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『マラッカ海峡物語』重松伸司を読書。

英国のアジア貿易の拠点の一つで、マラッカ海峡の北端に位置するペナン島を解説しています。
同じ居留地の上海/神戸との比較、様々な海商・移民の解説、ジョージタウン市街の解説などがあり、大変面白い。

ペナン島に関しては当然だが、華僑、インドのヒンドゥー商人・ムスリム商人、アルメニア商人などについて知れた事は嬉しい。

お勧め度:☆☆☆(局地的な歴史の解説は好み)

キーワード:<海峡を掘り起こす>マラッカ海峡、ペナン、ベンガル湾、移民、ワン・ファゾム・バンク、モンスーン、<租界、居留地、ジュージタウン>海峡植民地、セットゥルメント/コンセッション、上海租界/市参事会・工部局、神戸居留地/居留地会議・行事局、公共事業局(PWD)、<海峡とモンスーン>風待ち、上水、ビンロウ、コショウ、海峡植民地、要塞、<海民と開拓者>インド商人、アチェ、ブギス、ハドラミー、フランシス・ライト、英国領インド、都市建設、<居留地ジョージタウンの誕生>通り、チュリア、華人/華僑、流刑囚、守備兵、年季契約移民、カトリック、<居留地ペナンの誕生>査定者委員会、21ヵ条の提言、間口税、道路委員会、通貨、財政、防火、治安、<変貌するペナン>欧州人/華僑/インド系/マレー人、会館/会党、サンガム、<シントラ、ポルトガル人街から日本人街へ>栽培業/鉱業、娼館、日本人会/慈善活動/廃娼活動、墓、<マラッカ海峡のアルメニア社会>1688年協約、家族単位、多地域間交換交易、モウゼ商会、船舶/通信、アンソニー商会、サーキーズ兄弟、<華人街の頭目>建徳会/義興会、カピタン/会党、辜禮歡、大伯公、ラルート械闘、客家、孫文、<ベンガル湾を渡ったインド人>クリン/チェッティ/チュリア、カピタン/カーディル・ムハディーン、モスク、ヒンドゥー寺院、<おわりに>多民族社会、史実

<はじめに>
・本書は題名を”物語”としているが、小説やフィクションではなく、歴とした史実である。それは歴史は”語り”と思うからである。また”マラッカ海峡”(※以下、海峡)としているが、海峡の北端に位置するペナン島をテーマにしている。※副題は「ペナン島に見る多民族共生の歴史」。

・ペナン島(※以下ペナン)は、イギリス東インド会社(※以下、東インド会社)が居留地を設けた場所である。ペナンは海峡の入口にあり、東南アジアの入口でもある。ちなみに海峡の長さは南北800~900Kmである。
・世界にはホルムズ/ボスポラス/ドーバー/ダーダネルスなどの海峡があるが、マラッカ海峡はそれらとは違い、大事件を起こしていない。それは多民族が共存していたからである。

・ベンガル湾海域の調査を始めたきっかけは、1970年南インド内陸の小村で、マレーへの移住経験がある自作農との出会いである。1985年から、マドラス(チェンナイ)/カルカッタ(コルカタ)/バングラデシュ/ミャンマー南部/マレーなどを調査した。2001年から、海峡/スマトラ島/ジャワ島などを調査した。ベンガル湾海域でどの様な文明が形成されたのか、どの様な人々が活動したのか、彼らの子孫は今どうしているのか、などを調査の目的とした。

・これらの現地調査と文献資料から、『マラッカ海峡のコスモポリス ペナン』(2012年)を上梓し、大学で講義を行った。これを書き直したのが本書である。
・ペナンは海峡の北端にあり、島の北東にジョージタウンがある。その18~20世紀を描いたのが本書である。そこでは多民族による域圏交易、華人によるアヘン/錫を巡る競合、4度の大火、マラリアなどの疫病、華人間の武力紛争(械闘)、マレー系/インド系も巻き込んだ大抗争などがあった。そんな多民族が対立・共存した世界を描く。

【第1部 海峡の植民地ペナン】
<序章 海峡を掘り起こす>
・ペナンから海峡を南下すると南シナ海に出る。西に進むとスマトラ島北端の港市アチュに着く。さらに西に進み、ベンガル湾を横断するとセイロン島/南インドに到達する。ペナンから北西に進むとプーケット島/クラビーに着き、さらに進むとビルマ(ミャンマー)のヤンゴン、ベンガルのカルカッタ(コルカタ)に着く。要するに南シナ海/ベンガル湾/アラビア海/インド洋など、アジアの主要な海域に連結している。

・この海峡は、『新唐書』(11世紀)/イブン・バットゥータの旅行記(14世紀)/鄭和の航海記(15世紀)などに記述がある。しかし多くは海峡の南半に関する記録で、タイ/ビルマなどの北半に関する記録は少ない。そこで本書は海峡北端に位置するペナンの近代に焦点を当てた。
※海峡が斜めに走っているので、北半は海峡の北岸(マレー側)、南半は海峡の南岸(スマトラ側)と誤解していた。そうではなく北半は海峡の北西部、南半は海峡の南東部です。
・18・19世紀ペナンは英国の勢力下にあったが、様々な民族が蝟集し、それぞれの民族が躍動する小世界だった。

・15~18世紀の大航海時代/大海洋帝国時代の研究は盛んだが、ペナンを中心とする研究は少なかった。2011年ペナンで国際共同シンポジウム『ペナンとインド洋』が開かれた。ここでの問題提起は、①「アジアの都市の近代化」の契機をペナンとボンベイ(ムンバイ)で比較する、②ナレッジ・ハブ(知識・情報集積点)としてのペナンだった。
・シンポジウムでの報告の多くは、アジア間地域交易に関する考察で、交易品の流れや、交易に従事する中国/インド/マレー/インドネシアの商人が掘り起こされた。中でもバドゥリヤ・ハジ・バトゥの論文で、18~20世紀のペナンにおけるムスリム・コミュニティの交易活動は斬新だった。

・ベンガル湾の中心から半径1200Kmの円弧を描くと、セイロン島/ポーク海峡/インド東海岸/ガンジス川デルタ地帯/ミャンマー南部/アンダマン諸島/海峡北端/マレー西岸/スマトラ島北端が包摂される。そのためこの海域には幾つもの航海ルートがあり、多数の港市が点在した。
・主要なルートは2つある。1つはマドラス(チェンナイ)~カルカッタ(コルカタ)~ダゴン(ヤンゴン)を結ぶ「縦断ルート」である。このルートは現地や欧州の商船が利用し、ビルマ産のルビー/米/銀/染料、インド産の綿花/綿布/米/染料などが交易された。※ペナンまで来ないのか。縦断ルートと云うより沿岸ルートの方が適切かな。
・もう1つは、ベンガル湾を横断し、ネガパタム(ナーガパッティナム)~マドラス~マラッカ~ペナン/アチェを結ぶ「横断ルート」である(※マラッカとペナン/アチェは逆では)。インド産のコショウ/米/綿布/銀、マレー産の木材、スマトラ島の米/樟脳/錫/染料などが交易された。しかし近代になると南インドからの移民がこのルートを利用した。

・インド西岸の交易に比べ、インド東岸の交易の研究は少ない。それは東岸は遠浅で岩礁が多く、南西モンスーンの風波が激しく、荷の積み下ろしが不便だった事による。※余り関係ないのでは。
・そのため東インド会社は海岸沿いに、南北600Kmの「バッキンガム運河」を構築した。この運河は生活物資の輸送/ヒンドゥー寺院の巡礼路として利用されるが、大量輸送としては機能しなかった。※バッキンガム運河は知らなかった。

・19~20世紀「横断ルート」の役割は大きく変わる。それまでは商人が利用していたが、南インド/ベンガルの移民の移送路になった。南インドの港市からマレーの港市に移動し、そこから内陸に移動した。これはモンスーンによる季節的な移動だった。またベンガルの囚人/傭兵(セポイ)も英国領マラヤに送られた。※英国領マラヤは、海峡植民地にマレー連邦/マレー非連邦を加えた範囲。
・近代以前は、海の民「マラッカイヤール」、ムスリムの「チュリア」、ヒンドゥー商人「チェッティ」、西アジアのアルメニア商人、インドネシアの海民などがペナン/アチェを拠点に交易していた。

・海峡の中央、スエッテナム(クラン)の西方に「ワン・ファゾム・バンク」と呼ばれる岩棚地帯があり、水深3~10mの砂州が、幅1.6Km/長さ8Kmに亘って広がっている。ここは航海の難所のため、植民地政府は灯台を設置した(1852年、1874年、1907年)。この「ワン・ファゾム・バンク」を境に、潮流・風量・景観が大きく変わり、海峡を南北に分ける境界になっている。
・季節風モンスーンには「南西モンスーン」「北東モンスーン」がある。海峡の北半はモンスーンの影響をあまり受けないが、南半(特にシンガポール周辺)は影響を強く受け、潮流が激しい。※海峡の狭さが原因では。瀬戸内海はそうだと思う。
・そのため海峡の北端にあるペナンは、海域が広く、水深が深く、風待ちに適していた。東インド会社はこれらを認識し、ここに拠点を置いた。

-コラム マラッカ海峡とモンスーン
・モンスーンはアジアの気候/風土/生態系に大きな影響を及ぼしている。「南西モンスーン」(4~9月)はマダガスカル島付近で発生し、インド洋/南インド/ベンガル湾/東南アジアと北上する。一方「北東モンスーン」(10~3月)はヒマラヤ上空で発生し、北インド/東南アジア/ベンガル湾と南下する。※北東モンスーは北西から吹く感じ。

<第1章 租界、居留地、ジュージタウン>
・海峡のマレーシア側には3つの港市がある。北からペナン/マラッカ/シンガポールである。1826年東インド会社はこの3港市を割譲させ、「フォーリン・セットゥルメント」(海峡植民地)とした。
・「セットゥルメント」は中国では「租界」、日本語では「居留地」になる。ペナンは英国人が居住・駐屯する「コーンウォリス要塞」と、様々な民族が居住する「ジュージタウン」を包摂した。
・広義の「セットゥルメント」は「セットゥルメント」「コンセッション」の2つの方式に分かれる。「セットゥルメント」は、現地の土地所有者と外国人(設定国)が直接貸借を行う。一方「コンセッション」は、設定国が現地政府から土地の永租権を得て、その土地を希望者に払い下げる。しかし厳密には区別されておらず、時代により変わり、混在する事もあった。また租借地の家屋・土地・人・経済が設定国に収奪され、植民地に変貌する事もあった。

・以下に上海租界/神戸居留地/ペナンを比較する。上海は水郷で、長江/黄浦江/太湖などに囲まれる。清はアヘン戦争で英国に敗れ、1842年「南京条約」を結び、上海/寧波/福州/厦門/広州を開港する。1845年「上海土地章程」(第1次)で、租界の領域/居住権限/土地貸借/管理/運営/交易が規定される。この「上海土地章程」は、1854年/1869年に改変されている。
・「上海土地章程」は23条で、主な内容は以下である。
 租借地の境界は、北は李家場(北京東路)、東は黄浦江、南は洋涇浜(延安東路)だが、西は不確定。
 租界には外国人(英国人)のみが居住できる。
 土地の貸借は「セットゥルメント」方式による。
・上海は「セットゥルメント」方式だが、天津/広州/厦門は「コンセッション」方式だった。また領事館は租界の南にある上海県城に置かれた。

・上海租界は狭小で、1845年外国人は約90人だった。ところが1848年米国租界、1849年仏国租界が設立され、同年英国租界と米国租界が併合された共同租界が設立される。1853年秘密結社「小刀会」が蜂起し、中国人の避難民が租界内に流入し、租界の人口は2万人に増大する。「上海土地章程」で定めた「華洋分居」は、なし崩しに「華洋雑居」に変わった。
・清は第2次アヘン戦争(アロー戦争、1856~60年)でも敗れ、上海周辺の激変にも対処できなかった。一方神戸居留地は、「日米和親条約(1854年)」「日米修好通商条約(1858年)」などの「安政5ヶ国条約」で友好的に設立された。
・「上海土地章程」は外国人の「租界」、中国人の「華界」を分けていたが、物理的に遮断する城壁などはなく、往来は自由だった。「華界」に住む中国人は故地/出自/職業も様々だった。こんな地理的・社会的環境なので、法的な「租界」「華界」は機能しなかった。

・1858年6月江戸幕府は「日米修好通商条約」「貿易章程」を結ぶ。続いて7月オランダ/ロシア/英国、9月仏国と同様の条約を結ぶ。これらの条約は天皇の勅許を得なかったので「仮条約」だったが、通商はこれで行われた。
・1859年6月神奈川(横浜)/長崎/箱館は開港する。1867年3月将軍徳川慶喜と外国代表との会談で、神戸の開港が決定する。兵庫津は人家が密集しており、居留地の造成が容易な神戸に変更される。

・神戸居留地の特徴を幾つか挙げる。①「兵庫大坂規定書」では租借方式には「セットゥルメント」「コンセッション」の両方式が設定された。1868年3月伊藤俊輔(伊藤博文)は居留地拡大のため、日本人と外国人の雑居を認めている。その多くは中国人で、神戸は”和華欧併住”のコスモポリスになった。
・②明治政府は居留地を外国人だけに留める意図はなかった。1891年の記録では、外国人は317人しかいなかったが、外国人商館で日本人1171人/中国人168人が下働きしていた。
・③外国人が自由に旅行できる「遊歩地」を定めた。神戸を中心に半径10里としたが、京都は立入禁止にした。
・④「計画都市」が行われた。舗装された街路、赤レンガの歩道、下水道の整備、94基のガス灯など環境が整備され、西欧型の都市になった。

・次に上海租界の工部局/神戸居留地の行事局/ペナンの「公共事業局」(PWD、Public Work Department)の行政機構を解説する。
・上海では英国領事オールコックの提唱で、1846年商人3名による「道路・埠頭委員会」が設立される。1854年「上海土地章程」(第2次)でこれは廃止され、「市参事会」(英国7名、米国1名)に代わる。この「市参事会」の下に実務執行機関の「工部局」が置かれた。「工部局」の目的は、社会基盤の建設・整備で、外交・軍事/対外交渉は除かれた。
・この財源は寄付金/拠出金だったが、滞るようになる。また「小刀会」の蜂起などにより、治安維持(警察権)が主な職務になる。

・神戸居留地にも自治組織「居留地会議」が設立される。構成員は各国の領事(英国、米国、仏国、ドイツなど)、選挙で選ばれた居留地民代表(行事)3名、兵庫県知事だった。その下に土木/警察/財務/墓地の委員会が置かれた。
・1868年行事の選挙で、グラバー商会のマッケンジー(英)、スミス・ベーカー商会のブライデンバーグ(米)、アスピナル・コーンズ商会のハイネマン(独)が選ばれる。翌年居留地38番に「行事局」が置かれ、「居留地会議」の執行機関になる。
・神戸の「居留地会議」は、上海の「市参事会」と違い、順調に運営される。それは資金の確保が順調だった事と、「居留地会議」に兵庫県知事が参加し、調整が機能したからである。横浜/長崎では自治機能は途絶えている。※同じ日本でも違うんだ。

・英国の植民地支配で重要な役割を担ったのが「公共事業局」(PWD、Public Work Department)だった。この前身は「王室港工務局」で、元々は国内の王城の建築・維持を行っていた。しかし19世紀英国の海外進出で、在外公館の建築・維持も行うようになった。ペナンでは、シンガポール/インド/上海などに先立ち、1820年代にPWDが設置された。
・PWDは租借地では港湾・道路・橋梁・河川、さらに学校・病院・教会などの建設・維持を行った。しかし植民地下では東インド会社/英国政府による支配維持のための権力組織となった。

・第4章で詳述するが、ペナンでは1807年ペナン総督府により「道路委員会」が組織され、東インド会社により囚人労働で要塞/市街地/水源地/道路/橋梁/病院などが建設される。しかしこの委員会は、やがて税務/警察などの権限を得て、複合的な権力組織に変容する。これは神戸居留地とは異なるが、上海租界とは共通する。

・ペナンはカメに似ている。”右前脚(北東端)”にジョージタウンがある。厳密には、このジョージタウンのみが「セットゥルメント」である。「セットゥルメント」は現地語(マレー語)では「バンダル・フェリンギー」となる。「バンダル」は”都市”、「フェリンギー」が”異人”を意味する。「フェリンギー」は日本語だと”紅毛人””南蛮人””異人”などになる。
・ペナンは海峡の北端に位置した事が他の租界地と異なり、欧州人だけでなく様々な民族が雑居する。※神戸もコスモポリスと云っていたが、ペナンの方が多民族かな。

-コラム 史伝と文学
・ペナン島史/マラッカ海峡史の叙述が困難な要因は、史伝の欠如にある。16世紀に書かれたマラッカ王統誌『スジャラ・ムラユ』があるが、これは伝承/神話が中心で、客観的でない。
・アブドゥッラー・ビン・アブドゥル・カーディルの自伝『アブドゥッラー物語』(1960年)は史実として評価される。彼は様々な血を引くマレー・ムスリムで、マレー語/タミル語/英語に堪能で、東インド会社で通訳/翻訳/教師として働いた。

<第2章 海峡とモンスーン>
・インド亜大陸には年2回のモンスーンが吹く。大陸から突き出したマレー半島/ボルネオ島/ジャワ島/スマトラ島なども含めて広域ベンガル湾海域圏と考えられる。この海域では、モンスーンはインド内陸部とは異なる様相になる。
・モンスーンはボルネオ島を境に大きく方向転換する。南西モンスーンは、ベンガル湾では南西から北東に吹くが、ボルネオ島の東では南東から北西に吹く(※要するにハの字だな)。一方北東モンスーンは、ベンガル湾では北西から南東に吹くが、ボルネオ島では北東から南西に吹く(※要するに逆ハの字だな)。※ボルネオ島辺りの話は、余り関係ない話だが。
・インドの海商は南西モンスーンが始まる5月に南インドを出港し、マラッカ海峡に到着し、1月に北東モンスーンで南インドに戻る。一方東南アジア/中国の海商は北東モンスーンで12月にマラッカ海峡に到着し、6月南西モンスーンで東南アジア/中国に戻る(※南東から北西に吹くのに戻れるの?)。アラブ/インド/マレー/中国/ジャワ島の海商はモンスーンを利用しペナン/マラッカなどに到着し、半年間の「風待ち」をした。

・東インド会社の最大の課題は良質な飲料水の確保だった。水の確保はコレラ/マラリア/火事の三大災害に直結した。1786年フランシス・ライトがペナン行政長官(実質的な副総督)に就く。彼が最初に取り組んだのが、飲料水の確保だった。
・『ペナンの過去と現在 1786~1963年』(以下、ペナン史)に、「1792年住民は1万人に達したが、多くの者が熱病に斃れた。1794年ライトもマラリアで命を落とした」とある。ライト通りに天水貯留槽が置かれていたが、飲用には適さず、放置された。ジョージタウンから南西に6Km離れた滝から樽に詰め、牛車で運ばれたが、容易でなかった。
・ライトを継いだ副総督ジョージ・リースの課題も、兵士/商船への水の補給だった。『ペナン史』に「給水船がペナン川に向かい、そこで水を汲み、満潮時に運搬した。しかし利用者からは不満が相次いだ」「リースは東インド会社に水を水源から導水管で引く事を提案した」とある。

・「1805年リースの後を継いだロバート・ファクァールにより、南西6Km離れたウオータフォール地区から貯水池まで導水管が引かれた。導水管は幅9~10インチ/高さ7~9インチだった。さらに貯水池からは船や市街地の各戸に配水された」。この上水プロジェクトは当時のアジアでは画期的なプロジェクトだった。
・無料であった上水が課税された事に不満はあったが、1877年導水管は口径16インチに替えられる。さらに1884年アイヤー・イタム地区に広大な貯水池が建設され、幹線道路に水路が通り、2000戸/7万人に配水されるようになる。※1戸35人になる。
・上水税は市の主要な財源となる。1887年ジョージタウンの税収は17.8万スペイン・ドルだったが、その内4.2万スペイン・ドル(24%)が上水税だった。

・ペナンは年間2600~6200mmの降雨(※差が大きい?)により熱帯雨林になっている。そのため19世紀半ばまで、ジョージタウンや漁村を除いて”無住の地”だった。
・マレー人は自生する多年草類/果実類(マンゴー、ドリアン、ジャックフルーツ、スターフルーツ、スイカ、オレンジ、ドラゴンフルーツ、ライム、ランブータン、バナナ、マンゴスティン)でビタミンを取っていた。また外来のココナツ/サトウキビ/タマリンド/パパイヤ/パイナップルなどもペナンで栽培されるようになる。島の中央部では米作がなされ、南部では熱帯果樹や香辛料(コショウ、ニクズク、ニッキ、ナツメグ、クローブ、タマリンド、ターメリック)が小規模の農園で栽培されるようになる。

・ペナンは古くはマレー語で「プラウ・ケ・サトゥ」(最初に見える島)と呼ばれていた。確かに海峡に入って最初に見える島がペナンである。15世紀初めには「ビンロウ」と呼ばれており、鄭和(1371~1434年)の『鄭和航海図』には「檳榔嶼」(びんろうしょ)と記されている。ポルトガル人も「プロ・ピノム」(ビンロウの島)と呼んだ。ビンロウもピノムもヤシ科の植物である。これを英語にすると「ペナン」となる。
・ビンロウは現地では珍重されたが、欧州人はその効能/嗜好に嫌悪感を持ち、欧州に輸出される事はなかった。オランダ人リンスホーテンの旅行記『東方案内記』に、ビンロウに関する記述がある。「女達はベーテルの葉と石灰とアレッカ(ビンロウジ、ビンロウの種子)を一緒に噛む。これを噛むと酔ってきて、目まいがする。女達は一日中噛んでいる」。これは東南アジアの人には不可欠で、飢えや労働の疲れを癒し、また男女関係や儀式でも重要な役割を果たした。今でも台湾/中国南部/東南アジア/インドでは根強い人気がある。

・東インド会社がペナンを領有した18世紀以降も、島はビンロウの原生林で覆われた。ペナンが輸出するビンロウの87%(1828年)は島内で産出され、インド/東南アジア/中国に輸出された。19世紀になると、島内産のビンロウは地消され、アチェ/スマトラ島から輸入した物が輸出されるようになる。※アチェはスマトラ島の北端だけど。
・ビンロウは欧州に輸出する事はなかったが、コショウは2世紀に亘って需要があり、「スパイス革命」を起こした。

・1794年ベンガル総督府税務局トーマス・グラハムは、ペナンの経営戦略『ペナンの農・鉱・漁業経営建策』を立てている。「ペナンは錫・鉄を産出するが、ここ10~15年は鉱山開発を中止し、密林の開拓をすべきだ」「現状は耕作予定地が7千オルレン(エーカー)あり、さらに果樹園/水田があり、ココナッツ/ベーテル(ビンロウ)/コショウの樹木がある。これに野菜・根菜/タバコ/ベーテル/綿花/コーヒー/藍/サトウキビのプランテーションを営農すれば、密林は農業経営地に転じる」「この様な農業振興策と交易推進で、ペナンの交易/産業は最大化する」。
・行政長官ライトと商人ジェームズ・スコットは、グラハムの建策を基にコショウの栽培/交易に取り組む。17世紀半ばにコショウの商品価値は低下していたが、18世紀末になって参入する。

・1792年アチェの海商がペナンで輸入した物品は、砂金(17%)/ツバメの巣(15%)/錫(12%)/綿布(12%)/米(9%)/コショウ(5%)で、一方輸出はアヘン(55%)/綿布(21%)/スペイン銀貨(9%)である。ペナンで扱ったコショウ/アヘン/綿布/砂金/ツバメの巣/錫/銀貨は島外産品で、中継交易を行っていた。※何か変。アヘンを輸入していない。まあペナン全体ではなく、アチェ単独の輸出入と云う事で。
・ライトは森林を開拓し、米/コショウ/ビンロウを生産する計画を、対岸クダーの華人カピタン・辜禮歡に伝える(彼は第9章で詳述)。1792年彼はアチェからコショウの苗を輸入し、アイヤー・イタム地区(※貯水池を作った地区)/スンガイ・クルアン地区で栽培する。1792年1000t/1802年1200t/1806年1800tのコショウを収穫する。
・島内産のコショウでは不十分で、1826年ペナンにアチェ産コショウ(55%)/スマトラ産(43%)が輸入され、カルカッタ/中国/英国に再輸出された。輸出先は75%が英国だった。※肉食の欧州人はコショウを重宝した。

・19世紀初めの状況が続けば、ペナンは”コショウの島”になっていた。ところが欧州政情の激変で、英国はコショウの市場を失う。1805年仏国(ナポレオン)は「トラファルガー海戦」で英国に大敗する。この対抗措置として、仏国は「大陸封鎖政策」を行い、英国商船の大陸寄港を阻止する。1805年ペナンのコショウ農園は放棄され、熱帯雨林に戻る。

・ライトの後を受けた副総督リース(在1800~04年、※大陸封鎖前に退任している)と総督代理マカリスタ(在1807~10年)は次の構想を打ち出す。①造船所の設置、②海軍基地の建設、③国際貿易港の建設、④東南アジアの天然資源の独占。
・海軍提督のマカリスタは、「ペナンはベンガル湾の東部にあり、南西モンスーンの影響が少ない。またペナンの木材は船舶に適する」として、①②を強く主張した。しかしペナン周辺の木材は船に適さず、また資材(鉄、釘、銅など)を英国から運ぶには遠く、①②は実現しなかった。

・軍港・造船所が実現しなかったのは物理的・地理的な要因より、欧州の政情が大きかった。1796年から19年間のナポレオン戦争で英国は「大陸封鎖」を受けるが、アジアでの商戦は絶対的に有利になる。そのためペナンに軍港・造船所を作る必要はなかった。また東インド会社は赤字経営で、そのお金もなかった。※東インド会社は赤字なんだ。
・リース/マカリスタの構想を実現するのは、その後シンガポールを築くスタンフォード・ラッフルズで、シンガポールは国際的な政治・経済の拠点になる。

・ペナンは東インド会社のベンガル総督府の1支庁だったが、1805年英国インド領の第4総督府になり、1826年ペナン/マラッカ/シンガポールが「海峡植民地」になる。英国による直轄支配になり、資源/物流/情報を一元的に支配する政策の下に置かれるようになる。
・この3郡は、いずれも海峡に面し、展望が開けた場所にある。ペナンにはコーンウォリス要塞、マラッカにはサンチャゴ要塞、シンガポールにはセントーサ島要塞群がある。しかしこれらは小規模な要塞である。一方カルカッタのウイリアム要塞は5K㎡あり、深い堀に囲まれている。マドラスのセント・ジョージ要塞も同様に大規模である。
・ペナンは海峡の北端にあり、オランダ/仏国の東インド会社、ブギス族(※スラウェシ島の部族)、ビルマ/タイから南下する王国勢力から東インド会社の商船を守る必要があった。マラッカもスマトラ島と最短距離にあり、またマレーのスルタンからも守る必要があった。シンガポールのセントーサ島にはシロソ要塞/コンノート要塞/インビア要塞が作られた。何れも小規模だったが、海峡/ジャワ海/南シナ海からの侵入を防げた。19世紀末英国は覇権国だったが、ロシアの南下を怖れ、セントーサ島の軍備が増強された。

-コラム 水と租借地
・英国のアジア支配に飲料水の確保は緊要な問題であった。マドラス/カルカッタでは井戸水を水源としたが、疫病に悩まされた。マラッカでは市内の小川から水を得た。シンガポールはジョホール海峡を経たジョホール州から水の補給を受けた。上海は太湖/長江などを水源とした。神戸は六甲山系の伏流水や、”布引の滝”の水を飲料水とした。ペナンは滝谷地区(※ウオータフォール地区?)の滝水や、アイヤー・イタム地区の湧水を水源とした。この点ではペナンと神戸は共通している。

<第3章 海民と開拓者>
・ペナンはライト(1786年行政長官)が上陸する前は”無住の地”だった。「海民」の明確な定義はなく、彼らは多様な職能を持ち、港市/島/内陸/山間に住んだ。ポルトガル/スペインの艦隊や欧州の東インド会社も「海民」に含まれるかもしれないが、本書ではアジアの海域を往来し、海にまつわる生業を営んだ人々に限定する。
・彼らの生業は、漁労/海賊/傭兵/陸産品と海産品の交換/海域での交易/水先案内人/通訳/農業・商業との兼業など多様であった。彼らは職能を固定化せず、国境などの境界に拘らず、彼らの掟(?)に従って自由に航海した。

・18世紀半ばまで、インド商人は欧州/アジアの海商と自由に交易を行っていた。インド商人には、南インド内陸での交易を主とする商人集団バリジャ/バンジャラ/シルグッタ/バラハリ、テルグー地方(※南インド東岸みたい)の商人集団コーマティ/ベリ・チェッティ、南インド内陸で商農を兼業するピッライ/ムダリヤール/レッディ/ナイドゥがいた。中でも、金貸しも行った「チェッティ」やタミル・ムスリムの「チュリア」は、ベンガル湾/ビルマ/マレーで広域交易した。
・さらに「ベンガーリー」(※ベンガルの人かな)はカルカッタ/ビルマ/海峡で交易を行い、マラヤーラム地方(ケーララ、※南インド西岸みたい)出身の「マラヤーリー」「マラバーリー」などもアチェや海峡に到来した。
・「チェッティ」「チュリア」「マラッカイヤール」については、第2部で詳述する。

・マレーシアの14世紀以前をたどるのは難しい。マラッカ王国(※建国は1402年頃)以前は「プレ・マラッカ史」とされる。ペナンも18世紀以前から定住/往来した人々があったと思われるが、実態は不明である。
・東南アジアの「海民」には、シンガポール/リアウ諸島のオラン・ラウト、ボルネオ島/スラウェシ島海域のバジャウ、タイ南部~海峡北部のモーケン、マカッサル海域のマカッサル人、スマトラ島西側のミナンカバウ、スマトラ島北端のアチェ人がいる。これらの中で、アチェ/ブギス/ミナンカバウは活発に交易を行った。

・これらの「海民」の生業は農・商・漁・海賊など複合的で、不定期に移住した。しかしインドと東南アジアの「海民」では自在性・融通性が異なる。インド商人は南シナ海以東で活動する事はなかった。また一部は農業を兼業したが、大半は商業に専従した。これはカースト制度によるものか、ヒンドゥー教によるものか考察が必要である。

・アチェはスマトラ島の北端にあり、海峡/アンダマン海/ベンガル湾の接点にある。16世紀「アチェ王国」(1496~1903年)はオスマン帝国と同盟し、コショウ貿易を独占する。
・18~19世紀ペナンとアチェの交易は盛んであった。その有力な商人にトゥンク・サイエド・フセインがいる。彼はアチェのスルタンの孫で、1790年頃ペナンに定住する。彼は関税が免除され、ペナン~アチェ~カルカッタの交易を支配する。1815年彼はペナン総督府に3万スペイン・ドルを貸与している。後にマレー人コミュニティのカピタンに任じられる。

・スラウェシ島を拠点とするブギスは、東南アジアで最も著名な「海民」である。焼畑・水稲を行う一方、造船・航海・戦闘・交易を得意とした。その能力を活かし、海峡/ベンガル湾で海賊・傭兵・水先案内人・商人として活躍した。
・ベンガル総督府税務局のグラハムは彼らについて記録している。「彼らはルンギ(腰巻)/木蝋/金を輸出している。9月頃ペナンに来て、金を売り、アヘン/反物/鉄/硝石/硫黄/スティック・ラック(染料)を買っている」「彼らはアヘンと引き換えに、金の貨幣鋳造権を無税で得ている。結果として金の輸入を妨げている」。
・この記録から以下が分かる。①彼らは金/アヘンなどを媒体に、ペナンで交易していた。②彼らはペナンで金貨を鋳造していた。その権益はアヘンで決済された。「ルンギ・金の輸出-アヘンの輸入-金貨の鋳造-金貨の流通-地域商品の交換」の循環交易が行われていた。

・商人集団にアラビア半島南端のハドラマウト(イエメン)出身の「ハドラミー」もいる。有力者にポンティアナク(ボルネオ島西端)のスルタンになったサイイド・アブドゥル・ラーマン、シアク(スマトラ島中部)のスルタンになったサイイド・アリなどがいる。彼らは東南アジアで交易し、定住した。※イエメンは今でも刀を差しているのでは。
・後述するマラッカの教師アブドゥッラーは自伝で述べている。「私の曾祖父はイエメンのウスマン家の出身で、宗教・語学の教師だった。彼は南インドで教えた。子供が4人いたが、長男はマラッカに移り住み、彼が私の祖父だ」。

・1786年行政長官ライトは、ペナンを皇太子を讃え「プリンス・オブ・ウェールズ島」と命名するが定着しなかった。ペナンの中心都市は国王ジョージ3世から「ジョージタウン」と命名され、要塞はベンガル総督チャールズ・コーンウォリスから「コーンウォリス要塞」と命名される。1800年対岸のスルタン領クダーを攻撃し、一部を割譲させ、その地域をインド総督ウェルズリーから「ウェルズリー州」とする(※ベンガル総督がインド総督に改称されたのは1833年だが)。1805年ペナン/ウェルズリー州が英国インド領の「第4総督府」となり、1830年まで続く。

・ライトのペナン占有の6年後の1792年、ペナンの人口は1万人を超える。その多くはマレー人や華人だった。1835年の人口調査では、4万207人とあり、その内訳はマレー人1万6435人(シャムの攻撃で逃げて来た)、インド系9208人、華人8751人、欧州人790人、アラブ人/シャム/ビルマ/ゾロアスター教徒/アルメニア人など3千人弱である。コロニストには、森林の開拓、市街地の割当と徴税、水の確保、治安維持、多種民族の統治、交易・港湾の管理などの問題が山積となる。※征服者ではなくコロニストを使っているのは、著者の気兼ねか。

・スタンフォード・ラッフルズは「シンガポール近代の父」として知られ、彼の上陸地点には立像が睥睨している。彼の名は地名/公共建築/花などに残る。1805年彼はペナンで書記官補として地方行政官の歩みを始めている。一方ライトは「ライト通り」「ライト祠堂」に名を残すが、ラッフルズほど著名でない。
・1600年東インド会社が創設され、初代総督にジェームズ・ランカスターが就いた。海洋商人だったランカスターは、少なくとも3回、インド/東南アジアを周航している。1回目の航海は、1591年4月プリマスを出港し、喜望峰/インド洋/ベンガル湾/アチェをを経由し、1592年6月ペナンに上陸している。9月マラッカに出港し、遭難するが1594年に帰着する。当時はアチェと比べ、ペナンは重視されていなかった。

・ライトに関する評伝は少ないが、『オックスフォード・英国人名辞典』(2004)から紹介する。1740年彼はサフォークの裕福な地主の下に生まれる。1759年王立海軍に入隊し、1765年マドラス商館員として守備に当たる。彼はマレー諸島を航海し、アチェ/クダーに商館を設立する。1771年ブギスによるクダー攻撃が激しくなり、彼はクダーのスルタンから沿岸港市やペナンの統治を委ねられる。1786年クダーのスルタンと東インド会社が防衛協定を結ぶ。同年クダーで内乱が起こり、ペナンを割譲させ、10月彼が初代行政長官に就く。ここから居留地としてのペナンが始まる。

・ライトが上陸した際の人数は、19名(彼の部下5名、民間人14名)だった。民間人は貿易商(2名)、酒保/船大工/浸水防止作業員/樽職人/農園主/仲買商/鍛冶職人/大工/小売商/揚陸作業員/水夫/造船技師(各1名)だった。
・彼は上陸すると、クダーからマレー人労働者を徴集し、森林を伐採させる。森林開拓のため「開発許可証」「境界測量証」を乱発したため、後に土地を巡る争いが頻発する。彼のペナン開拓は非計画的だった。

・彼と対照的な人物に、彼の息子でオーストラリア南部のアデレードを開拓したウイリアム・ライトがいる。『オックスフォード・英国人名辞典』には、父ライトは半頁、息子ライトは2頁書かれている。
・1786年ウイリアムはペナンに生まれる。母はポルトガル人とマレー人の混血だった。6年間ペナンで過ごし、サフォークに送られる。1799年英国海軍に入隊し、ナポレオン戦争、マドラスへの入隊、スペイン独立戦争、エジプト軍の傭兵などを経て、1834年貧窮する彼はアデレードに赴任する。アデレードは”不毛の地”だったが、10Km内陸(現アデレード)に公園都市を計画する。※苦労しているな。
・1830年代英国で、貴族のものだった農園・庭園・狩場を、市民が共有する「パブリック・パーク」の概念が生まれる。彼はそれをアデレードで実現した。原生林を乱開発し、多民族都市を作った父と、公園都市を作った息子は、共に名を残した。※面白い話だ。

・ライトは森林を乱開発し、「境界測量証」を乱発し、1794年行政機構が未整備のまま死去する。1805年ペナンが英国インド領の「第4総督府」になり、1830年総督府は廃止される。この25年間が、”ペナン開拓前史”と云える。※1826年ベンガル総督府の下に海峡植民地が成立とある。
・第2代行政長官フィリップ・マニントン(在1794~95)は、市街の環境・衛生のため、店舗・土地への課税を打ち出す。第3代行政長官マクドナルド(在1795~99)は、税関/病院/刑務所/道路などを整備する。
・1800年副総督が置かれ、初代副総督にウイリアム・リース(在1800~04年)、第2代副総督にタウンゼント・ファクァール(在1804~05年)が就く。中でもリースの功績は大きく、以下の特徴がる。①1801年130人だったインドの囚人労働者を、1805年772人に増員させる。②1801年検察官兼判事を任命する。③地権を確定し、徴税を確保する。1800年「土地査定者委員会」が組織される。同委員会の目的は上記だが、道路/排水施設の監督も行った(第5章で詳述)。

-コラム ピオン(peon)
・マレーにはインド移民によるインド文化の伝播・定着が見られる。タミル人の労働者/ベンガルからの流刑囚/パンジャーブ兵などは「ピオン」「ピユン」と総称された。現在でも「ピオン」は軍隊では雑兵として、役所・会社では雑用掛として使われている。水路建設やレンガ造りなどのインフラ整備や治安維持に携わった彼らこそ、開拓者である。

<第4章 居留地ジョージタウンの誕生>
・ジョージタウンは計画都市ではなく、欧州のコロニスト/海商/断続的に到来する移民により作られた。18世紀末からの1世紀で国際都市ジョージタウンは作られた。※ジョージタウンは首都クアラルンプールに次ぐ第2の都市。

・ジョージタウンの概要は以下となる。①コーンウォリス要塞と兵営。その南の欧州人の居住・商業地(ライト通り)。②欧州人の避難地(司教通り、教会通り)。③華人の集住地(華人通り)。インド商人の集住地(チュリア通り)。アルメニア商人の所有地(アルメニア通り)。アチェ人の集住地(アチェ通り)。④華人/インド人/マレー人の商業地(市場通り)。⑤インド移民への恩賞地(ピット通り)。⑥ポルトガル系ユーラシア人の仮住地(シントラ通り)。⑦新開地(カーナボン通り、大臣通り、華人墓地、プロテスタント墓地)。※地図あり。③⑦は散在している。
・これらはジョージタウンの北東端から南西方向に扇状に拡張した。初期はライト通り/海岸通り/チュリア通り/ペナン大路に囲まれた台形状だったが、19世紀末には6K㎡まで拡張する。
・上海は租界/華界、神戸は居留地/雑居地/外地、インドはホワイトタウン(要塞、商館、居住地)/ブラックタウン(インド人の居住地)の二極に分かれていた。しかしジョージタウンの場合は、欧州系/中国系/インド系/東南アジア系が集団で集住し、穏やかに棲み分けていた。

・チュリア通りは海岸通りから西に延びる2Kmの通りで、華人街に次ぐ繁華街である。1810年頃から南インドのムスリム海商「チュリア」が急増し、ここに集住する。チュリアとは別のインド商人でマラヤーラム出身の「マラヤーリー」やベンガル出身の「ベンガーリー」も移住した。
・この地区には、1820年頃から広東人も移住し、同郷会館「広東連合会館」/華人学校「五福書院」が建てられる。さらに対岸のウェルズリー州のゴム農園で財を成した潮州出身者も移住し、1864年同郷会館「潮州会館」/1930年代「潮商会館」が建てられる(※潮州は広東省東部にある)。これによりチュリア通りは、インド商人と華人の共存の場になる。
・1810年ペナンの総人口(東インド会社の社員を除く)は1万3885人で、インド系5604人(40%)/華人5088人(36%)/マレー人2069人(15%)/ポルトガル系ユーラシア人790人だった。1822年には、総人口1万3781人で、チュリア4996人(36%)/華人3313人(24%)/マレー人3367人(24%)となる。

・1788年ベンガル総督府は長期刑囚人をペナンに流刑する決議をする。1790年ペナンは最初の流刑囚を受け入れ、その後4200人の流刑囚を受け入れる。1827年ペナンの総人口3万9千人に対し、1300人(3%)が囚人だった。※総人口が上記と全然違う。上記はジョージタウンで、これはペナンかな。
・英国とオランダの外交関係も囚人増加に影響した。1824年「英国オランダ協定」で、マラッカは英国領、ベンクレーン(ベンクル)はオランダ領となる。そのためペナンはベンクレーンの囚人800余を受け入れる。
・流刑囚は6つのグループに分けられていた。①模範囚で、収容所外で労働できた。②足鎖はなく、囚人監視/ピユン/風扇掛/召使に従事した。③執行猶予後、片足鎖付きで労働できた。④簡易鎖付きの新参流刑囚。⑤殺人/強盗/盗賊/逃亡者などの重罪犯。両足鎖付きで重労働を科された。⑥女性/老齢者で、足鎖はなく、軽労働を科せられた。※重罪は⑤だけかな。

・彼らはペナンの建設に当てられた。マングローブの湿地帯は干拓され、要塞・兵営/居住地が数年で整備された。アタップ葺き(?)の小屋は、素焼きレンガ造りの近代都市に変わった。ペナンに必須なのは、レンガ/漆喰の製造、道路の開削、港湾の浚渫・整備、上水路の敷設、教会/要塞/商館/市庁施設の建設だった。
・特に囚人が担った最大の事業は、6kmに及ぶ上水工事だった。彼らはジョージタウンの南東端、ペナン河口に定住し、レンガ製造、漆喰材の石灰作り、水路の掘削に当たった。この地区は「レンガ窯通り」となる。彼らには、必需品を買うための最低限の手当てが支給された。

・1790~1860年にインドからペナン/マラッカ/シンガポールに、1万5千人が流刑された。しかしインドの情勢が流刑に影響を与える。1857年「インド大反乱」(セポイの反乱)が起き、ペナンは「囚人が反乱を起こすのでは」との危惧から、囚人の受け入れを拒否する。これによりインド囚人は再びアンダマン諸島に送られるようになり、ペナン建設は契約移民労働者や華人クーリーに依存した。

・ペナンの守備・治安は東インド会社兵士と、北インド出身のインド人傭兵「シパーヒー」(セポイ)が担います。1824年「第1次英国ビルマ戦争」が起き、「シパーヒー」が徴集されます。1826年停戦したため、「シパーヒー」を含めた1700人の軍人・軍属がペナンに駐留します。また「シパーヒー」だけでなく、ベンガルなので徴集されたベンガル連隊もペナンの守備に当たります。※国連軍はバングラデシュ(ベンガル)の人が多いはず。
・1834年ペナンに南インドのマドラス歩兵中隊/砲兵隊が派遣されます。彼らは南インドのタミル語/テルグー語を話すため、南インド出身の移民が多いペナンには適任だった。ペナンの守備は北インド/ベンガルの兵士から、南インドの兵士に変わっていった。
・ジョージタウンの南域には勇猛果敢な「パンジャービー」が駐屯した。彼らの駐屯は遅く1881年以降となる。この頃、錫鉱山に関係する紛争が頻発した。この対応のために徴集されたのが「パンジャービー」だった。1897年彼らはこの功績で「レンガ窯通り」の一角を与えられ、そこに彼らの宗教であるシク教の寺院(グルドワラ)が建てられ、通り名もグルドワラ通りとなる。
※パンジャーブは領土問題があるカシミールの直ぐ南にある。パンジャーブの歴史も複雑で、シク王国/ジャンムー・カシミール藩王国などがある。

・19世紀半ば、マレーシアでは錫鉱山やゴム/紅茶/コーヒー/コショウ/ガンビールなどの大農園で、大量の労働者が必要だった。華人/英国人の経営者は、「年季契約移民」と云う奴隷に近い方法で労働者を調達した。
・19世紀以前からマラッカ/シンガポールには「海峡華人」(旧華人)がいた。19世紀になると、広東/海南/潮州などから年間数千人の「年季契約移民」が殺到する。彼らは「新客」「新家」などと呼ばれた。
・「海岸通り」の南端がアンソン橋で、そこから南西にペナン川までが「ブリッジ通り」である。ここに福建省からのクーリーが多く住んだ。そこからさらに南の「ジュルトン地区」「グルゴール地区」にはコショウ農園が広がった。また市街西郊の「バツゥ・ガントゥン地区」/南西郊の「バツゥ・ランチャン地区」には福建人の墓地が広がった。「ブリッジ通り」は広東系の秘密結社「三合会」の縄張りで、福建出身の首領/堅徳の華僑集団との間で激しい攻防が続いた。
・この抗争に対応するために徴集されたのが、北インド/ベンガルの傭兵「セポイ」、北西インドの「パンジャービー」、南インドの「マドラス警察」だった。

・1834年英国で奴隷制度が廃止される。それで生まれたのが「年季契約移民」制度だった。これは中国やインドの代理人を通して労働力を募る制度である。通常は期間5年で農園に従事し、住居/食事/医療などは扶助された。送り出し側の現地代理人(秘密結社の龍頭、インド人移民頭)が徴募を行った。※現地はペナン?
・また売春婦も多く送り込まれた。英国植民地政府はこれらを規制する意図はなく、全てを華人/インド人の頭目に丸投げした(カピタン制度、後述)。※アフリカでの奴隷も、現地のアフリカ人が徴集した。

・ペナン開拓史で最も深く関与した移民集団が「華僑」である。当初は東インド会社に雇われていたが、次第に海商/植民地会社(?)の仲介・代理人として働くようになる。さらに彼らと共に働く職人/商人/雑役も増えた。海峡を往来していた英国人写真家は、「華人の請負人が家を建て、その兄弟が家具を作り、別の兄弟が服を仕立て、その親戚が召使を見付け、その召使が食材を調達してくれる」と述べている。※今の中国のアフリカ進出も、こんな感じなのか?
・1858年ペナンの人口は6万人で、華僑(※華人?)2万8千人/マレー系2万人/インド系1万2千人で、半数近くが華人となった。※中国/インドは、かつてから人口供給地だな。
・移民にとって頼りになるのは、同郷の雇用主と仕事仲間のネットワークである。その同族・同郷・同業の組織が「幇」(パン)で、結束の場が「公祠」である。これらのネットワークが「華人通り」に作られ、市街に広がった。彼らの結束は固く、19世紀後半華人同士やマレー人/インド系との紛争(械闘)が頻発するようになる。

・ジョージタウンの中心部には東西に走る通りが6本ある。北からライト通り/司教通り/教会通り/華人通り/市場通り/チュリア通りである。北の3本は欧州人の居住地である。「司教通り」の名前は、司教アントワーヌ・ガルノーにちなむが、この背景に仏国/オランダ/英国/シャム(タイ)の政情が関係している。
・1641年全盛期のオランダはマラッカからポルトガルを追い出す。マラッカにはポルトガル系ユーラシア人(ポルトガル人と現地人の混血、※マレー人以外も含まれるのかな?)が住んでいたが、彼らはカトリックだった。オランダがカトリックを弾圧したため、彼らはシャムのプーケット/クダーに移住する。
・ところが1782年シャムは政変により、チャクリ朝が興る。チャクリ朝は仏教を国是とし、カトリックを弾圧する(※それでタイは仏教国なんだ。ミャンマーが仏教国なのは、なぜだろう)。これによりプーケット/クダーのカトリックは、再び逃げざるを得なくなる。そこで仏国人司教ガルノーはペナンの行政長官ライトに助けを求め、1786年ポルトガル系ユーラシア人11家族がペナンに移住する。これが「司教通り」となる。※司教も移住したのかな?
・当時仏国と英国はインド/東南アジアで利権を争っており、しかもライトはカトリックではない。なぜ彼らを助けたのか。それはこの年、彼の妻(ポルトガル人とマレー人の混血)が息子ウイリアムを生んでいるからだろう。またペナンには、ポルトガル人やユーラシア人を迫害した記録はない。※ペナンはコスモポリスだな。

・「司教通り」の1本南が「教会通り」である。ユーラシア人のカトリックにより「聖母被昇天大聖堂」が建てられる。しかし19世紀になると華人が移住してきて、繁華な商業地になる。そのため先住のユーラシア人は、西に1Kmほどの場所に追い出される。「教会通り」は秘密結社「義興会」の本拠となり、ライバルの秘密結社「海山会」との抗争が1世紀に亘って続く。
・「チュリア通り」の南に、東西に走る長さ僅か300mの「アルメニア通り」がある。この街区にアルメニア人が住んだかは定かでないが、「司教通り」にはアルメニア教会がある。1820年頃アルメニア人は「海岸通り」に住んでいたが、やがてシンガポール/カルカッタに移住する。1906年アルメニア教会は取り壊される。この「アルメニア通り」も華人が住み着き、中国風町屋が立ち並んでいる。この街区は華僑の秘密結社の抗争の舞台となる。※華人は強い。ユーラシア人/インド系/アルメニア人を追い出したのか。

-コラム ペナンのMEP
・東南アジア/インドでは”単系”のエスニックが共住していたのではなく、”出自が複雑”なエスニックが共住した(※南米も同じだ)。これを「混血」「ハーフ」「ミックス」などと表現するが、著者は「マルチ・エスニック・パーソンズ」(MEP、※掛けてる?)と呼びたい。彼らにより多様なコミュニティ/アイデンティティが生まれたが、逆に”単一”のアイデンティティを求めて、集団間の紛争が多発した。

<第5章 居留地ペナンの誕生>
・ライトの上陸直後から、ジョージタウンは急速に開発が進む。しかし東インド会社の財政は逼迫し、港湾・道路・水路・公共施設の建設/治安維持/紛争処理/兵員・労働力の確保の財源は不足した。
・1800年初代副総督ウイリアム・リース(在1800~04年)は、ペナン初の公的な「査定者委員会」を組織する。この組織の委員長に司法官ジョン・ブラウンが就き、委員にライトの右腕ジェームズ・スコットや大地主デイビッド・ブラウンが就いた。当初は「土地の所有者/地税額の確定」が目的だったが、警察業務/上水事業なども含まれた。

・同年「査定者委員会」は「21ヵ条の提言」を定める。これはその後180年間、居留地の基本理念となる。※中々優れた基本理念。
 ①インド政府は本島を維持し、英国の一部とする。※ベンガル総督府がインド総督府に改名するのは1833年。
 ②出入港は自由とする。
 ③出入港する船に税を賦課せず、制約もしない。
 ④対岸クダーの一部を確保する。※1800年クダーの一部を割譲させている。
 ⑤ベンガル総督府は、本島の地産品への課税を10%以下とする。
 ⑥本提言は1800年以前には適用されない。
 ⑦土地は永久租借とする。
 ⑧土地の所有・譲渡・担保の様式(?)の変更は、現地の有力者によらない。
 ⑨裁判所を設置する。
 ⑩判事は従順・穏和・経験豊かな人物を任命する。※中々。
 ⑪民事の執行を軍隊に委ねない。※中々。
 ⑫地代(借地代?地税?)は低額、または課徴なしとする。
 ⑬東インド会社の財産の保護は、適切な軍官が指揮する守備隊が行う。
 ⑭公共秩序/警察に対する命令は、軍隊ではなく、各民族同数で構成される「査定者委員会」が行う。※シビリアンコントロールだな。
 ⑮セポイに対する金銭の貸与/商取引は禁止する。※傭兵を金銭に関与させないだな。
 ⑯開拓に要する前貸しは、迅速かつ柔軟に行う。
 ⑰欧州の開拓者も、現地人と同様に開拓に励む。奴隷の輸入は禁止する。
 ⑱クダーとの米の自由輸出に関する項目は遵守する。※輸入では?
 ⑲華人に割り与えた墓地は不可侵である。※バツゥ・ガントゥン地区/バツゥ・ランチャン地区の墓地は広大。
 ⑳本島の定住者をベンガルに送還できる行政長官の権限は廃止されるべき。
 ㉑インド政府は厳格化しているが、ペナン総督府は当初の原理に戻る事を強く求める。※インド政府の厳格化の内容が不明。

・この提言の背景を述べる。第一に、19世紀初頭は英国はオランダ/仏国/ポルトガルとの覇権争いに勝ち、一強の状態だった。しかし19世紀半ばには激しい抗争になる。第二に、ペナンは島で脅威は少なかった。上海は大河と大陸の間にあった。神戸は細長い陸と海があった。それぞれ背後環境が異なった。第三に、上海には「租界と華界」、神戸には「居留地と農村」の関係があり、現地住民との間に緊張・軋轢があった。一方ペナンは”無住の地”で、それを丸ごと領有したため、緊張・軋轢はなく、往来する全ての者が”よそ者”だった。

・では提言の先進性を述べる。清では「海関」、西アジア/インド北部では「シャーバンダル」、インド南部では「商館長」などの関税を徴集する組織があった。提言の②③で「国際自由港」を宣言している。しかし全く関税がなかった訳ではなく、1820年代ペナンの商人がベンガル総督に「完全なる自由港」を要請している。
・提言では、華人などのユーラシア人に対する保護・優遇策(⑧⑫⑭⑲⑳)や、裁判所の設置/法・治安の維持(⑨⑩)を謳っている。また治安維持を担う傭兵セポイに制約を加えている(⑪⑬⑮)。
・当時ペナンはベンガル総督府から独立した総督府であったが、1805年以前はペナンの行政長官/総督はカルカッタが任命していた。提言の⑤㉑から、ペナンの自律的・対抗的な姿勢が窺われる。

・1801年「査定者委員会」は重要な事案を提案する。1つは沼地の排水と道路建設である(1月4日)。もう1つは商業地区の建設で、具体的にはライト通り/海岸通り/チュリア通り/ピット通りに囲まれた商業地区の道路建設である(8月30日)。
・この事業を実施するため、「査定者委員会」はベンガル総督府に囚人の徴用を求める。まず130人の囚人が送られる。リースはこれが効果的だったとして、さらに250~300人の囚人を要求している。これによりペナンは、アンダマン諸島のポート・ブレアに代わる流刑地になる(第4章で前述)。

・当時アタップ葺き(?)の小屋が多く、これらは数度の大火で焼失した。そのため耐火・耐久性に優れたレンガ造りの建物は、所有者の財力を示すものだった。1793年行政長官フランシス・ライトがレンガ造りの建物の一覧(用途、所有者、戸数、評価額)をベンガル総督に送っている。
・これには「事務所、ライト、2(戸)、16000(スペイン・ドル)」「雑貨卸、ジェームズ・スコット商会、?、12000」など、東インド会社の関係者が記されている。さらに華人3名、インド系1名、さらにアラブ系マレー人のサイエド・フセインも記されている。※フセインはアチェのスルタンの孫だが、アラブ系なのか。

・市の財源に、家屋税/車両税/上水税/宝くじなどが導入された。その中で最大なのは家屋税だった。これは間口20フィート(6m)を単位とする「間口税」で、空き家/宗教施設は非課税とされた。
・市街を22地区に分け「間口税」を決めた。海岸通り(1~79番)20ドル、華人通り10ドル、ペナン通り8ドル、海岸通り(80~109番)6ドル、左記以外5ドル。商業地は高く、住宅地は低く設定された。※ペナン通りは中心部にあるが、ペナン大路は新市街にある。

・後に「シンガポール近代の父」となるトーマス・スタンフォード・ラッフルズにより、1807年「道路委員会」が設立される。ジェームズ・スコットが委員長になり、欧州人5名/華人・アラブ系6名が委員になる。「道路委員会」は道路・橋梁の建設・維持を目的とした。
・その後、人力・畜力による簡易運搬車とそれを牽引する動物に対し「車両税」が課さられる。バネ付き4輪荷車24インド・シッカ・ルピー(以下省略)、バネ付き2輪荷車18、人力・畜力荷車16、家畜による荷車12、人力荷車8、ラバ・ポニー4、像20。これはベンガル総督府の規則を流用したものだった。

・ここで通貨を整理する。ペナンではスペイン・ドル、シッカ・ルピー、インドの少額硬貨パイサ/アンナなどが流通していた。国際交易ではスペイン・ドル(8リアル・スペイン銀貨)が最も流通していた。100パイセ銅貨(=1スペイン・ドル)が大いに流通したが、偽造が容易のため、1812年に廃止された。1816年ベンガル・シッカ・ルピー(以下シッカ・ルピー)が鋳造され、海峡植民地の公的通貨になった。※今インドはルピー、インドネシアはルピアだな。
・国際交易では1英ポンド=4スペイン・ドルだったが、ペナンでは1英ポンド=4.5~5スペイン・ドルで交換された。当時の換算率は以下。1スペイン・ドル=2.1シッカ・ルピー、1シッカ・ルピー=16アンナ、1アンナ12パイセ、1英ポンド=10シッカ・ルピー。※ドルの語源はボヘミアの銀貨ターラー。ルピーはサンスクリット語で銀を意味する。

・1887年の市の歳入は17万7892ドルで、内訳は以下。地代9万5500ドル(54%)、 上水税4万1750ドル(23%)、市庁舎・市場賃料1万9042ドル(11%)、共用車両税5500ドル(3%)、私用車両税5000ドル(3%)、荷車税5000ドル(3%)、人力車税1500ドル(1%)、雑件4600ドル(3%)。他に未収納金/墓地売却金などがあり、収入総額は29万3433ドルだった。地代/上水税が大半で、「車両税」は10%程度だった。
・一方歳出は20万2870ドルで、内訳は以下。工部局経費5万3000ドル(26%)、道路営繕請負経費3万4000ドル(17%)、市庁吏員人件費3万4000ドル(17%)、警察関係費2万ドル(10%)、公設市場1万8000ドル(9%)、屠畜場・種苗保管所維持費1万5000ドル(7%)、アンソン橋/市庁舎修繕費1万2000ドル(6%)、負債償還費1万ドル(5%)、ウェルズリー州管轄費7000ドル(3%)。

・「道路委員会」の目的は居留地の財源の確保にあったが、増大する「査定者委員会」の権限に歯止めをかける事もあった。「市外の橋梁建設に、なぜ市民が税を納めなければならないのか」と市民から反発が出た。
・防火対策を巡っても両委員会は対立した。ペナン市(※ジョージタウン市?)では、1789年/1808年/1812年/1814年と大火が発生した。1806年市税で防火対策を充実させるが、1808年の大火で30万スペイン・ドルの被害が出て、本格的な防火対策が議論されるようになる。さらに1812年の大火で、「アタップ葺きの家屋を破棄する」「60m毎に15mの空き地を作る」「主要道路を拡張する」「防火用井戸を新設する」が提案されるが、実行されなかった。

・1805年ペナンはベンガル総督府から独立し、ベンガル/マドラス/ボンベイに次ぐ第4の総督府となる。初代ペナン総督フィリップ・ダンダスは、市街/ペナン全域の区分を行い、警察権を強化する。
・具体的にはジョージタウン市域をコーンウォリス要塞を基点に、南辺を「プランギン運河」(長さ1.25Km)、西辺を「新運河」(トランスファー通り、長さ1Km)とした。市街を4行政区、ペナンを3地区に区分し、行政区には巡査長、地区には巡査を配置した。その後市街はコーンウォリス要塞を基点に2Km四方に広がり、この区域が「新市街」となった。

・ペナンでは人口/家屋などの調査も行われた。ペナンではインドに先立ち、1861年人口/職業/民族などの国勢調査が実施された(※これはずっと後だ)。これらを基に治安維持の方策も検討された。
・1805年ダンダスは警察権限を持ち、地税・家屋税に関する紛争処理を行う治安監督官兼簡易裁判官「プロヴォスト」を任命する。「プロヴォスト」の権限・業務は拡大し、消防車の管理、防火井戸の開閉、売春婦の移住、共用荷車の駐車地の指定、島外者の上陸地の指定、独占を防止するための市場価格の管理など、市場/防災/風紀に拡大された。

・ペナン総督府とその上位にあるベンガル総督府は対立した。ペナン副総督(在1800~04年)は、「ペナンの住民は民族・出身が様々である。彼らの監督はその頭目に任せるべきである」として、「現地住民への統治一任」を主張し、ベンガル総督府の「直接統治」を批判した。※それで1805年ペナンはベンガル総督府から独立したのでは。
・1801年ベンガル総督府から派遣された治安判事ジョン・ディッケンズは、「私の指揮下にはプロヴォスト1名/軍官1名/雑卒(ピオン)5名しかいない。これで100名の囚人と、様々な人々が雑居する社会を監視しなければならない」「チュリア/華人のカピタンは5人の雑卒を抱え市内を巡回している。しかし彼らを信頼できない」と不満を述べている。
・シンガポールでも、1830年頃駐在官補佐サミュエル・ボナムが華人秘密結社の浸透に警戒心を募らせている。彼は秘密結社の廃止を提言するが、無視される。
・ペナンとベンガルの対立が続く中、華人の流入は続く。1851年シンガポールで華人カトリック教徒の虐殺、1854年福建幇と潮州幇の抗争、1857~63年パハン州(※マレー中部)での華人内乱が起き、1867年ペナン全域で華人の動乱が起こる。これに及びインド植民地省がペナンの警察・軍隊を直轄する事になる。※1857年「インド大反乱」(セポイの反乱)が起こっている。この頃は紛争が多発かな。

【第2部 海峡を渡ってきた人々】
<第6章 変貌するペナン>
・ペナンは、18世紀末から19世紀末までの100年間が近代と考えられる。この時期は3つに区分できる。初期(1780~1810年)、中期(1810~1850年)、後期前半(1850~1900年)。初期は開拓期、中期は移民の競合期、後期前半は移民の分裂・統制期である。1957年マラヤ連邦独立までの後期後半は、本書の対象外とする。

・1787年ジョージタウンの欧州人は19人だった。これは総人口1283人の1.5%である。1818年冒険商人(?)などの欧州人(東インド会社関係者を除く)は400人で、教会通り/司教通りに住んだ。1931年欧州人は1174人に増えるが、それでも総人口15万人の1%足らずであった。

・ペナンと居留地(上海、神戸)/商館(マドラス、カルカッタ)の違いは、「分業・分益による棲み分け」にあった。港市建設/治安維持はインド系が当たり、東南アジア~中国の交易は華僑が行い、コショウなどの生産は会党支配下の苦力が担い、東南アジア~インドの交易はインド系/東南アジア系の商人が独占し、広域の東南アジア~西アジアの交易はアルメニア系の商人が独占し、さらに広域の東南アジア~インド~欧州の交易は東インド会社が独占した。
※第1部では華人、第2部では華僑を主に使用します。※会党が初めて出てきたけど、秘密結社との違いは何だろう。華僑の秘密結社が会党みたい。

・ジョージタウンの北東端400m四方に、東インド会社の施設(要塞、行政長官官邸、軍営、病院など)が設営された。その南に欧州人(ポルトガル人、アルメニア人、仏国人、※英国人はどこに?)、華僑、インド系、マレー系が居住した。重要なのは欧州人の南に華僑が住み、ライトの華僑重視策が見られる。その後も市街は南方向/西方向に拡張し、12K㎡の「新市街」が形成された。※清が貿易を認めるのは、アヘン戦争以降のはずだが。華僑は基本は逃亡民かな。
・1780年以前は漁民やマレー・イスラム商人が住んでいたと思われるが、マレー・イスラム商人はモンスーンによる一時的な滞在だったと思われる。その後彼らはアチェ通りに定住し、アチェ・モスクを建てた。

・初期において、欧州人はライト通り/司教通りに住んだ。それらはレンガ・漆喰造りの複層階の商館だった。
・中期において、華僑は華人通り/市場通りに住んでいたが、西に拡大し、同族・同業・同郷の会館を設けた。インド系はチュリア通りに住んでいたが、西に拡大した。司教通りに住んでいたアルメニア人はシンガポールに移住した。同じく司教通りに住んでいたポルトガル系ユーラシア人は、南北に走るペナン大路にの北西端に移る。
・後期において、華僑は拡大し、南北に走るペナン通り/国王通りの間に6つの同性・同族会館/7つの同郷会館/4つの同業・親睦会館が創建される。特に東西に走る大臣通り/スチュアート通りは、会館が軒を連ねた。※会党の建物が会館かな?

・1787年ライトは対岸クダーから華僑・辜禮歡を招聘し、華人街を建設させる。華僑の主な会館の創設は以下。1800年-広福宮(広東・福建系)、1801年-嘉応会館(客家系)/広東・汀州会館(広東系)、1805年-中山会館(広東系)/福建公塚(福建系)、1819年-広東連合会館(広東系)/五福堂広州会館(広東系)/汀州会館(福建系)、1822年-恵州会館(海南系、客家系)、1828年-南海会館(広東系)、1830年-汀州会館(広東系)、1838年-順徳会館(広東系)、1849年-増龍会館(客家系)、1860年-肇慶府会(広東系)、1864年-潮州会館(潮州系)、1870年-瓊州会館(瓊州系)、1873年-新会会館(広東系)、1880年-三水会館(広東系)。※汀州は福建にあるが、広東と接している。
・華僑の会館は相互扶助的な組織ではない。地縁/宗教/負債/遊興などをきっかけに半強制的に組み入れられる組織だった。苦力/猪仔と呼ばれた労働者が農園/港湾で働いていた。彼らは指導者(海洋商人、仲介を行った買弁商人、清の亡命官僚など)に従った。これらの指導者はカピタン/太平局紳と称号される有力な企業家で、会館総理/会党首領となった(後述)。

・ペナンの旧市街の街路は英語以外に、マレー語/中国語/タミル語/ポルトガル語などと併称された。一方新市街の街路は英語だけで呼称された。
・旧市街はライト通り/海岸通り(ビーチロード)/プランギン通り/ペナン大路に囲まれ、以下の街路が格子状に走っている。()内は華僑による通称。※西辺は新運河(トランスファー通り)では?
-東西に走る街路
 司教通り(漆木街、華人の漆細工職人が集住)
 教会通り(義興街、義興会の勢力地域)
 華人通り(大街、華僑が居住)
 市場通り(市場街)
 チュリア通り(牛干冬街、タミル人の牛囲いの柵から)
 アルメニア通り(打銅仔街、華人の銅細工職人が集住)
 アチェ通り(打石街、アチェ人の石工職人が集住)
 大臣通り(大臣街)
-南北に走る街路
 国王通り(大伯公街、華僑の守護神・大伯公から)
 女王通り(皇后街)
 カピタン・クリン・モスク通り(椰脚街、ココナッツ)
 ラブ小路(愛情巷)
・海岸通りから海浜までの街路は「ガトゥ○○」と命名された。「ガトゥ」はヒンディー語の階段を意味する。

・ペンナンにはインド系の移民も多く来住した。経過は以下となる。1788年囚人の遠島令。1790年囚人200人を移送。1794年囚人1500~2000人が定住。1801年インド人ムスリム兵士のモスク(カピタン・クリン・モスク)を建造。1818年チュリア/ベンガル人5498人が来住。1822年チュリア4996人が来住。1825年囚人をマラッカ/シンガポールに移送。1840年代セポイ/マドラス警察隊を派遣。1881年パンジャービー兵士を派遣。
・1814年の大火でチュリア通り/マレー村落が焼失する。この大火後、マレー村落はインド人街となる。1818年/1822年に5千人規模の来住があった。内訳は不明だが、囚人/囚人の管理者/警察/兵士やチュリアだったと考えられる。※街路の説明にないが、アチェ通りの南にマレー通りがある。マレー村落はその一帯か?

・インド系移民は同じ出身地、同じカースト、同じ宗教の集団で移住した。彼らは華僑と違い、インド系移民として大同団結する事はなかった。※カーストの影響が強いかな。
・インド系移民を結束させたのは「サンガム」だったが、「サンガム」間のネットワークはない。「サンガム」は宗教的な組織だが、移民社会では世俗的な機能も持った。「サンガム」は、宗教道場/ヒンドゥー寺院/チェッティ寺院/カースト会館/寺院講/頼母子講/ヒンドゥー教の祭礼講などの形を取った。「サンガム」は営利//救済/相互扶助の機能を持った(第10章で詳述)。※サンガムは初耳。

・ペナンの初期/中期には多くの会館が創建された。1890年「結社禁止条例」が制定されるまで、多くの会党が生まれた。代表的な会党に、義興会(広東・福建系)、大伯公会(福建系)、義福会(福建系)、福勝会(福建系)、海山会(福建・広東・客家系)、建徳会(福建系)、連義会がある。※広東が近いのに、なぜ福建が多いのか。広東は農民で。福建は漁民・商人?※一部秘密結社と記されているが会党で統一。
・後期になると、これらの会党はマレー各地で連合と対立を繰り返す。経過は以下となる。1790年義興会結成。1799年天地会結成。1820年海山会結成。1844年大伯公会創建。1851年華人カトリック教徒の虐殺(シンガポール)。1852~67年械闘頻発。1854年福建会党と潮州会党が対立(シンガポール)。1857~63年「パハン内乱」、反政府暴動(シンガポール)。1861年ラルート(ペラクにある現タイピン)での錫鉱山労働者と会党との械闘。1867年福建会党と広東会党の械闘、「ペナン大暴乱」、「スランゴール内戦」。1874年「パンコール協約」(会党間の紛争調停)。1881年南インドからの警察増強。1890年「結社禁止条例」の制定。1891年「パハン内乱」(※第2次?)。1892年パンジャービー兵の増強、武力による治安維持。
・初期/中期は、ペナン総督府は華僑の有力者に「カピタン」「太平局紳」の称号を与え、「自治委任策」だった。しかし後期になると、武力による「鎮圧策」に転じる。

<第7章 シントラ、ポルトガル人街から日本人街へ>
・南北に走るカピタン・クリン・モスク通りとペナン大路のほぼ中間にシントラ通りがある。18世紀末、ポルトガル人/ポルトガル系ユーラシア人が司教通り/教会通りに移住するが、華僑の急増で彼らはシントラ通りに移り住む。シントラはリスボンに次ぐポルトガルの古都で、ユーラシア大陸最西端のロカ岬がある。
・20世紀になるとポルトガル人はシントラ通りから去り、日本娼館が立ち並ぶ。この地区にはいつ頃からか、”からゆきさん”を抱えた娼館やホテルが急増する。この地区には日本人クラブ「日本人公館」や、缶詰練乳「メリーミルク」を売る雑貨・食料品店「大阪屋」があった。

・明治以降日本には「北進論」「南進論」があったが、「北進論」が主流だった。当時の南洋は南太平洋からインド洋までの広域な海域を指した。また南進の目的は資源獲得と出稼ぎにあった。
・『南洋の50年』(1938年、※以下同書)は貴重な資料である。同書は「南洋及日本人社」の創業20周年を記念して編纂され、700頁に及ぶ大著である。同書から明治~大正期の日本人社会を知る事ができる。
・同書には「在南50年のおとこさん」の記述があるが、どんな女性なのかは定かでない。また同書には「ペナンの日会共同墓地の創立は1901年(明治34年)である。それ以前の墓4つが外国人墓地にあり、一番古いのは明治11年井上某である」とある。※”会”の付く国はないが、”日会”は何だろう。
・在シンガポール総領事館に『在留日本人に関する人口一覧』がある。ペナンの在留日本人は以下となる(※抜粋)。1880年-男性10人/女性60人/総数70人(※以同様)、1896年-30/100/130、1903年-42/168/210、1906年-80/299/379(※この明治39年が人口最大)、1910年-58/149/207、1921年-116/110/226(※この大正10年に男女均衡)、1927年-95/83/178。これによると1896年(明治29年)から1921年(大正10年)で急増し、しかも1910年(明治43年)までは女性の比率が高い事が分かる。※大正期(1912~1926年)に転換したみたい。

・大正から昭和にかけて、欧州航路による日欧交易が隆盛した。またシンガポールを拠点に、タイ/マレー/インドネシアからの資源輸入も拡大した。
・南洋での最初の事業は、1907年頃から始まるマレーでのゴム栽培だった。その後マニラ麻/ヤシ/砂糖/茶/コーヒー/綿花などのプランテーション作物が栽培される。また石原産業/日本鉱業などにより鉄鉱石開発が行われた。1939年の資料によれば、明治~大正期におけるマレーへの投資は、鉱業54%/栽培業38%/商業4%/水産業3%/林業1%とある。
・これらの事業の拠点はシンガポール/マレーに置かれ、ペナンに置かれる事はなかった。それは日本の企業はペナンの主要産品(ビンロウ、シュロ、アヘン)を扱っておらず、また砂金/コショウ/香料などは華僑が独占していたからである。

・海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)の在留日本人の人口動態は、1886年以降、在シンガポール総領事館により記録され、『海外各地在留本邦人職業別人口表』として刊行された。
・ペナン(彼南)の1910年(明治43年)の職業別人口は以下(※一部省略)。写真業-戸数1/男7人/女2人/計9人(※以下同様)、雑貨商-2/2/4/6、宿屋業-2/6/4/10、活動写真業-2/20/3/23、ゴム栽培業-1/1/1/2、賎業者-28/4/126/130、合計-49/58/149/207。
・当時家族写真は”ハレの日”の記念行事で、写真業が9人と多い。また無声映画は唯一の娯楽で、活動写真業の23人も多い。
・チュリア通りとその南のキャンベル通りはホテル街だったが、その西端のトランスファー通りにあった「朝日ホテル」は、政府の役人/大手商社員が利用していたと思われる。この背景に、1893年神戸~ボンベイ航路、1896年欧州定期航路の開設があった。
・ペナンでのゴム農園は1戸と少ない。パハン(※マレー中部)でのゴム農園には幾つかの特徴があった。経営者の多くが女性で、医師/商店/旅館/薬屋/写真店などを兼業していた。彼女達の多くは”からゆきさん”で、老後の保障と廃娼への対応からゴム農園を買った。
・賎業者(娼館、娼婦)の28戸/130人は多く、女性の8割以上(126/149)を占める。ペナンに多い写真館/映画館/娼館/旅館は、日本が南洋にもたらした遊興娯楽「四館」だった。
・これらから判断すると、ペナンは殖産・交易・商業の地ではなく、遊興・娯楽の地だったと考えられる。※島だから、産業は難しい。

・1915年(大正4年)ペナンに「日本人会」が組織され、活発な活動を始める。その様子は在シンガポール総領事館の『在シンガポール総領事館日記抄』(※以下『日記抄』)に詳しい。「日本人会」はチュリア通り→リース通り→ペナン大路と移転した。「日本人会」が組織される以前は、「慈善会及び青年会」が組織されていた。

・『南洋の50年』には、1935年(昭和10年)の在留日本人の職業/氏名/生年月日/出身地/住所などの記録がある。輸出入業(洋行、公司、商会など)7名、個人商店6名、歯科医業6名、理髪業5名、ホテル業4名、写真業3名(※以下省略)。
・これから昭和に入り交易が盛んになったのが分かる。また4軒のホテル(朝日ホテル、ロンドンホテル、日本ホテル、彼南ホテル)があったが、「日本ホテル」は漁業公司、「彼南ホテル」は個人商店の兼業だった。
・在留日本人は集住しなかった。1935年(昭和9年)「日本人会」は「日本人会邦語学校」の開校を在シンガポール総領事館に要請し、翌年開校している。

・『日記抄』に「日本人会」による慈善活動が記されている。「昭和2年(1927年)マレーで大洪水があり、100ドルを寄贈」「昭和2年奥丹後で大地震(北丹後地震)があり、義援金を送る」「昭和8年(1933年)三陸で震災(三陸地震)あり、義援金97ドル50セントを送る」「昭和9年(1934年)函館で大火あり、義援金を送る」「昭和9年関西で大風水害(室戸台風)あり、義援金を送る」「昭和10年(1935年)台湾で震災あり、義援金を送る」とある。さらに「昭和10年養老院設立のため、寄付金を募集する」とある。

・「日本人会」による第二の活動は廃娼活動である。『日記抄』の「大正5年邦人賎業婦調査」によれば、「在マレー在留邦人の総数は7千人」「娼婦は1500人」「シンガポール-軒数70/娼妓380人、ペナン-軒数31/娼妓123人、マラッカ-軒数10/娼妓43人」とある。1910年(明治43年)ペナンは「賎業者28戸、130人」だったので、ほとんど変化がない。
・1902年(明治35年)既にシンガポール政庁が「婦女の渡航を厳重にするよう」に日本に要請している。1920年(大正9年)1月「各地の代表がシンガポールに出向し、廃娼を決議し、シンガポール/マラッカは6月までに廃娼を実行し、その他の地方も年末までに実行する」との報告がある。しかしペナンでの、その後は不明である。

・在クアラルンプール日本大使館の『マレー半島における日本人墓地一覧』に「ペナン日本人墓地」の記述がある。「墓石は56基あり、記録のみが残る銘板が7枚あり」とあり、日本人墓地に祀られた故人は70名以上と考えられる。最も古いのは1893年(明治26年)で、そこから1912年(明治45年)までに集中している。それ以降は2基2名しかなく、減少の背景は不明である。※400人近く在留していたのに。
・「明治42年(1909年)施餓鬼供養」の写真がある。そこには和服姿の若い女性20数名が合掌しており、島原の言証師による手書きのメモが添えられている。※島原の言証師の話は以前読んだ。
・ペナンの墓には男性も女性も姓名が記されており、小石に名のみのシンガポールの墓と異なる。※幾らか裕福だったのかな。
※本章は時代が一気に飛ぶし、和暦併記なので、何か難解だった。

-コラム 昭南と彼南
・「彼南」はペナンを指すが、大正中期以降、日本人がペナンから離れ、「彼南」は消える。1942年日本軍がシンガポールを占領し、「昭南」が生まれる。しかし敗戦と共に「昭南」も消える。何れも日本だけで通用した地名である。

<第8章 マラッカ海峡のアルメニア社会>
・アルメニアはカスピ海と黒海に挟まれた内陸の高地にあり、面積は九州より狭い。アジアと欧州を結ぶ狭い回廊にあり、アッシリア/スキタイ/ギリシャ/ローマ/ペルシア/アラブ/トルコ/モンゴルなど様々な民族が侵略した。
・近年アルメニア人が「交易離散共同体」として研究されている。しかしそれは中央アジアから欧州にかけての「内陸巡回商人集団」としてであり、「海域回遊交易商人」としての研究は見られない(※時々学術的な難しい言葉が出てくる)。本章ではペナン初期に存在したアルメニア人の経済活動を概観する。

・1797年インド西部の国際商港スーラトのアルメニア商人ヨハネスから、イラン西部のイスファハンのアルメニア商人に送られた手紙がある。「某大商人が商船を買い取りアルシャック号と命名した。私(ヨハネス)は船荷監督官として乗船した。スーラトで荷を積み、ペナンで荷を売り、新たに商品を買い、マラッカに向かった。しかしスーラトへの帰りマラッカを出て直ぐ、フランス艦船に襲われ、全商品を奪われた。船主(大商人)は大損害を受け、私は全財産を失った。これは近年の英国と仏国の戦争による。今年だけでスートラの商人の損失は150万ルピーに上る」(アルシャック号事件)。
・この手紙から当時の航海ルート/船荷の価格/船主と交易責任者との関係などが分かる。しかし重要なのは、中立と思われるアルメニア商人が仏国に狙われた事である。※18世紀末には英仏は和平していなかった?それともナポレオン戦争かな。

・アルメニア商人と東インド会社の関係は、「1688年協約」で決定され、その後200年間維持された。その特徴の第一は、17世紀以前からアルメニア商人がインド/東南アジアで交易を行っていた。17世紀末この地域に進出した東インド会社は、彼らに現地勢力との仲介・交渉・通訳を依存するようになる。第二にこの代償として、彼らに交易ルート/交易品/優遇関税/英国領でのアルメニア人の保護などを保障する。
・これによりアルメニア商人は”随伴的”な交易を行い、英国は先行するスペイン/オランダ/仏国に対抗できるようになる。英国とアルメニア商人は、相互依存・互恵関係になった。

・「アルシャック号事件」はアルメニア商人にショックを与えたが、怯む事はなかった。アルメニア商人の拠点はカルカッタ/マドラスだった。17世紀末カルカッタにはアルメニア教会があり、1821年アルメニア人の学校/寄宿舎が建てられた(※これは大分後)。
※アルメニアは世界で最初(301年)に、キリスト教を国教にしている。アルメニア教会の分裂(451年)は、カトリック教会とギリシャ正教の分裂(11世紀)以前です。これは知らなかった。
・マドラスにはカルカッタより古く、16世紀には居住し、ベンガル湾交易を行っていた。アルメニア通りがあり、事務所/倉庫が立ち並び、1712年アルメニア教会が創建された。

・ペナンにはアルメニアにちなむ街路が2つある。1つは東西に走るチュリア通りとアチェ通りの中間にあるアルメニア通りで、もう一つはトランスファー通りからさらに西700mの所に南北に走るアラトゥーン通りである。しかし両地区にアルメニア人が定住した形跡はない。
・華僑は移住先で同族・同郷の公祠/寺院を建立し、集住し華人街を形成する(※公祠は宗教的な場所で、同族・同郷が集うのは会館では)。インド系も移住地にヒンドゥーの神/イスラムの聖者を祀り、集住しインド人街を形成する。一方アルメニア人は移住地に教会/学校を作り、ホテルを創業するが、集住はしなかった。またアルメニア人は家族単位で移住する。※故国での人口密度/集住形態の違いでは。

・ペナンの1788年の人口資料にアルメニア人はいない。またその後も断片的にしか記録に出てこない。1806年にアルメニア人が生まれた記録があるが、その後も含めて4人しかいない。1810年の記録に「アルメニア人70人」とあるが、氏名が分かるのはマルコム・マヌークなど9人である。マルコム・マヌークはアヘン交易で財をなした。
・アルメニア商人はインド~ペナンを往来する巡回交易をし、ペナンに定住するのは稀だった。1807~20年で35人のアルメニア人が到来している。この中のアラトゥーン・ガスパルは、1815~25年に定期的に往来し、宝石/雑貨の交易を行った。※彼がアラトゥーン通りの由来かも。

・ペナンにおけるアルメニア人の推移は以下。1820年-17人、1828年-25人、1850年-20人、1871年-16人、1881年-15人、1891年-20人、1901年-21人、1911年-25人、1921年-14人、1931年-10人、1947年-5人、1952年-7人、1970年-10人。1828年/1911年がピークになっている。
・1820年シンガポールに最初のアルメニア商人アリストラクス・モーゼスが訪れ、それ以降アルメニア商人はシンガポールで活動するようになる。

・17~19世紀での欧州各国の交易は「重商型交易」で、大型帆船でコーヒー/紅茶/砂糖/カカオ/ゴムなどの単品を交易した。一方アルメニア商人は「小規模循環型交易」を行った。「アルメニア商人は独自の”鞘取り商法”で交易を拡大し、その富と地位は欧州の富豪に匹敵する」とある。
・アルメニア商人の活動を紹介する。1840年ペナンで「サーキーズ&モウゼ商会」が創業される(※以下モウゼ商会)。モウゼ商会はパハン川で採取される砂金を基に、カルカッタでアヘン/絹布(?)/穀物を購入し、それをペナンで売った。ペナンで錫/コショウ/スオウを買い、それをカルカッタで売った。またペナンからアヘン/綿布/錫/コショウを中国に輸出し、中国で茶/タバコ/肉桂(カシア)を購入した。モウゼ商会はマレー産品(砂金、錫、コショウ)/インド産品(アヘン、綿布)/中国産品(茶、タバコ、カシア)で「多地域間交換交易」を行っていた。なおスオウは中国では薬として、東南アジアでは赤色・紫色の染料として重宝され、国際商品になる。

・アルメニア商人の交易には幾つかの特徴がある。小型商船による中距離交易で、少量・多品種の交易だった。またある地域の産品を安く買って、別の地域でそれを高く売り、そこでその地域の産品を安く買う「買い積み商法」だった。これはモウゼ商会も共通です。
・モウゼ商会はボルネオのブルネイから砂金/コショウ/ダイヤモンド/樟脳/アンチモンを輸出していた、アンチモンは金属の強度を高めるため、様々な金属との合金に使用された。アンチモンの英国への輸出を独占したモウゼ商会は、1839年の半年で950tを輸出している。ところが鉱山で先住民の反乱が起き、それを英国人ジェームズ・ブルックが鎮圧する。この功でブルック王国が成立する(※1841年サラワク王国?)。モウゼ商会はブルネイと同条件でブルックと交渉するが、拒否される。これによりモウゼ商会は衰退に向かう。

・1824年司教通りにアルメニア教会が建設されるが、この頃よりアルメニア人はペナンを去り、シンガポールに移る。これは国際的な輸送・通信における革命による。
・「パックス・ブリタニカ」は武力だけが要因ではなく、海運・情報通信の変革も要因である。英国は、1860~1914年で世界の船舶の2/3を建造し、世界の海上輸送の1/2を占有した。依然として帆船が主役だったが、蒸気船も盛んになる。蒸気船には石炭/水が必要だった。カルカッタでは、アルメニア人が開発した炭鉱から石炭が供給された。1870年頃から、小型で推進性能に優れたコンパウンド・エンジンが生産されるようになる。これにはアンチモンが必要だった。
・情報網の発達も重要だった。1870~80年、中国~東南アジア~インド~西アジア~欧州を結ぶ通信網が発達する。これらの通信網は商品価格・需要の変動/新しい商品の情報などを、欧州に迅速にもたらした。ペナンのアルメニア商人はこれらの情報を入手し、保険事業にも進出する。※これは”随伴的”の利得だな。

・英国との”随伴的”な関係で発展したのが、1840年創業の「A・A・アンソニー商会」(※以下アンソニー商会)である。アンソニー商会も家族経営で、アンソニー・A・アンソニー、4人の息子兄弟、その子供12人によって維持された。
・当初は中国/欧州の商会14社と提携し、雑貨/穀物の輸出入や海運を行っていた。2代目ジョセフは、国際商品の仲買・競売、国際保険、アプカー海運(※1881年アルメニア人が創業みたい)の代理店、株式仲買、為替交換、錫鉱山/ゴム農園の共同経営などに拡大する。3代目トーマスが引き継ぐと、第1次世界大戦/世界不況になり、アンソニー商会は衰退し、1955年有力な華僑に買収される。

・シンガポールの「ラッフルズホテル」は有名である。しかしアルメニア人経営者と名前の由来となったスタンフォード・ラッフルズとの間に関係はない。ペナンには「イースタン・アンド・オリエンタルホテル」がある。これらのホテルは、イランのアルメニア人居住区ジョルファで生まれたサーキーズ4兄弟(マルタン、ティグラン、アヴィエト、アルシャク)が創業した。
・1884年次男ティグランが「イースタンホテル」を開業し、1886年「オリエンタルホテル」を買収し、彼と長男マルタンが共同経営する。やがて三男アヴィエトも加わる。「イースタンホテル」と「オリエンタルホテル」を併合したのが、今の「イースタン・アンド・オリエンタルホテル」である。
・彼らは東南アジア各地でホテル業を展開する。シンガポールで大富豪から土地を70年間借地し、1887年そこに新造したのが「ラッフルズホテル」である。さらに1890年代以降、「サーキーズ・ホテル」(ラングーン)、「ストランド・ホテル」(ビルマ)、「シー・ビュー・ホテル」(シンガポール)、「クラッグ・ホテル」(ペナン)、「サーキーズ・ホテル」「オランジュ・ホテル」(スラバヤ)を創業した。

<第9章 華人街の頭目>
・アルメニア通りからアルメニア人が去り、福建省出身の華僑が入り、銅製品を製造する職人が多くなり、「打銅仔街」と呼ばれるようになる。彼らはフランシス・ライトが来島した頃から定住しており、「海峡華人」と呼ばれ、19世紀後半に流入した華僑「新客」に対し優位を保っていた。中でも謝/邱/楊/林/陳の「福建五大姓」が強い力を誇示していた。

・この頃「建徳会」(大伯公会、福建系)はアルメニア通りの入口に「大伯公寺院」を建てた(※大伯公は土地神みたいだが、八幡神社みたいなものかな)。「建徳会」は勢力を拡大し、成員は5~6千人になった。また「建徳会」は、アルメニア通りの南にあるアチェ通りのアチェ・ムスリムの「紅旗会」と連合した。「紅旗会」は1859年頃に組織され、インド系ムスリムを主体とした。※アチェ・ムスリムはインド系ムスリムとアラブ系ムスリムの混在かな。
・同じ頃「義興会」が台頭する。「義興会」は広東/福建の出身者が主体で、マレー一帯を縄張りとし、成員は1万2千人に及んだ。また「義興会」は錫鉱山の労働者を主体とする「海山会」とも競合した。※「義興会」と「海山会」の関係は、経営者と雇用者の関係かな。
・一方「義興会」は、1956年に組織された「白旗会」と結託した。「白旗会」はインド系(ヒンドゥー・ムスリム)/マレー系を主体とし、ココナッツ繊維製のロープを作る工人や人力車/荷車を引く雑役労働者が結集した多民族の組織だった。
・これらの華人を中心とした会党が数十年に亘って対峙する。騒乱はマレー全域に及び、1867年「ペナン大暴動」を引き起こす。

・ペナンは要塞都市だったが、都市全体が城壁などで囲まれた城塞都市ではなく、市中の往来は自由だった。そのため、あぶれ者/ならず者/囚人/亡命者/無宿者/工人/雑役労働者/大小商人など、多種・雑多な移民集団がいた。
・そのためライトは、彼らの統治を彼ら自身に任せる「カピタン」制度を採った。「カピタン」は、15世紀(※大航海時代の前)にマラッカの藩王が設けた称号・職能で、インド/西アジアの港市に置かれた「シャーバンダル」(港務長官)に似た権限を持ち、港湾/交易/税務を統括した。
・16世紀アジアに進出したポルトガルは、この制度を導入する。日本の平戸/長崎の商館長も「カピタン」である。1641年マラッカを占領したオランダもこの制度を引き継ぎ、「マレー・カピタン」「カピタン・チナ」を任命している。※民族間で対立は起きないのかな。
・ライトもペナンに上陸するとこの制度を導入し、華人だけでなく、インド系の有力者を「カピタン・クリン」に任命している。当時はまだ”インド”の概念は定着しておらず、インド系は”クリン”と呼ばれていた。

・「カピタン」の目的は、統治者と移民の間を仲介し、かつ移民における問題を「自らの掟で解決する」事にあった。これは統治者/「カピタン」の双方に好都合だった。「カピタン」の条件は、集団での信望が厚く、経済的・社会的に絶大な影響力を持つ事である。そのため「カピタン」には会党の領袖が就いた。※頭目・首領ではなく領袖?
・中国史には三合会/天地会/哥老会/青幇/紅幇など、様々な集団・結社(会党)が登場する。彼らは同性/同族/同郷/同業/同教などで結束した。東南アジアに流入した華僑にも、会党は強く根を張っていた。
・ペナンでは「義興会」が最も古く、その後「天地会」「海山会(福建系)」「義福会(福建系)」「福勝会(福建系)」「大伯公会(福建系)」「建徳会(福建系)」「連義会」などが組織される。この中でも「義興会」「海山会」が勢力を二分し、激しく抗争し、ペナンでの「ペナン大暴乱」(1867年)、対岸ラルート(ペラクにある現タイピン)での械闘(1861~73年)を引き起こす。※広東の方が近いのに、なぜ福建ばかりなのか?
・これらの会党が当初から非合法/反社会的だった訳ではない。誓約/儀式/表徴/成員が秘密であったに過ぎない。会党は元来、相互扶助や火急の際の福祉・保障を目的とした。華人移民は、港湾荷役/錫鉱山の採掘/雑役/荷駄引き/コショウ・ガンビール農園での労働に就いた。彼らの唯一の寄る辺が会党だった。しかし19世紀後半になると、彼らの結束は高まり、合法/非合法が表裏一体となった。
・会党の頭目は大商人が多かった。1818~89年ペナンの会党指導者40人の内、24人が商人だった。彼らは米穀/密造酒/アヘン/コショウ/香薬/武器などの売買、倉庫業、錫鉱山/農園の経営、さらには人身売買/売春/賭博などを行った。中でも最大の収入源は、アヘン専売権による収入だった。※全くギャングだ。元々非合法/反社会的だったのでは。

・『ペナン名士列伝』には、ペナンの発展に貢献した中国人/インド人/マレー人/欧州人の生没年・出身・業績・肩書などが記されている。この資料を基に、数人の名士を評伝する。
・辜禮歡(~1826年)は福建省漳州の出身である。彼はペナンに来る前は、対岸クダーの「カピタン」だった。ライトは上陸した翌日、彼の臣従を認め、翌年には教会通りの南(華人通り)に華僑500人の定住を認めている。彼は初代「カピタン・チナ」に任じられる。彼はアチェからコショウの苗木を持ち込み、コショウの栽培を始める。道路委員会の委員となり、交通網を整備した。彼は政商/大農園経営者/徴税請負人として勢力を拡大する。

・辜禮歡の曾孫・辜上達(1833~1910年)も曾祖父に劣らない。彼は総合雑貨「泰興達商行」の共同経営、ナツメグ/クローブ農園の経営、シンガポールでのアヘン/酒の専売請負で財を成す。1863年ジョージタウンの市参事会委員に任命され、その後は篤志家・慈善活動家として活躍する。フリースクールの建設/奨学基金への寄付/警察署の設置/水源用地の寄付などにより、「太平局紳」に叙せられる。

・総合雑貨「泰興達商行」の共同経営者・胡泰興(1825年~)も著名な華僑である。1867年「ペナン大暴乱」の原因究明の調査委員になり、その功により、1872年植民地政府から最初の称号「太平局紳」を与えられる。これには治安維持や下級裁判の判事の役割があった(※なのに称号?)。当時東南アジアでの合法/非合法は混沌としており、有力者が”社会正義”の体現者だった。

・辜禮歡の子孫に辜鴻銘(1856~1928年)もいる。彼は10歳でスコットランドに渡り、欧州で学ぶ。1880年シンガポール植民地政府に仕え、1885年香港に渡り、両広総督に仕える。1904年江南の開発責任者の「黄浦江局督弁」に任じられる。1908年外交職に任じられる。彼は西洋の知識・技術を習得した開明派だったが、伝統思想の啓蒙家(?)でもあった。※1885年以降は清に仕えたのかな。

・許泗鴻(1786~1882年)も初期(1820年頃)に来島した福建人である。彼は来島すると南東部で野菜農園を経営する。その後タイ南西部タクアパーに移住し、雑貨店「高源」を開業する。これが軌道に乗ると、ペナンとタイ南西部の港市を結ぶ交易に乗り出す。タイ南西部はビルマと海峡の中間の重要な沿岸地域で、ラノーン/タクアパー/プーケット/クラビ/トラン/サトゥンなどの港市があった。
・彼はクラ地峡にあるラノーンの錫鉱山を経営する。1854年ラノーン知事に任命される。ラノーンはビルマとタイの国境にあり、戦略的な地点でもあった。1862年彼は一線を退くが、コーンウォリス要塞に隣接する広大な土地を寄付し、「ラノーン広場」と命名している。彼は子孫と共に「許氏集団公司」を設立し、保険業/輸送業/錫製錬業/アヘン専売権請負業などに進出した。

・華僑は道教/仏教の神々や、関帝/媽祖など人格神を信仰した。しかし大伯公信仰はマレーの土地神「拿督神」と客家の土地神「伯公」との融合宗教で、ペナンでの会党の結合意識を醸成した。さらにこの大伯公は伝承上の張理とも結び付いた。
・張理は広東省大埔出身の客家で、ライトの上陸頃にペナンに亡命する。彼は「天地会」を組織する。彼の死後、彼の人徳を慕った成員が、彼に大伯公の称号を与える。大伯公は華僑は”トゥア・ペク・コン”と呼び、マレー語では略して”トコン”と呼ばれた。大伯公の墓廟が、ジョージタウンの北西4Kmにあるトコン岬にある。この信仰が華僑の間に広まり、1844年強力な「大伯公会」が創設される。

・1844年に創設された「大伯公会」(建徳会)を拡大させたのが、2人の邱氏である。1人は福建省海澄県出身の邱肇邦(~1860年)である。彼は、1790年に創設された「義興会」から「大伯公会」を分派させ、広東系の「三合会」と対峙する。「大伯公会」も多くの会党と同様に世襲で、彼の2人の息子(邱得、邱晩)が継承する。彼らは1858年以降にマレーで頻発した械闘を率いた。※狂暴な一家だな。
・もう1人の邱氏が、同じく福建省海澄県出身の邱天徳(1818/26~91年)である。彼は南シナ海/海峡の海商となり、邱肇邦の死後「大伯公会」の指導者になる。しかし徴税請負権を「義興会」に奪われたため、1867年「ペナン大暴乱」の火付け役になる。彼は広東系の「海山会」の首領・鄭景貴と結託し、対岸ウェルズリー州での砂糖キビ/ココナッツ農園、ペラクでの錫鉱山、香港/ペナンでのアヘン専売権、苦力の口入れ業で巨万の富を得る。1850年以降は会党首領から転身し(※邱肇邦の死没は1860年、「ペナン大暴乱」は1867年だが)、同族会「龍山堂邱公祠」「文山堂邱公祠」の総理、ペナン華人公会の設立、福建公墓の統括者で名を上げている。※相当な人物だな。福建公墓は”Batu Gantung Cemetery”かな。

・1820年広東系の「海山会」が創建される。「海山会」の首領として各地の械闘を主導したのが客家の鄭景貴(1829~1901年)である。1849年彼はペラクの錫鉱山の利権に関わった父・興発/兄・景勝を頼って広東からペナンに来島する。1860年代から1884年まで「海山会」の首領として、4次/十数年に及んだラルート(※ペラクにある現タイピン)械闘の黒幕となり、その和平協定「バンコール協約」(1874年)の主役となった。
・錫鉱山で水力ポンプを利用し採掘・精選を行った。他方、ペナン華人公会の会長(1895年)、華人学校「五福書院」の理事長(1898年)、増龍会館の理事長などを務めている。

・辜禮歡より2世代後の客家の謝春生(※生没不明)を紹介する。彼は清のペナン第3副領事を2期(1896~1901年、1907年)を務めている。彼はスマトラでアヘンの売買で巨万の富を得て、その富で「売官制度」により清の外交職を得た。清は中国本土での鉄道/商業への投資資金を得るため、1882年シンガポールで「売官制度」を始める。彼は同じく「売官」で副領事となった張弼士と手を組み、パハン(※マレー中部)の錫鉱山で、さらに富を得る。張弼士は東南アジア屈指の実業家である。
・1911年清が倒れると、彼は直ちに清と縁を切る。1901年広東・潮州共同墓地の主要管理人になり、1906年極楽寺の大寄進者になっている。

・東南アジアの客家には、リー・クァンユー(シンガポール)/フー・ウェンフー(シンガポール)/コラソン・アキノ(フィリピン)/タクシン・チナワット(タイ)/孫文など多彩である。その中でも張弼士(張振勲、1840~1916年)は傑出している。※客家は独自の客家語を話すんだ。単なる移動民と思っていた。
・彼は広東省大埔県(※大伯公の張理と同じ)の客家村で生まれる。そこでは貧窮の中、牛飼をしていた。1856年バタビアに渡り、水汲み屋から始める。1858年義父の支援で交易商行を興す。1860~70年、オランダ陸海軍の買弁で信用を得て、交易・徴税請負権を得る。ゴム/コーヒー/茶などの取引、銀行などに事業を拡大する。1898年パハン州ベントンの近郊都市を建設し、スランゴール(※ペラクの南)の錫鉱山を経営し、巨万の富を得て、ペナン/シンガポールのアヘン専売請負業を行う。※華僑は大概アヘンの専売で富を得ている。
・1890年清の外交官として、ペナン駐在第1副領事に就き、1902年シンガポール総領事に任命される。山東省の張裕酒造会社で成功する。産業貿易局(工商部)領事に任命され、清の近代化・産業化に貢献する(1代で凄いな)。1901年広東・汀州の共同墓地「広汀公塚」の支配人になり、1906年極楽寺の大寄進者になる。※謝春生と似ている。

・張煜南(1851~1910年)は張弼士の従弟である。彼は弟・鴻南と共に張弼士の徴税/交易を管理し、同時にジャワの徴税請負人として巨利を得る。1894~95年デリ(?)の市長兼ペナン駐在第2副領事に就いている。

・客家は新米の華僑で、1867年「ペナン大暴乱」以降に来島している。客家には米国などで教育を受けた者も多く、その1人が梁楽卿(1851~1912年)である。彼は広東省順徳県で生まれ、サンフランシスコで教育を受け、1888年ペナンに来島している。ペナンで「広安号商行」を創業し、錫鉱山主/大農園経営者として名を馳せる。華人参事局委員/フリースクール「平章会館」の管財人/広東曁汀州会館の理事/順徳会館の理事/五福堂の理事を務め、「太平局紳」に叙せられる。

・ペナン総督府により任じられた「カピタン」は、土地の所有/交易/徴税請負/鉱山開発などの特権を得て、華人労働者を掌握し、会党の頭目として同郷・同業・同姓の幇組織を統御した。彼らは、「華僑の搾取と保護」「非合法の商いとペナンの繁栄」の二面性を、植民地政府に代わり担った。植民地政府は華人の慣行に寛容で、徴税/アヘン売買/錫鉱山・コショウ農園・アヘン栽培の経営を彼らに任せた。その代償として、彼らは華人に関するあらゆる揉め事を収める事が求められた。
・大商人=会党の頭目=「カピタン」の権限が一人の人物に掌握され、19世紀末まで植民地政府と「カピタン」の関係は良好だった。しかし1867年「ペナン大暴乱」などから、1890年「結社禁止条例」が公布され、”放置”は”法治”に転換する。
・20世紀に入ると華人の意識は清/植民地政府に向けられ、反清・反英運動が展開されるようになる。この後はペナンの新しい近代史である。
※東南アジアに進出した華人は大量で、東南アジアの産業に大きな影響を及ぼした事が分かる。しかし彼らは中国国民ではない。※この章は地名や人名が多く出て、読み辛かった。

-コラム ペナンの孫文
・中国映画「孫文 100年先を見た男」は娯楽作品である(※中国で孫文の映画?)。孫文は革命前夜の1910年7月~12月、ペナンのアルメニア通りの一角に潜んだ。

<第10章 ベンガル湾を渡ったインド人>
・インド系の人々は市街の3地区に集住した。1つ目は南北に走るカピタン・クリン・モスク通り(元ピット通り)とチュリア通りが交差する一帯で、商人/職人が集住した。2つ目はペナン大路南部の「レンガ窯通り」(後にグルドワラ通り)で、南インドの雑役労働者が集住した。3つ目が市街北西部の「セポイ・ライン」で、インド人傭兵が駐屯した。

・インド系移民がインド人と呼ばれるのは、20世紀初頭にインド本国で民族意識が芽生えてからで、当時は「クリン」と呼ばれた。
・「クリン」の由来は明確でないが、紀元前3世紀~4世紀、オリッサ地方(ベンガルと南インドの境界)にあった「カリンガ王国」が由来と思われる。
・海商「クリン」の名は随所に残る。15世紀初頭の鄭和の航海日記『瀛涯勝覧』に、「柯枝国(コチン)の第4階級が革令(クリン)で、仲買をしている」とある。またポルトガルの使節トメ・ピレスの旅行記『東方諸国記』に、「コロマンデル地方(※南インド東岸)でクリンが海洋交易している」「カリカットのクリンは大勢力である。ヒンドゥーのクリンがポルトガル側に付き、ムスリムのチュリアがオランダ側に付いて競合している」「マラッカではクリンがポルトガルの綿布を交易している」とある。19世紀半ばまでは、インド系ヒンドゥー海商が「クリン」と呼ばれたようである。
・しかし19世紀半ばになると、南インドからマレーへのタミル人の囚人/雑役労働者が急増する。これによりタミル系ヒンドゥーを「クリン」、タミル系ヒンドゥーの商人を「チェッティ」、タミル系ムスリムの商人を「チュリア」と呼ぶようになった。

・「チェッティ」はタミル系ヒンドゥーの富裕な商人である。先の『瀛涯勝覧』に、「第3階級の哲地(チェッティ)は金持ちで、宝石/真珠/香薬などを買い集めている。中国/東南アジア/インドからの客に真珠などを売っている」とある。
・この1世紀後、ポルトガルの航海者がマラバール地方(※南インド西岸)の「シャティ」(チェッティ)について述べている。「彼らはコロマンデル地方の出身の大商人で、宝石/真珠/珊瑚/金銀貨/金銀地金などの取引をしている」「彼らは豊かで、身分が高く、邸宅を持っている。彼らは黄金/宝石で飾られた帯を締め、胸には金銀貨/宝石/秤が入った財布を掛けている」「彼らは高利貸で、兄弟にも利子を付ける」「彼らは自分達で裁判を行う」。

・時代が下って20世紀初め、野村汀生による現地調査報告『南洋の50年』に、現地の日本人がインド人、特にチッテ(チェッティ)の経済活動/生活をどう見ていたかが記されている。彼は東南アジアでの日本人/インド人/華僑による経済連携の可能性を見い出いしている。彼は宗教的な共済/相互扶助を重視し、東南アジアでの各種民族の連携を期待した。ところが日本の頼母子/無尽は仏教を淵源とするが、彼らの経済活動(高利貸)は実利的・実益的である。

・「チェッティ」は10世紀頃からベンガル湾一帯(コロマンデル沿岸、セイロン、マレー沿岸)を商圏にし、反物/米の交易、両替、高利貸などを行っていた。15世紀末にはアデン(※イエメンの港市)からマラバールに及ぶ海域で、金の取引を行う商人も現れた。16世紀ポルトガル人が来航した頃には、マラッカ/アチェ/ペグーなどベンガル湾一帯で両替/金貸し/コショウ貿易を行っていた。
・「チェッティ」の商業形態は、都市・農村での高利貸/両替/送金業務で、これらは金融資本家の初期的な機能である。高利貸としては、1808年マラッカ、1823年シンガポール、19世紀半ばペナンに進出している。19世紀後半、オリッサ/ベンガル/ビルマでの貸付による担保で、不在地主に転じた。19世紀彼らはパハン(※マレー中部)/スランゴール(※ペラクの南)/ペラク(※ペナンの南)の都市/農園で働くタミル移民を求めて活動した。彼らはカースト内での通婚、高利貸のネットワークを基盤とし、「ナットゥコッタイ・チェッティ」が最も有力な集団である。※メディチ家みたい。インド人が数学が強いのは、こんな歴史からか。

・17世紀末東インド会社がベンガル湾に乗り出した時、既に海商「チュリア」が交易を行っていた。1670年頃、東インド会社の商船長は『ベンガル湾周辺諸国の地誌録』に「チュリアは悪質なムスリムで、現地の人をだまし、我々の商売を妨害している」と記している。
・1788年ペナンの行政長官フランシス・ライトはマレー/ペナンの人口記録に「コロマンデル出身のチュリアの人口は216人、店舗・家屋は71戸で、多くはクダーに定住している」と記している。1804年副総督ジョージ・リースも「チュリアは相当な財産を所有している。彼らの多くは、マレーで数ヵ月間商売し、新たに商品を買ってコロマンデルに戻る」と記している。

・「チュリア」には3つの集団がある。第1はクダー/プライ(ジョホール河口)出身で定住した(※ペナンに定住?)。第2は「季節交易商人」で数年ペナンに逗留し、コロマンデルに戻った。彼らは塩/タバコ/手巾/麻綱/綿糸/更紗木綿(木綿更紗?)などを交易した。第3は船乗り/クーリーで数年マレーに逗留し、コロマンデルに戻った。
・「チュリア」はコロマンデル南部出身のタミル・ムスリム海商である。彼らは「クリン」「チェッティ」と異なり、イスラムのネットワークが基盤だった。彼らの交易ルートは、コロマンデル~ビルマ~スマトラ~ペナンだった(※詳細説明と相違)。200tクラスの中型帆船「シリンガ」で。南インドの綿布、東南アジアの錫/コショウ/砂糖/ベーテル(ビンロウ)などを交易した。※華僑と違ってアヘンがない。
・ポルト・ノヴォ/ナグールを出身とする一族は「マラッカイヤール」(マラッカとは発音が異なる)と呼ばれ、最有力の商人集団だった。そのため彼らは名前の最後に「メルカン」を付けた。

・1801年副総督リースは「マラッカイヤール」のカーディル・ムハディーン・メルカンを初代「カピタン・クリン」に任命する(※彼はクリンではないが)。行政長官フォーブズ・マクドナルドは7条の『カピタンに関する規定』を告示している(※全条記載されているが省略。その内容は人口動態の記録/家屋税・土地税の決定など)。同規定は華僑/インド系/マレー人に対する規定だが、インド系をより意識した規定である。
・1804年以降、同規定を各民族の言語(タミル語など)に翻訳し、「裁判業務」と共に「カピタン」に一任した。裁判はカピタン邸で週2回、2人の補佐官を陪審し行われた。「カピタン」は家族問題、宗教的な紛争、経済的な問題(2ドル以下)を裁いた。また「カピタン」は、成員の誕生・死亡・結婚を記録し、新来者を査問してペナン政庁に報告した。
・「カピタン制度」は「隣保制度」である。1806年市参事会の下に警察・司法組織が整備され、翌年「カピタン制度」は廃止される。しかし「カピタン・クリン」の称号は、20世紀初めまで存続した。

・1801年リースは南北に走る通りを「ピット通り」(後にカピタン・クリン・モスク通り)、東西に走る通りを「マラバール通り」(後にチュリア通り)と命名し、一帯をインド系移民の居住地とする。そしてカーディル・ムハディーン・メルカン(~1834年)を初代「カピタン・クリン」に任命する。
・ペナンの船舶に関する記録(1819年)に、彼は200t級・2本マストの帆船を2隻(カーディル・バックス号、ファタ・コーイル号)、100t級の帆船1隻(カリマン号)を所有していた。当時は東インド会社はベンガル湾での交易に関心はなく、チュリア海商の交易が活発だった。彼は北東モンスーン期にカーディル・バックス号でペナンを発ち、アチェを経由し、南インドに向かった。南西モンスーン期には、60人の船客を乗せてペナンに戻った。ファタ・コーイル号はペナンと南インドを単純往復した。香料/錫/コショウ/ベーテル/林産品を積んで南インドに向かい、帰路は衣料品/船客150名を積んで戻った。カリマン号は南インド~アチェ~プーケット~クダーを周回した。
・また彼は女王通り/チュリア通り/海岸通りの土地を売買し、有力地主になる。彼は市政委員会でもインド系の代表となる。※「チェッティ」より「チュリア」が優遇されたのかな。

・モスクに関する資料『ペナン島におけるモスクおよびクラマに関する歴史調査』から、ペナンでのモスクの歴史を概観する。
・19世紀ペナンには70のモスク/クラマ(廟)があり、その内20はタミル・ムスリムが創建し、残りは北インド/マレー/インドネシア/ビルマなどのムスリムにより創建された。ベンガリー・モスク(1803年、リース通り)/アリムサ・モスク(1811年、チュリア通り)/アチェ・モスク(1820年、アチェ通り)/ピンタル・ターリー・モスク(1820年、ピンタル・ターリー通り)などがあるが、最大なのがカピタン・クリン・モスクである。
・1801年治安要員としてマドラスの警察/兵士や北インドのセポイが派遣され、彼らはチュリア通りに兵営を設けた(第4章)。彼らの要請でカピタン・クリン・モスクが建造される。このモスクは、主に富裕なタミル・ムスリムにより運営される。一方ベンガル/北インドの傭兵のために作られたのがベンガリー・モスクである。

・1792年ライトはアチェの海商トゥンク・サイエド・フセイン・アイディッドを迎える。1820年彼はアチェ通りの一角を寄進し、アチェ・モスクが建造される。彼は教導場/墓地も寄進している。
・1811年タンジョール(タンジャーブル)からペナンに派遣されたハッジ・アブドゥル・カーディル・アリムは、ムスリムにクルアーンを説いた。1842年彼はこの説教場を寄進し、アリムサ・モスクとなる。このモスクはムスリム知識人の信仰を得ている。※モスクにも格式があるのかな。
・これらと由来/信者が異なるのがピンタル・ターリー・モスク(通称ロープ・ウォーク・モスク)である。このモスクは、荷役などに使うココナッツ繊維製のロープを作る労働者や、牛車・人力車を引く労働者が信者である。彼らは多民族で「白旗会」のメンバーだった。

・ナグール廟は国王通りとチュリア通りの角地にある。これはペナンで最も古いイスラム廟(1801年)である。ナグールは南インドの港市で、この地にあるスーフィーの聖者シャフル・ハミードを祀るシャフル・ハミード廟が本廟である。※ナグールにナゴレ・ダルガ(Nagore Dargah、Syed Shahul Hameed Dargah)があるが、これだな。
・この聖者はムスリム/ヒンドゥーの両方から崇拝されているが(!)、これには2つの故事がある。①彼は渡海しメッカ巡礼した事で、「航海安全」の守護神になった。②彼がタンジョールのヒンドゥー領主の病気を治癒した(※タンジョールはタンジャーブル・ナーヤカ朝の首都)。この2つの故事からナグール廟(シャフル・ハミード廟)はムスリム/ヒンドゥーから崇拝され、さらに南インドのカルナータカ太守などからも崇拝された。

・モスクはインド/マレー/インドネシアを結ぶ経済活動により、社会的ネットワークになった。ナグール廟(シャフル・ハミード廟)はペナン以外に、アチェ/クダー/タイピン/シンガポールにも支廟が作られた。これらの廟はモスクとヒンドゥー寺院を折衷した建築様式である。
・南インドのカーヤルパッティナム(?)/ナガパッティナム/ナグール出身の「マラッカイヤール」はスーフィー信者だった。タンジョールには「タンジョール・ムスリム協会」が組織され、「マラッカイヤール」はこの組織のメンバーだった。この組織は裕福な信者からの動産・不動産のワクフで運営され、各港市の同族に対し福祉・慈善活動が行われた。1805年ペナン市庁の官吏は「チュリア/ヒンドゥーには貧者がいない」と述べている。

・マレーに移民したタミル人によりヒンドゥーの神々もマレーに定着する。ムルガン神は「チェッティ」の守護神であり、タミル人が最も崇拝する英雄神のため、マレーに定着する。1854年「チェッティ」はペナン通りに寺院会館を建設するが、1857年ウォーターフォール地区に移設され、ナットゥコッタイ・チェティヤール寺院として再建される。他にマハー・マーリアンマン寺院(1832年)/ムルガン寺院(1856年)/シヴァ寺院(1871年)など大小十数のヒンドゥー寺院を建設される。
・「ムルガン神」を讃えるタイ・プーサム祭礼は毎年1・2月にマレー全土で催行され、その勧進元を「チェッティ」が担っている。「チェッティ」は、ムルガン神の勧請/ヒンドゥー寺院の創建/ヒンドゥー教の儀礼・祭礼を通し、ヒンドゥー移民の結集に不可欠となった。

・ヒンドゥー寺院の運営には世俗の「寺院資産委員会」が当たったが。「チェッティ」は大口の寄進者であり、そのメンバーでもあった。
・ヒンドゥー寺院への寄進「マガマイ」もムスリムと同様に様々な動産・不動産で、土地/建物/現金/貴金属/頭髪/菜種/ゴマ/油/穀物/バナナ/ココナッツ/絹布・綿布などである。「寺院資産委員会」は、これを商業ルートに還流させる必要があるが、これも「チェッティ」が担った。また彼らは寺院運営の諸経費も管理し、ヒンドゥー寺院の世俗的な役割を果たした。
・さらに「寺院資産委員会」の重要な活動が慈善・福祉事業であった。タミル・ヒンドゥー系移民に対し、寡婦・高齢者の保護施設、貧窮者の保護、婚資の貸与、教育資金の貸与、タミル語学校の運営などの活動を行った。※これも前述の「チュリア/ヒンドゥーには貧者がいない」だな。

・タミル語「クットゥ」の意味は”結ぶ””繋ぐ”で、転じて結(ゆい)となった。これをヒンドゥー寺院が行うので「寺院講」と呼ばれている。この講は「親」と10人程の「子」からなり、毎月「子」から掛け金を徴集し、お金を必要とする「子」に貸し出す。借主は利子・元金を返済し、それをメンバーで分配する。※それで町には沢山のヒンドゥー寺院があるのかな。
・「寺院講」のメンバーは同郷・同カースト・同業のヒンドゥーで、この背景に集団同調意識があった。その中心が「チェッティ」だった。

・「チェッティ」は、農園労働者/小商人/マレー人役人などへの高利貸、華僑への融資/手形決済、担保として得た不動産などを財源とした。
・ヒンドゥー寺院と高利貸・金融業の「チェッティ」との相互補完関係により、インド系移民の経済・社会は維持された。そのためペナン市庁/ベンガル総督府は「チェッティ」を支えた。

-コラム サンガムと会党
・ペナンにはインド系/華人系の様々な結社・組合があった。一般にインド系は「サンガム」、華人系は会党と呼ばれる。両者の共通点は、地縁・血縁・宗教で結束し、相互扶助やセイフティネットの機能を持つ点にある。しかし「サンガム」は政治状況に無関心だったが、会党は秘密結社化し、体制批判する組織もあった。孫文の革命運動もこうした組織に依拠したと考えられる。
※後ろ2章は解説する地域が広がったので、大変だった。しかし中国人とインド人の違いが感じられて面白かった。

<おわりに>
・ベンガル湾/マラッカ海峡はユニークな位置にあり、欧州とも日本とも異なる(※その前にインドと中国に挟まれている)。この広域な海域を複眼的(?)に、昆虫の目で観たかった。それはどこでも良かったが、ペナンとなった。
・ペナンは淡路島の半分程度の面積だが、30を超える民族が群居し、ミクロ・コスモスとなった。しかしその背景には広大な海域が広がっている。

・本書の第1部ではペナン/上海租界/神戸居留地を概観した。第2部では様々な民族集団を描いた。1980年代まで、多民族社会は「るつぼ論」「サラダボール論」「モザイク論」で論じられた(※何れの論も不明)。これらの類型は分かり易い議論ではあったが、今の現実を見るとこれらの類型は当てはまらないと感じる(※具体的な説明はない。移民・難民問題かな)。第2部でペナンでの様々な民族の葛藤を描いたが、それは「穏やかな棲み分け」だったのでは。

・「史実」を掘り下げると、思わぬ課題に直面する。事跡や出来事が、言い伝え/掟/儀式/しきたりなどの言説に依拠し、それを裏付ける文字資料/物証がないのである。これにより「史実」を何によって描くのかと云う根本的な問題にぶつかる。
・現地を調査し、多くの人との対話で社会・文化の遷移を学ぶ事ができた。また国内外の様々な研究・情報機関の図書・資料を利用させて頂いた。またプロジェクト『21世紀海域学の創成』『渡海者のアイデンティティと領域国家』から支援を頂いた。

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