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『欲望の世界を越えて』赤堀芳和(2017年)を読書。

前半は天才ピアニストのグレン・グールドがトーマス・マン/夏目漱石の作品に惹かれていた事から、トーマス・マンが傾倒した哲学者(ショーペンハウアー、ニーチェ)を解説している。
ここでの主題は「理性と欲望」です。

中盤は夏目漱石が行き着いた「則天去私」や、シャカの教えである「無我」「悟り」、終盤は「共生」「ナチズム」を解説している。

本書の根底に、人間や物質文明に対する懸念がある。

最近読んだ数冊の本からも、政治は支配層によって動かされていると感じる。

お勧め度:☆☆

キーワード:<グレン・グールドと『草枕』>『魔の山』、<トーマス・マンとドイツロマン主義>ゲーテ/シラー、カント/ドイツ観念論、理性、<ショーペンハウアー>意志/欲望、英雄/天才、<ニーチェ>悲劇/ディオニュソス、ソクラテス/プラトン/理性、デカルト/宗教/民主主義、高貴な精神、ヒトラー、<トーマス・マンの結論>人間愛/ヒューマニズム、社会主義、<『草枕』と漱石の苦悩>自己顕示欲、非人情/憐れ、則天去私/一視同仁、悟り、<チッコリーニと東洋の精神性>文明/文化、キリスト教/仏教、<よみがえるシャカ>仏教、小泉八雲、無常/無我、スッタニパータ、田中正造、欲求/欲望、慈悲、<自然との共生、共生社会>西洋文明、本音/建前、人間中心、<闘うヒューマニズム>ヒトラー/わが闘争、後期ロマン主義、民主主義、白バラ通信、<安らぎの国は幻か>文化、新自由主義、極右勢力、集団的自衛権/緊急事態条項、福祉国家

<まえがき>
・今西洋は行き詰っている。諸問題の淵源は19世紀の西欧思想にある。カナダの天才ピアニストのグレン・グールドが絶賛したトーマス・マン『魔の山』/夏目漱石『草枕』を通して、これを追求する。

<序章 グレン・グールドと『草枕』>
・天才ピアニストのグレン・グールド(1932~82年、※戦後世代だな)は、夏目漱石(1867~1916年)の『草枕』(1906年)を何十回も読んだ。1955年彼はバッハの『ゴールドベルク変奏曲』を軽快なテンポで演奏し、世界をアッと言わせた。彼はレコード製作/放送番組の製作でも才能を発揮した。一方で奇行でも有名だった。

・彼は『草枕』とトーマス・マン(1875~1955年)の『魔の山』(1924年)が愛読書で、哲学者ニーチェ(1844~1900年)の本も読んでいた。彼は、「『草枕』と『魔の山』は相通じる。『草枕』は、思索と行動、無関心と義理、西洋と東洋の価値観、モダニズムの危険を扱っている。これは20世紀の最高傑作だ」と述べている。※『草枕』は読んだかな。苦手の分野に入ってきた。
・漱石は、20世紀初頭(1900~02年)にロンドンに留学し、そこで「西洋の個人主義が、利己主義や我執の問題を起こす」と感じた。

・トーマス・マンの『魔の山』は人間形成の物語と言われるが、むしろ思想の本で、現代が直面している問題の原点を取り上げている。なぜグールドは『魔の山』『草枕』に惹かれたのか、探ってみる。

<第1章 トーマス・マンとドイツロマン主義>
・『魔の山』の主人公ハンス・カストルプは仕事に就く前に、スイスのサナトリウムで療養する従弟を見舞い、様々な思想に出会う。フランス啓蒙思想を曲解し、理性を絶対視するフリーメーソンの団員と、逆にルネッサンス/啓蒙思想/商業主義を否定するイエズス会の修道士と特に仲良くなる。
・当時のドイツは帝国主義に突き進み、ナショナリズムが高揚した時代である。またこの作品では、余りにも様々な思想が錯綜するので、理解するのは難しい。

・トーマス・マンはショーペンハウアー(1788~1860年)とニーチェ(1844~1900年)に傾倒し、2人のドイツロマン主義に魅せられていた。このドイツロマン主義を見てみよう。
・18世紀後半英国で産業革命が起きる。仏国では1735年頃から啓蒙思想が隆盛し、1789年フランス大革命が起こる。ドイツはプロシア(独語:プロイセン)が主導しており、フリードリッヒ2世(位1740~1786年)が有名です。ドイツで産業革命が起きるのは、1825年頃となる。ドイツは政治/経済では英仏に遅れていたが、文学/音楽/哲学は黄金時代だった。

・ドイツロマン主義は感情/自然/個人・個性を重視した。1800年以前の文学は「嵐と衝動」「疾風怒濤」と呼ばれ、ゲーテ(1749~1832年)/シラー(1759~1805年)が代表される。
・ゲーテの詩『旅人の夜の歌』(1780年)の「峰々に憩あり」には、彼が自然と人間をどう考えていたかが分かる。シューベルト(1797~1828年)は、この詩に曲を付けている。また『魔王』もゲーテの詩に曲を付けたものである。

・この時代を代表するのがシラーである。ベートーベンは詩『歓喜の歌』に曲を付け、『交響曲第九番』とした。戯曲『群盗』(1781年)は、群盗の頭目と娘の悲恋を描いているが、自由への希求がテーマである。他に『たくらみと恋』『ドン・カルロス』『ヴァレンシュタイン』『オルレアンの少女』『ウィルヘルム・テル』と名作が続く(※それぞれ説明されているが省略。どれも面白そう)。彼はこれらの作品で、個人の価値、自由で平等な社会、精神の純粋さを説いた。彼の作品にはヒューマニズムが溢れている。ゲーテとシラーは親友で、彼らは「新ヒューマニズム」と呼ばれた。

・18世紀以降ドイツは音楽でも全盛期を迎えた。バッハ/ヘンデル/モーツァルト/ベートーベンと天才が出現している。音楽もロマン主義だった。
・1800年以後、文学もロマン主義が全盛になる。ハインリッヒ・ハイネ(1797~1856年)は『ローレライ』『歌の本』などを作った。しかし1806年ナポレオンがドイツを占領した頃から、ナショナリズムが高揚してくる。『精霊物語』(1835年)ではゲルマン精神への愛着が感じられる。『冬物語』(1844年)ではドイツの将来への危機感が見られる。

・文学/音楽と並び哲学では「ドイツ観念論」が世界をリードした。カント(1724~1804年)は『純粋理性批判』(1781年)を著す。「我々が認識できるのは、現れてくる現象だけである」として、神/霊魂などを対象とする伝統的形而上学を批判し、これが「ドイツ観念論」の出発点になる。
・カントを継ぐフィヒテ(1762~1814年)は、1808年演説『ドイツ国民に告ぐ』でドイツ民族の団結を呼び掛けている。
・続くヘーゲル(1770~1831年)は、『精神現象学』(1808年)で精神の形成を述べている(※詳しく解説しているが省略)。しかしこの本には東洋への偏見も多く、また理性偏重で理性中心主義と云える。

・近世理性主義はデカルト(1596~1650年)に始まるが、近代理性主義はカントに始まると云って良いだろう。近代理性主義に含まれる理性中心主義は、理性に最大の価値を置き、理性は自然も支配できるとしている。これを批判したのがショーペンハウアーだった。
※マズマズの面白さだ。

<第2章 ショーペンハウアー>
・1788年ショーペンハウアーはハンブルグに生まれる。貿易商の父の後を継ぐため、欧州の各地を回り、資本主義経済/社会に触れ、その矛盾を実感していたと思われる。しかし彼はビジネスには進まず、哲学に関心を持つ。1811年ベルリン大学哲学部に入り、フィヒテに学ぶが、失望している。
・1818年若くして主著『意志と表象としての世界』を刊行する。ヘーゲルは「世界は理性が支配している」としたが、彼はこれを批判し、「世界は欲望が支配している」とした。また「身体は意志によって動く、よって意志が根本である」とした。※本書は”意思”ではなく、”意志”としている。これもポイントである。
・彼の言葉を幾つか紹介する(※大幅に省略)。「意志の働きと身体の活動は、因果のきずなで結ばれている」「全ての表象/客観は、意志の現象である」「人間は、徹頭徹尾、意欲と欲望の具体化であり、欲望のかたまりである」。世界は理性とは程遠い欲望が支配しているとした。
・「意志と差し当たりの目標との間が苦悩であり、生は苦悩である」。この苦悩を克服するには、「世界を超克する者は、意志を捨離し、滅却し、真の自由を得て、平均的な人とは正反対の行動をする人である」とし、諦念が解脱をもたらすとした。
・彼はカントの「定言命法」(?)を否定し、カントの「万人は生まれながら道徳律を具え、それにより欲望を統制できる」も否定した。※カント/フィヒテ/ヘーゲルを否定か。

・彼は仏教もよく勉強していた。ただし誤解もあった。「無我」の意味は「我執に捉われない」だが、「エゴ(主体)がない」と誤解した。また「涅槃」は「悟った境地」だが、「全てを諦念した諦めの境地」と誤解した。仏教を理解するには仏典『スッタニパータ』を読むのが良いが、これが欧州に入るのは1881年なので、彼は手にしていない。

・『意志と表象としての世界』を出版した後、彼はベルリン大学に招聘され、ヘーゲルの向こうを張って同じ時間に講義を行ったが、受講者はほとんどいなかった。出版から30年位経ち、評価されるようになる。そこには資本主義の発達で、奢侈や金銭への欲望が社会問題になった背景があった。

・彼は主著『意志と表象としての世界』の考えを生涯変えなかったが、後半生では少し違った考えを述べている。著書『付録と補遺』(1851年)に、知性/自殺/読書/知恵/思いやりなどを平易に語っている。この作品の方が主著より名声を高めたようだ。
・その内容を紹介する。「人生は苦労して果される課役である。世界は正しく地獄である」「人の愚鈍/欠点/罪悪に思いやりを持たねばならない。それは人類の欠点なのだから」「人生は、裏切られた希望、挫折した目論見、そうと気付いた時には遅すぎる過ちの連続である」。

・「人の最高のものは英雄的な生涯である。しかし異常な困難と闘い、最後に勝利するが、酬いられる事は少ない」「天才は2つの知性を持つ。一方は自家用(※欲望?)で、自身の意志に仕えている。もう一方は世界に向かっていて、それの鏡(※鏡かな?)になる」「天分を具える人は万人が持つ生活の他に、純粋に知的な生活を営んでいる。それはゲーテに示される。我々は自負を持ち、どんな嵐にも従容とし、知的な生活に専念する事で、地の塩となる」(※使った単語が抽象的)。彼とゲーテは親交があった。

・「寂静/諦念に至る道」と「天才の精神性を見習え」とでは大きな違いがある。彼が最終的に欲望の克服をどう考えたかは不明である。
・トーマス・マンは彼に傾倒したが、それは理性中心主義を批判し、ドイツロマン主義を受け継ぐ彼の哲学思想に共感したからだろう。
※ショーペンハウアーは中々惹かれる哲学者だ。

<第3章 ニーチェ>
・1860年ショーペンハウアーは亡くなる。その前年ダーウィンは『種の起源』を発刊し、「進化論」を唱え、キリスト教の理念は揺らいだ。ドイツはビスマルクの執政(1862~90年)で富国強兵から帝国主義に向かい、1871年ドイツ帝国が成立する。ニーチェ(1844~1900年)はこの時代に生き、ドイツロマン主義後期の思想家である。

・彼は『悲劇の誕生』(1872年)を著す。この中で古代ギリシアで、いかにして悲劇が誕生したかを追求している。酒神ディオニュソスを祝う酒神賛歌は狂喜乱舞するが、苦痛・苦悩などの感情も表現した。
・その内容を紹介する。「我々は、アポロ的なものとディオニュソス的なものがあるのを発見した」。古代ギリシャにおけるディオニュソス的感情の発見は、彼の功績とされる。

・彼はソクラテスの「道徳は知(理性)の支配下にある」を批判した。しかし彼の批判は間違っている。それまでの自然哲学が「自然はどういう元素でできているか」を課題にしていたが、ソクラテスは「汝自らを知れ」と言ったように、「人間の内面を考える」のを哲学とした。当書の訳者は「ソクラテスは、理論的知識と思慮分別(知恵)の2つの『知』を、区別しないで使った」と述べている。※悲劇/ディオニュソスと知がどう関係するのか。難解になってきた。
・これは後の『この人を見よ』(1888年)でも繰り返し述べている。「ソクラテスはギリシャ解体の道具、典型的なデカダンとして認識された。つまり”本能にそむく理性主義”である。何よりも重んじられる”理性主義”が、危険で生命の根を掘り崩す暴力(?)として認識された」。彼は「理性主義」と「本能にそむく理性主義」(理性中心主義)があると考えていた。
・一般的には「ソクラテスは、初めて理性を大切にした人」で、彼の「ソクラテスは理性中心主義者」としたのは間違いである。

・「世界はアレクサンドリア的文化(※ギリシャとしていない)の網の中に捉えられており、その理想とする人間は最高の認識力を具え、科学のために働くソクラテスのような理論的人間である」とし、ソクラテスを近代科学主義(※理性主義ではなく科学主義?)の張本人とした。「ソクラテスがディオニュソス的感情を潰した」と批判するのは、まずかったのでは。※悲劇/ディオニュソス的感情は理性の対極にあるみたいだ。
・ドイツロマン主義の彼は、ディオニュソス的原理が哲学/音楽で再発見されたとして、ショーペンハウアー/ヴァーグナーを評価した。しかし後期ロマン主義は中世的カトリックに回帰する。そのため彼は失望し、「高貴な精神」という新たな考え方を構築していく。

・彼は次に『ツァラトゥストラはかく語れり』(1883年)を著し、生の大切さを主張し、超人の思想を説く。ツァラトゥストラは予言者であり、超人を目指す人物である。
・その内容を紹介する(※以下大幅に省略。)。「かつては魂が肉体を蔑み、魂が最高の思想だった。魂は肉体が痩せ衰え、飢餓の状態にあるのを望んだ。こうして魂は肉体の支配から逃れられると信じていた」「兄弟よ、私の作った神は人間の製作品、人間の妄念だった」「全ての神は死んだ。我々は超人が栄えん事を欲する」。※神から人へかな。ところで哲学者は英雄/天才/超人などを、頻繁に考える。それは彼らの願望かな。
・「世には高みを求める欲念が溢れている。君がそういう欲念を持ていないのを示して欲しい」「超克の道はあまたある。お前はそれを見付けなければならない」。
・彼は「高貴な魂」「新しい貴族」が必要と説く。「『高貴な魂』を無償で得ようとは思わない。ところが賤民は無償で得ようとする」「今日は賤民の時代である」「暴力的な支配者が現れるかもしれない。賤民/暴力的支配者に敵対するためには『新しい貴族』が必要である」「君たちは未来を生む者、未来を導き育てる者、未来の種を蒔く者にならねばならぬ」。

・彼はショーペンハウアーを評価するが、観照的態度(※観照の意味は、客観的かつ冷静に見つめる事だが?)は批判している。「『観照に幸福を見い出そう。意志を殺し、主我的な干渉と欲念を失くそう』、そう言って道を誤ったものは、その道に嵌っていく」。
・彼は行動が必要とし、ショーペンハウアーの諦念も批判する。「『人間は意欲してはならぬ』は心地良く響く。しかしこれは『奴隷になれ』とする説教である。私は『意欲するのは、創造である』と教える。君たちは創造するために学べ」。
・彼はこの本で、多くの箴言(教訓)をツァラトゥストラに語らせている。※彼の考え方は現実的だな。

・彼は『善悪の彼岸』(1886年)で新しい哲学を唱える。まずプラトンを批判する。「プラトンは精神/善について語ったが、これは真理を逆立ちさせ、生の見通し(?)を否認した」。そしてプラトン主義を悪夢と批判した。
・「キリスト教は、大衆向きのプラトン主義である」。そして「近世のジェズイット主義(※イエズス会の事だが、どんな主義なのか?)/民主主義的啓蒙主義がこれを援護した」とした。一般的に「中世のキリスト教/スコラ哲学は、プラトン/アリストテレスの哲学を使って理論武装した」と云われている。プラトンが問題なら、プラトンだけを批判すべきだが、「ソクラテスがプラトンを堕落させた」とした。

・ここからは本能と理性の問題に入り、ソクラテスとデカルトを取り上げる。彼はソクラテスを理性中心主義者としているが、ソクラテスは「知」の理性と知恵を区別していないだけで、理性中心主義者ではない。
・また「デカルトは理性のみに権威を求めた」としているが、これも誤解である。デカルトは『情念論』(1649年)で「情念を動かしているのは欲望であり、この欲望を統制するのが道徳」としている。デカルトは理性と知恵を重んじており、「情念は知恵によって統制できる」としている。よってデカルトも理性中心主義者ではない。
・彼が批判すべきは、カント/ヘーゲルの理性主義だったのでは。近代の自然破壊は、近代理性主義がもたらしたのではないか。

・彼は若い時はショーペンハウアーに傾倒していた。しかし徐々にショーペンハウアーを宗教的として批判する。しかしショーペンハウアーは後期になると、「天才を見習って努力せよ」と言っている。聖者ではなく天才であり、これも彼の批判は的を外れている。

・彼は民主主義についても述べている。「彼らが得ようとしているのは、生活の保証/安全/快適/安心を与える畜群の『牧場の幸福』である。彼らが歌い疲れた歌は『権利の平等』『苦悩するものへの同感』である」「生長は逆の条件の下で行われる」。※哲学者は何事にも批判的になるのかな。
・「キリスト教が畜群を作った」「キリスト教は自己慢心の宿業である」「『神の前における平等』を振りかざした。その挙げ句、善良で、病弱で、凡庸な畜群が育てられた。それが今の欧州人である」「今の欧州の道徳は、畜群道徳である。民主主義はキリスト教の遺産である」。
※宗教改革頃にキリスト教は権威を失い、その代わりに民主主義が芽生えたと思うが、キリスト教と民主主義は継承性が高いかな?それと欧州人は世界を植民地にしたので、善良・病弱・凡庸の反対だと思う。

・「人間界には位階秩序がある。功利主義の英国人は、控え目(?)で凡庸な人間である」「生(?)は他者・弱者を我が物にする。むしろそれが生で、生は力への意志である」。※人間は欲望のかたまりかな。
・彼は道徳を、主人道徳と奴隷道徳に分けた。そして主人道徳から生まれる高貴性を大切とした。「自己に対する信念、自己に対する誇負、『無私』に対する敵意・嫌味、同感/温情に対する軽蔑は高貴な道徳に属する」。※なんか選民思想だ。
・「今の欧州には苦痛に対する多感・敏感があり、愁詐の厭うべき無節度(?)による宗教/哲学の戯言を飾り立てる柔軟化がある。これらは徹底的に追放しなければならない」「高貴である事、独立自存である事、孤立し自己の拳で生きなければならないのが偉大である」。
・これが彼の根本思想だろう。しかし「精神の貴族性」は彼が嫌いな英国にもある。騎士道精神である。しかしこれは「強いものは弱い者を助ける」考えである。同情は個人的には侮辱になるが、社会制度となれば話は別である。「高貴な精神」を位階秩序に結び付けたのは、間違いと思う。

・彼は「民主主義はキリスト教の遺産」としたが、これも間違いである。民主主義は市民社会から生まれた。彼が民主主義が嫌いなのは、それが大嫌いな英国で生まれたからだろう。
・彼は民主化に独自の考えを持っていた。「民主化は僭主を育成する準備である」。彼は衆愚政治の到来を予見し、国粋主義の進展から僭主ヒトラーの出現を予感していた。

・彼は『道徳の系譜』(1887年)を『善悪の彼岸』の補説として刊行する。この中で「近代哲学者の同情道徳は、人間から力強さをなくした」と批判し、その原因をキリスト教とした。「イエスは貧しき者/病める者/罪ある者に至福と勝利を与えたが、それは薄気味悪く、ユダヤ人的な価値、理想の革新(※禁欲?)への誘惑だった」。彼はローマ人(?)を”高貴な民族”とし、ユダヤ人を”僧職的民族”とした。奴隷道徳は責任逃れで賤民化をもたらすとし、ユダヤ民族を”僧職的民族”とした。※キリスト教は多くの人を救ったから、広まった。
・「人は何らかの理由で苦しめられているが、魔術師(イエス)から『お前の苦しみの原因は自身にあり、過去に求めるべきだ』と示唆される。我々病人は罪人にされ、数千年に亘り、刑罰状態から解放されていない」「禁欲主義的理想は、生に対する嫌忌であり、生の根本的な前提への反逆である」。
・彼は著作『力への意志、全ての価値を転倒させる試み』を準備していると言っている。そしてツァラトゥストラに期待し、「この未来の人間は、我々を吐き気から、無への意志から、ニヒリズムから救済するだろう。この未来の人間は反キリスト者、反ニヒリスト、無の超克者で、いつか現れる」。※これが「ヒトラーの出現を予感していた」根拠か。

・彼は誤解を解きたいとして、『この人を見よ』(1888年、※3年連続だ)を刊行している。「超人は、近代人/善人/キリスト教徒/ニヒリストに対立する最高に出来の良い人間を表す」「超人は今までの価値観を転換した人」。
・この中で『悲劇の誕生』についてコメントしている。「生命の意志、これをディオニュソスと呼んだ」(※ディオニュソスは悲劇だったが?)、「この本の新しさは、?ギリシャ人におけるディオニュソス的現象の理解、?ソクラテス主義に関する理解」。
・『ツァラトゥストラはかく語れり』についてもコメントしている。「彼は誠実さを最高の徳とした。これは現実に向き合うと逃げる理想主義者の怯懦とは正反対のものである」。※彼はポジティブシンキングかな。
・『善悪の彼岸』についてもコメントしている。「この本は近代性を批判し、近代的でない典型、すなわち高貴な肯定的なタイプの人間を示している」。
・『ワーグナーの場合』(1888年)についてもコメントしている。彼はバッハ/ヘンデル/モーツァルト/ベートーベンの”古きドイツ”を懐かしみ、富国強兵によって帝国主義に突き進むビスマルク体制に不信感を持ち、ナショナリズムにも批判的だった。彼はドイツ帝国を批判し、欧州の統一を主張している。

・最後に「なぜ私は一個の運命なのか」について述べている。「私を他と区別するのは、私がキリスト教道徳の正体を暴露した事だ」「神は生の反対概念として発明された」「私はキリスト教道徳を否定する」。
・我欲についても述べている。「キリスト教は、成長に最も必要な我欲を邪悪としている」。彼は意志と欲望の違いを意識していない。「願いを持った事がない。名誉/女/金に骨を折った事がない。そんな男がいるだろうか」。人は欲望を持っているが、その解決方法をショーペンハウアーは諦念とした。一方彼は「高貴な精神」とした。
・しかし実際は欲望の統制よりも、キリスト教の批判に全力を注いだ。「キリスト教道徳の正体暴露は、類のない真の転換である。道徳の真相を解き明かすのは、一個の運命である」「私の言う事が分かるか。イエス対ディオニュソスである」。※神vs生か。

・以上、彼の主要な著作から彼の思想を辿ってみた。後にヒトラーは彼を利用した。しかし彼はユダヤ民族を僧職的民族として批判したが、ユダヤ人排斥は批判している。実生活ではユダヤ人を分け隔てしていないし、旧約聖書を褒めている。一方期待を裏切ったドイツ人は褒めていない。彼は誤解されたのである。
・ドイツでは19世紀後半に民族主義から人種主義が派生した。彼がナチズムを喚起したのではなく、人種主義が先にあった。『道徳の系譜』は1887年刊行だが、歴史学者トライチュケの反ユダヤ主義の論文『我々のユダヤ人についての一言』は1879年、外交官/文学者/ジャーナリストのゴビノーのアーリア人が最も優秀とする『人種不平等論』は1853年である。

・彼は矢継ぎ早に著書を出しているので、創作活動が順調に進んだように思われるが、激烈な頭痛との闘いだった。1889年昏倒し、1900年死去する。
・トーマス・マンは彼の何を評価したのか。近代を欲望と衝動の世界とし、ドイツロマン主義の感情や自然の重視を踏まえ、失われた生を取り戻せとした思想に共感し、神に頼るのではなく、自身で道を拓けとの考えに共感したのだろう(※長い。これでも省略)。また自然を破壊する工業化や帝国主義への批判にも共感したと思われる。
・彼はドイツロマン主義を受け継いだ。ところがゲーテ/シラーを大きく逸脱し、民主主義を否定した。衆愚政治の危険性を警告したが、民主主義の否定は彼に責任がある。※「民主主義を否定したのでヒトラーに利用された」かな。
・トーマス・マンは第一次世界大戦中に民族主義に傾くが、そんな中で書き上げたのが『魔の山』だった。

<第4章 トーマス・マンの結論>
・『魔の山』(1924年)の主人公は山にスキーに出かけ、遭難する。そこで夢を見る。ギリシャの浜辺で”太陽の子”たる若者が共同生活していた。そこには敬愛/礼儀/聡明/敬虔が感じられた。一方神殿では嬰児の殺戮が行われていた。”太陽の子”らは、その事を知っていたので、優しく労わり合って暮らしていた。「理性ではなく、愛のみが死より強い。人間社会を作る形式/作法は、愛と善意のみから生まれる」、夢がそれを教えてくれた。

・トーマス・マンは『ベニスに死す』(1912年)でも、理性と感情のせめぎ合いを描き、感情が理性に勝っている。『魔の山』でも、理性と感情の相克の回答を得ている。彼が『魔の山』で出した結論は、人間愛/ヒューマニズムの立場である。これは親交のあったヘルマン・ヘッセ/ロマン・ロランとも共通している。これはドイツロマン主義初期の理想を受け継いでいる。
・彼が見付けた人間愛/ヒューマニズムは素晴らしいが、普通の人は欲望に負けてしまい、実践するのは難しい。『魔の山』の主人公が人間愛を覚った後、「生とは欲望である」とする人物を登場させているが、二人を対決させていない。欲望の乗り越え方は回答していない。
・ピアニストのグレン・グールドは彼と同じく、欲望にまみれた世界を、どう克服するかを追求していた。そして出会ったのが『草枕』だった。

・当時社会主義運動が活発化していた。ショーペンハウアー/マルクスはヘーゲル哲学を批判した。マルクスは史的唯物論から社会変革が必要とし、ヘーゲルのドイツ観念論を批判した。しかしマルクスは主義/思想で欲望を統御できるとした。
・よってヘーゲル哲学の理性主義を最も批判したのはショーペンハウアーになる。しかしショーペンハウアーを引き継ぐ者は現れなかった。古代インド哲学から得た諦念を西洋人は理解できなかったのだろう。
・トーマス・マンは社会主義に好意的だった。第一次世界大戦後、彼の最大の課題はナチズムとの闘いになる。これについては後で述べる。

<第5章 『草枕』と漱石の苦悩>
・天才ピアニストのグレン・グールドは23歳の時、バッハの『ゴールドベルク変奏曲』をアップテンポで演奏した。この頃は悩みが何もなかったのだろう。彼は多面性があった。清教徒なので禁欲的だったが、株をやり、ラジオ番組を作った。自由奔放だが、頑固な所があった。
・彼は競争を嫌ったが、競争心は本能的なもので、若い時は桟敷席を湧かそうと、わざとらしく弾く癖を身に付けた。しかしこれに疑問を持つようになり、彼は言う。「芸術は人の心の内に燃焼を起こしてこそ意義がある。浅薄な示威行為を導いても意義はない」「アドレナリンの瞬間的な分泌にあるのではなく、驚きと落ち着きの状態を一生涯を掛けて構築する所にある」「ラジオ/蓄音機により私達は美的ナルシシズムを適切に評価できるようになり、個人がじっくり考えながら神性を創造できるようになった」。
・1964年彼は32歳で公開演奏から引退し、スタジオでの演奏やレコード製作に集中するようになる。そして35歳の時、『草枕』に出会う。

・『草枕』は旅をしている画工(画家)の非人情論(?)から始まる。彼(画工)は言う。「自分が欲する詩は、非人情の詩」「西洋の詩は、人情に関わり過ぎている。東洋の詩はそこを解脱している」。そこで彼はこの旅で非人情を実践する事にする。非人情とは、?俗世間から離れ、出生間(?)な気持ちを持つ、?自分の都合や勝手からではなく、客観的にものを見るである。
・彼が逗留した湯治場に、出戻った娘・那美がいた。美人で機知に富むが、女性としては珍しく自分を持っていた。グールドは『草枕』のタイトルを『志保田の娘』と変えてノートに記している。

・彼は彼女を画にしようとするが、表情に統一(?)がない。「軽侮の裏に、人に縋りたい景色が見える。人を馬鹿にした底に、慎み深い分別がほのめいている。表情が一致していない。不幸に圧し付けられながら、不幸に打ち勝とうとしている顔だ」。
・「仕舞に、これだと気付いた。”憐れ”である。彼女には”憐れ”の表情が全くない。彼女にその表情が表れた時、私の画は成就する。彼女の表情は人を馬鹿にする微笑と、勝とう勝とうとする八の字(?)のみである」。

・彼女の従弟が出征する事になり、駅に見送りに行った。その汽車の窓に、同じく出征する元亭主の顔があった。彼女は茫然と汽車を見送ったが、顔には今まで見た事がなかった”憐れ”が湧いた。「『それだ!それだ!』と言い、彼女の肩を叩いた。胸中の画は咄嗟の際に成就した」。
・はっきりと自分を主張し、勝ちたい自意識を乗り越えたいと思っている。そこに偶然の出くわしがあって、自然の情”憐れ”が湧いた。その時彼女の我は消え失せていた。
・グールドは彼女と同じ問題を抱え、自分を彼女に擬えていたのだろう。すなわちいかにして我執を超えるかである。

・『虞美人草』(1907年)にも”気の毒”の感情が出てくる。「”気の毒”とは自我を没した言葉である。そのため有難い」。”憐れ”も自我を没した言葉である。彼女の咄嗟の”憐れ”の表情は、”無心”の表情でもある。グールドも演奏で一番大事なのは”没入”と言っている。しかし勝ちたい自意識や我執を克服するのは難しい。
・彼(漱石)が英国留学で得たのは、「西洋の個人主義は我執や利己主義を生む」という事だった。この我執の克服が生涯の課題になる。そしてたどり着いたのが「則天去私」だった。

・グールドは彼の作品を揃えていた。『草枕』は数冊持っていた。『行人』(1913年)は、いかにしたら無心になれるかを扱っている。『こゝろ』(1914年)は、利己心の克服を述べている。『道草』(1915年)は、彼自身の欲を述べている。
・1981年グールドは「若き日の放縦な自己顕示欲だった」として、『ゴールドベルク変奏曲』を弾き直した。そこには力強さと心の落ち着きがあった。グールドがどこまで欲望を統制できたかは分からない。『ゴールドベルク変奏曲』を弾き直した翌年、早逝する。

・彼の「則天去私」は、どんな考えだったのか。『虞美人草』に西洋文明を批判する部分がある。外交官試験に合格し、西洋に赴任する者が、「西洋に行くと、綺麗な表と、無作法な裏がいる」と言っている。これは彼の英国留学による実感だろう。理性が欲望を制御できないとすると、建前と本音を使い分けるしかない。
・彼は名作を書き続けた。その創造力は驚異的である。その裏で、思想上の苦闘を続けていた。1910年彼は胃潰瘍になり、一時死線をさまよう。この時修善寺の療養生活で、縹渺(ひょうびょう)とした大自然と一体になる経験をする。また、医師/看護師の献身的な介護に感激している。これらが「則天去私」に繋がったのだろう。

・彼が「則天去私」を唱えるのは、没年(1916年)である。この考えを作品にしたものはなく、揮毫のみが残る。そのため文学論と人生論が一緒になったとされるその内容は、弟子の記憶に頼るしかない。「『則天去私』は、自分自分と云う小我の私を去って、もっと大きな普遍的な大我の命ずるままに自分を任せる事である。偉そうに見える主張/理想/主義も結局はちっぽけで、逆につまらなさそうに見えるものでも、それなりの存在が与えられる。つまり「一視同仁」(※無差別)である。『明暗』(1916年)はそんな態度で書いている」。
・「則天去私」を文学論から考える。『文章日記』(※誰の作品?)に「則天去私」の付記がある。「天に則り私を去ると読む。自然に従い、小主観小技巧を去れの意味である。文章は自然であれの意味である」。『明暗』は確かにそのように書かれている。※グールドが覚った事と一致している。

・「則天去私」を人生論から考える。”天”は「天命を待つ」「運を天に任せる」など使われているが、自然/大我/道/運命と考えて良いのでは。彼は晩年、仏教に関心を持ち、”天”を大我と言い換えている。これは「我執を捨て、普遍的で自由な我に身を委ねよ」の意味である。また”天”は自然と言い換えても良いだろう。
・人生論では「一視同仁」をどう考えれば良いのか。人間にはそれぞれ価値があり、存在意義があり、皆平等である。彼は修善寺の療養生活で、利己主義はダメと実感したのだろう。

・彼は欲念(※我執とは違うのかな)にも向き合っている。彼は立身出世を嫌い、元々世俗的価値に関心はなかった。『硝子戸の中』(1915年)から引用する。「自分の馬鹿な性質を笑いたくなった」「私は色気を取り除く程に達していなかった。嘘を吐いて世間を欺く程の衒気がないにしても、もっと卑しい所/悪い所/面目を失うような欠点を発表せずに仕舞った」。
・『道草』では自分の生い立ちを、洗いざらい客観的に描いている。”去私”は自分を客観視し、我欲を捨てる事を意味する。我執を去り、利己主義を否定し、我欲を捨てる事で西洋の個人主義の克服ができたのでは。※彼は克服した?

・彼は仏教の”悟り”にも関心を持っていた。弟子の「”悟り”とは、本能を打ち負かす事ですか」の問いに、「それに従って、それを自在にコントロールする事だな。それには修業がいる。それは逃避的に見えるが、人生における一番高い態度だ」と答えている。
・彼は「私相応の方針と心掛けで、道を修めるつもりです。気が付くと、至らぬ事ばかりです。往住坐臥(※病床?)で虚偽に充ちています」と書いている。
・当時は仏典『スッタニパータ』が翻訳されていないので、”悟り”が何かはわかっていない(※仏典ってサンスクリット語だよな。2千年以上前の仏典で翻訳されていないのがあった?)。”悟り”の後の「縁起の説」「四諦の説」が仏教思想の主となった。※仏教内でも思想の変化があるんだ。この辺り全く無知。

・彼は”悟り”の考えに到達していた。もう少し長く生きていれば、理性中心主義を超え、思想史の展開を変えていたと思われる。
・彼は文学だけでなく、政治的な活動もしていた。講演「現代日本の開化」「文芸と道徳」「私の個人主義」は有名である。1916年彼は朝日新聞でドイツの軍国主義に憂慮している。日本は国家主義から軍国主義に向かっており、これは勇気ある発言であった。※既に第一次世界大戦は始まり、「青島の戦い」は終わっているけど。
・彼は”意志の人”であり、”道義の人”であった。彼は道理に外れている事は、自分に不利になる事を顧みず、主張した。しかし残念な事に、日本は軍国主義に突っ走る。
※漱石はそんな人だったのか、彼の作品も読んでみようかな。

<第6章 チッコリーニと東洋の精神性>
・同じピアニストで東洋の精神性に共感を持った人がいた。アルド・チッコリーニ(1925~2015年)である。弟子が彼の言葉を『アルド・チッコリーニ わが人生』に残しているので、それを参照する。そこには音楽と共に、人生観についても書かれている。
・彼はイタリアのナポリに生まれ、5歳の時にはピアニストになるのを決めていた。1941年16歳の時にピアニストとしてデビューする。1943年国際赤十字に入り、従軍する。戦後は家族を養うためバーでピアノを弾いていたが、1949年「マルグリッド・ロン賞」を受賞し、仏国に移住する。

・戦後の仏国は”古き良き時代”で、彼は芸術家/大作家/俳優/大歌手と交流する。彼は「大芸術家達には、完璧を求める探求欲があった。彼らは私に哲学を教えた。そこでは作品のために自我は失われ、芸術と音楽が一体になった生き方/考え方/在り方があった」と言っている。
・しかしその後、批判に転じている。「競争/物質主義の時代になり、産業/経済が主になった。しかし今は一番凡庸な時代と思う」「文化がない文明に、将来はない」と言っている。「仏国は文化大国であったが、物質文明により退化した」と考え、東洋の精神性に共感するようになった。彼は日本を何度も訪れ、2010年84歳で訪れた時、演奏会でピアノを弾いている。

・彼は「演奏家は聴衆に音楽を提供する奉仕者に過ぎない」と言い、作曲家を尊重している。「芸術家は自己の成功には無頓着で、成功に何の誇りも見い出さない。音楽家は音楽をする事が唯一の生きる理由」「今の若い音楽家は、称賛され、特別な地位を得る事を期待している。これは取るに足らない虚しい願望だ」と言っている。
・彼もグールドも「演奏に没入するする事が大切」とした。弟子は「我々の自我を少し出した演奏を評価しなかった」と書いている。ただし彼は「演奏家の曲に対する解釈や表現は個性による」とし、個性を重視した。グールドはバッハ『ゴールドベルク変奏曲』を弾き直したが、彼は若い時の演奏を評価している。

・彼は物質文明を文化のない文明と批判したが、東洋の精神性のどこに期待したのだろうか。彼は国際赤十字での従軍を「堪え難い限界」と言っている。「人は僅かな尊厳しか残っていない時、生きる事、ものを見る事を容認できない」「この戦争は私の精神を覆し、宗教的信心を粉々に砕き、私は無神論者になった」と言っている。西洋で無神論者と公言するのは大変な事である。
・「私はキリスト教徒としての教育を受けましたが、キリスト教徒ではありません」「仏教は宗教ではなく、哲学です。仏陀は悟ったでしょうが、自分を神とは思っていません。これがキリスト教と仏教の大きな違いです」と言っている。
・彼は価値観を転換し、我欲を統御する方法を体得していた。彼は「精神の混乱を捨て、シンプルに生きられるようになった」と言っている。彼は前向きで、78歳の時に力強いCDを製作し、84歳の時には日本で演奏会を開いている。

<第7章 よみがえるシャカ>
・本章では仏教を解説する。日本を評価した先達に小泉八雲(1850~1904年)がいる。1890年彼は仏教に関心を持ち、日本に来た。当時西欧のキリスト教は揺らいでいた。同じ頃、画家ゴーギャンはタヒチに旅立っている。
・彼は「日本民族の道義的な理想は鎌倉の大仏に表れている。無限の静寂に向かい、無上の自己克服を理想としている」「この仏像は日本人の魂の中にあり、やさしさ/和やかさの全てを代表している」と記している。彼は日本に来て、仏教を相当研究した。

・シャカは紀元前5世紀頃、シャカ族の王子に生まれる。20歳頃出家したと思われる。彼は「自分の像を作ってはいけない」と言っている。一方で彼の出家は後世の作り話とする人もいる。彼は多くの思想を勉強するが、満足できるものがなかった。そのため自分で考えるために苦行に入り、菩提樹の下で”悟り”を得る(※出家=苦行?)。「無我」(捉われるな、拘るな)の思想は、彼が初めて説いたとされる。これは彼の最大の教えである。
・彼の”悟り”を知るには、最初期の経典『スッタニパータ』を読む必要がある。これに書かれているのは「欲望を統御する事、執着を超える事」である。また2つの考え方が示されている。”無常””無我”である。”無常”は「この世のものは全て変滅する。よって煩悩に捉われ、欲望を追いかけるのは虚しい」を意味する。※前者が”無常”で、後者が”無我”なのでは。

・以下に『スッタニパータ』を紹介する(※大幅に省略)。805「人は”わがものである”に執着し、悲しむ。この世のものは変滅し、常住しない。よって在家に留まるな(※出家しろ)」、806「”わがものである”と考えるものは、その人の死で失われる。よってこの観念に屈するな」、798「覚った人は、『”他のものはつまらぬ”と見なすのは、拘りである』と語る。よって修行者は、見た事/学んだ事/思索した事/戒律/道徳に拘ってはいけない」(※多様性を認めろだな)、795「バラモンは煩悩を乗り越えている。彼は執着しないし、欲を貪る事もないし、固執もしない」。”無常””無我”を教えている。

・762「人が”安楽”と称するものを、聖者は”苦しみ”と言う。人が”苦しみ”と称するものを、聖者は”安楽”と知る。解し難き真理を見よ。無知なる人はここに迷っている」、764「生存の貪欲に捉われ、生存の流れに押し流され、悪魔の領土に入っている人には、この真理は覚れない」、765「聖者以外はこの境地を覚り得ない。この境地を知ると、煩悩の汚れのない者になり、円かな平安に入る」、1086「快美な事物に対する欲望や貪りを除き去る事が、不滅のニルヴァーナ(涅槃)の境地である」、1087「この事を知り、煩いを離れた人は、常に安らぎに帰し、世間の執着を乗り越えている」。ニルヴァーナの正しい答えが、ここにある。
・問題は欲念である。自らの捉われは、欲による捉われが一番強い。その自らの欲念に気付かなければいけない。この”欲念による捉われを捨てよ”が『スッタニパータ』の根本である。彼は欲念を捨てる事で、”無我”の境地に至ると説いている。

・彼は修業の大切さも説いている。948「欲望・執着を超えた者は、流されず、束縛されず、悲しむ事もなく、思い焦がれる事もない」、933「修行者はこの教えを知り、常にこれを学べ。煩悩の消滅した状態が”安らぎ”で、ブッダの教えを怠るな」、934「彼(※ブッダ?)は自ら勝つ事もなく、他に打ち負かされる事もない。他人から伝え聞いたのではなく、自ら証する理法を見た(※体得した?)。ブッダの教えに従い、常に礼拝して学べ」。
・自分で考え、自ら証する事が大事としている。頭で分かるのは容易だが、それを修行で体得できるかが大事であるとした。近代理性主義は”理性による理解”を柱としており、これは重要な考え方である。

・これを実証する格好の例がある。田中正造(1841~1913年)である。彼は衆議院議員の職を投げ捨て、足尾鉱毒問題のために農民と闘った。彼はいつもボロボロの服を着ていた。それは農民と服を直ぐ交換したためである。彼は抗議活動により、”虚心”を体得した。
・彼は手紙や日記に言葉を残している。「諸々の欲が去れば、神は我を必ず良き事に導き、良き事を教える」「虚位(?)を覚った。これは虚心なり。誠に虚位にして、貧しかれ(※”貧しかれ”は”貧しくなった”かな)。貧しいと云う文字もなくならん。天国を我物にしたと覚れり」「天に尽くせば、必ず報いを賜う。世上の欲張りもこの理を知らば、私を捨て、天に仕うべし。欲張りよ、その私を捨てよ。欲を去らば、私を捨てるを得なり」。

・彼の「欲を去る」の考えは、仏教の”悟り”や、漱石の「則天去私」と一致する。これが日本独自の思想だった。
・”悟り”の契機は、苦に直面した時が多いのでは。しかし必ずしも修行が必要な訳ではなく、金/権力/地位/名声などの世俗的欲望に惑わされず、自分が大切とする生活(?)を送っていれば、平静が得られるだろう。

・もう1つ重要な事があった。欲求と欲望の違いである。八雲は、何かになりたい欲求と、何かを所有したい欲求の違いに至った。「何かになりたい望みは、それが大きいほど賢い。他方何かを所有したい望みは、それが大きいほど愚かである」。何かになりたい欲求は、向上心に繋がるが、何かを所有したい欲求は肥大化し、欲望に転化する。生の根源は欲求であり、これを否定できない。問題は欲望であり、これをどう統御するかである。※この考えは面白い。

・シャカは、「悟りを得た後は、慈悲を実践しなければならない」とした。143「境地に達した人は、能力あり、直く(?)、正しく、言葉優しく、柔和で、思い上がる事がない者であれ」、149「母が己が独り子を命を賭けて護るように、生きけるものどもに無量の慈しみを起こすべし」。
・彼の最後の言葉は、「ヴェーサーリー(※地名)は楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。・・」「成果は美しいもので、人間の生命は甘美なものだ」であった。彼を見ると2500年前の人には見えない。人間の中味は進歩していないのだろう。

・近代理性主義は「欲望は理性で統御できる」とするが、欲望は本能に根差しているため、理性より強い。そのためこれは土台無理である。そのため漱石が喝破したように、建前と本音を使い分けるしかない。従って、”無我”(欲念に捉われるな、捉われている自分に気付け)と”悟り”(世俗的な欲望のむなしさを体得する)の教えは、近代文明が抱える問題の克服に有意義である。※欲望が世俗的である以上、それは難しいかな。

<第8章 自然との共生、共生社会>
・トーマス・マン/グールド/チッコリーニ/漱石、皆自然が大好きだった。漱石がロンドンに留学する10年位前に、八雲は来日している。彼がまず驚いたのが、日本人の自然への接し方だった。彼は生花について述べている。「日本人は余りに自然を愛している。花の持っている美しさを活かし、挿したり、活けたりする。葉と茎の映り具合なども心得ている」。※解釈を間違っているかも。
・「東洋人は西洋人のように自然を見ていない。彼らは自然をリアリスティックに見ているし、自然を詳しく知っている。一方西洋人は自然を擬人化して見ている」「日本人は自然現象(山水の風景、霞、雲、落日、鳥、虫、花)に強い喜びを見い出す力を持っている」。※日本には季語がある。
・「コオロギの素朴な歌声に、夢の国を呼び覚ます事ができる国民である。我々西洋人は彼らに学ばなければならない。我々は機械学では誇れるが、彼らは自然から喜び/楽しさを感じることができる」「しかし我々が破壊したものの魅力、悔恨の驚きを悟るのは、自然の美を実利/卑俗/粗雑/醜陋に極め、楽園を荒廃させ、不毛の地にした後だろう」。西洋の近代文明は人間中心で、自然は単なる対象のため利用/破壊を行った。※19世紀末に自然破壊はあったかな。石炭による大気汚染かな。

・自然に対する考え方で、極めて日本的な考え方をした人物が田中正造だった。「故郷を離れても魂は小中(※地名)にある。唐沢山の桜/氷室山の雪が目に浮かぶ。越名の沼/渡良瀬/旗川/秋山川/菊川才川も近くに見える」。
・彼は人間と自然が一体なのを述べている。「人は天地に生まれ、天地と共にす。安心も立命も皆、この天地の間に充てり。美は和を得る要、和は天地を合す」(※大幅に省略。当時の文章は難しい)。人と自然は共生しなければならない。そしてこの共生は人間同士の和、共生社会を生む。
・日本は米作を中心とし、水の管理/田の共同作業で共生社会を築いてきた(※共生にも自然との共生と、人間同士の共生がある)。「水の心を以って心とせば、労さず費さずして治水の効を奏する事多くして、反動氾濫の虞なかるべし」「治水は造るものにあらず。治とは自然を意味し、水は低き地勢によれり。治の義を見れば明々たり」。※こんな難しい文章が続くので、大幅に省略。しばらく同様に対処します。

・彼は西洋文明の受け入れで、自然との共生が危機にあると言っている。「今日の日本の惨状は一朝にあらず。亡国の原因は様々あるが、国土の天産と自国の長所を捨て、何もかも附加随心(※従う意味かな)、長短皆西洋にかぶれ、ついに畳の上に泥靴で上がる滑稽の有様となり、災いが入り来る」「今の政治に今の国民を見る。岩船山は奇景の独立山なり。営業者争って石材を伐る。山の風致を破るに頓着なし」「政治も然り。争って天然に疵け(※きずけ?)、また人心を破るなり。今の如きは、岩船山を崩して千万年の天然力をこぼちて、一時利を争うに過ぎず。人生の惑い、ここに至って極まれり」。※彼は足尾鉱毒問題に奔走した人だからな。
・「物質上、人工人為の進歩のみを以ってせば、社会は暗黒なり。電気開けて世間暗夜となれり。然れども物質の進歩を怖るるなかれ。この進歩より更に数歩進めたる天然および無形の精神的発達を進めば、いわゆる文質彬々(※外面と内面が調和)知徳兼備なり」。彼は産業化を否定している訳ではなく、「精神面も発達させないと、負の側面が出る」と言っている。「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」「古来の文明を野蛮に回らす(?)。今の文明は虚偽虚飾なり、私欲なり、露骨的強盗なり」。

・彼の主張は「自然を壊すな、故郷を壊すな」だった。「谷中堤内380戸と仮定し、各自宅に樹木竹林を有して風波除けとせり。以って風波少なかりし。谷中虐待(?)は悉くこれを伐り払いて後は、1千町の里距に渉って空々漠々の広野となり、わずかに憲法擁護民のみ16戸残存せるに、風浪已然に幾倍せり。・・」(※後半省略。虐待とは足尾鉱毒問題による立ち退きかな)。「国家を見るは一郷を見れば足れり。郡中に亡滅せり村あれど行きて見ず。況やこれを救うべきか。谷中村は人生の地獄なり。しかも県民および議員来たり見る者もなく、人民官吏の虐待を受けるも、対岸の火災程にも見ず。これ決して人類の生息せる国家と云わざるなり」。

・彼の抗議にも関わらず、政府は日露戦争の銃弾のため、足尾銅山の増産を止めず、帝国主義路線/軍国主義路線へ突き進んだ。彼は日露戦争に反対し、小国主義/貿易立国を主張した。彼は日本的思想を持っていた。※田中正造の文章は難解。たった100年前の文章なのに。

・同じ頃、小泉八雲も西洋文明の負の部分を指摘している。彼は『ある保守主義者』の題で、欧米に文物を学んだ青年に、物質文明の光と影を語らせている。「西洋の偉大さは知的な点にある。一方で精神的理想はない。その知性は弱肉強食の道具に使われた」「日本は外国の科学を習得し、物質文明を採り入れる必要がある。けれども古来からある正邪の観念/大義名分の理想は捨ててはいけない」。
・また西洋文明についても述べている。「西洋が辛苦して生み出したものは、人間が生存劇を演じ尽くすまで消滅しない」「自然から無数の秘密をもぎ取った。何万という学問の体系を立て、近代人の頭脳を中世人の頭蓋骨に入りきれないまで膨張させた」「繊細な感情と、崇高な感情を発達させたが、一方で他の時代になかった利己主義/苦悩を発達させた」。

・また彼は、日本の支配層や若いエリートがそれらを理解していないと危惧している(※文明開化だったからな)。「西欧の状態は利己主義を十二分に発揮した上に成立している。西洋では社会的な乱脈は眼中にない。それがそのまま悪い社会状態になっている」(※西欧は従来から階級/格差が存続しているのかも)、「西洋流儀を好む日本人は、自国の歴史も西洋流儀に書き換えたいのか。自分の国を西洋文明の新天地の実験台にしたいのか」。
・彼は『日本人の微笑』の題で、西欧の物質文明を追いかける日本に、「日本の良い所を捨ててはいけない」と忠告している。「日本の若い世代は、過去の日本を軽蔑しているが、西欧人が古代ギリシャを回顧したように、回顧する時が来るだろう」「簡素な娯しみを忘れた。純粋な喜びに対する感性を失った。自然への親しみを忘れた。芸術を忘れた。これらの忘却を哀惜する日が来るだろう」「昔の日本がどんなに輝かしいか、思い出すだろう。古風な忍耐、自己犠牲、礼節、人間的な詩情。これらを失った事を嘆き悔やむだろう。その中で最も悔やむのは、神々の微笑だろう。それは自分達の微笑だったのだから」。

・正造/八雲が憂慮した通り、日本は軍国主義に突き進み、国民310万人を死に至らしめた。それでも懲りず、公害を引き起こし、物質文明に邁進している。
・近代文明を支える思想は2つある。1つは理性を建前とし、本音を欲望とする考え方である。もう1つが人間は何でも可能で、自然をも支配できる人間中心の考え方である。
・日本には自然と共生する伝統があった。その共生の思想を幾つか列挙してみよう。※一杯ある。
-共生の精神-
 相手の立場/考えを認め、相手をおもんばかる。
 多様性を認め、「自分は絶対正しい」の考え方を止める。
 皆で協力し、弱者を助ける。
 他人任せにしない。
 利己主義にならない。
 世俗的欲望に捉われず、何が大切かを考える。
 暴力は禁止する。
 頭を下げる謙虚さを持つ。
-自然との共生-
 自然を大切にし、守り育てる。
 人間も自然の一員である事を自覚する。
 人間が何でもできるとは思わない。
 命を大切にし、全ての生物を大事にする。
 食物は安全を第一とし、農薬等の使用を控え、遺伝子組み換えなどは行わない。
-共生の社会-
 働く事の大切さを重んじ、働きやすさや全員の福祉を図る。
 環境を守り、サスティナブルを第一とする。
 食料自給を目指し、第一次産業を大切にする。
 生命倫理を守り、自然に反しない。
 原子力発電など、自然に反する科学は使わない。
 公共を大切にする。
 郷土を大切にし、郷土と地域の文化を守る。
 郷土と国家を同次元に考える。
 戦争をせず、外交で解決する。

・近年物質文明の負の部分が明らかになってきた。第5章以降で、漱石の「則天去私」、正造の「虚心」、シャカの「悟り」を見てきたが、それらは同じ事を言っている。大括りに纏めると、「自分が欲望に捉われている事に気付き、その世俗的な価値のむなしさを知り体得した時、我執の克服/欲望の克服/価値観の転換が達成される」と云える。
・この「欲望の統御」と「自然・社会との共生」の2つの思想によって、近代理性主義は克服され、”安らぎ”の世界が訪れるだろう。

<第9章 闘うヒューマニズム>
・トーマス・マンはナチズムと闘ったが、その経緯を見よう。ナチ党は「国家社会主義ドイツ労働者党」の略称であるが、社会主義でもなく、労働者の党でもない。
 1918年11月 ドイツ革命が起こり、皇帝退位。ドイツ敗戦。社会民主党がドイツ共和国を宣言。
 1919年8月  ヴァイマール憲法施行。
 1920年1月  第1回ナチ党大会。
 1921年6月  ヒトラーがナチ党党首となる。

・彼は再三、ナチの台頭に警鐘を鳴らした。1922年10月彼の講演『ドイツ共和国について』を見てみよう。彼は初期のドイツロマン主義のノヴァーリスを取り上げ、「彼は愛/死/夜を謡ったが、民主主義/共和国についても考えていた」「ドイツロマン主義は国民的要素と世界主義的な要素が素晴らしく結合していた」と述べた(※結合の内容が不明)。彼は共和制を称賛し、ヴァイマール共和国体制を擁護した。
・当時、学生や市民は「共和制は連合国に押し付けられた」と考え、これを受け付けなくなっていた。そのため彼は共和制を取り戻そうと熱弁を振るった。※巨額の賠償金が不信の原因かな。

・1923年ヒトラーは暴動を起こし、逮捕され、獄中で『わが闘争』を口述し、1925年出版される。『わが闘争』の中味を見てみる。
 独裁が最上で、議会制民主主義は最低である。
 真の理想は全体主義で、個人の関心/生命を全体に従属させる事である。
 大衆の力を評価し、これを利用すべきだ。社会主義の言葉は、そのためにある。ただし大衆は無知・愚鈍なので、扇動する必要がる。※その通りの国になった。
 ブルジョアジーも堕落している。
 暴動は是認する。宣伝/扇動を評価し、演説を重視する。
 国家主義と社会主義の結合を図る。※スターリン主義と同じかな。
 国家主義に対立するのがユダヤ人が推進する社会主義で、これを絶滅しなければいけない。※反ユダヤ思想が明確だ。
 敗戦は人種問題で、ユダヤ人に対し危機感を持つ必要がある。
 アーリア人種が最も優秀で、ユダヤ人はエゴイストである。
 ゲルマン民族の純粋性を維持しなければいけない。ゲルマン民族の国家を作るのが党の目標である。
 ドイツ民族は国家を維持するため、東方/ロシアへの進出が必要である。
・以上が『わが闘争』での要点だが、もっともな意見の後に、自分勝手な意見に持って行っている。超過激な思想を、隠す事なく述べている。

・1929年トーマス・マンはノーベル文学賞を受賞する。翌年10月彼は講演『理性に訴える』を行う。この前月国会選挙があり、ナチ党は12議席から107議席に急増した。彼は「過大な賠償金により困窮している所に、世界恐慌による経済危機に襲われ、大衆は経済のみに感情・思考が向いている。ナチ党躍進の原因は、これだけではなく、人種主義に毒された後期ロマン主義が、国家社会主義を支援している点にある」と述べ、「シラー/ゲーテの初期ロマン主義に戻れ」と述べる。
・ナチスは後期ロマン主義を利用し、ニーチェも利用された。上記2つの講演から、教養ある市民が、なぜヒトラーを阻止できなかったかが分かる。1つは、共和制は連合国から押し付けられたとする考え方で、もう1つは、人種的偏見に毒された後期ロマン主義にあった。

・次に彼は共和制/社会民主主義を擁護している。「ナチスの国家主義は、暴力による独裁である。社会民主主義は、割の合わない敗戦処理を引き受け、国家を救った」と擁護する。
・さらに彼は政治家グスタフ・シュトレーゼマンの活躍を述べている。シュトレーゼマンは自由主義者で、戦勝国と信頼を築き、賠償問題/領土問題を有利に解決した。「彼は社会民主主義に支えられ、仕事を行った」「ドイツ市民が立つべき立場は社会民主主義である。これはドイツの精神的伝統である」。さらに彼は独仏協調が一番大切と述べている。彼の政治判断は全く正しかった。
・1933年3月彼は『リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』を講演する。彼はナチスがバイロイト音楽祭(?)などでヴァーグナーを利用するのを非難した。彼は「ヴァーグナーは民族主義的だったが、欧州的な考え方も持っていた」と述べた。この欧州的な考え方はナチスが嫌う考え方だった。
・この講演後、彼はヴァーグナーを語るため、欧州に旅行に出る。しかしヒトラーが独裁権を得たため、帰国できなくなり、チューリッヒに亡命する。

・1933年1月ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に指名する。ヒトラーは政権を握ると激変する。共産党議員を逮捕・投獄し、国会から共産党を追放する。3月全権委任法を成立させ、独裁権を獲得する。1934年8月ヒンデンブルク大統領が死去し、ヒトラーが総統兼首相となる。
・1932年11月国会選挙では、社会民主党と共産党の議席を合計すると、ナチ党の議席を上回っていた。しかし両党は1919年スパルタクス派の暴動以来、対立が続いていた。※共産党を潰した事が独裁が始まる直接の原因になった。
・大戦後の経済混乱に世界恐慌が重なり失業者は増え、さらに経済は混乱した。この経済混乱に的確な政策を取った事で、ナチスは台頭した。特にヨーゼフ・ゲッペルスを情報宣伝相に就かせ、大衆を扇動させた点が大きい。また商業・金融を握っていたユダヤ人を標的にした。※弱い敵を攻撃する。よく使われる戦術だ。

・1932年失業率は32%だったが、1939年には3%に低下する。1933年ヒトラーは首相に就くと、アウトバーンの工事を再開し、さらに河川改修/土地改良/公共建物の建設などを始める。これらは「労働奉仕制度」に基づいて行われた。この制度で失業者を安い賃金で働かせ、まずゼネコンが利益を上げ、続いて様々な部門の企業が利益を上げ、雇用は拡大した。この政策は散々けなした社会民主主義の経済政策だった。※ヒトラーが権力を握った過程や政策は、別で学んだ。

・もう1つの疑問が「ヴァイマール憲法がありながら、なぜヒトラーを止められなかったのか」である(※ヴァイマール憲法は最先端の憲法だった)。この憲法は大統領の権限が強過ぎた。1925年その大統領にヒンデンブルク大統領が就いた事が混迷の始まりである。彼はユンカー(地主貴族)出身の軍人で、第一次世界大戦では軍の最高司令官だった。そのため彼は貴族/ユンカー/資本家を優遇し、共産党を怖れ、ヒトラーに甘くなった。※ヒンデンブルクの件は初耳だな。
・『わが闘争』は国民の1/3が手にした。国民はヒトラーがいかに危険か分かったはずである。国民は民主主義をまだ理解できていなかったと云える。ニーチェが「民主主義は衆愚政治に陥る」と予言したが、当たってしまった。トーマス・マンは「ドイツでは民主主義革命が起こっていない」と言っている。※ドイツも日本も同じだな。ドイツは第一次世界大戦後に、日本は第二次世界大戦後に連合国により民主主義に転換された。

・しかしヒトラーが台頭するも、ヒューマニズムは失われなかった。第二次世界大戦末期、反戦ビラを配った学生たちが処刑されている。処刑された兄妹の姉が『白バラは散らず』を書いている。それを見てみる。
・ヒトラーの独裁は狂気じみて行った。失業救済は軍需に向けられ、「生に値せぬ生」(※障害者の件かな)はガス室に送られ、ユダヤ人もガス室に送られた。
・ショル兄妹は『白バラ通信』を配った。そこには「僕達は人間の自由が死んでいない事を示すべきだ」「国家社会主義は悪質な精神病だ。ドイツ国民はそれに捕われている。じわじわ錯乱されている時に、傍観も沈黙も許されない」「ヒトラーは人格の自由を奪った。それはドイツ人にとって、最も尊き財宝である。彼の欺瞞でそれを失った。彼にそれを返却せよと要請する」。

・ヒトラーは密告を奨励し、秘密警察(ゲシュタポ)を強化した。政権を批判した者は続々と処刑された。ショル兄妹の兄ハンスは、断頭台で処刑される時、「自由万歳」と叫んだ。彼らの行動は、若き故の純粋な行動であった。しかし彼らの行動は、後のドイツに、人間の尊厳とヒューマニズムを示した。
・一方20世紀最大の知性と称される哲学者ハイデッガーはナチスを支持した。彼が『わが闘争』を読まなかったとは考えられない、彼の政治判断能力は『白バラ通信』の学生達より劣っていたと云える。第二次世界大戦の死者は6千5百万人で、そのうち市民が4千5百万人である。

<第10章 安らぎの国は幻か>
・チッコリーニは日本を褒めたが、今の政治は文化を大切にしていない。ピアニスト/バイオリニスト/バレリーナが世界で賞をもらっているが、それらは個人の努力による。OECDによれば、日本の教育への公的支出はビリから2番目で、ノルウェーの半分である。
・八雲は「日本は伝統の思想に、仏教/儒教をうまく取り入れた」と評価した。しかし西洋の思想に対しては、支配層が無条件で取り入れており、懸念している。それは原発再稼働に見られるように、東日本大震災後の今も続いている。

・政府が国民を無視する驚くべき事例がある。1990年代政府は米国の要望で、ケインズ主義から新自由主義に転換した。しかし政府はこれを国民に一切説明していない。※金融の自由化は米国の圧力だったな。
・今の世界は新自由主義で運営されている。これを思想で支えているのが、表は理性だが、実体は欲望の近代理性主義である。「市場の自由に任せる」とし、スタートラインを不平等のままにしている。また大きな間違いは、グローバル化と新自由主義を一体化させている事である。北欧諸国は別の経済体制でグローバル化に対応している。グローバル化に新自由主義が必然なのではない。※これは誤魔化されているのか。
・新自由主義は「金融市場の自由化」「労働コストの削減」が二大政策である。これによりバブルの生成・破裂、失業者/リストラの増加、派遣労働者の拡大、非正規社員の3倍増、ワーキングプア/貧困世帯の増大、ブラック企業の増加、長時間労働の定常化、名目賃金の十数パーセント下落などをもたらした。

・しかし新自由主義の破綻が目立ってきた。英国は移民問題/格差問題から国民の怒りが爆発し、EU離脱を決めた。
・米国の大統領選では、民主社会主義のバーニー・サンダースが若者の支持を得て、善戦した。もし副大統領にクリントンを指名していたら、勝利しただろう。指名しなかったのは民主党も共和党も多国籍企業に支配されているからである。
・トランプは白人労働者を救えないだろう。彼は自由貿易を保護貿易に変えると言っているが、多国籍企業に有利な二国間協定を結ぶだろう。日本は真っ先にその標的になる。
・韓国は李明博大統領の時から新自由主義が強められている。

・2016年11月の日本経済新聞の記事を見る。「IMFはネオリベラリズムは行き過ぎたと自省している」「米国では上位10%の所得層が、全体の所得の50%を得ている」とある。日本も40%近くあり、貧困・格差は進行している。
・「新自由主義はトリクルダウンを唱えている。それならば10%の富裕層/370兆円の内部留保を蓄えた大企業に課税せよ。『国民総活躍』を唱えているが、90年代の中高年のリストラ、2000年代の若者の非正規化に続き、今度は女性が狙われ、『国民総労働』になる」「『働き方改革』も会社がやり易くなるだけ。90年代後半、自由な働き方を標榜し、結局労働者の4割が非正規雇用になった。もし本気なら派遣労働法を元に戻せ。微々たる助成金では企業は動かない」「経営者もいい加減に気付け。会社は株主だけのものではない。西欧で企業の社会的価値が話題になっているが、これは日本に元々あった経営理念である」。※結構過激な記事だ。

・世界情勢はナチズムの時代に似てきており、欧州では極右勢力が勢いを増している。オーストリアでは極右の大統領が誕生しそうになった。極右勢力は移民の排斥を訴えているが、その背景は貧困・格差である。
・トランプ大統領の勝利は、格差の拡大を移民の所為(せい)にし、白人労働者を味方につけた事による。これはナチスと同じやり方である。新自由主義により貧困・格差は拡大し、移民/イスラムが敵視され、民族主義/人種的偏見が始まりつつある。

・日本の現状も危うい。2016年7月神奈川県の障害者施設で19人が殺害され、戦後最大の殺人事件となった。
・2014年夏からの円安で景気が良くなったが、憲法学者が憲法違反と言っている中で、政府は集団的自衛権の行使を容認した。これまでは米国の圧力で円高にされていたが、米国が金融政策を転換したため、円安を認めた。
・政権のマスメディア介入も問題である。NHK会長に政権に近い人物を送り、政策を批判したキャスターを降ろさせた。こうして憲法改正を目論み、国防軍の創設を主張している。さらに緊急事態条項の新設も狙っている。ナチスは緊急事態条項(全権委任法)で独裁に導いた。

・東日本大震災の時、国民は伝統の共生を示した。この共生の精神で国を作っているのが北欧諸国で、高度な福祉国家を築いた。歴史的に勝ったのは、資本主義社会でも共産主義社会でもなく、北欧型福祉社会だった。社会が良くならなければ、”安らぎ”は得られない。

・以上、欲望の統制/我執の克服/自然との共生/共生社会を述べてきた。我々は問題解決のポテンシャルを持っており、近代理性主義を克服できる。八雲は「西洋かぶれの青年が行った間違った政治は、自分達で正そう」と言っている。20世紀が”戦争の時代”なら、21世紀は”共生の時代”にしよう。
・世界の潮目は変わった。国家主義ではなく、北欧型福祉国家/共生社会/”安らぎの国”に向けさせよう。今、日本の民主主義の成長が問われている。

<あとがき>
・2016年8月天皇陛下がビデオメッセージで「お言葉」を表明された。「皇后と共に全国を訪れ、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人の存在を認識した。天皇の国民を思い、国民のために祈る務めを成せた事は、幸せな事でした」。この天皇陛下の”お気持ち”を法制化するのが、国民の務めである。

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