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『エジプト革命』長沢栄治(1912年)を読書。

2011年エジプトで革命「アラブの春」が起きます。これを近代史と共に詳述しており、膨大なレポートです。
著者は今回の革命の質の高さを評価しています。今回の革命と1952年七月革命との比較も面白い。

革命は国の外部から起こすのではなく、長い歴史の中から国の内部から起こるものです。

エジプトの現状も知りたくなった。
フランス革命も、こんな感じだったのか。

お勧め度:☆☆☆(ただし大変詳しいので、関心のある方限定)

キーワード:<革命の系譜>タハリール広場、スローガン、尊厳、不正選挙/警察、サウラ/革命/反乱、インティファーダ、平和主義、ムハンマド・アリー、オラービー改革、1919年改革、民族主義/帝国主義、モサッデグ、1968年運動/労働運動/第三次中東戦争、民衆蜂起、ムスリム同胞団/イスラム団、市民運動/キファーヤ運動、<革命の背景>殉教者、憲法が最初、抗議デモ、労働運動、革命への期待、警察、抑圧体制、腐敗、立憲王制時代/ナセル時代/サダト=ムバーラク時代、イデオロギー、軟性国家、<革命の行方>ムハンマド・アリー/ナセル、最高軍事評議会、米国、ムスリム同胞団、労働運動/治安機構、三月危機、共産主義運動、政治参加、ポスト・イスラム主義、アズハル学院/サラフィー主義者/コプト教徒、憲法改正/憲法声明/国民投票、統制された運動/抑圧体制の解体、パレスチナ問題

<はじめに>
・2011年1月25日革命が始まった。その8ヶ月後の9月16日、著者はカイロを訪れた。タハリール(解放)広場ではイスラムの休日である金曜日に、毎週集会が行われていた。当日は「非常事態宣言反対」が掲げられていた。非常事態宣言は1981年サダト大統領が暗殺されて以降、30年施行され続けている。9月9日「イスラム大使館襲撃事件」、10月9日「コプト派キリスト教徒と軍の衝突」があったが、集会は盛り上がっていなかった。
・広場は建設技師のS氏に案内してもらった。広場の近くに友人が経営する左翼系新聞社の事務所があり、そこでS氏を紹介された。事務所は革命の「前線基地」となったため、ポスターが貼られるなど、余韻が残っていた。
・広場の一角にステージがあり、ワーエル・ゴネイミ青年が感動的なスピーチをしたのも、イスラム学者ユースフ・カラダーウィ師がホトバ(説教)したのも、ここだった。ステージを始め、革命は多くの民衆のお金/労力によるが、確かなところは分からない。

・本書は2011年1月25日革命(※以下、今回の革命)を、近代エジプト/アラブ世界の歴史のなかで解釈する試みである。主に参照するのが、1952年「七月革命」である。これはナセルが率いた運動で、アラブ民族革命の発端となった。
・「ナイルの水を飲むものは、またナイルに戻る」の諺がある。エジプトは魅力的な国である。これはエジプト人がエジプトを好きだからではないだろうか。※歴史のある国はプライドがあるのかな。フィフィさんのTwitterからも祖国愛が感じられる。

<革命の系譜>
○結束する声、言葉の力
-祝祭の空間
・「今回の革命」を目撃した人は群集の力に驚いたであろう。「怒りの金曜日」「大統領追放の金曜日」と称される日に、100万人が集まったとされる。この革命は若者の革命と云われるが、老若男女、様々な人がタハリール広場に集まった。著者の知人の50代の母親もテレビで映像を見て、地下鉄に乗って広場に行っている。
・広場には大統領支持派がラクダ/馬を闖入させ、戦車も配備させた。しかし群衆は体制に対し怒り、喜びや希望を叫んだ。人気歌手は新曲『自由の声』を歌った。大統領が宮殿から去ると、広場にはノーベル賞受賞者/イスラム説教師/映画俳優などの有名人が訪れた。これらの映像は今でもインターネットで見ることができる。

-革命は詩で始まった
・広場では沢山の人垣ができた。人垣の真ん中にはスローガンを叫ぶ人がいる。それに合わせ周りの群衆もスローガンを叫ぶ。そこには携帯電話で動画を撮り、それをインターネットで流す人がいた。
・アラビア語ではスローガンを「シアール」という。この革命は「スローガンの革命」「詩の革命」だった。スローガンには人々の願い/希望が含まれ、力があった。
・最も有名なスローガンは「民衆は体制の打倒を望む」である。これはチュニジアの「ジャスミン革命」で登場した合言葉だったが、瞬く間にエジプト/イエメン/リビア/シリアに広まった。

-共闘の形としてのスローガン
・スローガンには「倒れろ」「出て行け」「立ち去れ」などが使われた。「出て行け、出て行け、ムバーラク」「倒れろ、倒れろ、専制」「逃げろ、逃げろ、ガマール(大統領の次男)」などである。他に「革命」を使ったスローガンもあったが、これは後述する。
・スローガンの力は絶大で、権力者の脅威になった。しかし運動は基本的には非暴力で、治安警察隊/大統領派のバルタギー(ならず者)とは対照的だった。

・民衆が怒っていたのは、不正・腐敗、そして警察国家の抑圧だった。2010年末、人民議会選挙が行われたが、大統領選挙のために露骨な選挙不正が見られた。ムバーラク大統領一家を幹とする不正・腐敗の枝でエジプトは覆われていた。
・反体制派によれば、将校・兵卒・諜報員85万人/中央治安警察隊45万人/秘密警察職員40万人がいたとされ、これは国民37人に1人の比率である。最も嫌われた国家治安捜査局は官舎を襲撃された。
・一方軍への対応はそれとは180度異なった。「軍と民衆は一つの手」「民衆万歳、軍隊万歳、・・」などのスローガンが当初から見られた。

-エジプト人の尊厳の回復
・革命の目的は、体制の打倒/権力者の追放による尊厳の回復だった。それは「尊厳と自由、それがエジプト人の要求だ」「解放だ、解放だ、豚の支配からの解放だ」「頭を上げよ、お前はエジプト人だ」などから分かる。
・コプト派キリスト教徒は革命に消極的との報道もあったが、ムスリムが集団礼拝をしている時、彼らは無防備のムスリムを護るため、周囲を囲った。それは「ムスリムもコプトも、みんな、変革を望む」「新月と十字架は、拷問と殺人に反対する」などでも分かる。

・エジプト人としての誇りは、アラブ人への連帯意識とも結び付いていた。そのため革命後に外相となったナビール・アラビーは、ガザ地区を封鎖しているラファハ検問所の開放を命じている。
・「ムバーラクよ、内通者め、(イスラエルに)ガスは売ってもナイルの水は残っている」のスローガンもあった。これは政府がイスラエルに天然ガスを低価格で提供し、甚大な損害を与えた問題で、大統領が後ろ盾になり石油相/政商が関与していた。

・スローガンの叫び方には2種類ある。これまでに紹介したのは「復唱型」で、最初に1人が唱え、それを皆が復唱するパターンである。もう一つは「掛け合い型」で、1人が叫ぶ問いに、皆が答えるパターンである。
・「掛け合い型」の答えで多いのが「バーテル」で、「お終い」「ダメ」などの意味である。「国家治安」「バーテル」/「内務省」「バーテル」/「選挙」「バーテル」/「ムバーラク」「バーテル」などがある。※日本だと「反対」かな。

○革命か、騒乱か
-革命の名付け方
・チュニジアに始まる一連の動きを「アラブの春」と呼ぶが、これは欧米のマスメディアが付けた名前である。チュニジアの革命は「ジャスミン革命」と呼ばれるが、現地では「尊厳と自由の革命」と呼ばれている。

・エジプトの「今回の革命」は、「白い革命」と呼ばれる事がある。これは流血がなかった事による。軍が早い段階で前大統領を見限り、軍と警察の治安部隊の交戦も危惧されたが、杞憂に終わった。
・また「二月革命」とも呼ばれる。これは2月11日にムバーラクが大統領を辞任した事による。1952年「七月革命」/ロシア「二月革命」と比較されるが、これらの革命はその後、運動を操っていた黒幕が現れ、”第二の革命”を起こしている。
・また「ナイルの革命」とも呼ばれるが、「1月25日革命」が一般に定着している。この日はタハリール広場で若者達が決起した日であるが、国民の記念日「警察の日」である。これは警察権力への抗議の意味があった。

・革命の2ヶ月前、人民議会選挙が実施されたが、2011年秋の大統領選でのムバーラク大統領の6選のため、露骨な不正が行われた。これが革命の直接的な原因である。また2010年6月、麻薬所持の疑いで若者が警察に虐殺された事件も革命の原因とされる。※ジャスミン革命も、嫌疑を掛けられた若者の焼身自殺だったかな。

・1月25日は「七月革命」の記念日でもあった。当時エジプトは「完全な独立」を求め、スエズ運河に居座る英軍とゲリラ戦を展開していた。1952年1月25日は警察隊に多くの犠牲者が出た日だった。※これが「警察の日」となった理由かな。しかし60年後には警察は民衆の敵となったのか。

-革命か、騒乱か
・「今回の革命」に対しイスラエルや保守的なサウジアラビアなどは、大統領が変わっただけで、「革命」ではなく「騒乱」としている。
・アラビア語の「サウラ」(革命)には広い意味があり、革命に成功し体制が変わった場合も、革命が失敗し反乱に終わった場合も含まれる。実際、アラブの歴史は後者の反乱だらけである。有名なのはロレンスが活躍した「アラブの反乱」であるが、アラブ世界では「大アラビア革命」と呼ばれ、植民地主義勢力に抵抗した歴とした革命である。

・この様な挫折を、最も深く心に刻んでいるのがパレスチナ人である。最初の「サウラ」は1929年「嘆きの壁事件」で、パレスチナ問題を世界に知らせる事件となった。
・次に起きたのが「パレスチナ・アラブ大反乱」(1936~39年)だったが、英軍の投入で挫折する。これはイスラム指導者カッサーム師が率いた事から、「カッサームの革命」と呼ばれた。しかしこの失敗で、1947年国連から「パレスチナ分割決議」を押し付けられる。

-インティファーダとサウラ
・1987年パレスチナの占領地で「インティファーダ」(蜂起)が始まった。これはなぜ「サウラ」ではなく「インティファーダ」なのか。エジプト近代史のアリー・バラカート教授は「サウラは指導され、特定の目的を広範囲で行う運動」としている。一方「インティファーダは、時間的にも空間的にも限定されたもの」としている。しかし厳密な区別はない。
・1985年スーダンでは「インティファーダ」により独裁政権が瓦解している。その後1989年軍事クーデターが起き、スーダン内戦となり、最近南スーダンが独立した。

・ここで注意したいのは「サウラ」は民衆が名付ける言葉で、権力者側からは「タマッルド」(謀反)となる。
・しかし独裁者が「サウラ」(革命)を使う場合もある。サッダーム・フセイン(イラク)、ムアンマル・カダフィー(リビア)、ハーフェズ・アサド(シリア)、アンワル・サダト(エジプト)である。1970年アサド大統領はバアス党の権力闘争のため「修正革命」を起こし、1971年サダト大統領も前大統領派を粛清するため「五月革命」を起こしている。
・民衆は権力者による「サウラ」に飽き飽きし、1987年パレスチナでの運動を「インティファーダ」としたのかもしれない。

-革命の幾つかの段階
・バラカート教授によれば、「サウラ」「インティファーダ」は「ハラカ」(運動)の一形態である。これらには段階があり、権力に対する不服従・非協力(カラク=不穏)→ストライキ/地下活動→当局への拒絶(ムカーワマ=抵抗)→激しい運動を伴う権力との対決(ムワージャハ)となる。

・「今回の革命」でも「不穏」は見られ、この数年カイロの商業地区で女性に対する集団セクハラ事件があった。90年代の「イスラム運動」は「抵抗」「対決」であり、「背教者達の政府の打倒」を目指し、武器を取った。
・しかし「今回の革命」では平和主義/非暴力主義が主張され、スローガンを叫ぶ抗議/ストライキ/座り込みが手段となった。チュニジアやエジプトの革命で流血が少なかったのは、奇跡的である。これは長年の運動の蓄積による。ガンディーの非暴力抵抗も英国統治下だからこそなったのである。
・この点について、運動の蓄積はもとより、体制の性格やムバーラク体制の問題を客観的に分析する必要がある。現在展開しているアラブ革命は、チュニジア/エジプトと異なった様相を呈している。それぞれの革命は、体制の性格/構造、および社会との関係が際立って個性的である。※そうなんだ。知らない事ばかり。

・革命か騒乱かの議論に戻れば、「インキラーブ」(政権転覆)の言葉がある。実はアラブ革命にはこの軍事クーデターが多い。1958年カーセム将軍による「イラン革命」、1969年カダフィー大佐による「リビア革命」などである。こうしてみると、民衆による蜂起(サウラ)より、「インキラーブ」の方が実質に近い気がする。

-近代エジプトの4大革命
・最初を飾るのは18世紀末、ナポレオンの侵略に対する民衆の抵抗である。この反植民地主義/反占領闘争はアラブ革命の正統(?)な形である。上(南部)エジプトの名家の出身であるシャイフ・オマル・マクラムは若手ウラマー(イスラム学者)を率い、職人/商人を束ね、カイロで抵抗運動を行った。
・ナポレオンによるエジプト占領は、英国海軍との戦いに敗れ、失敗する。オスマン朝の支配に戻ったエジプトは、カイロ市民の推戴により、ムハンマド・アリーが代官に就く。彼はムハンマド・アリー朝を創設し、近代化/富国強兵を進めた。

・残りの3大革命は、このムハンマド・アリー朝で起きた「オラービー改革」(1881~82年)/「1919年改革」/「七月革命」(1952年)である。「オラービー改革」「1919年改革」は民衆蜂起としては華々しかったが、挫折した改革である。
・オラービー大佐ら民族主義者は、植民地支配から祖国を救おうと立ち上がる。憲法を制定し、議会を持つ立憲改革だったが、英国軍の介入で挫折する。これはスエズ運河を占拠し、インドへの道を確保するための英国の戦略行為だった。

・「1919年改革」は第一次世界大戦後、英国支配からの脱却を目指した民衆蜂起だった。この改革ではカイロを始め、各地に地主層による自治区が作られる。しかし英国は軍隊で鎮圧し、1922年エジプトを独立させる(※傀儡政権かな)。その後も民族主義者は「完全な独立」を目指して戦い続ける。

・上記2つの革命は挫折するが、18世紀末からの反フランス民衆蜂起と「七月革命」は、”成功した革命”と云える。この2つの革命は、共に民衆蜂起に軍人が介入した革命でもある。ムハンマド・アリーの改革は、明治維新に先行するアジア・アフリカ地域で初めての近代化改革である。またナセルの「七月革命」もエジプトの形を作った改革である。
・また両革命は周辺アラブ地域にインパクトを与えた。ムハンマド・アリーによるシリア/スーダンの軍事征服・支配は、これらの地域を近代化させた。また宗主国オスマン朝の「タンジマート改革」(西洋化改革)にも影響を与えた。「七月革命」はアラブ世界で、共和制改革の嵐を起こした。
・しかし両民族主義政権とも帝国主義権力により挫折される。ムハンマド・アリーの富国強兵策は「ロンドン協定」(1840年、※知らない)で廃棄される。ナセルの民族主義は「第三次中東戦争」(1967年)の敗北で頓挫する。

・ムハンマド・アリーとナセルの試みは類似点が多い。民衆蜂起が作り出した革命状況に軍人が介入し、新しい国家体制を作り上げている。このプロセスは「今回の革命」も似ている。
・最初の民衆蜂起の指導者はシャイフ・オマル・マクラムだったが、運動を推進したのは若手ウラマー(イスラム学者)で、イスラムはそれぞれの革命で重要な役割を果たしている。タハリール広場に隣接する場所に、マクラムの名を冠するモスクが建てられ、また広場には彼の彫像が建立されている。

○起点としての1968年
-中東の民主化運動と国際社会
・中東の民主化運動と国際社会の関係は複雑である。米国は「9.11事件」により、テロの原因を非民主的な体制と考えた。米国の民主化圧力により憲法も国会もないサウジアラビアで、地方諮問評議会の選挙が行われた。警察の拷問が日常茶飯事だったエジプトでは、人権最高評議会が設立され、元国連事務総長ボトルス・ガリー就いた。これらは2004年G8で合意した『拡大中東イニシアチブ』に結び付く米国の広域政策の一つだった。

・2003年米英軍によるイラク戦争が始まった頃、ある研究集会でイラン人の女性研究者が「中東に民主化圧力を掛ける資格は、米国にない」と発言した。米国には、1953年石油の国有化運動から始まったイランの民主化運動を、CIAはクーデターを起こさせ、国王の独裁体制を「再起動」させた過去があった。これはサウジアラビアの非民主的体制と並んで米国の「対湾岸二柱政策」と呼ばれた。
・イランの民主化運動の起点はモサッデグの運動であり、その民主化運動は米国の政治介入で封殺され、今の暴力/圧政の歴史的背景になっている。
・2009年イラン大統領選では激しい政府批判があった。これは今回のアラブ革命に共鳴したものだった。※時間が少し逆転するが、この解釈で良いのか。

-革命運動の原点
・イラン民主化運動の起点がモサッデグの石油国有化運動なら、2011年エジプト革命の起点はどこなのか。その起点とされるのが、1968年2月の若者達の運動である。
・ムハンマド・サイイド・サイードはエジプトを代表する知識人で市民活動家だったが、早世した。彼は『エジプトにおける制約された民主主義移行』(2006年)を著し、「中東の民主化は、外国から押し付けられるものではなく、自らの手でなさなくてはならない」としている。「体制転換/民主化は、『拡大中東イニシアチブ』に始まったわけではなく、1968年2月学生/労働者による運動から始まった」「この運動は当初は『第三次中東戦争』の敗北の責任問題だったが、1952年7月23日の革命体制への批判に変わった」。※1968年から2011年だと、43年もあるけど。

・同じ考えはサイードと政治的立場を異にする(旧政権に近い)カイロ大学教授アリー・ディーン・ヒラールにも見られる。彼は『エジプトにおける民主主義の経験』(1982年)に、「1968年2月/11月に始まる学生運動は、1972年1月『カイロ大学学生蜂起』に発展し、医師/技師/ジャーナリストなどの同業者協会の支持を集めた」と述べている。

・イスラム主義知識人ターリク・ビシュリー判事は『民主主義と7月23日体制』(1991年)を著している。彼は「1968年の運動は、7月23日体制への最初の民衆的ストライキ」と指摘している。彼はムスリム同胞団(※以下同胞団)/急進派イスラム団からも尊敬されている。彼は左派/リベラル勢力の「キファーヤ運動」(後述)から大統領候補に推された事があり、「今回の革命」後には憲法改正委員会の委員長に任命されている。※この本は、恐ろしく重厚だな。ところでイスラムはどれ位革命に影響を与えたのか。
・彼はこの運動が当時のナセル政権により頓挫した事も指摘している。ナセルは1968年「3月30日文書」を出すが、約束は守られず、強圧的な権威主義体制は維持され、サダト体制に引き継がれた。
・サダト時代(1970~81年)様々な治安立法がされている。労働運動の規制/宗教政党を禁止する政党結成の規制/メディアの統制/あらゆる反政府活動の規制(恥辱法)などである。さらに権威主義は司法面でも強化され、大統領が裁判官/検察官の任命・昇進に介入できるようになった。三権分立は絵空事になり、1981年大統領暗殺後はムバーラク体制に引き継がれた。※ナセル→サダト→ムバーラクなんだ。

・1968年に学生が決起した日(2月21日)は「学生記念日」だった。「七月革命」前の1946年2月9日、カイロ大学を出た学生デモがナイル川のアッバース橋で警官隊と衝突し、死傷者を出した。そして2月21日「学生労働者民族委員会」が主体になり、ゼネストが呼び掛けられ、カイロ北部の工業地帯の労働運動と共闘体制が組まれた。
・同じように1968年の運動も、カイロ南部のヘルワン工業地帯の労働者が参加している。ここにも学生運動と労働運動の連携が見られた。
・さらに「今回の革命」でも、両者の連携が引き継がれる。タハリール広場の主要勢力だった「4月6日若者運動」は、2008年4月ナイル・デルタの工業都市の労働運動に連帯して結成されていた。

・1968年に始まる学生運動の活動家/知識人は、自らを「70年代世代」と呼んでいる。これは「40年代世代」の運動の継承を強く意識しているためである。「40年代世代」は体制派/反体制派に関わらず、1952年革命体制の形成に深く関与した。
・「70年代世代」は”栄光のナセルの時代”に育ったが、「第三次中東戦争」(1967年)で敗れナセルを「嘘つき」「自分達を見捨てた父親」とし、体制に激しく反発した。
・当時のスローガンに、「諜報員支配を止めよ」「警察国家打倒」「恐怖があれば生活なし、自由がなければ知識なし」「ヘイカルの嘘つき報道打倒」がある。ヘイカルはナセルの右腕と呼ばれた主要紙『アハラーム』の主筆をしていた。

-ナセルの強権体制に抗して
・この様な大規模のデモ(※カイロ北部の工業地帯?)が起きたのは、1954年以来だった。これはナギーブ大統領の辞任問題をめぐってナセルと同胞団が対決した「三月危機」である。国家権力を握っていたナセルは、警察機構/メディアを使い大衆動員を掛けた。彼は1953年「解放機構」/1956年「国民連合」/1962年「アラブ社会主義連合」を組織した。また主要新聞を国有化した。これらが秘密警察と共に彼の支配を盤石にし、「七月革命」体制の柱となった。
・彼らは「シリアとの国家合同」(1958年)「ナセル大統領の再選」(1964年)に動員されるが、これを覆したのが1968年の運動だった。この運動により、1952年以前のように社会運動(※学生運動?労働運動?)が再び活性化する。
・1970年「黒い九月事件」(ヨルダン内戦)の影響を受け、学生は「パレスチナ革命支援協会」を結成する。イスラエル開戦を主張する学生は「カイロ大学学生高等民族委員会」を結成し、頂点に達する。※パレスチナ問題の影響は大きいな。
・彼らの学生運動は、共産主義/ナセル主義/イスラム主義が拮抗・対決していたが、20年後に対話を再開し、2004年「キファーヤ運動」へ繋がる。※運動は連綿と続いているんだ。

・ただし70年代末以降、学生運動は急進化・暴力化する。それはサダト政権が左派/ナセル派を抑えるため、イスラム勢力を後押しした事による。1977年サダト大統領のエルサレム訪問を批判し、過激化し、1981年サダト大統領の暗殺や、イスラム団による上エジプトでの武装蜂起に至る。
・アスワーニーの小説『ヤコビアン・ビルディング』は、イスラム主義者を養成する内容の小説になっている。若者が警察士官学校を受験するが、父親の職業から門前払いされる。彼はイスラム戦士の訓練を受ける。彼の攻撃目標は、彼を面接試験で落した内務省の高官に設定され、ジハードを決行していく。
・実はこのストーリーは、ナセルのパロディでもある。ナセルは父親の出身から警察士官学校に入学できず、陸軍士官学校に進む。その後陸軍士官学校の仲間と自由将校団を結成し、軍事クーデターを実行する。

○冬の時代から、革命の春へ
-労働者による運動の継続
・1968年の学生運動により、社会運動が活性化する。労働運動/学生運動が目指したのが、「七月革命」体制の打倒だった。これに対し政府は学生運動の統制・管理を強化した(※イスラム勢力の後押しかな)。これにより鎮静化するが、一部は過激となった。

・一方労働者は、その後も激しい運動を続ける。1971年ヘルワンの繊維工場/製鉄工場での大規模なデモ、1972年カイロ北部の工業地帯ショブラ・ヘイマなどでの大規模なストライキなどである。
・1974年経済自由化政策(外資導入、輸入規制緩和)により物価が高騰する。1977年「物価暴動」が起きる。この暴動は、2011年革命以前で最大の民衆蜂起で、戒厳令も発動される。この民衆蜂起はカイロの南北の工業地帯の労働者のデモに始まり、それに主婦/サラリーマン/年金生活者が参加するようになった。それがアレクサンドリアなどの主要都市にも広がった。※当時日本でもオイルショックがあったな。

・当時政府は対外債務を抱えていたため、IMFの「構造調整政策」を受けていた。その中心は工業の母体だった公共部門の民営化だった。しかし労働組合総連合の反発などで進んでいなかった。
・1986年中央治安警察隊が暴動を起こす。彼らは徴兵され、待遇も劣悪だった。「七月革命」以降の1977年/1986年の暴動は軍隊により鎮圧される。
・公共部門改革は、80年代末から急速に進展する。1989年労働組合総連合/エジプトビジネスマン協会の民営化に関する共同声明が転換点となる。1995年/2003年の労働法の改正で、運動は統制され、人員整理が進展する。公共部門の労働者数は、1985年130万人から2001年42.3万人に減少している。※ギリシャはどうなったんだろう。
・民営化が受け入れられた背景に社会主義体制の崩壊による左派・民族主義イデオロギーの斜陽がある。また1977年暴動を左派の陰謀と決め付け、労働運動の非民主化や政府への従属なども背景にある。労働運動が再活性化するのは、経済自由化政策が加速する2000年代以降になる。※労働運動と経済自由化政策が関係している?

-社会不安と暴力の応酬
・90年代は、政治的暴力と文化的テロリズムが吹き荒れる冬の時代になる。1991年エジプトは「湾岸戦争」の多国籍軍に参加し、IMFとスタンドバイ協定を結ぶが、さらなる「構造調整政策」の履行を約束させられる。そのため人民議会は、政府が提出する構造改革法案(公共部門民営化法など)を次々と可決した。
・議会政治は機能しなくなり、権威主義が強化された。農村部では小作法の改正により、警察権力が農民を土地から追い出す事もあった。都市部ではスクラム地区の強制立ち退きが次々と行われた。内務省の汚職を追求した記者が投獄されるなど、メディアも規制強化された。

・1992年カイロで地震が発生し、この時同胞団が炊き出しなどに迅速に動き、その草の根組織の実力を示した。これと対照的だった政府は世論の反発を買う。同胞団は前年の「湾岸戦争」での多国籍軍参加を厳しく批判しており、同胞団への弾圧が強化された。※様々な組織が出てくる。
・この時期に政府と全面対決していたのが「イスラム団」などの過激派イスラム主義組織だった。1990年人民議会長が暗殺されると、翌年「イスラム団」のリーダーが治安警察により殺害される。1992年カイロの解放区が治安部隊により掃討されると、政治的暴力の舞台は上エジプトに移った。
・「イスラム団」などの急進派の活動は、1995年「ムバーラク大統領暗殺未遂事件」1997年「観光客殺害事件」などを起こした。テロの対象は世俗主義者/自由主義者にも向けられた。文化的テロリズムが強まり、1994年「ノーベル文学賞作家の暗殺未遂事件」が起き、大学では反イスラム的な作品のボイコット運動が起きた。
・この時期、性に関する異常な事件も起きている。「アタバの娘事件」などである。これらは革命前の不穏(カラク)を表していた。

-市民運動の芽生えとその展開
・「今回の革命」の起点は1968年学生・労働運動だが、その後抑圧の時期が長く続きます。これにより犯罪行為/大衆運動/テロ活動などの冬の時代になります。これは「七月革命」体制形成前のプロセスも同様で、地主/都市の富裕層が支配する議会は腐敗し、若者が同胞団/青年エジプト/共産主義運動などに参加します。その後ナセルの自由将校団が革命に成功し、新しい体制を作ります。
・展望のない冬の時代だったが、「大規模な大衆暴動が起きた」「イスラム運動が見られた」「市民運動が起こった」などは、新しい運動の芽生えだった。

・80年代、民主主義的マルクス主義者/リベラル/ナセル主義者が「民主主義を擁護する国民委員会」などを結成する。90年代には新聞法(1995年)のメディア規制に反対する委員会が組織され、1997年「自由、民主主義、人権、政治参加、文化的多元主義」会議が開かれる。
・こうした市民運動には、文化的ナショナリズム/アラブとの連帯を訴える思想的な特徴があった。1978年「キャンプデービッド合意」に抗議する「民族文化擁護委員会」、1998年「砂漠の嵐作戦」、同年イラク経済封鎖に抗議する「イラク封鎖の開放のためのエジプト民衆委員会」などの結成があった。
・2000年にパレスチナ占領地で始まる「第二次インティファーダ」に連帯する「アル・アクサー・インティファーダに連帯するエジプト民衆委員会」には、120人以上の知識人/市民活動家が参加した。募金活動にビジネスマン/商人/小学生など様々な人が協力し、90トンもの食料/医療品をトラックで輸送した。

・2002年イラク攻撃に反対する「カイロ反戦会議」が開催された。この会議には「70年代世代」の左派・民族主義者ばかりでなく、「40年代世代」の運動指導者や同胞団の中堅幹部も参加した。
・これらの「第二次インティファーダ」に連帯する市民運動やイラク攻撃に反対する市民運動が、2004年「キファーヤ運動」を生み出す。
・「キファーヤ運動」は、翌年の大統領選でのムバーラク5選の阻止が目的で、この名前は「ムバーラクはキファーヤ(もうたくさん、うんざり)」と叫んだ事による(※笑った)。この運動に「3月2日変革のための運動」「変革のための学生」「変革のための若者」などの諸組織が参加した。この運動で「変革」(タグイール)が頻繁に使われ、それは「今回の革命」にも引き継がれた。※市民運動が盛隆した要因に、インターネットの普及もあるかも。
・2005年「変革のための民衆キャンペーン」は、「学生の日」(2月21日)に最大規模の反ムバーラク・デモを行う。これは1968年から引き継がれている運動の歴史的継続性である。6月「民主主義移行のための国民集会」が開かれ、イスラム主義知識人ターリク・ビシュリーやムハンマド・セリーム・アワーらが参加した。

・この運動は米国の民主化圧力の中で行われ、当初は内務省による選挙工作・干渉はなかったが、同胞団の議席拡大を阻止する措置に転換する。2006年米国の中間選挙で共和党が敗れると民主化圧力は後退する。大統領選に立候補していたアイマン・ヌールは、選挙後逮捕され、拷問を受ける。
・「キファーヤ運動」の集会では治安部隊と活動家の比は30対1で、これは「今回の革命」の反対である。
・デモ弾圧の事例に女性活動家への性的脅迫がある。与党/警察のならず者(バルタギー)が女性の衣服を切り裂いたり、剥ぎ取ったりした。さらに翌日の政府系新聞には、「女性活動家が服を脱いで、性的挑発をした」と出るのである。またバルタギーは運動に紛れ込み、商店の略奪や運動参加者へ暴力を振るった。
・何よりも運動を困難にさせたのは、強力な国家警察体制だった。電話の盗聴/郵便物の検閲は当たり前だった。運動の中心人物は「警察を出し抜いて集会を開いたり、デモを組織するのに苦労した」と語っている。
・しかしカメラ付き携帯電話が出ると、デモを弾圧する画像/女性活動家への暴行などを新聞が報道するようになる。さらに2010年人民議会選挙での干渉・不正の映像はインターネットに流れるようになり、これが「今回の革命」の直接的背景となった。
・「今回の革命」の直接的な起点は「キファーヤ運動」であり、この運動を準備させたのが2000年のパレスチナでの「第二次インティファーダ」と、2003年のイラク攻撃に対する反発への民衆による連帯運動だった。※アラブの連帯意識は強いんだろうな。彼らはスンナ派だよな。

-漸進するNGO団体
・エジプトでは社会運動が活発化すると、一斉にNGO団体もできた。1999年政府はNGO法によりNGOを規制し、社会問題省への登録を必要とした。2000年人民選挙に際し、社会学者を逮捕した。彼は「市民社会」の発展を目指す活動を行っていた。
・多くのNGOが作られ、多くのNGOが頓挫した。カイロ市西部の貧困地区には、政治囚(急進的なイスラム主義者)の人権を擁護するNGOがあった。麻薬/バルタギーからストリート・チルドレンを護るNGOもあった。

-ムスリム同胞団の成熟
・社会運動も変化を見せた。再活性化した労働運動/老舗のイスラム運動/同胞団の成熟である。
・2004年発足したナズィーフ内閣は新自由主義に邁進した。外資導入の規制緩和と民営化の第二波である。しかしこれにより、2004年四半期のストライキ数は、過去6年間に匹敵する数になった。
・ストライキは外国系企業が多い新工業団地で起きた。またナイル・デルタの古い繊維工業都市でも起きた。運動を指導したのは「労働貴族」(※政府関係者?)の支配を脱した新しい指導部だった。彼らは経済的要求だけでなく、ナズィーフ内閣の新自由主義路線/抑圧的な政治体制の変革を求めた。2008年4月6日に決行したストライキは多くの国民の共感を呼んだ。この運動に連帯した若者が「4月6日若者運動」を組織し、「今回の革命」の主要勢力となる。

・同胞団の運動にも成熟が見られるようになる。「70年代世代」が医師会/弁護士会などの専門職協会の役員に選ばれるようになった。彼らは議会政治に積極的に参加する態度を見せた。運動では「ワサト(中道)党」を結成し分裂していたが、彼らが中心メンバーとなった。
・議会政治への積極的な参加により、以前のスローガンは「イスラム、それが解決」と云う曖昧なものだったが、庶民地区での無料診療や貧困世帯支援など現実的な要求に変わった。また既成政党「ワフド党」と選挙協定を結ぶなど、左派・リベラル勢力との共闘を通じ、現実主義路線を進むようになる。
・「今回の革命」でもタハリール広場に「同胞団の若者達」の姿があった。彼らは体制批判の長い抵抗運動の蓄積の上にあり、様々な運動の共闘の結果として、大団円を迎えている。

-冬から春へ
・「今回の革命」の呼び方に話を戻す。欧米のメディアは「アラブの春」と呼んでいるが、この”上から目線”の呼び方に反発するアラブ知識人は多い。
※やっと1章が終わった革命の歴史的な概要が理解できた。体制側/運動側共に歴史があった。ただし相当詳しかったので、先が思いやられる。

<革命の背景>
○体制は打破されたのか
-殉教者達
・アラブ革命では多くの若者が命を捧げている。シリアで「小さなガンディー」と呼ばれたギヤース・マタル君、彼は銃弾が降る中、花や水を配る運動をした。2011年警察から返された彼の遺体には拷問の跡があった。
・殉教者の先駆けは、チュニジアで焼身自殺したムハンマド・ブーアズィーズィー君である。同様の焼身自殺はエジプト/シリア/モロッコなどで続いた。彼らの写真は街路/公園に張られ、多くの若者を奮い立たせた。
・アレクサンドリアのデモで殺害された若い女性の父親は、大統領辞任を聞いて「娘の弔問を受け入れられる」と言っています。上エジプト出身の彼は「”血の復讐”(サァル)がされない限り、弔問は受け入れない」と決めていた。大統領の辞任で、娘の真実(ハック)が回復されたのです。

・ムバーラク辞任により、民衆は歓喜します。スローガンは「民衆は体制の打倒を望む」から「民衆は体制を打倒した」に変わります。「僕はエジプト人だ、誇りに思う」や、アラブ同胞を思う「リビアを爆撃するな」「イエメン人に勝利を」「エジプトとパレスチナは一つの手」なども表れます。さらに治安回復を望み、「人民と警察は一つの手」「戻っておいで、おまわりさん」なども表れます。

-革命は継続する
・しかし「血は血によってしか拭えない」「子供達を殺害した者に死刑を」などの激しいスローガンも表れるようになる。この背景に、このままでは革命が頓挫するとの危機意識があった。2月から3月、コプト派とムスリムの衝突事件があったが、これは革命を妨害する勢力が煽ったものだった。
・3月19日憲法改正の国民投票(?)をめぐって対立が起こる。憲法改正に反対する人は、「このままでは秋の選挙で古い勢力が残存し、彼らが憲法を改正するのでは話にならない」とした。これに対し同胞団は憲法改正に賛成し、憲法改正は採択される。同胞団は「軍政から民政に早く復帰させるべき」としたが、本音は議会での勢力拡大だった。

・3月に憲法改正に反対したのは、若者などの革命勢力で、これに大統領候補のエルパラダイらのリベラル/左派勢力も同調した。彼らは「憲法が最初」キャンペーンを開始した。また彼らはムバーラク前大統領の裁判を要求した。この運動は6月から7月に盛り上がる。
・革命継続を求める彼らを支えたのが、犠牲者の葬儀/追悼集会だった。7月1日は「内務省を清掃する金曜日」と名付けられ、「広場に戻れ」「革命を救え」などが叫ばれた。翌週7月8日は「革命第一」「怒りの第二の革命」と名付けられ、殺害に対する復讐/腐敗の清掃が目標となった。7月12日内務省の高級幹部600名が更迭されている。
・一方の「憲法が最初」キャンペーンに対し、最高軍事評議会は「新憲法に関する文書」を発表する(後述)。

・革命継続を求める民衆は、「ムバーラクらの公開裁判」「犠牲者遺族への賠償」「国民民主党メンバーの政治活動停止」「国家反逆法の執行」などを叫んだ。これらの圧力により8月、ムバーラクらの公開裁判が始まる。終着点の見えない改革は何を目指しているのか。体制を打倒するとは何なのか。

○革命への期待
-様々な期待と不満
・1月25日から始まる抗議運動には、様々な期待が込められていた。生活面/経済面の要求から、政策/制度に踏み込んだ要求もあった。2月11日大統領辞任直後から、その要求は抗議運動に表れた。
・公務員/公団職員のデモは人民議会の前でも行われた。デモは銀行/通信社/専門職協会にも広がり、警官/裁判官も参加した。こうしたデモはカイロだけでなく、地方都市でも展開された。
・多かったのが賃上げを求めるデモである。電電公社職員/農業省職員/地下鉄職員/救急隊員がデモを行った。石油省ではイスラエルへの天然ガス輸出の不正疑惑で、石油相の辞任を要求した(後述)。灌漑省でも灌漑相の不正の公表を求めた。地方の大学/公立病院では正規雇用への移行や最低賃金の引き上げが求められた。
・経済的には恵まれている国有の「エジプト国民銀行」では、賃上げ/民営化反対が要求された。国有の「ミスル銀行」では、4千人の正規雇用への移行が要求された。民営化されていた「アレクサンドリア銀行」では、民営化の見直しが要求された。

・マスコミでは「中東通信社MENA」では社長の辞任が求められた。これにより主要新聞/雑誌の経営者・編集長の多くが更迭された。大学では政府から任命された学長/学部長の更迭が求められた。
・専門職協会では、弁護士協会で協会長の辞任が求められた。裁判官は「司法はエジプト人民の織物の一部」と叫び、司法が果たすべき公正な機能を求め、国会選挙監視で不正を働いた同僚を告発した。
・農村では国有の「農業開発銀行」に対し、債務の猶予を求める運動があった。シナイ半島では占有地の所有権の移行や灌漑水を求める農民のデモがあった。農民の人権NGO「土地センター」は、農業生産や流通の統制を批判した。
※本当に様々な要求がある。

-新自由主義路線の見直し
・「今回の革命」にも労働運動は重要な役割を果たした。今回の運動の中心は、ナイル・デルタの工業都市マハッラ・クブラーで起きた労働運動に連帯したカイロの若者達だった(4月6日若者運動)。マハッラ・クブラーでは、2月9日体制変革を求める4万人のストライキを組織し、大統領辞任後も3日間ストライキを貫徹した。彼らの要求は、最低賃金1200エジプト・ポンド/最高賃金の制限/賃金の物価スライド制/非常勤職員の正規雇用/労働法の改正だった。
・1952年「七月革命」では労働運動への弾圧事件があったが、「今回の革命」ではそれはなかった(後述)。

・マハッラ・クブラーの労働者は待遇改善を要求するだけでなく、CEOの辞任を求めている。著者が聞いた話では、経営者は設備投資を控え、経営改革を進めず、赤字経営を慢性化させ、労働者に首切り/早期退職を強いてきたそうだ。
・裁判所は民営化を見直す判決、国民民主党の解散命令などを出している。今後人民議会選挙の管理/新憲法改正など、司法の重要な役割が注目される。
・新任の労働相は「労働組合の結成の自由」を発言した。エジプトは国際労働協約に違反する最悪25ヵ国に含まれており、ILO(国際労働機関)は、これを評価した。
・「エジプト労働組合総連合」(GETUP、※起きろ)は、24の産業別支部組合からなり、400万人の加盟者を有する。しかし会長フセイン・メガワルは不正で捜査され、タハリール広場への攻撃事件でも嫌疑を受けている(後述)。

・ホームレスの人1500人が首相府前で座り込み運動を続けている。その中には、2008年崩落事故が起きたドウェイカ地区からきている人もいる。
・これらのデモ/ストライキによりエジプト経済は混乱し、観光客収入も落ち込んだ。そこで最高軍事評議会は「3月24日をもって、全てのストライキを禁止する」と指示し、ストライキは収束する。これは革命の将来が期待されるためと思われる。

-ビジネス界からの期待
・民衆の不満/要求から、幾つかを取り上げてみよう。「民衆は飢えている」「パンがない」などがある。これはエジプトで食糧不足が起こっている訳ではなく、物価高/失業/生活苦などの言い換えである。しかしこれに対し賃金/年金の引き上げや補助金による基礎食糧品の価格抑制ができるかが、移行政権の課題である。
・次に目立ったのが、「正規雇用への移行」「社会保険の適用」を求める声である。90年代より世銀/IMFが勧める構造改革は、多くの人の雇用を不安定にした。これらは大統領の次男ガマール国民民主党政策局長が音頭を取り、ナズィーフ内閣で進めてきた新自由主義路線への反対として表れた。また民営化が腐敗にまみれていた事もある。

・一方で全く違う期待もある。これまで腐敗と弱い法律のため投資が妨げられてきたが、これが払拭される期待である。国際的な証券会社の中東担当幹部は「アラブは次のBRICsになる」と期待している。
・新自由主義路線による民営化は腐敗を生んだ。革命後、国民民主党の幹部やナズィーフ内閣の閣僚が腐敗の罪を問われている。ビジネスマンは腐敗が一掃され、合理的な政策が取られ、国内外からの投資が増え、エジプトが経済発展する事を期待している。
・この様に財界は経済の自由化を求め、労働者は賃金/雇用を求め、さらに経営者の責任を追及している。今後は政労使の三者関係の構築が重要となる。
・労働者/財界は社会的公正を掲げ、さらに民衆の自由/尊厳を求めている。これは抑圧と腐敗を特徴とする旧体制への批判と結び付いている。若者たちのスローガン「パン、自由、尊厳、社会的公正」に、革命への期待が窺われる。

○抑圧と腐敗
-警察権力の腐敗
・民衆の怒りは、旧体制の「抑圧」「腐敗」にあった。7月の集会でのスローガン「復讐」「清掃」が、それぞれに対応している。この対象となったのが警察権力だった。抗議運動側の犠牲者は800名とされるが、警察側もその1/5となる160名を出している。一部には遺体を引き回したなどの残酷な例もある。

・「今回の革命」(2011年1月25日)の背景に3つの事件があった。1つ目は2ヵ月前の不正極まる人民議会選挙、2つ目はハーレド・サイード君の虐殺事件、3つ目は年初に起きた教会自爆テロ事件である。いずれにも警察が深く関与している。
・3つ目の事件を解説する。1月1日アレクサンドリアの教会(※多分コプト教)で爆弾テロが起きた。警察は容疑者としてサラフィー主義者(後述)のサイイド・バラールを逮捕し、拷問し死亡させた。1月21日これに抗議するデモが起きる。またタハリール広場でも知識人800人が、ロウソクを灯して、追悼集会を開いた。
・「今回の革命」の最大の背景は、1つ目の人民議会選挙での警察による不正である。2011年秋に予定されていた大統領選でのムバーラクの6選とガマール国民民主党政策局長の世襲を実現するため、警察は同胞団への妨害や投票所での不正行為を公然と行った。そしてこれらの不正行為はインターネットで世界に流された。

・内務省は腐敗を追求した新聞記者を長期投獄したり、「新聞法」によりメディアを規制した。
・警察は腐敗を進行させた。末端では交通警察がユスリ/タカリを行った。上級幹部では、賄賂を60人で山分けした話もあった。内務省幹部の息子の結婚式を超高級ホテルで開き、業者に負担させた話もあった。
・サイード君の虐殺事件は麻薬とも関係していた。彼は警察と麻薬業者の取引を動画で撮影し、それをインターネットに流していた。彼は麻薬中毒として逮捕され、拷問を受けた。彼の死因は喉に麻薬を詰められた窒息死だった。※警察がこんな状態とは。

・しかし暴力的・非人道的な抑圧と腐敗は区別しなければいけない(※腐敗/不正/搾取を強いるには、抑圧が必要となる。腐敗と抑圧は密接と思う)。2月11日以降エジプトを統治している軍も抑圧を続けているとする意見もある。3月5日民衆により治安警察が攻撃され、捜査資料などが押収された。この中にヌビア人(?)/コプト教徒/シナイ半島の遊牧民(※ベドウィン?)の特別ファイルがあった。彼らはマイノリティとされる人達である。

・一方警察の自浄努力も期待されている。大統領辞任後の2月14日、警察4500人がタハリール広場で、抗議デモに対する内務相の発砲命令を批判するデモを行った。また賃金・ボーナスの引き上げ/警察病院の治療改善/軍事法廷の廃止などを訴えている。
・革命により多数の凶悪犯が脱獄したため、警察の立て直しは民衆が希望するところである。
・内務省も警察の改革を約束している。諜報機関だった秘密警察「国家治安捜査局」は「国民治安捜査局」に改称された。※それだけ?
・アラブ諸国の民主化/権威主義を見る時、議会制度/選挙の実態/人権を守る法律に目が行きがちであるが、まず第一に国民を監視・統制する組織(秘密警察)の存在に着目すべきである。エジプトでも秘密警察の改革が本気で行われれば、その影響は絶大であろう。

-圧政としてのズルム
・革命の背景は抑圧と腐敗だが、それは警察だけの問題ではなく、政治経済体制全体の問題である。また抗議運動側の要求も様々で、1つの目標を目指している訳ではない。
・「今回の革命」の前段階は、2004年「キファーヤ運動」である。これは翌年の大統領選でムバーラクの5選を阻止する運動である。「今回の革命」でも大統領らを「泥棒」「犯罪者」と呼び、その怒りを表している。大統領辞任後には「おめでとうエジプト、犯罪者は宮殿を去った」などが叫ばれた。民衆は「不正(ズルム)の時代を終わらせ、公正(アドル)な社会が回復する」のを望んでいる。
・革命後に出た小冊子『滑稽本 民主主義元年』の表紙には、民衆に拷問を加える3人の大統領(ナセル、サダト、ムバーラク)が描かれている。これは抑圧体制が3代続いた事を示している。サダト大統領は反体制派を大弾圧し(1981年9月「怒りの秋」)、同年10月自身の暗殺を招いた。ムバーラク大統領はトゥラ監獄を大増築したが、革命後は前政権の幹部が収監された。民衆は与党や内閣の大物がその監獄で囚人服を着ているのを見て、「革命」を実感した。

・中東初のノーベル文学賞作家ナギーブ・マハフーズは小説『カルナック』(1974年)を書いている。これはナセル時代を描いた作品だが、警察が若者を共産主義者として拷問するシーンがある。※この手の文学賞受賞者は多いかも。
・マハフーズ以降の小説家も抑圧体制を批判する作品を残しているが、それは間接的な批判に変わる。ソノアッラー・イブラヒームは小説『委員会』(1981年)を書いている。これはナセルからサダトに引き継がれた抑圧体制を描いている。その後の問題小説『ザート』(1992年)は、より具体的に権力の不正(ズルム)を描いている。

○腐敗のピラミッド
-腐敗としてのズルム
・「今回の革命」の不正(ズルム)に腐敗(ファサード)がある。報道記事を主題毎に整理すると、腐敗に関するものが山積になった。
・腐敗のピラミッドの頂点にいるのは、ムバーラク前大統領とその家族である。そのためエジプト国民はムバーラクの名前を全てから消し去る勢いである。カイロの地下鉄に歴代4人の大統領の名前を冠した駅がある。新運輸相はムバーラク駅の名前を変えると発言した。ムバーラク勲章はナイル勲章に名前が変わる。全国の公的な機関・組織/広場/街路/公園に付けられムバーラクとスーザン(夫人)の名前は、革命の殉教者の名前に変わるそうだ。スーザンの名前が付いた学校は全国で549校もある。ちなみに公共建築物の礎石の大半に、ムバーラク大統領の名前が彫られている。

・旧体制の腐敗は、現段階でも相当の量だが、大統領裁判などを手掛かりに、次第に分かってくるだろう。2月11日大統領辞任後、不正蓄財の情報が毎日1000~1300件検察に寄せられた。腐敗は大統領/夫人の親族/次男ガマールを取り巻く政治家・閣僚・ビジネスマンを中心に、エジプト社会の各方面に広がっていた。
・ムバーラク家の資産は、700億ドルとも30億ドルとも云われている。ムバーラク家の資産は国内不動産が中心で、40の邸宅/宮殿を所有している。

・ここで元大統領サダトと比較してみよう。二人は共に軍人で、カイロ北部ムヌーフィーヤの出身で共通点が多い。二人は名望家出身でない点も共通している。ただサダトは不正が実の兄弟に及んだが、ムバーラクは姻族(妻の親族、息子の妻)が中心である。
・サダト暗殺直後の腐敗問題と今回の腐敗問題を比較する。1983年に出版された『エスマト・サダト事件 時代の法廷』は、サダトの実弟を断罪した本である。これは前政権の腐敗を糾弾する目的で書かれた。結論で「サダト時代は、エジプトで最も腐敗が蔓延した時代だ」と書かれているが、腐敗はその後さらに深化する。
・30年前に糾弾されたのは、ゼネコン最大手で政商のオスマーン・アハマド・オスマーンだった。彼はアスワン・ハイダムの建設でのし上がり、長男の嫁にサダトの娘を迎えていた。腐敗の追求は彼の周囲の政治家/政商に向けられた。木材輸入業のラシャード・オスマーンは木材輸入だけでなく、麻薬取引などにも手を出していた。
・しかしサダト本人への追求は行われなかった。暗殺直後「タハリール広場」を「サダト広場」に改称する話もあったが、「タハリール」(解放)の言葉は残された。

-ゲイテッド・コミュニティ
・サダト時代は門戸開放政策の初期段階で、腐敗の範囲は不正輸入/麻薬などに限られた。しかしムバーラク時代になると、その範囲は広がり、その手口も複雑になった。
・今回、腐敗で告訴されているのは、大統領を世襲する予定だった次男ガマールを取り巻く政治家・閣僚・ビジネスマンで、特に2004年からのアハマド・ナズィーフ内閣の閣僚である。ナズィーフは私立大学設置などで告発されている。
・彼らの手口には、伝統的な手口と新しい手口がある。伝統的な手口は国有地の不正な払下げなどで、新しい手口は、民営化などの新自由主義路線と密接に関係している。

・伝統的な手口では、カイロ郊外の新興高級住宅地/トシュカー大灌漑プロジェクト/シナイ半島・紅海でのリゾート観光開発などがある。これに関与したのが、住宅相・観光相・農業相/大統領の姻族/ガマールを取り巻くビジネスマンなどである。不法に払い下げられた土地は、全農地の4割とされる。※何この数字!
・エジプトでゲイテッド・コミュニティが作られ始めたのは2000年代からで、歴代の住宅相は、広大な土地を大統領やガマールの姻族に不正に払い下げていた。
・前観光相には、紅海のリゾート地区をガマールの取り巻きに廉価で払い下げた疑惑がある。またシナイ半島では、かつてよりベドウィン系住民が開発から疎外されてきた経緯があり、何度か爆弾テロ事件が起きていた。「今回の革命」でも、最も激しい衝突はシナイ半島で起きている。
・歴代の農相も肥料輸入での汚職や、サウジアラビア王子への不正な土地払下げが捜査対象になっている。

・新しい手口では、ガマールの国際証券市場と云うグローバル化を利用した蓄財がある。また公共部門の民営化では、前投資相・前商工相・前財務相に疑惑が持たれている。
・民営化で最大の疑惑は、ガマールの取り巻き筆頭で「鉄鋼王」のアハマド・エッズである。彼は国民民主党の序列第3位(※ガマールの次?)であった。彼は日本の技術援助で建設されたデケイラ製鉄所を払い下げられている。

・チュニジア/エジプトでの革命の背景に、新自由主義路線/政治的抑圧があるとされるが、これらの閣僚は2004年以来の新自由主義路線を強行したナズィーフ内閣の閣僚である。これに対し大統領に長く仕え、腐敗を行った人物が2人いる。サフワト・シャリーフ前上院議長とザカリヤ・アズミー前大統領官房長官である。
・シャリーフ前議長は家族で、11の邸宅/8つの高級マンションを持ち、10以上の会社の大株主である。アズミー前長官は4つの邸宅/4つの高級マンションを持っている。彼は、2006年「フェリーボート沈没事件」の船舶会社社長を海外逃亡させている。
・シャリーフ前議長/アズミー前長官/鉄鋼王エッズ/ハビーブ・アドリー前内務相は、「腐敗の四人組」と呼ばれている。アドリー前内務相は、抗議運動の参加者への殺害命令を出した人物で、公金横領などで逮捕された。

-腐敗の裾野の広がり
・革命が暴露したのは政権中枢だけではなかった。エジプトの腐敗は、外交/メディア/労働界/宗教界/治安組織などあらゆる分野に広がっていた。
・文化政策では前文化相のユネスコ事務局長立候補をめぐる工作資金で前財務相が問われている。メディア関係では国営テレビ会社の総裁が、前情報相/エッズに賄賂を贈った疑惑がある。労働界では前労働相/前エジプト労働総連合(GETUP)会長が、親ムバーラク勢力のならず者をタハリール広場に乱入させた疑惑がある(ラクダの戦い)。宗教界ではウラマーとワクフ(※寄付)省職員がワクフの不正に対し抗議デモを行っている。※何れも旧政権の疑惑。
・特に民衆の憤激を買ったのが、外交におけるイスラエルへの天然ガス輸出に関する不正である。前石油相が格段に安い値段で天然ガスを輸出したとして厳しく糾弾されている。さらにムバーラクに近い政商がこの輸出事業を独占し、莫大な利益を上げており、民衆を激怒させた。この政商はイスラエル経済と密接な関係があった。今は二重国籍を盾に、スペインに逃亡している。

○腐敗の歴史、抑圧の起源
-腐敗の社会史
・「今回の革命」の目的は、抑圧と腐敗の2つのズルム(不正)が結び付いた体制の変革にある。しかしこの2つの軸は、区別して扱わなければいけない。
・現代エジプトの経済学界の長老ガラール・アミーン教授は『ムバーラク時代におけるエジプトとエジプト人』(2009年)を書いている。当書はムバーラク時代を総括しているが、「抑圧体制はナセル時代を引き継いだもので、腐敗はサダト時代以降に結び付いた」としている。
・彼は現代エジプトを3つの時期に分けている。①「七月革命」前の立憲王制時代、②ナセル時代、③サダト=ムバーラク時代である。

・彼は立憲王制時代は腐敗は少なかったとし、それは上流階級(地主層)と庶民の間に大きな断絶があったためとしている。
・ただし王朝末期は第二次世界大戦による新興成金の腐敗はあった。またムハンマド・アリー朝最後の国王のファールーク王は毀誉褒貶の甚だしい人物である。彼には首相の座をめぐって、政商から賄賂を受けた疑惑がある。特に評判を落としたのが、1948年「パレスチナ戦争」(第一次中東戦争)で、縁故の商人に中古の兵器/不良な爆薬を納めさせ、敗戦の原因を作ったとされる。これが若手将校による軍事クーデター(七月革命)の背景となった。

・ムバーラクは「10月戦争」(第四次中東戦争)の英雄として、サダトの副大統領に抜擢された。彼が選ばれた理由に誠実と陸軍ではなく空軍出身があった。ムバーラクは憲法の規定により大統領に就くが、彼は大統領辞任直前まで副大統領を置かなかった。それはナンバー・ツーに地位を脅かされるのを警戒したためである。陸軍トップの国防相が副大統領の最有力候補であったが、ミサイル技術の流出や東欧の外交官夫人との醜聞で失脚させている。副大統領にガマールを任命する事は可能だったが、世論の前では、それはできなかった。※ストレートで面白い話だ。

-ナセルからサダトへ
・アミーン教授は、「ナセル時代は専制的な恐怖政治は見られたが、腐敗は少なかった」としている。ナセルは質実な生活を送っている。また国会議長/副大統領を務めたサダトも、彼の”刎頚の友”政商オスマンもナセルの下では自制心を持っていた。
・革命後(※今回の革命かな)、ナセル大統領の控え目なテヒーヤ夫人の人気が高まっている。ムバーラク大統領のスーザン夫人は、最初は「出たがり、目立ちたがりの(サダト大統領)ジーハン夫人の真似はしない」と言っていたが、その上を行くようになった。多くの図書館/福祉施設に彼女の名が冠せられている。
・しかしジーハン夫人/スーザン夫人は、女性の地位向上に一定の役割を果たした(上からのフェミニズム)。ジーハン夫人は、離婚における女性の権利を強化した「家族法」の改正(1979年)に影響を与えた。しかしまだ家父長的支配を変えるには至っていない。

-サダトからムバーラクへ
・アミーン教授は、「サダト=ムバーラク時代に最も腐敗が進行した。それは彼の享楽を求める性格に由来する」とし、「エジプトを切り売りする時代が始まった」とした。
・ムバーラクは大統領就任直後は軍人らしく、「インディバート」(規律厳守)を連発した。しかし彼が与党党首に就任する事で、それは終わった。やがて腐敗はエジプト社会の全ての階層に浸透した。
・アミーン教授の議論は、立憲王制時代/ナセル時代に甘い気がする。また腐敗は大統領の人格だけに帰するものではない。ただ腐敗が広がるきっかけを以下としている。1967年「第三次中東戦争」の敗北で、アラブ社会主義/アラブ統一を掲げていた政府の権威は失墜した。これにより国民は、敗戦後の耐乏生活で自分の暮らしを守るのに精一杯になった。そして門戸開放の時代になり、産油国への出稼ぎが増え、大量消費社会になり、国民は利益追求に走るようになった。
※資本主義/グローバル化のモラルへの影響は少なくないと思う。本書は革命の起点を、1968年学生・労働運動としている。

・国民生活の混乱を表しているのがソノアッラー・イブラヒームの小説『ザート』である。主人公の女性はナセル時代に青春期を送るが、サダト時代には着いて行けなくなり、金儲けに走るようになる。小説には劣悪な公共交通/公教育の荒廃/受験戦争/金儲けの投資話/警察の不正/政治の腐敗などが、ふんだんに取り込まれている。また主人公の日常生活の章と、スキャンダルなどの新聞記事の章が交互に出てくる。
・新聞記事では、輸入チーズで児童が死亡した事件、預金者に多大な損害を与えたイスラム金融会社問題などが書かれている。この小説は社会の鬱屈した心理や歪みを描いている。

・腐敗が進行した原因は、門戸開放政策の導入による社会の変化である。ナセル時代のアラブ社会主義は誇大妄想であり、それ自体が専制体制の賛美だった。アスワン・ハイダムの建設/植民地主義の打倒/アラブの統一などは国民に夢を与えたが、1967年「第三次中東戦争」の敗戦で、こうしたイデオロギーを誰も信用しなくなった。これに対するサダト政権の対応策が、門戸開放による経済機会の提供であり、経済機会に恵まれない人には、補助金付きの低価格食糧品のバラマキ(?)だった。

-軟性国家への転落
・アミーン教授は各時代の「重荷」(?)を述べている。立憲王制時代は「従属」(植民地支配)、ナセル時代は「専制」(抑圧政治)、サダト=ムバーラク時代は「非常に軟らかい国家」(軟性国家)としている。「軟性国家」は発展途上国の特質で、発展の障害になる。今の言葉では、ガバナンスの低い国家である。
・ナセル時代は「軟性国家」とは縁遠い政府だった。しかしサダト時代に入ると閣僚の質は低下し、公務員にはモラルハザードが起き、お役所仕事に闇取引/裏交渉が横行し、さらにグローバル化はこれらを助長した。
・アミーン教授はサダト時代に腐敗が広がった原因を、①サダトの人格、②敗戦による政治思想(※イデオロギー?)の変化、③門戸開放政策によるグローバル化としている。
・今のエジプトを見ると、過剰雇用で非効率な官僚機構が目に付く。これはナセル時代に、大学/職業高校の卒業生を全員、政府・公共部門に採用する雇用保障政策にある。

-専制のルーツ
・アラブには「腐敗なき抑圧」の例がある。18世紀末オスマン帝国のシリア地区の代官ジャッザール・パシャの「残忍だが公正な支配者」の民話がある。彼はナポレオンのパレスチナ侵攻を止めた人物である。彼は農民に「スイカを盗まれて困る」と言われ、「スイカに釘を打て」と指示する。彼はスイカを盗んで売った盗賊を捕まえ、頭に釘を打った。
・日本には「お上に訴える」制度があったが、アラブにも同様の「特別法廷」があったが、今は訴える「お上」(スルタン、カリフ、イマーム)が存在しない。

・ナセルは「公正な独裁者」と云われ、腐敗とは縁がなかった。しかしサダト=ムバーラク時代の抑圧体制は彼が作った。
・19世紀中東地域は列強がしのぎを削る場になり、民族独立の闘争が行われた。独立を勝ち取った後は冷戦の時代になった。この厳しい国際政治環境が、各国で専制政治を生んだと考えられる。さらに理不尽なパレスチナ問題を押し付けられ、さらにこの地域には石油資源の偏在がある。
・これらの厳しい国際政治環境により、「諜報機関が国家の基本」(※説明なし)とする考えが生まれた。ナセルは英国が作った諜報機関/治安組織を増強する。しかし専制政治は国際政治環境だけが原因ではなく、「七月革命」の目標を達成するために生まれたと考えられる。これについては次章で論じる。※次章かい。

・次章に入る前に、幾つかの問題を整理する。1つ目は「イデオロギー国家の破綻」である。これは1967年「第三次中東戦争」の敗戦で生じたが、これによりアラブ民族主義は空文句となり、専制・抑圧だけが残った。これがサダト体制/ムバーラク体制である。「イデオロギー国家の破綻」は腐敗を進行させた。
・2つ目は、「イデオロギー国家の破綻」によりイスラム主義が台頭した。サダトはイスラムを政権の正当化に利用し、イスラム運動の成長を助けた。これによりコプト派キリスト教徒に対する迫害など、宗派紛争が頻発するようになる。これは「軟性国家」の特徴である。「今回の改革」では宗派間の共存を可能にする「強い国家」を目指している。

<革命の行方>
○ナセルの七月革命の再検討
-歴史の回り舞台
・歴史は繰り返されるイメージがある。「七月革命」も「今回の革命」も、民衆蜂起が作り出した革命的状況を、軍人が秩序を与えた点で似ている。また「七月革命」はナポレオンに抵抗したムハンマド・アリーの革命(近代エジプト最初の革命)にも似ている。しかし歴史はらせん状に回っている。

・「今回の革命」は「七月革命」の体制を否定し、「リベラルな立憲王制」に戻そうとする動きである。それは2005年大統領選と2011年に予定されていた大統領選の立候補者から窺われる。一方でナセル時代に郷愁を感じる民衆も少なくない。しかしナセルのアラブ社会主義に戻る事はないし、ナセル時代に始まる秘密警察は、今回の改革の最大の打倒目標である。

-長すぎた移行期
・今回の改革は、1968年学生・労働者の反政府運動に始まる。これによって時代が動くかに思えたが、逆に体制により運動は抑圧された。サダトは見せかけの複数政党制を行った。門戸開放政策で経済を自由化するが、これもアラブ社会主義を全面転換するものではなかった。世銀/IMFの勧告も大衆暴動を口実に、先送りした。要するにサダト=ムバーラク時代は、「七月革命」体制からの「長過ぎた移行期」でしかなかった。そして抑圧と腐敗が結び付く時代となった。
・ポスト・ムバーラクには、この中途半端な状況からの脱却が要求され、ガマールは新自由主義路線を強行するが、その結果が「今回の革命」となった。

-成功した改革者達
・「七月革命」は革命諸勢力(同胞団などのイスラム主義者、共産主義者など)からすればは、軍人により捻じ曲げられ、革命ではなく軍事クーデターでしかない。しかし政治エリートは交替し、政治システムは刷新され、斬新な経済政策が打ち出された。旧特権層(地主層)は、政党の廃止/農地改革により政治的・経済的権力を剥奪された。さらにナセルは議会制民主主義を圧殺し、「公正な抑圧者」となった。
・ムハンマド・アリーは古代からの灌漑制度(?)を全面的に転換し、ナセルはアスワン・ハイダムを建設した。これは人間によるナイル川支配の開始点と終着点である。
・ムハンマド・アリーの改革も「七月革命」もアラブ地域に大きな影響を与えた。「今回の革命」が果たして新しいモデルを掲示できるだろうか。※もう8年経つが、現状はどうなんだろう。

-民族独立の追求から抑圧国家へ
・「七月革命」と「今回の革命」は類似点は多いが、政治的・経済的要求は大きく異なっている。「今回の革命」は「腐敗と抑圧の一掃」を第一目標とするが、その先行きは不透明である。
・一方「七月革命」の目標は「完全なる独立」で、その民族的目標を達成するための手段として抑圧体制が生まれた。第二次世界大戦後、民衆の運動は高揚し、1951年政府は対英同盟条約を廃棄する。スエズ運河地帯ではゲリラ闘争が激化し、1月25日警察隊の殉職事件が起こり、この日が「警察の日」となる。「今回の革命」では警察の腐敗/不正に抗議し、この日が決起日になったのは皮肉である。
・1952年1月25日の事件は翌日カイロに飛び火し、大暴動に発展する(カイロ放火事件)。事件後3回も内閣が交替している。7月23日ナセルら自由将校団が軍事クーデターを決行する。ここまでの過程は「今回の革命」と類似している。

・「七月革命」の目標は「完全なる独立」だったが、自由将校団は民衆の蜂起が作り出した混乱の原因は、「立憲王制の下での国王と政党の泥仕合にある」とし、政治システムの刷新を目標とした。すなわち「今回の革命」は「抑圧体制の打倒」が目標だったが、「七月革命」は「完全なる独立」が第一目標で、「共和制の樹立」(?)は二次的な目標であり、手段だった。しかし「七月革命」後は、二次的な目標のため一次的な目標が利用されるようになる。

○軍は革命を管理する
-軍の介入
・2011年1月25日民衆の抗議運動が始まり、その4日後(1月29日)秩序維持のため軍隊がタハリール広場に導入される。その前日、政府側は治安部隊/バルタギー(ならず者)を送り、民衆の命を奪っている。インターネットの切断を行ったのも、この日である。その後秘密警察の長官オマル・スレイマーンが副大統領に任命される。2月2日政府側が「ラクダの戦い」を起こしている。そして2月11日ムバーラクは大統領を辞任する。

・これと同時に「最高軍事評議会」(※以下評議会)が開かれる。本来は国防のための会議であるが、政治的・行政的な評議会となった。「七月革命」では、クーデターから半年後(1953年1月)に「革命評議会」(正確には革命指導会議)が開かれている。
・評議会議長には大統領が就く規則だが辞任したため、国防相兼副首相のムハンマド・タンターウィ陸軍大将が就いた(※副大統領ではないんだ)。2月13日評議会は人民議会/シューラー議会を解散し、1971年憲法を停止する。新しい内閣を組閣し、評議会は超憲法的な存在になった。「七月革命」でリベラルな1923年憲法が廃棄されたのは、「革命評議会」と同じく半年後であった。※今回は素早いな。運動が統制されていたからかな。
・「今回の革命」では評議会は政権移行の中立的な立場にあるが、「七月革命」の革命評議会は、ナセル中佐を指導者とする革命の主役だった。

-軍の政治的野心
・評議会は「軍は国家を運営しているが、統治していない」と表明し、軍事クーデターが起きる事を否定している。また「七月革命」後、3回目の戒厳令だが、「任務が終了すれば、撤収する」と表明している。また「大統領候補に現役の軍人は立候補しない」とも表明している。
・確かに今回の評議会は「七月革命」の主役であった自由将校団と年齢構成などで大きく異なる。しかし若手将校が軍事クーデターを起こす可能性はゼロではない。

・空軍出身のムバーラクの最大のライバルはアブーガザーラ国防相兼副首相だったが、彼を追い落とし、ムバーラクは軍を掌握したように見えた。しかし「今回の革命」で、陸軍が隠然と勢力を維持していた事が分かった。しかし軍が一枚岩か否かは、今後の動向を見ないと分からない。
・「七月革命」では、1954年「三月危機」で多くの将校がナギーブ大統領側に走った。ナセルはこの危機を乗り越えると軍から同胞団員/共産主義者を排除している。

・憲法を改正する上で、軍のシビリアン・コントロールが問題になっている。現在の治安を思えば、これは将来の課題に思える。報道番組での「軍にも説明責任がある」の問いに、軍は「表現の自由(※知る権利?)と組織の尊厳のバランスが重要」と答えている(詳細は後述)。

-人の良い将軍達
・ここで事実上の国家元首であるタンターウィ評議会議長を見てみる。彼は「七月革命」で担がれたナギーブ大統領と似て穏和である。スーダン国境に住むヌビア人出身でも共通している。著者は陸路でスーダンに旅行したが、ナイル川を遡るほど、人が良くなる。ナギーブは国民に大変人気があったが、強権体制を築こうとするナセルと対立する(三月危機)。
・米国がタンターウィ将軍(評議会議長)をどう見ていたか、例のウィキリークスの資料にある。「彼は寛容な人物で、変革には抵抗している」「ガマールが進める新自由主義路線に反発している」とある。これらからアラブ社会主義に親近感を持つ守旧派と考えられる。

-七月革命体制と軍の利権
・「七月革命」では、自由将校団のメンバーが次々に入閣した。副首相兼内相(ナセル)/国民指導相/通信相などである。さらに軍の将校450名が軍を退役し、官僚の要職に就いた。※完全に乗っ取り(軍事クーデター)だな。

・サダト時代になると、サダトはナセル時代の政権エリートに引退を迫り、閣僚にテクノクラートを登用した。これにより独裁色が強まり、サダトは絶対権力者になった。
・政界を去った軍人達はビジネス界に進出した。特権を利用し、門戸開放の恩恵を受けた。当時は兵器/家電/食品/電子機器などの産業が維持拡大しており、特権を利用した。新自由主義への反発に、これがある。

・「今回の革命」では、11月「憲法文書」(?)が発表されたが、それに「軍事予算への不介入」が含まれていた。これは軍政継続への批判を高めた。
・警察が治安維持を放棄したため、軍が社会秩序の維持を担当している。そのため軍を批判したブロガー/ジャーナリストを拘束したり、抗議運動した女性を拘束したため、軍政への批判が高まっている。
・軍は政権移行のポーズを取っている。しかし3月国会解散/6月地方議会解散など、行政裁判所の判決に先行する決定を行っている。これは超憲法状態とは云え、司法制度を蔑ろにした態度である。
・3月30日「憲法声明」(?)を発表しているが、これに「議員の半数以上を労働者・農民から選出する」条項が維持されている。これはアラブ社会主義的な条項で、軍が「七月革命」体制の擁護者である本音を示しており、革命にブレーキを掛ける懸念がある。

-米国との関係
・8月ムバーラク前大統領の公開裁判が始まった。「七月革命」では、ファールーク国王は廃位され、クーデターから2日後に米軍に護衛され、国外に送り出された。これは軍と米国が密接な関係にあったからである。「今回の革命」でもタンターウィ国防相/アナーン参謀長は米国と緊密に連絡を取っている。
・70年代エジプトの兵器はソ連製から米国製に転換した。1972年2月ソ連軍事顧問団の国外退去が転換点とされる。その後湾岸戦争での多国籍軍参加など、双方を繋ぐパイプは太い。
・ただし「今回の革命」では、米国は当初は中立の立場を取っていた。それは同胞団が台頭し、イラン型の革命になる事を恐れたためと考えられる。ムバーラク政権を見限ったのは、2月3日頃からで、オバマ大統領は「ムバーラクの古いやり方は通用しない」と警告し、翌日クリントン国務長官は「民主主義への移行は必然」と述べている。

・一方、革命勢力も米国に考慮し、タハリール広場で米国を批判するスローガンを控えた。※軍を味方とするスローガンがあったり、革命勢力は統制されていたのかな。
・ムバーラクが大統領を辞任した翌日(2月12日)、タハリール広場に「Yes We Can Too!」のプラカードが見られたが。米国が大統領辞任に、どれほど関与したかは不明である。
・米国はエジプトの民主化を評価する態度に転換した。クリントン国務長官がタハリール広場で革命を賛辞したり、革命の発火点となったハーレド・サイード君の家族をワシントンに招待している。しかし両国の関係は以前ほど良好ではない。

・ここでNGO支援問題に触れる。運動組織が外国から支援を受けているとの疑惑である。しかしこれは、彼らが余りに政権(評議会)を批判するので、「外国の手先」と名指ししていると考えられる。これは政権の常套手段でもある。※香港はどうなんだろう。あれには華人の支援があるかな。
・米国との関係に戻る。しかし「七月革命」当時は冷戦初期で、今とは国際環境が大きく異なった。米国は社会改革に期待するが、農地改革には反対する。また核兵器に反対する新首相の就任に介入している。さらに農地改革など社会改革に影響を与えた知識人の入閣にも介入している。
・米国が露骨に内政干渉するのはエジプトだけではなかった。1953年8月イランではCIAの工作により、モサッデグ改革政権が転覆させられている(前述)。この事件もあり、ナセルは米国の工作を必要以上に警戒していた。

○ムスリム同胞団の迷い
-七月革命と同胞団
・「七月革命」と同様、「今回の革命」でも同胞団は主要な役回りを演じている。「七月革命」では、最初は軍事政権と同胞団は同調していたが、結局は激しい権力闘争になる。
・「七月革命」当時、同胞団は創設者ハサン・アルバンナーの暗殺(1949年)で分裂していた。同胞団の準軍事組織「秘密機関」への報復として、警察はアルバンナーを暗殺した。これ以降警察は同胞団をテロ組織として監視し続けている。

・当初は同胞団は自由将校団の政策(農地改革、1923年憲法の廃棄など)を支持した。当時自由将校団の政敵は、「1919年改革」を指導した民族主義のワフド党だった。軍事政権は腐敗容疑や農地改革(ワフド党は地主層が中心)でワフド党を追い落とし、1953年1月全政党解散令で息の根を止めた。一方同胞団は宗教団体として登録され、解散は免れた。
・軍事政権はワフド党を壊滅させると、矛先を同胞団に向けた。ナセルは同胞団の「秘密機関」が主流派/反主流派に分裂すると、それに介入した。主流派はナギーブに接近し、これが1954年「三月危機」となる。
・ナセルは同胞団などを制圧するため、大衆を動員する官製組織「解放機構」を結成する。1953年1月25日1年前の警察隊の殉職事件を記念して、「解放機構」が動員され追悼集会が開かれる。これが軍事政権で最初の大衆動員となる。

-ナセル政権下の同胞団
・当時大学では同胞団/共産主義運動/ワフド党前衛(青年組織)が勢力争いしており、「解放機構」が割り込む余地はなかった。その後「解放機構」は、1956年「国民連合」、1962年「アラブ社会主義連合」に発展し、さらに”上からの多党化”により官製政党「国民民主党」になる。
・国民民主党は最後の選挙(2010年11~12月)でも圧倒的多数の議席を確保した。しかし「今回の革命」で本部の建物は焼き払われ、4月行政裁判所により解散させられる。

・ナセルの軍事政権が同胞団などを制圧するための活路としたのが労働運動だった。農村に対しては農地改革を断行した。1953年7月失業者登録制度などの新労働政策を発表し、労働運動に接近する。ナセルは労働運動を大衆動員の道具として使うようになる。
・60年代、大企業/銀行は国有化され、社会主義政策(最低賃金、労働時間規制、雇用保険)が取られた。この恩恵を受けたのは公共部門の従業員であった。さらに議員の半数は労働者/農民とされた。※方向は社会主義専制国家かな。

・ナセルが同胞団/共産主義運動に勝利した要因は労働運動より、治安機構やメディア(新聞、ラジオ)の利用である。「七月革命」直後、既成政党の機関紙を発行禁止にし、旧政党紙を買収して政府系の「グムフーリーヤ(共和国)」を発行させた。60年代には、主要な新聞社/雑誌社を国有化する。老舗新聞社の「アハラーム(ピラミッド)」「アフバール(ニュース)」を国有化し、「グムフーリーヤ」と三大紙体制とする。※ロシアみたい。

・1954年「三月危機」はナセルにとって、文字通り危機であった。ナギーブ大統領辞任に対する抗議運動に同胞団は大衆動員し、自由将校団の一部も離反した。「三月危機」は単なる権力闘争ではなかった。ナギーブの支持者は、革命前の複数政党制による議会制民主主義への復帰を求めていた。
・ナセルは労働運動の支援を受け、軍内部での権力闘争でも勝利する。1955年10月アレクサンドリアでナセル暗殺未遂事件が起き、これを口実に同胞団を弾圧する。
・この時期ナセルは共産主義運動と和解している。しかし1958年イラクで共産主義と関係が深いカーセム将軍が軍事クーデターを成功させる。ナセルは共産主義を警戒し、共産主義運動への弾圧を開始する。「七月革命」体制は、ワフド党/同胞団/共産主義運動の弾圧・排除によって形成された。
・農地改革の断行/アスワン・ハイダムの建設に見られるように、ナセルには経済開発への強い意志があった。彼は強権体制を維持するためポピュリズム的な政策を取った。よって「七月革命」体制は、開発主義と福祉主義を調和させたエジプト的国家主義であったと云える。

-軍と同胞団
・「今回の革命」に話を移す。評議会と自由将校団の政治的志向は大きく異なるが、今回も軍事エリートは同胞団に対し同様の対応を取るのだろうか。タンターウィ議長は同胞団を純粋に治安面・軍事面で警戒していると思われる。
・3月19日憲法改正に関する国民投票で、同胞団は評議会に同調した。一方革命勢力の若者/左派・リベラル政党は根本的な憲法改正を求めて反対した。そのため彼らは「憲法が最初」キャンペーンを行った。面白い事に、軍は彼らの要求を聞き入れ、議会選挙の延期などを決めている。
・これに対し議会選挙で機先を制したい同胞団は、「議会選挙の延期は軍政を長引かせるだけ」と批判している。「七月革命」と同様に軍と同胞団が対決するのか、著者はそうならないと考えている。

-同胞団内部における新世代の台頭
・今回も同胞団は内部対立している。「七月革命」の時は創設者アルバンナーの後継問題だったが、今回は世代間のギャップである。1996年若手が政治参加のため「ワサト(中道)党」を結成した。「今回の革命」でも「同胞団の若者」を名乗り、左派・リベラル勢力と共闘した。その後同胞団の主流派が「自由と公正党」を結成している。
・また同胞団を政治活動が行える合法団体とし、イスラム教育機関アズハル学院やイスラム行政を統括するワタフ省と協力関係を作るべきとの意見もある。16年振りにシューラー(諮問)評議会が開かれ、ムルシド(教導者)事務局の公開選挙が行われ、60年振りにムスリム姉妹団の大会が開かれた。この様に指導部と若者の意見は大きく異なっている。
・こうした内部対立により5つの政党が生まれた。主流派の「自由と公正党」「ナフダ(覚醒)党」「リヤーダ(パイオニア)党」「平和発展党」「エジプト潮流党」である。

・「七月革命」ではムルシドの後継問題や準軍事組織「秘密機関」の抗争が起きたが、今回の分裂は政治参加の在り方やイスラム体制の理想像の違いである。
・同胞団はエジプト政治で最重要な組織であるが、次の議会選挙でテロを放棄したイスラム団/ジハード団、左派・リベラル諸政党との連合が重要なポイントになる。

-イスラム主義からポスト・イスラム主義へ
・80年代同胞団は野党「社会主義労働党」(直接行動主義の「青年エジプト」の後継組織)と選挙協定し、「イスラム、それが解決だ」を掲げていた。しかし今はこのスローガンを世俗主義のワフド党(サダト時代に復活)との選挙協力に使えなくなっている。
・しかし使えなくなった理由に同胞団自身の変化もある。ハッド刑(量刑を変更できない身体刑)への反発が出るなど、革命の継続・発展が第一で、イスラムの理想である社会的公正/自由/民主的体制の実現を目標とすべきとの意見がある。これらは「ポスト・イスラム主義」と呼ばれている。

-宗教国家か、市民的国家か
・革命若者連合(?)/諸野党から「同胞団国家にしてはならない」と批判され、同胞団は「既に憲法上はイスラム国家である」と反発している。これはサダト時代に改定された憲法第2条の問題である。「自由と公正党」党首は、「市民的国家を求める」と発言しているが、この背景に「イスラム国家は市民的国家である」がある。※トルコでも揉めた歴史がある。

-伝統的イスラムの役割
・「イスラム国家か、市民的国家か」の論争に、イスラムの最高権威アズハル学院のアハマド・タイイブ総長の言動が注目される。6月彼は政治的見解を文書で発表し、その会見で「エジプトは近代的な民主国家であるべき」「近代の立憲民主国民国家は、三権分立の憲法に依拠すべき」と発言している。
・この発言を「七月革命」と比較するのも面白い。軍事政権にすり寄ったと云えるが、ワタフ相は「一党制はイスラム的制度ではないが、イスラムの精神に近い」と述べている。「青年エジプト」幹部の情報相も一党制を主張している。

・60年代初め、ナセルはアズハル学院をイスラム諸学以外を教授する総合大学化を行っている。これは上からの近代化の一つであった。ただしアズハル学院も国家に組み込まれる事で、地方に公立学校として拡大できた。これにより70年代イスラムは復興する。
・一方で大ウラマー評議会が廃止され、アズハル学院総長が大統領任命制になるなどの統制を受けた。今日ではアズハル学院の国家からの解放が議論されている。
・「今回の革命」で政治の舞台に姿を現したのはアズハル学院だけではない。スーフィー教団/シーア派/アシュラーフ(予言者の子孫)集団である。スーフィー教団は組織力があり、警察から警戒されている。彼らは過激なイスラム主義に反対し、共同行動を取っている。※イスラム集団は一杯あるな。
・基本的には、①伝統的なアズハル学院/スーフィー教団、②同胞団/急進的なジハード団・イスラム団/サラフィー主義者が対立している。しかし両勢力が常に対立している訳ではなく、協力する場合もある。

-サラフィー主義者の登場
・「今回の革命」後、サラフィー主義者が目立った行動を取るようになった。ただし政治的見解が不安定で、政治的に成熟していると言えない。彼らは下級ウラマー(イスラム学者)が主体の草の根組織である。
・「今回の革命」はカイロ/アレクサンドリアが中心であった。地方都市の情報は少ないが、スエズ市/上エジプトの主要都市/砂漠地帯の中心都市ハルガ市で闘争があったとされる。シナイ半島では天然ガス・パイプラインが爆破され、軍隊が投入された。この背景にムバーラク時代、地元のベドウィン系住民を疎外し、観光開発された経緯があった。
・農村部には「有力一族」がおり、同胞団の進出は阻まれた。しかしサラフィー主義者はイマーム(指導者)のネットワークを利用し、勢力を拡大している。
・同胞団とサラフィー主義者との選挙協力は決裂したが、同胞団とジハード団/イスラム団との協調関係は続いている。

-コプト派キリスト教徒たちの不安と期待
・コプトはギリシャ語のエジプトに由来する。そのためコプト教徒は「真のエジプト人」の自負を持っている。コプト教徒はエジプト人口の10%程度を占めるとされる。
・「七月革命」と違い「今回の革命」ではコプト教徒の動きが活発である。それはムバーラク時代に度々起きた宗教紛争が遠因と考えられる。しかし3月、上エジプトのコプト教会で同胞団/イスラム団/スーフィー教団が合同礼拝を行うなど、宗派間の連携が見られる。
・コプト教徒は中心となる正統派以外に2派が存在する。その一つ「全コプト機構」は人権団体と協力し、宗派対立を解消する活動を行っている。
・そんな中コプト教徒で、携帯電話大手の社長を務めるナギーブ・サウェイリスが注目される。彼は混乱を収拾するするための「賢人会議」の一員となり、「自由エジプト人党」を結成している。

○憲法改正の動き
-七月革命と憲法
・革命から10ヵ月が経ち、体制はどうなったのか。革命勢力は焦る一方、既存勢力(同胞団、少数野党、国民民主党の残党)は議会選挙の準備を進めている。評議会は超然と政治工程を管理している。
・議会選挙/大統領選挙によって、国はどう変わるのか。ここで注目されるのが憲法改正問題である。議会選挙後、憲法起草委員会が組織される予定になっている。憲法改正あるいは新憲法制定により、第二共和制はどのような体制になるのか。サダトによる「修正革命」により「七月革命」体制は修正されたが、これを第二共和制とする意見もある。

・重要なのは憲法の内容だけでなく、憲法の作られ方も重要である。そのため今回の動きと、「七月革命」での動きを比較する。
・1952年7月23日自由将校団はクーデターを決行するが、現行憲法(1923年憲法)/立憲王制/リベラリズムの維持を誓っている。これは9月「政党再編法」を公布するが、共和党を認めなかった事にも表れている。
・ところが12月には、旧政権エリートとの闘争から憲法廃棄に転換する。1953年1月には国家評議会(最高行政裁判所)の活動が停止され、憲法は廃棄される。そして全政党が解散され、翼賛一党体制へ向かう。2月革命評議会は11条からなる「暫定憲法」を公布する。ここには「全権を革命評議会に委譲する」と規定された。

・1月憲法廃棄と共に憲法起草委員会が組織されるが、この時自由将校団はリベラルな憲法も認める方針だったと思える。大体自由将校団の”自由”は植民地からの解放ではなく、リベラルを意味している。
・ところが翌年憲法起草委員会は、共和制を規定したリベラルな「1954年憲法」を起草するが、これは幻に終わる。評議会は「1954年憲法」を待たず、1953年6月王制を廃止し、共和国を宣言する。※共和制でないのに共和国?

・1954年「三月危機」は権威主義体制に向かう起点になる。この頃憲法に関しては様々な意見があった。制憲議会を開くべき/旧憲法の復帰/保守・リベラル・社会主義の複数政党制にするなどの意見が百出した。しかし自由将校団の覇権確立や同胞団などの反対勢力の粛清に向かう。
・1956年大統領権限が強化された憲法が制定される。その後1964年臨時憲法、1971年サダトによる恒久憲法の制定、1980年イスラム法を法源とする改正、2005/07年大統領選出規定の改正がされるが、強権的な「七月革命」体制は維持された。

-今回の革命と憲法
・「今回の革命」では、実は旧政権側から憲法改正の試みがされていた。大統領辞任の5日前(2月7日)、大統領は1971年恒久憲法の改正を指示し、憲法改正委員会が結成されていた。2月9日序列2位まで(ムバラーク、ガマール)しか認められていなかった大統領選出規定の緩和や、終身大統領を認めていたが任期制とするなどの改正案が発表される。しかし2月11日大統領辞任の発表でこの改正案は廃案となる。

・2月11日大統領辞任が発表されると、2日後(2月13日)評議会は「憲法声明」を発表する。これで人民議会/シューラー議会の解散、1971年恒久憲法の停止が宣告された。さらに2日後(2月15日)憲法改正委員会を結成している。委員長にイスラム主義の知識人ターリク・ビシュリー判事が任命された。彼はリベラルな市民活動家/同胞団/イスラム団などからも信頼されていた。
・憲法改正委員会は発足から11日目(2月26日)に11条の改正案を発表している。この内容は旧体制の憲法改正委員会が作成した改正案に近く、大統領選出規定の緩和、大統領任期の制限、非常事態法の期間制限、対テロ条項の廃止、憲法起草委員会の規定などであった。
・この改正案は3月19日に国民投票に掛けられる事になった。これに対し前述したように、革命勢力の若者/大統領候補エルパラダイ/ワフド党などから反対が起こる。一方国民民主党/同胞団/ワサト党/イスラム主義知識人で大統領候補のセリーム・アワーなどは賛成した。

・国民投票の結果は77.2%の賛成で承認される。投票率は41%で有権者の関心は高かった(※50%を越えていないけど)。軍はこの結果から、1971年恒久憲法の廃止を表明する。しかし3月30日、63条からなる新しい「憲法声明」を発表する。これはイスラム国教条項の護持、労働者・農民の50%枠の維持、女性議員の枠、宗教政党の禁止など、1971年恒久憲法の存続であった。
・これに対しビシュリー判事は、軍政の継続になると批判している。※国民投票の結果を直ぐにひっくり返すとは。軍は保守的かな。

-軍、ムスリム同胞団、若者
・今回の革命では、軍/同胞団/革命勢力の若者の三者が主役である。軍は政権移行の管理者を自称しているが、「七月革命」体制の存続に執着している。これは人民議会/地方議会での労働者・農民の50%枠の維持から分かる。

・同胞団は反主流派や若者が脱退し、多くの政党が結成されたが、着々と選挙準備を進めている。同胞団の支持率は35%あり、議席の45%を確保すると予測されている。しかし内務省/治安機構の性格は変わっておらず、同胞団に対する態度は変わっていない。
・同胞団と選挙協力する可能性があるのが、”元過激派”のイスラム団/ジハード団/サラフィー主義者である。

・革命勢力の若者は未知数だが、統一組織「若者革命同盟」を結成した(※革命若者連合とは別?)。個別組織としては「4月6日若者運動」「自由と公正のための若者」「エルパラダイ・キャンペーン」「ムスリム同胞団の若者達」「民主戦線の若者」「変化のための国民協会」「僕らは皆、ハーレド・サイード」「社会主義的革命家の若者」「国民連合の若者」などがある(※複数省略)。
・いずれの少数野党も地方に地盤がなく、そのためスーフィー教団/コプト教徒が反同胞団として連携する可能性がある。また旧与党の国民民主党の活動も注目される。

-憲法改正の主要な論点
・6月頃からタハリール広場で若者による「憲法が最初」運動が行われた。7月12日評議会は「新憲法の原則に関する文書」を発表する。これには「市民的国家を目指すが、イスラム国教条項は残す」とされた。これにアズハル学院タイイブ総長や大統領候補エルパラダイも同調している。

・著者が9月にエジプトを訪問した時、専門家に4つの質問をした。①「議院内閣制か大統領制か」には、現状では議院内閣制は無理で、大統領の権限を制限した大統領制の意見が多かった。②イスラム国教条項については存続させ、コプト教徒を擁護する条項を別に規定すべきとの意見があった。③地方自治については、中央政府による知事/市長の任命制を選挙制に変えるのには慎重な意見があった。一方で遅れている地方(上エジプトなど)への分権は必要との意見があった。④軍のシビリアン・コントロールについては意見が纏まらなかった。

-2007年憲法改正の再検討
・2007年の憲法改正は大統領職の世襲が目的であったが、別に「アラブ社会主義的な規定の改定・削除」があり、アラブ社会主義的な9つの規定が改定・削除されている。第1条「エジプト・アラブ共和国」の規定では、「民主的社会主義的国家」が単に「民主的国家」に改定されている(※他数ヵ条が解説されているが省略)。これは新自由主義路線を押し勧めていた事と関係している。

-七月革命との決定的な相違
・「今回の革命」でも、軍と同胞団の対立/軍内部の対立/治安機構や旧与党勢力による暴力的行動/権威主義への後戻りなど様々な混乱が考えられる。しかし「今回の革命」ではその様な混乱は起きないと考える。それは民衆運動の質の違いである。「七月革命」の起点となった「カイロ放火事件」は自然発生的な大衆暴動であった。また1977年物価暴動、1986年中央治安警察隊の暴動も無統制の大衆暴動であった。しかし「今回の革命」での民衆運動は、既存の政治組織に操作されず、カリスマ的指導者は存在しないが、統制の取れた集団行動を行った。また警察が街角から去ると、自ら自警団を組織した。
・ムバーラクは「法の支配」を強調してきた。実際は非常事態宣言法などの抑圧的な法律で強権体制を維持した。しかし行政府の判断に、裁判所が違法とする事例が何回かあった。これはエジプトの体制が、権威主義と民主主義を融合した体制であり、これはそれまでの数々の運動の成果である。
・「七月革命」では、当初は自由将校団はリベラルな1923年憲法の枠組みで権力を掌握しようとしたが、最後は権威主義体制に行き着いた。これはやはり当時の社会運動の質に問題があったと考えられる。

・ナセルは治安機構の強化とマスメディアの支配で勝利し、警察国家になった。しかし「今回の革命」の目標は抑圧体制の解体で、通信相は「盗聴の廃止」などを発表している。
・「七月革命」ではメディア(新聞社、出版社)の腐敗キャンペーンが行われ、メディアは国有化された。しかし「今回の革命」で情報省は解体され、新情報相には野党機関紙の編集長が任命され、政府系の新聞・雑誌の編集長は更迭された。しかしメディアの自由化が順調に進むかは楽観できない。

・「今回の革命」で注目されるのが、ソーシャルメディアの利用などのIT革命の影響と国際的な影響である。タハリール広場の若者の一部は、ガンディー思想から書かれたビルマでの独裁政権に対する非暴力抵抗のための小冊子を熟読していた。「40年代世代」「70年代世代」もそうであったように、いつの時代も若者はインターナショナルである。※世界は繋がっている。今回の革命は時代に則した近代革命と云える。

○エジプト革命とパレスチナ問題
-ファタハとハマースの和解
・チュニジア/エジプトで始まったアラブ革命は、共和制/王制や産油国/非産油国を問わず、各国の体制に影響を与えるだろう。また地域の国際関係にも影響を与えるだろう。その代表がパレスチナ問題である。

・2011年5月3日ファタハとハマースの和解が発表され、統一政府の結成が合意された。エジプトの仲介で、ハマースが実効支配するガザ地区とアッバース議長が率いるファタハの西岸地区の分裂が解消された。これにより暫定政府を結成し、2012年5月パレスチナ自治政府(※以下PA)の大統領/立法議会、およびパレスチナ民族評議会(パレスチナ解放機構PLOの議会)の選挙を行う事が合意された。
・この合意に至るまで、ファタハとハマースの長期に亘る交渉があった(※省略)。両者の対立を利用し、2008年12月イスラエルはガザ地区を攻撃し、1300人の犠牲者が出た(ガザ戦争、ガザ虐殺)。
・この合意に影響を与えたのがアラブ革命であった。2011年3月8日ガザ地区でデモが起き、ハマースにより弾圧される。すると3月15日ガザ地区/西岸地区の双方で民衆デモが起き、民衆は「体制の打倒」「分裂の解消」を訴えた。※パレスチナでもあったのか。エジプトの1ヵ月遅れだな。

・5月15日「ナクバ(大災厄)の記念日」(第一次中東戦争の開戦日)、パレスチナ/シリア/レバノン/ゴラン高原でイスラエル占領に抗議するインティファーダが起きた。この蜂起で民衆は「難民の帰還権」を主張した。これは近年イスラエルが「ユダヤ国の承認」「難民の帰還権の全面放棄」を求めているのが背景にある。パレスチナ問題においても、民衆の力は侮れない。

-エジプト新外交路線の発進
・ファタハとハマースの和解はエジプトの新外交路線の輝かしい成果である。「今回の革命」はエジプト人に誇りを取り戻させた。エジプトではパレスチナとの連携が伏流水のように流れている。「ナクバの記念日」の2日前(5月13日)には「国民団結とパレスチナ支援の金曜日」としてデモが行われた。「ナクバの記念日」にはイスラエル大使館前/パレスチナとの国境でデモが行われ、イスラエルとの平和条約の廃棄を訴えた。
・しかし評議会は「全ての条約の遵守」を確約しており、親欧米路線が転換する可能性はない。また革命勢力も反欧米や親イスラム的なスローガンは掲げず、西側メディアを意識していた。

・2月11日エジプト政府は、イラン軍艦のスエズ運河通航を許可した。これは中東で唯一の核保有国イスラエルを刺激したが、政府は1888年「コンスタンティノープル協約」に従うものと冷静に答えた。しかしこれはエジプトの新外交路線を各国に示した。
・エジプトの新外交路線は、3月7日元国連大使ナビール・アラビーの外務相就任で明確になる。彼は3月22日イスラエルが行ったガザ攻撃を非難するなど、「公正に基づく外交」を指針としている。彼はナセル時代の”栄光の外交”の復権を狙っているのかもしれない。
・外交での失地回復は対アフリカ外交にも表れている。イサーム・シャラフ新首相は南スーダンを訪れ、これまで険悪だったエチオピア首相はカイロを訪れている。またアラビー外相はアラブ連盟事務局長に就任している。
・「公正」理念に話を戻すと、旧政権は西岸地区のファタハ寄りであった。ところが新政権はガザ地区ハマース政権の首相をカイロに訪問させ、両者を和解させた。

-イスラエルへの天然ガス輸出不正問題
・革命の最中の2月4日、シナイ半島のパイプラインが爆破された。実は「今回の革命」で最も激しい抗議運動があったのはシナイ半島だった。これにはベドウィン系住民が観光開発から阻害されてきた背景があった。
・運動鎮静化のため800名のエジプト軍がシナイ半島に派遣された。その後和解がなり、「シナイ半島での開発政策を見直す」「シナイ半島出身者を警察アカデミーに受け入れる」などが発表される。
・天然ガス輸出の不正問題は、石油相と大統領の元側近の政商が関与した腐敗であった。シャラフ新首相はイスラエルとの天然ガス供給協定の見直しを表明している。

・「公正」理念から見直された外交政策に「ガザ封鎖の加担政策」がある。4月28日アラビー外相は「ガザ地区の封鎖は恥ずべき政策」として、ラファハ検問所を開放する。これは米国/イスラエルの意向から独立した政策への転換であった。

-パレスチナ問題の今後
・ファタハとハマースの和解は実現したが、3つの地雷がある。①政治プログラムの不在、②治安組織の分裂、③PLO(パレスチナ解放機構)に対する見解の相違である。
・①の主要な問題は対イスラエル抵抗権であるが、これは1993年「オスロ合意」でPAに課せられた治安維持の代行業務と矛盾している。これは②「治安組織の分裂」とも深く関係している。あるNGOは、「分裂は西岸/ガザ双方で”抑圧と結び付いた腐敗”の環境を作った」と報告している。西岸/ガザ双方とも、腐敗を契機に体制改革を求める声が高まっている。※西岸/ガザにも民衆運動があるんだ。”抑圧と結び付いた腐敗”はよく分からない。
・もう一つ危惧されるのがPLOの再編問題である。2012年PLOの議会にあたるパレスチナ民族評議会(PNC)の選挙が行われるが、これにハマース/イスラム聖戦機構が傘下に入るかが焦点になる。

・長期的な展望で問題になるのが中東和平の枠組みである。これは1978年キャンプデービッド合意が出発点だが、これはイスラエルと紛争国が米国の管理下で二国間交渉する方式である(キャンプデービッド方式)。
・エジプトの新外交路線はキャンプデービッド合意との整合性が問題になっている。アッバース議長はハマースとの和解により、パレスチナ国家の樹立を訴える戦略に出てきた。これに対しイスラエル/米国は抵抗すると考えられる。※この節は説明不足かな。まあパレスチナ問題だけで一冊の本が書ける。

-中東域内への革命の影響
・ファタハとハマースの和解の背景に、ハマースを支援してきたイランとエジプトの接近が考えられる(※イランがハマースを支援!?)。1979年イラン革命以来、エジプトとイランは断交していたが、革命直後のイラン軍艦のスエズ運河通航に見られるように、復交への動きが感じられる。一方で湾岸での合同演習を行うなど、アラブ世界での影響力を高めようとしている。
・今回のアラブ革命で湾岸協力会議(GCC)諸国は複雑な動きをしている。バハレーンではサウジ/UAEが治安部隊を送り、民主化デモを沈静化させた。リビアでは早い時期から北大西洋条約機構(NATO)と協力し、カダフィー政権を打倒した。この様にGCC諸国は治安面での協力やNATOへの擦り寄りが見られる。またヨルダン/モロッコをGCCに加入させる動きもある。
・近年中東におけるトルコの影響力も増大している(新オスマン外交)。2011年9月オルドアン首相はエジプトを公式訪問し、アズハル学院タイイブ総長と会談している。エジプトでオルドアン首相の人気が高いのは、2010年イスラエルによるガザ救援船団の爆撃でイスラエル大使を退去させ、軍事協定も停止させた事による。※今トルコはロシアに接近している。
・今後の中東はエジプト/トルコ/イラン/拡大GCC(※中心はサウジかな)の4極構造で、これに米国/NATO/ロシア/中国が絡む複雑な関係になる。※当然イスラエルが最大の課題と思うが。

-歴史の中のエジプト革命とパレスチナ問題
・パレスチナ問題はエジプトだけでなく、他のアラブ諸国にも多大な影響を及ぼしている。パレスチナ問題は3つの時期に区分できる。①1948年「ナクバ」以前で、アラブ諸国は英国とパレスチナ民族運動との間のブローカーを務めていた時期、②PLOを支援し、パレスチナ問題を自国の権威主義的な統治に利用していた時期、③1978年キャンプデービッド合意以降で、アラブ諸国は米国/イスラエルとパレスチナの間のブローカーを務めていた時期。
・エジプトの新外交路線は従属的なブローカーから脱せられるのか。ここで留意したいのが、「今回の革命」の起点が2000年「第二次インティファーダ」への支援運動だった事実である。これが2004年「キファーヤ運動」に繋がった。この「キファーヤ運動」に参加した若者がタハリール広場で「今回の革命」を起こした。

・ナセル時代の標語「闘いに勝る声はない」にあるように、パレスチナ問題はアラブ独裁体制を正当化するために恣意的に利用されてきた。最近の例では、シリアで抗議運動が高まり、アサドのパレスチナ部隊がダマスカス近郊で、運動に参加していたパレスチナ人11人を殺害した(※エジプトの部隊がシリアで行動?こんなのあり?しかもアサド?)。しかしパレスチナ部隊を利用してきたサッダーム・フセイン(イラク)/カダフィーは命脈が絶たれている。

・パレスチナ問題を恣意的に利用する時代は過ぎつつある。そのためには新たな地域政治の枠組みが必要であり、それにはそれを可能にする国内体制が不可欠である。様々な状況に置かれたパレスチナ人の人権を保護・回復させる枠組みが必要である。
・2011年3月国連人権理事会で「イスラエル入植地拡大非難決議」が可決された。9月に予定されているパレスチナの国連正式加盟は認められるのか、日本の対応も問われている。
・アラブ改革は「尊厳の回復」「公正の実現」を目指す試みである。この試みが各国の体制の改革だけでなく、地域の国際関係の不公正を正し、虐げられている人の人権を回復させる事を期待する。

<あとがき>
※資料となった著書、東日本大震災などについて書かれているが省略。

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