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『東アジアに翔る上毛野の首長 綿貫観音山古墳』大塚初重/梅澤重昭を読書。

群馬県の綿貫観音山古墳を解説しています。毛野国の歴史も簡単に解説しています。

本古墳は未盗掘で、様々な副葬品が出土しています。その副葬品の豪華さや大陸との繋がりに驚かされます。
また前方部と後円部での埴輪の違いも面白い。

専門用語は多いが、写真/図が多く、ビジュアルです。

お勧め度:☆☆(古代好きにお勧め)

キーワード:<未盗掘の古墳>周堀、<伝統的な前方後円墳>綿貫古墳群、<埴輪>家形埴輪、祭人像グループ/頌徳像グループ、飾馬埴輪、<豪華な副葬品>装身具類/武器・武具類/飲食什器類/馬具類、半肉彫獣帯鏡、銅製水瓶、<綿貫観音山古墳と大和政権>古墳王国、毛野、太田天神山古墳、綿貫古墳群、保渡田古墳群、七輿山古墳、上毛野氏/車持氏

<未盗掘の古墳>
○原形を留めていた古墳
・1965年2月群馬県高崎市綿貫町の綿貫観音山古墳の測量が行われる。二段築成の前方後円墳で周堀があった。1967~68年度、明治大学考古学研究所により3次の調査が行われた。
※本古墳は前方部が北、後円部が南にある。

○調査開始
-1次調査
・1968年2月1次調査が行われ、後円部西側の中段平坦面から人物埴輪(「祭人像グループ」と呼称)が検出された。
・さらに後円部西側で横穴式石室の羨道(えんどう)入口が検出された。玄室の右壁が崩壊していたが、左壁側に副葬品があり、それを回収して3月に1次調査を終えた。

-2次調査
・1968年7~8月2次調査を行う。この調査は石室の調査が主となった。後円部頂部の調査を済ませた後、上方から石室へ向けて掘り進めた。
・天井石は玄室部3石/羨道部3石で、最大の天井石は横3.5m×縦4.1m×厚さ1.1m、重さ20トンであった。重機ではびくともせず、当時の技術の高さに感心する。天井石は「多胡石」「牛伏砂岩」などと呼ばれる種類の石である。
・石室の壁は安山岩の「切石積み」であった(※インカの石積みみたい)。全ての壁石に番号を付け、解体し、その後復元した。副葬品については、4章で解説する。

・2次調査で両頂部/中段平坦面の埴輪も調査した。両頂部から「家形埴輪」、前方部中段平坦面から「馬子」「飾馬」、全ての平坦面から「盾形埴輪」「円筒埴輪」が検出された。

-3次調査
・1968年11~12月3次調査を行う。この調査は西側の中段平坦面の調査と、周堀などの墓域の確認が主であった。
・2次調査で、くびれ部(「祭人像グループ」の北)で人物埴輪が見つかっていたが、この調査で盛装男子立像/挂甲(※鎧)着装武人像/農装男子立像が確認された。これらを「頌徳像グループ」と呼称した(※頌徳=首長の徳を称える)。

・周堀は中堤がある二重堀で、広大な内堀に水は引かれていなかったと推定される。

・1973年史跡に指定され、1981年史跡公園「観音山古墳」として公開された。

-石室
・石室を解体したが、壁石は奥壁90石/左壁242石/右壁235石が確認された。石の大きさは縦横20~35cm×奥行50cm程度で、奥面だけは未加工であった。

<5世紀の伝統的な前方後円墳>
○造営された場所
・綿貫観音山古墳は利根川/井野川/烏川/鏑川が流れる”井野川低地帯”にある。この低地帯には古墳時代中期/後期の48基の古墳がある。「綿貫古墳群」は5世紀中葉から造られ、本古墳は6世紀後半に造られた。

○綿貫観音山古墳の墳形
・本古墳は全長(※墳丘長)98m×後円径56m/前方幅59m×後円高さ9.6m/前方高さ9.4mである。後円部と前方部の大きさがほぼ一緒で、中期前方後円墳の特徴を示している。

○群馬県で最大規模の石室
・横穴式石室は後円部のほぼ中央に位置し、全長12.6mの羽子板形であった。玄室は全長8.2m×幅3.8m×高さ3.2m(入口)3.8m(奥壁)であった。
・壁石は安山岩をブロック型に加工し、石工集団の存在が考えられる。天井石は「多胡石」が使われていた。
・玄室は奥壁から3mの所で前後に区分され、奥が屍床になっていた。棺材は認められなかった。
・被葬者は大和政権と世界観を同じくする上毛野の首長で、大和政権で活躍した人物と思われる。

<埴輪は語る>
○この世の家と他界の家
・後円部頂部は径10mの広さで、周縁に円筒埴輪/盾形埴輪などを配置し、郭内に家形埴輪/鶏形埴輪を配置していたと推定される。家形埴輪群は6~7棟からなり、正殿は円柱高床構造の寄棟造りである。この家形埴輪群は、首長の生前の居館を表していると考えられる。

・前方部頂部は円筒埴輪/靫形埴輪(ゆき、※矢を入れる筒)/盾形埴輪などを巡らせた郭内に、3棟の家形埴輪を配置していたと推定される。復元できた家形埴輪は平屋入母屋造りで、高さは167cmあった。前方部頂部は「山上他界」を表していると思われる。

○鎮魂祭祀と権威の象徴
・中段平坦面の埴輪も後円部と前方部で様相が変わる。後円部東側のくびれ部の中段平坦面から、着帽男子立像/農装男子像が出土した。後円部の中段平坦面には円筒埴輪と一定の間隔で警護のための男子立像が置かれていたと推定される。

・後円部西側の中段平坦面の「祭人像グループ」は、次代の首長/妃が行った鎮魂祭を表現していると思われる。「祭人像グループ」は、胡座し合唱する男子像(高さ72cm)/正座し祭具を持つ女子像(高さ101cm)/正座し弦を弾く童女像(高さ101cm)/皮袋を持つ女子立像(高さ101cm)などで構成される。
※写真では胡座し合唱する男子像(次代の首長)が一番高く見えるが?

・くびれ部の中段平坦面の「頌徳像グループ」は、盛装双脚男子像(4体、高さ156cm)/挂甲着装双脚男子像(1体、高さ137cm)/農耕男子立像(4体)が確認された。これらは治政/軍事/生産に携わった人物で、首長の絶大な権威を表現している。
※くびれ部に「造り出し」がある古墳も多いので、この付近が祭祀場だったのかも。

○山上他界へいざなう飾馬
・前方部の中段平坦面には馬子立像を配した飾馬埴輪が配置されていた。飾馬は西側で1体、前面で3体、東側で3体確認された。2体が復元され、高さ144cm/132cmであった。飾馬は赤色彩色した山形文/円弧文/螺旋様文で飾られ、鈴飾帯を帯びていた。飾馬は頂部の家形埴輪と同様に非現実的で、「山上他界」を表していると思われる。

○埴輪はどこで作られたか
・復元された円筒埴輪は10体ある。高さ62~82cm/口径27~35cmである。5条の箍(突帯)があり、表面は縦刷毛目痕である。
・これらの埴輪は神流川流域/鏑川・鮎川流域で作られたと推定される。実際、神流川流域に本郷埴輪窯址群、鏑川・鮎川流域に猿田埴輪窯址群がある。

<豪華な副葬品>
○副葬品の出土状態
・玄室の右側に被葬者の頭、左側に脚が向けられた。右壁際から刀剣類/鏡/装身具/水瓶/土器、左壁際から武具/馬具が出土した。※大半の副葬品は写真あり。

-屍床中央
・屍床中央からは金銅製半球形服飾品115個が出土した。これは遺骸を飾るスパンコールと推定される。

-右壁際
・屍床の右壁際から儀装大刀類/刀子類(※ナイフ)/大刀/金銅製鈴付太帯/銀地鍍金空玉/金銅製耳環/ガラス小玉/半肉彫獣帯鏡(後述)が出土した。
・屍床前部の右壁際から銅製水瓶(後述)/須恵器の𤭯(はそう、※つぼ)・高杯/土師器の坩(つぼ)・高杯が出土した。これらに飲食物が供えられたと思われる。

・玄室前部の右壁際から大甕/広口壺/有蓋台付長頸壺/提瓶/𤭯/高杯/蓋杯が出土した。

-左壁際
・屍床前部の左壁際から鉄地金銅張心葉形鏡板付轡(くつわ)/金銅製心葉形杏葉/金銅製歩揺(ほよう)付飾金具/鉄製短冊形革帯当金物/金銅製鞍橋表飾板前輪後輪/鉄製壺鐙(あぶみ)/木胎漆塗壺鐙/鉄製環状鏡板付轡/鉄製鑣(ひょう、※くつわ)轡/銅製環鈴/帯金具/鉄製などの馬具類が出土した。轡の数から4頭分副葬されたと推定される。金銅製歩揺付飾金具は77点出土した。
・屍床の左壁際から挂甲小札群/銅製三塁環頭大刀/鉄製異形冑(かぶと)/鉄鏃群/鉄鉾/石突/仿製(ぼうせい、※模倣)小型神獣鏡/ハマグリ/桃実/櫛/小刀/鹿角装刀子/金銅製環状鏡板付轡/金銅製花弁形鈴付面繋(おもがい)金具/鉄地金銅張製革帯当金物が出土した。

-配置
・副葬品は威信を示す武器・武具類は屍床の左右、銅製水瓶/須恵器/土師器などの飲食什器類は屍床前部の右、馬具類は屍床前部の左に配置されていた。特に権威を象徴する金銀装椎頭大刀/銀装捩り環頭大刀/銀装刀子/鈴付太帯/獣帯鏡が屍床の右壁際(被葬者の頭側)に配置されていた。

○獣帯鏡と銅製水瓶
・本古墳から多量の装身具類/武器・武具類/馬具類が出土した。これは東国の後期古墳の中でも質量で抜きんでている。
※盗掘されていなかったら、大半の大型古墳から同程度の副葬品が出たんだろうな。

-鏡
・右壁際から半肉彫獣帯鏡が出土している。面径は23.4cmで大型に類する。同型の鏡が、百済の武寧王陵と滋賀県の三上山下古墳(2面)から出土している。
・中央に鳥文と「宜」「孫」「子」の文字が配してあり、主文様は半肉彫で7つの禽獣文が配されている。主文様の外側には「尚方作竟真大巧 上有仙人不知老 渇飲玉泉飢食棗・・(※以下省略)」の36文字の銘文がある。平縁には流雲文/唐草文が配されている。
・本古墳の鏡と百済の鏡を比較すると、本古墳の鏡は不鮮明で、数度の「踏み返し」と推定される。

・左壁際から仿製小型神獣鏡も出土している。面径は12.3cmで、主文様は二神六獣である。

-銅製水瓶
・銅製水瓶が土師器/須恵器と共に出土した。高さは31.3cmで、細長い端麗な頸部と卵形の胴部を持ち、蓋が付いている。
・銅製水瓶の出土例は静岡県に1例あるだけである。他に562年を示す中国北斉での出土例がある。本古墳の銅製水瓶は中国製で百済を経て伝わったもので、大和政権からではなく、百済から直接受領したと思われる。
・鏡/銅製水瓶の他に、金銅製鈴付太帯/多量の金銅製歩揺付飾金具/多量の金銅製半球形服飾品の入手元も検討が必要である。

○甲冑と馬具が示す武人像
・屍床の右側から、大刀/金銅製鈴付太帯/銀装刀子(5口)/銀装捩り環頭大刀/金銀装椎頭大刀が出土し、付近から金銅製耳環(13)/銀地鍍金空玉(30)/ガラス小玉(54)と骨片/歯牙も出土した。

・屍床の左側から挂甲小札(2領)/胸当・籠手・臑当(すねあて)/鉄製異形冑が出土した。異形冑は高さ29cm×横20cm×前後22cm/下端の円周65cmで、鉄板12枚を鋲留している。この冑の頂部は剣菱形で古墳時代での出土例がなく、中国南北朝時代(439~589年)の冑と考えられる。
・鉄鏃が約500本が出土した。弓は両頭金具から数本の副葬が想定される。

・馬具類は牽曳用馬装(2組)/騎乗用馬装(2組)が出土した。これらには権威と来世観を表していると思われる。

・本古墳から多量の武器・武具類が出土した。ゆえに被葬者は6世紀中葉に軍事面で活躍した人物であろう。群馬県では後期古墳時代に100m前後の前方後円墳が造られており、上毛野の首長は大和政権と密接な関係にあったと思われる。本古墳は古墳時代後期(6世紀)の東国の重要な資料になっている。

○副葬品に見える国際色と年代
・副葬品の獣帯鏡は百済の武寧王陵からも出土しているが、何れも「踏み返し」で原鏡は中国南北朝とするのが妥当であろう。
・副葬品の異形冑は輸入品か朝鮮出兵で入手したと考えられる。副葬品が国際色豊かなので、被葬者は国際的に活躍した人物であろう。上毛野の他の首長も同様に国際関係に翻弄されたであろう。
※稲荷山古墳(埼玉県)の鉄剣は5世紀後半なので、少し前か。

<綿貫観音山古墳と大和政権> ※毛野国の簡単な歴史。
○東国の古墳王国
・群馬県には100基以上の前方後円墳があり、「古墳王国」である。5世紀中葉の古墳に、太田市の太田天神山古墳(前方後円墳、墳丘長210m)がある。これは大和政権と政治的な関係以上に、血縁的な関係も想像される。
・6世紀中葉の古墳に、藤岡市の七輿山古墳(前方後円墳、墳丘長145m)がある。『日本書紀』に安閑元年、上毛野君小熊が「武蔵国造の乱」に関わり、翌年緑野屯倉(藤岡市に比定)が設置されたとある。
・6世紀後半を代表する古墳が本古墳である。朝鮮半島/中国大陸との関係が想定される副葬品が含まれ、東アジアの国際的な交流が伺われる。

○毛野国誕生前夜
・弥生時代後期、北関東西部では村落が形成されたが、群馬県東南部/栃木県万南西部は未開の地であった。”イノ”(井野)の住民は、その地を”ケノ”(毛野)と呼んでいた。
・4世紀伊勢湾に起源がある「石田川式土器」と共に移住した人々により、”ケノ”の水田開発が進む。これに連動して大規模前方後円墳も造られた。
・毛野国は『古事記』『日本書紀』に記載されず、”あずまのくに”の一地域に過ぎなかった。

○毛野国の誕生と崩壊
・4世紀後半「前橋台地」で前橋天神山古墳、「倉賀野台地」に倉賀野浅間山古墳が造られる。4世紀末「東毛沖積平野」で首長の統合が進み、別所茶臼山古墳が造られる。

・5世紀前半「東毛沖積平野」の統合はさらに進み、東日本最大の太田天神山古墳が造られる。この古墳は誉田山古墳(※第15代応神陵)と1/2相似形であり、”大王の石棺”とされる「組合式長持形石棺」である。この被葬者は大和政権から迎えた王と考えられる。
・同時期「伊勢崎台地」に伊勢崎お富士山古墳、「井野川低地帯」に綿貫不動山古墳が造られる。共に大規模な前方後円墳である。

・5世紀後半、綿貫古墳群/保渡田古墳群に大規模な前方後円墳が造られる。一方「東毛沖積平野」には造られず、”毛野国政権”は崩壊したと考えられる。

○井野川流域の台頭
・5世紀後半、井野川の下流域に綿貫古墳群、上流域に保渡田古墳群が出現する。

-綿貫古墳群
・綿貫古墳群には前方後円墳4基と多数の円墳がある。綿貫不動山古墳と岩鼻二子山古墳が中核をなす(※綿貫観音山古墳は遅れて造られるので例外みたい)。

・綿貫不動山古墳は全長(※墳丘長かな)94m×後円径54m/前方幅56m×後円高10m/前方高9mで、「造り出し」のある二段築成の前方後円墳である。1955年一部土取りされている。
・上縁平坦部(頂部?)には円筒埴輪が配列された。この円筒埴輪は窖窯(あながま)で焼かれた須恵器である。人物埴輪/飾馬は見つからなかった。
・主体部は刳貫式長持形石棺で内法は長さ2.4m×幅1.0mである。

・岩鼻二子山古墳は現存しないが、写真から全長115m×後円径60m/前方幅67mの前方後円墳と推定される。
・主体部は刳貫式長持形石棺で「組合式長持形石棺」である。※刳貫式で組合式?
・副葬品は五神四獣鏡1/鉄鏃1/鉄斧1/鉄鉾1/鉄剣2/鉄直刀13/石製刀子1などである。※盗掘はなかったみたいだな。

・普賢寺古墳は全長70mの前方後円墳で、綿貫不動山古墳/岩鼻二子山古墳に後出する。
・普賢寺東古墳は円墳である。副葬品に挂甲小札/鉄地金銅張f字形轡が出土している。この馬具類は毛野で最古級である。

・これらの被葬者は毛野(太田天神山古墳)の王に従い、「井野川流域」に進出した首長であろう。中国大陸/朝鮮半島に出自を持つ氏族で、馬匹育成の職能集団を擁した首長であろう。
・綿貫不動山古墳/岩鼻二子山古墳は5世紀後半に造られ、6世紀後半に綿貫観音山古墳が造られるまで、前方後円墳の造営は中断する。

-保渡田古墳群
・5世紀後半、綿貫古墳群にやや遅れ、井野川の上流域に保渡田古墳群(二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳)が出現する。これらは全長100mクラスの前方後円墳である。
・主体部はいずれも刳貫式船形石棺で、この石棺は西毛野に限られ、東毛野には見られない。これらの古墳の内堀に4基の中島があり、また中堤に人物埴輪/飾馬を配置する特徴を持つ。

○大和政権下の毛野
・毛野では6世紀初頭から前方後円墳は中断し、帆立貝形古墳が造られるようになる。この理由に榛名山の噴火や、上毛野の渡来系雄族が大和政権に出仕するようになった事が考えられる。
・そんな中、毛野で最初の横穴式石室を持つ前方後円墳が出現する。総社古墳群(前橋市)の王山古墳(全長76m)である。横穴式石室の全長は16mにも及ぶ。その後、前二子古墳/正円寺古墳(前橋市)、簗瀬二子塚古墳(安中市)など横穴式石室を持つ前方後円墳が造られる。これらの古墳には優秀な副葬品が多く、激動する朝鮮半島から帰還した渡来系雄族が造営したと考えられる。

・6世紀前半「藤岡台地」に緑野屯倉、「倉賀野台地」に佐野屯倉(佐野三家)が設置される。6世紀中葉、王墓級の七輿山古墳(藤岡市)/越後塚古墳(高崎市、※佐野屯倉?)が造られる。七輿山古墳は緑野屯倉にあり、ニサンザイ古墳(※第18代反正陵)と同形で、大きさは半分である。その後6世紀末まで毛野で大和政権中央を上回る前方後円墳が造られる。大規模な前方後円墳の大半は七輿山古墳と同形になる。※綿貫観音山古墳も同形?

○上毛野の雄族、綿貫観音山古墳の首長
・『日本書紀』応神天皇15年条に、荒田別(上毛野氏の祖)が王仁招聘のため百済に派遣されたとある(※応神が王仁?)。仁徳天皇53年条に、田道(上毛野氏の祖)が新羅に遠征し、新羅人を連れ帰ったとある。これらから上毛野氏は外交・軍事に活躍した渡来系氏族と考えられる。

・『新撰姓氏録』車持公条に、豊城入彦命の8世孫・射狭君が雄略天皇に乗輿を供進したので”車持公”の氏姓を賜ったとある。豊城入彦命は上毛野氏/下毛野氏の始祖であり、車持氏と上毛野氏は同族になる。車持氏は摂津・長渚崎を本拠とし、海運・陸運に長じた氏族である。
※毛野氏族に上毛野氏/下毛野氏/大野氏/池田氏/佐味氏/車持氏がある。
※豊城入彦命は第10代崇神天皇の皇子である。第15代応神天皇は4世紀末に実在した最初の大王とされ、第21代雄略天皇は5世紀末に実在したとされる。
※5世紀前半に造られた太田天神山古墳は応神陵と相似である。それは被葬者が応神天皇の近親者(豊城入彦命?)なのか、それとも単に時の大王の古墳を真似たのか。

・太田天神山古墳を造った王の一族が、「井野川流域」に進出し、上毛野氏と擬制的に結ばれたと推定される。

・藤原京から出土した木簡に「上毛野国車評」の記載がある。車評は「井野川流域」に当たる。『上野国神名帳』に「正五位 車持若御子明神」「従五位 車持明神」の記載がある。現在は井野川上流に車持神社がある。
・車持氏の前身は毛野を上毛野国/下毛野国として再編した氏族で、綿貫観音山古墳の被葬者もその氏族であろう。また彼は6世紀中葉の緊張した朝鮮半島で、外交・軍事で活躍した首長と考えられる。

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