『お金の流れで見る戦国時代』大村大次郎を読書。
戦国時代と云えば軍事面だけで評価しがちですが、本書は経済面から見ていて大変面白い。
織田信長の改革者としての偉大さが伝わります。
信長の天下統一は、濃尾平野の豊かさがもたらしたのでしょう。
経済の様々な原理は今も昔も変わらない気がします。
お勧め度:☆☆☆
キーワード:<幕府の財政破綻>応仁の乱、日明貿易、酒屋土倉役/徳政令、土地調整機能、<桶狭間の戦い>守護大名/戦国大名、北条家、織田家/知多、常備兵/兵農分離、<織田信長の錬金術>減税、防御御礼、楽市楽座、関所、道路、<武田信玄は破綻寸前>土木工事、棟別銭、<軍需物資の調達>鉄砲、堺/今川宗久、経済封鎖、<南蛮貿易の収支決算>キリスト教、大内義隆/大友宗麟、王直、隠れキリシタン、<比叡山ファイナンシャル・グループ>寺社、出挙/土倉、市/座、<安土城>石垣/瓦、城下町、信長大社、<諸大名の経済戦略>上杉謙信/金銀、毛利元就/石見銀山/毛利水軍/村上水軍、島津家/琉球/鉄炮、長宗我部元親/四国統一、<本能寺の変と土地改革>封建体制、国替え、<朝鮮出兵>大坂城、太閤検地/石高制、朝鮮征伐、<徳川家康の天下取り>火事場泥棒、小田原征伐、関ヶ原の戦い、大法馬金、<あとがき>戦国時代、通貨改革、宗教
<はじめに>
・戦国時代は人気のある時代である。本人の才覚/腕力で上に上り詰める下剋上の時代である。しかしそれには経済感覚/経済政策も重要だった。
・織田信長は「兵農分離」をし、鉄砲を大量に揃えた。それにはお金が必要である。尾張半国の彼が、どうやってお金を集めたのか。徳川家康は戦国時代の勝利者になったが、「忍耐強い」だけではなく、それは「そろばん勘定に秀でていた」からである。「お金」の観点から戦国時代を見ていきたい。
<戦国時代は幕府の財政破綻から始まった>
・「応仁の乱」は足利義尚(足利義政の実子)と足利義視(足利義政の弟で養子)の将軍継承争いである。室町幕府の財政基盤は脆弱で、将軍の権威は低下し、何事も家臣/大名と相談して決める必要があった。
・「応仁の乱」の東軍の首領の細川家は摂津/丹波/讃岐/土佐を領していた。西軍の山名氏は14世紀末には11ヵ国を領していたが、「明徳の乱」で衰退する。しかし細川家に匹敵する勢力を持ち、彼らは将軍を凌ぐ財力/勢力を持っていた。
・室町幕府は「日明貿易」を行ていた。これは「朝貢貿易」で、日本が貢物を差し出し、皇帝が返礼する形式である。
・しかしこの「日明貿易」はお金が掛かった。遣明船1隻で1万貫文(船のチャ-ター費300貫文、修理費300貫文、船員費400貫文、食糧費500貫文、朝貢費数千貫文)必要であった。これを数隻準備すると、50万石の大名の1年分の収入に相当する。
・室町幕府は資金不足で遣明船の準備ができず、年100枚支給されていた「勘合符」を1枚300貫文でバラ売りし始める。しかし1隻で3~4万貫文の利益が出るので、これは大損で、それ程幕府の財政は逼迫していたと云える。
・室町幕府の発足当初は「南北朝時代」で、大名の離反を恐れ、足利家の直轄領が極端に少なくなった。これにより年貢収入も少なく、兵員の動員力も低くかった。
・室町幕府は「酒屋土倉役」で収入を補った。「酒屋」とは造り酒屋で、当時の主要産業である。
・「土倉」は金貸しである。「土倉」が庶民に高い利息でお金を貸すため、「土一揆」が頻発した。そのため幕府は「徳政令」を出すが、これにより幕府は減収になった。
・平安時代以前は土地は国家のもので、その土地を貸し与え、使用料として税を納めさせた。それを中央が派遣した「国司」が管理していた。ところが平安時代中頃から、「墾田永年私財法」により、有力者が土地を開墾し、私有する「荘園」が増えていった。これらの「荘園」を守るために生まれたのが「武士」であった。そして頻発する「土地争い」を調整したのが、鎌倉幕府/室町幕府の役割であった。室町幕府の権威が低下し、この土地調整機能が失われ、戦国時代になった。
<桶狭間の戦いは経済覇権争い>
・鎌倉時代「守護」「地頭」が設置され、警察権を持った。室町時代になると、守護は「段銭」「棟別銭」の徴収権を与えられ、領主化し「守護大名」になった。守護大名は京都にいて領国の統治を代官などに任せた。戦国時代になるとこの代官が領国を支配し、「戦国大名」になった。※戦国大名の素は①守護大名②守護代③国人の3パターンかな。
・「応仁の乱」で東軍の大将だった細川勝元(細川京兆家)は5ヵ国の守護大名であったが没落する。今川義元は守護大名であったが戦国大名として生き残った。
・長尾家(上杉謙信の前の代)の収支記録(1529年)がある。これによると収入5457貫文に対し支出7296貫文で、1839貫文の赤字である。この赤字は商人/富農から借りたものと思われる。
・北条家(後北条家)は戦国時代を代表する戦国大名である。豊臣秀吉が「北条攻め」した時の版図は、秀吉を凌いでいた。
・この北条家を興したのは北条早雲である。1493年伊豆の堀越公方を滅ぼし、伊豆を領地にした。早雲は複雑な税制を簡素化し、5公5民を4公6民に減税した。※津波の救済に当たったのも聞いた事がある。
・この「領民に配した政治」は、第3代北条氏康も行っている。氏康は税を「年貢」「棟別銭」「段銭」に限定し、しかも減税を行った。その後幸運にも今川/武田/信長が絶え、日本最大の版図となった。
・戦国時代は「下剋上」と云われるが、身分が知れないのは秀吉くらいで、ほとんどは半国以上の領主である。織田信長も然りである。
・信長の祖父・信定は大永年間(1521~28年)に津島を支配するようになった。津島は尾張/美濃の入口で、物流の拠点であった(※河口の町は絶対発展する)。また尾張は「瀬戸焼」など日本の陶器の6割を産出していた。
・信長の父・信秀の時代になると知多半島も支配下におく。知多半島も陶器/塩の産地であった。1554年知多半島の青左衛門が清須城下に問屋を構え、「知多屋」として今に残る。1657年「明暦の大火」により「新吉原」が作られるが、20軒の揚屋の内、13軒が知多出身の経営者であった。
・織田家は信秀の代でかなりの財力を持った。伊勢神宮の移築に700貫目を提供し、また禁裏修理料として4千貫目を寄付している。信長は足利義昭が上洛した時に1千貫目を献上しており、信秀の財力が伺われる。
・本題の「桶狭間の戦い」に入る。「桶狭間の戦い」は今川と織田による知多半島の争奪戦であった。この争奪戦は信秀の代(~1552年)から始まっていた。1554年信長は知多半島の付け根の村木で今川軍を破っている(村木砦の戦い)。
・1960年今川は、知多半島の付け根の2城(鳴海城、大高城)を調略で奪う。信長はこれを取り囲むように丹下/善照寺/中島/鷲津/丸根に砦を築いた。これにより今川は2城を助けるために出陣する。ところが信長は2城を攻めるのではなく、最後尾の本陣を襲い、今川義元を討ったのである。
・信長がこの奇襲が可能だったのは、当時は「農民兵」が大半なのに、機動力の優れた「常備兵」を持っていたからです。信長は、かなりの人数の小姓衆/槍の者/弓衆/鉄砲衆を持っていたとされます。1549年信長が義父・斎藤道三と対面した時、既に1700~1800人の直属部隊を持っていた。「桶狭間の戦い」の時には、それ以上の「常備兵」を備えていたと考えられる。それは清須城からも想像できる。清須城には一辺200mにも及ぶ館城があった事が分かっています。
・当然「常備兵」は「兵農分離」によりますが、「兵農分離」には相当な経済力が必要です。信長にはそれだけの経済力があったのです。
・「桶狭間の戦い」は今川軍4万5千人、織田軍2千人と云われています。秀吉時代の「慶長3年検地目録」では、今川領は69.5万石(遠江25.5万石、駿河15万石、三河29万石)、織田領は尾張57万石です。当時尾張の一部を取り合っていたとしても、石高はそれ程変わりません。武田信玄/勝頼を記した『甲陽軍鑑』には、「今川軍は多くても2万4千であろう」と書かれています。信長の奇襲部隊は2~3千人、今川軍の本陣は3~4千人だったと考えられます。
<織田信長の錬金術>
・織田信長は残酷で気性が激しい人物とされています。しかし信長は領民に対し驚くほど善政を行っています。1582年武田領を家臣に与えた時、11ヵ条の命令を授けています。そこには農民に対し「本年貢以外の過分な税は禁止」「訴訟は入念に」「支配者は欲張るな」などを記し、武士に対しては「抵抗する者は自害・追放せよ」と記しています。
※本書では全条載っているが省略。支配者に対する厳しさは流石。
・信長の善政でまず挙げられるのが減税です。戦国時代は権利関係が複雑になり、「二重成」(二重取り)が多く見られました。信長はこれを簡素化し、大減税を行いました。
・信長は軍規を厳しくしました。「防御御礼」した地域での狼藉を厳禁しました。信長は足利義昭が上洛した時に1千貫目の「判銭」を徴収しています(※義昭に献上した金額と同じなので、右から左に流れたのかな)。また堺に2万貫文の「矢銭」(戦争税、臨時税)を要求しています。
※貫目は重さの単位で3.75Kg、貫文は通貨の単位で1千文みたいだな。
・「楽市楽座」は信長が始めた訳ではないが、信長は加納(岐阜市)/安土/金森(守山市)で「楽市楽座」を開いた。これにより近畿で価格破壊が起こり、販売を独占していた座は衰退し、「流通革命」が起きた。※当時は銀の産出が増えた時代でもある。
・信長は「関所」を廃止したが、この功績も大きい。淀川河口~京都には380ヵ所、桑名~日永(四日市市)には60以上の「関所」があった。「関所」では「津料」「駄の口」が徴収された。
※これらの政策は今に通じる。
・信長は道路整備にも熱心であった。1574年道路整備に関する命令をしている。そこには「船橋を作り、悪路をならす」「道幅を規定し、街路樹を植える」「周辺の住民に道路を整備させる」などが記されている。また道路を3ランクに分けている(本街道=3間2尺、脇街道=2間2尺、在所道=1間)。また信長は摺針峠の開削(1573年)、京都・四条橋の建設(1576年)、天竜川の架橋を行っている。
<税金オンチの武田信玄は破綻寸前>
・本章は織田信長の最大のライバル武田信玄を取り上げます。1521年信玄は甲斐の守護大名武田信虎の長男に生まれます。20歳の時、父から当主を奪います。直ぐに信濃へ進出し、上杉謙信と川中島で戦い、弘治年間(1555~1558年)には信濃を勢力圏に入れます。1573年「三方ヶ原の戦い」で徳川家康を破りますが、陣中で病死します。
・「信玄がもう少し長く生きていれば、信玄の天下であった」と云われますが、それは間違いです。信長と信玄には経済力で圧倒的な差がありました。
・信玄に不利をもたらした要因に甲斐の土地があります。甲府盆地は東の笛吹川と西の釜無川の氾濫に悩まされ、大規模な土木工事をせざるを得ませんでした。
・甲斐武田家の課税は厳しく、1522年信虎は「棟別銭」(家屋・家族に掛ける税)を課税しています。甲斐は農作物の収穫が安定しないため、「棟別銭」を税の柱にしました。
・「棟別銭」は甲斐全域(直轄領、知行地)に掛けられ、寺社も課税の対象になりました。そのため掛けられる側の農民/寺社、さらには「棟別銭」を徴収できない家臣/国人からも反発を受けます。※この辺が家臣が一気に離反した原因なのかも。
・信玄は当主になった翌年(1542年)に「棟別帳」を作成しています。これは「棟別銭」を強化するためです。当時「棟別銭」は50~100文でしたが、信玄は200文掛けています。さらに「棟別銭」の対象を新屋/片屋/明屋などまで拡大しています。
・戦国時代は罪を犯した者に「罰金」を掛けていました。信玄は比較的軽い犯罪に「過料銭」を課していましたが、1549年全領民に課します。
・1547年信玄は「棟別役」を郷村に割り振っています。これにより「棟別銭」が払われない時は、郷村が負担する事になりました。『甲陽軍鑑』に「棟別銭」を容赦なく徴収する方法が記されています。
・これらから信玄は相当無理をして税を徴収し、大軍団を維持していたのが分かります。
・信玄は神仏への依存の念が強く、信玄の本名は晴信で、信玄は仏門に入った時(31歳)の法名です。飯縄大明神/開善寺/三精寺の寺領を還付し、武運長久を祈禱しています。信長は旧社会秩序に拘りはなかったが、信玄は旧社会秩序に従う気しかなかった。
・「悪銭」(欠けた銅銭など)に対する考えも信長と異なります。戦国時代は銅銭が不足し、デフレであった(※金銀は増産されたと思うが)。信玄は「悪銭」の流通を禁止したが、信長は「悪銭」複数枚で1文として「悪銭」を流通させた。
・「関所」に関しても信長と異なりました。信長は「関所」の廃止に努めたが、信玄は自ら「関所」を設け、「関銭」を取っていました。
・信玄は「軍神」なのだろうか。信玄は晩年に100万石を領するようになるが、その大半は旧今川領です。今川義元を討ったのは信長で、信玄が大大名になれたのは信長のお蔭と云えます。
※信玄が偉大とされるのは、「三方ヶ原の戦い」で家康を破ったからかな。
<軍需物資の調達>
・戦争の趨勢は「軍需物資の調達」に大きく影響されます。特に鉄砲の調達は重要であった。
・1575年「長篠の合戦」で織田・徳川軍3万8千と武田勝頼1万5千が戦ったが、織田信長は3千挺の鉄砲を投入しています。この合戦は鉄砲を使った合戦として有名です。
・1543年種子島に鉄砲がもたらされたが、実はそれ以前(1510年)に朝鮮経由で鉄砲は入っていた、1548年武田信玄は村上義清との戦いで、50人の足軽に鉄砲を持たせている。また信玄は、1555年「川中島の戦い」でも300挺の鉄砲を投入している。信玄は早くから鉄砲を使用していた。
・当時「堺」は日本最大の貿易港であり、最先端の工業地帯で、鉄砲生産の中心地であった。堺より東には海外貿易港はなく、東日本の大名にとって堺は生命線であった。
・日明貿易などで栄えた堺は、足利義尚に2千貫目、畠山氏に1万貫目などの軍資金を払うが、自治権は手放さなかった。
・1568年信長は足利義昭を上洛させるが、副将軍や管領職を断り、堺/大津/草津に代官を置く事を願い出る。信長は上洛すると畿内の都市/寺社に「矢銭」(戦争税、臨時税)を要求する。堺には2万貫目、石山本願寺には5千貫目を要求している。堺は「三好三人衆」を味方にし、これを拒否した。しかし「三好三人衆」は京都で信長に敗れ、堺は信長に屈する。
・信長にとって堺の今川宗久は重要な人物になる。1568年信長が上洛した時、彼は信長に謁見している。2万貫目の「矢銭」を堺で説得したのは彼と云われている。
・堺が信長の支配になると、彼は堺の責任者に任命される。さらに淀川の通行権や、生野銀山の運営を任され、信長の「財政・軍需担当大臣」と云える存在になる。彼は堺に鉄砲の工場を持ち、鉄砲製造のキーマンでもあった。
・東日本の大名が軍需物資を入手するルートは2ルートあった。1つは伊勢湾からのルートで、もう一つは琵琶湖から東に向かうルートである。信長は尾張/美濃を支配していたので、伊勢湾ルートは管理下にあった。また琵琶湖の入口である大津/草津を支配したため、このルートも管理下に置いた。戦国時代は敵国に対し「荷留」「津留」で頻繁に経済封鎖を行ったが、信長はそのための重要地点を管理下に置いていた。
・武田領は「陸の孤島」で経済封鎖に弱かった。鉄砲は国産化され、堺の商人などが売り歩くので入手できたが、火薬の原料の硝石は海外からの輸入しかなかった。武田軍が火薬の調達に苦労したのは間違いない。
・1572年信玄は将軍・足利義昭の求めに応じ「西上作戦」を開始する。信玄は「西上作戦」を始めるに当たり、様々な税を徴収するが7千両(約2万貫)しか集められなかった。信玄は「西上作戦」で、二俣城/野田城を落城させるのに随分時間が掛かっている。また「三方ヶ原の戦い」で家康に勝利するが、浜松城を落す気配もない。野戦では兵器はほとんど関係ないが、攻城戦では鉄砲などの兵器が重要になる。信玄が攻城戦をできなかったのは、経済的困窮により兵器が不足していたためである。
<南蛮貿易の収支決算>
・戦国時代は欧州の大航海時代と時期が重なる。1543年ポルトガル船が種子島に漂着し、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出すまでの半世紀、「南蛮貿易」が盛んに行われた。
・「南蛮貿易」には2つの目的があった。1つは貿易による利益で、もう1つは「キリスト教の布教」である。「南蛮貿易」をするため、諸大名は「キリスト教の布教」を許可した。
・1510年ポルトガルはインドのゴアを占領し、翌年にはマラッカを占領する。1557年ポルトガルはマカオへの居住を認められる。これはポルトガルが「倭寇」を鎮圧した報償であった。日本の海外貿易は「倭寇」が行っていたが、徐々に南蛮船に置き換わる。
・大内義隆は「キリスト教の布教」を許可し、「南蛮貿易」を行った。ザビエルと2回目の謁見の時、時計/火縄銃/鍵盤などを贈られ、返礼として「大道寺」を与えた。諸大名はキリスト教に寛容で、織田信長も教会を建設するための場所/資材を提供している。
・豊後を領有した大友宗麟も同様で、1551年(天文20年)山口よりザビエルを呼び寄せ、住居を与えている。同年ザビエルの帰国時に4人の日本人キリスト教徒を同行させている(※天正少年使節とは別だな)。宗麟はキリスト教に関心を持ったようで、家督を譲った後に洗礼を受け、自ら布教を行っている。
・信長は直接は「南蛮貿易」を行っていない。しかしカッパ/織物/砂時計/日時計/蝋燭/ガラス器などを所持していた。これらは支配していた堺商人からの贈り物である。
・平戸の領主松浦隆信は「倭寇」を束ねる王直を平戸に招いた。王直はルソン(フィリピン)/アンナン(ベトナム)/シャム(タイ)/マラッカ(マレーシア)と交易を行い「東南アジアの海上王」であった。
・王直を頼ってポルトガル人も平戸に来航するようになる。ザビエルが本格的に布教活動を始めたのは平戸であった。松浦隆信は重臣の籠手田氏を入信させた。これにより籠手田氏の領民(根獅子)も入信した。彼らの信仰は江戸時代はおろか平成まで続いている。平戸/天草に「隠れキリシタン」が存在するのは、このような事情による。
<比叡山ファイナンシャル・グループ>
・戦国時代に力を持っていたのは武家だけでなく、寺社も持ち、武家は手を出せなかった。寺社は日本の資産の大半を所有していた。「比叡山」は近江の荘園の4割、若狭の荘園の3割を所有し、他に北陸/山陰/九州でも荘園を所有していた。京都五条にも領地を持ち、これは醍醐天皇の内裏と足利尊氏の邸宅を合わせたよりも広かった。
・広大な領地を持っていたのは「比叡山」だけではない。紀伊では8~9割が寺社の領地であり、大和では寺社(興福寺、東大寺、多武峰、高野山、金峰山寺など)以外の土地がなかった。
・1508年管領・細川高国が「撰銭令」(悪銭の取り扱い)を、金持の8つの団体(山門使節、青蓮院、比叡山三塔、興福寺、大山崎、堺、細川高国、大内義興)に発している。前者3団体(山門使節、青蓮院、比叡山三塔)は「比叡山グループ」である。日本8大財閥の内、3財閥が「比叡山グループ」であった(大山崎/堺は自由都市、細川高国/大内義興は武家)。
・寺社は莫大な財力で「出挙」(貸金業)を行っていた。本来「出挙」は国が種籾を農民に貸出す「貧民対策」であったが、次第に「利息収入」が目的になり、私的に行う者が出てきた。その代表が「比叡山」であった。
・「比叡山」と表裏一体をなすのが「日吉大社」であるが、「日吉大社」は古代から「私出挙」を行っていた。当時の貸金業は「土倉」と呼ばれていたが、京都の「土倉」の8割が「比叡山・日吉大社グループ」で、「土倉」は「比叡山」の代名詞であった。この「土倉」の金利は48~72%で、悪質であった。
・寺社は商工業も握っていた。当時商業は「市」で行われていた。「市」は寺社の縁日に開かれ、寺社がそれを取り仕切った。寺社は「座」を作り、他の業者を締め出した。当時の重要商品(絹、麹、酒など)は寺社により牛耳られた。※凄い悪い奴らだな。
・1419年「北野社」が幕府に働き掛け、麹の独占販売権を得る。1444年他の寺社の反発により、独占は解除される。この「北野社」も「比叡山」の末寺である。
・平安時代末期、白河上皇は思い通りにならない者を3つ挙げている。賀茂川/サイコロ/比叡山である。前2つは前振りで、白河上皇が言いたかったのは、3つ目(比叡山)である。鎌倉時代初期の歌人・藤原定家も、「比叡山には、出挙で富裕になった者が充満している」と批判している。
・寺社がここまで権力を持った原因は、寺社に「貴人」が多くいたためである。古代から貴族は「世継ぎ争い」を避けるため、次男/三男などを出家させていた。天台座主(比叡山の最高責任者)に就いた慈円大僧正は、摂政関白・藤原忠通の子である。
・寺社を焼討ちしたのは信長が最初ではない。6代将軍・足利義教も「比叡山」の東側を封鎖し、坂本を焼き払っている。しかし権力は、直ぐに戻っている。
<安土城は集金レジャーランド>
・今の安土は片田舎だが、当時は先端の商工業地域であった。667年天智天皇は大津に都を移した。その時百済から多くの亡命者が近江に居住した。近江には琵琶湖の水運があり、18の「市」が立った。農業においても、近江は太閤検地で陸奥に次ぐ78万石であった。仏教界でも、「比叡山延暦寺」を建立した最澄は大津生まれで、その「比叡山」から法然/親鸞/日蓮が育った。
・安土城は、1576年着工され、1579年天守閣が完成している。天守閣は地下1階/地上6階で、外観は5層で、高さ16.5間(30m)である。外壁は異常にカラフルであった。当時は珍しかった石垣が、「穴太衆」により築かれた。
・大工の棟梁には熱田の宮大工・岡部又右衛門が当たった。作業したのは甲賀大工/熱田大工/奈良大工であった。彼らは一流の職人であった。城には珍しかった瓦が葺かれた。「鯱瓦」には金箔が貼られた。
・織田信長の普請奉行は竹中正高で、竹中工務店として残る。
・安土城の繁華街は長さ5.6Kmに達した。これはパリのシャンゼリゼ通りの3Kmより長い。1577年信長は「安土山下町中掟書」を発給している。これには「楽市楽座」や住民の様々な特権が記されている。安土は「城下町」の原型であり、現代主要都市の起源である。
・1581年信長は新年を祝う行事「左義長」を催す。「左義長」は「どんど焼き」に相当する。また同年7月、安土城のライトアップも行っている。
・1582年安土城が竣工すると、信長は安土城を「一般公開」する。「御幸の間」(天皇の部屋)まで公開された。大変な人手になり、石垣が崩れ死者を出したため、入城整理した。※これは驚き。
・信長は安土城を集客施設/宗教施設にしようと考えていたようである。伊勢神宮は神戸からの年貢で賄われていたが、武士の台頭で困窮していた。そこで伊勢神宮の参拝を許し、関税収入を得るようにした。また御師を全国に派遣し、初穂(賽銭)を得るようにした。これにより120年振りの遷宮(通常は20年)が可能になった。信長はこの変化を見ていたと思われる。
・宣教師ルイス・フロイスの書いた「日本史」に「信長大社」構想が記されており、「安土城に礼拝に来れば、金運/子宝/家内安全/無病息災の果報がある」とお触れを出したと記されている(ただし「日本史」にしか記述がなく、信憑性は薄い)。もし信長が長生きしていれば、参拝客を集めたかもしれない。
<上杉/毛利/島津 諸大名の経済戦略>
・上杉謙信/毛利元就/島津家は武田信玄と違い経済的に恵まれていた。ではなぜ天下を目指さなかったのか、その辺りを解説する。
-上杉謙信-
・越後は経済的に非常に豊かであった。まず柏崎/直江津の港からは年間4万貫の関税収入があった。4万貫と云うと30万石の年貢収入に相当する。次に越後には鶴子銀山/西三川砂金山(以上佐渡市)/高根金山(村上市)があり、豊富な金銀を産出していた。さらに越後は麻織物「越後上布」の特産地であった。越後は「港」「金山」「特産品」を備えていた。
・謙信は2度上洛しているが、その時将軍・足利義輝などに黄金を献上している。謙信の死後、上杉景勝が蔵を開けると2万7140両(50万石の年貢収入に相当)があった。
・謙信はなぜ天下を狙わなかったのか。それは謙信は「今は室町時代」と思っていたからである。彼を象徴する言葉に「義」があるが、これはあくまでも「室町幕府体制の維持」であった。
・それは鉄砲の保有数からも分かる。織田信長が数千挺の鉄砲を保有していたのに、謙信は316挺しか保有していない。
・謙信にまつわるエピソードに「敵に塩を送る」があるが、これは塩の流通の「黙認」であろう。
-毛利元就-
・元就は10ヵ国を領有する大大名である。しかも石見銀山/瀬戸内海を支配していた。それなのになぜ信長に遅れを取ったのか。それは毛利家の拡大の経緯にある。当初は尼子家(出雲など)と大内家(周防、長門、石見、安芸、豊前、筑前)の争いで、毛利家は尼子家に属していた。その後元就は大内義隆に転じ、大内家で重要な立場になる。
・1551年大内義隆が陶晴隆に討たれ、これが転機になる。実は元就はこれを知らされていたが、傍観していた。1555年元就は「厳島の戦い」で陶晴隆を討つ。1566年尼子家を滅ぼし西日本10ヵ国の支配者になる。この急拡大のため、元就には政治能力が育たなかったと思われる。
※元就は策略家と云われている。信長は大変苦労しているように思える。
・1526年博多の商人・神谷寿禎が「石見銀山」を大開発したとされる。その頃から「灰吹法」が使われ始め、金銀の生産量が増大した。大内家が滅んだ後の1562年、元就は「石見銀山」を支配下に収めるが、翌年には幕府に献上している。1582年「石見銀山」から徴収された税は銀3652枚(銀2692枚、材木960枚)で、これは30~40万石の年貢収入に相当する。※元就も上杉謙信と同じく、現体制維持派だな。
・また元就は瀬戸内海を支配する事ができなかった。瀬戸内海は「村上水軍」(因島、能島、来島)などの海賊衆が支配していた。彼らは航行する船から警固料を徴収した。
・「毛利水軍」と「村上水軍」は別物である。「毛利水軍」は大内義隆の遺臣が発祥で、「毛利水軍」と「村上水軍」は協力関係と云える。
・1578年2月「毛利水軍」と「織田水軍」(九鬼水軍)が戦い、「織田水軍」が敗れる(木津川での戦い)。しかし11月「織田水軍」は「鉄甲船」を繰り出し、「毛利水軍」を撃退する。「鉄甲船」は鉄で武装され、大砲を積んでいた。その後信長は「村上水軍」に調略を仕掛けている。
※「鉄甲船」は動きが悪く、役に立たなかったみたい。
-島津家-
・島津家は薩摩/大隅/日向の守護であったが、戦国時代には土豪が力を付け、島津家は薩摩の一部を支配しているに過ぎなかった。その島津家を纏めたのが、分家の島津貴久と4人の息子(義久、義弘、歳久、家久)であった(1527年本家を相続)。
・島津家は琉球を通じ、東南アジア/西洋と貿易をしていた。明から琉球にもたらされた絹/砂糖は、薩摩から日本に流れた。
・1543年ポルトガル船から種子島に鉄砲がもたらされる。これにより島津家は早くから鉄砲を採り入れ、1554年日本で最初に実戦で使用している。
・フランシスコ・ザビエルが最初に降り立ったのも薩摩である。彼は島津貴久に謁見し、日本で最初に布教の許可を得る。しかし仏教からの反発でキリスト教は禁教になる。
・島津家が旧領(薩摩、大隅、日向)を制圧したのは、1576年島津義久の代になってからである。信長は弟との相続争いを数年で片付け、畿内を制圧しており、スピードの差が歴然である。
-長宗我部元親-
・1539年元親は土佐の一領主の長男に生まれ、21歳で家督を継ぐ。長宗我部家には「一領具足」(家臣は田畑に行っても、武器を携えておく)の伝統があった。これは「兵農分離」と反対の考え方である。しかし長宗我部の軍は大変強く、1574年土佐を統一する。
・土佐は経済的に豊かな地域である。穀倉地帯があり、木材の産地であり、海産物に恵まれ、良質の塩田もある。居城のある浦戸は、太平洋ルートの中継港であった。
・元親は土佐統一後、「四国統一」に乗り出す。この「四国統一」は信長の許しを得たものであった。しかしその後、信長は「元親に土佐/阿波南半分を与え、三好康長に阿波北半分/讃岐を与える」と反故にする。元親がこれに従わなかったため、信長は「四国征伐」の軍を編成する。その直後、元親の仲介をしていてメンツを潰された明智光秀が「本能寺の変」で信長を討つ。※これに関係する書簡が最近見付かったような。
<本能寺の変と土地改革>
・1582年織田信長は「途中入社」の明智光秀の謀叛により、本能寺で斃(たお)れる。この要因を経済面から解明する。
・信長は軍事/税/流通/交通など、あらゆる分野で改革を進めていた。ここで注目するのは「土地改革」である。信長は領地を家臣に与え、直轄領がほとんど見当たらない。しかしこれは「家臣に領地を与えた」のではなく、「家臣に領地を管理させている」である。
・「武家」は「土地」を守るために生まれたもので、「封建時代」は「武家」と「土地」の結び付きが大変強い。室町幕府が弱体であったように、この体制は中央政府にとって好ましくない体制であった。信長はこれを古代の朝廷あるいは明治政府のような体制へ変革させていた。※これは本書の重要ポイントかな。
・そのため信長は頻繁に「国替え」を行った。柴田勝家/羽柴秀吉/滝川一益/佐々成政などの主な家臣は「国替え」を経験している。彼らは「国替え」を命じられると、自身の家臣(地域に根を張っていた土豪を含む)を連れて、新しい領地に移った。
・1582年信長は武田領を家臣(河尻秀隆、森勝蔵、森蘭丸など)に与えた時、11ヵ条の命令(前述)を出している。これには税の徴収方法/道路整備/軍備など細かく指示している。
・1580年佐久間信盛/信栄親子が石山本願寺の攻略に失敗し追放され、彼らは領地を失った。これは光秀に心理的な悪影響を与えたと思われる。
・荒木村重は摂津・池田家の家臣であったが、信長の家臣になり摂津を与えられ、伊丹城城主になる。しかし1578年毛利方に通じ、信長に反旗を翻す。この時説得に訪れた黒田官兵衛が有岡城に幽閉されている。
・この荒木村重と光秀は共通点が多い。途中入社/信長により出世した/謀反の原因が不明確などである。二人とも信長の「土地制度」を納得できなかったと思われる。
・光秀は丹波/近江の治政に心血を注ぎ、壮麗な坂本城を築いた。「本能寺の変」の直前、信長に「国替え」を命じられ、それに納得できなかったのだろう。※山陰に「国替え」させられた話かな。
<秀吉の朝鮮出兵>
・今川家は今川義元が討たれ、崩壊した。明智光秀は織田信長を討ち、天下を取るはずであった。旧武田領では国人が謀叛を起こし、河尻秀隆は武田家の遺臣に殺される。しかし明智光秀の天下にならなかった。信長には、この混乱を物ともしない羽柴秀吉/柴田勝家がいたのである。これも信長の人を見る目の確かさと云える。
・秀吉は信長が作った「最高傑作」であり、信長が立てた計画を丁寧に実行した。その秀吉の実績を追ってみよう。
・「大坂城」は石山本願寺のあった場所で、信長は開城を条件に和睦した。信長は直ぐに丹羽長秀に「大坂城」築城を命じている。1582年「本能寺の変」の時には、ある程度建設が進んでいたと思われる。その後秀吉が引き継ぎ、完成させた。秀吉は信長の経済政策を継承し、大坂を日本最大の商都に発展させた。
・「検地」には2種類ある。実際に現地で測る「縄入れ」と、農民が自主的に帳面を提出する「差出」である。「太閤検地」は「縄入れ」であり、これは信長時代から行われていた。「太閤検地」により二重課税などが解消された。
・秀吉は「石高制」を採用したが、これも信長を継承している。年貢の納め方には2種類あるが、米で納めるのが「石高制」で、銅銭で納めるのが「貫高制」である。当時は「貫高制」であったが、銅銭が不足していたため「石高制」への変更は農民には有難かった。
・秀吉には信長の真似をできない点があった。それは出生が異なり、家臣がいなかった点である。そのため秀吉は、大名に細心の配慮をする必要があった。
・これで失敗したのが「小牧長久手の戦い」である。これは柴田勝家を破り、天下を手中にしようとしていた秀吉に、織田信雄(信長の三男)と徳川家康が対抗した戦いであった。秀吉は池田恒興の策を聞き入れ、奇襲作戦を許す。しかし池田恒興はこれに失敗し、討死にする。これ以降秀吉は家康との対決を避ける。
・信長と異なった政策もある。信長は直轄領をほとんど持たなかったが、秀吉は関西を領有し、全国に「蔵入れ地」を持った。また大名の「転封」(配置換え)も信長ほど行わなかった。※征服する度に論功行賞したイメージがあるが。
・信長はキリスト教の布教を容認していたが、秀吉は禁教にする。これは「南蛮貿易」のデメリットが目立つようになったためである。1つ目は鉄砲/大砲/火薬などの輸入は天下統一の障害になる。2つ目は「人身売買」である。長崎から多くの日本人が奴隷として海外に送られた。3つ目はスペイン/ポルトガルによる日本侵攻が懸念されたためである。
・秀吉は「朝鮮征伐」を行った。これにより加藤清正/石田三成らの内部対立を生み、秀吉の死後、豊臣家はあっさり崩壊した。実は「朝鮮征伐」「明征服」は信長が考案しており、ルイス・フロイスの「日本史」に載っている。信長が考案した「大坂城」「太閤検地」「石高制」などは成功したのに、なぜ「朝鮮征伐」は失敗したのか。それは信長が未着手で、前例がなかったためである。
・「朝鮮征伐」で日本は退却したため、一片の土地も得られなかった。そのため武闘派の加藤清正/浅野幸長らの不満は石田三成に向かい、「関ヶ原の戦い」となった。
<徳川家康の経済効率の良い天下取り>
・戦国時代を最終的に制したのは徳川家康であった。家康には織田信長/豊臣秀吉と大きく異なる点がある。それは家康は「自分が天下を取る」という強い意志を持たず、常に受動的であった点である。家康は巨大勢力に決して立ち向かわなかった。ただし相手が弱まると、一気呵成に攻め立てた。これは非常に経済効率が良い戦法で、「火事場泥棒戦法」と云える。
・信長/秀吉がどうやって天下統一しようとしたか大概の人は知っている。しかし家康がどうやって大大名になったか、ほとんど知られていない。それは「火事場泥棒」で面白くないからである。※家康には辛口。
・家康が飛躍するのは、「主君が不幸」の時が多い。まず1560年「桶狭間の戦い」である。当時家康は今川義元の人質で、信長軍に包囲された城に兵糧を搬入する。そんな中で主君・今川義元が討死する。家康はこの混乱に乗じ、信長と同盟し、三河を平定する。※今川家はしばらく存続したと思うが、その後遠江/駿河は武田領だったかな。
・次に1582年「本能寺の変」である。この時家康は堺見物をしていたが急遽帰国する。旧武田領は滝川一益が治めていたが、彼は命からがら近畿に逃げる。家康はこの混乱に乗じ、甲斐/信濃に侵攻し、5ヵ国の領主になる。※強かだな。
・1590年「小田原征伐」は秀吉が天下統一をなした戦いとされるが、実際は秀吉は墓穴を掘り、家康が実利を得た戦いであった。
・1587年秀吉は家康に「関東・奥両国惣無事令」を命じている。これは関東/奥州で戦闘が起こった場合、家康に平定を命じたものである。これは見方によっては、鎮圧した領地を家康に与えるとも解釈できた。そのためか家康は「小田原征伐」で八面六臂の働きをし、次々に関東の支城を落とし、そこに駐留した。
・「小田原征伐」後、家康は遠江/駿河(150万石)から関東(250万石)に転封になる。当時秀吉の直轄領は222万石で、この転封で家康が逆転する。秀吉は全国の金銀山を手中に収め、1598年の蔵納目録には金4399枚/銀9万3365枚が記されていた。これは300万石の年貢に相当する。しかし兵の動員は郷村に依存するので、石高は最も重要である。
・1600年「関ヶ原の戦い」が起こる。この戦いも家康が天下を取ろうとした戦いではなく、豊臣恩顧大名の内輪揉めであった。しかし結果的に家康が天下を取る。しかも数時間の戦いで西軍から630万石を奪い、大変経済効率の良い戦いであった。さらに家康は全国の主要な金山/銀山/港も得ている。
・この630万石の内、最も多く没収されたのが豊臣秀頼の156万石(222万石→66万石)で、次が毛利輝元の90万石(120万石→30万石)である。この2人は「関ヶ原の戦い」に参加していない。「関ヶ原の戦い」前は、1位家康250万石/2位秀頼222万石/3位輝元90万石であった。家康が2位3位を叩いた事で、1位家康400万石/2位前田利家120万石となった(※利家は生きていた?しかも前田家は直ぐに分裂させられたような)。この圧倒的な軍事力/経済力の差が、徳川250年の安定政権をもたらしたのである。
・家康は信長・秀吉路線を継承しているが、「土地制度」では少し異なる。秀吉は同僚の前田利家に100万石を与え、家臣(加藤清正、福島正則、石田三成など)にも次々と20万石前後の領地を与えている。一方「関ヶ原の戦い」で家康は直轄領が400万石となるが、譜代大名の筆頭の井伊家でさえ30万石であり、「家康の懐刀」本田正信は2万2千石である。
・この違いは秀吉は成り上がりで家臣を優遇する必要があったが、家康の家臣は裏切る恐れがないので、そうする必要がなかった。簡単に言えば家康は「吝嗇」であった。
・徳川幕府は鎖国をするが、オランダとの貿易は続けた。これはポルトガル/スペインは「カトリック」で、貿易の条件に「キリスト教の布教」を要求してきたが、オランダは「プロテスタント」で要求しなかったためである。
・家康は倹約家であった。家康は金大判2千枚で分銅「大法馬金」(1個300Kg)を作らせた。江戸時代前半これが126個あり、純金を42t保有していた。日銀の保有量が800tなので、相当な量である。江戸開城の時、勝海舟が最後の1個を運び出し、家臣の生活のために使ったとされる。※この話は知らなかった。
<あとがき>
・戦国時代は江戸時代のさらに前で、遠い昔の話に思えますが、今の日本の基礎を作ったのが戦国時代です。
・まず近代的な「金融制度」は戦国時代に整備された。鎌倉時代から室町時代に掛けて、大量の銅銭が中国から輸入され、それが日本の通貨になった。年貢は銅銭で納められた。しかし明が銅銭の輸出を禁止したため、日本は銅銭が不足し、デフレになった。そこに織田信長が登場し、金銀を貨幣として使用する「通貨改革」を行ったのである。
・これは世界的な流れであり、金銀を高額貨幣として使用する事で、商業が発展した。金銀を貨幣として使用するのが可能になったのは、採掘技術と鋳造技術の進歩による。
・日本各地に見られる「城下町」は、戦国時代に作られた。そのモデルになったのが信長の清須/岐阜/安土であった。
・日本人は宗教への依存が非常に低い。それは信長が仏教勢力を徹底的に弱体化させたのと、豊臣秀吉/徳川家康がキリスト教を禁教にしたのが原因である。これにより日本は近代において、宗教に関係する紛争を起こしていない。※明治維新以降は「神道」が国家により利用された感はあるが。