『律令体制を支えた地方官衙』田中弘志(2008年)を読書。
美濃国の「弥勒寺遺跡群」を解説しています。
古代の寺院/郡衙の構成や変遷が良く分かった。図/写真は豊富にあり、理解しやすい。
個人的には大変面白かったが、「水の祭祀」について、もう少し知りたい。
著者は関市文化財保護センターに勤務されています。
お勧め度:☆☆
キーワード:<壬申の乱とムゲツ氏>壬申の乱、弥勒寺跡/弥勒寺東遺跡、地方豪族、<氏寺弥勒寺>塔/金堂/講堂、螺髪/緑釉陶器、<美濃国武義郡衙>郡庁院、正倉院、評衙/居宅、四脚門、館院/厨院、<水の祭祀>木簡/墨書土器、水の祭祀/僧房、<地方豪族から律令官人へ>律令制/郡司、円空
<壬申の乱とムゲツ氏>
○壬申の乱
・672年大友皇子と大海人皇子との間で皇位をめぐる争いが起こる。大海人は3人の舎人、身毛君広(むげつきみひろ)/村国男依(むらくにのおより)/和珥部臣君手(わにべのおみきみて)を美濃に派遣し、味蜂間郡(あはちま)湯沐邑(ゆのむら)(不破郡の東一帯)を占領させた。村国男依を将軍とする一翼を正面に当て、大友軍を瀬田で破る。
・身毛君広は兵士を収集し、長良川を下った。村国男依は兵士を収集し、木曽川を下った。和珥部臣君手は兵士を収集し、揖斐川を下った。
・正倉院文書に702年の美濃の戸籍がある。その加毛郡(かも)半布里(はにゅうり)の戸籍に、郡司クラス(正八位上/従七位下)の農民が見い出せる。彼らは58~60歳で、「壬申の乱」で活躍した兵士と思われる。※加毛郡は武義郡の東隣。
○美濃の豪族
・ムゲツ氏は美濃国武義郡が本拠で、史料には牟義都/身毛/牟宜都/牟義津/牟下都/牟下津/牟義/武義/牟下などで表記される。『古事記』『日本書紀』では、父方は天皇家(※始祖は景行天皇(第12代)の子で、ヤマトタケルと双子兄弟)、母方は美濃国造を祖先伝承とする。また継体天皇(第26代)の祖母はムゲツ氏となっている。
・ムゲツ氏はヤマトタケルの「熊襲征伐」や、雄略天皇(第21代)の「吉備氏の反乱」に参加しており、軍事力を担っていた。
・岐阜県関市池尻で長良川が屈曲している(小瀬峡谷)。その内側がムゲツ氏の本拠で、舟運の要衝である。ここに国指定史跡「弥勒寺跡」と武義郡衙と否定される「弥勒寺東遺跡」がある。さらに西に祭祀跡「弥勒寺西遺跡」、方墳「池尻大塚古墳」がある。これらを「弥勒寺遺跡群」と総称する。2007年「弥勒寺東遺跡」も国指定史跡になる。
・「壬申の乱」は単なる皇位継承争いではなく、663年「白村江の戦い」で大敗し、どちらの勢力に与するかの重要な内乱であった。その意味で「弥勒寺遺跡群」は当時の地方豪族の実態に迫れる遺跡である。※各国から兵士が召集されたらしい。
<氏寺弥勒寺-弥勒寺跡>
○弥勒寺跡の調査
・弥勒寺の寺号は1378年の史料が初出で、古代の寺号は分かっていない。
・1930年弥勒寺は県の史跡指定を受ける。1952年地元の郵便局長・足立煕の要請で、東京国立博物館の仏教考古学の第一人者・石田茂作が関市を訪れる。翌年第1次学術調査が始まる。
・飛鳥にある川原寺の配置は「一塔二金堂」で、「川原寺式伽藍配置」と呼ばれる(※川原寺は「飛鳥の四大寺」の1つ)。石田氏は「弥勒寺の配置は、天武天皇と関係が深い川原寺と同じで、都から寺工/瓦工を招いたと考えられる」と述べた。
・1956年第2次調査が始まり、南門の礎石の位置が判明し、寺域の南端が確定した。1959年約120m四方が国指定史跡とされる。
○弥勒寺跡の伽藍
・弥勒寺は左に金堂、右に塔を配置し、法起寺式伽藍である(※川原寺式?)。軒瓦は複弁蓮華文軒丸瓦/四重弧文軒平瓦/凸面布目平瓦を持つ。布目を持つ平瓦は川原寺でも用いられ、中央から工人の派遣があたっと想定される。
・塔には38尺四方(11.5m)/高さ3尺(90Cm)の基壇に、3間四方の建物があった。
・金堂は東西49.1尺(14.88m)×南北41尺(12.42m)の基壇に、桁行3間×梁行2間の建物があった。
・1998年から講堂跡の西半分が調査された。講堂は東西24m×南北14mの基壇に、桁行5間×梁行3間の建物があった。
・1987年から範囲確認調査が行われた。主要な建物以外に2棟の建物と平瓦が使われた竪穴住居が確認された。1994年追加の調査が行われたが、寺域は不明である。
・出土遺物に「螺髪」(高さ3.9Cm、底径3.2Cm)があり、立像であれば高さ一丈六尺(4.85m)の「丈六仏」か、高さがその半分の座像が安置されていたと思われる。他に「緑釉陶器」も出土している。
<美濃国武義郡衙-弥勒寺東遺跡>
○整然と配置された郡庁院
・1994年「弥勒寺東遺跡」の発掘調査が始まったが、開始して直ぐ上層から礎石建ちの建物、下層から大きな柱穴が発掘された。そのため調査を継続する事になり、2000年まで6次に亘る調査が行われた。
・この調査で「弥勒寺東遺跡」は「武義郡衙跡」である事が判明し、郡庁院/正倉院/館院/厨院などで構成された施設が把握できる稀有な郡衙跡となった。郡衙の構成は地域で異なるが、この「武義郡衙」は全国で斉一された国衙(国府)に近いものであった。※「弥勒寺東遺跡」の平面図あり。
・またこの遺跡は、飛鳥・白鳳時代(7世紀後半~8世紀初頭)/奈良時代から平安中期(~10世紀前半)/中世の3期が重なる複合遺跡である。
・郡衙で掘立柱塀に囲まれた範囲が「郡庁院」である。「郡庁院」には正殿/東西脇殿/東西脇殿北棟/後殿があった。※配置図あり。
・正殿は「郡庁院」の中央にある。桁行5間×梁行2間の建物である。柱穴から「掘立柱建物(根石なし)→掘立柱建物(根石あり)→礎石建物」と建て替えられ、段階的に発展した事が分かる。※柱穴の断面図/写真あり。
・正殿の南は広場になっており、その東西に東西脇殿がある。東脇殿は桁行6間×梁行2間の建物で、正殿と同様に3段階の建て替えをしている。西脇殿は桁行4間以上×梁行2間の建物で、建て替えがあったかは不明。
・東西脇殿の北(正殿の東西)に東西脇殿北棟がある。東脇殿北棟は桁行2間以上×梁行2間の建物で、建て替えの様子は見られない。西脇殿北棟は桁行4間×梁行2間の建物で、建て替えの様子は見られない。
・後殿は正殿の北にあり、桁行12m×梁行8mの建物と想定される。
・「郡庁院」は2重の掘立柱塀に囲まれており、掘立柱塀1は東西50m×南北64m(160尺×200尺)である。掘立柱塀1の外側に、拡張したと想定される掘立柱塀2がある。掘立柱塀2の内外に溝がある。
・「郡庁院」から須恵器/灰釉陶器が廃棄された土抗が5ヵ所見つかった。
・正殿の南面は掘立柱塀の南辺まで100尺/北辺まで100尺である。また東西脇殿の距離も100尺である。従って広場は100尺四方となる。
・「郡庁院」の外側にも4棟の建物が検出された。建物1は桁行3間以上×梁行2間で、脇殿と同様の建物である。建物2は桁行4間×梁行3間の総柱建物(外側だけでなく内側にも柱がある)で、正殿に匹敵する建物である。
・「郡庁院」から豪族の居宅/評衙(律令制以前の役所)/弥勒寺の時代(飛鳥・白鳳時代)の須恵器が出土した。郡衙として栄えた時代(奈良時代)の須恵器が出土した。平安時代の灰釉陶器が出土した。他に暗文がほどこされた畿内系土師器/転用硯(土器の硯)/円面硯(須恵器の硯)が出土した。
○建ち並ぶ倉-正倉院
・「正倉院」は東西130m×南北40mの溝で区画された領域です。その領域に東に3棟、西に4棟、南に1棟の正倉がある。正倉東2/正倉東3は基壇を伴う礎石建ちの倉で、残りは掘立柱から礎石建ちに建て替えられた倉である。正倉東2だけが巨大で、東西22.8m×南北12.3mで桁行8間(8尺)×梁行3間(9尺)の倉である。
・「正倉院」は3期の変遷(掘立柱→礎石建ち→巨大倉)が想定される。東西の倉は南面が一直線に並んでいる。西端の2棟は桁行3間×梁行3間だが、それぞれ大きさが異なり、最初にできた倉と想定される。その後7棟の桁行4間×梁行3間の倉が建てられたと想定される。これが第1期である。
・第2期でこれら9棟の掘立柱の倉が礎石建ちに建て替えられた。
・第3期で中央の2棟が、基壇を伴う礎石建ちの正倉東3(桁行4間×梁行3間)に建て替えられ、さらにその東の2棟が基壇を伴う礎石建ちの正倉東2(桁行8間×梁行3間)に建て替えられたと想定される。
・正倉東3の北側から厚さ30Cmの「炭化米」が出土し、正倉東3は火災で倒壊したと想定される。倉は収納物により穀倉/穎倉/義倉/糒倉などに分けられた。この「炭化米」は穎稲(貸し付ける種籾)で、正倉東3は「穎倉」と想定される。
○郡衙以前の建物
・「郡庁院」「正倉院」の下層には郡衙成立以前の遺構が見つかっている。これが「弥勒寺東遺跡」が注目される理由である。
・「郡庁院」の下層で検出された前身建物1は「郡庁院」の建物と遜色がなく、701年律令制以前の評衙の建物と想定される。
・「正倉院」の下層で検出された前身建物は、西ブロック(前身建物3~5)と東ブロック(前身建物6~9)に分かれる。西ブロックの建物は、弥勒寺の鍛冶遺跡より先行する建物である。東ブロックの建物は地山の黄色土の上にあり、ムゲツ氏の居宅と想定される。
・「弥勒寺東遺跡」の東端には、桁行2間×梁行1間の四脚門があったと想定される。掘立柱塀には川原石を用いた2段の基壇があった。
・「弥勒寺東遺跡」の中央部には館院/厨院があったと想定されるが、詳細は分かっていない。「郡庁院」「正倉院」が整備されるに従い、郡司の居宅は中央部に移り、館院/厨院として整備されたと想定される。
<水の祭祀-弥勒寺西遺跡>
○弥勒寺西遺跡
・「弥勒寺跡」の西側に小さな谷があり、「関市円空館」建設前の発掘調査で、木製品1300点/墨書土器200点など1万数千点の遺物が出土した(※凄い量だな)。谷川の水を利用した8世紀後半の祭祀跡(井泉遺構)で、隠し塀/篝火跡/大型掘立柱建物などが検出された。
・また谷川の合流地点でフイゴの羽口や多量の鉄滓が出土し、弥勒寺の工房跡(鍛冶遺構)と想定される。
※奈良県の南郷遺跡は葛城氏の支配地で、水の司祭場や工房があった。そこと似ている。
○古代木簡
・木製品では祭祀具/曲げ物/折敷/机の脚/箸などが出土している。特に注目されるのは古代の木簡で、「郡符木簡」(郡司から里長への下達文書)と想定される。
・墨書土器は200点出土した。墨書は大寺/寺/厨房/塔/寺家(寺)、廣万呂/真枚/南榮(人名)、大田嶌(地名)、冨/田冨/福/富井/大福(吉祥)、身月園田(習書)、池/鬼女/得女/稲女/供/朝臣などで、1割以上が「寺」を意味する墨書であった。なぜ祭祀と寺が深く関係するかは不明である。
○ムゲツ氏と水の祭祀
・『続日本紀』に「元正天皇が美濃当耆郡に行幸し、醴泉をご覧になった」記事がある。これに務義郡(武義郡)の百姓が奉仕し、田租を免除されている。
・『延喜式』「主水司式」に「牟義郡首が京内の井戸を定め、若水を汲み、天皇に奉る」と規定されている。ムゲツ氏は「水の祭祀」の中心人物であった。
○弥勒寺との関係
・2006年「弥勒寺西遺跡」の範囲を確認する目的で、谷の3ヵ所で試掘された。その結果、谷の奥で大型の掘立柱建物や竪穴住居が検出され、そこから「寺」と書かれた墨書土器が出土した。すなわち「弥勒寺遺跡群」は中央に弥勒寺があり、その東に郡衙があり、西に「僧房」があったと想定される。
<地方豪族から律令官人へ>
○弥勒寺建立前後の歴史
・大海人皇子の直轄地である美濃国味蜂間郡湯沐邑(不破郡の東一帯)は鉄の産地(金生山)で、「壬申の乱」の行方を左右する重要な場所であった。武義郡に本拠を置く地方豪族ムゲツ氏にとって、どちらに付くかは重要な選択であった。
・「弥勒寺東遺跡」は3期に分かれる。Ⅰ期(7世紀後半)一段高い場所で弥勒寺の造営が始まり、豪族の居宅は東に移動を始める。「郡衙院」の場所には評衙があったと推定される。
・Ⅱ期(8世紀~10世紀前半)律令制になると、「正倉院」「郡衙院」が造営される。豪族の居宅は「館院/厨院」となり、その東端に門が作られた。弥勒寺の西の谷には、「僧房」が作られ、郡司による律令司祭が行われた。
・ムゲツ氏は「壬申の乱」を乗り越え、中央との結び付きを深め、郡司としての地位を確立した。自らの拠点を郡衙とし、弥勒寺を建立した。
○律令体制
・律令制では中央には「二官八省」が置かれ、国土は五畿(大和、山背、摂津、河内、和泉)七道(東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海)に分けられた。各国は郡に分けられ、その下に里(郷)が置かれた。郡司は地方の支配勢力から選ばれ、終身任官であった。郡司の役割は戸籍の作成と、租庸調の徴収であった。
・「大宝律令」以前は評が置かれた。近年奈良の飛鳥池遺跡/石神遺跡から多くの木簡が出土しており、天智4年(665年)の荷札木簡にム下評の記載がある。
・「壬申の乱」以降の史料に身毛君広の名は見られない。ムゲツ氏は中央政界に進出する村国氏と異なり、美濃国で律令制の体現者になったと考えられる。小瀬峡谷は海運の要衝で、租庸調の徴収/運び出しに適した場所であった。
・美濃国府跡は、13次に亘る発掘調査(1991~2003年)により、東西67m×南北73mの掘立柱塀に囲まれた国府で、正殿/東西脇殿が確認された。これらの建物も「1次掘立建物→2次掘立建物→礎石建物」と変遷している。美濃国府と武義郡衙は類似性が高い。
○弥勒寺の法灯
・武義郡衙は中世(10世紀前半)に廃墟になり、庶民の墓になります。弥勒寺は細々と信仰の対象であったと思われます。
・近世になると「円空」が弥勒寺を再興し、この寺で終焉します。※円空は「円空仏」で有名な人です。こんな繋がりがあるとは、驚き。