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『ニュースの深き欲望』森達也を読書。

映画監督/作家で国際人の著者が、映画を通して日本の政治/メディアなどの危うさを述べている。同意できる意見が多い。

「情報に真偽はなく、受け手の捉え方次第」「日本人は集団化し易く、一方向に流れ易い」「集団化は人間の本能」「政治は敵を強調し、メディアはそれを煽る」などを述べている。

なぜかメディアに関する本は多数読んできた。本書もそれに類する本である。私達情報の受け手は、情報が何らかの意図を持って作られた事を常に意識しておく必要があると思う。
また受け手には、「情報を鵜呑みにしない」「常に批判的な目を忘れない」なども必要と思う。

お勧め度:☆☆

キーワード:<『FAKE』のクランクイン>佐村河内、メディア、真実/虚偽、視点/解釈、<『FAKE』を米国人に見せに行く>トランプ、危機意識、<上映終了直前でのハプニング>帰国、犬を叩く、集団化/復元力、<表現と権力の対峙>セウォル号沈没事件、オルタナティブ、捕鯨、<トランプ勝利を読み解く>集団化/分断、信仰、<人類は猿人と変わらない>北方領土、テリトリー/本能、国境、<ナジーブは「失望した」と言った>独自のスタンス、<佐村河内の映画を届ける>付和雷同、ドキュメンタリー映画、<オランダの選挙を気にする前に、日本はどうなんだ>視聴率、贋作、偽り/真実、極右、<北朝鮮を変えたい、ならば日本が変わらねば>危機意識、拉致問題、敵、敵基地攻撃能力/集団的自衛権、<内面は得た情報でできている>食品、日本社会/オウム、不当逮捕/民意、情報、<自衛が大義になり、加害が正義となる前に>ネット、群集心理、相変異、国家、米国、集団化/分断化、閉鎖、<メディアの存在と機能は僕らの地図>ミサイル発射、リスク/ハザード、積極的平和主義、<情報は真実とフェイクの狭間にある>情報/メディア、文字、映像、マスメディア、ポスト・トゥルース、<そして船は行く>ツイッター、ネトウヨ、報道の自由

<プロローグ ドキュメンタリー映画『FAKE』のクランクイン>
○始まりは直感
・今コペンハーゲンの安宿にいる。僕(※著者)は日本で生まれ、日本で育ち、骨の髄まで日本が沁み込んでいる。これでは視点が固着する。だから時折、文化・気候・週間・風土・伝統・言語・宗教が違う土地に行く。異国に行かなくても、人が忌避する場所に行ったり、人が嫌悪・嘲笑・危険視する人に会うのも方法である。ドキュメンタリーを撮っている僕には、その機会は多い。※価値観の異なる人に会うのは刺激になる。

・2014年8月佐村河内守に会った。2時間ほど話をして、彼を被写体としてドキュメンタリー映画を撮る決意をした。しかしこの段階では一方的な決意だった。彼も手話通訳する妻も拒否したからである。
・そもそも2週間前、KADOKAWAの佐藤氏からの「ゴーストライターのノンフィクションを書かないか」の依頼が始まりである。『NHKスペシャル』『週刊文春』などで大きな話題になったが、僕は関心がなかった。しかし佐藤は「メディが伝える事実と佐村河内の話には、大きな乖離がある」と諦めない。結局押し切られ、彼と会う事になった。

・佐村河内に会って、聴覚障害、新垣隆との長い付き合い、「週刊文春」との関係、メディア・スクラム、消費(※公開に近いかな)される情報の虚偽・欺瞞などについて話を聞いた。そこで、これは活字ではなく映像だと頭に浮かんだ。その思いは徐々に強くなった。「あなたを映画に撮りたい」と言い、「ただし、あなたを擁護しない。あなたを利用します」と伝えた。
・帰りの電車で、自分は本気なのか考えた。何時もこうである。計画性はない、直感で動く。ずっとその繰り返しである。

○気がついたらカメラを回していた
・1998年最初の映画『A』(※オウム真理教の荒木浩が主演のドキュメンタリー)を発表した。しかしこの作品は映画を前提に作られていない。それは当時僕はテレビ・ディレクターで、この作品はオンエアするために作られた。1996年製作会社とフジテレビから撮影中止を命じられ、これを拒否したため会社を辞める羽目になった。その後別のプロデューサー/ディレクターに当たるが、何れも放送を拒絶された。
・当時は拒絶された理由が分からなかった。しかし理由は単純である。メディアは「オウムは邪悪・狂暴な集団」「オウムは麻原に洗脳され、感情・判断力を失った集団」を主張するしかないからである。メディアは社会の願望に抗われない。むしろ煽る。それは、その方が視聴率/部数を増やせるからである。
・カメラの前の信者達は普通であった。僕よりも善良で、優しく、純粋であった。本来なら、「普通の彼らが、なぜ残虐な事件を起こしたのか」を社会は考えるべきだった。しかしメディアは考えを変えなかった。

・最終的に『A』は、安岡氏の支援で自主製作映画になった。しかしこの映画は海外では上映されるが、国内ではサッパリだった。この失敗で映画を諦め、テレビに復帰した。
・テレビに復帰しても裏街道を歩くしかなかった。しかし1999年『放送禁止歌』の書籍化が舞い込んだり、『A』の書籍化の話があり、執筆とテレビの仕事を並行するようになる。※中々波瀾万丈だな。

・2000年安岡に誘われ、再びオウムの施設を訪れる。僕は荒木広報副部長の疲弊に驚き、また周辺住民のオウムに対する激しい憎悪・嫌悪にも驚く。これを機に、『A2』の撮影が始まる。
・『A2』も海外では評価されるが、国内では閑古鳥が鳴いた。それはオウムは戦後最大の「パブリック・エネミー」だからだ。ある市民団体が『A』『A2』を上映しようとしたが、ホールを提供する市が拒否した。DVD化の話も幾つかあったが、役員会で拒否された。
・テレビ/映画からは拒否されたが、書く仕事はもらえたので、書き続けた。そして16年が経過した。

○ドキュメンタリーは表現行為
・2011年東日本大震災があり、津波や原発をテーマにしたドキュメンタリー/映画が製作された。2012年第2次安倍政権は圧倒的な数を背景に、国の形を変えようとしている。しかしメディアは委縮し、忖度している。街にはヘイトスピーチを唱和する集団が行軍し、従軍慰安婦/南京事件などの歴史修正主義者が台頭し始めた。オウムから始まる日本の集団化は加速している(※これは本書の重要なポイント)。それならば撮るのは今しかない。
・『広辞苑』には「ドキュメンタリーは、実際の記録を基にした記録文学や記録映画」とある。しかしドキュメンタリー制作者は、そうは考えていない。他のメディアと同じく「表現行為」と考えている。

・『FAKE』のパンフレットに以下と記述した(※抜粋)。
 誰かが笑う。それを「ニコニコ」と書くか、「ニヤニヤ」と書くかで印象は変わる。それは「ゲラゲラ」かもしれないし、「ヘラヘラ」かもしれない。嫌いな人なら「ニヤニヤ」、好意を持つ人なら「ニコニコ」と書くかもしれない。これが情報の本質である。
 僕達が認知する事象に、客観・公正・中立な真実はない。常に偏りがあり、主観がある。大体、時代や国が変われば客観性・中立性の軸は移動する。
 メディアは客観性・中立性を標榜し記事を書くが、近年「真実」「真相」などの語彙が安易に消費されていると思う。

・ゴーストライター騒動が起きる前、食品偽装問題/STAP細胞騒動があり、この後には従軍慰安婦記事問題があった。朝日以外のメディアも吉田証言を記事にしたのに、保守系メディアは自分達の過ちを取り上げなかった。大半のメディアは「真実VS虚偽」と云う二元的レトリックに同調した。その後も東京五輪のエンブレム盗作騒動/経営コンサルタントの経歴詐称騒動があった。※こんな時期があったな。
・そこでは摩擦係数は働かず、煩悶や葛藤はない。そこには視聴者/読者の熱狂があるだけである。社会がこうであれば、政治もそうなる。社会/メディア/政治は同じ方向に進んでいく。楽な方へ、売れる方へ、票が集まる方へ。二極化は楽である。真実と虚偽、黒と白、右と左、正義と邪悪、敵と味方。僕達は集団の熱狂に身を任せ、同じ過ちを繰り返す。※分断だな。ポピュリズムでもある。この3つを同じと見た点は鋭い。これも本書の重要なポイント。
・これを撮りたいと思った。それは国会でも、沖縄でも、福島でもない。間接的な方法で、メタファーな方法で。それが佐村河内だった。

・今日コペンハーゲン郊外のリンゴ農家を訪れ、その後ラトビアに向かう予定だ。新しい視点を増やす事ができるだろうか。最後に『FAKE』のパンフレットに書いた文章を引用する。
 ゴーストライター騒動を単にテーマにしたつもりはない。誰が彼を造形したのか。誰が嘘をついているのか。自分は嘘をついた事はないのか。真実とは何か、虚偽とは何か。この2つは明確に分けられるのか。
 視点/解釈は無数にある。もちろん僕にも視点/解釈は存在する。しかしそれは、あなたのもので良い。それは様々な視点/解釈があるからこそ、この世界は自由で、豊かで、素晴らしい。
※プロローグだけで十分な気がするが、これからどんな展開になるのか。

【表現とは何だろう】
<佐村河内主演の映画『FAKE』を米国人に見せに行く>
○危機意識の高揚を味わう
・6年振りにニューヨークに来た。それは「ジャパン・ソサエティー」が新作映画『FAKE』を上映してくれるからだ。到着した日、ドナルド・トランプが共和党の大統領候補に指名されたため、彼が頻繁にテレビに出てくる。彼の受諾演説は、「米国をグローバリズムではなく、米国ファーストにする。米国を最優先しないから、他国から尊敬されない」「新たな貿易政策を採る。米国が防衛する国に、相応の負担を求める」「不法移民により、国民の生活が脅かされている。メキシコとの国境に巨大な壁を作る」などの内容だった。

・世界には様々な政治家がいるが、誤った方向に導く政治家には共通する傾向がある。敵の存在を強調し、多くの人の不安・恐怖を煽る点である。トランプは国民の危機意識を刺激し、支持率を上げようとする点において、危険なリーダーと感じる。
・世界を縦(時代)に見ても、横(平面)に見ても、そんな政治家は沢山いた。今でも欧米・アジア・中東に、異なる宗教・民族を敵とする為政者/オピニオン・リーダーが強い支持を集めている。これは嫌な兆候である。

・米国訪問が6年振りになったのには理由がある。前回の訪米は、「同時多発テロ」から10年過ぎた米国を検証するNHKの番組に出演するためだった。ジョン・F・ケネディ空港に降り、入国手続きの際、僕は別室に誘導され、結局6時間拘束された。そこで銃を持っている審査官に、「ドラッグはやった事があるか」などと何度も訊かれる。何度も訊かれ内に、「Yes」と言ってしまう気持ちになった。
・日本でも被疑者は最長で23日間拘束され、早朝から深夜まで怒鳴られ、脅される。「どうでも良い」となっても全然不思議でない。こうして冤罪は生まれる。
・拘束され6時間経った頃、審査官から「おまえは明日の便で強制退去だ」と宣告された。結局、黒人の審査官に代わり、無事解放された。やっとNHKの撮影クルーと合流し、現地のコーディネーターから「イミグレは時折、こういう事をします」と慰められた。

<ニューヨークでの上映終了直前にハプニングは起きた>
○水に落ちた犬は叩け
・ニューヨークの「ジャパン・ソサエティー」は3階建ての建物で、地下1階が劇場で、そこで映画祭「JAPAN CUTS」が開催される。僕の『FAKE』など16本が上映され、沖田修一/前田敦子/大根仁/坂本龍一など、監督/プロデューサー/俳優16人も招待された。

・「夜の回」の『シェル・コレクター』を観に行った。上映後は主演/監督/プロデューサーが登壇し、質疑応答になった。観客には在米日本人が多いのかと思っていたが、大半が米国人だった。日本文化に関心があるようだ。『FAKE』の上映は、明後日である。
・さらに1階のロビーで立食パーティが行われた。サンドウィッチ/寿司はあっという間になくなった。パーティが終わると、知り合った10人ほどで日本料理店「蕎麦屋」に入った。「蕎麦屋」と云っても居酒屋で、かなり飲んだ。そこで在米3年の若い男性に、「帰国は?」と訊くと、「今の日本には帰りたいと思いません」と即答された。

・1年前ロンドンで日本人留学生に同じ質問をしたが、大半の学生が、「今の日本には戻りたくない」と答えた。それを書いた事があるので、引用する(※抜粋)。
 インド料理店で乾杯した後、日本について問答していると、院生が「今の日本に帰りたいと思いません」とつぶやいた。「何かが変わってきている」「子供を育てる事を考えると、今の日本では」と教授や他の学生も同意する。
 「日本の憲法は変わりますか。ならば国の形は大きく変わりますね。その事を日本人は気付いていますか」。「後藤さんがISに拘束された時、自己責任論を主張する人が多かったそうですが、あれは本気ですか」。「朝日新聞への攻撃が凄かったですね。メディアが他のメディアを罵るなんて、こちらでは考えられません」。
 海外から見ると、今の日本は相当危うく見えるようだ。丁度その頃、鳩山元首相がクリミアを訪れ罵倒されていた。確かに今の日本はどうなってしまったのか。発想にオルタナティブがない。黒か白か。正義か不正義か。そしてその背景に自国礼賛がある。

・1年前の事例は今の不倫騒動/芸能人バッシングにも当て嵌まる。正義と悪、真実と偽り、あっさりと二分し、”水に落ちた犬を叩く”。自分は正義であり真実なので、悪や虚偽を徹底して叩く。しかし叩きながら怯える。それは自分が水に落ちるかもしれないからだ。こうして叩きながら、萎縮と自主規制を進行させる。具体的には「坂本弁護士一家殺害事件」が明らかになったなった後のTBS叩き、吉田証言を誤報と認めた朝日新聞へのバッシングであり、その後メディアの委縮は促進された。
※よく言われるのが「日本は農耕社会」。そのため忖度するが、議論はしない。

○映画はまだ終わっていない
・映画祭「JAPAN CUTS」の3日目の夜、『FAKE』は上映された。開演1時間前に行くと、日本人向け新聞2社から取材を受ける。上映後の質問はどの国でも同じで、「なぜあなたはオウムの施設に入ることができたのか」「日本のメディアは、なぜこの事実を報道しないのか」などで、宗教や文化が違っても、人の内面は変わらない。
・上映が始まると街に出た。白人男性が「How are you?」と声を掛けてくる。米国人一人ひとりは人懐っこい。しかし国となると過ちを犯す。しかし米国のメカニズムは日本と異なる。米国は多民族・多言語・多宗教なので、本質的にはUniteされない。そのため自分達が危機に晒されると、国旗・国歌にすがりUniteしたと強調する。こうして集団化し、敵を探し、殲滅したがる。しかし本質的にUniteされないため、復元力は強い。一方日本は均質なので、後ろを振り返る事がなく、復元力は弱い。※復元力ね。

・上映終了20分前に劇場に戻った。クライマックスが終わり、タイトル/スタッフ・クレジットが流れ始める。観客が席を立ち始める。まだ映画は続くのに。スタッフ・クレジットが流れ終わると、上映は終了し、電気が点けられた。「まだ終わっていない!」と叫んでしまった。30秒ほど中断し、本当のラストシーンが上映された。※ちょっと悲しいな。
・相当落ち込んだが、想田和弘が司会のQ&Aは秀逸だった。観客の一人から「今の日本を考える上で、大切な映画だ。ありがとうと言いたい」と言われた。民族・言語・宗教が違っても思いは届くものだ。「あなたに2時間を使わせた以上の価値があった事を祈る」。

<アジア最大の映画祭では、表現と権力が対峙していた>
○セウォル号沈没事件とボイコット騒動
・『FAKE』の上映でアジア最大規模の「釜山国際映画祭」(※以下映画祭)に来ている。僕の映画はこの映画祭に必ず招待されている。しかし今回の映画祭は、映画界の独立性を求める映画界と釜山市が対立し、開催が危ぶまれていた。問題となっていたドキュメンタリー映画は『ダイビング・ベル』(※以下同映画)である。この映画は、「セウォル号沈没事件」で民間ダイバーの協力を拒否した韓国政府の不作為を訴えている。

・映画祭の執行部が同映画の上映を発表すると、政府の「犠牲者遺族対策委員会」は「この映画は遺族を傷付ける」として上映に反対した。さらにパク・クネ大統領の側近の釜山市長も「政治的中立を損ねる映画の上映は望ましくない」として同映画の上映中止を要請した。
・『中央日報』(日本語版)によると、遺族も上映に猛反対している事になる。普通なら政治権力と遺族が反対しているので、上映中止となるが、映画祭の主席プログラマーは上映中止の要請をはね付けた。

○映画祭は闘う
・執行部は逆に同映画を「ワールドプレミア」に設定し、映画祭のメイン映画とした。そのためキャンセル待ちが出るほどになった。そのため釜山市は映画祭の責任者の辞任を迫り、さらに映画祭への支援を減額した。
・この行政の措置に対し、世界の多くの映画関係者が参加を辞退し、開催が危ぶまれたのである。映画祭の執行部は権力と闘っており、言い換えれば、表現と権力の対峙である。
・日本ではどうだろうか。日本のメディアは自粛と忖度ばかりで、目を覆いたくなる惨状である。「被害者遺族の心情」を出された時点で、釜山とは違う展開になっただろう。※追いかけていなかったけど、名古屋での『不自由展』はこの類の問題だったのでは。

○移民、従軍慰安婦、捕鯨
・映画祭に招待される楽しみは、日本では観れない映画に出会える事です。一昨日は屋根の上で暮らすミャンマー人を描いた『Burmese on the Roof』、昨日は中国/フィリピン/韓国の元従軍慰安婦を描いたカナダの『The Apology』と、太地町のイルカ漁をテーマにした『Two Tales of Whales』を観た。何れも今の日本に問われている移民/従軍慰安婦/捕鯨をテーマにしたドキュメンタリー映画である。
・最近はドキュメンタリーを観る機会が多くなった。それは市場原理に捉われたマスメディアとは違う視点を提供するからである。世界が複雑になり、メディアの資本主義化が進めば進むほど、オルタナティブな視点への渇望が強まる。

・『Two Tales of Whales』は日本でも公開される。「捕鯨は日本の伝統文化なのか」「欧米人はなぜ強く反対するのか」、是非この作品を観て欲しい。
・尖閣/拉致問題と同様に、捕鯨も国威発揚のアイコンにされている。そのため政府も引くに引けない。これを下支えする人達は、今も韓国/中国を罵倒する書込みを、せっせと投稿している。
<人類史からトランプ勝利を読み解く>
○同時進行で起きる分断と集団化
・トランプが大統領に選ばれ呆然となり、自失してしまった。11月上旬、東京国際映画祭に映画『SACRED~いのちへの賛歌』を上映のために来日していた監督は、「トランプを応援する訳がない。トランプを支持する人はいない」と言っていた。日本に置き換えれば「安倍政権を支持する人はいない」となる。実際、僕の周りに彼を支持する人はいない。しかし選挙では圧勝し、不思議である。僕の周囲(映画監督、作家、ジャーナリスト、メディア関係者)はリベラルが多く、保守/右寄りの人はいない。
・人は思想・信条が近い人で結束し、集団化する。この集団化と同時並行で分断化も起こる。これは米国/日本だけでなく、世界規模で起きている。それはこれが人類の本能だからだ。

・450万年前人類は樹上から地上に生活圏を変えた。これにより肉食獣から身を守るため、群れとなった。イワシ/カモ/ヒツジなど群れる動物は多い。これらは皆、弱い生き物である。ホモ・サピエンスは特に弱い。足は遅い、飛べない、泳ぎも下手。さらに爪・牙はなく、体毛もない。
・集団に同調できない個体は、天敵の餌食になる。こうして同調できる性質を持つ個体だけは淘汰されず、生き残った。また群れを乱す個体があれば、それは群れ自体を危うくする。そのため異物(少数派)を排除する性質も強く持つようになった。※この考え方は面白い。

・これは学校での「いじめ」と同じで、社会全体/世界規模で起こっている。異物と見なす理由は何でもよい、肌・髪の色、言葉の違い、宗教の違い。要するに何でも良く、少数派であれば良い。※人類は恐ろしい性質を持ってしまった。
・人類は危機・不安を感じると集団化が加速する。しかしそこに意思はなく、集団的無意識があるだけである。

○信仰とは火のようなもの
・信仰を紐帯する集団では、神の意思が充填される。しかし神は実在せず、イエス/ムハンマドなどの預言者が代言する。このメカニズムの頂点は、神である必要はない。理念でもイデオロギーでも民族の誇りでも、何でも良い。いずれにせよ集団化すると、この疑似的意思に逆らえなくなる。
・映画『SACRED~いのちへの賛歌』は、仏教/キリスト教/イスラム教/ブードゥー教(?)/チベット密教/ユダヤ教など、様々な信仰をテーマにしている。ナレーションはなく、信者が祈り、ぬかずき、願う行動を映し続ける。
・同映画の監督は「信仰は火のようなもので、適度であれば人を暖めるが、時として人を焼き尽くす」と述べた。

・集団は異物を探し出し、これを攻撃し排除する。また集団外にも敵を探し、これを攻撃し、集団の結束を高める。これらの指示を出す集団のリーダーには、マッチョな人物が就くことが多い。トランプ、プーチン、習近平、ドゥテルテ(フィリピン)、エルドアン(トルコ)、皆そうである。これらの独裁的な指導者の下で集団化が進んでいる。日本も例外ではない。欧州では弱小だった右派政党が、ISへの恐怖/移民問題により支持を集め始めている。
・米国は多民族・多言語国家なので、本質的にはUniteされない。そのため危機や不安を感じた時は、国旗・国歌のアイコンに下にUniteする。グローバリズムの反動が加速している。民族・宗教・言語による自国の統合(※自国ファーストかな)が求められている。これは右傾化やナショナリズムと呼ばれるが、この実相は集団化である。

<領土問題をテリトリー意識で考えると、人類は猿人と変わらない>
○札幌で安倍・プーチン会談のニュースを見る
・2016年12月安倍首相はプーチン大統領と首相官邸で会談し、北方領土での共同経済活動を進めるなどで合意した。合意文書には「領土」と云う言葉は一切なく、安倍首相も一度も「領土」と云う言葉を発していない。プーチンは来日前、歯舞・色丹の「引き渡し」を明記した『日ソ共同宣言』(1956年)を超えるとして、帰属問題には触れず、「共同経済活動はロシアの主権の下で行われるべき」と発言している。

・こうしたロシアの姿勢に反発する日本人は多いが、それはソ連が中立条約を破って北方領土を奪い取ったイメージがあるからだ。しかし日本は『サンフランシスコ平和条約』(1951年、ソ連は未署名)で千島列島の全ての権利を放棄している。国会でも国後・択捉は千島列島に含まれると説明している。
・しかしロシアの「領土問題は存在しない」とする主張の方が理がありそうである。また北方領土を返還すると、米軍のミサイル基地が配備され、ロシアは困る。せめて元島民の墓参りを実現したいが、今は当時の日本人よりも多くのロシア人が暮らしている。領土問題には多くの人が熱くなり、歴史的経緯や論理が見えなくなる。
・札幌のテレビは、元島民の「失望した」「無意味な会談だった」などのコメントを流していた。「返還を求めるのではなく、奪還すべきだ」と右翼の街宣車がホテルの下を通過した。

○キューブリックが描いた「テリトリー」
・ポール・サイモンは『コンドルは飛んでゆく』で「人は土地に縛られ、悲しい声を上げ続けている」と歌った。今は中国/韓国/ロシアに対し、敵意や不満を露わにする日本人が多くなった。
・領土とは、国家の主権が及ぶ領水/領空を含めた領域である。つまりテリトリーである。多くの生き物はテリトリーを持ち、これが侵犯されると撃退しようとする。

・スタンリー・キューブリックは映画『2001年宇宙の旅』で、毛むくじゃらの猿人の群れを描いた。彼ら猿人は、テリトリーの争いを続けている。どちらの群れも「自分達のテリトリーが脅かされている」として決着しない。ところが知性を得た一匹が、動物の大腿骨を振り下ろす事で、他の骨を砕けれる事を知る。道具の発見である。さらにこの大腿骨を相手に振り下ろすようになり、道具は武器になる。そしてその武器は進化を続けた。これから領土の概念は本能的な衝動に由来しているのが分かる。

・もちろんこれを公言する国はなく、国益と主張する。つまり安全保障、経済的利益、排他的経済水域(EEZ)、海洋資源などである。もし強引に実効支配すると、それで生じるリスクが国益を上回る可能性が高い。そのため政治家が「我々は領土に執着しない」「島は譲り、他で利益が出る交渉をしよう」などと表明すると、支持率は一気に下がり、その政治家は命を狙われるかもしれない。※領土問題はセンシティブだ。
・領土問題には感情が伴う。論理でないから抑制/説得が難しい。政治家は強気にならざるを得ず、武器を手にし、戦争を起こす。そして多くの人がなくなる。ホモ・サピエンスは進化したが、猿人時代の本能を保持し続けている。

○国境を行政区分へ
・欧州を旅行した人は国境の移動が自由であるのを実感する。僕も以前、仏国とスイスの国境でどちらにいるのか分からなくなり、不安で心細くなったが、開放感があり、爽快だった。
・こうして人は閾値(?)を乗り越える。国と云うテリトリーは地域に変わる。欧州はそれを実現しようとした。ところが不安・恐怖が喚起されると、民族・宗教・言語などが同質の集団を作ろうとする。やはりこれは本能なのか。
・時折、国境のない世界を夢想する。しかし今の世界では国境の意味が突出して大きい。この高い壁の向こう側とこちら側で争いを続けてきた。侵犯されれば、武器を手にして争った。多くの人が土地に縛られ、繰り返される争いに悲しい声を上げ続けてきた。テリトリーがオスの生存本能であるならば、それを理解し、国境を行政区分にできないだろうか。

<『A2』上映でベイルートに向かった僕に、ナジーブは「失望した」と言った>
○ホームに一人取り残された。
・2001年アムステルダムの空港に立ち寄った時、アムステルダムの中心部セントラルを散策しようと、列車に乗った。セントラルに着いたが、田園風景だったので、次の駅で降りる事にした。ところがその列車は走り続けた。次に乗る予定のベイルート行きのフライトは2時間後だ。特急列車は1時間走り続け、ようやく停車した。隣のホームでアムステルダム行きの列車を待った。荷物はコーディネーターのナジーブに預けたので財布もなければ、パスポートもない。運よく10分後に上りの特急列車が到着し、次のフライトに間に合った。

○「日本には本当に期待していました」
・アムステルダムを経由しベイルートに飛び、そこから陸路でダマスカスに入った。ところが映画祭での日本映画特集が中止になっていた。ブッシュ政権がシリアをテロ支援国家に指定したため、僕以外の日本映画監督が参加を断ったからである。しかしナジーブが交渉し、最終日に『A2』は上映される事になった。ダマスカスの映画祭の後はベイルートの映画祭に参加する事になっていたが、前日に発熱してしまった。しかしナジーブの手配で点滴を受け、発熱は収まった。
・ベイルートでの映画祭も終わり、空港でフライトを待っていた時、ナジーブに「なぜ日本に留学した」と訊いた。すると「日本には本当に期待していました。それは日本が先進国で唯一の非キリスト教国だからです」と答えた。さらに「日本は敗戦したのに、突出した経済成長をしました。平和憲法にも感動しました。あらゆる意味で、アラブ諸国の手本になると思い、日本の文化を吸収したかったのです」「しかし日本は、テロに対する報復を宣言した米国に追随しました。9・11で米国が怒ったのは分かります。欧州もキリスト教国なので、ある程度理解できます。でも日本は独自のスタンスを示せる国と思っていました。一番期待したのは日本ですが、一番失望させられたのも日本です」。あれから16年経ち、彼の言葉が今こそ重要と感じている。

<オランダに佐村河内の映画を届ける>
○一極集中で付和雷同
・KLM航空でアムステルダムに向かった。機内で『君の名は。』を観た。良くできている。さすがに興行収入240億円/観客動員1800万人の作品だ。しかしこの作品が『FAKE』の300倍もの価値があるとは素直に同意できない。日本は世界一ベストセラーやブームが起きやすい国と云われる。日本人は周囲に合わせる傾向が、強いのだろう。

・タイタニックからの脱出でジョークがある。船が傾き、世界各国の乗客が海に飛び込む際、それを決断させる乗務員の言葉がある。米国人の場合、「今海に飛び込めば、英雄になれますよ」と言う。イタリア人の場合、「海に綺麗な女性が、沢山浮かんでますよ」、ドイツ人の場合、「昨日、海に飛び込めとの法案が可決されました」である。日本人の場合、「みなさん飛び込んでいます」です。これは世界的なジョークなので、日本人はそう思われているらしい。恥ずかしい話である。

・日本人は付和雷同で、自分の感覚や判断を持たず、周囲に合わせる。そのため一色になり、集団で過ちを犯す。集団で過ちを犯すため、責任追及ができない。※日本は昔から傘連判などがあった。

○米国では入国時に拘束されたが
・アムステルダムのスキポール空港では入国手続きが余りに簡単なので驚いた。パスポートを見せ、「観光だ」と答えて終わった。スキポール空港は欧州で5番目の空港で、こんな事で良いのだろうか。
・そこから車で1時間ほどでロッテルダムに着いた。夜、映画祭のプログラム・アドバイザーの相原裕美さんにバーに連れていってもらった。機内食ばかりだったのでレストランが良かったが、パン/スペアリブ/サラダ/ベルギービールなど美味しかった。※この話は直接は関係なかった。

・離日前、某映画監督から、「映画祭でドキュメンタリー映画の上映が増えた」と聞かされていた。これはデジタル技術の進歩もある(?)。しかし世界はテロへの不安・恐怖から、他者を怖がっている。メディアはこれを煽り、為政者も敵の存在を強調している。世相が混乱すればするほど、規制されたメディアの情報だけでは満足せず、ドキュメンタリー映画への欲求が高まっている。
・オランダにはこのロッテルダム映画祭とは別に、ドキュメンタリー映画祭のアムステルダム映画祭がある。確かにロッテルダム映画祭のプログラムにドキュメンタリー映画は少ないが、『FAKE』は6回も上映される。これについて相原さんからも褒めて頂いた。※映画についても知っておいた方が良いな。

<オランダの選挙を気にする前に、日本はどうなんだ>
○なぜ日本のテレビはそんな内容を?
・午前6時テレビのスイッチを入れた。日本ではテレビを余り見ないが、外国のホテルではスイッチを入れている事が多い。オランダは真面目なテレビ番組が多い事に気付いた。朝から政治や社会の問題をテーマにしたディベートをやっている。日本のバラエティー感とは違う。

・『FAKE』は6回上映されたが、会場は毎回変わった。上映後はQ&Aが行われる。大概の質問は日本と変わらないが、「日本では、彼のようにテレビにより追い詰められる人が多いのか」などの質問もある。「なぜ日本のテレビは個人を嘲笑するのか。プライバシーの侵害なのでは」との質問に、「視聴率を取れるからです」と答えた。『FAKE』の撮影中、佐村河内は「メディアの復讐だ」と何度も言った。でもそれは正しくない。あくまでも視聴率を取れるからである。※確かに日本の芸能人を揶揄する報道は多いと感じる。

○20世紀最大のFAKEと真実
・滞在3日目、絶対行った方が良いと言われたボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館に行った。オランダはレンブラント/ゴッホ/フェルメールなどの巨匠を輩出し、当美術館にもゴッホ/ピカソ/モネ/レンブラント/ボス/マグリット/キリコなどの名画が展示されている。しかし鑑賞者は少なかった。

・映画祭のスタッフが勧めた1つの理由は、20世紀最大の贋作者ハン・ファン・メーヘレンの代表作『エマオの食事』が展示されているからだ。彼はオランダで生まれ、画家を志すが、美術界が彼を認めなかったため、彼は贋作を始めたとされる。しかしこの作品は彼のオリジナル作品で、彼は「フェルメールの未発見絵画」として公開した。それをオランダ国立美術館が高額で購入したのである。この20世紀最大の贋作に多くの人が感動している。

○『FAKE』を観たオランダ人監督が語った事
・Q&Aで「真実はどこにあるのか」と質問され、「真実など存在しない。全ての情報は解釈です」と答えた(※事実はあったと思う)。トランプ大統領の誕生以降、「Fake news」「post truth」などの言葉が一般的になった。しかしこれが「偽りと真実を見分ける」「情報に騙されない」などに短絡するのは間違いである。偽りと真実は混在し、分ける事はできない。

・映画祭の終盤、「シネマトゥディ」の中山治美のインタビューを受けた。その記事を引用する(※抜粋)。
 ゴーストライター騒動の佐村河内を追ったドキュメンタリー映画『FAKE』がロッテルダム国際映画祭で上映された。観客賞で65位と大健闘した。※65位で大健闘とは、多くの作品が参加するんだ。
 上映後「目の前で起こっている事が真実か嘘か、心を動かされた」「監督は彼の言葉を信じていましたか」などの感想・質問があった。森監督は「これは世界的な傾向と思いますが、真実か偽りか、単純に二分するのに違和感がありました」と答えた。

・映画祭の会場で朝食を取っている時、オランダの映画監督に「私達も二元化に対し同じ考えです」と声を掛けられた。
・オランダでは反移民/反EUを主張する極右政党「自由党」の躍進が予想されていた。僕は「もう直ぐ下院選挙ですね」と言うと、彼は「楽観できないが、僕達はその方向が間違っているのを知っている」と答えた。映画製作者はどの国でもリベラルである。またオランダなどの欧米は個が強い。従って一時的に一色になってもリカバリーする。
・すると彼は「日本はどうなんだ。今の政権は極右じゃないか。しかも今の政権は神道と結び付いていると聞いている」と言った。言われてみればそうだ。日本のメディアは「欧米の極右の躍進を憂う」的な論調が多いが、移民を受け入れず、一色に染まり易く、世界一ベストセラーやブームを起こし、防衛相が国会で教育勅語を肯定する日本は、「憂う」どころでない。

<北朝鮮を変えたい、ならば日本が変わらねば>
○カーキ色の平壌
・2014年4月北京経由で平壌に向かった。乗客の大半が欧州からの観光客である。機内食でハンバーガーが出た。トマトもレタスも挟まれていないが不味くはない。不思議な味がした。
・平壌国際空港に着く。職員の制服は軍服に見えるし、街には軍人が多く、平壌はカーキ色に感じた。平壌に車は少ない。自転車も走っていない。市民は1時間でも2時間でも、ひたすら歩くそうだ。
・平壌の広場には金日成と金正日の銅像が並ぶ。国民は本音でどう思っているのだろうか。かつての日本もそうであった。学校には御真影が配置され、その前を通る時は最敬礼した。御真影が焼けた時、校長は割腹自殺した。しかし北朝鮮のこの体制は変えねばならない。※御真影の話は知らなかった。

○「よど号犯」の車に乗って
・僕達が移動に使った車の運転手は若林盛亮である。「よど号ハイジャック事件」の犯人9人の1人だ。他に平壌に小西隆裕/魚本公博/赤木志郎がいる。彼らは自分達の過ちを認め、帰国の準備をしていた。ところが「日本人拉致に関与した」として3人に逮捕状が出され、帰国できなくなたった。しかし彼らは本当に拉致工作に関与したのだろうか。
・1996年メンバーの田中義三が偽ドル偽造容疑で逮捕されるが、無罪となっている。無罪判決は報道されないので、「よど号メンバー=北朝鮮の国家テロ工作」が社会に刷り込まれている。逮捕は報道されても、不起訴/無罪は社会が関心を示さないため、市場原理により報道されない。
・オウムの「サリン事件」によって日本社会は危機意識を喚起された。これに続いたのが、北朝鮮の拉致問題だった。米国民は9・11により危機意識を抱いた。国民が危機意識を抱いた時、為政者は仮想敵への強硬な姿勢を示し、強い支持を得る。日本では安倍首相を頂点とする北朝鮮強硬派がこれに該当する。

○壮大なフィクション
・最初の2日はホテルに泊まり、以降は日本人村に泊り、よど号メンバーと寝食を共にした。彼らと充分に話し合ったが、拉致工作に関与したとは思えない。結婚目的誘拐罪は壮大なフィクションなのではないか。

・チュチェ思想塔/人民大学習堂/金日成広場/万寿台大記念碑/万景台など、色々案内してもらった。凱旋青年公園(遊園地)の絶叫マシンには乗らなかったが、ジェットコースターには乗った。ムンス・ウォーターパークにも行った。正面から入ると金正日の像があり、「お辞儀しろ」と衛兵に叱責された。食事は美味しかった。夜は焼酎・ビールを飲み、最後は冷麺だった。
・帰国して、「一般市民と話はできたのか」と何度も訊かれた。ガイド兼通訳からは「好きに行動して下さい」と度々言われた。撮影も「その人がOKなら、良いです」と言われた。これはどこの国でも同じである。

○人類の歴史のリピート
・平壌市民に「今の朝鮮をどう思うか」と訊くと、大半が「素晴らしい指導者がいるから安心」と答える。これは本音みたいだ。洗脳/マインドコントロールなどの言葉は使いたくないが、かつての日本もそうだった。

・平壌に行く前、知覧特攻平和会館を訪ねた。遺書には「日本のためなら自分の命を捨てられます」「私がやらなければ、父様、母様が死んでしまう」「今日まで幸福だったのに、さらにこんな任務を頂けるなんて」「私に怖いものはありません。一番怖いのは母様の涙です」「必ず大戦果を挙げます。九段で会うのを待っています」などが書かれている。これらを読むと胸が熱くなる。彼らは国のために死ぬのは当たり前と思っていた。この背景に、「家族や同胞を外敵から守らなければ」とする自衛の意識があった。

・終盤に戦勝記念館(戦争博物館)に行った。そこには仮想敵国の米国の残忍さ・異常さを展示している。「敵の侵略に対し、断固戦う。国のため、家族のため」「敵は狂暴で容赦ない。我々は正義だ。命など惜しくない」などのメッセージが伝わってくる。しかしこの理屈は、今の日本/米国にも当て嵌まる。※理屈とは集団化かな。
・帝国主義・植民地主義の時代には、他国の資源・領土・労働力を奪取する侵略戦争は幾らでもあった。今は自衛戦争の時代であるが、相手が侵略したと言って、戦争が起きる。為政者は支持率を高めるため、敵の存在を強調し、メディアは視聴率を高めるため、これを煽る。9・11が、人類が繰り返す歴史を示した。※第2次世界大戦でも、日本のメディアは戦争を煽ったらしい。

○若林から届いたメール
・北朝鮮の印象は、機内食で食べたハンバーガーそのものであった。食べてみたら意外と美味しい。しかし何か腑に落ちない。金正日には、お辞儀したくない。余りにも軍人が多い。ミサイルや銅像に使うお金があるなら、他に使い道があるだろう。少なくとも暮らしたい国ではない。変わって欲しい。その前に日本が変わらなければ。

・2週間前、若林からメールが届いた。その一部を引用する。
 朝鮮が4発の弾道ミサイルを発射したが、これは日本にある米軍基地、すなわち朝鮮への出撃基地を焦点にしている。日本は「米軍の『核の傘』に守られている」と考えているが、これは朝鮮にとっては「核の脅威」である。日本はこれらを忘れてはいけない。
 日本が「敵基地攻撃能力」を持つのは、交戦権を否定した憲法第9条に反します。日本は「集団的自衛権の行使」を容認し、「米国と共同で戦争できる国」に整いつつあると危惧します。
※北朝鮮より日本か。

【情報とは何だろう】
<あなたの内面は、あなたが得た情報でできている>
○あなたは、あなたが食べたもの
・コペンハーゲンの安宿を出て、リンゴ農家を訪ねた。この農家は徹底したエコロジーを実践しているモデル農家だそうだ。化学肥料は使っておらず、至る所にミツバチの巣が置かれ、丸々太った鶏が放し飼いされている。畑で昼食を取った。パンにリンゴジャムやママレードを塗って食べたが、大変美味しい。デンマークではエコロジー基準があって、認定された農家の野菜・果物は高く売れる。

・来日した外国人は、日本は物価は高いのに、食べ物が安いのに驚く。日本の食材は大量生産・大量消費で成り立ち、そのため殺虫剤/防黴剤/除草剤/植物成長調整剤などが使われている。生態系に悪影響とされるネオニコチノイド系農薬も使用されている。また食材には亜硝酸塩/タール色素などの食品添加物もふんだん含まれている。※遺伝子組み換え食品には過敏だが、農薬/添加物には無頓着かな。
・あなたがフェイクな食材ばかり食べているなら、あなたの身体もフェイクな組成でできている。これを変えるには、人の意識が変わり、社会環境が変わる必要がある。これは需要と供給の関係で、需要があるので供給される。これはメディアと全く同じである。※どちらも需要と供給の関係か。

○劇的な意識の変化
・コペンハーゲンを出て、船でラトビアに向かった。朝4時に陽が昇り、夜11時に陽が暮れる。夏なので昼は長い。しかし船には美容室/ジム/バスケットコート/映画館/図書コーナー/マッサージ・ルームなどがあり、退屈しない。※なんで飛行機でなく、船なんだ。
・ただし洋上ではネットが繋がりにくい。当然、新聞/テレビもチェックできない。つまりメディアが機能していない。そのためニュースや事件への関心が弱まり、心が安らぐ事になる。

・あなたの体は、あなたが摂取した食材からなる。同様にあなたの内面は、あなたが得た様々な情報からなる。それはオーガニックな情報かもしれないし、商業的に加工されたジャンク(※フェークを使っていない)な情報かもしれない。

・テレビ・ディレクター時代、オウム信者を被写体にしたドキュメンタリーの撮影を始める。すると直ぐ会社の上層部から、オウムを絶対悪として強調するように要請された。これを拒絶したため、テレビ・メディアから弾き出された。それが1998年自主製作映画『A』となり、3年後『A2』の発表になった。この経験がメディアに対する意識を激変させた。
・その後、麻原彰晃とオウム裁判をテーマにした『A3』を出版している。また元オウム信者をテーマにした『A4』も出版した。次に出すとしたら、「アレフ」「ひかりの輪」をテーマにした『A5』となる。しかしその意欲はない。なぜならそれらは今の日本社会のメタファー(※隠喩かな)にならないからである。
・『A』『A2』はオウム信者を被写体にしたが、テーマは日本社会であり、「サリン事件」後のオウムをメタファーに使い、日本社会にフォーカスした作品である。『A5』を撮らないのは、日本社会が集団化し、乱暴に言えば「サリン事件」前のオウムに近く、「アレフ」「ひかりの輪」がメタファーとして機能しないからである。

○嫌悪と憎悪の肥大化
・実は『A2』の編集時に『A3』の構想を持っており、『A3』の素材を集めていた。ところが体が動かなかった。その理由は幾つかあるが、最大の理由は『A2』の興行の失敗にある。
・『A2』の公開は「サリン事件」から6年経ち、さらに「9・11同時多発テロ」も起き、日本人はクールダウンしたと思っていた。ところがオウムへの嫌悪・憎悪はむしろ肥大化していた。地方の劇場で「この作品を上映しないのなら、自分達の存在意義がない」と手を挙げてくれる劇場もあったが、満足する観客を動員できなかった。
・『A2』はオウムを被写体にしているが、テーマは日本社会である。それを伝えるには、評価やパブリシティが必要になる。ところがそれを伝えるメディアはなく、オウムのPR映画と誤解された。※どうだったかな。当時オウムは触れたくない問題だったかな。

・大阪のミニシアター「シネ・ヌーヴォ」の支配人がブログに書いている(※抜粋)。
 今日・明日はオウムを真っ向から描いた『A2』の大阪キャンペーンである。「『A』を観る=オウムに加担する」と思われたようで、厳しい入りだった。「異物に触れない社会をどう打破するか」がこの映画のテーマなので、そのものである。
 東京での入りも厳しかった。東京のテレビは「モラルとして、オウムの映画は取り上げない」として、取材しなかった。大阪では、ぜひ成功させたい。

・大阪でも朝日放送の取材クルーは現れなかった。彼らは試写を見ていないので、「モラル」の意味・根拠も不明である。なぜこれほど『A』『A2』はマスメディアを警戒させるのか。反社会的な存在への脊髄反射的な反発なのか。

○「殺してしまえ」は民意
・公安警察は路上を歩く信者に突然暴行を加え、「公務執行妨害」で現行犯逮捕した。『A』の中盤にこの現場がある。これは警察の伝統的な手法で「転び公妨」と呼ばれる。違法行為なので、人目がない暗がりなどで行われる。ところがこのケースは信者に暴行を加える悪質な「転ばせ公妨」である。しかも周囲には僕のビデオカメラも含め、多くの群衆の目があった。
・なぜ警察はこの行為に及んだのだろうか。それには群衆の声もあった。行為の前「何でもいいから逮捕しろ」「オウムなんか殺してしまえ」と叫ぶ人がいた。行為後には「ざまあみろ」「ポアされて良かった」などの声や拍手喝采があった。

・実はこの時期、同様の不当逮捕が全国各地で行われた。自分が住んでいないマンションに足を踏み入れ「不法侵入」、図書館への本の返却が遅れ「横領罪」、住民票と違う場所に寝泊まりし「公文書偽造」、逮捕した理由は幾らでもあった。オウムに対しては何をやっても許される雰囲気が、社会に蔓延していた。※恐ろしい話だな。
・メディアはこれらの不当な捜査・逮捕を黙認した。それは「逮捕しろ」「殺してしまえ」が民意だからである。不当逮捕を撮影した時、警察は僕のカメラを確認している。それなのにこの行為に及んだのは、不当逮捕を黙認するテレビ・スタッフと勘違いしたからだろう。※これも、社会=メディア=政治だな。

○自らが隠し持つ権力性
・僕の映像により、信者は釈放される(※上映前に公表したのかな)。しかしこれには後日譚がある。この信者が警察を「公務員暴行陵虐罪」で告発したのである。一審では信者が勝訴し、オウム側が勝訴する唯一の裁判になる。ところがメディアがこれを取り上げる事はなかった。
・二審では僕の映像が証拠に採用された。ところがこの映像を鑑定した大学教授は「信者が警察官を引き倒している」と報告し(要するに御用学者)、裁判官はこれを根拠に、信者の訴えを退けた。
・直接的には公権力の不当な行使である。しかしこの経緯を見れば、マスメディアが事実を黙殺し、国家権力の暴走を増長したのが分かる。

・公正中立や客観的な情報は存在しない。例えば幼児がトラックに轢かれたニュースを例にする。路上に供えられた花から、青空にティルト・アップ(縦移動)するのと、猛スピードで疾走するトラックから、路上に供えられた花にパン(横移動)するのでは、印象が違ってくる。※難しいけど、横移動は現実的で、縦移動は空想的かな。
・映像や文章などの情報は視点であり、主観である。その描かれ方によって、事象や人物像の印象は変わってくる。

○権力に無自覚なメディア
・中立の定義は、両端の中間だが、その両端は誰が決めるのか。記者はまず両論併記を教え込まれる。Aの意見の対論はBなのか、それともCやDなのか。要するに情報に中立も公平も存在しない。
・ジャーナリストとして可能な限り客観性や公平さを模索する姿勢は否定しない。ところが組織に帰属すると、この前提は危うくなり、自分はアプリオリ(※先天的)に公正中立/客観的と思い込んでしまう。こうしてメディアは自らの内に権力を充填する。「悪を挫き、弱きを助ける」を金科玉条とする居丈高な権力だ。※難しい文章だな。メディアはそんな崇高な意志を持っているだろうか。

・『A』の撮影時、退去を控えた波野村の施設を訪ねた。撮影や取材を懇願するメディアに、荒木広報副部長も根負けし、施設内への立ち入りを容認した。台所には片付けをしている信者と雑誌記者/カメラマンがいた。記者「何か作ってくださいよ。オウム食とか」、信者「もう何もないですから」、記者「後ろから撮るので、顔は分かりませんから」。結局信者は後ろ姿を撮られ、週刊誌の記事になった。タイトルは「オウム最後の晩餐」だったと思う。

<自衛が大義になり、加害が正義となる前にジャーナリズムの骨格を>
○日常に介入するアルゴリズム
・バルト3国から帰国した日本は暑い。”うだる”をネットで検索すると、”茹でる”の受け身形みたいだ。僕からすると「卵を茹でる」、卵からすると「卵はうだる」となる。ネットは便利である。言葉の意味を数秒で調べられる。
・ただしネットはアルゴリズムである。楽天やAmazonでTシャツを買うと、その後もTシャツの画像が現れるようになる。反自民のスタンスでニュース/ブログ/SNSをクリックしていると、反自民のスマホ/PCになる。つまり使う人の思想・信条・嗜好が反映されるのだ。

○煽られる不安
・こうして自分の思想・信条が増幅される。本来ネットは広い世界の入口だったのに、極めて半径の小さい閉鎖系になる。

・この暑さで日本列島はクーラー全稼働である。ベルリン/ロンドン/ウィーン/上海などでは、夜は相応に暗くなる。しかし東京は明るい。日本は世界で最も電力を消費する国である。原発を爆発させたのに、少しずつ再稼働させている。それほど暗闇が怖いのだろうか。
・日本人は不安・恐怖を抑えるセロトニンが少ないとされる。そのため不安・恐怖に怯えやすい。また日本人は「場」に染まり易く、「風」に流され易い。

○群集心理とは
・1895年仏国の心理学者が『群集心理』を刊行している。彼は群集を「構成員が意識的な人格(?)を喪失し、為政者の断言/反復/感染(?)による暗示のままに行動する集団」とした(※何となく分かるが、難しい)。そして「今はその時代を迎えようとしている」とした。当時の仏国は都市部への人口流入で、地縁/宗教を紐帯とする伝統的な共同体が自壊し、「名前すら知らない者同士の共同体」が出現していた。
・彼はこれらの集団に帰属する人の特性を以下とした。①衝動の奴隷となり、気分は極度に変移する(風)。②理性/批判能力を失い、荒唐無稽な事も信じる(フェイク・ニュース)。③感情の誇張と単純化が進み、極端から極端に走る(日本の政治)。④微弱な権力には反発するが、圧倒的な権力には屈服する(米国従属、一極集中)。
・こうして無意識の領域が増幅し、極端な行動が顕在化する。実際「仏国革命」で集団は監獄の囚人を襲ったり、浮浪者を狩った。自衛は大義となり、加害は正義となった。一人なら善良な市民なのに、集団になると残虐に振る舞った。全体としての相が転移した。※仏国革命は、刊行より100年前の話だが。

・ワタリバッタのサバクトビバッタはアフリカ/中東/アジアに生息している。通常は単独で暮らしているが、乾燥が続き餌が不足すると草のある狭い場所に密集する。そうなると「相変異」が起き、次世代のバッタは2倍ほどの大きさになり、食性も肉食に近くなり狂暴化し、群れとなって移動し、農作物に被害を与える。
・バッタと人を一緒にできないが、狂暴化する点は興味深い。ちなみに「相変異」は生物学の用語で、物理学には「相転移」がある。相は安定した状態を指すが、それが転移するのが「相転移」である。例えば水が氷や水蒸気になる現象を指す(※現象を詳しく説明しているが省略)。人はバッタや水とは異なるが、集団化すると全く異なる動きをする点は興味深い。

・北朝鮮の新聞には社会面がない。政府の公式発表ばかりである。テレビも同様である。つまりメディアは機能しておらず、視点は固着している。海外からの情報が遮断される一方、米国やその同盟国の危険性は絶えず注入される。これにより先軍政治は支持され、ミサイル発射実験/核兵器実験の成功に歓喜する。
・北朝鮮の正式な名称は「朝鮮民主主義人民共和国」である。他に比較対象が存在しないが、金正恩体制は多くの国民に支持されているから民主主義も嘘ではない。

・民主主義と独裁体制が共存するのは稀有な事ではない。ナチスドイツはどうやって権力を掌握したのか。大正デモクラシーを経ながら、なぜ軍事国家に変わったのか。クメール・ルージュ(※ポル・ポト派)は、なぜ多くの国民を虐殺できたのか。いずれの政権も国民の支持で誕生した政権である。これらは、政権がメディアを支配し、コントロールした点で共通している。これで外敵を煽り、支持を盤石にしたのである。※今のロシアも中国もそうだな。

○生存への不安と云う求心力
・ホモ・サピエンスは弱い。速く走れる脚はなく、空を飛ぶ翼もなく、鋭い爪・牙もない。喧嘩をしたらチンパンジーにも負けるだろう。そのため人の群れる本能は強い。しかし道具を作り、火薬を発明し、武器を進化させ、ヒエラルキーの頂点に立った。そのため天敵はいなくなった。しかし群れる本能は残り、敵に同族の少し異なる集団を当てるようになった。異なる理由は何でも良い。髪・皮膚の色、言語、宗教、支持する政治体制。実際に害があるかは関係ない。
・人類の歴史は、集団の進化の過程でもある。17世紀「ウェストファリア条約」により国家が誕生した。その最大の属性は中央集権であるが、主権は市民革命を経て、君主から国民に変わった。その過程で、国家は国旗・国歌、言葉・宗教の統制、歴史の共有などを通じ単一のアイデンティティを形成してきた。人は集団への帰属意識を手放す事はできない。その集団が世界から閉鎖された時、その求心力はさらに強化される。
※日本のアイデンティティって何だろう。国旗・国歌ではなさそう。宗教もそれ程強くない。日本人(民族)の意識は強いが、希薄化の傾向にある。それでアレに求めようとしているのか。

・群れの個々は同じ動きをする。個々が勝手に動くと、天敵の襲撃を防げないからである。群れる生き物は集団の動きに鋭敏である。しかし人はそれを失ったが(※失ってはいないと思う)、群れのリーダーの指示に鋭敏になった。それはリーダーの言葉であるが、言葉がない時は忖度するようになった。
・集団が不安・恐怖を持った時、為政者の態度が重要となる。煩悶する為政者は敬遠される。共同体外部の敵や共同体内部の異物を叩く為政者は支持される。
・オウムを契機に日本は集団化のギアをトップに入れた。僕はその過程を映画『A』を撮りながら実感した。こうして日本人の自発的な隷従が完成した。

○捏造された大義
・「地下鉄サリン事件」から6年後、米国は「世界同時多発テロ」により不安・恐怖を刺激され、集団化を加速させた。ブッシュ政権は「敵か味方か」「正義か邪悪か」などのダイコトミー(※二項対立)で支持率を上昇させた。ブッシュ政権はまず、「愛国者法」を制定し、国内のムスリムや国の方針に水を差す人(非国民)を標的にした。さらに国外の敵を掲げ、自衛や正義を理由にアフガニスタン/イラクに侵攻した。
・マイケル・ムーアは映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』で、「米国人は不安・恐怖が強く、臆病なので銃が手放せない。それで集団化し易い」とした。

・米国は危機や脅威に対しムキになる。その象徴が国旗・国歌である。国歌に「God bless America」とあるように、自国への忠誠がアイデンティティになる。しかし米国には復元力がある。イラクの大量破壊兵器の保持が捏造と分かると、政権批判に転じた。
・米国に復元力があるのは、何度も書いたが多民族・多言語・多宗教だからである。さらにジャーナリズムの骨格が強硬(※強固?)な点もある。一方日本は復元しない。それは均質であり、表現・言論の自由が共有されておらず、ジャーナリズムの骨格が脆弱だからである。

○集団化と云う分断化
・ネットは集団化を強力にサポートする。ネットを見れば、在日韓国人の特権に疑問を持つ人が沢山いて、安倍政権を支持する人も沢山いる。こうして仮想の集団化が起こる。
・彼らは言う、「義務を果たさず、特権ばかり主張する彼らを排除すべきだ。日本人は彼らとは違い、社会の利益を考える」「従軍慰安婦/南京虐殺などなかった」「憲法は変えるべきだが、メディアが邪魔している。彼らは中国共産党からお金をもらっている」「沖縄で基地反対している人は、本土の反日左翼集団だ。彼らも中国共産党からお金をもらっている」「森友・加計問題はメディアの謀略だ」「このままでは日本は滅びる。闘わなければ」「自分達は正義だ。日本人は神に選ばれた民族だ。何も怖くない。ネットでは自分達が多数派だ」。こうして集団化と分断化が同時進行する。

・ここ20年、海外で日本人を見なくなった。見かけるのは、コリアかチャイナである。若者に海外志向が感じられない。こうして系は閉鎖し、相転移が進行する。
・北朝鮮は強制的に閉鎖された系だが、日本は自発的に閉鎖した系である。こうして視点が固着され、疑似独裁的な体制が築かれていく。

<メディアの存在と機能は僕らの地図>
○離れ小島にでも
・僕は20年前、千葉県と茨城県の県境近くに引っ越し、以降この周辺に住んでいる。メインの仕事は物書きなのでネット環境があれば良い。20代の頃、伊豆諸島の青ヶ島に移住する事を本気で考えた。この島の役場の募集に応募したのだが、不採用となった。今の家は自然に囲まれている。樹の洞にミツバチが巣を作り、敷地内にモズの巣があり、家の裏にはマダケが群生している。

○アラートの意味
・朝6時、大音量のアナウンスで目が覚めた。電柱のスピーカーから「北朝鮮」「ミサイル」「発射」などの言葉が聞こえる。起きてはいけない事が起きたと感じ、テレビを点けた。全ての局が緊急態勢だった。結果は弾道ミサイルが日本の上空を通過し太平洋に落下した。

・各メディアは「ミサイルは3つに分離し、襟裳岬の東1180Kmに落下した」と報じていた。近くに落下したのかと感じるが、1180Kmは相当遠い。また「日本上空を通過」と言っているが、高度500Kmとなると国際宇宙ステーションよりも高く、宇宙空間である。頭すれすれを飛んだ訳ではない。
・各地の学校が臨時休校となり、多くの電車が運行を停止した。菅官房長官は記者会見で緊急事態である事を強調した。安倍首相は「北朝鮮が日本に向けミサイルを発射した」とコメントした。
・しかし官邸はこの情報を事前に入手していて、担当は前日から泊まり込んでいた。8月首相は官邸に2回泊っているが、その2回ともミサイルが発射されている。
・この日テレビは、「破片の落下は、今のところ確認できない」「原発に今のところ異常はない」「付近を航行する船舶・航空機に今のところ被害はない」と発表した。この”今のところ”で緊張感を持続させているようだ。

○リスクとハザード
・僕に対し、「なぜ政府・メディアの上げ足を取る」「警戒する事の何が悪い」との批判が聞こえる。しかし過剰な「自衛意識」は、関東大震災での朝鮮人虐殺などの惨劇を生む。北朝鮮の軍事行動も過剰な「自衛意識」が起因である。
・リスク/ハザードと云う言葉がある。ハーザードとは毒性の事である。例えばマムシに咬まれると命の危険がある。これはハザードが高いと云える。しかしマムシは都会にはいないし、田舎でも滅多に遭遇しない。つまりリスク(危険性)は低い。この2つは区別しなければならない。
※以前「脅威は数種類ある」とする本を読んだ。現実的な脅威、程々危険な脅威、危険性がない脅威、危険性が全くない作られた脅威、脅威なのに伏せられているものなどがあった。

・今回の北朝鮮の目標は仮想敵国の基地ではなく、海上である。また弾頭には火薬は搭載されていないので、正確にはミサイルではない。またミサイルの破片が落下するのを気にするが、それよりも交通事故に遭う方が確率が高い。さらに仮に火薬を搭載していても、その被害は小さい。ミサイルが搭載できる火薬の量は数百キロが限界で、これだと小さなビルが半壊する程度である。ただし核兵器/生物兵器が搭載されると、被害は甚大となる。
・軍事評論家によると、ミサイルに搭載できる火薬の量は、B29などの爆撃機に比べ桁違いに小さい。正しくリスクを回避するには、被害の想定を共有する必要がある。いたずらに不安・恐怖を煽るのは間違いである。
※確かに今のところは鉄の塊だな。空爆の方が被害は遙かに甚大だろう。イージス・アショアの導入などにも関係する。

・「杞憂」の言葉ある。これは杞の国の男が、「いつか天が落ちてくる」と心配し、衰弱した話です。日本の政治家/メディア/国民が騒ぎ、「破壊措置命令」を出し、圧力強化を叫び続け、取り返しのつかない事態になり、「日憂」にならない事を願う。

○生き物に対する勘違い
・数年前、札幌に行った時カラスに襲われた。頭すれすれに飛んできて威嚇するのだ。通り過ぎると「カラスに注意!子育て中で気が立っています!」の看板があった。東京は2000年度から「カラス緊急捕獲モデル事業」を実施し、カラスを駆除した。
・カラスに襲われると嘴で攻撃されるイメージがあるが、実際は足で蹴るだけである。つまり威嚇である。クマバチも同様に威嚇が多い(※数年前刺された)。一方逆のケースもある。時折子供が咬まれるヤマカガシである。この毒はマムシの3倍あるとされる。冷静なリスク/ハザードの分析が必要である。

○常軌を逸した危機管理
・北朝鮮は、なぜこんなに攻撃的なのかと思う。しかし平壌に行って市民と話をしたが、日本人と変わらない。もしISの過激派が日本で生まれたとしたら、普通の生活を送っているだろう。逆に僕が北朝鮮に生まれていたら、「残忍な米国の帝国主義に断固戦う」を信じ、ミサイル発射実験の成功を「輝かしい成果」と本気で思うだろう。だからメディアの存在/機能が不可欠なのだ。

・北朝鮮にメディアは存在するが、政治権力を監視する機能がない(※日本も同じでは。日本のメディアも官製・御用メディア)。ネットは海外と繋がらず、情報は閉鎖している。彼らは「米国は帝国主義国家」と信じ、油断すれば攻撃してくると本気で信じている。
・金正恩の周囲はネットを自由に使えるだろう。しかし現体制が崩壊すると、彼らは自分の人生が危うくなる。碌でもないと思うかもしれないが、日本も70年前までは国体護持を最優先する国だった。

・ミサイル発射実験に対する日本の騒ぎ方も常軌を逸している。ニュースで「何をやるか分からない国」「全く理解できない」「あんな国と話し合いできない」などのインタビューが流れ、これを見て、「先に叩くしかない」となり、敵基地攻撃が正当化される。

・日本が国体護持を最優先していた時代、信濃毎日新聞社の主筆が書いた社説『大演習を嗤う』がある(※抜粋)。
 (前略)先日「関東防空大演習」が行われ、全国に放送された。これが実戦なら、損害は甚大となろう。(中略)いかに冷静・沈着になれと言われても市民は逃げ惑い、阿鼻叫喚の修羅場になろう。こうした空撃は繰り返される可能性がある。(後略)
・彼の「防空演習は無意味」とした慧眼は確かだ。しかし彼は先制攻撃を主張している。

・北朝鮮は米国との平和条約を求めている。その仲介をできる国はどこか。米国/韓国は戦争当事国だ。ロシア/中国は、しがらみ/イズムで動きが鈍い。日本は朝鮮半島に近く、朝鮮の分裂を招いた国である。米国による最大限の圧力に同調するのではなく、仲介するべきだ。それこそが積極的平和主義と思う。

<情報は真実とフェイクの狭間にある>
○他者に帰属させられない体験
・情報とは何だろうか。情報を記録/伝達/保管/コミュニケーションするのが媒介(メディア)である。媒介は大きくは記録・保存するものと、コミュニケーションするものに分けられる。新聞社/テレビ局/出版社などはマスメディア(マスコミ)と呼ばれる。
・情報は1次情報、2次情報、3次情報と伝わっていく。AさんがBさんに体験を話した時、言葉が媒体となりBさんに情報(2次情報)が伝わる。言葉/文字は”人間だけに”与えられたものである。

○情報の定義
・”人間だけに”は傲慢だった。動物は様々な声でコミュニケーションを実現している。音を出して求愛する動物は多い。言葉を拡大すれば、音声もメディアである。またチョウは紫外線が見えるし、イヌには匂いが重要である。ミツバチはダンスで蜜のある場所を伝える。
・ヤーコブ・フォン・ユクスキュルは概念「環世界」を提唱している。これは「全ての動物が独自の時間/空間を認識し、世界を知覚している」とする概念である。

○メカニズムは連想ゲーム
・SFティックな話をする。旧石器時代の原人が、現代にタイムスリップした話をする。ある原人がビヤホールにタイムスリップした。そこには大勢の男女がいて、ビールを飲んで騒いでいた。彼はビールジョッキを手にしようとしたが、そこで元の時代に戻ってしまう。彼はその時の事を仲間に話す。しかしその内容は彼のキャラクターによって変わる。ある者はジョッキを武器として話すかもしれない。ある者は泡を強調するかもしれない。
・体験(1次情報)は本人の視点/主観が反映される。さらに1次情報は加工され2次情報になり、さらに3次情報/4次情報になる。情報は切り取られたり付け足されたりして、様々に加工される。これが情報の本質である。
・やがて人類はくさび形文字/象形文字を考案する。言葉だけでなく文字を得る。さらに9世紀中国で木版印刷が始まり、15世紀欧州で活版印刷が始まる。※情報の共有を容易にした印刷は凄いと思う。人類最大の発明かな。

○プロパガンダから市場原理へ
・当初文字には限界があった。人に文字の読み書き能力がないと意味を持たないからである。19世紀以前は教育を受ける機会は少なかった。
・1895年リュミエール兄弟がパリでシネマトグラフ上映会を行う。人類は映像メディア(映画)を得る。さらに20世紀初頭には、音声/通信の機能を持つ音声メディア(ラジオ)を得る。この2つのメディアは文字を読めなくても伝えられるメディアである。

・パリでの上映2年後には大阪でも上映会が行われている。驚異的な感染の速さである。このメディアにより、人は扇動されるようになり、20世紀は「戦争の世紀」と呼ばれるようになる。これを象徴する存在がファシズムである。20世紀初頭、世界で同時多発的にファシズムが生まれた(※マスメディアの誕生=ポピュリズムの誕生かな)。結果としてファシズムは滅びるが、それを生んだ映画/ラジオは戦犯として裁かれる事はなかった。※面白い考え方。
・その後テレビが誕生し、テレビは進化し続けている。そのため21世紀は「メディアの世紀」と呼ばれる。※当然、利用者が容易に参加できるメディア(ネット)もある。

・しかし情報の本質は、伝言ゲームだった頃と変わらない。ただしこの伝言ゲームは受け手の数を桁違いに増やし、さらに市場原理を導入した(※マスメディアになり、さらに市場原理を導入した)。そのため情報はスキャンダラス/センセーショナルである事が求められるようになり、人々の不安・恐怖を強く煽るようになった。メディア側は、それを自覚しなければいけない。「自分達は碌なもんじゃない」と。

○そもそも主観である
・2017年参院選の渦中、参院議員・和田政宗(自民党)が、TBSのニュースをブログ/ツイッターで批判した。安倍首相の遊説の際、TBSが「お前が国難」のプラカードを掲げた一団をニュースで報じたからである。彼は「ごく一部の人をニュースで放映するのはおかしい」と指摘した。
・これはある意味、理がある。しかしTBSの現場のスタッフは、日の丸を掲げ、安倍首相万歳と叫んでいる人達より、あの一団にニュースバリューがあると感じたのだ。情報が視点・主観である限り、公正中立な情報はない。NHK出身の和田議員なら、それを理解していたはずである。

・何度も書くが、情報は視点であり、主観である。どれが真実で、どれが嘘かなどは意味がない。数年前『ドキュメンタリーは嘘をつく』を書いたが、書名の”ドキュメンタリー”を”情報”に置き換えても同じである。体験を情報に変換した時点で、視点に絡み取られている。僕達は、これを前提に情報に接するべきである。
・『オックスフォード英語辞典』は2016年を象徴する言葉として「ポスト・トゥルース」(脱真実、※ピンとこない言葉)を選択した。これは「フェイク・ニュース」「オルタナティブ・ファクト」などの言葉が世界で氾濫した事による。またネットの拡大や、メディアに対するルサンチマンも背景にある。
・米国大統領選の結果に世界は衝撃を受けた。多くの人は真実より、「読みたい情報」「見たい情報」を優先するようになった。この弊害は大きい。「ローマ法王はトランプを支持した」「ヒラリーはISに武器を売った」などのフェイク情報が大統領選に影響したのであれば、看過できない。※フェイクの元はこんな話?

○後ろと正面の間にも
・フェイクは今に始まった事ではない。プロパガンダも戦時中の日本だけではない。クリミア併合を巡るロシアとウクライナの紛争で、両国は自国の正当性と相手国の残虐性を訴えた。それは戦争の最大の燃料は危機意識だからだ。今日の戦争は自衛戦争となるが、為政者は相手国の独裁者の脅威を訴え、メディアはこれを煽る。これにより為政者は支持率を上げ、メディアは視聴率を上げる。
・NHKスペシャル『そしてテレビは戦争を煽った』で放送されたが、ロシア人が現地で撮った残忍な映像を、ウクライナの殺戮者が撮った映像として放送した。こうして相手国への憎悪/危機意識を高揚させ、自国の集団化を加速させた。

・そもそも情報にはフェイクな領域がある。これを”嘘”としてはいけない。”視点””主観”である。人が同じ景色を見ても、解釈は様々である。それを言葉にすると、さらに景色は変わる。世界は多重的・多面的・多層的で、明確に二分できず、グレーゾーンである。人の数だけ真実がある。
・書店に行けば、「フェイク・ニュースの見分け方」などの本が平積みになっている。その技術を身に付けるのに反対しない。しかしある視点だけが突出すると、反対の視点を失い、「真実か嘘か」「正義か悪か」「後ろか前か」などに二極化され、狭間を見失ってしまう。※よく分からない文章。マルチな視点を持てかな。
・同じ光景を見ても視点が異なると、感じるものは全く異なる。どれがファクトで、どれがフェイクなどは意味がない。そのため世界は豊かなのだ。

<エピローグ そして船は行く>
・今香港にいる。昨日吉野家で「黒松露忌廉煎雉飯」を食べた。これは失敗だった。ご飯の上にチキンの照り焼きとクリームシチューが乗った料理で、中途半端だった。ホテルに帰り、これをツイートすると、「それはトリフ・チキン・クリームご飯です」など、3通のリプライがあった。
・ツイッターを始めて3ヶ月、素直な感想は意外に面白い。でも僕がフォローする人は同じ思想信条を持ち、僕と主義主張が近い。その人達のツイートが、タイムラインにひっきりなしに流れる。僕と思想信条が異なる人のタイムラインには、「日本の既存メディアは、左翼思想のプロパガンダを行っている」「北朝鮮に対し、直ぐに基地攻撃すべきだ」「韓国人・中国人はエゴイストだ。気を抜くと侵略される」などが流れているのだろう。
・ネットにはあらゆる情報がある。これらをすべて見るのは困難で、フィルターが必要になる。そのためネットは自分の視座の世界になる。ツイッターを始めて、これを実感した。

・ツイッターは匿名が多いので攻撃的になる。「ネトウヨ」の場合は、攻撃的と云うより、人を見下し冷笑的になる。この辺りを心理学・社会学で考察すると、面白い結果が出るかもしれない。
・「ネトウヨ」の定義は、「ネットで右翼的な活動を行う人」である。右翼は国粋主義/保守主義/民族主義/国体主義などを思想とする人である。しかし「ネトウヨ」は米国に従属し、中国/韓国を罵倒するので、ナショナリスト(国家主義)ではなく、レイシズムである。また彼らは「戦後レジームからの脱却」を謳いながら、一方で米国への忠誠心を高めている現政権に極めて近い。

・香港に来た理由は「香港インデペンデント映画祭」で『A』『A2』『FAKE』が上映されるからである。映画祭の主催は、反体制派の映画監督のヴィンセント・チュイである。
・彼の映画『狭き門から入れ』は香港/深圳を舞台にした映画である。元警察官/女性報道カメラマン/牧師の3人が、弁護士殺人事件を通し、中国官僚と財閥企業の癒着を突き止める。しかし警察も新聞社も、上層の圧力でこの事実を握りつぶそうとする。それに3人が闘う映画である。※映画界にはマスメディアと違って、反体制派が多いだろうな。

・「国境なき記者団」が発表する『報道の自由ランキング』で、北朝鮮は180位、中国は176位だ。日本は民主党時代に11位に上がったが、今は72位である。中国の人は自分達が自由に報道できないのを知っている。日本には目に見える規制はないが、自主規制と忖度がある。規制が明文化されていないので、集団への高い親和性(?)や、強い不安・恐怖によりエスカレートし易い。※難解。明文化されていないと、報道がエスカレートする?終盤は文章が雑になる。
・「事実はない。あるのは解釈だけ」。結局はニーチェが残したこの言葉に尽きる。しかしこれを共有するのは難しい。従って記者/ディレクター/ライター/カメラマンは、起きた事の解釈を委託されている。だからメディア関係者の責任は重い。過去に情報の錯綜で取り返しのつかなくなった事があり、それは今も進行形である(※共に具体例なし)。そのため多数派の視点に迎合しない個の視点を身に付け、それを研ぎ澄ませたい。

・ヴィンセント・チュイは反体制派の映画監督である。彼の映画『狭き門から入れ』は最新作だが、10年前の作品である。彼に「次の作品は?」と訊くと、「香港だと、僕の企画は難しい」と答えた。彼らはメインランド(※中国本土)の情報はバイアスが掛かっているのを知っている。そのため良くしようとする意志が働いている(※誰が何を良くする?監督が映画?市民が報道?)。一方の日本はどうだろうか。報道・言論の自由が保障されているのに、世界72位である。
・映画祭が終了した日、関係者の打ち上げに参加した。隣に座った若いディレクターは、2014年のアンブレラ革命(※雨傘運動)に参加していた。彼は中国を変えたいと思い、テレビの仕事を選択した。※彼らが行った行動は、今の香港にも継続されている。

・マーケット/メディア/政治は相互依存している。日本のメディアの評価が72位である事は、日本社会が72位である事を意味している。メディアは自分達の欲望/保身/衝動を捨て、どうすれば制度・システムが健全に機能するかを考えなければならない。※制度・システム?これも説明不足。
・あなたの趣味が油絵だとする。休日に公園で絵を描く。この時複数の絵の具を混ぜ、空、樹の葉・樹の幹、地面を描く。この絵の具を混ぜ方は人によって異なる。解釈も同様である。世界には様々な解釈がある。それを知るには、外国に出るのが有効である。
・『FAKE』上映後のQ&Aで、必ず「佐村河内は最後に何を言ったのか」と質問される。常に「忘れました」と答える。大切なのは「彼がなぜ沈黙したのか」である。

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