『福井藩』船澤茂樹を読書。
幕末期の越前福井藩の状況を知りたくて再読。
福井松平家は家康二男秀康の系譜であるが、波乱万丈である。
読み応えがあり、江戸期の概要を理解できる。
お勧め度:☆☆☆
キーワード:<藩祖結城秀康>養子/結城家、知行/支城制、福井城(北庄城)、笏谷石/紙/鎌・菜刀、松平忠直/越前騒動/大坂の陣、<再興の苦難>松平忠昌/下妻/松代/高田、松平光通、万治大火/寛文大火、藩札、借米/拝借、三国湊/西廻り航路、浦方/製塩、<貞享の半知と再生>給禄/番組・物頭/奉行、松平吉邦、松平宗矩/享保の大飢饉/手伝普請、<転換期の福井藩>松平重富/藩財政/明和の大一揆、専売制、大名貸し、町方/町役人/商人、左義長/祇園会、<松平春嶽の政治改革>明道館/吉田東篁/橋本左内/横井小楠、藩営貿易、漢蘭兼学、将軍継嗣問題/井伊直弼、公武合体/四侯会議、大政奉還/王政復古/鳥羽・伏見の戦い/戊辰戦争、版籍奉還/廃藩置県、<現代に生きる福井藩>福井城
<プロローグ 北庄の誕生>
・越前の北庄は、1575年柴田勝家が織田信長に築城を命じられた事から始まる。1582年織田信長が自害し、勝家は「清州会議」で秀吉に敗れる。翌年勝家は「賤ヶ岳の合戦」で敗れ、「北庄城」で自害する。
・その後城主が頻繁に変わり、「北庄城」と城下町の再興は進まなかった。1600年徳川家康が「関ヶ原合戦」で大勝し、越前68万石を二男結城秀康に与える。秀康は城下町を再建するが、1607年没する。1623年嫡子・松平忠直は豊後に左遷される。その後福井藩は目まぐるしく変遷する。
・なお「北庄」は縁起が悪いため、第4代藩主忠昌が入国する時、「福居」(後福井)に改められた。※本書では忠直の嫡子・光長を第3代藩主として加えている。
<藩祖結城秀康>
○波瀾の生涯
・1574年結城秀康(幼名:於義丸)は徳川家康の二男だが、母が正室・築山殿から迫害され、城外で生まれる。兄・信康は15歳年上であった。1579年信康は自害させられ、於義丸が嫡子になる。
・1584年家康は「小牧・長久手の戦い」で豊臣秀吉に勝利するが、於義丸は秀吉の養子になり、羽柴(豊臣)秀康と改名する。秀康は破格の昇進をし、初陣は14歳の時で、気性は荒かった。
・1590年北条氏直が秀吉に降伏する。家康は関東に左遷になる。この時、結城晴朝が秀吉に養子を懇請し、秀康が結城家5万石を相続する。結城家は藤原秀郷の後裔で名門であった。
・1590年時点、家康には秀忠(12歳)/忠吉(11歳)/信吉(8歳)の息子がいた。秀康の官職は「左近衛少将」、秀忠は「従四位侍従」で、秀康が優位であった。その後秀忠は急速に昇進し、秀康を抜き去る。※徳川家と結城家の違いかな。
・1600年「関ヶ原合戦」が行われ、秀康は宇都宮城にて上杉景勝の南下を阻止する。秀忠は信濃上田で真田真幸・幸村に進路を阻まれる。忠吉は関ヶ原にて殊勲を挙げる。戦後秀康は越前68万石、忠吉は尾張清洲62万石を与えられている。
・1603年家康は「征夷大将軍」になり、秀忠は「右近衛大将」を兼務し次期将軍を約束された。当時の官位は前右大臣・家康、右大臣・豊臣秀頼、内大臣・秀忠、前権中納言・上杉景勝/前田利長、権中納言・秀康の順であった。
・越前家は様々で優遇され、「制外の家」とされた。※将軍の兄ですから、色々ありそう。
・1605年秀忠が将軍に就任する。この頃秀康は体調が優れなかったが、福井城/江戸城/駿府城の普請を行っている。翌年嫡男忠直が元服する。
・1607年病気が重くなり、34歳の短い生涯を終える。土屋昌春/永見長次が殉死している。本多富正は家康の書状で殉死を止まり、忠直の補佐に当たる。
○第2位の大国・越前
・越前68万石は、前田利長の119万石(加賀、能登、越中)に次ぐ領地であった。また「一播二越」と云われ、戦略面でも越前は重視されていた。
・慶長6年2月(1601年)先発隊の本多富正が越前に入り、秀康は7~8月頃入国する。9月家中に「知行割り」を行っている。※広島藩浅野家も直ぐに4家老に知行を与えた。
・秀康は「支城制」を採用し、68万石のうち12.5万石を「蔵入地」(直轄領)とするが、残り55.5万石を家中に給地している。
・9名に支城を与えている。※それで福井県は城が多いのか。子供の頃不思議に思っていた。
本多伊豆守富正-南条郡府中、3.9万石
土屋左馬助昌春-大野郡大野城、3.8万石
多賀谷左近三経-坂井郡柿原、3.2万石
今村掃部盛次-坂井郡丸岡城、2.5万石
山川讃岐朝貞-吉田郡谷口(花谷)、1.7万石
吉田修理好寛-足羽郡南江守、1.4万石
清水丹後孝正-敦賀郡津内、1.1万石
林伊賀定正-大野郡勝山、1万石
加藤四郎兵衛康寛-大野郡木本、0.5万石
・1602年秀康は『伝馬人足定書』を出し、「北陸街道」の15の宿場を整備する。※宿場名と駅馬数が書かれているが省略。
・1606年「北庄城」が完成する。1624年秀康の二男忠昌により「福井城」に改名される。「福井城」は外堀/足羽川/荒川に囲まれ、内堀の百閒堀は最大幅75mあった。西に桜門(大手)があり、城内には下馬御門/太鼓御門などがあった。
・天守閣は四重五階であったが、1669年の大火で焼失し再建されなかった。本丸御殿(表、中奥、奥向)もあった。
※全体図が載っている。
・城下町は城の西部に拡がった。東から西へ足羽川が流れているが、南北に走る「北陸街道」は「九十九橋」で渡った。この橋で城下町は南北に分かれ、城のある北側が栄えた。1847年城下には武家1万2千人/町方2万人が住んでいた。
○藩政初期
・1590年秀康は結城家を相続する。家臣は実父・家康が与えられた者が多かった(本多富正、清水丹後など)。結城譜代の家臣には、山川讃岐守晴重/多賀谷安芸守政広などがいた。入国した頃の石高は5万石であったが、太閤検地を実施すると11.1万石あった。
・越前移封後の『結城秀康給帳』には497人の「知行取」が記されている。その出身国は31ヵ国に及んでいる。特に三河が78名で多く、本多伊豆守(3.9万石)/今村掃部(2.5万石)/永見右衛門(1.5万石)/清水丹後(1.1万石)などがいる。一方結城譜代の高禄者は、多賀谷左近(下総、3.2万石)/山川讃岐(下総、1.7万石)/岩上左京(下野、4千石)/太田安房(常陸、3千石)/多賀谷権太夫(下野、2.5千石)/水谷兵部(下野、1千石)などで、俸禄が少ない。越前移封を契機に、結城色から徳川親藩化したと云える。
・1638年成立の俳諧書『毛吹草』には全国の特産品が記されている。越前では絹・布/切石/和紙が記されている。
・1601年秀康が入国した時、町人から「羽綿」を受けている。その後も毎年「八朔綿」が献上された。当時綿はなかったので、これは絹である。その後絹は低迷する。
・足羽山で取れる青緑色の「北庄切石」(笏谷石)は全国に売られた。切り出された石は三国湊まで船で運ばれ、そこから北前船で全国に送られた。
・『和漢三才図会』に紙の産地として今立郡五箇が記されている。大滝村の三田村家は紙の生産・販売の元締めであった。ここで生産された紙は、幕府に納入され、藩札にも使用され、明治政府の太政官札にも使用された。
・府中(越前市武生)では鎌・菜刀の生産が盛んで、「越前鎌」が有名である。延享期(1744~48年)に27軒あった鍛冶職は、慶応期(1866年)には129軒に増大している。これは鎌行商人によるところが大きい。
○松平忠直の激動
・1607年忠直は父・秀康の死去により、13歳で越前の2代藩主になる。4年後将軍秀忠の三女勝姫を正室に迎える。
・しかし間もなく「越前騒動」が起きる。久世但馬(1万石)と岡部自休(1700石)の知行所争いが発端である。これに府中領主・本多伊豆守富正と丸岡城主・今村掃部盛次の家老の勢力争いが絡んだ。本多は先代秀康の信任が厚く、今村は忠直の信任が厚く、新興勢力であった。
・久世の切腹で決着を図ろうとしたが、彼は邸に立て籠もり自滅した。1612年本多/今村が大御所/将軍の前で対決する。これにより本多は従来にも増して重用されるが、今村は改易/配流となる。結果としては忠直の権力基盤が安定した。
・「大坂の陣」(1614~15年)は恩賞を期待できない戦であったが、忠直には晴れ舞台で、大坂城一番乗りや真田幸村の首級を挙げている。しかし参議に昇進するが、加増はなかった。一方弟忠昌はその後、越後高田25万石に躍進している。
・1618年頃から忠直の異常行動が始まる。優遇される年下の叔父(義直、頼宣、頼房)の存在が、徳川家嫡流を自負する彼の自尊心を傷付けたと考えられる。
・1621年頃から参勤交代を怠るようになり、翌年には勝姫の身代わりになった女官が斬殺される。その翌年忠直は豊後に配流になる。
・1623年3月忠直の嫡男仙千代(光長、9歳)が3代藩主として帰国する。7月家光が将軍を継ぎ、越前を仙千代に任せられないとして、帰府させる。
・1624年4月秀康の二男忠昌が越前50万石の4代藩主を継ぎ、三男直政が大野5万石、五男直基が勝山3万石、六男直良が木本2.5万石を分与された。仙千代は忠昌の旧領の越後高田25万石に移封された。その後忠昌の弟3人は国替えで加増されている。
○福井藩人物列伝
※本多富正/岩佐又兵衛/下坂康継/中根雪江/吉田東篁が詳しく紹介されているが省略。
<福井藩再興の苦難>
○50万石を拝領
・1598年忠昌は秀康の二男に生まれる。1607年将軍秀忠に目見えし、上総姉ヶ崎1万石を与えられる。この時同母兄・忠直から岡部長起/永見吉次/上川実基/毛受延洪らを家臣にした。
・1614年「大坂冬の陣」では秀忠の陣に詰め、狛孝澄/坂井重成/杉田三正らも家臣になった。
・1615年元服し忠昌と改名する。「大坂夏の陣」では兄忠直に参陣し、奮戦する。この頃から永見吉次/狛孝澄が重臣になる。
・1615年常陸下妻3万石に加増・転封され、翌年には信濃松代12万石に加増・転封される。この時改易となった家康六男忠輝の遺臣(松平備前正世など)を家臣に採用している。
・さらに1618年忠昌は越後高田25万石を拝領する。高田時代に49家を召し抱えている。その内18家の出身地は不明で、残りもバラバラである。年寄衆の上席の稲葉佐渡守正成は将軍秀忠より与えられている。
・1624年忠昌が越前50万石に移り、甥仙千代が越後高田25万石に移り、忠昌と仙千代は領地を交換する。
・前年の仙千代の年寄衆は本多飛騨守成重/本多伊豆守富正/小栗美作守正勝/岡島壱岐守/本多七左衛門であった。これが越後高田への移封により、本多飛重は丸岡藩主となり、本多富正は福井藩に残り、残り3人は仙千代に従った。
・一方の忠昌は高田での300騎が、福井着任後は家臣数が458人に増えている。
・1624年忠昌は施政方針を掲げているが、それに本多伊豆守富正/永見志摩吉次/狛木工孝澄の年寄が署名している。数年後に松平備前正世/杉田権之介三正が年寄に加わっている。
・1645年忠昌が没するが、山内隼人/斎藤民部/鈴木多宮/滝主計/太田三弥/山本源左衛門/水野小刑部が殉死している。
・1624年忠昌は城下名を縁起の悪い「北庄」から「福居」(福井)に改める。
・江戸城大手門前に上屋敷「竜口屋敷」を設けた。邸内に御成門(日暮御門)/御成書院があり、将軍家光がしばしば訪れたと思われる。
○光通の相続
・1645年忠昌の死去により、二男千代丸(10歳、光通)が5代福井藩主になる。この時庶兄・千菊丸(昌勝)に松岡藩5万石、庶弟・福松(昌親)に吉江藩2.5万石が内分知される。
・藩主就任当初は「一老三臣」(本多富正、永見志摩吉次、狛木工孝澄、杉田壱岐三正)が健在であったが、1649年に杉田、翌年本多、その翌年に永見が亡くなる。
・昌勝(千菊丸)に分与された松岡藩の領地は、主に吉田郡/坂井郡/丹生郡にあり、松岡陣屋は福井から北東8Kmにあった。昌親(福松)に分与された吉江藩の領地は、主に丹生郡にあり、吉江陣屋は福井から南西10Kmにあった。
・1646年光通は家臣43人を昌勝(松岡藩)に出向させている。1648年松岡で「屋敷割り」が実施され。士分123家/卒154人の宅地が整備されている。
・1655年光通は家臣46人を昌親(吉江藩)に出向させている。『吉江給帳』には士分82家/卒224人が記されている。近松門左衛門の父・杉森斉は昌親に従い吉江に移住している。その後浪人になり京都へ赴いた。
・松岡藩/吉江藩は何れも本家を継ぎ、早期に消滅している。
○後継者に揺れる
・1655年光通は従兄・松平光長の息女・国姫を正室に迎える。彼女の母・勝姫は秀忠の三女で、勝姫の妹・和子は後水尾上皇の妃であった。そのため彼女は能書/文学/和歌に優れた。光通の側室が権蔵(直堅)を生むが、光通は認知しなかった。彼女は女児しか生まず、1671年36歳で自殺している。
・光通の晩年は、2度の福井城下の大火(1659年、1669年)/1671年国姫の自殺/1673年庶子権蔵の江戸出奔と事件が相次ぐ。1674年光通も心労から39歳で自刃する。
・光通の遺言により末弟・昌親(吉江藩主)が6代福井藩主を継ぐ。昌親は長兄・昌勝(松岡藩主)の嫡男綱昌を養子にする事で、これを引き受けた。1676年昌親は藩主を綱昌に譲っている。
※光長に続いて2度目の継嗣問題だな。
○城下の変容
・1659年城下南の柴田神社付近から出火し、城下西の50町(1700軒)を焼き尽くす(万治大火)。焼失した多くの寺院を城下の端に移す。
・1669年城下南東から出火し、武家屋敷614軒/寺院37寺/町方59町(267軒)を焼き尽くす(寛文大火)。復興のため幕府より5万両(銀2750貫)を貸与された。天守も焼失するが再建は許されなかった。
・秀康時代の福井城下建設/忠直時代の「大坂の陣」/忠昌時代の江戸城普請/光通時代の江戸藩邸再建と福井城下再建により藩財政は窮乏していた。そのため1661年「藩札」を発行する。本来「藩札」は藩内での流通が原則だが、信用力によって、京都/大坂でも流通した。
・札元の慶松五左衛門/金屋七兵衛が実権を握り、両替座の駒屋善右衛門/荒木七郎兵衛が実務を担当した。「藩札」は約20種類あり、両替所が三国/金津/府中/栗田郡/今庄などに置かれた。
※札所/札元/両替座/両替所などの役割が理解できない。
・家臣団は「士分」「卒」からなる。「士分」には知行を給与されているの「知行取」(給人)と、蔵米を給与されているの「蔵米取」があった。『光通公御家中給帳』には「士分」653人が記され、「知行取」534人、「蔵米取」119人であった。当初福井藩は「地方知行制」で、「知行取」は農民から直接年貢を徴収していた。
・1668年藩は「地方知行制」を廃止し、「借米」を導入し、藩財政に充てた。例えば、40%の年貢の徴収し、内3%を「借米」として藩に上納させた。「借米」は名目で、返還されなかった。
・勝山藩は転封によって幕府領となり、福井藩の「預所」となっていたが、そこからの「拝借」(年貢の徴収)を許されていた。
・1676年昌親時代、「借米」「拝借」にも拘わらず、藩の借銀は2万貫に達した。当時の歳入は5758貫であった。
・1659年光通の招請により、大愚宗築が田ノ谷に「大安寺」を創建する。「大安寺」には狩野元昭(福井藩の御用絵師)が描いた布袋図と光通と大愚の肖像画、仏師・康乗(運慶の末裔)が制作した光通と大愚の座像が残っている。
○三国湊と浦方
・九頭竜川の河口に「三国湊」があった。九頭竜川は足羽川/日野川など、多くの支流を持つ。「三国湊」は金津奉行の支配下にあり、下町と上新町に分かれていた。1773年下町は795軒/3012人、上新町は350軒/1836人、都合1145軒/4848人であった。幕末期(1864年)には総数1581軒/6427人に増大している。船の保有数も、渡海船25艘/道船9艘(1773年)から、渡海船34艘/道船6艘/水役船32艘/川船34艘(1865年)に増大している。一方日本海で最大の港であった「敦賀湊」は、人口が1万2296人(1709年)、1万913人(1726年)、8952人(1840年)と漸減している。
・1672年「西廻り航路」が開発され、北海道/奥羽/北陸の物資が下関を経由して上方に運ばれた。船主が各地で物資を買い付けるため、「買積船」と呼ばれた。「北前船」と呼んだのは、九州/瀬戸内の人である。
・積まれた物資は米穀/菜種油など200種を超えた。1734年「三国湊」での米による口銭は6貫996匁あり、33.3万俵が取引された事になる。「三国湊」には魚問屋が2軒あり、福井城下には魚屋が171軒あった。これは庶民の食生活に魚介類が浸透していた事を示している。
・「三国湊」は藩よって保護されたが、沖ノ口法度(1626年、21ヵ条)/沖ノ口条目(1687年、21ヵ条)によって統制された。
・『正保郷帳』(1646年)に海岸線の59ヵ村(浦方)が記されている。福井城の西にある「蒲生浦」を取り上げる。『蒲生浦明細書上』には「免拾」とある。これは石高34石の税率が10割を意味する。「蒲生浦」は漁獲によりこれが可能であった。
・1692年の史料には沖猟船15艘と記されている。1729年の史料には、大舟11艘/小舟11艘/がんぞう舟3艘/磯見舟4艘で合計29艘と記され、船主儀兵衛は沖猟船2艘と、がんぞう舟1艘/磯見舟1艘を持つなど、複数の舟を所有する船元が現れる。
・沖猟船でかれい/かながしらを漁獲し、がんぞう舟/磯見舟でふぐ/ひらめ/えび/あわびを漁獲した。福井藩は「蒲生浦」の初鱈/寒鱈を幕府に献上している。
・「三里浜」の人は農業/漁業/製塩業に従事していた。『坂井郡村々塩浜検地帳』(1598年)に13ヵ村の塩田/塩釜の数が記されている。しかし近世中期以降、瀬戸内海などの良質/安価な塩により、製塩は衰退する。1820年の史料に、「最盛期は塩釜所有者が114軒あったが、今は8軒しかない」とある。
○観光名所
※「永平寺」「東尋坊」の詳しい説明があるが省略。
<貞享の半知と再生>
○吉品による再編
・1676年綱昌は養父・昌親から譲られ、7代藩主となる。しかし1681年以降は公務を果たさなくなり、1686年綱昌は蟄居になり、知行は半減される(貞享の半知)。『徳川実紀』によると、綱昌が旗本の佩刀を奪い、幕閣は「酒狂の沙汰」で不問にしようとしたが、藩が「乱心」と再三申し入れたとある。これは藩主綱昌と後見人昌親の不和が原因と思われる。
※奇数代になると問題を起こす。
・1686年昌親は8代藩主に復帰し、昌明と改名する。1704年さらに吉品と改名する。福井藩は47.5万石から25万石に半減させられる。福井城に隣接する足羽郡/吉田郡は安堵されるが、坂井郡/今立郡/南条郡/丹生郡/大野郡で大幅に減じられる。
・1686年吉品は知行取190余人/与力216人/卒1千人などを解雇する。元禄期(1688~1704年)の『松平吉品給帳』に士分480余人/卒2400人が記されている。これらの残った藩士は著しく減禄された。家臣筆頭の府中本多家は知行4万石が2万石に、「切米取」(※蔵米取と同じみたい)は30石7人扶持から25石5人扶持に、小役人は25石から18石に、徒は17石から15石に、小算(会計)は13石から10石に減禄された。
・藩士/領民の動揺を抑えるため、体制の引き締めを行った。1691年『御用諸式目』の編成を終えた。これは66法令の集成で、『在々条目』(31ヵ条)は農民を統制する基本法である。
・藩札は京都/大坂などに流通していたが、2/3を破棄し、1/3を新札に交換する事で沈静化させた。
・番方では、上士の要職に書院番頭/留守居番頭/大番頭がある。中士はこれらの何れかに所属した。「書院番」は藩主に近似する者、「留守居番」は国許守備を任務とする者、「大番」は戦闘の最前線で戦う者である。半知により「書院番」は4組112人から2組57人に、「留守居番」は6組から2組に、「大番」は6組210人から4組139人に減員された。
・藩主側近の「側物頭」は頭8人/足軽168人から頭3人/足軽63人に、戦闘で突破力となる「先物頭」は頭16人/足軽320人から頭12人/足軽240人に減員された。※何れも1組20人みたいだな。
・役方では、財務を担当する「御奉行」は3人で維持され、下代3人/足軽45人から下代9人/足軽45人に増員された。「町奉行」は奉行2人/役与力6人/足軽30人から奉行1人/役与力3人/足軽20人に減員された。農民の支配に当たる「郡奉行」は奉行4人/下代12人/足軽40人から奉行2人/下代4人/足軽40人に減員された。
・大名の序列は「家格」による。「家格」は元朝の列座/総下座/諱字拝領に表れる。半知前は、元日朝の列座は御三家の末席に列座していた。江戸御門での総下座は、1680年より受けていた。歴代の藩主は将軍の一字を拝領し、綱昌も家綱から拝領している。
・しかし半知により、これら全てが停止するが、1703年元朝の列座は復活し、1704年藩主昌明(昌親)は綱吉から「吉」を賜り、吉品と改名する。※20年弱で回復。
・福井城下に「御泉水屋敷」(養浩館)がある。これは1689年に着工され、貧民救済の目的があった。足羽山の麓にある「瑞源寺」は、吉品時代に創建されている。この本堂/書院は幕末に本丸御殿から移築されている。
○吉邦の治政
・1701年昌明(昌親、吉品)は兄・昌勝の六男昌邦(吉邦)を養子にする。1693年松岡藩主昌勝は亡くなり、三男昌平が継いでいた。1704年昌明は吉品と改名し、養子の昌邦は吉邦と改名する。1710年吉品は隠居し、吉邦が30歳で9代藩主を継ぐ。翌年吉品が71歳で亡くなる。吉邦は「有徳の君と取り沙汰」された。
・吉邦は初入国に際し、町方/在方(農村)に3500両を課したとして両家老を叱責し、勘定奉行・田中条左衛門を解任する。初入国すると「信賞必罰」を明言している。
・吉邦は『諸士先祖之記』(家臣の系譜)/『城跡考』(越前の330城跡)を編纂させる。
・越前の幕府領は27万石に達していたが、勝山藩2.5万石/鯖江藩5万石などが成立し、1720年幕府領は17万石で定着し、その内10.5万石が「福井藩預所」となった。
・1722年吉邦が41歳で急死する。「越前松平家」は9家(越前福井、出雲松江、陸奥白川、美作津山、播磨明石、越前松岡、出雲広瀬、出雲母里、越後糸魚川)存在していた。そこで松岡藩主昌平(吉邦の実兄、宗昌)が10代藩主を継ぐ。福井藩は松岡藩を吸収し、30万石になる。昌平は将軍吉宗の諱字を賜り、宗昌と改名する。
・松岡藩の家臣は士分185家/卒390余人であった。卒は解雇されるが、士分は福井藩の家臣になった。※卒は全員解雇か。
○宗矩襲封
・1724年藩主宗昌が亡くなり、結城秀康の五男直基の曾孫千次郎(10歳、宗矩)が陸奥白河藩から迎えられ、11代藩主を継ぐ。1726年千次郎は元服し、宗矩に改名する。1727年福井藩は財政難であったため、宗矩は「借米」「御用金」を課している。
・1732年西日本でイナゴにより「享保の大飢饉」になる。郡奉行は上中下領に分かれるが、中領では1月に飢人が608人いたが、3月には2982人に急増する。この時白米1石/米18石9斗/籾米55石/稗51石/麦10石3斗/大豆4石6斗/米糠4石5斗/銀450匁などで救済した。この年も年貢の取り立てが厳しく、「欠け落ち」が続出した。
・1741年将軍吉宗/嫡男家重/孫家治が揃って昇進し、その祝儀のため福井藩に3万両の「御用金」が割り当てられた。1743年「日光御普請御手伝」として6万5千両が課せられる。
・福井藩は18世紀前半に多くの「手伝普請」を果たした。1704年吉品時代に江戸城の石垣・櫓・城門の修復、1716年吉邦時代に将軍家綱廟の造営、1743年宗矩時代に東照宮・大猷院廟(家光廟)の修理を行っている。
・「元禄地震」(1703年)により、吉品は江戸城本丸の二重櫓などを修復する。士分60人/卒240人が動員された。その費用として、藩士に「借米」、領民に「御用金」が課せられた。「御用金」は町方に3万1千両が課せられた。「借米」は、最高は府中本多家の16%、最低は足軽の7%であった。
・家綱廟の造営は福井藩と小浜藩に命じられた。この時は士分60人/卒250人が動員された。費用は町方に「御用金」3万両が課せられ、「借米」は前回と同様であった。
・最大の「手伝普請」は「日光御普請御手伝」(東照宮、大猷院廟、輪王寺の修復)であった。士分170人/卒1000人が動員された。「借米」は、最高は上士の16%、最低は足軽の3%であった。「御用金」は町人/農民に6万5千両が課せられた。福井城下の新屋三右衛門は1千両を負担した。
※徳川幕府はあくどいな。
・宗矩は結城秀康の二男忠昌の血統も絶やさないため、宗昌の遺子勝姫を正室としていたが、1743年勝姫は子を生まず他界する。家臣は宗矩に再婚を勧めるが、宗矩は福井松平家の家格を上げるため、将軍一族から養子を迎える事を考える。
・将軍吉宗には3人の男子がいた。長男家重は将軍職を継ぎ、二男宗武は田安徳川家、三男宗尹は一橋徳川家を興した。1747年一橋家徳川宗尹の嫡男於義丸(5歳、重昌)が宗矩の養子に入る。1749年宗矩が死去し、於義丸が12代藩主を継ぐ。※一橋家の嫡男(将軍の孫)が養子に入ったのか。
<転換期の福井藩>
○家格上昇と財政困窮
・1758年福井藩を継いだ重昌は16歳で病没する。重昌の弟仙之助(一橋家徳川宗尹の二男、重富)が13代藩主を継ぐ。1760年仙之助は将軍家重の一字を拝領し、重富に改名する。※一橋家の長男/二男が福井松平家を継ぐのか。
・重富は1799年隠居するまで、41年間藩主を務める。この間3人の将軍に仕えるが、将軍家重は伯父、将軍家治は従兄、将軍家斉は甥(実弟治済の長男)である。これにより福井藩の家格は著しく上昇する。一方後年、藩主慶永(春嶽)は「質朴倹素から奢侈に変わった」と述べている。
※一橋家は幕末まで将軍家/田安家/一橋家/福井松平家を占有している。
・18世紀半ば、幕藩体制は行き詰り、全国で民衆の蜂起が生じる。1754年重昌は町在に「才覚金」(御用金)2万5千両を課す。1756年越前の幕府領で「強訴」「打ち毀し」が起こる。幕府も福井藩の財政を問題視しており、1758年側用人・大岡忠光は藩の重臣を尋問している。1761年「借米」は5割になり、給禄が「半減」になる。これに対し上士の「持ち馬」を免除している。
・1768年2月重富は帰国のため「才覚金」5万5千両を領民に課すが、領民は応じなかった。3月町方で徒党が救米を要求し、村方でも百姓が行動を起こす。さらに城下で「打ち毀し」が始まり極印屋/美濃屋が襲撃された。新屋/慶松屋は一揆勢に酒食を供し、難を逃れた。月末に一揆は増大し、「御用金」の撤回/年貢の軽減で落着する。
・藩内からの調達が不可能になり、急遽江戸の町人から調達するが、3千両だけであった。そこで金策担当奉行は、藩主の実弟・一橋家徳川治済を介して老中松平武元に大坂での調達を依頼する。大坂奉行は鴻池善右衛門/三井八郎右衛門などと交渉し難航するが、翌年交渉は成立する。
・1774年/1780年福井藩は幕府より3万両を拝領している。家臣の給禄「半減」は恒常化し、商人への返済も一方的に繰り延べられた。
・1768年治好は重富の嫡子に生まれる。母は紀州藩徳川宗将の三女致姫であった。1799年治好は重富の隠居により14代藩主を継ぐ。治好は多趣味で、能/俳諧に傑出していた。1822年憧れの京都を遊覧している。治好の正室は田安家徳川宗武の末娘である。治好時代に藩財政は増々深刻化する。
○江戸中期の藩政
・18世紀初頭、福井藩は専売制を始める。1699年今立郡の五ヵ村(大滝、岩本、新在家、定友、不老)で紙の専売制を始める。判元の三木権太夫/吉野家作右衛門/山田道与が製品を独占する代わり、運上金を藩に上納した。幕府の御用紙は三田村家が納め、福井藩には紙屋の三田村家/高橋家/清水家/加藤家が納めた。1723年からは三田村家が判元を独占するようになる。
・寛政期(1789~1801年)、福井藩は各種専売制を実施する。1790年菜種の専売制を始める。金津奉行と上中下三領の郡方役所がこれを取り仕切った。しかし3年後には廃止になる。
・1799年繭・糸の専売制を始めるが、これも十数年後に廃止になる。
・1822年藩は藍玉の専売制を始める。従来は商人が阿波より藍玉を移入し紺屋に納めていたが、これを藩が行うようになる。藍玉が廉価になるのが期待されたが、逆に値引きがなくなり、紺屋は不利になった。※藩士が商売するなんて不思議だ。
・藩士への「借米」は恒常化するが、154年間(1694~1848年)で「借米」が実施されなかったのは3年間に過ぎない。逆に「借米」で最も厳しい「半減」は、延べ32年間実施されている。そのため衣服に対する倹約令/「持ち馬」の免除/困窮家臣を救済する金融制度が整備された。※倹約令や免除は他にも様々あったと思う。
・藩士には「物成り米」を担保に米商人/農民から借銀する者が現れる。例として1792年禄高4位の重臣芦田家(知行3500石)は「二人扶持」(米8俵)を米屋仁右衛門に与えている。これは芦田家の5ヵ年賦の借銀2貫匁の「物成り米」である。※この説明で合っているのかな。
・書院番士・堀江九郎右衛門(知行150石)は、江上村/地蔵堂村にそれぞれ75石の知行を有していたが、吉兵衛から銀3貫30匁/米1俵半を借用していた。1849年江上村での堀江家分22石2斗は、農民から吉兵衛に直接納入された。
・1818年福井藩は2万石を加増される。これは前年の世子斉承と将軍家斉の十女浅姫との縁組による。1826年治好が亡くなり、斉承が15代藩主を継ぐ。1835年斉承が25歳で急逝する。将軍家斉の二十四男斉善が養子となり、16代藩主を継ぐ。※今度は将軍の子だな。
・将軍家斉は多くの子女を大名と婚姻させ、その大名を優遇した。これは幕府財政破綻の要因とされる。福井藩もこの恩恵を受けた。1837年(天保の大飢饉の翌年)不作を理由に1万両を受け、同年江戸上屋敷の焼失で1万5千両を受け、翌年松栄院(浅姫)の住居普請で1万5千両を受けている。
・1836年斉善は幕府に「90万両の借財がある」と報告している。藩の歳入は3万7千両で、累積債務は余りにも膨大であった。
・福井藩に最初に接触を計ったのは京都の商人で、1694年両替商・善五郎の協力を得ている。享保期(1716~36年)になると大坂商人(浪花商人・肥前屋、津軽屋彦右衛門)との接触が増える。宝暦期(1751~64年)には大坂町人・大和屋勘兵衛が廻米の請け元になる。藩札が両替停止の危機に追い込まれるが、1758年浪花商人・牧村清右衛門が札所に1万5千両を融資し再開される。翌年大坂に蔵屋敷が設置されるなど、京都から大阪への転換が図られる。※当初から大坂と思っていた。
・福井藩は資金調達で「御用金」を最重視していたが、「明和の大一揆」(1768年)でその限界を知る。藩内の「大名貸し」は、この時の「打ち毀し」で委縮していた。
・安永期(1772~81年)になると、加嶋屋久右衛門が蔵元になり、炭屋善五郎が掛屋になり、鴻池善右衛門との接触が深まるなど、大坂商人との関係が深まる。彼らは貸付組合を結成し、福井藩に2万5千両を調達した。福井藩はその引き当てとして「為登米」4万俵を貸付組合に渡している。
※領民から取れなくなったんだ。
・1844年藩主慶永(春嶽)が藩債を整理し、『御借財元寄帳』を作成していが、それによると累積債務は90万5千両余りで、利息を加えると95万8千両余りあった。最大の金主は加賀粟ヶ崎の木谷家(屋号木屋)で、10万6千両余りを調達していた。1780年木屋は福井藩より知行300石を拝領している。※商人に知行?しかも加賀。
・三国湊の船主・内田惣右衛門も福井藩と関係が深い人物である。1804年彼は苗字を許され、屋号室屋から内田に改め、「勝手向趣法掛」に任命されている。彼は1803~26年までに12万両を調達している。その大半は焦げ付いたようである。彼は異例の知行500石を拝領している。
・三国湊の船主・三国与兵衛も関係が深い。1817年彼は苗字を許され三国を名乗る。翌年「勝手向趣法掛」に任命され、知行300石を拝領している。彼は加賀藩にも、1838年7万7千両、翌年9万5千両を調達している。※藩の歳入が3万7千両しかないのに。
○藩校「正義堂」、医学所「済世館」
・1819年米問屋・内藤喜右衛門の献金で藩校「正義堂」が開校し、前田雲洞/高野春華/清田但叟が講師になる。しかし1829年休眠状態になる。1833年清田但叟/高野春華により再開するが、2年後に閉鎖になる。
・1805年医学所「済世館」が開校し、浅野道有/勝澤一順/妻木栄輔が、藩医/町医に対し講義を行う。薬品会や刑死者の解剖も行われた。
○城下町の暮らし
・農民の定住地を在方、商人・職人の住宅地を町方と呼んでいた。1750年福井城下には5382戸/2万4152人が居住していた。町方では、土地・家屋の所有者に「町役銀」が課された。1713年2800戸が「町役銀」を課されている。
・福井城下には167町あり、それが11の「町組」に分けられていた。北陸街道の「九十九橋」南に木田町組/神宮寺町組/石場町組(※石の搬出港かな)、北に本町組/京町組/上呉服町組/一乗町組(※一乗谷と関係かな)/下呉服町組/室町組/松本町組、美濃街道の起点に城橋町組があった。
・町方には町役人が置かれた。町には町庄屋、町組には輪番庄屋、さらにその上に町年寄が置かれた。
・町方では同業者が同じ町に住んだ。紺屋町には紺屋の総元締めの奈良家があり、70石を与えられ、藩の用務を果たした。
・商人/職人には68の職種があった。1763年の史料に、魚屋171軒/酒屋153軒/質屋73軒/蝋燭屋59軒/菓子屋41軒/八百屋36軒(以上商人)、大工133軒/鍛冶屋80軒/桶屋74軒/石屋54軒/紺屋43軒/仕立屋37軒/畳屋20軒(以上職人)などが記され、他に町医者35人などが記されている。
・商家の栄枯盛衰は激しかった。金屋は朝倉家臣の北庄氏であったが、商人に転向した。鉄鋼の売買で江戸前期に最盛期になる。1661年「藩札」の発行で、札元を務めている。狩野探幽を招き襖絵を描かせた。しかし宝暦期(1751~64年)に家業不振に陥る。
・米問屋の山口家は新興商人である。1802年藩の御用達になり、代々札所元締役を命じられる。山口家の資産は3万両あり、福井城下で最大の富商であった。
・福井城下では様々な年中行事が行われた。正月15日に火祭り「左義長」が行われ、松の木を燃やし、無病息災を祈願した。福井城下では「馬威し」が同時に行われ、藩士を乗せた馬が桜御門(大手門)を出て、柳御門(搦手門)まで疾駆した。
・最大の夏祭りは6月15日の「祇園会」で、山車が巡行された。山車は各町組から出され、1827年は本町組-松掛/京町組-左義長馬威/一乗町組-山狩行列揃/上呉服町組-十二支子供遊び/下呉服町組-士農工商(※以下省略、面白そう)が出されている。
・芝居/相撲などの興行も行われた。「九十九橋」南の「立屋」では、常設小屋で芝居が行われた。「観音堂」(長安寺)でも繰芝居/曲馬などが行われた。
<松平春嶽の政治改革>
○春嶽の襲封
・1828年春嶽は田安家徳川斉匡の八男に生まれる。実名は慶永だが、本書では彼が好んだ春嶽を用いる。父斉匡は将軍家斉の弟で29人の子を儲けたが、成人した男子は5人だけである。兄2人は一橋徳川家を継ぎ、弟2人は田安徳川家と尾張徳川家を継いでいる。
※将軍家斉は春嶽の伯父で、将軍家慶は従兄、将軍家定はその従兄の子である。
・1838年斉善が死去し、春嶽が養子になり、17代藩主を継ぐ。春嶽は徳川家/福井松平家の安泰を強く意識していた。1843年初入国するが、その前に水戸藩徳川斉昭から藩主としての心得を乞うている。
・春嶽の家臣に側用人・中根雪江/側向頭取・浅井政昭がいる。春嶽は身分/年齢に拘わらず、人の意見を聞いた。家臣では上記2人や橋本左内、大名では島津斉彬/山内容堂、他藩の家臣では横井小楠などの意見を聞いた。
・1849年春嶽は若手(本多飛騨、松平主馬、本多修理)を家老に抜擢する。彼らや浅井政昭は吉田東篁の門下生である。吉田は藩校「正義堂」の小役人になり、その後私塾「吉田塾」を開く。「正義堂」が1835年廃校になっていたため、「吉田塾」は多くの門弟を抱え、多くの逸材を育てた。
・浅井は「大儒を招いて藩校を再開すべき」と建白した三寺三作を遊学に出す。1849年三寺は熊本の横井小楠の家塾に入門する。横井自身も福井藩に興味を持ち、吉田を訪れ、門弟の前で『大学』を講じている。福井藩は藩校再建の意見を横井に求め、横井は『学校問答書』『学政一致』を書き送っている。
・1855年春嶽が最も信頼する重臣鈴木主税の尽力で藩校「明道館」が創設される。鈴木は軽輩の吉田を士分に抜擢し、助教にした。「明道館」は「文武一致」を理念とし、入学式には1807人が参加した。
・1856年鈴木は橋本左内を「蘭学科掛」に起用し、翌年学監に抜擢する。橋本は「洋書習学所」を開設し、「物産科」「算科」を新設した。また橋本は武芸諸流派の稽古所を「明道館」に集める。
・1857年橋本は「侍読兼御用掛」になり、江戸に赴く。「明道館」は橋本が抜け、優れた指導者を必要としたため、横井小楠の招聘を交渉する。1858年横井は福井藩の50人扶持の客分になり、朱子学/政治改革などを教導した。
※この辺りを知りたかったので、丁度良かった。
・福井藩は深刻な財政状況であった。当時借財総額は95万8千両余りで、歳出8万8千両/歳入6万5千両であった。1856年頃橋本左内は「海外交易」を唱え、これに共鳴したのが由利公正(三岡八郎)であった。しかし橋本は、1859年「将軍継嗣問題」で処刑され、代わりに指導者になったのが横井小楠であった。1860年横井は福井藩に『国是三論』を提出する。そこには富国策(領民を豊かにする、藩営貿易、領民への藩札貸付)が書かれていた。
・これを実践したのが由利で、1859年藩札5万両の発行を決定し、「藩営貿易」の拠点となる「物産総会所」を開設する。そこで集荷された産物を、横浜/長崎の藩営商社が海外に輸出した。生糸/紬/紙/茶などが輸出され、1861年福井藩が長崎で輸出した生糸は100万両となった。春嶽時代に財政が再建される。
※凄い人達だ。そんな藩が幾つかある。由利公正は『五箇条の御誓文』を起草している。
・1849年蘭方医・笠原白翁の上書により種痘が始まる。また春嶽は半井仲庵の調合した蘭方の調薬を服用し、「漢蘭兼学」を求めた。1856年春嶽は蘭方医・坪井信良を伴って帰国し、蘭方医・大岩主一らにより『和蘭語学原始』が翻刻される。
・1860年公費での長崎留学が始まる。岩佐純/橋本綱維(左内の弟)/橋本綱常(左内の末弟)などが留学し、ポンぺ/ボードウィンなどに師事し、蘭方医学を学んだ。日下部太郎は長崎で英学を学び、1867年海外渡航が解禁されると米国に留学している。明治に入り、岩佐純は太政官の「医学取調御用掛」に就き、橋本綱常は陸軍軍医総監に就いている。
○将軍継嗣問題
・1853年6月黒船4隻が来航し、開国を要求する。幕府は異例ながら全大名に開国/攘夷の意見を徴する。多くの大名は「開国止むなし」とするが、春嶽は強硬に攘夷を訴えた。※その後藩営貿易するのに?
・1853年6月将軍家慶が死去し、世子家定が13代将軍を継ぐ。家定は将軍職を遂行できる器でなく、嫡子もなく、「将軍継嗣問題」が起こる。候補になったのが家慶の従弟で紀州藩主徳川慶福(家茂)と水戸徳川家出身の一橋家徳川慶喜であった。慶福の支持者は「南紀派」と呼ばれ、井伊直弼などの守旧的な譜代大名であった。一方の慶喜の支持者は「一橋派」と呼ばれ、春嶽/薩摩藩島津斉彬などの幕政改革派であった。
・1857年6月「一橋派」の老中安倍正弘が死去する。8月春嶽は有能な家臣を必要とし、橋本左内を抜擢し、江戸に呼ぶ。
・1858年4月老中堀田正睦は孝明天皇から「通商条約は諸大名と再議せよ」と命じられ、帰府する。
・1858年5月大老となった井伊直弼は、慶福を世子に決定する。6月「通商条約」に調印し、堀田を解任する。7月将軍家定が亡くなり、慶福が14代将軍を継ぎ、家茂と改名する。7月井伊は「一橋派」の弾圧を始める。春嶽/尾張藩徳川慶勝を隠居・謹慎、水戸藩主徳川慶篤/一橋家徳川慶喜を登城停止などに処する。福井藩は一族の糸魚川藩主直廉を18代藩主とし、茂昭と改名させる。
・1858年8月孝明天皇は「通商条約」調印に激怒し、これを無効とする勅諚を幕府/水戸藩に送る。井伊は老中・間部詮勝を京都へ派遣し、融和を図る。12月条約勅許を得る。
・井伊は攘夷派を厳しく処罰した(安政の大獄)。1859年橋本左内は斬罪に処せられる。
○春嶽の動向
・1860年「桜田門外の変」で井伊直弼が討たれ、幕府は朝廷との融和策に転換する。その抽象的な事柄が「皇女和宮の降嫁」であった。
・1862年3月薩摩藩主の実父・島津久光は兄・島津斉彬の「公武合体」を継承し、精兵1千を率いて上洛する。江戸に入り、7月慶喜を将軍後見職(大老に相当)/春嶽を政事総裁職に就ける。井伊により失脚した「一橋派」の両頭が政権に復帰した。
・要職に就いた春嶽のブレーンになったのが、横井小楠である。8月横井は幕府に『国是七条』を提出し、改革を求めた。『国是七条』は①将軍の上洛、②参勤交代の停止、③大名妻子の帰国、④幕府高官に有能者を当てる、⑤幕政に言路を開く、⑥海軍の設置、⑦海外交易の開始であった。
・1863年3月将軍家茂は上洛し、将軍後見職・慶喜/政事総裁職・春嶽/京都守護職・松平容保、さらに「公武合体派」の山内容堂/伊達宗城/島津久光らが京都に集結した。しかし「公武合体」は頓挫し、春嶽は政事総裁職を辞し、帰国する。幕府は5月10日を攘夷決行日に定めている。
・福井藩では横井を中心とする幕政改革派が朝廷親裁のため、春嶽父子の挙兵上洛を計画する。しかしこの計画は流れ、8月横井は熊本に帰国する。同月「尊王攘夷派」の三条実美/長州藩が京都から放逐される。
・1866年1月「薩長同盟」が結ばれる。7月将軍家茂が大坂城で急死し、慶喜が15代将軍を継ぐ。幕府は「征長の役」で長州藩に勝てなかった。
・当時の政治課題は①第2次征長の終結、②兵庫(神戸)の開港であった。1867年5月両問題の解決のため春嶽/島津久光/山内容堂/伊達宗城が京都で協議する(四侯会議)。しかし慶喜と久光の妥協点は見い出せず、「四侯会議」は解散となる。「四侯会議」が決裂し、薩摩藩は討幕に傾く。
・土佐藩の後藤象二郎は、薩摩藩に近い坂本龍馬に接近する。1867年6月坂本は後藤に『船中八策』を掲示する。土佐藩は「薩土盟約」を結び、藩是は「公議政体」になる。
・1867年10月13日「討幕の密勅」が下る。翌14日慶喜は「大政奉還」の上表文を提出する。朝廷は春嶽/徳川慶勝/島津久光/山内容堂/浅野茂長/鍋島直正/伊達宗城/池田茂政に上洛を命じ、「公議政体」が確実な状況であった。
・11月下旬、薩長は武力討幕に踏み切る。薩摩藩主・島津茂久は兵3千を率いて入京し、長州は兵800を西宮に宿営させる。
・慶応3年12月9日(1868年1月3日)「王政復古」が宣言される。摂政/議奏/伝奏/国事掛が廃止され、将軍/京都守護職/京都所司代も廃止された。三職の総裁(有栖川宮)/議定(親王2人、廷臣3人、諸侯5人〔薩摩、尾張、芸州、越前、土佐〕)/参与(廷臣5人、5藩×3人)が任命された。福井藩では議定に春嶽、参与に中江雪江/酒井十之丞/毛受鹿之介が任命される。
・直後の「小御所会議」で、慶喜の辞官(官位返上)/納地(領地返上)が提案される。「公議政体派」の春嶽/山内容堂はこれに激しく反論する。
・慶応4年1月3日(1868年1月27日)「鳥羽・伏見の戦い」が勃発する。薩長軍4500人は幕府軍1万5000人に勝利する。戦後、三条実美/岩倉具視は副総裁に昇格し、参与と共に実権を掌握する。春嶽などの議定は疎外されていく。
○最後の藩主松平茂昭
・1858年7月春嶽は井伊大老から隠居・謹慎が命じられる。糸魚川藩主・松平直廉(茂昭)が18代藩主を継ぐ。直廉は5代藩主光通の庶子直堅の子孫である。春嶽への突然の処分で藩政は揺れた。そんな中で存在感を増したのが客分横井小楠と横井を補佐した由利公正(三岡八郎)であった。1860年横井は『国是三論』(前出)で藩政の方向を示す。※横井小楠はそんな人物なんだ。
・1862年7月春嶽が政事総裁職に就くと、春嶽が国政、茂昭が藩政を主導するようになる。
・1864年7月「長州藩追討」の勅令が下る。総督に前尾張藩主・徳川慶勝、副総督に福井藩主・松平茂昭が任命される。福井藩は本陣馬廻り/先鋒隊/大砲隊の3700人で構成された。10月大坂城で軍議が開かれ、陸路は安芸/石見の2方面、海路は徳山/下関/萩の3方面で、総攻撃の開始は11月18日となった。福井藩は小倉に着陣したが、11月16日広島より総攻撃の延期が伝えられる。
・長州藩では必戦の「正義派」と謝罪を主張する「俗論派」が争っていたが、「俗論派」が政権を掌握し、11月14日3家老の首級を広島に送り、降伏していた。
・「戊辰戦争」では東征軍大総督に有栖川宮、北陸道鎮撫総督に高倉永祐が任命される。1868年1月20日高倉は京都を出発し、2月15日福井城下に入る。高倉は越前の諸藩主に朝廷に服属する請書を提出させた。その後加賀/越中/越後高田/信濃を経て、4月中旬に江戸に着陣する。
・春嶽は東征軍の停止を要求したため、福井藩の立場は不安定になる。5月「奥羽越列藩同盟」が成立し、長岡藩が激しく抵抗する。6月福井藩に出兵の督促があり、1200人が出征する。7月にも800人が出征する。福井藩は長岡藩/村上藩/庄内藩/会津藩との戦いに参戦する。9月中旬、東北での戦いが終結し、帰藩する。
・1869年1月薩長土肥4藩が「版籍奉還」を上表する。4月上表が231藩に及び、6月「版籍奉還」が勅許される。版(土地)/籍(人民)が朝廷に返還され、藩主は知藩事に任命された。知藩事の家禄は藩収入の1/10になり、家臣の給禄もそれに準じ削減された。越前の城郭は解体され、外堀は埋められた。
・1871年7月「廃藩置県」が断行され、福井藩は福井県(直ぐ足羽県に改称)になり、知藩事は免官された。藩校明新館(明道館)のお雇い教師グリフィスは、「日本は封建国家から文明国家に移り変わった」と日記に書いている。
○福井藩人物列伝
※笠原白翁/橘曙覧/鈴木主税/由利公正/橋本左内が詳しく紹介されているが省略。
<エピローグ 現代に生きる福井藩>
・1871年「廃藩置県」により「福井県」(足羽県)が設置される。しかし1873年「足羽県」は「敦賀県」に編入される。さらに1876年越前7郡は石川県に編入される。1881年越前が石川県から分離され現在の「福井県」が設置される。県都は福井になった。※県名と県都が一致して良かった。
・明治維新後、「福井城」は陸軍省の所管になったが、旧主松平家に払い下げられる。松平家当主・康荘は城址に松平試農場/園芸伝習所を設けた。そのため「福井城」は本丸/二の丸/三の丸が良好な状態に保存された。
・1920年松平家は本丸を県庁用地として無償貸与する。これを契機に二の丸/三の丸も逐次開放された。1945年福井市戦災/1948年福井大地震により福井駅周辺の再開発に拍車がかかった。
※「~する」と「~した」が混在しています。ちゃんと国語を勉強すれば良かった。