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『哲学がわかる 形而上学』スティーヴン・マンフォードを読書。

苦手な分野だが、形而上学について知りたかったので選択。
個別者、性質、変化、時間、可能性などを論じている。

興味が薄いためか、読解力が足りないためか、苦痛な本だった。
ただし解説にあるように、本書を高く評価している。また翻訳の割りには読み易い。

お勧め度:☆(遠慮したいが、マズマズ楽しめた)

キーワード:<机とは何か>性質、束説、関係的性質、個別性、<円とは何か>プラトニズム、唯名論、内属的実在論、<全体は部分の総和か>全体/部分、実体/寄せ集め、還元主義/創発主義、全体論、<変化とは何か>出来事/プロセス、変化、耐続主義/延続主義、<原因とは何か>因果、力能、<時間はどのように過ぎ去るか>現実主義、系列、<人とは何か>身体/心、二元論/唯物論/観念論、心理的連続性/物理的連続性、<可能性とは何か>可能世界、実在性、組み換え原理、<無は存在するか>否定的性質、不在、否定的事実、<形而上学とは何か>科学、観察/経験、<解説>形而上、内容/形式、メタ形而上学

<はじめに>
・形而上学/倫理学/論理学/認識論は、哲学の伝統的な主要な4部門です。本書の目的は、哲学者が形而上学をどのように理解し、実践しているかを紹介する事です。
・本署では、「形而上学とは何か」の問いについては、最後に述べます。本書は単純で些細な問いを考える事から始め、本書を読み終えると、実体/性質/変化/原因/可能性/時間/人の同一性/無/創発などを理解できます。

・「物体とは」「色や形はなぜ存在する」などの形而上学の問いを馬鹿げたものに感じる人がいる。一方で「形而上学はあらゆる学問と比べ際立っている。それは驚きの念を抱かせるからである。そのため形而上学をする事は、最も価値のある事だ」と考える人もいる。

<机とは何か>
・私の周囲には様々な物がある。机/クリップ/ペン/犬/人などである。これらは全て個別的なものである。個別者の概念は重要である。例えば「ペンは自分の物か」と自問したり、「この人は自分の妻か」を知りたいと思う。
・私の前には机がある。色は茶色で、叩けば硬い。これらは机の性質である。つまり私達は個別者の一部の性質を知っているに過ぎない。

-変われど同じまま
・この机を白の方が良いと、白に塗り替える事ができる。「あるものは数的には同じだが、質的に変化した」(数的同一性)と云える。従って、机は様々な性質の背後にあるものと云える。
・マチ針とクッションの関係に例えると分かり易い。マチ針は性質で、クッションが基体である(基体説)。ここで全てのマチ針(性質)を抜いてしまうと、何が残るのだろうか。猫を例とする。猫から毛の色、形、匂い、柔毛などを取り去ると何が残るのか。そこには姿形、何も残らない。
・そのため性質とは別に何らかのもの(※基体かな)が存在するとの考えは、私達を不合理にする。※こんな解釈で良いのか?

-性質の束
・ならば別のアプローチを考える。個別者は「性質の束」とする考え方である(束説)。
・しかし束説が問題なのは、机の色が変わるように、ある性質が失われ、別の性質が獲得される事がある。猫も平らになったり、玉のようになったり、様々な形に変わる。
・机も猫も性質の一部を変化させるが、大半の性質は変わらない。よって個別者は「性質の束」の系列からなると解釈できる。

・前説は個別者は基体と性質からなるとしたが、束説は性質のみからなるとしている。哲学者は単純で経済的な理論を正しいとする傾向にある。

-瓜二つの双子
・しかし束説にも問題がある。スヌーカー(※ビリヤード)で使われる玉は、赤く、球形で、直径52.5mmである。性質の束説だと、これは同一のものになる。量産品の机でも、実際は重さ/色/傷などで少しの違いがあるが、2つの物が全ての性質を共有している。
・これに関し束説には2つの解決策がある。1つは、どんな個別者にも関係的な性質を持つとする解決策である。例えばスヌーカーで云えば、ポケットとの位置関係がある。ある球はポケットから20cmの位置にあるが、ある球はポケットから30cmの位置にある。
※この解決策の問題点が述べられているが、意味不明なので省略。「束説は性質の束を用いて個別者を消去(?)する試みだが、この解決策ではそれができなくなる」みたいな事が書いてある。

・もう1つは、「束説が正しいなら、全ての性質を共有する束は同一になる」とする反論(?)である。「個別者が備える性質は、既に個別性を持っている」とする解決策である。「この束の”赤”と、あの束の”赤”は別個である」とする解決策である。しかしこの解決策の問題点は、個別性を性質に入り込ませた事にある。

・これまでの議論から、「個別性は実在が備える還元(?)不可能な特徴である」が導かれる。
※これで第1章が終わり。超難解。何かオブジェクト指向の解説だな。

<円とは何か>
・「円とは何か」、これに幾何学が出した答えがあるが、ここではそれに触れない。私達の周りには多くの円がある。貨幣/車輪/茶碗などである。多くの個別者が円と云う特性を持つ。

-ぐるぐると円を描く
・私達の周りには様々な物体(机、椅子、自動車、建物、ペンなど)がある。私の机の上にあるペンを例に取ると、これは世界に1つしかない。また所有者は私である。
・しかし円は個別者とは違った在り方をしている。ある場所・ある時間に円が現れても、他の場所にも現れる。※当たり前だろ、円(円い)は形容詞だろ。

・存在者は個別者と性質からなる(※こんな議論なかったけど)。机/椅子などは個別者で、1つしか現れない。一方円いは性質で、様々な場所に現れる。そのため性質を「普遍者」と呼ぶ人もいる。性質には、赤さ/四角さ/毛深さ/溶け易さ/爆発し易さ/背の高さなどもある。

-関係する幾つかの問題
・性質はどのような在り方をしているのか。その前に関係について述べる。性質と関係は区別される。関係とは例えば「父アランは、長男ボビーより背が高い」である。※関係とは同じ性質の比較と思うけど。
・性質に話しを戻す。在り得ない話だが、ある人が世界中の円いものを集めて破壊したとする。しかしそうしても、円はなくならない。

-プラトンの天上界
・この問いにプラトンは答えを持っていた。彼は完全な円は天上界にあり、地上界にある円は、そのコピーとした。彼は2つの領域を考えていた(※これがプラトニズム?)。天上界には様々な性質や関係が存在し、それは人間を超える世界である。例えば2+2=4であるが、これは人間の存在とは無関係に成立する。
・「プラトニズム」では天上界に存在する円が完全な円で、地上界にある円は不完全な円になる。彼はこの真の姿を「イデア」と呼んだ。

・「プラトニズム」では関係も天上界に存在する。例えば”類似している”との関係の「イデア」も天上界に存在するはずだが、彼はそれを説明できなかった(無限後退)。※無限後退について詳述されているが、良く理解できない。
・しかしこの問題に対し、2つの解決策がある。1つは性質の「反実在論」である。これは全ての物を個別者とする論であり、「この世界は性質しかない」とする束説の対極である。

-言葉では何でも言える
・この「個別者しかない」とする説だと性質はどうなるのか。この説は「唯名論」とも呼ばれる。例えば”円さ”は、ただの名前になり、”円さ”は、個別者の類似を表す名前に過ぎない(※ここまでは理解できるが、次の文は理解できず)。類似している仕方や点という言い方は、性質を別名で表したものと感じられる。これは壊滅的な問題となる。
・さらにこの説の問題は、類似は個別者の集団に成り立つ関係、すなわち普遍者(性質)を説明している事になる(※この説は普遍者を否定しているのかな)。ある類似とある類似の説明、さらに別の類似の説明が必要で、この説も「無限後退」が起こる。※超難解。

・「唯名論」にも幾つか種類があるが、個別者を個別的物体ではなく、個別的質と捉える考え方もある。様々な物に見られる”赤”も、様々な物に見られる”円さ”も別のものと考える説である。
・別なものとして捉えられた性質は「トロープ」と呼ばれるが、この説にも問題が生じる。類似と云う「トロープ」が存在するのか、存在するなら、類似「トロープ」はお互いに類似しているのか。※意味不明。

-この世に戻る
・「プラトニズム」にも「唯名論」にも問題があるが、第三の選択肢がある。ラファエロの絵画『アテナイの学舎』には、プラトンとアリストテレスが描かれているが、プラトンは天上界を指し、アリストテレスはこの世(地上界)を指している。プラトンは「性質は天上界にある」としたが、アリストテレスは「性質はこの世にある」とした。

・アリストテレスの考え方は「内属的実在論」と呼ばれる。彼は「この世に完全な円はなく、不完全な円の存在を認めるべきだ」と考える。この考え方は、”円い”などの性質は、現在だけでなく過去/未来を含めて存在する「個別例」として考える。※さらに詳しく論じられているが省略。
※やっと第2章が終わった。こんな事に頭を悩ましたくない。

<全体は部分の総和か>
・私達の周りの物は複数の部分から構成されている。携帯電話は多くの部品からなり、ラットも様々な部分からなり、単純そうなオレンジでも様々な部分からなる。形而上学では「ある物体は複数の部分からなる複合体である」となる。ここで「複合的な物体は、諸々の部分の総和なのか」が問われる。
・私達は「多くの複合体は、部分を持たない”単純なもの”からなる」と考えている。しかし人類は原子を発見し、さらにそれを構成する粒子を発見した。この様に”単純なもの”が存在すると信じる事は間違いなのか。※当然間違い、無限に部分化・細分化できると思っている。何か章題と内容がズレていそう。

-部分の中に、また部分
・この世には、部分化できない”単純なもの”が存在すると信じている人がいる。これには原子論の存在がある。原子には分割不可能の意味がある。ただし化学的には原子は陽子/中性子/電子からなる。哲学ではこの原子論者が存在する。

・本題「全体は部分の総和か、部分の総和以上か」に戻る。この問いは奇妙に思えるかもしれないが、哲学的には重大な意義がある。
・”石の山”は石と云う部分からなるが、”石の山”は1つの石の大きさを超える高さを持つ。※当たり前だろ、”石の山”と云う全体は”高さ”と云う属性を持つ。
・次に携帯電話を例にとる。携帯電話の全長は部分の総和で求められる。ところが携帯電話の全ての部分が、通話機能/カメラ機能/音楽再生機能を持っている訳ではなく、全体としてその機能を提供している。※そんな物は無限にある。人間も目だけで物は認識できない。

-うそ偽りのない、真実の全体
・前節で”石の山”と携帯電話を例に挙げた。これらから哲学者は実体(統合された全体、携帯電話)と寄せ集め(石の山)があると考えた。
・”石の山”は1つの石を取り除いても、1つの石を積んでも別の”石の山”になる(※オブジェクト指向だと、同じ場所にあるので、同じ”石の山”)。一方携帯電話は、カバーだけを替えても、その実体は変わらない。

・本章のこれ以降では実体(統合された全体)を扱う。これには取り組みがいのある問いが幾つかある。まず「全体が持っている機能を、部分から説明できるか」である。
・携帯電話の各機能がどの部分によるものか、私達は知らない。しかし技術者はどの部分がその機能を提供しているか知っている。その意味で「全体(携帯電話)は部分の総和」と云える。※当然だが、生物は部分化が難しい。
・しかし「ある種の質(※性質?機能?)は特殊のため、実在の高次レベルで創発する」(※意味不明の言葉が連発。「特殊な機能は、複雑な物体が提供する」かな。高次レベルとは生物/電子機器などかな)。生命は生命体全体に備わる機能である。人間は思考し、痛み/痒み/色などを感じる事ができる。これに関し脳が注目されるが、「心的なものは自然の世界の特定レベルで初めて創発されるもの」なのか。※何に悩んでいるのか分からないが、読み進めよう。※生物学などで”創発”と云う言葉があるんだ。

・この問題に対する立場は2つある。1つは「還元主義」である。意識がどの様な仕組みで生じるか完全には解明されていないが、いずれ科学者が解明するだろう。部分によって全体が説明される事例は沢山あり、「還元主義」に魅力を感じる人は多い。※これは普通の考え方と思う。
・もう1つの考え方が「創発主義」である。私達が脳の仕組みを解明したとしても、意識と云う現象や、ある事を経験した時の主観を予測する事はできない(※当たり前、脳の回路は千差万別)。例えば赤い物を見た事がない人は、赤を知らない(※当たり前、経験の蓄積で赤と認識する)。「創発主義」は「何が私達に驚きを与えるか」の理論ではなく、「何が存在するか」の理論である。※何か着いて行けない。
・これらのどの主義が正しいとする理論はまだない。しかし私達は、科学が私達を驚かせる事を知っている。※結局科学が解明するって話し?

-基礎を求めて、何が楽しい
・世界を探求する描像は2つある。1つは逆ピラミッド型(※ツリー型)である。最下層に素粒子などの基礎物理学があり、その上に化学などの諸科学があり、その上に生物学があり、さらにその上に心理学/経済学/社会学/人類学がある。還元主義者が考える描像である。

・これに対立する描像が、科学は互いに独立性を持つとする描像である。例えば生物学では、生物学的真理を生化学的真理に還元しようとする人は、DNAに還元し、さらに化学的真理に還元し、救国的には物理学的真理する(※還元主義者かな)。しかしこの主張に対し、「部分の総和に尽きない全体として、生物を説明しなければならない」事を示す根拠が存在する。例えば進化論の自然選択説(例:キリンは首が長いほど、食べ物を得られる)は、かなりの高次の性質で、DNAとは関係ない。※難しい文章。そりゃあ、生物学の全ての分野がDNAを基礎にしている訳ではない。
・全体としての生物は、全体レベルで必要となるもの(?)を得る手段として、DNAを利用している。ところが実際は、生物の生き死に/捕食/生殖などは生物全体で行っており、DNAが行っているわけではない。散歩しているのは人であり、DNAや有機体では不自然である。
・これらの考察は「全体論」と呼ばれる。「全体論」は、「全体は部分に対し先行性を持つ」とするアイディアである。全体論者は、進化における選択を事例に出し、「全体についての事実が部分についての事実を決定している」と主張し、「全体は単なる部分の総和と配列には尽きない」と主張する。

・”心の哲学”でも”生物学の哲学”でも、還元主義と創発主義との論争が中心にある。
※物体が提供する機能には、部分で完結し提供するものと、全体で完結し提供するものがあるだけでは。

<変化とは何か>
・これまで個別者と性質について議論してきた。しかも中間サイズの物体を例にしてきた。これでは全てのものを記述した事にならず、懸念となる。
・茶碗/猫/机などの個別者があり、赤さ/脆さ/四脚性などの性質がある。だが、人が頬を赤らめる、毛虫が蝶になる、鉄が熱くなる、本が机から落ちる、などの変化は何なのか。日光によりトマトが成熟する、第二次世界大戦、赤ん坊が老人になる、宇宙の開闢と終焉、などの出来事/プロセスは何なのか。存在者の個別者/性質の記述だけでは不足している。そこで存在者に変化(出来事、プロセス)を加える。

-何が起きているか
・出来事とプロセスは異なるのだろうか。まず出来事を考えてみる。出来事には2つの捉え方がある。1つは静的な事を許容する捉え方である。例えば「正午にドアの色が茶色であった」事を出来事とする捉え方である。これは事実に近い。本書ではこれと違い、変化があった場合を出来事とする。出来事は1つの変化であるが、プロセスには多数の変化が含まれる。
・また出来事には「部分-全体関係」がある。例えば隣人に「おはようございます」と言う出来事には、「おはよう」と言う出来事と、「ございます」と言う出来事が包含されている。※そうすると、「出来事は1つの変化」とするのが難しくなる。

・プロセスは長時間に亘る多種多様な変化である。第二次世界大戦にはスターリングラードの戦いが包含されている。さらにスターリングラードの戦いには、複数の銃弾の発射が包含されている。
・以上より、出来事とプロセスは類似しており、両者の区分は曖昧である。ただプロセスには2つ以上の変化があり、その順序が重要である。※この項は同意できる。

-変化を被りうるものはあるか
・第1章で個別者を論じた時、数的同一性を導入した。※同一性について述べられているが、理解できないので省略。
・2010年髪の生えた男がいて、2020年髪の生えていない男がいた。二人が同一人物なら、ある男の頭が禿げた(変化した)事になる。「変化は主体を必要とする」、これはアリストテレスの考え方である。
・規模の小さな変化は以上と同様な事が言える。しかし第二次世界大戦のように規模の大きな変化の主体は何なのか、世界なのか。またスヌーカーのように、変化の主体が複数に及ぶ事もある。ある球はエネルギーを失い、ある球はエネルギーを得る。

・変化には様々な種類がある。ある性質の獲得/喪失、何かが存在し始める/存在しなくなる(※個別者の生成/消滅も変化か)、性質の持ち方が変わる(※不明)などがある。
・あるトマトは丸かったが、トラックに踏まれて平らになった。この変化は丸さを失い、平らさを得た1つの出来事だったのか、それとも丸さの喪失と、平らさの獲得と云う2つの出来事なのか。※オブジェクト指向だと、このトマトの属性”形状”が、”丸い”から”平ら”に変わった1つの出来事になる。
・あるキュウリが20cmから30cmに成長した。これはキュウリの長さが漸進的に20cmから30cmに変わった事になる。※これはオブジェクト指向だと、このキュウリの属性”長さ”が20cmから30cmに変わった事になる。長さを時系列で追いたいなら、属性”計測時刻”を加わえる。
・変化には「存在し始める/存在しなくなる」もある。しかしこれは混乱をもたらす。自動車工場で新しい自動車が組み立てられた。この自動車は誰かに乗られ、その後スクラップ工場で分解された。自動車は諸々の部分から組み立てられ、また諸々の部分に分解されたに過ぎない(エネルギー不変の法則)。

・しかしこのアリストテレスの「ある主体は、様々な変化に耐え、存在し続ける」(耐続主義)の考え方は問題視されるようになった。これは空間と時間の類似性が強調されてきた事による。人間には腕/心臓/つま先など様々な空間的部分がある。またある一定の時期だけに存在した時間的部分もある。※この考え方は間違いと思う。空間と時間は別。
・アリストテレスは「物体は変化を通じて耐続する」としたが、今の一部の哲学者は時間的部分を持ちだし変化を説明しようとしている。例えばトマトが”緑色であった”と”赤色であった”や、キュウリが”20cmであった”と”30cmであった”の両立不可能な性質を、それぞれ時間的部分とする。これで”緑色であった”や”赤色であった”などの両立不可能な空間的部分を許容できる。※変な理論。それとアリストテレスの理論を否定したとは思えない。

-余すところなく現れる
・アリストテレスの考え方では、その性質が”余すところなく現れており”、「このトマトは赤い」となる。一方の考え方では、「このトマトの時間的部分は赤い」となる。
・アリストテレスの考え方は「耐続主義」と呼ばれる。この考え方では、「このトマトは先週は緑色だったが、今週は赤色である」となる。これは時点と云う別のものに相対的に所有(?)され、コストを伴う。

・一方「時間的部分が存在する」とする考え方は「延続主義」と呼ばれる。これは「物体は時間を通じて延び広がっている」と主張しているためである。時間的部分を認める事で、他の要素(※?、例えば別の色?)が入り込むのを避けている。※両者の違いは、時が物体の外部にあるか内部にあるかの違いである。オブジェクト指向では時は全物体に存在するので、前者(外部)が正しいと思う。
・「延続主義」では、わずかな変化でも、それを時間的部分として存在させる必要がある。「延続主義」で変化を説明するには、静的な性質を持つ系列を存在させる必要がある。これは昔のフィルム映画に類似している。フィルムの1コマは静止画で、これを速いスピードで投影する事で、変化を表現している。

・しかし「延続主義」の正しさを疑わせる根拠が幾つかある。1つは「変化の否定」であり、もう1つは「物体は時間的部分の系列である」自体の問題である。
・「延続主義」では、物体は静的な部分の系列からなる構築物となり、諸々の時間的部分の間に適切な関係を探さなければならない。※そこに関係が必要?時間しかないだろ。
・2010年髪がふさふさの男と、2020年禿げた男が同じ人である事に限って、変化が起こったと云える。同一性を示す事は、髪がふさふさの男と禿げた男が適切に関係している事を示す事であり、これに決定的に依存している。※難解な文章。
・「延続主義」は、諸々の時間的部分を適切に結び付ける課題を抱えている。私達が見るなめらかな変化は、「延続主義」では静的な部分の系列になる。そんな不連続な変化を信じるだろうか。
・ここにおいて「耐続主義」が再評価される。「耐続主義」では、連続的で時間的に広がりのある変化になる。これはプロセスである。
・例えば、紅茶の中で砂糖が解ける。「延続主義」では、バラバラな時間的部分が集まったものであり、それが適切な仕方(?)で関係し、1つに纏め上げられる。しかし問題のプロセスに含まれる諸々の部分は、当プロセスにとって本質的(?)なものだ。溶解性があるとは、そこに問題のプロセスが生じる傾向がある事になる。

・光合成/人の成長/結晶化を考えてみる。これらは恣意的に繋ぎ合わされた諸々の時間的部分の集まりである。しかし私達は、そのように捉えたいと思うだろうか。私達はプロセスを「全体が部分の総和以上のものとして存在している疑問の余地のない事例」として捉えていると思われる。

<原因とは何か>
・私がボールを蹴ってゴールすると、チームメイトが祝ってくれる。私が茶碗を割ると、私は非難される。ハリケーンは樹木を倒し、洪水を起こす。この様に、2つの出来事が密接に関係している場合がある。
・タバコを販売する企業は、喫煙とガンの関連性を否定している。神秘主義者は自分が考えている事をテレパシーで伝えられ、念力で物を動かせると主張している。一方でテレパシー/念力の存在を否定する人がいる。彼らは因果的な繋がりを否定している。※因果関係がある例とない例か。本書は「因果的な繋がり」と記しているが、感想文では単に「因果」または「因果関係」と略す。

・これまでは個別者/性質、変化などを考察してきた。原因も考察しなければならない重要なトピックスである。原因と変化は密接に関係しているが、両者は同じではなく、はっきり区別する必要がある。※原因は変化に含まれそう。
・ビッグバンは宇宙の開闢なので原因はない(※インフレーションがあったとする説もある)。従って変化には原因があるものと、ないものがある。
・また原因があっても変化しない場合がもある。ある種の原因が安定性/平衡状態を生む場合である。例えば2つの磁石は磁力により、くっ付いたままである。※このパターンも一杯ありそう。「ある状態になって、皆動かなくなった」とか、「ある事を知って、皆キープに入った」とか。まあ動かなくなったのも、キープも変化かもしれないが。

-原因は至る所にある
・因果を理解する事は哲学で最大の課題である。因果を説明する事は不可欠であるが、それは全てのものが因果によって結び付けられているからである。フランツ・フェルディナントが銃撃された事で第一次世界大戦が引き起こされた。またガヴリロ・プリンツィプが引き金を引いた事により、彼は死に至ったのである。
・私達が将来をある程度予測できるのは、そこに因果関係があるからである。病気の原因を特定するのは重要である。これにより人を死から遠ざける事ができるし、この病気に対する薬を開発する事ができる。これは因果の重要性を表している。
・哲学者は因果を理解し、説明する義務を負い、この義務を果たそうとする事で、困難な状況に陥る。※確かに世の中は因果だらけで、世界は因果で回っている。しかし哲学が個別の因果を扱うのは範囲外。

-原因を求める争い
・ディヴィッド・ヒュームの伝統的な考えが、問題を提起している(1739年『人間本性論』、※古い)。彼は「因果は観察できない」とする。例えば誰かが薬を飲んで体調が良くなっても、因果は見えないとした。さらに誰かがボールを蹴ってボールが動いても、因果は見えないとした。
・彼は因果の実在性を、「ある出来事が起こり、続いて別の出来事が起こるパターンの記憶のため」とした。要するに「単に2つの出来事が起こっただけで、因果は確認できない」とした。※感情的・理論的な現象は因果を断定できないが、物理的・化学的な現象は因果を断定できると思う。そうしないと物理学/化学は存在しえない。

・彼の考え方は2つの理論を提案した。1つは「因果は規則性である」とする理論である。
・もう1つの理論を説明する(※以下の長い説明、しかも理解できない)。例えば人形の後ろに付いている紐を引っ張ると、人形がしゃべる。「ある出来事が原因で、別の出来事が起こる」と考えられるのは、「1つ目の出来事が起こらなかったら、2つ目の出来事は起こらなかった」が成立している場合である。しかしこれには次の疑念が生じる。この前提が成立するのは、「1つ目の出来事が2つ目の出来事を起こした」とする信念があるからではないか。これでは因果を先に用意しておいて、「ある出来事が別の出来事を引き起こす」説明をしている。※「全肯定が先か、全否定が先か」みたいな、理解できず。

・この問い(?)には、2つの答えが提案されている。1つは形而上学的理論を用いたもので、もう1つは、少しは地に足が付いたものである。
・1つ目を解説する。私達の世界では、1つ目の出来事と2つ目の出来事が起こっている。そこで1つ目の出来事が起こっていない別の世界を考える。もしこの世界で2つ目の出来事が起こっていないのであれば、「1つ目の出来事が、2つ目の出来事を起こした」と考えられる。
※なんか原点に戻った。一般的には「起こった→起こった」「起こらない→起こらない」の両方が成立して、因果と判断すると思う。ただ大変重要な点だが、2つ目の出来事は別の要因から起こる場合もある。原因と結果は、必ずしも1対1ではない。

・この理論は過度に形而上学的思弁に感じられるかもしれないが、頻繁に用いられる理論である(差異法)。
・この理論は薬の効果を調べる実験に使われる(ランダム化比較試験)。多くの人を2つのグループに分け、一方のグループに薬を与え、もう一方のグループに偽薬「プラシーボ」を与える。薬を与えたグループで効果があり、薬を与えなかったグループで効果がなければ、「この薬は効果がある」と判断される。※実際の薬の検証はもっと高度だと思う。

・この理論には、大きな懸念がある。上記の「差異」は本当に因果の全てを捉えているのか。もし手違いが起こって、偽薬を与えられるグループが存在しなくても、薬を与えられたグループは薬の効果が現れる。彼らからすると薬の効果が、偽薬を与えられたグループから影響を受けるのは理解できない。ボールを蹴って、ボールが動いている世界の人には、ボールが蹴られないで、ボールが動いていない世界の人から影響を受けるのは理解できない。※当たり前、因果がないのに、それを因果に影響させるのはあり得ない。
・この考え方の背後には、出来事AとBに因果関係がある時、他の場所で起こっている出来事は関係ないとする考えがある(単称主義)。「私達が知りたいのは薬の効果であって、それ以外の事ではない」とする考え方である。

・ヒュームが提案した最初の理論は、「因果とは規則性である」である(※この説がどんな説か、述べられていない)。これに対し単称主義者は、「『個別的な因果的主張』と『一般的な因果的主張』を混同している」と指摘する。「個別的な因果的主張」とは、例えば「この薬は、この患者に効果がある」であり、「一般的な因果的主張」とは、「この種の薬は、どんな患者にも効果がある」である。単称主義者は、「ヒュームの理論は『一般的な因果的真理』を必要とする」と指摘する。※規則性説も分からないし、それに対する指摘も理解できない。
・ある人が喫煙し、それが原因と思われるガンが発病した。また別の人も同様になり、さらに別の人も同様になった。これらの「個別的な因果的主張」が一般化され、「喫煙はガンを発病させる」が主張される。※そのために統計がある。

-ヒュームのために鐘は鳴る
・「個別的な因果的真理」と「一般的な因果的真理」の繋がりは単純明快ではない。私達は「生涯に亘ってタバコを吸い続けたが、ガンを患わなかった人」を知りながら、「喫煙はガンを発病させる」との真理を持つ。そうであれば「個別的な因果的真理」はどんな意味を持つのか。「喫煙はガンを発生させる傾向がある」「喫煙は力能(発ガン性)を持つ」と云える。
※近年DNAの研究が進められ、特殊な病気の原因がDNAの違いである事や、ある物質(カフェインなど)に対する反応がDNAによって異なる事が判明している。

・ヒュームは前述の理論とは別に、因果的力能に基づく理論を認識していた。力能は必ずしもその結果を起こすのではなく、その結果を起こす傾向を強める。
・私達の身の回りで起こる結果は、様々な要素が絡み合って起こっている。例えば紙飛行機は、その空気力学的形状/重力/突風/静電気誘因/斥力などによって軌道が決まる。薬の効果においても、その人の体質/生活スタイル/食事などによって、効果は異なる。力能はそれに結び付けられた結果を必然化しない。

・形而上学者の間には、ヒューム主義と非ヒューム主義の対立がある。これは原因と結果の因果の実在を信じる哲学者と、出来事の間に因果は実在しないと信じる哲学者との対立である。しかしヒューム主義者と非ヒューム主義者の違いを明確に述べるのは難しい。
※因果って言葉を意識した事はなかったが、大変意味のある言葉だ。

<時間はどのように過ぎ去るか>
・ここまでに全体・部分/変化/因果などについて論じてきた。もう1つ重要なものに時間がある。時間とは何か、1つの考え方は時間を1つの存在者とする考え方である(※変なの、時間は環境だと思う)。時間は流れるもので、川をイメージできる。あなたは生まれると同時に筏に乗る。川岸には年月を表す標識が立っている。あなたは死と共に筏から降り、川岸に上がる。
・私達は「時間は、前に向かって進む」と表現する。後ろに進む事はないのだろうか。時間を理解する事は難しく、比喩的な表現に頼らざるを得ない。時間の長さは空間に帰属させる事ができる。まるで1匹の犬があなたに駆け寄り、そこでしばらく過ごし、またどこかに去っていくように。

-後どれ位で今になるのか
・形而上学には”時間のモデル”が2つある。まず第1のモデルを紹介する。1865年4月14日リンカーン大統領が暗殺された。この事件は1865年より前に生まれた人には未来の出来事であり、1865年4月14日では現在の出来事であり、私達には過去の出来事である。これは出来事が時間的性質を持つとする考え方である。この時間的性質は、必ず未来→現在→過去と変わる。※将来の出来事を記述するのは不可能なので、未来ではなく、現在または過去から始まるのでは。
・しかし時間的性質には奇妙な点がある。2025年日本で日食が見られる。この出来事は未来性を持って、ずっと佇んでいるのだろうか。その時点になると現在性を持ち、時が過ぎると過去性を持つのだろうか。
※日食は予測に過ぎず、必ず起きるとは限らない。出来事を記述できるのは起こった直後であり、過去性しか存在しえない。時間的性質は意味がない。出来事はスナップ写真であり、発生時刻を持つ写像に過ぎない。

-今に勝るときはない
・「実在するのは現在のものだけ」と云う考え方がある(現実主義)。これは上述した未来性・過去性を否定する考え方であり、「カエサルは今も存在するが、過去性を持っている」を否定する考え方である。「現実主義」は未来性・現在性・過去性を否定し、”存在”だけを基準にしている。
・しかし「現実主義」にも幾つか問題がある。1つは現在をどれだけの時間にするかである。1日なのか、1時間なのか、1秒なのか。※くだらない問題。

・2つ目の問題は、相対性理論により、現在の正当性を否定される可能性がある。例えば地球から見える2つの星が崩壊し始めたとする。しかし地球から2つの星までの距離が異なる場合、その崩壊は同時には起こっていない。これにより「現在は何なのか」との問題が生じる。その解決策として、観察者にとっての”今”が現在となる。※星の例はイマイチだな。当然、崩壊が始まった時刻と、地球で崩壊を観測できる時刻には差が出る。
・しかし形而上学者は観察者に依存する事を嫌う。形而上学者は永久不変の真理を求めており、人間の見方に影響される事を嫌う。

-過去化するとは
・上記の問題から、過去と未来を別々に捉える考え方がある。過去のものは実在し、それは現在の一部であるとする考え方である。この考え方は「成長するブロック」に例えられる。時間の経過と共にブロックが積まれ、現在をブロック最上部の表面とする考え方である。過去にあった存在者はすべてブロックの中に含まれている。
・この考え方は、現在と過去を特権視する考え方である。しかしこの考え方にも、「現在とはどれだけの時間なのか」や絶対的同時性(※星の話?)などの問題が残る。

・以上述べたのが”時間のモデル”の第1のモデルである。このモデルは、出来事/物体が時間的性質を所有するモデルである。一方第2のモデルは、「過去性・現在性・未来性などの時間的性質を持たず、出来事/物体には順序関係がある」とするモデルである。

-定刻より前か後か、それとも定刻か
・出来事/物体を系列として捉えると、その関係は「~は、・・より前である」「~は、・・と同時である」「~は、・・より後である」となる。第2のモデルには「過去性の獲得」「現在性の喪失」などの性質の変化はない。このモデルでの時間的関係(※順序関係?)は、常に成立する。※これは第1のモデルのブロックの考え方に近い。ただブロックと云うより、層かな。

・ここに重要な対立がある。1つは「時間は客観的な実在性を持つ」とする考え方で、もう1つは「時間は順序を持った出来事の系列である」とする考え方である。※時間は環境の1つ。3次元空間も環境の1つ。距離も一緒で、「長さとは何か」とか問う人はいない。
・時間を実在的なものとする考え方もあるが、アリストテレスは「まず存在するのは変化で、それが構築物を作っている」と考えた。ビッグバンに対し、アリストテレス主義者はそれを宇宙の最初の出来事として考えるが、プラトン主義者は神が作った時計の一時の出来事と考える。
・このアリストテレス的な見方と、出来事/物体に関する「永久主義」(※初出)を組み合わせた理論に魅力を感じる哲学者がいる。永久主義者は未来の出来事も含め、全ての出来事を同等の実在性を持つものとして捉える。

・私達は何が存在するかを考察する時、3次元に限定しがちだが、4次元で考えた方が良い。オバマの誕生がオバマの死より前である事を受け入れる限り、オバマの死に対しても実在性を認めなければならない。この説明は魅力的に感じられる。しかしある特別な質を備えた現在があるように見える。それは”今”と云う時点で起こっている事である。※理解できない事がズラズラと書いてある。
・哲学における時間の言及で、述べるに値するものがもう1つある。時間の構造に関する問いだ。よく時間を直線に例える。そこには終点が存在する。一方無限に続く線に例える場合もある。あるいは時間の直線が2つに分かれ、2つの時系列線が存在する構造も考えられる。あるいは時間は円を描いて繰り返すかもしれない。これらは哲学者の関心を集め続けている。※馬鹿みたい。

<人とは何か>
・第1章では個別者として、机/椅子などの無生物を挙げた。個別者には他に、猫/犬/人間などの生物も含まれる。人間には魂/精神が存在し、物理的な物体とは異なる可能性がある。
・ジョン・ロックは「人は知性を持つ、動物でも知性を持てば人として満たしうる」と述べている。逆に云えば人間でも、人としての基準を満たさない場合もありうる。一般的には人は「考え、意識を持ち、思考と感覚を経験する」「記憶/信念/願望/情動を持ち、様々な行為をし、その行為に責任を持つ」と云える。

-記憶に感謝しよう
・実体は部分を変化させても存続し続ける。自動車はスパークプラグを交換しても同一の自動車であり、生物は身体の組織を常に入れ替えている。ロックは人の同定を決定するのは記憶とした。しかし私は子供の頃の記憶の多くを失っているが、当時の信念/願望/弱点を受け継いでいる。今はサンタクロースを信じていないが、心理的連続性は見られる。ウィトゲンシュタインはこれを1本の長いロープに例えた。ロープを構成する1本の繊維は、一定の長さしかないからである。

・デカルトは人には身体と心があるとした。心が重要で、身体が死んでも、心は存続し続けるとした。”不死の魂”は神と並んで、形而上学で広く信じられている。※私は否定する。心は化学的作用。
・形而上学者は魂を信じる人に、2つの問いを投げかける。1つは「何が精神的実体か」であり、もう1つは「その精神的実体が、いかにして物理的実体と相互作用するか」である。
・デカルトは物質の本質は延長(?)とした。物質は物理的なもので満たされている必要があるが、これは「不可入性」(別のものが同じ位置を占めれない)や「固性」(※個別性?)で言い換えられる。※延長/固性は良く分からない。

・精神的実体は空間には存在しないとされる(※脳にあるんだろうけど)。デカルトは心の本質を「思考」とした。あなたは「今日は火曜日である」と信じ、「ダリの絵が欲しい」と願っている。この時「ダリの絵が欲しい」と云う欲求は、「今日は火曜日である」と云う信念の右にあるだろうか、左にあるだろうか。この問いに答えがないのは、両者が位置に無関係だからである。※そんな事は、誰でも知っている。
・心的なものと物的なものが別に存在すると考えるのが「二元論」である。一方で「心的なものは物質的なものに還元される」とするのが「唯物論」であり、逆に「物質的なものは心的なものに還元される」とするのが「観念論」である。※基本的には唯物論に賛成。

-精神があなたを動かす時
・心と身体が相互作用する事は明らかである。あなたがバスに乗ろうと決めると、足が動く。あなたが怪我をすると、痛みを感じる。「二元論」では、思考/感覚/知覚は心的領域に存在する。
・「二元論」では、「心的なものと、物的なものは非常に異なった在り方をしているに、いかにして影響を与え合うのか」(心身の相互作用)が問われる(※馬鹿な質問、脳が行っている)。この問いが極めて難解のため、「二元論」は「因果は物的領域のみに適用される」とした。
・唯物論者は「痛みは脳内プロセスに過ぎない」「『今日は火曜日だ』の信念は、ニューロンの発火である」と主張した。

・ここで「心身の相互作用」を「意識は物理的部分が適切に配列されたものなのか、それとも創発する何かなのか」と問い直せる。しかし本章の主題は人なので、この議論は止めておく(※賛成)。ここからは、最初に掲示した「人が同一であるのは、心理的連続性である」について述べる。

-2つのものを1つにできない
・同一性を心理的連続性としているが、これにも問題がある。心理的連続性は必ずしも1対1ではないからである。今存在する人は、過去に2人存在した事はないし、将来2人存在する事もない。しかし同じ心理的連続性を持つ人は、2人以上存在する可能性がある。※こんな事を考えるなんて、真面な人間とは思えない。
・テレビドラマ『宇宙大作戦/スタートレック』でカーク船長は2人に分裂する。2人は全く同じではなく、1人は邪悪な性格を受け継ぎ、もう1人は善良な性格を受け継ぐ。この事から心理的連続性は同一性の根拠にならない。※最近はクローン技術がある。
・他の誰かが存在する事によって同一性を問わなければならないのか。昨夜私がスキャンされ、複製が作られたかもしれない。そうであれば1989年に学校を卒業した男が自分と同一なのか分からない事になる。※結局この問いも放棄みたい。ところで心理的連続性は判断が困難。物理的連続性なら判断できる。

-全ては心の中にある?
・ロックは同一性を心理的連続性で説明した。もしマッドサイエンティストによりあなたが複製された場合、心理的連続性だと同一性を主張できない。ところがあなたは自分のベッドで目覚め、複製はどこかの研究所で作られたものです。そのため身体的連続性なら同一性を主張できます。
・これを補足する以下の考察がある。ある歴史学者がジョン・F・ケネディに関するあらゆる資料を記憶した。彼は神経衰弱になり、自分はケネディだと信じるようになった。これは記憶(心理)は同一性の基準にならない事を示している。彼はケネディとの身体的連続性を持たない。ケネディの遺体はアーリントン墓地にある。またケネディが殺された時、彼はまだ少年だった。身体的連続性がない証拠は幾らでもある。

・身体的連続性は同一性の基準として採用できそうだが、先の『宇宙大作戦/スタートレック』にでは心理的連続性も物理的連続性も持っている(※それなら忍者は分身できる)。従って、身体的連続性も同一性の基準にならない。結局は同一性の判定に、心理的連続性/物理的連続性の両方が不可欠と思われる。※人の同一性はパスかな。

<可能性とは何か>
・「俺はタイトル挑戦者になれたんだ」は映画での科白である。世の中には様々な可能性がある。あなたが事故で約束に遅れる可能性もある。エッフェル塔が1909年解体される可能性もあった。ガン治療薬が開発される可能性もある。初めて石油が発見された時、それが自動車を走らせるとは、誰も思わなった。科学/技術は、それまでに想像できなかった可能性を導き出す。
・これらの可能性は実在するのか(※また変な問い)。これまでに個別者/性質/変化/因果などを論じてきたが、そこに含まれるのか。ここで重要な点がある。以下で考察する可能性は、「可能ではあるが、現実ではないもの」に限定している。現実となったものは、明らかに実在するので、本章では可能性から除外する。従って、ウィンチェスター(1066年まで英国の首都)が英国の首都になる事は可能性ではない。一方1865年リンカーンが銃撃事件で生き延びる事、サッカー選手のルーニーが英国首相になる事などは可能性となる。

-でもありえた、だっただろう、だったに違いない
・「前方に車列、危険」の標識があっても、現実に車列がないと危険ではない。エッフェル塔は高さ350mもあり得たが、そこを通過する気球は現実のエッフェル塔の高さ324mを考慮するだけである。一方で長時間日光を浴びると皮膚ガンになる可能性がある。また脆いガラスは割れる恐れがある。また自動車を運転する時は、様々な事故の可能性がある。事故を現実化させないために、注意を払う必要がある。ならばこれらの可能性は実在性を持っている。
・可能性には2種類ある。1つはエッフェル塔の高さのように影響が少ないもの、もう1つは現実化すると影響が大きいものである。影響が大きいものには、交通事故のように避けたいものもあれば、お金持ちになる/教養を身に付ける/運動能力を高めるなどの願望もある。※変な分け方。

・第5章で因果について論じ、この世界とは別の「可能世界」(※初出)について論じた。この「可能世界」は可能性を論じる場合も使用できる。「可能世界」は全ての可能性に対し存在するため、無限に存在する。現実の世界は、時間と空間を持ち、性質/個別者/変化/因果など全てを包摂するが、「可能世界」も同様である。

-別の世界では
・しかしこれから先は論者の意見が分かれる。一方の見解は「可能世界」を実在的としている。彼らは「可能世界」は現実の世界と同様で、あなたの「対応者」も存在するとしている。
・ディヴィッド・ルイスは、この「可能世界」の実在論を掲示した。彼は「『可能世界』は無数に存在し、私達の世界はその1つ」とした。彼を批判する人は「エッフェル塔の高さが350mの世界があっても良いが、それを実在的と扱うべきではない」と主張した。※可能世界の実在性など、どうでも良い。
・彼は彼を批判する「代用実在論」(?)を否定した。彼がやろうとした事は「何かが可能とは何か」であり、その答えは「その何かが真である世界が存在する事」とした(※可能性が高いと、実在性があると判断するのかな。しかし可能性を数値化できない)。従って、「可能世界」の実在性が低いからと云って、「代用実在論」で簡単に「可能世界」を退けてなならない。

・しかし彼の”強い実在論”だと、無限の「可能世界」が存在する事になる。哲学者は理論の経済性を考慮しないのだろうか。しかし経済的な理論が真としてはいけない。
・また実在論に対し深刻な考察がある。冒頭で「俺はタイトル挑戦者に・・」とか「エッフェル塔が・・」と述べた。可能性の多くは個別者を指示している。そのため実在論は、厳密に云えば真でなくなる。※個別者だと真でない。理解不能。
・「私はプロサッカー選手になり得た」とする「可能世界」では、私の「対応者」はプロサッカー選手である。彼はプロサッカー選手なので、私とは全く無関係の人間となる。従って実在論に従うなら、「私はプロサッカー選手になり得なかった」事になり、プロサッカー選手になった彼は別人となる、※現実は1つしかない。同様にエッフェル塔で実在論を否定しているが、難解なので省略。

-組み合わせと組み換え
・ここまで「可能世界」で可能性を説明してきたが、これとは別の説がある。これは実在世界にある全ての要素を組み換える説である。
・あなたがまだ未熟としよう。目に前を”白い犬”が通り、次に”黒い猫”が通った。これであなたは犬と猫が存在する事を知り、白と黒の色がある事を知る。そこであなたは”黒い犬”と”白い猫”の可能性を知る。同様にエッフェル塔を知っている。350mの高さを知っている。そこから350mのエッフェル塔の可能性を知る。
・これらの可能性は、単に組み換えただけなので、実在性は一切ない。例えばエイブラハム・リンカーンとスキューバダイビングから、リンカーンがスキューバダイビングする可能性もある。

・ディヴィッド・アームストロング(※関係ないけどディヴィッドが3人も出てきた)は、この説を格子で説明している。格子の一方の軸に全ての個別者を並べ、もう一方の軸に全ての性質を並べる。あるリンゴは、性質”緑色”にチェックが付けられている。リンカーンの性質”緑色”にはチェックが入っていないが、これをチェックする事も可能である。これが「組み換え原理」である(任意の個別者は、任意の性質を組み合わせる事ができる)。
・しかしリンカーンが緑色になる事は考えられない。この疑問に対し、可能性には「論理的可能性」と「自然的可能性」があるとした。「論理的可能性」は考えられる全ての可能性で、「自然的可能性」は物理学/生物学/化学/社会学などが許容する可能性である。
・一方で「この説は、実在する個別者と実在する性質しか考慮されない」との批判もある。例えばケネディには4人しか子供がいなかったが、この説では5人目の子供の可能性がないのである。

・以上の2つの説には、どちらも弱みがある。この決着は今後の哲学者の課題である。※好きにやってくれ。

<無は存在するか>
・ここまでは存在するものを論じてきた。本章では、不在/欠如/境界/空虚/極限/穴/ゼロ/不足/真空/終末など、”無”について論じる。

-やってみなければ、得られない
・”無”に関して哲学者の意見は割れている。私達は「there is no food ・・」と語る。これは否定的なもの(no food)の存在を認めている。この様に一部の哲学者は、不在を実在の一部として認めている。
・この厄介なテーマを具体的な事例を挙げて考察してみる。ある男性の身長が1.8mの時、彼は2mでない性質を持つ。同様に三角形の物は、四角形でない性質を持つ。しかしこの否定的性質は怪しい。

・この否定的性質を排除する論点は幾つかある。1つは彼の場合、身長に関して無限の否定的性質を持つ事になる。しかしこの論点に説得力があるかは明らかでない。
・2つ目は、2人の身長が1.8mだった場合、彼らは「身長が1.8mである」「身長が2mでない」の性質を共有する。身長が1.7mの人も1.9mの人も「身長が2mでない」を共有する。しかし彼ら全員が1つの統一性を持っているとは考えられない。※この解釈は間違っているかも。
・3つ目は「身長が1.8mである」の肯定的性質から、「身長が2mでない」は導く事ができる。従って否定的性質に訴える必要はない。しかしこの論点にも問題がある。これは「身長が1.8mである」と「身長が2mである」の非両立性を認める事になる。これは否定的性質の置き換えに過ぎない。
※この問題は、根本に「身長が1.8mである」「身長が2mである」などの性質を全て認めている点にあるのでは。オブジェクト指向では、属性”身長”に1.8mが入るだけ。

・否定的性質を認めるか否かの答えを出す前に、”無”に関する別の事例を紹介する。”不在による因果”は哲学者を悩ましてきた。例えばあなたが旅行中に家の植物が枯れてしまった。まず考えられる原因が水の不在である。他に酸素の不在は人間を窒息させる。インシュリンの欠如は糖尿病の原因になる。※これは適切な値があって、それより少なくなっても、多くなっても、弊害が起こるのでは。不在とは違う気がする。
・これらの例から「不在は因果的な力能を持つ」と考えられる。これは不在の実在性を認めた事になる。また不在が原因とすると、出来事の原因は無限に増えてしまう。※事実なので、しょうがない。
・ケネディは銃弾により暗殺されたが、もし銃弾の通り道に護衛がいれば、彼は生き延びた。それはあなたでも良かったし、動物でも良かった。要するに不在を原因とすると、それは無限に増える。不在は因果において本質的な特徴(?)である。

-言葉のあやに過ぎない
・「”無”は言葉のあや」は魅力的な考えである。しかしこれが上手く行くかは、世界/言語/真理に依存する。「この部屋にカバはいない」を無害とする人がいる。これは否定的な対象が存在すると主張している訳ではなく、肯定的な対象が存在しないと主張しているだけである。しかしこの考え方にも問題がある。「この部屋に机がある」の言明を真にするのは、部屋に机がある事である。では「この部屋にカバはいない」の否定的真理を真にするのは、何なのか。

・バートランド・ラッセルは、「肯定的事実に加え、否定的事実も受け入れるべき」と結論した。それは「否定的真理を説明できるのは、否定的事実だけだから」とした。※卵が先か、ニワトリが先か。
・「彼は身長2mでない」を主張する場合、私達は「彼は身長1.7mである」と「身長1.7mと身長2mは非両立性である」の2つの肯定的真理を主張している(※誰も1.7mと言っていないけど)。しかしこれには幾つか問題がある。1つに、「彼は身長1.7mである」を知らないかもしれない。2つ目に、「身長1.7mと身長2mは非両立性である」は否定的な考えである。3つ目に、「この部屋にカバはいない」で云うと、カバと非両立なものが定かでない。※何かどうでも良い。

・形而上学で事実とは、「個別者がある性質を持っている」事であり、「リンゴが丸い」も「リンゴが赤い」も事実である。ラッセルは肯定的事実に加え、否定的事実も認めた。それは否定的真理の説明が見付けられなかったためである。「彼は身長2mではない」は「彼は身長2mである」と云う性質を否定的に例化(?)しており、否定的な要素を認めた事になる。
※本当にパスしたい。肯定があれば、必ず否定がある。否定を認めないのは、肯定を認めないのと同じ。コインに表と裏があるように、表だけを認める事はできない。

-無についてのから騒ぎ
・否定的事実/不在/否定的性質を認める事もできるが、否定は言葉の特徴とも考えられる。「I have nothing ・・」と言う時、誰も”無”を持っているとは考えない。真理/因果/性質などではこれほど単純ではないが、ケネディが暗殺されたのは、トラックの不在などではない。
・”無”は頭の中にあるとの見方もある。実在するものは全て肯定的である。否定的な性質/否定的な因果も実在しない。私達は世界を2つの仕方で捉える。1つは実在するものの是認であり、もう1つは否認である。「この部屋にカバがいるか」と問われれば、これを否認する。「彼は身長が2mある」を否認するのは、ある事を是認しているのではなく、「彼は身長が2mある」を単に否認しているのだ。※認識には是認と否認の2種類ある。

・真偽の概念を用いると、ある事、例えば「この部屋に机がある」を是認する場合、それを真にする存在にコミットしている。一方否認する場合、例えば「彼の身長は高くない」に対しては、コミットメントは一切ない。※国会で「ないものは証明できない」と、よく言われた。
・これで不在を説明できる。銃弾の通り道に何かがあったら、生き延びれたのは想像できる。しかしこれは、物体の不在で死に至らしめたのとは別の話である。※「If」は幾らでも言える。
・無/不在/欠如などは実在しない。これらが実在すると厄介な事になる。※これも可能性の1つでは。

<形而上学とは何か>
・ここまで9つのテーマについて論じてきた。これにより冒頭の「形而上学とは何か」の知見を得たと思う。私達は成長すると、「円とは何か」「時間とは何か」「無とは何か」などに付いて問わなくなる。皆様は形而上学を「時間の浪費」、さらには「有害なもの」と考えるかもしれない。事実ソクラテスは、それで死刑となった。しかし形而上学の問いは、知力/精神のトレーニングになる。
・形而上学は実在の特性を理解するのが目的であるが、これは科学も同じである。しかし科学は一般的/具体的な真理を求めるが、形而上学は一般的/抽象的な真理を求める。
・哲学者は個別者/性質/変化/原因/法則などを考察する。一方科学は電子/トラ/元素などの個別者や、スピン/電荷/質量などの性質や、溶解などのプロセスや、万有引力などの法則を考察する。形而上学は科学が発見した真理を含め、これらを秩序化/体系化/一般化する学問である。

-物理学と形而上学
・形而上学も科学も世界の特性に焦点を当てるが、そのアプローチが異なる。科学は観察に基づくが、形而上学は観察可能なものには関心がない。例えば、机は性質の束なのか、それとも基体なのかを論じた。実際、物体から全ての性質を取り除いた基体を観察する事はできない。形而上学を学ぶ学生にまず必要なのは、形而上学を科学、特に物理学と区別する事である。
・形而上学は「Metaphysics」と記される。「Physics」は自然学を、「Meta」は「~の上」「~を越えた」を意味する。文字通り、形而上学は自然学を越えた学問である。

・形而上学の懐疑論者は、「観察不可能なものを、どうやって決着させるのか」と批判する。ヒュームは形而上学に大きな影響を与えたが、彼は「私達の観念が経験に基づかないなら、それは無意味である」とし、形而上学の焚書を勧めた。
・カントは「形而上学は、私達が持つ思考の構造を記述するもの」とした。これは形而上学を擁護するが、蔑みもする。これは「世界には個別者/性質があり、時間と空間の中で因果性を持つ」や「形而上学は、世界を記述する概念を探求する学問である」などと解釈できる。
・しかし形而上学は、私達の概念や心理的機構だけに関心を持っているのではない。世界がどうであるかを理解する学問である。これまで論じてきたように、形而上学の問いは観察で決着できないが、世界の特徴への問いであり、単に概念や思考の在り方への問いではない。

-見る事は信じる事?
・科学は観察と理論に頼る。形而上学も理論に頼るので、両者は似ている。形而上学は世界の特徴を探求するが、明らかな矛盾を含んだ理論は排除される。「不在は原因となる」を論じたが、この説にも不条理があった。この説を取る場合、「”無”は因果的な力能を持つ」を認めなければならなかった。私達は「個別者は性質の束である」を不条理として帰結させたが、この論争を終わらせるべきではないと考える哲学者もいる。
・人は世界の特徴の中の「個別性」を感覚している。これにより「個別者とは」「因果とは」「時間とは」などを議論するようになる。しかしそのいくつかは吟味に耐えない。

・科学も形而上学も不条理な理論は拒否される。科学では、観察による証拠から理論を排除する。一方形而上学では、観察は用いられず、推論のみで理論を排除する。その時問題とされるのが、理論の内的不整合と、他の理論との矛盾である。以上より、形而上学は科学と比べ擁護が著しく難しいとは思われない。しかしこれは理論を排除する場合に限られるとの反論もある。科学は観察/経験によって理論を確立するので、優位と云える。
・形而上学では、ある主題に対し複数の理論が成立する場合もあるし、理論の真偽を決着させる真理もない。真理の真偽を厳格な基準で判断すべきでない。諸説を暫定的に保持するのが合理的である。
・形而上学と科学は調和すべきでで、私達は科学の理論に適合した形而上学の理論を展開すべきだ。

-理論に関する美徳
・形而上学でどの説を支持するかは、その美徳(?)や説明力に注目する。可能性の所で、「現実世界以外に無数の世界がある」としたが、形而上学者は説の仮定の数や説明力を比較している。形而上学で導出される理論は、突飛な仮定を必要とせず、単純に説明されるべきである。また形而上学は世界の特徴を説明するのが目的であるが、その対象を特に抽象的/一般的なものに置いている。※美徳はこれかな。

-形而上学の価値
・形而上学が答えないといけない批判が、もう1つある。「形而上学は役に立たない」である。科学は具体的で応用できるため、優れた結果を生み出す。一方形而上学は理論的/抽象的/非経験的なため、見返りがないように思われる。この批判に対し、まず因果性は全てに重要で、形而上学の理論は役に立っている。次にこの批判が正しいと仮定する。しかし形而上学はその外部の役に立たなくても、形而上学の洞察は深く遠大で、それ自体が内在的な価値を持つ。

<解説> 秋葉剛史
・読者には形而上学が何か知らなかった人が多いと思う。本書の第10章でこれについて論じていたが、本解説の前半は、これについて述べる。後半は本書の10章全てを簡単に捕捉する。

-形而上学の主題は何か
・「形而上学」の言葉の由来は『易経』にあり、「形而下者」(形より下にあるもの)/「形而上者」(形より上にあるもの)として使われている。「形而下者」は実在し触れる事ができ、経験的・自然的な世界のものである。一方「形而上者」は、それを超えるものである。「Metaphysics」を「形而上学」と訳したのは、的を得ていると思う。そこで「形而上」「経験世界を超える」について考察する。
・「形而上的」とは神的/霊的であり、実際「形而上学」には超自然的なものを主題とした書籍も多くある。しかし本書は性質/物体/変化/因果など、経験世界での事象を論じている。従って本書は、「形而上」の2つ目の意味「経験世界を超える」を主題にしている。

・経験世界は「内容」と「形式」からなる(※解説も抽象的になった)。科学により解明されるのは「内容」である。「○○という物体が存在する」の○○を埋めるのが科学である。一方「物体が存在する」とは何か、を問うのが「形而上学」である。※「○○という物体が存在する」、これが形式かな。
・第1章で個別的物体を論じたが、物体の存在を性質の束とする「束論」と、性質の束とそれを纏める基体があるとする「基体論」があった。この2つの選択肢は幾ら科学が発達しても決着しない。それは「形而上」の第2の意味での問いだからである。

・本書は性質/変化/因果など経験世界での事象を主題にしているが、問われているのは「性質とは何か」「変化とは何か」などの「形而上」の問いである。
・本書で扱っている主題(創発、同一性、心身の相互作用など)は、「形而上学」の中核であるが、他に「自由意志」などもある。「形而上学」は「創発」「心身の相互作用」「自由意志」など、”人”への関心も高い。よって形而上学の主題は、「経験的探究では求められない一般的/形式的な在り方、およびその世界での人の位置付け」である。※これが解説者の解釈。
・ちなみにアリストテレスの著書は2部門で構成されており、存在するものを考察する部門と、独立離在する永遠不動のもの(?)を考察する部門に分かれていた。これがそのまま中世哲学の「一般形而上学」「特殊形而上学(神学)」となった。

-本書の内容と特徴
・本書は現代形而上学の主要な主題が、各章で論じられている。また各章では、まず基本的な問いが掲示され、その問いに対する幾つかの説が紹介されている。
・第1章では個別的物体(個別者)が何かを問うており、「束論」「基体論」が紹介されている。
・第2章では性質について問うており、「プラトン的実在論」「唯名論」「アリストテレス的実在論」が紹介されている。
・第3章では全体と部分の関係を問うており、「還元主義」「創発主義」が紹介されている。

・第4章では変化について問うており、「耐続主義」「延続主義」が紹介されている。
・第5章では原因/因果について問うており、「規則性説」「反事実条件説」「単称主義」が紹介されている。
・第6章では時間について問うており、「時間的性質説」「順序系列説」が紹介されている。
・第7章では人について問うており、「心理説」が紹介されている。

・第8章では可能性について問うており、「ルイス的実在説」「アームストロング的組換説」が紹介されている。
・第9章では無について問うており、ものに性質を帰属させる場面、不在が原因で別の事が起きた場面、否定文の真理を説明する場面が紹介されている。
・第10章では、「形而上学は経験に基づかない」とする懐疑論者から、形而上学を擁護している。

・次に本書の特徴を幾つか述べる。第1に量と質の充実である。現代形而上学の主要な主題を各章のテーマとし、かつそれに対する主要な説を紹介している。
・第2にプラトン/アリストテレス/デカルトロック/ヒューム/カント/ラッセル/ウィトゲンシュタインなどの哲学者に言及している。形而上学は非歴史的と思われるかもしれないが、実は歴史的で、哲学史への目配りが感じられる。
・第3に議論のバランスが優れている。問題の導入、主要な立場への動機づけと批判的考察、著者の見解などがバランス良く配置されている。以上より、現代形而上学を学ぶ最初の1冊として最適な著書である。

-本書の方法論的な立ち位置
・本署の方法論を述べる。本書は以下のステップを踏んでいる。①実在世界の一般的な特徴に着目する、②その特徴を説明する幾つかの理論を挙げる、③これらの理論を一般的な基準(単純性、整合性、常識など)で評価する、④これらの評価から、各理論が世界の在り方を正確にとらえているかを見積もる(?)。この方法は現代形而上学で標準的な方法である。

・近年、形而上学の探求方法が問われており、「メタ形而上学」「メタ存在論」などの分野が生まれている。これに関し著者マンフォードは「形而上学は科学に対し、連続性と自律性を持つ」とする穏当な立場である。科学と同様の方法的手続きや理論評価の基準を採用し、科学との連続性を示している。同時に抽象的/一般的な観点から世界の在り方を探求し、科学からの自律性を示している。
・一方「形而上学は探求方法を改め、科学に従属すべきだ」との”左派的”立場も存在する。彼らは科学に貢献しない性質や物体の構成(※全体/部分の件かな)などの探求を切り捨てている。
・他方、形而上学の自律性を主張する”右派的”立場も存在する。彼らは形而上学が科学に近付く事を邪悪とし、形而上学の主題は科学とは異なり、科学とは異なる方法で探求すべきとしている。

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