top learning-学習

『世界の壁』沓石卓太を読書。

本書の主旨は「世界の平和を議論しよう」ですが、その元凶を仏教/哲学とし、それを解くのは欲望としています。
中盤までは著者の考えを述べ、終盤5章はまとめになっています。
概念的/抽象的な題材なので難解です。

私が関心が薄い宗教/哲学を否定しているのは嬉しいが、それ故完全に理解するのは難しい。
ただし主張している事は単純で、その理解は難しくない。

宗教/哲学をある程度理解している人向けでしょうか。

お勧め度:☆(苦手な分野で、少し苦痛)

キーワード:<壁>心理、言語、<国境と法律>戦争、<戦いと秩序>民主主義、議論、<敗戦と選挙>社会党/共産党、<宗教と哲学>権威/権力、神学、<知識と学問>哲学、<哲学の迷路>数字、理、<人間性を育てる哲学>結び付き、<先生>教育、合意、大衆、<公平>マスコミ、<神道と仏教>無限/永遠、<有限と無限>無限大、<論理逆転の現象>理念、理論、観念、<議論の土台>常識、当たり前、<古代の日本>神、<仏教>高邁/深遠、俗、<イデオロギー>空想、<社会と個人>理念、<議論と社会>合意、<合意の必要性>理念による束縛、<自分が世界の中心>社会、約束、常識、<基準、標準><心の疲れる二本立て>ホンネ/タテマエ、<民主主義と議論>明治維新、占領期、<当たり前>欲望、<学問の役割>知識、<論理と理論>無限大、マスコミ、国会、<道理>議論、幻、唯心論/唯物論、主観/客観、哲学/仏教、<欲望>社会/個人、現実

<壁>
・家には壁がある。これは自然の様々な変化から人間を守り、人に優しい居住空間を提供している。
・壁に相当するものは様々ある。「法律」は人の自由を保証するが、それを制限している。

・人工的な壁もあれば、山/川などは自然が作った壁もある。人間は精神的動物なので、「心理」も壁になる。「言葉/言語」も壁を作っている。
・「国境」は地球最大の壁である。「国境のない地球」は理想であるが、その必然性/必要性を理解しなければいけない。
※壁にも色々あるな。それぞれ存在意義がある。

<国境と法律>
・人間は社会があって生きていける。その社会には秩序が必要で、そのためには「制度/法律」が必要になる。その「制度/法律」は「権力」によって維持される。
・人間の行動範囲は広がる一方なので、人同士の利害からの衝突も増える一方である。利害衝突は「話し合い」で解決すののが望ましいが、簡単ではない。特に国家間においては、国民は容易に愛国者になり、妥協しない。そのため国境は簡単になくせない。

・生物には「適者生存」の原則があり、競争は運命的なものである。科学技術の発達で「大量破壊兵器」を生んだが、「戦争は必然のもの」と考えた方が、平和への対策も理解できる。戦争を避ける方法は、国内の課題を民主的に解決できる能力がある事が最低条件だろうか。

<戦いと秩序>
・昔から人々に大きな影響を与えたのは権力をめぐる争いと、その結果がもたらした秩序です。いかなる方法で権力を獲得しても、「人々の支持」を得られるかが権力維持に重要である。
・実際に権力を握るのは一人、あるいは数人です。指導者にも命があり、権力が安定していれば「世襲」も考えられます。しかし権力が安定すると「腐敗」を生みます。
・武力で権力を握った場合、それが周辺の国への脅威になる場合もあります。

・民主主義では、誰にとっても無関係でいられない政治権力を選挙で選びます。科学技術の進歩は目覚ましいものですが、政治の合理性の確立はイマイチです。民主主義の意義は理解できていますが、その運用に苦労しています。
・科学技術の進歩に比べ、政治の円熟化は遅れています。信仰ありきの「宗教」では、民族/地域の違いを乗り越えられません。真理を解明する「哲学」は議論の援けにならないばかりか、妨げになっています。
・政治を議論で動かすようにしならなければいけません。民主主義は正しいと思います。そのためには大衆は賢くなければいけません。

<敗戦と選挙>
・「第二次世界大戦」で日本は敗戦します。戦後の選挙で日本人は社会党/共産党を選びませんでした。その結果を見て米国は日本を信頼し、日本の戦後復興を支援します。
・日本教職員組合には共産主義者が多く、大学などの知識人にも左派を応援する人が多くいました。日本は西洋を崇拝してきましたが、その西洋では社会党ないし共産党が多数党です。しかし日本人が選んだのは社会主義政党ではなく、保守政党でした。
・自由党を率いる吉田茂の魅力もあったでしょうが、大衆は共産党/社会党を信用できなかったのです。大衆は「はっきり分かっている」訳ではなく「何となく分かっている」だけですが、敗戦を幸運にも乗り切りました。しかし「何を分かっていないか」は考える必要があります。

<権威としての宗教と哲学>
・生きるためだけの集団は、単に群れです。人間は社会を形成します。そこには精神的な安定感や充足感が必要です。宗教/哲学はその要求に応えるものです。人類共通の価値があれば、議論は噛み合います。
・人々の行動に干渉できるのが「権力」で、人々の考え方に影響力を持つのが「権威」です。民主主義を成功させるには「権威」の中身が重要です。「権威」と「権力」が一つになると絶大な力になります。
※権力と権威の考え方は大変面白い。

・宗教は昔から「権威」の代表です。宗教を介して同じ価値観を持つと、信頼感/安心感は自ずから生まれます。群れが社会になり、国に成長してきた過程で、宗教が果した役割は重要です。※イスラム教徒の人が「無宗教の人は信頼できない」と言っていた。
・宗教は3大宗教以外にも多くありますが、宗教は結論ありきで、合理性の説明がないので、「宗教の壁」を超える必要があります。

・学問には自然科学/神学/哲学などがありますが、普通学問とは自然科学を指します。神学はそれぞれの宗教に存在し、その宗教の世界観で組み立てられます。※法学/経済学は人文科学かな。
・宗教は社会の核となっています、その存在を軽視する事はできません。

<知識と学問>
・「権力」には合法性、「権威」には合理性が望まれます。「学問」とは知識ですが、知識が有益で共有できる場合に限り「学問」になります。

・図書館に「哲学」の本は沢山あります。しかし「哲学」は人の考え方を輻輳させるばかりです。「哲学」は学問の一つです。「哲学は学問の中の学問」と言う人までいます。しかし役に立っていません。
・「世界の在り方」を宗教/哲学に求めても建設的な答えは得られません。「学問」に壁はなく、議論を支えますが、宗教/哲学はそれを妨げています。
・「学問」には共通の認識がありますが、「哲学」にはそれがありません。「哲学」は難解です。役に立てば良いのですが、役に立っていません。むしろ害になっています。
※哲学を散々酷評。

<哲学の迷路>
・人間の意識は融通性に富んでいます。「数字」は人間の頭の中にあり、人間同士の意思疎通に役立ちます。※確かに数字は客観的で有用だ。
・数には限りがありません。「無限大」「永遠」などの概念が存在します。
・人間は「理」を意味として理解しています。「数字」はそれを助ける道具の一つです。
・「哲学」は「理」と云う道を歩いていますが、いつの間にか浮足立っています。
※この辺り難解。

<人間性を育てる哲学>
・「哲学」は”フィロソフィ”の訳語で、ギリシャ語の「知恵を愛する」に由来します。この「知恵を愛する」により知識は「学問」になりました。これこそ人間性であり、「哲学」の本質です。これにより人間は進歩できたのです。「学問」に「知恵を愛する」と云う方向性を与えてきたのが「哲学」なのです。※これを強く強調している。

・知識がどこまで人を結び付けるか、これが世界平和の鍵です。動物は様々な動機で「結び付き」を持ちますが、それが知識となるのは人間だけです。
・人間にとって思い通りにならないのが人間関係です。これは遠近に関係なく見られます。

・人は習慣/常識によって人間関係を円滑にしています。しかしその中には合理的でないものも存在します。この習慣/常識は、民族性や気候風土の中で、長い年月を経て形成されたものです。
・日本は「教育」で多くの問題を抱えています。これは由々しき問題で、社会に問題がある事を示しています。

<先生は困っている>
・学校は「ミニ社会」です。子供達に基礎的な科目を教えると同時に、大人社会を学ばせる必要があります。しかし教育内容に社会の「合意」がなければ、先生は困惑します。教育の在り方を先生一人に押し付けるのは理不尽です。※教育内容の合意って何だろう。

・教育は「先生の権威」で成り立っていますが、社会はそれに合意しているでしょうか。そもそも先生に限らず、「公共の権威」さえ認めない人がいます。社会の方向性が定まっていない以上、学校の問題も解決しません。

・マスコミの報道は大衆に影響を及ぼします。民主主義は大衆の好む方向に進みます。それには大衆の判断力が重要です。そのため大衆は、より知識を深める必要があります。

<公平>
・政治は誰にも影響を及ぼします。民主主義では国民の権利を等しくするのが原点です。公平であるかどうかの判断には「基準」が必要です。

・民主主義がどんなに上手く行っても、修正が必要になります。そこには相応しい国民が必要です。その自覚を作るのがマスコミです。日本の大学は政治音痴を育て、彼らがマスコミに就職しています。そんな彼らに国民を啓蒙する報道ができるでしょうか。
・日本の民主主義制度は整っています。後は国民の質です。

<神道と仏教>
・日本には「神道」と「仏教」がありますが、両者の価値観は全く異なります。「神道」は日本人が古来から持っていたもので、「仏教」は中国から輸入したものです。祝い事は「神道」、葬式/法事は「仏教」と使い分けてはいます。

・「仏教」により、全ての価値観が失われました。仏教の無限/永遠の立場からは、社会的価値/経済的価値、全て意味を失いました。※これだらけ。
・「仏教」では永遠が強調されるため、それまでの常識は「俗」となり、「当たり前」の事が「当たり前」でなくなりました。そのため朝廷による政治が、武力による政治に変わりました。※武士の台頭は仏教が原因?
・「仏教」は無限の空間/永遠の時間を考慮しているので高邁かもしれません。時間も空間も構成されたものである以上、無限ではないはずです。人間はそれを理解する能力を持っていません。※??

<有限と無限>
・理想の出発点は現実です。そのため現実を正しく認識するのが重要です。それには「数字」が有効です。
・人間は宇宙の果てまで飛んでいけませんが、数字はそれを表す事ができます。そこで空間の「無限大」や、時間の「永遠」をどう考えるかが問題になります。しかし論理には出発点と到達点があって、初めて評価されます。※こんな事、考えた事がない。

・「数」は「無限大」の性質を持ちますが、「無限大」と云う「数」は存在しません。そのため「数」は「数」としての意味を失うのです。※何が言いたいのかサッパリ。「∞」ならあるけど。
・1次元の世界で、線のある地点から反対方向に向った人は出会いません。2次元の世界で、ある地点から四方に向った人は出会いません。空間も構成されたものなので有限です。しかし人間はそれを理解する能力を持っていません。※??

<論理逆転の現象>
・現代社会は科学技術が支えています。しかしそれを動かしているのは民主主義政治です。そこでは大衆の共通認識である論理が最も重要になります。
・私達の世界は「有限」が大前提です。「無限」を考慮すると、今までの論理が崩壊してしまいます。※なぜ無限に拘る?

・人間の意識は現実に対処する形で整備されてきました。観念上の理念を重視すると現実から離れます。
・人間社会は固定されたものではなく、流動的です。したがって「理論」では片付けられません。そこで論理が必要なのです。社会は複雑化しました。そのためにも論理が必要なのです。※論理と理論は別物です。論理は議論されたもので、理論は定理/公理に近いかな。

・哲学では理念が説かれますが、理念に中味を入れると、それが限定されます。そのため哲学では中味を入れる事ができず、絵空事になるのです。一方論理の主役は人なので、個性が異なる人が議論します。

・「無限大」「究極の真理」などは観念の世界での話です。現実を離れ、観念の世界に入ってはいけません。観念の世界に入り、虚実が逆転する事を「論理逆転の現象」と云います。

<議論の土台>
・どんな議論でも前提があります。民主主義の生命線は議論です。社会には「常識」と云う前提が存在します。国には法律/警察がありますが、私達の生活には「習慣/常識」が行動の指針になります。

・「当たり前」と云う言葉をよく使います。「なぜ当たり前か」と聞かれても、説明できない事が多々あります。これは考える価値があります。
・議論において、自分が「当たり前」と思っていても、相手がすんなり納得しない場合もあります。

・人間の「喜怒哀楽」は従来より、それ程変わっていません。そのため映画/演劇/小説は存在価値があるのです。「当たり前を説明しろ」とは、「喜怒哀楽の正当性を説明しろ」と言っているのと同じです。
※この章はある程度納得。

<古代の日本>
・昔の日本人は「喜怒哀楽」を認め合っていました。文献には残っていませんが、日本の朝廷は話し合いで成立した珍しい政権です。朝廷の始まりは連合政府でした。貴族の存在がその証拠です。天皇は連合政府の代表だったのです。中国と違い、和を大事にし、戦いを避けたのです。これが常識だったのです。沢山の地方国家が存在しましたが、共通の感覚を持っていた事により、日本と云う統一国家が生まれたのです。

・縄文時代、各地域に国が生まれていました(※弥生ではなく縄文なんだ)。日本人は戦いを避けるのが如何に有益かを常識として知っていました。この価値観の中心は「神」でした。統一国家が形成される前に、共通の価値観「神を畏れ、神を敬う」を持っていました。この価値観により連合政権となったのです。

・この価値観/常識を半減させたのが、中国から輸入された「仏教」です。「仏教」は日本人の常識を「俗」としました。日本人は「仏教」と云う毒に当たったのです。
※神と仏教か。少し面白そうだ。

<仏教の影響>
・人間は自分達を超える意思(?)に対し憧れ/恐れを抱きます。それが宗教です。

・「仏教」も宗教ですが、哲学を含んでいます。それが日本人を熱狂させました。「仏教」は永遠/永久を価値にしているため、高邁/深遠の印象があります。
・時間でも空間でも「無限」はあり得ませんが、その答えを人間は知る事ができません。※また始まった。答えがある?答えが必要?

・「仏教」の受容を巡って、物部氏と蘇我氏が争いました。蘇我氏が勝ちましたが、「仏教」の受容を止める事はできなかったでしょう。
・経典の内容は難解で、最初は文字習得のための教科書でした。その後経典の内容について議論されるようになりました。これによって、今まで「当たり前」だったものが、「当たり前」でなくなりました。朝廷は奈良に東大寺を作り、各地に国分寺を作り、「仏教」は社会に溶け込みました。

・「仏教」から見れば、世間は「俗」になります。「仏教」には「理」があり、世間のあらゆる常識を否定します。日本人は異なる二つの価値観/常識を使い分けるようになったのです。
・この常識に反する価値観は「仏教」だけでなく、共産主義や哲学でも見られます。常識に反する価値観を高級に感じる現象は、これらにも見られます。

・辞書で「理念」は、「経験を超越して、理性から得られた概念」となっています。これは「経験を超越して」ではなく、「経験を無視して」です。
・哲学を根本から見直す事ができれば、論理に新しい展開が生まれます。※哲学はそんなに論理を邪魔している?

<イデオロギーとは>
・イデオロギーは哲学の観念が発展したものです。しかし哲学から生まれた観念/イデオロギーは社会の役に立っているどころか、害になっています。哲学は論理の純粋培養で、非現実的なものになっています。社会に必要なのは、哲学の束縛から逃れる事です。

・人間は現実を抽象化/一般化して、言葉/観念にできます。さらに人間は観念から、新しい観念を生む事ができます。これは人間の優れた点ですが、悩ましい点でもあります。
・「試行錯誤」と云う言葉があります。過ちを繰り返しながら、正解に近付く行動です。しかし観念/イデオロギーにより現実が間違いとされ、現実が修正されてしまうのです。

・本/絵画/彫刻/音楽などの芸術は、人の感情に変化を与えます。人間の特徴は「考える」だけでなく、「感じる」も特徴です。
・言葉には、基になったイメージがあります。言葉を共用していても、その基になったイメージが正確に伝わっているとは限りません。
・観念から新たに生み出された観念が、現実離れする事は多々あります。その観念を妄信し、突き進むと、とんでもない状態に陥ります。

<社会と個人>
・個人の感覚は千差万別で、同じ経験をしても、その受け取り方は異なります。自分の感覚だけでは頼りないので、人は専門家や各種データを参考に、対応を図っています。
・人間は言語/文字により知識を蓄積してきました(※先人の知恵を残せるのは人間の素晴らしい点)。人間は「理」を理解する能力を持ち、この能力により言葉を共用したり、複雑なシステム/制度を享受できるのです。しかしこれを妨げているのが、哲学が生み出した「理念」です。※本書では様々な対比がなされるが、ここでは理と理念。

・完全/無限/永久などの言葉が存在します。ものには限りがあり、これらの言葉は非現実的な言葉です。しかし人間はこれらの言葉を使えてしまうのです。
・平等/自由は頻繁に使われる言葉です。しかしこの言葉は現実的な言葉ではなく、架空の言葉です。架空の羽では空を飛べません。哲学の「理念」は現実を歪ませています。※確かに抽象的な言葉は意味が曖昧で高邁なので、危険性を持つ。

<議論と社会>
・議論とは社会/組織において、そこにある「常識」を前提とし、複数の人が自論を述べ、新たな合意を形成する行動です。
・議論は普通、「常識」を整理する事から始まります。しかし「常識」には普通の考え方と、それを否定する考え方があります。この相反する二つの「常識」で議論するしかないのです。※何で両方共、常識なの?

・日本では喧嘩を嫌い、議論を避ける傾向にあります。※日本人は自己主張が弱い。
・議論には「常識」が必要ですが、「常識」が合意されておらず、社会全体がストレスを受けています(※これは日本だけかな?)。合意は全員一致でなくても問題はありません。考え方を整理するのだけで十分です。

・自己を否定する精神があると議論を始める事ができません。自分の意見を確立させてこそ、他人の意見に耳を傾ける事ができます。自分を否定する事は、全ての否定になります。

<合意の必要性>
・民主主義は合理的です。選挙で選ばれた代議士によって政治が行われ、代議士は任期も定まっています。しかし日本では政治家は何を言っても批判されます。これは基本的な事柄で同意が成立していないからです。こんな状況では次の議論に進めません。
・しかし基本的な事柄で同意するのは難しいのです。例えば社会正義に反対する人はいませんが、社会正義が何かは合意されていません。

・実際の道だと、いずれ間違いに気付きますが、幻想の道だと、いつまでも気付きません。「役立つものに価値がある」、これは米国のプラグマティズムです。「鼠を捕る猫が良い猫だ」、これは鄧小平の言葉です。これらは何れも「理念」による束縛からの解放を云っています。
・「理念」は余りにも常識に反しているため、その超越性から感心されるのです。哲学が作った壁により、世界はもがいています。

<自分が世界の中心>
・誰にとっても世界の中心は自分です。これは全ての動物に共通です。むしろ自分が中心でない地図を見て暮らしているのが、人間かもしれません。
・人間は社会的動物です。「なぜ人を殺してはいけないのか」、これは「約束」です。社会は「約束」を守るのが前提です。

・人間にとって社会は水や空気と一緒です。社会の背景は「常識」で、「常識」が変わる時は、社会が変わる時です。
・人間は社会で補え合って生きています。義務教育があるのは、社会を充実させるためです。
※この章は割りとすんなり読めた。

<基準、標準>
・他人と意思疎通するためには、自分自身を知る必要があります。
・平均体重/平均身長など、基準があれば比べるのは簡単です。自身の考えを素直に表現できる環境があれば、他人の気持ちも理解できるし、自分の考えも整理できます。生き方/考え方/性格などの標準が分かれば、自分の特徴を判断できます。

<心の疲れる二本立て>
・日本人は「ホンネ」と「タテマエ」の二本立てになっています。「ホンネ」と「タテマエ」は状況によって使い分ける必要があります。「ホンネ」が通る場で「タテマエ」を主張すると「嘘つき」になり、「タテマエ」でいかなければならない場で「ホンネ」を出すと「自分勝手な奴」と非難されます。
・日本では「ホンネ」は自分の価値観、「タテマエ」は仏教的価値観になります。※必ずしもタテマエ=仏教とは思えないが。

・日本では「ホンネの場」と「タテマエの場」があるため、議論は起きない事になっています。仏教が普及するに従い、「ホンネの場」が減少したのです。しかし「ホンネ」なしの議論では、約束しても責任が持てません。「ホンネ」なしの議論は、議論と云えません。

<民主主義と議論>
・議論をする上で、社会正義は欠かせません。日本では仏教の「理」も見逃せません。何が正しいかは、「理」が決めています。

・個人の感情/意見でも、社会正義に叶ったものであれば、それを主張して問題ないのですが、後ろめたさから主張を遠慮します。「ホンネ」を主張できないのは議論ではありません。
・日本は議論できない国なのです。言い換えれば民主主義の基本的要件を満たしていない国です。価値観が相反する神社/お寺が共存しているように、日本は議論を棚上げした国なのです。※そうかもね。

・日本が明治維新で西洋の合理主義を受け容れられたのは、縄文時代の「当たり前」の価値観が残っていたからです。敗戦により米国の現実主義「プラグマティズム」の影響で、明るい時代になりました。しかし独立すると議論ができない体質に戻ってしまいました。この状況は危機的と云えます。※占領期は議論ができた?

<当たり前とは>
・「坊主めくり」で坊主を引くとずっこけます。「お釈迦になる」とは使い物にならなくなる事を云います。仏教に関する言葉には否定的な言葉が多い。これは日本人が、仏教は「理屈」は達者だが、役に立たないのを判っているからです。しかし日本人は「理屈」は「理屈」で受け容れています。
・「理屈」には「理」の意味と「理」を曲げるの相反する二つの意味があります。

・人は誰も基本的な価値観を持っています。しかしそれに「無限」「永遠」が絡んでくると、それが怪しくなってきます。
・日本は自然に恵まれ、温かい感情を共通の価値観としてきました。それに影響を与えたのが、仏教の「理屈」です。
・「当たり前」と思っていた事が「当たり前」でなくなると、議論の土台を失います。「当たり前」の根拠は感覚/欲望ですが、それを言葉で表現する必要が生じました。自分の感覚/欲望を主張できないのは、議論ではありません。

・近代化が遅れていた日本は、西洋と同様の法律/仕組みを自分達で積み上げたのではなく、そのまま輸入しました。西洋に追い付き手本を失った日本は、これを自分達で再考する必要があります。
・縄文時代に育まれた価値観は強固なものでしたが、仏教の「理屈」にすっかり熱中しまいました。仏教伝来から1500年経ち、「理屈」を「理屈」として受け容れています。
・西洋には欲望を否定する考え方はありません。本来日本もそうでした。欲望の否定は、生きる事の否定です。ここにも「論理逆転の現象」が起きているのです。

<学問の役割>
・「当たり前」を否定しているのは仏教だけでなく、哲学もそうです。
・現代文明は、必要とされる知識を積み重ねた「学問」のお蔭です。ところが哲学はそれに寄与していません。哲学は「学問」の方向性を示す役割があるのに、役割を果たしていません。

・人間の目的は「愛と知性」の獲得です。そのためには知識が必要です。知識に権威を与えるのが「学問」の役割です。正しい知識がベースとなって議論がなされれば、社会の有機性は高まります。

・哲学の目的は「理念の探求」ではありません。理念で組み立てられた世界は完全な世界ですが、それは現実を否定しています。

<論理と理論>
・論理と「理論」は異なります。「理論」は観念の中の「理」で、論理は現実の中の「理」です。
・議論は政治の有力な手段で、議論には論理が欠かせません。一方科学技術の発達は「理論」によるものです。
・今は英雄が歴史を動かす時代ではなく、大衆が歴史を動かす時代です。知識は大衆の下にあります。時間を掛け知識が積み上げられた「学問」があり、その「学問」の合理性を誰もが認めています。

-無限大
・無限大は普段の生活には無関係です。数は有限の空間を表現できます。しかし零と無限大は、それらとは意味が異なります。※??
・科学の発達で人間は何でも理解できると思っているかもしれませんが、一つ一つ扉を開けていくべきです。

-最大と最小の単位
・人間にとって社会は第二の自然です。世界の国が民主主義となり安定すれば、世界は一つの社会になれます。
・社会には様々な種類の組織がありますが、最小の単位は個人です。
・世界が一つの社会になるのが望まれます。民族/地理/歴史を超えて常識も一つになるのが望まれます。

-論理のハイウェイ
・世界から戦争がなくならない限り、個人の安全は保障されません。このピンチを乗り切るためには政治的/論理的に一本のハイウェイを作るしかありません。※よく分からない。

-政治の責任
・各国は内政で格差/教育などの問題を抱えています。民主主義は合理的ですが、うまく行っていないのです。各人が政治の指導者を選ぶ権利がある以上、それに相応しい自覚が必要です。
・リーダーは多くの票を得る事で自覚を持ちます。有権者の方も選ぶ努力をしてこそ、選んだ自覚が生じます。※投票に重みを感じないな。

・選挙はマスコミの影響を強く受けます。力で奪い取った権力と違い、民主主義で選ばれた権力は、弱い政治になります。そのためマスコミは政治を盛り上げるべきです。
・政府の責任は重大ですが、国会の責任も重大です。国会における議論は、議論の見本になるべきです。人は重要な事項の判断に、社会の常識を参考にします。ましてや国会の採決では当然です。
※この辺り簡潔過ぎて解説不足。

<道理の通る道>
・「無限大」を考えると、動いてはならぬ道理が忽然と揺らいでしまう。
※また始まった。著者は「無限大」「永遠」を熟考したが、回答を得られなかったのか。時も数も無限プラス/無限マイナスがあって、今はその一点に過ぎない。当然、永遠・不変の道理や死後の世界などはない。

・社会は道理で動いています。「議論」は道理を前提としています。「議論」は勝った負けたではなく、どちらが道理にかなっているかです。道理は人間的かつ合理的なものです。
・「議論」は公の場だけでなく、二人でも行われます。一人でも頭の中で議論できます。
・「議論」は二段階で行われます。最初は前提を確かめる段階で、次は新たな合意を討論する段階です。最初の段階で合意できない場合は、次に進めません。哲学/仏教は「当たり前」を否定しているので議論になりません。
・時代は動いています。その原動力は欲望です。欲望を否定する考え方は「議論」の土台を揺るがします。

・民主主義の政策決定過程は明確で、政党に属する議員によって「議論」されます。国民は選挙の大切さを理解してきましたが、「議論」の信頼性が確立しないと、民主主義は形だけになります。
・どの国も教育に力を入れています。それは知識の普遍化が民主主義の前提だからです。ところが国会での「議論」は噛み合っていません。この「国会の現実」は、「議論」の土台が定まっていない「社会の現実」を表しています。この現象は日本に限りません。世界で「論理逆転の現象」が起きています。この「議論」の妨害要因を認識する必要があります。※哲学/仏教と言っていたが。

・人は生き物ですが、国も生き物です。国にとって不健康な事は止めなければいけません。また「議論」するための共通の価値観を確立しなければいけません。まずは「当たり前」を踏み固める必要があります。

-究極
・哲学では「人生の価値」を見付ける事ができません。幻を追っているので、いつまでも追い付けないのです。頭の中では現実でも空想でも、何でも考える事ができます。しかし議論の前提に間違った事を含めてはいけません。
・理念を言葉にする事で、それを共有できます。ただし意味が幅広く曖昧な理念(例えば自由)を、議論の目的にはできません。哲学が探求している真理には幻が多いように思います。

-唯心論と唯物論
・これは古くからある論争です。しかしこれは「分けられないものを分けようとしている」と思われます。※唯心論ってなんだ?精神至上主義みたいなものかな。
・「物」の価値は自分との関係で生じます。社会的に価値がある「物」は、個人にも価値があります。

-主観と客観
・客観は個人の主観の集大成です。人を多くしたり道具を使って得た客観は、主観より確からしさは増しますが、その実体はありません。
・感覚は数字で表せないため、正確に伝える事ができません。それを伝えるようにするのが論理/常識です。
・社会では様々な問題が生じます。その問題を解決するために制度/習慣があるのです。

-哲学的疑問
・哲学は人間の考え方の基本を研究する学問です。ところが、この出発点からして答えの出ない問題に取り組んでいます。人間の存在意味や宇宙の全体像を理解するのは不可能です。時間も空間も構成されたものなので、限りや大きさがあるのは間違いないのですが、人間にそれを理解する能力はありません。※またここに至ったか。
・想像するのは自由ですが、その想像した前提で物事を判断するのは間違いです。

・社会は第二の自然です。その社会での普遍的価値の方向性を示すのが哲学です。哲学が完全/究極の方向を示すようでは、それは空想の世界です。それを避けるために議論が必要です。
・「完全な自由」「完全な平等」など、行き過ぎは社会に偏向をもたらします。やはり議論が必要です。

・仏教は、知識/技術などあらゆる面で日本を上回っていた中国から入ってきました。仏教の教えが幾ら目茶苦茶であっても、日本はそれに対抗する理屈を持っていなかったのです。仏教の「永遠」と云う言葉に、理屈で負けたのです。これにより元々あった常識を強く主張できなくなったのです。※そりゃ文字もない国が理屈など持てるはずはない。

<欲望こそ原点>
・常識は言葉にし難いが、議論には言葉が必要です。仏教は言葉で構成されています。その仏教が日本に居座った事で、「ホンネ」で議論できなくなりました。公の場では仏教的価値観の「タテマエ」で議論しなければなりません。
・日本では「根回し」が必要です。「根回し」は非公開で、正式な議論ではありません。やはり公開の場での議論が機能しなければいけません。

-タテマエとホンネ
・「ホンネの場」で「タテマエ」を出すと、「格好をつけている」と笑われ、「タテマエの場」で「ホンネ」を出すと、「自分勝手な奴」と非難されます。日本では「ホンネの場」と「タテマエの場」で主張を変える必要があります。
・仏教は欲望を完全に否定するため、議論で欲望を表て出せないのです。日本で議論が発達しなかったのは、そのためです。※これは納得する。

-公と私
・日本は各地域で神を祀る習慣が定着していました。その集大成が大和朝廷でした。そんな習慣があったにも拘らず、朝廷は先進国中国から仏教を受け容れました。これにより朝廷は政治力を失い、暴力が幅を利かせ、地方は自立するようになりました。

・いかなる組織も「規範」があり、それを有効にするためには議論が必要です。議論せずに「規範」を機能させるには、独裁者が必要です。本来「権力」は公が持つべきですが、この場合は独裁者が持つ事になります。明治以前は独裁者の時代で、明治以降は議論の時代と云えます。

・「当たり前」の事が「当たり前」でなくなる現象はイデオロギーが起こします。この現象が1500年前の仏教伝来で起きました。

-無欲は美徳か
・「おのれを無にする」のは美徳とされますが、正しい事ではありません。欲望はあって当然で、それを調整するのが議論です。過度の欲望は、争いのタネ/犯罪の原因になりますが、欲望はあらゆる行動のエネルギーです。

・「どこまで自分勝手が許されるか」ですが、「できるだけ抑える」「少し位は許される」などありますが、その程度は明確ではありません。※それを制限するのが法律かな。
・議論には「よそ行きの言葉」が必要です。また議論の土台は、個人の立場です。

-基本的権利
・社会は人の「基本的権利」を守っています。しかし社会がその機能を十分果たしていると云えません。人々がその機能を熟知し、その責任を果たすために教育が必要なのです。

・個人と社会は相互に守り合う関係です。また社会には常識が必要で、日本には優れた常識があります。
・社会には協力関係が存在します。一方でそれを邪魔する人がいます。その予防線を張るため、日本人は「よろしくお願いします」とペコペコ謝るのです。
・自分の欲望を認めない社会は、他人の欲望も認めません。このような社会では、人の邪魔をする人に寛大になってしまいます。
※この辺り簡潔なまとめなので、説明不足。

・人間は「他人の不幸を喜ぶ生き物」でもあります。人間も基本的には競争関係で、そのような感情を持っています。自分の欲望が認められないと、意地悪になります。

・社会生活では、人と人が緊密に暮らしています。その潤滑油になるのが常識です。この常識は長い時間を掛けて積み上がったものです。しかしこの常識もイデオロギーと云う病気にかかる事があります。
・自由/平等/愛などの言葉がありますが、これに完全/絶対などが冠されると「空想の世界」になります。この「空想の世界」に陥らせるのがイデオロギーです。

-平等
・平等/公平と云う言葉があります。平等は嫌いな言葉ですが、公平は好きな言葉です。※理由はよく理解できない。

・どこの国も教育に力を入れています。それは人間が社会との関係を自覚し、精神的に自立する事が社会のためになるからです。民主主義は議論で動く仕組みなので、価値観の普及が前提です。そこで学問の合理性が期待されているのです。※簡潔過ぎて理解できない。

・哲学の挫折は人間の挫折です。哲学がおかしくなれば、学問は行く方向を見失ってしまいます。
・学問で全てを理解するのは不可能です。未知の分野があるのは悪い事ではありません。民主主義は常識を固める議論から始め、その基本が固まれば建設的な議論も可能です。
・これから先、どんなに社会や科学が進歩しても神秘はなくなりません。全世界を知り尽くそうとするのは荒唐無稽です。今後は政治の力で科学を制御する方法を学ばなければいけません。

・理想は必要ですが、それが現実からかけ離れると夢想/空想になります。「理論」に偏り過ぎると、そこに陥ってしまいます。

<あとがき>
・「当たり前」は分かり切った事ですが、内容を掴んでいる事が大切です。道理は人間主義と合理主義の両方を満足させる考え方だと思います。この人間主義は自分を犠牲にする方向ではなく、自分を大切にする方向です。
・哲学は全ての学問の姿勢/方向に影響を与えます(※そんなに哲学に影響されているかな?)。哲学のどこに問題があるのか、なぜ間違ってしまったのかを検証し、解決する必要があります。

top learning-学習