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『日本人だけが知らない終戦の真実』松本利秋(2015年)を読書。

戦中・戦後の対外状況を詳しく解説している。
米国/ソ連/中国/台湾/朝鮮などとの詳しい関係が解説されているが、初めて知る事が結構あった。

今に繋がる問題の原点が理解できる。

お勧め度:☆☆

キーワード:<戦後の諸問題の根源は終戦にあった>三布告/英語、第2次世界大戦/冷戦、産軍複合体、国際連合/敵国条項、<第2次世界大戦の敗者と勝者、それぞれの思惑>ポツダム宣言、対日参戦、サハリン/千島列島/北方四島、国体護持/クーデター、タイ/自由タイ運動、イタリア、<残留日本兵たちの波乱に満ちた終戦>サイパン/大場、グアム/横井、ルバング/小野田、<戦後日本のカタチを決めた米ソの冷戦構造>終戦記念日、日米安保条約/日米行政協定、朝鮮戦争/自衛隊、新日米安保条約/日米地位協定、<現在の日中関係の原点は終戦のカタチにあった>支那派遣軍/大陸打通作戦、戦争犯罪裁判、留用日本人、旧軍人/金門島/白団、サンフランシスコ平和条約/中華民国/中華人民共和国、<アジアの解放/独立/建国に至る日本の影響>大韓民国/朝鮮人民共和国、竹島問題、フィリピン/ベトナム/インドネシア/ビルマ、<今も残る第2次世界大戦の長い影>占領政策、ドイツ、北方四島、戦後レジューム

<はじめに>
・日本では8月15日が終戦記念日だが、ロシアでは9月2日(ソ連では9月3日)、中国では9月3日である。「ポツダム宣言」は正式なものではなく、GHQ(連合軍総司令部)の命令を議会を通さず法令化するためのものである。※?後述に期待。

・8月15日以降、ソ連は戦意を失った日本に大攻勢を仕掛けた。シベリアでの抑留兵を増やすため、終戦を長引かせた。
・ドイツは国家が解体されたため、今のドイツは戦争を起こしたドイツとの継続性はない。そのためドイツは謝罪する事はない。一方日本は敗戦を受け入れ、国家は継続された。日本は冷戦構造の中で経済復興するが、米軍の駐屯を許し、日本国憲法などの「戦後レジューム」が継続している。

<戦後の諸問題の根源は終戦にあった>
○中学校で英語が義務教育にされた本当の理由
・1945年9月2日戦艦ミズーリで降伏文書の調印式が行われる。この調印式は、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーが入念に準備したものだった。日本からは重光葵・外相/終戦中央連絡事務局長官・岡崎勝男/梅津美治郎・参謀総長らが出席した。

・同日午後4時、マッカーサーは「三布告」を布告する。これは①司法/立法/行政を自身の管理下に置き、公用語を英語とする、②司法権はGHQの支配下に置く、③通貨をB円(米軍軍票)とする、の内容であった。
・これに対し東久邇宮内閣は緊急閣議を開く。日本は「ポツダム宣言」を受け入れ、統治権は日本にあり、GHQによる三権の支配(軍政)は受け入れられなかった。深夜岡崎勝男はマッカーサーの宿泊しているホテルを訪れ、これを伝える。9月3日午前、重光外相はマッカーサーと交渉し、「三布告」を撤回させる。

・1947年6・3制の義務教育制度ができるが、中学では英語が義務教育になる。当時進駐軍以外に外国人はおらず、英語を使う機会はなかった。※面白い話だ。

○第2次世界大戦は勝利者米国の良い戦争体験だった
・米国人は「第2次世界大戦」を強く支持した。戦時国債は次々と捌け、増税への反対もなく、インフレも起こらず、消費も拡大した。1938年32万人しかいなかった兵力は1千万人に達した。大恐慌で休業していた工場は稼働し、戦車/戦闘機などを作る工場はフル稼働になった。戦争は自殺/犯罪/アルコール中毒などの社会的病理を減少させた。米国にとって「第2次世界大戦」は”正義の自衛戦争”で、戦後をハイテンションで迎えた。

・米国はこのような状況で戦後を迎えたため、直ぐに平時経済に移行できなかった。戦時中、米国は260億ドルの資金を新規プラント/産業施設に投入したが、戦後それらを大企業に売却する。これにより大企業は防衛産業に組み込まれる。そのため大企業は軍需を求め、その結果「冷戦体制」になった。
・国防総省(ペンタゴン)に多額の研究開発費が割り当てられ、宇宙/半導体などの先端技術に投入され、アポロ計画/インターネット/原子力発電などを生んだ。

・しかし「ベトナム戦争」の敗戦で、米国経済は縮小する。1981年レーガンが大統領に就くと、「産軍複合体」(軍産複合体?)を活性化させる。彼は日本に「冷戦」を煽り、日本を米国製兵器のマーケットにする。日本は日米共同開発で妥協し、戦闘機F16を購入する。※今とそっくりだな。

○日本が国連安保理常任理事国になれない本当の理由
・1956年日本は国際連合に加盟し、国連外交を政策としてきた。国連通常予算や国連平和維持活動の分担金は常任理事国の英国/仏国/ロシアより多い。

・常任理事国5ヵ国の内。ロシアは戦勝国ソ連を継承し、中国(中華人民共和国)は戦勝国中華民国を継承している。戦後中華民国は外交ができる状況ではなかったが、アジアでの勝利国として持ち上げられた。

・1941年米国は「大西洋憲章」で戦争の目的を、民主主義/国際法に基づく国際システムの確立とする。44年7月「ブレトン・ウッズ会議」で国際復興開発銀行(IBRRD、後の世界銀行)/国際通貨基金(IMF)の発足で合意する。
・45年4月「サンフランシスコ会議」で民族自決/主権の平等を掲げた「国連憲章」が完成する。国際連合(United Nations)を直訳すると”連合国”であり、連合国の団結を維持する意図があった。

・「国連憲章」には「敵国条項」が残存し、「敵国が侵略戦争などを起こした場合、安保理の許可なく軍事的制裁を科せる」と記されている。他の条項で”主権平等”が記されているが、”敵国”には適用されない。
・”敵国”の国名は表記されていないが、日本/ドイツ/イタリアなどが該当すると思われる。95年「敵国条項」の削除が採択されるが、改正に至っていない。※酷い話だな。

・2012年9月安倍首相は国連で、「中国の公船が尖閣諸島周辺に侵入した」と批判するが、中国は「敗戦国が戦勝国の領土を占領するのは、もっての外」と批判する。
・日本は「国連憲章」でも武力行使は認めておらず、多国籍軍/平和維持軍(PKF)に参加する事は「国連憲章」に矛盾している。

<第2次世界大戦の敗者と勝者、それぞれの思惑>
○ポツダム宣言受諾とソ連対日参戦の舞台裏
・1945年8月15日「ポツダム宣言」受諾の玉音放送が行われる。しかし国際法上の終結は、9月2日戦艦ミズーリで行われた、米英中ソなど9ヵ国との降伏調印式である。降伏は双方の合意で成立する契約であり、一方の申し入れでは成立しない。

・「ポツダム宣言」は、45年7月26日ドイツのポツダムでの会議で米国/英国/中国が公表したものである(※まだ参戦していないソ連はいない)。日本は当初これを黙認したが、8月6日広島原爆投下、8日ソ連参戦、9日長崎原爆投下に至り、受諾を決定する。

・日本は本土空襲により焦土化し、厭戦気分となり、8月15日を終戦記念日とするが、外国では全く異なっている。米国は9月2日を「対日戦勝利の日」とし、仏国も9月2日に記念式典を開き、中国(共産党)は9月3日を「抗日戦争戦勝記念日」とした。しかしこの18日間に深刻な問題が起こされている。

・45年7月16日スターリンはドイツのポツダムに向かう。この5ヵ月前「ヤルタ会談」でドイツ降伏後の3ヵ月以内のソ連参戦、極東での領土・権益の密約があった。17日彼は米国大統領に昇格したトルーマンを訪れ、参戦を伝える。翌日トルーマンが彼を訪れるが、日本がソ連に行っていた和平工作を伝える。当時日本とソ連は「日ソ中立条約」(翌年4月まで有効)を結んでいた。7月24日トルーマンは彼に原子爆弾が完成した事を伝える。

・7月25日駐モスク大使・佐藤尚武が近衛文麿の特使派遣を要請するが、ソ連からの回答はなかった。
・この頃ポツダムで、「朝鮮半島(朝鮮海峡?)-宗谷海峡-千島列島(オホーツク海?)-ベーリング海峡」の軍事境界線が設定され、千島列島は米ソの共同領域とされた(※ソ連も協議に参加?)。7月26日米国/英国/中国により対日降伏勧告の「ポツダム宣言」が発表され、スターリンは驚愕する。※終戦前からソ連は除外されていた感じかな。

・8月5日帰国したスターリンは参戦を急がせる。6日広島に原爆が投下される。7日彼は佐藤大使がモロトフ外相に面会を求めた(降伏の意思がない)事を知り、9日に開戦する指令に署名する。8日佐藤大使がモロトフ外相を訪れた時、「日ソ中立条約」を破棄し、「ポツダム宣言」に参加する事を伝え、宣戦布告する。9日未明ソ連軍は満州に侵攻する。同日長崎に原爆が投下される。
・8月14日、日本は「ポツダム宣言」を受諾し、米国は停戦命令を出し、ソ連以外の米国/英国/中国は休戦する。

・8月11日ソ連はサハリン(樺太)北部から南部に侵攻する。日本軍は抵抗するが、16日国境を破られ、25日にはサハリン全土を支配する。このサハリン攻防戦は第5方面軍の樋口季一郎が指揮した。彼はユダヤ人のソ連から満州への入国を許可した人物である。※杉原千畝だけではないんだ。

・8月18日ソ連は千島列島北端の占守島を攻撃する。ソ連軍に3千人の死傷者が出るが、21日停戦となる。その後もソ連軍は南下し、31日までに得撫島までを占領する。スターリンはトルーマンに北海道の半分をソ連占領下に置くように要請するが拒否される。
・一方ソ連は、8月28日択捉島を占領(※上と矛盾)、9月1日国後島/色丹島に上陸、2日歯舞諸島に上陸し、5日占領する。ここで問題なのは北方四島を侵攻した時、日本軍/住民は抵抗しなかった。これは北方四島を日本領とする根拠を弱めている。ただし歯舞諸島では9月5日まで戦闘行為があり、これは不当な軍事行動である。

○敗戦を認めたくない軍部が終戦の詔勅放送を妨害
・1945年8月9日午前10時、宮中で「ポツダム宣言」を受諾するかの「最高戦争指導会議」が開かれる。ここで問題になったのが、「ポツダム宣言」に明記されていない「国体護持」(天皇の地位保証)であった。そのため阿南惟幾・陸相/梅津美治郎・参謀総長は受諾に反対した。
・10日午前0時、宮城内の御文書庫で「最高戦争指導会議」が開かれ、天皇により「ポツダム宣言」の受諾が決定される。これに対し陸軍省には反発があった。

・12日午前0時、連合国は「天皇/日本政府は連合国最高司令官に従う」とサンフランシスコから放送する。
・12日午後3時の閣議、13日午前9時の「最高戦争指導会議」で、阿南陸相/松坂広政・司法相/安倍源基・内相は受諾に反対するが、13日午後3時の閣議で受諾が決定する。※13日が正式な決定だな。

・閣議から戻った阿南陸相は将校から、クーデター「兵力使用計画」への賛同を迫られる。この計画は東部軍/近衛第1師団により宮城を隔離し、政府要人を捕らえ、「国体護持」が認められるまで戦争を継続する計画であった。しかし天皇は「我が身はどうなっても、国民を救いたい」と発言しており、クーデターに大義名分はなかった。

・14日午後1時、御前会議が開かれ、天皇自らが国民に受諾を語る事が決定される。
・15日午前0時、「玉音放送」を収録し終えた放送協会職員などが宮城を退出する際、近衛歩兵第2連隊に拘束される。クーデターに消極的であった近衛第1師団長・森赳は師団参謀・古賀秀正に斬殺される。
・15日午前5時、東部軍司令官・田中静壱が近衛第1師団に赴き、師団参謀・石原貞吉を拘束し、近衛歩兵第2連隊に撤収を命じる。これによりクーデターは鎮静化する。この頃阿南陸相は自決している。
・2枚の録音盤は放送会館と予備スタジオの第一生命会館に運ばれ、15日正午、玉音放送が行われた。※事件は15日午前の半日の出来事なんだ。

・他に軍人による抵抗は様々あった。鈴木貫太郎・首相官邸は早朝に火を放たれている。玉音放送後、厚木海軍飛行場で反乱が起き、20日に鎮圧されている。

○米英に宣戦布告したタイ国が敗戦国にならなかった外交戦略
・1932年タイ国(以下タイ)でクーデターが起き、立憲制に変わる。その中心は軍人ピブーンソンクラーム(以下ピブーン)と文官プリディー・パノムヨンであった。38年ピブーンが首相(国防、内務を兼任)、プリディーが蔵相に就いた。

・41年7月日本は南部仏領インドシナに進出したため、日本とタイは国境を接した。12月8日真珠湾攻撃が始まると、日本軍はタイへの侵攻も開始する。タイ南部では双方に戦死者が出る。ピブーンはタイ軍に停戦を命じ、日本軍の国内通過を許可する。
・12月9日、日本軍はタイ中部を占領下に置く。10日「マレー沖海戦」で英国東洋艦隊を壊滅させる。21日ピブーンは「日タイ同盟条約」に調印する。これによりタイ軍は残存された。翌年1月25日タイは米国/英国に宣戦布告する。

・日本軍のタイ侵攻が始まると、ピブーンは内閣改造を行い、プリディーを摂政にするなど、プリディー派を閣外追放する。しかしこれはプリディー派の抗日運動「自由タイ運動」には、好都合であった。表ではピブーンが親日を見せるが、裏ではプリディーが抗日政策を実施した。

・タイの法律では、法律/条約/宣戦布告などの発効には、摂政委員会全員のサインが必要である。米英への宣戦布告に摂政プリディーはサインせず、雲隠れした。しかしピブーンは閣議でこれを承認させる。42年1月25日、駐米公使プラモートが米国ハル国務長官に宣戦布告を手渡すが、ハル国務長官はこれを受け取らず、また米国はタイに宣戦布告しなかった。

・プリディーは抗日運動「自由タイ運動」を開始した。日本から秘密情報を収集し、海外留学生を米英軍に参加させた。タイ国内に拠点が作られ、志願兵が加わった。
・44年7月日本の敗色が濃くなり、ピブーンは首相を辞任する。45年8月16日プリディーは「平和宣言」を発し、宣戦布告が無効な事を公表する。英国も紆余曲折あるが、タイを敗戦国としなかった(※泰緬鉄道の建設とかあるからな)。46年3月タイ最高裁判所により、ピブーンらは釈放される。
※タイの話は全く知らなかった。

○イタリアは敗戦国の汚名から逃れ、日本に賠償を求めてきた
・イタリアの第2次世界大戦終了は複雑である。イタリアはムッソリーニが全権力を握っていたと思われるが、立憲君主国であり、国王エマヌエレ3世が元首であった。

・1943年7月10日、連合国軍がシチリア島に上陸する。この危機に休戦派/ファシスト党穏健派/王党派が反ムッソリーニで結び付く。ムッソリーニは首相を解任され、北イタリアのホテルに幽閉される。しかしイタリアはドイツ南方方面軍の指揮下にあったため、連合国と休戦交渉を始める。※指揮下にあって、よく休戦交渉ができたな。秘密裡かな。

・9月8日イタリアの優柔不断に業を煮やしたアイゼンハワー大将は、イタリアの承認なく、無条件降伏を宣言する。これによりイタリア軍は休戦に入る。一方ドイツはイタリア北・中部にドイツ軍を進駐させる。そのため国王や政権はローマを捨て、連合軍占領下に逃亡する。

・9月12日ムッソリーニはドイツ軍特殊部隊に救出される。18日彼は「共和ファシスト党」を創立し、イタリア北部に「イタリア社会共和国」を建国し、自身が元首に就く。これによりイタリアは、北部の「イタリア社会共和国」と南部の「イタリア王国」で内戦に突入する。10月13日「イタリア王国」はドイツに宣戦布告している。

・45年4月25日「イタリア社会共和国」は崩壊する。27日ムッソリーニは拘束され、翌日処刑される。46年国民投票により、国民を捨てた国王は廃位され、イタリアは共和国になる。
※イタリアの話も知らなかった。仏国/中国で枢軸国の傀儡政権が誕生したのは知っていたが、イタリアも分裂したんだ。

<残留日本兵たちの波乱に満ちた終戦>
○サイパンでの民間人自決とゲリラ戦を戦う大場大尉の終戦
・1944年6月15日、米軍によるサイパン攻略が始まる。サイパン島には多くの民間人が住み、島の北端に逃げ、断崖から飛び降りた民間人は1万人いたとされる。その断崖は”バンザイ・クリフ”と名付けられた。
・米軍はマリアナ諸島(サイパン、グアム、テニアン)の攻略に全力を注いだ。それは日本への爆撃が可能になるためであった。
・6月19日「マリアナ沖海戦」が行われ、日本は空母3隻を潜水艦の魚雷で失う。この大敗でマリアナ諸島の救援は断たれる。

・米軍は4日間に及ぶ爆撃/砲撃の後、6月15日サイパンへ上陸する。サイパンには陸軍2万8千名、海軍1万5千名がいたとされるが、組織的な反撃が不可能な状態であった。そのため島中部のタッポーチョ山に防衛線を敷き、持久戦に出る。24日大本営はサイパン放棄を決定している。日本軍は6千名に減少し、戦車は3両しか残されていなかった。7月7日3千名により”バンザイ突撃”が行われる。

・その後もゲリラ戦は続けられるが、ポツダム宣言受諾により投降した。大場栄・大尉ら47名はタッポーチョ山を拠点にゲリラ戦を続けていたが、45年12月1日、米軍に投降する。彼らは、1982年小説になり、2012年映画化された。

・パラオ諸島ベリリュー島には東洋最大の日本軍飛行場があり、陸海軍で約1万名が守備していた。44年9月15日、米軍は4万2千名で上陸作戦に出る。日本軍はベリリュー全島を洞窟要塞化し、米軍に8844名の死者を与えた。
・ベリリューからの生還者は446名で、その中には47年4月22日に生還した山口永・少尉ら34名が含まれる。

○大観光地と化したグアム島に潜伏していた日本兵
・1972年2月2日、横井庄一・伍長は28年振りに日本の土を踏む。72年は2月3日アジアで最初の冬季オリンピックが札幌で開会され、2月19日「あさま山荘事件」が起きている。彼は「恥ずかしながら帰って参りました」と発言し、流行語になる。

・44年7月21日、米軍がグアムに上陸を開始する。当時約2万名の日本軍がいたが、生還者は1035名しかいない。横井氏ら3名は孤立し、ポツダム宣言の受諾なども知らされなかった。
・横井氏らは地下壕に暮らし、野豚/ウナギなどを捕る仕掛けを作り、木から繊維を採り、それなりに不自由のない生活をしていた。64年台風などによる食糧不足で2名が亡くなる。67年東京-グアム定期便が開設され、観光客が押し寄せるようになる。72年1月24日鹿狩りに来た現地人に発見され、2月2日帰還となった。※発見から1週間位だな。

・横井氏は羽田空港で「恥を忍んで帰って参りました」「恥ずかしながら生き永らえておりました」などと発言し、これが流行語になる。当時は石油ショックで、生活評論家として全国を講演して廻った。

・他に1990年に帰国した田中清明/橋本恵之がいる。二人はマレーシアで反政府ゲリラに参加していた。

○上司の命令でルバング島に残った小野田少尉の頑なな終戦
・小野田寛郎は、1942年和歌山県で陸軍に入営する。その後陸軍中野学校二俣分校で遊撃戦(ゲリラ戦)を学ぶ。44年12月フィリピンの第14方面軍に配属され、マニラ湾の出入り口にあるルバング島で、残置諜報/遊撃指導を命じられる。
・45年2月28日、米軍1個大隊がルバング島に上陸する。日本軍は山間部に逃げ込み、小野田少尉は他の3名と遊撃戦を展開する。

・戦後も彼らは遊撃戦を続け、百回を超える戦闘を行った。彼らはフィリピン警察/民間人/米軍と戦い、30人以上を殺傷している。
・50年6月仲間の1人が米軍に投降し、残り3名の存在が明らかになる。その後54年5月の戦闘で1名が亡くなり、72年10月の戦闘で1名が亡くなる。

・彼らの存在が明らかになると、捜索隊が度々派遣された。彼は兄を目撃したが、投降しなかった。捜索隊が新聞/雑誌を残したため、現状は把握していたようである。またラジオを入手し、日本の歌謡番組も聴いていた。※日本の放送が聴けるの?それなら戦争が終わった事を完全に把握していただろうに。
・74年2月20日、彼を探していた鈴木紀夫が、彼に遭遇する。彼は上官の命令があれば、任務を離れる事を伝える。3月9日、上官であった谷口義美・少佐が任務解除/帰国命令を伝え、彼は帰国する。※戦後30年間も戦い続けたんだ。恐ろしい教育だ。
・日本に帰国後、ブラジルに渡り、牧場経営に成功する。

・74年インドネシアのモロタイ島で高砂族出身の中村輝夫が発見される。彼は台湾に帰るが、79年飲酒/喫煙などにより死亡している。

<戦後日本のカタチを決めた米ソの冷戦構造>
○世界で「8月15日=終戦」になっていない理由
・1945年8月14日、日本は連合国に「ポツダム宣言」の受諾を伝え、その翌日「玉音放送」が行われた。そして9月2日降伏文書に署名した。
・52年9月2日(※51年9月8日では?)日本は「サンフランシスコ平和条約」を締結し、国際社会にデビュー(復帰?)するが、各国との戦闘状態が終了した訳ではない。ソ連とは、1956年「日ソ共同宣言」が批准されるが、平和条約は結ばれていない。中華人民共和国(1949年建国)とは、1972年「日中共同宣言」で戦闘状態は終了する。

・米国は9月2日を「VJデー」(対日戦勝記念日)とした。
・ソ連は9月3日を「対日戦勝記念日」とした。それは9月2日に歯舞諸島の攻略作戦を発動し、5日に完了した経緯があったためであろう。2010年ロシアは「対日戦勝記念日」を9月2日とする法案を可決し、欧米に一致させる。
・中華民国とは、9月9日南京で降伏調印している。しかし「対日戦勝記念日」は9月3日とした。※9月2日戦艦ミズーリで降伏調印し、さらに9月9日降伏調印しているのか。
・49年に成立した中華人民共和国は2014年、9月3日を「対日戦勝記念日」とした。
・日本領であった大韓民国は、8月15日を「光復節」、北朝鮮人民共和国も8月15日を「解放記念日」としている。

・欧州ではドイツが降伏文書に署名した日が「戦勝記念日」となるが、調印式の行われた仏国ランスで5月8日23時1分、英国は夏時間の影響で5月9日0時1分となる。
・ソ連は別にベルリンで調印式を行ったため、5月9日0時15分となった。これはモスクワ夏時間で5月9日2時15分で、ロシア/カザフスタン/ベラルーシでは5月9日が「対独戦勝記念日」になった。
・だがチェコスロバキアでは、まだドイツ軍90万が抵抗しており、5月6日ソ連軍200万が派遣され、11日に制圧している。

○米国の日本占領政策が生んだ光と影
・1951年9月8日「サンフランシスコ平和条約」「日米安保条約」が結ばれる。「日米安保条約」は下士官用クラブハウスの一室で、吉田首相一人が出席し、調印した。

・「日米安保条約」により米軍は在日米軍となり、他の連合国軍は撤収した。この条約は前文と5ヵ条からなった。「日本は武装解除されており、国内外の軍国主義から守るため、米軍の維持を希望する」と前文に記された。

・この条約を具体化したのが、52年2月28日に結ばれた「日米行政協定」である。この協定は前文と29条からなった。この協定には、米軍の人数/米軍基地/軍人の裁判権/日本の財政負担などが記された。米軍は必要であれば、自由に土地を接収でき、その期限も制限はなかった。

・米国は、①自由貿易による国際経済体制の維持、②米軍による太平洋支配を原則としていた。しかし50年に始まった「朝鮮戦争」は、この原則を脅かし、陸上兵力の重要性や日本の戦略的な重要性を認識する。そのため日本に安定した保守政権が必要になった。50年「警察予備隊」を創設し、治安に当たらせる。その後自衛隊へ改編される。

・この経緯から、日本の道筋は「日米安保条約」に決したと云える。あらゆる外交はこの枠内で決定され、日本は「自主性のない国」「顔のない国」「米国の51番目の州」と云われるようになった。
・「平和条約」「日米安保条約」を契機に、日本の政治機構も確立する。政党は保守(自由民主党)と革新(社会党、共産党)に分立し、一党支配の「55年体制」となる。55年欧州では「NATO」(北大西洋条約機構)が結成され、冷戦構造の中で日本の政治機構も確立した。

・日本の政治機構には社会主義と自由主義の2つの潮流があり、その対立が労働組合のストライキ/基地反対運動/大学紛争なでに表れた。52~60年の間に、52年-破壊活動防止法反対ストライキ/電産・炭労ストライキ、53年-内灘基地反対闘争/三井鉱山人員整理反対闘争、54年-尼崎製鋼争議/近江絹糸人権ストライキ、55年-砂川基地反対闘争/北富士演習地事件、57年-相馬ヶ原演習場農婦射殺事件/日教組勤務評定反対闘争、58年-苫小牧王子製紙ストライキなどが起きている。※こんなにあったの。
・55年日本には657ヶ所/4億1千万坪の米軍基地があり、さらに無制限に拡張できる状況だった。また日本は年額1億5500万ドルを負担していた。これは世界でも類を見ない基地制度である。

○朝鮮戦争が自衛隊を発足させ、日本経済を復興させた
・日本国憲法と「日米安保条約」は、日本の安全保障と外交・経済政策を根本的に決定している。
・1950年米国は防衛線(アチソン・ライン)を日本海-朝鮮海峡-東シナ海-南シナ海に設定する。これを見て北朝鮮は朝鮮統一のチャンスと判断し、50年6月25日、韓国に侵攻する。53年7月27日、休戦協定に合意する。

・50年7月8日マッカーサーは日本に警察予備隊の創設などを要請し、8月10日政令として警察予備隊が発足し、その後法律が成立している。この手法は、安倍政権が集団的自衛権を閣議決定した手法と同様である。
・51年9月8「サンフランシスコ平和条約」「日米安保条約」を締結し(発効は52年4月28日)、54年6月9日防衛庁設置法/自衛隊法が成立し、7月1日自衛隊が発足している。自衛隊は採用・配置/装備/訓練などが米軍式で、実質”ミニ米軍”であった。憲法には「戦争放棄」「戦力非保持」が記されているため、自衛隊のあらゆる名称に”兵””軍”が使われなかった。工兵は”施設部隊”とされ、戦車は”特車”とされた。
・自衛隊の発足は、冷戦構造の具体的な表れであり、日本が米国のカウンター・パートとなる事を意味した。

・「朝鮮戦争」時、横浜にGHQの兵站司令部が置かれ、日本は米軍の補給基地になる。港で眠っていた船舶80万トンの内、30万トンが米軍に雇用された。日本の製造工業生産指数は戦前(34~36年)を100とすると、50年102、55年189に回復・拡大する。

・防衛庁設置法/自衛隊法と共に、秘密保護法も公布される。この法律は米国との「MSA協定」に伴ったものである。米国の国内法MSA(相互安全保障法)は、同盟国に対外経済援助/軍事援助/技術開発援助する法律である。これにより米国製F5戦闘機がアジアにばら撒かれた。
※MSA協定の存在は知らなかった。天然ガスの輸入ができなかったのは、この法律の例外かな。

・平和条約/安保条約/行政協定、防衛庁設置法/自衛隊法/秘密保護法により日本の対米路線は完成する。自衛隊の発足と経済の復興は戦後日本の両輪になった。

○米兵の犯罪から日米安保条約は改定された
・東西対立が激しさを増していたが、米軍が自由に工場/農地を接収できる条約には反発があった。1957年1月30日群馬県の相馬ヶ原演習場で薬莢を拾っていた農婦が米兵ジラードに射殺される事件が起きる(ジラード事件)。前橋地裁で公判が行われ、懲役3年・執行猶予4年の判決が下る。刑の軽さも問題になったが、判決直後にジラードが帰国し、これも反感を呼んだ。※この事件は知らなかった。

・この事件が契機になり、1960年1月19日「新日米安保条約」が結ばれる。これにより不平等条約は破棄された。また「日米行政協定」の見直しも行われた。日本は年額1億5千万ドルを負担していたが、新しい「日米地位協定」では施設区域の負担(借り上げ料、補償費)を日本が行う事になった。その後の日米関係は安定したものになる。

・新旧「日米安保条約」により、日本は米軍に基地を提供しているが、その目的は日本およびアジアの安全のためである。例えば尖閣諸島に中国軍が上陸すれば、「日米安保条約」の対象になる。それ以前に強力な米軍基地は、地域の抑止力になっている。「ベトナム戦争」では日本の基地から出動している。※これは国際法では戦争当事者になるらしい。
・北朝鮮有事になれば、米軍は日本の基地からの出動する事になる。「集団的自衛権行使」も米軍の重要な支援となる。「日米安保」は地域の公共財になっている。

○1984年8月15日に傍受したソ連の戦闘開始電文
・1980年ソ連がアフガニスタンに侵攻したため、モスクワ・オリンピックに西側諸国は参加しなかった。84年ロサンゼルス・オリンピックが開かれるが、逆に東側諸国は参加しなかった。84年は冷戦が最高潮に達した時期であった。

・稚内に防衛庁の通信所がある。83年9月1日アンカレッジからソウルに向かう大韓航空機がソ連の戦闘機のミサイルを受け、撃墜される。この時、稚内の通信所がソ連軍の全ての通信を傍受し、それを国連で公開している。

・84年8月15日午後4時、稚内の通信所が、ウラジオストクの太平洋艦隊から特殊部隊の司令部があるウスリースクに送られた暗号電報「これから米軍と戦闘に入る」を傍受する(※暗号を解読できるのは凄いな)。時の首相は中曽根康弘であった。首相は防衛庁に「米国にも確認し、ソ連の出方を確認する」よう指示する。自衛隊は各方面に緊急警戒指令を発した。
・傍受30分後、稚内の通信所は暗号電文「先の電報内容を解除する」を傍受する。

・事件の4日前、レーガン大統領がマイクのテストで言った「ソ連に対し爆撃を命じた」が放送されるミスがあった。事件はその報復とされているが、謎である。

<現在の日中関係の原点は終戦のカタチにあった>
○太平洋では敗色濃厚だが、攻勢を続けた中国大陸の8月15日
・日本は太平洋では、1944年春頃には制空権/制海権を奪われ、ソロモン諸島/トラック諸島/パラオ諸島/ニューギニアなどは孤立した。一方中国大陸では意気軒昂であった。44年3月ビルマでは「インパール作戦」、4月中国では「大陸打通作戦」が開始される。「大陸打通作戦」は北京から仏領インドシナ、さらにシンガポール/ビルマに道路/鉄道を通す作戦である。

・4月まず北京と漢口の打通が行われ、洛陽の攻略で完了する。5月末、次に漢口から南方への打通が行われた。しかし制空権は米軍が握っており、衝陽では米軍の装備をする中国軍に苦戦し、8月衝陽を占領する。なお6月15日成都を発したB29・47機が、北九州を空襲している。その後も侵攻を続け、45年1月26日、中国とインドシナの打通が完成する。
・しかし太平洋ではフィリピンのレイテ島/ルソン島が陥落し、45年3月10日サイパンを発したB29が東京を大空襲している。そのため「大陸打通作戦」は何の役割も果たさなかった。※何となく聞いていたが、そんな作戦か。

・その後大陸でも、中国軍が優勢になる。4月重慶/成都攻略の前哨戦が始まるが、日本軍は撤退する。その背後にビルマから中国各地を結ぶ「援蒋ルート」があった。
・7月9日支那派遣軍総参謀副長が蒋介石の側近と和平交渉するが、中国はカイロ宣言(43年1月)に参加し、単独講和できないと断る。8月15日支那派遣軍は玉音放送を聞き、それに従う。

○2つの中国が行った2つの戦争犯罪裁判
・中国大陸の戦線は複雑であった。単純に云えば、南部では米英に支援された蒋介石の中国国民党軍が支那派遣軍と戦い、北部ではソ連に支援された毛沢東の中国共産党軍が関東軍と戦っていた。一方で国民党軍と共産党軍は内戦を戦っていた。
・1928年6月9日国民党軍は北京に入城し、清皇帝と袁世凱が樹立した政府を倒す。31年共産党は江西省瑞金に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立する。

・45年9月9日支那派遣軍は国民党軍に対し、降伏文書に調印する。蒋介石代理の何応欽・将軍は「ポツダム宣言」に従い、日本兵を丁重に扱う。当時の支那派遣軍は105万名で、45万名が戦死していた。
・一方関東軍はソ連軍の侵攻により、ソ連軍に投降した。日本兵58万名はシベリアに強制連行された。だが武装解除は共産党軍が行った。関東軍はこれを拒否し、共産党軍と戦闘になり、45年11月末までに日本兵2900名が戦死している。※日本軍の武器が共産党に渡ったのは、このためか。ソ連の強制連行はポツダム宣言違反。

・45年8月15日蒋介石は「以徳報怨」(怨みに報いるに徳をもってせよ)と演説する。これは「ポツダム宣言」の理念に従っていた。また彼には共産党軍/ソ連軍に対する脅威があり、日本軍のサポートを必要としていた。一方共産党軍は日本人を「留用日本人」として空軍の創設などに当たらせた。※色々な事実があるものだ。

・中国では東京裁判とは別に対日戦争犯罪裁判が開廷された。ここではB級(通例の戦争犯罪)/C級(人道に対する罪)が裁かれた。被告883名に対し、死刑149名/無期刑83名/有期刑272名の判決が下った。この判決は一部に罪を集中させた寛容な判決であった。

・これは共産党による戦争犯罪裁判でも踏襲される。国共内戦が終了し、56年対日戦争犯罪裁判が始まる。被告1106名(ソ連からの移送966名、共産軍の捕虜140名)に対し、禁固刑45名の判決が下る。これも軍国主義は悪であるが、日本人には罪はないとする寛容な判決であった。
・しかしこの思考は今も続いており、A級戦犯が合祀されている靖国神社に対し、厳格な態度を取り続けている。また中華人民共和国には戦争犯罪を裁く根拠がないため、この思考は「サンフランシスコ平和条約」の第11条(東京裁判の受諾)が根拠になっている。※中国の思考は、軍国主義に対する厳格な態度か。

○中華人民共和国の建設に協力させられた「留用日本人」
・1945年8月9日ソ連は「日ソ中立条約」を破棄し、ソ連軍174万が満州に侵攻する。関東軍は戦うが、8月26日交渉により休戦する。「ポツダム宣言」第9条には、「軍隊は武装解除後、帰郷する」となっていたが、日本兵58万人をシベリアに強制連行する。日本では「シベリア抑留」とされているが、実際はソ連全土/欧州などに送られている。その後47万人が帰国している。

・もう1つの悲劇が「留用日本人」である。ソ連軍は満州侵攻後、満州を中国共産党の八路軍に引き渡した。当時中国は共産党と国民党が内戦中で、国民党軍が満州に侵攻してきた。そのため共産党は日本人の技術者(医師・看護婦、技師・熟練工、鉄道技術者、科学者、映画人、放送局職員)を留用した。その数は家族を含め、2万人を超えた。※これは知らなかった。

・45年9月より帰国事業は進められたが、「ポツダム宣言」第9条は軍人が対象で、民間人の規定はなく、各国に委ねられていた。しかし留用された軍人もいる。関東軍錬成飛行隊の林弥一郎・少佐ら300人(パイロット、航空機整備兵、通信兵など)は、「捕虜扱いしない」「生活習慣を考慮する」「家族同居を許す」などの条件で留用された。
・彼らは破壊した99式高等練習機を作り上げ、八路軍に航空工学/整備方法/操縦方法を教えた(※言葉が障害になりそう)。これは内戦には間に合わなかったが、49年10月1日毛沢東が天安門広場で中華人民共和国の建国を宣言したが、その上空を99式高等練習機が編隊飛行した。※中国空軍の起源が99式高等練習機とは笑ってしまう。
・林は、これを機に帰国を要請するが、日中の国交はなく、間もなく「朝鮮戦争」も始まり、帰国は困難になる。

・50年10月元満鉄職員800人が、甘粛省の天水から蘭州まで350kmの鉄道建設に従事させられ、52年10月これを完成させる。この鉄道は西方からの石油の輸送に使われた。

・50年10月モナコでの国際赤十字の連盟理事会で、日本赤十字社長・島津忠承が中国の紅十字会代表に、日本人看護婦の帰国を要請する。52年6月高良とみ・参院議員が上海を訪れ、看護婦の帰国を交渉する。53年3月島津は中国に向い、「留用日本人」を帰国させる。この帰国事業は58年まで続けられた。

○金門島の戦いで台湾を死守した旧日本軍人
・共産党に留用された軍人/民間人もいたが、自ら国民党に協力した軍人もいた。1949年臨時国会で共産党参院議員の質問趣意書で、元陸軍中将・根本博/元陸軍中佐・吉川源三らの存在が明らかになる。49年7月根本中将らは台湾に渡り、さらに福建省に赴き、共産党軍との戦いに参加していた。
・根本中将以外のルートもあった。支那派遣軍総司令官であった岡村寧次・大将を中心とするグループ「白団」である。この団員83名は20年間(49~69年)、台湾で軍事教官として活動し、国民党軍の基礎を作った。

・日本国内は猛烈のインフレと大量の失業で混乱していた。国鉄争議に関する事件(下山事件、三鷹事件、松川事件)が起こった。ソ連から帰国した人が赤旗を振り、労働歌「インターナショナル」を歌うなど、騒然としていた。旧軍人は公職追放され、軍人恩給もおぼつかなかった。49年当時、中国の内戦は激化し、国民党政府は各方面から旧軍人にアプローチしていた。※児玉誉士夫が台湾義勇軍を募兵していた話を聞いた事がある。

・49年10月根本氏は国民党軍を指揮し、共産党軍の金門島上陸を阻止している。※金門島って、こんな場所にあるのか。
・「白団」の団員は台湾に渡り、重慶の蒋介石に会っている。その後台北の軍学校で教練/戦術/通信/情報/戦史などを教え、さらに大佐以上の高級課程なども教えている。※言葉は日本語かな。

○世界第2位の経済大国を援助する矛盾を生んだ中国との終戦
・1951年9月「サンフランシスコ平和条約」により日本は国際社会に復帰した。しかし中華民国/中華人民共和国、いずれも講和会議に招聘されなかった。韓国も対日参戦国でないので招聘されていない。

・当時「朝鮮戦争」(50年6月~53年7月)が行われていたが、北朝鮮の金日成政権はソ連の傀儡政権であった。それを危惧した中国共産党は、早くから義勇軍を北朝鮮に派遣した。
・韓国の李承晩は米国のロビー活動で蒋介石と知り合い、そのお蔭で初代大統領(48年7月~60年4月)になった。※48年に大統領に就いているが、ロビー活動は何時からだろう。1904年には米国に渡っている。

・52年4月28日「サンフランシスコ平和条約」が発効する。その日、日本は中華民国(台湾)と「日華平和条約」を結ぶ。台湾は賠償請求権を放棄するが、日本の資産を没収する。その総額は軍事施設/武器/官営施設/私有財産など110億円で、日本の予算(昭和20年230億円)の半分あった。※戦後は超インフレだけど。まあ半世紀植民地していたので莫大だろうね。

・52年9月「サンフランシスコ平和条約」により、日本はポツダム宣言を発した西側諸国(米国、英国、台湾)に加わった。これにより中華人民共和国(中国)との関係は、民間貿易協定は存在したが、その後20年間冷えたものになる。
・しかし「ベトナム戦争」(55年11月~75年4月)での米国の敗北が転機になる。69年3月中ソ国境で武力衝突が起きるなど、中ソ関係は悪化していた。そこでニクソン大統領/キッシンジャー国務長官は中国に接近し、冷戦構造”ソ連・中国vs米国”を”ソ連vs米国・中国”に転換させた。72年3月英国、9月日本、10月西ドイツが中国と国交を回復する。※米中の国交正常化は79年1月みたいだな。
・72年9月「日中共同声明」で、中国は賠償請求権を放棄し、正当な政府として認めた。78年「日中平和友好条約」が結ばれる。ただし政府開発援助(ODA)として多額の資金援助を今も続けている。※そろそろ止めろよ。経済支援ではなく戦時賠償なのかな。

<アジアの解放/独立/建国に至る日本の影響>
○現在まで引きずる8月15日に朝鮮半島で起こった事
・1945年8月15日「ポツダム宣言」受諾の玉音放送は、朝鮮では日本統治からの解放を意味した。連合国は日本本土に対しては方針を持っていたが、朝鮮に対しては明確な方針を持っていなかった。
・日本の朝鮮総督府は朝鮮独立に備え、44年8月(※1年前?)穏健な社会主義者・呂運亨に「建国同盟」を組織させていた。朝鮮には治安維持法による収監者が1万6千人いた。
・終戦により総督府は彼らのコントロールを呂に任せ、45年8月16日彼らを解放した。朝鮮各地で日章旗が降ろされ、朝鮮王朝の太極旗が掲げられた。呂の組織は、全国145ヵ所からなる「建国準備委員会」となった。

・9月6日「建国準備委員会」は「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言する。しかし連合国は朝鮮を38度線で分割し、米英中ソで分割統治する計画で、進駐した米軍は、10月10日これを否認する。この朝鮮への対応の遅れが、その後の”ホット・ウォー”(熱戦)の火種になる。

・8月28日ソ連は平壌を占領するが行政機能は混乱した。満州パルチザンであった金日成に委ねるが、混乱状態が続いた。
・米軍の進駐は遅れ、9月9日ソウルに入り、降伏文書の調印を行う。これにより米軍の軍政が布かれ、公用語は英語となった(※日本語から英語かな)。これらに朝鮮人は反発し、混乱した。※南北共に混乱だな。

・48年8月13日南に大韓民国が建国され、9月9日北に朝鮮人民共和国が建国される。これにより分断国家が始まる。ただし8月15日を大韓民国は「光復節」、朝鮮人民共和国は「解放記念日」としている。

○反日が建国の原点となった南北朝鮮の建国事情
・戦後直後、朝鮮は政治空白になるが、南北とも米ソが指名した者が指導者になる。北は金日成、南は李承晩である。
※このパターンは多い。仏国ド・ゴールや東ドイツもそのはず。日本の吉田首相もそれに近いかな。

・李は政治犯になり米国に逃れ、ハーバード大学で学位、プリンストン大学で博士号を取る。その後も米国で過ごし、ロビイストになり、朝鮮独立を訴える。米国には朝鮮に詳しいものがおらず、彼は頼りにされた。また彼はキリスト教徒で、妻は米国人である。しかし在韓米軍司令官やマッカーサーには軽く見られていた。
・一方金は満州でソ連赤軍のバックアップで抗日運動を行っていた。これは神話となった。朝鮮に入っても強圧的なスターリン・モデルを採用した。

・李はカリスマ性がなかったため、「反日」を掲げた。その具体例が、52年に設定した領海線「李承晩ライン」で、竹島を韓国領にし、竹島に警察隊を駐屯させた。
・65年「日韓基本条約」で、この領海線は破棄される。しかしその後も日本漁船は拿捕され続け、銃撃による日本人の死傷者は44人に及んだ。

・竹島は韓国独立の象徴になり、政権が危機的状況になると、これを利用した。2012年8月李明博・大統領は竹島に上陸する。さらに彼は「日王は韓国を訪問したがっているが、それなら韓国独立運動で亡くなった方に謝罪しろ」と発言する。
・竹島問題はハーグ国際司法裁判所に委ねれば済む話だが、韓国はこれを拒絶している。

○欧米からの独立の旗がアジアに掲げられた日
・20世紀初頭、アジアで中央政府が機能しているのはタイと日本だけだった。インド/ビルマ(ミャンマー)/マレーは英国領、ベトナム/ラオス/カンボジアは仏領インドシナ、インドネシアはオランダ領であった。日本は「第1次世界大戦」で南洋諸島(サイパン、ヤップなど)を委任統治するようになり、東南アジアに関与するようになる。

・1940年「第2次世界大戦」によりオランダ/仏国は降伏する。共にロンドンに亡命政権を作るが、仏国は国土が2分され、3つの権力が存在する事になった。
・40年5月日本は北部仏領インドシナに進駐し、7月南部仏領インドシナに進駐する。41年12月8日「真珠湾攻撃」と同時にマレーに上陸する。英国東洋艦隊2隻も直ぐに撃沈する。42年3月9日インドネシアのオランダを屈服させる。これらにより東南アジアで欧州勢力は権威を失った。日本はこれらの国を独立させず軍政を布いたため、日本の敗戦で各国は独立のチャンスを得た。

・フィリピンは45年2月に米軍が進攻していたが、他の国は連合軍の進攻はなかった。しかし英国/仏国/オランダは戦後復興のため、植民地の再統治を必要とした。独立を願う各国は、旧宗主国が進攻するまでに国内を整える必要があった。

・ベトナムでは、45年9月仏国が大規模な軍を送る。しかし既にベトミンが「ベトナム民主共和国」(北ベトナム)の独立を宣言しており、56年6月仏軍は撤退する。その後米軍による「第2次ベトナム戦争」を経て、1974年北ベトナムによりベトナム統一が成される。※30年か、長いな。

・インドネシアでは、45年7月日本は独立を認め、ペタ(郷土防衛義勇軍)/バリサン・プロポール(推進隊)/バリサン・ヒズボラ/青年団/警防団/プートラ(民衆総力結集運動)などの組織に日本軍の武器を与えていた。初代大統領になるスカルノを中心に独立調査委員会が設立された。8月17日「インドネシア共和国」の独立を宣言し、その統治は広がった。45年9月オランダ軍はインドネシアに上陸するが、49年12月「インドネシア共和国」は承認される。

・ビルマでは、かつてより指導者アウンサンが独立義勇軍を組織し、英国からの独立運動を展開していた。日本は独立義勇軍と共にビルマを制圧するが、軍政を布いた。
・44年8月パサパラ(反ファシスト人民自由連盟)が結成され、連合軍と共に日本軍に反抗する。45年3月ビルマ国民軍が反日に寝返り、5月日本軍との戦闘は終わるが、英国は植民地支配を再開した。48年「ビルマ連邦」として独立する。

・フィリピンでは早くから独立運動が起こっており、1989年活動家が日本から武器を調達したり、日本の支援者がマニラで米国に逮捕されている。このように日本と独立運動家の繋がりは深かった。※1989年6月米国はフィリピン共和国を独立させているが、実権は米国にあったみたい。
・日本占領以前、米国は45年にフィリピンの独立を約束しており、既に自治政府が存在した。そのため日本が占領すると、米極東軍中心の「ユサッフェゲリラ」や農民が中心の「フクバラハップ」(抗日人民軍)が抗日運動を行った。
・43年10月日本はホセ・ラウルス政府(ホセ・ラウレル?)の独立を認めるが、これはスペイン植民地時代から続く巨大地主による寡頭政治であった。したがって「フクバラハップ」の活動は体制への反発であった。マニラに戻ったマッカーサーは彼らを逮捕し、武装解除を行った。しかし46年7月フィリピンは独立を果たす。
※結局どの政権だ?今に続く第三共和政みたいだな。フィリピンについては知らない。

・インドネシアの独立運動には元日本兵1千名が参加したと云われる。その動機は様々である(※省略)。その半数は命を落とし、ジャカルタのカリバタ英雄墓地などに葬られている。また6名には国家最高栄誉「ナラリア勲章」が授与されている。1958年日本とインドネシアの平和条約/賠償協定が結ばれ、日本企業のインドネシア進出が始まる。インドネシアが台湾と並んで親日なのは、インドネシアの脱植民地化に元日本兵が大きく寄与したためである。

<今も残る第2次世界大戦の長い影>
○米国の占領政策が生んだ新憲法と正しい歴史認識
・1985年8月著者はロサンゼルスからボストンへの飛行機に乗った際、元米軍人が隣に座った。45年8月29日彼はマッカーサーの先遣隊として厚木基地に降り立った。その時パイロットも追い風で着陸するなど、皆緊張していた。彼らは特攻攻撃/玉砕突撃を知っていたため、着陸と共に銃撃戦になると予想し、戦闘態勢で降り立った。ところが迎えに来たのは笑顔の高級将校であった。翌日のマッカーサーのサングラス/コーンパイプ姿もその緊張の表れかもしれない。※この話は面白い。

・しかし米軍が進駐しても、組織的抵抗は一切なく、武装解除も円滑に進んだ。1870年「普仏戦争」で敗れたナポレオン3世は捕虜になり、帝政は崩壊した。ロシアでは日露戦争後に革命勢力が勢いを増し、「ロシア革命」となり、ロマノフ王朝は消滅した。「第1次世界大戦」で敗れたドイツ帝国の皇帝ウィルヘルム2世は亡命した。同じく敗れたオーストリアも帝政が崩壊した。「第2次世界大戦」で国民を捨てて逃走したイタリア国王は廃位された。ドイツはヒットラー自殺後、降伏するが認められず、連合軍に征服される。しかし日本の敗戦だけは、これと異なった。※日本はモノを言わない国民だからかな。

・9月2日降伏文書に調印した日、マッカーサーは「三布告」(軍政による直接統治、軍事裁判、軍票の流通)を布告する。しかし重光外相の交渉で、翌日には撤回される(前述)。この件では日本の立場を貫けたが、マッカーサーの強権的な占領政策が多く見られる。検閲制度/戦争贖罪宣伝計画/日本国憲法/東京裁判などである。

・検閲制度は初期は事前検閲であったが、事後検閲に変わる。事後検閲による発行物の回収は多大な損害になるので、当局の意向に添った編集にならざるを得なかった。
・戦争贖罪宣伝計画は、「国家としての無条件降伏」「侵略戦争の認識」「戦争犯罪人の処罰」などの贖罪感を醸成させるものであった。これは戦争を”ファシズムvs民主主義”に単純化させるもので、”善と悪の戦い”であり、十字軍と同じ発想だった。
・”悪を悔い改め、不戦の誓い”をさせたのが「日本国憲法」である。中国/韓国が日本を攻撃する際に使う「正しい歴史認識」は、米国の占領政策と根幹が一致している。

○謝らないドイツと謝り続ける日本
・1970年西ドイツ首相ヴィリー・ブラントがホロコースト記念碑の前で跪いて涙した(ワルシャワの跪き)。これはドイツ人の贖罪意識の高さを表した象徴とされた。2014年訪独した習近平・主席はブラントの行為を賞賛し、日本は国家としての謝罪/賠償がないと批判した。
・ナチスは合法的に第一党になったため、ナチスの政策は国民の総意である。しかしユダヤ人の虐殺は国民に知らされなかった。ところが1985年西ドイツ大統領ワイツゼッカーが「国民にも責任がある」と演説し、今はそれが歴史認識になっている。

・しかしドイツと日本には大きな違いがある。日本は国家の降伏が許されたが、ドイツはそれが許されず、連合国に征服されたのである。
・1945年4月30日ヒットラーの死後、デーニッツ元帥が大統領に就く。彼はヨードル大将を連合軍最高司令部があった仏国ランスに向かわせ、5月7日米英仏ソと降伏文書に調印する。だがソ連の要求で、5月9日ソ連占領下ベルリンで米英仏ソと同じ降伏文書に調印する。そのため米英仏は5月7日を戦勝日としたが、ソ連は5月9日を戦勝日とした。
・日本は戦艦ミズーリで、軍と政府の代表が出席し調印した。しかしドイツの場合は軍の代表のみが調印し、軍の降伏だけが認められた。その時点でデーニッツは連合国の捕虜になり、ドイツ政府は当事者能力を失った。結局ドイツは米英仏ソに征服され、6月5日米英仏ソが分割統治する宣言をする。

・ドイツは一旦消滅し、49年全く継続性のない東西ドイツが成立する。そのため日本のように平和条約で領土の帰属/戦時賠償などを解決する道はなかった。そのため東西ドイツは個別に対応する事になるが、幸いにも欧州各国は戦時賠償の請求権を放棄した。
・西ドイツは自主憲法(※基本法?)を定め、再軍備を行い、NATO(北大西洋条約機構)に組み込まれ、徴兵制も復活させた。東ドイツも同様に「ワルシャワ条約機構」に組み込まれ、軍隊を復活させた。
・欧州にはソ連の脅威があり、その前面に西ドイツが置かれた。そのため「第2次世界大戦」の謝罪はドイツ国民には課せられたが、ドイツ国家には課せられなかった。

・存続が許された日本は、1951年「サンフランシスコ平和条約」を締結する。締結しなかったソ連とは、56年「日ソ共同宣言」で戦争状態は終結させる。同じく締結しなかった中華民国とは、52年「日華平和条約」を締結する。中華人民共和国とは、72年「日中共同声明」で戦争の終結を確認している。※宣言と声明で重さが違うのだが。
・「サンフランシスコ平和条約」で連合国は賠償請求権を破棄し、ソ連/中国と交わした文書でも戦時賠償請求権を破棄している。日本とドイツは法的な前提条件が異なるため、日本は中韓に謝り続けている。

○北方領土問題の原点はソ連の北方四島侵攻への無抵抗にある
・1945年8月15日、日本人は戦争が終わったと信じたが、ソ連はその日に千島侵攻を命じている。政府は北方四島(択捉、国後、色丹、歯舞)の返還を要求しているが、ロシアはそれを拒み続けている。

・敗戦処理が一段落し、平和条約締結の段階に至ると、資本主義諸国との「単独講和」か社会主義諸国も含めた「全面講和」かの議論が起こった。しかしこれは意味のない議論であった。
・50年2月14日中ソは「中ソ友好同盟相互援助条約」を締結し、日本を敵視した。6月25日「朝鮮戦争」が勃発し、日本は米軍(国連軍)の後方基地になった。さらに日本兵のシベリア抑留や、日本での共産党の弾圧は日ソ関係を悪化させた。
・51年9月8日「サンフランシスコ平和条約」が締結されるが、ソ連は「中国の代表として、中華人民共和国が招請されていない」として、会議には出席したが、調印を拒否した。

・53年スターリンが死去し、「朝鮮戦争」が休戦すると、日ソ関係も緩和され、56年5月「日ソ漁業協定」が結ばれる。10月「日ソ共同宣言」が締結されるが、この時日ソは「二島返還」で妥結寸前であったが、米国が「二島返還」だと沖縄は返還しないと脅し、これは流れる(ダレスの恫喝)。これ以降日本は「四島一括返還」に転換する。※やはり日本は属国。
・「日ソ共同宣言」により、日ソ間の戦争状態は終結するが、領土問題は平和条約締結後に「二島返還」が前提になる。56年12月ソ連の賛成を得て、日本は国連に加盟する。

・60年岸内閣が「日米安保条約」を改定するが、ソ連はこれに反発し「二島返還」を撤回し、日ソ間は冷却する。
・91年ソ連が崩壊し、93年エリツィン大統領が来日するが、ソ連時代の条約を継承する確認だけに終わった。その後も度々日ロ間で交渉が行われたが、進展はない(※詳細省略)。
・安倍首相とプーチン大統領との会談が重ねられているが、ウクライナ/クリミア半島での”実力による現状変更”は認められず、北方領土問題は棚上げになっている。
※北方領土問題は分かり易かった。

○安倍首相が目標とする戦後レジュームからの脱却
・1945年9月2日以降、日本の戦後体制(戦後レジューム)は確立していく。この「戦後レジューム」の中心は日本国憲法である。
・55年保守政党が「自由民主党」を結成し、革新政党も「日本社会党」を結成し、二大勢力が生まれた(55年体制)。※二大政党を目指した小選挙区制が、55年体制を崩壊させるとは皮肉だな。
・当初、日本国憲法を”押し付けられた憲法”とし、自民党は「自主憲法制定」を綱領に掲げたが、軍事費に予算を掛けず経済政策を優先し、経済復興を成し、政権を維持した。

・91年ソ連は崩壊するが、中国が軍事的・経済的に台頭し、北朝鮮は核・ミサイルの開発を進めている。一方で米国の軍事プレゼンスは低下し、米国だけに安全保障を委ねる時代は終わった。この状況から安倍内閣は「戦後レジュームからの脱却」を掲げた。安倍内閣の云う「戦後レジューム」には日本国憲法のみならず、占領時代に制定された教育基本法や、集団的自衛権を含む安全保障の枠組みも含まれる。
・2014年暮れの総選挙で、自民党は475議席中291議席を獲得して圧勝する。その記者会見で「経済が最優先だが、強い経済により、強い外交・安全保障が実現できる」と発言する。かれの総合的な目標は「戦後レジュームからの脱却」である。
・自民党の公約に「安全保障法制の整備」があり、「特定秘密保護法」を成立させ、集団的自衛権行使の憲法解釈を閣議決定し総選挙を実施した。

・15年の国会は、集団的自衛権行使に関する法律制定が焦点になる。これは安倍内閣が唱える「積極的平和主義」とセットになっている。これは価値観を共にする国家が共同で安全保障する政策であり、この背景に北朝鮮/中国の存在がある。
・オーストリアと共同する事で、沖縄基地の負担軽減にも繋がる。そのためには二国間協力ではなく、オーストリア/韓国/フィリピン/インドなどとの多国間協力が有効となる。

・14年総選挙の結果から、集団的自衛権行使の関連法案の可決が可能になった。16年参院選挙で2/3の議席を獲得すれば、憲法改正の発議も可能になる。こう考えると、「アベノミクス」を単に経済政策とするのは本質を見誤る事になる。

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