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『メルケルと右傾化するドイツ』三好範英(2018年)を読書。

メルケルのグローバル感覚(多言語、海外旅行など)やマルチな能力(宗教、物理学など)に驚かされる。
彼女の政治は理想主義だが中庸的で、調整力に長けていると思う。権力志向は結構強そう。
ドイツ政治は彼女の性格が現れているようで面白い。

著者は新聞社でドイツ特派員などを勤めています。
序章で欧州の現状を解説し、以降はメルケルの半生記になっています。

最近トルコやポピュリズムに関する本を読み、半年前にはメルケルの半生記を読んだ。関連する本を集中して読むのもありかな。

お勧め度:☆☆

キーワード:<危機の震源地ドイツ>メルケル、ドイツのための別の選択(AfD)、3つの位相、理念の限界、難民受け入れ、近代理念、理想主義、<共産主義の孤島>テンプリン、ドイツ社会主義統一党(SED)/新コース、ヴァルトホーフ(森の館)/最初の師、ベルリンの壁、二重生活、ロシア語/数学、社会主義の中の教会/東ドイツ福音教会連盟(BEK)、反体制、<雌伏の女性物理学者>ライプチヒ、デタント/ヘルシンキ宣言、科学アカデミー、海外旅行、<民主化の嵐に突入>ベルリンの壁崩壊、民主的出発(DA)、副報道官/デメジエール首相、連邦議会議員、<首相への階段>ドイツ統一、コール首相/女性・青年相/コールの娘/灰色のネズミ、環境相、ヤミ献金疑惑、党首、シュレーダー政権/失業問題/イラク戦争、<危機管理首相>付加価値税、医療保険改革、ハイリゲンダム・サミット、プーチン/人権外交、ダライ・ラマ、リーマンショック/一国主義、社会的市場経済/緊縮財政/移転時短、<ギリシャと原発>ギリシャ債務問題、気候温暖化対策、脱原発、戦術核/アフガニスタン平和維持活動、<世界の救世主か破壊者か>ウクライナ危機、ユーロ危機、難民危機、ドイツのための別の選択(AfD)、トランプ、一帯一路、西側世界、<あとがき>理念の発信

<危機の震源地ドイツ>
○ドイツ総選挙
・2017年9月キリスト教民主同盟(CDU)の党首アンゲラ・メルケルは、キリスト教社会同盟(CSU)とのパーティで勝利宣言を行った。しかし議席数を65議席減らし、246議席となった。
・2008年リーマンショックから始まり、ユーロ危機/ウクライナ危機/難民危機と、欧州は10年間危機に揺れたが、常にその場にいたのがメルケルであった。総選挙での苦戦は難民危機への対応にあった。

・この総選挙で右派政党「ドイツのための別の選択(AfD)」は第3党になり94議席を獲得した。AfDの議会進出は大きな意味を持つ。ドイツ知識人にとってナチスの経験から、これは許容できない存在であった。著者はAfDのパーティー会場前にいたが、数百人に及ぶ反AfDデモが起きた。
・この選挙で二大政党のCDU・CSU/社会民主党(SPD)は凋落し、下院は6党に多党化した。

○欧州危機の位相
・欧州はこの10年間、危機の連鎖に襲われた。本書の視座は「メルケル率いるドイツこそ、地殻変動の震源地」と云う仮説である。

・欧州の危機には「3つの位相」がある。①欧州の各国内、②欧州の各国間、③欧州と欧州外である。
・①「欧州の各国内」で顕著なのが、「テロの続発」「右派政党の台頭」である。2015年11月「パリ同時多発テロ事件」があった。2017年5月仏国大統領選で「国民戦線」マリーヌ・ル・ペンが健闘した。同年3月オランダで「自由党」が第2党になる。同年10月オーストリアで中道右派「国民党」と右派「自由党」が躍進し、連立政権を発足させた。英国の「EU離脱」に「英国独立党(UKIP)」が果たした役割も大きい。

・②「欧州の各国間」では、課題に対する姿勢の違いから、欧州統合のモメンタム(勢い)は失われ、遠心力が増している。欧州には3つの断層がある。
・1つ目は東西の亀裂である。ドイツでは「国家」は超国家により包摂されるべき存在だが、東欧諸国にとってはロシア/ドイツをはねつける最後の砦である。西欧はリベラル/国家主権の超克/多文化主義だが、東欧は保守主義/ナショナリズム/均質性である。
・2つ目は南北の亀裂である。北欧は法治主義であるが、南欧は縁故主義である。これは経済・社会システムに表れる。ドイツがギリシャに徴税強化/緊縮財政を求めても無駄である。これは政治/公共に対する意識以上に人生観が異なる。
・3つ目は島嶼・沿岸と内陸の亀裂である。自由貿易の英国/オランダなどの海洋欧州と、領土拡大に拘る大陸欧州の亀裂である。「英国経験論」と「ドイツ観念論」の違いでもある。※この亀裂は理解していない。

・③「欧州と欧州外」では、欧州とロシアの深刻な対立がある。クリミア併合/ウクライナへの軍事介入に欧州は経済制裁で臨んだ。また欧州とトルコの関係も悪化している。

・この「3つの位相」は相互に絡み合っている。2009年ユーロ危機(②)は、南欧諸国の政治不安(①)をもたらし、さらにEU分裂の危機(②)に跳ね返った。また2015年難民危機(③)は、各国でテロの続発/右派勢力の拡大(①)をもたらし、難民の受け入れでドイツ/スウェーデンなどとポーランド/ハンガリーなどとの対立(②)を生み出した。

○近代西欧理念の限界
・欧州の危機の根源は何だったのか。欧州には自由/民主主義/人権/寛容の理念があり、それを土台として国民国家の超克/多文化共生/移動の自由などの欧州統合の理念がある。それが限界に突き当たったのではないか。理念を貫けば逆流現象が起き、難民が殺到し、非寛容な政治勢力が台頭している。ユーロは欧州統合の象徴だが、南欧の失業率増大や各国間の軋轢を生んでいる。

・1989年「ベルリンの壁崩壊」で、世界は「歴史の終わりの始まり」と楽観した。欧州統合こそ至高の理念とされた。東欧の民主化も楽観視された。ところが東方拡大がロシアに接すると、リベラル秩序の欧州に対し、軍事力で影響力を確保しようとする「勢力圏思想」のロシアはクリミアを併合した。

・西欧は人権/寛容と云った「普遍的理念」から欧州統合を押し立てた。それはナチスの経験からドイツに最もふさわしい思想であった。しかし英国/仏国は、ドイツほど国家否定的ではない。逆にポーランドなどの東欧諸国は、国民国家を最後の保障としている。

・移民・難民は「欧州近代理念」に同化されるとの前提がある。しかし欧州で起きたテロ事件の実行犯はホームグロウンで、この前提を肯定しないばかりか、ルサンチマン(怨念)を抱き、破壊衝動を呼び起こしている。
・人間は進歩的であるとして欧州統合を推し進めた「欧州近代理念」は、今やしっぺ返しを受けている。

○メルケル政治
・メルケルはウクライナ問題で「ミンスク和平合意」を纏め、欧州安定の要との評価もある。しかしメルケルの政治は過度に倫理的である。対中国・ロシア外交/脱原発政策(2011年)/上限なしの難民受け入れ(2015年)/緊縮財政への拘りなどである。
・難民受け入れは「3つの位相」に影響を及ぼした。第1の位相では、欧州各国で右派勢力の拡大をもたらし、第2の位相では、英国のEU離脱などの欧州の分断をもたらした。2015年からの難民流入は欧州史の分水嶺になるだろう。

・メルケルは12年間首相を務める異色の政治家である。ドイツで最初の女性の首相であり、東ドイツ出身であり、戦後生まれで、物理学者でもある。彼女は36歳の時ドイツ統一を経験し、人生の半分を東ドイツで過ごしている。福沢諭吉は「一身で二生を経る」と言ったが、彼女はそれを体現している。
・彼女はドイツ統一により物理学者から連邦議会議員に変転し、統一後の最初の内閣で閣僚になる。彼女の東ドイツ出身/女性/プロテスタントと云う希少価値がそうさせた。ただ当然ながら彼女は高い能力を持っていた。

○近代理念の体現者
・メルケルを知る人は、彼女の勤勉/理解力/記憶力を評価する。彼女は慎重で、機が熟して決断するタイプであり、しかも折衷策が多い。
・彼女は牧師の娘らしく人道的である。そのため倫理的な問題が絡む政策では即断する事が多い。2015年上限なしの難民受け入れが、それに当たる。綺麗事に終始すれば多くの人が不幸になる事はよくある。逆に無慈悲な政策が多くの人の幸福に繋がる事もある。
・合理性と理性が結び付いたものが「欧州近代理念」とすれば、彼女は正にその体現者である。

○グローバルな地殻変動
・メルケルの政治は道徳/価値を重んじる「理想主義」である。これはドイツが繰り返してきた性と云える。冷戦終結で東西ドイツはソ連/米国に従う必要がなくなり、NATO/EUは拡大した。これによりドイツの”先祖返り”が起きたと云える。
・英国EU離脱/トランプ出現に象徴されるように、アングロサクソン世界(英国、米国)とメルケルが主導するEUとの離反が顕著になってきた。アングロサクソン世界は市場重視/自由貿易で世界を牽引してきた。しかしここにきて、大転換を見せたのである。一方ドイツは、ナチス支配の否定/平和・人道の理念から欧州統合を主導してきた。英国はこのドイツ主導のEUに距離を置きたかったのである。※この辺りの見方は明快。しかしEUも分裂の危機にある。
・このアングロサクソン世界と欧州大陸の分裂を見て、中国は自由貿易の守護者を演出し、ロシアは欧州の右派勢力を支援している。
※やっと序章が終わった。

<共産主義の孤島-幼年、少女時代>
○ハンブルクで出生
・メルケルは東ドイツの共産主義体制で育った。しかしそんな中でも個人の尊厳を重視する姿勢が窺われる。これは牧師である父の影響もあろう。
・2013年3月著者は彼女が育ったテンプリンを訪れる。ベルリンから1時間余り、人口1万6千人の町である。

・1954年7月彼女はハンブルク(西ドイツ)にアンゲラ・ドロテア・カスナーとして生まれる。父ホルスト・カスナーは牧師であった。当時は東西冷戦が固定化される時期で、ベルリンの壁が建設(1961年)される前であったが、1954年も毎月3~4万人が東ベルリンから西ベルリンを経由し、西へ移住していた。

・彼女が生まれる前年、スターリンが死去し、東西対立が緩和し、「雪解け」となっていた。ソ連では文学/芸術/科学が自由化され、政治犯も釈放された。東ドイツでも「ドイツ社会主義統一党(SED)」が「新コース」により、同様な政策を取った。「新コース」には、物価引下げ/税率引下げ/個人営業許可/農民への耕作機械の返還などが盛られた。

・東ドイツのプロテスタントはSEDにより弾圧されていたが、「新コース」に聖職者の解放/教会財産の返還などが盛られた。彼女の父カスナーはこれらに期待し、ハンブルクから東ドイツに移った。また彼は東ベルリンの生まれで、故郷での布教活動に携わりたいと思っていた。

○祖父はポーランド人
・カスナーの父ルートヴィヒ・カジミエルチャク(ポーランド人名)は、1896年ドイツ領だったポーゼン(ポズナニ、西ポーランド)で生まれる。第一次世界大戦の終結時にドイツに移住し、ベルリンでマルガレーテと結婚し、1926年カスナーが生まれている。1930年カジミエルチャクはドイツ風のカスナーに改名する。父カスナーの経歴は不明な点が多い。

・メルケルの母ヘルリントは、1928年当時自由都市だったダンツィヒ(グダニスク)で生まれる。第二次世界大戦後、ハンブルクに移った。ヘルリントは英語/ラテン語の教師資格を持っていた。

○クヴィッツォウでヤギと鶏を飼う
・カスナーは東ドイツのクヴィッツォウの教会に移る。クヴィッツォウは人口300人程度の小村であった。母ヘルリントは移るのには反対だったと思われる。配給は不十分で、教会の庭で野菜を栽培し、ヤギ/鶏を飼った。1957年長男マルクス、1964年次女イレーネが生まれる。
・カスナーはブランデンブルク教区監督と知り合いになり、1957年条件の良いテンプリンに移る。

○障害者と共に
・著者はテンプリンを訪れ、メルケルが育った「ヴァルトホーフ」(森の館)や、彼女が通った一般教育総合技術学校(10年生初等教育)/高等学校上級過程(2年生)を回った。

・ヴァルトホーフはサッカー場が何面も取れる広大な敷地である。カスナーが住んだ頃にヴァルトホーフは精神障害者の助産施設となり、敷地は牧場/農園になり、製靴/裁縫/鍛冶などの作業場も建ち並んだ。またプロテスタント牧師の教育施設もあり、カスナーは牧師の教育訓練が生涯の仕事になる。
・この敷地内にカスナー一家の3階建ての屋敷があった。障害者からの収穫や家事手伝いにより、カスナー一家は楽に生活できた。
※これは知らなかった。

・メルケルは”最初の師”を年老いた庭師と語っている。両親は忙しく、彼から信頼感/安心感を得て、自然や精神障害者との接し方を教わった。※こう云う人がたまにいる。

○ベルリンの壁建設
・メルケルが通った一般教育総合技術学校「ゲーテ学校」はテンプリン旧市街に接してあり、高等学校上級過程はその隣にある。
・1961年家族はバイエルン(西ドイツ)を旅行する。8月11日に帰宅するが、東西ドイツの国境に有刺鉄線が置かれ、夥しい兵士がいるのを目撃した。その2日後に国境が封鎖される。
・ベルリンの壁建設によりカスナーは教会で泣き、ヘルリントはハンブルクの母に会えなくなると落胆した。

○二重生活
・東ドイツでは、「ピオニール」(共産主義の少年少女団、6歳以上14歳未満)/「自由ドイツ青年団」(FDJ、14歳以上25歳以下)やキリスト教会の青年組織に加入したり、成年式(東ドイツ国民の宣誓)または堅信礼(キリスト教徒の儀式)の儀式を受ける。「ピオニール」に加入すると、学校で顕彰に授かる事ができた。
※共産党か宗教を選択か。ドイツは宗教色が強いのかな。プロテスタントだろうに。

・聖職者は子供を「ピオニール」に加入させなかったが、メルケルは2年生の時、自発的に加入した。また彼女はFDJと教会の青年組織の両方に加入した。彼女はアウトサイダーになりたくなかったのだろう。ただし成年式は受けなかった。
・FDJの加入率は1960年代初めで約50%、1980年代末で90%までに達している。東ドイツがSEDの下で、監視社会であった事は間違いない。メルケル兄弟はヴァルトホーフと学校の二重生活を送っていたと云える。

○理想的な女子生徒
・同級生によるメルケルの評価は様々であるが、牽引力がある/冷静/論理的などが一般的な評価である。有名な話に体育の授業で高さ3mの飛び込み台から飛び込むのに、45分掛った話がある。
・彼女の伝記を書いた連邦議会議員ゲルト・ラングートは、「彼女は組織化に長け、無秩序を嫌った」と書いている。

○時代の波
・1960年代は学生反乱の時代であった。1968年「プラハの春」の時、カスナー一家はポーランドとチェコスロバキアの国境地帯で休暇を過ごし、その高揚を実感した。※東欧内であれば越境は問題ないんだ?

・学校の雰囲気は東ドイツ政府が期待するものではなかった。公民の授業は、ベルリンの壁を”反ファシストの壁”としたが、「東ドイツを去りたい人は、そうさせれば」と発言する生徒もいた。※恐ろしい。
・メルケルの幼馴染は反体制詩人・歌手の曲を聞いていた。彼女もローリングストーンズ/ビートルズの曲がお気に入りであった。

・両親の影響もあり、彼女は子供の頃から政治に関心があった。しかしその対象は西ドイツで、8歳の時には西ドイツの閣僚を諳んじていた。

○ロシア語、数学
・メルケルは学業が優秀だった。好きな科目はロシア語/英語だった。ロシア語オリンピックで8年生の時に3等になり、9年生の時は「友好列車」でモスクワを見学した。10年生の時には優勝している。※進駐ソ連兵と会話していたらしい。プーチンとの会話も通訳なしだろうね。

・彼女の数学の能力は断トツで、「若い数学者の郡クラブ」に参加していた。そこの指導者は「彼女の特質は粘り強さにあった。彼女のやり方は結果が何かを想定し、そこから遡って解く方法であった。それを今でもやっているように思える」と述べている。

○教会
・マルクス・レーニン主義とキリスト教は”水と油”であり、SEDにとっては、9割以上がキリスト教徒(大半がプロテスタント)の東ドイツで、共産主義の正統性をどう確立するかが大きな課題であった。
・東ドイツの教会は、全ドイツのプロテスタント教会の組織である「ドイツ福音教会(EKD)」の傘下にあった。東ドイツの教会に左派の牧師がいて、彼らは共産主義とキリスト教は矛盾しないとした。カスナーも彼らに加わった。

・1957年東ドイツ政府とEKDが断交する。翌年プラハで「キリスト教平和会議(CFK)」が発足する。CFKはソ連の情報機関「国家保安委員会(KGB)」にコントロールされ、「平和愛好的なソ連」を宣伝した。カスナーもこれに加わった。※親子とも”寄らば大樹”かな。
・同年東ドイツの左派の牧師11人が、研究チーム「ヴァイセンゼー」を発足させる。カスナーはこれにも加わった。本研究チームは東ドイツの情報機関「シュタージ」(※本書で重要になるはず)に後ろ盾されていた。本研究チームは、堅信礼と成年式は矛盾しないなどの考えを持っていた。
※カスナーは共産主義と距離を置いた人と思っていたが、逆かな。
・1963年本研究チームは、「社会主義の中の教会」を基礎付ける7項目を発表する。7項目には「反ファシズムに協力するのはキリスト教徒の義務」などがあった。

・1969年「東ドイツ福音教会連盟(BEK)」が発足する。これによりEKDからの分離がなった。BEKは「社会主義の中の教会」を目指すと声明する。
・東ドイツが存在している間、キリスト教徒は減少を続けた。1979年に57%、ベルリンの壁崩壊直前(1988年)には40%まで減じた。※減じた説明がない。無宗教化?
・牧師の大半は反体制派であり、1980年代にプロテスタント教会を利用し反体制運動が組織され、プロテスタント教会は民主化運動(1989年)の拠点になった。

・カスナーは優遇された。国民は自動車を購入するのに10年以上待たねばならなかったが、彼は2台使用していた。ローマ/ロンドンなどへの旅行も許された。
・彼に対して、体制に妥協した/体制内改革を目指したなど様々な見方がある。彼は”赤いカスナー”と呼ばれたが、共産主義者ではなかった。
・メルケルは秩序正しいカスナーから「合理性」を学んだ。しかし両親と違い、彼女は東ドイツの経済面を不安視していた。統一後ヘルリントはSPDに入党し、テンプリン市議会議員を5年間務めている。※親子で政党が違うんだ。

・メルケルは物理学を専攻するが、その理由は明白でない。大学進学前に騒動を起こしている。「文化プログラム」のテーマは「ベトナム戦争」であったが、真面目に取り組まず、フィナーレで「インターナショナル」を敵性語(英語)で歌った。この問題は郡レベルまで報告され、大学入学が取り消されそうになる。しかしカスナーが書いた手紙を提出し、大学進学は許される。

<雌伏の女性物理学者-大学、研究者時代>
○新天地ライプチヒ
・1973年秋、メルケルはカール・マルクス大学ライプチヒに入学する。大学は5年間で基礎教育2年、専門教育2年、ディプロム(修士課程)1年であった。
・彼女は「ドイツ社会主義統一党(SED)」の青年組織「自由ドイツ青年団(FDJ)」の文化担当者になった。週2回「学生クラブ」が開設され、カクテルの材料などを購入した。
・1977年メルケルは同じ物理学のウルリヒ・メルケルと結婚する。彼女は野心家であったが、彼は大人しかった。テンプリンの教会で結婚式を行った。
・第5年次はライプチヒの「同位体及び放射線研究所」で研究した。60ページの論文を作成し、学位を得る。

・大学時代に国際情勢が大きく変わる。「米ソ・デタント」を背景に、1973年東西ドイツが国連に加盟する。1975年ヘルシンキに欧州/米国/カナダが集まり、武力不行使/国境不可侵/内政不干渉/人権・自由の尊重などを原則とする「ヘルシンキ宣言」が調印される。

○科学アカデミー
・1977年末イルメナウの技術大学から採用の打診があった。プロテスタントの学生組織に出席しないが条件であった。さらに面接後、シュタージの協力者になる勧誘があったが、「秘密を守れない」と断った。この採用は流れる。

・1978年メルケルは「科学アカデミー」(以下アカデミー)の「物理化学中央研究所(ZIPC)」に就職し、その後24年間働く。アカデミーは東ドイツで最も権威があり、研究所は全部で60あり、2万5千人が働いていた。9割が自然科学、1割が人文・社会科学の研究をしていた。彼女はZIPCで基礎研究に携わった。
・アカデミーの研究者は様々な面で優遇された。職員の給与は約1千マルクであった(店員は約600~800マルク)。普通では手に入らない商品も購入できた。図書館では、西側の著作/雑誌も読めた。

・彼女はFDJの活動を買って出た(※FDJは25歳まで)。職場の地下室で議論の司会を務めた。研究所は体制に批判的であったが、挑発的ではなかった。1977年『オルタナティブ』が出版され、彼女も分析したが、ロマン主義的/社会主義的なユートピアと批判した。

○ベルリンの日常
・メルケル夫妻はマリーエン通りのアパートに住んでいた。ベルリンの住宅事情は悪かった。彼女は早朝に家を出て、電車内でSED機関紙『ノイエスドイチュランド』、事務所でソ連共産党機関紙『プラウダ』を読んだ。彼女は英語の勉強も兼ね、英国共産党の新聞『モーニングスター』も読んだ。
・彼女は演劇を見るのが好きだった。伝統的なものが主体で、反体制と結び付く前衛芸術(アヴァンギャルド)には接触しなかった。

・彼女は共産圏に限られるが、精力的に海外旅行した。1981年にはポーランドを3回訪問した。彼女は社会主義の改革を考えており、「連帯運動」を評価していたとされる(※1980年代の労働運動かな)。1983年にはアルメニア/グルジア/アゼルバイジャンを旅行している。1984年プラハの量子化学者ヨアヒム・ザウアーを訪れている。
・西ドイツには2回訪れている。1986年いとこの結婚式でハンブルクを訪れている。この時急行列車に驚いている。1989年叔母の誕生日でハンブルクを訪れている。

・1980年代末から核軍縮が政治問題になった。研究所でもこれについて議論した。

・1981年メルケル夫妻は別居し、翌年離婚する。彼女はFDJ書記長の下に一旦身を寄せた後、非合法の部屋に移り住んだ。彼女は離婚後もメルケル姓を使い、再婚後も使い続けている。
・1981年現夫ザウアーと知り合っている。彼とは事実婚状態だったが、キリスト教民主同盟(CDU)で有力な政治家になり、1998年婚姻届けを提出した。

○体制末期
・1985年メルケルは博士論文を提出する。博士号取得にはマルクス・レーニン主義の受講も必要で、レポート『社会主義的な生活方法』を提出している。博士号取得により、「分析化学の物理学的方法」に異動になる。

・1980年代後半ソ連で政治転換の兆候が現れる。1985年ミハイル・ゴルバチョフが共産党書記長に就き、政治経済の抜本的改革を目指し、「ペレストロイカ」(改革)/「グラスノスチ」(情報公開)を始める。彼の演説は研究所で回し読みされた。

・彼女は反体制運動には参加せず、体制内で地位を得て生きてきた。そのため統一後、FDJでの活動が問題視される事が多かった。彼女はインタビューで「東ドイツでは設備が不十分などの理由で限界まで研究できなかった。人が潜在能力を発揮し、限界までできるようにするのが政治の役割」と答えている。彼女はそのため西側への亡命を考える事もあった。また彼女は「東ドイツで学んだのは、感情や発言を押し殺す沈黙である」と答えている。

<民主化の嵐に突入-民主的出発、副報道官時代>
○ベルリンの壁崩壊
・1985年ゴルバチョフの共産党書記長就任以来、東ドイルの知識人は共産主義体制の改革を目指した。メルケルもこれに賛同した。
・東ドイツは西ドイツの存在から、共産主義を墨守し、ゴルバチョフの改革を批判した。「ドイツ社会主義統一党(SED)」はソ連の雑誌の輸入を禁じた。

・東欧諸国ではソ連の動きを受け止め、自由を求める運動が活発化した。ポーランドでは、1980年代初め自主管理労組「連帯」の実績があった。1988年8月「円卓会議」で翌年の選挙から複数政党制が導入される事になった。ハンガリーでは、1989年2月憲法から共産党の指導性が削除され、6月複数政党制が導入された。

・同年5月ハンガリーは自由化の一環として、オーストリアとの国境から鉄条網を撤去した。そのため東ドイツの多くの若者がハンガリーに集まった。ブタペスト/ワルシャワ/プラハの西ドイツ大使館に、西ドイツのパスポートを申請する多くの東ドイツ人が駆け込んだ。9月ハンガリーは国境を開放し、数万人が西ドイツに出国した。10月ポーランド/チェコスロバキアも同様となった。

・東ドイツでは大量脱出と平行して、民主化を掲げる市民運動組織「新フォーラム」「民主主義を今」「民主的出発(DA)」が結成される。メルケルはその後DAに参加する。10月1日、DAは牧師の家に17人が集まり、設立宣言を決議する。29日プロテスタント教会に100人が集まり、再度設立集会を開く。
・10月6日東ドイツ建国40周年式典にゴルバチョフが訪れ、東ドイツの体制の改革を求めるが、ホーネッカー書記長は否定する。18日ホーネッカーは書記長を辞任する。

・ベルリンの壁が開放されるのは、11月9日である。午後7時政治局員が「東ドイツ市民は直ぐに国境を通過できる」と述べた事が切っ掛けになり、東ベルリン市民が8ヶ所あった検問所に殺到した。
・11月4日彼女はハンブルクで叔母の誕生日を祝い、ベルリンに帰る。彼女の9日の行動が彼女らしい。午後8時習慣になっていたサウナに行く。午後9時帰宅中に検問所に向かう群衆に遭遇し、一緒に西ベルリンに入る。西ベルリンの民家で食事に招かれ、翌朝早いので食事して帰宅している。
・当時の東ドイツの知識人の考えは東西統一ではなく、東ドイツの体制改革で一致していた。彼女の研究所でも、「統一だと東ドイツは西ドイツに飼いならされる」との意見があった。

○民主的出発(DA)への参加
・ベルリンの壁が開放により、東ドイツの政治運動は民主化から統一に基調が変わる。11月18日、SEDは改革派のハンス・モドロウが組閣する。28日西ドイツ首相ヘルムート・コールは統一のための10項目を発表する。

・その頃メルケルは市民運動の集会に顔を出すようになる。「新フォーラム」や社会民主主義政党「社会民主党(SDP)」にも顔を出したが、前者は権威主義、後者は完成済で彼女は好ましく思わなかった。一方DAは、参加者の多くが知識人やプロテスタント牧師であり、政党として政治参加する意向があった。彼女はクリスマス直前にDAに入党したと思われる。
・翌年3月18日に人民議会選挙が行われる事になり、1989年12月17日DAは急遽政党として発足する。綱領で民主化/ドイツ統一を目標とした。1990年2月5日東ドイツのDA/CDU/ドイツ社会同盟が選挙同盟「ドイツ連合」を結成する。

・彼女はアカデミーで過ごすより、DAで過ごす時間が長くなり、DAの職員として働き始める。彼女はその働き振りが認められ、1990年1月23日報道官に選出される。
・DAの創始者の一人は、「我々は政治の素人で、経験/資金/組織がなく、あらゆる事が即興で行われた。彼女は誰にでも理解できる公的な文書を書けた」「古参の反体制派と違い、彼女は因果関係を理論的に解釈できた」と述べている。さらに「彼女にとって政治は人間を内面から揺さぶるものではなく、化学や物理の公式のようなものだった」「彼女はカリスマ的ではなく、冷静でスパルタ的であった。これはプロテスタントに関係しているのだろう」「DA内で路線闘争があったが、彼女が取り仕切った」「彼女は躊躇し過ぎると批判されるが、実行可能になるまで躊躇するだけだ」「CDUは保守的なカトリックからリベラルまで幅広い。彼女は常に中間を追求してきた」と述べている。

○副報道官
・1990年3月18日人民議会選挙で「ドイツ連合」は得票率48%で、400議席中192議席を獲得する(内DAは4議席)。第2党「社会民主党(SDP)」は得票率22%で、88議席を獲得する。
・彼女は投票日の夜、CDU党首ロタール・デメジエールを訪れている。4月12日彼は東ドイツ最後の首相に選出される。報道官ゲーラーは国会担当となり、副報道官の彼女は報道担当になった。デメジエールは「彼女の報道分析は、ゲーラーの1/2の時間で、2倍の成果を出した」と述べている。彼女はデメジエールの政治アドバイザーの役割も果たすようになる。※恐ろしい人だ。

・1990年8月4日DAの党大会でCDUとの合併が承認される。彼女は12月2日に行われる最初の連邦議会選挙への立候補に動く。出身地ブランデンブルク州からの立候補を望んだが、メクレンブルク・フォアポンメルン州のシュトラールズント・リューゲン・グリンメン選挙区に決める。彼女はCDUの候補として得票率49%を得て当選する。
※政治の世界に入って1年で連邦議会議員だな。

<首相への階段-閣僚、野党指導者時代>
○”コールの娘””灰色のネズミ”
・1991年1月18日第4次コール内閣が発足し、メルケルは女性・青年相に抜擢される。これは前東ドイツ首相デメジエールの推薦もあったが、コール首相が地域のバランスを重視した事にもよる。ドイツ統一(1990年10月3日)の前日、コールは彼女と初めて会い、彼女に強い印象を受けたのか、長時間話している。
・彼女は”コールの娘””灰色のネズミ”(平凡な女性)などと呼ばれ、軽んじられる事もあった。

・ドイツ統一は事実上、西ドイツによる東ドイツ吸収だった。西側社会で働く事になった彼女は、就任直後はクレジットカードの使い方から米国マンガの主人公まで教わる必要があった。しかし官僚達は彼女の集中力/知性/本質に感嘆した。当時は中絶問題/強制養子問題/事実婚・同性婚問題/児童ポルノ問題などがあった。
・彼女は積極的に外遊を行った。1991年4月研究・科学技術相/首相府相とイスラエルを訪れるが、彼女にマイクは向けられなかった。しかしコールの引き立ては続き、7月米国を訪れ、ブッシュ大統領/レーガン前大統領と面会している。

・コールの後ろ盾があっても基盤が必要であった。1991年11月CDUのブランデンブルク州代表に立候補するが敗れる。これは彼女が敗れた唯一の投票である。しかし12月CDU副党首に立候補し当選する。※政界に入って2年で与党No2!

○リベラル政治家
・メルケルは中絶問題に取り組む。彼女は女性の自己決定を尊重する立場であったが、キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)はカトリック教徒が多数派で「生命の保護」を最優先した。議員の考えは4つに分かれていた。①「無条件禁止」、②医者が判断する「要件解決」、③医師と相談する「相談解決」、④無条件で容認する「期間解決」である。彼女は③「相談解決」で、中絶より支援と考え、党の法案に棄権した。
・これらから彼女は”CDU左派”と見なされた。これは彼女がプロテスタントで、ドライな性格が影響していると考えられる。

○環境相
・1994年10月16日第5次コール内閣が発足し、メルケルは環境・自然保護・原子力安全相(以下環境相)に就く。環境省は「チェルノブイリ原発事故」(1986年)により設立された省で、難題が多かった。規制が厳しく、自動車業界などから反発が強まっていた。しかし彼女は役人との関係も、経済界との関係も改善させた。
・1995年3月ベルリンで「地球温暖化防止会議」(第1回気候変動枠組み条約締結国会議、COP1)が開かれ、議長として130ヵ国の多国間交渉を取り纏めた。この能力は欧州連合(EU)首脳会議/主要国首脳会議でも発揮される。

・1995年光化学スモッグの原因となるオゾンが問題になる。彼女は高速道路で排気ガスを減じる法案を作成し、事前に運輸相/経済相と調整していたが、閣議で反対される。これには彼女も涙する。
・1998年5月高レベル放射性廃棄物を仏国に輸送する「カストル輸送」で放射能漏れが測定される。彼女は10項目の安全対策を公表するが、「緑の党」は彼女に監督責任があるとして辞任を求めた。彼女は州政府に責任があるとして、危機を乗り切る。
・彼女は8年間閣僚として活動するが、コールの影から抜け出せなかった。しかし新しい分野に迅速に対処する能力は際立っていた。

○ヤミ献金
・1998年9月連邦議会選挙でCDU・CSUは得票率35%になり、議席を減らす。ゲアハルト・シュレーダーが首相の社会民主党(SPD)/緑の党の左派連立政権が発足する。メルケルはCDUの幹事長に選出され、新党首ヴォルフガング・ショイブレと共に党運営に当たる。

・1999年11月4日CDUのヤミ献金が発覚し、ドイツ政治の大スキャンダルになる。CDUの会計責任者が逮捕され、ヤミ資金の調達/分配システム(コール・システム)が暴露された。ドイツ政界のアウトサイダーであった彼女は全容解明を求め続けた。12月16日コール前首相は、150~200万マルクのヤミ献金を認めた。
・12月22日彼女は『フランクフルター・アルゲマイネ紙』にコールを批判する寄稿をする。これはショイブレにも連絡していなかった。
・2000年1月18日コールは名誉党首を辞任する。ショイブレもヤミ献金の受領が発覚し、2月16日党首を辞任する。

○党首に選出
・メルケルは非情との批判もあったが、CDUは党刷新を行う気運が高まった。2000年4月10日CDU党大会で圧倒的多数で彼女は党首に選出される。議員団長には副党首フリードリヒ・メルツが選出される。※議員団長って何だ。幹事長とは別みたいだが。
・メルツの経済政策は新自由主義、社会政策は保守派で、彼女と思想が異なった。そのため与党(SPD、緑の党)の税制改革法案に抵抗できなかった。

○2002年連邦議会選挙
・2001年は翌年の連邦議会選挙を準備する年になる。ドイツでは各候補者は「首相候補」を明示して選挙に臨む。CDUの場合、CSUと共同会派を組んでいるため、複雑になる。2001年夏、彼女は「首相候補」になる意思を示していたが、CSU党首エドムント・シュトイバーがどう出るかが問題であった。
・2001年末になると、シュトイバーを支持するCDUの州首相が出てきて、連邦議会議員にも広がった。2002年1月11日CDU幹部会が開かれるが、彼女はその日の早朝にシュトイバーの自宅(ミュンヘン)に飛び、彼を「首相候補」にする事で合意した。マクデブルクに戻り、CDU幹部会で彼を「首相候補」にする事で合意したと報告した。これで自身への不信任が提出されるのを防いだ。

・2002年9月22日連邦議会選挙で、CDU・CSUとSPDは得票率39%で同率となるが、6027票の僅差で敗れる。シュレーダー政権(SPD、緑の党の連立)が継続した。
・この選挙は高い失業率を解消できなかったシュレーダーが圧倒的に不利と思われていたが、覆った理由が2つある。1つ目は洪水である。夏にエルベ川で洪水が起こるが、シュレーダーは迅速に現地を訪れたが、シュトイバーは夏季休暇中で現地に入るのが遅れた。2つ目は「イラク戦争」である。米国ブッシュ大統領のイラク攻撃に対し、シュトイバーは不支持を表明した。これは反米感情が特に強い旧東ドイツで効果があった。

・選挙の敗北で彼女はメルツに代わり議員団長にも就く。CDUの議員は1/3が初当選で、彼らの支持もあった。

○シュレーダー政権
・第2次シュレーダー政権の最大の課題は、「ヨーロッパの病人」と評される経済であり、400万人を超える失業であった。ドイツはユーロの「財政安定成長協定」に、2003年から3年連続で違反となる。※ユーロ前はドイツは「ヨーロッパの病人」か。
・2003年3月14日シュレーダーは失業者を減じるための労働市場改革「アゲンダ2010」を発表する。シュレーダーは「アゲンダ2010」を基に4つの法案を通すが、効果が出るのはメルケル政権になってからである。
・中道左派であるシュレーダー政権が構造改革を推進したため、メルケルは新自由主義に傾かざるを得なかった。2003年12月彼女はCDU党大会で、社会保障制度の見直し/税制の簡素化を打ち出した。この頃が彼女が最も「小さな政府」に近付いた時期である。

・当時の外交上の最大の課題は「イラク戦争」である。2003年3月20日開戦の前月、彼女は米国を訪れる。彼女はシュレーダーの姿勢を批判し、訪米前「ワシントンポスト紙」にシュレーダーの単独行動を批判する寄稿をしている。
・その後の中東の混乱/ドイツ人の反米感情から、この行動は問題視されるが、彼女は欧米の一体化や、独裁者への武力行使を排除しないと主張している。実際、日本は武力行使を否定する「絶対的平和主義」だが、ドイツは緑の党を含めて、ナチのジェノサイドなどを防ぐためには武力行使を厭わない「人道的平和主義」である。

○大統領選
・2004年前半は5月23日に行われる大統領選の候補者選びが焦点になる。大統領の政治的権力は弱いが、法案の拒否権がある。各党が共同候補を立てるため、大統領選は政治的色彩が強い。
・CDU・CSUの多くの政治家はヤミ献金疑惑があったショイブレを支持した。しかしメルケルは自由民主党(FDP)に恩を売るため、FDPが推す国際通貨基金(IMF)の専務理事ホルスト・ケーラーを考えていた。
・3月3日CDU幹部会は候補者選びで激論になり、FDP/CSUと交渉するため、最終的に以下の候補者リストを作成した。①クラウス・テプファー(元環境相)、②アンネッテ・シャヴァン(バーデン・ヴュルテンベルク州教育相)、③ケーラー。※FDP/CSUとの交渉については書かれていない。
・大統領選でケーラーが当選する。大統領には引退した政治家が就く印象があったが、IMF専務理事ケーラーが選出され、新しい風を起こした。彼女としてはショイブレを追い出した事になる。

○権力の頂点へ
・2005年5月ドイツで最大のノルトライン・ヴェストファーレン州の議会選挙でSPDが大敗する。これを受けてシュレーダーは1年前倒しで連邦議会選挙を実施する。
・CDU・CSUは「首相候補」に党首/議員団長を兼務するメルケルを選ぶ。彼女は「小さな政府」を掲げるが、定額所得税税制「キルホーフモデル」は不人気であった。
・9月18日連邦議会選挙でCDUの大勝が予想されたが、CDU・CSU226議席/SPD222議席の僅差で勝利する。選挙は中道右派(CDU・CSU、FDP)と中道左派(SPD、緑の党)の闘いであったが、連立政権の交渉は難航し、11月22日彼女を首相とするCDU・CSU/SPDの大連立政権が発足する。

<危機管理首相-第1次政権(2005年11月~)>
○社民化するCDU
・2000年代前半、各国は構造改革を行った。しかしドイツでは「経済は国家が管理」の考えが支配的で、市場経済は敬遠されている。※そうなんだ。
・CDUの内政を理解する場合、二つの対立軸から見ると分かり易い。経済政策面での対立軸は市場重視と福祉拡充、社会政策面での対立軸はキリスト教的価値とリベラルな価値である。メルケルは経済政策面では「大きな政府」路線(福祉拡充)を取った。さらに世界金融危機により財政出動も要求された。社会政策面では、CDUは保守的であったが、彼女によりリベラルに転換する。

○外交/内政で好スタート
・EU予算で仏国シラク大統領は英国のEU分担金の払戻金の減額を要求し、一方の英国ブレア首相は農業補助金の減額を主張していた。2005年12月メルケルは両者の仲介役になり、妥協を実現する。
・内政では付加価値税を引き上げる税制改革法案(16%→19%)が可決される(下院2006年5月、上院6月可決)。財政赤字はEUの「財政安定成長協定」に違反しており、待ったなしの課題であった。この税制改革は大連立の長所と云える。
・シュレーダー政権の構造改革路線「アゲンダ2010」の効果が現れ始め、2005年春失業者数は525万人に達したが、2007年には376万人に減じる。※ユーロ導入も影響あるのでは。

○社会保障制度改革
・2006年後半、構造改革の本丸である社会保障制度改革に取り組むが、SPDやCDU・CSUの社会的公正を重視するグループが抵抗勢力になる。
・指導力を問う最大の試金石になったのが医療保険改革であった。CDU・CSUは患者負担を増やす事を主張するが、SPDは公的保険が免除された経営者/公務員が加入する民間保険を公的保険に取り込む事を主張した。この妥協として、保険料と公的資金をプールする「健康基金」が創設され、そこから「疾病金庫」に分配する方式になった。
・ドイツでは与党内や与党政党間で抗争が長引くと支持率が下がる。医療保険改革の難航により、支持率はドイツ統一後最低の33%まで落ち込んだ。

○G8
・2007年6月主要国首脳会議(サミット、G8)がドイツのハイリゲンダムで開かれた。サミット会場には限られた写真記者しか入れず、取材記者は7キロ離れた国際プレスセンターで原稿を書く。著者はこの時、G8がG9(中国の参加)になるか、メルケルに質問している。
・メルケルがサミットの主要課題として設定したのが地球温暖化対策であった。「2050年までに温室効果ガスの排出量を半減する」で合意する。これは彼女の英語力の効果と思われる。

○対ロ人権外交
・連立協定には外交においても西側の価値(民主主義、自由、法の支配、少数者の権利)を掲げていた。2006年1月メルケルは最初のロシア訪問で、プーチンのメディア/野党/人権活動家への抑圧政策を批判した。これは前首相シュレーダーと対称的である。
・シュレーダーはプーチンを「正真正銘の民主主義者」と称していた。この両人により実現されたのが、ロシアから直接天然ガスを入手できる「ノルトストリーム」であった。対中関係でも彼は中国の人権侵害を批判をせず、経済関係を前面に出した。彼は反米主義からイラク戦争にも反対している(前述)。
・彼女とロシアの関係は深い。彼女はロシアに心情的に惹かれたが、非自由/非民主的な政治、およびプーチンに対しては警戒した。ハイリゲンダム・サミット前の2007年5月彼女はロシアのサマラを訪問し、記者会見で平和的デモの参加者/ジャーナリストの拘束を批判している。

・第1次政権の外相はSPDフラン=ヴァルター・シュタインマイヤーが務めた。彼の対ロ外交はシュレーダーを引き継ぐもので、ロシアを欧州の意思決定に積極的に参加させる戦略であった(新東方外交)。しかし彼女はそれに懐疑的であった。彼女はポーランド/バルト3国に対するロシアを脅威と認識していたが、彼はNATO/EUの東方拡大を脅威と認識していた。※内閣不一致だな。
・2006年1月の彼女とプーチンの最初の会談で、彼は愛犬コニー(大型犬ラブラドール)を連れて面会し、さらに彼女にプードルを贈っている。また2007年1月ソチ会談でも会談中に愛犬コニーを入れている。

・2007年2月「ミュンヘン安全保障会議」にゲストとして招かれたプーチンは、「NATO拡大でブルガリア/ルーマニアに米国の前進基地が作られている」「冷戦時代は米ソの兵力バランスで世界が安定していた」などと発言する。彼の国際観は「バランス・オブ・パワー」が念頭にあり、「勢力圏的思想」である。
・2008年5月プーチンは2期8年の任期を終え、メドベージェフが大統領に就く。メドベージェフは「4つのI」(政府機構、インフラ、イノベーション、投資)をスローガンにし、資源依存の経済の改革を目指した。価値観が西側に近付くと期待されたが、2012年3月プーチンが大統領に復帰する。

・2001年シュレーダーとプーチンの合意により、毎年独ロの政府/産業界/シンクタンクが意見交換を行っている(ペータースブルク対話、※日中にあるのかな)。2009年7月それがミュンヘンで開かれる。
・プーチン以降、体制批判的ジャーナリストの殺害事件が相次いでいたが、この対話開催中にも人権活動家の殺害事件が起こる。彼女は「反論・異論を認める事が国家の発展に繋がる」と演説し、殺害事件の真相解明を求めた。
・当時はまだ世界金融危機から脱しておらず、経済関係が重要であり、メルケル-メドベージェフ会談で5億ユーロの信用保証供与などで合意する。また当時最大の国際問題はイラン核開発問題で、それにはロシアの協力が不可欠と認識されていた。しかし2008年8月ロシアの「ジョージア侵攻」、2014年3月「クリミア併合」「東ウクライナ軍事介入」に至り、西側はロシアに制裁を課し、G8からも追放する。

○対中人権外交
・2006年5月メルケルの最初の訪中は、穏やかな人権外交であった。しかし2007年8月2回目の訪中では、北京で人権活動家/反体制派ジャーナリストと面会するなど、批判のトーンを高める。さらに同年9月首相府でチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマと会談する。ドイツでは人権外交は高評価され、この会談に82%が賛成した。
・しかし中国との関係は悪化し、様々な会合がキャンセルになる。2008年1月外務省が中国に「謝罪文書」を送り正常化する。首相府はこの文書を”叩頭外交”と批判する(※こんな言葉があるんだ)。

・対中外交での人権外交はダライ・ラマとの会談が最後になる。2008年5月彼は訪独するが、政府要人は会わなかった。2010年彼女は北京で「民族の多様性は脅威ではなく、当然の事となる」と講演するが、人権批判のトーンは徐々に低くなる。ドイツではメルケル/大統領/外相が訪中する時は必ず人権活動家と面会している。また彼女は訪中に先だって、人権抑圧や死刑判決を受けている人のリストを作成させている。しかしいずれも”儀式”になっているに過ぎない。

○リーマンショック
・2006年6月サッカー・ワールドカップがドイツで開催された。メルケルも応援に加わり、国民にアピールした。
・2008年9月リーマン・ブラザーズが経営破綻する。米国/日本に比べ欧州の危機は深刻であった。それは欧州の金融機関が、高利回りのサブプライム証券/南欧の国債に投資していたためである。彼女はIKB産業銀行/ヒポ・リアル・エステートなどに公的資金を投入する。一方で経営者の高額報酬を批判し、世論の高い支持を得た。

・西ドイツ時代、ドイツは欧州統合を支える国であったが、メルケル時代になると国益を冷静に主張するようになる。また彼女は欧州統合は超国家機関の欧州委員会ではなく、首脳の集まりである欧州理事会で進めるべきと考えていた。彼女の金融危機への対応に、他国を斟酌しない「一国主義」が見られた。他国に相談せず預金保護を実施する一方で、2008年10月「欧州銀行救済基金」構想には反対している。

・彼女の経済政策は「市場重視と政府の関与」「自由競争と社会的公正」の両面でバランスを取る「社会的市場経済」に依拠している。一方で「緊縮財政」には原理主義的とも云える信念を持っている。そのため2009年秋からのギリシャ債務危機/ユーロ危機での支出抑制政策は、欧州諸国/米国から批判された。

・彼女の「時短労働」を活用する景気・雇用政策も効果を発揮した。「移転時短」とは経営が苦しくなった会社が余剰人員を「移転会社」に転職させる仕組みである。某株式会社は5千人の「移転時短」の労働者を受け入れた。某デジタルカメラ製造会社も「時短労働」(労働時間の2割減)を受け入れた。両社ともメルケルの政策を評価している。
・2009年8月ドイツの失業者は347万人(前年同期比28万人増)で、驚くほど少ない増加に留めた。

・2009年秋の総選挙に向け、彼女は大連立の成果を強調し、今後は減税/行政改革により経済成長を持続させ、失業問題/財政赤字を解消すると主張した。連立の相手は政策が一致している自由民主党(FDP)を挙げた。

<ギリシャと原発-第2次政権(2009年9月~)>
○ギリシャ債務問題
・2009年9月総選挙でキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)/自由民主党(FDP)は過半数を獲得し、メルケルは連立政権を発足させる。最大の課題は金融危機への対応で、緊急対応策によりドイツ経済の崩壊は免れ、経済の正常化/出口戦略が問われた。しかし出口戦略に取り組む間もなく、ギリシャ債務問題に直面する。

・第2次メルケル政権が誕生する9日前、ギリシャの新首相ゲオルギオス・パパンドレウが財政赤字が深刻なのを公表した。ドイツのメディアはギリシャの高い年金水準や高所得層の脱税を報道した。ドイツの銀行は430億ユーロのギリシャ債権を抱えており、債務不履行(デフォルト)は避けねばならなかった。ドイツは均衡財政を至上命題としているため、財政支援も財政出動による内需拡大もできなかった。そのためギリシャの自力による財政再建が唯一の方法であった。
・2010年5月7日ようやく欧州連合(EU)首脳会議でギリシャに対する財政支援と「欧州金融安定基金(EFSF)」の発足が決まる。

・さらに支持率低下を招いたのが、連立与党の確執であった。FDPは大幅な所得減税を公約にしていた。ショイブレ財務相やCDU・CSUの州首相は所得減税に反対した。2010年FDPは党大会で減税の規模/開始時期を後退させるが、それでもCDU・CSUからは否定的な意見が大勢を占めた。
・2010年5月9日ノルトライン・ヴェストファーレン州の議会選挙が行われ、CDUは10ポイントも得票率を落す。これは2日前にギリシャ支援法が成立した影響が大きかった。

・さらに2010年5月31日大統領ケーラーが辞任する。これは彼の発言「我々の利益を守るためには、軍事力の行使も厭わない」が原因であった。さらに後任の大統領選出も難航する。与党(CDU・CSU、FDP)はニーダーザクセン州首相クリスティアン・ヴルフを推し、野党(SPD、緑の党)は東ドイツ民主化運動で活躍したヨアヒム・ガウクを推したが、与党議員から造反が出る状況であった。
・またCDUの保守的で有力な州首相が相次いで辞任する(バーデン・ビュルテンベルク州首相、ヘッセン州首相、ノルトライン・ヴェストファーレン州首相、ハンブルク市長)。彼らはポスト・メルケルとされる有力者であった。

・この支持率低下は2010年秋、原発稼働期間延長まで続く。彼女はギリシャ債務危機/ユーロ危機に対し、ギリシャへの追加財政支援や恒久的な支援制度「欧州安定メカニズム(ESM)」への拠出など、国民に不人気の政策を実施せざるを得なかった。野党は親欧州からメルケルのギリシャ支援を支持したため、政権への信任は維持された。しかしギリシャ債務問題は根本的な解決に至っておらず、ギリシャ支援への反発は反ユーロ政党「ドイツのための別の選択(AfD)」を発足させ、その後の難民危機でドイツの分断はさらに深刻化する。

○記者懇談-気候温暖化対策
・2009年12月メルケルは「第15回気候変動枠組条約締結国会議(COP15)」前に外国メディア11名(著者も呼ばれる)を招いて「記者懇談」を行った。彼女は気候温暖化対策に積極的で、「京都議定書に代わる新たな協定合意に努力している」と語った。また「2050年までの気温上昇を2℃以内に抑える必要がある」と語った。※COP21(パリ協定)が同様の内容になっている。
・彼女は外国メディアのインタビューに基本応じないが、毎年夏休み直前、内外の記者200人を集めて「夏記者会見」を開いている。2011年7月「夏記者会見」で、著者は2点質問した(①2020年までに温室効果ガスの40%削減は可能か、②天然ガスのロシア依存は安全保障上問題では)。彼女は①に対し「目標は達成する」、②に対し「ノルウェー/英国など輸入先は多様化している」と答えた。
・なお政府報道官/各省報道官は毎週月・水・金曜日に「連邦プレスハウス」で、「連邦記者会見」(ドイツ人記者が加盟)/「外国人記者協会」(外国人特派員が加盟)からの質問に答えている。

○原発稼働延長と脱原発
・2000年6月シュレーダー政権(SPD、緑の党)は電力業界と合意し、2002年4月「改正原子力法」(現在稼働中の原発全てを2022年までに廃棄)が施行される。第1次メルケル政権ではSPDとの連立協定により脱原発に変更はなかった。
・2009年総選挙でCDU・CSU/FDPは原発稼働期間の延長を掲げた。第2次メルケル政権でFDPの経済技術相は「2050年までの稼働延長」、CDUの環境相は「2030年までの稼働延長」を主張し対立する。2010年9月連立与党間で「2040年までの稼働延長」で合意する。

・しかし2011年3月11日「福島第1原発事故」により一変する。3月15日原発17基の内、古い原発8基を暫定的に稼働停止する。有識者による「倫理委員会」が開かれ、原発の存廃を検討する。5月30日連立与党で「2022年までに原発廃棄」で合意する(※元に戻った。それにしても対応が早い)。6月30日連邦議会で「改正原子力法」が可決される。この決断は彼女の政策転換を代表するものである。
・6月9日の連邦議会で彼女は「高い技術の国で『残余リスク』は発生しないと考えていた。しかし福島でそれが起きた。それが起きた場合の空間的/時間的影響は甚大で、それが起きないと確信できる場合のみ許容できる」と演説している。
・この「倫理委員会」にエネルギー専門家は加わっていない。したがってこの委員会は彼女の理想主義の跡付けに過ぎない。またドイツには「全エネルギーを再生可能エネルギーで賄える」と云う理想主義の世論があり、それが彼女の決断を後押しした。彼女の理想主義からの脱原発は、後述する難民受け入れと通底している。

○戦術核
・FDPは軍縮を標榜する党で、2009年9月外相就任が確実なFDP党首ヴェスターヴェレは「冷戦の残滓である戦術核の撤去を米国と交渉したい」と述べていた。当時ドイツ/オランダ/ベルギー/イタリア/トルコに150~240発の戦術核が配備されていた。東方からの侵攻の可能性は低く、管理費用が掛り、テロリストに渡る危険があった。また米国大統領オバマも「核兵器なき世界」を提起していた。
・一方ポーランド/バルト諸国には「ドイツから撤去されるなら、東欧諸国は自国配備を要求する」「イラクの核を警戒し、トルコが核を保有する危険がある」などの意見もあった。
・2010年4月NATO外相会議で戦術核の撤去が取り上げられるが、当面堅持となる。2014年ロシアによるクリミア併合/東ウクライナ軍事介入により撤去論は消滅する。

○アフガニスタン平和維持活動
・冷戦時代、ドイツ軍の活動範囲は、NATO地域に限定されていた。1991年湾岸戦争で日本/ドイツは財政的支援だけで、「小切手外交」と批判された。1992年カンボジアでの国連平和維持活動が、両国の最初の海外派遣になる。その後両国の軍派遣は質量で差が生じる。
・2002年1月タリバン政権崩壊後のアフガニスタンの治安維持を担う「国際治安支援部隊(ISAF)」にドイツ軍を派遣する。2014年末ISAFの終了まで、ドイツ軍は北部管区を担当する。戦死者35人/事故死21人を出し、ドイツ世論に大きな影響を与えた。
・2009年9月ドイツの要請による米軍の空爆でアフガン人140人余りが死亡し、この事件は総選挙にも影響した。2010年2月ヴェスターヴェレ外相は、アフガン北部が「国際人道法」(戦時国際法、※勉強不足)で云う「戦争状態」であると認める。「戦争状態の認定」は、兵士を国内の刑法で裁くのか、「国際人道法」で裁くのかの大きな違いになる。

・2013年3月「シュピーゲル誌」はドイツ世論の変化を以下の記事にした。1993年4月コール政権がボスニアの飛行禁止区域に空軍を派遣する。これがドイツで最初の海外派遣になる。その後SPD/緑の党の左派連立のシュレーダー政権はアフガン/コソボなどへ派遣を続ける。変化が大きかったのは緑の党である。平和主義であった同党は、ボスニアでの民族虐殺を止めるため(人道的介入)として派遣に合意した。しかしメルケル政権は平和主義に逆戻りしている。
・NATO/米国に対するイメージの悪化は、ドイツと西側世界との距離を広げ、ドイツとロシアの接近の遠因になっている。アフガニスタンでの軍事貢献は、まだ尾を引いている。

<世界の救世主か破壊者か-第3次/第4次政権(2013年12月~)>
○メルケルの信任投票
・2013年9月総選挙が実施され、CDU・CSUは得票率45%を獲得する。40%を超えるのは1994年総選挙以来であった。世論調査でCDU・CSUに投票した人の45%が「メルケルだから」、6%が「CDU・CSUだから」であった。彼女への信頼は世界金融危機/ユーロ危機への対応にあった。
・自由民主党(FDP)は得票率が5%に達せず、議席を失った。そのため第3次メルケル政権は、第1次と同じく社会民主党(SPD)との大連立になった。

○ウクライナ危機
・2013年11月ウクライナ大統領ヴィクトル・ヤヌコビッチがEUとの包括的協定交渉を先送りした事で、親欧米派の反政府活動が激化する。2014年2月治安部隊が導入されるなど混乱し、大統領はロシアに亡命し、2月22日大統領を解任される。これに対し、3月16日クリミア半島で住民投票が行われ、独立を宣言し、18日ロシアに併合される。さらにウクライナ東部2州で親ロシア派武装勢力が独立を宣言し、政府軍と武装勢力の紛争が始まる。

・6月6日「ノルマンディー上陸作戦」の記念式典でメルケル/ウクライナ大統領ペトロ・ポロシェンコ/仏国大統領オランド/プーチンの間で和平交渉が行われるが、物別れに終わる。7月17日マレーシア航空機が撃墜され、ロシア経済制裁が本格的に始まる。9月5日ミンスクで前4者により停戦協定「ミンスク1」が調印されるが、3日後には破棄される。
・2015年事態は悪化する。ウクライナに武器を供給すべきとする米国と、外交交渉で解決すべきとするドイツで意見の相違が生まれた。2月11日彼女はミンクスで再度同じメンバーで会談し、停戦協定「ミンスク2」に合意する。この交渉に彼女は2万キロを飛び、プーチンとは40回以上電話会談した。

・しかし現時点、クリミア半島/ウクライナ東部2州のロシア支配は既成事実化している。ロシア制裁については「キリスト教社会同盟(CSU)」党首やSPDの政治家から解除要求の発言があり、イタリア/オーストリア/ハンガリーなどからも解除要求の発言があった。2017年5月彼女はプーチンと会談し、「ミンクス合意」への前進が見られないため、制裁継続を明言する。

○ユーロ危機
・ギリシャ債務危機/ユーロ危機は、2012年7月「欧州中央銀行(ECB)」による「国債購入プログラム」により小康状態になる。しかし2015年1月ギリシャ総選挙で反緊縮財政の急進左派連合が第1党になり、党首アレクシス・チプラスが首相に就く。
・7月5日ギリシャでの国民投票で反緊縮が確認される。7月12日欧州理事会で第3次ギリシャ財政支援/ユーロ離脱が協議される。ドイツ財務相ショイブレは離脱賛成であったが、メルケルは反対であった。欧州理事会議長/チプラス/メルケル/オランドが夜を徹し協議し、合意に至る。ギリシャは第1次/第2次以上に厳しい福祉予算の削減/増税を義務付けられる。ショイブレが悪玉、彼女が善玉を演じたとされる。

・ウクライナ危機/ユーロ危機を主導した事で、メルケルのドイツは欧州の覇権国になったとの見方もある。しかし「覇権を唱えるには弱過ぎ、勢力均衡の担い手になるには強過ぎる」が一般的な見方である。
・「ドイツマーシャル財団」の国際政治学者は以下の見解を述べた。
 ①メルケルはウクライナ危機/ユーロ危機に嫌々ながら対応した。ドイツは覇権国でないので、共に今だ解決できていない。
 ②欧州諸国は、ドイツの役割を期待する一方で、その台頭に警戒心を抱いている。ポーランド外相は「欧州はドイツの不作為を恐れる」と発言している。一方ギリシャではメルケル/ショイブレをナチスになぞらえたプラカードが登場し、ドイツを「第4帝国」と批判している。
 ③ドイツの単独行動が散見される。難民受け入れ/脱原発/緊縮財政の押し付けは、欧州諸国で協調された政策と云えない。

○難民危機
・ユーロ危機が沈静化すると、計ったかのように難民危機が訪れた。2013年頃から地中海/イタリア経由での難民が報じられていた。2015年夏マケドニアが難民の通過を認めた事で、多数の難民が「バルカンルート」で流入するようになり、「シェンゲン条約」加盟国ハンガリーに多数の難民が押し寄せた。
・2015年9月4日業を煮やしたハンガリーの難民はオーストリアの国境を目指して歩き始めた。メルケルはオーストリア首相ヴェルナー・ファイマンと電話で会談し、国境の開放/難民受け入れで合意する。翌5日ミュンヘン中央駅に2万人の難民が到着した。ドイツ人は「善行」で自己陶酔したが、彼らは若い男性ばかりの経済難民であった。

・EUでの難民申請は2014年56万人であったが、2015年126万人、2016年120万人と大量に流入する。この大量難民は社会を混乱させた。2015年10月ノルトライン・ヴェストファーレン州の首長200人が、受け入れの窮状を彼女に伝えている。同年の大晦日、ケルンで難民などによる集団女性暴行事件が起こる。さらに2016年ヴュルツブルクでISによるテロ、ミュンヘンでイラン系ドイツ人による集団殺傷事件、ベルリンでトラックが暴走するテロが起きる。

・難民受け入れを世論/メディアは概ね評価したが、一部に批判的な意見が見られた。2016年8月「彼女はドイツを道徳的大国にした政治家としてか、あるいはドイツを社会的/文化的/宗教的な紛争に陥れた政治家として教科書に記載される」との記事が出た。2015年9月ハンガリー首相オルバンは難民受け入れ枠に対し、「ドイツが決定した事はドイツだけに適用すべきだ。ドイツは道徳的帝国主義だ」と批判した。ハンガリー外務貿易相も「人の移動を歓迎する事に反対する。誰を入国させるかは国家主権だ」と批判した。

○AfDの台頭
・彼女への反発は「ドイツのための別の選択(AfD)」が受け皿になった。AfDは2017年総選挙で連邦議会に進出するが、2014年8月から2017年10月までの14州(ザクセン州~ニーダーザクセン州)全ての議会選挙で5%以上の得票率を得て、議席を確保していた。ここまで右派政党が成功した例はない。
・2013年4月AfDは結党したが、新自由主義の立場から反ユーロ/ユーロ離脱を主張し、ギリシャ支援を批判していた。さらにこれにもう一つの潮流が加わった。国民保守的立場で、CDU・CSUより右寄りの勢力である。これはメルケルが、SPD/緑の党が掲げてきた徴兵制の停止/非伝統的な家族政策/同性愛者の権利拡大/二重国籍の容認/最低賃金の導入/脱原発などの政策を取り込んだ事による。メルケルの社民化により、CDUから国民保守層が離反した。
・AfDは新自由主義派と国民保守派の統合のため、内紛に至る。2015年7月党首選で新自由主義派が敗れ、AfDの支持率は低下する。しかしその直後、難民受け入れ問題が発生し、その後は支持率10%を維持するようになる。※ギリシャ債務危機と難民危機がAfDを支えているのか。

・ドイツにはナチズムの歴史があり、ナショナリズムを否定してきた。AfDが支持される理由に、「政治的正しさ」(※political correctness?)への反発やエリートへのルサンチマンがある。20年程前、すでにドイツ人口の20%がトルコ系などの移民で、雇用不安/福祉削減/異質な価値・文化・行動への拒否感が見られた。また同性婚容認などエリート主導のリベラル価値への反発も潜在していた。
・欧州各国で右派政党が伸張し、ポーランド/ハンガリーでは国民保守政党が政権を取っている。ドイツにも同じ基本構造が存在していたが、「贖罪文化」故に顕在化しなかっただけである。
・さらにドイツ特有の要素が加わった。旧東ドイツ人のルサンチマンである。その受け皿は東ドイツの「社会主義統一党(SED)」の流れをくむ「左派党」であったが、それへの支持が右派政党AfDに流れている。

・2015年夏の難民危機が、CDUの右寄りの支持層を右派政党AfDに引き寄せた。右派政党台頭の要因にグローバル化による所得格差の拡大もあるが、ドイツの場合経済が堅調のためその影響は小さい。それより多数の難民により文化的アイデンティティーが変質する事への不安が大きい。さらにそれを助長しているのが、「政治的正しさ」への反発である。※この辺り、もう少しまとめた方が良い。

・AfDの今後は、党の結束をどこまで維持できるかにある。2017年12月総選挙後の党大会で、イェルク・モイテン/アレクサンダー・ガウラントが共同党首に選ばれた。モイテンは経済学者で新自由主義派であるが国民保守派への理解がある。ガウラントは国民保守派を代表している。AfDにはナチズムに共感する人も含まれ、それが内紛に至る可能性がある。

・ドイツはCDU・CSUとSPDの二大政党制であったが、1980年代以降緑の党/左派党/AfDが登場し多党化した。3党での連立は難しく、大連立が唯一の選択肢になっている。しかし大連立では政権選択を目的とする選挙の意味が失われる。
・かつては二大政党にカトリック教会/労働組合の強い後押しがあったが、今はそれがなく、浮動投票者が増え続けている。今の政治は「政党より人」になっている。またSPDが福祉削減の構造改革を政策としたり、CDU・CSUが最低賃金の導入を政策とするなど、政策の差は縮まり、脱イデオロギー化した。
・CDUはキリスト教に価値を置くため政策柔軟性があり、それはメルケルに有利に働いている。

○メルケルの復元力
・難民に関連する犯罪/テロが起こる度にメルケルへの風当たりは強まった。難民危機前の2015年4月、彼女の仕事に満足の人は75%あったが、2016年2月には46%に急落する。
・彼女は「上限なしの難民受け入れ」の撤回は拒否するが、2016年3月EUとトルコとの交渉で、トルコからギリシャに密航した難民の送還に合意する。この合意によりギリシャのレスボス島では、1日2千人以上難民が流入していたが、4月になると100人以下になる。ドイツへの難民も2015年11月の20万人をピークに、1万5千~2万人で安定している。
・2017年9月総選挙後、CDUとCSUは協議を行い、難民の受け入れの上限を20万人とする事で合意する。

・彼女は何度か支持率を落としたが、これまでは回復してきた。それは彼女に私財を蓄える意思が見られず、仕事で名を残そうとしているためであろう。2010年4月彼女の伝記を書いたゲルト・ラングートは、「彼女は謙虚/現実的/勤勉で、ドイツ人はそういう人が好きである。また外国でも好かれている彼女に、国を代表してもらいたいと思っている」と述べた。2013年9月総選挙後、駐日ドイツ大使は「国民は彼女の安定/合理性/冷静/自足を評価・信頼し、彼女に投票した」と述べた。
・彼女はプロテスタントで虚飾を嫌う。多少資産があれば入手できるベルリンのアパートに住み、スーパーで買い物する姿がしばしば週刊誌などに掲載されている。
※イスラム諸国はイスラム教に支配されていると批判するが、西欧はキリスト教に支配されているのかも。

・社会学者マックス・ヴェーバーは「責任倫理」(結果を予見し、適切な手段を取る)を政治家に不可欠なものとした。その対になる言葉が「心情倫理」である。彼女は「心情倫理」から難民受け入れを決断したと云える。彼は「成熟した人間でも、”自分はここに立つ”という時がある。この状況は”責任倫理”と”心情倫理”が補完し合っている状況である」とした。※哲学は難解。
・ただし政治に過度に価値/倫理を持ち込むのは危険である。第1に、倫理は偽善に流れる可能性が高い。ハンガリー/マケドニア/トルコなどで難民が非人間的な状況に置かれてても、彼女は難民を受け入れず、今でも人道的な立場であると幻想させている。第2に、密輸業者の暗躍/世論の分断/AfDの台頭を招き、ドイツは長期の同化問題を抱える事になった。第3に、その倫理/価値を他国に押し付けるように向かう事である。
・彼女の「難民受け入れの分担」は欧州で実現しなかった。これはドイツが倫理面でも半覇権国である証拠と云える。

○メルケルとトランプ
・メルケルと米国大統領オバマとの関係は、2013年国家安全保障局(NSA)による盗聴事件で険悪化する。しかし両者は理想主義/実務的でウマが合った。2016年11月彼は最後の外遊にドイツを訪れ、彼女の自由貿易/リベラルな価値を賞賛した。

・2016年大統領選中、彼女は自制していたが、シュタインマイヤー外相はトランプを「憎しみの説教者」と批判した。またトランプはドイツで非常に不人気な政治家である。
・トランプ当選直後、彼女は「ドイツと米国は、民主主義、自由、そして出自/肌の色/宗教/性別/性的志向/政治的立場に関わらず人権を尊重する価値を共有している」と声明する。この人権を前提条件とした声明は、主要国では珍しい。※安倍首相はどんな声明をしたのかな。

・2017年5月イタリアで先進国首脳会議(サミット、G7)が開かれ、彼女は帰国すると、「他国に頼れる時代は終わった。欧州は自分の運命を自分自身で引き受ける必要がある」と述べる。これは当然米国を指しており、ドイツと米国が生存の根本条件(?)で隔たりがきた事を述べている。2018年1月核問題が専門のドイツのシンクタンク研究員は「トランプ/共和党だけでなく民主党でも、欧州との同盟を重視する大西洋主義者が少なくなっている」と述べた。※NATO問題だな。

○中国なしに生きられないドイツ
・米国とは反対に、中国との関係は深化している。ドイツでは2000年代から中国製品が見られるようになり、2016年貿易総額が1700億ユーロになり、米国を抜いて最大の貿易相手国になる。ドイツ企業の対中直接投資も盛んで、フォルクスワーゲン(VW)は中国で3社目となる提携を行った(原則は2社まで)。VWの世界販売台数で中国が占める割合は4割に達している。また中国資本によるドイツ企業の買収も顕著になってきた。
・2016年6月産業用ロボットで世界4大メーカーの一つ「クーカ」が、中国家電大手「美的集団」に買収される。これによりドイツメディアで「中国警戒論」が起こる。中国企業による集積回路メーカー「Aixtron」の買収をドイツ政府が許可しなかったため、2016年11月訪中した経済・エネルギー相は会談をキャンセルされる。

・しかし「中国警戒論」は一部の企業に過ぎず、大半の企業は中国市場に期待を寄せている。欧州随一の内陸港デュースブルク(ノルトライン・ヴェストファーレン州)は「一帯一路」の終着駅になった。当初は週1本だったが、今は週25本に増便されている。
・英国/仏国は「海洋の自由」を重視し、米国/日本と共に「バランス・オブ・パワー」で中国を抑制する戦略的発想を持つが、大陸ドイツにその発想はない。

・メルケルの来日は4回と少ない。その代わりか、CDU・CSU議員団長フォルカー・カウダーは2010~17年に7回来日し、「旭日重光章」を授与されている。

○西側世界の解体
・過去12年間のメルケル政権により、ドイツは人道/環境を至上の価値とする半覇権国になった。一方でEUから抜ける英国、債務危機を克服できないユーロ圏、難民問題で根本的な違いが顕在化したポーランド/ハンガリー、制裁対象のロシア、EUへの接近を断念したトルコ、価値観が隔たってしまった米国など、ドイツの国際環境は厳しさを増している。関係が深化したのは唯一中国だけである。

・第2次世界大戦後、米国は自由貿易を基礎とする「経済金融秩序」、日米同盟/NATOを二本柱とする「安全保障秩序」の主導者であった。米国が世界秩序の主導者から降りた事で、中国は欧州、特にドイツに攻勢を掛けてきた。
・2017年1月「世界経済フォーラム年次総会」(ダボス会議)で、中国国家主席・習近平は「資本/技術/製品/産業/人間を遮断するのは歴史に反する」と、中国がグローバル経済/自由貿易の守護者のように振る舞う。6月李克強首相はドイツを訪問し、「中国とドイツの関係は安定/成熟し、世界が平和に留まる事を表している」と述べる。
・米国の政治学者は「トランプの言動は、米国が保証してきた自由貿易/同盟関係/国際法/多国間主義などのリベラルな国際秩序を終焉させる」と警鐘し、「それを救えるかは、安倍首相/メルケル首相の双肩に掛かっている」と述べる。

・英国はEU離脱後、米国に接近し、生き延びるかもしれない。一方ドイツは中国の攻勢に飲み込まれる恐れがある。ロシアに関しても、ドイツ内外から制裁解除要求があり、いつまで耐えられるか分からない。
・EUは「開かれたEU」ではなく、「欧州ファースト」のEUに進む可能性がある。「世界に開かれた」はドイツの価値であったが、今や「環大西洋貿易投資パートナーシップ」(TTIP、EUと米国の自由貿易協定)や、世界に軍を派遣する事への反対が見られる。
・自由/民主主義などの価値は主要国を結び付ける紐帯にならず、各国/各地域がそれぞれの地政/歴史に依拠した外交を進める傾向にある。世界にとって居心地の良かった「西側世界」が崩壊する引き金を、メルケルは引いたのかもしれない。※著者は根本にメルケルへの懐疑がある。

<あとがき>
・メルケルには”皮肉の性癖”があり、ローマ法王/中国首相/仏国大統領の物真似をしていた。著者の彼女の印象は「誠実の人」「理系の人」である。それ故、邪悪で不条理な現実に裏切られたと云える。
・新聞社の特派員の仕事は政治を追う事だが、彼女の政治の本質を探るのは大変だった。彼女の事績を編年体で記述するのを諦める事も考えた。

・現時点、キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と社会民主党(SPD)で連立交渉が行われているが、その帰趨は分からない。仮に第4次政権が発足しても、以前より弱体化した政権になるだろう。※2018年3月第4次メルケル政権が発足するが、10月バイエルン州/ヘッセン州の議会選挙で連敗し、任期での政界引退を表明する。

・本書で欧州近代理念、欧州統合理念、リベラリズムなどの「限界」を述べてきた。最近日本は理念を世界に発信する資格/意義があるのではと思うようになった。日本は経済の豊かさ、治安の良さ、自由の確立を備えている。日本は国のアイデンティティーと多様性、多国間での温情的関係、個人と集団の中庸的結び付き、人間と自然との調和などを世界に発信できると思う。
・東アジアでは大規模な人の移動は起きていない。これは戦後の発展途上国に対する日本の姿勢が、地域の安定をもたらしたと考える。これをもっとアピールすべきと思う。※確かに東南アジアは紛争が少ない気がする。違いは宗教?地理的条件?

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