『イスラムと近代化』新井政美を読書。
イスラム国家の一つであるトルコの「世俗化」を解説しています。
一般的な「世俗化」の概念はキリスト教世界のもので、イスラム教世界では宗教の影響度が高いので、それは容易でない。
イスラムを全面否定したアタチュルクを特異に感じる。その後徐々にイスラムが復活しているように思える。
トルコは注目される国なので、詳しく知れて良かった。
本書は『トルコ現代史-宗教・政治編』みたいな本です。ただし相当詳しいので一般的ではない。
お勧め度:☆☆(個人的には☆☆☆)
キーワード:<東洋VS西洋>東西の架け橋/ボスポラス海峡/虚構、オルハン・パムク/遠近法/自我、世俗化、ニャーズィ・ペルケス/ライシテ(政教分離)/セキュラリズム(世俗主義)、エリック・ツルヒャー、シャリーア(イスラム法)/ウラマー(イスラム知識人)/政教一致、トルコ共和国/ケマル(アタテュルク)/カリフ制廃止、イスラム派/世俗派、<オスマン帝国における改革>イェニチェリ、マフムート2世、レシト・パシャ/タンズィマート改革/刑法・商法・民法、新オスマン人、青年トルコ人/統一と進歩、ギョカルプ、ジェヴデト、<トルコ共和国における世俗化改革>第一次世界大戦、スルタン制/カリフ制/ライクリッキ、トルコ・ナショナリズム、<イノニュ時代>イノニュ、第二次世界大戦、汎トルコ主義/アナトリア主義、<複数政党制への移行>宗教教育、道徳、<民主党政権の誕生から60年クーデタ>イスラムの復活、バヤル/メンデレス、ヌルスィー/反革命/『火山』『光の書』/ヌルジュ、<第二共和制から80年クーデタ>公正党/デミレル、エルバカン/国民秩序党/国民救済党、左派/右派、トルコ-イスラム総合論、<80年クーデタ後>オザル/母国党、神秘主義教団ナクシュバンディー、<ギュレン運動>ギュレン/教育活動/アバント会議、<イスラム政党と軍部>繁栄党、2月28日キャンペーン、<イスラム政党とギュレン運動>エルドアン/ギュル/公正発展党、後見体制、クルド問題、エルゲネコン、<再び東洋VS西洋>マケドニア独立、ヨーロッパの病人、東方
<オルハン・パムクと東洋VS西洋>
○東西の架け橋
・トルコは「東西の架け橋」と云われるが、本当にそうだろうか。イスタンブルの東にボスポラス海峡があり、世界を地理的に東西に分けている。トルコは紀元前1世紀にローマ(西洋)の支配下になる。そのためこれは西洋史で学ぶ。しかし11世紀になるとトルコはイスラム化し、東洋史で学ぶようになる。
○東洋VS西洋の虚構
・東洋の遊牧民が欧州に侵入し、劫掠を繰り返した歴史がある。欧州人はこれを恐怖として織り込んだ。
・紀元前5世紀「ペルシャ戦争」があった。しかしペルシャ軍にはギリシャ人傭兵がいた。またギリシャとペルシャは交易が盛んであった。ギリシャにとってペルシャは先進文明を持つ隣国に過ぎなかった。
・1071年「マラーズギルドの戦い」でビザンツ(東ローマ帝国)はセルジュク朝と戦う。これはアナトリアがイスラム化する契機になる。戦後多くのイスラム教徒(ギリシャ人、アルメニア人)がセルジュク朝に仕えた。スルタンにはギリシャ人の血が混じり、ビザンツ皇帝の親類にはセルジュク王家と婚姻し、イスラム教に改宗する者もいた。
・この状況は、東地中海では普通の事であった。しかし西欧はこれを「異教徒と馴れ合うビザンツ」「戦いを避けるギリシャ人」「ビザンツは東方的専制国家」などと非難した。よって「二つの世界」「東洋VS西洋」「東西の架け橋」などはカトリックのメンタリティである。
・「東洋VS西洋」の命題は、宗教革命/産業革命などを経て主権国家を発展させ、世界を支配した西欧の世界観から生まれたものです。
・ギリシャ文明(アリストテレスなど)はペルシャでアラビア語に翻訳され発展し、その後ラテン語に翻訳された(※知らなかった)。世界を支配した西欧は、「文明の西洋、野蛮な東洋」とし、ボスポラス海峡を「東西の境界」と決めた。
・アナトリアは古くから「小アジア」と呼ばれたが、これは地理的所以です。古代ギリシャ人は、肌が黒い事に差別意識は持っていなかったし、アジア/アフリカに高度な文明が存在するのを知っていた。
・ヨーロッパの由来である「エウロペ姫」はフェニキア(レバノン)の王女です。それが西欧を指す言葉になり、今は欧州全体を指す言葉になっています。
・このように「東洋VS西洋」は文明論から生まれた虚構なのです。
○オルハン・パムクと東洋VS西洋
・ノーベル文学賞を受賞したオルハン・パムクは、この「東洋VS西洋」をモチーフに多くの作品を書いています。『わたしの名は紅』では「イスラム教は女性と絵画に害を与えた」と書いている。当書はイスタンブルで細密画を命じられた監督者が、西洋の陰影法/遠近法を利用しようとするが、抵抗される物語である。
・次は『白い城』であるが、オスマン人天文学者が自身のイタリア人奴隷の知識に魅了され、自我を発見する物語である。
・この両作品は「東洋を蒙昧なもの、西洋を啓蒙されたもの」として表現している。そのため両作品が欧米で読まれているのであろう。
○遠近法は近代西洋の発明か
・結論から言うと、遠近法は近代西洋の発明ではありません。遠近法は古代ギリシャ/中国/オスマン、全ての地域で見られます。ただしオスマン画壇がルネサンス遠近法を受容しなかったのは事実です。
・遠近法に関係する科学はユークリッド(幾何学)/イブン・アル・ハイサム(光学)などによって研究されていた。要するに「知っていたが、採らなかった」のである。
・イスラムと西洋を比較するなら、ルネサンス以前のキリスト教の時代と比較しないと不公正である。ルネサンス以前は「神の目」で見られていた。消失点を生み出したのは、人間中心を復権させたルネサンスである。
○自我の発見は
・『白い城』では、オスマン人天文学者の質問にイタリア人奴隷が答える形式になっている。要するに「自我の発見」と云うより「先進と後進」が枠組みになっている。
・この両作品はオスマン/スルタンを圧制/停滞の「東洋的専制の象徴」として書いている。しかし「東洋的専制」での整備された官僚組織/中央集権的な統治機構は、西洋を遥かに凌ぐ繁栄をもたらした。※歴史は勝者が書く。
・この両作品は史伝ではなく小説なので、とやかく言えない。ただ遠近法/自我などの技術/思惟は、中世はカトリック的世界であった西洋が、近代になって生んだものである。
○世俗化もまた
・カトリック的世界から世俗化/ライシテ(政教分離)/セキュラリズム(世俗主義)などの概念が生まれた。一般的にこれらの概念には①宗教と国家(政治、経済、文化)の分離、②宗教の私事化と信仰の保障、③宗教が社会生活に及ぼす影響の低下の3要素である。①②がライシテ、③が世俗主義とも云える。
・西洋における世俗化は、国によって重点の置かれ方が異なった。イスラム教国での世俗化に関しても、この3要素で分析されてきたが、それには疑問を感じる。これが本書の出発点である。※中々面白そう。
○ベルケスの努力
・ニャーズィ・ペルケス(1908~88年)はオスマン末期にキプロスに生まれた。彼はイスタンブル大学文学部哲学科を卒業し、シカゴ大学に留学し、1939年帰国する。第二次世界大戦後の「左翼排斥運動」で祖国を追われ、モントリオールの大学で教鞭を取る。定年後英国で執筆活動に入る。
・1964年彼は『トルコにおける世俗主義の発展』を著している。ここでライシテ(政教分離)とセキュラリズム(世俗主義)の違いを述べている。またキリスト教は当初は聖と俗が分かれていたが、教会が国家に容喙するようになった。よって政教分離はキリスト教に固有の概念で、イスラム教に当てはめるのは不適切とした。一方宗教によって「変化」を受け容れられなくなった伝統的社会に「変化」をもたらすのが世俗主義で、これはオスマンにも見られたとした。
・その後当書をトルコ語で出版するが、書名を『トルコにおける近代化』とした。すなわち世俗化=世俗主義=近代化と考えていた事になる。そこに「祖国は宗教に捉われない進んだ国家」であるのを欧米人に示そうとした意図が伺われる。
○ツルヒャーのまとめ
・オランダ人のオスマン研究学者エリック・ツルヒャー(1953年~)は、第一次世界大戦後のアナトリアでの抵抗運動が「青年トルコ人」に依拠していたとする論文で注目された。1993年彼の刊行した『トルコ近代史』は世界の学生の教科書になっている。
・彼は19世紀の「オスマン改革」で、近代的な学校で教育された官僚がエリートになったと述べている。しかし近代的な学校や西洋的な裁判所に「ウラマー」(イスラム知識人)が雇用され、イスラム教は「オスマン改革」に反対しなかった。
・また彼は「青年トルコ人」は政教分離を主張していたと述べているが、これも間違いで、この主張はベルケスから後退している。
※19世紀のオスマン改革/青年トルコ人改革、これらの知識が不足している。まあこれからか。
・キリスト教世界とイスラム教世界での政教分離は異なる。キリスト教世界では宗教と信徒の間に「教会」が存在したが、国王/知識人が「教会」の様々な干渉を排除し、主権国家/啓蒙思想を確立したのがキリスト教世界での政教分離である。
・一方イスラム教世界での政教分離は、「宗教的動機で政策を決めさせない」(?)である。「青年トルコ人」の政教分離の主張もこの意味であり、イスラム知識人も改革の一端を担えたのである。逆に近代的学校で教育を受けた世俗的人物が改革に反対している。
※読み進めると、青年トルコ人の改革は「イスラムを利用した改革」かな。
○教会の有無
・ユダヤ教/キリスト教/イスラム教は兄弟である。モーセ/イエス/ムハンマドは、何れも神の教えを人間に伝える預言者である。キリスト教では教会が信徒と神を媒介していたが、誕生当初から権威を持ったイスラム教では信徒一人ひとりが神と繋がっていた。※日本の宗教にも神社/寺院があり、これもイスラム教を理解できない要因かな。
・そのためオスマンでは統治に必要な法は「勅令」(行政規則)として出され、それが「シャリーア」(イスラム法)に合致しているかは特に問われなかった。例えばイスラム法で利子は禁止されていたが、政府は不当に高い利子を取り締まるだけであった。
・信徒の行動がイスラム法に合法かを判断するのが「ウラマー」(イスラム知識人)の任務であった。そのためイスラム知識人を聖職者と呼ぶのは間違いである。
・ベルケスも述べたように、イスラムでは聖と俗の区別がなく、「政教一致」なのである。敢えて言うなら、統治者は行政、イスラム知識人は司法/教育を担っていたと云える。
・西洋の「政治」は、個人の利益を教会の束縛から守るのが目的だが、イスラムの「政治」は、正しい道に導くのが目的であろ。
・イスラム知識人は一元的に組織化される事はなく、信徒と神の関係は、あくまでも個々に任せられた。イスラムでは「公会議」が開かれる事もなく、「異端」と烙印を押す機関もなかった。
※この辺り分かり易い。
・ベルケスはオスマンで起こった「変化」をセキュラリズム(世俗主義)と呼んだが、これは適切ではない。※ここまででは「変化」の内容が分からない。
○世俗化の出現
・オスマンの滅亡に伴って成立したのが「トルコ共和国」(以下共和国)で、これを指導したのがムスタファ・ケマル(アタテュルク)であった。彼は青年将校時代にドイツの唯物論の影響を受けていた。彼はイスラムを後進性の象徴とし、世俗化/西洋化を推進した。
・彼はトルコ語の表記をアラビア文字からローマ字に変え、イスラム暦を西暦に変え、キリスト教の安息日を休日にし、民法をスイス/刑法をイタリアから採用した。
・この世俗化は「ライクリッキ」と呼ばれたが、これは「世俗化の3要素」の③世俗主義と②の「宗教の私事化」と云える。②の「信仰の保障」は実践されなかった。
・①政教分離に関しては、1924年彼はカリフ制を廃止し、宗教を管理する「宗務局」を設置している。これは改革に対する宗教からの反動を恐れたためと思われる。
・オスマン時代、統治者とイスラム知識人は同じ地平に立ちながら、独立していた。そのため正確には「政教一致」ではあるが、「政教分離」していたと云える。しかしこの「宗務局」の設置により「政教一致」がなされたと云える。
※共和国での世俗化/近代化は政教一致なんだ。しかし政教一致と云うより、宗教統制かな。政教一致/政教分離ではなく、もっと適切な言葉を使えば良いのに。
○本書の目的
・共和国が「世俗化」を標榜した事により、「世俗化」がイスラム世界全体に重くのしかかった。イスラム思想家ムハンマド・アブドゥ(1849~1905年)は「世界の変化をイスラム的にどう捉えるか」を考えるだけで良かった。だがカリフ制が廃止された翌年、イスラム思想家アリー・アブドッ・ラーズィク(1886~1966年)は『イスラムと統治の原理』を書き、イスラム教の政治的役割を否定し、イスラム教を精神的宗教とした。
・1千年に亘ってイスラムを主導し、カリフを戴いていたオスマンの後継国(共和国)がイスラムを後進的とし、近代化と「世俗化」は同義とした事にイスラム世界全体が衝撃を受けた。カリフ制の廃止は「基軸の消滅」を意味した。※天皇制廃止みたいだな。
・トルコのイスラム教徒は「イスラム派」「世俗派」に分かれたが、「イスラム派」でさえ近代科学技術を重視した。
・トルコは1千年に亘りイスラムを主導し(セルジュク朝、オスマン朝)、トルコ人はイスラムとしての自負を持っていた。
・本書はオスマン末期の改革/共和国の経緯を「イスラム派」「世俗派」の観点で解説する。イスラムにおける「世俗化」はキリスト教世界が考える「世俗化」と異なる事を理解して頂きたい。
※土台(宗教)が異なれば、当然その改築方法も異なる。ここまでが序章とは、大変な本だ。先が思いやられる。
<オスマン帝国における改革>
○抵抗勢力-イェニチェリ
・オスマン改革は軍事部門から始まった。17世紀末、オスマンはキリスト教諸国に領土を割譲する事態になる。そのため18世紀前半から軍事に関わる幾何学校が作られたり、砲兵隊の改革などが行われた。これらの改革に反対したのが「イェニチェリ」であった。
・「イェニチェリ」はスルタン直属の精鋭部隊であったが、17世紀以降、性格を大きく変える。元はキリスト教徒の子弟を近衛兵として徴発し、兵舎で集団生活していた。17世紀に入ると、イスラム教徒から補充され、妻帯して町に住むようになった。さらに世襲になり副業をするようになった。
・16世紀末、彼らにより天文台が破壊される事件が起きている。この時「ウラマー」(イスラム知識人)はこれを支持している。科学や合理的思考を受け容れてきたオスマンが、宗教的熱狂と共に天文台を破壊したのである。スレイマン1世(位1520~66年)後、オスマンは多大な軍事費から深刻な財政危機でインフレでもあった。
○抵抗勢力-イスラム知識人
・16世紀末もう一つの事件が起こる。ビルゲヴィー・メフメットと云うイスラム知識人が「権威のあるイスラム知識人がイスラム法に反する行為を容認している」と批判した(主に利子の容認)。さらに彼の弟子カドゥザーデが「メヴレヴィー教団」の旋舞儀礼/伴奏音楽などを批判する。イスラムでは音楽は批判されたり/されなかったりを繰り返してきたが、これはイスラム教の「ゆるさ」の所以である。
・この批判はムラト4世(位1623~40年)時代でも支持された。しかし1661年カドゥザーデは首都から追放され、この運動も終息する。
○イェニチェリの撃滅と改革
・セリム3世(位1789~1807年)は西洋式歩兵軍団を創設し、伝統を破って西洋諸国に大使館を置いた。しかしイェニチェリの反乱で退位させられる。その後を継いだのがマフムート2世(位1808~39年)であった。
・彼は敬虔なスルタンである事を強調する一方で中央集権化を進めた。彼は改革派を官僚の要職に就け、また地方有力者の力を削いだ。1826年イェニチェリに反乱を起こさせ、これを撃滅した。
・彼はイスラム知識人対策も行う。改革派のイスラム知識人をイスラム法解釈の最高権威の職に就け、「長老府」の役所も与えた。これは世俗化/近代化のための「政教一致」である。
・彼は大使館を再開し、人材育成のため「翻訳局」を設立した。この大使館と「翻訳局」は新たなエリートの供給源になった。彼はイェニチェリと関係の深かった神秘主義教団ベクターシーを禁圧し、軍の西洋化も進めた。※明治維新との類似性も高そう。
○それは西洋化か
・マフムート2世はフランス革命を見て、その根本に無神論/唯物論などの危険な思想があるのを知っていた。また彼はキリスト教/ユダヤ教は低次の宗教であり、オスマンは「イスラムの担い手」と信じていた。そのため西洋の科学/技術の吸収には努めたが、思想/文化の流入は拒絶した。
○立法の改革
・1839年改革派リーダーのムスタファ・レシト・パシャ(1800~58年)は「ギュルハーネ勅令」を公布し、「タンズィマート改革」を始める。翌年諮問機関の合意で策定された刑法を公布する。
・1858年さらに新刑法が公布される。これは1810年フランス刑法を基に作成された。イスラム刑罰には固定刑/同態復讐刑/裁量刑/矯正刑があるが、これは裁量刑を改良/強化するものであった。
・1850年新商法も制定されている。これは1807年フランス商法を基に作成された。
・ところが人の生活に密接に関係する民法となると簡単ではなかった。1868年「民法典」を策定するための委員会が結成され、数年後イスラム法を基に「民法典」が公布された。
・このように立法は「和魂洋才」で、改革が徹底されたとは言えない。また新刑法/新商法の制定後もイスラム知識人であるイスラム法官は判決を出し続けた。1880年代後半オスマン政府は係争の種類によって新法を適用するか、イスラム法を適用するかを公式に示した。
○司法改革
・1839年商事法廷が設置され、翌年には刑事法廷が設置された。元々オスマンには3種類の法廷があった。①イスラム法官が主宰するイスラム法廷、②非イスラム共同体の共同体法廷、③外国人を裁く領事法廷である。旧来からの法廷は存続し、新法により「第4の法廷」が設置された事になる。
・「第4の法廷」の判事にはイスラム知識人以外が任命された。イスラム法廷ではイスラム知識人が裁判を取り仕切るのではなく、その代理人(ナーイブ)が取り仕切るのが一般化していた。「第4の法廷」の判事は、このナーイブが務めた。
○改革への不満
・1856年「クリミア戦争」終結のための「パリ講和会議」で大宰相アーリー・パシャ(1815~71年)は、通商特権の撤廃を列強に訴えたが、列強は「オスマンでは法の策定/執行がイスラムの立場でしかなされていない」と非難された。そのため彼は全オスマン国民に適用される法を構想し、フランス民法の翻訳をスルタンに進言する。
・しかしこれにジェウデト・パシャ(1823~95年)が反対し、彼が「民法典」の編纂事業を始める。この編纂事業に参加できなかったイスラム知識人が抗議するが、スルタンは抗議を取り下げた。
・このように改革は不満を抱えながら、新旧が併存する形で進められた。※日本とは宗教の重みが全然異なる。
○啓蒙運動-新オスマン人
・1860年代後半になると新聞が登場する。若い知識人(自称新オスマン人)はこの新聞を利用し始めた。彼らの多くは「翻訳局」に勤務した経験があり、大宰相ムスタファ・レシト・パシャの庇護を受けていた。
・しかし1858年庇護者が亡くなると、次代の為政者(アーリー・パシャなど)は彼らを首都から遠ざけた。彼らは海外に逃れ、反政府運動(専制批判、立憲制要求)を始める。彼らは新聞を刊行し、小説/戯曲などを書き、オスマンに多大な影響を与えた。
・彼らはイスラム法に全幅の信頼を寄せ、フランス法の翻訳を批判した。政府はフランス法をイスラムに取り込むのを方針としたが、彼らはあくまでもイスラム法の運用での解決を望んだ。彼らは立憲議会制に関しても、イスラムは当初から合議制で、議会制の起源はイスラムにあると主張した。※新オスマン人はイスラムに忠実なんだ。
○実証主義者-青年トルコ人
・「青年トルコ人」はパリで実証主義社会学を学んだ。彼らは「人と国は理性/倫理で繋がっている」とし、経験/実験で示された事実を重んじた。彼らは1876年に発布され、直ぐに停止となった憲法の復活を求めた。
・彼らの多くは低い階層の出身であったが、改革によって設立された学校に通い、新しい部局/学校/銀行/郵便局/軍隊などで出世し責任ある地位に就き、やがて政治的活動に関わっていった。※教育の影響は大きい。
・彼らは「宗教は社会の団結/凝集力を高め、社会に秩序を与える」と考えた。彼らは自らの組織を「統一と進歩」と命名した。彼らはイスラム教を「普遍的真理」ではなく、「社会的有用性」と認識していた。※オスマンからトルコで少し進歩かな。
・「青年トルコ人」の一人にズィヤー・ギョカルプ(1876~1924年)がいる。彼は首都から追放され、フランス社会学を独学する。1908年憲法復活後に「統一と進歩」の知的指導者になる。彼は「イスラム教が本来の姿を取り戻せば、近代化に対応できる」とした。1910年代後半「青年トルコ人」は政権を掌握し、彼の主張に従う形で改革を行った。
○イスラム法の社会的法源
・ギョカルプはイスラム法の硬直化の原因を、先例の無条件の踏襲にあるとし、社会の変化に対し法も変化すべきと考えた。彼はイスラム法の法源(?)として社会的習慣を重視した。
・彼の主張に従い、イスラム法廷は法務省、イスラム知識人を養成する伝統的教育機関は国民教育省の管理下に置かれた。改革により伝統的機関が国家の下に置かれるようになった(国家と宗教の一体化)。※政教一致かな。
・1917年全オスマン国民に適用される家族法が制定され、一夫多妻制は禁止された。ちなみにキリスト教徒共同体の教育の統制を試みるが、これはギリシャ正教の反発を受けた。
○トルコ・ナショナリズムの発展
・ギョカルプはクルド系にも拘らず、トルコ語/トルコ文化を基軸とする「トルコ・ナショナリズム」の体系化に努めた。オスマンはトルコ人/ギリシャ人/セルビア人/アルメニア人/アルバニア人/アラブ人/クルド人などからなる多民族国家であり、トルコ人は「田舎者」を意味した。※オスマンは表向きはトルコだが、実質はアラブだったらしい。清と類似かな。
・19世紀ギリシャ/セルビアがオスマンから離脱し、西洋がオスマンをトルコ帝国/トルコ人と呼ぶようになると、「トルコ・ナショナリズム」が潮流になった。※民族自決が広まった時代かな。
○青年トルコ人は世俗主義者か
・1908年憲法が復活した(青年トルコ革命)。専制政治からの急激な変化に人々は戸惑った。翌年イスタンブルで「叩き上げ将校」やイスラム知識人とその養成学校の生徒が反乱を起こした。
・この反乱を「青年トルコ人」の中核組織である「統一と進歩」の軍が鎮圧した。これにより「反動としてのイスラム勢力」「進歩的な世俗主義者」などのイメージが作られた。しかし改革の推進者は決して世俗主義者ではなかった。
・1910年イスラム法の最高権威として入閣したムーサ・キャーズムは正統的なイスラム知識人で、「イスラムは進歩/文明化のための、あらゆる方法/原理を内包している」と説いた。彼はコーランの一節から立憲議会制を正当化した。また「イスラムは女性の社会進出を認めている稀有の宗教」と強調した。
・しかし「青年トルコ人」に残された時間は余りに少なかった。1917年制定された家族法も翌年の敗戦/帝国瓦解で、ほとんど実施されなかった。一方「言論の自由」により、宗教に価値を置かない唯物論者が表れるようになった。
※青年トルコ人について知りたかったので、期待できそう。
○欧化主義者の登場
・クルド系のアブドゥッラ・ジェヴデト(1869~1932年)は唯物論に親しんだ。政治的性向を疑われ、海外に逃れる。ジュネーヴでオスマンの西洋化を主張する『イジュティハード』を刊行し、カイロでイスラムを批判する『イスラム』をトルコ語に翻訳した。『イスラム』は発禁となり、印刷済のものまで回収され廃棄された。
・1911年彼は帰国すると歓迎され、『イジュティハード』はイスラムを批判する知識人の機関誌的存在になる。彼はオスマンが生き残るための「富国強兵」を唱えた。また西洋もキリスト教の束縛にあったが、啓蒙によりその束縛から脱したと考えた。
○欧化主義者が描く未来像
・1913年『イジュティハード』に「理想の未来社会」についての論説(18項目の夢)が掲載された。要点を述べると、イスラムの現状に敵愾心を持ち、イスラム知識人/神秘主義教団の無知・怠惰を批判し、神秘主義教団の修行場/イスラム知識人の養成学校/トルコ帽/女性のヴェールなどの廃止を説いている。
・ただしイスラムに対し直截な敵意は示していない。「イジュティハード」(※イスラム法解釈の見直し)が再開されれば、宗派間の争いは絶え、イスラムは再興されると書いている。何よりもイスラムの頂点スルタン=カリフを認めている。
・オスマン末期の様々な知識人は、西洋の先進性を認め、カリフを頂点とするイスラムの進歩を望んでいた。
※やっと1章が終わる。
<トルコ共和国における世俗化改革>
○ムスタファ・ケマル
・「青年トルコ人」の一人であるムスタファ・ケマル(アタテュルク、1881~1938年)は、マケドニアのテッサロニキで生まれる。この町にはユダヤ教徒4.9万人/イスラム教徒2.55万人/ギリシャ正教徒1.1万人/外国人7千人が住み、オスマンを代表するコスモポリスであった。インフラ(電気、水道、市電、ガス灯など)は早くから整備され、出版活動も盛んであった。彼は陸軍幼年学校/士官学校/陸軍大学校に進み、「軍人は国民を指導する責務がある」と学んだ。
※彼の出自/宗教は記述されていない。これが彼の反イスラムのポイントなのでは。
・彼は「オスマン自由委員会」「統一と進歩」に参加した。自然科学/唯物論にも関心を持ち、イスラムを批判する『イスラム』を原語で読んだ。彼は「愛国的欧化主義者」と云える。※彼は1923~38年初代大統領。
○トルコ独立戦争とスルタン=カリフ
・1918年10月オスマンは、アラブの反乱/インド・イスラムの英軍参加などにより連合国に降伏する。「第一次世界大戦」でオスマンは目ぼしい勝利はなかったが、ケマルは英雄となった。彼は休戦協定締結前からアナトリアで抵抗運動の準備した。1920年4月アンカラで「大国民会議」を開き、翌月「革命政府」を立ち上げた。
・連合国に恭順する「イスタンブル政府」は、これを反乱軍とした。1922年9月「革命政府」はアナトリアに侵入してきたギリシャ軍を追い返している。翌月連合国は講和会議への招聘状を「革命政府」「イスタンブル政府」両方に送る。その翌月「大国民会議」はスルタン=カリフ制の分離と前者の廃止を議決し、オスマンは滅亡する。
○カリフ制の廃止
・ケマルは独立戦争で敵対した「イスタンブル政府」のスルタン=カリフ制を廃止する。キリスト教ではキリストと信徒の間に教会が存在したが、イスラムではイスラムそのものへの批判となった。
・1922年スルタン制は国民主権に反するとし、「大国民議会」で廃止が議決される。1924年政治権力を持つカリフ制は共和国と相容れないとし、これも廃止が議決される。
・1925年「大国民議会」はコーラン/ハディース(ムハンマドの言行録)のトルコ語訳を議決する。同年神秘主義教団の修行場が閉鎖される。
・ケマルは「文明社会に原始的人間が存在する事を許さない」と演説している。1924年ケマルに批判的なケマルの元同僚や知識人が野党を結成するが、翌年閉鎖(解党?)される。
○世俗化改革の断行
・カリフ制の廃止に伴い「ウラマー」(イスラム知識人)養成のための学校も閉鎖され、イスラム法廷も廃止された。教育/司法はイスラム知識人が独占していたが、これらが廃止となった。
・新たな家族法の制定が試みられたが、議会の承認が得られなかった。家族に関してはイスラムの影響が強かったと云える。1926年スイス民法を基にした「新民法」が議会で承認される。同じようにイタリア刑法を基に、「新刑法」が作られた。半世紀を経て新たに民法/刑法を作ろうとする彼らの意気込みが感じられる。
・1925年ターバン/トルコ帽が禁止され、西暦が採用される。26年飲酒が合法化される。28年表記をアラビア文字からローマ字に変える(※これは大胆だな)。30年婦人参政権が認められる。31年メートル法が採用される。33年アザーン(礼拝の呼び掛け)をトルコ語に変える。35年日曜日が休日になる。これらの改革を「ライクリッキ」と呼んだ。※こりゃ凄い。
・1924年カリフ制廃止と同時に総理府内に「宗務局」が創設された。国家が宗教を管理するようになった。
○新たな誇りの拠り所
・オスマンは最も優れた宗教イスラムの担い手であり、西洋は周縁に過ぎなかった(※中華思想だな)。そのためイスラムの枠組みの中に西洋文明を吸収する事も可能と考えていた。ズィヤー・ギョカルプ(前述)は西洋文明にトルコが加わる事で、世界文明になると考えていた。しかし共和国は文明の正統な後継者は西洋とし、イスラムを全面否定した。
・1923年「ローザンヌ条約」により、アナトリアに居住するギリシャ正教徒(90万人)とギリシャに居住するイスラム教徒(50万人)の交換が行われた。これは世俗化と言いながら、結局は宗教が大きな足枷になっている事を示している。
・これほどに存在感があるイスラムを排除して、国家への求心力を保てるのだろうか。そこで強調されたのが「トルコ・ナショナリズム」であった。これを歴史学/人類学/言語学が支えた。
・歴史学は人類の文明の揺籃の地が、トルコ人の故郷・中央アジアであるとした。その中央アジアからトルコ人が移住し、シュメール/ヒッタイトを興した。中国/インドはトルコ人との接触により文明化されたとした。オスマンはイスラムと共に堕落したが、共和国はトルコ民族本来の輝きを取り戻すとした。
・人類学は、「ユーラシアで『最もハンサム』なのはトルコ人」「白色人種(コーカソイド)の起源はトルコ人」などを説いた。
・言語学は「太陽原語説」(全ての言語の起源は中央アジアにある)を説いた。ケマルはトルコ語に混入していたアラビア語/ペルシャ語を排除し、逆に西洋の言語を追加する作業を進めさせた。
・1928年トルコ語の表記をアラビア文字からローマ字に変えた。「イスラムの担い手」と云う誇りは、「トルコ人の優越性」に置き換えられた。
・ケマルは強引に改革を進めたが、1930年代はフランコ(スペイン)/ムッソリーニ(イタリア)/ヒトラー(ドイツ)など、強力なリーダーを必要とする時代であった。1934年ケマルは「アタチュルク」(父なるトルコ人)の名を議会から贈られる。38年死去する。
<イノニュ時代の幕開け>
○大統領イノニュ
・1938年ムスタファ・ケマル(アタチュルク)が世を去ると、イスメット・イノニュ(1884~1973年)が第2代大統領に就く。彼の父はクルド系で、母はトルコ人であった。砲兵実科学校/陸軍大学校を卒業し、第一次世界大戦ではアナトリア東部/パレスティナを転戦した。1920年ケマルの呼び掛けに応じ、副官となる。大統領就任後、彼は一党支配する「共和人民党」の終身党首になる。
○第二次世界大戦
・ドイツ/イタリアの東方への拡張が明らかになる。その脅威から逃れるため枢軸国に付く事も考えられるが、そうするとソ連が脅威となる。トルコは中立を維持するしかなかった。
・1940年戒厳令が敷かれ、兵力は12万人から100万人に増強された。軍事費増大による紙幣増刷でインフレになる。
・1943年農産物税が導入された。「戦時成金」となった大規模農場経営者に対するものであったが、小農民にも同様の税が課せられた。
・1942年富裕税が導入された。これはイスタンブルの非イスラム・マイノリティに課せられた。税率は地方(?)に任せられ、イスラムの10倍が課せられるケースもあった。不服申し立て/延納は認められないため、非イスラムは資産/不動産を売却したり、強制労働に服したり、国外に退去した。
・このマイノリティ差別の背景に、「反ユダヤ主義」「汎トルコ主義」があった。トルコ系民族の多くがソ連の支配下にあったため、「汎トルコ主義者」は反ソ/反共産主義であった。しかし枢軸国に付き、ソ連と敵対するのは大変危険なため、大統領イノニュは「汎トルコ主義者」を取り締まった。
○アナトリア主義
・トルコ・ナショナリズムから「汎トルコ主義」への拡大に危惧を抱いた人々は、「アナトリア主義」を興した。彼らは1924年雑誌『アナトリア』を創刊し、アナトリアの住民/文化を重視した。
○村落教員養成所と宗教教育
・1940年「村落教員養成所」が設立される。これは小学校教師の養成と農畜産業の実習を行った。
・1942年議会で「村落教員養成所」に関する審議が行われ、議員から「養成所で宗教教育を行うべき」との発言があった。「ウラマー」(イスラム知識人)養成のためのマドラサが廃止され、その代替機関が廃止され10年経過していた。また別の議員は「民衆は暗闇の中に置かれている。別の何かが入り込む恐れがある」と発言した。
・大国民会議の議員の多数はエリートや地主出身者であり、彼らにとって共産主義は脅威であった。また「反動的」「後進的」でない「正しい」宗教教育の必要性もあった。
<複数政党制への移行>
○一党支配体制の終焉
・第二次世界大戦により「戦争成金」が生まれた。その大半が大農場経営者であった。そのため大統領イスメット・イノニュは農業政策/土地政策の改革を決意する。1945年5月「土地分配法」を議会に提案する。これは47ヘクタール以上の土地を国家が収用し、小農に分配する法律であった。
・この提案に厳しい批判が行われた。政府は統制経済を取ってきたが、これは民族資本にとって桎梏となっていた。1925年から一党支配していた「共和人民党」の支持母体(地主、資本家)から、不信不満が表出した。
・ソ連の領土的野心を恐れ、トルコは西側陣営に加わった。西側陣営では一党支配は潮流に反していた。1946年1月「共和人民党」は分裂し、「民主党」が結成される。
○諸政党の結成
・1945年7月鉄道建設で功績を残した実業家が「国民発展党」を結成している。綱領の前文に目的を「伝統を重んじ、道徳的/経済的大国になる」(※超簡略した)と記している。また教育については「教育は道徳と伝統で調整される」と記している。このように綱領には誇り/進歩・発展/伝統(明示されていないがイスラムを指す)が謳い上げられている。ただし同党は1946年7月の選挙で議席は獲得できなかった。
・1946年2月「社会公正党」が結成されている。綱領で宗教に関し「宗教の選択は自由」「イスラムは先端の宗教なので護持される」「人間にとって宗教は必要」などが記されている。
○共和人民党の対応
・複数政党制への移行により「共和人民党」も変革する。戒厳令は解除され(1947年末)、経済活動への介入は抑制され、脱イスラム化は緩和された。脱イスラム化はアタチュルクの信念であったが、政治システムの変化により緩和せざるを得なかった。1949年「導師・説教師養成学級」が再開される。
・1942年議会で宗教教育が議論されたように(前述)、「国家の理想」と「国民の現実」に乖離が生じていた。
○宗教教育の必要性
・1946年教育省の予算審議でハムドゥッラ・スプヒ・タンルオヴェルが宗教教育の必要性を訴えた。彼はイスタンブルで生まれ、フランス語教師になるが、ズィヤー・ギョカルプが関係するナショナリスト・クラブ「トルコの炉辺」の会長に就く。「大国民議会」の議員に選出され、教育大臣を務める。その後アタチュルクを批判し、ブカレスト公使に左遷され、1945年議員に復帰したばかりであった。
・この予算審議で彼は、共産主義の脅威に警察/裁判所は対処できず、青年に信念を与える宗教の必要性を訴えた。彼は13年間左遷されていたため、アタチュルクの改革を知らなかったと云える。宗教を重視する「イスラム派」のその後を考えると、この演説は示唆的である。
・1947年「共和人民党」党大会に「導師・説教師養成学級」の再開が提案される。
○共和人民党での議論
・党大会では「子供達に宗教を授けるのは有害ではなく、道徳的に有益である」との意見が出る一方、「かつてより宗教反動は繰り返されてきた、狂信者が台頭する恐れがある」との意見もあった。両意見はそれぞれ「イスラム派」「世俗派」を代表しており、この対立は現代まで引き継がれている。
○トプチュ
・アタチュルクの死(1938年)から複数政党制への移行(1946年)の間に、イスラムに関する言論活動を始めた3名の知識人を紹介する。
・ヌーレッティン・トプチュはフランス留学し、哲学博士号を得ている。帰国しフランス語教師になり、1939年雑誌『行為』を創刊する。彼はこの創刊号に論文「ルネサンス運動」を載せ、そこで「ルネサンスとは、自分達独自の価値/宗教/道徳/芸術の理想を構築する事」とし、「トルコは部分的な採用しかできず、全体的な価値にできなかった」とした。
・さらに『行為』に論説「ヨーロッパ」を書き、「オスマン末期の知識人やアタチュルクは欧州の実証科学に心服し、欧州模倣主義に走った。しかし彼らの源泉はキリスト教的精神と植民地がもたらした重工業にある」とし、また「トルコにはイスラムとアナトリアの経済がある」とした。※プロテスタントと植民地、正しい分析だ。
○クサキュレッキ
・ネジプ・ファーズル・クサキュレッキはイスタンブルに生まれ、海軍兵学校/イスタンブル大学哲学科/ソルボンヌ大学哲学科などで学ぶが、何れも卒業していない。1934年ナクシュバンディー教団の長老に師事し、1943年雑誌『偉大なる東方』を創刊する。
・彼はこの雑誌で「トルコは道徳的危機にあるか」と問うている。彼は「道徳の源泉は宗教に収斂される」と結論し、イスラム道徳の必要性を論じた。
・当時は地下経済/闇市場で暴利を得た「戦争成金」が生まれた時代であった。1943年大統領イノニュは教育行政を話し合う「教育会議」で、この「道徳の頽廃」を議論させている。
○ドールル
・オメル・ルザー・ドールルはトルコ人の両親からカイロで生まれる。イスラム最古の学府アズハルを卒業する。1915年頃イスタンブルに移り、「イスラム派」知識人となる。
・しかしアタチュルク時代には、アリー・アブドッ・ラーズィクの『イスラムと統治の原理』やコーランのトルコ語訳を刊行し、「世俗主義」に協力している。
・1947年(複数政党制移行後)『安寧』を創刊し、「世俗主義」を論じている。「先進諸国では礼拝の様子がラジオで流される。一方トルコではアッラーの名を口にする事もできない」「宗教と良心を疎かにしたため、道徳が頽廃した」「信仰の自由が保障されていない。宗教に基づく道徳教育が必要である」と論じている。当時としては、この批判は勇気ある行動と云える。
・彼らは現状の批判に精力を使い果たした。※20世紀前半は経済至上主義だったかも。
<民主党政権の誕生から60年クーデタ>
○民主党政権の誕生
・1950年5月総選挙で「民主党」が408議席を獲得し、「共和人民党」は69議席に激減する(得票率は民主党53%、共和人民党40%)。
・「民主党」は「イスラムの復活」を進める。「導師・説教師養成学校」の再開(※学級→学校?)/モスク建設/アザーンのアラビア語回帰が行われる。
○イスラム知識人の逆襲
・エシュレフ・エディプ・フェルガンはアタチュルクと同じテッサロニキで生まれ、「ウラマー」(イスラム知識人)養成学校/イスタンブル大学法学部で学んだ。1950年7月雑誌『真正な道』に論説「真の世俗主義、真のイスラム社会」を載せ、ライクリッキ/イスメット・イノニュ首相を批判し、4半世紀の抑圧に対する怨嗟を書いた。そして結論として「宗教のリーダー」(カリフ)が選ばれるべきだとした。
・さらに1952年論説で「トルコのイスラムは宗教の自由を得ているか」と問うている。彼は「『青年トルコ人』は改革に反対する人を『狂信』『反動』と呼びながらも、イスラムの枠内で近代化改革を行った。しかし共和国は自らを『反動』として、脱イスラム化政策を実施した」と非難した。
・しかし彼らに不幸だったのは、「民主党」は「イスラム政党」でなかった。「民主党」も「ケマリスト」の分派であり、それは第3代大統領バヤルを見ても明らかである。
○バヤル
・ジェラール・バヤル(1883~1986年、103歳!)はアナトリアで生まれる。幼い頃にアラビア語/ペルシャ語/フランス語を学んだ。ドイツ東邦銀行に勤め、「保護貿易論」の影響を受けた。1907年「統一と進歩」に入り、イズミルの重要なメンバーになる。共和国が成立し、「勧業銀行」が設立されると、その総裁に就いた。ちなみに「統一と進歩」の多くは、共和国成立直後にパージされている。
・彼の最大の目標は、「トルコの経済的発展」であった。階級のない自由なトルコ社会が西洋に追い付くのを目標とした。
○メンデレス
・もう一人の重要人物がアドナン・メンデレス(1899~1961年)である。彼はアナトリア西部の地主の子に生まれる。
・1930年アタチュルクは野党「自由共和党」を作らせるが、これが爆発的に支持され、二ヶ月半後に解散させる。彼はこの党で活躍している。
・1945年5月大統領イノニュが「土地分配法」(前述)を提出するが、これに強く反対したのが彼で、翌年バヤルと共に「民主党」を結成する。
・1950年総選挙で大勝し、彼は首相に就く。その後10年間首相を務め、トルコを経済成長させる。
・1950年6月「朝鮮戦争」が勃発するが、速やかに参戦し、「反共親米」を鮮明にする。これにより「NATO」加盟も叶う。
・彼はトルコをイスラム国家とし、アザーンのアラビア語回帰など、「脱イスラム化」を緩和した。
○サイード・ヌルスィー ※時代が遡ります。
・イスラム運動で欠かせないのがサイード・ヌルスィー(1876~1960年)です。彼はアナトリア東南部のビトリス州に、クルド人として生まれます。当時ビトリスにはイスラム教徒25万人/アルメニア人13万人/東方キリスト教徒1万人などが住んでいました。※クルド人の知識も乏しいな。
・彼は9歳からイスラム知識人養成学校で学びます。その学才を認められ、全国のマドラサ/ナクシュバンディー教団などを巡るようになる。
・彼はマドラサの頑迷さと近代的学校での反宗教的姿勢から、宗教教育と近代的科学教育が合体した「光明学院」の建設を構想する。1907年これをスルタンに嘆願し、一時捕らえられる。その後「統一と進歩」の人々と親しくなる。
・1909年「反革命」の中核となる「ムスリム統一委員会」の設立メンバーになり、機関誌『火山』にも寄稿する。
○反革命の性格
・「青年トルコ革命」後、オスマンには①西洋主義②トルコ主義③イスラム主義の3つの潮流があった。スルタン=カリフ制を否定する「世俗主義」は「トルコ共和国」成立後に生まれたた。オスマンはイスラムが前提で近代化を図っていた。
・1909年4月イスタンブルの歩兵大隊が決起した(反革命)。これには「青年トルコ人運動」を主導したが、革命後に周縁に追いやられた人物や、士官学校出の将校に既得権を奪われた「叩き上げ将校」や、マドラサの学生が参加した。これは軍により鎮圧され、神秘主義教団の修行僧が処刑された。そのため「宗教的反動」と云われるが、実態は複雑であった。※勝者の分裂は度々ある。
○ヌルスィーと『火山』
・「反革命」の半月前、ヌルスィーは自らの思想(9ヵ条)を『火山』に発表している。
・第1条で、憲法を「シャーリア」として発布する事を提案している。ただしこれを「反動」と決め付ける事はできない。
・第2条で、マドラサ(イスラム教育の根幹機関)/テッケ(神秘主義教団の修行場)/メクテップ(近代的学校)が情報を共有し、思想統一すべしとしている。これは伝統的教育も近代的教育も否定しておらず、「新オスマン人」「青年トルコ人」と同じ地平にいる。
・第3条/第4条で、学問での専制が「真実の探求」を妨げているとし、西洋の「分業の原理」をマドラサにも適用し、意思疎通を図り、オスマンを進歩/革新に導くべしとしている。これも「反動」とは云えない。
・第5条で、モスクの説教師は諸学に通じるべしとしている。第6条で、イスラムを大切にし、物質的進歩を得るため、無知/貧困/争い(オスマン内部)を避け、西洋とのジハードに打ち勝たねばならないとしている。これは「統一と進歩」と全く同じ考えである。
・第7条でスルタン宮殿に出入りするイスラム知識人を限定する提案、第8条で非イスラムへの配慮、第9条でクルド地域での教育機関の設立を記している。
・これらの思想は中庸的なもので、「青年トルコ人」も共鳴できる内容である。
○共和国成立
・1922年抵抗運動で勝利し「トルコ共和国」が成立します。カリフ制の廃止はヌルスィーを失望させたと思われます。
・1925年クルドの一部が神秘主義教団ナクシュバンディーの長老シェイフ・サイードに率いられ蜂起する。この目的が「クルドの大義」だったのか「イスラムの大義」だったのか明確でない。アンカラ政府はこれを鎮圧し、世俗化(脱イスラム化)政策/クルドの同化政策を進めます。
・クルドの同化政策によりヌルスィーもアナトリア西南部に流刑になる。彼は「無神論化」に対抗する運動を始め、コーランの解釈書『光の書』を書く。当書は彼の支持者により筆写され、ひそかに広まる。
・これが政府の知る所となり、1935年刑法により逮捕・収監され、今度はアナトリア中北部に流刑になる。彼の支持者は「ヌルジュ」と呼ばれる。
○民主党政権とヌルジュ
・1954年総選挙で「民主党」は505議席を獲得し、「共和人民党」は31議席でさらに後退する。1957年総選挙では新党結成があったが、「民主党」は424議席(得票率47%)を獲得し、「共和人民党」は178議席(得票率41%)になる。この選挙でヌルスィーは「民主党」支持を公表している。
・1956年『光の書』は法に抵触しないと司法判断され、ローマ字に転写され出版される。彼は当書でイスラムと近代科学の調和を説いている。そのため「ヌルジュ」はイスラム的価値を重視する一方、科学技術を積極的に習得し、彼らの印刷/放送は先端を走った。彼らは「反動性」と「進取の姿勢」を併存していた。
○60年クーデタ
・1960年5月「国民統一委員会」が指揮する部隊がアンカラ/イスタンブルに展開し、無血クーデタを成功させる。「民主党」による言論統制/「共和人民党」への圧迫/物価高騰などがクーデタの要因であった。
・軍部はアタチュルクが創設したもので「世俗主義」の守護者となっていた。軍部は「世俗派」であり、しばしば政治に介入した。
・クーデタ後、「共和人民党」のイノニュが首相になり、イスラムに対する風当たりは強まる。「導師・説教師養成学校」のカリキュラムに社会学/経済学が加えられた。宗教の迷信化を防ぐため、コーランをトルコ語訳し、近代的説教を政府が刊行した。
・ヌルスィーの死去により「ヌルジュ」は分裂に向かう。
<第二共和制から80年クーデタ>
○60年代の政治とヌルジュ
・1961年7月軍政は二院制/比例代表制/言論の自由など、自由主義的な新憲法採択の国民投票を行うが、38%の反対票が投じられる。9月「民主党」のバヤル/メンデルス/元外相/元財務相に死刑判決を下し、執行する。
・10月総選挙が行われ、イスメット・イノニュの「共和人民党」は173議席(得票率37%)で第一党になり、「公正党」(旧民主党)は158議席(得票率35%)となる。クーデタの指揮官ギュセルが大統領、イノニュが首相に就き、「第二共和政」が始まる。「共和人民党」は国家主導の計画経済、「公正党」は自由経済を求めるため、政権は不安定であった。
・1965年総選挙で「公正党」が240議席(得票率53%)で単独過半数を獲得する。前年に党首に就いたスレイマン・デミレル(1924年~)が首相に就く。
・彼はイスタンブル工科大学を卒業し、米国に留学し、米国資本の会社に勤務している。議員/軍人/官僚/大地主でもない彼が党首に選出されていた。
・彼は近代教育/米国流の生活様式に馴染み、「共和国の申し子」であった。彼は表向きは「ヌルジュ」を取り締まったが、過激化する左翼運動を抑圧するため、「ヌルジュ」を利用した。
○エルバカンの登場
・1969年総選挙で「公正党」は過半数を維持する。この選挙でネジメッティン・エルバカン(1926~2011年)がコンヤ選挙区で初当選する。
・彼はイスタンブル工科大学を卒業後、ドイツのアーヘン工科大学で学位を取得し、ドイツ/トルコで研究生活を送る。その後モーター製造会社を興し、1967年「トルコ商工会議所連合会」の事務局長に就く。※デミレルもエルバカンも理系かつ民間企業出身だ。
・当時のトルコは中間財を輸入し製品を組み立てる「輸入代替工業化」が産業政策の根幹で、大資本が利益を独占する傾向にあった。彼は中小企業を擁護する発言を行い、1969年総選挙で無所属で出馬し初当選する。彼はフリーメーソン/ユダヤの陰謀を説き、イスラム的価値で対抗しようと訴えた。
○イスラム政党のマニフェスト
・1970年1月エルバカンは「国民秩序党」を結成する。共和国成立後(約半世紀)、イスラム的価値を掲げる最初の政党であった。
・しかしマニフェストでは開発・発展を掲げ、イスラム色は薄い。綱領には西洋の模倣でない実証科学・技術の発展を記している。ただしイスラム的価値である「公正」を強調しており、また道徳/美徳/幸福/安寧などの単語にトルコ語ではなくアラビア語が起源の単語を使用している。
・彼は著書の中で「我々は歴史において、西洋の師であった」と記している。この思想はオスマンが議会制を採り入れた時の考え方であり、イスラム知識人が好む理屈である。この思想は「西洋嫌い」「復古主義」の陥穽にはまる可能性もあった。
・彼は声明文で近代的科学・技術を受容/活用しようとする一方で、アタチュルクらの「熱情」を非難し、軌道修正すべしと記している。彼の思想は「反動」「宗教の政治的利用」として糾弾される恐れがあった。
○国民救済党の結成
・1971年5月「国民秩序党」は閉鎖を命じられる。1972年10月エルバカンは「国民救済党」を結成する。
・当時インフレ昂進/失業率増大により「公正党」の支持率は低下し、「左派」の労働運動/共産主義運動が活発化していた。政府は「左派」の動きは牽制するが、「右派」は静観した。「右派」には、汎トルコ主義/トルコ・ナショナリズムを強調する「民族主義右翼」と、宗教を強調する「イスラム右翼」が存在した。
・1971年3月「共和国革命の擁護者」である軍部は参謀総長/陸海空軍司令官の連名で、大統領/上下院議長に書簡を送付した。そこには「アタチュルクの精神に基づいた改革がないがしろにされている。軍は国政を掌握する決意である」と記されていた。この書簡を受けてデミレル内閣は総辞職する。翌月戒厳令が敷かれ、治安部隊と「民族主義右翼」が協力し、「左派」5千人を逮捕している。
・1974年「国民救済党」は「共和人民党」との連立内閣に加わる。世俗主義を強力に推進してきた「共和人民党」は、都市の低所得者/若年知識層の支持を得るため「中道左派」に転じていた。「国民救済党」が「イスラム政党」である事に目をつぶれば、大企業偏重からの脱却/アナトリアの発展で両党は一致していた。
○トルコ的イスラム解釈
・エルバカンは著書『我が国民』で「国民」に”millet”を使用している。これはアラビア語起源で、「イスラム共同体」「トルコ系諸民族」を意味する。「イスラム共同体」は世俗主義に反する「反動」であった。また「トルコ系諸民族」はソ連領内に多く暮らしており、この使用は汎トルコ主義であり、ソ連との一体性を脅かすものであった。事実アタチュルクはこれを警戒し、汎トルコ主義を禁圧していた。
・またこの著書で「千年に及ぶ我らが歴史」と記している。トルコは「セルジュク朝」「オスマン朝」と千年に及んで「イスラムの担い手」であり、その栄誉と責任を有してきたと記している。これはオスマンの欧化主義者/イスラム主義者、共和国の「世俗派」/「イスラム派」、全てで常識であった。この心性は「トルコ-イスラム総合論」を生んだ。
○トルコ-イスラム総合論
・1970年イスタンブル大学文学部の歴史学科イブラヒム・カフェスオールやトルコ文学科の教員によりサークル「知識人の炉辺」が作られる。彼らはトルコ民族の歴史/言語/文学を研究しており、汎トルコ主義の拠点であった。彼らは「右派」にも理論的な裏付けが必要と考え、「トルコ-イスラム総合論」を作成した。
・20世紀初頭「トルコの強調はイスラムからアラブ/ペルシャを捨て去る」と批判されていた。それに対し彼らは「トルコとイスラムは不可分」とした。また彼らは無神論者/狂信主義者/宗教の悪用者を批判し、世俗主義を肯定した。
・この思想は、オスマン末期にトルコ民族の自覚と西洋文明の受容を主張したズィヤー・ギョカルプの路線を思い出させた。
○政治経済の混乱とイスラム政党の暴走
・1974年トルコはキプロスに出兵し、トルコ住民を保護する。これは協定違反で米国から軍事援助停止/武器禁輸などの制裁を受ける。また多大な軍事費支出により、インフレ昂進/対外債務拡大を招く。1979年末にはインフレ率が100%を超える。
・政権は「公正党」デミレルと「共和人民党」ビュレント・エジェヴィットとの間を行き来した。両党とも過半数を取れず、「国民救済党」「民族主義者行動党」と連立し、政権は不安定であった。
・失業者も増加し、社会不安が増大し、労働運動/学生運動が活発化した。警察・治安組織は「左派」を取り締まり、「民族主義者行動党」の武闘組織は「左派」を襲撃した。
・クルド人はマルクス主義を標榜する「クルド労働党」を結成し、分離運動を始めた。
・「国民救済党」のエルバカンは、公然と共和国/アタチュルクを批判するようになり、様々な行事に欠席するようになる。1980年8月30日共和国で最も重要な「独立戦争勝利記念」の祝賀行事も欠席した。9月6日彼はコンヤで集会を開き、イスラムの緑色の旗を振り、シャリーアの復活を求めた。
※トルコは混乱の極みだ。
<80年クーデタ後>
○トゥルグット・オザルの登場
・1980年9月12日軍部はクーデタを決行する。軍部は社会不安の沈静化/治安回復を最優先した。「左派」を中心に年末までに3万人、1年後までに12万人が逮捕された。
・1982年7月議会制民主主義の機能不全を防ぐため、大統領の権限が強化された憲法草案が作成され、国民投票で9割の賛成を得て、「第三共和政」が始まる。
※軍は面白い役割をする。軍を信用する国は多い。
・1983年11月民政移管のための総選挙が行われ、トゥルグット・オザル(1927~93年)が率いる「母国党」(※祖国党?)が、45%の得票率で第一党に就く。
・彼はクルドの血を引き、イスタンブル大学で電気工学を学び、米国留学し、トルコの経済政策の中枢である「国家計画機構」の責任者になり、世界銀行に勤務し、軍事政権では経済担当の副首相を務めていた。※「公正党」デミレルも「国民救済党」エルバカンも理系出身だった。
○イスラム派のオザル
・オザルの弟コルクットは神秘主義教団ナクシュバンディーの有力メンバーだった。「オスマンの高官は何れかの教団に所属している」と云われるほど、神秘主義教団は根を張っていた。1925年に修行場が閉鎖されるが、神秘主義教団は地下で活動を維持した。
・コルクットは「国民救済党」の議員として連立内閣の農相を務めた事もあった。ナクシュバンディー教団同士だと商談もスムーズに進んだ。また彼らは大資本家/ユダヤ/フリーメーソンを批判した。オザルは「国民救済党」から出馬して落選した経歴があった。※神秘主義教団の話は聞いた覚えはあるが、ナクシュバンディー教団だったかな。
○オザルと軍部
・オザルはクーデタ直前からIMFの改革パッケージに取り組んでいた。そのため軍部は彼を副首相に起用した。
・軍部にクーデタを決意させたのは、共産運動/クルド分離運動であった。軍部は治安安定のためサークル「知識人の炉辺」の「トルコ-イスラム総合論」(前述)に目を付けた。これはイスタンブル大学文学部が興した運動であったが、「民族主義右翼」(民族主義者行動党)「イスラム右翼」(国民救済党)、両方が受け容れていた。
○世俗主義の新しい解釈
・「知識人の炉辺」は各地でセミナー/講習会を開いた。そこで「アタチュルク後の世俗主義はイスラムを否定した」「急速な発展がトルコ民族文化を破壊した」などを主張した。以前の「イスラム派」はアタチュルクを批判し、反動的であったが、ナショナリズムに転換した。その後ソ連崩壊により、人々が汎トルコ主義を受け容れる上での障害もなくなる。
・彼らは「アタチュルクの世俗主義は宗教を否定しなかった」と幾度も強調した。政権もイスラムを利用すると決意し、「イスラム派」は初めて陽の当たる所になった。
・これらは「82年憲法」に反映され、第24条には「宗教/道徳教育は国家が管理し、宗教文化/道徳教育は初等・中等教育で必修とする」と規定された。
・一方国家管理でないコーラン教室/神秘主義教団の集会/サイード・ヌルスィーの『光の書』の講読会などは風当たりが強くなった。
・1983年総選挙でのオザルが率いる「母国党」の勝利が象徴するように、国民に宗教心が再興し始めた。
○オザルの政治改革と国際環境の変化
・オザルの「母国党」は、旧公正党/旧民族主義者行動党/旧国民救済党の票を取り込み、過半数を確保する。
・彼は「トルコ-イスラム総合論」に基づき、「導師・説教師養成学校」を発展させる。1984年同校の卒業生は全ての学部への進学が可能になり、名門大学の行政学部の半数は同校卒業生が占めるようになる。これは近代教育を受け、かつイスラム的価値を重視する新たなエリートの出現であった。
・彼は外交面でも欧米一辺倒から、バルカン諸国/アラブ諸国との関係強化を図る。1991年ソ連が崩壊すると、中央アジアのトルコ系諸国との関係強化にも乗り出した。
・この外交政策は西欧に向いていた大資本ではなく、アナトリアの中小資本に機会を与えた。これに伴い経済政策は「輸入代替工業化」から輸出志向に転回した。
<ギュレン運動の台頭>
○ギュレンの登場
・フェトゥフッラ・ギュレン(1941年~)はアナトリア東部エルズルムで導師の子に生まれる。小学校に上がる前からコーランを学び、10歳で全ての章を暗誦した。エルズルムはロシア/アルメニアとの国境紛争があり、独立戦争の激戦地でもあった。そのため彼には「トルコ-イスラム総合論」を受容する素地があった。
・彼は各地のナクシュバンディー教団を訪れ、コーラン解説書『光の書』にも出会った。長じて宗務庁所属の説教師になり、イズミルなどに赴任した。彼はカフェで説法を行ったり、学習所を開いて『光の書』を広めたりした。
・しかし1971年/1986年と逮捕され、説教師の職も辞する。※政府の方針に合致していると思うが。
○ギュレンとヌルスィー
・ギュレンを思想的指導者とする「ギュレン運動」は「ヌルジュ」に近かったが、彼らは「ヌルジュ」を自称しなかった。それは「ヌルジュ」にクルド性(分離主義)が含まれていたからである。
・彼は政治とは距離を置いた。これは「民主党」アドナン・メンデレスとサイード・ヌルスィー/「公正党」スレイマン・デミレルと「ヌルジュ」の関係と異なった。「ギュレン運動」が政治的関与を示すのは30年後である。
○80年クーデタとギュレン
・ギュレンは政治との関わりを拒否した。「政治を宗教/コーランの枠組みに依拠させてはいけない。宗教は聖域であり、それは不敬である」と述べた。※超簡略した。
・この考え方は「82年憲法」第24条にも「国家の秩序を宗教に依拠させてはいけない」「政治的/個人的な利益/影響力に宗教を利用してはいけない」と規定されている。さらに2001年憲法改正で「世俗主義に宗教的感情を介入させてはいけない」と前文に付記された。
○宗教と科学、スカーフ問題
・ギュレンは「宗教と科学は同じものの二つの異なる表現」とし、「宗教を神学/哲学に限定するのは、キリスト教社会の文脈で、イスラムにはない」とした。
・ギュレンは「スカーフを着用した学生が高等教育を受けるのを妨げてはいけない」とした。また「宗教が政治に、国家が宗教に干渉してはいけない」とし、「公的領域においてイスラムを実践するのは世俗主義である」とした。ただしこれらの発言はウェブサイトに書かれたもので、本人の発言なのか運動体の発言なのか明確でない。
○教育活動
・「母国党」トゥルグット・オザルとの緊密な関係から、ギュレンは活動範囲を拡げる。ギュレンが最も力を注いだのが教育活動であった。1997年までに高校200/大学予備コース80/大学7を設立している。彼の目的は、宗教心の篤いエリート「黄金世代」の育成であった。
・ギュレン系大学では国民教育省の規定に則って、英語による教育/PCスキル/科学的知識に重点が置かれた。2000年代になると彼らが「公正発展党」で政権を担うようになる。※大統領エルドアンも公正発展党だが。
・グローバル時代になると、この活動は中央アジア諸国/バルカン諸国/イスラム諸国にも拡がった。さらに並行して金融/保険/経済団体などを設立し、ビジネス分野にも進出した。※イスラムは基本的に利子を認めないはず。
○メディアを通して
・ギュレンは旺盛なメディア活動を行った。月刊の科学誌『浸潤』への寄稿がその始まりである。1988年季刊の神学誌を創刊し、その後週刊情報誌/環境問題/幼児向け雑誌などを刊行している。
・彼は宗教的奉仕/努力/ヒズメット(神の承認を希求する真摯さ)を行動方針とした。「ギュレン運動」は自称ではなく、彼らは自らの行動を「ヒズメット運動」と称した。
・1990年代に民間放送が合法化されると、日刊紙や全国放送のテレビ局・ラジオ局にも参入した。2000年代に入ると、ウェブサイトやSNSでの発信も始めた。
・また前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世/ギリシャ正教の指導者/ユダヤ教の指導者との対話機会も設けた。
※ギュレン運動を耳にした事はあるが、影響力は甚大そうだ。国を動かしていると云えるのでは。
○市民社会運動として
・「ギュレン運動」の広報を担当する「ジャーナリスト・作家財団」(1994年設立)と、それが主催する「アバント・プラットフォーム」(アバント会議)が注目される。この会議には著名なジャーナリスト/研究者が参加し、世俗主義/民主化/新憲法草案などが話し合われる。この会議に「公正発展党」の関係者も参加している。ギュレンは政治的関与を否定しているが、ギュレンらの政治的関与が何度も問題化している。
・「トルコ語オリンピック」も逸する事ができない。2012年第10回大会には135ヵ国/1500人のトルコ語学習者が参加した(※凄い数字)。これは「トルコ-イスラム総合論」を継承していると云える。
<イスラム政党の自己変革と軍部の介入>
○オザルの退場とイスラム政党
・1980年代の「母国党」トゥルグット・オザルの改革は経済を活性化させ、貿易赤字を縮小させ、インフレも沈静化させた。一方で賃金の抑制/付加価値税の導入が行われ、給与生活者は困窮した。1991年150万人が参加するゼネストが行われる。政治家と財界の癒着も見られるようになり、オザル家のスキャンダルも続出した。
・貧困の格差が顕在化する中、セーフティーネットを用意するイスラム政党「繁栄党」(旧国民救済党、※福祉党?)が注目された。
・1991年総選挙でオザルの「母国党」は得票率24%で第二党に転落し、ネジメッティン・エルバカンの「繁栄党」は得票率17%で第四党を確保する。彼らは貧困層救済などの草の根活動を重視し、大衆政党への脱皮を図っていた。
・1994年地方選挙でも「繁栄党」はアンカラ/イスタンブルで勝利し、インフラ整備/ゴミ収集/緑地増加など行政能力でも評価された。
・エルバカンも露骨なアタチュルク批判を控え、経済問題/国際問題にも尋常に語るようになり、フリーメーソン/ユダヤの陰謀は語らなくなった。
・1993年大統領オザルが急死する。後任に「正道党」(旧公正党)のスレイマン・デミレルが大統領に就く。1995年総選挙で「繁栄党」が得票率21%で第一党に躍進する。
○エルバカン政権の成立
・デミレルはエルバカンを嫌い、第二党/第三党で連立内閣を作らせるが、3ヵ月で崩壊する。1996年6月「繁栄党」が第三党と組み、連立内閣が成立する。イスラム政党と軍部などの世俗派との抗争の始まりである。
・しかしエルバカンは現実路線を取り、イスラエルとの同盟関係/EUとの経済関係を維持した。そして自らをアタチュルク主義者と公言した。これらの政治行動はイスラム派からは失望/批判、世俗派からは不信/疑惑/嫌悪を呼んだ。
・1997年断食月の終りに、スィンジャン市の「繁栄党」の市長がイスラエルのイェルサレム占領への抗議/パレスティナを激励する会を開く。市長は逮捕され、軍はスィンジャン市で示威行動を行った。
○2月28日キャンペーン
・1997年2月28日大統領/軍部/内閣が参加する月例の「国家保安協議会」が開かれる。そこで世俗主義の遵守/宗教の国家管理/神秘主義教団の禁止が再確認され、国民概念(?)を宗教共同体に替える試みを法的・行政的手段で防ぐ事が決議された。
・その後軍部は「反動追放キャンペーン」を行い、「繁栄党」閉鎖のための資料作りに取り掛かった。結果1997年6月政権は崩壊する。※混乱/イスラム化すると軍が出て来る。
<イスラム政党とギュレン運動の新展開>
○エルドアンの登場
・レジェップ・タイイプ・エルドアン(1954年~)は導師・説教師養成学校/アクサライ経済商業高等専門学校を卒業し、準学士号を得る。「国民救済党」のイスタンブル支部長などを務める。
・1994年ネジメッティン・エルバカンの「繁栄党」は躍進し、エルドアンはイスタンブル市長に当選し、不法建築物の撤去/緑地の造成などで手腕を示す。一方で最初の市議会でアタチュルクへの敬意を示さず、コーランを読誦させる快挙/暴挙に出たり、レストランからアルコールを撤去させたりとイスラム政策を断行した。
・1997年12月彼は政治集会で宗教的演説を行って逮捕/服役する。これにより被選挙権を失い、市長/議員になれなくなった。※今は大統領だけど。その後の経緯はこれからか。
○イスラム政党の分裂と再生
・1998年1月「繁栄党」の閉鎖が決まる。エルバカンはそれに備え、非党員に「美徳党」を結成させていた。党首は68歳で「国民救済党」元副党首レジャーイー・クタンであった。1999年4月総選挙で「美徳党」は得票率15%で第三党に後退する。
・この大敗で若手の突き上げが激化する。2000年党大会で若手のアブドゥッラ・ギュル(1950年~)が党首候補に立候補するが、僅差で敗れる。
・2001年6月「美徳党」が非合法化され、イスラム政党は分裂する。7月古参議員は「幸福党」を結成し、8月若手議員は「公正発展党」を結成した。
・当時トルコは危機に直面していた。2001年2月首相ビュレント・エジェヴィットが行政能力を問われる発言をし、株式市場は暴落していた。
・2002年11月総選挙が前倒しで行われ、「公正発展党」が得票率34%で365議席を確保し、単独過半数となる。党首エルドアンは服役中で、副党首ギュルが首相に就く。
○ギュレンの亡命
・1999年6月フェトゥフッラ・ギュレンが「国家に信奉者を送り、国家を変容させる」と述べる捏造講演がテレビで放映される。彼は病気治療のため米国を訪れ、そのまま亡命する。彼に亡命を説得したのは「左派」の首相エジェヴィットであった。
・ギュレンはペンシルヴァニア州に居を構え、ほとんど外出しなかった。しかしワシントン/ヒューストンなどに「ギュレン運動」の拠点が作られ、運動は拡大し、2001年国際学術会議で議題になった。
○ギュレン運動の政治的関与
・2009年6月ギュレン研究所の幹部が講演を行った。以下の発言から「ギュレン運動」(以下運動)の政治的関与を探ってみる。
全ての国民は政治関与する権利/義務を持ち、運動も同様である。
運動がどの政党を支持するかは、政党の姿勢次第である。
運動の目的は民主的社会の実現で、特定の政党にコミットしない。
運動の幹部が政治的な地位を求めるのは危険で、推奨しない。
・また講演者は、運動の目的を個人/社会に分け、個人レベルの目的は「献身/奉仕/社会活動などを通し、アッラーの喜びを模索する事」、社会レベルの目的は「民主的社会の実現で、差別がなく、社会参加が妨げられない事」と述べた。
○ギュレン運動の投票行動
・「公正発展党」の躍進と「ギュレン運動」とは関連があるのだろうか。彼らは地域毎に支持する候補者を選び、投票するのが基本である。また彼らは必ずしもイスラム政党(エルバカンが率いた国民救済党、繁栄党など)を支持するとは限らず、逆に共和人民党/民主左派党などを支持している。
・これにより彼らは機会主義的と批判されるが、この姿勢は左右両派のバランサーになりうるし、プラグマティックに徹していると云える。
○公正発展党政権
・「公正発展党」は2002年総選挙で第一党になり、2007年/2011年総選挙でもその地位を維持する。「公正発展党」の第一期政権の課題は、2001年経済危機からの回復であった。IMF主導のインフレ抑制政策/銀行の淘汰・再編/物価安定策/国営企業の民営化/社会保障制度の改革などを実施し、経済を軌道に乗せる。
・2007年総選挙前、ギュルの大統領への立候補に軍部が介入し、アタチュルク・共和国の原則の弱体化/共和国のイスラム化を懸念する大規模集会「共和国ミーティング」が行われた。選挙前は世俗主義とイスラム主義の全面対決の様相を呈していたが、「公正発展党」が得票率47%で圧勝する。
・首相エルドアン(2003年被選挙権を回復)は第二期で、長年の政治的/社会的懸案に取り組む。まず学生のスカーフ着用禁止を撤廃する憲法改正に着手する(スカーフ問題)。2008年2月憲法改正案は国会で可決され、ギュル大統領も承認する。しかし「共和人民党」「民主左派党」が憲法裁判所に提訴し、6月無効になる。
・2009年3月統一地方選では得票率38%で下落する。
・2010年9月憲法改正を問う国民投票を行う。その内容は①80年クーデタの軍人を裁く権利を一般法廷に与える、②憲法裁判所/検察官高等委員会の任命権を議会/大統領に与えるなど、軍部/司法の力を削ぐものであった。エルドアンは国民投票で賛成を得て、憲法を改正する。
・2011年総選挙で「公正発展党」は得票率を50%に伸ばし、3度目の勝利を収める。
○後見体制とギュレン
・1997年「2月28日キャンペーン」(反動追放キャンペーン)以降、「ギュレン運動」は民主主義の強化と人権の改善を強調する。「アバント会議」の大半で民主主義がテーマになった。そこには世俗主義を維持するために非民主主義的手段を厭わない世俗派(特に軍部)を牽制する意図があった。この軍部による「後見体制」に疑義を投げていた。
・2010年憲法改正を問う国民投票の前に第22回「アバント会議」を開き、「後見体制が問題解決を妨げている」(※超簡略しています)と最終報告している。
・2011年総選挙前にも第23回「アバント会議」を開き、「後見体制の再構築」を報告し、さらに「82年憲法」に替わる新しい憲法の草案まで議論している。
※ギュレン運動はそんな存在なんだ。
・軍部は絶対的なものとされ、軍部批判は禁忌されていたが、時代は変わったと云える。それを象徴する出来事が起こる。2012年5月独立戦争を開始した日を祝賀する政府の重要な行事が中止されたのである。その直前、軍部自身が「軍部は政治に介入する意図はない」と声明している。
○クルド問題とギュレン
・まず「公正発展党」の対クルド政策を見てみる。トルコ語以外は禁止されていたが、2002年8月放送/教育で限定的ながらクルド語の使用を認められる。2009年1月公共放送で24時間クルド語のチャネルが開設される。同年8月国立大学でクルド語学科設置のための準備が始まる。2012年6月小学校でクルド語が選択科目になる。
・しかしクルド系政党「民主市民党」や山岳地帯に潜伏し分離主義の「PKK」は、「公正発展党」を警戒した。実際2009年12月「民主市民党」が解党になり、党首などが次々と逮捕される。そのため「PKK」は武装闘争路線に回帰した。※アメとムチ作戦だな。今までは閉鎖が使われていたが、ここは解党になっている。違いはあるのかな。
・2007年総選挙前「ギュレン運動」はクルド地域で慈善事業を行い、「公正発展党」に協力するが、2009年3月地方選挙以降は対立に転じる。
・2008年7月と2009年2月の「アバント会議」は「クルド問題」がテーマになった。最終報告書には、「過去の悲惨な出来事を繰り返さない」「同化ではなく、基本的人権の保障が不可欠」「アナトリア東南部の経済発展が重要」「イラクのクルド自治政府との友好関係が重要」「母語に対する敬意は、人間に対する敬意である」などが記された。
・「後見体制」(前節)でも「クルド問題」でも、「ギュレン運動」は「公正発展党」の政策に少なからぬ影響を与えていたと思われる。
○世俗派とギュレン運動との軋轢
・2007年「公正発展党」の打倒を目指すグループ「エルゲネコン」の存在が露見し、計画に関与した者の追及が始まる。2009年には軍部による「公正発展党」「ギュレン運動」の撲滅計画が露見する。これは「エルゲネコン」捜査に対する反発であった。それに対し反「公正発展党」/反「ギュレン運動」のジャーナリストが次々と逮捕/勾留される。
・このように2000年代「ギュレン運動」は「公正発展党」から支援されていたが、2009年以降は亀裂が入り拡大する。国内での権力維持を目的とするエルドアンと、イスラムを重視し、それを国外に広めようとするギュレンとの間に亀裂が生じるのは当然であった。
・ギュレンは「ギュレン運動」をグローバル化させたが、これに批判的な見解もある。ユタ大学のトルコ人政治学者は「ギュレン運動は民主主義/社会的平和、いずれの観点からも懸念がある」「ギュレン運動は国内最大の運動体になり、メディア/国民教育省/警察に多大な影響を及ぼしている」「共和国の建国精神に反する政治的目標を持っている」と批判している。
・ギュレンは存命中で、「ギュレン運動」の評価はまだできない。ただそこにはトルコ現代史での「イスラムと近代化」における様々な問題が集約されていると感じられる。※まあ「宗教と政治」の現時点での最終形ですから。
<再び東洋VS西洋>
○オスマンはユーロッパ
・前著『オスマンVSユーロッパ』でも書いたが、オスマンはイスラムの盟主であり、ヨーロッパの枢要なアクターでもあった。
・19世紀オスマンは欧州の新技術を採用し、それを使いこなす人材を登用した。これはオスマンが興隆して以降、東西を問わずやってきた方法である。
・近代の有益な技術/知識は欧州が考えたもので、これは「西洋化」と云えた。オスマンは「進歩の先端」に同一化しようと努力した。そこに宗教の壁があるとは考えていなかった。
・また彼らには、欧州に知己がいた。例えばサードゥク・リファト・パシャにはメッテルニヒ(ウィーン)、「タンズィマート改革」を推進したムスタファ・レシト・パシャにはパーマストン(ロンドン)、イブラヒム・シナースィにはフランス人の東洋学者がいた。
・彼らは「欧州=先進、東洋=後進」を知っており、欧州の領土を重視した。「青年トルコ人」のリーダーは「マケドニア独立」を「帝国領土の半分以上の喪失」と述べた。※マケドニア独立は解説がなかった。
・「ヨーロッパの病人」の呼称が示すように、オスマンは欧州の一員であった。
○トルコもヨーロッパ
・ムスタファ・ケマル(アタテュルク)は国際都市テッサロニキに生まれた。彼にとってアナトリアは未知の土地で「アジア」あった。彼はトルコを率いる主導者になると、「トルコ語は人類初の言語」「トルコ民族が欧州を始め世界に文明をもたらした」を喧伝し、トルコの優位性/欧州とトルコの一体性を示した(前述)。
・「第二次世界大戦」後、この主張が受け容れられる。トルコはソ連の脅威から西側陣営に加わる。1947年米国はトルコ/ギリシャに4億ドルの軍事・経済援助を行った。1948年トルコは「欧州経済協力機構」(OEEC、※EUの起源はECSCと思っていたが、こちらかな)、1949年「欧州審議会」、1952年「北大西洋条約機構」(NATO)に加わっている。
○イスラム派は先進か後進か
・共和国はイスラムを「アジア性=前近代性」の最たるものとした。しかしオスマンは「近代化にイスラムは矛盾していない」としていた。
・それは「青年トルコ人」のズィヤー・ギョカルプの発言からも分かる。彼は「欧州は日本人/ユダヤ人を自らの文明の一員とみなした。一方でイスラム諸国を植民地に留めようとした。これは欧州が十字軍のファナティシズム(狂信?)から解放されていない事を示している。平等な条件で欧州文明に加わる事が我々の目標である」と述べている。
・また彼は、オスマンと同様に多民族/多宗教の米国を例に、「オスマンは自由と進歩を愛する東方のアメリカである」と述べている。※面白い発想だが、市民意識とか国土/資源などが異なるのでは。
・彼らは「西洋はイスラムから学んで進歩のスタートを切った」「西洋は世界文明たるイスラム世界の辺境であった」と確信し、「東方」を恥じていなかった。しかし共和国になると「東方」は忌むべき言葉になった。
○トルコの未来
・近代になりトルコはイスラム教徒が圧倒的多数を占めながら、統治者はイスラムを排除する稀有の国になる。本書はそのような状況の中で、イスラム派がどのように対抗してきたかを見てきた。1980年代以降統治者は「トルコ-イスラム総合論」からイスラムを利用し始め、イスラム派は自身を取り戻していった。
・そして今イスラム政党「公正発展党」が政権を握り、トルコは目覚ましい発展をしている。このイスラム政党もイスラム運動体も科学技術の習得に積極的で、この状況はオスマン末期を思わせる。しかし世俗派(軍部、司法当局)がイスラム派を追い落とす意思を失ったとは断言できない。