『「五箇条の誓文」で解く日本史』片山杜秀を読書。
明治維新後の歴史を「五箇条の誓文」の条文を視点に解説しています。
大雑把な分析ですが、明治維新後の流れを俯瞰しています。
大正デモクラシーを「総力戦に勝ち抜くため、国家と国民が進めた」としている。
また昭和の悲劇の遠因を「天皇を頂点に、縦割り構造にした大日本帝国憲法」としている。
知りたかった大正デモクラシー/昭和初期を知れて良かった。
お勧め度:☆☆☆(明治維新後の大局的な流れが、良く分かる。大変良かった)
キーワード:<五箇条の誓文と明治150年>大日本帝国憲法/日本国憲法、天皇、民主主義、経済発展、自由主義、和魂洋才、<尊皇攘夷再考>水戸学、会沢正志斎/新論、朱舜水、<明治国家のデザインンの秘密>王政復古/文明開化、国学、シラス、統帥権、元老、<大正デモクラシーは何だったのか>自由民権運動、第1次世界大戦、天皇機関説/天皇主権説、政党政治、普通選挙法/治安維持法、護憲三派、統制派/皇道派、<昭和維新の論理>世界大恐慌、アジア主義、農本主義、国家社会主義、石原莞爾、ブロック経済/統制経済、テロ/クーデター、大政翼賛会、<非常時国家への野望と挫折>大東亜戦争、大東亜共栄圏、持たざる国、精神主義、真珠湾奇襲、神風特攻隊、<五箇条の誓文と平成日本>二大政党制、グローバル化、国民国家
<序章 五箇条の誓文と明治150年>
○1つの問い
・2018年は明治維新(慶応から明治に改元された1868年)から150年である。これが日本の近代で、最初の70年余りで明治維新/日清・日露戦争/大正デモクラシー/日中戦争/太平洋戦争があった。※丁度中間点に敗戦がある。
○自由民権運動/大正デモクラシー/戦後民主主義
・日本の近代を貫くものは何だろうか。多くの歴史学者は、自由民権運動/大正デモクラシー/戦後民主主義で近代を語ろうとします。自由/民主主義に着眼する綺麗な視点です。ところが自由民権運動と大正デモクラシーの間には日清・日露戦争があります。また大正デモクラシーは、第1次世界大戦やシベリア出兵とセットです。また大正デモクラシーと戦後民主主義の間にも、日中戦争/太平洋戦争があります。
・これを弁証法「正・反・合」(正=自由、反=戦争)で説明する方法もあるが、自由一本で歴史を解釈するのは無理筋です。弁証法だと「自由と不自由」「平和と戦争」の2対で考える事になり、自由から不自由が生まれたり、平和から戦争が生まれる事になります。※後の文章は理解できず。弁証法では正から反(反から正)が生まれないといけないの?
○大日本帝国憲法と日本国憲法
・明治150年を「自由と抑圧」「平和と戦争」で考えるのは、世界各国同じです。これでは面白くありません、1つの種で考える事はできないでしょうか。
・大日本帝国憲法/日本国憲法があります。しかし大日本帝国憲法は1889年(明治22)発布で、明治の半分は憲法がありません。よって憲法で語るのも無理です。
○明治維新の基本精神
・明治150年を貫くのは「五箇条の誓文」(※以下御誓文)と考えます。御誓文は、越前の由利公正/土佐の福岡孝弟などが起草し、木戸孝允が修正を加え、1868年(明治元年)3月に明治天皇が誓ったものです。これは明治維新の基本精神であり、その後も後を引く精神です。簡単な文章なので、解釈の幅は広くなります。以下に引用します。
第1条 広く会議を興し、万機公論に決すべし。
第2条 上下心を一にして、盛んに経綸をを行うべし。
第3条 官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す。
第4条 旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。
第5条 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
・明治の憲法学者・穂積八束は、「御誓文は明治初期の憲法であり、大日本帝国憲法はこの延長にある」と述べています。1946年(昭和21年)昭和天皇は日本のあるべき姿(新日本建設に関する詔書、人間宣言)を示しますが、そこで御誓文を引用しています。従って戦後も、この精神を受け継いでいるのです。
○御誓文は建国宣言
・御誓文以外に考えられるのが天皇です。しかし天皇は遡れば神武天皇から存在します。従って、明治150年に固有なものではありません。明治天皇がそれまでの天皇と異なるのは、御誓文を誓った事です。これは建国宣言です。昭和天皇も同じく再宣言したのです。御誓文により、天皇は近代天皇となったのです。
・整理すると、明治150年を貫くのは御誓文であり、その一条一条の達成度によって、時代の性格・相貌が変わっているのです。
○第1条は「民主主義のすすめ」
・第1条は分かり易い。ただし当初は、西欧の議会制民主主義まで想定されておらず、列侯会議が考えられていたでしょう。しかしその後は、自由民権運動/国会開設/制限選挙/大正デモクラシーと政党政治/男子普通選挙と重要なテーマになります。議会だけでなく、中間団体であるジャーナリズム/マスコミ/民衆運動/組合運動/右翼運動なども関係してきます。戦後は戦後民主主義となります。
○第2条は「金儲けと経済成長のすすめ」
・第2条は経済発展を指し、日本は明治の殖産興業/大正の第1次世界大戦中の好景気/昭和の大東亜共栄圏に突き進みます。戦後は高度経済成長となります。
○第3条は「自由主義のすすめ」
・第3条は解釈が難しい条文ですが、国民一人ひとりが自己実現する自由主義を謳った条文です。明治は司馬遼太郎『坂の上の雲』にあるように、個人の理想と国家の発展が一致した時代です。
・また第3条は個人の自由を認めるだけでなく、「国家はその個人を手助けしないといけない」とし、国家のミッションを「国家の発展に寄与する自由な個人を作る」としています。
○自由を巡る浮き沈み
・ところが日露戦争を経た頃(明治の終わり頃)から、自由な内面生活を謳歌する有資産階級(高等遊民)が現れます。この頃から「貧富の差」も現れ始め、「人心が倦む」現象が見られるようになります。そのため昭和初期になると、平仄の合わない個人を国家の自由(※対外強硬策みたい)に従属させる状況になります。
・例を挙げると吉田秀和(1913年~)は学生時代、詩人・中原中也の家に上がり込んで生きていました。ところが大学を卒業する頃には「自由人」として生きていくのは難しく、内閣情報局などに勤め、組織人になります。彼の希望であった音楽評論家になるのは、戦後しばらくしてからです。
・第3条に関しては、明治150年で浮き沈みがあります。
○第4条は「天皇中心宣言」
・第4条にも様々な解釈があります。「旧来の陋習」を日本の価値観、「天地の公道」を国際公法とし、「これはグローバル・スタンダードに従う事を述べた」とする解釈もあります。しかしまだ幕藩体制/士農工商などが信じられていた時代で、明治維新早々に、そんな「グローバリズム宣言」は不可能と思います。
・従って第4条は、旧来の権力構造(旧来の陋習)から天皇の一元的な統治(天地の公道)への転換を述べているのです。「天地の公道」とは公地公民制の事で、「全ては天皇のもの」を云っているのです。「天皇なくして、民主主義なし」「天皇なくして、経済発展なし」「天皇なくして、自由主義なし」です。
○第4条と民主主義/自由主義の関係
・日本は「天皇なくして、近代国家日本なし」で一貫しており、それは今でも続いる。これは両憲法の条文が「天皇」から始まる事からも分かる。
・しかしこれにも強弱がある。明治維新期/1930年代は、民主主義(第1条)/自由主義(第3条)が抑圧され、天皇中心が強化されます。大正期は天皇の影が薄く、それが「大正デモクラシー」でした。これを批判したのが「昭和維新」です。よって天皇の求心力と民主主義は「逆の相関関係」にありました。
・国民を天皇の臣民としたのが大日本帝国憲法です。そのため天皇の求心力と国民の自律性は、「逆の相関関係」になったのです。しかし日本国憲法では天皇は象徴になり、国民の民主主義/自由主義は保障されます。そのため「逆の相関関係」は成り立たなくなります。従って戦後史では天皇の在り方がポイントになります。
○第5条は「学問のすすめ」「和魂洋才のすすめ」
・第5条は西洋に知識を求める「学問のすすめ」です。ベストセラーになった福沢諭吉『学問のすすめ』は、1872年(明治5年)から刊行されたシリーズ本です。これは第5条の実践本と云えます。また第5条は「大いに皇基を振起すべし」と続き、国と個人が歩調を合わせる「和魂洋才」も述べています。
・明治150年で「和」「洋」の比重は変化します。明治から昭和初期までは「洋」が重んじられますが、1930年代(昭和10年代)頃から西洋と対決姿勢になり、大東亜共栄圏に向かいます。西郷隆盛/岡倉天心/藤田東湖などの「和魂」が押し出され、「洋才」が退けられます。
・飛躍かもしれませんが、次の考えを持っています。明治維新は「尊皇攘夷」から起きますが、「攘夷」は「文明開化」に転じます。しかし「攘夷」はなくなっていなかったのです。そうでなければ「大東亜戦争」「日本特殊論」(?)を説明できません。※当時、世界は植民地主義/ブロック経済なので、日本だけで語らない方が良いと思う。
○五箇条で歴史を読み解く
・五箇条の実現度を明治/大正/昭和(戦前、戦中)/戦後で分けて見ると以下となる。※昭和(戦前、戦中)が異質だ。
第1条(民主主義)-up/up/down/up
第2条(経済発展)-up/up/up→down/up
第3条(自由主義)-up/up/down/up
第4条(天皇中心)-up/down/up/flat
第5条(和魂洋才)-洋/洋/和/洋
・大雑把に見ると第1~3条(民主主義、経済発展、自由主義)と第4条(天皇中心)は、「逆の相関関係」にあると云えます。
○講義の全体構成
・本講義は第2次世界大戦までを主とします。第1・2章は江戸期/明治維新を、キーワード「方便の開国」「シラスによる政治」から述べます。”シラス”は大和言葉の”シロシメス”です。第3章は「大正デモクラシー」の時代を扱います。自由民権運動により民主主義/自由主義が花開きますが、総力戦体制/国家社会主義への伏線が張られます。第4章は「明治維新の論理」を扱います。攘夷思想の昭和版「アジア主義」が登場し、満州国が建設されます。「昭和維新」が重要なキーワードになります。第2・4・5条が、第1・3条を抑制する時代です。第5章は1940年代を扱います。「シラスによる政治」が桎梏となり、トップ不在の全体主義が成立します。
・1946年元旦、昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)の冒頭で御誓文を示しています。従って今でも御誓文は強い影響力を及ぼしているのです。その事を最後の終章で述べます。
※将来は明治維新以降を、江戸時代/江戸期みたいに、明治時代/明治期と呼ぶのかも。
<第1章 尊皇攘夷再考>-未来の攘夷、方便の開国
○明治維新のエネルギー源
・明治維新の最大のエネルギーは「尊皇攘夷」です。幕末の志士はこれを掲げて戦ったのです。しかし「攘夷」や、明治の合言葉であった「王政復古」「文明開化」も御誓文にありません。それは西洋列強を力尽くで退けるのが困難と分かったからです。
・「尊皇攘夷」を説明するため、まず「水戸学」を説明します。水戸学は徳川光圀(徳川家康の孫、水戸藩2代目藩主、副将軍)に始まります。水戸学は薩長などの志士の起爆剤になります。彼らは、1820年代に水戸藩士・会沢正志斎が書いた『新論』を愛読します。「桜田門外の変」は水戸藩の浪士が起こしますが、水戸学が当初から「尊皇攘夷」だった訳ではなく、「尊皇」が先で、「攘夷」は19世紀になってから唱えられます。
※本書の前に政治・メディアをテーマにした本を読んだ。それに「政治家/メディアは外敵を作り、それを煽り、団結を強化する」とあった。
○陸から海へのシフト
・世界の「四大文明」はユーラシア大陸で生まれています。日本はユーラシア大陸の東にある島国で、同じく英国はユーラシア大陸の西にある島国です。共にその独自性を活かし、歴史を刻みました。歴史はユーラシア大陸で形成され、”陸主海従”の時代でした。ところがオスマン帝国が勢力を増した事で、海洋国家の時代が始まり、覇権はスペイン/ポルトガル/オランダ/英国/米国と移ります。
・米大陸は大西洋/太平洋に挟まれ孤立しています。米国の発展で日本もフリクショナルな(衝突が生じやすい)場所に変わります。
○19世紀初頭の日本の自画像
・19世紀初頭の日本を会沢が『新論』で述べています(※引用されているが省略)。日本を「太陽が出づる所」とし、天皇を「大地の元首」(万国を統轄する者)としています。また日本を「世界の頭」、欧州を「世界の足」とし、さらに米国は「足の下にある野蛮な国」としています。当然彼は地球が球体である事を知っていました。
○大津浜事件の衝撃
・なぜ会沢はその様な事を書いたのか。それは外国の脅威を感じるようになったからです。18世紀末、北からロシアが南下し、米国の捕鯨船が日本近海に表れるようになったからです。
・1824年水戸藩家老領地・大津浜に英国の捕鯨船の乗務員が上陸し、それを役人が捕まえたのです。幕府からは隠密・間宮林蔵、水戸藩からは会沢などが派遣されます。会沢はこの事件に危機感を持ち、『新論』を執筆します。
・「日本が鎖国をすれば問題はない」と云う牧歌的な時代は終わったのです。「世界の頭の国に、汚い足下の国を近付けるな」。元からあった尊皇に攘夷が結び付き、尊皇攘夷思想が誕生します。
○水戸の台所は火の車
・基の尊皇思想を説明します。水戸藩は御三家ですが、他の二家と異なり将軍になれません。その代わり副将軍(正式な名称ではない)となったのです(※慶喜は一橋家からか)。また参勤交代せず、江戸定府となり、そのため江戸/水戸での人的・金銭的負担が多大になり、藩財政は大変苦しくなります。
○なぜ尊皇思想が生まれたのか
・光圀には、その負担に耐える哲学が必要になったのです。将軍には力の強いものが付きます。徳川より強いものが現れ、徳川に従って玉砕しては哲学になりません。そこで連綿と続く天皇に着眼し、「徳川将軍はその天皇から日本を収める権利・義務を与えられた。水戸藩はその将軍を守る使命を与えられている」となり、尊皇が生まれたのです。光圀は「義公」と呼ばれますが、これは天皇への”義”です。※将軍は間接的な主なんだ。
・天皇の権威を高めるためには、神話を信じ、史実を検証する必要があります。そのため光圀は『大日本史』の編纂を命じます。これが水戸学となったのです(※水戸学=尊皇学だな)。光圀は全国に歴史調査官を派遣します。これに尾鰭が付き、『水戸黄門漫遊記』となったのです。
○中華思想の火付け役、朱舜水
・水戸学は、天皇と将軍のセットを守る哲学です。これは攘夷と無関係だったのでしょうか。会沢は敵を野蛮な”夷”としています。”夷”に対する漢字は”華”で、これは「中華秩序」です。これは中国で生まれた思想で、自らを最も高い文明とし、周囲の国を野蛮としたのです。実はこの思想は当初から水戸学に含まれていました。それをしたのが朱舜水です。
・彼は中国で生まれた儒学者で、日本に亡命したのです。彼が水戸学の根本を作ったのです。彼は明朝の崩壊を目にします。正義が失われ、打算・功利・裏切りが支配し、自民族同士が戦いました。彼は鄭成功と組んで清朝と戦いますが敗れ、長崎に亡命します。光圀はその彼を水戸に招き、師と仰いだのです。彼の墓は、水戸藩主と同じ場所にあります。
○理想国家と云うお墨付き
・彼の目に日本はどう映ったのでしょうか。彼は儒学者なので仁義・忠信・孝悌を重んじます。彼は明朝で忠臣の少なさに絶望します。明朝の崩壊は、世界の破滅に近かったと思います。ところが日本に来て、礼儀作法に感動します。また楠木正成などの忠臣の存在も知ります。さらに日本の天皇は連綿と続いています。中国では道徳を誤った皇帝は滅ぼされます(易姓革命)。そこで彼は「日本は天皇から民まで道徳が行き届き、日本こそ理想国家」と感じたのです。
・彼は司馬遷『史記』のような歴史書の編集を光圀に力説します。これは既に始めていた『大日本史』の編纂を後押しします。また日本は”華”となり、清朝などの”夷”を見下す立場になったのです。
○キリスト教への危機感
・日本は儒教世界の理想の国になり、水戸藩は天皇/将軍を守る忠臣になり、19世紀迫りくる列強に対し、攘夷思想を掲げるようになります。
・列強に対する危機感の1つにキリスト教がありました。キリスト教は超越的な立場なので天皇を越えており、開国し、キリスト教が広まるのは都合が悪いのです。これは幕府が民衆の反乱を怖れ鎖国したのと、理屈が異なります。
・幕府は武力で攘夷するのが困難と分かると、和親条約を結び開国します。しかし水戸学は朝廷を蔑ろにした大老・井伊直弼を許せず、暗殺します。
○方便で開国、よろしき時に攘夷を断行すべし
・しかし水戸藩も攘夷から開国に転じます。1862年会沢は提言書『時務策』で、「日本は攘夷が正しい。しかし西洋の方が軍事力が優れているので実行できない。なので方便で開国し、科学技術を学び、よろしき時に攘夷を断行すべし」とします。これは御誓文の第5条(学問=和魂洋才)に通じています。
・第5条は「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」ですが、この根底には攘夷が隠されており、「智識を世界に求め、(よろしき時に攘夷を実行し)、大いに皇基を振起すべし」と解釈できます。
・昭和になると、この抑圧された攘夷は、アジア主義/大東亜共栄圏として回帰します。日本は西洋と並び、アジアの盟主になった事で、西洋を追い出す発想を持ちます。日本の底流に攘夷思想が流れていたため、この昭和の変貌が起こったのです。
※水戸学は中国の儒学者・朱舜水が作ったのか。これは面白い話だ。江戸幕府を倒したのは水戸学で、その水戸学は中国からの亡命者によって作られた。彼が亡命したのは、清朝が明朝を倒したため。要するに清朝は明治維新を起こす要因を作っていた。清朝はその明治日本に日清戦争で敗れ、衰退した。まるで「風が吹けば・・」。
<第2章 明治国家のデザインの秘密>-王政復古、シラスによる政治
○王政復古の目的
・明治は攘夷を封印し、「文明開化」「王政復古」を掲げ出発します。一番の課題は「王政復古」で、天皇を頂点とする国家をどう創出するかです。これが御誓文の第4条「公道に復せよ」と考えられます。
・歴史を振り返れば、摂政関白、鎌倉/室町/江戸の幕府が権力を握り、さらに将軍は執権/管領/大老・老中などに権限を委譲しました。この陋習を改めるのが「王政復古」で、そのためには天皇親政が必要になります。ところが「王政復古の大号令」が出された時、明治天皇はまだ15歳です。しかも「文明開化」を実現するには、大規模な近代的国家組織/官僚組織が必要になります。
・儒学/水戸学とは別に尊皇思想の国学がありました。「からごころ」を排し、「やまとごころ」で行くのが国学です。武士は儒学、町人/神官は国学です。※武士は上下関係を重んじるので儒学だな。
○国学の思想
・国学者・本居宣長の思想に「もののあはれ」があります。これは「言わずとも分かり合える」を意味し、つまり「以心伝心」です(※大和言葉なのか、理解できない)。彼は、「日本人は和歌のように柔らかい言葉で情緒を伝える事ができる」「日本語の母音は5つだけで、濁音は例外である。日本語が一番美しく繊細だ」とします。※外国語をどれだけ知っていたかは疑問だが、確かに和歌は優れている。
・国学を「やさしさの思想」「労わりの思想」と捉える事ができます。国学は大和言葉の特殊性/共約不能性/翻訳不能性(?)を前提に、日本を持ち上げる学問です。※この解説では国学が何かを十分理解できない。
・国学は水戸学にも影響を与えます。19世紀に入ると、水戸学は藤田幽谷・東湖父子、会沢正志斎により尊皇攘夷思想に変わります。そこには本居『古事記伝』の「天皇の人格に関係なく、天皇を天とする」思想が加わります。国学は「”三種の神器の鏡”には天照大神が宿っており、今上天皇がそれに向き合う事で、天照大神と同体になれる」とし、天皇の絶対性を高めます。※江戸後期、これらの思想が庶民に広まり、伊勢神宮参拝などが普遍化したのかな。
○「シラス」と「ウシハク」
・古代の和語に「統治する」を意味する「シラス」があります。この語源は「知る」で、「天皇は臣民の気持ちを『知り』、自分の気持ちを臣民に『知らせる』」を意味します。つまり日本人は古来から、満場一致などを政治としていたのです。
・また記紀神話には、同じく「統治する」を意味する「ウシハク」も使われています。この語源は「押す」と「掃く」で、「押し出し、掃き出し、制圧する」を意味します。こちらは強権的な統治になります。
・古代にはこの両語が使われていましたが、やがて「シラス」だけが使われるようになります。※ヤマトが日本と統一するまでは、戦いもあったのだろう。
○明治憲法と「シラスによる政治」
・この「シラス」を大日本帝国憲法(※以下明治憲法)に取り入れようとしたのが元熊本藩士・井上毅です。明治憲法に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇、之ヲ統治ス」とありますが、原案では「之ヲシラス」となっていました。そもそも明治憲法は近代国家として認めてもらうためなので、大和言葉は使われませんでした。
・明治憲法も天皇が聖断するとか、大権を行使するなどではなく、「皆の気持ちを知って、知らせ合って、落ち着くところに落ち着かせる政治」を目指したと思われます。
・明治憲法では天皇が不可侵となり、権力は分権されます。また明治憲法には「もののあはれ」「やまとごころ」などの国学的な世界観が反映され、天皇と臣民が「シラス」する政治になったのです。※これらの「空気を読む」「異を唱えない」などの日本人の性質は、余り良くないと思うが。
○明治憲法が生み出したタコツボ政治
・明治憲法は権力を、内閣/議会/裁判所/陸軍/海軍などに分権し、横の繋がりをなくします(タコツボ政治)。それは足利尊氏/徳川家康のように権力を集中させないためです。さらに立法府は貴族院/衆議院に分かれますが、どちらかが上位と云う事はありません。行政府の内閣には総理大臣(※以下首相)がいますが、彼も一閣僚に過ぎません。さらに行政府には内閣と対等の枢密院が存在しました。
※以前明治憲法を解説する本を読んだ。そこに「分権により全ての権力が天皇の下にぶら下がった。これにより政府は陸軍/海軍をコントロールできなかった」とあった。
○統帥権の謎
・明治憲法では陸海軍を統帥する「統帥権」を、内閣/議会などから切り離し、天皇に付与します。参謀本部(陸軍)/軍令部(海軍)は天皇の下に、海軍大臣/陸軍大臣は内閣に含まれる事になったのです。これにより軍事行動は参謀本部/軍令部が命令を下すようになります。
・「統帥権」が独立した理由は、1877年「西南戦争」にあります。当時は「統帥権」が独立していなかったため、いちいち太政官で合意する必要があり、有効な軍事行動が取れなかったのです。そのため山県有朋らは「統帥権」の独立を強く主張したのです。結果これが昭和の悲劇をもたらします。※西南戦争が理由だったのか。知らなかった。
○元老政治と云う超法規システム
・明治憲法により様々な権利は分権され、天皇は「シラス」だけの存在になります。これで近代国家として機能したのでしょうか。実は元老が政治を行っていたのです。元老は明治維新の功労者で、伊藤博文/山県有朋/井上馨/黒田清隆/西郷従道/大山巌/松方正義/桂太郎/西園寺公望らです。彼らが首相を選んだり、政策の決定・助言を行いました。
・元老は憲法に規定されておらず、人数も後継ぎも規定されていません。彼らが生きている間は、彼らが政治を行ったのです。※明治は元老政治時代か。
○元老がいなくなれば国家は自壊する?
・元老がいなくなると、「シラス」と分権だけが残ります。これでは統治機構は機能不全になります。明治憲法はその時限爆弾を抱えていたのです。元老が一人ひとり世を去り、誰もリーダーシップを取れない「タコツボ政治」「タコツボ軍隊」だけが残ったのです。※昭和の悲劇の原因を組織論からするのは納得できる。
<第3章 大正デモクラシーは何だったのか>
○自由民権運動と五箇条の誓文
・自由民権運動/大正デモクラシー/戦後民主主義は強権政治に対する三大シンボルとされていますが、そうだったのでしょうか。※日本は市民革命が起きていない国である。米騒動、安保反対運動などがそれに相当するかな。
・明治初期の自由民権運動は、急進的な民主主義/自由主義を警戒する政府により弾圧され、挫折します。政府は憲法制定を先に延ばし、税金も多く取り、経済発展を優先します。実際に社会には、儒教的な倫理観や村落共同体の因習などの前近代的なところが残っており、西洋近代の民主主義/自由主義は板に付きませんでした。工業化もまだまだで、事業者/労働者もこれから育つ状況でした。
・すなわち政府は御誓文の第1条(民主主義)より第2条(経済発展)を優先しました。また第3条(自由主義)は経済人として自己実現する事で、第2条に吸収されます。さらに第5条(学問=和魂洋才)も第2条と相性良く、これに吸収されます。よって第2条/第3条/第5条の「富国強兵」「殖産興業」で第4条(天皇中心)を支える構造になります。
○大正デモクラシーと五箇条の誓文
・日露戦争での勝利により、これらが一応達成されたと感じられました。ある程度国力が培われた事で、「経済的自由人」が形成されます。彼らは社会・政治に目を向けるようになり、「社会的自由人」「政治的自由人」「文化的自由人」になります。またその逆の努力しても報われない「経済的不自由人」も形成されます。こうして「個人」「自由」などが叫ばれ、大正デモクラシーが始まります。御誓文の第1条(民主主義)が沸騰してくるのです。
・昭和になり、大正デモクラシーは軍国主義に移ります。一般的に「軍国主義が民主主義を潰した」とされ、戦後民主主義は、自由民権運動/大正デモクラシーを重視するようになります。
・しかしこれには異を唱えます。「経済的自由人」「経済的不自由人」の双方から起きた要求は簡単には潰せません。民主主義への要求は民衆だけでなく、国家も願望し、これにより「国家総動員体制のための民主主義」(=大正デモクラシー)へ進んだのです。※大正デモクラシーが興った理由は分かった。しかし民主主義が潰れた理由は不明。国家も国民も、国家総動員体制のために軍国主義を望んだから?
○第1次世界大戦の帰趨
・ここで重要なのは第1次世界大戦(1914~18年、大正3~7年)です。英国/仏国/米国などの民主主義国が勝ち、ドイツ帝国/オーストリア=ハンガリー帝国/オスマン帝国などの専制主義国が敗れたのです。
・ロシア帝国は戦勝国側にいたのですが、戦争の継続が困難になり離脱します。そして1917年ロシア革命で社会主義国に変わります。1905年ロシアで第1次ロシア革命が起きますが、「第2の米国」と呼ばれるほど安定した国でした。それでも第1次世界大戦を戦い切れず、批判が皇帝に向けられ、皇帝は倒されます。
・第1次世界大戦は軍事的には互角で持久戦です。最終的にこの持久戦に耐えたのが民主主義国で、耐えられなかったのが専制主義国だったのです。※面白い分析だ。
○総力戦体制と民主主義
・この理由は明快です。専制主義国では戦争への参加を皇帝が決断しますが、民主主義国では国民が選んだ首相/大統領が参戦を決断しているからです。
・第1次世界大戦が始ると国民は苦労を強いられ、国家総力戦になります。安い賃金で軍需産業に雇われ、食糧は不足し、兵士はどんどん死傷し、非戦闘員からも死傷者が出ます。結果的にそれに耐えたのが民主主義国で、専制主義国はそれに我慢できず、皇帝を倒したのです。
○徳富蘇峰の提言
・これを早くから見抜いていたのがジャーナリストの徳富蘇峰です。彼は1920年『大戦後の世界と日本』で「日本を一君万民の民主主義国にしなければならない」「天皇を奉りつつ、国民に政治に参加させる民主主義が必要である」(※本文省略)と訴えます。
○バイオリン流行の背景
・明治の段階では国民の幸せと国家の発展が一致していました。日露戦争に勝利すると、明治維新以来のその緊張感が緩みます。1910年頃になると、大都市に百貨店ができ、日比谷の帝国劇場でオペラ/バレエが上演されるようになります。民衆は都市に流入します。富裕層からは「高等遊民」が出現します。
・この状況は楽器の流行にも表れます。日露戦争まではクラリネット/トランペット/太鼓などバンド/軍楽団で使う楽器が流行っていましたが、その後は個人で楽しむバイオリンが流行ります。要するに自由主義/個人主義が謳歌し始めたのです。
・1908年天皇は『戊申詔書』を発します。これは浮かれた国民を、倹約/醇風美俗に向かわせる内容でした。しかし1912年その天皇は崩御します。これにより自由主義/個人主義はさらに増長されます。
○戦争特需
・ここで御誓文の第2条(経済発展)の状況を確認します。日露戦争後の経済規模はまだ小さいものでした。米国の1/36、ドイツの1/16、英国の1/14、仏国/ロシアの1/6しかありませんでした(※弱小国だな)。日本の工業の主力は紡績で、重化学工業は貧弱で、これは輸入に頼っていました。日露戦争に勝ちましたが、借金まみれで、外債の利払いに追われていました。しかも輸入超過なので、正貨(金)の蓄えもなくなり掛けていました。
・そこに第1次世界大戦が起き、欧州から銃器/弾丸・弾薬/輸送船/軍服・軍靴/銅/澱粉・豆類などの注文が殺到し、戦争特需となります。また輸入していた製品は欧州での生産力が低下し、品薄となり、日本製品が市場を独占するようになります。1917年八幡製鉄所が大拡張されますが、それは競争相手がいなくなり、日本に増産が求められたのです。この状況は造船業でも見られました。またアジアの綿糸/綿布市場では、大戦前は英国製品などが占有していましたが、日本製品が食い込み、日本の綿業は大戦後に倍の規模になります。※特需と云えば朝鮮特需を思い浮かべるが、第1次世界大戦でもあったのか。
・この大戦特需で日本経済は蘇り、自由で享楽な生活がさらに広がります。レコードを買う、芝居を見るなどは序の口で、成金がお札を焼いて灯にした、職工が廓から通ったなどの話が出てきます。※成金となった私の曾祖父が身上を潰したのは、この頃だろうか。
○元老政治に代わる新しい仕掛け
・徳富はこの「成金気分」に危機感を持ち、総力戦体制時代に対応するため民主主義を説いたのです。明治は元老政治(藩閥政治)が行われていました。明治憲法下の縦割り社会を円滑に働かせるためには、政界/官界/財界の何れにおいても、薩長のネットワークが欠かせなかったのです。ところが大正になると元老が亡くなっていきます。1922年(大正11年)長州最後の元老・山県が亡くなり、1924年(大正13年)薩摩最後の元老・松方が亡くなります。
・そこで「新しい仕掛け」となったのが、天皇機関説と政党内閣の組み合わせです。国民を政治に参加させ、衆議院の与党に内閣を作らせ、その内閣に責任ある政治をさせる仕掛けです。
○天皇機関説と天皇主権説
・「天皇機関説」は、明治末に美濃部達吉が唱えた説で、「天皇は国家の最高機関だが、憲法に規定された部品に過ぎない」とする説です。一方、上杉慎吉が唱えた「天皇主権説」は、天皇が国家の主権者である事を強調する説です。
・立憲国家なので天皇も憲法に縛られ、両者は対立しないはずです。ところが「天皇主権説」は「天皇は憲法を超越する存在」「天皇は神話時代から続く現人神で、憲法に縛られるのはおかしい」「天皇は西洋の立憲主義を超越する存在」として激しく対立します。
○憲法解釈の二筋道
・この頃は「天皇機関説」(※以下機関説)を有賀長雄、「天皇主権説」(※以下主権説)を穂積八束が唱えていました。2つの説を分けていたのは国家観の違いです。機関説は「国民一人ひとりが自己実現し、それを支援するのが天皇であり、日本は近代国家である」とする考え方です。一方主権説は「日本は明治維新により王政復古した神国で、個人主義/自由主義などは許されず、集団主義を優先する」とする考え方です。
・明治維新の2枚看板が「王政復古」「文明開化」なら、前者から導かれるのが主権説で、後者から導かれるのが機関説です。日露戦争までは前者が強く、「神聖な天皇の下に、国民が臣民となり横並びする思想」(一君万民思想)で国家機構が作られます。※これは第1次世界大戦で敗れた帝国の思想だな。しかし結局は第2次世界大戦で敗れ、帝国の看板を下ろされる。
○天皇機関説+政党政治のメリット
・しかし大正になると、国民は意見を持つようになり、新たな臣民像が求められるようになる。また第1次世界大戦は国家総力戦/国家総動員の必要性を知らしめ、戦争を軍人だけに任せる事はできなくなった。軍艦/戦車/大砲/弾丸をどれだけ作れるか、戦意旺盛な兵士をどれだけ戦場に送り出せるか、熟練した労働者をどれだけ動員できるか、などが重要になった。それには横の連携が不可欠となったのです。
・国民が国家/社会/政治などに参加意識/責任を持ち、連帯意識を高めてもらう必要があった。かつての受動的臣民から能動的国民へ転換させる仕掛けが「天皇機関説+政党政治」でした。天皇の絶対性を弱め、「君臨すれども統治せず」のイメージに近付ける。国民の代表である政党や議会の存在を高め、その与党が内閣を組閣する。これにより国民が国家/社会に知力・労力・棋力を傾けるようになる。そうでなければ大戦に勝てないし、経済発展も望めない。
・この「天皇機関説+政党政治」は、天皇を中心とする国体も維持され、最良の仕掛けと考えられた。実際に大正に、これが実践されます。1918年(大正7年)衆議院の与党・立憲政友会の総裁・原敬が内閣を組閣し、政党内閣の時代が始まります。1816年憲政会が結成されており、立憲政友会と憲政会の二大政党制になります。
○普通選挙法と治安維持法
・この様に大正デモクラシーは”国家と国民の対立”ではなく、国家も国民の政治参加を望んだのです。
・選挙権は、1900年(明治33年)25歳以上の男子/直接国税10円以上でしたが、1919年(大正8年)原内閣の時、直接国税3円以上に拡大されます。さらに1925年(大正14年)普通選挙法が制定されます。
・詳細は後述しますが、ここで重要なのは同時に治安維持法が制定された事です。政治参加を認めるが、天皇中心の国体を壊す事は許されません。1920年代は大戦後の不況に襲われ、階級闘争が激化し、社会主義が台頭します。
・1923年関東大震災が起き、朝鮮人が虐殺されます。韓国併合で安い労働力が流入し、怨みを抱く労働者が多かったのです。この時無政府社会主義の中心人物・大杉栄も超法規的に殺害されます。
・国民の政治参加を認めても、国体を変えるようなマルクス主義/無政府社会主義は認められません。これも大正デモクラシーの一面です。
○万機公論に決すべし
・普通選挙法が成立したのは加藤高明が率いる「護憲三派」内閣の時です。「護憲三派」は、加藤が総裁の憲政会、高橋是清が総裁の政友会、犬養毅が率いる革新倶楽部を指します。彼らは「護憲」を掲げ、大連立します。
・この「護憲」は、御誓文の第1条(民主主義)/第2条(経済発展)/第3条(自由主義)を指します。彼らは「国民全員が社会・政治に関わり公論を形作り、国民の代表が議会を形成し、天皇を助ける」を主張します。その一歩が普通選挙法だったのです。
○買収政治から舌先三寸の政治へ
・当時は小学校までが義務教育です。大学の進学率は3%程度です。そのため国民が政治を理解していたとは考えられません。1927年に刊行された『普通選挙法講座』には、「普通選挙法が整ったが、それは国民の政治的知識が前提である」「日本の小・中・大学では政治教育が行われていない。帝大は官吏の養成所に過ぎない」「選挙の結果は金であり、言論ではない」などが書かれています。
・有権者が増えたので買収できなくなり、言論が大きく影響するようになり、選挙期間中だけ、もっともらしい公約を掲げる候補者が増えます。
○小日本主義と軍縮条約
・本章の最後に、大正の外交・軍の動きを見ておきます。大戦後、日本は国際連盟の常任理事国になります。国際協調主義に則り、ワシントン海軍軍縮条約を結びます。
・石橋湛山(※ジャーナリスト、戦後に首相)はこれに同調する「小日本主義」を唱えます。彼は軍国主義・帝国主義の「大日本主義」を批判し、自由主義・放任主義の政策や植民地放棄を唱えます。日本は「強圧的野蛮国」ではなく、「紳士的文明国」を目指し、貿易立国となる提案です。
・軍関係ではワシントン海軍軍縮条約(1922年)/ロンドン海軍軍縮条約(1930年)を締結します。ワシントン海軍軍縮条約で日本の戦艦は英米に対し6割に制限されます。
・これに対し海軍は条約派と艦隊派に分かれます。条約派は国際協調を守り、戦争を避けるが、飛行機を重視する勢力です。飛行機の戦力は未知数だが、軍艦に比べ安価です。一方艦隊派は、あくまでも軍艦を重視し、軍艦の速度/火力の向上を目指します。両派の対立はその後も続きます。
○統制派、国家社会主義、皇道派
・陸軍でも同様に総力戦で勝つ術を、田中義一/宇垣一成/永田鉄山/石原莞爾などが模索するようになり、永田は統制派の中心人物になます。石原は独自の石原派を結成します。在野の右翼からは国家社会主義が登場します。統制派/国家社会主義はトップダウンの強力な政治を求めます。
・これらの反対勢力が皇道派で、強権的な政治に疑念を抱く勢力で、荒木貞夫/真崎甚三郎/小畑敏四郎などが所属しました。彼らは天皇制に反対する左翼勢力に敵対します。「国民の負担を増やすと、ロシア革命が起きかねない」と警戒します。また彼らは「文明国の強い相手とは戦えない」とした。
※条約派(海軍)/皇道派(陸軍)は厭戦的かな。最終的には陸海軍共、好戦的な勢力(艦隊派、統制派)が主導権を得るのかな。2.26事件で皇道派はどれだけ後退したのか。
・皇道派は精神主義で第1次産業から支持され、一方の統制派は近代兵器を持つ強い軍隊を志向するため、第2次産業から支持されます。この両派の対決は避けられなくなります。
<第4章 昭和維新の論理>-攘夷からアジア主義へ
○世界大恐慌と政党不信
・1928年(昭和3年)普通選挙法に基づく最初の衆議院選挙が実施されます。大正デモクラシーは昭和に引き継がれたのでしょうか。そうはなりませんでした。政党政治/議会政治は滅んでいきます。政党は大言壮語しますが、実態が伴わなかったのです。
・政友会は産業立国を掲げ、公共事業に積極的で、国債も遠慮なく発行します。外交は強硬路線でした。1927年憲政会は政友本党と合同し、立憲民政党(※以下民政党)となります。こちらは緊縮財政で国債発行を減らします。外交は中国を刺激せず、英米とは協調路線を唱えます。
・ところが両党の違いは薄れていきます。第1次世界大戦後に不況になり、1923年関東大震災が起き、1929年米国で世界大恐慌が起きます。積極財政の裏付けがなくなり、両党の政策は似たものになります。選挙で甘言しますが、期待外れになり、民衆は幻滅します。
・民政党の浜口雄幸/井上準之助、政友会の犬養毅は右翼/軍人により暗殺されます。1932年(昭和7年)5.15事件で犬養が殺害され、政党内閣は終焉します。
○天皇機関説事件
・元老政治に代わるシステムとして期待されたのが「天皇機関説+政党政治」でした。政党政治が攻撃されると、天皇機関説も攻撃され、天皇主権説に代わります。彼らは「政党が衆議院と内閣を支配するのは、天皇の大権を犯している」「政党は明治憲法の精神に反する」と主張します。
・政党/衆議院だけが持ち上げられるのを、同じ立法府の貴族院や同じ行政府の枢密院が嫌います。さらに軍も「自分達が国民の代表」と信じており、政党の突出を嫌います。世界大恐慌などによる危機で、再び天皇を頂点にする構造が必要になったのです。
・1935年貴族院の菊池武夫が、美濃部達吉の天皇機関説を批判します。これを機に岡田啓介首相は「日本は天皇主権の国家である」との国体明徴声明を発します。これにより、美濃部は貴族院議員を辞任します。
○先行する3つの思想
・「昭和維新」は軍人/テロリスト/運動家が掲げたスローガンです。しかしこの根拠となる思想(アジア主義、農本主義、国家社会主義)は以前からありました。
○アジア主義
・アジア主義にも様々な系譜がありますが、その根幹はアジアの解放です。「アジアは西洋の帝国主義に収奪されている。国際的な地位を高めた日本がアジアを解放させ、西洋に対抗しなければいけない」が基本的な考え方です。また「大正の個人主義/自由主義で、享楽主義/快楽主義に陥った。公益/集団を重んじる東洋の原理に回帰する必要がある」とします。この思想が国家改造に結び付きます。
○攘夷復活戦としてのアジア主義
・アジア主義は攘夷の復活戦でした。会沢正志斎は「開国は方便で、よろしき時に攘夷すべし」と言っていました。その前の『新論』では「日本は世界の頭なので、西洋を威服しろ」と述べています。アジア主義は攘夷復活戦だったのです。※時代が変わったので、攘夷と直結しない方が良いと思うけど。
○農本主義
・農本主義は農業/農民を国の基礎とする考え方です。日本人には「農民は強靭な精神力を持つ」とのセルフイメージがありました。陸軍の皇道派は農本主義と親和性があります。※2.26事件は皇道派が起こした。
・軍は予算/装備が乏しく、それを補う精神力を求めました。「農民は大勢いて、和を重んじ、従順で家父長に従い、強靭な肉体を持ち、忍耐力がある」として、陸海軍は兵を農民に求めます。
・また日本は稲信仰が強く、白米ファースト/白米原理主義でした。稲作は天孫降臨と共にもたらされ、天皇は稲作のために祭祀を行っています。農本主義は国体思想と近接しています。
・ところが近代化によって人々は都市に出て、個人主義/自由主義に変わりました。軍からすれば、これは由々しき事態で、軍は農村/農民を重視したのです。
・しかし政治は逆の方向に進めます。台湾/朝鮮を併合し、そこで米・麦・砂糖を増産し、東北で米を作らなくなります。また農村から都市への移動を推し勧めます。これらを推進したのが民政党と、そのバックの財閥で、その代表が浜口雄幸/井上準之助です。※それで彼らは暗殺されたのか。
※軍は近代化したいけど、そうすれば農村が荒れる。トレードオフだな。これは皇道派と統制派の対立だな。
○農村、壊滅的状況へ
・第1次世界大戦(1914~18年)で「大戦特需」になりますが、1920年代は「慢性不況」になります。これを打破するには、第1次産業から第2次産業、軽工業から重化学工業への転換が必要となり、農村から都市への人口移動が必要になりました。これを推し進めたのが、ブルジョア層/大企業に支持された民政党です。民政党は「小さな政府」を志向し、英米と協調する新自由主義と云えます。
・ところが1929年世界大恐慌で生糸が暴落し、農村は壊滅的な状況になります。農本主義にも様々ありますが、基本は工業偏重を止めて、農業/農村にテコ入れする考え方です。
○国家社会主義
・この農本主義と対照的なのが国家社会主義です。国力を高めるには社会主義を利用する「方便としての社会主義」です。第2次産業を発展させてきたが、結局は特権階級/富裕層だけが太っただけで、労働者は使い捨てられた。これでは総力戦に戦えない。
・そこで考えられたのが国家社会主義/天皇制社会主義です。これは資本主義を超克するもので、一君万民の社会主義を目指します。御誓文には資本主義とは規定されていません。また第4条には「公道」と記されており、これは一君万民の社会主義と解釈できます。
・国家主義者・遠藤友四郎は、「明治維新が大政奉還でなったなら、大正維新は財産奉還でなる」と言います。「国民は財産権を天皇に返すべきだ」と言っているのです。※公地公民制だな。
○昭和維新のベース
・微妙に食い違う3つの思想(アジア主義、農本主義、国家社会主義)が、次第に融合していきます。これに「戦争進化論」「国体論」が加わります。戦争進化論は、戦争によって最強国が世界を統一する考え方です。国体論には日本中心主義があり、日本を世界の中心とする考え方です。
・当時の状況からアジア主義と日本中心主義は簡単に結び付きます。さらにこれに国家社会主義が結び付き、国民総動員体制が作られます。さらに強靭な精神力を有する農本主義が結び付き、これで「西洋に勝てる」となったのです。
・満州事変(1931年)、血盟団事件/5.15事件(1932年)、2.26事件(1936年)、日中戦争(1937年)の背景に、これらの思想があったのです。
○世界最終戦争論の登場
・昭和維新で最も極端な思想は、石原莞爾の「世界最終戦争論」です。彼は「日本と米国が勝ち残り、雌雄を決する」としました。彼が日本が生き残るとした理由に、彼は日蓮宗に帰依しており、「日本が勝ち、『法華経』の理想郷・仏国土が実現される」と考えていました。※血盟団も日蓮宗だ。
・1940年彼は京都で講演しています。そこで、「第1に東亜の民族協和が必要である。第2に東亜は欧米に劣らぬ生産力を持つ必要がある」と述べています。講演の筆録が『世界最終戦争論』として刊行されています(※引用されているが省略)。
○世界大恐慌でグローバリズム後退
・1930年代に戻って、昭和維新が席巻した背景を見ます。第1次世界大戦後、米国が世界市場を牽引します。様々な障壁があって、今のグローバル化より規模は小さいですが、グローバル経済が席巻していました。しかし1929年世界大恐慌が起き、自由貿易主義/資本主義の信用は地に堕ちます。
○ブロック経済+統制経済へ
・大戦後、ドイツではナチスが台頭し、「生存圏」の考え方を掲げます。この「圏」は、国家が生存/自給自足する勢力範囲を云います。日本も世界大恐慌により、この考え方を取り入れます。自国の周りだけで経済圏を作り、軍事力・科学力・工業力を高めるのです。日本の近代史も朝鮮/満州を巡って展開されてきました。これがさらに「大東亜共栄圏」に発展します。
・1929年世界大恐慌、1931年満州事変、1932年満州国建国の流れは、「朝鮮・台湾の植民地だけでは資源に不安があり、満州が必要」となったのです。
・グローバル経済からブロック経済に変わったのは日本だけではありません。列強各国は植民地・従属国と共に経済圏を作り、ブロック外からの輸入に高い関税を掛けたのです。さらにブロック経済と共に統制経済も進められます。これは世界大恐慌の影響が少なかったソ連の影響です。
○石原莞爾の満州国構想
・石原莞爾の計画に基づき、1931年満州事変が起き、1932年満州国が建国されます。「朝鮮・台湾の資源だけでは不足だが、満州があれば世界に冠たる重化学工業を興せる」と考えたのです。さらに人的不足は、アジア主義の「五族協和」(日本、満州、中国、朝鮮、蒙古)で補おうとします。
・さらに彼は世界最終戦争に勝つためには「強力政治」が必要で、それを天皇親政としました。彼は「1940年の30年後に、世界最終戦争が起こる」としていました。
○統制経済への志向
・彼は統制派に属しますが、統制派は「民間企業を自由放任にしていては、国力を高められない。統制経済/計画経済が早道である」と考えます。彼は「日本は自由経済を尊重している。また軍が政治・経済に関与できる国家構造になっていない。ところが満州であれば、それを実行できる」と考えます。1936年彼は南満州鉄道の宮崎正義に『第1次日満産業5ヶ年計画』を立てさせ、これが『満州産業開発5箇年計画』に発展します。※計画の説明などが一切ない。これでは満州での統制経済/計画経済の内容が分からない。ただ満州国が国家社会主義の思想で作られた事が分かった。
○連続するテロリズム
・1931年血盟団事件が起きます。「一人一殺による世直し」を掲げる過激結社・血盟団により、三井財閥の団琢磨、民政党の井上準之助が殺害されます。同じ年、海軍の過激派青年将校が起こした5.15事件で、首相・犬養毅(政友会総裁)が殺害されます。この2年前、東京駅で首相・浜口雄幸(民政党総裁)がテロリストに狙撃され、その後亡くなっています。
・1936年陸軍の皇道派の青年将校により2.26事件が起こされます。海軍出身で首相と朝鮮総督を2度務めた内大臣・斎藤実、政友会の重鎮で大蔵大臣の高橋是清、皇道派に敵対した陸軍教育総監・渡辺錠太郎らが暗殺されます。軍事クーデターは成功したかに思われましたが、天皇の支持を得られず、鎮圧されます。※2.26事件は陸軍と海軍の全面対決直前に、決起側が投降した。
・浜口の次に首相になったのが若槻礼次郎です。彼に対しても暗殺計画がありました。その次の首相は5.15事件で殺害された犬養、その次の首相は2.26事件で殺害された斎藤、その次の首相は2.26事件で殺害を間一髪で逃れた岡田啓介です。要するに5代首相の内、3代が殺され、2代が殺されかけたのです。
○テロの背景には農本主義+国家社会主義
・これらのテロ/クーデターの背景に、農業軽視に対する反発(農本主義)がありました。彼らは「日本は資源を持たない”持たざる国”なので、無茶な経済発展は社会を歪める」「”持たざる国”が強い軍を維持するには、精神力しかない。そのためには農村を重視すべきだ」として、政府に反発したのです。
・また5.15事件には大川周明、2.26事件には北一輝の国家社会主義者が関わっています。これらのテロ/クーデターは農本主義/国家社会主義が深く結び付いているのです。
○石原莞爾、閑職へ
・昭和維新は総力戦に勝つための天皇制社会主義の「強力政治」を求める運動です。ところで満州の石原莞爾はどうなったのでしょうか。彼は「第2次5箇年計画」と合わせ、満州をソ連に対抗できる国にし、さらに米国に対抗する「日満経済ブロック」を構想していました。しかし彼は政治に首を突っ込み過ぎ、敵を多く作り、京都で『世界最終戦争論』を講演した翌年(1941年)8月、予備役に編入されます。
○国家統合もまた夢に
・2.26事件後も内閣/議会/軍は指導力を発揮できず、国家は纏まりませんでした。5.15事件で犬養が暗殺されてからは、政党が内閣を組閣する事もなくなります。元老が首相を決めていましたが、その後は首相経験者が相談で決めるようになります。しかし政党政治は終焉します。※犬養後は軍人ばかりが首相に就くが、これは軍と内閣の連携を強めるためかな。
・その後は軍が力を持つようになりますが、あくまでも明治憲法は縦割りで、軍は軍、内閣は内閣、議会は議会、裁判所は裁判所です。1937年泥沼の日中戦争が始まります。この戦争を終わらせるためには国民の声が議会に反映され、与党のトップが首相に就けば可能だったでしょう。ところが政党への信頼は失われていたため、役人/軍の力が大きくなったのです。※政治不信だな。初めて役人が登場したが、説明は一切ない。
○大政翼賛会と云う第3の試み
・1940年衆議院で民政党の代議士が「支那事変は、いつ終わるのか」と演説する。日本には外交と軍事を一元的に指導する機関はなく、この答えを出せる者はいなかった。彼は「聖戦」を汚したとして、衆議院から除名される。
・1940年元老政治/政党政治に続く第3の試みが始まる。近衛文麿を中心とする大政翼賛会の結成である。政友会/民政党が纏まり、その総裁が首相となる構想である。
○強力政治の頓挫
・ところが近衛は大政翼賛会の理想を撤回します。1940年大政翼賛会は結成されますが、翌年彼は大政翼賛会を公事結社とします。公事結社は治安維持法上の用語で、政治に関係しない公共の利益を目的とする組織です(※組織の分類って沢山ありそう。特に宗教に絡む組織は分類が問題になりそう)。彼は護憲に徹する伝統主義者に怯んだのです。※それで東條内閣が誕生したのか。
・政党政治も大政翼賛会も「強力政治」を期待されてのものでしたが、明治憲法を信じる右翼的な愛国者により挫折します。
・右翼は明治憲法を信じ、御誓文の第4条「旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし」(天皇中心)を信じ、天皇を凌ぐ権力の出現を、絶対に阻止しようとしたのです。
・軍/財界も「強力政治」(国家社会主義)に抵抗します。軍は農本主義のため、「国家社会主義となり、農村の負担が重くなる」のを警戒したのです。また閣僚に名を連ねる財界は、「国家社会主義となり、自由な経済活動が妨げられる」のを警戒したのです。
○大政翼賛会の性格に就いて
・「強力政治」の試みが全て挫折し、「あるがまま」になります。1940年この状況を北一輝の弟・北聆吉が、持論『大政翼賛会の性格に就いて』で述べています。彼は哲学研究者で、社会問題/政治問題の評論家・運動家として活躍しています。彼は「首相は最高の行政官として内閣の長である。しかし統帥権の独立が保障されているため、陸海軍の首班になれない。当然首相は、軍人/裁判官/貴族院議員/衆議院議員の総大将ではない」「大政翼賛会により首相は総大将と錯覚されるが、これは国体に関する甚だしい誤解である」と述べている。
○職域奉公こそ日本人の道
・彼は国体の本質を「天皇だけが”絶対の御成徳”を持つ」と考えていました。彼は「不心得の首相が、勝手に軍を動かし、勝手に国庫を使い、勝手に法律を発し、幕藩政治を再来させては困る」と述べます。彼は日本の強さは「愛と責任感」「職域奉公」とし、「皆が自身の職域を踏み出さず、官僚/軍/立法府、何れも職域を守り、謙虚な気持ちで務めれば、摩擦は起きない」とします。
・これは諦念とも、やけっぱちにも感じられます。日本では構造上、強力なリーダーシップを取る事はできず、では天皇に取れるかと云っても、そんなものではなく、職域奉公しかなかったのです。
※個別のテーマを詳述する本はあっても、本書の様に全体を俯瞰し、明確な答えを出してくれる本はなかった。
<第5章 非常時国家への野望と挫折>
○明治の復習
・これまでの流れを復習します。攘夷を断行できる実力がなく、「方便としての開国」となり、攘夷は持ち越しになります。元勲(※元老としていない)は国力を高めるため明治憲法を制定しますが、「第2の江戸幕府」を怖れ、権力を分権します。また天皇に責任が及ばないようにするため、「シラス」の体制とします。
・明治で御誓文の第1条(民主主義)/第2条(経済発展)/第3条(自由主義)/第4条(天皇中心)/第5条(学問=和魂洋才)は、何れもある程度実現されます。しかし元老が亡くなると、雲行きが怪しくなります。
○大正の復習
・第1次世界大戦を経ると、総力戦を勝ち抜くために民主主義の必要性が叫ばれ、元老政治が「天皇機関説+政党政治」に変わります。攘夷は伏せられ、自由貿易/国際協調が基軸になります。御誓文の第1条(民主主義)/第3条(自由主義)が花形になり、第5条(学問=和魂洋才)は洋才が中心になります。
○そしてアジア主義だけが残る
・ところが昭和になると世界大恐慌により、大転換します。二大政党制/自由経済は機能不全になり、国家社会主義/農本主義に影響されたテロ/クーデターが頻発します。グローバル経済はプロック経済、自由経済は統制経済に舵を切り、理想でしかなかったアジア主義が台頭します。
・「強力政治」として政党政治に代わり、天皇制社会主義に進みます。近衛文麿を中心とした大政翼賛会が結成されますが、”縦割り”を維持したい右翼により、これも挫折します。残ったのは「五族協和的なアジア主義」ではなく、「唯我独尊的なアジア主義」です。これは「大東亜共栄圏」に発展します。
○大東亜共栄圏と大東亜戦争
・1941年12月8日日本は米国と戦争を始めます。日本はこれを「大東亜戦争」と呼び、米国は「太平洋戦争」と呼びます。この「大東亜戦争」は、1937年「支那事変」から1945年終戦までを指します。日本は1937年より開戦していましたが、”戦争”にすると都合が悪いので”事変”としていました。ところが1941年米国と開戦した事で、開き直り、1937年からの「支那事変」を含めて「大東亜戦争」としたのです。
・大東亜戦争の背景に大東亜共栄圏があります。大東亜共栄圏の範囲は明確に定義されていませんが、植民地の朝鮮/台湾、傀儡国家の満州、傀儡政権の汪兆銘政権、米国の影響下のフィリピン、仏国の植民地ヴェトナム/マレー半島(※マレーは英国では?)、英国の植民地シンガポール/ビルマ、オランダの植民地インドネシアが含まれます。タイは友好国・中立国でした。
・この範囲を押さえておけば、安全保障が担保され、経済的な利益も得られると考えていたのです。
○中国を巡る日米対立
・ここで日米対立となった経緯を見ます。日本は中国を有効利用したい思惑がありました。米国は大西洋に関しては「モンロー主義」で、欧州との間で不干渉を表明していました。しかし太平洋/中国に関しては、日本と同様な思惑があったのです。日本はこの米国の思惑を理解しておらず、「米国はハワイまでで、西太平洋は日本に譲る」と楽観していたのです。
・この楽観は日露戦争で、米国が日本に融資した事に始まります。米国は「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」で西方への進出を続けてきました。フィリピンを足場に中国に進出しようと考えていました。そこで警戒したのがロシアの南下でした。そのため日露戦争で日本に融資したのです。
・すなわち日本のアジア主義と米国の太平洋主義は、以前から対立していたのです。それを示すのが日露戦争直後の米国鉄道王ハリマンによる、南満州鉄道の共同経営の提案です。これは外相・小村寿太郎の反対で挫折します。
○黒舟と白船
・1908年米海軍は軍事力を誇示するため世界一周します(※明治末で第1次世界大戦前だ)。東京湾にも大艦隊(白船)が訪れ、日本は驚愕します。さらに第1次世界大戦を経て、日本の軍は国力の重要性や日本の位置付けを認識します。石原莞爾は「『持てる国』になるまでは米国と戦争してはいけない」と考え、同じく陸軍の小畑敏四郎は「日本は何時までも『持たざる国』なので、『持てる国』と戦争してはいけない」と考えます。
○能天気な見通し
・1939年ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始ります。日本は「この大戦に巻き込まれる事はなく、大東亜共栄圏を構築できる」と楽観していました。
・1940年夏(日独伊三国同盟の締結直前)タカ派軍人と大学生の座談会で、大学生が「欧州は独伊が勝利し、日本は新東亜を建設し、世界は日本/米国/独伊/ソヴィエトに分かれる気がします」と述べている。今からすれば能天気な見通しですが、当時はそれがスタンダードな見方でした。
○迫水久常のリアリズム
・一方大蔵省の迫水久常(後に鈴木貫太郎内閣の書記官長)は、楽観していませんでした。彼は国家総動員法を作っていましたが、日本は資本主義なので、民間の財を国家が勝手に取り上げる事はできません。そこで「企業の利益を給料に回せば税制で冷遇するが、軍需への設備投資に回せば優遇する」などの政策を考案します。
・彼は次の様に述べています(※要約)。
輸出振興は、日本が必要な物資を買うために輸出するのです。海外の国は日本の物資を必ず必要としていません。例えば米国が日本の生糸の輸入を禁止しても困りません。そうなると日本は鉄屑/石油などの必要な物資を買えなくなります。もし米国が日本の精巧な機械を欲しているなら、日本は何時でも米国から必要な物資を買えます。しかしそうなっていません。簡単に言いますと、米国は日本に経済的に従属していませんが、日本は米国に依存しているのです。
・これは当時の理性的な日本人の認識です。また彼は「高度国防国家」についても述べています。
「高度国防国家」と云うと軍事力に目がいきますが、本当は必要な時に無理をしなくても必要な国防力を捻出できる経済力を持つ国の事です。石油/鉄を米国に依存した日本は「高度国防国家」ではありません。
・結局日本は米国との貿易を諦め、武力で東南アジアに進出し、石油などの資源を調達するようになり、太平洋戦争に至ったのです。
○酒井鎬次の戦わない思想
・陸軍の酒井鎬次も、「持たざる国」を認識していました。彼は陸軍大学校を出て、第1次世界大戦時に仏国に留学し、前線から後衛までを実見します。その後もヴェルサイユ条約などで欧州に勤務します。彼は開明派となりますが、帰国すると教育方面に就かされます。
・彼は「『持たざる国』は戦争できない」とし、戦争するならば早期決戦/早期講和と確信していました。
○東條英機との確執
・1937年日中戦争の時、彼は日本で初めての機械化された独立混成旅団長に任じられます。しかし車両の故障が多く、修理もできず、燃料も不足していたため戦績は残せませんでした。その結果、陸軍は機械化を否定し、歩兵を重視する古い戦術に拘ります。それを代表するのが関東軍の参謀長だった東條英機です。1940年酒井は予備役に編入されます。※これは農本主義かな。
○精神主義の淵源
・東條は原理主義者ではなく現実主義者です。彼は「石原のように何年も待つ事はできないし、酒井のように戦わない事もできない。戦うべき時は戦わなければ」「東南アジアを領有し、資源を得られるようになっても、それを生産体制にどう活用するかも問題である」と考えていました。その結果出てきたのが精神主義です。
・東條のブレーンに中柴末純がいました。彼は戦争に勝つには物量が重要なのは理解していましたが、それでも「天皇は神の国」「真心があれば勝てる」などの精神主義になります。「生きて虜囚の辱めを受けず」などの『戦陣訓』は、彼が作っています。
・彼は『闘戦経の研究』を書いています。「戦いは数による」としますが、「気迫で迫ると、相手が怯む」(真鋭)とし、これを日本の戦い方とします。
・結局、石原/酒井/中柴で残ったのは中柴の「真鋭」でした。物質的に足らない部分を補うのは、精神しかなかったのです。
○なぜ未完のファシズムだったのか
・民主主義の人も軍国主義の人も、総力戦で勝ちたい意思は同じです。しかし明治憲法では軍の独裁はできません。そこで東條は首相/陸軍相/参謀総長を兼職します。明治憲法は権力を分権化するため、軍と政治はそれぞれの組織が指導し、情報交換も行われませんでした。そのため両者の行動が一致しない事もありました。そこで彼は複数のポストを兼ねる決断をしたのです。しかし右翼からは「東條ファッショ打倒」が掲げられます。結局彼も権力の一元化に失敗し、日本のファシズムは未完となります。
・もし天皇を指導者とし総力戦を行い、敗れていれば、ロシア帝国/ドイツ帝国と同様の運命になったでしょう。ところが天皇に責任はないので、そうはなりません。結局、それぞれの組織が精神主義で宜しくやるしかなかったのです。
○なぜ海軍は真珠湾奇襲作戦を採ったか
・第3章で海軍は条約派/艦隊派に分かれた事を説明しました。国際協調の条約派は消滅し、艦隊決戦派と航空決戦派になります。艦隊決戦派は戦艦の性能向上を目指します。主砲の命中率を高める、射程距離を延ばす、口径を大きくするなどです。その末に造られたのが「大和」「武蔵」です。一方航空決戦派は奇襲による短期決戦を目指します。山本五十六/井上成美/大西滝治郎などです。
・陸軍も皇道派/統制派の対立がありました。皇道派は、精神力を重んじ、安上がりの兵力を目指します。一方統制派は中長期的に兵力を高めます。そのため予算が必要になり、政治に介入します。
・著者の考えでは航空決戦派の方が乱暴に感じます。「大和」1隻で3000~4000機の「零戦」が作れます。しかし100~200機あれば戦艦1隻の活躍ができます。そのため「島に飛行場を作れば、軍艦は不要」とする人までいました。山本は戦艦を軽蔑し、航空奇襲万能主義だったため、真珠湾奇襲となったのです。艦隊決戦派はお金が掛かるため、乱暴になりませんが、航空決戦派は安上がりなので乱暴になるのです。
○山本五十六の誤算
・陸の戦いだと膠着する事もありますが、海の場合は決戦になります。船/飛行機なので、どう転ぶか分かりません。そのため海軍は冒険主義になり易いのです。
・海軍は専守防衛を基本としていましたが、山本は航空母艦をハワイに航行させ、長駆攻撃に出ます。これが成功したため、「何でも上手く行くのでは」と勘違いします。ところが米国は日本の”だまし討ち”に激怒し、日本への憎悪が喚起されます。また真珠湾で航空機の戦闘能力が証明されたため、米国は短期艦隊決戦/短期航空決戦ではなく長期航空決戦に変わります。結局彼の目算は外れたのです。
○とてつもないオプティミズム
・1942年5月『航空朝日』に座談会「米英空軍の反撃は可能か」が掲載されます。5人の参加者の内、4人は「米国は反撃しない(できない)」としました。そのため「日本は島々を占領し、米国に厭戦気分を起こさせれば良い」となります。
○国民優越性の比較
・1942年6月ミッドウェー海戦で日本は虎の子の空母4隻を沈められます。この戦いで太平洋戦争の勝負は決まったと云えます。※たった半年の優勢だったか。
・1943年『日本人はどれだけ鍛えられるか』が刊行されます。これにグラフ「鍛えられたときの日本人」が掲載されています。横軸が優秀性で縦軸が人口です。これに日本/米国/アジアの国の人口構成がプロットされています。さらに「将来の日本」の人口構成がずっと右(優越性が高い)にプロットされています。戦中の日本には自画自賛したり、精神力を奮い立たせる情報が氾濫していたのです。※子供騙し/洗脳/稚拙、色々な言葉が浮かぶ。
○神風特攻隊の壮絶な論理
・その精神主義の極点が神風特攻隊です。1945年その神風特攻隊の創始者・大西滝治郎が特攻隊員を前に訓示しています(※大幅省略)。
今まで我軍は局地戦で降伏していない。今後も決してない。日本人の5分の1が戦死する前に、敵が降伏するだろう。
米英との戦いは困難であるが、「戦わずして亡国となるか、戦って活路を見出すか」の岐路にある。我々は後者の捨て身の策に出たのである。
捨て身の策と云っても勝つ見当は付いている。武力戦で勝つのは難しい、そのため長期持久戦による思想戦で勝つのである。
・彼は「日本人2千万人が特攻すれば勝てる」と唱えていた。さらに「米国は明確な戦争目的を持たない。そのため長期戦になると厭戦思想になる。それで焦っている」と訓示を続けます。彼は「米国は民主主義国なので国民は平和を望んでいる。そのため長期戦を避けている」との理屈を捻り出したのです。
○大日本帝国の終焉
・御誓文で始まった明治維新は精神主義に至り、悲劇となって終焉します。しかし御誓文の条文は何れも一定程度実現されます。攘夷は大東亜共栄圏として蘇りますが、壮絶に散り、逆に米国の占領下に置かれます。この結果は縦割りの分権にあったのです。分権により意思統一できず、合理的な判断ができなかったのです。軍は戦うための組織のため、本当に負けるまで、戦い続けたのです。
・大正デモクラシーで総力戦体制を築ける可能性もありましたが、1920年代の不況/世界恐慌により挫折します。その後、大政翼賛会などの試みもありましたが、結局「決められない政治」のままとなります。終戦間近になっても陸軍/海軍/内閣で情報交換はなく、”タコツボ”のまま終戦となったのです。
・原爆が落とされソ連が参戦しても、政治家も軍も有効な手段は打てませんでした。結局、第4条「天地の公道」で認められない「聖断」により、大日本帝国は終焉します。
<終章 五箇条の誓文と平成日本>
○戦後日本も五箇条の誓文から始まった
・1946年元旦、天皇は『新日本建設に関する詔書』(人間宣言)を発します。ここで御誓文を掲げ、この趣旨に沿って「新日本を建設すべし」とします。1947年日本国憲法の制定前に、御誓文を日本の建設方針としているのです。そこで御誓文の条文に照らして現代日本を点検します。
○55年体制の構図
・戦前の日本の失敗は明治憲法の「シラスによる政治」にあります。一方日本国憲法には民主主義的な手続きが明確に規定されています。しかし現在は二大政党制で同じ失敗をしています。
・1955年日本は自民党と社会党が対峙します(55年体制)。自民党は保守/資本主義/米国の価値を重んじます。社会党は革新/社会主義/反米の価値を重んじます。日本は軍を放棄し、経済発展に邁進します。日米貿易摩擦/基地問題などの問題はありましたが、資本主義諸国の一員として自民党が政権与党であり続けました。反資本主義/反米の人は社会党を支持し、60年安保/70年安保では社会党を応援しました。
○時代遅れの二大政党制
・ソ連が崩壊し、この「55年体制」が終焉します。資本主義の価値観が一人勝ちしたのです。これにより保守二大政党制が叫ばれるようになります。小選挙区制を導入しますが、2009年ようやく民主党政権が誕生します。
・「55年体制」後、民主主義は成熟したのでしょうか。自民党と民主党に差はなかったのです。経済成長は止まり、少子高齢化し、取れる政策に差はなかったのです。それでも選挙になると、党は党利党略で”美味しい政策”を掲げたのです。これは大正デモクラシーでの二大政党制と同じで、両党は「舌先三寸」の公約を掲げました。
・「55年体制」後は、二大政党制は壊れ、自民党一強が続きます。これは「万機公論に決すべし」(民主主義)ではありません。
○民主主義と資本主義の蜜月時代の終わり
・大正デモクラシーが叫ばれたのは、国民全員を動員し、生産力を増強し、総力戦に備えるためです。つまり民主主義と資本主義が結び付いていたのです。労働者の質を高めるため、教育制度を整える。技術革新が必要なので、自由に競争させる。その経済成長の見返りに、福祉を施す。その福祉は民主主義で決める。これを最適なモデルとしたのです。御誓文の第1条(民主主義)/第2条(経済発展)/第3条(自由主義)が結び付いていたのです。
・ところがグローバル化の時代になると、国民経済よりもグローバル経済を優先します。国境の垣根を低くし、国民の利益を二の次にしたのです。これにより民主主義は蔑ろにされます。
・政治家/官僚/大企業の経営者などのエリート層は、国境を取り払い、ヒト・モノ・カネの往来を容易にし、経済を成長させようとしたのです。その結果、貧富の差は拡大し、中間層は没落し、グローバル企業/富裕層が豊かになったのです。
・ところが政治家はエサで誤魔化したのです。小泉政権は「郵政民営化すれば・・」、民主党政権は「仕分けすれば・・」、安倍政権は「アベノミクスを押し進めれば・・」。しかし国民はこの嘘に気付き、政治不信になっているのです。
○国民が邪魔者になる時代
・今は国民国家の崩壊が起こっています。明治維新には、「国を豊かにし、国民を豊かにしたい」「列強に食い物にされないために、国と国民が一体になって西洋に負けない国にしたい」などの想いがありました。昭和維新においても、国家社会主義/農本主義/アジア主義は何れも国民の暮らしを良くするためです。この様に日本は国民国家として「経済ナショナリズム」を追求してきたのです。
・ところがグローバル化の時代になると、国民は邪魔になり、民主主義と資本主義が乖離を始めます。その結果、御誓文の第2条「上下心を一にして、盛んに経綸を行う」(経済発展)/第3条「官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ」(自由主義)が成立しなくなっています。※今は消費増税/法人税減税など、国民軽視/企業偏重が徹底しているかな。これは財界の圧力だろうね。
○安上がりなナショナリズム
・「経済ナショナリズム」が成立しなくなったことで、別のナショナリズが必要になりました。明治維新後には「尊皇ナショナリズム」がありましたが、今は通用しません。そこで「使えるものは何でも使おう」となり、「美しい国」「和の国」などの「復古主義的ナショナリズム」や、「北朝鮮の脅威」「中国の脅威」などの「排外的ナショナリズム」が使われているのです。攘夷の対象は列強から極東アジアになり、「和魂洋才」は日米同盟強化のため、「米魂米才」となったのです。
○背伸びが招いた悲劇
・今の日本は御誓文の条文に照らせば、落第点ばかりになりました。今打つ手として、悪いイメージがありますが、昭和維新があります。昭和維新は国家社会主義/農本主義/アジア主義が結び付いたものです。この昭和維新を応用し、「国家社会主義の平準化思想で、福祉を充実する」「成長志向・拡大志向を止め、”縮み志向”の農本主義を導入する」「米国一辺倒の安全保障を止め、アジア主義から帝国主義を除いた思想で、アジアの連携を深める」のです。云わば”縮み志向”の昭和維新です。
・日本は背伸びする度に、大怪我しています。大東亜戦争/エネルギー政策などです。前者はモノ不足を精神力で補おうとして、神風特攻隊を生みます。後者は原発政策を推進し、福島第1原発事故を起こしています。