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『花の都パリ「外交赤書」』篠原孝(2007年)を読書。

書名に惹かれ選択。パリのOECD代表部での農業外交が本書の主な内容です。
OECDについて知りたかったので、幾らか情報になった。

農政に関係あるので、その辺りの知識があった方が読み易い。

お勧め度:☆☆☆(エッセイ風で大変面白い)

キーワード:<パリ「大使館」の舞台裏>OECD(政府経済開発機構)、政府代表部、公電、ペーパー(議題案)、出張者、<大使バーと公邸パーティ>大使、接待パーティ、査察制度、<トンデモ出張者の群れ>食肉・酪農の品目別会合/副議長、「バイオテクノロジーの安全性」会合、接待/観光案内/痛風、<ドタキャン大臣>農業大臣会合/大臣出席、ドラフティング会合/国際部長、農村地域開発会合/同僚、<超高級ワインの夜>ウルグアイ・ラウンド/ドンケル事務局長、夕食会/ワイン、<本省の約束違反>残業4人組、法経学士/英語研修、<ナンバー2のハラキリ>ウルグアイ・ラウンド、胃潰瘍、輸入し過ぎ、<首相も住んでいるアパート>握手、<我が家の接待メシ300名>褒め上手、ワイン通、カレーかラーメン、<困りに困った仏語>仲人、スピーチ、<シアトルの何でも屋>WTO関係閣僚会議、食料安保、多面的機能、農林族議員、<政治学の泰斗、高坂正堯先生の忘れ形見>国際政治学、推薦状、採用/行政職

<まえがき 赤っ恥の連続「外交赤書」>
・著者は農林水産省に30年在籍しました。また在籍中に米国に留学し、これを本にしています。またパリのOECDに3年間赴任しており、そこでの仕事を纏めたのが本書です。
・パリでは会議の連続で、事前に配布される英語の議題案(ペーパー)を読み、発言案を考え、会議で議論する多忙な日々を送りました。

<パリ「大使館」の舞台裏>
○大使館とは違う
・1991年著者は農林水産省の国際部対外政策調整室長から、OECD(政府経済開発機構)の日本政府代表部(以下代表部)に出向します。

・実は1983年、OECD農業委員会への出向が決まりかけたが、流れた事があった。この時PSE(生産者補助相当額)を含む「農産物貿易の自由化」が進められた。これがGATT(関税並びに貿易に関する一般協定)に持ち込まれ、ウルグアイ・ラウンドでAMS(総合的計算手段)となった。※いきなり専門的。
・世界は「農産物貿易の自由化」「農業保護の削減」に動いていたのに、農林水産省は国内問題を圧倒的に重視するため、大幅に遅れていた。

○英語ができない群れ
・1988年水産庁に移りOECD水産委員会に出席するようになり、GATT/OECDへの対応体制を建白する。ここに1年2ヵ月勤務した後、国際部の対外政策調整室長に就く。著者には3人の補佐が付いたが、英語ができない補佐もいた。彼を含めOECD班3人は、誰も英語ができなかった。国際部ではGATTの農業交渉一本鎗で、OECDは眼中になかった。
・著者はAPEC(アジア太平洋経済協力会議)/日米構造協議にも忙しかった。そんな中、代表部への出向を命じられる。

○公電に始まり公電に終わる
・パリの代表部での仕事は、会議への参加/本省からの出張者の接待/公電書きである。公電は会議への参加が”訓令”として届き、会議が終了すると、”報告”を公電でする。代表部は会議に明け暮れるため、公電に追われる。

○厚さ20センチの議題案
・OECD事務局から事前に議題案(ペーパー)が送られる。代表部はこれを本省に送る(公電)。本省から「訓令公電」が送られて来るが、「削除」「適宜対処」など、そっけないものである。
・この厚さ10センチを超える議題案を事前に読まないといけない。論点に矛盾はないか/自由貿易への過度の礼賛はないか/日本の農政へのケチはないかなどをチェックし、会議での議論に備える(※英文の速読が必要だな)。
・読み終えると発言案を作成しておく。会議開催中は議論の経過に従い、毎夜遅くまで発言案を作成する。

○仏語対英語
・OECDの公用語は英語と仏語である。まず英語の議題案が配られ、1週間後位に仏語の議題案が配られる。そのためフランス/ベルギー/スペイン/ポルトガル/イタリアから苦情が出たが、著者が「日本はフランス語圏以上に英語力がなく、また日本語版が遅れたと一度でも言ってみたい」と発言し、苦情は収まった。

○会議での発言までおんぶにだっこ
・農業委員会に出席していたが、常に著者が上位で代表団の団長であった。この会議に本省からの出張者も出席したが、役に立つ者もいれば、役に立たない者もいた。そこで出張者には、①会議で1回は発言する、②「報告公電」を作成するを課していた。

・①の発言案は著者が作成した。議論になると、著者が対応した。②「報告公電」は、事務局が作成するサマリーを基に原案を作成してもらい、著者が最終案を作成した。この2つは、本省で「篠原しごき」として酒の肴にされていた。
※中々面白い。

<大使バーと公邸パーティ>
○金曜日の大使バー
・OECD(政府経済開発機構)の日本政府代表部には経済関係のほとんどの省庁が出向者を出していた。一方国連代表部は政務中心で本物の外交官が多かった。OECDは著者のように、にわか外交官の寄せ集め「大使館」だった。

・代表部の大使(※これも大使か)は、在米大使館(※駐米と在米の違いは?)の経済担当を長く務め、外務省の経済局長/官房長なども歴任された方だった。しかし代表部の業務は各委員会に任されているので、大使との接触は少なかった。そのため毎週金曜日の夕方に、大使の執務室でアルコールを飲みながら、お喋りする事になった。
・ある時大使が著者の故郷・中野の民謡『中野小唄』を歌われたので、驚いた。話を聞くと、疎開先が中野だった。その後も懇意にしてもらった(※詳細省略)。

○大使公邸での接待パーティ
・代表部の後任の大使も経済局長/官房長を務められた超エリートだった。そのためパリを訪れる国会議員を接待するのは、普通は在仏大使だが、彼の大使公邸で接待パーティが開かれた。
・外交では位が重んじられるため、大臣は大臣と、局長は局長としか会わない。代表部では指定職(部長、審議官クラス)が出張してきた時に限り、大使公邸で接待パーティを開いていた。農林水産省では指定職が出張する事はなく、参事官の著者が呼ばれるはずはないが、呼ばれていた。

○本当の先生から「先生」と呼ばれた
・接待パーティで、ある議員から「篠原先生、しばらくです」と話しかけられ、「篠原先生に群馬県の田舎に講演に来てもらい、農業論に惚れました」と話される。しかし顔を思い出せない。彼は農林水産政務次官を2度務められ、農林水産大臣に就いた谷津義男だった。

○農林水産省と外務省の違い
・外務省には「査察制度」がある。大国の在外大使を務め、退任した人が査察大使として在外公館を訪れ、問題点を調べ、改善に向けての勧告書を提出する制度である。

・著者が代表部に赴任している時、査察があった。質問書に、①GATT/OECDなど国際組織毎にプロを養成する、②設宴費(接待パーティ費)は各人に任せる、③仏語/独語/西語の研修を受けた者が英語の研修を受けれないのは時代にそぐわないと書いた。
・後に帰国すると、外務省の主任課長会議から「あなたの意見を聞きたい」と呼び出しがあり、ノンペーパー(※非公式文書かな)を書いて望んだ。一方農林水産省に無数の建白書を書いたが、音沙汰はなかった。

<トンデモ出張者の群れ>
○会議の真っ最中に呼び出されて
・OECDでは、あらゆる経済的課題について議論されている。OECDには農業委員会/水産委員会/貿易委員会/環境委員会などの常任委員会があり、他に合同委員会がある。また農業委員会の下には、幾つもの品目別会合や技術的会合がある。農林水産省からの出向者は著者だけなので、会議が重複すると困る事になる。※農林水産省から一人!!

・1991年秋、新設された「貿易と環境の合同委員会」に出席していた。ところが会議の最中に「大変です、食肉・酪農会合に来て下さい。出張者が牛肉の自由化で説明ができないのです」と呼び出された。
・「食肉・酪農の品目別会合」は毎年行われていた会合で、1年間の状況を報告するだけであったが、1988年に「日米牛肉・オレンジ交渉」が決着し、1991年からその自由化が始まっていた。そのため牛肉が最も重要な問題であった。

○順番でパリ出張の悲劇
・出張者は畜産局の牛乳乳製品課の職員のため、牛肉に関しては無知であった。仕方なく午後から「食肉・酪農の品目別会合」に出席したが、オーストラリア/ニュージーランドからの質問の回答に追われた。米国との間で牛肉の自由化が始まり、両国はその状況を知りたかったようである。
・出張者に尋ねると、この会合への出席者は牛乳乳製品課/食肉鶏卵課/畜政課の持ち回りで、今回は牛乳乳製品課だった。彼は「ペーパーを読むだけで良い」と言われていた。

○思いがけない日本人副議長の誕生
・前述したようにOECD班の3人でさえ英語ができなかった。当然各局各課の状況は推して知るべしだった。さらに今回実害が出た事により、著者は改革に取り組む。といっても真面に対応できる状態にするだけである。

・英語ができる者を常時出席させ、さらに3課から1人を持ち回りで出席させる案である。丁度畜産局に英語力がある参事官がいたため、彼に出席してもらおうと考えた。OECD事務局に伝えると、「彼に副議長になってもらいたい」と要請される。翌年彼は会合に出席し、いきなり副議長に選任された。副議長は議長と同様に事前に情報が得られるので、日本にとって願ってもない人事になった。※この食肉・酪農会合だけの副議長かな。

○セクショナリズムで無駄出張
・OECDには「バイオテクノロジーの安全性」をテーマにした会合がある。OECDは、先進国の政治・軍事以外のあらゆる問題をテーマにするので納得できる。
・「バイオテクノロジーの安全性」会合に農林水産省/通産省/科学技術庁/厚生省/文部省が複数の出張者を送ってきた。これに代表部の出向者が加わるので、大代表団となった。各国に割り当てられる席は2つなので、他は補助席に座てもらった。それにも溢れた人は「壁の花」となった。農林水産省は英語が堪能な農業生物資源研究所の元所長らを送ってきた。

○いかがわしい出張者が多い省庁は
・年度末になるとOECDへの出張者が激増する。総務担当によると大蔵省と農林水産省が多いそうだ。
・年度末の出張が粗方終わった頃、新たに4人出張者の申し入れがあった。文書課/水産貿易調整官/市場課の4人で、丁度その時、「貿易と環境の合同委員会」があった。水産貿易調整官は英国留学の経験があり、英語力は抜群で議論に参加してもらった。他方文書課の者はメモすら取れなかった。

○パリ支店長の本業は観光案内
・著者は1991~94年パリにいたが、その頃はまだバブルの熱が冷めていなかった。そのため商社/銀行などの支店長は、取引先の観光案内で忙しかった。

・OECD代表部と在仏大使館では役割が異なった。代表部の役割はサブスタンス(実務)であったが、大使館の役割はロジスティクス(後方支援)で、そこには接待/観光案内も含まれた。役所からの出張者は大使館、民間からの出張者はJETRO(日本貿易振興会)が接待/観光案内していたが、年度末はてんてこ舞いだった。

○痛風は美食の挙げ句の果て
・JETROの接待担当者は、1ヵ月で37回のフルコースで嫌になっていた。彼は帰国後に痛風になる。大使館の接待担当者は、グルメを自認していたが、パリにいる時に痛風になった。※これも税金か。

<ドタキャン大臣>
○大臣にお出まし願う時
・OECDには多くの委員会があり、先進国の5年先/10年先の問題を議論している。そして数年毎に大臣が集まり、「コミュニケ」(閣僚宣言)を纏め、それが各国の行政指針となる。※コミュニケはたまに聞くな。

・ところが農業大臣会合はGATTでの対立により、1982年以来開かれていなかった。しかしウルグアイ・ラウンドの期限が1990年末なので、1992年3月に農業大臣会合を開く事になった(※年度末だ)。しかしウルグアイ・ラウンドは依然泥沼に嵌っていた。そこで事務局は、紛糾しそうな①関税化、②ミニマムアクセス、③輸出補助金を避け、長期的な①構造調整、②農業と環境、③農村地域開発を議論のテーマにした。

○日本の大臣は五輪出場経験者
・農業大臣会合のための準備会合が開かれ、議論の叩き台となる「ディスカッション・ペーパー」の作成に入ったが、各国が自己主張し、纏まらなかった。そこで著者は「後は大臣に任せよう。日本の大臣(田名部匡)は元オリンピック選手で、積極的に発言する」と提案し、それが通る。

○大臣出席の返事、今だ届かず
・農業大臣会合の議長はウルグアイ・ラウンドの農業交渉グループと同じスウェーデンの大臣となった。スウェーデンは中立的な立場で、最適であった。副議長は米国/EC/オーストラリアに決まっていたが、農業保護国と農業輸出国とのバランスから、日本も加わった。
・しかし日本から農林水産大臣が出席する返事は一向になかった。

○大臣欠席で大使のメンツが丸潰れ
・OECD代表部と本省の間に考え方の齟齬もあった。大使はこの会合を重視していたが、本省は違った。結局「前次官が出席する」との返事が来た(※これは事務次官だな)。これに対し大使は国際関係でトップの審議官の出席を要請し、一揉め起こす。著者も農林水産大臣に出席してもらうように根回ししていたが、無駄となった。

○裏にあった派閥争い
・当時安倍派から「加藤グループ」が分裂し、その「加藤グループ」の唯一の大臣が田名部大臣であった。農業大臣会合と「加藤グループ」結成記念パーティの日程が重なっていたのである。
・田名部大臣の主席が困難と分かった本省は、前次官に中国に行く予定をキャンセルしてもらい、出席の承諾を得ていた。そのため大使が要望する審議官への変更はできなかった。

○褒められたり怒られたりの公電
・著者は大使の指示に従い「大臣が来れないなら、審議官が来るように」と公電を送った。しかしこの公電に経済局長から「余りに外務省寄りで、本省に盾突いた」と問題になる。

○出る杭は打たれる
・2年後、後任の者から「構造改善局にも、篠原さんを快く思わない人がいる」と聞く。さらに畜産局の同期からも「本省と仲良くした方が良い」との手紙を受けた。牛肉のPSE(生産者補助相当額)の時、本省からのペーパーが1枚だけだったので、文句を言った事がある。これが原因かもしれない。

○通訳の入れない会合で
・すったもんだの挙げ句、農業大臣会合が始まった。前次官は豪胆な人物で、会合は無難に切り抜けた。次の難問は通訳の入れないワーキング・ランチであったが、著者が通訳し、こちらも無難に切り抜けた。これらが終わると著者は疲れがどっと出て、寝込んでしまう。

○午前2時のごり押し休会
・やられたのは著者だけではなかった。ドラフティング(草案作成)会合に出席した国際部長も、「完徹」(完全徹夜)する羽目になった。この会合の結果が、ウルグアイ・ラウンドの趨勢を決定する可能性もあるので、各国は力を注いだ。この会合では、出席者全員が一文ずつ確認するので、大変な労力を要した。
・国際部長は英国留学や在米大使館勤務を経験し、国内でも重要ポストに就き、ピカ一の国際派で適任だった。

・ドラフティング会合の最中、ドイツの代表が「直接所得支持」(?)の文言を入れるように要求するが、米国/カナダ/オーストラリアが大反対し、深夜2時に中断となる。最終的に「所得政策」の文言が挿入されるが、その時は朝になっていた。

○大臣会合前の厄介な出張者
・農業大臣会合の1週間前に農村地域開発会合があり、それにかつての同僚が出たいと我儘を言ってきた。彼は「篠原大参事には迷惑を掛けない」と言うので、来る事になった。

○またしても英語でSOS
・しかし農村地域開発会合の初日、彼から「英語も仏語も聞き取れなくて、篠原さん、明日から会合に出てくれませんか」と電話があった。
・実は著者も同じ経験をしていた。普段耳にする英語は政治家の演説か、二国間の交渉である。前者は明瞭な発言の英語であり、後者は相手が何を言いたいか予測できる。ところがOECDでのマルチな会合(※多国間かな)では、相手が言う事を予測できず、しかもヘンテコな英語で捲くし立ててくる。結局彼の会合に同席する事になった。

○農業局長と大使からカミナリ
・翌日、農村地域開発会合で何を発言したか覚えていない。ただ彼に発言を促しても、同時通訳のチャンネルをいじくるだけだった。
・途中会合が中断となったが、そこにヴァイアット農業局長(※OECDかな)から「何でそんな会合に出ているんだ」とお叱りを受ける。さらに大使からま「代表部に戻れ」と電話があり、彼に反日も付き合えなかった。

○最悪の出張者
・当日は農業大臣会合の準備で「完徹」となる。その朝彼から電話があり、「会合の内容が分からなかったので、篠原さんの”立派”な字で公電の原案を書いて下さい」となった。翌週は農業大臣会合があり、その次の週に彼に原案を送った。
・彼に限らず、本省からの出張者は手間が掛かる事が多かった。そのため出張者に①一度は発言する、②公電の原案を書かせるを課していた。しかし彼は両方とも果たせなかった。

○恩を仇で返す
・帰国後、彼は「篠原さんの英語は酷く、通訳ができなかった」と言い触らし、それを本省の幹部が信じる所となる。※相手を貶める事に注力する人は、出世できる。

・彼は室長であったが、室長が出張したこの前例により、その後は室長も出張するようになる。1年半後、彼の後任室長が出張してくる。後任室長は留学経験などなかったが、その役目を十分果たした。

<超高級ワインの夜>
○世界で最も忙しい人物と会見
・ウルグアイ・ラウンドの交渉により最も忙しい人物と云われたのが、GATTのアーサー・ドンケル事務局長だった。世界中から関係者がジュネーブのドンケルを訪れ、面会できても数分程度であった。ウルグアイ・ラウンドは国際的な重要事項で、彼にはサミット(G7?)/四極通商会議/APECなどからも出席要請がきた。

・1992年5月OECD閣僚理事会の合間に、農林関係議員(保利耕助、柳沢伯夫、大河原太一郎)とドンケルとの会談をセットし、日本の米問題に関する意見を伝えようとした。閣僚理事会には通産大臣/経済企画庁長官などが出席している。

○ドンケルの書類投げ捨て事件
・代表部の部屋に3議員/著者/通訳などが集まり、ドンケルを招いた。保利議員は英語が堪能な国際派であった。柳沢議員も大蔵省時代にロンドン勤務の経験があった。大河原議員だけが英語を話せなかった。
・会談の内容は米問題だったが、保利・農林水産貿易対策委員長が「それでは日本はGATTへの拠出金を減らす事も考える」と言った事で、ドンケルは書類を投げ捨て、退出しようとした。その後も会談は続き、2時間に及ぶ会談となった。※詳細省略。

・後に保利は自治大臣、柳沢は金融担当大臣、大河原は農林水産大臣に就く。

○ブーローニュの森で晩餐会
・OECD閣僚理事会で大物が揃った事で一席設ける事になった。大使が経済企画庁長官/通産大臣を担当し、参事官である著者がブーローニュの森の二つ星レストランで夕食会を開く事になった。

・大使は大平正芳・外相の秘書官を務めた事から、宏池会の柳沢議員と親しく、通産大臣を見送った後、夕食会に参加する事になった。また公使も経済企画庁長官を見送った後、参加する事になった。また外務省の経済局長の父は元農林水産次官(※これは事務次官)で、農林水産省にいた大河原議員の上司だった。そのため外務省の経済局長も参加する事になった。
・その結果、保利議員、大使と柳沢議員、経済局長と大河原議員など大いに盛り上がった。

○ロートシルトとロマン・コンティ
・大河原議員が「ワインの味は知らないが、せっかくだから、とびっきりのワインを飲みたいな」と言い、経済局長がワインを注文する。しばらくして大河原議員の感に堪えない声が聞こえた。著者が公費で二つ星以上のレストランに行くのは、これが最初で最後となる。

○ワイン代にビックリ
・翌日総務担当の公使から呼び出しがあった。「昨日の費用、ワイン代が料理代を超えていますよ。何を注文したんですか」「経済局長が・・」「『ロートシルト』と『ロマネ・コンティ』ですよ。この2銘柄は覚えておいて下さい」。この2銘柄は頭にこびりついたが、それ以降口にしていない。※これも税金か。

<本省の約束違反>
○残業4人組
・著者は関係する全ての会議に出席し、そのペーパーを読み、会議での発言内容を事前に纏め、報告公電を書いた。そのため仕事量は膨大となった。パリに着任し、残業仲間が3人いる事が分かった。環境庁からの1等書記官、外務省からの1等書記官、科学技術庁からの1等書記官である。参事官の著者は、3人から「本省なら課長なので、こんな細かい仕事はしなくて良いのに」と同情された。

○全然来ない2等書記官
・1年後には2等書記官が来る約束であたが、一向に連絡がない。国際企画課長に電話すると、「君が帰ったら、二人体制にするよ」と言われた。
・そのため代表部を二人体制にするなどの建白書を再度書いたが、すると著者が担当した会議数は、大蔵省からの出向者の3倍もあった。

・著者は在英大使館の1等書記官に、「君がパリに来るかもしれないぞ」と脅しを掛けた。その10年後、彼はジュネーブ(WTO)の政府代表部に参事官として出向し、在英大使館での部下を引き連れている。近年マルチの会合の重要性は増している。

○2等書記官の屁理屈
・本省は2等書記官の組織要求を出し、大蔵省/総務庁は了承したが、外務省が難色を示した(※他の省の承認がいるの?)。その理由は「代表部にスペースがない」だった。しかしこれは決着する。

・ところが著者は法経学士ではなく農業経済学士を要望していたのに、決まったのは法経学士で、ENA(仏国のエリート養成校)に留学し、仏語ができる2等書記官だった。著者はこれに抗議するが、彼は「OECD代表部で働きたい」との意思が強かった。
・OECD事務局に出向予定の農業経済学士がいた。そこで著者は法経学士の彼がOECD事務局に入り、農業経済学士に代表部に来てもらう根回しをするが、彼は「日本政府の側で働きたいと」と譲らず、結局著者は諦める。
・しかし数年後、法経学士の彼がOECD事務局に入り、農業経済学士は代表部に入った。その後法経学士の彼は代表部に戻り、参事官に就いている。

○本省からの横槍再び
・在仏大使館とOECD代表部は同じビルに入っていたが手狭になり、代表部が別ビルに移る事になった。参事官の著者は個室で、法経学士の彼(2等書記官)も無理を推して1部屋もらった。ところが彼は英語研修が必要になり、来るのが遅れた。
・総務参事官からは「OECDは英語/仏語が公用語で、ENAに留学したものに英語研修は無用」とお叱りを受けた。

○受けた恩は3倍に
・色々注文の多い著者に総務参事官は加勢してくれた、彼に何も恩返しできていないのが心苦しい。

<ナンバー2のハラキリ>
○百戦錬磨のEUテクニック
・1993年秋、ウルグアイ・ラウンドの交渉がジュネーブで行われていた。交渉上手のEUはミニマム・アクセス(※最低輸入機会。一定量までは低関税で輸入し、それを超えると高関税になる)で「セクター・アプローチ」を要求すると読んでいた。これにより穀物/油糧種子(※油脂を多く含む種子)/食肉などの品目を括り、裁量を持てるようになる。もしEUが「セクター・アプローチ」を要求するのであれば、日本も米/小麦を括って、米を輸入しなくて済む。※こんな解釈で良いのかな。

○本省に送り付けた建白書
・1993年12月ウルグアイ・ラウンドは終了した。著者は農業交渉に関する「建白書」を数人の幹部に送っていたが、無駄となった。EUは土壇場で牛肉/豚肉/羊肉/鳥肉を食肉として括る「セクター・アプローチ」を認めさせた。

・この影響からか、著者は胃潰瘍になってしまった。家族で年末恒例のスキー旅行に出かけるが、胃が痛くて耐えられない。医者から「胃潰瘍ですね」の託宣を受ける。妻からは「子供が病気の時はグースカ寝ているのに、自分とは関係ない米で胃潰瘍になるとは」と小言を言われた。

○腹を切らない大臣
・日本より有利に終わった韓国では、農民によるデモで首相は辞任した。日本は米のミニマム・アクセスを4~8%認めたが、腹を切ったのは政務次官の村沢牧であった。彼は次期改造内閣で入閣が予想される人物であった。

○なぜ会合でジョークを飛ばすか
・OECDの国是(※国ではないが)は「自由貿易」である。そのため規制を設けている国や分野は攻撃される。日本の経済は低迷し、2000年以降の経済企画庁の出向者は窮地に立たされている。
・万年劣等生の農林水産省は、常に窮地に立たされている。日本は漁業操業ルールを守っているので水産委員会は引け目を感じないが、農業委員会/貿易委員会では、いつも気が重い。「農村地域開発」「貿易と環境」などの新しい会合では、比較的自由な発言ができる。
・日本の各省が本気に取り組む事は少なく、大概は「適宜対応」の訓令が届く。そのため著者はジョークを飛ばしている。※誤魔化し?

・OECDには環境局がある。1989年「アルシュ・サミット」(G7)は「環境サミット」と呼ばれるが、その基はOECDの環境委員会である。それが1992年「地球環境サミット」(国連)に繋がる。
・著者がパリに出向した直後から「貿易と環境の合同会合」が始まった。本省からの訓令は「適宜対応」が多く、自由な発言ができた。それは東京では各省が権限争いをしているが、パリでは著者や通産省/外務省/環境庁からの出向者が国益のために団結していたからである。

○日本の輸入し過ぎで起こるデモ
・日本では知られていないが、国際社会では「日本の輸入し過ぎ」が問題になっている(※ピンとこない)。任期途中まで在仏大使館とOECD代表部は同じビルにあった。そのため代表部も日本に対する抗議デモに巻き込まれていた。
・デモの主張は反捕鯨/熱帯木材の輸入禁止/マグロの輸入禁止などで、それらは農林水産省の所管である。※輸入自体が問題なのではなく、環境破壊が問題なのでは。

・これに対し著者は、「日本の木材の輸入も、マグロの輸入も認める。マグロは美味しく頂いている(ジョーク)。これらを輸入するなと圧力を掛けるが、一方で農産物を輸入しろと圧力を掛ける。この矛盾を理解できない。米国では日本の小麦/トウモロコシ/大豆の輸入のため、地下水を汲み上げ、土壌は流出している。また日本では農民が生産を止め、農地が荒廃している」と発言した。この発言に米国の環境NGOや韓国のオブザーバーから賛同を得られた。

○英語の発言を前に胴震い
・「貿易と環境の合同会合」に通産省と農林水産省から若手が出張してきた。通産省からの若手は英語がペラペラであったが、農林水産省の方は全然だった。一回発言の「篠原しごき」があるので、農林水産省からの若手に発言させたが、彼の胴震いで椅子がガタガタ鳴った。その彼は今は全国最年少で県庁所在地の市長になっている。

<首相も住んでいるアパート>
○妻が主導権を握る住宅選び
・著者のパリ赴任は慌ただしく決まった。パリ生活のための情報を、前任者/帰国者/JETROの職員/友人などから集めた。子供の学校に関してはアメリカンスクールだと年間200万円、日本人学校だと年間100万円、公立学校はタダだった。就任6ヵ月前パリに出張したので、その時にアパートの契約をした。

○日本の3倍仕事しなくては
・在外勤務すると基本給(約30万円)とは別に、在外勤務手当(約70万円)が付き、さらに住宅手当(約45万円)が補助される。一昔前「海外勤務すると家が建つ」と言われたが、その通りであった。「3倍給料をもらえるので、3倍仕事をしなくては」と思った。

○首相のスキャンダル
・妻が友人から、新首相ベレゴボワに手紙を渡して欲しいと頼まれた。何と新しく首相になるベレゴボワが同じアパートに住んでいた。その日から警官が常に立つようになり、黒塗りの車が必ず2台迎えに来るようになった。彼は東欧移民の2世で、社会党員だった。
・その後「彼がアパートを購入するのに無利子で融資を受けていた」として、このアパートが有名になる。

○眼を真っ赤に腫らした首相と握手
・このスキャンダルにより、1993年3月社会党は265議席を66議席に減らし、彼は首相を退陣する。彼が退陣を表明した日、眼を真っ赤に腫らした彼と会い、握手を交わした。

○仏国人の切腹メンタリティ
・彼を励まそうと、我が家への招待を考えていたが、退陣から2ヵ月後、彼は首長を務める地方都市でピストル自殺する。仏国人は日本人と似て、柔道が好きで、責任の取り方も似ている。

・代表部でこの話をすると、「篠原さんと握手する有名人は、危ない目に遭う」と言われた。実はこの1年前、アパートの隣のレストランで全仏オープン・テニスで優勝したモニカ・セレシュと会い、握手しサインをもらっていた。彼女もベレゴボワ前首相が自殺する前日に、ファンに刺されていた。これ以降、有名人とは握手しないようにしている。

<我が家の接待メシ300名>
○和食が直ぐに恋しくなる出張者
・パリには日本食レストランも多かったが、OECDの会議出席者には少なくとも1回は設宴するようにしていた。といっても著者は送り迎えだけで、大変なのは妻である。

○褒め下手の日本人
・日本人だけでなく外国人も招いたが、外国人は常に料理を褒めた。一方日本人で妻の料理を褒める人はいなかった。接待した翌朝になって「昨夜の鴨料理は美味しかったです」とか、帰国後に御礼の品を送ってくる日本人はいた。

○偽ワイン通VS.妻
・我が家には、1千~6千円程度のワインを常備していた。ワイン通を招いた時、お客は「これは良いワインですね」と言って、全部飲み干してしまった。しかし後で妻に聞くと、一番安いワインだったそうだ。これは300人招待した余裕か。

○自宅ではカレーとラーメン
・敬愛している審議官がパリに来られ、妻は嫌がったが、急遽家に招く事にした。さすがに国際経験が10年以上あり、妻の料理を褒めてくれた。しかし彼の「普段はどんな食事をされているんですか」の質問に、妻は「カレーとラーメンを食べさせています」と答えた。

○コンクリートの舌
・この答えには深い意味があった。著者は役所での出来事をよく妻に話していた。かつて審議官に随行し、二つ星レストランで食事していて、彼を怒らし、「君なんか、カレーかラーメンを食べてれば良いんだ」と言われ、この頃から「コンクリートの舌」と評されるようになった。多分妻はこれを覚えており、あの答えになった。

・長く夫婦をしていると、似てくるもので、妻はドキッとする事をさらりと言う。ある人が妻を「篠原さん以上に篠原さん的な人」と評していたらしい。

<困りに困った仏語>
○英語を話してくれない仏国人
・仏国人は英語を理解できても、決して英語を喋らない。そのため仏語が話せない著者は大変苦労する。愛車の定期点検に行ったが、話が通じない。仕方なく代表部の通訳に来てもらった事もある。日中なら通訳に来てもらって何とかなるが、夜間や休日になるとお手上げとなる。余りに通じないので、涙が出た事もある。※宮島で仏国人に英語で話しかけて、ぞんざいに扱われた事がある。

○急造通訳の娘が警官と
・朝愛車に乗ろうとすると、フロントガラスにヒビが入っていた。著者は娘を連れ、警察に向かった。娘は警察と交渉してくれて、犯人が捕まる訳ではないが、被害届を出す事ができた。また保険金の請求もできた。
・娘はネイティブと聞き間違えられるほど仏語が上手になった。妻も買い物や夫人同士の付き合いで仏語ができるようになった。仕事で英語しか使わない著者だけが取り残された。

○英語も仏語も長野弁
・著者は、「自分には”前例・横並び最優先”の意識がなく、役人としては落第生」と認識している。代表部で強硬に主張したものに「仏語研修」がある。OECDでは英語/仏語が公用語なので問題ないが、仏語が分からないと生活に不便である。
・総務参事官が変わった事で、ロジスティクス面での改革が行われ、家族ぐるみの団体旅行/忘年会での仮装大会/仏語研修などが行われるようになった。著者も「仏語研修」に出席したが、娘から「英語も仏語も長野弁」と言われた。

○結婚式で仏国人が大喜び
・農林水産省の後輩がパリで結婚式を挙げる事になり、著者はその仲人を頼まれた。そこで皆を驚かしてやろうと、仏語で挨拶する事にした。
・日本語で文面を作り、それを代表部の仏国人に仏語に訳すように頼んだが、文語の日本語を理解してもらえなかった。そこで英語の文面を作り、それを代表部の秘書に頼んで仏語に訳してもらい、さらにテープに録ってもらった。仏語は英語より文法は難しいが、発音は易しい。

・新郎新婦がパリに着くと、我が家に挨拶に来た。話が弾んで、妻は秘密にしていた仏語の挨拶を喋ってしまった。二人が帰ると、妻に「仏語の挨拶はお前がやれ、俺は日本語でやる」となった。
・披露宴には新郎新婦の両親/兄弟や新婦の二人の祖母も出席した。そんな中で著者は日本語で挨拶し、妻は仏語で挨拶した。著者は文面を作り、練習もしたのに、拍手喝采を浴びたのは妻だった。

○一口スピーチの上手な欧米人
・会議で同席する仲間には親近感が湧く。しかし異動により別れがくる。長く代表を務めた者に「送る言葉」が述べられる。それに本人が簡単なスピーチで応えるのが恒例である。
・米国では授業で3分間スピーチをやる。一方日本は「言わず語らず」「言わぬが花」でスピーチは苦手である。

・1994年春、著者にとって最初の”最後の会合”が「農業と環境の合同委員会」であった。ところが大使/後任との会食があり、会合の途中で抜けた。しかし会合の最後で、宿敵オーストラリアの参事官に賞賛してもらえた。

・最後の「農業委員会」のために、著者は英語のスピーチを書き、それを仏語に訳してもらい、練習もした。

○名物男となったスピーチ
・当日、その原稿を英語/仏語の同時通訳にも渡しておいた。著者は仏語で「いつもは酷い英語で頭痛を起こさせていましたが、今日は仏語の皆様に犠牲になってもらいます」「ここでの仕事は楽しかったです。東京からの頑固で柔軟性のない指示で困難なものとなりましたが」「私は輸入国の視点から議論を活性化するように努めました」「この代表団に戻るのを願っています。なぜなら私は仏国、パリ、OECDが好きだからです」と応えた。
・スピーチを終えるとヴァイアット農業局長が駆け寄り、握手(?)をし、早口の仏語で話し掛けられるが、意味は分からなかった。「君が仏語ができるとは知らなかった。それなら仏語で発言した方が良かったのでは」と言っていたらしい。

<シアトルの何でも屋>
○何年たっても英語音痴の役人
・パリでの勤務を終え、日本では「200海里排他的経済水域の設定」などに従事した。しかし1999年11月外国で苦労する事になる。WTOの関係閣僚会議が米国シアトルで開かれ、それに随行する事になった。
・日本からは河野洋平・外務大臣/深谷隆司・通産大臣/玉沢徳一郎・農林水産大臣が出席した。農林水産省からは国際部長/農林水産技術会議研究総務官/林野庁林政部長/水産庁漁政部長/計画部長などが出席した。農林水産省で英語ができるのは、審議官/国際部長/著者などに限られた。

○デモ隊殺到で怒鳴る国会議員
・ウルグアイ・ラウンドで農林水産省だけが関与した反省から、農業交渉には自民党/農林水産関係団体も加わるようになった。そのため今回は、農林水産省は彼らの対応にも労力を割かれる事になる。
・自民党からは中川昭一・前農林水産大臣/谷洋一/堀之内久男/太田豊秋、さらに松岡利勝らが乗り込んできた。著者は松岡議員/松下忠洋議員を出迎える事になった。

・二人の議員を空港からホテルに送迎したが、そのホテルはクリントン大統領も宿泊するホテルで、多くのデモ隊に囲まれていた。二人は訪米が急遽決まったため、IDカードを持っていなかった。しかし何とかホテルに入る事ができた。
・入口で計画部長と落ち合う予定だったが一向に表れない。後で聞くと英語ができない彼は、警備に追い出されていた。また悪い事に、著者の携帯のバッテリーが切れていた。結局二人の議員を待合室に長居させ、お叱りを受ける。

○イカめしパックを温める大臣
・日本側の主人公は玉沢・農林水産大臣であったが、大臣とは古くからの知り合いであった。著者は英語ができるため、大臣に付きっ切りとなる。
・ホテルはデモ隊に囲まれ、外出できず、その内ホテル内のレストランも閉鎖された。ところが大臣が「イカめしパック」「お粥パック」を持参しており、それを皆で分け合って食べた。

・農業関係では「グリーンルーム(主要国)会議」が難航し、その後に開かれる「フレンズ(友好国)会議」も遅れた。しかし大臣の「我々はデモ隊に囲まれ、『食料安保』の重要性を再認識した」の発言で会議場は和み、第一幕を切り抜ける。

○交渉よりも族議員の世話
・会議が紛糾した原因は、文言「多面的機能」を宣言に含めるかにあった。「多面的機能」とは、農業は食糧生産だけでなく、農業の田園風景の維持/環境の保全/地域社会の安定などの役割を認める事である。宣言文から文言「多面的機能」を削除するための会議が開かれるが、結論は出なかった。※「多面的機能」は農業保護側の主張かな。

・会議後、大臣は2つの不満をぶちまけた。①米国/オーストラリア/韓国/EUとのコンタクト・パーソンがいない、②「多面的機能」の理論的裏付けがないである。肝心の事務方は、自民党の議員の世話に汲々するだけであった。大臣は会議が終わる度に、自民党の議員/農林水産関係団体に対する「三者協議」を開き、説明を行った。

○大臣、日本の記者団を叱る
・日本の各紙が「日本、『多面的機能』を断念」と書き、大臣は悪者にされた。これに対し大臣は”ぶら下がり取材”で、記者に「君たちは間違った記事の裏を取るため集まったのか」と怒鳴りつけた。日本のマスコミには「嘘っぱち、皆で書けば怖くない」の風潮がある。

○いびきをかく議員にレクチャー
・膠着状態のまま、最終日に近付いた。著者はいつも通り7時半に起き、大臣の部屋に向かうが、大臣がいなかった。膠着状態打開のため、午前6時より緊急会議が開かれていたのである。

・著者は午前8時からの「三者協議」で大臣の代役を務め、前日の会議の状況を説明した。そこには、いびきをかいて夢の中にいる議員もいた。米国では議会が外交に干渉する事はない。日本でも繊維/鉄鋼分野の議員は、シアトルに来ていなかったが、農林族議員だけは大挙して来ていた。※かなり不満みたい。

○衆院本会議場で勇名を馳せた声
・いびき交じりの「三者協議」を終え、会議場に駆け付ける。午後1時を回り、大臣が「我々は7時間も議論を続けている。我が国が主張してきた『食料安保』を確保するためにも、昼休みを取るべきだ」と発言し、休憩となる。大臣は衆院本会議場での「呼び出し役」で勇名を馳せた人物で、声に迫力があった。

○アンパンは食料安保の象徴
・昼休み中、若い頃に世界を回った大臣は「俺は世界各国の国家が歌えるんだ」と、その歌声を披露してくれた。

・午後の会議が再開されるが、EUの農業団体が「『多面的機能』は削除すべきではない」と決議していたため、EUは会議に参加しなかった。結局会議は決裂したが、「多面的機能」(農業は他の産業と違い、諸々の役割を果たしている)は生き残った。

○機内でレポートを書く真面目な大臣
・シアトルからの帰りの飛行機に乗ると、著者は玉沢大臣などの活躍を記録した。秘書官/計画部長に検閲してもらったが、ほとんどフリーパスだった。ファーストクラスの大臣もレポートを書かれているようだが、その記録を検閲してもらった。著者が寝ている間に、ぎっちり修正された記録が届けられた。

・帰国後この記録はワープロで打ち直され、関係者に配布された。同期の一人が「何で大臣がお前の字を読めたのか」と言うので、「心が通じているからさ」と答えたが、彼は「大臣は行間を読める政治家なんだろうな」と言った。玉沢大臣はそんな本当の政治家だけど、なぜか選挙には弱い。

<あとがき 政治学の泰斗、高坂正堯先生の忘れ形見>
・高坂正堯先生が逝かれて10年以上経つ。著者は2003年総選挙で当選し、政治の世界に足を踏み入れた。

・著者は京都大学法学部で学び、先生の講義は1回しか受けていないが、単位は2科目頂いている。当時大学はおおらかで、試験で合格すれば単位がもらえた。政治科目では「国際政治学」「日本政治外交史」を受講した。前者は先生の担当で、後者は留学した教授の代打を先生がしていた。
・「国際政治学」の試験日に先生が黒板に『デタント』と書いた。ある学生が「『デタント』って、何ですか」と尋ね、先生は『緊張緩和』と書かれた。これで答案も書け、試験に合格した。
・講義に一度も出ず単位を頂いたので、1回だけ講義に出た。それは「国際協力問題」で、発展途上国との関係を男女関係になぞらえたユーモラスな講義だった。

・農林水産省に入省し、米国留学する事になったが、それには3通の推薦状が必要であった。1通は上司に、1通は大学の担当教授だった北川先生に書いてもらったが、後1通に困っていた。すると北川先生が米国でも有名な高坂先生に頼んでもらえる事になった。

・高坂先生が「人柄を知りたい」からと、著者は京都の自宅に面接に訪れた。先生は次から次に質問され、冷汗三斗となった。「官僚で誰を尊敬しているか」の質問には、平川守/日野水一郎を挙げた。この時先生から「同じ長野の田中秀征を思い出す」と言われたが、後に著者は田中氏と同じ長野1区で当選する。
・帰り際先生から「米国の大学院は試験がないので、推薦状は大事なんだぞ」と言われた。しばらくして7枚綴りの推薦状のコピーが送られてきた。

・先生のご恩に報いる方法はなく、実家のリンゴ/桃を送った。またこれ以降、先生の著書には線を引き、読破するように努めている。

・1980年著者は「内閣総合安全保障関係閣僚会議担当室」に出向し、「食料の安全保障」を担当する。日本には安全保障に関する講座はなかったが、高坂先生から教えを乞うた。

・1985年著者は『農的小日本主義の勧め』を上梓するが、その帯の推薦文は先生に書いてもらった。「農業は人間の基本的な営みである。そのため農業に関する著作に、優れた文明論が多い。日本の文明に関心を持つ人間に、必読の一冊である」(※要約)と書いて頂いた。

・1985年先生のゼミで学ぶ学生が、農林水産省への入省を希望してきた。採用担当者に優秀な学生である事を告げ、その時を待った。しかしいつまで経っても連絡がないので、採用担当者に電話すると、「人事院に通告しているため、法律職/経済職は採用するが、行政職は採用しない」と言われた。そのため行政職の彼は採用できないのである。採用担当者に強く反論するが、この石頭担当者は首を縦に振らなかった(彼は他の省に採用される)。
・著者は採用担当者を説得し、来年からは行政職も採用するように了承させた。

・1年半後、著者の下に新人が配属された。数ヵ月経ち、彼が行政職で採用された事を知る。石頭担当者に電話すると「今頃気が付いたんですか。せっかくだから篠原さんの所に送りました」と言われた。その後も行政職が採用され、法律職/経済職とは違う味を出している。

・高坂先生に最後にお会いしたのは、パリのOECD日本代表部にいた時である。先生は「日本の外交を充実させるためには、大使館への各省からの出向者を増やす必要がある」と述べられた。
・著者は米国留学で海洋法を学んだ。先生からの年賀状に「国際政治では軍事問題が重要だが、同様に境界が明確でない海洋も重要である。私も漁業外交問題にじっくり取り組みたい」と書かれていた。

・著者が「日本のあるべき姿」を記し、それを世に問うているのは、先生の影響である。本書は先生に捧げたい。英語に「brilliant」(輝くばかりに素晴らしい)の言葉がるが、これは24歳にして助教授に抜擢された先生にふさわしい。先生がご存命なら、学界から閣僚入りする最初の政治学者になったと思う。

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