『中国ナショナリズム』丸川哲史(2015年)を読書。
中国を歴史ナショナリズム/思想ナショナリズムの視点から大局的に解説しています。
中国現代史の流れを理解できた気がする。
世界各国は社会面/思想面で様々な背景があるが、同期して動いている気がする。日本はその潮流から、かなり外れた国と思う。
中国には独自の背景があるが、日本人はそれを正しく理解していないと思う。人間関係と同じ気がする。
本書は出来事の詳細を解説するのではなく、大局的に見る本で、そんな本は好みです。
また歴史の必然性を感じさせる本です。
お勧め度:☆☆☆(難しい文章があるが、3つにした)
キーワード:<はしがき>シルクロード構想、余剰工業生産力/金融資本、<中国理解で欠けているもの>尖閣国有化、ナショナリズム、<清末から五・四運動まで>アヘン戦争/太平天国の乱/洋務運動、日清戦争/変法自強運動/義和団事件、漢民族ナショナリズム、辛亥革命、五・四運動/反帝国主義/ロシア革命、精神革命、<内戦、日中戦争、中華人民共和国の成立>国民革命/蒋介石/毛沢東、根拠地運動/紅軍、日中戦争/反帝国主義、朝鮮戦争/対米戦争、<冷戦の変容、日中国交回復、中国の台頭>ソ連からの自立、文化大革命(文革)、中間地帯論/三つの世界論、改革開放/天安門事件、南巡講和/鄧小平、尖閣諸島/帝国主義/独立性/棚上げ論、<台湾問題>日清戦争、カイロ宣言/ポツダム宣言、サンフランシスコ講和条約/反共イデオロギー、脱冷戦/日本問題、<ナショナリズムと革命>近代化、ロシア革命、階級闘争/階級連携、文化大革命/国民的同一性、<ナショナリズムと党>政治教育、法治/人治、超級政党、路線対立、<ナショナリズムと帝国>ローマ帝国/秦帝国、儒教/朱子学、官僚制、反帝国主義、一国二制度、中華思想、インド/土地改革/身分制度、漢字、<孫文>民族主義/反帝国主義、民権主義/自由/平等/服務、民生主義/階級闘争、大アジア主義、<毛沢東>湖南省/農民運動、根拠地運動、第二次国共合作、宣伝、朝鮮戦争、中国文化大革命(文革)/林彪/奪権闘争、改革開放、理想主義、<鄧小平>反右派闘争、請負制、第一次天安門事件、海外視察/経済特区、民営化/腐敗/インフレ、第二次天安門事件(六・四天安門事件)、南巡講話、三つの代表論、<中国ナショナリズムと民主/人権>超級政党、戸籍制度/農民工、理想
<はしがき>
・「中国の台頭」が聞かれ始めたのは、2000年代前半である。中国は2014年「シルクロード基金」、2015年「アジアインフラ投資銀行(AIIB)」を設立し、2015年「一帯一路構想」(海と陸のシルクロード構想)を発表した。これらは中国の経済力/金融力の優位さを示している。中国の外貨準備高は4兆ドルで、日本の3倍もある。
・「シルクロード構想」は余剰工業生産力と金融資本の投下を目的としているが、さらに2つの目的がある。1つ目はミャンマー/パキスタンなど、輸出入ラインの多極化であり、2つ目はロシア/インドとの安全保障を高める目的である。
・中国は毛沢東時代の理想主義から、明らかに経済・金融が主軸になった。中国を観察するには、中国ナショナリズムを長期的/中期的/短期的に観察する必要がある。
※難しそうだ。
<中国理解で欠けているもの>
○2012年の出来事
・2012年9月10日野田首相は「尖閣諸島の国有化」を宣言する。これは9月18日満州事変(柳条湖事件)の前に当たる。この出来事により日中の友好関係は一気に暗転する。
・日本が「国有化」を仄めかしたのは2012年7月7日で、この日は日中戦争(盧溝橋事件)が始まった日であり、中国からは故意の挑発行為と捉えられた。日本は「終戦の日」は意識しているが、「開戦の日」を意識していないのである。外務省がこれに無頓着だったのは不思議である。※記念日(?)が国家によって異なるのは、それなりに意味がある。
○近代ナショナリズム
・ナショナリズムは17世紀に誕生した。これにより封建領主制から官僚制に移行し、国民国家(民族国家)が生まれた。
・ナショナリズムを誕生させたのは戦争であり、これは今でも変わらない。2001年9月米国は「9・11事件」により、多くの潜在的な敵を作り、海外に出兵した。味方にも”踏み絵”を踏ませた。しかしイラクで大量破壊兵器は見つからなかった。これらはナショナリズムの魔力であり、注意する必要がある。
○ナショナリズムの区分
・欧州ではナショナリズムは伝統的なものだが、非欧州ではその歴史は浅い。「私達」という時、それを日本人とするのか東アジア人とするのか迷う所であが、「私達の平和」が大前提であり、それには中国ナショナリズムを考察する必要がある。
・中国ナショナリズムを見る上で重要なのは、4つの位相から見る事である。国家ナショナリズム/歴史ナショナリズム/社会ナショナリズム/思想ナショナリズムである。しかしこれらは複雑に絡み合っている。
・国家ナショナリズムは政府/領土/国民を三位一体とする考えである。国家ナショナリズムは外部からの侵入があった場合、必然的/自動的にせり上がるものである。
・歴史ナショナリズムは国家ナショナリズムと多少の接点を持つ。石原都知事の「尖閣諸島の購入」は、中国で左程問題にならなかったが、野田首相の「尖閣諸島の国有化」は大暴動を呼んだ。それは発表が7月7日(盧溝橋事件)であったためで、「日貨排斥(日本商品の不買)」「勿忘国恥(国の恥を忘れるな)」などのプラカードが掲げられた。これは「五・四運動」を彷彿させる。
・社会ナショナリズムは歴史ナショナリズムと多少の接点を持つ。これは格差拡大などの日常における不満の蓄積である。尖閣暴動に対し中国政府は公船を尖閣領海に派遣する賭けで、社会ナショナリズムを緩和させた。
・日露戦争後の「ポーツマス条約」に対する「日比谷焼討ち事件」も、この社会ナショナリズムである。これは民衆の日常への不満が大暴動に発展した事件である。
・最後の思想ナショナリズムは、日本では見られないが、中国では意識する必要がある。それは中国の指導者が思想家/理論家のためである。孫文/毛沢東/鄧小平らは、いずれも思想を掲げている。これはガンジー主義/レーニン主義/スターリン主義にも当て嵌まる。※日本にも小泉首相がいたな。
※ナショナリズムの4つの位相は、面白い考え方だ。
○本書の特色
・本書は歴史ナショナリズム/思想ナショナリズムに重点を置く。日中間における歴史ナショナリズムは、1919年「五・四運動」が淵源である。その後中国は1978年「改革開放政策」に転換する。一方で1960年前後よりソ連からの自立が行われている。
・第1部」では歴史的な経緯を述べ、「第1章 五・四運動まで」「第2章 内戦、日中戦争、中華人民共和国の成立まで」「第3章 冷戦の変容、日中国交回復、中国の台頭まで」と3つに分ける。
・「第2部」では、中国の原理を把握するため、「革命」「党」「帝国」を取り上げ、それぞれ章にする。中国の国民国家形成は「辛亥革命」に始まり、「文化大革命」(文革)の終了/改革開放の開始で終わった。中国の政治体制は国政選挙を経ず、共産党の一党独裁体制である。また中国帝国の遺産も述べる必要がある。
・「第3部」は、日本が中国を見る上で欠けていると思われる部分で、指導者であり思想家であった孫文/毛沢東/鄧小平を、それぞれの章で述べる。
※やっと序章が終わり。面白そうだが、難しそう。
<第1章 清末から五・四運動まで>
○清朝の対外政策と政治
・清朝の対外政策は華夷思想(中華思想)により、朝貢/冊封システムであった。そのため西洋は朝貢の範囲内でしか通商を行えなかった。清朝の周辺国(朝鮮、ベトナム)も小中華思想を持っていた。日本の尊皇攘夷思想もそのあり様と云える。
・しかし19世紀前半になると清朝の衰えが顕在化する。16世紀から18世紀までの平和は人口増加をもたらしたが、それに対応する官僚を補充できず、徴税システムは機能不全となった。これは社会不安を増大させた。
○アヘン戦争と太平天国の乱
・19世紀前半英国によるアヘンの流入で社会不安は増大した。清朝は欽差大臣(※特命大臣かな)林則徐を派遣し、アヘンの没収・廃棄を命じる。これにより「アヘン戦争」(1840~42年)が勃発し、敗北します。「南京条約」を結びますが、これによりアヘンの流通が益々盛んになります。
・この社会不安により「太平天国の乱」(1851~64年)が起きます。この首謀者・洪秀全は科挙に挫折し、キリスト教に感化され、乱を起こしました。
・この乱で2つの論点があります。1点目は、南京条約によりアヘンの流通が英国に支配され、それで失業した流通業者が多く参加していました。ゆえに「アヘン戦争」が大きく影響したと云えます。
・2点目は、この乱は曽国藩/李鴻章などの高級官僚が結成した西洋式装備を備えた義勇軍により平定されます。これにより清朝内部から西洋の技術を学ぶ「洋務運動」が起きます。しかしこの「洋務運動」は官僚に限定された運動でした。
○改革の挫折
・「日清戦争」の敗北により、台湾を日本に割譲します。台湾で日本統治に対する抵抗は見られましたが、中国本土では抗議は起きませんでした。それは教育改革などによる国民形成が成されていなかったためです。戦争においても日本とは違い、逃亡兵が見られました。
※国民国家の日本と、そうでない中国の比較が面白い。
・そのため国民的精神の涵養を重視する「変法自強運動」(1898~99年)が起こるが、保守派の西太后により「自強派」は弾圧されます。
・「自強派」の主導者・康有為は西洋の近代化にキリスト教が深く関わった事から、儒教を国教にするアイデアを持っていた。「自強派」自体は権力闘争により排除されたが、1905年科挙制度廃止などの教育改革が行われます。
・その後も中国の社会的緊張は高まり、1900年宗教結社により「義和団事件」が勃発します。
○漢民族ナショナリズム
・清朝の打倒を目的とする「革命派」が台頭します。いわゆる漢民族ナショナリズムです。「辛亥革命」の立役者となる孫文らは、「排満興漢」「駆除韃虜(異族駆除)」をスローガンに掲げます。中国古代の皇帝「黄帝」の子孫が漢民族とする言説が広まりますが、これは日本の「王政復古」に刺激されたものと考えられます。
・しかしこの漢民族ナショナリズムは、「辛亥革命」後に急速に後退します。先のスローガンは清朝を倒すための方便であり、漢民族と満州人は既に文化的に同化していました。
○中華民国の誕生と五・四運動
・1911年「辛亥革命」により清朝は倒れます。その後孫文は第二革命を企てるが失敗し、袁世凱も帝政を始めようとしますが急逝します。このように「辛亥革命」後も混乱は続き、近代国家の誕生は進みませんでした。
・「第一次世界大戦」後、日本は秘密裏に中国軍閥と交渉し、中国での利権を獲得する策動を行います。これが米国で暴露され、1919年「五・四運動」が始まります。
・中国では、”近代”の始まりを「アヘン戦争」、”現代”の始まりを清朝が倒れた「辛亥革命」ではなく、抗日運動が始まった「五・四運動」としています。これは清朝の滅亡は制度的な改革で、精神的な改革は「五・四運動」から始まったからです。
・1911~1919年は世界的混乱の時代と云えます。欧州は「第一次世界大戦」により疲弊し、帝国主義の価値観は下落し、ロシアでは革命が起きます。1919年インドではガンジーが「第一次不服従運動」を起こし、エジプトでは英国に抵抗するワフド党の反乱事件が起き、朝鮮では「三・一独立運動」が起きています。この年、世界的に反帝ナショナリズムが発露され、中国の「五・四運動」もその一つです。※丁度100年前だな。1918年日本では米騒動が起きている。トルコ共和国の成立もこの頃だ。
・ここで中国の「現代性」について考えます。中国にも「帝国主義」に倣って成長する選択肢があり、実際日本に留学した人物は軍閥政権の主流にいました。しかし「五・四運動」により、中国の「現代性」は「反帝国主義」になります。
・魯迅が呼び掛けた「国民性の改造」という課題から、学問体系の改革/言語の改革/社会制度の改革が潮流になります。具体的には普通教育の拡充/大学の設置/女性の社会進出/出版文化の興隆などが成されます。
・もう一つが「ロシア革命」の影響です。「共産党はソ連の支援、国民党は英米の支援」のイメージがありますが、間違いです。国民党もソ連方式の組織になります。列強に蚕食された中国は、自然発生的なブルジョアジーの発露を待っていられず、党により国家建設が成されます。※党による統一しか手段がなかったのか。
○中国の近代化
・日本の近代化は、1860年代から80年代にかけて、比較的スムーズに行われました。これは列強が日本に干渉する余裕がなかったためでもあり、「日清戦争」で清朝の国家予算3年分の賠償金を得た事にもよる。
・一方中国の近代化は「精神革命」の傾向が強い。漢字の廃止/家族観念の否定も考えられたが、それは成されなかった。中国で不変なのは、「官僚文化」であり、党により近代化が成された。
※近代化の経過は国によって様々だろうな。※精神革命の詳細が説明がされていないのは残念。
<第2章 内戦、日中戦争、中華人民共和国の成立まで>
○国民革命
・1911年「辛亥革命」後、中華民国が成立するが、軍閥による分割統治となる。軍閥は独自の徴税システムを持ち、独自の外交を行った。立憲議会制も試みられたが、機能不全となった。そのため改革型の「党」が必要になり、国民党は孫文により改組され、1921年共産党は新たに結成された。このように中国の革命政党は、西洋型の複数政党制を克服するために出現したのである。※立憲議会制の時期もあったんだ。
・1926年国家統一の共同行動「国民革命」(※こんな言葉あった?)が始まる。この柱は「北伐」「土地改革」であった。この時期国民党は広東に政府を発足させ、黄埔軍官学校を設立し、ソ連の支援を受けていた。またこの時期国民党と共産党は合作を行い、協力関係にあった(第一次国共合作)。
・この頃はまだ軍閥が財政的基盤を押さえており、「土地改革」が重要であった。1925年孫文は亡くなるが、著書『三民主義』の「民生主義」で「土地改革」の必要性を述べている。後に共産党の指導者になる毛沢東も、当時は「土地改革」に当たっていた。
・しかし1927年4月蒋介石は共産党員を逮捕/粛清するクーデターを起こし、「国共合作」は終焉する。1928年6月張作霖の爆死で、形式的には「北伐」が完了する。
・共産党は各地にソヴィエト政権を樹立し、国民党と対峙する。1934年10月瑞金ソヴィエト政権の毛沢東はそこを追われ、「長征」に出る。
○毛沢東の根拠地運動
・1927年毛沢東は「根拠地運動」を始める。共産党主流が都市を重視する中、彼は独自の「土地改革」を行った。また彼は国民党政権が軍閥同士で戦う事を批判した。
・国民党軍の装備は優れていたが、軍規の乱れ/士気の低下が慢性化していた。毛沢東は「整頓(教育)」を重視し、紅軍には規範「三大規律・八項注意」(※道徳的でシンプルな内容です)があった。また紅軍は軍人の上位に政治工作員が置かれ、戦略/戦術をマネージメントした。これは黄埔軍官学校が重視した原則であった、
・毛沢東は、これらの「教育」「宣伝」により革命のための根拠地建設に成功した。
・紅軍に集まったのは元インテリ/兵士/労働者/農民の次男/ヤクザなどの人間で、そこでは「階級結合」が行われていたと考えるべきである。
※中々興味深い話が多い。
○日中戦争の意味
・日本と中国の戦争の始まりを、1931年9月満州事変に置くのか、1937年7月盧溝橋事件に置くのか意見が分かれるところである。日本では「15年戦争」と呼ぶのが一般的だが、中国では「抗戦8年」と呼ぶのが一般的である。これは満州事変以降の数年間、蒋介石は共産党の掃蕩作戦に力を入れていたためである。※満州は許すけど、中国本土は許さないかな。
・1937年以降国民党/共産党ともに日本と戦うが、この戦いが中国ナショナリズムの核心になっていく(※日本と共産党との戦いはあった?)。中国が「南京虐殺」を取り上げ始めたのは1980年代からである。当時南京は国民党政権の首都であり、共産党の関与は低く、これに関する資料も今は台湾に保管されている。共産党は華北で日本軍と戦い、それが記憶になっている。
・この頃から共産党の指導者になった毛沢東は論文『持久戦について』で、「日本は小国、狭隘、物産が少ない、人口が少ない」などとし、「中国は持久戦で勝てる」と論じた。
・また毛沢東は日本との戦争を「正義の戦争」としている。正義/不正義の判断基準は反帝国主義にある。後の朝鮮戦争への参戦は、米国を帝国主義と見なしたためである。1979年中越戦争もベトナムを「ソ連帝国主義の手先」と見なしたためである。この戦争観/平和観は今日でも維持されている。一方日本は敗戦により全ての戦争を悪とした。※ドイツの考え方も中国に近いのでは。
○人民共和国の成立と朝鮮戦争
・内戦は終わり、1949年10月毛沢東は「中華人民共和国」を建国する。当初の国家構想であった「新民主主義」は、翌年に始まる「朝鮮戦争」により路線変更される。すなわち対米戦争に備え、予定のなかった産業の国有化/農業の集団化に進む事になる。
・国連軍名義の米軍の仁川上陸により、中国は参戦する(※北が南に侵攻したのが始まりと思うが、その時はまだ人民義勇軍は参加しておらず、仁川上陸からの南の反撃後、南が鴨緑江に接近したので人民義勇軍が参加した?)。この中国の参戦は、周恩来とスターリンの長い協議により決定された。
・「朝鮮戦争」の結果、中国は「台湾解放」を諦めたが、朝鮮の38度線以北を得たと云える。また「核」に対する脅威から、核保有に向かう事になる。
○朝鮮戦争後の政治
・「朝鮮戦争」により中国は「新民主主義」を捨て、「過渡期の総路線」に転換する(※中国には時々、意味不明の単語がある)。この政策は農業の集団化/小商工業の国有化・公有化である。
・中国には持ち出せる資源/富はなく、「社会主義大衆運動」で農村を犠牲にするしかなかった。土地分配などで農民を集団化し、農民を一時的に都市に動員し、工業プラントを建設させた。これは農村からの「搾取」である。今日でも問題視される農村戸籍/都市戸籍の問題は、この時に強固になった。※出稼ぎにより工業を興す考え方は、今と共通だな。
・防衛戦争に備えるための政策転換であったが、この20数年後に「改革開放」に舵を切る。「改革開放」の要点は3つあり、①農業の市場化、②「一人っ子政策」の実施、③米国との国交樹立である。この政策転換の背景にあるのは、「米国との戦争は想定しない」の基本ロジックである。
※本書の俯瞰的な解説は面白い。
<第3章 冷戦の変容、日中国交回復、中国の台頭まで>
○ソ連からの自立
・1953年7月「朝鮮戦争」は休戦する。中国は産業の国有化/農業の集団化を推進するが、その手本となったのがソ連の計画経済であった。1956年ソ連はフルシチョフが指導者になり、「デタント」(緊張緩和)を追求するようになり、中ソ関係は不安定になる。※キューバ危機は1962年だけど。
・1950年代後半中国はソ連からの「自立」を試みる。日本人は「冷戦」を中ソのセットで考えるが、これは間違いである。中ソが連携していたのは1960年までの、せいぜい10年に過ぎない。
※以前、脅威に関する本を読んだが、脅威にも色々あって、本当の脅威/作られた脅威/脅威なのに隠されている事などに分類されるそうだ。
・1959年「廬山会議」が開かれ、毛沢東は彭徳懐らを失脚させる。これはソ連からの「自立」を意味した。
・1955年「中ソ原子力協定」が結ばれるが、1959年には破棄される。1964年中国は核実験を成功させるが、その仮想敵国はソ連であった。
○プロレタリア文化大革命
・1966年「プロレタリア文化大革命」(文革)が始まる。これを分析するのは膨大な作業になる。これは行政上層部(劉少奇、鄧小平)の反対勢力に、毛沢東が直接指示した事に始まる。しかし劉少奇の打倒後も、報酬/待遇の格差撤廃を求める運動が続いた。これにより行政組織は大混乱に陥り、人民解放軍の力が必要になった。その時の人民解放軍のリーダーが林彪であった。1971年彼は失脚するまで、「文革」をリードした。
・「文革」を嫌う人民解放軍の穏健派(葉剣英など)は、林彪を失脚させ、さらに文革勢力の「四人組」を打倒する。彼らはその後、「改革開放」を支える事になる。
・1971年林彪の失脚で「文革」は終了する。その年キッシンジャーが秘密裏に中国を訪れ、米中接近が始まる。これは今の核実験を終えた北朝鮮と酷似している。
・1981年共産党は「歴史決議」を出し、「文革」を批判するが、基本的には「議論しない」を方針とした。実は文革期は「表現の自由」が許された時代で、団体の結成や壁新聞の貼り出しが容認された(※相手を批判するには表現手段が必要になるためかな)。何れにせよ文革期は検証すべき事が多い。
・2012年尖閣諸島の国有化により反日暴動が起きるが、そこには毛沢東の肖像が掲げられた。これは1990年代からの経済格差の増大と社会分配の機能不全によると考えられる。※毛沢東はそんな人物なのかな。後章の解説に期待。
○第三世界論
・中国が当初から打ち出していたのが、第三世界との連携であった。その始まりは、1955年「アジア・アフリカ・バンドン会議」である。周恩来・首相/インド・ネルー首相などがイニシアチブを取り、「平和十原則」(基本的人権の尊重、国連憲章の遵守、相互不可侵など)を採択した。しかし1959年中印が国境紛争を起こし、第三世界は分裂する。
・当時ナンバー2の劉少奇が「中間地帯論」を掲げている。これは①米ソに挟まれた中間地帯の諸国が、国家形成や国家間連携で自由な幅を持つ、②中国はこれらの国々に関与する、③これにより冷戦に左右されない平和を維持し、第三次世界大戦を回避する論である。
・1974年鄧小平は国連で『三つの世界論』を発表する。この第一世界は帝国主義/覇権主義/植民地主義の米ソ両大国を指し、両大国を最大の搾取者/抑圧者とした。第二世界は欧州/日本などの先進国を指し、両大国の支配/威嚇/搾取/脅威の従属国とした。第三世界はアジア/アフリカ/ラテンアメリカの発展途上国で、世界革命の原動力で、植民地主義/帝国主義に対抗する力であり、中国はその先頭に立つとした。
・1975年カンボジアで中国の支援を受けたポルポト政権が成立するが、その後打倒される。これにより中国は「革命の輸出」を後退させている。※中国とポルポトはそんな関係だったのか。ミャンマーもかな。
・今の中国は国家間協力と云う形で第三世界諸国に援助外交を行い、「世界の工場」たるポジションを維持している。
○日中国交回復、改革開放、天安門事件
・1972年日中国交が正常化する。これにより日本と中華民国(台湾)の国交は断絶する。国連においても中国の代表権が中華民国から中華人民共和国に交代する大事件が起こる。
・「改革開放」は鄧小平が主導したと思われるが、実際は毛沢東/華国鋒が道筋を作った。「文革」が終わった時点、中国は世界第6位の工業生産高に達していた。1970年代後半、これ以上の経済成長を図るためには、中国を西側の国際分業体制に入る必要があった。
・「改革開放」は農村の集団化政策を解く事から始まる。農業生産物の市場化により社会全体の流通が盛んになる。一方都市では企業の幹部と労働者の間に経済格差が存在し、社会不安が広まった。1989年これにより政治改革を求める学生/ホワイトカラー/労働者が、「六・四天安門事件」を起こす。海外に逃れた元学生は、今なお中国政府などを批判している。
※改革開放の都市での失敗が天安門事件を呼んだのか。
○南巡講和と台頭する中国
・1989年「六・四天安門事件」とその数年後の鄧小平の「南巡講和」の関連性を議論する事は少ない。中国は「六・四天安門事件」により外資が細り、経済成長は停滞した。「南巡講和」以降新自由主義が導入され、「世界の工場」となった。
・この頃、一つの特徴が現れる。国際的な問題に民衆がデモをするようになる。1999年ユーゴ内戦でのNATO軍(実質は米軍)による中国大使館の誤爆で、反米デモが起きている。※ナショナリズムの勃興かな。
・驕りがちな時に自らを正す言葉が鄧小平の「韜光養晦」である。中国発展のため、無駄な衝突を避けねばならないと云う考えである。中国はアジア通貨危機(1997~98年)/世界金融危機(2008年)を乗り切り、米国と対等する国になった。
○尖閣諸島問題
・尖閣諸島が日本に組み込まれたのは120年前の「日清戦争」の最中である。2012年尖閣国有化に対する反日暴動を行った中国人の脳裏には、その事が頭にあったはずである。「日清戦争」は日本が植民地帝国主義を始めた出発点である。「尖閣諸島問題」を単に国際法的な問題として捉えるべきではない。※日本が帝国主義を認めるなら、尖閣諸島は台湾領有なのかも。
・「第二次世界大戦」後の「サンフランシスコ講和条約」により、東アジアでの米国のプレゼンスが高まり、日本の米軍基地は固定化する。沖縄復帰前の1969年、米国は尖閣諸島の領有権が沖縄にある事を表明する。要するに東アジアの覇権に世界トップレベルが関与していたのである。
・2012年「尖閣諸島問題」で、日本は数度に亘り米国に「日米安保条約」の適用範囲内である事を確認した。これに中国は「二ヶ国問題なのに、なぜ第三国を介在させるのか」と批判を行っている。
・ナショナリズムを考える上で、重要なのは、その国がどれだけ「独立性」を持っているかである。「独立性」が保たれていなければ、そのナショナリズムは空虚である。
・日本と中国のナショナリズムを語る上で、条件が大きく異なる。20世紀の両国を見ると、20世紀前半、中国は外国の軍隊が自由に活動する状況であった。20世紀後半、その屈辱を晴らしたと云える。一方日本は20世紀後半に外国の軍隊が入り、その軍事力が東アジアを管理している。
※この説の解説は大変参考になる。
○尖閣諸島問題の棚上げ論
・1982年鈴木首相がサッチャー首相に「日中間で尖閣諸島の『現状維持』が合意されている」のを伝えていた。2012年「尖閣諸島問題」以降、日本政府は「現状維持(棚上げ論)」を否定していたが、2014年「共同通信」がこれを配信し、衝撃を与える。
・1978年「日中友好条約」が調印されるが、この時の鄧小平と園田外相の会談で「現状維持(棚上げ論)」が合意されていた。鈴木首相/園田外相などの世代は、一時的に優位に立った日本が中国を軽視し、「日中戦争」に至ったとの反省があった。日本の近隣外交に必要なのはこの姿勢であり、これは日本国民全体の問題である。※ズシリと重い話だ。
<補章 台湾問題>
○近況から
・台湾のメディアが毎年、「自分を台湾人と思うか、中国人と思うか」のアンケート結果を発表している。今では「台湾人」がやや多数である。台湾は「日清戦争」後(1895年)に日本の植民地になり、1949年国民党政権が退去してくる。台湾の独立志向が強まったのは、2000年民進党陳水扁が総統に就いてからである。
・本章では台湾問題から中国ナショナリズムの歴史的要因を浮かび上がらせる。
・2000年代民進党の呂秀蓮副総統が、下関条約での日本への割譲を肯定する発言を行う。さらに陳水扁総統自身も1943年「カイロ宣言」(台湾の中国への帰属)の無効を発言する。しかし米国は、これらの発言はリアリズム/ポリティカル・コレクトネスに反すると批判する。
○台湾割譲
・1895年5月「下関条約」により日本は台湾/澎湖諸島を割譲され、2億両の賠償金を得る。この賠償金で八幡製鉄所を設置し、重工業の邁進が可能になった。台湾の領有に関しては賛否があったが、”一等国”の証しとして領有に踏み切る。
・「カイロ宣言」では「日本が清国より奪った台湾等を中華民国に返還する事」となっている。また中華民国は冊封体制を放棄しており、これは朝鮮独立の肯定である。要するに日清戦争以降の歴史は日中に限定されるものではなく、東アジア全体の問題である。
○戦後のポイント
・日本の戦後は「ポツダム宣言」の受諾に始まるが、そこには領土問題は「カイロ宣言」に従うとあり、「諸小島は我ら(連合国)が決定する」とある。
・その後中国は内戦に陥り、1949年中華人民共和国が成立する。米国による日本の占領政策は「民主化政策」から「反共政策」に転換する。1949年12月国民党は内戦に敗れ、首都を台北に移す。1950年6月「朝鮮戦争」が勃発する。これにより米国は防衛ラインを台湾海峡に定め、共産党に台湾の解放を諦めさせる。
・1951年9月「サンフランシスコ講和条約」で日本は独立するが、この調印に両中国政府も両朝鮮政府も呼ばれていない(※ソ連は出席したが、調印していない)。したがってこの講和条約は米国に近い勢力だけの”片面講和”であった(※重要ポイントだな)。またこの講和条約に、台湾/澎湖諸島の放棄は記されているが、帰属は記されていない。
・1952年4月この講和条約と共に、”片面講和”の延長である「日華平和条約」が発効する。日本(外務省)は台湾/澎湖諸島の帰属は未定のままとしているが、中華民国は自国に復帰したと解釈している。
・1970年代田中内閣における国交正常化で「日中共同声明」が出されるが、それには「台湾は中華人民共和国の領土である」と明記されている。これは外務省の「台湾/澎湖諸島の帰属は未定」と矛盾している。
○中国ナショナリズムから見た台湾
・以上のように台湾問題は日本の植民地支配に始まり、冷戦により不安定化した歴史である。さらに1979年中華人民共和国と米国が国交を結び、中華民国とは国交が断たれた。しかし米国の「台湾関係法」により、台湾の安全保障が保たれている奇妙な構図である。また米中国交回復により、米軍は台湾から撤退している。
・台湾には「省籍矛盾」の問題がある。これは本省人と外省人での中国/台湾の認識の違いである。これを2つの面から考えてみる。台湾では日本以上に反共イデオロギー(反共政策、反共教育)が成された。これは共産党を知らない本省人への反共化と云える。この反共イデオロギーにより、中国の「改革開放」は評価されていない。もう1つは日本の植民地統治への評価である。民進党政権になると、本省人から「植民地近代化論」などの植民地統治を評価する意見が見られるようになった。
・中国には「一国二制度論」があるため、この反共イデオロギーは容認可能で、むしろ日本/米国の事績を批判すれば良い訳である。
・台湾からすると大陸中国は巨大な市場で、香港の自治権拡大運動/大陸政府の動向などを注視しながら、自国の政権選択に関与していく事になる。
※香港の一国二制度は50年の期限付きだし、長官の選出は自由選挙とは云えない。
○東アジアの内部矛盾
・台湾問題を考える上で、東アジアの「脱冷戦」の観点が重要であろう。これは朝鮮問題についても同様である。1945年段階、誰もが朝鮮は統一された国家になり、中国/台湾は統一された国家になると思っていた。「朝鮮戦争」と云う冷戦により変更されたのである。
・日本で「脱冷戦」を考えるならば、「サンフランシスコ講和条約」と共に「日米安全保障条約」があり、これが「冷戦」の支柱になっている。台湾有事に備え、「日米安全保障条約」でカバーする範囲を台湾海峡まで拡げるべきとの意見がある。これこそ「脱冷戦」を志向していない証しである。すなわち台湾問題は「日本問題」なのである。
<第4章 ナショナリズムと革命>
○キーワード「革命」
・中国の歴史ナショナリズムは、2つのカテゴリーに分けられる。一つは祖国防衛戦争で、もう一つは国民国家形成のための長期の革命状況である。この2つの側面は渾然一体のものである。「ベトナム戦争」は1965年から1975年まで行われたが、同時に「文化大革命」(文革、1966~76年)が行われている。
・中国の革命はその期間が長いのが特徴である。1898年「戊戌の変法」が弾圧され、これにより革命運動が起こる。1905年孫文が「中国同盟会」を発足させ、1976年文革が終了し、革命期間は70年に及ぶ。
○日本近代史の視座から
・日本では「明治維新」があり、その後「地租改正」による農民一揆があった。さらに1989年明治憲法の成立までを考えると、革命の期間は20年程しかない。またこの期間、さしたる対外戦争もない。
・翻って中国は70年間危機に晒された中で国民国家が成立したのである。中国は近代化/国家形成/革命が同時に行われた事になる。
・思想家・竹内好は日本と中国の近代化を比較し、期間の違いを、適応性の違いとしている。しかし近代化の質は、日本より中国の方が優れているとしている。それは日本の近代化は表面的だが、中国の近代化は構造の内部からのもので強固であるとしている。※よく分からない。これから分かるかな。
○世界史の視座から
・西洋近代の力によって、東アジアも世界史に組み込まれる。中国はインドからアヘンを輸入し、絹/茶を輸出した。輸入超過分はメキシコ銀で支払われた。
・中国の改革は明治維新/フランス革命/米国独立戦争/ロシア革命を範にしている。欧州で「第一次世界大戦」が勃発し、ロシアでボルシェビキが「十月革命」を成功させ、ソ連が成立した。「ロシア革命」を主導したレーニンは、民族自決を原則とすべきと発表した(※米国大統領ウイルソンが後追いなんだ)。マルクス・レーニン主義は、インテリ層を始め、世界に伝播した。中国では1921年、日本では1922年に共産党が創設されている。
※マルクス・レーニン主義は知っておいた方が良いな。
・「ロシア革命」は世界に隠然たる影響を及ぼすが、1933年日本では共産党員の大量逮捕で消滅する。1927年蒋介石による反共クーデターで「第一次国共合作」が崩壊するが、日本と異なり消滅する事はなかった。それは中国が既に共和制になっており、また国内外の混乱がマルクス・レーニン主義を受け入れた。
・ソ連型の革命は、都市の制圧を先行させる理論である。しかし中国の都市は既に国民党が制圧しており、共産党は辺境に拠点を作るしかなかった。これはソ連型モデルの相対化であった(※難しい単語が時々出てくる)。中国の革命は「自主の精神」にも表れるように、模倣から本土化されたナショナルなものになった。※簡単に言えば独自だな。
○中国革命における階級
・マルクス・レーニン主義は、生産手段を持たないプロレタリアートを主体と考える。1921年上海で共産党が発足するが、その中心はインテリであった。中国の人口の大半は農民で、彼らは自作農と小作農の中間的な状況にあった。要するに農民はマルクス主義のブルジョアジーに属していた。また商工業者も、零細な資本と生産手段を有しており、同じくブルジョアジーに属していた。またインテリは中以上の階級に属していた。
・したがって中国では”プロレタリアート”は貧しい人/庶民となり、搾取されている階級であり、これは帝国主義で圧迫されている中華民族そのものとなった。
・共産党は1927年より、江西省/福建省などで根拠地運動を始める。1935年国民党の軍事圧力で陝西省延安に逃れる。これらの根拠地で「階級闘争」は行われたのだろうか。彼らはソ連と違い、地主から完全に土地を取り上げなかった。彼らはマルクス主義を本土化し、「階級闘争」ではなく「階級連携」を行った。
※「階級連携」は根拠地運動を象徴する単語かな。でもこれが継続されたかは疑問だ。文革では階級闘争が激しかった気がする。
・インテリもこれまでの学問を捨て、農民の実践に役立つ教育/学習を行わなけらばならなくなった。そこで生まれたのが根拠地運動に適した思想を身に付ける「思想改造」で、これは今も「学習」として残っている。
○文革/ポスト文革
・文化大革命期(1966~76年)は毛沢東への個人崇拝が最高潮に達した時期であり、『毛沢東語録』が全国で唱和された。またこの時期、青年が地方に赴き、農作業/工場労働などに携わった。これにより普通語(標準中国語)が全国に広まった。またこの時期、先ほどの「階級闘争」が活発に行われた。この時期、ラジオ/テレビなどの音声メディアも全国に浸透し、「国民的同一性」が達成された。
・文革をコントロールしていたのは人民解放軍であった。これも留意しなければいけない。「国民的同一性」を担保するために軍は学校以上に必要視されるが、これは日本も含め、第三世界国家で共通する(※そうかな)。いずれにせよ言語音声の統一は重要な出来事であった。
・改革開放期は共産党への求心力が強まった時期でもあった。鄧小平思想に「社会主義初級段階論」がある。これは「社会主義は共産主義の第一段階で、社会主義も生産力の発展/貧困の減少/生活レベルの向上に絶えず努めないといけない」とする論である。
・彼は中国を国際的な経済環境に軟着陸させたと評価されるが、1989年「六・四天安門事件」などの事績を見ると、そうとは云えない。
・文革までは国民国家の基礎作りの時期であったとする「社会主義初級段階論」もあながち間違っていないような気がする。日本が敗戦により”第二の出発”をしたように、文革/改革開放は中国の”第二の出発”とも云える。
※文革で毛沢東時代(革命1期)が終わり。改革開放で鄧小平時代(革命2期)が始まるかな。
<第5章 ナショナリズムと党>
○君主から党へ
・政党は議会に議員を送り出す議員政党の色彩が強いが、一般党員が存在するように、同じ政治的思想を持つ党員の集まりである。さらに欧米では一般的であるが、社会民主党などは国家の枠を超えたインターナショナルな政党である。さらに政党は下部組織である青年組織を持っている。日本の政党はこれらがなく、特殊と云える。※確かに日本は異例かも。
・いずれにせよ近代政党は近代国家と共に成立した。政党は君主とは異なり、血筋ではなく組織、人格ではなく集団であり、近代社会を表現している実体である。
・政党は議員を押し出すだけの組織ではなく、政治教育(?)を行う組織でもある。国家が政治教育を行うと、政治的価値は一元化/固定化される。むしろ政治教育は政党内部での議論と、政党同士の議論で成されるべきである。
・政党は政治的意識を涵養する学校であり、政治的自由(?)を発揮する人材を生み出す機能を待たねばならない。※多分こんな意味かな。本文はもう少し難しく描かれている。
○中国の党の始まり
・中国には複数の家族が集まる「党」、地方の共同体である「郷党」、交通/輸送を担う地下組織である「会党」などが存在した。
・清朝打倒のための「革命党」が出現するが、これは古い「郷党」「会党」から完全に脱してはいなかった。孫文らが結成した「中国革命同盟会」も3つの組織が合わさったもので、内紛が絶えなかった。実際中華民国が建国されるが、袁世凱を大統領に据えるしかなく、彼の死後は軍閥による分割支配となった。
・1905年中国は科挙制度を廃止し、新しい教育を受けた知識人が育ちつつあった。1921年魯迅は「辛亥革命」をパロディ化した『阿Q正伝』を書く。彼はここで「革命党」を権力/財産を狙う私党集団として書いている。彼は「中国には政治的自由を行使できる国民が育っていない」と自覚していた。
・1920年孫文は自身の「中華革命党」(国民党の前身)の改革について語っている。彼は国家と党を区別し、「国家は法に則って動かされもの。その法や主義を作るのが党」とした。また第二革命(1913年)が失敗した理由を、「民党(国民党?中国革命党?)で信条への服従が取れず、団結できなかったため」とした。
○超級政党の出現
・軍閥割拠状態であった中国に転機が訪れる。1923年孫文はソ連からの使者ヨッフェと会談し、全国統一(1925年から始まる北伐)の協力を取り付ける。広東省に黄埔軍官学校が設立され、軍は政治工作員がコントロールする事になった(政工制度)。これにより中国に2つの「超級政党」が出現する。「超級政党」は軍事部門を内在し、国家建設を進める政党である。
・共産党は根拠地運動を行っていたが、紅軍は階級を作らず、階級連携主義を貫き、人材を吸収していった。共産党も国民党も思想家/文化官僚/教育者が主流だが、共産党は多くの農民/労働者を党員とし、さらに今日では資本家も党員として許されている。※全くマルクス主義でない。
・中国では超級政党が政権を握るが、軍事独裁政権ではない。それは軍事組織は軍事委員会により統御されており、そのトップは文官である。文革期に軍人の林彪がトップになる可能性があったが、彼は失脚している。
○教育者としての党
・党のあり様として整理されるべきは、政治教育機関としてのあり様である。国務院が統御する学校に、共産党の委員会/支部が併設されている。また共産党員は身分保障されるなど、その影響力は大きい。人口の%5が共産党員である。
・中国の伝統の連続性を考えると、共産党は儒教や科挙制度を肩代わりしなければいけない。文革まではマルクス・レーニン主義/毛沢東思想を宣伝していたが、改革開放以降、階級政党は金持ち政党に性格を変えている。そのため儒教が人間の善意/健康の保護/社会的ケアーの促進の役割を担うようになった。その文脈で登場したのが1990年代の新宗教団体「法輪功」であった。※今儒教が盛ん?法輪功のトップは捕まらなかった?
・共産党のもう一つの役割として人事がある。中国の行政組織は巨大だが、それと並行して共産党の組織も存在する。ある官僚/政治家が問題を起こすと、まず共産党内で審査され、その後司法機関に移管される。つまり国家の前に、共産党による「教育的決定」が下される仕組みである。
・2000年代から公務員になるために共産党に入党する利用主義的志向が強まっている。これは共産党の存在意義の低下(インフレーション)をもたらすであろう。
○国家と党の関係
・党が国民を国民たらしめる教育装置なら、国家と党の関係はどうであろうか。本来、党は国家の下にあり、理論的/道徳的/教育的な先駆性により国民から支持されなければならない。
・そのためには”競争”が必要であるが、共産党は唯一の超級政党になっている。しかし共産党内の路線対立や大衆運動、またそれに起因する大衆討論が共産党の代表性を維持させた。その意味で文革期が最もその状態にあり、共産党は分裂状態にあったと云える。
・しかし改革開放/南巡講話以降、共産党は大衆討論を抑える傾向にある。重慶市トップが追われたように路線対立は存在するが、共産党内部の議論は曖昧に放置されている。これらは共産党が脱階級化した事による。※脱階級化?
・しかしこれは実質一党制の中国に限った事象ではなく、二大政党制の英米でも、欧州の多党制の国でも、政党同士/政党内の議論は低調になっている。この状況で必要なのは、政治的志向を持った党が、言論/アイデアをどう活性化させるかである。
・中国では共産党が国家の人事権を持っているため、党が国家の上に立っているように見える。ここで思い出すのが孫文の構想「国家は法により運営される。その法を作る人間を涵養し、政治的自由を行使する主体を形成するのが党である」(前述)である。※書かれている事が難しいし、具体的でない。
<第6章 ナショナリズムと帝国>
○政治様式としての帝国
・欧州での国民国家形成はローマ帝国からの分離/独立であった。一方中国は常に帝国として存在し続けたと云える。しかし欧州はEUと云う緩やかな連合体を形成しつつある。中国は数千年前に春秋戦国時代を経て、秦帝国を完成させた。
・ローマ帝国の特徴は、①商業ネットワークのための交通網、②緩やかな法治、③諸民族を緩やかに統合するためのキリスト教などである。秦帝国も同様で、①貨幣の統一、②法による統治、③法家/道家/仏教がミックスされた儒教が特徴である(焚書坑儒?)。
・しかし中国の帝国で肝要なのは、より発達した「官僚制」である。それを支えたのが儒教/法家思想であった。漢帝国では初めは老荘思想が重視されたが、その後儒教が復活する。漢帝国以降、儒教は法家/老荘思想(道家)/仏教などを取り込む。宋では総合学となり「朱子学」となる。その後清朝まで「朱子学」が帝国の学問となる。
・総じて帝国は武力だけでは維持できず、「官僚制」が必要である。近現代で中国以外で帝国の様相を呈していたのソ連である。ソ連も「官僚制」を敷き、マルクス・レーニン主義の「階級の概念」で統治し、民族問題を回避した。※何か説明不十分。
○清朝と現代中国
・話を戻すと、中国は何がしかの帝国性が保持され、今に至っている。19世紀後半清朝は列強に侵食され、これにより中国のナショナリズムの基本テーゼは反帝国主義/版図回復となった。
・歴史を整理すると、1840年「アヘン戦争」により亡国の危機意識が醸成される。「洋務運動」により西洋の科学技術を取り入れた。しかし「日清戦争」の敗戦で台湾を割譲される。列強の介入を止められないと知り、清朝内部を改革する「変法運動」が始めるが、失敗に終わる。これにより清朝を打倒し、共和制国家を樹立する革命派が台頭し、辛亥革命が起こり、中華民国が建国される。
・台湾の割譲は中国人最大の屈辱であり、台湾の回収は中国ナショナリズムの歴史的モメント(きっかけ?)になった。1972年日中国交回復時の共同声明に「台湾は中国に所属する」と明記されたのは、そのためである。※台湾回復は習主席の宿願である。
・中国は香港に対し「一国二制度」を実施している。香港には別の警察システムがあり、香港ドルが流通し、香港人の自治が貫徹されている。これにより建前と実態を分離し、”一つの中国”を実現している。香港に「独立派」は極めて少ない。
・台湾は内戦を戦った中華民国が統治している。中国は平和的解決を目指し、「一国二制度」を認め、性急な政治統合を図っていない。これを台湾に適応させれば、「一国両政府」と解釈できる。
・「一国二制度」は中国がかつてより多民族国家であり、漢民族以外の王朝も長く存在した経験による。※イスラムもそうだな。多民族国家は必然的に穏やかな統治になる。
○二つの中国
・元朝は非漢民族王朝であった。唐王朝は外来の仏教を拠り所とし、官僚に色目人を採用した。それにも拘らず、日本/西洋は「中華思想」を誤解している。「中華思想」を『大辞泉』で引くと「漢民族の文化・思想を価値とする考え方、外国からの政治的危機で熾烈な排外思想になった」とある。中華王朝に非漢民族王朝も多く、前者は間違いである。後者は反帝国主義と混同されている。
・この誤解の発端は、マックス・ウェーバーの中国論『儒教と道教』(1920年)にある。この頃欧州は中国に2つの期待を寄せていた。①資本主義化、②欧州基準の国民国家の形成である。
・彼は中華王朝を2種類に分けた。①唐/元/清などの大きな版図を持った帝国性の強い王朝(帝国期)、②中小国に分裂していた時期(中小国期)である。彼は①帝国期は国民的同一性などの近代的条件に乏しいため、資本主義化は不可能とした。
・日本における中国研究でも、日本が規範としたのは②中小国期の中国とし、近代美術でも範例としたのは②中小国期の中国とし、①帝国期を中国史の傍流とした。※日本が一番影響を受けたのは唐では?
・これら欧州/日本の考え方は、中国の帝国性を否定している。それは西洋が「一民族一国家」(民族自決?)を原則としているためである。
・またこの誤解により、東アジアの平和維持に貢献していた中国帝国の朝貢・冊封システムは全く理解されなくなった。西洋では国際条約により国際秩序は定まるが、条約を交わす主体は平等であっても、条約の中身は不平等である。日本は一早くこの国際条約体制に加わり、締結した不平等条約の解消が国家的課題になった。
※王朝の区分は余り納得できないが、国際条約の話は納得できる。
○インドとの比較
・インドはムガール帝国がイスラム原理により穏やかに統治していた。しかし17世紀になると列強が侵入し始め、18世紀には英国東インド会社が統治を始め、19世紀半ばにインド全域が英国領になる。
・英国は宗教/民族を基軸として分割統治を行い、そこに三権分立システムを導入した。ただし土地制度と結び付いた「カースト制」は存続させた。「カースト制」は、1947年独立後も温存されている。
・インドは独立するが、元のムガール帝国とならず、宗教の違いでインド/パキスタンに分かれた。
・インドは中国と様々な相違を表出している。一つはインドには英国式の議会制民主主義が定着する。これは全てのレベル(国、省、県、村)で定着した。しかし本来は国レベルの第一党の行政が大きく影響するが、各レベルで第一党がバラバラのため、一貫性のある政策を実行できていない。これは一党支配の中国では起きない問題である。
・中国との違いに文盲率もある。インドでは「カースト制」が存続しており、下層の人間は教育/就労/医療などで様々な制約を受け、スラムが残存している。一方の中国は土地改革が行われ、身分制度は打破された。
・最後に述べないといけないのは、多民族統治の種別性(?)である。インドでは英国が宗教/民族による分割統治を行ったため、際立った構造になった(※これでは全く分からない)。一方中国では、元々宗教(儒教、道教、仏教)が文化に及ぼす影響が小さかったし、共産党は少数民族の利益を確保する方向で進んだ。これにより身分制度を解消した社会を出現させた。※チベット/ウィグルはどうなんだろう。
・民主化のプロセスでよく重視されるのが、そこに「民主」「自由」があったか否かであるが、「土地制度が行われたか」「身分制度が解消されたか」の指標が等閑視されている。※「中国はもっと評価されて良い」かな。この解釈で良いのか。文章が難しい。
・今の民族問題(※チベット、ウィグル?)は、改革開放以降の資本主義の導入に根差したものである。以前は国家が資源/機会の配分を行っていたが、今は少数民族は自力で階級上昇を強いられている。※自由主義化したので、そうなる。
・日本は戦後に土地改革が行われ、身分制度は廃止され、基本的人権が保障されるに至った。しかしこれはGHQの権力を背景にしている。一方中国は自発的な改革で獲得した。そのため、その自覚は強い。※よく云われる事だ。
○文字と官僚制
・中国の帝国性の中核にあるのは「官僚制」である。そしてこの「官僚制」の特色に漢字文化がある。漢字は表意文字である。それは帝国を建設する過程で、国家間の同盟契約に表意文字が必要であったためである。そのため「官僚制」と漢字は中華システムに必需のセットと云える。
・中国の近代化が進められる中、漢字を廃止し、ラテン文字を使用する議論があった。しかし1949年中華人民共和国が成立すると、漢字の簡略化を進める。毛沢東の演説は湘南訛りのため、多くの人が理解できず、事前に文書化していた。
・中国は漢字を捨てなかったため、分裂しなかったと云える。
<第7章 孫文>
○広東の歴史的磁場から
・孫文は”建国の父”と云われる。それは中華民国/中華人民共和国の両政治体制から評価されるためである。中国の20世紀前半は「辛亥革命」を成すも、ほぼ分裂状態であった。彼は1925年に亡くなるが、革命に数度チャレンジしている。
・彼は革命の実践家であったが、近代国家形成の理論家であり、『建国方略』(1919年)/講演『大アジア主義』(1924年)/『三民主義』(1924年)を残している。
・1866年彼は広東省香山県(中山市)で生まれる。当地は「太平天国の乱」を起こした秘密結社などの活動が盛んで、香港/マカオにも近かった。12歳の時ハワイに行き、学業を修め、香港大学で医学を修めている。そこで反清朝/民族意識に目覚め、革命を志すようになる。1895年最初の武装蜂起をして、日本に亡命している。
○三民主義の民族主義
・『三民主義』の中核は民族主義(ナショナリズム)である。近代国家を形成する目的から、民族主義が必要になった。孫文は中国には家族主義/宗族主義はあるが、民族主義はないとした。
・彼は「救国」に対する危機を3つ挙げている。①政治的圧迫による主権の損失、②関税自主権がない、賠償金を課されているなどの経済的圧迫、③人口的圧迫(人口が少ない)。前2者は、1949年中華人民共和国の成立で克服された。
・国民から国家への忠誠を得るには、国民の権利/教育などの様々な制度が必要で、民族主義は後述する民権主義(国民の権利の保障)/民生主義(国民が安全に暮らせる)と密接に関連している。
・彼は民族主義が失われた理由を、満州人により明朝が滅ぼされ、清朝が建てられた事とした。これは清朝を倒すためのスローガンの「排満興漢」である。しかし「辛亥革命」後、彼はスローガンを「五族協和」に変えている。
・民族主義の存立基盤は反帝国主義である。彼は民族主義に対置される概念を多民族を包摂する「世界主義」としている。しかし中華文化は異民族を吸収/同化させてきた文化で、「世界主義」と云える。
・この民族主義は西洋の帝国主義への抵抗であり、西洋の民族主義(一民族一国家)とは異なる。今でも中国の地位が貶められる度に、この民族主義が叫ばれる。
※これはナショナリズムであり、民族を使うのは誤りだな。
○三民主義の民権主義
・西洋では「人権」が説かれ、日本では福沢諭吉が「民権」と「国権」のバランスを説いている。孫文は近代革命で清朝を倒す事を目標とし、君権(君主の権力)/皇権(皇帝の権力)を民権(民の権力)に帰すべきと考えた。ここで云う”権”は「権利」ではなく「権力」である。
・孔子は人々が平等の「大同」を理想としており、彼はこの儒教の「大同」で「民権」を説明している。彼は古来からある中国哲学を西洋哲学でアレンジしたと云える。
・彼は「太平天国の乱」が失敗した原因を、「誰もが帝位を求めたため」とし、君権/皇権を否定している。これは「辛亥革命」後の混乱にも当て嵌まる。
・彼は「西洋の封建領主制は営業/労働/信仰などに多くの制限を加えたため、人民は死を賭して”自由”を獲得した」と考えていた。また「中国では税金を払えば”自由”は保障されている」とし、逆に西洋の「自由」を強調すると混乱すると考えていた。
・ルソーは「人は生まれながら”平等”」としたが、孫文は「人は生まれながら”不平等”」としている。この「不平等」を「平等」にするのが「服務」とした。この「服務」は共産党の最大価値になり、「人民服務」として存続している。
・「民権」に話を戻す。彼は中国の統治には民の「権」「能」が必要とした。彼は政府を動かすのは「能力」のある人とし、政府を「器」(日本語では機関)と考えた。彼は政府は大きな力を持たなくてはいけないと考え、今で云う「大きな政府」を志向した。この志向は近代中国の政治家/思想家に共通している。
・また彼は革命の主体を先覚者(設計者)/後覚者(宣伝者)/無覚者(実行者)に設定している。
※この節だけで、1冊の本が書けそう。
○三民主義の民生主義
・民生主義を単純に云うと、民に十分な衣食住(生活)を与える事である。これは一挙的には解決できず、継続的な課題である。これは「易姓革命」にも通じるが、孫文は近代的革命により制度で保証されるべきと考えた。
・当時はマルクス・レーニン主義が世界的な潮流で、中国にも共産党が成立した。マルクス・レーニン主義は階級闘争を通じた革命を基軸にしていた。しかし彼は中国には労働者は少なく、階級闘争は不要とした。逆に労働者の育成が必要と考えた。
・彼は民に十分な生活を与えるのためには、地権の独占の抑制/私的資本の抑制/国家資本の充実/国家主導の工業化などを考えていた。これらはソ連の経済政策と酷似しているが、国家体制が整っているなら、海外資本の導入も可能と考えていた。
・一方で彼の妻は富豪の娘・宋慶齢であり、海外の華僑や欧米の支持者から個人的支援を受けていた。これらから彼の経済政策は、当時の様々な手法の折衷案と云える。
・彼の土地政策は「耕者有其田」(耕す者がその田を有する)で、小作を漸進的に減らす考えであった。農作物の流通は市場での流通を考えていたが、飢饉に備え「義倉制度」の充実も考えていた。彼は自由主義が前提だが、国家が分配を保証する制度設計を目指していた。
・共産党は「特色ある社会主義」を掲げているが、これは彼の構想と似た性格を持つ。文革後は革命的な手段は取られず、彼が考えた漸進的な改革が進められている。
※孫文は偉大な人だな。
○日本との関係
・孫文は革命家で、欧米の革命/独立戦争を参照する一方、日本の明治維新/自由民権運動も参照した。
・彼は犬養毅への手紙に「日本と中国が連携し、欧米の帝国主義の侵入を抑えよう。そのためには日英同盟ではなく、中国との関係を重視して欲しい」と書いている。また「中国の革命プロセスに干渉しないで欲しい」とも書いている。これは日中双方の社会改革の自主性を重んじたためである。
・彼の演説に『大アジア主義』(1924年)がある。そこで「日本は欧米の覇道文化を取り入れたが、アジアの王道文化も持っている。日本は欧米覇道文化の手先になるのか、アジア王道文化の防御になるのか」と問うている。その後の満州事変(1931年)/盧溝橋事件(1937年)は、日本の帝国主義的侵略そのものであり、20世紀前半の日本の行動は、孫文の期待を裏切るものであった。また孫文は各国の「自主性」を尊重しており、今の日本は、この期待も裏切っていると云える。
<第8章 毛沢東>
○なぜ毛沢東か?
・毛沢東は今でも民衆に支持されている。しかし彼の「中国文化大革命」(文革)での誤りは、1981年第11期中央委員会第6回全体会議の「歴史決議」で批判された。
・彼が活躍したのは1930年代からで、中国は分割/混乱の時代であった。共産党は国民党との内戦に勝ち、1949年中華人民共和国を建国する。彼は大衆動員を基軸にした政治路線/経済路線で国家建設を進めた。
・文革後はこの手法は姿を消し、今は制度設計と市場経済の調整をする手法に変わっている。2010年代に入ると経済格差が広がり、社会的反応が見られるようになった(社会ナショナリズムの発現)。これにより隔世遺伝的に毛沢東がイコン(聖画像)となった。
○毛沢東の経験
・1893年毛沢東は湖南省湘潭県の農家に生まれる。書院(私塾)で伝統的な教典を学ぶ。1911年中学校に入学するが、学業を放棄し「辛亥革命」に加わる。
・彼が学んだ儒学は陽明学系の船山学で、これは行動に関わる主体性を重んじた。初期の革命家は普通教育を受けていないため、儒学のどの系統を学んだかが思想に大きく影響した。
・彼は後にマルクス主義に感化される。湖南省は北京から遠く、逆に香港から中国全土に物資が広まる交通の要所であり、また湖南省は独立王国的に振る舞う地方官が多かった。彼は湖南省の首府・長沙にいたが、そこで新しい学問を思考する組織「新民会」を作ったり、「五・四新文化運動」の雑誌『新青年』の熱心な読者であった。
・1920年彼は「長沙共産主義グループ」を組織する。この時期に陳独秀/李大釗などのマルクス主義者と知り合う。彼は北京大学図書館の司書を勤めていたが、主な活動場所は農村であった。彼はアカデミーで論じられているマルクス主義と現実である農村との格差を認識していた。
・1920年代半ばは国共合作期で、軍閥解消を目指していた。軍閥の財源を断ち切るため、地主制度を解体し、土地を農民に分配する「農民運動」を行ていた。これは近代化に必須の課題で、彼はこれに身を投じていた。
○毛沢東と内戦/祖国防衛戦争
・1927年4月蒋介石(国民党右派)による「反共クーデター」で「第一次国共合作」は終わる。共産党は江西省井岡山に引き篭り、根拠地運動を行う。この活動で毛沢東は頭角を現す。またこの頃より共産党の軍隊は「紅軍」と呼ばれるようになる。
・共産党の政策は、ソ連方式と異なる彼の独自の路線を歩むようになる。土地を全て公有化するのがソ連方式であったが、彼は地主と協力する方式を採った。またソ連は都市攻略に拘ったが、彼は根拠地の維持・拡大に努めた。共産党は形式的にはソ連の指導を受けるが、実質は彼の独自路線が採られていた。
・共産党は江西省から福建省に跨る広大な根拠地を有していたが、1935年国民党による5度目の包囲掃蕩作戦に敗れ、「長征」に出る。最終的に陝西省延安に根拠地を置く。
・1936年開明的な軍閥・張学良が蒋介石を軟禁し、内戦停止/抗日などを要求する。1937年7月日本軍は「盧溝橋事件」を起こし、「日中戦争」が始まる。これにより「第二次国共合作」がなる。※第一次は軍閥が相手で、第二次は日本が相手だな。
・彼はこの「祖国防衛戦争」での勝利を論文『持久戦について』で論じている。彼の筆致は誰にでも伝わる文体で、陰陽表現を使うなど巧みで、「宣伝」効果は絶大であった。中国はこのようなリーダーを得たのである。
・ソ連の革命方式は都市でのクーデター方式であるが、中国の場合、長期の内戦と「祖国防衛戦争」が基礎となっており、いかに味方を増やすかが重要であった。それには「宣伝」が効果的で、彼の文体(毛文体)は研ぎ澄まされていった。
○解放後の国家建設
・1949年毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言する。1950年6月「朝鮮戦争」が勃発し、中国はソ連と協議し、人民義勇軍を派遣する。1953年停戦となるが、中国は安全保障を強く意識せざるを得ず、重化学工業偏重の経済政策を採る。彼はソ連からの自立を模索していたが、ソ連の技術援助を受けざるを得なかった。
・1956年彼は『十大関係論』を講話するが、そこでコミンテルン派の王明/東北部でのソ連モデル/重工業への偏重/農業集団化の強行/過度に中央集権化な計画経済/粛清問題などのソ連批判をしている。
※ここで通常兵器開発と核兵器開発の予算配分について書かれているが、理解できず。
○毛沢東にとっての文革/ポスト文革
・毛沢東は「大躍進政策」の失敗で、1960年代初頭に指導者の身分を劉少奇に譲っていた。彼はその不満から「中国文化大革命」(文革)に走ったとの見方もある。
・当時国防部長であった彭徳懐はソ連の立場に立っていたが、彼は失脚し、毛沢東を支持する林彪が後任に就く。林彪は1966年から始まる文革のペースセッターとなる。
・毛沢東の真の目的は、劉少奇/鄧小平の官僚体制を基軸とする社会主義国家建設ではなく、大衆運動を動力とする「階級闘争」を進め、共産主義国家を建設する事であった。※難しい。いつの間に階級闘争を進めるようになったのか。
・彼は自分が敷設した教育機構の学生に火を点け、政敵を倒そうとしたが、学生は様々な場所で武闘を始めた。さらに学生は農村にも向かう事になる。
・文革は都市では、造反派(毛沢東派?)の労働者/幹部(?)が旧来の指導部(?)を辞めさせ、取って代わる「奪権闘争」に変わった。この後ろ盾になったのが人民解放軍の林彪であった。
・1971年米国国務長官キッシンジャーが中国を極秘訪問し、米中接近が始まる。この年林彪が失脚し、文革は節目を迎える。それは後任の国防長官に実務的な葉剣英が就き、「階級闘争」を鎮める方向に向かった事による。しかし造反派から「四人組」が形成され、人民解放軍幹部と「四人組」の抗争はその後も続く。
・1975年「ベトナム戦争」は終了し、東アジアの軍事的圧力は大きく軽減される。翌年毛沢東は亡くなり、「四人組」は逮捕され、文革も終わる。
・1978年「改革開放政策」が始まる。「改革開放政策」は毛沢東が既に承認していたとの説がある。後任の華国鋒がこれを進めるが上手く行かず、鄧小平が復活し「改革開放」の顔になる。文革が終わった時点で、中国の工業生産力は既に世界第6位に達しており、中国を国際的な資本主義分業体制に組み入れる必要があった。
・1980年代以降の経済発展は「改革開放」によるが、1990年代に入ると、経済格差や資本/土地/人事にまつわる共産党内部の腐敗が露わになる。これにより英雄待望論が起き、2012年尖閣暴動で毛沢東が掲げられる事になる。
※この節だけで1冊の本が書ける。
○毛沢東の理想と現代中国
・毛沢東を評価するのはセンシティブな問題である。彼を新たに評価するとすれば、文革期の理想主義ではないだろうか。これは人類史的な遠大な目標であり、①都市と農村の対立、②知的労働と肉体労働との疎隔、③農業と都市工業の分離を超克せんとする革命思想であった。というのは、2010年代以降の中国は、この3つの矛盾が危機的な水準に至るからである。
・もう一つ評価を加えると、中国はソ連から自立し、米国と対等な地位を獲得した。国家独立の面から、彼は評価されるべきである。
・2012年彼が掲げられた尖閣暴動だが、これは日本に対する批判と云うより、中国政府の弱腰に対する批判である。実際日本大使館への行動は見られなかった。これは1919年「五・四運動」の時も同様で、学生が押し掛けたのは日本関係の施設ではなく、政府関係者の所だった。
・また「抗日戦争」を除いて、中国の指導者や大衆が日本を批判するのは一時的であって、長期に亘って批判した事はない。また「反日」を掲げていても、それは中国政府に対する批判なのである。
※中国人は経済などでも政府依存が高いからな。
<第90章 鄧小平>
○実務者の風貌
・1904年鄧小平は四川省広安県の地主に生まれる。1920年「第一次世界大戦」の労働力不足を補うための「勤工倹学」で仏国に留学する。彼は仏国でボーイ/清掃夫/工員として懸命に働いた。1922年仏国で中国少年共産党に入党する。1926年モスクワに移り、東方勤労者共産大学/モスクワ中山大学でマルクス・レーニン主義を学ぶ。
・1927年(反共クーデターの年)帰国し、根拠地運動に参加する。彼は毛沢東に忠実に従い、抗日戦争/内戦では戦争指導に関わる。中華人民共和国成立後は財務関係の指揮を執る。彼は客家人らしく真面目で明晰であった。
・1957年毛沢東は共産党に対する批判を喚起させるが、知識人の共産党批判が過激になり、逆にこれを弾圧する(反右派闘争)。この陣頭指揮に当たったのが鄧小平だった。1989年「天安門事件」でも、彼は学生の排除を決断している。
○文革期の鄧小平とその遺産
・1960年代初頭「大躍進政策」で失敗した毛沢東は第一線を退き、国家副主席・劉少奇/総書記・鄧小平が経済の立て直しに当たる。農民に自主的な生産を認める「請負制」により農業生産は回復する。
・文革が始まると、「走資派」は批判され、失脚する。1968年彼は全役職を奪われ、翌年には江西省南昌に追放される。1969年劉少奇は軟禁状態のまま最期を遂げる。
・1971年ナンバー2の林彪が飛行機事故で亡くなる。1973年鄧小平は周恩来の助力で中央に復帰し、国務院副総理など様々な職務に就く。
・1976年1月その周恩来が亡くなり、彼の追悼デモが天安門で行われる。これを「四人組」(江青など)が武力鎮圧する(第一次天安門事件)。鄧小平は追悼デモの首謀者とされ、2度目の失脚をする。同年9月毛沢東が亡くなり、後継者の華国鋒は「四人組」を逮捕する。翌年鄧小平は2度目の復活をする。その華国鋒も経済の混乱を招いたとして、失脚する。※権力闘争は醜いな。
・鄧小平の政治観は、実務での安定的な経済運営にあり、これは後の江沢民/胡錦濤などに受け継がれている。
・さらに彼の特徴に、海外視察が多い点がある(※留学経験があるからな)。1974年国連資源総会に出席し、『三つの世界論』を演説している。これは米ソを”第一世界”、欧州/日本を”第二世界”、発展途上国を”第三世界”とし、中国は”第三世界”に留まるとした。この考えは今も活かされており、資源外交が行われている。
・また彼は西側の先進工業地帯を度々視察している。1979年訪米時に、アトランタ/シアトル/ヒューストンの先進工業地帯を視察している。同年深圳に経済特区を開設している。
○第二次天安門事件(六・四天安門事件)
・1970年代「改革開放」の農村改革で効果が出始める。劉少奇/鄧小平によって始められた「請負制」である。これを全面化し、農業生産を向上させた。しかし土地の再分配により労働人口が余ってしまった。そのため起業を許し、「郷鎮企業」が発展していく。
・1980年代、都市で国営企業の民営化に着手する。こちらは農村と違い労働者に分配されず、国営企業の多くは共産党の幹部やその家族が私有する形態になった。この形態は中華人民共和国で最大の腐敗を招いた。鄧小平の家族はコンツェルン「保利集団」を形成し、軍需産業の中核を担うようになる。これに対する民衆の反発は大きく、「第二次天安門事件」で噴出する。
・さらにこの時、統制価格と自由市場での価格の二重化が起きた。また国営企業での給料水準と企業(民間?)の給料体系の二重化も起きた。この2つの二重化により、都市でインフレーションが発生する。「第二次天安門事件」前は、この不満が最高潮に達していたのである。※自由化は課題を多く残したんだ。
・「第二次天安門事件」で抗議運動を行ったのは学生である。彼らは米中蜜月の中、西側の価値を普遍的価値として受け止めていた。さらに都市での国営企業の民営化で発生した腐敗への反発が、この運動の原因である。
・鄧小平はこれらの矛盾に対し無策であり、腐敗も防止する事ができなかった。そもそも自由化の先頭に立った趙紫陽が学生の運動に賛意を示している。
・この「第二次天安門事件」の前、ソ連のゴルバチョフが北京を訪れている。これは前年に米ソ代理戦争の「アンゴラ内戦」が終わり、これに伴い中ソ対立も解消されていたためである。逆に米国に対し緊張感を持つ必要が生じていた。これらの中国に対する不安から、海外からの投資が減少し、「改革開放」にブレーキが掛かる。
○南巡講話とポスト鄧小平
・鄧小平の最後の政治的行動が、1992年「南巡講話」である。そこで彼は大胆な経済特区の新設や、投資の促進を呼び掛けた。さらに生産力の発展/搾取の消滅/両極分化(分裂)の除去を述べている。この内容は1980年代の主張と変わっていない。
・この「南巡講話」後、彼は表に出なくなり、事実上引退する。
・「南巡講話」後、政治指導部は江沢民が主導する。1990年代後半。「三つの代表論」が議論される。共産党は以下を代表するとした(※代表かな。理念とか方針とかの方が適切かな)。①先進的な社会生産力の発展、②先進的な文化の前進、③広範な人民の根本利益。これによると資本家は共産党員になれるし、党のイニシアティブを取る事も可能になる。
・この改革開放後期(※説明がない。「南巡講話」以降?「三つの代表論」以降?)で工場労働者は膨大に増える。しかし共産党は労働者階級の政党から、脱階級的/脱政治的な色彩を強める。
・「第二次天安門事件」は都市大衆を沈黙させた事件であり、「南巡講話」は中国に新自由主義を展開するための講話であった。
※中国も世界の潮流に乗っている。中国は共産党の一党独裁だが、普通の国とそんなにかけ離れた国に見えなくなった。
○鄧小平の遺したもの
・鄧小平は「議論をしない」が方針であった。それは「南巡講話」でも述べている。※原文が載っているが省略。
・思想家・汪暉は「南巡講話」以降の政治を「脱政治の政治」と批判している。共産党による言論抑制もこれに含めている。この「脱政治の政治」は、新自由主義が浸透する世界に共通の現象である。複数政党制の国でも似たり寄ったりの政策に落ち着き、政治的討論が回避されている。これは冷戦の終結で批判勢力の「社会主義圏」を失った事による。※イデオロギー対立がなくなり、対立軸がなくなった。
・鄧小平は新自由主義を導入したが、マルクス主義/社会主義に強い期待を寄せていた(※それは共産党の支配を続けるためでは)。彼は「人類社会は奴隷制社会が封建社会に代わり、さらに資本主義に代わった。しかしその後社会主義になる。社会主義が一時的に弱体化しても、大衆は最終的に社会主義を選択するだろう」と述べている。また「世界の課題は平和と発展である。中国は覇権主義/強権主義に反対し、自らは覇を唱えず、世界平和を擁護する」と述べている。※核心的利益外に手は出さないらしい。
・彼の考え方は孫文の『三民主義』と符号している。今後中国の革命家が理想に背く事があっても、先人の初心(理想主義)に立ち戻らざるを得ないだろう。
<終章 中国ナショナリズムと民主/人権>
・本書の目的は中国ナショナリズムを論じる事であった。中国の「民主化」「人権問題」に無関心ではいられないが、それには中国の歴史的背景を知る必要がある。またそれを知る事は、日本が潜り抜けてきた「近代」を反省する事でもある。
・まず「民主」についてであるが、中国は「辛亥革命」後、分裂状態にあり、それぞれが異なった行政システムを持っていた。その状態で西洋式の近代的革命で中央集権国家を作る事は難しく、強力な武力を持った「超級政党」に頼るしかなかった。これが「民主化」されなかった要因である。
・一方日本は列強の圧力がないため、「近代化」「民主化」が同時に行えた。
・「人権」は奴隷制/身分制の廃止と定義できる。これが定義なら、米国は黒人に公民権を与えた1960年代に達成された事になる。
・今問題視されている「人権」は、1970年代以降に欧米の先進国が旧社会主義国/第三世界国/新興国で「非人権的現象」(※具体的な説明がない)を発見してからである。自国の産業を「第三次産業」(サービス、福祉、金融、消費)にシフトさせた国家では、この現象は見られない。一方第三次産業化を済ませた国家からの投資を受けている国家では、労働者人口の流動や搾取が見られ、「非人権的現象」が問題になっている。※日本でもブラック企業とかあるけど。
・ルソーは「『人権』とは人に元々あったもので、私有財産制により分断が生じ、『人権』への希求が喚起されている」としている。
・中国では「戸籍制度」により、ほとんど財産を持たない「農民工」は、この「非人権的現象」にある。しかし「戸籍制度」を廃止すると、スラムが発生するであろう。「一人っ子政策」も「人権問題」と云える。中国社会の矛盾を国際社会に伝えようとしている知識人が、政府の取締りの対象になっている。これも「人権問題」である。
・最後に「近代」とは「理想」である。その原則は「身分制の否定」である。国籍に関係なく人が自由/平等に生きれるのが「理想」であるが、その道は遠い。それ故近代国家は身分制を解体し、人を自由/平等に生かす装置である事を忘れてはいけない。