『自民党と戦後史』小林英夫(2014年)を読書。
自民党に2大潮流があると聞き、それが分かりそうな本を選択。
また政治を任せているのに、彼らを知らないのは無責任過ぎる。
自民党は吉田茂の佐藤派/田中派/竹下派(経世会、平成研究会)が長く権力を維持してきたが、近年は岸信介の福田派(清和会)が権力を握っている。
戦後の政治は、自民党の派閥システムが大きく影響したとしている。
自民党衰退の転換点を田中内閣としている。
総理になるパターンはある程度決まっており、前総理の病気などで急遽就任した場合、短命内閣に終わる事が多い。
お勧め度:☆☆☆(大変詳しい。民主党の解説もある)
キーワード:<戦後政治の概観と自民党>自由民主党/鳩山一郎、田中角栄、小泉純一郎、派閥、宏池会、清和会、経世会/平成研究会、社会党/公明党/民主党、<戦後民主化と政党活動の開始>吉田茂、日本国憲法、日本自由党/日本進歩党/日本社会党、大政翼賛会、公職追放/吉田学校、<自民党の誕生>東西冷戦、インフレ/ドッジ・ライン/シャウプ勧告、朝鮮戦争、サンフランシスコ講和条約/日米安全保障条約、バカヤロー解散/造船疑獄事件、55年体制/日本労働組合総評議会(総評)/追放解除組、<高度経済成長の準備と安保闘争>日ソ国交回復、石橋湛山、岸信介/東南アジア賠償/新安保条約、<高度経済成長の時代>池田勇人/月給2倍論(所得倍増計画)/宏池会、佐藤栄作/沖縄返還/派閥システム、<安定成長への模索と田中支配>田中角栄/日中国交正常化/狂乱物価、三木武夫/三木おろし、椎名悦三郎/満州人脈、福田赳夫、大平正芳/ハプニング解散、鈴木善幸、中曽根康弘/プラザ合意/バブル、<自民党の衰退、下野>竹下登/経世会/冷戦終結/リクルート事件、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一/東京佐川急便事件、<55年体制の崩壊>細川護熙/政治改革、羽田孜、小沢一郎、村山富市、国会対策委員(国対族)、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗/加藤の乱、小泉純一郎/郵政民営化/新自由主義、安倍晋三/福田康夫/麻生太郎、野中広務、<野党から再び与党へ>民主党、鳩山由紀夫/菅直人/岡田克也/前原誠司/野田佳彦、菅義偉、町村派/額賀派/岸田派/麻生派/二階派/石原派/大島派、無派閥/官邸主導、強靭性/柔軟性、壊し屋/建設屋、<おわりに>憲法改正
<はじめに>
・2012年安倍晋三は総理に返り咲き、「アベノミクス」(金融、財政、新産業の育成)を掲げた。2013年7月の参議員選挙で勝利し、”ねじれ国会”を解消する。
・彼は自由民主党(自民党)が生まれた前年(1954年)に生まれている。彼の父は安倍晋太郎・元外務大臣で、祖父は岸信介・元総理である。政治一家の継承性もさる事ながら、自民党の生命力にも驚かされる。
・自民党は90年代までは社会党、それ以降は民主党などと政治闘争し、一時政権を失うも奪還/維持し続けた。その要因は何だったのか。
・まず挙げられるのが人材である。1955年保守政党の鳩山一郎/大野伴睦/三木武吉/河野一郎、官僚の岸信介/重光葵らが総結集した。その後官僚から転身した池田勇人/佐藤栄作/大平正芳/宮沢喜一、実業界から藤山山愛一郎/田中角栄も参画している。
・近年その人材が幅が狭まっているとの見解がある。その傾向は60年代に第1世代が交代し、二世議員の増加に現れている。
・90年代までの”自社対立時代”は保守/革新の明確な識別があったが、民主党との対立時代になると、その識別は不鮮明になり、優秀な人材は民主党にも流れた。
・上杉隆は二世議員を生む要因を、①政治資金管理団体の非課税相続、②後援会組織の世襲、③看板の世襲を挙げている。
・本書は人材の供給/陶冶の観点から述べる。また1955年自民党の誕生から、2009年政権を失い、2012年政権を奪還するまでを述べる。
<戦後政治の概観と自民党>
○第1期(1945~55年)
・自民党史を4期に分ける(※これは基本だな)。第1期は戦後から自民党誕生までの10年間である。この第1期は前半と後半に分かれる。前半は1945年11月日本自由党の結成から、48年10月芦田内閣の総辞職までである。46年4月総選挙で日本自由党は第1党になるが、鳩山一郎が公職追放になり、吉田茂が組閣する。47年4月総選挙で日本自由党は敗れ、民主党芦田均が組閣する。その芦田内閣は「昭和電工疑獄事件」で総辞職し、吉田が再度組閣する。
・1948年10月GHQのバックアップで吉田が再度組閣する。52年4月「サンフランシスコ講和条約」の発効を機に、鳩山らの公職追放が解かれる。54年11月鳩山(総裁)/岸信介(幹事長)/三木武吉らは日本民主党を結成する。12月内閣不信任案により吉田内閣は総辞職する。55年11月自由党・緒方竹虎と日本民主党・鳩山が合体し、自由民主党(自民党)が誕生する。
○第2期(1955~93年)
・第2期は「55年体制」である。吉田茂の軽武装/経済優先に対し、鳩山一郎は自主独立を濃厚に出し、「日ソ国交回復」後に総裁を降りる。1957年2月岸が組閣する。60年6月岸は「日米安全保障条約」を改定し、退陣する。その後岸が設定した官僚主導の経済成長路線を、池田勇人/佐藤栄作が踏襲する。72年7月までのこの時期が日本の高度成長期である。
・72年7月その跡を継いだのが田中角栄だった。彼は円急騰/石油危機に翻弄され、74年12月金権スキャンダルで辞任する。彼は「ロッキード事件」で起訴され、有罪判決を受ける。彼は自派で幹事長ポストを握り、総理を指名し、院政を敷いた。
・85年田中が脳梗塞で倒れ、重石が取れた中曽根康弘内閣は長期政権になる。しかし日本の経済力を過信した中曽根内閣/竹下登内閣は、積極的な経済政策を取れなかった。
○第3期(1993~2009年)
・1993年非自民8党の細川護熙内閣が誕生し、自民党は下野する。しかし村山富市内閣では自社さ連立政権となり、政権に復帰する。2009年民主党に政権を譲る。
・2001年「自民党をぶっ壊す」と叫んだ小泉純一郎が総理に就く。彼は派閥政治を排し、トップダウンで政治を行った。
○第4期(2009~2012年)
・この期間は2回目の野党時代である。民主党政権はリーマン・ショックによる景気後退/東日本大震災などにより自滅する。2012年9月「強い経済」を掲げる安倍晋三が自民党総裁に就く。
○派閥
・自民党で「派閥解消」が叫ばれたが、依然派閥が活動の単位である。派閥は単に政策/政治理念だけでなく、出身地/学歴/職歴/社会経験による指導力/資金収集力/政治経験などで結束している。
・大きく見れば、立憲政友会からの日本自由党(鳩山)→民主自由党(吉田)→自由党→自由民主党(自民党)の流れと、立憲民政党からの日本進歩党→民主党→改進党→日本民主党→自由民主党(自民党)の流れがある。しかし派閥の観点で見れば、前者の中の鳩山/吉田の両派に帰結する。
・1955年保守が合体し自民党が誕生するが、実態は派閥の集団で、議員は派閥単位で行動した。小泉は「自民党をぶっ壊す」と叫んで総裁になったが、それは清和会(福田派)と平成研究会(田中派)の闘争だった。
・自民党には3大派閥が存在する。まずは「宏池会」である。1957年宏池会は池田勇人を総理にするために誕生した政策集団である。その後大平正芳/鈴木善幸/宮沢喜一/麻生太郎らを総理にしている。思想的にはリベラル/親米・親中で、高級官僚出身者が多い。
・2つ目の派閥は「清和会」である。1979年清和会は福田赳夫により結成された。この源流は鳩山一郎/岸信介らの日本民主党にある。思想的にはタカ派/反共・親台派で、自主憲法制定を掲げている。小泉純一郎/安倍晋三らを総理にしている。
・3つ目の派閥は名称が遷移しているが、周山会(佐藤栄作)、七日会/木曜クラブ(田中角栄)、創政会(竹下登)、経世会、平成研究会(橋本龍太郎)である。この源流は吉田茂であるが、思想的には親米・親中である。
※以降の解説に期待。
○社会党が果たした機能
・日本の政治を先取りするのが社会党だった。1945年11月社会民衆党系/日本労農党系/日本無産党系から結成された。これは日本自由党より7日早かった。1955年10月左右が合同し、統一社会党を結成するが、これも保守合同の1ヶ月前だった。
・また1990年代の社会党の動きも注目される。細川内閣の誕生に大きく関わるが、次の羽田孜内閣を短命に終わらせたのも社会党である。社会党は自民党を政権復帰させる村山富市内閣を誕生させるが、96年1月党名を社会民主党に改称し、幕を閉じる。
・社会党は政治動向を常に先取りしていた。それは党が労働組合に資金/選挙/大衆動員を依存する思想集団だったためである。しかし労働組合以外に組織基盤を持たなかったため、先頭を走りながら、長続きしなかった。※話が中々難しい。
○公明党/民主党の位置付け
・公明党も万年野党だったが、出発点は創価学会で、社会党と性格が異なる。戦前に創価学会が言論弾圧に苦しんだ経験から、言論問題/憲法問題で自民党とは差異がある。90年代に自民党の一党支配が終わってからは、公明党の動きは大きな意味を持つようになった。
・1996年社会党の消滅以降、自民党に対抗する勢力となったのが民主党である。2009年政権の座に就くが、3年3ヶ月で政権を失う。しかし96年以降民主党の存在は無視できない存在である。
○先行研究を瞥見する
・冨森叡児『戦後保守党史』は、細川内閣成立までの「55年体制」を論じている。自民党崩壊の起点を田中内閣としている。その後の自民党評価は、これを踏襲している。
・北岡伸一『自民党 政権党の38年』は、長期政権/ソフトな支配/派閥間競争などの観点から分析している。鳩山・石橋・岸時代/池田・佐藤時代/田中時代/鈴木・中曽根時代に分け、各時代の国民の支持/党内のリーダー競争/時の政治課題を論じている。※凄そうな本だ。
・季武嘉也/武田知己『にほん政党史』は、明治から平成までを論じているが、その中心は自民党である。「55年体制」を”一党優位政党制”の成立・動揺・崩壊として論じている。
・野中尚人『自民党政治の終わり』は、小沢・小泉論、日欧の政治制度の比較、ポスト冷戦下での社会・政治などユニークな指摘が多い。
・伊藤惇夫『民主党』は、著者は同党の事務局長を務めており、同党の内情が述べられている。
・塩田潮『民主党の研究』は、党首毎に同党の動きを述べている。
<戦後民主化と政党活動の開始>
○旧憲法体制下の戦後内閣
・戦後最初の内閣は、初の皇族内閣の東久邇宮稔彦内閣(1945年8月~10月)である。しかしGHQの「民主化要求」への対応に苦慮し、総辞職する。続く幣原内閣(1945年10月~46年5月)も短命で終わる
・1946年5月第1次吉田内閣(1946年5月~47年5月)が発足する。吉田は日本国憲法の広布/農地改革/傾斜生産方式などの施策を実施する。47年2月「2.1ゼネスト」はGHQの指令で乗り切る。しかし47年4月新憲法下での最初の総選挙で社会党に敗れ下野する。※2.1ゼネストへの反発かな。
○乱立する新政党
・戦後様々な政党が産声を上げる。1945年11月鳩山一郎を総裁に河野一郎/芦田均らが「日本自由党」を結成する。軍国主義打破/民主政治確立/自由経済などを掲げる。46年4月の総選挙で第1党になるが、鳩山は公職追放となり、吉田が第1次吉田内閣を発足させる。
・同じく1945年11月、総裁・町田忠治/幹事長・鶴見祐輔の「日本進歩党」が結成される。しかし帝国憲法擁護を掲げていたため、274名中260名が公職追放になる。しかし46年4月の総選挙で94名を当選させ、幣原喜重郎を総裁に擁立し、吉田内閣の連立与党になる。
・同じく1945年11月、「日本社会党」も結成された。右派の社民系(社会民衆党)/中間派の日労系(日本労農党)/左派の労農系(労働農民党、無産大衆党)の大同団結だった。他に「日本共産党」「日本協同党」も結成される。
○暗い谷間の時代の政党
・戦前の状況を見てみる。1920年代は立憲政友会と立憲民政党の2大政党制だったが、1932年「5.15事件」で犬養毅首相が暗殺され、政党政治は終わる。
・その後、海軍軍人(斎藤実、岡田啓介)/外務官僚(弘田弘毅)/陸軍軍人(林銑十郎)/公家(近衛文麿)らが総理となる。40年10月既成政党が否定され、「大政翼賛会」が結成される。戦後の日本進歩党の多くの議員は、立憲民政党から大政翼賛会に参加した議員である。
・40年2月立憲民政党は内部崩壊を起こし、40年8月「大政翼賛会」に合流する(※まだ結成前だが)。
・一方戦後の日本自由党に結集する議員(鳩山、尾崎行雄、片山哲、芦田ら)は、翼賛体制に反対していたが、42年5月翼賛体制に吸収される。
○戦前の時代的体験
・1910/20年代、戦後の政治家(吉田茂⦅1878年生まれ⦆、鳩山一郎⦅1883年生まれ⦆、三木武吉⦅1884年生まれ⦆、緒方竹虎⦅1888年生まれ⦆、大野伴睦⦅1890年生まれ⦆)は2大政党下で”下積み生活”をしている。この時代は幣原喜重郎らの親米派が傍流に追い落とされ、弘田弘毅/松岡洋右らが主流に躍り出る時代である。
○鳩山一郎と吉田茂
・鳩山一郎の父は衆議院議長を務めており、鳩山一郎も1926年政友会幹事長、31年犬養内閣/斎藤内閣で文部大臣を務め、政党人である。46年4月総選挙で第1党になるが、組閣中に公職追放を受ける。※母・春子が相当厳しかったと思う。
・1906年吉田茂は外務省に入省する。09年牧野伸顕(大久保利通の二男)の長女と結婚している。30年代、対中強硬派/親英派の外務官僚として軍部と対立する。※憲兵隊に拘束された話があった。
・二人は反軍で共通するが、鳩山は公職追放を受ける。敗戦直後の政治に公職追放は大きな影響を及ぼした。1930年代に活躍した政治家は機能不全になり、吉田のような新英米派の政治家が舞台に上がってくる。
○公職追放
・1946年1月、GHQは軍国主義者を公職追放する。5月鳩山も公職追放を受ける。47年1月、経済界/言論界/地方公職に対し第2次公職追放が行われる。様々な分野で古い指導者が新しい指導者に代わった。
・1946年1月の公職追放により、日本進歩党は議員274人が14人になった。幣原内閣も内務大臣/文部大臣/農林大臣/運輸大臣が交代になった。
○人材不足の中の第1次吉田内閣
・1946年5月人材不足の中、第1次吉田内閣(1946年5月~47年5月)が発足する。石橋湛山は無議席のまま大蔵大臣に就く。白洲次郎は普通であれば単に実業家で終わっただろうが、貿易庁長官に就く。
・吉田は人材不足から、佐藤栄作/池田勇人/岡崎勝男らの高級官僚を集めた(吉田学校)。彼らは1949年総選挙で当選し、戦後を代表する政治家になる(後述)。
○新憲法体制下での中道左派政権
・1947年4月新憲法下初の総選挙で社会党が第1党になり、翌月3党連立(社会党、民主党、国民協同党)の片山哲内閣(1947年5月~48年3月)が発足する。新憲法初の総選挙で、社会党が第1党になったのは興味深い。これにはGHQの民政局(GS)の支援もあったとされる。
・片山内閣も人材不足で苦労する。民主党は日本自由党の反吉田派(芦田均ら)が結党した党で、国民協同党は三木武吉らが結党した保守政党だった。
・片山内閣は国家公務員法/警察法の制定、内務省の廃止、失業保険の創設、労働省の設置などを行う。しかし社会党内部の対立、与党3党の対立で内部崩壊する。
・48年3月3党連立(民主党、社会党、国民協同党)の芦田均内閣(1948年3月~48年10月)が発足する。芦田は東大法科を卒業し外務省に入省し、32年退官し鳩山らと政治行動をした。
・48年4月昭和電工が復興融資を受けるため、多額の賄賂を関係筋に送っていた事が発覚する(昭和電工疑獄事件)。そこに民主党幹事長・西尾末広が含まれており、10月芦田内閣は総辞職する。
○幻の山崎猛首班指名
・48年10月芦田内閣が総辞職した後、次の首班に民主自由党の総裁・吉田と幹事長・山崎猛の名があった。当時GHQのGS次長・ケーディスは「吉田は超保守的」として、山崎を推していた。この時田中角栄が吉田支援の演説を行ったとされる。
○第2次吉田内閣と吉田学校の生徒たち
・1948年10月第2次吉田内閣(1948年10月~49年2月)が発足する。これにはGHQの参謀第2部(G2)の保守派ウィロビーらの支援があった。再度の政権だったが、党人としての経験が短いため、依然人材が不足していた。大蔵大臣・泉山三六は認証式に間に合わなかった。
・第2次吉田内閣は民主自由党の単独だった。1949年1月総選挙でも民主自由党は第1党になり、2月第3次吉田内閣(1949年2月~52年10月)が発足する。吉田はこの選挙で高級官僚(佐藤栄作⦅運輸省出身⦆、池田勇人⦅大蔵省出身⦆、岡崎勝男⦅外務省出身⦆)を当選させ、大臣に就けている。吉田内閣は長期に亘ったが、78人の大臣を生み、歴代最多である。
<自民党の誕生-鳩山一郎>
○冷戦の開始と占領政策の転換
・戦後、東西対立が起こる。1946年チャーチル前首相は「東欧に鉄のカーテンが引かれている」と演説する。47年3月トルーマン大統領はトルコ/ギリシャへの軍事援助を発表する(トルーマン・ドクトリン)。6月欧州の復興計画「マーシャル・プラン」で東西対立に転換する。
・48年初頭、米国ロイヤル陸軍長官は「日本を反共の防波堤にする」と宣言する。6月西ベルリンの陸路が封鎖される。8月大韓民国、9月朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が誕生する。49年4月大西洋条約機構(NATO)が誕生する。10月中華人民共和国が建国を宣言する。
・この東西冷戦の開始により、日本の民主化路線は弱まり、「逆コース」を辿る。
○吹き荒れるインフレの嵐
・外地から300万人の引揚者とほぼ同数の復員者が帰還する。これは人口の1割に相当した。物資不足/食量不足により、”インフレの嵐”になった。1946年2月幣原内閣で「新円切替」が行われる。47年1月吉田内閣は石炭/鉄鋼などに資金/資材/労働力を集中する「傾斜生産方式」が始めるが、これは”復興インフレ”を誘発する。消費者物価指数は45年9月から49年4月(3年半)で、8倍に跳ね上がった。
・1946年8月「日本労働組合総同盟」(総同盟)/「全日本産業別労働組合会議」(産別会議)が結成される。しかし47年2月「2.1ゼネスト」中止命令、48年7月「マッカーサー書簡」による公務員の団体交渉権の否認により、規制が厳しくなる。
○インフレの収束とドッジ・ライン
・1948年12月GHQは経済復興のため、日本政府に「経済安定9原則」(歳出引締め、均衡予算、徴税強化など)を掲示する。49年3月デトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジは来日し、「ドッジ・ライン」(超均衡予算、補助金全廃、復興金融公庫の貸出停止など)を実施する。これによりインフレは収束するが、行政整理や中小企業の倒産により、大量の失業者が生まれ、深刻な経済不況になる。また為替レートが1ドル=360円に設定された事で、日本は米国の経済圏に包含される。
・次いで49年8月シャウプ使節団が「シャウプ勧告」を発表し、直接税中心/徴税強化/法人税優遇/源泉徴収などの税制改革を支援する。
・これらに対応したのが第3次吉田内閣(1949年2月~52年10月)の大蔵大臣・池田勇人であり、その時通訳したのが宮沢喜一だった。1949年は激動の年で、国鉄の人員整理/インフレの収束/企業の倒産などがあった。池田には失言が多く、「中小企業の倒産/自殺はやむなし」「貧乏人は麦を食え」などの発言がある。
○朝鮮戦争特需と再軍備
・1950年6月北朝鮮軍が南下を始める。6月末にソウルを占領し、半島南端に至る。9月国連軍が仁川に上陸し反撃を開始し、10月平壌を占領する。中国人民義勇軍が出動し、51年1月38度線で膠着状態になる。7月休戦協定が結ばれる。
・51年9月日本は「サンフランシスコ講和条約」に調印する。日本は「ドッジ・ライン」による不況を特需で吹き飛ばす。鉱工業は戦前の水準を超える。一方50年7月、警察予備隊7.5万人が創設され、海上保安庁8千人が増員され、再軍備が始まる。
○全面講和か片面講和か
・1948年10月米国務省ジョージ・ケナンは対日講和/沖縄・横須賀基地化/警察力強化などの対日政策を作成する。49年11月吉田総理は国会で「片面講和」を答弁する。これに社会党は「全面講和」/中立堅持/軍事基地反対とし対立する。これにより全面講和/片面講和の論争が起こる。
・1950年6月朝鮮戦争が起こり、対日講和条約が急速に進む。51年6月無賠償を原則とする草案が完成する。
○サンフランシスコ講和条約と日米安保条約
・1951年9月「サンフランシスコ講和条約」が49ヶ国で調印される。中国は招待されず、ソ連は参加したが、調印しなかった。
・同時に「日米安全保障条約」(日米安保条約)が調印された。これは①米軍は日本に駐留する、②他国に基地を提供しない、③米軍の配置は「日米行政協定」で決めるの3条からなった。沖縄は米軍政下に置かれ、米軍の軍事拠点になった。
○社会党の分裂
・社会党は1945年左右中間3派が連合し結党された。そのため左派と右派の対立は激しかった。講和に対し左派は平和3原則(全面講和、非武装中立、基地反対)を掲げた。右派は片面講和/自衛力強化/基地賛成を掲げた。左派は「サンフランシスコ講和条約」「日米安保条約」共に反対し、右派は「サンフランシスコ講和条約」賛成、「日米安保条約」反対だった。結局51年10月社会党は分裂する。
○追放解除組の復活
・「サンフランシスコ講和条約」により、公職追放はすべて解除される。1951年6月三木武吉/石橋湛山らは追放解除になるが、鳩山一郎/緒方竹虎(?)は2ヶ月遅れる。これは吉田茂が政敵の追放解除を遅らせたためとされる。
・52年2月三木武夫が幹事長で、それに追放解除組が加わり「改進党」が結成され、6月重光葵が改進党総裁に就く。この頃「新しい日本が生まれる」との期待が世間にあり、大野伴睦/宮沢喜一は「講和条約を花道に、吉田は総理を辞めるべきだった」と言っている。
○吉田内閣倒閣運動
・1952年8月吉田茂は追放解除組の準備が整わない内に解散総選挙に出る。10月総選挙で鳩山一郎/石橋湛山らの追放解除組が139名当選する。鳩山は東京1区に立候補し、全国一の得票を得る。
・吉田は第4次吉田内閣(1952年10月~53年5月)を発足させる。鳩山らは自由党内で反吉田の分派を結成する。
・1953年2月吉田は衆院予算委員会で「バカヤロー」と暴言する。3月内閣不信任案に分派自由党(鳩山ら)/広川派(広川弘禅ら)が反旗を翻し、可決される。吉田は議会を解散させる(バカヤロー解散)。この背景に吉田の緒方竹虎への入れ込みがあった。※緒方は新聞社出身だったよな。
・53年5月第5次吉田内閣(1953年5月~54年12月)が発足する。11月吉田は鳩山と会談し、鳩山に復党させる。残った三木武吉/河野一郎ら8人は日本自由党を結成する(八人の侍)。
・54年2月自由党(与党)幹部が海運/造船会社から巨額の政治献金を受けた疑獄事件が起こる(造船疑獄事件)。これに対し犬養健法務大臣が指揮権を発動し、佐藤栄作・幹事長の逮捕を阻止する。
・これを機に自由党の反吉田派の鳩山/岸信介/芦田均、日本自由党の三木武吉/河野一郎、改進党の重光葵らの動きが活発になる。
○鳩山政権の誕生
・1954年11月自由党鳩山派/岸派/改進党/日本自由党が合流し、日本民主党が結成される。自由党43名/改進党69名/日本民主党8名、合計120名が結集した。鳩山一郎が総裁、岸信介が幹事長となった。
・54年12月吉田内閣は総辞職する。鳩山は左右社会党の支持を得て、第1次鳩山内閣(1954年12月~55年3月)を発足させる。閣僚には反吉田のメンバーが揃えられた。
○統一社会党と自由民主党の結成
・1945年11月に結成された社会党は、当初は右派が優勢であった。52年10月総選挙では左右は57対54、53年4月総選挙(バカヤロー解散)では72対66、55年2月総選挙では89対67と徐々に左派が優勢になる。55年10月社会党は左派主導で統一される。
・55年2月総選挙で日本民主党は第1党になり、第2次鳩山内閣(1955年3月~11月)が発足する。
・55年4月宿年のライバルであった日本民主党総務会長・三木武吉と自由党総務会長・大野伴睦は、保守合同で合意する。11月両党は解党し、自由民主党(自民党)が成立し、「55年体制」が始まる。
○55年体制を推進した勢力①-社会党
・55年体制を作り出したのは社会党と云える。社会党の党員は4万人程度しかおらず、社会党を支えていたのは日本労働組合総評議会(総評)である。※労働組合は一杯あったと思うが。
・1950年7月総評は誕生し、その後平和4原則(全面講和、基地反対、中立堅持、再軍備反対)を掲げる。企業別組合の限界の突破を目標に、「地域ぐるみ」「街ぐるみ」の闘争を指導した。破壊活動防止法案反対/内灘基地反対/日産争議/尼崎争議/日鋼室蘭争議などを指導している。これらを指導したのが総評事務局長・高野実だった。
・総評の活動を支えたのは、冷戦の激化/「逆コース」/朝鮮戦争/核戦争の危機である。52年米国は水爆実験を成功させ、54年「第5福竜丸」が水爆実験で被曝している。
※知らない事ばかり。労組は勉強不足。
○55年体制を推進した勢力②-追放解除組
・保守も統合の流れがあった。吉田の軽武装/経済成長路線に対抗し、追放解除組は憲法改正/再軍備を目標とした。その中心が鳩山一郎/三木武吉であった。
・岸信介もこれに加えられる。彼は満州国官僚のナンバー2であり、東条内閣では商工大臣を務めている。公職追放から解放されると「日本再建同盟」を結成し、自主憲法制定/自主軍備確立/自主外交展開を掲げている。1955年11月結成された自民党で初代幹事長に就いている。
・54年12月吉田が自由党総裁を辞任し、緒方竹虎が総裁に就く。緒方も追放解除組である。52年10月総選挙で当選し、第3次吉田内閣で内閣官房長官、第4次/第5次吉田内閣で副総理に就いている。そして吉田の総裁辞任後、総裁に就く。緒方貞子は義理の娘である。
※この4人は全員追放解除組なんだ。
○55年体制成立の意味
・55年体制は、戦後の政治/経済/外交/労働運動の方向性を決めた。政治は2大政党制(実際は1.5)となり、経済は高度成長となり、外交は日米安保条約が基調となり、西側陣営の一員になった。一方で春闘/原水爆禁止運動などの大衆運動も始まった。
・具体的には、1955年1月民間6単産が春闘を始める。3月「日本生産性本部」(?)が始まる。7月日本共産党が全国協議会を開催し、党内闘争を終える。8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、日本で3200万/世界で6.7億の原水爆禁止署名が集められた(!)。10月社会党が統一され、11月自民党が結成される。
・経済は高度成長路線になり、拡大するパイを起業家と労働者が春闘を通して分け合うルールになった。政治は自民党と社会党の2大政党制の下、選挙を通して政策を決めるルールになった。
<高度経済成長の準備と安保闘争-石橋湛山/岸信介>
○第3次鳩山内閣と日ソ国交回復
・1955年11月、改憲を掲げるタカ派の第3次鳩山内閣(1955年11月~56年12月)が発足する。鳩山は日ソ国交正常化を進め、56年10月「日ソ国交回復共同宣言」に調印する。この時、北方四島の返還は平和条約締結後となった。12月「日ソ国交回復」により国連に加盟している。
○総理目前で急死した緒方竹虎
・1956年1月鳩山の有力後継者・緒方竹虎が急死する。葬儀には1万5千人が参加した。7月三木武吉も急死する。
○7票差の総裁選
・1956年12月「日ソ国交回復」を花道に、鳩山は総理・総裁を退く。総裁選に岸信介/石橋湛山/石井光次郎が立候補する。当時は政治資金規正法が緩く、岸3億円/石橋1.5億円/石井8千万円の現金が撒かれた。1回目の投票で岸223/石橋151/石井137となるが、2回目の投票で石橋258/岸251となり、石橋が2代目の総裁に就く(7票差の総裁公選)。
・この時佐藤栄作は岸陣営の選挙参謀として活躍し、池田勇人は石井陣営で活躍している。
○石橋内閣の見果てぬ夢
・石橋内閣(1956年12月~57年2月)では、岸が副総理兼外務大臣、池田勇人が大蔵大臣が就くが、清新あふれる布陣だった。石橋は「国会運営の正常化」「政界・官界の綱紀粛正」「雇用・生産の拡大」「福祉国家の建設」「世界平和の確立」を掲げた。しかし1ヶ月後には病気になり、総理を辞任する。
・石橋と岸は共に反吉田だったが、石橋は中国重視で、岸は東南アジア重視であった。当時は学界でもこの対立があり、社会主義国を外した「片面講和」に反対する学者と、東南アジアと連携し安全保障を保持すべきとする学者がいた。もし石橋内閣が長期政権となっていれば、日中貿易は早期に回復していただろう。※これは驚き。
○岸内閣が掲げた日米新時代
・1957年2月岸内閣が発足する(第1次岸内閣:1957年2月~58年6月、第2次:~60年7月)。副総理に石井光次郎を任命するが、それ以外は前内閣を引き継いだ。岸は石炭/繊維を縮小し、機械工業を促進した。外交では就任間もなく、東南アジア/台湾/米国を訪問している。
○高度経済成長のアイデア
・1957年12月岸は、官僚主導で年率6.5%の高度成長を目標とする『新長期経済計画』を発表する。これは輸出の拡大/輸送・エネルギーの拡大/重化学工業(金属、機械、化学)の成長/農業の近代化により高度成長を達成する計画であった。
・しかし57年9月教職員の勤務評定反対闘争、58年10月警察官職務執行法改正反対闘争、60年安保闘争により、この計画は見送られる。
・岸には満州国での官僚主導による高度成長の夢があり、金属/機械/化学などの重化学工業を成長させる計画であった。その輸出市場を東南アジアに想定していた。
○アジア問題調査会と藤崎信幸
・岸信介の東南アジア政策で大きな役割を果たしたのが藤崎信幸である。1951年「アジアで敗れた夢を、再びアジアで」を掲げる「アジア問題調査会」が設立され、新進気鋭の学者や官僚が結集する。53年会長に緒方竹虎、常任理事に岸、事務局長に藤崎が就いた。藤崎が「アジア問題調査会」に続く「アジア経済研究所」を設立した際、岸は1億円を支援したとされる。※これらの話は初耳。幣原/重光/吉田/緒方/鳩山などの伝記は読んだが、岸は読んでない。
○東南アジア賠償
・岸信介は大川周明/北一輝に心酔し、「大アジア主義」を信奉していた。そのため中国/ソ連との関係を断ち、東南アジアとの関係を深めた。岸は東南アジアを2度訪問し、賠償協定を締結する。
・東南アジア賠償は、日本の高度成長を支えるものになった。1つ目は、現金ではなく現物で支払われた。そのため日本の企業は、輸出を政府に保証された事になる。また欧米が独占していた東南アジアで、労せずしてシェアを獲得する事になった。
・2つ目は、この賠償はプロジェクト単位で行われた。例えばビルマでは、発電所の建設/送電網の整備/都市計画/港湾整備などがワンセットで行われた。これにより恩恵を受ける日本企業は広範に及んだ。
・3つ目は、賠償支払い期間が、5~20年の長期に亘った。日本企業は東南アジアに安定した市場を得たと云える。
※この話も知らなかった。表を見ると賠償と準賠償がある。違いが不明。賠償額はフィリピン5.5億ドル/韓国3億ドル/インドネシア2.3億ドル/ビルマ2億ドルなど。韓国は現金では?
○賠償プロジェクトと久保田豊
・岸の”満州人脈”に久保田豊もいる。彼は戦前、朝鮮/満州の電力開発事業で辣腕を振るった。鴨緑江に高さ100m/長さ1Kmに及ぶ7つの水豊ダムを建設し、名を上げた。
・戦後、久保田は建設コンサルタント会社・日本工営を設立する。東南アジア賠償のバルーチャン発電所(ビルマ)/ダニム発電所(南ベトナム)を建設する。ただしダニム発電所の建設で、使途が不明慮な200億円が計上されている。※”電力の鬼”松永安左エ門とは別だな。
○総理になれなかった石井光次郎
・1956年12月総裁選の1回目の投票で、第1位岸/第2位石橋/第3位石井となる。決戦投票で石橋を推したのが石井であった。そのため石橋内閣で石井が副総理に就く可能性は十分あったが、”党内融和”から岸が副総理に就いた。石井が副総理に就いていれば、石橋の総理辞任後、石井が総理に就いただろう。
○エネルギーの転換と高度経済成長の本格化
・岸の時代に石炭から石油に転換した。1956年経済企画庁が『年次経済報告』(経済白書)を発表するが、そこには「もはや戦後ではない」が記された。
・石炭から石油への転換は産業構造に大きな変化を与えた。1959~60年福岡県の三井三池炭鉱で激しい争議が起こる。57年に策定された『新長期経済計画』には、「石炭を主要エネルギーとする」と書かれており、石炭から石油への転換が急転だった事が分かる。しかしこれにより石油化学工業が急成長する。
○安保闘争の激流
・岸は日米対等の条約として安保条約を改定する動きに出る。これに対し1959年3月「安保条約改定阻止国民会議」が結成され、60年7月まで23回の全国統一行動を続ける。
・1960年1月岸らが訪米し「新安保条約」等に調印する。国会審議が始まり、6月15日全国で580万人が参加するデモがあり、この時東大生が亡くなる。6月19日「新安保条約」は自然成立する。7月15日岸内閣は総辞職する。
・当時は高度成長の過渡期で、その不満が岸の非民主主義的な行為に向かったと云える。高度成長を達成し1億総中間層を生み出すと、運動は先鋭化し大衆から離れた。
<高度経済成長の時代-池田勇人/佐藤栄作>
○”保守の本命”池田内閣の登場
・1960年7月総裁選で選ばれ池田内閣が発足する(第1次池田内閣:1960年7月~12月、第2次:~63年12月、第3次:~64年11月)。
○池田内閣と高度経済成長政策
・池田勇人は総理に就くと、「倒産やむなし」「貧乏人は麦を食え」などの暴言を控え、下手に出た。
・池田は「月給2倍論」(所得倍増計画)を掲げた。1960年11月三井三池炭鉱争議は終結し、エネルギーは石炭から石油に転換した。「三種の神器」(テレビ、電気冷蔵庫、電機洗濯機)が普及した。都市に人口が移動し、住宅難になった。
・62年機械製品の輸出が繊維製品を上回った。63年2月国際収支の擁護のために貿易制限できない「GATT11条国」に移行し、64年4月国際収支悪化による為替取引の制限ができない「IMF8条国」に移行した。
・64年10月東京オリンピックが開かれ、東京の高速道路が整備され、東京モノレールが開通し、東海道新幹線が開通した。60年代~70年代前半、日本は10%近い実質経済成長率を記録し、経済大国となった。
○池田派「宏池会」の誕生
・池田勇人の「所得倍増計画」は総理就任後に出てきたものではない。1957年11月岸内閣の時、池田派「宏池会」が結成される。初代事務局長は大蔵省で同期であった田村敏雄が就いている。
○宏池会機関誌『進路』と田村敏雄
・田村敏雄は苦学し、東京帝国大学経済学部を卒業し、大蔵省に入省した。1932年満州国に派遣され、浜江省次長(実質トップ)に就く。敗戦でソ連に抑留され、50年に帰国、51年8月公職追放が解除され、大蔵省入省同期の池田を頼る。その後「宏池会」の初代事務局長に就く。※激動だな。
○高度成長論を支えたブレーン
・1958年夏頃、「宏池会」事務局長・田村は、大蔵官僚・下村治に「経済問題に関する一般的/総合的な研究会を持ちたい」と相談している。
・後に池田総理の秘書官を務める伊藤昌哉も満州生まれで、池田のブレーンには満州人脈が多くいたと考えられる。
○よき秘書・伊藤昌哉
・伊藤昌哉は満州で生まれ満州で育つ。1942年東京帝国大学法学部を卒業し、政治記者になる。1955年池田勇人の秘書になり、総理就任後は首席秘書官になる。
・1960年10月社会党委員長・浅沼稲次郎が右翼青年に刺殺される。この時、池田の追悼文を書いたのが伊藤であった。この追悼文は社会党議員の涙を誘った。当時、文章を書ける政治家は石橋湛山/緒方竹虎だけと云われたが、池田には伊藤がいた。※何れも新聞記者出身かな。
○捨て置かれた農業部門
・1961年6月池田は「農業基本法」を公布する。これは農業の大規模化/近代化を目指すものだったが、田植機による省力化に留まった。60~70年代で専業農家/第1種兼業農家が激減し、農業以外の収入が多い第2種兼業農家の割合が増大した。農業は高米価政策によって存続しうる産業に転落した。
○池田と総裁候補・河野一郎の死
・1965年8月池田勇人は喉頭ガンで死去する。前年10月のオリンピック開会式も病院からの往復であった。
・1965年7月河野一郎も大動脈瘤破裂で急死する。池田が官僚派の代表なら、河野は党人派の代表であった。42年彼は翼賛選挙で非推薦で当選している。公職追放されるが、51年8月公職追放解除後に自由党に復党し、反吉田派の分派自由党を結成している。
○悲劇の政治家、藤山愛一郎
・総理になれなかった政治家に藤山愛一郎もいる。藤山は大日本製糖を中心とする製糖/化学企業の「藤山コンツェルン」を継承していた。彼も公職追放を受けるが、57年7月岸内閣の外務大臣に就き、日米安保条約の改定で重要な役割を演じた。60年/64年総裁選で池田に敗れ、66年総裁選では佐藤栄作に敗れた。政治資金を使い果たし、「藤山コンツェルン」は人手に渡っている。
○池田の使命を受けた佐藤栄作
・1964年7月総裁選で池田勇人は佐藤栄作/藤山愛一郎に勝利する。この選挙で十数億円が動いたとされる。しかしその直後池田は喉頭ガンで辞意を表明する。
・1901年佐藤は3兄弟の末弟に生まれる。長男・市郎は軍人、次男・信介は総理経験者である。1924年佐藤は東京帝国大学法学部を卒業し、鉄道省に入省する。大阪鉄道局長の時に敗戦となる。そのため公職追放は受けなかった。
・1947年運輸次官に就き、翌年退官する。48年非議員ながら第2次吉田内閣の内閣官房長官に就く。49年1月総選挙でトップ当選し、民主自由党の政務調査会長に就く。50年2月自由党が結成されると、幹事長に就く。※政治家不足の時代だが、恐ろしいスピード出世だな。
・佐藤にとっての危機は「造船疑獄事件」である。54年4月佐藤は逮捕請求されるが、法務大臣の指揮権発動で逮捕を逃れる。55年11月自民党が結成されるが、吉田への忠義から参加せず、57年2月まで無所属を通す。
・58年6月第2次岸内閣で大蔵大臣に就き、60年6月安保条約改定では岸と行動を共にする。池田内閣では通産大臣/北海道開発庁長官/科学技術庁長官を歴任する。64年11月佐藤内閣を発足させる(第1次佐藤内閣:1964年11月~67年2月、第2次:~70年1月、第3次:~72年7月)。
○佐藤長期政権の課題
・佐藤内閣では外交問題が多かった。1965年6月「日韓基本条約」が締結される。67年12月「非核3原則」(作らず、持たず、持ち込ませず)を国会で明言する。68年6月小笠原諸島が返還され、72年5月沖縄が返還される。沖縄返還を花道に7月退陣する。74年12月ノーベル平和賞を受賞している。
・佐藤内閣長期化の要因に、彼の人心収拾術の巧みさがある。党人派の田中角栄と官僚派の福田赳夫を競わせ活用した。また池田勇人は病気になり、佐藤内閣発足直後に河野一郎も亡くなっている。もう一つの要因は高度成長にある。国民は中流生活を満喫し、1970年頃「一億総中流」の言葉が流行った。
・一方で長期政権の”ゆるみ”である腐敗が続出した。66年9月運輸大臣の自選挙区への急行停車指示事件、68年2月農林大臣の「日本は米国の妾」発言、71年1月法務大臣の野党無能論発言、同年7月自衛隊機と全日空機が衝突した雫石事件、同年10月防衛庁長官の国連田舎信用組合発言、同年11月国立防災科学技術センターの斜面崩落実験事故などの不祥事があった。
○派閥再編とシステムの整備
・佐藤内閣の時期に派閥システムは整った。派閥の源流は旧自由党系(吉田派)の佐藤栄作/池田勇人/石井光次郎/大野伴睦、旧民主党系(鳩山派)の石橋湛山/岸信介/河野一郎、旧改進党系の三木武夫である。派閥の領袖は資金を集め、ポストを用意した。派閥員は領袖に忠誠を誓い、自派の拡大に努め、次官/大臣/総理へと駆け上がった。
・55年体制になり、河野派は中曽根派に、石橋派は消滅し、岸派は福田派に、佐藤派は田中派に、池田派(宏池会)は大平派に引き継がれた。70年代以降田中派と福田派は角福戦争を繰り広げる。
・宏池会は政策勉強会的な集団で、大蔵省/財界人/政界人が集った。一方の佐藤派(周山会)は組織秩序があり”五奉行”が組織を束ね、運営した。佐藤派は田中派となり、竹下登により創政会/経世会に引き継がれる。福田派も佐藤派と同じような運営を行った。※勉強になる。
○佐藤の後継者レース
・1972年7月佐藤栄作は退陣するが、当時は1強(佐藤)4弱(福田赳夫、田中角栄、三木武夫、大平正芳)1風来坊(中曽根康弘)であった。
・佐藤内閣末期は問題が山積した。1971年8月ニクソン・ショックが起こり、12月スミソニアン体制になる。72年2月ニクソン大統領の訪中は、日米協調/米中対立が前提であった東アジアの冷戦体制を変えた。※オイル・ショックもドル安が原因らしい。
・国内では「イタイイタイ病」「四日市ぜんそく」「光化学スモッグ」「田子の浦のヘドロ」などの公害問題があった。また運輸大臣の急行停車指示事件などの腐敗もあった。
・次期総裁選では、福田は安定成長への転換に適役だったが、外交は慎重であった。田中は外交/経済に通じていたが、汚職体質そのものだった。三木は腐敗/汚職解決には適していたが、経済はイマイチだった。大平はバランスが取れていたが、後手であった。
<安定成長への模索と田中支配-田中角栄~中曽根康弘>
○異色の総理
・1972年6月田中角栄は『日本列島改造論』を発表する。7月総裁選の決選投票で福田赳夫に勝ち、自民党総裁に就く(第1次田中内閣:1972年7月~12月、第2次:~74年12月)。
・1918年田中は新潟県に生まれる。小学校を卒業すると上京し、中央工学校を卒業し、会社を独立する。39年兵役に就くが、41年肋膜炎で除隊する。その後も建築設計事務所を営業する。
・47年4月総選挙で民主党で当選する。48年3月吉田茂の民主自民党に参加し、国会対策/政治資金作りで頭角を表す。岸内閣で郵政大臣、池田内閣で大蔵大臣、佐藤内閣で大蔵大臣/通産大臣/幹事長を歴任している。
・田中は心を読んで、一気に勝負する。医師法改正の時、日本医師会のドン武見太郎に白紙に条件を書かせ、一気に解決した。米国との繊維交渉で通産大臣・宮沢喜一は決裂したが、彼が通産大臣に就くと、一気に解決した。
○田中内閣の明と暗
・田中角栄は異色の総理だった。官僚を巻き込み、政策を推し進めた。官僚の誕生日に贈り物をする一方、云う事を聞かぬ官僚は締め上げた。
・田中は政治活動をやっていなかったため、中国・台湾問題でしがらみがなかった。就任2ヶ月後の1972年9月、大平正芳・外務大臣/二階堂進・内閣官房長官を率いて中国を訪問し、日中国交正常化を実現する。※1971年キッシンジャーが秘密訪中している。
・一方で経済面は苦戦する。71年8月ニクソン・ショック後、12月スミソニアン・レートで1ドル308円に変更されるが、73年2月変動相場制に移行し、円高が進行する。これが”狂乱物価”の始まりになる。これを乗り切るためライバルの福田を大蔵大臣に就ける。
・73年10月「第4次中東戦争」が起き、石油は高騰する(第1次オイル・ショック)。74年実質経済成長が戦後初のマイナスになり、高度成長は終焉する。
○つきまとったスキャンダル
・田中の本質は金権体質にあった。政治は数であり、それを可能にするのが資金力であった。1974年10月立花隆『田中角栄研究 その金脈と人脈』が掲載される。田中は”無能力者”になり、12月総辞職する。
・田中派は「七日会」(木曜会)を結成していた。76年元旦の祝賀会で、彼は「私はもう一度総裁をやる。自分が総裁になるまでは、全て暫定総裁である」と語っている。
○クリーン三木の登場
・田中角栄の後任は、総裁選か前任者の後継者指名が考えられたが、自民党副総裁の「椎名裁定」になり、三木武夫内閣が発足する(三木内閣:1974年12月~76年12月)。75年7月「公職選挙法」「政治資金規正法」を改正する。
・76年2月汚職事件「ロッキード事件」が明るみになる。田中角栄は「外国為替管理法」違反で逮捕される。そんな中、田中派/福田派/大平派が「挙党体制確立協議会」を結成し、”三木おろし”を始める。12月総選挙で自民党は過半数割れ(追加公認で確保)となり、三木は総辞職する。76年6月河野洋平/西岡武夫らが「新自由クラブ」を立ち上げ、躍進するが、その後自民党に吸収される。※ロッキード事件と三木おろしは関係性あり?
○後継者選びを任された椎名悦三郎
・「椎名裁定」の椎名悦三郎も「満州人脈」である。1898年彼は岩手県に生まれる。東京帝国大学法科大学を卒業し、農商務省(商工省)に入省する。33年満州国に派遣される。41年商工次官に就く。
・1947年公職追放され、52年解除される。53年総選挙に出馬し落選するが、55年総選挙で当選する。岸内閣で内閣官房長官、池田内閣で党政調会長/外務大臣、佐藤内閣で外務大臣/通産大臣に就いた。1955~60年は岸/椎名らの「満州人脈」が中枢を占め、次官/局長クラスは「椎名門下生」で固められた。※こんな時期があったのか。
・72年田中内閣の時、自民党副総裁に就き、田中退陣後、後継者選びを一任された。
○福田赳夫による田中路線の修正
・1976年12月自民党両議員総会で福田赳夫が総理に選出される(福田内閣:1976年12月~78年12月)。
・1905年福田は生まれ、東京帝国大学卒業後、大蔵省にエリートとして入省する。40年南京の汪兆銘政権で財政顧問(実質は大臣)に就いている。
・戦後「昭和電工疑獄事件」で逮捕される(無罪)。1952年初当選し、岸内閣で農林大臣、佐藤内閣で大蔵大臣/外務大臣を歴任している。ポスト佐藤で田中角栄に敗れるが、田中内閣で行政管理庁長官/大蔵大臣、三木内閣で副総理兼経済企画庁長官を歴任している。
・経済政策は田中と対称的で安定成長路線、外交政策では対アジア平和外交であった。77年8月東南アジアを歴訪するが、田中と異なり好感を持って迎えられる。東南アジアは、1970年代前半は「民主化の時代」であったが、後半は日本の経済力を必要としていた。
・78年8月「日中平和友好条約」に調印する。尖閣諸島問題は棚上げになる。
○現職総理に勝利した大平正芳
・1978年12月自民党の予備選挙で大平正芳がトップになり、福田赳夫が本選を辞退し、大平が総理に就く(第1次大平内閣:1978年12月~79年11月、第2次:~80年7月)。
・大平は大蔵省に入省し、1939年蒙疆自治政府に派遣されている。蒙疆地区はアヘンの産地で、蒙疆自治政府の重要財源であった。40年帰京する。
・彼は池田勇人が大蔵大臣であった時に見い出され、1952年衆議院選挙で初当選する。池田内閣で内閣官房長官/外務大臣、佐藤内閣で通産大臣、田中内閣で外務大臣/大蔵大臣、三木内閣で大蔵大臣を歴任している。
・78年12月総理に就く。79年9月財政再建/消費税導入を打ち出し、翌月総選挙で自民党は過半数を割る敗北を喫する。
○40日闘争と第2次大平内閣
・総選挙の敗北を巡って、党内の闘争が始まる。田中角栄は大平の続投を指示するが、反主流派(福田派、中曽根派、三木派、中川グループ)は大平を責任追及し、結党以来の危機になる。
・1979年11月衆参両院本会議の首班指名で野党が欠席する中(新自由クラブは出席)、大平が選出される。
・79年には「第2次オイル・ショック」があり、12月ソ連がアフガニスタンに侵攻し、世界の政治/経済が激動する。一般消費税の導入を閣議決定するが、不人気となる。浜田幸一の大損を、小佐野健治が立て替える「ラスベガス事件」やKDD事件が起き、大平内閣の威信は低下する。
・80年5月社会党が提出した内閣不信任案に自民党の反主流派が欠席し可決され、総選挙になる(ハプニング解散)。6月選挙戦中に大平は死去し、”弔い合戦”となり、自民党は大勝する。※自民党は派閥闘争の連続だな。三角大福戦争かな。
○”和の政治”の鈴木善幸
・1980年6月総選挙後の総裁選で、大平正芳と同じ宏池会の鈴木善幸が総裁に就く(鈴木内閣:1980年7月~82年11月、※1972年からは2年毎に5人が交代)。彼は池田内閣で郵政大臣/内閣官房長官、佐藤内閣で更生大臣、福田内閣で農林大臣を歴任している。しかし彼は自民党総務会長を10期務めており、調整役に優れていた。
・彼に特に目指す政治はなく、「棒読み善幸さん」と称された。数少ない実績に、土光敏夫が会長の「第2次臨時行政調査会」の発足がある。82年10月次期総裁選に不出馬を表明し、退陣する。
○中曽根康弘と行革/内需拡大
・1982年11月総裁選で中曽根康弘が選出される(第1次中曽根内閣:1982年11月~83年12月、第2次:~86年7月、第3次:~87年11月)。
・1941年中曽根康弘は東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省する。海軍主計少佐の時、敗戦を迎える。47年衆議院選挙で民主党で当選し、その後様々な政党に所属し、55年自民党の結党に参加する。
・岸内閣で科学技術庁長官、佐藤内閣で防衛庁長官、田中内閣で通産大臣、三木内閣で幹事長、福田内閣で科学技術庁長官、佐藤内閣で行政管理庁長官を歴任している。
・彼の課題は、外交では「日米のねじれ」「日韓・日中外交の進展」、内政では「行政改革の進展」だった。
・1985年9月5ヶ国の大蔵大臣・中央銀行総裁が、ドル高是正の協調介入で合意する(プラザ合意)。また日米貿易摩擦解消のための「前川レポート」には、内需拡大が記された。この提言により日銀は公定歩合を下げ、資金は土地/株に流れ、空前のバブルとなる。
・経済が好調の中曽根時代に、IT産業など新産業への移行ができていれば、日本はその後の長い不況に苦しむ事はなかった。繊維産業から機械産業などに舵を切った岸内閣/池田内閣/佐藤内閣と比べると、中曽根内閣の経済政策は見劣りする。
○バブルの中の日本社会
・バブルにより日本人の意識も大きく変わる。労せずして大金が手に入ると、勤労の尊さ/誠実さ/人間関係の大切さは軽視され、金銭を重視する意識が強まった。
・NHK『現代日本人の意識構造』によると、問い「仕事と余暇のバランス」に対し、1973年「仕事優先」44%「余暇優先」32%だったが、93年「余暇優先」36%「仕事優先」26%に逆転する。問い「理想の仕事の条件」に対し、73年健康/専門/仲間の順だったが、93年仲間/健康/専門の順に変わる。これは職場での人間関係の厳しさを示している。
○田中支配からの脱却
・1985年2月田中角栄が脳梗塞で倒れる。田中内閣発足からこの時まで、田中派が幹事長ポストを掌握し、彼の意向を汲んだ総理が輩出され、彼は”目白の闇将軍”として君臨した。この田中内閣から中曽根内閣までが、自民党衰退の前期である。
※三木内閣での幹事長は中曽根、福田内閣では大平、大平内閣では斎藤邦吉(大平派)/櫻内義雄(中曽根派)、鈴木内閣では櫻内義雄、中曽根内閣では田中六助(鈴木派)が幹事長に就いている。田中派の幹事長は鈴木内閣での二階堂、中曽根内閣での二階堂/金丸/竹下しかいない。現実は竹下派が田中派から分裂した後、竹下派が幹事長を独占している。
○二階堂進擁立構想
・1984年11月総裁選で、中曽根再選に反対する福田派/鈴木派/公明党/民社党から二階堂進擁立構想が現れる。しかし田中角栄の賛同が得られず、立ち消えになる。
・1909年二階堂は鹿児島に生まれる。46年4月衆議院選挙で当選する。最初日本協同党に属するが、自由党に転じ、田中角栄と昵懇になる。佐藤内閣で科学技術庁長官兼北海道開発庁長官、田中内閣で内閣官房長官に就く。76年「ロッキード事件」で灰色高官になり表舞台から消える。しかし鈴木内閣で党総務会長、中曽根内閣で幹事長に就く。
<自民党の衰退、下野-竹下登~宮沢喜一>
○創政会/経世会、竹下内閣
・中曾根康弘は後継に竹下登を指名する(竹下内閣:1987年11月~89年6月)。福田派の安倍晋太郎もあったが、田中派の竹下を指名した。
・竹下は島根県生まれ。早稲田大学商学部を卒業し、1958年衆議院議員に当選する。佐藤内閣で内閣官房副長官/内閣官房長官、田中内閣で内閣官房長官、三木内閣で建設大臣、大平内閣/中曽根内閣で大蔵大臣を歴任している。
・1985年2月竹下は田中派の中に創政会を立ち上げる。田中角栄が脳梗塞で倒れたのは、創政会創設20日後である。87年7月創政会は経世会となり、田中派から独立する。経世会には、竹下/金丸信/七奉行(小沢一郎、羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三)らが結集した。”金竹小”が政局を動かす時代になった。※佐藤/田中/竹下で、長期流れが続く。
・中曽根内閣/竹下内閣頃からグローバル化が押し寄せ、社会主義体制の崩壊も見られ始める。この時期に何らかの対策を取っていれば、半導体産業で韓国/台湾に追い抜かれる事はなかった。牧歌的な内需優先政策しか取れなかったのは残念である。
・NEC/日立/東芝などの半導体メーカーは、米国でダンピングとして提訴される。1986年「日米半導体協定」により米国への輸出が規制され、逆に国内での米国製品の比率増加が義務付けられた。90年代に日本の電機産業は屋台骨を破壊された。
※この頃から米国に振り回されるようになったのかな。No.2を叩くのが米国の常道だからな。金融(為替、金利)も同様かな。
○冷戦の終結と昭和の終焉
・1989年1月昭和天皇が崩御する。6月中国で民主化を求める天安門事件が起き、11月ベルリンの壁が崩壊する。91年ソ連は解体する。
・冷戦の終結は55年体制の存立条件の喪失でもあった。しかし竹下内閣は、その意味を深刻に受け止めなかった。91年宮沢喜一への質問でも、日米貿易摩擦/湾岸戦争は重視していたが、冷戦終結への関心は希薄であった。竹下内閣から宮沢内閣までは何ら対策を打たず、「全市町村に一律1億円を配布」と云うドメスティックな政策に走った。
※平成と経世は似ているな。
○リクルート事件と自民党
・1988年6月「リクルート事件」が発生する。84~86年にかけてリクルート社江副浩正がリクルートコスモス社の未公開株を、政官財の有力者に譲渡していた事件である。その範囲は、中曽根康弘元総理/竹下登総理/宮沢喜一大蔵大臣/安倍晋太郎幹事長ら90名以上に及んだ。国会は空転し、竹下内閣の支持率は7%まで急落した。自民党の腐敗体質が露呈した事件である。
○速成のほころびが出た宇野内閣
・「リクルート事件」により竹下登は総辞職する。しかしその後も経世会の政治支配は続く(宇野宗佑内閣:1989年6月~8月、海部俊樹内閣:~91年11月、宮沢喜一内閣:~93年8月)。
・1922年宇野は滋賀県の造り酒屋に生まれる(※造り酒屋出身は多い気がする)。神戸商業大学(現神戸大学)を中退し、学徒動員され満州/朝鮮に駐屯し、シベリアに抑留される。60年衆議院議員に当選する。田中内閣で防衛庁長官、三木内閣で国会対策委員長、福田内閣で科学技術庁長官、大平内閣で行政管理庁長官、中曽根内閣で通産大臣、竹下内閣で外務大臣を歴任している。89年総理に就くが、女性スキャンダルで2ヶ月で退陣する。
○竹下院政下の海部内閣
・1989年8月文部大臣の経験しかない海部俊樹が、竹下派の支援で海部内閣を発足させる。この時小沢一郎は「担ぐ神輿は、軽くてパーな奴が良い」と言っている。海部内閣は竹下に、国会の段取り/省庁の人事まで指示され、「竹下派の婿養子」「竹下院政の政権」と揶揄された。91年11月竹下派の圧力で退陣する。
○総理にならなかった小沢一郎
・小沢一郎の父は吉田内閣で運輸大臣/逓信大臣/建設大臣に就いている。1968年父の死を受けて、衆議院議員に当選する。中曽根内閣で自治大臣/国家公安委員長に就いている。85年創政会に参加し、竹下/金丸の下で「七奉行」の1人として活躍する。幹事長として海部内閣に政治改革を迫る。海部内閣が崩壊すると、小沢は金丸に組閣を迫られるが、断っている。
○宮沢内閣と政党乱立
・1991年11月宮沢喜一内閣が発足する。自民党の若きエースであったが、71歳で竹下派により総理になる。
・1992年8月金丸信が佐川急便から5億円を受け取った収賄事件が発覚し、金丸は議員辞職する(東京佐川急便事件)。この事件の処理で竹下派は分裂し、羽田孜/小沢一郎は「改革フォーラム21」を結成する。竹下派は小渕恵三/橋本龍太郎らが継ぐ(小渕派)。92年5月細川護熙・前熊本県知事が「日本新党」を結成する。93年6月武村正義は「新党さきがけ」を結成し、羽田(党首)/小沢(代表幹事)は「新生党」を結成する。
・93年6月野党が提案した内閣不信任案に自民党の改革派が賛同し可決され、宮沢内閣は解散に出る。7月総選挙で自民党は横ばい、日本新党/新生党は躍進、社会党は惨敗する。8月衆参両議院で日本新党代表・細川が選出され、自民党は下野する。
○自民党を下野させた政治力学
・自民党を下野させた要因は、その権力構造にあった。55年体制では、宏池会(池田勇人)/清和会(福田赳夫)/周山会(佐藤栄作)/七日会(田中角栄)/経世会(竹下登)/平成研究会などの最大派閥の長が総理に選出され、閣僚人事は派閥均衡で行われた。ところが1980年代以降は田中が「闇の帝王」になり、幹事長ポストを握り(?)、ダミーの総理を選出するようになった。
・田中と対立した人物に福田がいる。総裁選で田中に敗れ、総理に就く。しかし田中/大平連合に敗れ再選できなかった。この時福田は「天の声にも変な声がある」と言っている。※経世会と清話会の対立は今でもあるのかな。
・田中派を竹下(経世会)が引き継ぎ、経世会が主導する宇野内閣/海部内閣/宮沢内閣が生まれる。この時期が、経世会の小沢一郎が最も権勢を発揮した時期である。これでは新人は登場できず、自民党は衰退した。
<55年体制の崩壊-河野洋平~麻生太郎>
○細川連立政権の誕生
・1993年8月細川護熙内閣が誕生する(細川内閣:1993年8月~94年4月)。新生党の代表幹事・小沢一郎が、日本社会党(山花貞夫)/新生党(羽田孜)/公明党(石田幸四郎)/日本新党(細川)/民社党(大内啓伍)/新党さきがけ(武村正義)/社会民主連合(江田五月)/民主改革連合(星川保松)の7党1会派を纏めた。
・議席数では最大の社会党・山花が総理に就くのが順当だが、社会党は136議席から70議席に半減していた。次党の新生党・羽田/小沢は旧田中派で、これも外れた。結局細川が総理に就いた。
・閣僚には各党の党首が就いた。副総理兼外務大臣に羽田、厚生大臣に大内、郵政大臣に神崎武法(公明党)、総務庁長官に石田、科学技術庁長官に江田、政治改革担当大臣に山花が就いた。最も多くの閣僚を出したのは新生党で、羽田/藤井裕久(大蔵大臣)/畑英次郎(農林水産大臣)/熊谷弘(通産大臣)/中西啓介(防衛庁長官)であった。内閣官房長官に武村、同副長官に鳩山由紀夫(新党さきがけ)が就いた。※新生党(+新党さきがけ)内閣だな。
○寄木細工の弱さ
・細川内閣は急ごしらえのため、閣内対立が目立った。内閣官房長官・武村正義は安倍派(清和会)に所属していたため、小沢とは肌が合わなかった。大体彼らの政官財癒着を嫌って自民党を出たのである。また武村は細川とも信頼関係が築けなかった。
・1994年2月細川は「消費税廃止、国民福祉税創設」を発表するが、翌日には撤回する(※偶に党首の暴走がある)。3月衆議院を「小選挙区比例代表並立制」とする「政治改革関連4法案」が可決する。※この頃は政治改革が最大課題であった。
○自民党の反転攻勢
・下野した自民党は、地方重視/他党への配慮などで変身する。予算委員会理事・野中広務は細川内閣打倒の急先鋒になる。2000年4月彼は森内閣で幹事長に就いている。彼は「叩き上げ」「剛腕」「強面」「喧嘩上手」「権力志向」「気配り」「義理人情」「闇将軍」「キングメーカー」「情報収集能力」などに称される。
・1994年4月細川が佐川急便から1億円の借金している疑惑が起こり、内閣を投げ出す。※これも佐川急便。
○在任64日、羽田短命内閣
・細川護熙に代わり羽田孜が総理に就く(羽田内閣:1994年4月~6月)。羽田は1935年生れで、父の死後69年に衆議院議員に当選する。佐藤派/田中派に所属し、農林族で、中曽根内閣/竹下内閣で農林水産大臣に就く。創政会/経世会に参加し、宮沢内閣で大蔵大臣に就く。93年6月小沢一郎と新生党を結成し、細川内閣で副総理兼外務大臣に就く。
・羽田内閣発足直後、新生党/日本新党/民社党など5会派が統一会派「改新」を結成したため、社会党/新党さきがけは連立政権から離脱する。そのため羽田内閣は少数与党になり、94年度予算を成立させると、94年6月総辞職する。在任期間は64日で戦後2番目の短さだった。
○宿命のライバルが手を取った村山内閣の登場
・1994年6月自民党/社会党/新党さきがけが連立する村山富市内閣が発足する(村山内閣:1994年6月~96年1月)。
・1924年村山は大分県で生まれる。72年衆議院議員に当選する。93年社会党委員長に就く。
・94年6月首班指名される。3党の合意事項に「3.2.1ルール」があった。これは議席数に大差があったが、決定事項は必ず自民党3/社会党2/新党さきがけ1の割合で決めるルールである。
・94年12月首班指名で敗れた海部俊樹/小沢一郎は、新生党と公明から新進党を結成する。
○小沢一郎の指導力
・1993年細川内閣の実現から2012年民主党の下野までは小沢一郎の動きが政局に大きく影響した。彼は「直球、剛腕、理念はある」「独善的、専行的」「壊体屋」「リーダー」などと称された。
・彼の最大の問題点は党内民主主義への配慮である。彼には民主主義の基本ルールである多数決で決める考えがない。これは自社さ連立政権に「3.2.1ルール」があったのと対照的である。多くの政治家が彼を好み、また多くの政治家が彼を嫌う理由がそこにある。多くの組織が分裂した理由もそこにある。田中角栄は長年の経験から、少数派の意見を汲み取って決断したが、彼はその表層だけを学んだ。
○村山内閣に次々と降りかかった重要課題
・1994年7月村山富市は所信表明演説で、自衛隊合憲/日米安保条約堅持/日の丸・君が代容認を表明する。これは社会党の基本政策の転換であった。この演説は社会党は”国民政党”なのか”階級政党”なのかの決着であり、社会党の存在意義の否定でもあった。
・95年8月「村山談話」で「植民地支配と侵略に対するお詫び」を表明する。一方で95年1月阪神淡路大震災、3月オウム真理教による地下鉄サリン事件、9月住宅金融専門会社(住専)の8兆4千億円の不良債権が発表される。96年1月村山内閣は総辞職する。
○社会党の消滅と国対族の活動
・1994年9月の社会党大会で、村山総理の政策転換は承認される。96年1月退陣後の党大会で、党名を社会民主党に変更する。
・1955年以降、自民党/社会党議員は国会運営を巡って恒常的に協議してきた。国会対策委員長(国対族、※こんな言葉があるんだ)は様々な駆け引きを展開してきた。社会党国対族の村山富市/野坂浩賢と自民党国対族の梶山静六/野中広務らは、これらの協議から自社の相違を認識しつつ、共同でやっていけると認識したに違いない。小沢一郎の強引な党運営を体験した自民/非自民議員は、自社連立の方がはるかに運営しやすいと感じた。
・しかしこれにはイデオロギーの対立があった。冷戦後であっても国歌・国旗/自衛隊/安保問題などは党の重要な基本政策であった。村山総理辞任後の党名変更は、その最終到達点であった。
○橋本内閣と自民党回帰
・村山内閣からの禅譲で橋本龍太郎内閣が発足する(第1次橋本内閣:1996年1月~11月、第2次:~98年7月)。
・1963年橋本は父の地盤を引き継ぎ、衆議院議員に当選する。佐藤派/田中派/竹下派に所属し、経世会では「竹下7奉行」の一人である。宇野内閣で幹事長、海部内閣で大蔵大臣に就く。村山内閣で通産大臣に就き。日米自動車協議を纏める。95年9月総裁選で小泉純一郎を破り、総裁に就く。
・橋本内閣は「住専問題」に当たる。96年9月解散総選挙に出て、「小選挙区比例代表並立制」の最初の選挙になる。公示直前に新進党/社会民主党/新党さきがけから57名が民主党を結成する。自民党はこの選挙で大勝し、単独政権となる。
・橋本内閣は「行政改革」を推し進め、沖縄普天間基地の全面返還、消費税5%への引き上げを実施する。しかしアジア通貨危機が起き、97年11月北海道拓殖銀行/山一証券が経営破綻し、金融パニックが発生する。98年7月参議院選挙で自民党は議席を激減させ、橋本は辞任する。
○志半ばに終わった小渕内閣
・1998年7月総裁選に小渕恵三/梶山静六/小泉純一郎が立候補し、小渕が選出される(小渕内閣:1998年7月~2000年4月)。この時田中真紀子が3人を、”凡人、軍人、変人”と称している。
・小渕は父の死に伴い、1963年衆議院議員に当選する。佐藤派/田中派/竹下派に所属し、経世会では「竹下7奉行」の一人であった。橋本内閣で外務大臣に就いている。
・小渕政権では自自連立、さらに自自公連立を組む。日米防衛協力のための「新ガイドライン」関連法、国旗・国歌法を成立させる。2000年4月脳梗塞を発症し、総辞職する。
○森内閣と加藤の乱
・2000年4月密室での協議で森喜朗が総裁に選ばれ、森内閣が発足する(第1次森内閣:2000年4月~7月、第2次:~01年4月)。
・森は1969年衆議院議員に当選し、福田派に所属した。中曽根内閣で文部大臣、宮沢内閣で通産大臣、村山内閣で建設大臣などを歴任する。
・2000年6月総選挙で後退するも、自民党/公明党/保守党で安定多数を維持する。11月内閣不信任案が提出され、加藤紘一・元幹事長が賛成に回るが、野中広務・幹事長の切り崩しで否決される(加藤の乱)。その後、自民党リベラル派の宏池会は加藤派と堀内派に分裂する。森は1年で退陣する。
○小泉内閣の改革路線
・2001年4月総裁選で小泉純一郎が選出され組閣する(第1次小泉内閣:2001年4月~03年11月、第2次:~05年9月、第3次:~06年9月)。
・1972年父の地盤を引き継ぎ、衆議院議員に当選する。同期に”YKK”の山崎拓/加藤紘一がいる。福田派に所属し、竹下内閣で厚生大臣、宮沢内閣で郵政大臣などを歴任している。
・2001年9月「9.11同時多発テロ」が発生する。小泉は米国支援を決定し、海上自衛隊をインド洋に派遣している。02年9月北朝鮮を電撃訪問し、「日朝平壌宣言」に署名し、拉致被害者5人を帰還させる。03年5月「イラク復興支援特別措置法」を成立させる。05年8月「郵政民営化関連法案」が否決されると衆議院を解散する。この選挙で圧勝し、自民党/公明党で2/3の議席を得る。
・小泉内閣は佐藤内閣/吉田内閣に次ぐ長期政権となる。小泉は新自由主義で経済の再建を図ったが、格差は拡大し、中間層は縮小した。
・小泉は派閥とは関係なく重要ポストを任命した。彼は「ポピュリズム」「小泉劇場」「大統領型政治」と称された。総選挙/マスコミを利用して郵政民営化を行った。また彼はアジア諸国から批判されても、靖国神社参拝を止めなかった。
○官邸政治の実態
・小泉政治の特徴は官邸主導にある。「経済財政諮問会議」でトップダウンの政策を実行した。総理秘書官5人と参事官5人が政策を具体化した。
・また彼はメディア、特にテレビ報道を重視し、ワンフレーズで国民に訴えた。逆に国民が忌避する消費税問題/物価問題は極力先送りした。
○相次ぐ2世総理の登場-安倍/福田/麻生
・小泉内閣の後、安倍晋三/福田康夫/麻生太郎の短命内閣が続く(第1次安倍内閣:2006年9月~07年9月、福田内閣:~08年9月、麻生内閣:~09年9月)。彼らは何れも祖父/父が総理経験者で、名門の生まれである。
・安倍は母方の祖父が岸信介で、父は安倍晋太郎である。1993年父の後を継ぎ、衆議院議員に当選する。小泉内閣で内閣官房長官に就き、小泉後に総理に就く。
・福田は福田赳夫・元総理の長男に生まれ、1990年父の後を継ぎ、衆議院議員に当選する。森内閣/小泉内閣で内閣官房長官に就いている。
・麻生は母方の祖父が吉田茂である。1979年に衆議院議員に当選し、経済企画庁長官/総務大臣/外務大臣などを歴任している。
・安倍は小泉内閣の課題であった東アジアの外交を立て直し、防衛庁を防衛省に昇格させる。07年7月参院選で大敗し、9月辞任する。小泉内閣は官邸主導で進められたが、安倍内閣で官邸は崩壊した。
・次の福田内閣は”衆参ねじれ国会”の中、「新テロ特措法」を成立させ、消費者庁を新設する。民主党(小沢一郎)との大連合は成功しなかった。08年7月「洞爺湖サミット」を終え、辞任する。
・次の麻生内閣は、リーマン・ショックの不況下で「金融機能強化法」を成立させる。09年8月総選挙で敗北し、民主党に政権を譲る。
・この3内閣は何れも総選挙の洗礼を受けておらず、小泉内閣の遺産を継承した内閣であった。金融財政問題/成長戦略/対外戦略、何れもポスト55年体制の方向性を示せなかった。※政治も経済も失われた20年に思える。
○自民党が辿った崩壊の過程
・村山内閣以降の自民党内閣は崩壊の過程である。55年体制は3段階で崩壊したと云える。第1段階は宮沢内閣が崩壊し、細川内閣/羽田内閣の下野した期間である。第2段階は村山内閣/橋本内閣である。この時期に55年体制の一方の柱の社会党が消滅する。第3段階は小渕内閣から麻生内閣までの6内閣である。この時期に政治パワーは消滅した。※本書のテーマは本節と思ったが、詳しい説明はない。
○野党時代を支えた野中広務
・自民党下野後の復権で、力を発揮したのが野中広務であった。1983年彼は衆議院議員に当選する。田中派に所属し、創政会/経世会で活動し、反小沢であった。彼の小沢攻撃で、羽田/小沢は「改革フォーラム21」を立ち上げた。一方で橋本内閣の”自社さ路線”を、小渕内閣で”自自公路線”に転換させている。※野中は細川内閣への批判でも述べられている。
<野党から再び与党へ>
○世紀の政権交代
・2009年8月衆議院議員選挙で民主党が圧勝し、政権は民主党に移る。1996年9月民主党は結成される。代表は新党さきがけを離党した鳩山由紀夫/菅直人であった。10月総選挙で52議席を獲得し、自民党/新進党に次ぐ第3党になる。新進党は、94年12月首班指名で敗れた海部俊樹/小沢一郎が結成した党で、その後分裂を繰り返し、98年1月小沢は自由党を結成する。
・98年4月民主党/民政党/新党友愛/民主改革連合などが結集し、民主党(第2次)が結成され、代表に菅が就く。その後代表に鳩山/岡田克也/前原誠司が就く。2003年9月小沢は自由党を解党し、民主党に合流する。
・2006年3月代表選で小沢が勝ち、代表代行に菅、幹事長に鳩山が就く。小沢は安倍/福田/麻生の自民党を追い詰める。その矢先09年3月、小沢の公設秘書が政治資金規正法違反で逮捕され、小沢は代表を辞任し、鳩山が代表に就く。※国策捜査だな。
○民主党を支えた5人
・1947年鳩山由紀夫は生まれる。曾祖父和男/祖父一郎/父威一郎の名門政治家である。86年自民党候補で当選する。93年自民党を離党し、新党さきがけを結成し、代表幹事に就く。96年9月民主党を結成し、代表に就く。市民感覚に乏しく、周囲から遊離し、「宇宙人」と称された。
・1946年菅直人は生まれ、団塊の世代と云える。東京工業大学を卒業する。在学中から市民運動に携わり、市川房江の選挙運動に参加している。80年衆議院選挙に社会民主連合から立候補し、当選する。94年社会民主連合から新党さきがけに入党する。96年1月、自社さ連立の橋本内閣で厚生大臣に就き、「薬害エイズ問題」「Oー157問題」で脚光を浴びる。96年9月民主党を結党する。
・菅はアピール力は優れたが、官僚を使いこなす力は不足していた。「いら菅」と称され、独りよがりの傾向がある。民主党を当初、鳩山/菅が引っ張った事で、民主党の性格が定まった。
・1953年岡田克也はジャスコ創業者・卓也を父に生まれる。東京大学卒業後に通産省に入省する。90年自民党から立候補し当選する。竹下派(羽田派)に所蔵し、新生党/新進党などから、98年4月民主党結党に参加する。2004年5月から05年9月まで、民主党代表に就いている。
・1962年前原誠司は生まれる。京都大学を卒業し、松下政経塾に入塾している。93年日本新党から立候補し、衆議院議員に当選する。その後新党さきがけに合流し、98年4月民主党結党に参加する。
・2005年9月岡田を継いで代表に就く。幹部の若返りを図るが、これが逆に国会運営の未経験を露呈し、4ヶ月で辞任する。
・1957年野田佳彦は生まれる。早稲田大学を卒業し、松下政経塾に入塾している。93年日本新党から立候補し、衆議院議員に当選する。94年12月新進党の結党に参加する。96年総選挙で落選し、新進党を離党する。98年民主党に入党し、00年衆議院選挙で復帰当選する。その後国会対策委員長で活躍するが、06年「偽メール事件」で辞任する。
・鳩山内閣で財務副大臣、菅内閣で財務大臣に就く。この間、超円高となるが、打開できなかった。
・2011年9月代表選挙に勝ち、首相に就く。野田は東日本震災への対応/TPP参加/三党合意「社会保障と税の一体化改革」などを行う。しかし小沢一郎らの離党者を生み、12年12月総選挙で敗北し、退陣する。
○多様な出自が集まった民主党組織
・民主党は「烏合の衆」「シマウマみたいな政党」と称された。1998年4月民主党は旧民主党/民政党/新党友愛などが連合し誕生し、さらに改革クラブ/自由党などが合流した。指導者を見ても、鳩山-自民党/新党さきがけ、菅-社会民主連合/新党さきがけ、岡田-自民党/新進党など、前原-日本新党/新党さきがけ、小沢-自民党/新進党/自由党などで様々である。※90年代は野党の離合集散が激しかった。
・一般議員を見てみる。衆議院議員113人の前政党を見ると、最初が民主党の議員は70人で62%を占める。衆参両院議員222人の前職業を見ると、地方議員44人(20%)/議員秘書25人(11%)/会社員25人(11%)/労働組合役員22人(10%)/官僚19人(9%)/弁護士13人(6%)/団体役員11人(5%)/放送関連10人(5%)などである。世襲議員は222人中23人で10%に過ぎず、自民党の52%と比較にならない。
・つまり中堅/若手は幅広い職業層から議員になり、世襲議員も少ない。彼らがこれまでの経験を総括し、成長してくれれば、自民党に対抗する勢力に変身できると期待される。※正しく国民政党だな。他に官僚との関係も重要かな。
○民主党の3年3ヶ月
・民主党の内閣は、はぼ1年任期で交代する(鳩山由紀夫内閣:2009年9月~10年6月、菅直人内閣:~11年9月、野田佳彦内閣:~2012年12月)。
・鳩山は官僚依存脱却から国家戦略室/行政刷新室を設置し、二酸化炭素排出量の25%削減、事業仕分けなどを行う。しかし米軍基地の移転/自身の遺産相続/小沢一郎の秘書の逮捕により辞任する。
・菅は小沢と対立し、尖閣諸島の対応/東日本大震災の対応で国民の不信を買い、辞任する。
・野田は小沢派の輿石東を幹事長に就ける。復興案件/TPP参加/三党合意「社会保障と税の一体化改革」を行う。2012年12月総選挙で敗北し、退陣する。
○民主党政治が遺した課題
・民主党は自民党と異なる政治を掲げながら、それができずに終わった。「政治主導」を掲げるが、鳩山は官僚を排除し、政治を混乱させた。国家戦略局(2010年4月国家戦略室から改組)を作るが、内閣官房とのすり合わせが課題となった。菅も東日本大震災で混乱を招いた。
・民主党は「パフォーマンス」も多用した。マニフェスト/事業仕分け/東日本大震災での現場指揮などである。しかしマニフェストは宣伝文書になり、事業仕分けは政治ショーになり、東日本大震災でも実効性のある対策が取れなかった。
・外交問題でも不手際が続出した。沖縄基地移転問題は鳩山辞任の一因になった。2010年9月尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件でも、その対応で批判を浴びた。
・経済でも「六重苦」(超円高、高い法人税、自由貿易協定への対応、電力不足、労働規制、高い環境基準)と称された。
・民主党の課題の1つ目は、将来を見通したプラン作りである。それには指導部の若返りや、党の純化/統一性が必要である。2つ目は政治家として必須の研究/勉強/体験が必要である。
・民主党は、1996年9月新進党/社会民主党/新党さきがけなどから57名が参加した寄合世帯で、そこからの脱皮が課題であった。さいわい議員の約60%が民主党が誕生してから入党しており、彼らが経験を積み、失敗を総括し再出発した時、自民党と対決できる政党になれる。※今は分裂している。
○自民党、再度の政権奪還
・2012年12月総選挙で自民党は圧勝し、292議席を獲得する。この選挙には幾つかの特徴がある。1つ目は12党が乱立した。野田総理の突然の解散で各党は準備ができなかった。政治課題が多く、消費税増税の可否/TPP参加/原発の存続・廃止などがあり、各党は主張を調整できなかった。2つ目は自民党も民主党も信頼を得られず、投票率は60%を切った。※1つ目に一杯詰め込まれている。
・総選挙後の朝日新聞のアンケートで、質問「政権交代は良かったか」には、「良かった」57%「良くなかった」16%の大差となった。一方質問「自民党の大勝は良かったか」には、「良かった」36%「良くなかった」43%と否定的であった。
○体制整備が進む自民党
・自民党は2度の下野で変わったのであろうか。第2次安倍政権(2012年12月~14年12月)は周到に準備して政権を運営していると思える。官房長官・菅義偉を中心に内閣運営体制を整備した。総理大臣補佐官/秘書官/事務秘書官/政務秘書官/参事官を整備した(※そんなに居るの)。
・安倍の雌伏の5年間のテーマは「強い経済」であった。政権に復帰し、副総理兼財務大臣・麻生太郎/経済産業大臣・茂木敏充と共に、「デフレ脱却」「インフレ推進による成長戦略」を推進している。
○繰り返される派閥の合宿
・2013年秋、自民党の各派閥の合宿が軽井沢などで行われた。最大派閥の「町村派」は福田派(清和会)が起源で、安倍派/三塚派/森派と引き継がれてきた。
・「額賀派」(平成研究会)は佐藤栄作/田中角栄が起源で、竹下派/小渕派/橋本派/津島派と引き継がれてきた。
・「岸田派」は池田派(宏池会)が起源で、前尾派/大平派/鈴木派/宮沢派/加藤派と引き継がれてきた。2000年11月「加藤の乱」で分裂するが、2008年古賀派で統一され、今は岸田文雄が引き継いでいる。「麻生派」は、1999年加藤派(宏池会)から分離独立した河野グループが起源である。
・「二階派」は河野一郎が起源で、中曽根派/渡辺派/村上・亀井派/伊吹派と引き継がれ、2009年保守新党から自民党に合流した二階派が合流した。「石原派」は、1998年渡辺派から分離独立した山崎派が起源である。
・「大島派」は改進党が起源で、松村・三木派/三木派/河本派/高村派と引き継がれてきた。
○派閥の変容
・以上のように派閥は継承されてきたが、その実態は変化している。まず派閥に所属しない議員が100人規模に増えた。自民党幹部でも無派閥の議員が多い。幹事長・石破茂/総務会長・野田聖子/政調会長・高市早苗/国会対策委員長・鴨下一郎は無派閥である。※これは驚き。
・このように派閥の求心力は低下している。かつて大臣の人事は派閥均衡で行われていた。しかし小泉内閣になると大臣の人事は官邸が仕切るようになり、第2次安倍内閣では副大臣/政務官の人事まで官邸が仕切るようになった。
○派閥の過去・現在・未来-強靭性と柔軟性
・以上、自民党史を概説した。自民党は2度下野(1993年、2009年)するが、”起上り小法師”のように政権を奪還した。今後もそうなるとは限らない。政党の強さは強靭性と柔軟性にあるが、自民党は奪還する度に硬直化/弱体化しているからである。
※この節は総括であるが、話が難しそう。
・1955年から70年年代までは、自民党は強靭性/柔軟性を持っていた。派閥多数派の長が総理になり、高度経済成長などの政治課題を達成した。派閥システム自体も徐々に整備された。
・しかし80年代になると田中角栄/竹下登による院政体制になり、柔軟性を失う。社会党も国対族が力を付け、議会ルール化に包摂される(?)。
・冷戦の終結も相まって、1993年細川内閣の誕生がその到達点であった。「大化の改新」で見られるように、政変は支配的な政治集団の分裂と、それの批判集団が結合した新政治集団で成される。細川内閣は正にその新政治集団であったが、細川内閣/羽田内閣は”寄木細工”と称されたように、強靭性/柔軟性を持ち合わせていなかった。
・55年体制崩壊以降、政局の節々で小沢一郎の指導性/独善性が影響を及ぼす。政変には「壊し屋」「建設屋」が必要である。非自民には政策立案能力/組織化能力が求められるが、小沢は「壊し屋」でしかなかった。非自民に「建設屋」は現れなかった。
・むしろこの「建設屋」となったのが小泉純一郎であった。彼は右手に官邸主導の脱派閥政治、左手に規制緩和の新自由主義を掲げた。しかし小泉内閣後の安倍内閣/福田内閣/麻生内閣が短命に終わり、民主党に政権を譲った事を見れば、成功したとは言えない。
・民主党に求められたのも「建設屋」であったが、民主党はガバナンス能力に欠け、敗北するしかなかった。
・2012年12月自民党は復権するが、派閥に力はなく柔軟性は失われ、官邸主導の強靭性のみの政党になった。今後経済成長の見通しが狂ったり、予期せぬ国際変化が起きた時、対応できるか疑問が残る。
・「憲法改正問題」は祖父岸信介からの課題である。「金融緩和」「インフレ政策の推進」は円安誘導で成果をもたらすかもしれない。しかし貿易収支は赤字で、財政赤字は深刻化しており、「消費税問題」に踏み込む必要がある。消費増税には経済回復が前提で、そのためには新産業の育成/国際競争力のある産業の育成が必要である。それには補助金支給/公共投資だけでは期待できない。
・外交では、韓国では朴槿恵が大統領に、中国では習近平が国家主席に、米国ではオバマが大統領に就いた。これらとは経済連携問題/領土問題などの課題が山積している。
・55年体制では社会党が自民党の暴走を止めていた。2012年下野した民主党が総括し、生まれ変われるかが、21世紀の政治・経済・軍事・外交の重要な鍵となる。
<おわりに>
・第2次安倍内閣が発足し1年が経過した。安倍は日銀の量的・質的金融緩和で円安/株高状況を作り、輸出産業を立て直し、デフレ脱却の基盤作りを推し進めている。13年10月消費税率8%引上げを決定し、11月国家安全保障会議(日本版NSC)設置法、12月特定秘密保護法を成立させ、12月国家安全保障戦略/防衛大綱を閣議決定した。安全保障重要法案を矢継ぎ早に成立させた背後に、日本版NSCを司令塔に日米同盟を強化し、憲法を改正する狙いがある。
・安倍にはアジアに政治的/経済的/軍事的に強い国家を作る目的がある。13年12月靖国神社への参拝も、その意志の表れである。これにアジア各国はむろん、米国や多くの日本国民は彼の時代錯誤に困惑した。※歴史修正主義かな。
・自民党はこの意識を持った政治家が多数派を占め、問題をさらに深刻化させている。かつては派閥闘争により、極端な政策は修正された。さらに自民党外にも社会党に代表される野党集団が存在し、極端な政策は修正された。安倍内閣以前は柔軟性/強靭性を持つ歯止め装置が存在していた。国民はこれに対し厳しい視線を注がなければならない。※今は官邸が強く、忖度が多過ぎるかな。