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『台湾と日本のはざまを生きて』羅福全(2016年)を読書。

「序」を読んで難しかったので、先が思いやられたが、後はそれ程でもなかった。
著者の自伝で交友録的だが、フィクションのようである。

彼の経済専門家としての実績は素晴らしいが、歌/詩/書や料理への関心も注目される。

台湾の人の本を何冊か読んだが、考え方が近いのか、洋書よりも読み易い気がする。
しかしたまに滅多に見ない単語が出てくる。

お勧め度:☆☆

キーワード:<台湾に生まれ、日本留学直後に開戦>戸主、養子、旅客事業/林抱、王永慶、北香湖、留学/疎開/終戦、<恐怖政治下で過ごした学生時代>帰国、二・二八事件、嘉義中学/台南第一高級中学/外省人、台湾大学/ダンスパーティー、毛清芬、<自由と民主主義に目覚める>早稲田大学/東京大学/ペンシルベニア大学、民主主義/台湾独立、ローレンス・クライン/地域科学、<国連職員として世界を駆け巡る>地域開発センター/フィリピン/韓国/中国、上院公聴会、アジア太平洋経済国際会議、美食、経済予測、経済学者、<駐日代表として架け橋に>日本の知人/日華議員懇談会、駐日代表処、李登輝訪日、台湾研究所、帰郷、<編者あとがき>庭/山、楽しむ

<日本の読者へ>
・著者は人生の1/3を日本で過ごしています。終戦は埼玉で迎えました。氷川丸で台湾に戻り、1958年台湾大学を卒業し、1960年早稲田大学経済研究科に留学します。その後帰国ができず、米国に渡ります。
・1970年代国連のパスポートで日本に入国します。90年代に東京の「国連大学」で7年間勤務します(※正式な大学でなく、シンクタンクかな)。李登輝総統の民主化が開花し、2000年中華民国のパスポートで台湾駐日代表(駐日大使)に就きます。

・著者にとって日本は第2の故郷です。1999年台湾中部での「921大地震」では、日本から温かい支援を受けました。逆に2011年「東日本大震災」では、台湾で200億円の義援金が集まりました。互いに近代化した両国は、重要なパートナーです。

<序>
○「棄るは取るの法なり」-渡辺利夫
・福沢諭吉の言葉に「棄るは取るの法なり」がある(※本書には複数文載っている)。これは「大事に当たる時は小事と捉える事で活発に対処できる」を意味する。彼(著者)の人生は台湾の運命により余儀なくされたが、彼に潜む徳と志が大事を成し、福沢諭吉の言葉を証した人物である。

○鮮やかな人生、心を動かすストーリー-李敏勇
・台湾では彼(著者)は駐日代表に就いてから知られるようになった。これは台湾の特殊な政治環境による。
・彼は名家の出であるが、台湾を離れ日本/米国で人生を送った。1963年米国にて「台湾独立運動」に加わる。ペンシルベニア大学でクライン(ノーベル経済学賞)に学び、「地域科学博士号」を得る。その後国際連合に20年間勤め、台湾人であるが世界人である。最後の仕事が駐日代表になったのには、彼も予想しなかったであろう。
・本書は一個人を描いているが、歴史も描いている。

○歴史は個人が思うようには進まない-陳芳明
・彼(著者)は戦前は国語教育で日本語を習い、戦後は国語教育で中国語を習った。米国留学中に「台湾独立運動」に係り、帰国後は「陳水扁政権」に加わった。

・彼は優れた教授に出会い、多様な経済学の知識を得た。海外での台湾人の政治運動は3派に分かれている。①左傾した統一派②右翼の独立派③革新的な台湾支持派である。彼の国民党のイメージは圧迫/統制/支配で、②独立派に加わった。しかし真に理想とする所は、民主主義社会の実現であった。本書を読む事で、独立派の名誉回復ができるだろう。
・彼は日本に留学し、「国連大学」で教え、経済専門家とも交際があり、内閣とも繋がりがあり、皇室にも詳しかった。そのため陳水扁が政権を取ると、駐日代表に選ばれた。

・本書は一個人の伝記であるが、世界における台湾の運命を見い出せる。
・彼の様々な夢は、全て台湾の民主運動に注ぎこまれた。真の運動家は「象牙の塔」に籠るのでもなく、「意識の牢獄」に耽溺するのでもない。

○歴史を切り拓き、目撃者となった国際人-劉黎児
・「国連大学」に勤めている時に彼(著者)と知り合った。その後彼は駐日代表/亜東関係協会会長に就き、広い視野/卓越したバランス感覚を示した。、
・彼の駐日代表期は難しい時期であった。日本の古い親台湾勢力に「陳水扁って誰?」と言われていた。彼は「日本は積極的に歴史の恩讐を解くべき」と主張した。
・彼は識見/経歴の広さ/人文芸術の素養の深さを備え、接した人は皆好きになった。
※序を読むだけで疲れたが、これからはそうでもなかった。

<自序>
・1935年私(著者)は台湾で生まれる。しかし大学卒業後に出国し、その後45年間も海外に留まるとは予想しなかった。米国フィラデルフィアのペンシルベニア大学で学んだ。米国の独立は「国民国家追求」の嚆矢であり、「独立宣言」は私と毛清芬(妻)の心の拠り所であった。
・国連から、日本で設立したばかりの「地域開発センター」に勤めないかと誘われ、これが転機になった。その後1990年から「国連大学」に勤め、2000年から「駐日代表」を4年勤めた。戦前の5年/修士課程での3年を含めると25年を日本で過ごした。

・70年代に国連で働き始めたが、丁度その頃に東アジアは高度成長に入った。日本が先陣を切り、「四小龍」(台湾、韓国、香港、シンガポール)が続き、さらに中国/東南アジアが続いた。世界銀行はこれを「東アジアの経済的奇跡」と呼んだ。私はこれらの国の「経済開発顧問」になった。
・80年代韓国での朴正煕暗殺/光州事件、フィリピンでのマルコス政権崩壊/ピープル・パワー改革、インドネシアでの親共スカルノ政権から親米スハルト政権への移行、イランでの1978年王朝転覆、パキスタンでの政変、中国での1980年四人組裁判/1990年天安門事件などに遭遇した。

・「国連大学」(1990~2000年)では「持続可能な発展」「人口爆発による大都市問題」が研究テーマになり、活動範囲は第三世界から先進国までになった。
・悔いる事はこの時、ニュージャージー州に住む妻と2人の息子と一緒に暮らせなかった事である。しかし幸いに、2000年息子2人が米国で就職するが、2人共東京勤務になり、大家族になった。

・2004年台北に居を定める。台北では青(国民党)と緑(民進党)の闘争が続いている。1919年「五四運動」のスローガンは、サイエンス/デモクラシーにあった。サイエンスは得たが、デモクラシーはまだその最中にある。

<台湾に生まれ、日本留学直後に開戦 1935~45年>
○3歳で結婚式を主催
・3歳の時、従姉の結婚式があった。その新郎の父・頼雨若は名望家で弁護士であった。1995年日本の台湾統治が始まるが、その時彼は17~18歳であった。彼は日本語を学び、「台湾総督府法院」の通訳になり、文官試験に合格し書記になる。彼の大望は強く、日本の中央大学で法律を学び、1923年3度目の試験で弁護士になる。合格者42人中、台湾人が3人いた。
・従姉の結婚式に戻る。従姉の母の夫が早逝したため、叔母は実家に戻り、私(著者)と同居していた。また私の父(養父)は、私が生まれて10ヵ月後に亡くなっていた。そのためこの家の3歳の「戸主」が結婚式の主催者を務めた。※記念写真が載っているが、参列者が100人位で壮麗である。

○養子
・1736年羅家は福建省漳州から台湾の「諸羅」(嘉義、※台中と台南の中間にある)に渡ってきた。移民同士の闘争に勝ち、羅家は裕福な家となる。父(養父)羅程は3人兄弟の末っ子で子供がなく、4男2女を儲けていた次兄・羅雅(実父)から末っ子(著者)と姉・昭容を養子にした。次兄の下には福慧と昭儀が残った。※残り2人は独立?
・福慧は優秀で、帝国大学への入学が許される台北高校尋常科に合格する。合格者は40人で、台湾人は6人しかいなかった。しかし入学直前、胆嚢疾患で急逝する。そのため私は2番目の伯母(実母)と養母(以下母)に可愛がられた。

○母は職業婦人
・母は名家の出ではなかった。母方の祖父は山地産の動植物などを売って歩いた。体には「土匪」に撃たれた傷があった。
・母は1900年生れで、小学校を一番で卒業するが、それより上級の学校がなかった。母は電話交換手の試験に合格し、そこに勤める。当時電話交換手は職業婦人の最先端であった。
・1941年母は姉(8歳)と私(6歳)を連れ日本に向った。当時は日本への留学は盛んに行われていて、李登輝も台北高校を卒業し、京都帝大へ留学している。※留学と言ってもまだ幼稚園。

○父はバス会社を経営
・1910年「嘉南大圳」の工事が始まり、嘉義はその中心都市になる。人口は急増し、台湾で台北/高雄/台南に次ぐ4番目の都市になる。

・祖父・羅豫典は「秀才」(科挙の一次試験合格者)であり、父・羅程も教員をしていたらしい。1922年林抱と云う人が表れ、父と不動産事業を始める。1924年には靴下編機を購入し、靴下の製造を始める。丁度女性のスカートが短くなる時期で、靴下の需要があった。何れの事業も順調であった。1925年「期米」(米の先物)を始め、これも成功する。ある日母が花火が雨のように降る夢を見るが、次の日7万円を稼いだ(当時月給は20円程度)。

・1927年父は1台のバスを購入し、旅客事業を始める。嘉義と「媽祖宮」のある北港までの20Kmの路線を開業する。当時は旅客事業者が道路を作る必要があり、牛稠渓に70数mの橋を架けた。この橋は大雨になると流されるので、雨の度に橋桁を撤去した。※私の曾祖父も、その頃旅客事業をしていたらしい。

○林抱の思い出
・1930年2番目の伯父・羅雅も「大同自動車会社」を設立し、旅客事業を始める。父は北港/竹崎へのバス、伯父は新営/蒜頭へのバスを運行した。嘉義駅から伸びる中山路の左右に、兄弟の会社が向かい合った。父の会社「嘉義自動車」は名義は林抱で、父は車の選定/購入を差配した。

・その頃父は初めて東京に行き、「帝国ホテル」で初めて西洋料理を食べた。「帝国ホテル」は外務大臣・井上馨が建てたホテルで、世界的名士が泊るホテルであった。ベーブ・ルース/ヘレン・ケラー/マリリン・モンローなどが泊っている。「シャネルの5番」はこの時の発言である。

・林抱は後に市会議員になり、著名人になるが、日本語が上手くなかった。「日本に視察に行く」が「日本に自殺に行く」と勘違いされたり、「会社を組織する」が「会社を葬式にする」と間違えられた。
・彼は私を可愛がってくれた。バスの無料乗車券をくれた。友人と乗った時には、それも無料にしてくれた。東京に行く前の幼い頃、彼の家にシェパードがいたが、私はその犬に追いかけられ、壁に激突し頭にコブができた。それは私の幼年の記憶として鮮明に残っている。

○「経営の神様」王永慶
・私が住んでいた近所に、後に「経営の神様」と呼ばれる王永慶が住んでいた。彼は台北で生まれるが、小学校を卒業すると嘉義にある米屋の「小僧」になる。16歳の時独立し、米屋「文益」を創業する。3年目に機械を購入し、脱穀/精米も始めている。
・父の会社に王振波と云う運転手がいて、彼の親戚であった。そのため米の売買は「文益」を利用していた。母は「彼は帳簿の付け方がシッカリしていた」と言っていた。

○羅家の北香湖
・嘉義に風光明媚な「北香湖」があった。清代には羅家が所有していたが、失っていた。父と伯父はこれを買い戻し、草木を植え、東屋を設け、ボートを入れた。私の妻の両親は嘉義に帰省すると「北香湖」でデートしていたらしい。父は「北香湖」を大変愛し、私を抱いてこの湖畔でよく過ごしたそうである。
・1939年嘉義市が「北香湖」を7万円で強制的に収用した。羅家には広大な農地があり、市内で40数ヵ所の貸家を経営していた。そのため母は安心して私達を留学させる事ができた。

○日本留学
・東京では田園調布の借家に住んだ。日本式と和洋折衷式の建物があった。庭には梅と柿の木があり、共に実がなった。留学した年に日米が開戦したが、辛かった記憶は残っていない。

・学校で軍歌を習った。私は歌が好きなので、100以上の軍歌を覚えている。従兄(母の弟の息子)陳天燦が大学に進学するため同居していた。彼に銀座に連れて行ってもらった時の写真が残っている。
・日常の生活水準は一般の人と大差はなかったと思う。それは食糧が配給制になっていたからである。しかし台湾から砂糖を送ってもらい、それを田舎で卵/野菜/果物に交換してもらっていた。

○静岡への疎開
・1942年4月小学校に入学する。1944年7月戦局の悪化で、東条首相が辞任する。その年姉は浜名湖近くの寺に疎開し、私は伊豆の温泉旅館「船原」に疎開した。
・疎開すると先生は生徒に、「家に帰れない」と伝え、遠足気分で来ていた女子生徒は皆泣いた。午前は授業で、午後は山にサツマイモを植えた。年末にビスケット3枚が下賜された。国歌を斉唱してから食べた。初めてだったので、甘く香ばしく感じた。
・サイパン陥落で東京は空襲が激しくなっていた。その標的は東京の東部であった。伊豆半島は米軍上陸の恐れがあり、母が私を連れ戻しに来た。東京に戻ると埼玉県北本宿に引っ越した。しかし4~5ヵ月すると終戦になった。

○終戦
・埼玉の家で玉音放送を聞いた。戦後も食糧は欠乏したが、台湾人として一定の配給があった。私は水道管(鉛管)を溶かし鉛玉を作り、鳥を撃って焼いて食べた(※こんな事をやっていたのか。パチンコかな)。北本宿にも米兵が来た。白人/黒人を見るのは初めてで、東洋人と違っていた。
・程なくして田園調布に戻る。家は無事であったが、台湾とは連絡が途絶えていた。幸いに従兄・天燦兄さんが米軍の翻訳の仕事に就いた。彼はガム/チョコレート/ハーモニカなどをもらって帰った。ある日、米兵が遊びに来て、一人でニワトリの半分を食べたので驚いた。

・小学校の習字で、先生が「道路を汚すな国の恥」と書かせた。これは「日本は戦いに敗れたが、尊厳/清潔/秩序を失うな」を感じさせた。これが日本精神で、戦後の高度経済成長をもたらしたと思う。

<恐怖政治の下で過ごした台湾の学生時代 1945~60年>
○帰国
・東京の台湾人は「台湾同郷会」を作った。そこで国連の援助物資を受け取った。また北京語の「ボポモフォ」(イロハ)を習った。台湾人は戦勝国民になったので、無料通行証をもらった。

・1946年2月2日引揚船「氷川丸」に乗り、帰国の途に就いた。この日は旧暦の正月であった。
・嘉義に帰ると、2番目の伯父が気を遣ってくれた。台湾語を話せなかったので、家庭教師を付け、『三字経』(6歳の子供向け)を教えてもらった。私(著者)の外見は台湾の子とかなり異なった。私は靴を履いていたが、台湾の子は裸足であった。私は教科書をカバンに入れていたが、台湾の子は布にくるんで背負っていた。

○二・二八事件
・1947年「二・二八事件」が起こる。闇タバコを売っていた女性が取締係に殴打された事が発端となり、反政府行動が全土に広がった。嘉義でも民兵が市政府を襲い、市長/軍隊は逃げた。双方で300人以上の死傷者が出た。
・軍隊が増援され嘉義に進駐し、市民の逮捕/虐殺を始めた。母は姉と私を連れて南に逃げた。そこでも戦闘があり、東に逃げた。さらに北に逃げ、結局嘉義に戻る。

・2番目の伯母(実母)の兄で、市議会議長を務めた事がある朱栄貴が逮捕された。伯母が政府前で陳情し、釈放された。しかし朱栄貴と親しかった潘木枝医師は救えなかった。戦後間もない頃は、地域の医師/弁護士などの名望家が議会などを主導していた。国民党政府は見せしめとして、彼らを逮捕/虐殺した。3月下旬嘉義駅前でも3回公開処刑があった。潘医師もそこで銃殺された。殺された駅前にも遺体を運んだ路上にも線香が上げられた。
※これも嫌中親日の要因かな。

○初等中学-憲兵に逮捕される
・1948年私は小学校を卒業し、初等中学「嘉義中学」に進学する。2年生の頃から成績が下がり始めた。当時テニスをやっていたが、テニスが終わると屋台物を食べたりして、遊び歩くようになったからである。

・初等中学2年の時、担任の先生と生徒10数名で台中に旅行に行くことになった。先生が待ち合わせに来ないので、生徒だけで行くことにした。旅館に着いたが、身分証を持っていなかった私と友人が憲兵に連行された。「24時間以内に保証人が引き取りに来ないと、火焼島に送る」と脅された。翌日母と伯母が飛んで来て、帰宅した。
・ある日「嘉義中学」にジープが来て、3年生全員が整列させられ、1人の学生がビラをまいたとして連行された。そんな時代であった。

・帰国時に戻るが、私達は嘉義の親戚と連絡が取れていなかった。そのため嘉義駅に着くと、元の家と40数ヵ所あった貸家を見に行った。そこには新しい建物が建ち、「福大旅社」の看板が掛けられていた。それは伯父の息子・福祉が、米軍の空襲で焼かれた場所に新しい建物を建て、旅館「福大旅社」を経営していたからである。
・母はその旅館に「女将」として経営に携わった。旅館は駅から近く、商用客で賑わった。母は忙しくなり、私を構う暇がなかった。これも成績が下がった原因にしておく。
・1952年「台南第一高級中学」(以下台南一中)に合格し、進学する。これ以降永らく嘉義を離れる事になる。※嘉義に居たのは5年位だな。

○台南一中の有名人
・「台南一中」の合格者は200人であった。4クラスあり、3年次には理系3クラス/文系1クラスに分かれた(※理系が3クラスなんだ)。20数人が落第し、卒業したのは170数人であった。これは先生の評点が非常に厳しかったからである。

・同級生に陳隆志がいる。彼は「台南一中」も「台湾大学法学科」も首席で卒業している。大学2年の時「公務員高等試験」、3年の時「司法試験」、4年の時「外交官試験」に合格している。「公務員高等試験」「司法試験」はトップ合格であった。
・他に郭南宏(交通部長)/黄大洲(台北市長)/蘇俊雄(大法官))/張燦鍙(台南市長)などが同級生である。

・2012年台北で同窓会を開いたが、気が付くと陳隆志/張燦鍙などの民進党支持者と黄大洲/郭南宏などの国民党支持者が分かれて座っていた。これは台湾政治の縮図であった。

○台湾美術界の巨匠・席徳進
・私の初等・高等中学時代は統治政権が入れ替わった直後で、中国語教育を受けた第1世代である。当時の先生には、台湾人もいれば外省人もいた。「台南一中」では、物理/数学は台湾人が教え、人文系の国文/地理/歴史は外省人が教えていた。
・壁新聞に書いた私の文章を歴史の先生が褒めた。これにより中国語が好きになり、漢詩を熱心に暗記した。
・外省人の先生は必ずしも国民党支持ではなかった。毛沢東の詩「沁園春」を褒める国文の先生もいた。

・「嘉義中学」にも外省人の先生がいた。私は美術で外省人の席徳進に教わった。ある時彼が絵画コンテストをした。私は美術が得意だったが、高雄駅の絵葉書から描いた作品は2位になった。先生に「行った事がないのに、どうやって描ける」と指摘された。彼は嘉義を出て、台北/ニューヨーク/パリに行き、台湾に戻り有名になった。彼は中国芸術を追求し、西洋芸術を盲目的に崇める事はなかった。

○台湾大学で経済を学ぶ
・1954年「台南一中」を卒業する。当時台湾には大学は「国立台湾大学」(以下台大)だけであり、上級学校としては他に省立師範学院/省立工学院/省立農学院しかなかった。定員は台大が1千人余りで、他の3校が300人余りであった。
・文系の生徒が志望するのは「法律系」で、弁護士になるのが一般的であった。しかし父が従兄に訴えられた事があり、この選択は排除した。歴史には興味があったが、仕事に就くのが難しいので、これも排除した。
・そこで国家の富強を図る「経済系」を受験した。私達の世代は中国のスローガンや情報に囲まれていた。戦争が終わり9年経ち、経済が重視されていた。台大の「経済系」の卒業生は160人おり、最大の系であった。その後の経験により、今は社会科学の中で経済学が一番良い学問だと思っている。

・卒業アルバムに「経済系」には20数名の博士がいると書かれているが、博士は施建生1人だけで、後は修士だった。そのため学生は輸入した洋書を読んで学んだ。
・優秀な先生としては、東京大学の博士(?)張漢裕は資本主義の起源や歴史を教えていた。邢慕寰は経済理論を教えていた。張果為は統計学を教えていた。彼に助教になるように勧められたが、断った。私の代わりに助教になったのが、国民党の大番頭で「中華開発公司」の薫事長・劉泰英である。李登輝は「農業経済系」を教えていたが、それも有用であった。
※受験自体は書かれていないが、まあ良いか。

○米国文化
・戦後、台湾は米国から軍事・経済的支援を受けた。大学でも米国は一方的に崇拝された。台湾語の歌は俗になり、米国の洋楽が聴かれた。
・大学で「ダンスパーティー」が流行った。大学内での「ダンスパーティー」は禁止されていたが、台北市内の「国際学舎」などが「ダンスパーティー」を開いていた。しかし私は内向的で寮にも入らなかったため、「ダンスパーティー」には参加しなかった。

○下宿
・大学4年の時、毛昭江さんの下宿に引っ越す。この場所は高級住宅地であった。彼は台南の出身で京都大学法科で学び、「合作金庫銀行」で経理をしていた。毛家は台南の名家で、1920年代の「烏山頭ダム」建設で、多くの土地を収用されている。
・彼の長女・毛燦英は私と同じ台大の4年で、「外文系」で学んでいた(※名前に英がある)。彼女は美人で「キャンパスの花」であった。そのため男子学生が毛家を訪れ、私は門番の役割であった。
・彼の次女が毛清芬で、私の妻になる人物である。しかし私は「朴念仁」のため、当時は何の進展もなかった。ただジャンケンで勝ったため、イングリッド・バーグマンの写真を遠慮なく持ち去った記憶が両者にある。

○留学試験
・1958年大学を卒業する。本来は兵役に就かねばならないが「留学試験」を受けた。当時は国民党の統制が厳しい時代で、雑誌/新聞の自由はなく、自由な出国は許されず、留学者数も限定されていた。「留学試験」の1科目目は留学先の言語で、日本語を選んだ。最終的に各分野で11番目で合格した。
・合格者に対し講習会が開かれたが、厳重な警備の中、副総裁・陳誠が訓話を行った。講習会で西洋式食事マナーを習ったが、米国でそんなフォーマルな食べ方をする人はいなかった。妻が出国する時、彼女の母が洋服/バッグなどを幾つも用意したが、それを着用したのは、管弦楽団の演奏会に行った1回だけであった。

○早稲田大学への留学
・私は学者になる気はなく、仕事に就くしかなかった。しかし実社会は「紅包」(賄賂)が溢れていた。除隊証明(?)を申請したが、中々交付されなかったが、ソーセージを持って行くと、直ぐに交付された。関税で物品を没収された時、賄賂をすれば返してもらえると聞いていた。そのためビジネスも気が進まなかった。

・3番目の叔母の夫・林木根は嘉義の名士で、水源地辺りに7千坪の土地を持っていた(※これも名前と仕事が近い)。そこには三合院/日本式家屋/築山/池/東屋などがあり、庭園「暮庵」と名付けていた。私は台大の先輩とこれを20数万元で購入し、高級木材になるマホガニーを植えた。
・さらに「嘉義中学」の友人と、ここに学校を創立する事で一致する。教育部の承認は得られたが、嘉義県政府教育課の承認は下りなかった。学校創立の夢は諦める。

・ブラジルへの移民も考えた。今では逆転しているが、当時台湾人の所得は160ドルで、ブラジル人は2千ドルあった。ブラジルへの日本人移民は多く、日本人は農地を開墾していたが、中国人は「3本の刃物を持って行く」と云われていた。これは市街地に住み、ハサミで仕立て屋/包丁で料理屋/剃刀で理髪店を経営し、お金が貯まると高利貸しをするを意味した。しかしブラジルも乗る気がしなかった。
・結局、早稲田大学政経研究所への入学が可能になり、1960年8月日本へ向かう。

○友人の検挙・拘束
・1年後の夏休みに台湾に戻る。友人・蔡順利に会うと、台湾に残った友人は、ほとんどが捕まったと聞かされる。彼も捕まり調査局に拷問され、半死半生になり、40万元払って解放されたそうだ。
・台大政治系を卒業した劉家順は、米国留学が決まっていたが、前日にパスポートを取り消され、法院で8年の刑を受けて入獄していた。
・1年前の6月、私達同級生43人は台南の「関仔嶺温泉」に集まり、義兄弟の契りを交わしていた。その8割が検挙されていたのである。

○毛清芬との結婚
・そのためこの夏は終日家に籠る事になったが、生涯の伴侶・毛清芬を得る事になる。
・母は帰国する私を迎えようと、台北の毛家に泊っていた。母は彼女に私に会うように説得するが断った。すると私の親戚や友人が説得を始め、結局彼女は嘉義を訪れる事になる。
・嘉義で私は彼女を「暮庵」に誘った。彼女がスカートだったので、ひどく蚊に刺された。彼女は困惑し、その後5~6キロ痩せてしまった。

・私は友人に台北で婚約すると手紙を送った。その返信は開封されており、自分が監視対象になっているのを感じた。私は一人で台北に向かった。列車に乗ると軍人らしき人が隣に座った。友人に会うため、途中下車し、急いで駅を離れた。尾行者らしき人はいなかった。
・台北の毛家で婚約を終え、数日後に日本に戻った。

<日米留学で自由と民主主義に目覚める 1960~73年>
○東京大学で近代経済学・大石泰彦教授に学ぶ
・早稲田大学での先生は統計学が専門であった。私(著者)は統計学が得意だったので、「副手」にしてもらえた。「副手」は出席を取るのが仕事だが、月給4500円と学費10万円の免除があった。

・台大の張漢裕(前述)が東京に来ていて、「東大に行かなければダメだ」と言われた。東大には「特別研究生」の制度があり。1年間授業を受けて、試験に合格し、近代経済学の大石泰彦教授の学生になった。当時は歴史学派/マルクス主義経済学が主流で、近代経済学は珍しかった。※経済学の分類は無知だ。

・米国スタンフォード大学で数理経済学を学び、副教授となった根岸隆は東大に就職するが、助教に過ぎなかった。また大石教授も博士号を持っていなかった。このまま東大で学んでも、いつ博士号が取れるか見当が付かなかった。また学生が読んでいるのは、英語の原文であった。
・大石教授に相談すると経済学で先見性があるのは計量経済学/地域経済学と言われた。これらは統計学/数理経済学が基礎である。またこれらはペンシルベニア大学が拠点だと分かり、そこへの留学を決心する。

○デモへの参加
・1963年8月プロペラ機でハワイを経由し、米国に渡る。チップをテーブルに置いとけば良かったのに、わざわざ手渡しした。今の若者であれば国境を超える程度の感覚かもしれないが、当時は心底を揺るがすものであった。民主主義の表出は、私にショックを与えた。
・1964年2月私は「二・二八事件」に対する抗議デモに参加した。台湾人は「台湾独立万歳」などのプラカードを掲げ、ワシントン広場の周囲を粛々と歩いた。日本/台湾だと統治者側に立つが、米国の警察はデモ参加者を保護した。この警察の民主的性質の高さに驚かされた。

・1968年3月日本で「台湾独立運動」をしていた柳文卿が入国管理局に拘束され、台湾に強制送還される事件が起こった。この事件に対し、米国の「台湾独立聯盟」は抗議デモを実施した。この日は前日にキング牧師が暗殺され、ワシントンDCは騒然としていた。大使館から500m以内でのデモは禁止されていたが、私達台湾人がデモを始めると、警察はわざわざ日本大使館の門前まで送り届けてくれた。これにより大使館内に座り込み、抗議書を手渡す事ができた。

○人の平等と尊重
・ペンシルベニア大学で食事をしていて、友人が「あの掃除夫は英国首相ウィルソンの息子だよ」と知らされた。権門の子弟は優遇されると思っていたが、欧米では違っていた。

・1963年11月図書館にいたが、突然閉館になった。ケネディ大統領が暗殺されたのである。三日三晩特別報道が放映されたが、国民がインタビューに対し極めて誠実に自分の意見を述べている事に気付いた。各自が考える能力を持ち、それを互いが尊重している。これこそ市民社会であると実感した。

○台湾独立を叫ぶ
・ケネディ大統領の弟ロバート・ケネディが大統領選の民主党予備選に出馬し、ペンシルベニア大学に講演に来た。私は彼に台湾独立を叫んだ。
・米国は台湾を「自由中国」と考えていたが、台湾に自由はなく、独裁統治であった。

・米国政府の中国/台湾政策に強い影響力を持つ大学教授が3人いた。ハーバード大学のダグラス・フェアバンク(費正清、※ジョン・キング・フェアバンク?)/エドウィン・O・ライシャワー(頼孝和、※後に駐日大使)/ジェローム・コーエン(孔栄傑)である。
・ライシャワーの助教・陳顕庭が「台南一中」の3つ年上で、その伝(つて)で彼を訪れた。私達は台湾の独立を訴え、1時間の予定が3時間になった。午後陳顕庭の弟の結婚式があり、ライシャワーも私達も出席した。そこでライシャワーは立会人の挨拶し、「彼らも台湾独立派です」と私達を紹介した。今まで一人で歩いていた感があったが、「知音の人」を得た気がした。これは生涯で最も感激した瞬間である。

○中国派/外省人とも交流
・1963年8月ペンシルベニア大学の授業はまだ始まってなく、図書館で本を見ていると台湾人に声を掛けられた。これにより「台湾独立連盟」に加入する。間もなく「フィラデルフィア台湾同郷会」の会長にも選ばれる。私は歌が好きで、抗日運動の『我々の台湾』を歌うと皆仲良くなり、「米東部台湾同郷会」の副会長にも選ばれる。
・私は内向的であったが、米国では自分を晒すようになり、余暇に「台湾独立連盟」「台湾同郷会」の政治運動に参加するようになった。「台湾独立連盟」と「台湾同郷会」は無関係の組織だが、外省人留学生は「中国同学会」を組織していたため、「台湾同郷会」は台湾独立派と見られていた。

・1968年博士号を取り、最初に就職した会社でピッツバーグに住んだ。そこで留学生などで「台湾同郷会」を組織した。そこで結婚式やパーティなど単純な行事を行った。

・ピッツバーグに来て2年後、沖縄返還の協議が始まり、「保釣運動」(尖閣諸島問題)が起こる。1971年夏、全米各地で「国是討論集会」が開催される。9月3日最後の集会がミシガン大学で開かれたが、大半が中国に傾斜しており、「中国共産党を唯一の政府」とする決議がされる。この時開かれた「保釣運動」に関する「アン・アーバー国是会議」に「台湾独立連盟」を代表して私一人が参加し、講演を行った。

・ピッツバーグに戻り、「台湾同郷会」で講演すると、外省人でピッツバーグ大学教授の許倬雲が「台湾同郷会」への参加を要望してきた。その後彼の家族とも懇意になった。
・他にも外省人留学生の李家同とも知り合った。張系国が隔週で刊行していた『野草』を彼は引き継ぎ、私に「台湾独立」の寄稿を求めた。私の世代の留学生は、そえぞれ異なる考えを持っていたが、民主主義的素養を備えていた。

○国民党の水兵に殴られる
・ペンシルベニア州にウィリアムズポート球場があり、台湾の金龍少年野球チームが出場し、2度見に行った。1969年「台湾独立連盟」に呼び掛け、カップ/横断幕を作り、観戦に行った。「台湾独立連盟」は全米で数百人しか会員がいないので、20人しか集まらなかった。一方の「台湾同郷会」は会員が1千万人を超え、観戦者も200人を超えていた。金龍少年野球チームは勝利するが、「台湾独立連盟」と「台湾同郷会」で殴り合いとなった。
・1971年「台湾独立連盟」は小型機をチャーターし、「台湾独立万歳」と書いたバナーを尾部から流した。一方の「台湾同郷会」は中華民国の小旗を数万本作り、配布した。
※スポーツの場が政治的アピールの場になっている。

・1972年私達「台湾独立連盟」16人はビラを作り、頭に鉢巻をしてウィリアムズポート球場に乗り込んだ。試合が終わると「台湾同郷会」の水兵60人が鉄棒を振りかざし、乱闘になった。私は手を負傷し、眼鏡も壊された。
・私はこの経験を通し、私達はただの知識分子に過ぎない事を感じた。国民党は「台湾独立派」を共産党のシンパとみなしているが、背景にそんな巨大な組織がある訳ではない。FBIからも共産党との関係が疑われる状況であった。

○苦学生
・台湾政府は留学生の持ち出しを200ドルに限定していた。しかし母は闇で2千ドルを持たせてくれた。2千ドルは台湾では家半分が建つ金額であったが、米国では1年間の生活費程度であった。そのため米国留学とはウェイターになる事を意味していた。私もペンキ塗りのアルバイトや、病院で新聞を配るアルバイトをやった。新聞を配るアルバイトは、1日に2千床に新聞を配り、月160ドルもらった。これは正規の収入に近かった。

・知人の留学生は貨物船にカラスミとバナナを持ち込み、船上でカラスミを干し、日本に寄港した時にそれらを売った。西海岸に到着すると、90ドルで90日間バスに乗車できるパスを使ってペンシルベニア大学のあるファイラデルフィアに移動した。
・2歳年上の留学生は農家に住んでいたため、馬の餌の梨をもらい、皆で食べていた。

○ノーベル賞受賞者ローレンス・クラインに学ぶ
・ペンシルベニア大学には多くの経済学の権威がいたが、ローレンス・クラインは天才で、博士論文『ケインズ革命』は今なお増刷されている。1950年代彼はミシガン大学で教えていたが、「マッカーシズム」を嫌い米国を離れる。1950年代後半に帰国し、ミシガン大学からペンシルベニア大学に移る。1980年「計量経済学」で「ノーベ経済学賞」を受賞している。

・「計量経済学」の先駆けはポール・サミュエルソンで、彼は「数理経済学」と云う新しい分野を開いた。1970年彼は「数理経済学」で「ノーベ経済学賞」を受賞している。
・彼の弟ロバート・サマーズ(サミュエルソンからサマーズに改名)もペンシルベニア大学で教えていた。その息子がローレンス・サマーズで財務長官/ハーバード大学学長などを務めている。

・米国の大学で博士号を取るのは難しく、博士審査に2~3回通らないと、「別の事をやれ」と言ってくる。講義中に生徒がパイプを吹かすなどあるが、試験の点数は厳格で、本当に学問をするなら、日本より米国である。

・2学期目私はフィーバス・ドライムズ教授の統計学で1番になり、ローレンス・クラインの目に留まり、彼に弟子入りする。

○コンピュータ
・私はクライン教授の助手になる。彼は千以上の計算式を用いる経済モデルの研究をしていて、私は計算を担当する。当時はデータカードを使用していて、データカードが2千枚入る箱30箱位をコンピューターセンターに持ち込み、43Kの計算結果を得ていた。

○地域科学博士の取得
・1968年米国に来て6年目に博士論文を書き、「地域科学博士」の博士号を得る。1960年代は世界各地で地域開発が行われていた。1960年ペンシルベニア大学に「地域科学部」が設立され、ウォルター・アイサードが主任をしていた。「地域科学」とは、ある都市や地域をどのように発展させるかを、多角的に検討する分野である。
・ペンシルベニア大学から授与された学位記には70余りの単語が書かれているが、ラテン語なので読めない。

・ペンシルベニア大学はアイビーリーグ7校の1つであり、創立者ベンジャミン・フランクリンが商業/政府/公共事務の人材育成を重視したため、ビジネス/人文科学に強みがある。※ベンジャミン・フランクリンは雷が電気である事を証明した。

○生田浩二の死
・ペンシルベニア大学での5年の歳月は、私の基盤になった。唯一残念なのが親友・生田浩二の死である。彼は東京大学の法学部/経済学部で学ぶ。1960年「安保反対運動」に参加し、「共産主義同盟」の事務局長に就くが、懲役1年6ヶ月の判決を受ける。その後共産党に失望し、米国に留学し、資本主義経済の専門家になった。彼もペンシルベニア大学の「地域科学部」で学び、私とは日本語で話し、家族ぐるみで交友した。
・1966年彼のアパートが家事になり、生田夫妻は帰らぬ人になった。日本人には「同郷会」などなく、私が葬儀をして、遺骨をニューヨーク領事館に届けた。※理由は色々ありそうだ。

○米国籍の取得
・1968年大学を卒業し、ニューヨークのコンサルタント会社に就職した。ここに5年間在籍し、大気汚染規制を実施した場合、全米70都市でどの様な経済的影響があるかを研究した。

・数年後日本で環境関係の会議が開かれ、私のレポートが2つ紹介された。1つは前述のレポートで、もう1つはプエルトリコのレポートであった。このプエルトリコのレポートは、米国の自治領であるプエルトリコでの道路建設/発電所などの公共投資の経済効果を研究したものであった。

・1973年私のレポートを見た国連本部の職員が、名古屋に創設する「地域開発センター」(UNCRD)への派遣を要請してきた。私は「二・二八事件抗議デモ」に参加したため、台湾のパスポートの更新ができず、無国籍であった。そこで米国の市民権を申請し、身分証を得て、さらに数日後国連のパスポートを得て、名古屋に飛んだ。

<国連職員として世界を駆け巡る 1973~2000年>
○国連パスポート
・国連には2つの機能がある。1つは、政治的主張を表明する会議の場を提供する機能。もう一つは加盟国の問題を研究し、援助する機能です。ニューヨークの円形の総会会議場と高い事務局のビルは、それぞれの機能を担当しています。ニューヨーク以外にユネスコ(パリ)/国際労働機関(ILO、ジュネーブ)/世界保健機関(WHO、ジュネーブ)などがあります。
・国連職員は4万人を超え、階級は幹部/管理職/専門職/一般職員に分かれています。職員は国連のパスポートを持ち、色々優遇されます。ガソリンが安くなったり、免税されます。
・私(著者)は1973年から2000年までに、3つの機関「地域開発センター(UNCRD)」「アジア太平洋開発センター」「国連大学」に所属しました。

○経済発展の現状
・名古屋に「地域開発センター」が設けられたのは、日本が地域開発に成功したためです。池田勇人首相は「国民所得倍増計画」「拠点開発計画」で経済発展を成功させました。

・1974年私はアジア業務の担当になり、フィリピンのビコル地方の開発に携わる。当時は共産党が存在し、地主と対抗していた。ビコル地方は6県からなるが、2県の県知事は兄弟であった。
・現地を訪れ、県知事と面会するが、恐ろしい事が分かってきた。この場所は台風が通過すると補助金が出るが、県知事が大部分の土地を所有しているので、それは県知事の懐に入るだけである。農産物の敵地性/インフラ構想などを説明すると、「これは私の土地だ」と応え、県知事は地方の領主に過ぎないのである。
・私は何度も現地を訪れ、経済専門家/ソーシャルワーカー/医療専門家/農業専門家/土木工学専門家など20数名でグループを作り、「地域開発計画書」を作成し、これをフィリピン政府に提出した。

・この過程から専門家を育てる「養成コース」が整備された。「養成コース」の1回目は、このフィリピンを対象とした。その後インドネシア/パキスタン/タイを対象に行った。この「養成コース」は現在でも行われている。

○朴正煕暗殺事件/光州事件
・韓国にも何度も足を運んだ。1975年韓国で寿司屋に行ったが、シャリが白米でなく雑穀であった。それは米の消費を制限し、輸出するためである。しかしこの1970年代に韓国はGNPが250ドルから1600ドルに急成長する。私は韓国の南東にある蔚山工業区をモデル事案にしていた。

・1979年10月韓国にいた時、朴正煕大統領の暗殺事件に出くわす。この軍事クーデターで最終的に大統領に就いたのは全斗煥であった。翌年「光州事件」が発生しているが、これは百済地域への歴史的な抑圧が原因である。

○鉄のカーテンの向こう中国
・1977年中国は「文化大革命」が終わり、翌年に鄧小平が国内改革/対外開放政策を打ち出し、外国人に門戸を開放した。
・「養成コース」に中国国務院の経済建設委員会の女性が参加する事もあった。経済建設委員会の副主任が私の中国訪問(1980年)を手配してくれた。北京を訪れると大勢に囲まれ、彼らはカメラに興味を示した。レストランは少なく、私達一行はテーブルの半分を使用し、残りの半分を結婚式が使用した。

・1990年代に中国を再訪した(3度目?)。今度は北京だけでなく南方も訪問した。その頃は基本単位が「人民公社」から「郷鎮」に変わる時期であったが、江蘇省の「人民公社」を見学した。奇妙に思ったのは、病院に入るとまず漢方医学か西洋医学かを自分で選択する事であった。蘇州では「寒山寺」にも訪れた。私の父が張継の詩「楓橋夜泊」が好きだったので、感慨に浸った。
・杭州では西湖の湖畔に泊った。異民族の脅威に晒される黄河流域の人が、豊かな南方を支配した理由が分かった。
・北京大学では「経済系」の教授と座談を行った。彼らはマルクス主義しか知らなかった。「中国の経済発展に何が必要か」の質問に、重工業が国防産業となっていたため、「民生産業の育成」と答えた。

○台湾独立の容認
・1983年11月米国の「上院外交委員会」で台湾の将来に関する公聴会が開かれ、3人の証人が呼ばれた。国務省を代表してアジア太平洋担当のウィリアム・ブラウン、国民党の立場からヘリテージ財団(※保守系シンクタンク)の康培荘、そして台湾人を代表して私が呼ばれた。私が最も勉強したのは、博士論文を書いた時と、この公聴会の時である。
・この公聴会で私は2つの事を述べた。1つは米国政府が台湾の法的地位を明確にしていない事。もう一つは「米国政府は台湾独立を選択肢の1つとして承認しているのではないか」と云う疑問である。
・これにより「台湾が独立を宣言し、それに対し武力攻撃が行われた場合、これを阻止する」「台湾の将来は、住民による平和的な解決が望ましい」などの「台湾の将来に関する決議案」が可決された。これに対し中国は内政干渉として、レーガン大統領の訪中を取り消した。

○「アジア太平洋経済国際会議」北京会議
・私の公聴会での発言が米中の緊張関係をもたらしたが、1986年中国を訪問する。中国は「門戸開放」を唱えているが、外界からは中国が何をしているのか/何をしたいのか見えなかった。私は勤務先の「アジア太平洋開発センター」に、北京で国際会議を開く事を提案した。これが受け入れられ、私は準備事務を取り仕切った。

・私はペンシルベニア大学の恩師ローレンス・クライン教授の同僚で「社会科学学院」の「世界経済・政治研究所」所長の浦山と交渉を行った。彼は米国に残っていれば、「ノーベル賞」を取ってもおかしくない人物であった。その背後で実際に仕切っていたのが外交部の「国家経済委員会」の副主任・朱鎔基(後国務院総理)で、アジア17ヵ国から招く副総理/大臣/学者も彼が決定した。
・1986年11月人民大会堂で「アジア太平洋経済国際会議」北京会議が開かれた。趙紫陽・国務院総理が開会の辞を述べた。

・この「アジア太平洋経済国際会議」は1年半毎の開催になり、東京会議(1988年)/バンコク会議(1989年)/ニューデリー会議(1991年)も私が取り仕切った。

○美食
・私は「食いしん坊」なので、台湾にずっといたら「屠子」(料理人)になっていたと思う。「台南一中」に入学し嘉義から台南に移ると、自分で料理していた。その頃に読んだ小説にパリのレストラン「フーケ」の記述があり、何時かは行きたいと思っていた。パリへ派遣された時、その機会があり「フーケ」を訪れ、シャンパン/生ガキを食した。
・タイに派遣された時は、フカヒレを買って日本に帰った。中国から帰る時は、紹興産の「金華ハム」を買って帰った。ペンシルベニア大学で学んでいた時はカニを買い、「芙蓉螃蟹」を料理し、留学生に食べさせていた。母は料理が上手く、ナマコの「一品参」などを作っていた。

・1978年パーレビ国王が打倒されるが、その前年イランの大学で講義を行った。講義の後、農村のオアシスに招かれた。オアシスではジャガイモ/小麦を栽培し、牧畜民から羊肉を得ていた。彼らは石油で大富豪になった国王に不満を持っていた。また国王の妹は農民にケシの花を栽培させていた。
・イラン人はお客を招くのが好きで、テーブルは料理で一杯になった。テーブルに羊の頭が置かれ、その目玉を勧められたが遠慮した。その20~30年後、台湾セメント薫事長から同じ様な話を聞いた。彼は固い目玉を飲み込んでしまい、腸に詰まり、手術で取り出したそうである。

・嘉義では普通にスッポンを食べていた。スッポンは生き血を飲むのが重要で、母は素早くスッポンの頭を切り落とし、血を取っていた。母が日本に来た時、京都の老舗「大市」でスッポン料理を食べた。杭州西湖の名店「楼外楼」でもスッポン料理を注文した。

○世界旅行
・ネパールを訪れた時、小型プロペラ機に乗り世界最高峰エベレストを望んだ。これにより「登頂証明書」を得た。
・ケニアを訪れた時はサファリに行った。そこでライオン/シマウマ/水牛/カバなどの習性を知った。ケニアには高層ビルが立ち並ぶナイロビがあるが、そこから20キロ離れれば原始的な世界になる。

○G7に世界経済予測を提出
・1991年ペンシルベニア大学の恩師ローレンス・クライン教授から電話があり、「G7サミット」に「世界経済予測」を提出する事になった。東京のテレビスタジオ/パリ/ニューヨークの国連本部に経済専門家が集結し、ビデオ会議を行った。コンピュータで経済予測を計算させ、さらに討論を行った。その結果を「G7サミット」に提出した。

・1996年APECのマニラ会議にクリントン大統領が出席したが、この時も東京/パリ/ニューヨークでビデオ会議を行い、「アジア経済予測」を作成した。クリントン大統領の経済顧問であったジョセフ・E・スティグリッツ(ノーベル賞受賞者)を通し、その「アジア経済予測」をクリントン大統領に提出した。

○地球環境問題
・1972年シンクタンク「ローマクラブ」が資源枯渇/生態系破壊の警告を発している。1987年ノルウェー首相ブルントラントは「持続可能な発展」を報告している。1992年国連がリオデジャネイロで「地球サミット」(環境と開発に関する国際連合会議)を開き、「アジェンダ21」を採択した。私も「国連大学」の代表として参加した。

・OECDの環境局は、OECD加盟国の環境問題は研究している。OECD非加盟国の中国/インド/インドネシア/ブラジル/ロシアについては「国連大学」が研究している。1997年「国連大学」が中国の「グリーンGDP」(GDP-環境・生態系の被害額)を算出すると、驚くべき数字が出た。1990年代中国は経済成長率10%を達成していたが、被害額を差し引くと、経済成長率は1.1%しかなかった。

・1997年「第3回締結国会議」(COP3)が京都で開かれ、「京都議定書」が採択された。この京都会議には政府代表/非政府組織/専門家の参加者がいた。私は「国連大学」から専門家として参加した。専門家会議で第3世界諸国は先進国を批判した。また京都会議の場外では非政府組織が抗議デモをした。こんな国際会議は初めてであった。

○OBサミット
・1995年「OBサミット」(インターアクション・カウンシル)が東京で開かれた。この会議には元首相などが出席するが、この時は福田赳夫元首相/カーター元大統領/ゴルバチョフ元書記長など70人以上が出席した。会場は「国連大学」の会議場が使用された。この会場で英語/仏語/ロシア語/スペイン語/中国語/アラビア語の同時通訳が行われた。
・この会議は13人の委員が取り仕切るが、私は委員で、委員長はマルコス・フレーザー元首相(オーストラリア)であった。

・この時福田赳夫は病勢が悪化しており、車いすに乗って出席した。2ヵ月後に永眠している。トルドー元首相(カナダ)は赤いバラを挿して出席した。マクナマラ元国防長官(米国)も出席した。彼はビジネスで成功し、13年間でフォード・モーターの社長になった。国防長官の在任中は「ベトナム戦争」に忙殺される。この会議でこれを懺悔し、熱い拍手を受けた。
・南悳祐・元副総理(韓国)は、1970年代朴正煕・大統領に重用され、「漢江の奇跡」を成した。全斗煥に替わり下野した。その後ハワイ大学のイースト・ウェスト・センターで韓国経済を教える。1981年私も同所でアジア経済を教えていて、研究室が隣であった。

○シュンペーターの弟子ヒギンズ
・シュンペーター(1883~1950年)は経済学の権威で、彼の「景気循環理論」「創造的破壊」「経済成長」は有名である。その最後の弟子がベンジャミン・ヒギンズである。
・私がハワイ大学にいた時、彼がオーストラリア大学からハワイ大学に客員研究員として来ていた。そこで彼からシュンペーターと蒋介石の秘密の関係を聞いた。ハーバード大学で教えていたシュンペーターが蒋介石の経済顧問に1942年から就く事が決まっていた。しかし日米開戦となり、この話は無期延期となった。秘密を共有した事で彼と親しくなった。

・私が名古屋の「地域開発センター」に勤めていた時、ヒギンズを含む各国の経済学者を日本の田舎に招いた。そこで炭火で鮎を焼き、流し素麺をして楽しんだ。彼はオーストラリアに千アールの牧場を持ち、羊を放牧している。

○インドネシアの経済学者
・ある年世界銀行がインドネシアで開いた会議に参加した。インドネシア大学を見学した時、明敏な研究生イワン・アジズがいたので「地域開発センター」の「養成コース」に誘った。彼は婚約していたが、名古屋にいた4ヵ月間に破談になった。その後私が勧めたコーネル大学に留学し、博士号を取得する。
・ある年私はパキスタンで国際会議を主催し、彼にインドネシアの経済モデルの発表を依頼した。彼は女性の助手を連れてきた。私は彼に彼女との結婚を勧め、帰国するとプロポーズし結婚した。

○マレーシアの経済学者
・マレーシア人のカマール・サリーは一番親しくした経済学者である。彼もペンシルベニア大学の博士過程へ進んだが、3年後輩で接点はなかった。彼はマレーシアに戻り、2年後にマレーシア理科大学の副学長になる。
・彼と知り合ったのは、帰国して1年目で、1978年共著『拠点開発方式と地域開発』を出版した。この本は世界の大学で教科書として使用されている。
・彼はイスラム教徒なので2人の妻を娶っている。

○反骨の経済学者
・日本の代表的な経済学者は、藤田昌久(京都大学)/通貨膨張政策を支持する浜田宏一/ノーベル賞を取りそうな青木正彦/宇沢弘文(東京大学)の4人と思う。彼らとは何れも交流がある。2000年「国連大学」を退職する前に、アンドレアス・ファン・アフト(オランダ首相)/宇沢弘文を台湾に招待したいと思っていた。

・宇沢弘文は、数学から経済に専門を切り替えた人物で、スタンフォード大学で一流の経済学者になり、シカゴ大学で教授になった。その後帰国して東京大学の教員になる。
・彼は「今の経済学は、金持ちのお金稼ぎを助ける学問になっている」と批判し、そのため非主流になっている。彼と大石教授が法廷に呼ばれ、帰りのタクシーを手配されたが、自動車を否定する彼は電車で帰宅した。1970年代政府は「成田空港」建設のため、農地を強制収用したが、彼は反対陣営に加わったため、右翼に狙われていた。

・2000年4月台湾で彼と李登輝総統は面会した。彼らは数学史/経済理論の話に没頭した(※李登輝総統も経済学者です)。その後の台湾旅行中に、駐日代表内定を知る。

<駐日代表として日台の架け橋に 2000~07年>
○日本の知人
・私(著者)が陳水扁と会ったのは、彼が台北市議会議員で1983年米国を訪れた時だけであった。2000年3月総統選挙で民進党の陳水扁は勝利したが、立法院は国民党がまだ多数を占めていた。そのため行政院長(※首相に相当)には国民党の唐飛が就いていた。私の駐日代表就任を陳水扁は強く推していたが、唐飛は反対していたようである。

・秋篠宮の王妃・紀子の父・川嶋辰彦はペンシルベニア大学の後輩で、私と同じ地域科学博士である。そのため彼女を幼少の頃から知っている。
・私の友人・陳恒昭はハーバード大学で学んだが、この時に皇太子妃・雅子の父・小和田恒も学んでいて、知っていた。また彼は英国ケンブリッジ大学の教員になるが、この時皇太子が同大学に留学している。
・「地域開発センター」所長は本城和彦であった。彼の弟・本城文彦は東郷茂徳(終戦時の外相)に婿入りしている。彼は東京大学建築学科を卒業し、「日本住宅公団」に就職し、2DK/3LDKを開発した。
・「国連大学」を創設したのは永井道雄で、彼はオハイオ大学で教育社会学博士を取得し、民間から最初の文部大臣になる。
※この辺りは間接的な話しだな。

・両蒋時代(~1988年)までの対日関係は何応欽/張群が仕切り、政界に限られていた。李登輝時代(1988~2000年)になり経済界との付き合いも始まった。私の場合、国民党の人間関係と大きく異なり、教育文化方面の人脈が多い。

・慶応義塾大学の理事・高橋潤二郎とは「魚一尾の交わり」がある。彼とはペンシルベニア大学の同級生で、一緒にペンキ塗りのバイトをした。
・私は大都市の問題を研究していたため、東京都の顧問に指名された事がある。大都市には交通問題/社会階級と貧困/経済発展/文化の振興・保存などの問題がある。この時の都知事は鈴木俊一で、彼は副知事の時に「東京オリンピック」を成功させ、都知事を4期16年務めている。

○国連事務次長の訪台
・1992年台湾の中央研究院が応用地域科学の国際会議を開くので、私に出席するように要請があった。私は両蒋時代の「政治犯ブラックリスト」に載っているので帰国できなかったが、NHKに取材させ、駐日代表処にパスポートを申請すると、発給が叶った。

・31年ぶりに帰国すると、自然環境の悪化に驚いた。そこで国連大学長に台北に「環境保護研究所」を設立する提案をする(国連大学の研究所は、世界に10数ヵ所ある)。
・この提案は順調に進み、1993年8月私と国連大学長(国連事務次長兼務)は国連の公務として台湾を訪れる。総統府で李登輝総統に会い、さらに教育部長/外交部長/工業技術研究院を訪れた。
・これを台湾のメディアが大々的に報道し、ニューヨークの中国語新聞が後を追い、中国の国連大使が事務総長に抗議した。これにより「環境保護研究所」設立は流れてしまった。※台湾の扱いは難しい。

○駐日代表として山中貞則と会う
・話を戻す。2000年5月駐日代表派遣の命令を受ける。外交部で3日間のブリーフィングを受け、直ちに東京に向かった。急いで赴任したのは、4月小渕恵三首相が急逝し、5月森喜朗首相の「神の国」発言で国会が解散となり、6月総選挙が行われるからである。

・1972年日本と台湾は断交していたが、友好関係を保とうとする衆参両議員250人からなる「日華議員懇談会」があり、これが「駐日代表処」の最も重要な相手であった。そのため最初に「日華議員懇談会」の山中貞則会長と面会した。
・彼とは多くの会話を交えた。「あなたを派遣したのは李登輝総統ですか、陳水扁総統ですか」の質問に、「二人とも日本の教育を受け、日本に住み、民主的な選挙で選ばれた総統です」などと答えた。その後「日華懇談会」を開いてもらい、平沼赳夫/麻生太郎/扇千景などと知り合いになる。
・彼は糖尿病のため杖をついていたが、銀のステッキをプレゼントした。

○駐日米大使館への進入
・橋本龍太郎・元総理に挨拶に行くと、「台湾の事は椎名素夫の所に」と言われた。椎名素夫の祖母の弟は後藤新平で、台湾の近代化を実現した。しかし彼の父・椎名悦三郎は外務大臣/通産大臣/自民党副総裁などに就くが、台湾に関しては後藤新平と異なった(※椎名裁定とか有名だな)。椎名素夫は物理を学び、米国のアルゴンヌ国立研究所に勤務した事もある。父の死で政治家になる。

・李登輝時代(1988~2000年)に外交上の重要なプロジェクト(?)があり、毎年日米台の三者会談がハワイで行われていた。会談には椎名素夫/リチャード・アーミテージ国務次官補/李登輝が出席した。
・2003年7月彼は米国最高の勲章「国務長官特別功労賞」を受ける。翌月には台湾からも叙勲される。米国の勲章授与式が駐日米大使館で行われ、私は彼から招待状を受けて出席した。そこでハワード・ベーカー大使/リチャード・アーミテージ国務次官補名などと挨拶を交わした。※これも台湾の扱いは難しい。

○駐日代表処を設える
・以前米国大使館での建国記念日パーティに出席した時、妻・清芬は名画の本物が掛けられているのに驚いた。戦後台湾の駐日大使館は元麻布(元後藤新平宅)にあったが、「日台断交」により代表処を白金台の公園に建設した。ここには5階建ての事務棟と2階建ての公邸があった。私達夫婦は公邸に「故宮博物院」の書画骨董を飾りたいと思ったが、それは難しかった。そこで画家・謝里法の「牛」を自腹60万元で購入し飾った。他に清末の名書家・何紹基の書/翁倩玉(ジュディ・オング)の版画/李石樵のバラの絵などを飾り、応接室にはグランドピアノを置いた。

・代表処のスタッフの多くは国民党員で、台湾政界と深い関係を持っていた。代表処で最も盛大な催しは国慶節(10月10日)である。中国の国慶節(10月1日)は400~500人を招待していた。これに張り合うため、私の最初のパーティでは1500人を招待した。また北京語/日本語で45分の挨拶を行った。2年目は北京語/英語/日本語で10分以内に収めた。

・私は米国で勉強し、就職したので、西洋の文化/習慣が身に付いている。日本にも歳暮/中元があるが、私は受け取らず、スタッフに抽選で配布した。代表処には旧正月に代表夫人がスタッフの子供に紅包(お年玉)を配るが、清芬は公費を一切使わなかった。

○李登輝の訪日
・中国が日本に対し不快に思う事が3つあった。①日中戦争を「侵略」でなく「進出」と教科書に載せた、②「戦犯」を靖国神社に合祀し、首相が参拝する、③李登輝総統の訪日である。2001年4月私はこの3番目を実現した。この時李登輝は現職ではなく、治療目的で訪日した。

・日本では「密室」で物事が決定する。私と彭栄次(李登輝の代理)は福田康夫/椎名素夫と旅館で会った。ここで福田康夫を李登輝訪日の賛成に転換させた。最終的には森喜朗首相の判断であったと思う。
・日本の政治家は忙しく、中々面会できない。ただしゴルフは別で、一緒にゴルフをしている間に結論が出る事が多い。私が初めてゴルフしたのも森首相とであった。
・彼の父は早稲田大学のラグビー部に属しており、その時「台湾ラグビーの父」となる柯子彰と仲が良かった。彼の父が亡くなった時は、柯子彰が金沢の森家を訪れ、柯子彰が亡くなった時は、彼が台湾の柯家を訪れている。

○仏像の寄贈
・代表処で彭楷棟をよく見かける。彼は壮絶な人生を送っている。1912年生れの彼は、東京でビリヤードの名手になる。1930年代台湾に帰り、映画スターになり、軍需向け事業でも成功する。B級戦犯になり台湾に帰れなくなるが、日本で金/宝石/骨董の取引で巨万の富を得る。しかし外国為替法令で有罪になり零落する。その後仏像を収集し、名画/不動産を売買し、1980年代には所得税納税で全国11位になる。※怪しい商売が多いな。

・彼の収集した仏像は白眉であった。彼は「七尊仏」をニューヨークのメトロポリタン美術館に寄贈し、「三尊仏」を東京国立博物館に売却した。
・当初仏教に仏像はなく、塔を崇拝していた。その後アフガン/パキスタンに伝わり、ガンダーラ/マトゥラーでギリシャ文化と融合し仏像が生まれた。一方スリランカ/タイに伝わった仏教は、肢体の舞う仏像を生んだ。※この話は面白いな。
・私は故宮博物院長に手紙を書き、200以上の仏像を寄贈する仲介をした。その仏像は「楷棟堂」に展示されている。※故宮博物院に行ったが、残念だが記憶にない。

○台湾財界の巨頭
・「台湾セメント」の辜振甫・前薫事長も敬服する人物である。2003年彼は早稲田大学の名誉博士号を授与された。この際、森嘉郎前首相が宴席を設けた。出席者は10人足らずであったが、安倍晋三/福田康夫/麻生太郎(何れも後に首相)が出席した。代表処で開いた御礼の会では海部俊樹/宮澤喜一も招待した。彼はペンシルベニア大学からも名誉博士号を授与されている。※こんな人物がいるんだ。

○台湾研究所と世界的デザイナー
・中国を研究する「中国研究センター」は多くあるが、台湾を研究する研究所は少ない。そこで母校の早稲田大学に交渉し、「台湾研究所」を創設した。これは日本の大学で初の「台湾研究所」となった。初代所長には西川潤が就いた。彼は3代に亘って台湾と縁がある。祖父は台北に炭坑を所有していた。父は日本統治時代の後期に『台湾風土記』『文芸台湾』を創刊し、また台湾の人文風物の小説/詩を書いている。

・この「台湾研究所」が縁で、服装デザイナー呉李剛とその家族と知り合いになる。ある時米国のジョンズ・ホプキンス大学を卒業し、早稲田大学の修士課程に入りたい学生の推薦状を書いた。そして4~5年後彼の母から「息子の結婚の仲人になって欲しい」と依頼され、引き受けた。彼の弟・呉李剛は、2008年オバマ大統領夫人が初当選のパーティで着たドレスのデザイナーであった。2012年再選した時も大統領夫人は呉李剛のデザインしたドレスを選択している。※少しは裏があるかな。

○故郷に戻る
・姉は日本に嫁ぎ、私は日本/米国に住んだため、母は一人になった。気丈な母であったが、時々私達を訪れた。1980年そんな母も嘉義で亡くなる。

・1981年私は国連職員として中国を訪問したため、警備総司令部の「叛乱犯」となる。「柳文卿送還事件」への抗議デモ参加/ウィリアムズポートでの「台湾独立万歳」のバナー/「アン・アーバー国是会議」での演説が罪として記された。また嘉義県政府により財産は凍結された。

・地域開発センター(名古屋)/アジア太平洋開発センター(クアラルンプール)で働いたうち、3年間は国連を離れニューヨークで新聞を発行した。台湾の真実を伝える事を目的とし、新聞名は『台湾公論報』とした。2千人の読者から年間60ドルの購読料を集めたが足らず、自分の口座から補填した。そのため長男の学費が払えなくなった。
・『台湾公論報』に「高資敏医師は犬畜生」と書いたため、損害賠償430万ドルで訴えられる。幸いラムゼイ・クラーク元司法長官が無償で弁護を引き受けてもらった。彼は「米国民の言論の自由を侵害するものだ」と主張し勝訴する。※司法長官!!

・国連で働いて世界に貢献したが、台湾からは苦杯を嘗めさせられた。近親に塁が及ぶのを恐れ、連絡も余り取らなかった。兄・福嶽がニューヨークに来た時も会わなかった。
・彼は私の尊敬する人であった。台北帝大を出て医者になった。彼はキリスト教の社会福祉の考えを持っており、「生命線」(命のホットライン)を設けるなどした。呂秀蓮・前副総統も大学卒業後、ここで働いている。台湾に帰り、彼とも会った。故郷で見る月は、他で見る月とは違った。

<編者あとがき 陳柔縉>
・台湾人で国連で働いた人は珍しい。私(陳柔縉)は仕事を受けるかは、直観で決める事が多い。羅福全夫婦と初めて会い、笑顔を絶やさぬ優雅な感じを受けた。分かれる時には「回顧録を書こう」と決めていた。
・他人の回顧録を書く事は、庭園を造るのに似ている。しかし彼を訪問しインタビューを始めると、庭どころでなくなった。国連/インド首相/韓国首相/OBサミットなど、庭はどんどん巨大化し、山になった。台湾と中国が国交がない時、彼のカウンターパートナーは朱鎔基首相であった。彼は台湾の歴史を超越していた。

・彼は料理/歌/歴史にも関心が深く、風刺漫画/油絵/書道にも優れている。ニューヨークからクアラルンプールまで出向き、書画/陶器/時計/絨毯などを買い入れている。
・彼は訪問インタビューの最後に必ず「I enjoy my life」と言う。彼ほど人生を楽しんでいる人はいない。彼は無理に求めないため、失望もしない。自然に任せている。これが彼が、人生を陽気に愉快に渡ってきた秘訣であろう。

<訳者あとがき 小金丸貴志>
・私(小金丸貴志)が初めて羅福全先生にお目に掛ったのは、台湾の淡江大学日本研究所の授業である。先生が駐日代表を退かれた1年後で、中国の環境問題/多国間貿易協定を教わった。

・本書の原題は『栄町少年走天下-羅福全回憶録』で、編者は歴史・伝記作家の陳柔縉である。編者の対象の魅力を掴み出す能力/文章的教養により、本書は台湾文学でも稀な伝記となっている。本書は刊行から好評を博し版を重ね、英訳も出ている。本書の翻訳は「台湾独立建国連盟」のシンポジウムで直接先生からお受けした。

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