀」を設立する。鞆の問屋仲買を中心に273株で構成。天明8年(1788年)には配当も実施される。

・寛政5年(1793年)「敬重銀」は、藩からの「御救銀」を基金として貸付・利殖を始める。氏子の商人に1貫500目/年を9ヶ年貸し付けた。

○萩藩での取り組み-超荷会所(上関)、浦修甫(室津浦、※上関の対岸)
・「超荷会所」は他国廻船の商品を抵当に貸し付け、委託販売・倉庫業を行った藩の機関。

・天保8年(1837年)「浦修甫」は、有徳者からの拠出金/問屋・茶屋からの上納銀を元手に、問屋・仲買/他所廻船・商人/地元商人・住人に貸付を行った。これは困窮民救済になった。

<客船誘致の取り組み>
○興行・富くじの開催、茶屋の設置
・宮島/御手洗/尾道では芸能興行/富くじを開催した。宮島/御手洗は茶屋/遊女で知られた。

○尾道での港湾設備の整備
・築出/波止/常夜灯/雁木などを設置する。浚渫は重要で、定期的に実施した。播州高砂の工楽松右衛門に浚渫を依頼した記録がある。
・久保町新開に塵芥捨場を設置し、久保町/十四日町/土堂町の塵芥を集積した。

○客離れの防止
・荷役場でのルールを遵守するよう、仲仕などに子供の使用禁止/落書きの禁止などを通達する。商売の中身だけでなく、港の外見も留意した。

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