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『偉人教室』五百田達成を読書。

世界の偉人25名を紹介しています。
本人に成り代わって、成功/失敗の要因や生き方を語っています。

偉人を様々な角度から分析しているので驚く。

お勧め度:☆☆☆(読み易い)

キーワード:ナポレオン/自信/行動、野口英世/応援してくれる人、カエサル/コンプレックス/大言壮語/有言実行、徳川家康/健康/贅沢、エジソン/継続、近松門左衛門/流れに任せる、ソクラテス/目をつむる、坂本龍馬/女性、ジェームズ・クック/命の守り方、杉田玄白/平賀源内/器用貧乏、ベンジャミン・ディズレーリ/人に好かれる努力、宮本武蔵/勝つ/心技体、ナイチンゲール/統計・数字、伊能忠敬/やりたい事/環境、キュリー夫人/女性、ミケランジェロ/嫌な仕事、マリー・アントワネット/貫徹、葛飾北斎/極める、藤原道長/不安・恐怖に打ち克つ、ゴッホ/絶望、北条政子/尼将軍、ベートーヴェン/絶望、司馬遷/正しいとは、アンデルセン/美しい童話、一休宗純/大切なもの

○はじめに
・毎日が面白くない/心が躍らない/お疲れ/グチが出る/自分の人生に不満など、悩んでいないでしょうか。偉人達も同じような悩みを持っていました。偉人達がどう打開したのか。一度きりの人生を、どう楽しく生きるか。本書をヒントにして下さい。

○自信の作り方-ナポレオン・ボナパルト(1769-1821年)
・略歴-1796年イタリア遠征で勝利し、英雄に。1804年皇帝に就任。1814年退位。

・彼はコルシカ島で生まれました。陸軍幼年学校に入りますが、「戦力外」でした。「雪合戦」で誘い込み作戦が成功し、評価されます。
・「自信」に必要なのは成功体験だけでなく、挫折/失敗も必要です。彼は「テルミドール・クーデター」での逮捕/妻の浮気などの挫折を経験しています。成功も失敗も「行動」あってこそです。

○ノーベル賞を取れなかった理由-野口英世(1876-1928年)
・略歴-20歳で医師免許を取得。毒蛇/梅毒/黄熱病を研究する。梅毒病原菌の解明でノーベル賞候補であった。

・彼は「努力の天才」とされますが、「最低な人間」の評価もあります。彼は上京し「高山歯科医学院」で学びますが、血脇先生に毎月15円援助してもらいました。しかしそのお金を一晩で浪費していました。
・米国留学で300円必要になった時、縁談の結納金300円を頂き、さらに餞別で300円頂きました。しかし送別会で全部使い果たします。仕方なく血脇先生に留学資金を工面してもらいます。結婚話も血脇先生に300円を返却してもらい、破談になります。

・成功するには「がむしゃらな努力」が必要ですが、「応援してくれる人」も必要です。

○大物になる条件-ガイウス・ユリウス・カエサル(BC100-BC44年)
・略歴-40歳の時、クラッスス/ポンペイウスと「三頭政治」を結成。その後独裁者となるが、ブルータスに暗殺される。古代ローマで最も偉大な軍人・政治家。

・本節では大物になる(人を従える)方法を教えます。それには三つあります。
・1つ目「コンプレックスをキャラにする」です。彼にはハゲ/女たらし/借金王のあだ名がありました。クラッススと組んだのは、お金のためでした。コンプレックスをキャラにする事で、愛される人間になれるのです。
・2つ目3つ目は「大言壮語」「有言実行」です。海賊に捕まった時、「身代金20タレントを払えば解放する」と言われ、「最低でも50タレントで交渉しろ」とハッタリを掛けます。すると以降は丁重に扱われました。また海賊と親しくなると「お前らは俺に捕まり、磔にされる」と言ってやり、それを実現しました。

・「出る杭」は打たれますが、「出過ぎた杭」は打たれません。「言う→やる→開き直る」のサイクルで大物になれます。

○何歳になっても第一線で活躍する方法-徳川家康(1543-1616年)
・略歴-幼少期を人質として過ごす。1600年「関ヶ原の合戦」で勝利し、幕府を開く。

・彼が天下を取れたのは、「健康」だったからです。1つ目は、彼は当時では珍しく「歯」を磨いていました。2つ目は「運動」です。特に「鷹狩り」が好きでした。3つ目は「薬」です。「漢方薬」を自分で調合していました。

・彼は恵まれた環境で育たなかったため、「贅沢」を知りません。そのため食べ過ぎ/飲み過ぎはせず、適度の運動を心掛けました。過剰な贅沢/娯楽は、人生の妙味を失います。※健康第一。

○努力すれば夢は叶う-トーマス・エジソン(1847-1931年)
・略歴-蓄音機/白熱電球を発明し、「発明王」と呼ばれる。彼の会社は、GEとなっている。

・世間では「努力が大事」と云われますが、そうでしょうか。
・彼は質問好きで、幼少から科学に興味を持ちました。30歳の時、蓄音機を発明し、会社を設立しました。「不眠軍団」と云われるほど働きました。しかし「辛い」「大変」と思った事はありません。次に挑戦する「ワクワク感」こそが「努力」の本質ではないでしょうか。

・「夢を叶える」ポイントは2つあります。1つ目は「切り替え」です。彼は電話機の開発でベルに負けました。しかしそこで、うつむくのではなく、次に進む「執念」が重要なのです。
・2つ目は「モチベーションの維持」です。「自分の使命」「社会を良くしたい」などの崇高な目標には中々出会いません。そこで「ライバルの存在」は有効です。
※どちらも「継続は力」だな。

○人生は流されるくらい-近松門左衛門(1653-1725年)
・略歴-人形浄瑠璃『曾根崎心中』『国姓爺合戦』などの大ヒットを生んだ。

・ここでは「バランス感覚」について述べます。合理性/打算で突き進めば、周りと争いを起こします。情に厚ければ、付け入られます。
・彼は越前藩の武士でしたが、父が浪人したため、京都に移り住み、公家に奉公します。その公家が「浄瑠璃」好きで、彼も嵌ってしまいます。

・彼は「浄瑠璃作家」になりますが、仕事に恵まれます。それは仕事の選り好みせず、顧客の要求に応えるように努めたからです。「時の流れに任せる」、これが最良と思います。自分を必要としてくれる人に、精一杯応えるのが大事です。
・しかし「譲れないもの」もありました。武士であるため、義理を欠く事はできませんでした。

○波風立てずに生きたいなら-ソクラテス(BC469-BC399年)
・略歴-古代ギリシアの哲学者。「倫理」「徳」などを追求した。彼の妻は「悪妻」として知られた。

・彼は「世界で一番偉い」と云われ、それを確認するため、周りの賢者と会ったのですが、確かにそんな感想を持ちます。そこで「無知の知」を自覚してもらうための活動を始めます。
・そんな活動を20数年続けたある日、「市民を誤った方向に導いた」として裁判に掛けられ、死刑になります。それは論破した賢者から反感を買ったためだと思います。

・結論を言いますと、「無用な争い」は避けるべきです。ケンカになった時は、「相手を負かそう」とするのではなく、「目をつむる」のが最上です。
・もう一つ言いますと、「パートナー選びに気を付ける」です。安心できる家庭があれば、神経を擦り減さずに済みます。

○龍馬を育てた女達-坂本龍馬(1836-1867年)
・略歴-26歳で脱藩、29歳で亀山社中(海援隊)を設立する。「薩長同盟」を成功させ、「船中八策」は明治政府の方針になる。

・彼の優れていた点は「しなやかな生き方」です。彼は男らしさ/女らしさのバランスが良く、人に好かれ、人脈を作りました。

・それには4人の女性が関係しています。1人目は姉の「乙女」です。彼女は大変厳しく、彼に習字/和歌/武芸を教えました。彼女は生涯、心の支えでした。
・2人目は幼馴染の「加尾」です。彼女に「本を読まないのね」と言われ、猛烈に勉強するようになりました。
・3人目は千葉道場の娘「佐那」です。彼女には「人を愛する事」を教わりました。
・4人目は「お龍」です。彼女は医者であった父を早くに亡くし、家族のために働いていました。

・彼に特に優れた才能はありませんが、何気ない挨拶/楽しい雑談/手土産/約束を守るなどの「女らしさ」も持っています。女性の皆さん、男性を磨くのは女性です。

○命の守り方-ジェームズ・クック(1729-79年)
・略歴-20代後半で英国海軍に入る。「7年戦争」の戦功で「エンデバー号」の艦長になる。最初の太平洋航海で「壊血病」の死者0人を達成する。ハワイ諸島の発見/ニューファンドランド島とニュージーランドの海図作製の功績がある。クック山/クック海峡/クック諸島に名を残す。
※大航海時代の人達は有名だか、この人も凄いな。

・彼の功績は大きく、「大航海時代を終わらせた男」と云われています。
・当時の航海は、船員の半数が「壊血病」で亡くなる程でした。船乗りは「柑橘系のフルーツを食べると症状が良くなる」のは知っていましたが、野菜/果物を長期に保存する方法はなかった。そこで彼は「ザワークラウト」(キャベツの酢漬け)を船に持ち込み、その結果一人も「壊血病」で亡くなりませんでした。

・そこで「命の守り方」1つ目は、「ある結果に対し原因を考え、その対策をきちんと立て、実行する」です。※PDCAだな。
・2つ目は「戦わない」です。1回目の航海の時、以下のルールを設けました。①先住民と友好的であれ②物品交換は交易責任者のみ③武器/道具を浜に残すな④盗み/着服は厳禁⑤鉄の交換は交易責任者に従う。「戦い」は最後の手段です。※流石に軍隊、徹底している。
・3つ目は「学ぶ」です。人は死ぬまで学び続ける生物です。人は学んだ事を忘れるため、記録する事も重要です。彼は航海日誌を書き続けました。
※本書の著者は、様々な視点から見れる人だな。凄いと思う。

○器用貧乏-杉田玄白(1733-1817年)
・略歴-父が医師のため漢方医学を学ぶ。西洋医学に魅せられ、オランダの解剖書を翻訳し『解体新書』を発表する。平賀源内とは交流があった。

・友人の平賀源内は天才/奇才で知られました。彼は高松藩で漢方医学の「本草学」を学び、長崎で西洋医学を学びます。彼は江戸に出て、エレキテル/竹とんぼ/ライターを発明します。本を書いたと思ったら、油絵を描いたりしました。
・彼は何でもできたため、何が得意なのか、何をしたいのか分かりませんでした。悪く言えば「器用貧乏」です。

・彼は自分を受け入れない世間に不満を持つようになり、周りも彼を避けるようになります。そしてついに事件が起きます。大名の別荘を修理していた時、設計図を失くします。彼はそれを大工のせいにして、2人を斬り付け、1人を死なせてしまいます。彼はそのまま獄中死します。
・彼には基盤(働く場所、仲間、実績、専門性など)がなかったと云えます。

○好かれる努力-ベンジャミン・ディズレーリ(1804-81年)
・略歴-ユダヤ人として生まれます。弁護士になりますが、辞めます。鉱山ビジネスで破産します。小説家となり、やがて政治家になり。47歳で大蔵大臣として初入閣し、首相を2回務める。ヴィクトリア女王から寵愛を受けた首相です。

・政治家になり「人に好かれる」のが、如何に重要かを知りました。
・ヴィクトリア女王は素晴らしい方でしたが、気難しい方でした。女王との関係を常に意識するようになります。女王への報告書を小説風にしたり、夫アルバート公が亡くなった時は、追悼演説で彼を称賛しました。
・「人に好かれよう」とする事は、良しとされませんが、「信頼を得るための前向きなアクション」です。人に好かれていれば、相手が望まない判断であっても、呑んでくれるものです。

・彼のライバルに優秀な政治家グラッドストンがいました。しかしグラッドストンは朴訥な男で、女王とは反目していました。

○勝ち続けるための心技体-宮本武蔵(1584-1645年)
・略歴-17歳の時「関ヶ原の合戦」に参加。21歳の時、吉岡一門を断絶に追い込む。29歳の時「巌流島」で佐々木小次郎と闘う。60歳の時、細川・熊本藩に招かれ、『五輪書』を記す。

・彼は「生涯無敗」でした。そこで「勝ち方」について述べます。勝つには「心技体」のバランスが必要です。まず「心」、これは「気合」「根性」とは違います。勝つ方法を如何に現実的に、冷静に考えているかです。
・彼は勝負で真剣を使わず、木刀を使いました。真剣だと刃がこぼれたり、折れたりするからです。木刀は丈夫で、相手に確実にダメージを負わせる事ができます。
・剣術は刀を両手で持つのが基本です。しかし実戦において、その機会がどれ程あるでしょうか。そこで「二刀流」を生みました。※吉岡一門との戦いで学んだのかな。

・次に「技」です。これは物事を自分のペースで進める事を云います。多勢との戦いでは広い場所ではなく、狭い路地で戦う/最初の一撃を与える/打ち返すと見せかけて打たない、など相手のペースにさせない事です。「巌流島の決戦」で約束した時間に遅れたのも、この作戦です。※動揺作戦だな。

・最後は「体」です。彼は「千日の稽古で鍛とし、百日の稽古で錬とする」と云っています。

・最後に皆さん、「勝ち」とは何だと思いますか。「勝ち」とは「名誉」「権力」「金銭」を得る事ではありません。「真の勝ち」とは「自分が満足できる人生を全うする事」です。すなわち「自分の哲学を貫く事」です。

○学問の使い方-フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910年)
・略歴-裕福な家庭に生まれ、多言語/歴史/天文/数学などを学ぶ。「病人を助ける仕事をせよ」との神のお告げで、看護の道に進む。「クリミア戦争」に従軍し、その後陸軍の医療制度改革や看護学校を設立する。

・看護に必要なのは「慈愛心」「犠牲心」と思われるかもしれませんが、彼女は「統計学者」として看護を研究した人です。

・彼女は33歳の時、看護師になり、その翌年「クリミア戦争」が起き、看護師の師団長として従軍します。当時、戦場の病院での死亡率は43%でした。この原因はケガの重度でも治療技術の低さでもなく、病院の不衛生にあったのです。彼女はそれを「バッツ・ウィング・グラフ」で証明し、衛生環境を改善させました。具体的にはベッド数/窓の大きさ/天井の高さ/ナースコールなどです。これにより死亡率を2%まで下げました。さらにこれらの対策を英国内の病院にさせたのが、彼女の功績です。

・「数字」「データ」は相手を説得させるのに有効です。是非活用して下さい。

○やりたい事を、いつ始めるか-伊能忠敬(1745-1818年)
・略歴-伊能家に婿入りし、商家を営む。49歳で家督を譲り、江戸に住み測量を学ぶ。55歳より測量に出て、日本地図を完成させる。

・本節では「やりたい事」との向き合い方を述べます。彼は17歳で酒蔵を営む伊能家を継ぎます。50歳で江戸に出て、天文方の高橋至時に弟子入りします。彼は天文に興味があったのです。
・高橋至時が「寛政暦」を作りますが、これには子午線1度の距離を正確に測る必要がありました。そのため測量に出る事になったのです。この地図の出来栄えが良く、幕府の支援を得て測量するようになります。17年間で10回の測量を行いました。

・本題の「やりたい事」をいつやるかですが、大事なのは年齢ではなく、「環境」です。また応援してくれる人/家族/師匠/弟子などの存在も不可欠です。さらに現実的な話をすれば、人脈/資金/知識/経験なども不可欠です。
・最後に要点を3つ挙げます。①良い師-常に学びの姿勢が必要です。②貯金-生活の保証は重要です。③コミュニケーション-人に理解してもらう事は重要です。

○女性が輝く-マリー・キュリー(1867-1934年)
・略歴-27歳で夫ピエールと結婚し、放射能の研究をする。ラジウムの精製方法を確立し、36歳の時、夫婦で「ノーベル物理学賞」を受賞する。44歳で「ノーベル化学賞」を受賞する。長女夫婦も「ノーベル物理学賞」を受賞しています。

・彼女は14歳の時、母を結核で亡くします。これが科学の道に進ませます。女性のためのルール①は、「他人に頼らない」です。

・彼女は「研究の世界」で生きる事を決心していましたが、そこは男性優位の世界でした。「研究ばかりで幸せでなかったのでは」と思われますが、幸せでした。女性は「誰かのため」と云うモチベーションがあると力が湧き、大概の事は乗り越えられます。対象は親/応援してくれる人/友人/社会、何でも構いません。女性のためのルール②は、「誰かのために強くなれる」です。

・女性のためのルール③は、「自分を愛する」です。女性は真面目な生き物です。そのため他人の意見が気になり、色々な事に目が移ります。試行錯誤を繰り返す中でも、「自分を愛する」のを忘れないようにしましょう。

○仕事への不満-ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564年)
・略歴-ルネサンスを代表する芸術家。彫刻/絵画/建築/詩などで非凡な才能を発揮。天上画『創世記』、壁画『最後の晩餐』が有名。

・彼は彫刻が好きで、それを「天職」と考えていました。しかし偉い人からの依頼は、嫌いな絵画ばかりでした。
・嫌いな仕事を消化する1つ目のポイントは、「その仕事の中にオアシスを作る」です。彼は筋骨隆々の肉体美が好きでした。「システィナ礼拝堂」の天井画を依頼されますが、その中に必要以上に男の裸体を描き、モチベーションを維持しました。

・嫌いな仕事を消化する2つ目のポイントは、「プロとして納得できる成果を残す」です。仕事を雑にこなし、良い成果を残せないと、益々モチベーションを失います。良い成果を残す事で、信頼/ブランドを得る事ができ、また充実感も得る事ができます。
※この話は面白い。

○自分らしさ-マリー・アントワネット(1755-93年)
・略歴-14歳でフランス王太子に嫁ぐ。宮廷に馴染めず、ルイ16世との距離もあったため、派手な行動を繰り返す。

・彼女はフランスに嫁ぐとベルサイユ宮殿の離れの「プチ・トリアノン宮殿」に住みます。そこに洞窟/滝などを作りました。当時は風呂に入らなかったのですが、彼女は入り、香水はアロマ系を使いました。ファッションも楽しみました。
・フランスは財政難だったため、彼女は宮廷/国民から「浪費家」として批判されます。34歳の時革命が起き、裁判で死刑になります。彼女は最後まで「マリー・アントワネット」を貫きました。

・人生は誘惑/まやかしの連続で、常に周りに振り回されます。そのため自分の生き方/スタイルを確立し、それを貫いて下さい。「泣かない」「嘘はつかない」「後悔しない」何でも良いでしょう。

○突き詰める-葛飾北斎(1760-1849年)
・略歴-農家に生まれるが浮世絵を学び、風景画/役者絵などを描く。『富嶽三十六景』『北斎漫画』などを残す。お金に執着がなかったため、生涯貧乏であった。

・彼は最初は彫刻師からスタートします。版画は絵師/彫刻師/刷り師の分業でなっています。ところがこれらを全て自分でやりたいと思うようになり、浮世絵師となります。
・彼の目標は「絵を極める」になり、食事は面倒なので店屋物になり、部屋の片付けもしなくなります。ペンネームは「画狂人」「画狂老人卍」などを名乗りました。

・人間は欲張りなので、様々な事に頭を突っ込みます。そこで大事にしたい事を3つに絞ってはどうでしょうか。彼は「絵」「家族」「弟子」を基準にして生きる事にしました。

○不安/恐怖に打ち克つ方法-藤原道長(966-1028年)
・略歴-摂関を務めた藤原兼家の五男に生まれる。兄道隆/道兼が亡くなり、跡目争いで勝利する。長女彰子/次女妍子/三女威子を天皇家に嫁がせる。この時代は「国風文化」の全盛期で、一条天皇に嫁いだ彰子の家庭教師が、『源氏物語』を書いた紫式部で、一条天皇に嫁いだ定子(道隆の娘)の家庭教師が清少納言であった。

・彼は三条天皇に子が生まれなかったため退位させ、一条天皇と彰子の子後一条天皇を即位させ、自身は摂政に就きます。

・彼は優雅な生活を送ったと思われるかもしれませんが、常に恐怖と不安で一杯でした。新鮮な物を食べないため糖尿病や歯に悩まされました。毎日祭事で大忙しです。儀式は間違えないように勉強が必要です。儀式の参加者には手土産が必要です。女性の下にも通わなくてはいけません。※大変そうだ。
・なぜこんな政治家人生を最後までできたのか。それは「やり続けた」からです。つまり「やり続ける事」で恐怖や不安に飲み込まれなかったのです。※確かに。

○絶望-フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90年)
・略歴-オランダ生まれの「ポスト印象派」画家。3万点以上の作品を残すが、作品が評価されたのは死後になってから。代表作に『ひまわり』『赤い葡萄畑』などがある。

・彼は癇癪持ちだったため、学校に通えませんでした。16歳になると画商で働き始めます。聖書を読みふけるようになり、「金儲け」を外道と感じるようになり、そのため23歳の時、画商をクビになります。「牧師」になろうと勉強しますが諦め、「伝道師」になるため養成学校に通いますが、資格をもらえませんでした。
・仕方なく無資格で「伝道師」を始めますが、これも妨害されます。この頃(26歳)炭鉱夫などの絵を描いていたため、実家に帰り、絵を描き始めます。

・33歳の時父が亡くなったため、パリの弟テオの下に転がり込みます。35歳の時、芸術の聖地を作ろうと南仏アルルに移り住みます。ゴーギャンを呼びますが、間もなく出て行きます。この時彼は自分の耳を切り、贔屓の娼婦に届けています。
・この頃より癲癇(てんかん)の発作を起こすようになり、精神病院に入れられます。37歳の時、ピストルで自殺します。この頃に売れた『赤い葡萄畑』が、唯一売れた絵画です。※壮絶な人生だな。

・人生では、しばしば絶望に陥ります。しかし、ちょっと待って下さい。そして小さな光を見付けて下さい。

○尼将軍になるまで-北条政子(1157-1225年)
・略歴-20歳の時、源頼朝と結婚する。23歳の時(1185年)頼朝は平氏を倒し、鎌倉幕府を開く。1199年頼朝が亡くなる。1219年3代目実朝が亡くなる。1221年後鳥羽上皇が「承久の乱」を起こすが、そこでの彼女の演説が家臣を震わせた。

・人の心には「情」と、やらねばならない「責務」があります。この2つは天秤にかけられています。
・彼女は「非情」と呼ばれる行動を何度も取っています。長男頼家が2代目将軍に就きますが、直ぐに出家させ、伊豆に幽閉します。また父北条時政を無理矢理隠居させています。頼家を身籠っていた時(1182年)、夫の浮気が発覚します。その時は浮気相手の家を破壊しています。
※北条氏は壮絶だよ。多くの重臣を滅ぼしている。

・パートナーができれば妻になり、子ができれば母になります。また幕府ができれば、それは夫や子供と同等に大切になります。
・後鳥羽上皇による「承久の乱」の時は、「頼朝様の恩を忘れたのか」と家臣に檄を飛ばしています。
・本題の「使命感」を取るか「愛情」を取るかですが。「愛情」を取ります。社会に対する「使命感」は「愛情」から生まれます。周りの人への「非情」も、その人への「愛情」から生まれています。

○絶望-ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827年)
・略歴-20代は「即興演奏の名手」であったが耳が聞えなくなり、作曲家に転じる。代表作は『運命』『田園』『交響曲第9番』など。貴族のためでなく、民衆のための音楽を作り続けた。

・彼は幼少の頃から音楽のスパルタ教育を受けます。10代になるとアルコール依存症の父と弟2人を、音楽の演奏で支えます。「即興演奏の名手」として人気を博するようになります。
・しかし30歳頃に耳が全く聞こえなくなり、絶望します。それを転換させたのも音楽でした。作曲はできたのです。

・人生は挫折/悲劇の連続で、葛藤そのものです。そんな時、身近な幸福に目を向け、立ち向かって欲しいです。※「苦あれば楽あり」かな。

○正しいとは-司馬遷(BC145-BC86年)
・略歴-父の遺書によリ歴史書『史記』を書き始める。李陵をかばい、武帝の怒りにふれ、宮刑になる。『史記』のスタイルは、後世の歴史家/作家に多大な影響を与えた。

・父の遺書によリ歴史書『史記』を書き始めますが、大事件が起きます。知人の李陵が「匈奴」と戦っていましたが、少数のため降伏してしまいます。彼は「李陵には罪はない」とかばったのです。そのため投獄され、最終的に「宮刑」になります。これは大変な屈辱でした。
・釈放されると『史記』を本格的に書き始めます。当時の歴史書は「編年体」でしたが、人々の生きざま/思想を鮮明に記する「紀伝体」を生み出します。
・彼は『史記』の中で「伯夷列伝」を書いています。これは正しい事をした2人の王子伯夷/叔斉が、不幸な死を遂げる悲劇です。彼はこれに自身の不幸な境遇を重ね合わせています。

・人が発信する情報には、その人の思い/意図/情念が込められています。そのため、それをそのまま受け入れるのではなく、疑いの目を持つ事が必要です。

○人生は美しい童話-ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805-75年)
・略歴-役者を目指すが、作家に転向する。自費出版した『ホルメン運河からアマゲル島東端までの徒歩旅行』が大ヒットする。『親指姫』『人魚姫』『醜いアヒルの子』『裸の王様』など160編余りの童話を残す。

・彼はデンマークの貧しい靴屋に生まれます。11歳の時父が亡くなり、学校を止め、オペラ歌手を目指します。しかしオペラ歌手の夢は断たれます。
・詩/喜劇の台本を書き、生計を立て始めます。旅行記『ホルメン運河からアマゲル島東端までの徒歩旅行』が大ヒットし、作家の仲間入りをします。しかし人に好かれるタイプではなく、自分に自信が持てませんでした。そこで25歳の時、旅に出ます。英国の小説家チャールズ・ディケンズとは「心の友」になりましたが、それは誤解でした。『醜いアヒルの子』はそんな自分を投影した作品です。

・嫌われ者だったアンデルセンは童話作家として一躍人気者になります。葬儀には皇太子/貴族/著名人などが参列します。誰の人生も童話のような人生なのです。

○本当に大切なもの-一休宗純(1394-1481年)
・略歴-後小松天皇の私生児とされる。幼い頃から詩人としての才能を発揮し、『狂雲集』『自戒集』『骸骨』などを残す。26歳の時「印可」(悟りを開いた証明)を授けられるが、権力化する仏教界を否定し、破り捨てる。

・人間は「しがらみ」の中で生きています。彼は正月になると、頭蓋骨を竹棒に刺して町を歩きました。これは一歩一歩、死に近づいている事を皆に悟らせるためです。他に、お地蔵に小便を掛けたり、女遊びしたり、お酒/魚/肉も食べました。こんな「変人」だったので、嫌う人はいましたが、好きになってくれる人もいました。
・彼は一人の人間として欲望のままに生きたのです。口下手/頭が悪い/要領が悪い、それだけの事です。ウマの合う人もいれば、合わない人もいる、それだけの事です。重要なのは「無理しない生き方」です。

・人生で大切にすべきは、まず自分自身、次は自分の存在を喜んでくれる人です。「信念を持って生きる」、そんな大仰な生き方は必要はありません。気楽に生きていれば、人間関係なんかどうでも良くなります。本音の人生は楽しいものです。

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