『幕末雄藩列伝』伊藤潤(2017年)を読書。
幕末での諸藩の行動を、駆け足で解説している。
当時意思決定の単位は藩で、様々な対応があって面白い。
薩長土肥/佐幕藩/弱小藩など14藩を紹介しており、歴史の表裏を知れる。
解説範囲が広いので、内容は膨大で、知らなかった事も多い。
お勧め度:☆☆☆
キーワード:<薩摩藩>島津重豪/調所広郷、島津斉彬、島津久光/薩英戦争、小松帯刀/西郷隆盛/大久保利通、<彦根藩>井伊直弼/修好通商条約/安政の大獄、井伊直憲、<仙台藩>東北戊辰戦争/奥羽越列藩同盟、<加賀藩>前田斉泰/前田慶寧、<佐賀藩>鍋島閑叟(斉正)、長崎、江藤新平、<庄内藩>清河八郎、酒井玄蕃了恒、<請西藩>献兎賜盃、林忠崇、遊撃隊/戊辰箱根戦争/磐城平城、<土佐藩>山内容堂、土佐勤王党、坂本龍馬、乾退助(板垣退助)、<長岡藩>河井継之助、戊辰戦争、<水戸藩>水戸学、徳川斉昭、天狗党/諸生党、<二本松藩>白河、三春藩、<長州藩>松下村塾、下関事件、8月18日の政変、禁門の変/下関戦争/第1次長州征討、第2次長州征討/大村益次郎、<松前藩>蝦夷地/アイヌ、正義隊、箱館戦争、<会津藩>松平容保/京都守護職、8月18日の政変、池田屋事件/禁門の変/第1次長州征討、第2次長州征討
<はじめに>
・幕末/維新を藩の括りでひも解くのが本書のテーマです。タイトルでは”雄藩”となっていますが、取り上げた14藩は必ずしも”雄藩”ではありません。
・江戸時代は「御家大事」で、主君への忠義が重んじられました。しかし明治維新で版籍奉還/廃藩置県となり、明治10年(1877年)「西南戦争」で不平士族による内乱は鎮静します。
<薩摩藩>
・「薩長」「薩長土肥」など、薩摩藩は明治維新の貢献度が最も高い藩です。戊辰戦争での犠牲者は薩摩藩514名、長州427名です。※世界史的には無血革命に近い。
・島津氏のルーツは、鎌倉時代初期に島津庄の下司(年貢の徴収を行い役人)に就いた島津忠久が初代です。
・戦国時代、島津貴久とその子(義久、義弘、歳久、家久)により九州随一の大名になります。1587年豊臣秀吉に降伏しますが、薩摩/大隅と日向の一部を領有します。これは滅亡した北条氏と対照的です。1600年「関ヶ原合戦」で敗れますが、存続します。
・8代藩主・重豪は名君でした。彼は蘭学に興味を示し、造士館/明時館を創設します。調所広郷を重用し、藩財政を立て直します。曽孫の斉彬を可愛がります。
・10代藩主・斉興の時、後継ぎを巡って斉彬派/久光派が対立します(お由羅騒動)。1851年老中・阿部正弘の介入で、斉彬が藩主に就きます。
・11代藩主・斉彬は集成館事業を始めます。ここに反射炉/溶鉱炉/砲腔のくり貫き/ガラス製造/搾油機/工作機械/洋式艦船の工場などが置かれます。彼は朝廷/幕府/雄藩が協力する「公武合体」を志向します。1858年7月彼は亡くなり、甥の忠義が12代藩主に就き、実権はその父・久光が握ります。
・斉彬派の藩士は「精忠組」を結成します。西郷隆盛/大久保利通/有馬新七/有村治左衛門らがメンバーです。その後彼らは久光に従順な公武合体派と、過激な尊王攘夷派に分かれます。
・1862年久光は「公武合体」を実現するため上洛します。この時島流しになっていた西郷隆盛を戻しますが、久光の命令に背き、再び徳之島に流されます。
・4月上洛した久光は、尊王攘夷派を捕らえます(寺田屋事件)。これにより彼は、朝廷/幕府から信頼を得ます。6月江戸に出府し、一橋慶喜を将軍後見職/松平春嶽を政事総裁職に就ける幕政改革を成します。
・その帰路「生麦事件」が起きます。これが1863年7月「薩英戦争」の原因になり、街を焼かれた薩摩藩は、攘夷論から討幕論に転じます。これが倒幕となったポイント①です。
・1863年京都で「8月18日の政変」が起き、朝廷から長州藩/攘夷派公家が追い出され、公武合体派が主導権を握ります。1864年8月「第1次長州征討」が行われますが、長州藩は存続されます。これがポイント②です。
・1864年2月「参預会議」で慶喜が久光らを罵倒したため、久光は倒幕に傾きます。これがポイント③です。1866年1月「薩長同盟」が結ばれますが、この辺りが転機になります。
・1867年5月「四侯会議」(久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城)が開かれ、将軍となった慶喜と交渉するが決裂する。これにより薩摩藩の討幕は確定します。
・1866年頃から藩の決定は、小松帯刀/西郷隆盛/大久保利通に託されるようになります。これが大業を成せた要因です。
・全権を西郷/大久保に掌握させる事で、藩士を従わせる事が可能になりました。これは薩摩藩独自の「郷中」の影響も強いと思われます。しかしこれが高じて「西南戦争」に突き進んだのは残念です。
<彦根藩>
・井伊家は遠江国の浜名湖東部の土豪だった。南北朝の争乱では南朝方だった。戦国時代に直政が徳川家康に見出され、家運が開ける。「関ヶ原合戦」後、近江佐和山18万石を拝領する。直政の子・直孝の時、35万石となり、徳川譜代筆頭になる。
・大老は13人いるが、井伊家は5人を輩出している。他の「徳川四天王」(酒井忠次、榊原康政、本多忠勝)からは出ていない。
・1815年、直弼は11代・直中の14男に生まれる。彼は茶湯/和歌/鼓を好み、「茶歌ポン」と馬鹿にされた。しかし武術の鍛錬も行い、国学/蘭学にも傾倒した。1850年、12代・直亮の死で藩主を継ぐ。
・1853年ペリーが来航する。直後に12代将軍・家慶が亡くなり、家定が13代将軍を継ぐ。しかし彼は病弱で、当初から将軍継嗣問題があった。一橋慶喜を推す「一橋派」と、紀州・徳川慶福(家茂)を推す「南紀派」があった。松平春嶽/島津斉彬/伊達宗城/山内容堂らは慶喜を推した。
・1858年4月直弼は大老に就く。彼は「修好通商条約」調印と慶福の継嗣を決定する。6月条約調印を抗議した慶喜を登城停止にする。”徳川家絶対主義”の彼は、反動勢力を弾圧する。
・8月孝明天皇も条約調印に反対し、「戊午の密勅」を水戸藩に下す。朝廷と幕府の関係は冷え切り、「安政の大獄」に向かう。
・水戸藩は分裂し、尊王攘夷派(天狗党)は脱藩する。1860年3月彼らは直弼を襲撃する(桜田門外の変)。彦根藩は息子の直憲が14代藩主を継ぐ。
・幕政を引き継いだ久世広周/安藤信正は、和宮を家茂に降嫁させるが、その見返りに「修好通商条約」破棄と攘夷実行を約束する。ここに幕末の混迷が始る。
・1862年4月島津久光は上洛する。6月幕府に一橋慶喜の将軍後見職/松平春嶽の政事総裁職を認めさせる。11月春嶽による幕政改革が始まる。※これは知らない。
・「桜田門外の変」により彦根藩は10万石を減封される。直弼の謀臣2人は斬首され、勤王派の岡本半介が実権を握る。彦根藩は家格と10万石の回復が目標になる。
・1864年11月彦根藩は天狗党の上洛を阻止し、352人を斬首している。1866年「第2次長州征討」に出兵し、芸州口の先鋒となるが、惨敗している。
・1867年10月慶喜は大政奉還する。12月「王政復古」が発せられ、慶喜は”辞官納地”を申し渡される。慶喜は一旦大坂城に移るが、「鳥羽伏見の戦い」が起こる。ここで本来なら彦根藩は会津藩/桑名藩と共に戦うはずが、岡本半介は「井伊家は本来、勤王だった」とし、京都に戻り、官軍に加わる。※これは知らなかった。
・その後、彦根藩は東山道鎮撫総督に加わり、流山で近藤勇を捕らえ、「会津戦争」にも参加する。これらの恩を仇で返す卑怯な行為は、歴代藩主の顔に泥を塗った。※著者は義理人情を重んじます。
<仙台藩>
・江戸時代は幕藩体制で、藩の自主性は認められていた。武士たちには「家中」の概念が浸透していた。例えば仙台藩では「伊達家御家中」となる。
・仙台藩は伊達政宗を藩祖とする62万5千石の外様大名である。家臣は3万3千余で、諸藩で最大で、”眠れる獅子”だった。しかし財政は苦しく、兵制の近代化は遅れていた。
・13代藩主・慶邦は「公議政体派」だったが、中央政治からは離れていた。大藩故に藩論は、佐幕開国派/中間派/尊王攘夷派に分裂していた。
・1868年1月、仙台藩は太政官代(※太政官の前身みたい)から会津藩討伐を命じられる。3月奥羽鎮撫総督・九条道孝が仙台藩に入る。慶邦は1万4千を率い会津藩に向かうが、戦う意思はなく、会津藩に”降伏恭順”を勧めた。
・しかし会津藩は「鳥羽伏見の戦い」の首謀者の斬首を拒み、和睦はならなかった。「第1次長州征討」で長州が家老3人/参謀4人の首を差し出した事を考えれば、飲めない条件ではなかった。
・この頃仙台藩士は総督府の居丈高な態度に愛想を尽かしていた。佐幕派の但木土佐らは、奥羽諸藩の連名で会津藩の”降伏恭順”を総督府に提出するが、拒絶される。太政官代が会津藩討伐を決している以上、総督府が赦免する事はできなかった。
・ここに至り、但木土佐は「奥羽列藩同盟」の盟約書を書かせる。さらに総督府の下参謀を暗殺し、奥羽鎮撫総督・九条道孝らを軟禁する。「奥羽列藩同盟」は官軍を白河以北に入れない事を第一とした。※列藩同盟が結成された経緯は知らなかった。
・閏4月20日会津藩が白河城を奪い「東北戊辰戦争」が始まる。「奥羽列藩同盟」は25藩に及び、その後北越6藩が加わり、「奥羽越列藩同盟」は31藩となる。
・5月1日白河城の同盟軍は大敗を喫し、城を放棄する。この戦いで官軍の死者10人に対し、同盟軍は700人余を出した。これは装備の差もあるが、官軍は融合が進んでいたが、同盟軍はまだ家中意識が抜けていなかった。この敗北は士気にも影響し、その後も同盟軍の敗北が続く。
・8月仙台藩は直接官軍との戦闘に入る。8月末新潟港が官軍に制圧され、二本松藩が敗れ、米沢藩は降伏する。これにより「奥羽越列藩同盟」は崩壊する。
・9月藩主・慶邦は尊王攘夷派を復帰させる。9月15日仙台藩は降伏し、22日会津若松城も降伏開城し、無敗の庄内藩も降伏し、「東北戊辰戦争」は終結する。
・仙台藩は28万石に減封され、首謀者の但木土佐らは斬首となる。
・仙台藩を見ると、舵取りの難しさが分かる。結果的に新政府と戦うが、官軍の戦闘意欲や装備を把握していなかったのが判断の誤りである。仙台藩は”眠れる獅子”のままであれば、その存在感を残せただろう。
※宮城県の県庁所在地は仙台市。
<加賀藩>
・前田利家を藩祖とする加賀藩は、支藩を含めると119万石の大藩である。改易を避けるため、徳川家と多くの血縁関係を持った。13代藩主・斉泰は将軍家斉の娘を室にした。斉泰は1822~66年まで藩主の座にあった。そんな中、世子・慶寧は千秋順之助の薫陶を受け、尊王攘夷に目覚める。
・1853年ペリーが来航し、「日米和親条約」を結ぶと、長い海岸線を持つ加賀藩も海防が課題になる。加賀藩も洋式兵学校/鉄砲鋳造所/火薬整合所/台場などを作るが、財政が苦しく、殖産興業まで至らなかった。※薩摩藩は財政は豊かで、藩の意見も纏まった数少ない藩だ。
・1860年井伊直弼が暗殺され、幕府は和宮を降嫁させるが、「修好通商条約」の破棄と攘夷実行を約束する。1862年幕府は一橋慶喜の将軍後見職/松平春嶽の政事総裁職を認める。幕府は加賀藩にも幕政に参加するよう働きかける。
・1863年将軍家茂は「5月10日に攘夷を実行する」に同意する。攘夷決行日、長州藩は馬関海峡で攘夷を実行する。6月将軍家茂は、加賀藩に江戸出府を命じる。これに佐幕派の御表方(藩主・斉泰の側近)は賛成するが、尊王攘夷派の御側衆(世子・慶寧の側近)は反対する。
・8月18日会津藩(京都守護職)と薩摩藩が、長州藩と攘夷派公家7人を京都から追い出す(8月18日の政変)。佐幕派の筆頭家老・本多政均は藩主/世子に上洛を要請するが、上洛しなかった。※何時も動かない。
・1864年4月世子・慶寧が尊王攘夷派の御側衆を連れて上洛する。5月「池田屋事件」が起き、長州藩士らが新選組に殺害される。これに激高した長州藩は挙兵し、上洛を始める。これに幕府から加賀藩に出兵要請がくるが慶寧は断り、和平工作を始める。7月17日幕府は諸藩に長州追討を命じるが、加賀藩の藩論は二分され、結局京都にいた慶寧は近江国今津に退く。
・7月19日「禁門の変」で長州藩は大敗する。8月中、慶寧は金沢に帰るが謹慎となり、尊王攘夷派は粛清され、千秋順之助らは切腹する。
・1866年4月斉泰は退隠し、慶寧が藩主を継ぐ。しかし佐幕派の筆頭家老・本多政均は実権を譲らなかった。1868年1月「鳥羽伏見の戦い」が終わり、加賀藩は新政府への追従に転じる。加賀藩の”有為の材”は、新政府で頭角を表す事はなかった。金沢では自由民権運動が盛んになり、過激となった島田一郎は大久保利通を暗殺している(※知らなかった)。もし「8月18日の政変」までに斉泰が慶寧に家督を譲っていれば、あるいは斉泰が二股を掛けていれば、加賀藩の尊王攘夷派は存続できただろう。
※石川県の県庁所在地は金沢市。
<佐賀藩>
・佐賀藩は35万7千石の外様藩である。幕末までは特筆すべき藩でなかったが、10代藩主・鍋島閑叟(斉正)により、抜きんでた藩になる。彼は1814年、9代藩主・斉直の嫡男に生まれている。
・1640年ポルトガル船が長崎に来航する。しかし幕府は鎖国中のため、一行61名を処刑にし、鎖国制度を内外に示す。幕府は報復を恐れ、1年交替の「長崎御番」を筑前藩/佐賀藩に命じる。これは両藩にとって過大な財政負担になった。
・1808年英国軍艦フェートン号が長崎に侵入する。これに長崎奉行は水/食料を供給し、長崎から出航させる。「長崎御番」だった佐賀藩も、この事件の責任を取らされる。これにより佐賀藩は洋式技術の吸収に関心を寄せる。しかし9代藩主・斉直は浪費家で、46人の子をもうけ、財政は”火の車”だった。
・1830年斉直の隠居で、閑叟が藩主を継ぐ。初のお国入りの時、彼は品川宿で足止めを食らう。それは借金の証文を持った商人が押し掛けたためだった。これにより彼は藩財政の立て直しを決意する。
・彼は国元に戻ると、歳出の削減と歳入の増加に注力する。歳入では、新田開発と特産品(蝋、陶磁器、石炭)の育成に努めた。表高は90万石に達した。※凄い2.5倍だ。干拓ができるからな。
・彼は長崎視察に行き、オランダ商船に乗り込む。これにより彼は”英明な君主”から”蘭癖大名”に変わる。
・高島秋帆に藩士を送り、砲術を学ばせた。さらにオランダに鉄製カノン砲/臼砲を注文する。彼は長崎の湾口の伊王島/神ノ島に台場を築き、大砲を配置した。これはペリー来航の3年前だった。彼は「火術方」を創設し、鉄製大砲の製造に取り掛かる。これもペリー来航前に製造に成功する。
・1853年6月ペリーが江戸湾に来航する。ペリーが帰ると、幕府は佐賀藩に鉄製大砲200門を注文し、佐賀藩は50門を納めている。その後諸藩からの注文も殺到した。幕府は技術者を佐賀藩に派遣し、それが伊豆韮山反射炉になった。※先進藩だな。何か立場が逆だ。
・彼は洋式艦船の製造にも取り組む。「咸臨丸」と同型の「電流丸」を購入する。長崎海軍伝習所に藩士48人を送る(全伝習生の37%)。艦船の製造のために「精煉方」を創設する。1855年「精煉方」は蒸気機関車/蒸気船の模型を製作している(※これが有名な模型か)。三重津に「御船手稽古所」を設立し、航海術/造船術/機関術/砲術など総合的な教育を行っている。
・やがて佐賀藩も動乱に巻き込まれて行く。1863年5月長州藩による攘夷実行、7月「薩英戦争」、8月「8月18日の政変」、1864年7月「禁門の変」「第1次長州征討」、8月「英米仏蘭四国艦隊下関砲撃事件」が起きます。佐賀藩は薩摩藩/長州藩に大砲/砲弾を送っていた。閑叟は江藤新平らを使い情報収集に努めていたが、内乱への関心は薄かった。
・1866年6月「第2次長州征討」が始まるが、長州は善戦する。7月将軍家茂が亡くなり、幕府は征討を中止する。1867年7月閑叟は将軍慶喜に促され上洛するが、「長崎警備専念」を理由に直ぐに帰国する。
・1868年1月「鳥羽伏見の戦い」で新政府の基盤が固まる。この頃から江藤新平/副島種臣/大隈重信らが藩の実権を握るようになる。江藤らは最新兵器を擁して「戊辰戦争」(上野戦争、北関東での戦闘、会津戦争など)で活躍し、新政府での発言力を高める。
・江藤は藩の参政に就き、藩政を刷新する(※詳細省略)。江藤/副島/大隈はそれぞれ司法卿/外務卿/大蔵卿として新政府でも活躍する。
・閑叟は新政府で議定に就き、さらに大納言に就く。これは武家としては最高の官位で、新政府が彼をいかに認めていたかが分かる。「佐賀藩の洋式化により、日本の近代化が可能となった」と云っても過言ではない。天はしかるべき時に、しかるべき人物を送り込む。※彼を知らなかったので、感動した。
<庄内藩>
・1622年山形藩最上家57万石が改易になる。その一部庄内13万8千石に酒井忠勝が入封する。忠勝の祖父は徳川四天王の酒井忠次である。酒田は北前船で栄え、庄内平野は米処だった。
・1830~39年「天保の大飢饉」では庄内藩の飢饉対策が功を奏し、農民から感謝される。1840年長岡藩7万4千石への転封を命じられるが、農民が幕府に嘆願書を提出し、取り下げになる。
・1853年6月ペリーが来航し、庄内藩には品川沖5番台場の守備を命じられる。その後天領であった蝦夷地が6藩に分与され、庄内藩は台場の守備は解かれ、蝦夷地の警備に当たる。こうした外圧により「海防論」が生まれ、「尊王攘夷思想」に発展する。彼らは志士と呼ばれた。
・庄内藩の志士に清河八郎がいる。彼はやがて倒幕思想(まだ討幕ではない)に目覚める(※譜代藩なのに倒幕?)。1863年将軍家茂を警固する「浪士隊」が編成され、上洛する。しかし彼は目的を「尊王攘夷」に変え、隊は分裂する。彼は江戸に戻されるが、暗殺される。反対し京都に残った近藤勇らが「新選組」になる。
・1864年11月「浪士隊」は再編成され、「新徴組」となる。京都の治安維持を会津藩「新選組」、江戸の治安維持を庄内藩「新徴組」が行うようになる。
・1867年10月「大政奉還」により討幕が難しくなった西郷隆盛らは、将軍慶喜に”辞官納地”を迫る。さらに江戸で徴発作戦を行う。12月25日庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼討ちし、50人余を討ち取る。
・この情報が大坂城に伝わり、1868年1月3日「鳥羽伏見の戦い」が始まる。しかし旧幕府軍は敗れ、「徳川慶喜追討令」が発せられる。この勅書は庄内藩にも届けられた。この時点、まだ朝敵でない。
・4月2日奥羽鎮撫総督・九条道孝は庄内藩を朝敵とし、周辺諸藩に討庄を命じる。4月24日清川口で戦闘が始まり、官軍を潰走させる。閏4月4日庄内藩は天童城を落城させる。5月3日「奥羽列藩同盟」、6日「奥羽越列藩同盟」が結成される。
・その後7月から9月で、新庄藩/秋田藩を破る。これらの戦いで活躍したのが酒井玄蕃了恒である。彼は装備の手薄な隊から攻撃する戦術で勝利を収めた。9月17日最後の戦いで官軍に勝利するが、16日藩主・忠篤は降伏を決めていた。
・庄内藩は5万石を削減されるが、大泉藩として存続を許される。庄内藩無敗の要因は、①玄蕃の戦術、②農民の協力、③豪商・本間家の支援である。
<請西藩>
・”脱藩大名”と云えば請西藩の藩主・林忠崇である。彼は1万石の大名であったが、徳川家への忠誠から「一寸の虫にも五分の魂」を実践する。※脱藩の意味が良く分からない。
・請西藩は今の千葉県木更津市にあった。藩主の林家は徳川家康の8代前・松平親氏(※松平氏の始祖)から仕えていた。
・1438年林郷に蟄居謹慎していた林家当主・光政の下に「永享の乱」で敗れた世良田有親/親氏父子が逃げ込む。光政は自身で兎を狩り、父子に与えた。その後親氏は三河国の一部を治めるようになり、親氏は元旦にどの家臣より先に林家の当主から兎の吸い物を受け、盃を与えるようになった(献兎賜盃)。これが徳川幕府に受け継がれる。※世良田氏と得川・松平・徳川氏は遠戚。
・1867年6月林忠崇が請西藩主を継ぐ。その4ヵ月後、将軍慶喜が「大政奉還」したため、彼は「献兎賜盃」ができなかった。彼は慶喜と共に戦おうと大坂城に向かう準備をしていたが、慶喜は江戸に逃げ帰る。
・1868年2月慶喜は”謹慎恭順”し、上野寛永寺に籠る。しかたなく忠崇は請西藩の陣屋に戻る。4月11日江戸城は開城される。4月28日請西藩に「遊撃隊」の人見勝太郎/伊庭八郎がやってくる。彼ら3人は意気投合し、小田原藩/韮山代官所と共に官軍と戦う決意をする。
・閏4月3日忠崇ら60人は「遊撃隊」と合体する。彼らは170人余に増え、相模に上陸する。小田原藩を訪れるが帰属がはっきりしない。そこで韮山代官所に向かう。しかしここも帰属がはっきりせず、甲府に向かう事にする。
・甲斐国黒駒に着くが、ここで隊が再編成され、忠崇ら59人(1人病死)は「遊撃隊」の第4軍に編入される。5月1日江戸で彰義隊が官軍と戦おうとしていると知り、東海道を封鎖する作戦に変更する。そのため沼津に向かい、5月17日に到着する。
・5月19日人見率いる第1軍/第3軍が抜け駆けし、箱根関所に向かう。忠崇(第4軍)/伊庭(第2軍、第5軍)は置き去りにされ、後から追いかける。箱根関所で帰属を決めていない小田原藩と砲戦が始まる。小田原藩が佐幕と決定し、友軍となり、戦闘は終わる。
・ところが小田原藩は彰義隊の壊滅を知ると、新政府に転じる。これにより5月26日、箱根側に布陣していた「遊撃隊」250人余と小田原藩との戦闘が再開される(戊辰箱根戦争)。「遊撃隊」は西からも官軍に攻められ、熱海から館山湾に逃れる。※こんな戦いもあったのか。ここまでが彼の前半戦みたい。
・6月1日榎本艦隊は「遊撃隊」140人余を乗せ、館山湾を出港する。3日小名浜に着き、磐城平城に入る。16日官軍が平潟港に上陸した一報を受け、「遊撃隊」は列藩同盟と共に戦うが破れる。24日再度平潟港の奪還を試みるが破れる。忠崇は何とか磐城平城に戻る。ここで徳川家が70万石で存続する事を知り、戦意が低下する。「遊撃隊」は半減していたため、相馬中村藩まで撤退する。
・7月7日「遊撃隊」は相馬中村城に入るが、13日磐城平城が落城した事を知る。その後会津に向かい、さらに仙台に入る。
・8月6日相馬中村藩は降伏し、「遊撃隊」は仙台に留まるか、会津に戻るか判断を迫られる。人見は仙台に留まり、忠崇は会津に向かった。ところが会津が籠城戦になったため、9月1日仙台に戻る。
・9月11日仙台藩は降伏が決定する。「遊撃隊」は蝦夷地に向かうため塩釜に着くが、忠崇は家臣に勧められ降伏を決意する。※大変な行軍。
・忠崇は小笠原家で蟄居謹慎となる。一方「遊撃隊」は箱館で戦い、伊庭は自裁し、人見は榎本武揚と共に降伏している。
・1869年11月忠崇は家督を弟・忠弘に譲り、隠居する。1941年1月”最後の大名”として94歳で亡くなる。
<土佐藩>
・幕末の土佐藩を動かした山内容堂(豊信)を、今の人は「鯨海酔候」と称する。彼は酒をこよなく愛した。
・土佐藩は北方に四国山地が連なり、一種の閉鎖空間となっている。戦国時代、長宗我部元親が四国を平定しかけたが、秀吉により土佐一国に逼塞させられる。1600年「関ヶ原合戦」で元親の子盛親は敗れ、土佐藩に山内一豊が入部する。幕末に土佐藩が倒幕に踏み切れなかったのは、薩長と違い、東軍であった事が遠因と考えられる。
・一豊は入部した際、「一領具足」の地侍73名を処刑している。一豊は以前からの山内家家臣を「上士」とし、それ以外を「郷士」とし、厳しい身分制度を布いた。
・1827年山内容堂は山内分家、しかも側室の子に生まれる。そのため国元で育った。1848年13代藩主・豊熈が亡くなり、跡を継いだ豊惇も在任12日で亡くなり、容堂が15代藩主を継ぐ。
・1858年大老・井伊直弼は「日米修好通商条約」を結び、後継将軍も慶福に決する。これに反対した容堂らは隠居謹慎を命じられる。ところが1860年、直弼が殺害されると、尊王攘夷派が勢いを増し、1862年容堂は謹慎を解かれる。
・土佐藩政は吉田東洋に託され、彼の藩政改革により、後藤象二郎/岩崎弥太郎/乾退助(板垣退助)らが輩出される。この頃土佐藩でも尊王攘夷思想が流行り、武市半平太を中心とする「土佐勤王党」が結成される。彼らは東洋を暗殺してしまう。
・ところが1863年「8月18日の政変」により、廟堂(朝廷)から尊王攘夷派が一掃される。これに応じ土佐藩でも武市半平太を投獄するなど、「土佐勤王党」は粛清される。
・容堂は「参預会議」で積極的に国政に関与するが、1864年一橋慶喜と島津久光の衝突で、「参預会議」は雲散霧消する。
・1864年7月、長州藩は失地を回復すべく「禁門の変」を起こすが、敗れる。しかし薩摩藩は公武合体の限界を感じ、倒幕に向かう。それを仲介したのが坂本龍馬/中岡慎太郎だった。
・1867年6月龍馬は公議政体論(公武合体論を理論化したもの)を前提とする「船中八策」を後藤象二郎に掲示する。容堂はこの策に傾倒する。
・容堂は「第2次長州征討」で敗れた慶喜に「大政奉還」を勧める。10月慶喜は「大政奉還」を行うが、12月薩摩藩(西郷隆盛、大久保利通)と岩倉具視は結託し、「王政復古」を発し、慶喜に「辞官納地」を命じる。さらに「鳥羽伏見の戦い」で慶喜は敗れ、公議政体論は完全に瓦解する。
・容堂は両陣営に加わるなと命じるが、乾退助は東山道先鋒総督府参謀となり、「会津戦争」にも参加し、新政府に多大な貢献をする。彼は乾から板垣に復姓する。
・容堂は新政府で議定などに就くが、程なく辞し、1872年亡くなる。彼が酒浸りになったのは、徳川家への負い目かもしれない。
・1873年板垣は「明治6年の政変」で下野し、「民撰議員設立建白書」を提出し、「自由民権運動」に身を投じる。1877年西郷隆盛は「西南戦争」で亡くなるが、彼は平和的手段で専制体制の打破に挑む。その後、幾つかの内閣で大臣に就く。
<長岡藩>
・幕末は”抜擢の時代”で、傑物・偉人から愚物・無能者まで、様々な人物が現れた。本章の主人公・河井継之助は人格/頭脳に秀でた人物である。
・1566年牧野康成が徳川家康の譜代家臣になる。1618年その子・忠成が長岡藩6万4千石に封じられる。牧野氏は「常在戦場」を家訓とした。
・1827年河井継之助は中堅家臣の家に生まれる。前半生は備中/江戸に留学している。1852年江戸に留学する。1859年備中松山藩に留学し、山田方谷から陽明学/財政を学ぶ。1861年帰国する。
・1862年8月長岡藩は京都所司代に任じられ、幕末の荒波に放り出される。1863年3月将軍家茂は上洛し、5月10日の攘夷実行を約束する。この時、継之助は藩主・忠恭に京都所司代の辞職を勧めている。1863年6月忠恭は京都所司代を辞職する。
・1863年「8月18日の政変」が起き、京都から長州藩が追い出され、薩摩藩/一会桑(一橋家、会津藩、桑名藩)が権力を握る。
・1863年9月長岡藩は老中に昇格する。老中は多額の交際費を必要とするため、継之助は再び辞職を勧めている。彼は合理的な反面、頑固で好戦的であった。1865年4月老中を辞職する。
・1864年「池田屋事件」「禁門の変」「第1次長州征討」で攘夷勢力が後退する。
・継之助は、1853年23万両あった藩の借財を、1868年11万両の余剰備蓄に変えている。さらに1300人余の洋式軍隊を整備した。
・この間薩長同盟が結ばれ、幕府は「第2次長州征討」に失敗し、1867年10月将軍慶喜は「大政奉還」を行う。
・継之助は大坂城に向かうが、「鳥羽伏見の戦い」になる。彼は江戸に戻ると、重宝什器を売り払い、洋式火器(ガトリング砲など)を購入している。
・1868年4月彼は長岡に戻るが、「中立」を宣言する。藩の恭順派は彼を襲撃する計画を立てるが、失敗し、逆に弾圧される。
・閏4月北越で官軍と会津藩/桑名藩の戦いが始まる。5月2日彼は官軍の本拠地・小千谷に和平交渉に向かう(小千谷談判)。しかし逆に長岡藩の態度を難詰される。
・5月4日長岡藩は「奥羽越列藩同盟」に加わり、10日榎峠を奇襲し、長岡藩の「戊辰戦争」が始まる。19日長岡城を奪われ、軍用金20万両/大砲などを失う。
・7月25日長岡城を奪い返すが、29日には再び奪われる。この時彼は左膝に銃弾を受け、重傷になり、8月16日会津藩に逃げる途中、息絶える。
・長岡藩は「戊辰戦争」により641人の死者を出した。さらに1870年10月長岡藩は”恒産の道”を見い出せず、廃藩を願い出て、廃藩となる。※この時に米百俵が生まれた。
・人は熱気に煽られると冷静な判断ができなくなる。継之助/西郷隆盛/東条英機に、それを感じる。しかし多くの藩が新政府に靡く中、”義”を重んじ、決起した継之助/長岡藩士を忘れてはならない。
<水戸藩>
・水戸藩は幕末になり多くの人物を出す。9代藩主徳川斉昭、その7男・徳川慶喜、尊王攘夷思想の原点となった水戸学の泰斗・藤田東湖、天狗党の総帥・武田耕雲斎など多士済々である。しかし新政府にこれと云った人材を送り出していない。水戸では、今でも佐幕派(諸生党)と尊王攘夷派(天狗党)のわだかまりが残っている。
・水戸藩は尊王思想(水戸学)が受け継がれてきたが、それが幕末に大きく影響を与えた。水戸学の根本は「愛民」「尊王」で「攘夷」はなかった。1824年英国の捕鯨船が水戸藩に上陸し、大騒動になる。これにより「海防」が水戸藩の重要なテーマになった。
・1829年徳川斉昭は藩主になると、積極的に藩政改革を行った。弘道館を藩校とし、領内15ヵ所に郷校を開いた。ところが1844年、余りに急進的な意見を主張するので、幕府により蟄居謹慎となる。しかし1849年解かれる。1853年ペリーが来航し、「海防参与」に任じられる。
・1858年3月日米で通商条約の合意がなされるが、孝明天皇の勅許を得られなかった。4月井伊直弼が大老に就き、6月「日米修好通商条約」に調印し、将軍継嗣問題も慶福に決定する。
・これに激怒した天皇は幕府宛ではなく、水戸藩宛に勅書を送る(戊午の密勅)。これに井伊は斉昭に「永蟄居」を命じ、家老らを斬首する。
・ところが1860年3月、尊王攘夷派の水戸藩浪士17名/薩摩藩浪士1名により、井伊は江戸城桜田門外で暗殺される。
・その後幕府は公武合体に転じ、和宮を降嫁させるが、その代償に「日米修好通商条約」の破棄/攘夷の実行を約束する。
・当時水戸藩は、尊王攘夷派の天狗党/穏健派の鎮派/佐幕派の諸生党に分裂していた。しかし1863年「8月18日の政変」で諸生党が優位になる。一方生糸が輸出され、安価な綿糸/綿織物が輸入され、物価は上昇し、民は困窮していた。
・1864年3月藤田小四郎ら天狗党60人余が筑波山で挙兵する。7月「下妻の戦い」で幕府軍を破るが、水戸城で諸生党に破れる。宍戸支藩の大発勢1千余が天狗党に合流するが、那珂湊で幕府軍/諸生党に破れる(※大発勢の由来?)。この時天狗党は戦場を離脱し、一橋慶喜に諸生党の非道を訴えるため、京都に向かう(天狗党の西行)。
・この頃慶喜は会津藩/桑名藩の軍事力を背景に、朝廷/幕府/雄藩の調整に手一杯で、天狗党は迷惑であった(※何で会津/桑名だけなんだろう。親藩・譜代は一杯あるのに)。1864年12月天狗党は越前国敦賀付近まで行き、投降するが、そこで352人は斬首される。
・1866年幕府は「第2次長州征討」で敗れ、12月将軍慶喜が頼みとする孝明天皇も崩御する。
・天狗党が処刑された時、水戸藩では諸生党が武田耕雲斎/藤田小四郎やその家族を、ことごとく処刑していた。ところが敦賀に武田耕雲斎の孫・金次郎が生き残っていた。1868年1月彼は諸生党追討の勅許を受け、水戸に進軍する。戦いは続き、最終的に彼(尊王攘夷派)は勝ち、諸生党は討ち取られる。
※茨城県の県庁所在地は水戸市。
<二本松藩>
・丹羽長秀は織田信長に仕えたテクノクラートである。彼は豊臣秀吉にも仕え、若狭/越前/加賀123万石の大名になる。その子・長重の時、加賀小松12万石に減封される。1600年「関ヶ原合戦」で西軍に味方し改易になる。その後白河10万石に入封する。1643年その子・光重が二本松藩10万余石に移封になる。
・二本松藩は善政で、一揆は一度しか起こっていない。しかし藩財政は逼迫していた。
・1868年1月「鳥羽伏見の戦い」で徳川慶喜は敗れ、江戸に逃げ帰る。慶喜は謹慎恭順の姿勢を貫いたため、官軍の矛先は会津藩/庄内藩に向けられる。
・3月仙台に奥羽鎮撫総督府が置かれ、総督・九条道孝は奥羽諸藩に会津藩/庄内藩の追討を命じる。この時点、奥羽諸藩は新政府に恭順していた。
・閏4月20日仙台藩は下参謀・世良修蔵を暗殺し、奥羽諸藩は新政府と戦う決意をし、31藩による「奥羽越列藩同盟」が結成される。二本松藩には6人の家老がいたが、異論は起きず、反新政府で邁進する。
・閏4月20日会津藩が白河城に進駐する(※暗殺と同日)。25日官軍が白河城を奪う。その後も白河奪還戦が続くが、同盟軍は奪還できなかった。
・6月半ば、奥羽鎮撫総督府は奥羽征討総督府に改組され、板垣退助(土佐)/伊地知正治(薩摩)が指揮を執る。
・その後、官軍は奥州街道を北上せず、奥州脇街道に向かい、棚倉藩を戦わずして降伏させる。7月26日板垣隊は奥州脇街道を北上し、三春藩も戦わずして降伏させる。
・この時三春藩の後方を支援していた二本松藩は、三春藩の嚮導で不意を突かれ、26人の死者を出す。さらに官軍の阿武隈川の渡河を高木で守備していた藩士も、三春藩の嚮導で31人の死者を出す。いずれの戦いも官軍に死者はない。
・7月28日官軍は二本松城に至る。板垣は1日降伏を待つが、翌日決戦となり、二本松藩は141人が戦死し、落城する。二本松藩は既に100人以上の死者を出しており、会津藩/庄内藩には義理を果たしていた。しかし降伏しても、会津藩追討の先鋒にされるだけなので、降伏しなかった。平成17年の市町村大合併で三春との合併話があったが、合併に至らなかった。
<長州藩>
・新時代の黎明を呼び込んだのが水戸藩/長州藩であり、維新での政治闘争で薩摩藩に勝利したのが長州藩である。長州藩は二面性を持ったリアリストであった。
・1837年毛利慶親(敬親)が藩主を継ぐ。翌年、村田清風が執政に就き、藩政改革を始める。赤間関(下関)に越荷会所を設け、西廻り航路から莫大な運上金を得た(※薩摩と一緒で、地の利がある)。これにより大坂商人/幕府からにらまれ、周布政之助が藩政の主導権を握る。
・藩の政治思想は長井雅楽の公武合体論/開国論であったが、久坂玄瑞らの尊王攘夷論に変わる。長州藩は薩摩藩と違い、上下関係が緩やかであった。1862年孝明天皇は攘夷に傾倒し、藩論も松下村塾の尊王攘夷一色に変わる。
・1862年4月島津久光は尊王攘夷派を取り締まり(寺田屋事件)、一橋慶喜を将軍後見職に就けるなど、雄藩のリーダーになる。一方、8月毛利慶親は上洛し、朝廷で攘夷を強める。12月高杉晋作/久坂玄瑞/伊藤俊輔(博文)/井上聞多(馨)らは建設中の英国大使館を焼討ちにする。
・1863年5月10日長州藩は攘夷を実行するが、翌月赤間関の砲台は外国により占領される(下関事件)。これにより長州藩は国内には「尊王攘夷」、外国には「開国和睦」のダブルスタンダードとなる(※この時点で転換したのか。薩英戦争は7月)。高杉晋作は奇兵隊を始めとする諸隊を編制する。
・1863年これらの長州藩の動きに、公武合体派の公家や会津藩/薩摩藩により「8月18日の政変」が行われ。長州藩は堺町御門の警備を解かれ、三条実美ら7名の公家が京都を追われる。
・毛利家の祖先・大江広元は公家で、長州藩は朝廷との関係が深かった。幕府がその朝廷を無視して条約調印したため、長州藩は攘夷となった。吉田松陰らは、「今は攘夷だが、国体を立てた後は開国」と考えていた。※根本は尊王か。
・1864年「参預会議」(一橋慶喜、島津久光、山内容堂、松平春嶽、伊達宗城、松平容保)は、慶喜が久光/春嶽/宗城を”大奸物”と罵り、空中分解する。罵られた彼らは帰国し、慶喜と容保とその実弟で京都所司代・松平定敬(桑名藩主)が政権を握る。慶喜は幕閣を離れ、禁裏御守衛総督に就き、朝廷に接近する。※水戸徳川家出身の慶喜が徳川家で人気がないのは、この辺りかな。
・長州藩は失地を挽回しようとするが、1864年6月5日「池田屋事件」により、尊王攘夷派の有為な人材が失われる。7月19日長州藩は薩摩藩/会津藩/桑名藩が守る御所を包囲し、戦闘になるが、敗れる(禁門の変)。
・1864年8月5日敗残兵が国元に戻ると、英米仏蘭の艦隊が馬関(赤間関)を砲撃し、再び占領する(下関戦争)。これにより「俗論党」(佐幕派)が藩政を握り、「正義党」(尊王攘夷派)は粛清される。
・長州征討軍が結成されるが、西郷隆盛が3家老の切腹/4参謀の斬首で長州藩を助ける(第1次長州征討)。
・1864年12月高杉晋作ら「正義党」が挙兵し、藩政から「俗論党」を追い出す。「純一恭順」から「武備恭順」に変わり。大村益次郎は軍制改革を始める。
・1866年6月「第2次長州征討」が始まる。長州藩は芸州口で苦戦するが、石州口/大島口/小倉口で完勝する。7月将軍家茂が亡くなり、幕府は休戦する。諸藩10万余に対し、長州3500余の戦いであった。※大村益次郎の戦術が解説されているが省略。
・将軍を慶喜が継ぎ、「大政奉還」するが、「王政復古」の大号令が発せられ、長州藩の名誉は回復される。
・新政府では薩摩藩が主導するが、1873年「明治6年の政変」で西郷が去り、翌年大久保は暗殺され、伊藤博文が政権を把握するようになる。
・長州藩を俯瞰すると、攘夷を表にして、裏で開国を方針とした。また身分を問わない民兵を組織するなど、リアリズムが浸透していた。しかし新政府ではリアリズムが行き過ぎたのか、井上馨/山県有朋/山城屋和助などの「貧官汚吏」を生んだ。
<松前藩>
・江戸時代は農業が基本で、藩財政は年貢で成り立っていた。しかし蝦夷地の松前藩は米が獲れなかった。そのためアイヌが持ち込んだ毛皮/干鮭/干鱈/熊胆/昆布と生活品を物々交換し、これらを近江商人(特定?)が売り捌き、その利益の何割かを松前藩に納めさせた。そのため海岸を上級家臣34人に分け与えた(商場知行制)。
・18世紀に入ると、商人が交易を丸ごと差配するようになる(場所請負制)。商人(場所請負人)の権限は強まり、漁場の開拓/漁法/組織の人事/価格の決定まで介入するようになる。
・1669年不平を抱いたアイヌのシャクシャインは、打倒松前藩で蜂起する。松前藩は弘前藩/盛岡藩から鉄砲を借り、やっと鎮圧する。
・蝦夷地西岸で獲れる鰊(ニシン)は肥料になり、鰊漁は蝦夷地の最大産業になる(※銚子は干鰯だった)。
・1778年初めて異国船(ロシア船)が現れる。以降、松前藩は異国船の来航に悩まされる。
・1789年クナシリ・メナシが蜂起する(※クナシリ=国後?)。当時はアイヌも既得権益層が存在し、それを対立させ、反乱を鎮めた。以降アイヌの反乱は起きていない。
・1792年ロシアの正式な使節ラクスマンが根室に来航する。幕府は長崎で対応するとし、長崎へ向かわせる。
・1798年幕府は近藤重蔵に蝦夷地の開拓を調査させる。1807年蝦夷地は幕府直轄となり、松前藩は陸奥国梁川藩に移される。この時蝦夷地を良く知る藩士は、幕府に引き抜かれた。
※1800年伊能忠敬が蝦夷地を測量している。1808年間宮林蔵が間宮海峡を発見している。
・1821年蝦夷地は松前藩に返還される。1849年名君と云われる松前崇広が藩主を継ぐ。彼は松前湾(福山湾)に福山城を築城する。
・1854年幕府は箱館の6里四方を上知し、開港に備える。1855年さらに蝦夷地の大半を直轄領にする。1859年蝦夷地を東北6藩(弘前、秋田、庄内、盛岡、仙台、会津)に警備させる。
・1863年藩主・崇広は寺社奉行に就き、翌年には老中格・幕府海陸軍総奉行に就き、外様小藩では異例の抜擢であった。しかし徳川慶喜に解任される。※幕府に翻弄されるな。
・1868年7月松前藩で政変が起こり、尊王攘夷派の「正義隊」が、元々新政府に恭順していた家老らを追放する。「正義隊」は内陸部に館城を築城する。
・1868年10月榎本艦隊が鷲ノ木(箱館の北方)に上陸する。榎本武揚は上陸5日後には函館奉行を破り、函館を占領する。
・額兵隊(星恂太郎)/新選組(土方歳三)/遊撃隊(人見勝太郎)/彰義隊(渋沢成一郎)などの蝦夷地政府軍(榎本)は松前藩を攻め、福山城を占領する。松前藩主は弘前に逃走する。
・1869年4月松前藩は新政府軍と共に蝦夷地政府軍と戦う(箱館戦争)。松前藩は館藩として存続するが、「廃藩置県」により歴史を閉じる。
<会津藩>
・青森県には「会津ゲタカ」「会津ハドザムライ」などの言葉がある。ゲタカは草木を食べる毛虫で、ハドザムライは豆ばかり食べるハトである。これは斗南藩士となった旧会津藩士を指す。
・会津松平藩の初代藩主は、徳川家光の異母弟の保科正之である。彼は「将軍に忠勤を尽くせ。二心を抱く藩主がいれば、家臣は従うな」と遺訓した。
・1835年松平容保は、尾張支藩の美濃高須藩主の6男に生まれ、1852年会津藩主を継ぐ。ペリー来航後、品川台場の守備や、蝦夷地の開拓/警備を任じられる。
・1862年将軍後見職に一橋慶喜、政事総裁職に松平春嶽が就く。二人に請われ、容保は京都守護職に就く。これが会津藩の苦難の始まりである。
・会津藩には外交を担当する「公用局」があり、彼らは薩摩藩と図り、1863年「8月18日の政変」で朝廷から長州藩/攘夷派公家を追放する。この政変で孝明天皇は、容保に高い信頼を寄せる。
・一橋慶喜/松平春嶽(越前)/山内容堂(土佐)/島津久光(薩摩)/伊達宗城(伊予)/容保による「参預会議」が発足する。しかし慶喜が久光らを罵倒し、会議は2ヶ月で崩壊する。※こんなメンバーで話し合いになるのか。
・慶喜は将軍後見職を辞し、朝廷の「禁裏御守衛総督」に就く。容保の実弟で桑名藩主・松平定敬を抱き込み、「一会桑政権」が形成される。
・会津藩には悲劇を避けれるポイントが幾つもあった。京都守護職の受諾が1つ目である。また当時容保の病状はかなり悪く、「病気療養のため」として帰国可能であった。これが2つ目である。
・1863年6月会津藩傘下の「新選組」が長州藩の志士を討つ(池田屋事件)。これが長州藩に「徳川は許せても、会津は許せない」の感情を抱かせた。
・1863年7月「禁門の変」が起こるが、薩摩藩が一会桑側に付き、長州藩は敗れる。さらに8月長州藩は英米仏蘭の四国連合艦隊の砲撃を受ける。
・しかし「第1次長州征討」では西郷隆盛の斡旋で、3家老の切腹/4参謀の斬首で和睦となる。長州藩に実質的な損害はなかったと云える。ここで長州藩を減封/移封しておけば会津藩の悲劇はなかった。これが3つ目のポイントである。
・この頃容保は家老2人から、京都守護職の辞任を強く勧められ、辞任を決意する。しかし朝廷/慶喜/幕閣から引き止められる。これが4つ目のポイントである。
・1866年6月「第2次長州征討」が始まるが、幕府側が惨敗する。12月慶喜が将軍を継ぐが、「一会桑政権」が頼りにする孝明天皇が崩御する。
・1867年2月体調が悪化した容保は、京都守護職の辞表を提出するが、保留となる。これが5つ目のポイントである。
・1867年10月慶喜は奇策に出て「大政奉還」するが、12月「王政復古」の大号令が発せられる。慶喜は軍を大坂城に引かせるが、「鳥羽伏見の戦い」で敗れ、容保/定敬と共に江戸に脱出する。
・会津藩は「会津戦争」で敗れ、斗南藩に移封される。容保は1893年亡くなるが、質素な生活を送ったとされる。
※関ヶ原合戦と戊辰戦争を比較すると、関ヶ原合戦では多くの豊臣恩顧の武将が付いた徳川軍が勝ち、戊辰戦争でも多くの諸藩を味方に付けた官軍が勝った感じかな。
※また薩長が勝利したのに経済力もあった思う。これは戦国時代も同様で、織田信長の尾張は経済的に豊かであった。
<おわりに>
・その後日本は近代国家に転換するが、新しい価値観を生む事はなく、西洋に倣い植民地建設に邁進し、敗戦となる。同様に幕末も多くの藩が判断を間違い、優秀な人材を新政府に送り出せなかった。現在でもシャープ/東芝などの一流企業でさえ判断を間違ってしまう。要するに歴史から学べないのである。