『村役人のお仕事』山﨑善弘を読書。
徳川時代後期の村の名主/庄屋の仕事を解説しています。
彼らは年貢の徴収・上納/治安維持/救済などを行っています。貨幣経済進展による脱農化に抗おうとします。
お勧め度:☆☆(大変詳しいので、興味のある方)
キーワード:<武士のいない村の政治と自治>名主、行政官/代表者、大庄屋・惣代・取締役、地主・豪農、<上野国の名主・伊能家>岩井村、年貢/村請制、仕送り/御用金、治安維持、インフラ整備、御触書、人口把握、来村者、浅間山噴火、<武蔵国の名主・佐野家>佐野新田、年貢の徴収・上納、御触書、村議定、安政大地震/貯穀、助郷役、改革組合村/大惣代、余業調査、治安維持活動、組合村議定、<播磨国の庄屋「取締役」三枝家>清水家、庄屋、取締役、社倉政策、武士身分、<播磨国の大庄屋・三木家>大庄屋制/辻川組/山崎組、裁判権、文化改革/国用積銀制度、新田開発、<徳川日本と村役人>御救い、改革、広域行政、自治/代表者、明治政府
<武士のいない村の政治と自治>
○村役人の仕事
・教科書に村役人の記述は少ない。しかし徳川社会を支えたのは、人口の8割の百姓であり、全国6万3千余の村であった。村は支配の単位であり、自治の単位であった。
・その村の主導者が村役人で、特に”総括責任者”である名主(庄屋、肝煎)は幕藩領主(※以下領主)に任命された。
○村の行政官、村の代表者
・村役人で特に重要なのが名主(庄屋)です。徳川時代の村の前史は、中世の「惣村」です。「惣村」では「年寄衆」が自治を行っていた。
・徳川時代になると領主は「年寄衆」の中から庄屋が任命され、行政官となります。しかし庄屋と百姓の間には委任関係があり、百姓が不服従を突き付ける事も可能でした。
○『庄屋往来』
・名主(庄屋)の子弟が学ぶ教科書に『庄屋往来』があります。そこに以下の仕事が記されている。①領主が交代した時、村明細帳を書く。②宗門改めを行う。③村民の出入り、人口の増減を把握する。④参詣/湯治の許可を願う。⑤難渋している者の救済米を願う。⑥巡見/廻村を案内する。⑦御普請所の経費を算出する。⑧隠田・空地の開発/検地。⑨年貢・諸役の上納。⑩寺社の修復。⑪凶作の時は減免を願う。⑫徒党・強訴・逃散の禁止。⑬孝行者を称賛する。⑭合力・無尽・頼母子を取り持つ。⑮公事訴訟の和談。
・名主の仕事は税務・警察・裁判に及びます。『庄屋往来』には行政官としての仕事は記されているが、代表者としての仕事は記されていない。
・また『庄屋往来』には、「領主には忠孝を尽くし、百姓には慈愛を掛ける」「村中を静謐にする」などの心構えも記されている。
○数十ヵ村を管轄する村役人
・徳川時代後期になると、広域な地域を管轄する大庄屋・惣代・取締役が設置されるようになります。彼らは行政官の性格が強くなりますが、代表者としての性格も持っていました。※全然知らなかった。村役人との役割分担は?
・徳川時代中期、農村で貧富の差が拡大し、地主・豪農が上層百姓になります。地主は百姓に資金を貸し、質に取った田畑を小作人に貸しました(地主経営)。豪農はこれに加え、居村を超え商品作物の流通や金融を営みました。衰退する領主は彼らの統括力・資金力を頼り、支配機構に組み込みます。※資本主義は貧富の格差を作る。
・地主・豪農は地域の発展に尽くし、領主は地域で信頼される地主・豪農を、大庄屋・惣代・取締役に任命しました。領主は広域行政を担う村役人を設置し、柔軟に対応したのです。
<上野国の名主・伊能家>
○名主伊能家の誕生
・本章は旗本・保科家の上野国の知行所の名主・伊能家を解説します(※保科家は会津松平家の遠戚かな。伊能家は百姓なのに苗字がある)。保科家は吾妻郡7ヵ村(※伊勢町を含む)/群馬郡3ヵ村を知行所としていました。吾妻郡岩井村の名主は輪番で、伊能平治右衛門(※以下彼)が安永6年(1777年)3月~天明4年(1784年)2月まで名主を務めます。彼はその前後にも名主を務めていますが、この期間を紹介します。
・名主は村民の入札で決まり、それを領主が認めます。岩井村が伊勢町役所(代官所、以下役所)に提出した彼を名主とする『請書』が残っています。
○名主の仕事
・彼の日記(安永6年3月~同7年7月)から、彼の仕事は、①全国共通の名主の仕事、②領地特有の仕事、③地方の在り方に規定された仕事に大別されます。※②と③の違いが不明。
○年貢の徴収/上納
・年貢の徴収/上納は数度に分けて行われます。安永6年12月上納が完了した段階で作成された『年貢の合計書』が残っています。これに名主である彼と組頭5名が連署しています。
・『年貢の合計書』は「田方」「畑方」「御飾り入用・糠藁代」に分かれます。飾りとは正月/節句の飾りで、糠藁は馬の飼料です。
・年貢の合計は「永266貫691文5分」(※数字は実際は漢字)となっていますが、永楽銭ではなく金で上納されています。
・2・3・4月に金36両が江戸屋敷に前納され、7~12月に残りの金189両が役所に上納されています。2月は前任者が前納していますが、3月は彼が飛脚を派遣し、4月は彼が江戸屋敷に出立しています。
・彼の日記に9月1日に村民から年貢を徴収し、3日に役所に上納となっています(※彼が換金かな)。同じように年貢の徴収/上納を12月まで続けたと思われます。
・保科家は各村がその年に上納する年貢量を通達する『年貢割付状』を発給していません。それは年貢の個別の割付/収納を村役人に任せていたからです(村請制)。
・年貢の徴収/上納は村役人の重要な仕事です。彼は扶持米代として永1貫948文を受けていますが、これは2両にもなりません。そのため名主は名誉職と云えます。※米の換金で儲けていたのでは。
○保科家の財政
・「村請制」を維持するためには、名主に年貢立替機能が求められました。保科家の財政は逼迫し前納させていましたが、前納しても年貢量が増える訳ではなく、急場凌ぎです。そのため保科家は借財をしていました。また知行所から「仕送り」の名目で借財していました。
・安永6年4月20日彼は大塚村名主と共に、江戸屋敷で「仕送り」の命令を受けます。彼は帰村し、5月10日吾妻郡7ヵ村の名主が『請書』を作成し、役所に提出しています。そこには安永6年7月~同8年12月まで「仕送り」するが、元利返済の念を押しています。
・安永6年11月6日7ヵ村の名主が役所に提出した『願書』に、「保科家から『年内に80両(約480万円)の元利返済はできない』と申し渡されたが、それでは来年の『仕送り』はできない」と記されています。結局80両は返済されたようです。
・安永7年は財政が改善したようで、1月に7ヵ村で50両を「仕送り」し、55両3分/悪銭490文を返済されています。安永7年の「仕送り」はこれだけでした。
・安永8年は財政が悪化したようで、岩井村だけで33両3分を「仕送り」し、37両2分/悪銭560文を返済されています。
・さらに保科家は10ヵ村に、7月中に「御用金」100両を命じています。彼は金主から借用し、「御用金」21両余を上納しています。彼は「仕送り」は百姓に負担させ、「御用金」は自身が負担しました。
・年貢の徴収/上納は①全国共通の仕事ですが、保科家への財政支援は②領地特有の仕事と云えます。
○治安維持
・彼は「火付盗賊改方」の調査に関与しています。安永7年1月17日彼は中之条町の「火付盗賊改方」に出向き、「昨年10月、岩井村で盗賊の被害がなかったか」と聞かれています。「火付盗賊改方」は江戸市中だけでなく、関東全域の犯罪を取り締まっていました。名主は村内の治安維持を務めましたが、犯人逮捕などは役人が行っていました。彼のこの仕事は、③地方特有の仕事と云えます。
・天明3年(1783年)5月、「清兵衛が忠五郎方で2度にわたって不埒に振る舞った」として、忠五郎が「名主御役所」(彼)に訴えます。これに彼は清兵衛/その五人組/その親類に吟味を受けるように指導しています。彼に裁判権はなく、裁判は役所が行います。この件は清兵衛側が吟味の日延べを願い出て、赦免となっています。
○インフラ整備
・安永6年6月6日彼は組頭・七兵衛から、流失した架け橋の『普請願い』を受けます。七兵衛は御林(領主の林)と人足の提供を願っています。※今は暗渠みたいだな。
・6月18日彼は他の組頭とも相談し、川除け(治水)見分の『願書』を役所に提出しています。この中で川除け/橋の普請を願っています。
・普請には領主が費用を負担する「御普請」と、村が負担する「自普請」があります。8月5日に見分が行われ「自普請」となりますが、材木(杉14本、楢1本)は御林から下賜されました。
・8月8日から、合計287人で普請が行われました。岩井村は557人(男309人、女248人、僧・下男・下女を除く)なので、男性の大半が参加したと思われます。
○御触書
・名主には幕府/領主からの『御触書』を村民に周知させる仕事もありました。『御触書』の内容が重要な場合は、百姓からこれを遵守する『請書』を提出させました。
・天明3年(1783年)11月、幕府から百姓一揆禁止令の『御触書』が廻達されます(※詳細省略)。彼は『請書』を作成し、百姓147名に連署させています。
○人口把握
・彼は毎年、『宗門人別改帳』を作成し、領主に提出します。そして写しを手元に置き、変更があれば修正します。安永7年(1778年)3月彼が作成した『宗門人別改帳』が残っています。人口は出生/死亡により増減しますが、移住もあります。
・安永8年2月吾妻郡西中之条村から岩井村に、太兵衛の弟作治郎が跡式相続する事になりました。これにはまず、太兵衛が中之条村の名主の許可を得て、さらに中之条村の名主が岩井村の名主(彼)に『人別送り状』を発行する必要があります。
・安永8年3月岩井村の傅之丞の娘”くに”が吾妻郡六左衛門に娶られました。この場合も同じよう名主(彼)の許可が必要で、『人別送り状』も必要になります。
・この『宗門人別改帳』でキリシタン禁教政策が遂行され、また普請の人足調整も可能となりました。
○来村者への対応
・村には勧化(寺社への寄進)の者/浪人/座頭などが訪れました。彼らの目的は金銭で、村民との間でトラブルが発生する事がありました。これは村の代表者としての仕事と云えます。
・安永6年(1777年)4月12日高崎浄水寺の虚無僧が岩井村を訪れます。午後4時頃虚無僧は彼を訪れ、彼は傳右衛門に宿を準備させます。虚無僧は木賃/米代を出し、問題は起こりませんでした。
・4月19日高野山清浄心院の使僧が来村します。使僧は御礼140枚を配り、村役人に土産を持参します。彼(名主)は使僧に「養蚕が忙しいので、奉加(神仏への金品)を募る事はできない」と伝えます。使僧は「来年は弘法大師950年忌で、1万両(6億円)が必要」と奉加を願います。この結果秋に再来する事で合意し、8月20日使僧は再来村しています。
・他に越後国の座頭/安中谷津町長徳寺の僧/新田郡細谷村稲荷神社の者/水月山石蔵寺の僧(以下省略)などが来村しています。このように多数の勧化の者が来村しますが、窓口を彼に一本化する事で、村民とのトラブルを防ぎました。
・勧化の者は増える傾向にあり、文化6年(1809年)吾妻郡/群馬郡38ヵ村は来村者に対する『議定』(決まり事)を作ります。そこには「無理に金銭を要求する者は拘束し、訴えよ」と記されています。
○浅間山噴火と復興
・天明3年(1783年)7月浅間山が噴火します。7月8日土石流が発生し、吾妻川/利根川の沿岸を襲います。
・幕府は勘定吟味役の根岸鎮衛を現地に派遣し、『見分書』を作成します。死者が出た村は16ヵ村1104人、流失した家屋990軒となり、田畑に土砂が流入し、役馬の犠牲も出ました。
・岩井村は被害が少なかったため、『見分書』には記載されませんでしたが、彼は『高反別書上帳』を作成しました。これによると、村高737石1斗余/反別91町9反余に対し、流失44石2斗余/反別6町8反余となり(※6~7%)、村民541人で1人流死し、家屋/役馬の被害はありませんでした。
・7月10日岩井村の村役人が江戸屋敷に被害状況を知らせています。その後保科家の役人が知行所を廻村し、見分が行われ、救済金2両(12万円)が与えられます。※たった2両。
・9月1日彼は年貢延納/年貢減免を役所に願い出ますが、聞き届けられませんでした。その後7ヵ村で願い出ますが、これも聞き届けられませんでした。再度7ヵ村で願い出て、見分が行われ、11月年貢延納/年貢減免が認められます。
・吾妻郡/群馬郡10ヵ村の『請書』が残っていますが、それには吾妻郡7ヵ村の惣代/群馬郡3ヵ村の惣代と共に、彼の名前も記されています。彼は保科家支配の末端としてではなく、村の代表者として年貢延納/年貢減免を願う行動をします。その結果、岩井村は4割年貢減免されます。※被害の割りに高い減免率。
・当初幕府は、復興は領主の責任としていましたが、公儀として復興に当たるようになります。これに対しても彼は「領主からの救済だけでは覚束ない、公儀として救済して欲しい」との『願書』を提出しています。
・10月中旬「公儀御普請」が始まります。29日勘定奉行の松本伊豆守秀持による田畑開墾が発表され、11月その内容が領主に申し渡されます。その内容は「田畑/堤/水路/道/橋などを公儀が普請する。工事は村請とする」でした。つまり村民に人足賃が支払われるため、この公儀御普請は災害復興事業かつ被災者救済事業となったのです。
・11月21日彼に岩井村の御普請金15両が支払われ、普請が始まります。彼は12月3日10両/12月16日40両など、御普請金を複数回受け取っています。12月22日、1128間(2.3Km)の石積み、7町9反の起返(荒地の復旧)が終わり、普請が完了します。彼は幕府から最終的には119両3分を受け取り、これを村民に割り渡しています。
・これらの彼の行動は保科家支配の行政官としてではなく、村の代表者として行動と云えます。彼の行動なくして災害復興/被災者救済はなかったと云えます。
※名主の仕事が良く分かった。大変面白い内容だった。でもまだ3割に達していない。
<武蔵国の名主・佐野家>
○名主・佐野家-武士から名主へ
・本章では武蔵国足立郡の幕領・佐野新田の名主・佐野家を解説します。佐野新田では佐野家が名主を世襲しています。※巨大な佐野屋敷跡は「佐野いこいの森」になっている。
・佐野家の由緒を知る資料に『奉仕伊那氏由緒書』があります。これによると1593年佐野胤信(戦国武将千葉勝胤の子)が新田を開発し、佐野新田としたとあります。その後、在地家臣として伊那家に仕えています。その後寛政4年(1792年)伊那忠尊が失脚した事で、武士から百姓に転じています。※伊那家は玉川上水を作った人では。
・佐野新田の名主は、天保9年(1838年)までは佐野家の芳平/勘蔵/賢次郎と円蔵の二人体制になっています。その後は佐野家(賢次郎)が明治維新まで世襲しています。
○年貢の徴収/上納
・名主の仕事を、①全国共通の名主の仕事、②領地特有の仕事、③地方の在り方に規定された仕事に大別しましたが、この考え方は本章にも当て嵌まります。
・①全国共通の名主の仕事で代表的なのが、年貢の徴収/上納です。明治元年(1868年)の『年貢割付状』(領主が村に年貢量を通達するもの)が残り、武蔵知県事・河瀬外衛が佐野新田に宛てたものです。※1871年廃藩置県の前、1868年府藩県が設置されていた。
・これには佐野新田の石高は233石6斗余(田高181石6斗余、畑高52石2斗余)で、米74石1斗余が賦課されています。これ以外に幕領は「高掛物三役」(伝馬宿入用、六尺給米、御蔵前入用)などが課せられました。佐野新田も「村請制」で、名主は各百姓に年貢を割り当てています。年貢が皆済されると、知県事から『年貢皆済目録』が下されます。
・次に文政8年(1825年)4月『御触書』を解説します。寛政4年(1792年)伊那家が失脚したため、佐野新田は代官支配に変わります。しかし伊那家は断絶の逃れ、伊奈半左衛門が代官を務めています。
・この『御触書』は前書きと2条からなります。前書きでは「百姓は農業に専念するように」、1条では「孝行者・奇特者を知らせるように」、2条では「賭け事を行う者を知らせるように」「出所不明の者を村に逗留させるな」と記されています。
・この『御触書』に対し、名主・勘蔵は各百姓が連署した『請書』を代官に提出しています。※請書を取るんだ。
○村法の制定
・村は百姓が定めた「村議定」で運営されていました。通常は村役人も連署しますが、佐野新田の場合、村役人は連署しませんでした。
・天保2年(1831年)2月『手休め議定連印帳』を解説します。通常の月(2月~10月)は5日毎に6日休みがありました。1月は7日まで休みがあり、11月は休日が4日に減り、12月は休日はありません。さらに「幕府の命令により、午後2時から休む事」と記されています。※休日は村が決めていた。12月は師走。
・「村議定」は村の自治の表れです。その中心となったのが名主です。幕府の「休日を減らすように」との命令に、本百姓一同が相談し、「村議定」を制定しました。佐野新田で村役人が連署しなかったのは、村役人が強い指導的立場にあったためと考えられます。これは佐野家が佐野新田の開発者で、領主的存在であったとためと考えられます。
・これを示すものに、天保8年(1837年)4月に制定された『定』があります。これには「前年の飢饉で百姓の経営は困難で、倹約専一から休日を減らす」「休日は盆・正月・節句以外は、朔日・15日のみとする」と記されています。
・この『定』は名主が定めたもので、合議されていませんが、本百姓の連署がされています。「天保の大飢饉」により、名主が強い主導性を発揮したと云えます。※天保の大飢饉は、天保2~7年(1833~36年)。
○被災者の調査と救済
・安政2年(1855年)10月2日、江戸湾北部で「安政大地震」が起きます。倒壊家屋1万4千軒余/死者1万人とされます。名主・賢次郎は「貯穀」の拝借を幕府に願います。これは松平定信の「寛政改革」の一つで、凶作・飢饉に備え、米穀/金などを貯える囲穀政策です。
・賢次郎の『拝借願い』は10月11日には認められています。被災者に割り渡した「貯穀」は4種類(籾、金、銭、稗)ありました。佐野家は佐野新田の石高の1/3を持ち、「貯穀」の大半は佐野家が貯えたと思われます。
・当時佐野新田には27軒/175人が住んでおり、富裕層を除く24軒/135人が救済を受けました。成人男性53人に稗8合×30日分、それ以外の男性9人と女性73人に稗4合×30日分が支給されています。この時全ての稗(28石7斗余)が放出されました。
・安政3年8月名主見習・市仁が家屋の被害状況を代官・斎藤嘉兵衛に報告しています(※これは遅いな)。これには全壊9軒/半壊6軒とあります。彼らには「潰れ家手当」が下賜されました。※結構社会福祉制度が整っていたのかな。
○千住宿助郷役
・足立郡・豊島郡には江戸四宿の千住宿がありました。日光街道・奥州街道の往来が頻繁になり、元禄7年(1694年)「助郷制度」が定められます。「助郷制度」は宿場常備の人馬の不足を、近傍の人馬で補う制度です。千住宿の場合、定助郷84ヵ村/加助郷49ヵ村が指定されています。
・当初は100石に付き、人足2人/馬2匹でしたが、江戸後期になると負担は10倍以上になります。文化12年(1815年)1月家康200年回忌法会により、佐野新田(石高は233石だが対象は163石)は人足30人/馬5匹が徴発されています(助郷82ヵ村では人足2845人/馬465匹)。※凄い数の人馬は運搬に使われるのかな。
・元治2年(1865年)4月家康250年回忌法会では、人足2950人/馬550匹が徴発され、佐野新田からは前回と同じ人足30人/馬5匹が徴発されています。
・徴発の命令は3月に渕江領(足立区)の代官・木村董平から命令されます。渕江領には助郷惣代が2人おり、その一人が名主・賢次郎(※以下彼)でした。
・彼は各村々と相談し、『議定』を作成しています。『議定』は2条からなり、1条では「決められた人馬を提供する事」、2条では「諸大名に失礼がないよう務める。難題を申し付けられた場合は、村単位で対応する」などが記されています。
・この『議定』は各村々で写し取られ、本百姓が連署し、名主に提出されています。このようにあくまでも村単位で運営された事が分かります。
・助郷は人馬だけでなく、人馬小屋の建設費/不足する人馬を用意する費用なども賦課されました。100石に付き銭30貫文で、佐野新田には48貫900文(45万円)が賦課されました。これに彼の孫・孝次郎が21貫文余を負担しています。
・4月に入っても村々は度々賦課され、佐野新田は合計銭195貫600文(180万円)を賦課されています。このように「宿場制度」の維持に、名主の働きは欠かせませんでした。※まるで公共事業だな。
・なおこの人馬の徴発に賃銭が支払われましたが、物価高騰により7.5倍の賃銭が支払われました。※幕末は物価が高騰したらしい。
○改革組合村42ヵ村の大惣代に就任
・改革と云えば享保/寛政/天保が有名ですが、文政10年(1827年)関東において「文政改革」が実施され、「改革組合村」が設置されます。これは幕領/私領/寺社領関係なく、40~50村を「大組合村」とし、それを数村の「小組合村」で分割しました。「大組合村」の代表が「大惣代」で、「小組合村」の代表が「小惣代」で、村の名主が務めました。これは文化2年(1805年)に設置された「関東取締出役」に対応する組織です。※文政改革は知らなかった。まあ関東ローカルだからかな。郡・村の起源かな。
・「関東取締出役」の目的は治安維持とされてきましたが、近年の研究で、身分制的な風俗統制も目的とされています。※簡単に言えば、農村の再建みたい。
・文政10年(1827年)9月「関東取締出役」が発した40ヵ条の『御触書』には、①無宿・悪党・浪人・勧化の取り締まり、②強訴・徒党の告訴、③博奕・歌舞伎・手踊り(?)・繰り芝居・相撲の禁止、⑤神事・祭礼・冠婚葬祭の簡素化、⑥百姓の新規商人化の禁止、⑦職人の手間賃規制、⑧村入用の節約などが記されています。※④が抜けているのは意図的?
・佐野新田も42ヵ村からなる「大組合村」(栗原組合村)に編成されます。竹ノ塚が「寄場村」(核となる村)となり、同村の名主・河内勇蔵が「寄場役人」になり、伊興村の名主・林蔵/伊藤谷村の名主・吉田四郎平が「大惣代」に任命されます(※名主の名前には蔵が入るのが多い)。栗原組合村は13の「小組合村」に分かれ、それぞれ「小惣代」が任命されました。
・佐野新田の名主・賢次郎(※以下彼)は天保9年(1838年)には「大惣代」に任命されています。彼が任命された理由は佐野家が武士であった事や、佐野家が代々名主を務め広域行政のノウハウを持っていた事が考えられます。
○改革組合村の余業調査
・徳川時代後期になると貨幣経済が進展し、農村でも華美な風俗が浸透し、凶作・災害により貧富の格差が拡大します。地主・豪農が現れる一方、脱農化も見られるようになります。
・文政10年(1827年)9月、前述40ヵ条の『御触書』と共に発せられた『御触書』には、「小前が商売を専らにし、耕作を放棄し、高持百姓が難儀している」と記されています。この小前も高持百姓も同じ一般百姓で、放棄された田畑を年貢確保のため高持百姓が耕作する必要がありました(惣作)。※脱農化の抑制は自由経済に反する。
・ところで大小惣代となった名主は地主・豪農でした。地主は利貸で得た田畑を小作人に貸して小作料を得ていました。豪農は地主経営に加え、商品作物の流通/金融を営みました。地主・豪農は幕府の敵対勢力と云えますが、小作を雇う地主は幕府と利害が一致しました。
・文政10年(1827年)より抑商政策が繰り返されますが、天保9年(1838年)栗原組合村で商売の状況を調査する『余業調査』が実施されます。調査結果を見ると、居酒渡世/質屋渡世/菓子類商売が目に付きます。そのため幕府は、食品販売(居酒渡世、菓子類商売など)/質屋渡世を強く取り締まりました。
・この『余業調査』は大小惣代から関東取締出役に提出されています。関東取締出役は栗原組合村を廻村し、大小惣代に「余業人の農業出精」を命じています。
○改革組合村での治安維持活動
・天保12年(1841年)8月11日、小右衛門(小惣代)/彼(大惣代)から関東取締出役に提出された『一礼』が残っています。これには大小惣代が大谷村の金蔵の「預け」(一定期間の謹慎)を実施し、農業出精に改心させた事が記されています。
・天保8年(1837年)12月、彼は関東取締出役に『小菅御囲内風聞糺し書』を提出しています。小菅は葛飾郡にあり、かつては伊奈家の下屋敷・小菅御殿がありましたが、幕府の小菅御囲となっていました。彼はこの文書で、小菅御囲で起きた”籾が紛失した事件”で「犯人が小菅村の家に戻っている」と報告しています。関東取締出役は僅か10人しかおらず、彼は様々な情報を関東取締出役に提供していたと考えられます。
○組合村議定の制定
・「革命組合村」でも「組合村議定」が制定されています。
・100万都市江戸の屎尿は近郊農村の重要な肥料でした。百姓は下肥業者から下肥を購入していましたが、徳川時代後期になると値段が高騰します。天保14年(1843年)2月惣代は江戸町奉行に、下肥の値段の引下げを訴願しますが、徹底されませんでした。惣代が江戸町奉行に再度訴願すると、関東取締出役に願うように申し渡されます。天保15年5月、葛飾郡新宿町に大小惣代が参会し、議定を制定しました。
・その議定の大要は以下です。「旧来、下掃除人(下肥業者)が屎尿を買い取っていたが、糶取(せりとり)が高い値段で買い取るようになった。糶取を禁止する」「下掃除代を天保12年の相場から1割引き下げる」「下掃除人が寄り合い、相場を取り決めてはいけない」「糶取する者は、速やかに屎尿を下掃除人に返却する」「百姓が江戸に住んで下掃除場所を持ったり、下請けしたり、船を持って買い集めたりしてはいけない」。
・各村々の名主はこの議定を写し取り、一般百姓に読み聞かせ、遵守を誓わせました。「改革組合村」は国家的支配の枠組みですが、このように自治的性格を持っていました。
・以上、佐野家の名主/大惣代の仕事を見てきましたが、領主への年貢上納のみならず、国家的課役まで務めました。また関東取締出役/改革組合村体制は大小惣代なくしては成立しません。武士であった佐野家は広域行政のノウハウを生かし、名主になり、大惣代になり、徳川時代後期の幕藩体制を支えました。
※佐野家だけでも、安政大地震/千住宿/小菅など話題が沢山ある。やっと半分を超えた。
<播磨国の庄屋「取締役」三枝家>
○河合中村の三枝家
・本章では播磨国の御三卿清水家領知の庄屋、後に取締役惣代/社倉見廻役兼取締役などを務めた三枝家を解説します。※東日本では名主、西日本では庄屋。
・御三卿(清水家、田安家、一橋家)は江戸中期に成立します。御三卿は領知を与えられましたが、居城を持たず、江戸城内に住みました。
・御三卿の領知支配は幕領と同様で、代官所が置かれました。清水家の初代は9代将軍家重の次男重好ですが、彼は領知10万石(武蔵、上総、下総、甲斐、大和、和泉、播磨)を下賜されます。大和/和泉/播磨の領知は、大坂の川口代官所が支配しました。しかし川口代官所は脆弱で、その分、村役人が期待されました。
・三枝家は加東郡河合中村の庄屋になり、広域行政の組合村を管轄する「取締役」になり、最終的には清水家の家来(武士)になります。
・これまでに名主(庄屋)の仕事は見てきたので、「取締役」の仕事を中心に見ます。本章は1万点を超える『三枝家文書』を史料にします。
○三枝家の立場
・徳川時代中期に始まった格差は、後期になると上層百姓(地主、豪農)と下層百姓の格差がさらに拡大します。三枝家の所持石高は、寛政8年(1796年)50石余/文化4年(1807年)81石/天保2年(1831年)150石余/嘉永7年(1854年)150石余/安政2年(1855年)145石余と増やします(※化政期に3倍増かな)。三枝家は享保8年(1723年)より青野原新田の開発に取り組んでおり、ここで天保2年247石余/安政2年372石余の石高があり、合計すると天保2年397石余/安政2年517石余の所持石高になります。※青野原新田が2倍位ある。
・三枝家は500石を所持し、これは旗本と同程度です。また酒造業/絞油業も営み、その財力は相当なものでした。
・徳川時代は”富の社会的還元”は当然と考えられていました。地主・豪商には”富の社会的還元”に、①積極的な者、②中間的な者、③消極的な者がいましたが、三枝家は①のタイプで、合力(穀物、金銭を与える)を盛んに行っています。
・まず三枝家の”庄屋への就任”を見ます。寛政5年(1793年)河合中村で村方騒動が起きます。百姓惣代たちが庄屋・重兵衛を”我儘経営”として代官所に訴えたのです。翌年には庄屋を27代五郎兵衛(三枝家当主は代々五郎兵衛を名乗った)にして欲しいと願ったのです。彼は50石余を所持し、御用(青野原新田の開発)も務めた人物でした。結局文化4年(1807年)彼は庄屋に就任します。
○河合中村庄屋所
・庄屋の仕事で欠かせないのが年貢の徴収/上納です。弘化3年(1846年)10月、代官が28代五郎兵衛(※以下彼)らに申し渡した『年貢割付状』が残っています。これには村高790石余に対し、米315石4斗余/銀718匁余の合計年貢額が賦課されています。
・この後彼は会合を開き、個別の年貢割付を行ています。そして翌年3月代官より『年貢皆済目録』が公布されています。
・次に治安維持の仕事を見ます。文政5年(1822年)11月、彼は谷町代官所に『恐れ乍ら内密御届』を提出しています。当時清水領知は幕府領になり、谷町代官所は幕府の代官所です。この文書には「吉左衛門が博奕を打ったため、親類に預けた」と記され、代官からの指示を求めています。
・また彼は紛争の調停も行っています。丈兵衛が「庄兵衛に金2朱/白米3升を盗まれた」と彼に訴えます。彼はこれを裁判に持ち込む事はなく、解決(内済)します。
・当時庄屋に裁判権はなく、代官所に訴える必要がありました。そうなると旅費/滞在費/裁判費は個人の負担になり、しかも農業はできません。そのため内済が行われました。
・次に”村の代表者”としての仕事を見ます。天保3年(1832年)8月3日、彼は川口代官所に「河合中村字さこうすは、新部村から用水していたが、分水されなくなった」と訴えます。川口代官所は古河藩の役所に掛け合います。しかし理不尽は止まないので、彼は追訴します。これにより新部村の五人組頭一同が村預けに処せられます。しかし和談は成立せず、大坂奉行所で決着を付ける事になりますが、その後の顛末は不明です。
・本件は年貢徴収に関する事なので、彼も代官も積極的に動きました。また河合中村は清水領知、新部村は古河藩領知なので、その家格の違いを利用しました。
○組合村の「取締役」に就任
・幕府は地主・豪農と手を組み、文政改革を断行しますが、これは私領も同様でした。大和/和泉/播磨の清水領知では、10~20ヵ村から成る組合村が編成されます。それを管轄する村役人が「組合中取締役」でした。※組合村の編成は文政より前の寛政みたい。
・寛政5年(1793年)清水領知では、幕府の寛政改革と同様に、貧民救済/倹約奨励/社倉政策(囲穀政策)などの農村復興政策が実施され、特に社倉政策が重視されます。
・播磨国の清水領知(※55ヵ村)は、4組合村に編成され、寛政年間(1789~1801年)組合村の統括者として「組合中取締役」が設置されます。統括者は「取締惣代」「社倉見廻役」「社倉見廻役兼取締役」と名称を変えます。
・寛政5年3月御下穀が下賜され、「備窮倉」が設置されます。「備窮倉」の運営は「組合中取締役」に任され、百姓の積穀で維持されました。
・寛政5年10月『御積穀籾請取帳』によると、籾は142石余が積穀されましたが、御下穀18石余/村納分(一般百姓)6石余/富裕層117石余となっています。
・寛政7年(1796年)清水領知から幕領に替わり、「備窮倉」は「社倉」に、「組合中取締役」は「取締惣代」に名称を変えます。文化4年(1807年)27代五郎兵衛は庄屋に就任します。文化3~7年(1806~10年)彼は米407石を出穀しています。
・文政3年(1820年)には28代五郎兵衛が、加東郡6ヵ村の「取締惣代」に就任しています。三枝家は化政期に豪農として成長し、領主はその統括力/財力を利用したのです。
○社倉政策の運営
・文政6年(1823年)凶作となり、社倉穀の大半が放出されます。大和/和泉/播磨の『社倉穀貸付仕訳』を見ると、米については総石高143石余に対し6斗しか残っていません。籾/麦/稗も大半を放出しています。
・文政7年幕領から清水領知に戻り、「社倉」の名称は残りますが、「取締惣代」は「社倉見廻役」に名称を変えます。文政9年28代五郎兵衛(※以下彼)は「社倉見廻役」に任命されます。
・社倉をめぐる問題から、文政9年『社倉の法』/文政10年『社倉貸付金仕法』が施行されます。この仕法で、「身分相応に出資し、”永久の御備え”をする事」になります。播磨国の清水領知で出資者19人から530両が出資されます。彼の所持石高は400石(※2番目の所持石高は49石)で突出しており、出資額も115両(690万円)と多くなっています。また彼は川口代官所の要請で、別に銀21貫730匁(2173万円)を出資しています。
・領主は地主・豪農を「社倉見廻役」に任命し、彼らの財力にもたれ掛かり、社倉政策の維持に務めました。
○播磨国清水領知53ヵ村を管轄
・「取締役」(※度々名前が変わるので、総称かな)は社倉政策以外にも、様々な機能を果たしました。清水領知に戻った後の天保3年(1832年)、川口代官所が清水家当主に大和/和泉/播磨の「社倉見廻役」の活動内容を報告しています。
・この『報告書』を見ると「取締役」の機能は、①社倉の運営、②村方騒動/年貢減免闘争の展開阻止、③定免制施行(?)、④争論の仲裁、⑤新田開発、⑥貧民救済、⑦訴訟・請願の取り扱い、⑧出入り(揉め事)の仲裁です。※④と⑧は異なる?
・天保4年(1833年)「社倉見廻役」が「取締役」を兼務する事になります。こうした動向の中、天保9年彼は「永々帯刀」を許可されます。さらに天保14年、徒格・「社倉見廻役兼取締役頭取」に任命されます。これにより彼は播磨国清水領知53ヵ村を管轄する清水家の家来になります。
・天保期の播磨国清水領知を見ると5つの組合村に編成されています。各組合村の「社倉見廻役兼取締役」も「一代帯刀」「三代苗字帯剣」など、一時的に武士身分に編入されています。
○郡中規模での社倉政策の運営
・この「社倉見廻役兼取締役」による支配体制は幕末まで続きます。ここで「社倉見廻役兼取締役頭取」となった彼の機能を見ます。まず郡中規模での社倉政策の運営です。
・彼は毎年『社倉穀出納帳』を作成しています。嘉永4年(1851年)のものには、嘉永3年に貸与された籾の石高/嘉永4年に返納された籾の石高が記されています。53ヵ村で562石が貸与され、113石が返納されています。※基本的な疑問だけど籾は種籾として使うのか食糧とするのか。
・嘉永4年8月彼は加西郡14ヵ村に『廻状』を出し、「一般百姓が難渋しているので、社倉穀を出しても良い」と指示しています。これは旧来、川口代官所の権限でしたが、彼に分与されています。
○農村の諸調査と余業取り締まり
・天保12年(1841年)播磨国の清水領知で、農業経営規模と余業の調査が行われます。天保14年彼は「社倉見廻役兼取締役頭取」に任命されたので、以降の調査や余業対策は、彼主導で行われます。
・天保12年8月川口代官所から『倹約令』が発せられています。この前書きには「近年身分不相応に奢侈な生活を送り、農業を等閑し、余業を始める者がいる。農業専一に戻るよう」と記されています。
・また1・2・8条には「百姓の商売を禁止する。ただし病身の者は除く」「多人数を雇っての商売は取締役に報告し、帳面に記入する」「15歳以上60歳以下の男女百姓は、田畑2反以上を作付けする事」と記されています。
・これを受けて天保12年(1841年)/天保13年/弘化2年(1845年)/嘉永7年(1854年)、各村で農業経営規模と余業の調査が行われ、『作付反別其の他取り調べ書上帳』が作成されます。天保期の調査結果は川口代官所に提出されていますが、弘化2年以降の調査結果は彼(社倉見廻役兼取締役頭取)に提出されています。
・さらにこの調査結果は政策に展開されます。東播磨地方では酒造/油稼ぎ/水車稼ぎ/質屋/材木屋/呉服屋/鋲鍛冶/髪結い/小間物商売/出稼ぎ/出奉公などの余業が行われていたため、「取締役」たちの目的は、本百姓体制の維持となりました。
・天保13年12月上曾我井村の出稼ぎ・出奉公人から彼(取締役)に、帰村届が提出されています。彼らは農業出精を誓っています。
・天保14年12月社村の百姓95人から彼に、『一礼』が提出されています。社村は播磨国清水領知で最も経済が発展した村でした。余業を生業としていた95人は農業出精を誓っています。社村は彼が取り締まる組合村ではありませんが、彼が「社倉見廻役兼取締役頭取」に任命された事で、播磨国清水領知全体を管轄するようになったのです。
・嘉永7年の調査後、彼は『御触書』で「余業人がいれば必ず沙汰する」と廻達し、『請書』を取っています。
○裁判を行う
・彼は裁判権も行使するようになります。嘉永2年(1849年)下曾我井村の政五郎が「吉蔵に菜種をだまし取られた」と訴えた『訴状』が残っています。彼は吉蔵らに菜種を返却させるように約束させています。
・弘化2年(1845年)小野藩領門前村の榎倉大和が、社村の久吉を訴えた『訴状』が残っています。これは「大和が久吉を雇い、賃銀191匁余を先渡ししたが、期間途中で帰村した」との訴えでした。この訴状の宛先は”河合中村御役所”で、彼の居宅が川口代官所の出先機関となっていた事が分かります。
・本章は庄屋から「取締役」、さらに武士となった三枝家の27・28代当主の仕事を見てきました。これは清水領知の支配体制が脆弱だったからとも云えます。寛政改革で「取締役」が設置され、組合村が編成され、徳川時代後期になると広域行政を担う村役人が設置されるようになります。
・領主は本来は敵対関係にある地主・豪農と手を組み、領知を支配しました。領主は百姓に”一代帯刀”の特権を与えるなど柔軟に対応しました。
<播磨国の大庄屋・三木家>
○姫路藩大庄屋制と辻川組の大庄屋・三木家
・姫路城で有名な姫路藩は15万石の譜代雄藩で、支配体制はしっかりしていました(※旗本領知/幕領/清水領知などではなく、城持ち領主だからかな)。その特徴は「大庄屋制」で、大庄屋は組合村を管轄する庄屋の上位に位置する村役人です。大庄屋に自治的な性格は少なく、専ら藩支配の役人的な性格が強いものでした。※姫路藩主は変遷が激しかったが、1749年以降は酒井家が藩主。
・三木家は播磨国神東郡辻川村の大地主で、元文2年(1737年)当主が辻川組21ヵ村の大庄屋に任命され、以降当主が大庄屋を継いでいます。※組合村は古くからあったんだ。
・寛延元年(1748年)「播磨寛延一揆」が起き、大庄屋/商人/庄屋/百姓など約60軒が「打ちこわし」されていますが、三木家は難を逃れています。
○組村々への御触書の伝達
・寛延2年(1749年)酒井家が姫路に転封されます(※一揆と関係があるのかな)。在地は29の大庄屋組に分割され、それを4人の代官が支配しました。三木家は辻川組を管轄し、年貢米の決算/水利普請の監督/庄屋から領主への諸届の取次/争論の調停などを仕事とします。本章では『大庄屋三木家文書』を素材とします。
・三木家6代通明は、文政6年(1823年)『諸御用日記』を残しています。当時辻川組は17ヵ村(西川辺村、東川辺村、上瀬加村、下瀬加村、西田中村、北田中村、上田中村、保喜村、上牛尾村、下牛尾村、西小畑村、東小畑村、浅野村、井ノ口村、北野村、田尻村、大門村)でした(※1組に17ヵ村は多いな)。通明の通称は藤作で各史料には藤作と記されています(※以下彼)。
・文政6年4月、「触元庄屋」から大庄屋(中島組、御立組、辻川組)に伝達された『御触書』が残っています。これには実綿市場の特権商人の播磨国介入に対する対応が記されています。「幕府に認められた特権商人が株仲間を作ろうと、播磨国に配下の者を差し向けているが断れ」と命じています。
・この「触元庄屋」とは、28の大庄屋組が4人の代官毎に組合村を編制し、その代表です。さらにこの『御触書』は大庄屋から大庄屋組内の村々に伝達されました。
○組村々からの願書の取り次ぎ
・次に組村々から姫路藩への『願書』の取り次ぎを見ます。この『願書』は文政6年1月辻川組田尻村の庄屋から代官に提出されたもので、佐兵衛が庄八方と同居したいと願っています(※同居だけで許可が必要!)。この『願書』には大庄屋の彼の印があり、彼が代官に提出しています。
○組村々の取り締まり
・文政6年(1823年)1月彼が代官に提出した『口上書』が残っています。これは山崎組の福田村/神谷村/田口村の者が博奕をした報告です。山崎組は辻川組に隣接し、19ヵ村(山崎村、坂戸村、甘地村、近平村、奥村、田口村、板坂村、桜村、長野村、神谷村、福田村、西谷村、溝口村、野田村、高橋村、西治村、福崎新村、馬田村、戸板村)からなりました。彼は山崎組も管轄していたのです。
・また文政6年3月山崎組の博労(牛の売買を業とする者)5人から辻川大庄屋所(彼)に提出した『一礼』が残っています。これには「無許可の者に牛の売買をさせていたが、今後は禁止事項を遵守します」と記されています。
・これらのように彼は大庄屋として、2つの大庄屋組の秩序維持に務めています。
○辻川組/山崎組での裁判権行使
・『諸御用日記』から、彼が裁判権を行使していた事が分かります。文政4年(1821年)12月、辻川組北野村の者5人が保喜村の者を訴えた『訴状』が残っています。この『訴状』には、「保喜村の者が北野村の御林(姫路藩の林)から落葉などを盗み、北野村の山番の者が咎めると、後日複数の者が御林を荒らした」と記されています。
・本件は文政6年3月に吟味が行われ、その詳細な文書が残っています(※詳細省略)。この文書には井ノ口村の庄屋・傳右衛門の名前もあり、彼(大庄屋)の補佐をしたと思われます。
・しかし北野村の者5人(原告)は『訴状』を取り下げています。当時は裁判は面倒なので、内済となる事が多くありました。
・次に山崎組での事例を見てみます。阿波国出身の熊吉は、山崎組甘地村の藤四郎/藤九郎の世話で同村に移り住みます。その後藍染職で成功します。熊吉は当初は光明寺の旦那(檀家)となっていましたが、積清寺の旦那に替わります。藤四郎/藤九郎はこれを認めず、出入り(揉め事)になります。※こんな解釈で良いのか?
・姫路藩の宗門役所は彼を召し出し、これを取り治めるよう命じます。彼は「支役庄屋」の山崎村庄屋・儀助と吟味に当たります。
・本件に関する『一礼』が3つ残っています。1つ目は、積清寺など(※こちらは被告)から彼に提出されたもので、熊吉と藤四郎/藤九郎が和談した内容が記されています。2つ目は1つ目と同様の内容ですが、藤四郎/藤九郎/光明寺など(※こちらは原告)から彼に提出されたものです。またこれには「支役庄屋」の山崎村庄屋・儀助が和談に導いた事が記されています。
・3つ目は山崎組甘地村の五人組頭惣代/庄屋などから彼に提出されたもので、他と異なる内容になっています。これには「熊吉を村民とする」と記し、さらに他領の者を長期滞在させた事を詫びています。
・彼は「支役庄屋」の補佐を得て本件を解決しています。文化9年(1812年)姫路藩は大庄屋を削減し、彼は山崎組も兼帯するようになります。これと「支役庄屋」の設置は関係があると考えられます。
・ところで彼の居宅は「辻川大庄屋所」と記されています。第1章の伊能家の居宅は「名主御役所」、前章の三枝家の居宅は「河合中村御役所」などと記されています。これら後者(保科家、清水家)は領主権が脆弱で、支配権の多くを委譲していたためと考えられます。とはいっても、領知支配に大庄屋などの村役人は不可欠でした。
○財政改革
・姫路藩は文化期(1804~18年)に著しく財政悪化します。そのため文化5年(1808年)家老・河合道臣に財政改革を命じます(文化改革)。財政改革に上米の引き上げ/倹約令などがありますが、ここでは文化10年に始まった「国用積銀制度」を紹介します。
・これは領内の総人口の1/10(2万人)に参加させ、これを10の「講」(2千人)に分けます。1人が5年間毎年100匁(10万円)を積み立てます。積銀の1/3は凶作などの備えに使い、残り2/3は藩財政の整理に使います。※結局は巻き上げか。
・徳川時代後期になると、商品・貨幣経済が浸透し、上層百姓(地主、豪農)が生まれる一方、多数の困窮する百姓が生まれました。そのためこの「国用積銀制度」は運営が困難であったと思われます。
・彼(藤作)は筆まめで、『諸御用日記』以外に、大庄屋の職務に関する日記『諸事控』(文化8年~文政13年)(1811~30年)を残しています。これを見ると、彼が辻川組大庄屋になったのは文化8年12月で、山崎組を兼帯したのは文政2年(1819)と分かります。
・この日記によると、文化10年「国用積銀制度」に4.6口(460匁)、文化12年「地方積金講」に1口(6貫余)、文政3年「庚辰講」に1口(6貫余)加入し、文政4年にも何らかの「講」に加入しています。これらは膨大な金額になります。
・この日記の文化13年1月5日(※正月だな)「河合道臣の屋敷に出向き、奉行4人/米払方3人の前で酒/吸い物が下賜された」とあります。これは前年の「地方積金講」に対する褒美です。さらに文化13年3月14日、彼は「御用場」に出向き、目録/書付(裃、酒、吸い物)を下されています。これは上記と一連のものです。※最初に実物が渡され、その後に書付かな?
・同様の記事が文化12年12月にも見られ、彼は金190両/銀9匁余、さらに銀3貫830匁余の永上納を米払方役所に願っています。これにより文化14年彼は道臣から裃、本丸で藩主から酒/吸い物を下賜されています。※企業献金みたいだな。
・天保6年(1835年)7月彼は引退しますが、その『辞職願』には「国用積銀制度」などの積銀制度に成功し、財政改革に貢献した事が記されています。
○姫路藩家老の来訪-新田開発の視察
・姫路藩の財政改革に、新田開発による年貢収納の増加がありました。しかし新田開発は容易ではなく、地主・豪農の協力が必要でした。彼による新田開発を詳細に述べると膨大になるので、簡単に述べます。
・『諸事控』を見ると、文政13年(1830年)9月17日、新田開発の視察のため、河合道臣一行が彼の居宅などに宿泊しています。道臣は彼の居宅に、奉行2人/勘定1人は次右衛門宅に、代官2人は仙之助宅に泊っています。また道臣は従者14人(医師、祐筆、用達、侍、手廻りなど)を従えていました。
・一行は17日姫路を立ち、西光寺野を視察し、御立組で昼食し、辻川組の中須田池/亀坪新池を視察し、辻川村で宿泊。翌日辻川組の北田中村/東川辺村を廻村し、再度西光寺野を視察し、御立組で夕食し、姫路に帰着しています。
・17日の晩、彼は奉行/代官立ち合いの下、道臣から紋付小袖の目録を下賜されています。さらに夜分に道臣に召し出され、餅菓子/薄茶を与えられ、歌を詠んでもらっています。彼の財政改革への貢献度が窺えます。※ルネサンス期のメディチ家みたいだな。
○家中同様の扱い
・彼は様々な仕事を手掛けています。文政10年(1827年)7月御着組の土橋が破損し石橋に仕替えるのに、金150両(900万円)を上納しています。また文政10年8月御立組で53軒が類焼する火事があり、白米1石6斗を提供しています。
・彼の救済活動は姫路藩領内に及んでいました。文政11年3月彼は御用場に出頭し、「父と同じ席次を認める」「御用の節は合印提灯の使用を許可する」との書付を下されます。合印提灯とは姫路藩の略章が入った提灯です。合印提灯が許されるのは姫路藩で初めてで、彼は誇りに感じ、その後家老/道方奉行などに御礼で回っています。
・姫路藩の領主権は強固なので、大庄屋に支配権を大幅に委譲する必要はありませんでした。彼に上位の席次を与え、合印提灯の使用を許可し、家中同様の扱いとしましたが、武士身分は与えませんでした。
・彼は大地主として経済的上昇を果たしますが、政治的上昇も望んでいたのです。彼はこれらの特権が三木家代々に引き継がれる事を希望し、それを日記に記しています。当時の大庄屋は誰も同じ気持ちを持っていました。この点で大庄屋と姫路藩の利害は一致していたと云えます。
・以上、三木家6代目当主・藤作に焦点を当てて仕事ぶりを見てきました。前章では清水家が寛政改革をきっかけに「取締役」を設置し、領知支配を充実させました。徳川時代後期は「取締役」/大庄屋などの村役人に頼らなければ領知支配できなかったのです。また姫路藩の「大庄屋制」も本質的には敵対関係にある地主・豪農と柔軟に手を組み、彼らの統括力/財力を利用し財政改革を実現しました。※毎章、同じ事が書かれる。
<徳川日本と村役人>
○徳川日本を支えた村役人
・4人の村役人を見てきましたが、徳川社会を支えたのは彼ら村役人です。元禄10年(1697年)全国で63、276村ありましたが、その後も大きく変わっていません。武士は城下町に住んだため、村役人に支配を代行させました。
○村・地域支配の実務者
・名主であれば村、大庄屋/惣代/取締役であれば組合村を単位に領主支配を代行しました。領主は『御触書』一つをとっても、彼らの助けが必要でした。領主にとって年貢の徴収が最も重要でしたが、それも彼らの助けを借りました。
・その他にも名主は村内の治安維持/インフラ整備/人口把握や、宿場近傍の村であれば助郷役も務めました。いずれも領主の支配を代行するものです。
・第1章から第3章で『年貢割付状』に関する文書を見ましたが、百姓は四公六民/五公五民などの重税を掛けられました。そのため領主は「御救い」(夫食貸、種貸、年貢減免など)が社会的責務になります。※「活かさぬよう、殺さぬよう」とか習ったな。
・しかし徳川時代後期になると、商品・貨幣経済の浸透や凶作・災害により、貧富の差が拡大します。これにより脱農化が起こり、領主は財政貧窮状態に陥ります。そのため第2章では文政改革、第3章では寛政・天保改革、第4章では文化改革を見てきました。しかしこれらの改革を実行したのは武士ではありません。大庄屋/取締役/惣代などの村役人です。
・地主・豪農(村役人)は困窮する百姓の対極にありますが、その統括力/財力は領主からは魅力的なものでした。
・村役人(大庄屋、取締役、惣代)は改革組合村(文政改革)/組合村・郡中(寛政・天保改革)/組(文化改革)の枠を超え活動します。文政改革では関東一円で余業調査・取り締まりが行われました。村役人は一村を超えた地主・豪農経営を行い、地域事情に精通していたのです。
・村役人によって広域行政(御触書の伝達、願書の取り次ぎ、治安維持、裁判など)がなされたのです。領主は村役人により支配者となり得たのです。
○村・地域のリーダー
・村・地域は自治の単位でもあります。村・地域は名主(庄屋)を頂点とした自治的な組織でした。名主の来村者への対応/村議定・村法・組合村議定の制定/災害への対応などが自治に該当します。
・第2章で名主は領主から休日の削減を要請されますが、名主は村議定で休養時間を減らす事で対応します。第1章で紹介した来村者への対応も、村の利害を代表する名主の仕事です。浅間山噴火への対応(第1章)/安政大地震への対応(第2章)などの災害への対応も、村の代表者としての仕事です。
・大庄屋/取締役/惣代なども地域を代表する仕事をしました。第2章での下肥値下げに関する組合村議定の制定は、これに該当します。
・第4章で紹介した大庄屋・藤作は、自分が管轄する領域外での石橋への仕替えに、金150両を上納しました。また彼は領域外で火事が起こった際、被災者を救済しています。これらも惣代性の発揮と云えます。
・名主は村の代表者として、大庄屋/取締役/惣代は地域の代表者として自治を行ったのです。彼らの働きなくして、徳川時代後期の日本は成り立ちません。
○近代化と村役人の行方
・最後に徳川時代が終わった後の村役人の行方を見ます。徳川時代は村役人が支えた社会システムによって、平和と安定が維持されました。領主は大庄屋/取締役/惣代を設置し、社会システムを変更しましたが、彼らを武士身分に編入しませんでした。これは幕藩体制の限界でした。これを解決したのが明治政府で、村役人を下級官吏(戸長、区長など)としました。
・伊能家(第1章)は明治期に、村会議員/村長などを歴任しています。三木家(第4章)は郵便局長/村会議員などを務めています。
・三枝家(第3章)の29代五郎兵衛は、慶応4年(1868年)5月参与・由利公正に召喚され、献策しています。彼は兵庫商法会所に出勤し、加東郡/加西郡/多可郡の会計御基立金の調達と金札(太政官札)の貸下げを行っています。その後も三枝家は村会議員/村長などを務めています。明治政府も村役人の力を借りています。
<あとがき>
・著者は徳川時代の農村を研究対象とし、その中の「地域社会論」を専門としてきました。前著『徳川社会の底力』は徳川時代の通史ですが、村役人に焦点を当てており、両書は姉妹版と云えます。
・1980・90年代は「地域社会論」の全盛期でした。それ以前は名主を始めとする村方三役に関する研究が多くなされました。しかし何事にも流行り廃りがあるようです。