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『主権国家成立の内と外』大日方純夫を読書。

明治維新から日清戦争までの内政・外交を解説しています。
新政府は多分野の改革に取り組みます。本書序盤はそれをスパイラル的に解説するので、話が飛び飛びになり、多少難解です。

中盤以降は政党/制度などを集中的に解説し、大変詳しい内容になる。
初めて知る事も多く、情報量は豊富です。

伊藤博文ら主権国家の建設者は、民衆を強く警戒しながら、着々と制度を整えます。
今では当たり前だが、議院内閣制(政党内閣制)への敬意を感じる。

お勧め度:☆☆☆(詳し過ぎる)

キーワード:<主権国家成立を巡る世界と日本>華夷秩序/国際法秩序、4つの口、国内政治構造、住民、<岩倉使節団と東アジア秩序>学制/徴兵令/地租改正法、台湾生蕃事件、征韓論、<大久保政権を巡る内政/外政>内務省、自由民権運動、新聞、結社、愛国、台湾出兵、<国内路線の修正と対外・境界問題>大阪会議、江華島事件/日朝修好条規、樺太・千島交換条約、竹島問題、<3つの抵抗-一揆、反乱、民権運動>地租改正、秩禄処分、民権論/加藤弘之、<東アジア情勢の流動化>琉球問題、朝鮮問題、植木枝盛、<大久保没後体制の構造>地方3新法、天皇親政運動/教育政策、靖国神社/徴兵制、地租改正反対運動、<国会開設運動の高揚>共存同衆/嚶鳴社/国友会、国会期成同盟、集会条例、私擬憲法、<明治14年の政変と政治の転換>意見書/議院内閣制(政党内閣制)、交詢社憲法案/矢野文雄、井上毅、開拓使官有物払下げ事件、国会開設の勅諭、自由党、民権論、<薩長藩閥政権と政党の運動>参事院、自由党/立憲改進党/立憲帝政会、集会条例、喜多方事件、立憲/主権、<東アジア情勢の緊迫化と松方デフレ>壬午軍乱、増税、<松方デフレと自由民権運動>群馬事件/加波山事件、地租問題、解党問題、秩父事件、<日清関係と自由民権運動>甲申政変、<条約改正問題の焦点化>井上馨、大同団結運動/三大事件建白運動、保安条例、憲法/刑法/民法/刑事訴訟法/民事訴訟法、<憲法準備体制と運動の様相>華族令、御領/皇室典範、内閣制度、市制・町村制/府県制・郡制、警察、大日本帝国憲法、<帝国憲法体制の構造>超然主義、選挙、田中正造、統帥大権/徴兵令、教育勅語、<初期議会における対立の構造>民党連合、選挙大干渉、和衷協同の詔勅、<対立軸と争点の編成>地価修正、民法・商法、条約改正問題、<日清戦争と朝鮮・台湾>東学/甲午農民戦争、日清戦争、日清講和条約(下関条約)/三国干渉、台湾征服戦争、尖閣諸島、<日清戦争がもたらしたもの>日英通商航海条約、沖縄/アイヌ、憲政党/立憲政友会/社会民主党、帝国主義、<あとがき>自由民権

<主権国家成立を巡る世界と日本>
○世界史的視点
・近代初頭、東アジアには中国中心の国際秩序「華夷秩序」と西洋起源の「国際法秩序」があった。「華夷秩序」は諸国が夷として中国に従属する秩序である。しかしこれは権力的な支配ではなく、儀礼的なもので、諸国の自立性/独自性は保たれていた。

・西洋の「国際法秩序」は世界を3つのグループに分けていた。第1は資本主義などの国内体制を備えた「文明国」である。第2は相応に発展しているが、「文明国」ほど法/政治システムが整備されていない国である。これらの国は「文明国」と不平等条約を結ばされ、主権を制限された。第3は最初に発見した「文明国」によって植民地にされる地域で、アフリカなどが該当した。

・「文明国」は他国に従属せず、国内の人/物/事実を排他的に統治できる。前者は対外主権で、後者は対内主権である。対内主権は主権の帰属により、君主主権/人民主権などがある。

・本書は”半人前の国家”日本が、どのように近代国家となったかを検証する。本書の第1の課題は、日本と東アジア各国/西洋列強との関係が、日本の在り方をいかに規定したかである。

○4つの口
・「華夷秩序」には、「国境線を定める」「条約により国家間の関係を規定する」などの考えはなかった。一早く「国際法秩序」を採用した日本は、東アジアの国際秩序を再編成した。ただし日本は「文明国」と見なされず、西洋諸国と不平等条約を結び、国家主権は制限された。

・日本は「鎖国」と称されているが、長崎(対オランダ、中国)/対馬藩(対朝鮮)/薩摩藩(対琉球)/松前藩(対アイヌ)の”4つの口”で交流していた。
・明治新政権は「攘夷」を掲げていたが「開国」し、前政嫌の不平等条約を継承し、さらに欧米15ヵ国と不平等条約を結んだ。

・1871年新政権は「日清修好条規」を結び、これは平等条約であった。対馬藩/薩摩藩/松前藩の外交権限を奪い、外交権限を中央政府に一元化した。
・この”4つの口”の行方を見定めるのが、本書の第2の課題である。

○国内政治構造
・国際法の主体は国家である。国家の要件は、永続的な住民/領域を有し、対内的には住民/領域を支配し、対外的には他国と関係を結ぶ能力のある政府が存在する事である。そのため政府が交代しても国家間の権利・義務関係は継承される。

・近世(江戸時代)、日本に政府は存在しなかったのだろうか。中央政権として幕府があり、260以上の独立した藩があり、京都には朝廷があった。政治/外交は幕府が行っていた。明治維新により、天皇を戴いた新政府が大政(政治、外交)を一元化した。当初は立法/行政/司法の区別は明瞭ではなく、内閣も行政機構も未整備であった。この国内政治構造を解明するのが、本書の第3の課題である。

○住民への着目
・近世から近代への転換期に、日本には3300万人の住民がいた。近世では士農工商に区切られ、居住地は都市/農村に区切られ、さらに都市(城下町)は武家屋敷/町屋敷などに区切られた。
・明治維新によって、これらはなくなったが、年齢/性別で区切られた。士農工商はなくなったが、華族/士族/平民の新たな区別が設けられ、これらの上には天皇・皇族もあった。
・彼ら住民を検証する事を、本書の第4の課題とする。
※プロローグが終わったが、何か複雑そうな本だ。

-大久保政権と自由民権運動の生起-
<岩倉使節団と東アジア秩序>
○岩倉使節団と脱亜入欧
・国際法は「万国公法」と訳された。日本は「万国公法」を拠り所に、東アジアでの「華夷秩序」を解体し、新しい国際秩序を築こうとした。

・条約改正の端緒は「岩倉使節団」であるが、これは参議兼条約改正御用掛・大隈重信の立案である。彼は宣教師フルベッキから政治/法律/経済/キリスト教を学んでいた。
・1871年12月大久保利通/木戸孝允/伊藤博文らの使節団が出発し、73年9月帰国する。米国/英国/仏国/ドイツなどを歴訪するが、彼らが一番関心を持ったのはドイツ(プロイセン)であった。66年ドイツはハプスブルク帝国に勝ち(普墺戦争)、70年普仏戦争で仏国に勝ち、71年ドイツ帝国が成立した。首相ビスマルクの演説は、彼らに強い印象を与えた。

○留守政府の政策と民衆
・留守政府には三条実美/西郷隆盛/板垣退助/大隈重信らがいた。1872年8月「学制」を発布し、73年1月「徴兵令」を発布し、7月「地租改正法」を定める。

・73年これらに対し西日本で大農民一揆が相次ぐ。5月美作国(岡山)12郡650村で3万人の一揆が起こる。当局は鎮圧し、死刑15人/懲役以下2万6900人となった。同様の一揆が鳥取/島根/広島/香川/愛媛/福岡/長崎/熊本で起こる。
・前年4月政府は村役人(庄屋、名主、年寄)を廃止し、戸長/副戸長を置いていた。政府に対する不満は、この戸長らに向けられた。

・教育の強制は民衆を開化させたが、労働力の喪失になった。また徴兵令に”血税”の記述があり、”血を絞られる”と誤解された。徴兵令も3年間の労働力の喪失になった。そのため分家/養子などにより、兵役免除条項の活用が82%に達した。

○台湾問題と副島外交
・1871年11月琉球島民66人が台湾に漂着し、54人が殺害される事件があった。これに対し鹿児島県では「台湾出兵論」が起こる。72年10月政府は琉球王国に琉球藩を設置している。外務卿・副島種臣と米国人の外務省顧問ル=シャンドルは国際法の「無主の地は領土としてよい」から強硬策に出る。
・1873年3月副島/ル=シャンドル/外務大丞(外務省No.4)柳原前光は清に交渉に向かう。清は「台湾には”生蕃”(統治されない地)がある」と回答する。7月副島らは帰国する。

○朝鮮問題と征韓論
・1871年9月「日清修好条規」が結ばれる。これは和親/領土保全/内政不干渉/領事裁判権・関税率協定権を相互に認める平等条約であった。
・しかしその後も朝鮮は鎖国を続け、特権を徐々に奪われた士族から「征韓論」が起こる。留守政府は参議・西郷隆盛を朝鮮に派遣する事を決定する。
・1873年10月これに岩倉使節団から帰国した岩倉具視/大久保/木戸らは、内治を優先し、激しく対立する。征韓派は敗れ、参議5人(西郷、板垣、江藤新平、後藤象二郎、副島)が辞職する(明治6年政変)。

<大久保政権を巡る内政/外政>
○大久保政権の構造
・1873年11月大久保利通は内務省を設置し、自ら内務卿に就く。内務省には勧業寮/警保寮/戸籍寮/駅逓寮/土木寮/地理寮/測量司が置かれた。大半が大蔵省からの移管であった。大久保・内務卿/大隈重信・大蔵卿/伊藤博文・工部卿は協力して行政に当たった。

・警保寮は社会の安全・秩序を守る行政警察と、犯人の捜査・逮捕に当たる司法警察に二分され、前者が重視された。警察制度を整備したのが川路利良であった。
・74年1月東京警視庁が設置され、施策に対する反発・抵抗を取り締まった。74年末警視庁6396人、地方警察1万1986人で、警察官の1/3が東京に集中した。

○愛国公党と民撰議院設立の建白
・1874年1月前年の政変で下野した板垣退助/副島種臣/後藤象二郎/江藤新平らは「愛国公党」を結成する。「愛国公党本誓」には「人権は天が与えたもので、人力で奪えない」と記された。
・悪党/徒党など”党”は実力行使で問題解決を図る反体制・反社会的集団であった。明治に入り、政治的な”党”(政党)が生まれた。後年板垣は「私党でないため、愛国公党は公党とした」と述べている。
・「愛国公党」は、ほとんど活動しない内に消滅する。しかし74年1月『民撰議院設立建白書』を左院に提出し、民撰議院(国会)の開設を要求している。これは以後15年に亘る自由民権運動の始まりとなる。

・74年4月板垣は土佐(高知)で「立志社」を創立する。これは「人は生まれつき平等で、どのような権力もその権利を奪えない」(天賦人権思想)とした。
・各地で同様の結社が結成され、75年3月これらを連絡する「愛国社」が結成される。しかし板垣が政府に復帰したため、「愛国社」は自然消滅する。※時々このパターンがある。鳩山一郎もそうだったかな。

・当時の運動の担い手は士族であった。「佐賀の乱」(1874年)では、『民撰議院設立建白書』に名を連ねた江藤が担がれた。「西南戦争」(1877年)では、民権派士族が反乱軍に同調する動きもあった。

○新聞と民撰議院論争
・『民撰議院設立建白書』の意味は、単に政府に提出されただけでなく、それが新聞に掲載され、論争を引き起こした。当時日刊新聞『日新真事誌』が”左院御用”となり、左院の議事/命令/建白書を独占的に掲載していた。
・この記事に加藤弘之(明六社同人)が、「人民の開明化が先決」と投稿した。これに対し板垣/副島/後藤は「人民開化のためにも、議院の設立が必要」と反論する。この論争に大井憲太郎や森有礼/西周/津田真道(明六社同人)も加わった。

・その頃、日刊新聞が情報を発信する時代が始まった。1870年12月最初の日刊紙『横浜毎日新聞』が創刊された。72年6月前島密により『郵便報知新聞』が創刊される。これに栗本鋤雲/犬養毅らが入社する。72年2月福地源一郎を主筆とする『東京日日新聞』、11月『朝野新聞』、74年11月『読売新聞』、75年木戸孝允による『東京曙新聞』などが創刊されている。
・75年6月政府は新聞紙条例/讒謗律を定め、これらに対抗した。
※まだ維新から数年なのに、よく民権が論争になるな。西洋への憧れかな。

○都市知識人の結社
・1873年秋、森有礼の提案で西村茂樹/津田真道/西周/中村正直/加藤弘之/福沢諭吉らが集まり「明六社」を結成する(※明六は、この6人かな)。74年3月『明六雑誌』を創刊し、75年2月演説を公開にする。しかし75年6月新聞紙条例/讒謗律により、『明六雑誌』は停刊となり、演説も非公開になる。

・75年福沢は慶応義塾内に「三田演説会」を結成する。その聴衆に植木枝盛もいた。
・74年9月留学から帰国した小野梓が中心となり「共存同衆」を結成し、75年1月『共存雑誌』を創刊する。
・74年沼間守一/河野敏鎌らが法律講習会を始める。77年頃「嚶鳴社」となる。

・これらの中で「共存同衆」は女性の加入が認められていた。また「愛国公党」も男女平等を重視していた。

○愛国と云う言葉
・「愛国者」など自由民権運動の担い手は”愛国”を用いた。国権の基礎は民権で、民権は”愛国”と考えていた。

○文明化と愛国の構想
・1875年福沢諭吉は『文明論之概略』を刊行する。当書に「日本は政府ありて、国民なし」「野蛮、未開、文明の順に進歩する」「西洋文明を目的にすべし」としているが、最終の第10章で「国の独立が最終目的」としている。
・当書で「世界は国家に分かれ、平時であれば商売で利を争い、戦時であれば武器を持って殺し合う」「今は商売と戦争の時代」としている。「世界に国・政府があり、国民の”私情”は除けない。その”私情”は”偏頗心””報国心”」とし、国家の独立を重視した。※意味不明。

・小野梓は「愛国の公心」(ナショナリズム)を重視した。彼は留学中、欧米人の愛国心の強さを実感していた。1875年3月『共存雑誌』で、「藩意識(私情)を捨て、国を考える”愛国の公心”を持つべし」とした。国家内でのアイデンティティの構築を最重要とした。

○琉球帰属問題と台湾出兵
・1874年2月参議大久保/参議大隈の提案で「台湾出兵」が決まる。前年10月征韓論を退けたが、士族の不満は収まらなかった。英国などの反対で一旦中止されるが、5月長崎で陸軍中将・西郷従道と大久保/大隈が会見し、出兵が決まる。

・8月台湾問題の交渉のため、大久保が全権弁理大使となり清に派遣される。交渉は難航するが、10月末「日清両国互換条款」が調印される。

○台湾出兵の歴史的位置
・「台湾出兵」は近代日本の最初の海外派兵であった。この「台湾出兵」は様々に分析されている。

・まず「征韓論」を主張した西郷隆盛と、「台湾出兵」を行った大久保の同質性である。「征韓論」「台湾出兵」は同質で、不平士族への対策であり、「台湾出兵」には台湾領有の意図もあった。

・一方大久保と留守政府との相違を主張する説もある。大久保の意図は「討蕃撫民」で、副島/ル=ジャンドルの植民地経営の意図はなかった。西郷/大隈には連続性があったが、大久保には植民地経営の意図はなかったとする説である。
・大隈が作成した当初案『台湾処分要略』には、「台湾領有論」が記されている。しかし大久保/大隈による正式な提案『台湾蕃地処分要略』は「討蕃撫民」を目的とし、「台湾領有論」は消えている。

・「征韓論」「台湾出兵論」を主張したのは外務卿・副島種臣であり、その後を継いだのは寺島宗則である。寺島は「台湾出兵」を否定したが、大久保/大隈に押し切られたとの説もある。
・また副島が外務卿時の米国公使デロングと、その後継の米国公使ビンガムで、台湾政策に関して路線転換があったとする説もある。
※台湾出兵だけでも様々な説があるんだ。大久保は理念派ではなく現実派なので、押せるところまで押すかな。

<国内路線の修正と対外・境界問題>
○大阪会議と国内体制
・1874年1月板垣退助ら4参議(辞任後では?)は『民撰議院設立建白書』を提出する。翌月江藤新平は担がれ「佐賀の乱」を起こすが、鎮圧される。西郷隆盛は鹿児島に帰り、私学校を創立し、県政を勢力下におき、鹿児島県は独立国の体を擁する。

・75年1月大久保は参議兼工部卿・伊藤博文に木戸孝允復帰の交渉に当たらせる。木戸は?国会を開く基礎として、元老院を創設する、?大審院の創立、?地方官会議の設置、?内閣と各省を分離するで合意する。※地方官会議は下院に相当し、地方議会とは別みたいだな。
・さらに木戸は板垣と協議し、?立憲制の導入、?地方議会を開設し、国会開設の準備をする事で合意し、これを大久保に伝える。2月木戸が大久保/板垣を招待する形で三者の会談が実現する(大阪会議)。

・4月『立憲政体の詔』が発布され、元老院/大審院/地方官会議を設け、立憲政体への移行を宣言する。これは太政官制から三権分立への移行を意味した。3月木戸/板垣は参議に復帰したが、板垣は急進論を展開し、10月参議を辞する。

・76年1月元老院は開院する。9月元老院に憲法の起草が命じられ、10月柳原前光/福羽美静/中島信行/細川潤次郎により、8篇(皇帝、帝国、国民の権利義務、立法権、行政権、司法権、会計、国憲修正)からなる憲法草案が作成される。

○江華島事件と日朝修好条規
・1875年9月江華島で日本の軍艦雲揚と朝鮮の守備兵が交戦する(江華島事件)。76年2月「日朝修好条規」が結ばれる。これにより倭館(釜山)以外に元山/仁川が開港となる。この条約は、日本の領事裁判権/日本貨幣の使用が認められるなど、不平等条約であった。この後、日本と清は朝鮮を巡って対立を深める。

○樺太・千島交換条約とアイヌ
・近世は”蝦夷地”であったが、明治になると”北海道”に改称される。1869年11ヵ国に区画され、アイヌは日本人に同化され、日本の戸籍に登録される。

・1854年「日露和親条約」では、千島列島は択捉島より西が日本領、樺太は共有となっていた。その後樺太での両国人の紛争が絶えず、樺太問題は重要課題であった。
・開拓次官・黒田清隆は樺太経営の不利益を説いた。74年1月駐露公使となった榎本武揚は交渉を続け、75年5月日露は「樺太・千島交換条約」に調印する。これにより千島列島は日本領となり、樺太はロシア領となった。
・居住者は3ヵ年の猶予が許され、樺太には4千人が居住していたが、841人が北海道宗谷に移住した。その後対雁(江別市)に移住させられる。

○竹島問題の処理
・17世紀幕府は鬱陵島(当時の竹島)への渡航を許可したが、定住しなかった。17世紀末、鬱陵島で日本人と朝鮮人の漁民で紛争が起こるが、幕府は韓国領として渡航を禁止した。
・1876年2月朝鮮は不平等条約「日朝修好条規」を結び、「自主ノ邦」(清との宗属関係を否定)となった。77年3月内務省は調査を行い、太政官に「竹島外一島(鬱陵島、竹島)は日本領ではない」と報告する。鬱陵島の開発願いが提出されるが、外務省は朝鮮領として却下している。

<3つの抵抗-一揆、反乱、民権運動>
○地租改正反対一揆の激発
・1874年3月~81年6月にかけて地租改正が行われ、これに対し一揆・暴動などの反対運動が行われた。年貢を貨幣で納める「石代納」とするが、76年米価が急落し、農民の不満が爆発する。11月茨城県で減租・延納の運動が起こり、県下全域に広がる。警察により鎮圧され、農民1千人以上が処罰される。
・76年12月三重/愛知/堺でも一揆が起き、”官”が付くものは打ち毀され、2300戸が破壊された。士族/鎮台兵により鎮圧される。処罰者は5万人を超えた(伊勢暴動)。

・77年1月政府は地租率を3/100から、2.5/100に減租する。
※73年学制/徴兵制により西日本で一揆が続発したのに、76年は地租改正で一揆続発か。

○士族反乱の続発
・1871年8月散髪/帯刀は自由とされ、76年3月帯刀は禁止された。75年9月家禄/賞典禄は現金(金禄)での支給になる。76年8月華族/士族に対する家禄/賞典禄が廃止され、代わりに金禄公債証書を交付した(秩禄処分)。

・76年10月熊本で神風連が反乱を起こすが、鎮台兵に鎮圧される(神風連の乱)。同月福岡県秋月の旧藩士が反乱を起こすが、小倉鎮台兵に鎮圧される(秋月の乱)。同月前原一誠らが旧藩校明倫館で蜂起するが、広島鎮台兵に鎮圧される(萩の乱)。
・77年2月鹿児島士族1万3千人が鹿児島を発つ。西郷軍は4万人に増え、政府軍6万人と戦う。9月政府軍が勝利し、以降士族の反乱は絶える。

○自由民権の思想構造
・自由民権運動で民権論が展開された。”民権”という語は、津田真道が『泰西国法論』(1868年)で用いたのが最初である。彼は”国民の権利”を”私権”とし、”国政参加の権利”を”民権”とした。
・日本には”自由自在”の語があった。福沢諭吉は『西洋事情』(1866年)で”自由”を用いている。中村正直はジョン=スチュアート=ミルの『自由論』を『自由之理』(1871年)として翻訳刊行している。

・加藤弘之は『立憲政体略』(1868年)『真政大意』(1870年)で立憲政治/天賦人権論を紹介している。「生命の保持/幸福の追求は天賦自然なもので、権威・権力により侵害されない」とした。
・儒学には「君主は天下万民のため、仁政を行わなければならない」とする思想が元々あり、これに西洋の思想が加味された。

・1874年1月愛国公党は「租税を払う者は、政治参加の権利を持つ」とし、民撰議員の開設を建白した。
・74年4月に結成された立志社は「人民の権利の保全」(天賦人権論)を主張し、国会開設の論理となった。
・「明六社」は啓蒙思想と民権思想の分離を主張し、民撰議員の開設を時期尚早とした。
・大井憲太郎は議員の開設で「民権自由」は発揮されるとした。
・加藤弘之は『国体新論』で、”私事上ノ自由権”(天賦の自由権)と”公事上ノ自由権”(国政参加の権利)は別とした。
※様々な思想があったんだ。参政権を認めるかの議論だな。

○立憲の構想
・加藤弘之は『国体新論』で立憲政治の在り方を論じている。第2章で「君主・政府は人民のためにある」とした。第4章で「君主も最高の高官に過ぎない」とした。第5章で「君主・政府が人民を顧みない場合、人民は君主・政府に抗うの義務とする」とした。彼は民権論であったが、それを実現するのは政府側にあるとし、急進的な立憲化には反対であった。※重要な人物みたいだが、記憶にない。

・植木枝盛は、政体には共和/独裁/立憲/専制があるとした。また「国家は人民のための組織であり、憲法を定めても政府は何をするか分からない。人民は抵抗までに至らなくても、せめて”疑”の意識を持ち続ける必要がある。政府が人民を監視するのではなく、人民が政府を監視しなければいけない」とした。

-国会開設運動と情勢の転換-
<東アジア情勢の流動化-日清関係と琉球・朝鮮>
○国際環境と琉球処分
・1870年代、列強は中国周辺国への侵略を試みた。1875年5月政府は琉球に藩王の上京/日本軍の駐屯/日本の年号の使用を命じる。これに対し琉球人は、清/英国/米国/オランダなどに嘆願を行った。77年12月清公使・何如璋が琉球問題で来日した。78年9月彼は寺島宗則・外務卿に日本の琉球政策を抗議した。79年3月日本政府は琉球の廃藩置県を断行する。

・79年6月~9月米国大統領グラントが来日し、彼に琉球問題の仲介を委ねる。80年2月清に八重山・宮古を与え、代わりに「日清修好条規」に最恵国条項を加える仲介案が出される。12月批准書が交換されるが、清が態度を急変させ、交渉は決裂する。

○朝鮮を巡る国際関係
・1876年2月朝鮮は「日朝修好条規」を結ぶが、開国を拒んだ。そのため米国は清の李鴻章と「朝米通商条約」の交渉を始める。82年5月「朝米通商条約」が調印される。この時、朝鮮から米国に「朝鮮は清の属国であるが、内治・外交は自主」とする手紙が送られた。その後、英国/ドイツなども朝鮮と通商条約を結ぶ。

○戦争なくすには
・民権家となる植木枝盛(1857-92年)は16歳の時、国連のような万国による会所を作り、国家間の紛争を失くす構想をしている。

・1880年彼は『世界大野蛮論』を演説している。そこで「アフリカでの人食いなどは”小野蛮”で、文明国による戦闘/植民地支配は”大野蛮”である」とした。戦闘として、普仏戦争/アヘン戦争/ポーランド併合/露土戦争を挙げた。植民地支配として、英国によるインド/ビルマ支配、オランダによるジャワ支配、スペインによるフィリピン支配を挙げた。
・この”大野蛮”をなくすため、世界レベルの「万国共議政府」「宇内無上憲法」を提案している。これは主権国家を超える国際機構/国際規範の構想である。

・17世紀西洋は”自由/民権”と云う近代的な価値を生みだした。その一方で西洋は非西洋を支配し、”自由/民権”を抑圧した。英国は非西洋に”弱肉強食”を強いた。西洋に学ぶべきは、”自由/民権”なのか”弱肉強食”なのか。日本の”愛国構想”には”躓きの石”が孕まれていた。※なるほど。どっちも真似たんだ。

<大久保没後体制の構造>
○大久保暗殺と施政方針の修正
・木戸孝允/西郷隆盛/大久保利通は「維新3傑」と呼ばれた。1877年5月木戸は病死し、9月西郷は自決した。78年5月大久保は石川県士族6人に刺殺される。政府は参議兼大蔵卿・大隈重信/伊藤博文/山県有朋らが実権を握る。

・78年7月地方官会議/元老院を経て、地方3新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)が公布される。「郡区町村編制法」により、府県は郡(農村部)/区(都市部)に分けられ、さらに郡区は町村に分けられた。要するに、国民は3層の行政単位に帰属する事になった。府県の長(府知事、県令)は官僚であり、郡区の長は官選となった。
※地方の区は市の前身みたい。区も町村に分けたのかな。

・町村は相応の自治が認められ、戸長は公選となった。80年「区町村会法」により、区町村会も設置された。
・区町村の地方財政の構成/運用方法は、「地方税規則」により規定された。地方財政は「協議費」とされ、住民の協議に委ねられた。

・「府県会規則」により公選の府県会が設置され、府県の運営に住民が関与できるようになり、府県の財源(地方税)の運用に住民が関与できるようになった。ただし選挙権は納税者/男性に限られた。また府県会の審議事項/権限は、府知事/県令に大きく制約された。しかし府県会は中央権力と自由民権運動が激しくぶつかり合う場になる。
・84年戸長も官選となり、政府は統制を強める。※郡区長/戸長は官選で、府県会/区町村会は公選かな。

○天皇親政運動と教育政策
・1877年8月天皇の側近となる侍補が設置され、佐佐木高行/元田永孚ら10人が侍補に任命される。彼らは天皇親政運動を始める。彼らは天皇が内閣を親臨する際、および大臣・参議が天皇に報告する際、侍補を補座させる事を要求した。侍補と内閣(伊藤博文ら)の対立は深まり、79年10月侍補は廃止される。しかしその後も旧侍補は天皇親政運動を続ける。※侍補の存在は知らなかった。

・79年8月天皇は「教育に関する聖旨」(教学大旨)/「小学条目2件」を政府要人に内示する。総論である「教学大旨」には、「儒教の”仁義忠孝”を重んじる教育をせよ」と記された。各論である「小学条目2件」には、「儒教の徳目を浸透させる」「高尚な空論ではなく、生活に役立つ内容にする」と記された。これらは文明開化の「学制」を否定するものであったが、文部省の教育政策に徐々に反映される。

・79年9月「学制」は廃止され、「教育令」が公布される。町村が小学校設置の単位になり、各町村に学校の行政事務を担当する「学務委員」が住民公選で選ばれる事になる。

・しかし「教育令」は「教学大旨」と大きく異なっていたため、80年12月に改正される。「学務委員」は地方官(府知事、県令)が任命するとなり、教育課程は文部卿が定める「綱領」に基づいて地方官が編成するとなり、教員も地方官が任命するとなった。※地方官に権力集中だな。教育制度は勉強していないので無知だが、今の制度に近いのでは。
・「教育令」の改正により教育の国家統制が強まり、小学校で最も重要な科目は「終身」になり、次は「歴史」になった。これは”啓蒙重視”から”徳育重視”への転換であった。81年6月「小学校教員心得」が定められ、教員の任務は「尊王愛国」「安寧福祉」となった。※当初に右傾化し、そのままだったのか。

○西南戦争後の軍隊
・1878年8月近衛砲兵大隊が蜂起する。反乱軍は大隊長を殺害し、天皇への直訴を試みるが、鎮圧される(竹橋事件)。原因は西南戦争の行賞への不満とされる。
・この事件により、10月陸軍卿・山県有朋は、軍人・兵士を統制するための「軍人訓誡」を発布する。これは82年「軍人勅諭」に繋がる。

・78年12月陸軍省参謀局は廃止され、天皇直属で独立した参謀本部が設置される。軍事には軍政/軍令があるが、陸軍省が軍政、参謀本部が軍令を担当する事になった。※これも教育と同じで、当初からだな。
・初代参謀本部長となった山県は清の軍事情勢を調査し、80年11月『隣邦兵備略』を纏めた。東アジアは予断を許さない状況とし、軍備拡張を主張した。

・79年6月招魂社が靖国神社に改称される。内務省の管轄から、陸軍省/海軍省/内務省の管轄になる(ただし内務省の権限は人事のみ)。81年遊就館が竣工し、軍事面の教育・啓蒙を行った。
・徴兵制が存在したが、78年には徴兵免除率が96%に達した。79年免除者は28.7万人いたが、内27.6万人は戸主・嗣子であった。政府は免役の範囲を徐々に縮小した。

○地租改正反対運動の展開
・地租改正が本格化すると、地租改正反対運動は予定地価の押し付けへの反発が中心になる。大蔵省は歳入を減らさないのが第一目標で、反当収穫/等級を県・郡・村・一筆の順で押し付けた。※太閤検地とか、支配者は必ずやる。政府の収入はこれしかないのかな。

・77年6月愛知県は春日井郡に収穫/等級を押し付ける。78年2月反対運動は東京の地租改正事務局に嘆願する。しかし79年3月収穫/等級を修正される事なく、反対運動は終息する。
・78年越前坂井郡で収穫/等級の押し付けを拒否し、県権令を罷免させる。この運動は土佐の立志社と連携していた。地租改正反対運動が自由民権運動に発展したとする見解もある。
※76年は米価下落で一揆が起き、77年からは収穫/等級の押し付け対する反対運動か。

<国会開設運動の高揚>
○愛国社再興と豪農の運動参加
・1877年6月立志社は8ヵ条の建白書(専制政治の批判、国会の開設、立憲政体の樹立など)を提出する。これは自由民権運動が全国に広がる転機になる。

・78年9月大阪で愛国社再興大会が開かれる。この時は士族が中心であったが、79年11月第3回大会では自郷社(福井)/石陽社・三師社(福島)など豪農の参加も増える。この背景に、地租改正反対運動や府県会での活動があった。

○都市知識人の活動
・自由民権運動の結社は、1874~90年までに2千社が結成された。結社は政治/学術/学習/情報/産業/扶助/懇親などの活動を行った。結社は愛国社系政社/在地民権結社/都市民権結社の3つに分類できる。愛国社系政社と在地民権結社は合流していった(前述)。

・都市民権結社の担い手はジャーナリスト/代言人(弁護士)/教員/官吏であった。東京には84年までで、151社が存在した。
・「共存同衆」は”学術”結社の代表格であった。77年2月「共存衆館」を開館する。78年6月より、月2回の公開講談会を開いた。衆員39人で21人が官吏であった。※こちらは小野梓だったな。
・77年秋、沼間守一らは法律講習会を「嚶鳴社」に改組・改称する。社員は約100人で、河野敏鎌・島田三郎(官吏)/肥塚龍・末広重恭(新聞記者)/角田真平(代言人)らがいた(※知らない人ばかり)。社員の1/3が官吏であった。「嚶鳴社」は東京のみならず東日本で演説・討論会を開いた。新聞社を買収し、『東京横浜毎日新聞』を機関紙とした。

・79年5月政府は官吏の演説を禁止する。そのため「嚶鳴社」の討論会は非公開になる。
・81年4月「共存同衆」の馬場辰猪が中心になり、官吏でない人が討論する「国友会」が結成される。「国友会」は東京のみならず地方で遊説した。『国友雑誌』を機関誌とした。
※自由民権運動については知らないことが多い。

○国会期成同盟と政府の対応
・1880年3月愛国社が中心となり、「国会開設嘆願者有志大会」が開かれ、「国会期成同盟」が結成される。4月片岡健吉/河野広中が国会開設の嘆願書を提出するが、受理されなかった。※立憲政体への順番は、国会開設が最初で、立憲は後かな。

・民権運動側は元老院への建白書/天皇・太政官への嘆願書を提出していたが、80年12月管轄庁(?)を経由して元老院に提出する建白書だけが認められるようになった。
・80年4月16条からなる「集会条例」が制定される。そこには「政談集会は事前に警察に届け出る。ただし警察が許可しない場合がある」「警察は集会会場を監視し、中止にできる」などが記された。12月「地方長官(府知事、県令?)は結社を解散できる。特定の人物の演説を1年間禁止にできる」が追加された。

○運動組織強化の課題
・1880年11月「国会期成同盟」第2回大会が開かれる。「国会期成同盟合議書」が作成され、「全国戸数の過半数の同意を得る」「来年の大会に憲法草案を持ち寄る」「嘆願より、地方の実力を養成し、団結を図る」「投獄者の扶助」などが可決された。「自由党の結成」は否決された。

・12月「自由党」結成のための会議が開かる。東京横浜毎日新聞社が通信所になり、「嚶鳴社」の沼間守一が主任委員になった。こうして愛国社・国会期成同盟系と嚶鳴社などの都市民権派の連携により、「自由党」の結成が進められる。

○憲法起草運動と私擬憲法
・1880年11月「国会期成同盟」第2回大会により、各地で憲法起草運動が起こる。67~87年で94点の「私擬憲法」が作られた。内79~81年が55点(81年39点)と、81年に集中している。

・1968年深沢家の土蔵から『嚶鳴社案』(1879年)が発見される。これは河津祐之/末広重恭/金子堅太郎/島田三郎/田口卯吉らが起草した。そこには二院制/議院内閣制/制限選挙/人権保障などが記された。

・岩手県で発見された『憲法草稿評林』は、元老院の『国憲案』を書写し、2人の人物が評論を加えている。

・1968年深沢家の土蔵から『五日市憲法』(1881年)が発見された。当時五日市では学芸講談会が開かれており、70人以上が参加していた。深沢名生/権八父子はそれを支援した。権八はメモ『討論題集』を残しているが、それには「貴族は廃止すべきか」「女戸主に参政権を与えるか」「国会は二院が必要か」など63のテーマが記されている。
・『五日市憲法』は5篇(国帝、公法、立法権、行政権、司法権)204条からなる。特徴は国民の権利を詳しく規定している。また議院内閣制の国会に強い権限を与えている。

・1881年立志社も憲法草案を起草する。植木枝盛の『日本国国憲案』である。これは18編220条からなる。
・『日本国国憲案』の1つ目の特徴は、人権保障を徹底させている。思想/信仰/言論/集会/結社/学問/教育/営業などの自由・権利を30数条に列挙している。抵抗権/革命権も認めている。2つ目の特徴は、人民主権説から、できるだけ多くの人に参政権を与えている。3つ目の特徴は、地方自治を最大限実現しようとしている。
※当時は米独立戦争/仏大革命などの影響で、先進的/理想的かな。※この節だけで、1冊の本が書ける。

<明治14年の政変と政治の転換>
○明治14年の政変の歴史的位置
・「明治14年の政変」は教科書的には、『国会開設の勅諭』/北海道開拓使官有物の払下げ中止/大隈重信勢力の追放となる。研究では、政府内の対抗関係は?薩長閥、?大隈派、?中正派に分けられ、民権運動は?愛国社系政社、?在地民権結社、?都市民権派に分けられる。この政府内の対抗関係と民権運動の展開状況の関係性を問う必要がある。

・政変は1881年10月に起きた。これは「国会期成同盟」第3回大会が予定されていた時期である。また直前の1年は、民権運動が国会開設運動から憲法起草/政党結成準備に移行した時期である。政変の時期に「自由党」が結成され、大隈の下野で「立憲改進党」が結成され、その影響で「立憲帝政党」も結成された。
・さらにメディアの展開/女性史・ジェンダー史/民衆の状況・人心などの観点からも見る必要がある。
※随分複雑だな。まだ序盤だけど、ここが本書の中核かな。

○国家構想の対抗-伊藤路線と大隈路線
・少し時代を遡る。元老院は1876年から国憲編纂事業を進めていた。79年11月以降、山県有朋/黒田清隆/山田顕義/井上馨らの政府首脳が、「国会開設に関する意見書」を提出する。80年12月伊藤博文も井上毅に起草させ、「国会開設に関する意見書」を提出する。伊藤は国会の開設をやむなしとし、天皇の詔勅で「人心」の鎮定を図ろうとした。

・80年12月井上馨は福沢諭吉に政府系新聞の発行を打診している。81年1月福沢は大隈/伊藤/井上馨と話し合い、発行を受諾する。1月下旬、3人は新聞発行/国会開設について会合している(熱海会議)。※この頃までは意見は一致していた。

・81年3月大隈は「国会開設に関する意見書」を提出する。意見書は7項目からなった。第1項目-「人心」と「制法」の関係で、何れも一方が遅れるのは不都合とし、「人心」に先行して国議院(国会)を開設し、憲法制定委員を選定すべきとした。第2項目-議院内閣制(政党内閣制)を提案した。第3項目-政党官と永久官を区別すべきとした(※閣僚と官僚かな)。第4項目-天皇が制定すると云う憲法制定手続きを掲示する。第5項目-本年に憲法を制定し、来年に国会を開会する。第6項目-政党は”施政の主義”を明確にする。第7項目-政党政治とし、”施政の主義”の争いにする。
・この意見書は政党内閣制が基軸で、ポイントが3つある。?政党内閣制の提起、?プロセスの提案(憲法の制定・公布→政党の養成→議会の開設)、?政党の在り方(”施政の主義”を明確にし、他党と政策論争する)。これらの考えは翌年3月に結成される「立憲改進党」に反映されている。
※これが対立の始まりだな。後、伊藤は意見書を岩倉具視に提出しているが、大隈は有栖川宮熾仁親王に提出している。

・”伊藤の意見書”も”大隈の意見書”も「人心」を強く意識している。これは自由民権運動の展開が背景にある。ただし伊藤は詔勅で「人心」を鎮定しようとしたが、大隈は国家機構の改革、すなわち民意参入の制度化で「人心」を安定化しようとした。

○憲法起草運動と国家構想
・本来元老院が憲法草案を起草すべきで、第1次草案(1876年10月)/第2次草案(78年7月)/第3次草案(80年7月)を作成していた。3案とも君主権を議会が制約しており、議会が強力な機関になっていた。80年12月元老院は第3次草案を天皇に提出するが、岩倉具視/伊藤博文はこれを日本の現状に合わないとして採用しなかった。81年3月元老院の国憲取調局は閉鎖される。

・81年4月「交詢社」は『交詢雑誌』に『交詢社憲法案』を掲載する。「交詢社」は、79年福沢諭吉らが結成した社交クラブで、慶応義塾を卒業した官吏/新聞記者/実業家/教育者/農村地主など1600人の会員がいた。
・『交詢社憲法案』は7章(皇権、内閣、元老院、国会院、裁判、民権、憲法改正)からなった。内閣は英国型の議院内閣制(政党内閣制)で、元老院(上院)は特選議員と公選議員で構成され、国会院(下院)は公選議員であった。

・81年前半、各地に『交詢社憲法案』が送られ、憲法の研究・起草が本格化する。7月12日井上毅は伊藤博文に「内陳」を提出し、英国型民主制(議院内閣制)を危険とし、プロイセン型君主制を推薦した。井上は政府(プロイセン型)vs交詢社/国会期成同盟(英国型)の構図を強調し、福沢との決別を促した。
・『交詢社憲法案』は矢野文雄らが起草したもので、”大隈の意見書”も矢野文雄が起草したとされる。井上は英国型憲法によって権力が政党へ移行するのを警告し、”大隈の意見書”を危険視した。

○国家構想の対抗-英国型かプロイセン型か
・81年6月岩倉は井上毅に”大隈の意見書”を渡し、相談していた。井上は「一時の軽挙で、永遠の大事を誤ってはいけない」と忠告する。また井上は岩倉に、福沢諭吉『民情一新』を送っている。これは「英国型議院内閣制で人民の不平を吸収すべき」としていた。

・その後井上は『憲法意見』を岩倉に提出する。意見?で、英国型では行政の実権は政党にある。プロイセン型では国王が行政を握っているとした。意見?で、内閣は国会に左右されない事。そのためには「天皇が内閣の任命権を持つ」「国会が租税を拒否しても、内閣は執行できる」などとした。意見?では、意見?は急進政論家と反する内容だが、目先の新奇を採用すると大変な事になるとした。※薩長閥の専制を維持するため、政党を否定した。

・6月28日岩倉は伊藤博文を呼び、井上の『憲法意見』を渡す。7月2日井上は伊藤に「”無識の徒”に委ねたら取り返しが着かなくなる」「変乱の時機は熟した」と焚き付ける。7月5日岩倉は三条/有栖川宮両大臣に『憲法制定意見』(大綱領、綱領、意見)を提出する。

・政府内の対立を、国会開設の漸進論(伊藤ら)と急進論(大隈)の対立と見るのは正しくない。内閣と国会を連結させる大隈路線と、内閣と国会を切断する井上路線の対立である。
※中々面白かった。この辺り原文が頻出するので難解。

○開拓使官有物払下げ事件
・1881年7月30日、天皇は巡行に出発し、左大臣・有栖川宮熾仁/参議・大隈重信/参議兼開拓長官・黒田清隆/参議・大木喬任/内務卿・松方正義らが随行した。

・7月21日出発前、黒田は北海道開拓使の官有物払下げの許可を太政大臣に申請していた。これを『東京横浜毎日新聞』『郵便報知新聞』が批判を始める。8月1日払下げが許可される。これは開拓使が1400万円を投じた官有物をわずか38万円で、しかも薩摩出身の政商・五代友厚に払い下げるものであった。
・政府への批判は立憲制への要求と結び付いた。8月25日新富座で開かれた演説会には、男女3千人余りが参加した。

○局面転換-政変の帰趨
・1881年9月23日、井上毅は伊藤博文に手紙を書き、「開拓使問題は大事の前の小事である」としている。10月7日井上は岩倉具視に「内啓」(?)を書き、勅諭が必要な理由を記した。?天皇の意思と廟議画一を示す、?薩長の一致を示す、?人心の多数を政府に籠絡する、?「中立党」を順服させる、?政党を判然とさせる。
・さらに10月8日、井上は岩倉に書き送っている。「立志社等は国会期成会を開き、福沢は急進論を唱え、その党派は3千余りある。不測の事態であり、還幸後早々に聖旨を公示すべきで、さもなければ彼らに先鞭を付けられ、”百年の大事”を誤る」とした。彼は?立志社/国会期成会の東京での動向、?福沢の党派の全国的な動向、?各地の”結合奮起之勢”の連動を警戒した。

・この時期、薩長参議(伊藤、井上)も大隈も批判する勢力「中正派」があった。彼らは?天皇親政運動を行った宮廷派、?谷干城ら陸軍武官(4人)、?佐佐木高行ら元老院関係者、?高知・熊本出身者、?結社に参加する少壮層からなった。彼らは政府の輔翼/急激論者の抑制を目的とした。※彼らは今後活躍するのかな。取り敢えず記述しておこう。

・10月11日天皇は還幸する。当日夜、御前会議が開かれる。翌日『国会開設の勅諭』が出され、「開拓使官有物の払下げ」は中止され、大隈重信は政府から追放された。矢野文雄/小野梓らも官職を辞する。国会の組織・権限は天皇が定めるとし、これを不満とする者は処罰するとなった。

○自由党の結成
・1881年10月1日「国会期成同盟」第3回大会のため各地から参加者が東京に集まった。「自由党準備会」「国会期成同盟」を統合し、「大日本自由政党結成会」とする事が決まる。組織原案には”国憲制定”が掲げられた。このような中で11日、政変が行われた。

・11日以降も自由党結成の協議は進められ、”国憲制定/国会開設”は含められた。14日『国会開設の勅諭』が新聞に掲載された。18日自由党の盟約原案・組織案の審議が始まり、そこには”国憲制定/国会開設”は記された。しかし最終的には削除され、「善美なる立憲政体を確立する」と、一般的・抽象的な記述になった。
・29日総理・板垣退助/副総理・中島信行/常議員・後藤象二郎らが選出される(※全員土佐)。ここに綱領・規約を持つ日本最初の全国的政党「自由党」が誕生する。組織の中核は立志社系(土佐派)と国友会(馬場辰猪、末広重恭、大石正巳)で、その後嚶鳴社や九州の活動家は脱落する。

○政党結成の流れ
・同じ頃、近畿でも民権勢力が結集し、政党を結成する動きがあった。1881年9月『大阪日報』が主催する演説会に板垣退助が招かれ、これを機に「近畿自由党」が結成され、10月末「立憲政党」に改称する。総理に自由党副総理・中島信行を迎え、古沢滋/小室信介/小島忠里らがメンバーになった。

・大隈重信のブレイン小野梓も、高田早苗/小川為次郎らと結党を進める。81年9月25日「吾党樹立之目的」を決定している。この延長が翌年3月「立憲改進党」の結党になる。

・81年9月1日熊本県下の反民権勢力が「紫溟会」を結党する。彼らは共和主義を排し、立憲尊王を主義とした。
・81年10月谷干城(陸軍中将)/佐佐木高行(元老院副議長)/中村弘毅(元老院議官)/土方久元(内務大輔)/南亮輔(前高知県高岡郡長)らにより「高陽会」が結成される。彼らは「不羈独立ノ国体」「万世不抜ノ皇基」を掲げた。
・これらは10月8日井上毅が岩倉具視に送った書簡の、「”勤王ノ使士”(中立党)を獲得する」に繋がる。またこれらの政党は翌年3月結党される「立憲帝政党」の基盤になる。

○自由民権の思想
・仏国に留学した中江兆民は、ルソーの『社会契約論』を『民約論』として訳し、民権論に影響を与えた。
・植木枝盛は啓蒙思想を学び、『民権自由論』(1879年)を刊行する。彼の憲法案には高い民主主義思想が認められる。『自由新聞』では生の道に合うものを”善”、違うものを”悪”とした。人間が世にあるのは、生を計り、福を求める事とし、それには行為/言論/保身の自由の保障が必要とした。

・松島剛はハーバート=スペンサーの著作を翻訳し、『社会平権論』(81年)を刊行する。弱肉強食を肯定する社会進化論は民権論を変質させた。
・82年加藤弘之は自著『真政大意』『国体新論』を絶版にし、『人権新説』を刊行する。彼は社会進化論(優勝劣敗、自然規律)から、天賦人権を妄想とした。これにより天賦人権論争が起き、加藤『人権新説駁論集』/矢野文雄『人権新説駁論』(以上82年)/植木枝盛『天賦人権弁』/馬場辰猪『天賦人権論』(以上83年)が刊行される。

・明治国家の体制確立と共に民権論は衰退し、日本帝国憲法では基本的人権は自然権として認められず、”臣民ノ権利”に留まった。

・植木の憲法案は女性の参政権を認め、やがて廃娼論/男女同権論も提唱する。78年未亡人・楠瀬喜多は女戸主の参政権を主張している。81年西巻開耶は男女同権論を演説している。

-運動再編と内外情勢の変動-
<薩長藩閥政権と政党の運動>
○藩閥政権の構造
・1881年9月14日伊藤博文は参議を廃止し、卿をもって内閣を組織する事、および内閣の顧問となる「参事院」を設置する事を示す。※参事院ってあった?

・10月21日(明治14年の政変後)伊藤は太政官制を改正し、「参事院」に法令の起草・審査や、行政官と司法官の権限争いを審理する権限を与え、「参事院」は太政官の中枢になった。参事院議長に伊藤、参事院議官に井上毅が就いた。
・太政大臣・三条実美/左大臣・有栖川宮熾仁/右大臣・岩倉具視(83年7月病死)は、内閣制度発足(85年12月)まで在任する。
・参議では、大隈重信は追放された。寺島宗則(薩摩)は参議を辞め、元老院議長になる。伊藤博文/山県有朋/井上馨/山田顕義(以上長州)/黒田清隆/西郷従道/川村純義(以上薩摩)/大木喬任(肥前)は参議を留任した。新たに松方正義/大山巌(以上薩摩)/佐佐木高行/福岡孝弟(以上土佐)が参議になる。翌年1月黒田が内閣顧問になり、長州4/薩摩4/土佐2/肥前1となった。※卿については省略。

・82年3月伊藤は憲法調査のため、伊東巳代治/平田東助/西園寺公望を随え訪欧する。

○政党の結成とその構造
・自由党は東京に中央本部を置き、各地に30以上の地方部を置いた。自由党は党勢拡大を目的とし、82年6月機関紙『自由新聞』を創刊する。
・立憲政党は「大阪日報」を買収し、82年2月機関紙『日本立憲政党新聞』を創刊する。近畿/北陸/中国で遊説し、10月党員は641人になる。

・82年4月立憲改進党が正式に発足する。総理・大隈重信/副総理・河野敏鎌/掌事(幹事)・小野梓・春木義彰・牟田口元学となる。大隈と共に下野した官僚/新聞記者/代言人/教師などが参加する。「王室ノ尊栄」「人民ノ幸福」が目的で、漸進的な改良主義を取った。
・立憲改進党には4つのグループが存在した。?慶応義塾系の東洋議政会で、矢野文雄/尾崎行雄/犬養毅らが属した。『郵便報知新聞』を機関紙とした。?関東・東北が地盤の嚶鳴社で、沼間守一/島田三郎/肥塚龍らが属した。『東京横浜毎日新聞』を機関紙とした。?小野を中心とする東京大学出身者からなる鷗渡会で、山田一郎/市島謙吉らが属した。東京専門学校(早稲田大学)を運営した。?訴訟鑑定所の修進社で、旧官僚の河野/牟田口/春木が属した。
・資本家が中心の東洋議政会『郵便報知新聞』と豪農が中心の嚶鳴社『東京横浜毎日新聞』で、意見の違いがみられた。※大隈の党に慶應義塾系が居るのは、少し変な気がする。
・82年末、立憲改進党の党員数は1181人になった。府県会で議員を組織し、地租軽減/群区長公選などを求めた。

・自由党は農民層と非特権的商工業者を基盤とし、一方立憲改進党は都市の商工業者と地方の名望家/資産家を基盤とした。※何か自由党/立憲改進党の関係は、米国の共和党/民主党の関係に似ているな。

・82年3月政府の意向を受け、福地源一郎(『東京日日新報』社長)/丸山作楽(『明治日報』創刊者)/水野寅次郎(『東洋新報』社長)が立憲帝政会を結成する。党議綱領は政府の承認を得て確定した。欽定憲法/天皇主権/二院制/制限選挙などを主張した。天皇主権から議会主権の民権派と激しい論争を行った。
・立憲帝政会は「3人政党」と呼ばれ、弱体であったが、士族/神官/官吏などの保守勢力が基盤となった。地方政党に紫溟会(熊本)/高陽立憲政党(高知)/鴻城立憲政党(山口)などがある。
※「明治6年の政変」で下野した板垣らが自由党を作り、「明治14年の政変」で下野した大隈らが立憲改進党を作った感じだな。

○運動組織と課題の転換
・1881年10月自由党が結成される。それまで結社が自由民権運動を行っていたが、以降運動の中心は政党に移る。※結社/政社/政党の違いが不明。

・10月『国会開設の勅諭』により、国会開設は運動の中心課題でなくなり、中心課題は国会開設の準備に変わった。これまで請願/署名などの”要求実現型”の運動を行っていたが、演説会などで組織を拡大する”実力養成型”の運動に変わった。
・ただし83年暮れは、松方デフレにより地租問題への取り組みもあった。また84年10月自由党解党時、『国会開設期限短縮建白書』を提出し、言論・出版・集会・結社の自由を求めた。

○政治的対抗の構図-抑圧・規制
・1882年後半、政府は自由党/立憲改進党に対し次々と抑圧・規制措置を取る。6月集会条例を改定する。政党は党則/本部/名簿を警察に届け出て、許可が必要になる。支社の設置は禁止になり、他社との連絡(?)も禁止になった(※支社/他社?結社・政社と考え、社を使っているのかな)。内務卿には1年以内の演説禁止権が与えられた。要するに集会条例は政党条例に拡大され、政党は警察の管理下に置かれた。
・自由党は地方組織から構成されていたが、これらは解散し東京の自由党に加入するか、地方に独立した政党を作るしかなかった。

・12月政府は府県会規則を改定し、会期を30日間に制限し、県令の権限を強め、府県会議員の連合集会/往復通信を禁止した。
・12月岩倉具視は府県会中止意見書を提出している。これには「演説/新聞での政府批判は仏大革命を思わせる。府県会を中止し、陸海軍/警察をもって、民心を戦慄させるべきだ」と記している。
・83年4月新聞紙条例を改定し、外務卿/陸海軍卿の記事掲載禁止権を新設し、言論弾圧を格段に強めた。
※全くの政治弾圧だな。明治初期はこんな感じか。

○板垣洋行問題
・政府は自由党の切り崩しのため総理・板垣退助を洋行させる計画を立てる。三井から2万円を拠出させ、後藤象二郎に提供した。馬場辰猪/末広重恭/大石正己は洋行に反対し、常議員から罷免される。板垣一行は、82年11月欧州に出発し、83年6月帰国する。
・立憲改進党系の『東京横浜毎日新聞』『郵便報知新聞』は、元官僚・今村和郎(※スパイ?)の随行や外遊費の出所に疑惑を向け、洋行を批判した。これに対し自由党は、立憲改進党と三菱の癒着から、『自由新聞』で「偽党撲滅」攻撃を始める。

○福島・喜多方事件
・1882年2月薩摩閥の三島通庸は福島県令に就く。会津を起点とする三方道路に着工する。15歳以上の男女は毎月1日の工事参加を強制した。三島は自由党員・河野広中が議長の県会に出席しなかった。※1880年広島でも新街道が竣工している。
・河野らは演説活動などの「道路工事反対運動」を始める。8月訴訟運動を起こし、賛同者は7千人に達した。県は命令に従わない場合、土地を公売処分にするとし、抗議した数名を逮捕する。11月28日農民はこれに激高し、喜多方警察署を包囲する。警官は抜刀し、農民に負傷者が出る。検挙者は2千人に及び、河野ら58人は裁判に付す。

・この事件で福島県の民権運動は打撃を受ける。その後の民権運動はテロリズムに向かう。

○立憲と主権論争
・各党はそれぞれの「立憲」を標榜した。近畿の立憲政党、立憲改進党/立憲帝政党、何れも「立憲」を冠している。しかし「立憲」には、単に憲法が存在する形式的な立憲主義もあれば、国民の政治参加/人権保障などを定めた実質的な立憲主義もある。君主主権により基本的人権が否定される場合もある。
・立憲改進党は「趣意書」で「王室の尊栄と人民の幸福」を掲げ、英国型の君民共治の立憲君主制を構想していた。一方立憲帝政党は君主主義の憲法を構想していた。

・1882年1月~3月、立憲帝政党の機関紙『東京日日新聞』(以下日日)と立憲改進党の機関紙『東京横浜毎日新聞』(以下毎日)が国家主権の論争を始める。
・『日日』は「主権」を「不羈独立ノ国権」とし、「外には一国の独立を表し、国家の尊栄を保つ大権で、内には立法・行政・司法の軸となる大権」とした。その大権を誰が掌握するかは国で異なり、帝王にあるのが「君主国」で、国民にあるのが「民主国」とした。
・これに対し『毎日』は、「主権」は「法律制定ノ権」とした。英国の「主権」は「君主、人民ノ間」にあり、「君民共治」の政体もあるとした。
・これに対し『日日』は、欧州の「先天ノ心性」は民主主義にあるが、日本の「先天ノ心性」は君主主義とした。また「法律制定ノ権」は3大権の1つで、ロシア/清は「無限帝政」で英国は「有限帝政」とし、共に帝政国とした。※よく分からない。この辺で止めておこう。

・伊藤博文は、英仏独は「議政体」であるが、その精神は異なるとした。英国は国会で多数を占めた党派が政治を行う(※政党内閣制かな)、仏国政府は「国会衆議ノ臣僕」(※国会が優越なのかな)、ドイツ政府は衆議を採用するが、政府には「独立行為ノ権」があるとした。また君主は立法・行政の大権をつかさどるが、立憲君主では立法組織/行政組織があり、一定の紀律に従って運用されるとした。伊藤は英国の議会主義を否定し、ドイツの君主主義を評価した。

<東アジア情勢の緊迫化と松方デフレ>
○壬午軍乱
・朝鮮の閔氏政権は開化政策を進める。開化政策に反対する勢力は弾圧された。1882年7月23日、旧軍が反乱を起こし、閔氏一族を襲撃し、王宮を制圧し、国王の父・大院君が政権に復帰する(壬午軍乱)。
・日本公使館も襲撃され、公使は日本に逃げ帰る。日本は軍艦4隻/陸軍1個大隊を出動させ、賠償金/犯人の処罰を要求する。

・清は朝鮮に3千人を出兵し、馬建忠が日本と朝鮮の調停を図る。大院君は天津に連行され、閔氏勢力が復活する。8月30日、日朝間で「済物浦条約」「日朝修好条規続約」が調印される。犯人の処罰/賠償金、さらに日本軍の駐在が認められる。
・この反乱を切っ掛けに、清は袁世凱の軍3千人を漢城(ソウル)に駐留させ、馬建常を朝鮮政府の外交顧問とした。清は宗属関係から朝鮮政治への直接介入が始まった。これにより日本との対立が深まる。

○軍事体制の強化
・「壬午軍乱」直後に2つの重要な法律が定められた。1882年8月5日「厳戒令」が布告される。参事院の審査後、元老院が修正可決した。「厳戒令」は戦時/事変に際し、全国もしくは一地域の行政権/司法権の一部または全部が軍司令部に移される法律である。

・もう一つは8月12日「徴発令」が布告される。「徴発令」は参事院の審査は終了したが、元老院が夏季休暇だったため、そのまま布告された(元老院は事後承認)。「徴発令」は、戦時/事変の際、軍を動かすための軍需物質(食糧、燃料、馬)/運送手段(船、鉄道)、人員を地方から徴発する法律である。

・参議兼参事院議長・山県有朋は、対清戦争への準備から陸海軍の拡張を主張する。海軍卿・川村純義も同様の主張をした。12月30日これに対し陸軍は年額150万円、海軍は年額300万円の軍事拡張費が増額される。

○松方デフレ期の社会-増税と軍拡
・「明治14年の政変」後に大蔵卿になった松方正義は、紙幣整理政策と増税政策を進める。
・1882年12月政府は酒造税の免許税(営業税)は据え置くが、造石税を2倍にする。同月「煙草税則」を修正し、タバコ製造人の届け出を義務付け、タバコ印紙売捌人も届け出を義務付けた。83年仲買人税を新設し、85年菓子税/醤油製造税を新設した。政府は「壬午軍乱」(1882年)後の軍事拡張を増税で対応した。84年3月「地租条例」を定め、地租徴収体制も固めた。
・紙幣整理政策によりデフレになり、農産物の価格は下落した。さらに増税により農村の状況は深刻になり、土地を公売処分されたり、高利貸から借金する農民が増える。

<松方デフレと自由民権運動>
○群馬事件、加波山事件
・「松方デフレ」の影響を最も受けたのは東日本の蚕糸農家です。彼らは高利貸に多額の負債を負います。
・群馬県では負債農民の騒擾事件が頻発します。自由党員は演説会を開き、農民に接近しました。1884年5月金貸会社頭取を襲撃します(群馬事件)。
・「福島・喜多方事件」以降、関東の自由党員は急進的になります。当事件で逮捕された河野広躰/三浦文治らは福島県令・三島通庸の暗殺を計画し、鯉沼九八郎は爆弾の製造を始めます。河野らは質屋に押し入り逮捕され、鯉沼も爆発で重傷になります。84年9月追い詰められた16人は加波山で挙兵しますが、全員逮捕されます。

○自由党と地租問題
・農民の困窮が深刻になり、1883年暮れ頃より、政党は地租問題に取り組みます。83年11月自由党は高知県での「減租の請願」を記事にし、以降各地での「減租請願運動」を記事にします。11月植木枝盛は小原鉄臣/片岡健吉と農民の指示を得て、減租建白しようとします。自由党の「減租請願運動」は千葉県/福井県など各地に拡がる。
・84年3月政府は「減租請願運動」の根拠を奪うため、地租条例を公布します(第6章「減租の公約」/第8章「5年毎の地租改正」を削除)。板垣は「減租は地方の有志が尽力すべき」とし、自由党の「減租請願運動」は減速する。※政府は常に先手を打ってくる。

○立憲改進党と地租問題
・1883年11月立憲改進党も地租問題を「明治18年(=85年)ノ地租改正」として、『郵便報知新聞』で連載を始める。12月これを纏めて『地租改正私擬』として刊行する。これは大分/東京/大阪/新潟などで売られる。
・自由党は地租条例の公布により地租問題から離れるが、立憲改進党は「農家の困難は、商工社会の困難であり、巨害である」とし、地租問題への取り組みを継続する。

・84年11月立憲改進党の党員集会で『郵便報知新聞』『東京横浜毎日新聞』の新聞記者や代言人が地租軽減建白書の提出を主張し、それが決定する。
・当時、立憲改進党は解党問題も紛糾しており、12月17日大隈重信/河野敏鎌らは脱党する。12月19日建白書が元老院に提出される。

○政党の解党現象
・1882年6月集会条例改定により政府の圧力は強まり、83年3月立憲政党は解党する。9月立憲帝政党も解党する。
・84年10月政府弾圧による党員の離脱で、自由党も解党する。他に「資金計画の失敗」「蜂起派・決死派による板垣退助ら平和革命路線の崩壊」「解党しても”精神的結合”は存続する」などが要因とされている。
・84年12月立憲改進党から大隈重信/河野敏鎌らが脱党し、以降東洋議政系(※慶応義塾)と嚶鳴社系(※法律講習会)が中心になる。85年2月組織を変更するが、この時党員は1860人であった。※党員は減っていない気がする。

・当時自由党では「政党は精神的結合であり、結社と異なる」との理論があり、党大会などで「有形の政党」から「無形の精神的結合」にする事が提案されていた。その結果84年10月解党を決定する。
・また自由党には解党を志向する土佐派と、大井憲太郎を中心とする急進派の対立があった(※平和革命路線vs蜂起派・決死派?)。また「解党は精神的結合を強化する」との認識もあった。
・83年6月板垣が洋行から帰国し、板垣を中心とする土佐派が解党を進めたと推測される。しかし解党して一大運動を起こし「勝ヲ一挙ニ」とする「腕力破壊主義ノ三百名」もいた。※まあ政府による弾圧で環境悪化し、意見対立が生じ、内部分裂かな。

○秩父事件と困民党
・1884年11月自由党解党の3日後、秩父事件が起こる。秩父は養蚕が盛んであった。82年デフレ政策により生糸の価格が大暴落し、借金をしていた農民は返せなくなった。秩父の自由党員は82年8人から83年20人に増え、政治の変革を求めるようになる。彼らは「困民党」を結成し、当局/高利貸と交渉した。※支社は許されないのでは?
・84年10月田代栄助/高岸善吉らは高利貸と交渉するが、旨く行かなかった。11月彼らが蜂起すると農民軍1万人に拡大し、警察/郡役所/高利貸を襲撃し、秩父郡一帯を支配する。しかし3日間後には警察/軍隊により弾圧される。裁判により12人が死刑、3600人が処罰される。

・これ以降、旧自由党員により飯田事件/名古屋事件/静岡事件などが計画されるが、何れも弾圧される。

<日清関係と自由民権運動>
○甲申政変と民権運動
・1884年6月仏国がベトナムの保護国化を進めたため、「清仏戦争」が始まる(※こんな戦争あったかな)。85年4月「天津条約」で仏国の保護権が認められる。86年英国はビルマをインドに併合する。『自由新聞』は西洋列強への危機感から、官民の対立を批判する。
・84年12月4日「清仏戦争」により清軍が半減した朝鮮で、金玉均/朴泳孝らの急進開化派がクーデターを起こす。日本軍もこれに加担する。しかし6日には清軍により鎮圧され、日本人居留民29人が殺され、日本公使館は全焼する(甲申政変)。

・「甲申政変」に対し日本では清・朝鮮に対する強硬論が起こる。福沢諭吉は『時事新報』で開戦論を主張した。立憲改進党系の『郵便報知新聞』も対決論を主張した。尾崎行雄/犬養毅/藤田茂吉らも、「朝鮮の内政に干渉し、併合すべき」と伊藤博文に要請した。既に解党していたが、自由党系の『自由新聞』も「武力で漢城を占領する事で、西洋との条約改正も実現できる」とした。
・上野公園では生徒が「清国膺懲」を掲げた。各地で義勇兵や軍資金の申し出があった。クーデターを支援した福沢は『脱亜論』を書き、「清を”悪友”とし、西洋と共に行動すべし」とした。

・これらの強硬論の背景に報道規制があった。当時新聞は内務省の統制下にあったが、「甲申政変」に関しては外務省の事前検閲が入った。外務省は日本軍/朝鮮公使を誹謗する報道を禁止し、外務省自らが作成した原稿を付下した。真実は隠され、統制された情報の下で、世論は作られた。※このパターンが、その後も続くのかな。

○天津条約と東アジア秩序
・1885年1月朝鮮に派遣された外務卿・井上馨は、「漢城条約」を締結し、被害者に対する賠償金を獲得する。
・4月伊藤博文は天津に派遣され、「天津条約」を締結する。日清両国は朝鮮から撤兵する事になり、次に派兵する時は事前通告する事になった。これにより朝鮮での日清対立は表面上は鎮静化する。

・ところが朝鮮政府の外国人顧問メレンドルフにより、朝鮮問題にロシアが加わる。さらに4月英国が巨文島(※朝鮮半島と済州島の間にある)を武力占領し、英国も加わる。※こんな状況になったのか。
・86年6月朝鮮国王が「第三国と紛争になった場合、ロシアに保護を求める」を秘密裏に要請していた事が発覚し、国際問題になる。列強による朝鮮分割の恐れが高まってきた。

-憲法制定・議会開設への道程-
<条約改正問題の焦点化>
○条約改正問題と欧洲的新帝国
・政府は不平等条約の改正に取り組む。1884年8月関税引き上げと治外法権の一部回復(※撤廃?)を基本とする改正案を各国に通告する。
・86年5月交渉を開始するが、英国が反対する。87年4月?国内を外国人に開放する、?居留地以外の居住を認める、?法律/裁判を欧州式にする、?判事/検事に外国人を任用する、?裁判の決定権を外国人判事に与えるなど、政府は改正案を修正する。※相当な妥協だな。

・日本は西洋化を推進したが、特に井上馨が外交を担当した時期は顕著であった。83年鹿鳴館を開館し、舞踏会/夜会を開いた。※延遼館もある。
・87年7月井上は条約改正問題に関する長文の意見書を内閣に提出する。冒頭に、「仏国はベトナムを保護国とし、シャム(タイ)もそうなるであろう。英国はビルマ/巨文島を占領し、エジプト/スエズ運河も手に入れた。ロシアはこれに刺激され、シベリアを開拓し、ウラジオストクまで鉄道を引き、軍需物資の輸送が可能になる」とした。また「これに対抗するには、日本を”欧洲的新帝国”にするしかない。そのためには外国人との接触を自由にし、裁判所で外国人を任用し、その間に”泰西主義”(※西洋主義かな)の法律を整備する」とした。

○大同団結運動と三大事件建白運動
・1884年10月自由党解党、12月立憲改進党からの指導部離党などにより自由民権運動は衰退していた。しかし91年国会開設を前に運動が再開される。86年10月旧自由党・星亨らが発起人となり、全国有志大懇親会が開かれ、彼は自由党と立憲改進党の大同団結を主張する。その後も党派を超えた有志大懇親会が開かれる。

・87年条約改正案が政府外に漏れ、秘密出版される。条約改正への反対が各地から起きた。7月井上馨は各国に条約改正の無期延期を通告する。
・10月後藤象二郎は旧自由党/立憲改進党/国権派(?)などで「丁亥倶楽部」(?)を設立し、大同団結運動を始める。高知県の代表が?地租軽減、?言論集会の自由、?外交の回復を要求する建白書(三大事件建白書)を元老院に提出する(※何で事件なのか)。これにより三大事件建白運動と大同団結運動が重なり発展する。ただし立憲改進党員の大半は消極的であった。

・12月これらの運動に対し政府は「保安条例」を発布する。「保安条例」は7条からなり、第1条-秘密結社の禁止/第2条-屋外集会に対する禁止権/第3条-内乱・治安妨害に対する出版器械の没収/第4条-内乱・陰謀の恐れがある者の追放などからなった。「保安条例」の施行により、星亨/中島信行/尾崎行雄/中江兆民ら451人が追放される。

・88年2月外務大臣は井上から、立憲改進党の実質的党首である大隈重信に代わる。※これもよくあるパターン。※85年12月内閣制になり卿から大臣になる。
・後藤は大同団結を唱え、各地を遊説するが、89年3月通信大臣に就く。そのため5月、大同団結運動は大同倶楽部と大同協和会に分裂し、大同団結運動は終焉する。※ホント政府は効果的な手を打つ。

・外相大隈は個別に外交交渉を行い、米国/ドイツ/ロシアと条約改正する。しかしその内容は変わらなかったため、反対運動が起きる。大隈は爆弾で重傷を負い、新条約の実施は見送られる。

○日本はどのような道を取るべきか
・1887年5月中江兆民は『三酔経倫問答』を出版する。これには洋学紳士君/東洋豪傑君/南海先生が登場する。紳士君は「日本を自由・平等・民主主義の国にし、軍隊をなくし、敵がきても非武装で抵抗すべき」と言う。豪傑君は「軍を強化し、経済力をつけ、アジアの大国の半分をとって、大国になるべきだ」と言う。紳士君は「欧州は自由・平等・博愛を知りながら、人民に殺し合いをさせている。日本は軍を廃止し、道徳を極め、文明とうぬぼれる西洋に”自分達が野蛮”だと気付かせよう」と言う。そこで先生は「私達は兄弟国になって援け合おう。軽々しく武器をもって、人民を弾丸の的にするのは下策だ」と言う。その後日本は豪傑君の路線をたどる事になる。
※当時中江がそこまで見えていたとは、驚きだ。

○法典の編纂
・岩倉使節団の「事由書」には、「日本の平等が侵害されているのは、国内の法体制が未整備のため」とした。法律の基本は憲法/刑法/民法/刑事訴訟法/民事訴訟法であるが、欧州の主権国家でも、それは一律でなかった。

・刑法は、1875年9月「刑法草案取調掛」が設置され、ボアソナードの指導で仏国に倣った刑法草案が起草され、80年7月公布される。「罪刑法定主義」から、重罪/軽罪/違警罪(軽犯罪)に分けられ、「身体財産ニ対スル罪」(殺人、障害、窃盗など)/「皇室ニ対スル罪」(大逆罪、不敬罪)/「国事ニ対スル罪」(内乱罪、外患罪など)/「静謐ヲ害スル罪」(兇徒聚衆罪など)が犯罪とされた。82年1月施行され、群馬事件/秩父事件では兇徒聚衆罪が適用されている。
・刑事訴訟法は、仏国に倣った「治罪法」が刑法と同時に公布・施行される。90年11月大日本帝国憲法/裁判所構成法の制定により、改正され刑事訴訟法となる。

・民法は、71年最初の仏国に倣った民法草案が作られる。78年「司法省民法課」で民法草案が完了するが、仏国色が強いとして廃案になる。80年「元老院民法編纂局」で、ボアソナードが財産法、日本人が身分法(※身分って華族/士族/平民の事?)の起草を進める。その後「司法省法律取調委員会」に移管され、90年4月財産法、90年10月家族法編が公布され、93年1月施行となる(※延期・未施行)。
※元老院は”維新の志士”のイメージがあるが、立法能力があるの?少し勉強した方が良さそうだ。
・民事訴訟法は、73年仏国に倣った起草が開始され、その後ドイツに変更される。90年4月公布され、91年1月施行される。※民法より先に民事訴訟法が施行?

・商法は、74年会社法として着手され、草案が作成されるが、商法として編纂すべきとして廃案になる。81年ロエスレルによりドイツに倣った商法の起草が進められ、90年4月公布され、91年1月施行される。※延期・未施行となる。

・公布前の89年5月、帝国大学から「仏国に倣った民法と、ドイツに倣った民事訴訟法/商法では不統一」との意見書が提出され、論争が起こる。90年12月第1回帝国議会で商法施行の延期が可決され、民法(旧民法)/商法(旧商法)は日の目を見る事はなかった。※そうなんだ。

<憲法準備体制と運動の様相>
○皇室の藩屏と財産
・1883年8月洋行から帰国した伊藤博文は、憲法体制の構築に着手する。84年7月華族を皇室の藩屏とする「華族令」を制定する。華族には旧大名/公家/維新の功労者が列せられた。爵位は公/侯/伯/子/男に分けられた。

・85年5月大蔵卿・松方正義の建議により、国家財産から皇室財産を分ける作業が行われた。日本銀行/横浜正金銀行の株式は皇室財産に設定された(※ロスチャイルドも日銀の大株主のはず)。12月宮内省に御領局が設置され、88年皇宮地10ヵ所(103万坪)/附属地61ヵ所(6700万坪)の厖大な皇室領が設定された。生野鉱山/佐渡鉱山は大蔵省から無償で御領地に譲渡された。岐阜/長野//山梨/愛知/北海道の山林350万町歩も御領林になった。これにより天皇は日本最大の財産所有者になった。※天皇に相続税はないんだろうな。

・伊藤は制度取調局で「皇室典範」を作成させ、枢密院(※88年新設)で審議させる。89年2月大日本帝国憲法の発布と共に制定される。

○行政執行組織-内閣と官僚
・1885年12月太政官制を廃止し、内閣制度を創設する。内閣総理大臣に伊藤博文が就き、その下に外務/内務/大蔵/陸軍/海軍/司法/文部/農商務/通信の大臣で構成された。内閣は天皇の直属で、各大臣が責任を負った。宮内大臣は閣外に置かれた。内閣総理大臣に強い統率権が与えられたが、89年12月大日本帝国憲法の制定後、内閣総理大臣の統率権は弱められた。

・政府は「天皇の官吏」としての官僚制度も整備する。86年3月「高等官等俸給令」「判任官等俸給令」を定める。高等官は勅任官と奏任官に分かれた。87年7月「文官試験試補及見習規則」を定め、奏任官/判任官を試験任用とした。受験資格は20歳以上の男子に限られた。
・このように政府は憲法より先に、土台となる制度を定めた。

○地方統治の基礎-自治制
・内務卿・山県有朋により地方制度/警察制度の改革も進められる。山県は地方の自治を認めるが、中央による統制も残そうとした。88年4月市制・町村制が公布され、90年5月府県制・郡制も公布される。

・市町村は「自治制」の基底になり、条例・規則を制定でき、市町村会が設置され、市町村長/市町村議員は公選となった。ただし内務大臣/監督官庁は市町村に対し、様々な監督権/認可権/許可権/解散権を持った。
・町村会の選挙権/非選挙権は直接国税を年2円以上納める者とされ、政治参加は限定され、有産者中心の政治秩序が構築された。
・88年6月市制・町村制の施行前、大規模な町村合併が行われ、7万1千あった町村は1万6千の1/4以下に減少する。

・市制・町村制は「自治制」となったが、府県制・郡制は官僚支配が基本となる。内務省は府県制・郡制も「自治制」とする計画であったが、井上毅が君主主義と自治(議会主義)は相容れないとし、府県を自治の防波堤にしようとした。内務省と井上(法制局)は激しく対立するが、最終的に井上の構想に収まる。
・府県知事はそのまま官選の官吏になった。府県議員は市会/市参事会/郡会/郡参事会の構成員で、非選挙権は直接国税を年2円以上納める者になり、有産者により国家の基礎を固めようとした。

○警察による住民監視体制
・1884年山県有朋はドイツから警察大尉ヘーン/警察曹長フィガセウスキーを招き、各府県の警察官を教育・訓練した。ヘーンは市町村の警察権限を与える仕組みを考えていたが、内務省はそれを採用しなかった。
・「地方官官制」(86年7月)「警察官吏配置及勤務概則」(88年10月)により、警察署が郡単位に置かれ、警察官は駐在所に居住する事になった。郡単位に置かれた警察署を中央に直結した府県レベルの警察本部が管轄する仕組みになった。これにより警察権限の「自治制」は否定された。

・80年代後半、全国的に「戸口調査」が実施される。「戸口調査」は住民を、甲・乙・丙に分けた。”甲”は疑いのない官吏/華族/教員/会社役員、”乙”は一般の者、”丙”は犯罪者/博徒/悪評者/無産無職者である。”丙”の者は毎月動向を調査された。
・また警察は宿屋・旅館の監視も行った。宿泊人は宿帳への記載を義務とし、宿屋はそれを毎日警察へ届け出て、検査を受けた。
※この仕組みは今も残っていそう。しかし私宅に泊れば、追跡できないのでは。

○憲法を巡る長と短
・1886年秋、伊藤博文/井上毅/伊東巳代治/金子堅太郎らは憲法の起草に入る。88年4月脱稿に至る。これと並行して、憲法に付随する皇室典範/貴族院令/議員法/衆議院選挙法などの起草も行う。

・86年大日本帝国憲法がプロイセン憲法をモデルとする事が明白になり、内閣に関する論争が起こる。立憲改進党系の『郵便報知新聞』は「日本は西洋の制度を取り入れているが、短所を取り入れている」とし、以下の3点を指摘した。?議員内閣ではなく、プロイセンの帝室内閣とした。?立憲政体を円滑化するには言論・集会の自由が重要だが、プロイセン/ロシアのように抑圧している。?人民の参政権を養成するには地方自治が必要であるが、地方分権されていない。

・一方の政府系『東京日日新聞』は、「立憲君主制では内閣は君主に対し責任を負う。一方議院内閣制では内閣は議会に責任を負うため、不安定になる。日本をそのような政体にできない」とした。また「西洋で議院内閣制なのは、英国/仏国/イタリア/スペインだけであり、他の国は君主制である。日本は天皇が君臨すべきである」とした。
・これに対し『郵便報知新聞』は、「人民の意望を受けるのが”君主の徳”であり、その手段が議院である。プロセインのような専制政体にしてはいけない」と反論した。

○大日本帝国憲法の構成
・1888年4月天皇の最高諮問機関として枢密院が新設される。憲法以下の諸草案を枢密院が審議し、89年2月11日紀元節の日に、大日本帝国憲法が発布される。大日本帝国憲法は76ヵ条、第1章-天皇(17ヵ条)/第2章-臣民権利義務(15ヵ条)/第3章-帝国議会(22ヵ条)/第4章-国務大臣及枢密顧問官(2ヵ条)/第5章-司法(5ヵ条)/第6章-会計(11ヵ条)/第7章-雑則(4ヵ条)からなった。

・88年6月伊藤博文は枢密院が憲法草案の審議を始める時、「欧州では宗教が”機軸”になっている。日本では皇室が”機軸”になるべきである」とした。それは三権(立法権、行政権、司法権)が天皇の下に一元化されている事でも分かる。
・6月文部大臣・森有礼が、「臣民権利義務」を「臣民ノ分際」に修正する提案をする。これに対し伊藤は「憲法の目的は君権を制限し、民権を保護する事にある。君主に無限の権力を与え、臣民に無限の責任を与えるのでは、立憲制の意味がない」とした。※少しは分かっている。

・第2章「臣民権利義務」で、「兵役・納税の義務、居住・移転の自由、法律によらない逮捕・監禁・審問・処罰からの保護、信教の自由、言論・著作・印行(※出版)・集会・結社の自由、請願の権利」を規定している。ところが集会条例/新聞紙条例/出版条例/保安条例(87年12月急遽制定)などの治安法は、そのまま存続となった。

○憲法発布と民衆・民権
・大日本帝国憲法の発布に当たり政府は、?事前の秘密主義、?批判の封殺鎖、?祝賀キャンペーンに気を配った。
・医師ベルツは祝賀準備に追われる国民を見て、「誰もその内容を知らない」と嘆いている。中江兆民も、憲法の実を知らない内から酔っている国民を見て、「我国民の愚にして狂なるや」と嘆いている。※何時の時代も変わらない。
・憲法発布後、各新聞は概ね称賛した。自由民権家の植木枝盛は、「今は子供が生まれたようなものだ、これからは如何に成長させるかにある」とした。

<帝国憲法体制の構造>
○帝国憲法下の議会と内閣
・89年3月上海の英字新聞『ノース=チャイナ=ヘラルド』は大日本帝国憲法と私擬憲法を比較し、「私擬憲法では政府は議会に従属していたが、憲法では民衆から独立している」と指摘している。ロンドンの『タイムズ』は、「国会と皇帝の間で衝突する危険性が高い」と、議会と政府の対立を予測した。また制限選挙に懸念を示した。※さすが先進国。

・帝国議会は貴族院/衆議院の二院制になった。貴族院は皇族/華族/勅任議員(天皇が任命)で構成され、皇室を衆議院(国民)から守る防御になった。
・憲法に行政の最高機関・内閣と衆議院の関係は、一切規定されなかった。単に「各国務大臣は天皇を輔弼する」と規定されているだけで、君主の権限の安定・強化を図っている。

○議会開設と政府の政治姿勢
・1890年11月帝国議会が開設されるが、政府の姿勢は超然主義であった。憲法発布の翌日、黒田清隆首相は「政府は超然として政党の外に立つ」と地方長官(?)の前で演説している。その3日後、枢密院議長・伊藤博文も「政党は私的・部分的利益の代表であるが、君主・大臣は不偏不党である」と府県会議長の前で演説している。

・開設された帝国議会も、国民が選出できるのは衆議院だけである。衆議院と対等の権限(予算を除く)を持つ貴族院は、皇族/華族などに限られた。そもそも立法権は天皇の統治権の一部で、帝国議会はそれを”協賛”する機関に過ぎない。

○帝国憲法下の議会と国民
・一般に国民の意思を政治に集約する機能は、議会(代議機関)が持ち、議員は選挙で選出されるが、重要なポイントが3点ある。

・1点目は選挙権である。「衆議院議員選挙法」では、25歳以上の男子/直接国税15円以上を納付が条件で、人口の1.1%しかいなかった。そのため非有権者を含む政党は選挙権の拡大を主張し、政府と対立した。
・2点目は選挙区である。当時は小選挙区制で、257選挙区の大半が1人区であった。
・3点目は政治活動の自由である。これは純粋な政治活動の自由と、選挙活動の自由に分かれる。前者である集会・言論・結社の自由は奪われていた。

・1890年7月政府は「集会及政社法」を公布する。これは「集会条例」から地方長官(?)/内務大臣の演説禁止権は削除されたが、大半の規制権限は残り、逆に未成年/女子などへの規制権限が加えられた。女子は選挙から外されていたが、政治活動さえ行えなくなった。

○帝国憲法の2つの魂
・大日本帝国憲法により制約付きではあるが、国民は法律/予算に政治的意思を反映させる手段を得た。プロイセン憲法も大日本帝国憲法も、”2つの魂”(君主主義、議会主義)の相克から生まれた。政府と自由民権運動が対決し、前者が勝利した結果である。しかし君権を無制限に認める事はできず、それは自由民権運動の成果であり、これを拡張する事が自由民権運動の新たな道となった。

・憲法発布10日後、立憲改進党の事実上の党首・大隈重信は、「憲法の運用如何で、政党内閣の実現も可能である」とした。1920年代政党の成長により、政党内閣が恒常的となる。男性普通選挙は1925年に実現し、女性の参政権は第2次大戦後に実現する。

・立憲改進党に参加し、「足尾銅山鉱毒反対運動」を指導した田中正造は、「今の政府は信用も責任もない。憲法は死法である。国民と安危を共にする政党による政府を創立させなければいけない」とした。
・彼は、「立憲的とは帝国憲法の趣旨に合うかであるが、真の立憲的とは”憲法の精神”に合うかである」とした。また彼は、生命/財産/自由/名誉を普遍的な人権とし、これで帝国憲法に対抗しようとした。※田中正造の伝記を、小学生の時に読んだ。

○天皇制と軍事
・時代を遡る。1882年1月「軍人勅諭」が下付される。これは天皇を”大元帥”とし、天皇の軍隊を強調する内容で、忠節/礼儀/武勇/信義/質素を掲げた。
・軍隊を天皇直属とする事は、78年軍政/軍令を分離し、参謀本部(軍令)を天皇直属とする事で既に実現していた。大日本帝国憲法でも統帥大権として、内閣/議会が介入できないものになった(統帥権の独立)。

・84年2月陸軍卿・大山巌らは欧州を視察する。85年3月プロイセン陸軍少佐メッケルと共に、軍制改革を始める。89年1月「徴兵令」は改正され、徴兵猶予は全廃され、国民皆兵となる。88年5月鎮台制度から師団制度に変わる。

○天皇制と教育
・1879年「教学大旨」により、天皇から教育の根本精神が示される。これは”忠孝”を教育の根本とした。
・その後文部大臣・森有礼により教育制度の改革が進められ、86年小学校令/中学校令/師範学校令/帝国大学令が公布される。これは教育と軍国主義を結び付けるもので、道徳教育が重んじられ、兵式体操が導入され、準軍隊的な教育が行われた。

・90年10月天皇より「教育勅語」が下付される。これも”忠孝”を基本とする儒教の徳目が掲げられた。
・91年「小学校祝日大祭日儀式規程」が定められ、紀元節/天長節などでの?万歳の奉祝、?「教育勅語」の奉読、?学校長の演説、?唱歌の合唱が義務付けられた。91年内村鑑三がこれを否定し、教職を追われる(内村鑑三不敬事件)。

・80年制定の「集会条例」で教員・生徒の政談への参加/結社への加入は禁止された。90年7月「集会及政社法」でも、これは引き継がれた。93年10月井上毅は教育政策や行政に関する発言をする教育団体に、教員が加入する事を禁止する。94年1月教員は選挙の競争(活動?)に関係してはならないと通達する。86年3月諸学校令が勅令形式で公布される。
・大日本帝国憲法から教育に関する全ての条項が削除され、第9条の独立命令(?)で規定される事になった。文部省が教育に関する勅令原案を立案し、枢密院が審査・修正し、天皇の勅令として公布する方式になった。議会は教育からも排除された。

-初期議会と日清戦争-
<初期議会における対立の構造>
○議会開設と藩閥・民党
・1890年7月第1回総選挙で民党(旧自由党系、立憲改進党系)が過半数の議席を得る。9月旧自由党系の大同倶楽部/愛国公党/再興自由党は立憲自由党を結成する。
・11月帝国議会が開会される。通例、第4回までの帝国議会を「初期議会」と云う。この時期、民党は「政費削減、民力休養」を掲げ、藩閥政府と対立するが、自由党系は政府と妥協するようになる。

・11月第1回帝国議会が召集され、衆議院議長に立憲自由党の中島信行が選出される。衆議院の議席数(総議席300)は、立憲自由党130/大成会79(政府系)/立憲改進党41/国民自由党5/無所属45であった。貴族院は251議席あった。※貴族院は半端になる。
・政府は明治24年度予算案を提出するが、陸海軍経費が歳出総額の26%を占めた。91年1月8日歳出額を1割(888万円)削減した査定案が、委員会から議長に報告される。ところが削減費目に天皇大権に関わる費目が含まれていたため、政府の同意が必要になり、政府との交渉が始まる。631万円の削減で妥協・成立し、3月2日衆議院で可決し、6日貴族院で可決・成立する。

○第2議会と民党連合
・1891年4月、第1議会に苦慮した首相・山県有朋は辞意を表明し、5月元勲が松方正義のみの松方内閣(黒幕内閣、緞帳内閣)が発足する。
・第1議会で分裂した自由党系は、再結集し自由党と改称し、板垣退助を党首に復帰させる。11月9日板垣と立憲改進党の事実上の党首・大隈重信が会談を行う。そのため大隈は枢密顧問官を免官される。しかし、これにより自由党と立憲改進党の連携が強化され、民党連合が成立する。

・11月26日第2議会が開会される。民党連合は「政費削減、民力休養」を掲げ、政府と対立する。12月22日樺山資紀・海相の「蛮勇演説」もあり、12月25日政府は議会を解散する。

○選挙大干渉と第3議会
・1892年2月第2回総選挙が行われる。1月政府は「予戒令」を公布し、即日施行する。地方長官(?)に壮士(?)を取り締まる権限を与えた。高知県/佐賀県などでは「保安条例」を適用した。自由党と立憲改進党が連携して候補を立てた事を、「集会及政社法」違反として、板垣退助/大隈重信らを告発した。各地で流血事態になり、死者25人/負傷者388人が出た。この選挙干渉に政府内部でも対立が起き、品川弥次郎・内相/陸奥宗光・農商務相は辞職する。

・それでも民党は衆議院で過半数163(自由党94、立憲改進党38、独立倶楽部31)を獲得する。92年5月第3特別議会が開会される。両院で選挙干渉に対する決議が可決される。しかし追加予算案/鉄道関係法案での全面対決は見られず、自由党は政府の積極主義に同調するようになった。これにより自由党と立憲改進党の共闘は崩れていく。

○第4議会-和衷協同の詔勅と自由党の変質
・1892年7月松方正義内閣は辞職し、第2次伊藤博文内閣(元勲内閣)が成立する。明治26年度予算に対し、民党は行政費の削減を求め、酒造税・煙草税の増税を否決した。93年1月23日内閣不信任上奏案が可決される。2月10日これに対し天皇は「和衷協同の詔勅」を発する。これにより政府と衆議院の妥協がなり、予算は成立する。

・第4議会で藩閥政府と自由党は接近し、自由党と立憲改進党の亀裂は明確になった。93年11月第5議会前、立憲改進党は定期大会を開き、民党としての方針を貫き、新たな争点として条約改正を政府に求める事を決議する。

<対立軸と争点の編成>
○地租軽減と地価修正
・初期議会の争点は予算案を巡る対立で、政府は陸海軍費を増額しようとし、民党は「政費削減、民力休養」から予算案の削減/地租軽減を実現しようとした。

・政府の地租改正事業は、1880年でほぼ終了していた。しかし1883年末頃から、自由党は「地租軽減請願運動」を展開する。1884年3月政府は「地租改正条例」を廃止し、「地租条例」を公布し、地租軽減の根拠を奪う(前述)。

・1887年夏頃起こった「三大事件建白運動」では、地租軽減を掲げていた。第1議会でも地租問題は取り上げられたが、これは地租軽減論だけではなく、地価修正論も含まれていた。
・法定地価には制定時の不均衡と、その後の経済発展による不平等の矛盾が含まれていた。そのため政府は府県単位で度々地価修正を実施した。

・1891年2月「地価修正請願同盟」が結成される。一方東北では、地価修正が増税になるため、「地価非修正同盟」も結成される。これにより地価修正派と地租軽減派に分裂する。
・初期議会では地価修正派議員が増大する。第4議会で「地価修正法案」が提出されるが、貴族院で否決される。第5議会では地価修正派と政府が「地価修正法案」を提出する(※結果は?)。「地価修正請願同盟」は請願では地価修正を実現できないとして、「日本農民協会」を結成する。

○法典論争と主権国家の”家”
・初期議会では民法・商法の施行も問題になった。ドイツ法学を学んだ帝国大学・穂塚八束は、「忠孝が滅ぶ」として仏国に倣った民法を批判する。一方帝国大学・梅謙次郎らのフランス法派は、「条約改正のためにも必要」として至急の実施を求めた。※立憲政体で揉めたのと同じだな。

・1892年5月民法・商法の延期法案が提出され、結局1896年12月まで施行延期となる。93年3月政府は「法典調査会」を設置し、民法・商法の見直しに入る。

○内治雑居と対外硬
・初期議会では条約改正も問題となる。1893年11月立憲改進党は定期大会で、「現行条約の励行」「条約改正の実行」を政府に要求する事を決議する。「現行条約の励行」とは、条約を厳密に実施し、その不便から条約改正に向かわせる主張である。

・現行条約では、外国人は居留地に住居し、通商もそこで行う事になっていた。しかしこれは外国人に不便で、「内治雑居」を求めるようになった。82年4月外務卿・井上馨は領事裁判権の廃止と「内治雑居」の容認を条約改正の方針とする。これにより「内治雑居」の賛成/反対で論争が始まるが、反対派が勢力を増す。初期議会では、この「内治雑居」が重要な論点になる。

・92年4月自由党は有志120人(主に内治雑居容認派)で「条約改正研究会」を結成する。5月彼らは「治外法権の撤廃」「関税自主権の回復」「内治雑居の容認」を主張する「条約改正上奏案」を第3議会に提出する。
・一方、「内治雑居」非容認派は、6月「内治雑居講究会」を結成する。彼らは法権・税権と「内治雑居」を連動させるのは誤りで、通商や風俗・習慣の面から「内治雑居」に反対する。

・自由党は「内治雑居」賛成に転換し、93年2月第2次伊藤博文内閣での第4議会で、「内治雑居」を容認する「条約改正上奏案」が可決される。

・一方「内治雑居」非容認派は、10月「内治雑居講究会」を発展させ「大日本協会」を結成する。これに議会の国民協会/同盟倶楽部/政務調査会/東洋自由党が参加する。議会の対外硬6派(国民協会66人、立憲改進党42人、同盟倶楽部25人、政務調査会20人、同志倶楽部18人、東洋自由党4人)は過半数になり、条約改正問題は重要な争点になる。12月彼らは「現行条約励行建議」を第5議会に提出する。”現行条約励行”とは、条約に明記されていない外国人の権利を一切認めない主張である。
・12月第2次伊藤内閣は「大日本協会」に解散を命じ。議会も解散する。

○第5議会から第6議会へ-政治構造の変化
・1893年11月第5議会が開会される。立憲改進党と「大日本協会」系議員は共闘し、議長不信任上奏案/現行条約励行建議案などを上程する。12月第2次伊藤博文内閣は議会を解散する。
・第4議会までは「民党」対「政府」の関係であったが、第5議会からは「対外硬」対「政府・自由党」の関係に変わる。また対立点も予算案などの国内問題から、条約問題に変わる。

・94年3月第3回総選挙が行われ、自由党120/立憲改進党49/立憲革新党37/国民協会27/中国進歩党5となる。
・5月第6議会は開会されるが、6月2日には解散される。その翌日政府は朝鮮の「甲午農民戦争」を弾圧するための出兵を決める。※これが解散理由かな。

○主権線と利益線
・1890年12月首相・山県有朋は施政方針演説で「主権線の防衛、利益線の防護」を演説する。この演説は彼の意見書『軍備意見』に基づいていた。

・この意見書は3つの部分からなり、前半は主権線・利益線論、後半は朝鮮永世中立化論で、中間はその両方の情報分析部分であった。利益線として朝鮮半島を想定し、その防護のために軍事力が必要とした。
・この「利益線の防護」のための現実的な政策が、英独日清による朝鮮の中立化であった。これは欧州でのスイス/ベルギー/セルビア/ルクセンブルグを例にしている。これはロシアのシベリア鉄道竣工による朝鮮進出への警戒からであった。

<日清戦争と朝鮮・台湾>
○朝鮮民衆-防穀令事件と東学
・1876年「日朝修好条規」により日本は朝鮮との貿易が盛んになるが、「壬午軍乱」(1882年)/「甲申政変」(1884年)後は清と朝鮮の貿易が伸びる。

・日本は朝鮮から米・大豆などの穀物を輸入しており、これにより朝鮮で穀物の価格が高騰した。そのため朝鮮の地方官は穀物の域外搬出を禁止する「防穀令」を頻繁に発令する。1893年5月これに対し日本政府は17万円の賠償金を要求する。清の李鴻章がこれを仲介し、11万円の賠償金で決着する。

・一方朝鮮では地方官吏の汚職/農民収奪の深刻化から民衆の反乱が相次ぐ。この反乱に大きく影響を与えたのが「東学」であった。「東学」は儒教/仏教/道教などが融合した宗教で、政府は教祖を処刑するが、民衆に広まった。

○甲午農民戦争と日清関係
・1894年2月朝鮮全羅道(南西部)で東学の指導者により農民の反乱が起こる(第1次甲午農民戦争)。6月5日、日本は「天津条約」に基づき清に通告し、朝鮮に出兵する。清軍も同時に出兵する。6月10日朝鮮政府と農民軍は直ぐに和睦する(全州和約)。

・日本軍は駐留する理由はなかったが、「朝鮮の改革が実現するまで駐留する」として撤兵しなかった。これにロシア/英国などが調停に入る。7月16日、英国と「日英通商航海条約」が調印される(※条約改正で相当重要であるが、説明がない)。この条約に「日本が清と戦争した場合、英国は介入しない」と記された。同月末、日本は清と戦闘状態に入る。

○朝鮮王宮占領事件と日清開戦
・1894年7月10日日本は朝鮮政府に内政改革案を突き付けるが、朝鮮は日本軍の撤兵が条件として拒否する。7月23日日本軍は王宮を制圧し、日本寄りの大院君を執政とする”新しい朝鮮政府”を立てる。この政府は日本軍に「朝鮮から清軍を追い出して欲しい」と要請し、日清戦争が始まる。※この大院君は、壬午軍乱(1882年)の時の大院君かな。
・8月1日、日本は清に宣戦布告する。天皇の詔書には、「朝鮮の清から独立を保障する」が目的とされた。日本軍は平壌や黄海での戦闘に勝利する。

○日清開戦と日本社会
・日本の各新聞・雑誌は、この戦争を「義戦」などと評価した。※『国民新聞』『東京朝日新聞』『万朝報』『読売新聞』『国民ノ友』の記事が載っているが省略。

・1894年9月1日第3回総選挙が行われる。15日大本営が広島に置かれる。16日平壌での勝利、20日黄海海戦での勝利が伝えられる。10月5日広島に戒厳令が発動され、通常の行政権・司法権は停止される。18日第7臨時議会が広島で開かれ、政府提出の臨時軍事費は、そのまま即決される。

○日清戦争と日本民衆
・開戦すると物資の輸送に当たる軍馬/輜重兵が不足していたため、政府は軍夫を雇う。
・当時の民衆の日記に、戦闘の結果/分捕品/献金などが記されている。新聞を通じ、これらの情報を入手したと思われる。新聞は特派員/従軍記者を現地に送り、情報を伝えた。女性も関心を持ち、遊女が献金したり、女学生が募金活動を行っている。

○朝鮮農民軍の闘争と甲午改革
・1894年8月20日、日本は大院君を執政とする親日政権と「日朝暫定合同条款」を結び、日本による内政改革を認めさせる。26日「大日本大朝鮮両国盟約」を結び、食料などの協力をさせる。
・日本は朝鮮での食糧/物資/人馬などの徴発で、兵站線を北上させる。10月これに反発した農民軍が再び蜂起する(第2次甲午農民戦争)。95年1月、朝鮮軍/日本軍はこれを鎮圧する。
・日本は大院君の国政参加を禁止し、内政への干渉を強める。名目は独立であるが、実質は保護国化であった。

○講和への動き
・1894年11月遼東半島旅順を攻略する。95年1月北洋艦隊が逃れた威海衛を攻撃し、2月清は降伏する。

○日清講和と三国干渉
・1895年3月下関で李鴻章と講和条約の交渉が始まりる。4月17日11ヵ条の「日清講和条約」(下関条約)が調印される。主な内容は、第1条-朝鮮の独立/第2条-遼東半島・台湾・澎湖島の割譲/第3条-賠償金2億両/第4条-「日清通商航海条約」の締結などであった。

・これにより東アジアの華夷秩序は崩壊した。「下関条約」締結の6日後、ロシア/ドイツ/仏国の三国公使が遼東半島を清に返還するように勧告する。5月日本は遼東半島を返還する事を決め、その賠償金として3千万両を得る。この「三国干渉」により、日本はロシアへの敵意を強める。

○台湾割譲と台湾征服戦争
・1895年5月8日台湾は日本領になる。海軍大将・樺山資紀が台湾総督に任命される。23日割譲に反対する士紳(?)は、唐景崧を総統とする台湾民主国を建国する。29日日本軍は台湾への上陸を始める。6月17日台湾総督府の始政式が行われる。

・その後日本軍は南下し、激しい抵抗運動に合う。日本は兵力5万人/軍夫2万6千人を投入し、死者4642人を出す(※相当多くないか)。一方、漢系台湾人は1万数千人が殺害されている。その後も住民の抵抗は続き、住民1万2千人(1898~1902年)が処刑・殺害されている。※この抵抗は知らなかった。
・日本とって台湾は「内地」なのか「植民地」なのか、新たな問題が発生する。

○尖閣諸島編入の経緯
・清と琉球の間に尖閣諸島があった。これは航海の目印であったが、帰属は不明であった。
・琉球は琉球処分により日本に編入されるが、清はこれを認めず、また琉球の旧支配層もこれに抵抗した。

・1885年古賀辰四郎が尖閣諸島の開拓を沖縄県に願い出る。沖縄県は尖閣諸島を調査し、国標を立てる指示を内務省に伺う。12月「清との無用の争いは避ける」として、見送られる。
・95年1月日清戦争中、政府は状況が変わったとして、沖縄県に尖閣諸島に国標を立てる許可を与える。

<日清戦争がもたらしたもの>
○国際秩序の再編成-脱亜から奪亜へ
・1874年日本の「台湾出兵」により、東アジアの華夷秩序は崩壊を始める。日本は「琉球処分」(1872~79年)により琉球を自国領とし、「日朝修好条規」(1876年)により朝鮮を”自主ノ邦”としたが、清は何れも認めなかった。
・「壬午軍乱」(1882年)/「甲申政変」(1884年)で日清間で軍事衝突の危機があったが、日清戦争(1894~95年)で日清間の問題は決着する。その後、朝鮮問題は日露間の問題に変わる。

・96年7月「日清修好条規」は廃止され、不平等条約の「日清通商航海条約」が結ばれる。これには領事裁判権/協定関税/最恵国待遇など列強の特権が含まれていた。日本は日清戦争の勝利で、”脱亜入欧”から”入欧奪亜”になった。

・94年7月日清戦争の開戦直前、日本は「日英通商航海条約」を結び、領事裁判権の撤廃/居留地制度の廃止を実現する。この条約は99年7月から発効するが、その1年前に法典の実施を通告する必要があった。
・96年4月民法の3編(総則、物権、債権)が公布され、98年6月残りの2編(親族、相続)が公布される。商法は99年3月公布され、6月から施行された。この民法は戸主の権限が大変強かった。※結局ドイツに倣ったのかな。

○南と北の国民化
・台湾は軍政機関の総督府が置かれ、総督の下で民政/軍政/軍令が施行された。
・琉球は「琉球処分」で沖縄県となるが、旧支配層は抵抗を続けた。日本政府はこれを弾圧する一方、琉球の旧慣を存続させ、急激な近代化を避けた。沖縄県民に参政権は与えられなかった。1900年「衆議院議員選挙法」の改正で、議員の選出が可能になるが、実際に選出できたのは、土地調査(地租改正)終了後の1912年であった。

・一方北海道は、1871年アイヌは「戸籍法」により、戸籍簿に日本名で”平民”として登載される。78年”旧土人”の呼称で日本人と区別される。86年1月千島列島を含む全域を管轄する北海道庁が置かれる。99年「旧土人保護法」により、アイヌは政府が指定した場所に移住させられ、農業に従事する。これによりアイヌ固有の生活・文化は失われる。
※100年位前の話で、古い話ではない。

○藩閥・政党関係の変容-自由党は死んだ
・1874年板垣退助の愛国公党が『民撰議院設立建白書』を提出した時は、議会も政党もなかった。20年後の「日清戦争」開戦時には、どちらも揃っていた。90年帝国議会が開設されるが、選挙権は男性の有産者に限られ、人口の1.1%に過ぎなかった。しかし1925年男子普通選挙が実施される。

・初期議会では自由党/立憲改進党などの”民党”は、藩閥政府を支持する”吏党”に対抗した。しかし第4議会からは自由党は政府に接近するようになる。
・1896年第2次松方内閣では大隈重信が外相に就き、政府は進歩党(立憲改進党の後身)と提携する。次の第3次伊藤内閣では、政府は自由党と提携する。
・次の大隈内閣は憲政党(自由党と進歩党が合流)による初めての政党内閣であった。しかし憲政党は4ヵ月で分裂し、総辞職する。旧進歩党系(旧立憲改進党)は憲政本党を結成する。1900年旧自由党系は伊藤博文を党首として立憲政友会を結成する。

・幸徳秋水は立憲政友会の結成を、「自由平等のために戦い、文明進歩のために戦った意気・精神は、どこに行ったのか」と批判した。
・彼は「西洋の自由民権思想は、”末”である政治上の平等をもたらしたが、”本”である経済上の平等をもたらさなかった」とした。01年彼は日本最初の社会主義政党・社会民主党を結成し、社会主義/民主主義/平和主義を掲げる。しかし「治安警察法」(1900年)により禁止される。

○文明化と戦争-愛国心と国民
・日本の近世から近代への移行は、2つの内戦(戊辰戦争、西南戦争)で決定付けられた。戊辰戦争/廃藩置県などにより中央権力が確立し、西南戦争により軍事力は対外的なものになった。
・対外戦争が起こると、国内は挙国一致に変化する。内戦は国家を割るが、外戦は国家を纏める。征韓論/台湾出兵は、士族の不満を逸らす目的があった。

・福沢諭吉は『文明論之概略』(1875年)で、「野蛮、未開、文明の順に進歩する」と書いた。その20年後日清戦争に勝利し、彼は『福翁自伝』に「官民一致の勝利」と書き、「死んだ仲間に見せたい」と泣いた。

・対外戦争の勝利は、”権力の権威””軍隊の威信”を高め、次の戦争のハードルを下げる。よって対外戦争の勝利は、次の戦争の”戦前”となる。日清戦争の勝利は”アジアの蔑視””忠君愛国の思想”を確立させた。幸徳秋水は「帝国主義は愛国心をタテ糸、軍国主義をヨコ糸にした政策」と批判した。

<あとがき>
・本書は明治初期から日清戦争までの日本近代国家の誕生を、対外関係/対内関係から叙述した。この20年間は自由民権運動が展開した時期である。この「自由民権研究」は日本史で最も蓄積のある分野である。

・1990年代「国民国家論」が盛況になり、自由民権も「国民国家論」から語られるようになった。「国民国家論」は国家/国民を一般化する理論であるが、本書はその逆のアプローチを取った。
・本書は政治史を重視しているが、政府と議会・政党との関係に特に着目した。また中央機構だけでなく地方機構にも着目した。国民を総体化するのではなく、地域性/ジェンダーにも着目した。対外関係では、西洋との条約改正/東洋での台湾問題・朝鮮問題などに着目した。

・著者は「自由民権研究」に深く関わった。著者は「今の国家は狂暴になってきている。自由・民権の質を問い続ける”自由民権”は、まだ終わっていない」と実感している。

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