『主権の二千年史』正村俊之を読書。
国家が封建国家/身分制国家/国民国家と移行し、民主主義が誕生した経緯を解説。
市民革命は民主主義誕生の転換点ではなく、その通過点に過ぎない。
基本は社会が聖俗二元的構造が公私二元的構造に移行した経緯を解説。
後半は現代の民主主義の揺らぎを解説。
内容的には面白いが、抽象的な言葉が多く難しい。
お勧め度:☆(内容的には☆☆)
キーワード:<プロローグ>民主主義、人民主権/国民主権、<近代民主主義とは>オートポイエティック・システム論、人民主権/立憲主義/代表原理、古代民主政、世界観、自己組織性、<近代民主主義への道>供犠、権力/貨幣、王権概念、封建契約/公私、フランク王国/ローマ教会、聖俗二元体制、グレゴリウス改革/ヴォルムス協約、ローマ法/教会法、教皇至上権、国王裁判所/財務局/尚書部、都市/兄弟団、貨幣、教皇絶対主義、公会議主義運動、団体原理/代表原理、身分制国家、人民主権、公権力、<近代民主主義の成立と構造>絶対主義国家、市民革命、政教分離、市民的公共性、機能分化、公と私の分離、機能集中、領域的限定/国民国家、規範的限定/近代自然法/実定法、方法的限定、多数決の論理/実証主義、官僚制、<近代民主主義の揺らぎ>福祉国家、新自由主義、資本移動の自由化/タックス・ヘイブン、私的権威の台頭/グローバル・プライベート・レジーム、国際商事仲裁、国際会計基準、ソフトロー、パワーシフト、パブリック・ガバナンス改革/新公共管理/新公共ガバナンス、教育改革、公的政策過程のバイパス化、ロビー活動/貨幣、近代資本主義、科学システム、法システム、空洞化/相対化/形骸化、<情報化時代の民主主義>討議民主主義論/闘技民主主義論、ミニ・パブリックス/社会運動、情報化、遠隔デモクラシー、共律型自己組織化、ソーシャル・イノベーション
<プロローグ>
・民主主義は最善の統治形態とされるが、20世紀後半になると様々な批判を受けるようになった。日本でも1980年代になると投票率は低下し、政治に対する信頼・関心は薄れた。この原因を「政府の失敗」と考えられないだろうか。
・1990年代になると、これに政党政治が揺らいでくる。東西冷戦時代は、「保守と革新」「右派と左派」などの対立軸があったが、新自由主義が世界を席巻するようになり、与党/野党の政策上の違いがなくなる。
・この段階で登場したのがポピュリズム(大衆迎合主義)である。「ポピュリズムは近代化・産業化の途上で現れる」とされるが、先進国でも見られるようになる。これも政党政治の限界と云える。
・2015年安全保障関連法案を切っ掛けに、民主主義に関する議論が活発化する。「日本国憲法の下で集団的自衛権が認められるか」が争点だったが、そこから立憲主義や権力と法の在り方が問われた。
・またこの時国会の外で、平和憲法/民主主義を擁護するデモが行われた。福島第1原子力発電所事故により「脱原発」の社会運動も起こった。これらは世界的に興隆した「新しい社会運動」の1つである。
・このように民主主義は様々な問題を抱えている。直接民主主義を目指す議論もあれば、代表制に意義を見出す議論もある。これらの議論は近代民主主義の危機を表している。
・政治的要求の多様化/政府への信頼低下/政党政治の限界/ポピュリズムの台頭などの問題が、すぐさま民主主義を危機に陥らせる訳ではない。民主主義の状況を知るには、キリスト教社会だった中世の歴史から見る必要がある。
・近代社会は政治/経済/宗教が分化した社会である。政治システムでさえ代表原理/政党政治/立憲主義/人民主権などの様々な要素を含んでいる。「人民主権」は「国民主権」の基底となる概念である。この「人民」は、被支配者が支配者に代わっただけでなく、神からも自律した。「主権」は近代になって誕生した概念ではなく、中世社会で準備された。※人民主権とは、新しい概念が出てきた。難しそう。
・本書の目的は「主権」の起源を探るのではなく、統治権力が神から人間に移り、民主主義が分化した歴史プロセスを振り返り、現代社会が危機に陥った理由を明らかにする事である。
・人民主権は近代の国民国家で、国民主権として具現された。日本国憲法は国民主権になり、天皇は象徴になった。参政権も女性に認められた。※今後も人民主権/国民主権が併記されるのかな。一本にして欲しい。
・国民主権を個人の権利問題に還元できない。国民主権は人間が社会を統治する仕組みである。これは西欧の18世紀頃に形成されたもので、これを見るためには、中世に遡って「主権」を見る必要がある。※何で市民革命などの用語を使わないのか。
・国民主権は政治/経済/法/宗教などが分化する中で、政治システムの中に作られたものである。
・今日、国民主権に関わる様々な問題に直面している。選挙制度/議会政治の機能不全などの政治問題だけではない。近代民主主義の成立が経済/法/宗教と関連していたからこそ、近代民主主義の危機は、社会の変容と連動している。
※本書は抽象的で難しそうだ。
<第1章 近代民主主義とは>
○機能分化した政治システム
・まず近代民主主義の特徴を見ておこう。「デモクラシー」の語源は、「デーモス」(民衆)と「クラティア」(権力)である。民主主義は「権力の行使者と非行使者の一致」にある。
・この権力の循環に着目したのが、ニクラス・ルーマン(1927~98年)の「オートポイエティック・システム論」である。このシステムは、人などの構成要素がコミュニケーションする循環型・再生産型のシステムである。近代社会では様々なサブシステム(政治システム、経済システム、法システムなど)に分化されたが、それぞれがオートポイエティック・システムになっている。
・このシステムでコミュニケーションしているのが「コミュニケーション・メディア」である。政治システムの場合は権力であり、経済システムの場合は貨幣である。これらのメディアは「二項コード」に依拠している。権力は「与党/野党」、貨幣は「支払う/支払わない」である。
・政治システム(近代民主主義)の場合、国民が与党/野党のマニフェストに照らして政治家を選び、政治家が議会(立法)で法/政策を決定し、官僚(行政)がその政策を遂行する。これは権力を媒介とした循環型のシステムである。一方国民が行政に圧力を掛ける逆方向の循環も存在する。前者が「公式的側面」、後者が「非公式的側面」である。
・近代資本主義も同様に捉えられる。企業(生産者)と家計(消費者、労働者)の間を、貨幣が循環する経済システムである。家計と企業は、貨幣と商品を交換する。また逆方向に家計と企業は、労働力と貨幣を交換している。
・このように分化したが、政治システムが他の機能システムと無関係になった訳ではない。ルーマンは「他の機能システムとカップリングしている」とした。例えば政治システムは税を介して、経済システムとカップリングしている。ただしカップリングしても、各システムの自律性は失われない。※ケインズ理論は説明できるのかな。
・政治システムは法システムとも関連が深い。政治システムと法システムは憲法を介してカップリングしている。法システムは法的コミュニケーションを構成要素にしたシステムで、「合法/非合法」の「二項コード」に依拠している。※コミュニケーションが構成要素?
・近代法は、制定・改変される実定法である。憲法もその一つである。法は政治的意志により制定・改変される。しかしそれは法の頂点にある憲法に整合する必要がある。従って憲法が政治システムと法システムの結節点になっている。※憲法がない国もあるが。
○人民主権、立憲主義、代表原理
・近代民主主義は、人民主権/立憲主義/代表原理の要素からなる。まず「人民主権」から説明する。民主主義の主権者は人民です(人民主権)。これは2つの事を含意している。1つは「主権」とは絶対的な権力である事、もう1つは、主権を握っているのが神/国王ではなく、人民(人間)である事です。
・主権は「至上の権威・権力」です。通常の権力は法に拘束されますが、主権はその法を制定・改変できます。
・主権を最初に提起したのは、16世紀のジャン・ボダン(1530~96年)です(※そんなに古いんだ)。彼が正当化したのは国民国家ではなく、国王に主権がある絶対主義国家です。ただし国王の主権は「王権神授説」に依るため、主権は神の絶対性・恒久性に由来します。人民主権に変わるためには神・国王に与えられた主権が、人民(国民)に移る必要がありました。
・これを踏まえると、「民主政」と「独裁政」は極めて近い事が分かります。支配者が多数/一者の違いはありますが、どちらも人間が支配しているからです。過去を振り返ると、民主政が独裁政に転化したり、独裁政が民主政に転化したが、それは共に人間の自律性を前提にした統治形態だからです。※共に人間が主権者か。
・次に「立憲主義」を説明する。近代民主主義では「民主主義(※人民主権?)と立憲主義は近似する概念」と理解されるが、立憲主義は権力の濫用を防ぐのが目的なので、人民が絶対的な権力を有する人民主権と対立する。つまり主権者は法に優越するが(人民主権)、法に従属している(立憲主義)。※主権者は法を制定・改変できるが、制定された方に拘束されるだな。
・この問題を解決しているのが、政治システム/法システムのカップリングである。近代の法は実定法であるが、改変手続きが定められている。憲法も手続き法が組み込まれている。すなわち政治システムは法を生成する「権力の論理」を貫徹し、法システムは権力行使を規制する「法の論理」を貫徹している。従って両システムは自己決定性を維持し、人民主権と立憲主義が両立している。※難解。政治システムは人民主権を満たし、法システムは立憲主義を満たしているかな。
・3つ目の要素が「代表原理」である。代表原理においても、代表する者と代表される者の区別が生じ、人民主権と代表原理の間にも一定の緊張が存在する。近代社会は社会的には個人主義、思想的には自由主義である。そのため統治する者は個別化された非同質的な存在になる(※統治する者とは代表する者では?個別化?)。この非同質性により、代表する者と代表される者で分裂が生じる。これにより人民主権の理念である「統治する者と統治される者の同一性」が損なわれる。※これは重大な欠陥だな。
・そのため代表原理の賛否を巡って、様々な議論がなされてきた。人民主権を唱えたジャン=ジャック・ルソー(1712~78年)は、「英国人は選挙期間は自由だが、それが終わると奴隷になる」と言った。
・そのため米国は建国の際、共和政的な性格が取り入れられた。ジェームズ・マディソン(1751~1836年)は、選挙で選ばれた政治家が、代表される者の意志以上の役割を果たすのを期待した。※どんな役割だろう。具体例が書かれていない。
・いずれにしても代表原理は、政党政治/議院内閣制/大統領制/多数原理などを内包して確立された。
・近代民主主義は、人民主権/立憲主義/代表原理の3要素の複合体となった。※憲法の三原則(基本的人権、国民主権、平和主義)は習ったが、民主主義の人民主権/立憲主義/代表原理は習ったかな。
○古代民主政と近代民主主義
・人民主権から見ると、古代ギリシアの民主政(※以下古代民主政)と近代民主主義には大きな違いがある。紀元前6~5世紀アテナイでは官僚機構が存在せず、500人の評議会が行政を運用していた。評議員の任期は1年だった。重大事項は市民の総会(民会)で決定されていた。これが可能だったのは、市民が1万人を越えなかったからである。
・2つの民主政の違いは、直接民主主義と間接民主主義の違いとされるが、もっと根本的な違いがある。1つは古代ギリシアでは、政治と宗教が分離していなかった。例えばアテナイの軍は神に祈りと供え物を捧げ(供犠)、預言者を帯同して出陣した。戦場に出ても、同様に供犠を行った。従って政治と宗教は分離しておらず、人間は真の意味で自律していなかった。
・アテナイでは評議会/民会で自分の意見を主張する必要があり、弁論術を教える知識人(ソフィスト)が現れる。プロタゴラスもその一人である。プロタゴラスの思想も、多種多様なギリシャ思想の1つである。そのソフィストの相対主義/主観主義/人間主義を批判したのがプラトン/アリストテレスである。プラトンの「イデアの普遍的な実在性の主張」こそ、西欧思想の根底である。プラトンは民主政が僭主政により衰退した事を認識し、民主政を批判した。※これが政治と宗教が分離していない説明?
・2つ目の相違は、近代民主主義は個人主義が前提だが、アテナイの直接民主政は市民共同体/軍事共同体を基礎にしている。評議員の選出はくじで行われ、彼らが同質だった事が分かる。彼らの自由は、「投票できる」「行政官を指名できる」「最高官職に就ける」であり、近代の「個人の自由」はなかった。※「個人の自由はなかった」で終わり。これも説明不足かな。
・一方近代は、人間は神から自律し、さらに他者からも自律した。よって近代の民主主義は同質性を前提にしていない。
・これらから古代民主政と近代民主主義は、どちらも人間が統治者のように見えるが、古代民主政では、権力の根拠は個人の自由意志ではなかった。
○民主主義の「ありそうもなさ」
・「近代民主主義は古代ギリシアに端を発する」は再検討されなければならない。近代民主主義は、人類史上、容易に成立しない統治形態である。また歴史普遍的な事実でもない。※民主主義の内容は国よっても、時代によっても異なるし、絶えず変化している。
・「権力は、他者を自分の意志に従わせる強制力」と考えられてきた。権力を強制力として作用させるには、正当化されなければならない。しかしそもそも権力は強制力として現れない。※面白い問いだ。
・ベネディクト・アンダーソンはジャワと西欧の権力を比較した。彼は「ジャワの権力には強制力が見られない」とした。ジャワでは権力は自然/社会に及ぶ生成・再生の力である。支配者の権力を正当化する必要はないが、様々な出来事で理解される。例えば、自然界の混乱/反社会的な混乱/支配者の生殖能力の衰えなどは、権力の衰退と理解される。※こんな話は世界中にある。日本の神官による雨乞い、火山噴火を抑えようとした支配者、生贄になった支配者(ナスカの地上絵)など。
・権力を「宇宙の生成・再生の力」と捉えるのは、拡大解釈に映るかもしれないが、そうではない。強制的な権力は「自然と社会」「自己と他者」が切り離された世界観を前提にしている。自然と社会を切り離すと、自己の意識と他者の意志が分裂する。この時、権力者の意志を貫徹する強制力と、その実効性を正当化する論理が必要になる。※嫌な展開になってきた。前提も結果も理解できず。
・ボダンが主権を唱えた頃は、「自然と社会」「自己と他者」を切り離して捉える世界観が発展途上だった。その後に登場したトマス・ホッブズ(1588~1679年)も、絶対主義国家を正当化する理論を導き出したが、それは近代の個人主義に立脚した社会契約説からだった。
・これと対照的に、近代以前は「自然と社会」「自己と他者」を分離させない世界観だった。古代中国では、天災異変は国家の乱れと結び付けられた。古代メソポタミアでは宇宙の構造は、都市国家の構造に対応していた(※太陽の都市、月の都市などかな)。中世西欧でも、人間の身体は「ミクロコスモス」、自然/国家は「マクロコスモス」とされた。
・これらの世界観は、聖俗二元論で共通している。世界は「聖なる空間と俗なる空間」「聖なる時間と俗なる時間」に分割され、「聖なる力が俗なる秩序を生成する」とされた。
・古代ギリシアの民主政が近代民主主義の起源でないのは、「政治と宗教の分離」「人間の神からの自律」が欠落しているからである。従って「人間が自らの意志で社会を統治する」「権力が強制力を伴う」「人民が絶対的な権力を持つ」、これらは自明な事ではなく、「ありそうもない事」である。※今は長い歴史の一瞬ですから。
○社会の自己組織化としての近代民主主義
・近代民主主義の特徴は「人間が自らの意志で社会を統治する」であるが、これは近代社会が「自己組織性」である証である。「自己組織性」「オートポイエーシス(自己創出性)」は共に「自己生成」を表しているが、出自も意味も異なる。ルーマンの「オートポイエティック・システム論」は、生物学の「オートポイエーシス論」を社会学に組み替えたものである。
・一方の「自己組織化論」は、物理学/化学の分野でマクロ的な秩序の生成を説明する理論である。例えば、水の入った容器を熱すると対流が起こる。加熱前は安定した状態に見えるが、実際は各分子がバラバラに動き、相殺されている。ところが熱を加える事で秩序的な動きをするようになる。
・こうした「秩序の自生的な生成」を社会科学に取り入れたのが「オートポイエーシス論」である。ただし「オートポイエーシス論」は構成要素に照準を当てているが、「自己組織化論」はマクロ的秩序に照準を当てている。ただしオートポイエティックな政治システムは、自らの秩序を改変できるため、自己組織的なシステムである。近代民主主義は、自己組織的な社会が成立する過程である。※近代民主主義は、まだ過程なんだ。ところで社会の自己組織性は、「自ら秩序を改変できる」が要件かな。
・もっとも社会の自己組織化を論じる場合、「観察者視点」「当事者視点」が重要になる。物理的秩序の場合は観察者視点に立ち、分析すれば良い。ところが社会的秩序の場合は、各社会がそれぞれ固有の世界観を擁している。社会的秩序は社会的コミュニケーションによって作られるが、社会的コミュニケーションはその社会での世界観に左右される。※政治システムの場合、コミュニケーション・メディアは権力だったな。
・19世紀社会科学の方法論において、「説明と理解」が論争になった。社会の自己組織化を解明するには、構成員の認識・行為を観察者視点から因果的に「説明」するだけでなく、当事者視点に立って、その意味を「理解」する事が求められた。※両視点からの証明が必要か。
・近代民主主義は、この両視点から自己組織的な社会である。構成員が自らの意志で社会を統治しているだけでなく、構成員はそれを自覚している。これにより近代民主主義は、人間による社会の統治とされるのである。
・一方政治と宗教が未分離で権力が聖なる性質を帯びている社会では、権力は構成員からは自らの意志を超えた力であり、自己組織性は自覚されていない。ところが観察者(※誰?現代人?)からは、その超越性は構成員の営みから生まれたものと認識される。
・社会は自己組織性が自覚されない社会が先行していたが、そうした中から近代民主主義が出現した。観察者から見れば人間の社会は常に自己組織的な社会だったが、近代民主主義の社会に至って初めて、当事者に自己組織性が自覚されるようになった。
・それゆえ近代民主主義の歴史的形成は、2つの問いから検討される。1つ目の問いは、「当事者には自己組織化が自覚されていないが、自己組織化した社会はどのように成立したか」「聖なる超越的な権力は、どの様な営みで生み出されたか」である。※どの時代まで遡るのか。
・2つ目の問いは、「当事者からは自己組織的でなかった社会が、どうして自己組織的な社会に転換したのか」である。神に由来する超越的な権力を「下降的権力」、人民主権に内在する権力を「上昇的権力」とするなら、「下降的権力から上昇的権力への転換は、どのように遂行されたのか」である。※最初の問いは古代で、後の問いは中世・近代かな。
・「近代民主主義は、市民革命により実現された」と考えられてきたが、それは過程の一コマに過ぎない。近代民主主義の3つの柱は、中世西欧に胚胎した。そして今日の近代民主主義の危機は、これらを逆行させようとしている。だからこそ近代民主主義の形成過程を理解しておく必要がある。
※まだ十分の一位で、恐ろしい本だ。ただキーポイントは、人民主権/立憲主義/代表原理/自己組織性で単純かも。
<第2章 近代民主主義への道>
○供犠と権力-自己否定的な自己組織化様式
・最初の問いは「当事者には自己組織化が自覚されていないが、自己組織化した社会はどのように成立したか」「聖なる超越的な権力は、どの様な営みで生み出されたか」である。聖なる力は痕跡が消される事で、超越性を獲得する(※存在の隠蔽かな)。聖俗二元論を採用している社会では、この意味的メカニズムを内包しいる。※やはり嫌な方向に進んだか。
・俗世界で聖なる存在を現出させる方法は3つある。何れも否定論理である。本書が主題化するのは第3の方法である。
・第1の方法は「聖なる存在を、隠されたものとして表現する」方法である。表現にはポジティブな「表現」とネガティブな「隠蔽」がある。「表現すべき内容に反する内容を表現しない」は、「表現すべき内容を表現する」に等しい。「A以外のものを隠蔽する」は、「Aを表現する」に等しい。聖なるものは俗なるものの背後に隠されて表現される。
・例えばニューギニアのバルヤ族は、具象的な聖物「クワイマトニエ」を持つ。その形からは用途や機能は不明で、また内部に何が入っているかも知られていない。具象的な物の背後に隠された何かが、聖なるものとして表現される。※これは一般的な方法だ。
・第2の方法は概念レベルではなく、論理レベルで否定の性質を用いる。選択肢が2つしかない場合、例えばAとBしか選択肢がない場合、「Aを表現する事」は「Bを隠蔽する事」と等しい。ところが選択肢が無数にある場合は、Bを隠蔽しても、A/C/D/E・・、いずれか分からない。要するに「隠蔽」は、「表現」に比べ想定力が弱い。第2の方法は、逆にこれを利用する。
・キリスト教には肯定神学と否定神学がある。キリスト教の神は無限の存在である。肯定神学は、「神は無限の存在である」と語る。しかしそれを語った途端、神は有限となる。そこで否定神学は「神は・・でない」と否定を利用する。これにより神が無限である事を浮かび上がらせる。※以前哲学の本で、類似の論理があった。「ネコでない」とすれば、それは様々な物が考えられる。
・第3の方法は「死と再生」と云う否定的・実践的な性格を持つ。生の否定が死であり、死の否定が聖なるものの再生である。これに依拠しているのが「供犠」である。
・『供犠』(1899年)には、「供犠は、供物を破壊し聖なる性質を解放し、儀礼の主体(祭主、祭司、構成員)の性質を変化させる儀礼である」「供犠により伝達が可能になり、俗なる世界から聖なる世界への伝達は『聖化』であり、聖なる世界から俗なる世界への伝達は『脱聖化』である」「供物は破壊されなければならない。供物はフェニックスとなり、聖なるものとして再生される」とある。※これはキリスト教の特徴だな。日本の神には、感謝の意でそのまま供え、破壊しない。
・祭主/祭司は供物に接触する事で、彼らの性質が犠牲獣に転移する(聖化)。祭司後に供物を食する事で、聖なる性質が彼らに転移する(脱聖化)。さらに構成員が食する事で、共同体の性質が変化する。
・供物が聖なる性質を帯びるのは、「死と再生」の二重の否定が加わったからである。
※エジプトのピラミッドは「再生」が目的らしいが、これはキリスト教の「死と再生」と同じかな。宗教に関心がないので、様々な宗教を比較できなくて残念だ。
・供犠が世界各地で見られる。世界各地の王権を研究したジェームズ・フレイザーは、世界各地の王の起源が呪術師で、その後も供犠を執行する祭司的役割だった事を明らかにした。
・このように供犠は、社会の統治に必要な権力を人為的に創出し、社会の構成員にはその人為性を覆い隠している。客観的には自己組織的であるが、主観的にはその事実が否定されている。従って供犠による秩序は「自己否定的な自己組織化様式」であり、この様な社会は人間社会の本源的な形態である。※自己否定的とは「当事者が自己組織性を自覚していない」かな。
・供犠の重要性は権力だけでなく、貨幣の原初的形態でもある。古代ギリシアが貴族政の時、「聖なる牛」が供物となったが、これは食糧/金属/花瓶/女/戦利品/奴隷/家畜などの計算貨幣となった。権力と貨幣は同一の歴史的な起源を持ち。神と人間を媒介する事で、人間と人間を媒介するメディアとなった。※権力と貨幣の起源が供犠は興味深い。どの時代も、価値がある物をもらえる所に集まる、価値がある物を与える人に従うかな。現代の会社も同じ。
・古代ギリシャは紀元前8~5世紀、植民地活動により商工業が発展した。これにより貴族政から僭主政、さらに民主政に変わった。これは西欧の近代化に類似している(※経済が発展すると、政治も変わるだな)。それでも供犠の習慣は残り、全ての市民が祭司の役割を担い、人間は神から自律できなかった。
・キリスト教も供犠の痕跡を残している。「死と再生」の対象はイエスである。彼は人類の罪を背負い供物になったが、3日後に再生し復活する。キリスト教も神と人を媒介する事で、人と人を媒介する。聖餐式でホスティア(パン)を口にする事で、キリスト教徒はイエスと一体化する。
・ただしキリスト教は供犠を継承したが、原始的な宗教に留まらなかった。キリスト教はユダヤ教の閉鎖性を打破し、普遍主義の宗教に変わっただけでなく、「自己否定的な自己組織化様式」を否定する近代民主主義を準備した。
○中世西欧における王権観念の変遷
・エルンスト・カントロヴィッチ(1895~1963年)は王権表象の歴史的研究を行い、『王の2つの身体』を著した。彼は絶対主義時代の王が、生身に備わる可視的な「自然的身体」と、政治組織を象徴する不可視の「政治的身体」を帯びている事に着目した(※政治的身体は意味不明)。そして王権表象を「キリストを中心とする王権」「法を中心とする王権」「政体を中心とする王権」「人間を中心とする王権」の4段階分けた。
・彼は12世紀以前の王は、司教と同様に「キリストの似姿」「キリストの模倣者」「神の可視的な代理者」として認識され、王権は神に由来する権力だった(キリストを中心とする王権)。神の権力は自然により、王の権力は恩寵によるが、両者の権力は同等だった。※十字軍頃までだな。
・12世紀頃から、「王=司祭」と云う王権観念からの離脱が始まり、神政論的・法学的な王権観念に変わる(法を中心とする王権)。この段階でも王権の超越性は認められ、法学的枠組みの中で解釈された。王の戴冠は「塗油の儀式」に従ったが、王権は聖油に由来するのではなく、法に由来するようになった。※神学の発達の影響かな。
・王は正義や法に対し二重性を帯びた。王は神法(?)や自然法に対しては「法の下僕」だが、人定法に対しては「法の主人」だった。
・14世紀になると団体論的な国家観念が付け加わる(政体を中心とする王権)。王は国家と云う団体の長として認識され、王は「王国の頭」になり、人民は「王国の身体」となった。
・さらに14世紀後半になると、自律的な人間社会に立脚した王権概念が出現する(人間を中心とする王権)。最終的に人間社会の自律が唱えられるようになった。
・こうした王権概念は、詩人で政治哲学者だったダンテ・アリギエーリ(1265~1321年)の思想にも見られる。彼は『帝政論』で、「教皇は神的基準(神性)に従い、皇帝は人間的基準(人間性)に従っている」とし、キリスト教たる領域から独立した人間性の領域がある事を主張した。理性と霊魂を切り離し、理性の力で全世界的な人間社会を統合しようとした。※彼はルネサンスの先駆者だな。
・中世西欧は「王=司祭」の王権概念からスタートするが、最終的には人間を中心に据える王権概念となる。王は王権神授説により神に従属するが、国家の長として君臨した。王は自然的身体と政治的身体を持った(王の二重性)。※自然的身体/政治的身体が全く説明されていないので、理解できず。
・ところでカントロヴィッチの王権表象は社会構造の変化に触れていない。彼は3番目の「政体を中心とする王権」の中で「無限の交錯・交換」に触れているが、この論点こそ、中世西欧社会の変化で重要である。特に聖界と俗界の関係は重要である。
・この「交換」は、まずは個人レベルで行われ、教皇権が皇帝権を呈したり、王権が聖職性を帯びたりした。その後は教会/国家の集合レベルで行われた。その一例が「神秘体」の変容である。
・元来「神秘体」は「イエスの体」であるホスティアを意味した。これが12世紀、「キリストを頭とする神秘的な団体」として教会を指すようになり、さらに「王を頭とする神秘的な団体」として国家を指すようになる。
・近代民主主義は「政治と宗教の分離」「聖界と俗界の分離」が前提だが、彼は「聖界と俗界は分離したが、一方で聖界と俗界は相互浸透した」とした。※2つの権力は並び難い。日本では天皇と幕府は分離したが、西欧では教会と王は融合かな。
○封建制とキリスト教
・中世西欧は封建社会だった。家臣は主君に軍役を奉仕する代わりに、土地を保障された(※鎌倉幕府と一緒)。この主従関係は一対一の個人的な関係で、一方が死亡すれば契約は解消された。これは皇帝/諸侯/騎士/領主に至る個別的な契約の累積で、人的結合の連鎖だった。この封建契約は、権力の源泉が神政君主的な政府観から、主権在民的な政府観に移行する上で重要な基盤となった。
・確かに個人間の契約は近代社会を準備するものであったが、肝心なものが欠落していた。「公私の二元的構造」である。封建契約は人格的結合(※ここは人格的結合。人的結合との違いは?)であり、公私は未分化だった(※まだ国家が弱体だったのかな)。封建時代は前期/後期に分かれるが、特に前期は、空間的な領域性や時間的な永続性を備えた公権力は存在しなかった。近代国家では犯罪者の処罰は国家のみに許されるが、中世前期(※ここは中世前期。封建時代前期との違いは?)はフェーデ(私闘)/自力救済(?)が認められた。
・中世社会が近代社会に移行するには、「公私の二元的構造」が確立される必要があった。そこで重要な役割を果たしたのがキリスト教だった。”カトリック”は”普遍”を意味し、普遍的なキリスト教と個別主義の封建制が中世西欧社会の両輪となった。
・近代以前の社会は「聖俗二元論」に立脚しており、聖権/俗権、教会/国家が並び立つ「聖俗二元体制」だった。中世前期は「聖俗二元体制」の中で「無限の交換」が行われる。
※本書は抽象的な言葉を多用し、その説明が不足しているのが特徴だな。嫌な本の分類だ。
○中世前期-聖俗二元体制の形成
・4世紀後半からのゲルマン民族の大移動によりローマ帝国は東西に分裂し、5世紀西ローマ帝国は滅亡する。多くのゲルマン国家は滅亡するが、メロヴィング家のクローヴィス(466~511年)が興したフランク王国は9世紀まで存続し、西欧の形成に多大な影響を及ぼす。彼はキリスト教の正統アタナシウス派に改宗し、ローマ・カトリックと連携する。しかしフランク王国(メロヴィング家)は分割相続のため、分裂を繰り返す。
・8世紀カロリング家のカール(742~814年)がフランク王国を再統一する。800年彼は戴冠し、西ローマ帝国が復活する。西ローマ帝国は形だけであったが、ローマ教会には復活させる理由があった。
・ローマ教会は十二使徒の筆頭ペテロが創建したため首位性があったが、コンスタンティノープル教会と対立していた。ビザンツ皇帝レオン3世(675~741年)が聖像禁止令を発令し、偶像崇拝論で、この対決は決定的になる。ローマ教会はビザンツ帝国/コンスタンティノープル教会に対抗するための後ろ盾を必要としていた。一方のフランク王国もローマ教会の権威を必要としており、両者の利害が一致した。カール大帝の死後、フランク王国は分裂し、今の仏国(西フランク王国)/独国(東フランク王国)/イタリアの基となる。
・東フランク王国(カロリング家)が断絶した後、962年ザクセン家のオットー1世(912~973年)が戴冠され、神聖ローマ帝国が誕生する。
・このように西欧では、ローマ教皇に象徴される聖権と皇帝/国王に象徴される俗権が並び立つ聖俗二元体制となる。ただし聖界と俗界が明確には分離しておらず、ビザンツ皇帝/カール大帝/オットー1世も神政政治的だった。
・彼らは塗油の儀式で権威を付与されるだけでなく、司教を任命し司教を統括した。彼らは聖職者の叙任・罷免を行い、司教・修道士を支配下に置いた。民衆は「王は病気を癒し、奇跡を起こす」と信じており、王は各地を巡幸し、その神聖さを顕示した。「キリストを中心とする王権」の段階は、この様な状況であった。
○中世後期(1)-教会の国家化と国家の教会化
・10世紀頃から、世俗にまみれた聖界の改革が始まる。クリュニー修道院での修道士の規律刷新運動から始まり、教皇庁の内部改革に発展する。それはクリュニー修道院出身の枢機卿ヒルデブラント(1020~85年)が、教皇グレゴリウス7世に即位して始まる。彼は聖職売買/妻帯を禁止した(グレゴリウス改革)。※グレゴリウス暦はグレゴリウス13世が16世紀に定めた。
・これを機に、教皇と皇帝・国王の間で聖職叙任権闘争が起こる。1077年「カノッサの屈辱」はこの過程で起こった。1122年神聖ローマ皇帝と教皇の間で「ヴォルムス協約」が交わされ、聖職叙任権闘争は一応決着する(※大変重要な協約だ)。聖職者の叙任権は教皇の役割、教会の土地所有の授与は皇帝の役割となる。これにより聖界/俗界は分離され、聖俗二元体制が確立する。
・ただし王は「王=司祭」「キリストの似姿」「神の可視的な代理者」などを失う。そのため王権の正当性を維持するため「法を中心とする王権」に進む事になる。
・当時は、教皇の権威と王の権力が並存する「両剣論」で、「神の聖なる普遍教会」(=キリストの体)の中に、司祭職と王職が並存する考え方だった。ところがグレゴリウス改革以降は、「キリスト教世界とキリスト教教会は、教皇が支配する」(教皇の首位性)が唱えられるようになる。この「教皇の首位性」は法を根拠に主張された。それはグレゴリウス7世の『教皇訓令書』で、教皇には法制定権も認められた。
・中世西欧の「普通法」(ユス・コムーネ、※同じく普通法と訳されるコモン・ローとは別)は、「ローマ法」「教会法」(カノン法)に由来する。教会は普遍的世界を目指しており、ローマ帝国の法であるローマ法を土台とした。※法律の知識も必要そう。この辺り初めて聞く内容だ。
・ローマ法は、紀元前5世紀の『十二表法』から始まる。その後共和政から帝政に移り、紀元6世紀古代ローマ帝国の最後の皇帝ユスティニアヌス(483~565年、※東ローマ皇帝ではなく、古代ローマ皇帝?)により『ユスティニアヌス法典』(ローマ法大全)が編纂される。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)ではこれが法制度/法実務の基礎となる。※『十二表法』も『ユスティニアヌス法典』もよく知らない。
・一方西欧のローマ法は、ゲルマン化した「ローマ卑俗法」(?)だった。そのため複雑化し、婚姻/法的身分などの問題は「教会法」が適用され、教会裁判所が裁き、土地所有などの問題は「封建法」(?)が適用され、封建領主の法廷が裁いた。ローマ法が適用されるのは15世紀になってからである。
・11~13世紀、聖職者を中心とする「註釈学派」がローマ法に註釈を加えるようになる。彼らは『ユスティニアヌス法典』を聖書と同等とした。さらに13~16世紀、「註解学派」が『ユスティニアヌス法典』の法原理を推論したり、ローマ法と他の法との関連を説明したりした。註釈学派/註解学派により、ローマ法は概念枠組みや、普遍的な法文解釈原理を提供するようになった。※これらの学派はスコラ学に含まれるのかな。
・ここで重要なのは、ローマ法の影響は先に教会法に及び、その後他の法に及んだ事である。聖職叙任権闘争以前は、『ユスティニアヌス法典』のような権威ある法典を欠いており、聖書の言説/公会議決議/教父の見解/教皇の決定(教令)/ローマ法の断片の寄せ集めだった。12世紀半ば、修道士ヨハネス・グラティアヌス(1100~50年頃)が『矛盾するカノンの調和』(グラティアヌス教令集)を出版した事で教会法に劇的な変化が生じる。
・「教令集学派」は『グラティアヌス教令集』に内在する法文相互の矛盾を解決する註釈を加えるようになる。これにより教会法は「ゲルマン的教会法」から「古典的カノン法」に移行する。また教皇が発する教皇令は公会議決議と同等になり、教皇令が教会法となる道が開かれる。
・さらに13世紀前半、『グレゴリウス9世教皇令集』が公布され、これを機に「教皇令集学派」が様々な教皇令集の註釈/集成を進める。教令集学派/教皇令集学派により教皇権力は強化されるが、これは聖界の世俗化を意味した。
・13世紀、教皇権は絶頂期を迎える。聖職叙任権闘争以前は、教皇は「ペテロの代理人」に過ぎなかったが、皇帝儀礼を模倣した儀礼を行うようになり、自らを「神の代理人」と称するようになる。教皇令集学派は「教皇至上権」を確立するが、これは近代の主権概念や代表原理の源になる。
・将基面貴巳(※変わった名前)によれば、「教皇至上権」は教皇レオ5世(390~461年)の書簡に「横溢する権力」として登場する。その後教皇グレゴリウス4世(795~844年)が教皇と司教の関係を「横溢する権力」「責任の一部分」とした。12世紀グラティアヌスが、「横溢する権力」を「裁治権」とした。さらに教皇令集学派のホスティエンシス(1200~71年)が、「横溢する権力」を、あらゆる人定法/自然法/神法を超越する権力とした。これは後の主権と類似している。
・ホスティエンシスは教皇権力を「絶対的な権力」「通常の権力」に区別した。「通常の権力」は教会法に基づいて行使される人間的権力で、「絶対的な権力」は非常事態で行使される神的権力とした。
・これに対し、教皇が誤った決定を下す可能性が意識されていた。この問題に対し、「教皇は誤りを犯さない」とする「教皇不可謬性」の立場と、「疑義は原則できないが、例外がある」とする「教皇主権」の立場があった。多くは後者で、団体理論・代表理論からの「公会議主義」があった。これには「教皇は、普遍的教会や公会議に従属する」「教皇至上主権は、教皇の助言団体・選出母体の枢機卿団に帰属する」などの考え方があった。
・この時期、教会の組織改革も進む。第一に「枢機卿団」が形成され、教皇庁の事務機構が整備される。枢機卿は教皇の典礼の補佐/教皇の選出/国王の破門/司教の選出を行った(※教皇の選出は煙で有名だな)。さらに訴訟が増えると、枢機卿は司法の職務も行う。そのため彼らは教会法/ローマ法に精通していた。
・さらに行政・財務の面でも組織改革が進む。文書行政の中枢である尚書院が独立部局となる。13世紀インノケンティウス3世の在位期、発令書簡が増大するが、これは教会権力が西欧に浸透した事を示唆している。また財政の安定化のため、上納金帳が作成される。
・第二に大司教/司教/司祭の階層構造の司教管区体制/教区制度が整備される。司教座聖堂には「司教座聖堂会参事会」と云う司教を補佐する団体が組織される。
・こうして教会は法的・思想的には教皇至上権を確立し、社会的・組織的には階層的な教会組織を構築した。キリスト教は「神と人」の媒介を通じて「人と人」を結合する供犠を継承しただけでなく、普遍化した。教会は水平的に広域化し、その際、ローマ法に依拠する古典的な「カノン法」を編纂する(※カノン法は教会が定めた法みたいだが、カノン法の説明が一切ない)。12世紀初頭(※ヴォルムス協約かな)聖界/俗界は分離するが、その後聖界の世俗化が進む。
・以上の聖界で起こった変化は、俗界に反映される。聖界の俗界化(教会の国家化)に続いて、俗界の聖界化(国家の教会化)も起こる。
・11世紀以前、西欧の農村の形態は散村であった。ところが領主が城塞を築き、農民が城塞周辺に住む事で、農村の形態は集村に変わる。領主は領地を経済的に支配するだけでなく、裁判権・行政権を有するようになる(バン領主制)。外部から、これらの権限を犯す事ができなくなり(インムニテート、不輸不入権)、国王でさえ「インムニテート」により、直轄地以外を支配できなくなった。ここから王権が法・正義の理念を掲げ、公権力を獲得していく。
・フランク王国の解体/周辺民族の侵入により社会が混乱する中、クリュニー修道院が「神の平和運動」で秩序回復を試みる。宗教的権威を失った国王は、この課題を裁判権で引き継ぐ。領主裁判権は侵害できなかったが、重大事件を国王裁判所に控訴させる事で、領主支配に介入する。さらに民事事件でも国王裁判所への直訴を可能にし、領主支配に介入する。
・13世紀になると領主と農民の双務契約が成文化される。これに国王はローマ法/教会法を利用し、王権の強化を図る。※具体的な事例が欲しい。
・王権が「法の遵守」「正義の実現」を掲げた事は、法と裁判の意義を高めただけでなく、王権の組織を再編させた。それまで王権は官僚機構/軍隊を有しておらず、政治案件は宮廷会議で決定されていた。財産も私有財産化されており、公権力を興すには官僚機構が必要であった。そのモデルになったのが教会組織だった。
・国王裁判所以外で、まず設置されたのが財務局と尚書部である。国王の主な収入は土地(※年貢?土地税?)/通行税/市場使用税/罰金などであった。当時課税は例外的だったので、裁判からの利得は大きかった。※自由に課税していたと思っていたが、違うのか。
・中世国家では国王裁判所/財務局が二大支柱であった。尚書部がこれらを統合・調整し、裁判官/収益徴収官に命令を下す重要な責務を負った。尚書部の長は法に精通するだけでなく、教皇/諸外国とも交渉する必要があり、高位の聖職者が就いた(※官僚制/宰相の始まりかな)。国王裁判所/財務局/尚書部の職員も多くが聖職者だった。
・13世紀末、これらの国家組織は国王の私的機関から離れ、高位の聖職者/給地官僚から現金給与官僚に代わる。軍事面でも家臣から傭兵に代わる。※背景に、農業生産の向上/貨幣経済の発達があるかな。
・教会の影響は王権だけでなく、都市にも影響を与えた。近年の研究で司教座都市/商業大都市だけでなく、農業生産の増大と貨幣経済の発達で農村でも都市が発展した事が分かってきた。都市の発展は市場税/通行税の徴収に有利なため、領主にも好ましい現象だった。
・都市の「自治と自由」で欠かせないのが「コミューン運動」だが、この運動も「神の平和運動」(※まだ説明がない)が発展したもので、領域平和を目指す運動だった。
・マックス・ウェーバー(1864~1920年)は、固有の法/裁判所を備える中世都市を制約的・兄弟盟約的とし、それをキリスト教の影響とした。中世都市はギルド/ツンフトなどの団体を包含していたが。特にキリスト教と関係が深かったのは、共通の守護聖人に帰依する「兄弟団」だった。兄弟団は、死者の供養/魂の救済だけでなく、構成員の相互扶助/貧者への援助/礼拝堂・橋の建設なども行った(※道教/仏教/イスラム教/ヒンドゥー教など宗教は全て同様の機能を持つ)。兄弟団はローマ教会から独立した団体で、守護聖人は聖母マリア/聖霊/聖体/十二使徒などであった。
・兄弟団/ギルド/ツンフトなどの団体の形成は、「公私の分離」に貢献した。封建社会にキリスト教の普遍的な原理が浸透した事で、垂直的次元では王権が公権力へ、水平的次元では団体が発展した(※余りにも漠然とした説明)。ただし「公私の分離」には貨幣も貢献している。
・権力/貨幣は起源が共通である。原始権力/原始貨幣は「神と人」「人と人」を結び付けた。その後それぞれ政治メディア/経済メディアに分化した。
・貨幣は中世西欧の発展に大きく関わった。王権の宮廷組織は給与官僚からなる官僚機構に代わり、軍隊は傭兵になった。欧州各地に商工業都市が形成された。貨幣経済の発達は、人間関係を人格的結合から非人格的結合に変え、人的支配を領域的支配に変えた。※余りにも抽象的な説明。
○中世後期(2)-教会の国家化と国家の教会化
・12~13世紀聖俗が分離され、その上で聖界(教会)と俗界(国家)の相互浸透が起こった。これは14世紀以降も継続される。
・仏国王フィリップ2世(1165~1223年)は、領主裁判権の制限/有給官僚制・傭兵/都市への特権付与/王領地の拡大で勢力を拡大する。14世紀初頭フィリップ4世(1268~1314年)が聖職者に課税した事で、教皇ボニファティウス8世(1235~1303年)と激突する。国王は身分制議会を招集し、国王への支持を取り付ける。1303年国王は教皇を襲撃し、教皇は憤死する(アナーニ事件)。さらに仏人枢機卿が教皇に就くと、教皇庁をアヴィニョンに移転させる(教皇のバビロン捕囚、1309~77年)。
・一般的に両事件は、中世西欧の歴史的経過を象徴しているが、それだけでは語れない。アヴィニョン庁時代に教会の官僚機構は最高度に発達する。13世紀までは教皇領の統治を貴族/都市に任せていたが、この時代に教会が直接統治するようになる。
・「政体(団体)を中心とする王権」を説明する際、「キリストの神秘体」が法的/団体論的な内容を獲得する。「教会が『キリストの神秘体』であり、その代表である教皇が霊的権力/俗的権力の全ての権力を独占する」としたのがアナーニ事件で憤死した教皇ボニファティウス8世だった。
・この教皇絶対主義はローマ法学にも表れる。以前は「支配権」は物に対する私的支配である「所有権」だけを指していたが、人に対する公的支配である「裁治権」も含めるようになる。
・1377年教皇庁がローマに戻り、翌年イタリア系枢機卿団によりイタリア人教皇が選出されると、仏系枢機卿団が別に教皇を擁立し、教会はローマとアビニョンに分裂する(教会大分裂)。
・この例外的な状況で「公会議主義運動」が起こる。公会議は「キリストの権威は教皇でなく、全ての信者を包含する教会にある」「至上権は信者を代表する公会議にあり、教皇の権威・権力に優越する」とした。
・このように14~15世紀、聖界(教会)は衰退一途だった訳ではなく、世俗化した。その中で団体原理/代表原理が生まれ、これらは俗界(国家)にも浸透した。
・14世紀西欧国家は、封建国家から身分制国家に移行する。身分制国家は聖職者/貴族/都市民で構成される身分制議会を支配機構に組み込んだ国である。ただしこれらの身分は特権を有しており、一般的な身分とは異なる。※身分制国家、こんな用語があるんだ。
・身分制議会は、教会にとっては政治的影響力を維持する目的があった。王権にとっては、当時、通行税/市場税は自由に課税できたが、それ以外の課税は民衆の同意が必要であり、課税の同意を得る目的があった。
・西欧ではゲルマン法には全員一致の原則があり、ローマ法にも「全ての人々に関わる事は、全ての人々に承認される必要がある」とする全体合意原理があり、これらが身分制議会にも適用された。
・仏国では、1302年フィリップ4世が最初の身分制議会「三部会」を開いた。英国では、1215年「マグナ・カルタ」(大憲章)が発布される。しかし国王ジョン(1167~1216年)/ヘンリー3世(1207~72年)はこれを無視したため、13世紀末身分制議会が開かれる。14世紀になると西欧各国で身分制議会が開かれる。都市も団体だが、全国三部会は国家レベルで水平展開された団体である。
・封建国家から身分制国家に移行し、王権は2つの変容を遂げる。第一は、王権を支えていた私的な宮廷会議は、公的な身分制議会に代わる。これは国王と諸侯との私的・個人的奉仕から、公的・国民的奉仕に移行する過程と云える。これは私的権力から公的権力への転換である。
・第二は、以前の王権は神と云う超越的存在に基礎付けられていたが、身分制議会での団体構成員の同意が必要になった。これは人民の意志に立脚する可能性を開いた。これは下降的権力から上昇的権力への転換である。ただしこの転換の完遂は、19世紀国民国家の誕生による。
・聖界では公会議主義運動が起こり、俗界では身分制議会が形成される。これは団体原理/代表原理が導入された事による。この事から「政体(団体)を中心とする王権」は身分制国家の王権を指す。
・イタリアの都市国家シエナの市庁舎にフレスコ画が架けられている。そこには良き統治と平和を保障する統治者が描かれている。またフレスコ画には「人々は公共善を統治者とする。そして公共善は周りから目を離さないようにする。それゆえ税/貢納/領主権が与えられる」と書かれている。13世紀後半からイタリア北部/中部の都市で「兄弟団」が著しく発達する。兄弟団は身分・職業の区別なく参加でき、これは「公共善」と響き合っている。
○立憲主義、代表制、人民主権
・キリスト教は近代民主主義の形成に影響を及ぼしたが、その第一は、絶対的・普遍的権力の「教皇至上権」を創出した事である。これは人民主権とベクトルが正反対だが、共に絶対的・普遍的権力である。※方向だけでなく、一対多の違いも大きいと思うが。
・教皇令集学派は、「教皇至上権は例外的状況での絶対的・普遍的権力」としていたが、それを担保したのは超越的な神だった。しかし仏語の”souverain”には、「崇高」「主権」の意味があり、歴史的に繋がっている。
・ジャン・ボダンは近代主権論の嚆矢だが、カール・シュミットは「ボダンが近代国家論の始祖なのは、主権者がどの程度、法に拘束され、諸身分に対する義務を負うかを問うた点にある」とした。近代民主主義は立憲主義/代表制が要素だが、それぞれ「法を中心とする王権」「政体を中心とする王権」の段階で登場した。教皇至上権から人民主権への移行には、キリスト教/貨幣経済/都市の発達/アリストテレス哲学の流入/円環的から直線的な時間意識への移行など様々な要因があるが、立憲主義/代表制は、それぞれ法/身分制度と密接に関連している。※様々な要因の説明はない。
・12世紀聖俗が分離して以来、法は西欧の根幹となった。法は権力行使を根拠付け、同時に権力の濫用を抑止する機能を担った。13世紀英国の「マグナ・カルタ」は、国王の封建的特権を認めると同時に制限を図り、立憲主義の先駆けとなった。
・中世法は、「教皇至上権から人民主権への転換」(下降的権力から上昇的権力への転換)を推し進めた。中世法は「古き良き法」としての慣習法で、神と人民の正義感情/法意識が法源で(※意味不明)、「下降的権力から上昇的権力への転換」を助けた。※中世法の具体的な説明はない。単に中世の法みたいだな。
・「政体を中心とする王権」に移行する過程で重要な役割を果たしたのが「代表原理」である。身分制議会は王権の課税協賛機関であったが、法と同様に王権を拘束する両義的な性質を帯びていた。また各身分を代表した事により、王権を社会の底辺まで浸透させると同時に、各身分の総体的な意志を王権に反映させる媒介となった。
・このように中世西欧は「教皇至上権」に対抗する近代的主権を生み出し、この転換を促進した。この転換の末に表れるのが「人民主権」である。
・「人民主権論」を最初に提起したのは、カントロヴィッチと同時代のマルシリウス(1275~1342年)である(※人民主権も相当古いな)。彼はパドヴァ大学/パリ大学で医学・哲学を修め、パリ大学総長を務めている。フランチェスカ派の聖職者だったが、破門され、皇帝ルートヴィヒ4世の宮廷に逃れた。
・彼は主著『平和の擁護者』(1324年、※平和が付いている。どの時代も望む世界は一緒だったのか)で、アリストテレス哲学をトマス・アクィナス(1225~74年、※スコラ学の代表的な神学者で、『神学大全』を著している)と異なる方向で解釈する。キリスト教は「現世を、楽園から追放された堕落した人間」とした。アリストテレスは「国家は最高善を目的とする共同体」とした。トマスはキリスト教とアリストテレス哲学の調和を説いた。一方彼は「国家は宗教から独立した自己完結的な政治社会」とした。
・彼は「政治社会には一元的な権力と人定法が必要で、立法は人民による」「人民が選出した支配者官職が必要で、支配者は法に拘束される。人民の総体的な意志が反映される程、良い統治である」とした。※驚き。全く近代民主主義だ。
・また彼は教会についても言及している。「全ての聖職者は平等であり、教会ヒエラルヒーは偶然的・人為的な制度である」「教会は全ての信徒の団体であり、その権威は教皇ではなく公会議にある」とした。※プロテスタント的な考え方だな。
・「人民主権」を唱えたのはマルシリウスだけではなく、神学者・哲学者ニコラス・クザーヌス(1401~64年)も唱えている。彼は後世の思想家に多大な影響を与えただけでなく、教皇支持派と公会議主義者が対立したバーゼル公会議(1431年)で、公会議主義者として活躍する。
・彼は「信者の総体的な意志は、選挙で選ばれた長(教区牧師、司教、首都司教、管区長)に代表され、最終的には公会議で可視化される。そのため公会議が立法権力を行使しえる」「教皇は最高位にあるが、法に拘束され、人民の奉仕者である」とした。
・この原理が国家にも適用される。あらゆる支配・管理は、代表者の選出と自発的な権力委託に基づいており、任命された支配者のみが総体的な意志の担い手として、公的・共同的な人格になる。
○自己否定的な自己組織化様式の否定
・近代民主主義は立憲主義/代表原理/人民主権が柱だが、何れも中世西欧に起源がある。中世と近代の違いを遠近法で論じる見解がある。遠近法は手前のものを大きく、遠くのものを小さく描く表現様式として、13世紀末に誕生する。これは個人主義の象徴とされてきた。一方中世西欧には、遠くのものを大きく、手前のものを小さく描く逆遠近法が存在した。これを逆転させた事で近代遠近法が確立されたので、近代遠近法は古代ギリシャの遠近法とは異なるとした。
・同じ事が近代民主主義にも云える。古代ギリシャの民主政と近代民主主義の違いは、直接民主主義/間接民主主義や社会規模の違いに由来しない。古代ギリシャの民主政は、供犠と云う「自己否定的な自己組織化様式」を克服できなかった。キリスト教においても供犠は残存し、普遍化され、これにより教皇至上権と云う絶対的・普遍的な権力が生み出された。それを逆転する事で、人民主権に基づく近代民主主義の道が切り開かれた。
・人民主権は神からの自律が前提となる。これは聖俗分離だけで進んだのではなく、聖界(教会)と俗界(国家)の間で「無限の交錯・交換」、すなわち教会の国家化と国家の教会化が行われ、下から支えられる公権力が成長した事による。
・聖俗二元体制が法や団体の原理で再編される中、公観念は聖なるものの等価物として形成された。「キリストを中心とする王権」の段階では、国庫は国王の私有財産であった。ところが「法を中心とする王権」の段階になると、国庫を国王の私有財産とせず、国家の公的財産とする事で、聖なるものの特徴である普遍性・永遠性を獲得した。「公と私」「私と私」の分離が進み、公は私に対し超越的な位置付けとなった。
・公観念には、誰もが参加できるギリシャ的な「公共的」と、権力・権威の起源・源泉とするローマ的な「公共的」があるが、中世西欧では後者により公権力が成長した。
・聖俗の二元的構造が公私の二元的構造に代わるのは、ずっと後である。中世西欧に現れた人民主権論/立憲主義/代表原理は、その始まりに過ぎない。実際、公会議主義運動は自滅し、教皇至上権は復活する。王権は都市/身分制議会などの団体を抑圧し、中世西欧は下降的権力が支配する形で終わる。
・私達が認識している近代は、16世紀宗教革命によりカトリック的秩序が崩壊し、17世紀以降の市民革命により絶対王政が打倒され確立される。ただし忘れてはいけないのは、中世に立憲主義/代表原理/人民主権の要素は準備され、上昇的権力による下降的権力への抵抗は始まっていた。
※まだ4割。ここまでで十分1冊の本になる。
<第3章 近代民主主義の成立と構造>
○近代の中の中世
・中世と近代の境界は15~16世紀とされるが、これは便宜的なものである。ルネサンスの人々は中世を「暗黒の中世」と呼んだが、今では「12世紀ルネサンス」の言葉もある。これは近代民主主義にも云える。12世紀以降に近代民主主義の萌芽があり、「中世の中の近代」を見て取れるが、一方で16~18世紀は「近代の中の中世」と云える。この時期は絶対王政となるが、それが打倒されて直ぐに近代民主主義となった訳でもない。※本書では近世の言葉が使われていない。
・近代民主主義の誕生に、絶対王政の成立/崩壊は不可欠で、この時期に「政治と宗教」の分離、「公と私」「私と私」の分離がなされた。
○絶対主義国家の過渡的性格
・国民国家が誕生するのは19世紀で、16~18世紀は絶対主義国家であった。絶対主義国家には、16世紀後半の英国(エリザベス1世)、17世紀後半の仏国(ルイ14世)、16世紀後半のスペイン(フェリペ2世)、18世紀後半のプロイセン(フリードリヒ2世)、18世紀後半のロシア(エカテリーナ2世)などがある。※オーストリアがない。
・絶対主義国家は中世的な要素を含んでいた。第一は、国政と家政が分離しておらず、王朝国家だった。1648年「ウェストファリア条約」を機に国境を画定して、国際秩序を創出する動きが始まるが、その後も国家間の戦争は絶えなかった。
・また官僚機構は「家産官僚制」で公的機関とは云えず、官職は戦費のため売買された。例えば仏国革命は、国王裁判所である高等法院が三部会の招集を要求した事に始まるが、その構成員は司法官職を購入した「法服貴族」だった。※新しい用語が出たけど、説明が少ない。
・第二に、絶対主義国家は、封建国家→身分制国家→絶対主義国家→国民国家の過渡的形態である。当時は社会の団体編成に変化が生じていた。旧来の団体編成から外れる社会層が発生し、団体間の序列も動揺していた。また国王の権力が国家の隅々まで行き渡っていた訳ではない。国王から特権を認められた団体は「社団」と呼ばれるが、絶対主義国家は「社団」の重層的編成の上に成立していた。そのため歴史学では絶対主義国家は「社団国家」とされる。※また知らなかった新しい用語が出てきた。
・第三に、絶対主義国家は「王権神授説」に依拠していた。当時、カトリック教会の権威は失墜していたのに、王権は依然として宗教的権威で正当化していた。
・英国のジェームズ1世(1566~1625年)、仏国のルイ14世(1638~1715年)などが「王権神授説」の代表的な信奉者である。仏国では「聖成式」「入市式」「テ・デウム」(※聖歌みたい)などの公開儀礼で国王は権威を誇示した。
・このように絶対主義国家は、前近代的要素と近代的要素を併せ持っていた。
○市民革命と脱宗教化
・絶対主義の絶頂期に隔たりがあるが、市民革命が起こった時期にも隔たりがある。一般に近代民主主義の形成は市民革命と結ぶ付けられるが、仏国の場合、市民革命から約1世紀を経て代議制民主主義が制度化される。また議院内閣制/大統領制もそれぞれ英国革命/米国革命が起源だが、これらも近代民主主義の誕生とは直結していない(※こちらは形成ではなく誕生)。市民革命には人民の政治参加が欠けている。英国で議員選出権を有していたのは貴族/僧侶/裕福な商人で、貴族の寡頭政治だった。また米国の合衆国憲法は、民主政ではなく共和政を理想としていた。
・英米仏で普通選挙制度が導入されるのは、市民革命よりずっと後である。ただし市民革命は近代民主主義に不可欠の政治と宗教の分離に関係している。
・英国ではエリザベス1世が英国国教を正式な宗教と定めて以来、国教派とプロテスタント(清教徒)の対立が深刻化する。チャールズ1世(1600~49年)がスコットランドに国教を強制した事で反乱が起きる。彼は議会を招集するが、課税の承認どころか、議会との武力衝突が始まる(清教徒革命)。彼は処刑され、共和政となる。
・その後オリヴァー・クロムウェル(1599~1658年)が独裁体制を確立するが、崩壊し王政復古する。ジェームズ2世(1633~1702年)がカトリック保護(※英国教会?)などの専制主義的な政策を断行したため、彼は追放され、オランダからメアリー2世(1662~94年)/ウィリアム3世(1650~1702年)を国王として迎い入れる(名誉革命)。
・名誉革命により「権利章典」が制定され、立憲君主制が確立する。さらに1689年「寛容法」が制定され、カトリック教徒を除く非国教徒への寛容が認められる。カトリック教徒への寛容が認められるのは、1829年「カトリック教徒解放法」であるが、「寛容法」により政治と宗教の分離が進む。※カトリックは随分排斥されたんだ。
・エリザベス1世が英国国教による宗教統一を進めたため、北米に多くの清教徒が移住した。七年戦争(1756~63年)が終わると英国は植民地に高い関税・租税を課した。植民地は「代表なくして課税なし」を掲げ、独立を果たす。
・米国の独立宣言は基本的人権/人民主権を掲げているが、これはジョン・ロック(1632~1704年)やルソーの社会契約説の影響を受けている。ロックは『統治二論』(1690年)の第一論文で王権神授説を批判し、第二論文で社会契約説を提起している。その前年には『寛容に関する書簡』で宗教的寛容を説き、宗教は個人の問題とした。一方ルソーは『社会契約論』(1762年)で人民主権論を唱え、同じ社会契約説の立場だが、宗教に関しては「信仰なくして政治秩序の建設はない」とした。
・米国の合衆国憲法(1787年)には政治と宗教の分離が規定された。しかしこれが早期だったため、逆に政治と市民宗教が両立する。※これに関する本を読んだが、内容を忘れた。教会が白人/黒人に分かれている話、宗教もどきができた話、福音主義の話だったかな。
・仏国では国王が第一身分/第二身分に課税しようとし、これに高等法院の法服貴族が三部会の招集を要求した事で革命が始まる。三部会は国民議会、さらに憲法制定国民会議に発展し、「人間の自由・平等」「人民主権」を謳う人権宣言(1789年)が採択される。憲法制定国民会議のメンバーは「国家の再生には宗教的基盤が必要」と考えており、政治と宗教の分離はなされなかった。人権宣言の翌年、「聖職者民事基本法」が制定される。これは聖職者を公務員とする法で、聖職者は憲法遵守を宣誓する必要があった。これに対しカトリック教会は「専制拒否派」「専制支持派」に分裂する。
・1801年ナポレオンは教皇と「コンコルダート」(政教条約)を結び和解する。これによりカトリック/プロテスタント/ユダヤ教が公認宗教となり、複数宗教公認体制になる。
・ナポレオンが失脚しブルボン王朝が復活すると、カトリックの教育・福祉・政治への介入を容認する「教権主義」と、公的領域から宗教を排除する「反教権主義」が対立する(※カトリック内部の対立かな)。この対立は七月王政/第二共和政/第二帝政/第三共和政まで続き、1880年教育・医療で脱宗教化し、1905年「諸教会と国家の分離に関する法」(政教分離法)の制定により政治と宗教の分離がなされる。
・仏国での「政治を公的領域、宗教を私的領域」とする脱宗教化を「ライシテ」と呼ぶ(※レイシズムと間違えそう)。マルセル・ゴーシェは「ライシテ」を2つの段階に分けた。ユグノー戦争後のナント勅令(1598年)から「聖職者民事基本法」が制定されるまでを「絶対主義的段階」とし、「コンコルダート」から「政教分離法」を経て近年までを「自由主義的・共和主義的段階」とした(※政治体制を名前にしただけだな)。第一段階は宗教に対し政治が優位になった段階で、第二段階は政教分離が決定的となった段階で、その転換点を「聖職者民事基本法」とした。
・絶対王政は王権神授説を唱えた点で中世国家と云えるが、宗教を政治に従属させた点では近代国家と云える。絶対王政は「神の代理人」を表象し、自らを正当化した。※市民革命まで進んだのに、時代を巻き戻した。まとめかな。
・中世後期は「中世の中の近代」、近代前期は「近代の中の中世」の様相を帯びていたが、中世から近代に飛躍する際、西欧は古代への回帰を目指している。ルネサンスは古代ギリシャの文化的復興を図り、宗教改革は古代的なキリスト教精神への回帰を図っている。同様に王権も、古代的な王権表象に立ち返ろうとしたのである。
・絶対王政は社団を統御する上で、中世後期に発達した「公共善」を利用した(※公共善の説明が一切ない)。絶対主義国家の神に由来する前近代的権力は、人間の自律的意志に基づく近代的権力に転換する。
○市民的公共性と近代民主主義
・絶対主義時代、各国で「政治と宗教の分離」(脱宗教化)が進む。これは「公私の分離」とも関わる。古代民主政は市民共同体=軍事共同体を基礎としたが、近代民主主義は近代的個人が前提である(※基礎ではなく前提。また共同体と個人)。近代民主主義では、社会を統治するのは公権力で、担い手は自律性を備えた個人となり、「公と私」「私と私」は分離する。
・17~19世紀「公と私」は分離するが、双方の内部でも分離が反復された。封建社会には公共的世界は存在しなかったが、「支配権の公的表現」は存在した。君主は位章(印綬、武具)/風貌(衣装、髪型)/挙措(会釈、態度)/話法(挨拶、語法)を駆使し、高貴さ/支配権を民衆に具現した。この「代表的具現の公共性」はルイ14世の時に頂点に達するが、その後、公的領域(官僚制、軍隊)と私的領域(宮廷)に分離する。※前者は外見で、後者は体制でレベルが異なる。
・「代表的具現の公共性」に代わって登場したのが「市民的公共性」だった。コーヒーハウス/サロンでの「文芸的公共性」(※絵画の展示?音楽の演奏?)や、マスメディアによる世論形成を伴う「政治的公共性」(※風刺画とかタブロイドとかかな)が立ち上がる。※これらの公共性って何だ。分かり難い。
・「公権力の領域」が”公”としての国家(官僚制、軍隊)と、”私”としての宮廷に分かれたように、「私的領域」も”公”としての「市民社会」と、”私”としての「小家族的内部空間」に分かれる。
・「公と私」「私と私」が分離した事で、新たな問題が発生した。「公と私」「私と私」を、どう接合するかである。18世紀「私と私」を結節しながら(※接合ではなく結節)、公権力に対抗するために現れたのが「市民的公共性」だった。「市民的公共性」こそが、「公と私」「私と私」を結節する回路だった。※結節する目的も分からないし、「市民的公共性」もよく分からない。
・ところが「市民的公共性」は、19世紀後半に変質し、崩壊する。これに代わって誕生したのが近代民主主義だった。英米仏、何れの国においても男子普通選挙制度が確立される。さらに20世紀初頭に女性を含む普通選挙制度が確立される。近代民主主義は「市民的公共性」に代わって、「公と私」「私と私」を結節する制度的回路となった。
・ただし近代民主主義は、普通選挙制度だけで成立する訳ではなく、人民主権/近代立憲主義/近代代表原理が柱であり、普通選挙制度は代表原理の一部に過ぎない。19世紀近代社会は機能分化し、この3つの構成要素が形成される条件が整う。
○政治システムの機能分化
・第1章で述べたルーマンの理論では、機能分化は二項コードの排他的な性質で説明される。例えば政治システムでは権力の与党/野党、経済システムでは貨幣の支払う/支払わないである。しかし二項コードは近代民主主義に固有の現象ではない。例えば英国でトーリー党/ホイッグ党による二大政党制が誕生したのは名誉革命以前である。従って二項コードは機能分化の必要条件だが、十分条件ではない。
・政治システムは他の機能システムからの分化により確立されるが、これには全ての機能システムに共通する「基礎的条件」と、政治システムに固有の「追加的条件」の充足が必要であった。
○機能分化の基礎的条件-「公と私」の分離
・近代社会の機能分化の基礎的条件は、「公と私」の分離である。そのため18世紀の変化は機能分化に重要な役割を果たした。
・社会的分化には3つの形式がある。①環節分化-同質的な構造を持つ複数のサブシステムに分化する。②階層分化-異なる階層に分化する。③機能分化-複数の機能システムに分化する。歴史的には、環節分化→階層分化→機能分化した。ただし近代社会でもこれらは混在し、世界は国民国家に環節分化しているが、国民国家自体は機能分化している。
・環節分化/階層分化が支配的な社会では、個人が属する部分システム(※グループ/階層かな)でアイデンティティを確立する事ができる。例えば貴族の子は貴族としてアイデンティティを確立した。構成員は環節的/階層的な部分システムに包摂されていた。この様な社会では、「人格と役割」「自己アイデンティティと社会システム」は融合していた。※最後の文は難解だな。
・ところが機能分化が支配的になった近代社会では、個人は全ての機能システムに属し、各機能システムで果たす役割も異なるようになった。例えば、ある個人は政治システムで政治家/経済システムで消費者だが、別の個人は政治システムで有権者/経済システムで起業家などである。そのため特定の機能システムへの帰属で、自己アイデンティティを築けなくなった。そのため逆説的だが、個人があらゆる機能システムに属する条件は、あらゆる機能システムの外部で自己アイデンティティを確立する事となった(※意味不明。機能システムに属するために、アイデンティティを確立する必要がある?)。こうして個人は、いかなる社会システム(※機能システム?)にも包摂されず、いかなる他者にも還元されない自己を獲得した。※個人のシステム・フリーだな。
・この時「公と私の分離が、それぞれの内部で反復される原理」が貫徹される。近代的個人は公(非人格性)と私(人格性)を宿している(※個人が公を宿す?)。国民国家は、全ての機能システムを包含する機能分化の基本的単位になった。また相互に切り離された私の集合体になり、いずれの私にも還元できない公となった。
・国民国家と近代的個人は「公と私」の二項対立にあるが、どちらも公と私の両面を持つ。国民国家も近代的個人も、内部と外部を区別する厳格な境界を持つ。近代的個人が状況の変化に応じ、一貫した行動が取れるように、国民国家も他国に影響されず、自らの意志で統治できる。国民国家と近代的個人は、「公と私」の分離から派生した相関項(?)である。
・近代社会は国民国家と近代的個人の二項対立となったが、それを結節(媒介)しているのが機能分化である。この3つは三位一体的な構造である。従って機能分化の基礎的条件は、国民国家と近代的個人を生み出した「公と私」「私と私」の分離である。
○機能分化の追加的条件-3つの限定
・近代民主主義が制度化されるためには、基礎的条件と機能システム固有の追加的条件が必要だった。機能分化は別の見方をすれば、機能集中である。機能集中には「組織レベル」「システム・レベル」の2レベルある。「組織レベル」の機能集中により、特定の機能を第一次機能とする専門的組織が生まれた。政治での議会、経済での企業、教育での学校などである。ただしこれらの専門的組織も第一次機能だけでなく、様々な機能を遂行している。例えば、企業は生産活動(経済的機能)だけでなく、集団的な意思決定をしたり(政治的機能)、社員を育成したり(教育的機能)、社風を維持したり(文化的機能)している。※何れも生産活動に含まれるのでは。
・機能分化には、さらに「システム・レベル」の機能集中が必要になる。政治システムの場合、立法府としての議会、行政府としての官僚機構が整備されるだけでなく、権力が国民(有権者)と立法府(政治家)と行政府(官僚)の間を循環しなければならない。この閉鎖的・循環的なシステムは、次に説明する「領域的限定」「規範的限定」「方法的限定」によってもたらされた。
-追加的条件(1)-領域的限定
・近代民主主義では人民主権に代わって、国民主権が実現された。世界の人民が国民に分割(領域的限定)され、国民が主権者となった。国民国家は領土・構成員の境界を厳格に分割し、国内に対し自律的な統治を行うようになった。
・中世国家の場合、国王・皇帝より上位に教皇が存在した。また領土は斑模様で、仏国内に英国領があったり、オランダ国内にスペイン領があったりした。また王族間の複雑な婚姻関係で、他国から政治的な影響を受けた。
・絶対主義国家も国内を自律的に統治できなかった。三十年戦争後、ウェストファリア体制を構築する動きがあったが、国境領域には国家の統制が及ばなかった。国境は、17~18世紀の戦争と会議で定まっていった。
・領土的分割を支えたのが、均質空間と云う近代的な空間認識だった。「時間は過去から未来に直線的に流れる」「空間は均質な広がりを持つ」と云う近代的な時空観である。19世紀後半、時間・空間に関する基準・単位が世界的に統一される。1875年北極点から赤道までの距離の1/1千万を1メートルとする「メートル条約」が締結される。1884年国際子午線会議でグリニッジ天文台を基準とする「世界時間」が設定される。※均質の意味がよく分からない。それ以外に何があるのか。
・均質的な時空観は物質的空間だけでなく、社会的世界も均質的な空間にし、ウェストファリア体制の構築を進展させた。
・領土的分割に人的分割が加わり、ナショナリズムが形成される。ベネディクト・アンダーソンによると、「国民国家は出版資本主義により、『想像の共同体』として形成された」「共通の言語で書かれた新聞・出版物が大量に発行され、その言語を母国語とする観念的な共同体が形成された」とした。※言語、教育、印刷術などが国民国家を誕生させた要因かな。
・国民の観念が醸成され、個人は自己と云う個体的アイデンティティの上に国民と云う集合的アイデンティティを有するようになり、近代的個人のアイデンティティは二層的な構造になった。
・領域的限定により国民国家の内部で権力を循環させる基礎が整えられた。主権は国王から人民に移動し、人民主権を国民主権として具現した。しかし領域的限定は権力の作動範囲を特定しただけで、権力の閉鎖的な循環回路を創出するには、さらなる限定が必要だった。
-追加的条件(2)-規範的限定
・中世立憲主義も近代立憲主義も権力の濫用を抑止する点で一致している。しかしこの2つは性質が大きく異なる。
・中世法は「古き良き法」の慣習法で、神と人民の法意識を法源としていた。慣習法は継承されてきた事実が規範的な妥当性で、「存在(ある事)」と「当為(あるべき事)」は未分化だった。法は創造されるものではなく、発見されるものだった。中世法は宗教・道徳・伝統から切り離されていなかった。
・一方近代法は実定法で、伝統・慣習に拘束されず、法を人為的に制定・改変できる。権力を法に従属させる近代立憲主義と、法の制定・改変を認める人民主権は緊張関係にあるが、実定法はそれを両立させている。実定法は宗教・道徳から切り離され、「存在」「当為」が分離した。法を宗教・道徳から切り離し、実定法に限定した事が規範的限定である。
・中世法から近代法への移行を促したのが近代自然法である。トマス・アクィナスは法を3つに分類した。①永久法-宇宙を支配する神の摂理。②自然法-人間理性を通じ、永久法が人間に分有された。③人定法-自然法の特殊化・具体化で、人為的に制定可能。※自然法がピンとこない。分有って何だ。常識かもしれないが、もう少し説明が欲しい。
・フーゴー・グロティウス(1583~1645年)は「国際法と自然法の父」と称される。それは彼が「自然法の神的起源を認めるが、世俗化し法理論(?)を築ける」としたからである。近代自然法の特徴は、「人間の自律的な理性の下で、自然法は発見される」(合理主義)と、「個人は自由で、独立した状態にある」(個人主義)にある。近代自然法は、ホッブス/ロック/ルソーの社会契約説を準備した。※この辺り法学の知識が必要。勉強不足を痛感。
・英国では個人主義が進んでいたため、ホッブズは「個人は自然権を有するが、自然権の行使は『万人の万人に対する闘争』を引き起こす。これを回避するため人々は社会契約を通じ国家を設立し、自らの主権を国家に譲渡する」とし、自然法を「一定の制限の下で自然権を実現する法」とした。さらにロックは、統治者が人民の信託に違反した場合、統治者を排除・更迭する抵抗権を認めた。
・ホッブズ/ロックの権力譲渡/抵抗権の思想(自然法思想)は市民革命の基礎になった。この思想はローマ法にも存在したが、彼らの新しさは近代的個人主義を土台にした点にある。英国のホッブズ/ロックは「自然権」に力点を置き、仏国のルソーは「自然状態」の概念に依拠しているが、共に神を前提にしない規範理論として機能した。※底流は神から人(下降的権力から上昇的権力)かな。
・17~18世紀自然法思想により、近代自然法は宗教と分離するが、道徳・倫理からは分離しなかった。『イギリス法釈義』を著したウィリアム・ブラックストーン(1723~80年)は、自然法と倫理を同義としている。
・ところが18世紀後半トーマス・アースキン・ホランド(1835~1926年)は『法律学要理』で、道徳のような権威が確定しない規範を法と区別した。「法と道徳」を「社会と個人」に沿って分離し、「法は社会的秩序を構成する客観的・外在的な規範。道徳は個人の主観的・内面的な倫理」とした。※道徳・倫理は個人的なものか。
・そして近代自然法から実定法への移行を決定的にしたのが、「存在と当為の分離」だった。法実証主義にとって、「存在と当為の分離」は特別な意義があった。これにより実定法は、行為者には当為としての行為規範になり、研究者には分析対象になった。実定法は過去から継承されてきた事実から解放され、統治者の制定という事実に基づく法になった。※市民的公共性も過渡的なもので、近代自然法も過渡的なものか。
・「法は支配者の命令である」との考え方は、功利主義を立法の原理に据えたジェレミー・ベンサム(1748~1832年)と、分析的法実証主義を確立したジョン・オースティン(1790~1859年)により定式化される。彼らは「存在と当為」を区別し、「法は理性によって発見されるものではなく、人為的に制定されたもの」とした。これにより法の制定・改変の自由度は大幅に増した。
・近代法では「存在と当為」が分離され、宗教・道徳・倫理などの規範からも切り離され、実定法になった。社会の統治に必要な規範は人民の意志で制定・改変され、一方で権力は法的手続きに従う事になった。人民主権と近代立憲主義は、それぞれ「権力に対する法の従属」「法に対する権力の従属」に帰結した。
・これらは政治システムと法システムのカップリングで両立した。これらは「法と宗教・道徳・倫理」「存在と当為の分離」に基づいて、社会規範を実定法に限定する規範的限定に支えられた。
-追加的条件(3)-方法的限定
・政治システムの機能分化のためには、権力循環を実効的にする方法的限定が必要であった。政治システムは、主権者が政治家を選出し、その政治家が政策を決定するプロセス(狭義の政治)、官僚機構が政策を遂行するプロセス(行政)の循環である。このそれぞれに方法的限定が加わった事で権力循環が成立した。
・まず「狭義の政治」だが、中世の代表原理は身分制議会で、上昇的権力と下降的権力がせめぎ合う場だった。一方近代の代表原理は上昇的権力を機能させる原理となった。また社会統治に必要な規範を実定法として制定・改変できるようになった。※最後は規範的限定では。
・しかしこの自由度の増大は、政治的に決定不能に陥る可能性の増大でもあった。そこで採用されたのが「多数決の論理」である。近代立憲主義では、多様な国民の意見を票数に還元し、多数をもって全体と見なす擬制の論理に基づいている。
・「多数決の論理」は全体の意志を適切に集約する保証はないが、決定不能を回避する効果はあった。「多数決の論理」を支えていたのは、多様な全体を数値で把握する科学的手法である。近代科学が科学システム(?)として分出したのも19世紀で、「存在と当為の分離」と「法と科学の分離」は呼応している。
・”low”には「法」「法則」の意味かあり、近代以前は当為である「法」と「法則」は未分化だった(※分離ではなく分出/分化か)。17世紀ニュートン力学が始まるが、19世紀に”science”の言葉が生まれ、法は「当為」になり、科学は客観的な事実の「存在」になった。
・そして自然科学・人文科学を統一(?)する科学的方法として実証主義が登場した。実証主義は研究対象が何であれ、事実を客観的に観察し、定量的に把握する事を目標にした。近代科学に法実証主義も仲間入りした。
・産業革命以前は「質が量を支配する世界」(?)だったが、実証主義は質を量に転化し、知識をローカルな文脈から切り離した。実証主義は偏狭な地域性を打破し、国民国家を単位にした。定量化も知の技術であり、「多数決の論理」はその一つである。※知のグローバル化かな。
・以上の普通選挙制度/「多数決の論理」を組み込んだ代表原理の登場は、実証主義の台頭による。これは「狭義の政治」過程における方法的限定である。一方行政過程においても、国家官僚制の下で国家的課題を集中的に引き受ける方法的限定も始まった。実定法の下で政策を遂行するには、高度な官僚機構/財政基盤が必要だった。
・絶対主義国家も絶対的な王権を求めたが、官僚機構の未熟から、それを全国に行き渡す事ができなかった。それには国家は、様々な公共政策を遂行しうる行政的・財政的な能力を持つ必要があった。この方法的限定も、絶対主義国家から国民国家への移行の過程で進行する。
・公共的機能で最初に国家に集中したのは軍事・警察であった。中世初期はフェーデ(私闘)/自力救済(?)は容認されていた。絶対主義国家は「戦争優先国家」で、国家予算の6~9割が軍事費に当てられた。しかしこれは官僚制を押し進める契機になった。※具体的な説明はない。
・戦争で明け暮れた18世紀が終わると、軍事を主軸としていた国家は、民政と軍事を両輪とするようになる。国家の掌握範囲は軍事・警察から教育/交通運輸/郵便・通信事業/社会福祉に拡大する。
・国家官僚制の発達は専制支配の道具となる危険性があったが、2つの要因で妨げられた。第一は、市民権(※行き成り出たが、説明がない)の制度化により地域間の対立を乗り越えた国民的総意が生まれ、代表原理の発展で行政は党派政治から解放された(※説明不足。政党政治は党派政治に含まれないのか)。第二は、資本主義的工業化により、国民経済が形成され国家帰属化が進み、法人企業の官僚制が国家官僚制のモデルとなたった(※これが妨げられた要因?説明不足)。
・これらの領域的限定/規範的限定/方法的限定により、権力が国民(主権者)/政治家(立法機関)/官僚(行政機関)の間を循環する閉鎖的な回路が築かれた。機能を集中させる限定により、政治システムは機能分化し、近代民主主義は制度化された。
○近代の自己組織化様式
・これまで近代民主主義が「ありそうもない」統治形態である事を説明してきた(※今は長い歴史の通過点なので、当然かな)。社会を外部から見ると、構成員によって作られた自己組織的な社会である。ところが過去の社会は、構成員から見れば、人間の意志を超えた聖なる力が統治する社会で、自己組織的な社会でなかった(自己否定的な自己組織化様式)。それは古代ギリシアの都市国家も例外ではない。
・これまでの考察が正しければ、近代民主主義の起源は中世西欧にある。キリスト教は供犠を普遍化する事で、民主主義の対立物を生んだ。前者は下降的権力で、後者は上昇的権力である。キリスト教は、12世紀以降衰退したのではなく、聖界と俗界は分離し、聖界は俗界化し、俗界は聖界化した。そして聖界に生まれた秩序原理が俗界に浸透した(※キリスト教界が先進組織だった。学問もそれに近かったのでは)。これにより俗界は公私二元的構造になり、個人を超越し、聖なる力の等価物となる公権力が生まれた。
・従って中世は、聖俗二元的構造から公私二元的構造への移行期と云える。このプロセスにおいて人民主権/中世的立憲主義/中世的代表制が芽生え、絶対主義時代の雌伏後に、国民国家が誕生した。
・近代的個人と国民国家の公私二元的構造は、近代民主主義の基礎的条件になり、これに国民国家と云う自己完結的な空間(領域的限定)、実定法の制定・改変(規範的限定)、多数決の論理/官僚機構による政策の遂行(方法的限定)が加わり、近代民主主義の骨格が形成された。これにより機能は集中・分化され、権力が循環する閉鎖的な回路が築かれた。
・以上のような歴史的・構造的な条件の下で近代民主主義が確立されたので、近代民主主義は「ありそうもない」統治形態である。社会の中で「ありそうな」統治形態は、自己否定的な自己組織化様式である。近代民主主義は自己組織化様式の否定から成立した。公私二元的構造は聖俗二元的構造の代替物であり、自己否定的な自己組織化様式の否定は、自己否定的な自己組織化様式の継承である。
※近代民主主義は権力が循環し、国民は自己組織性を認識しているので、自己否定的ではなく、継承していないと思う。また自己否定的を否定しているので、この点でも継承していないと思う。自己否定的としたのは、超越的な公権力が存在するため?
・当事者にとって自己組織性が可視化された事は(※こんな説明はなかった)、「ありそうもない」事だった。そのため近代民主主義は「ありそうもない」統治形態である。
・世界史は古代/中世/近代に区分されるが、様々な要素は、それぞれ異なるスピードで変化している。そのため中世は、古代から近代への転換期と云える。その長いプロセスの最終形が、近代民主主義の制度化である。
・近代民主主義の制度的枠組みも、ロック/ルソーの自然法思想も突如出現したのではなく、中世に淵源がある。自己否定的な自己組織化様式の否定は、数百年の歳月を経て完遂された。
・ところが近代民主主義が制度化されて100年も経たないのに、近代民主主義は危機に直面している。機能集中した政治システムは機能拡散し、基礎的条件/3つの追加的条件が崩され始めた。
※これまでは改善・構築の歴史だったが、これからは悪化・崩壊の歴史になるのか。ここまでで1冊の本『近代民主主義の誕生』が書ける。
<第4章 近代民主主義の揺らぎ>
○戦後体制の崩壊
・現在は「民主主義の不足」にあるが、これは1970年代に始まった政府が人々の要求に応えられなくなる「民主主義の過剰」が起因している。そこで1970年代から振り返る。
・第二次世界大戦後は東西冷戦になり、資本主義国と社会主義国が対立した。しかし資本主義国でも国家権力が優位で、国家はケインズ主義的なマクロ政策を採用し、社会福祉・社会保障に力を注ぎ、大量生産・大量消費を再生産した。
・「福祉国家」の起源は1870年代で、1870~1910年代で選挙権は男子普通選挙権から男女普通選挙権に拡大し、失業保険・家族手当などの福祉国家プログラムが導入された。
・福祉国家は「高福祉・高負担」を掲げ、国民から高い税金を徴収するが、国民に高水準の福祉を提供した。政治システムと経済システムは税でカップリングしており、福祉国家はこれを強化した。
・戦後は国家主権(※初出)が尊重された。これはブレトンウッズ体制にも窺われる。ブレトンウッズ体制は自由貿易によりモノの移動を認めたが、資本の移動は規制した。当時は固定相場制のため、自由な資本移動と国家の金融政策を両立できなかった。ブレトンウッズ体制は経済の自由化を社会的共同体(※国家?西側諸国?)に埋め込んでいたため、「埋め込まれた自由主義」と呼ばれる。
・1970年代国家主権を基礎にしていた戦後体制は綻び始め、福祉国家は危機を迎える。物価高騰/景気後退によるスタグフレーションによって、国家財政は悪化し、経済成長は鈍化した。これに追い打ちを掛けたのが、オイルショック(1973、79年)だった。
・そこで資本主義の再生戦略として「新自由主義」が登場する。これはミルトン・フリードマン(1912~2006年)が唱え、英国サッチャー政権(1979~90年)/米国レーガン政権(1981~89年)が世界的潮流に導く。新自由主義は規制緩和/民営化を押し進め、「大きな政府」から「小さな政府」に転換した。※要するに国家権力の縮小だ。
・新自由主義により金融も規制緩和され、資本移動も自由化された。金融の規制緩和は情報化と相俟って、経済秩序を変革し、実体経済における金融経済の比重を高めた。また対外直接投資の道を切り開き、生産拠点の海外移転は進み、多国籍企業は国家に匹敵するようになった(グローバル化)。グローバル化により、国家だけでなく多国籍企業/政府間国際組織(IGO)/国際非政府組織(INGO)/社会運動組織などがグローバルで活躍するようになった。※グローバル化は冷戦終結後の1990年代と思うが。
・1970年代は政治と宗教の関係で、世俗化に逆行する動きが起こる。近代は宗教を個人の内面的信仰としたが、これを否定する動きが起こる(宗教の復讐)。マーク・ユルゲンスマイヤーは、「この傾向がキリスト教/イスラム教/ユダヤ教/仏教で見られる」とし、その特徴を、「①リベラルな価値観/世俗の制度の否定、②宗教を個人的・私的な領域に押し留める近代的な宗教観の否定、③ひ弱な代替物である国民国家を伝統的で厳しい宗教の形態に置き換える試み」とした。オウム真理教も、この一つと考えられる。
・聖俗二元体制の継承が公私二元体制であるなら、国民国家の揺らぎが聖俗二元体制を呼び覚ましても不思議ではない。※イスラム教を除いて、宗教の復活は感じないが。
○領域的限定からの乖離
-国家財政の弱体化-
・近代民主主義は国民国家の枠組みの中で機能する。ところが現代社会の変化により、この領域的限定が効かなくなった。この最初の切っ掛けが、金融の自由化による貨幣の脱領土化である(※”貨幣の脱領土化”と”通貨の脱領土化”が混在していたが、”貨幣の脱領土化”で統一)。近代国家は所掌範囲を、軍事・警察から教育/交通運輸/郵便・電信/社会福祉・社会保障に拡充したが、それを支えたのが税による国家財政だった。ところが資本の自由化(※先は金融の自由化)により「一国一通貨」の領域的限定が解除された。
・貨幣の脱領土化は、まず資本の国際移動に現れた。企業は豊富な労働力と低い税率を求めて海外に移転した。支店進出/工場設置/海外企業の買収などの対外直接投資を活発化させ、多国籍企業は急速に勢力を増した。これにより福祉国家の「高福祉・高負担」は困難になった。
・1970年代と1980年代の先進国の租税負担率/経済成長率を見ると劇的な変化がある。1980年代資本移動が自由化されると、高い租税負担率だと経済成長率は低くなり、租税負担率と経済成長率は明らかな逆相関になる。
・1990年代になると、「タックス・ヘイブン」により、国家財政はさらに深刻になる。タックス・ヘイブンには、植民地・英王室領(ケイマン諸島、バミューダ諸島など)、地域(ロンドンのシティ、米国のデラウェア州など)、国家(ルクセンブルク、ベルギー、アイルランドなど)がある。
・これらの国・地域は、①非居住者が納税を回避できる、②資金操作を匿名で行える(秘密保持規制)、③法人組織の立ち上げが容易である。秘密保持規制があるので正確には分からないが、世界のマネーストックの半分が、タックス・ヘイブンを経由していると言われている。
・日本の納税者の税負担率を所得金額別に見ると、1億円超えると税負担率は下がる。これはタックス・ヘイブンに関与しているためと考えられる。
・対外直接投資は当初は現地生産のための投資だったが、今では租税回避に利用されている。企業はタックス・ヘイブンに子会社(ペーパー・カンパニー)を設立し、納税を免れている。対外直接投資の3割はタックス・ヘイブンを経由している。
・この結果、国家は法人税率の引き下げ競争になった。1998年経済協力開発機構(OECD)は『有害な税の競争-起こりつつある問題』を報告し、率の引き下げ競争に警鐘を鳴らした。
・タックス・ヘイブンは貨幣の脱領土化が進む一方で、税負担が領土的な規制を受ける落差(?)を利用している。これは中世西欧で都市間の為替レートの違いを利用して利益を得た金融業者に似ている。※フィレンツェのメディチ家などだな。
・タックス・ヘイブンは「一国一通貨」の領域的限定が解除された事で起こった(※領域が国家から世界に拡大する過程なのでは)。これは近代の国民経済を生んだ流れとは逆向きである。この影響は経済システムだけでなく、政治システムにも重大な影響を及ぼした。OECD諸国の実効平均税率は、1981年40%から、2001年28%まで減少した。
・国家は財源の問題から、国民の意思を政策で遂行できなくなたった。国民国家の自律性は領域的限定により維持されてきたが、金融の自由化により領域的限定は解除され、国家財政は弱体化した。※タックス・ヘイブンの問題は本当に深刻だ。
-プライベート・レジームの形成-
・国内と国外を分割する領域的限定は、国民国家の自律的な統治の前提だが、経済だけでなく政治でも崩れつつある。近代はウェストファリア体制の下でナショナルな問題は国家により解決され、グローバルな問題は国際機関により解決されてきた。国民は選挙の際の一票しか権力を持たないが、少なくとも形式的には国民主権で、国民の総意に基づき、ナショナル/グローバルの問題は解決されてきた。ところが1970年代以降は、それが保障されなくなった。
・1990年代「私的権威の台頭」が認識されるようになったが、非国家的主体が国家的統治に影響を与える事象は、それ以前からあった。例えば世界貿易機関(WTO)の代表団には企業も加わり、豊富な資金力で決定に影響を与えた。※米国にはロビー活動があり、日本でも業界団体/経団連/経済同友会などの影響は相当あるのでは。
・1996年欧州連合(EU)は、牛肉への合成ホルモンの投与を禁止するが、米国は農薬メーカー/牧畜業者協会/乳製品輸出会議/牛乳生産者連合などの圧力でWTOに提訴する。WTOは米国に有利な裁定を下し、EUは1億2500万ドルの貿易制裁を科された。
・現代の企業・業界団体は、経済活動に必要な制度的条件を自ら創出している。これが「私的権威の台頭」である。国際政治学では、国家間の協力を「国際レジーム」、非国家的主体を含む統治の仕組みを「グローバル・ガバナンス」と呼んでいる。貿易/環境では国際レジームが基幹になっているが、会計/保険/証券/国際仲裁/情報通信ではグローバル・ガバナンスも進んでいる。特に注目されるのが、非国家的主体が形成する「グローバル・プライベート・レジーム」(以下プライベート・レジーム)である。※デファクト・スタンダード(業界標準)/グローバル・スタンダード(世界標準)は知っていたが、グローバル・プライベート・レジームの総称は初めて聞いた。
・プライベート・レジームの目的は、世界共通のルールを策定したり、主体間の取引費用を軽減させたり、社会から信用されるシステムを構築する事にある。プライベート・レジームの代表例に、中世西欧の普遍的な商習慣「レクス・メルカトリア」(※初耳)、「国際会計基準」(IAS、IFRS)、品質・環境・食品安全などの「国際共通基準」(ISO)、環境保護の認証制度「海洋管理協議会認証制度」(MSC)などがある。※国際規格ではないが日本産業規格(JIS)も非国家的主体が規格している。規格・基準などを作る非国家的主体は山程ある。
・レクス・メルカトリアは国際商事仲裁の台頭で復活した。国際商取引の紛争解決方法には、「訴訟・裁判」「仲裁」がある。訴訟の場合は、一方の国の法律にしたがって裁判される。仲裁の場合は、第三者により裁定される。
・ウェストファリア体制の国際法は国家間の関係を対象にしており、私人間の関係は特定の国内法で解決する必要がある。そのため国際私法は、どの国の法を準拠法とするかを決定している。そのため国際私法は「抵触法」と呼ばれる。※知らなかった。
・従って仲裁は、訴訟に比べ多くの利点がある。①第三者による裁定(中立性)、②国際ビジネス紛争の職業仲裁人が裁定(専門性)、③仲裁手続き・判断が非公開(秘密保護)、④手続きが当事者の合意の下で行われる(柔軟性)、⑤一回で終審(迅速性)、⑥強制執行される(強制執行可能性)などがある。強制執行可能性は「ニューヨーク条約」により担保されている。
・以上から国際商事仲裁は急速に発達し、国際紛争の一般的な解決手段になった。世界各地に仲裁機関が設置され、業界団体は自主規範である統一約款/標準契約書式を整備してきた。国際商事仲裁は「私的政府」を確立する状況にある。
・こうした状況で復活したのがレクス・メルカトリアである。18~19世紀レクス・メルカトリアは国内法に吸収されたが、その後グローバル化に伴い自立し、グローバル商取引での新しいルール・法源を生み出している。
・プライベート・レジームのもう1つの事例に国際会計基準がある。会計基準は財務諸表を作成するためのルールで企業の実績を表し、株主だけでなく、投資家や税を徴収する国家が利用する。
・日本では1990年代後半まで、大蔵省が会計基準を設定していた。会計基準の国際化は1970年代に始まり、1973年国際会計基準委員会(IASC)が国際会計基準(IAS)を作成する。これは各国の会計基準に配慮した緩い基準だった。
・ところが会計基準の統一が望まれるようになり、2001年IASCは国際会計基準審議会(IASB)に改組され、IASを改定した国際財務報告基準(IFRS)を作成する。今はIFRSが国際会計基準のデファクト・スタンダードになっている。
・会計基準の見直しは、日本企業の経営戦略に影響を与えた。これまで日本企業は株式持合を行い、評価損益を純損益に含めていなかった。また短期的な利益より、売上高やマーケットシェアを重視していた。これが株主を重視した経営戦略に切り替わる。
・いずれにしても企業・業界団体は、自らルールを設定するようになった。機能分化が確立された段階では、経済システムの枠組みを形成する政治的権限は国家にあったが、グローバル化に伴い政治的権限の一部を、非国家的主体である企業・業界団体が掌握するようになった。※グローバル経済の発達で、世界>国家、経済>政治、企業>政府などの権威・権力の移行が起こっているかな。
・中世西欧の封建社会は、領主と家臣の人格的・私的な結合の連鎖だったが、団体が誕生し発展する。最初はギルドなどの局所的な団体だったが、やがて身分のような広域の団体も形成される。近代になると、中世の「中間組織」は消滅し、社会(国家)と個人の二項対立になる。そして今は各種の団体が国民国家の枠を超え、秩序形成の覇権争いを始めている。もはや国民国家は唯一の政治的主体でなくなった。
・貨幣の脱領土化によりプライベート・レジームが出現し、国民国家を成立させていた領域的限定は乖離した。経済では租税回避、政治では非国家的権力が発生した。これにより国家主権/国民主権は掘り崩され始めた。※掘り崩すは変な表現だな。近代民主主義と云う城の石垣を掘り崩す感じかな。
○規範的限定からの乖離
-ソフトローの出現-
・近代民主主義の第二の特徴は、実定法に支えられた立憲主義にある。実定法は主権者の意志に基づき制定・改変される法で、それ自体に「手続き法」(セカンダリー・ルール)が組み込まれている。法を宗教・道徳から分離する実定法による規範的限定で、主権者の意志による統治が可能になった。
・ところがプライベート・レジームは国民国家を迂回する形で形成されたため、その規範は実定法ではない。プライベート・レジームは統治主体を多様化させただけでなく、規範も多様化させた。国際政治学ではプライベート・レジームでの規範を「ソフトロー」と呼んでいる。このソフトローの台頭は、規範的限定を乖離させた。
・ソフトローは実定法(ハードロー)と対比される。実定法は民主的な手続きで制定され、裁判所などでのエンフォースメント(執行)が保障されている。一方のソフトローも拘束力を有しているので、統治のための規範は非実定法規範にも拡大された事になる。
・ソフトローにはセカンダリー・ルールを定めていないものが多い。藤田友敬はソフトローを、形成主体/執行形態から4つに区分している。①企業倫理/企業の社会的責任(CSR)など、非国家的主体が定め、エンフォースメントもない規範。②労働法の努力義務規定など、国家が定めるが、エンフォースメントがない規範。③会計基準/商習慣など、非国家的主体が定め、国家がエンフォースメントする規範。④国家が定め、エンフォースメントもする規範(ハードロー)。※形成主体/エンフォースメントのマトリクスだな。
・ソフトローは国外で形成されたものだが、裁判での判例の蓄積や新たな法の制定などで、国内法に埋め込まれる傾向にあります。例えばユニドロワが定めた国際商事契約原則がある。ユニドロワは、1926年国際連盟に創設され、1940年国際連盟から独立する。この国際商事契約原則は国内法で採用される事を想定しています。そのためレクス・メルカトリアでも既存の法の「再述」でもなく、新たな成文化の「前述」とされます。
・ソフトローは国際商取引/情報通信などの先端分野で発展していますが、それはソフトローに柔軟性があるためです。ソフトローは既存の法体系から切り離されているため、これを国内法に挿入する際には、齟齬を来す可能性があります。
・いずれにしてもソフトローは非実定法のため、規範的限定からの乖離です。近代民主主義では実定法に規範的限定する事で、国民自らの意志で統治できるようになりました。ところが国民の与り知らない所で形成されたソフトローが浸透してきたのです。
・中里実は、ソフトローによる私的政府/私的な租税/私的な法制度の可能性に言及しています。
-立法から司法へのパワーシフト-
・規範的限定からの乖離には、「ソフトローの台頭」と並んで、「立法から司法へのパワーシフト」があります。法の形成には立法と司法が関わっていますが、それぞれ形成の仕方が異なります。立法の場合、法の執行前(事前)に法の内容が確定します。一方司法の場合、司法判断の蓄積(事後)により法の内容が確定します。※法は判例を含むのか。
・中世は慣習法で、しかも法源は神や正義感情だったため、立法に制限がありました。そのため王権は立法権ではなく裁判権にありました。王は国王裁判所を設置し、ローマ法を利用し封建領主のインムニテート(不輸不入権)を打破しました。立法に関して先んじていたのはカトリック教会で、13世紀以降、教皇令は教会法に組み込まれて行きます。これは主権者の命令が法になる実定法の原型です。
・中世の慣習法から近代の実定法への移行は、司法から立法へのパワーシフトだった。ところがソフトローが台頭し、強い拘束力を持ち、デファクト・スタンダードとなり、司法の力を呼び覚まします。
・ただし中世の慣習法は、受け継がれてきた時間的事実が担保していたが、現代のソフトローは社会に広く共有されている空間的事実が担保しています。
・国際商取引/情報通信などの先端分野では、起こりうる様々な出来事を予測できないため、一般的・抽象的なルール(?)を作るのは難しい。そのため起こった出来事に対し司法判断を下し、判例を積み重ねるのが現実的です。これは司法的メカニズムであり、立法から司法へのパワーシフトです。※GAFAに対する政府の対応みたい。
・ソフトローの台頭は、実定法に限定されていた社会規範を拡大させただけでなく、立法の実効性を低下させた。近代民主主義は主権を国家/国民に限定し、統治規範を実定法に限定して成立した。ところが領域的限定/規範的限定が乖離し、主権と実定法による統治の可能性が狭められてきた。
※今更だけど限定に対し乖離を使うかな。限定に対しては、解除とか解放の方が一般的と思うが、まあ部分的なので剥離/緩和/弛緩などかな。
○方法的限定からの乖離
-パブリック・ガバナンス改革-
・政治システムには、法や政策の立案・策定を行う「狭義の政治」と、法や政策の実施・遂行を行う「行政」がある。絶対主義時代には権力循環の回路は確立されておらず、政党政治は特権階級による寡頭政治であり、官僚機構も全国から税を徴収できる体制になっていなかった。その後「狭義の政治」では代表原理が導入され、普通選挙制度になり、「行政」では官僚機構が整備され、国家が公共政策を一手に引き受けるようになった。これらは機能集中による方法的限定である。
・ところが現代では「狭義の政治」「行政」の何れにおいても、方法的限定からの乖離が進んでいる。まず「行政」を見る。
・1970年代以降、国家は財政悪化により「パブリック・ガバナンス改革」(※以下ガバナンス改革)に乗り出し、公共政策の執行を民間組織に委ねるようになった。ガバナンス改革は一般に「ガバメントからガバナンスへの移行」と呼ばれ、「政府による統治」から「政府、企業、NPOなどの多様な主体による統治」へ移行した。※後に出てくるが、ガバメントは垂直的な統治、ガバナンスは水平的な統治と考えれば良い。
・グローバルなレベルで、国際レジームからグローバル・レジームへ移行したが、同様の現象がナショナルなレベルでも起こった。
・ガバナンス改革は、「新公共管理の導入」「新公共ガバナンスへの移行」の2段階ある。1980年代教育/福祉/医療などの分野で新自由主義的な改革が進められるが、行政領域でも新公共管理が導入される。新公共管理は、行政運営の効率化を目的とし、市場メカニズムの活用/業績主義評価/ヒエラルヒーの簡素化などの要素からなる。また国有企業の民間部門への譲渡(※民営化かな)、エージェンシー化などの形態をとる。
・新公共管理により行政運営は効率化されたが、民営化/競争原理による弊害が現れてきた。様々な行政サービスが民間に委託された事で、市民サービスの提供が煩雑化した。※行政サービスと市民サービスの違いは?煩雑化だけが問題?質の低下も問題では?質の低下はないのが前提かな。
・1990年代になるとパブリック・ガバナンスは、新公共ガバナンスの段階に移行する(※パブリック・ガバナンスに新が付くだけだな)。新公共ガバナンスでは競争原理に協働原理(?)が加わる。新公共ガバナンスでは国家が政策を計画・立案し、民間組織が政策を遂行し、政府はその民間組織を舵取りするガバナンス構造になる。統治の主体が、国家と非国家的主体となった。
・この舵取り型ガバナンス構造を詳しく説明する。この先駆が、20世紀初頭に登場した「コーポレート・ガバナンス」である。19世紀の企業は、資本家が所有/経営していたが、これが所有は株主/経営は経営者に分離された。
・コーポレート・ガバナンスが市場(?)/官僚組織と異なるのは、以下の3つの要素による。①株主は経営を経営者に任せ、「本人と代理人」「プリンシパルとエージェント」の関係にある。しかし株主は経営者に一切の権限を譲るのではなく、舵取りの権限(脱統制的な統制メカニズム、※本書にはこんな表現が多い)を有している。これを支えているのが、他の2つの要素である。
・②株主と経営者の間には、「問責と答責」の応答的な関係がある。株主は経営者をモニタリング(問責)し、経営者は株主の期待に応えなければならない(答責)。株主の目的は株価の高騰と配当にあり、監査を通じて経営者を評価する。経営者は資金を適正に運用・保全し、経営実態を株主に報告する(アカウンタビリティ)。アカウンタビリティは会計(アカウンティング)に由来し、説明責任だけでなく結果責任も含む。
・③株主が経営者の統制手段に用いるのが貨幣である。株主は「業績連動型報酬制度」などで、経営者に報酬を支払う。※株式会社の説明だな。
・このようにコーポレート・ガバナンスは、「モニタリング/アカウンタビリティ」「貨幣的コントロール」により、本人(プリンシパル)による代理人(エージェント)の舵取りを可能にしている。パブリック・ガバナンスにおける政府と民間組織の関係は、コーポレート・ガバナンスに類似したガバナンス構造である。
・この形態に、民間の資金・能力を活用して公共施設の建設・維持・運営管理を行うPFI(Private Finance initiative)がある。これは「官民パートナーシップ」(PPP、Public Private Partnership)の中心的形態である。
・野田由美子はPFIの有効性を支える要因を以下とした。①行政サービスの品質・性能を定め、民間事業者に委ねる「性能発注に基づく一括管理」、②行政組織が民間事業者をモニターし、貨幣的価値に見合った行政サービスを行ったかを評価する「VFM監査(Value For Money)とアカウンタビリティ」、③業績結果に応じ民間事業者に金銭的支払される「業績連動支払」、④事業委託によりリスクを移転させる「民間へのリスク移転」。
・上記の①~③はコーポレート・ガバナンスと一致している。行政組織は「性能発注に基づく一括管理」で行政サービスの品質・性能を定め、「VFM監査とアカウンタビリティ」「業績連動支払」で民間組織を舵取りする。この行政組織と民間組織の関係は、株主と経営者の関係と同型である。
・この様なガバナンス構造が教育・福祉・医療などの公共領域で形成されつつある。これにより次に説明する方法的限定からの乖離が起こり、近代民主主義は掘り崩されている。
-立法から行政へのパワーシフト-
・現代社会の制御様式が変化してきた。近代民主主義では、国民の意志で実定法を定め、これに基づいて政策が策定・遂行され、制御様式は構造的・事前的な制御だった。ところが公共領域における新自由主義的なガバナンス改革により、制御様式は過程的・事後的な制御に変わりつつある。それは「モニタリング/アカウンタビリティ」「貨幣的コントロール」を組み込んだ「本人/代理人」関係が確立し、業績が事後に評価され、その評価がフィードバックされる循環が不断に続くからである。
・例えば教育行政では、「事前規制から事後評価へ」の理念で、「モニタリング/アカウンタビリティ」「貨幣的コントロール」が導入され、新自由主義的な改革が行われた。大学は第三者の準国家機関「大学評価・学位授与機構」が評価し、その評価結果に基づき資金配分されるようになった。
・初等・中等教育でも、全国共通学力テスト/学校選択制/学校の自己評価・外部評価/成果主義的評価などが導入された。民間委託も通学バス/給食/清掃などの周辺業務から、給与支払/出勤管理/業績監視/カリキュラム開発/試験などの中核業務にまで広がった。
・こうして国家・学校と民間組織の関係は舵取り型のガバナンス構造になり、「脱統制的な統制メカニズム」に基づく過程的・事後的な制御様式に変わった。これにより国家は強大な行政権限を獲得した。※説明不足。次第に分かるが、統制が民間組織へ拡大されたため。
・英国ではナショナル・カリキュラム/ナショナル・テストが導入され、学校予算の業績的配分によって学校に対する統制権限が強化された。教育改革は集権的な教育体制を確立した。一方で行政府の強化は、立法府の権限剥奪になった。ガバナンス改革により制御中枢となった行政府・準国家的機関は強化され、立法府の権限は縮小された。
・こうして方法的限定からの乖離は、統治主体を多様化させ、社会の制御様式を変化させ、「立法から行政へのパワーシフト」を促した。また「法の制定と法による統治」を迂回する統治様式を創出し、構造生成要因であった規範の役割は低下し、近代民主主義の方法的プロセス(※初出。政治システムかな)をすり抜ける統治が始まった。※これは規範的限定(実定法)からの乖離?それとも方法的限定(官僚制)からの乖離?※他に閣議決定とかあるな。行政の権限拡大に関しては、もっと議論がありそう。
・ガバメントは垂直的な統治で、ガバナンスは政府・企業・NPOによる水平的な統治のため、ガバナンスは民主的な統治と思われるが、近代民主主義にはネガティブな影響となった。コリン・ヘイは、「新自由主義は脱政治化による合理化の帰結だが、政治的討議/説明責任を縮小させた」とした。
-行政の遠隔化に伴う統制喪失-
・ガバナンス改革が近代民主主義に与えた影響は、それだけではない。政策の遂行を政府以外の主体に委託(行政の遠隔化、※遠隔かな?分散/拡散などでは)したため、国家・国民の意志が貫徹される保証はない。この「行政の遠隔化」により、統制を喪失する恐れがある。※教育改革では統制が強化されたと説明していたのに。
・米国では教育現場に民間組織が参入する事で、「公教育の崩壊」が懸念されている。レーガン政権時に、学校を自由に選択できる「学校選択制」、公設民営の「チャータースクール制」、学校予算の流動的配分を可能にする「バウチャー制」が導入された。さらにオバマ政権(※随分飛ぶな)は「連邦政府助成金獲得競争」を導入した(※参加条件が列記されているが省略)。
・この結果、教育組織に対する国家の統制力は強化されるが、公教育の崩壊が起こった。例えばチャータースクールでは、予算の多くが自校の宣伝に使われたり、教育免許を持たない若者が安い賃金で雇われたり、閉校により教師が一斉に解雇される弊害が起こった。※米国では学生ローンの問題もある。
・ガバナンス改革により統治主体が複数になり、政府は機能不全となった。ドナルド・ケルトは「代理政府」「ネットワーク政府」「協働的ガバナンス」などのガバナンス構造では、各主体の役割が不明確で、統括者が不在になり、機能不全に陥るとした。さらに米国では政府と民間業者の委託関係を管理する巨大請負企業「システム統合担当社」(LSI)が誕生し、契約の監視のみならず、政策立案/施策の設計まで依存している。
・行政の遠隔化は統制の失敗(※喪失?)に留まらず、政府が統制される危険もある。安全保障分野では軍事請負会社の台頭がある。東西冷戦の終結で戦争の形態は「国家VS.国家」から「国家VS.テロ集団」に変わった。軍事請負会社の活動も、非殺傷的援助・補助(?)/軍事コンサルタント/軍事役務に広がった。
・国家間の戦争で、軍事請負会社が戦線離脱しても法的には問題ない。逆に軍事請負会社が自己の利益を追求し、国家に敵対する可能性もある。※現状、どの程度軍事請負会社に委託しているのか?
・このようにガバナンス改革は「立法から行政へのパワーシフト」「統制喪失の危険」をもたらした。過程的・事後的な制御様式への転換は、「立法から行政へのパワーシフト」を起こし、官僚機構が法や政策を遂行する近代民主主義の方法的プロセスを迂回する統治様式を創出した。行政府は権限を拡大したが、「統制喪失の危険」に晒されている。政府と民間組織の第一次機能が異なる以上、政府は意志を貫徹できないどころか、民間組織にコントロールされる可能性も生まれた。
-公的政策過程のバイパス化-
・「行政」における方法的限定からの乖離は、2つの対照的な変化を起こした。「立法から行政へのパワーシフト」を通じ、権力は政治システムの外部に拡散した。一方で政治システムの外部で働くはずの権力が内部に浸透した(※そんなのあった?)。これに類する現象が「狭義の政治」でも起こっている。
・レーガン政権により新自由主義的な改革が始まるが、規制緩和は立法措置ではなく、規制委員会/規制機関により行われた。規制委員会が既存の法を再解釈し、新たな規制機関を設けた。サスキア・サッセンは、「これが結果的に議会の監督機能の喪失と、官僚制の公的権限の増大を招いた」とした。※解釈改憲とかあるな。
・1990年代以降、日本でも新自由主義的な行政改革が行われるが、米国とは事情が異なった。日本の行政改革は「官僚主導・行政主導から政治主導へ」を目標とし、行政機関は凋落したが、議会も権限は拡大されなかった。それは懇談会などの諮問機関が、政策形成主体になったからである。懇談会は内閣法/国家行政組織法などに定められておらず、人選/議決方法などのルールはなかった。
・行政改革は正式な政策形成過程を迂回するルートを創出し、米国と同様の帰結となった。議会審議と云う正式なルートから逸脱し、「狭義の政治」においても、方法的限定からの乖離が起こった。
-貨幣的コントロールとしてのロビー活動-
・政治的な意思決定過程(※狭義の政治?)における、もう1つの方法的限定からの乖離は、1970年代以降に爆発的に広がった「ロビー活動」である。各種の利益団体が議員に働きかけ、議会の意志決定に影響を与えている。利益団体はロビイストを使って、利益団体に有利な法案を作成するように働きかけている。そのコントロールに使われているのが貨幣である。※国民の投票以外のルートがある。要するに国民主権はまやかしで、それに優越する企業主権・経済主権がある。
・貨幣は、もはや商品交換だけの手段ではない。ガバナンス改革により、政府が民間組織をコントロールする手段になり、同様に利益団体が議会をコントロールする手段になった。
・米国では1990年代、企業500社以上がワシントンに事務所を開設した。ロビイストの登録者は、1975年3400人だったが、2005年には3万3千人近くになった(※登録が要るのか。どこまで近づけるかみたいなレベルがあるらしい)。金融危機後、ドット・フランク法(金融規制改革法)が制定されたが、それを阻止するため、連邦議会議員の5倍にあたる5千人のロビイストが投入された。
・企業にとって自らに有利な秩序の形成は、死活問題である。企業などの民間組織は貨幣を使い、政策決定過程に影響を与えている。
・このように政治的な意思決定過程でも方法的限定からの乖離が進んでいる。近代民主主義の3番目の柱である代表原理は、「公的政策過程のバイパス化」「貨幣的コントロールとしてのロビー活動」によって、政治的な意思決定過程の内外から侵食されている。
○近代社会の変容
-政治と経済の相互浸透-
・以上に述べた領域的限定・規範的限定・方法的限定からの乖離は、政治システムの機能的な拡散である。これは現代社会における、政治システムと他の機能システム、自国と他国、公と私の境界の変容による。
・近代の政治システム/経済システムは、それぞれ権力循環/貨幣循環するシステムである。政治システムは領域的限定・規範的限定・方法的限定を追加的な条件としたが、経済システムも領域的限定・規範的限定・方法的限定により分化した。※今から経済についても説明するのか!
・カール・ポラニーは近代資本主義の仕組みを「自己調整的市場」とした。自己調整的市場が形成される条件を、「労働力・土地・貨幣の商品化」とした。これは方法的限定の拡張である。かつて貨幣は、異なる商品の交換を媒介する媒介機能に限定されていた。ところが近代になり商品市場の外部に存在する労働力・土地・貨幣が商品化され、方法的限定が拡張された。
・また近代資本主義を立ち上げるには、「一国一通貨」を作動させ、国内経済を保護・育成するための関税障壁を設ける必要があった。これらは領域的限定に相当する。また国民経済の構築に必要な規範(※経済政策、商法・民法などかな。説明がない)の設定は規範的限定に相当する。従って近代資本主義も方法的限定・領域的限定・規範的限定の下で形成された。
・ところが経済のグローバル化/金融の自由化により国民経済は成立しなくなり(領域的限定からの乖離)、資本移動の規制も自由化された(規範的限定からの乖離)。また「行政の遠隔化」「ロビー活動」により貨幣と権力は融合し、貨幣循環と権力循環から逸脱した(方法的限定からの乖離)。
・「労働力・土地・貨幣の商品化」で商品市場の外部に存在したものが内部化した。また「行政の遠隔化」により政府は企業を統制したり、「ロビー活動」により企業が政府の意思決定に影響するようになり、貨幣の媒介機能は商品市場の外部でも働くようになった。※これらは全て経済の拡大かな。
・貨幣は政治システムと経済システムを媒介するようになった。国家/企業はそれぞれ、政治システム/経済システムの専門組織だったが、「ガバナンス改革」(※ここは行政の遠隔化としない)による「本人/代理人」関係を通じ、国家の意志が企業の内部に浸透したり、逆に「政府の統制喪失」(※ここも行政の遠隔化としない)「ロビー活動」により、企業の意志が国家の内部に浸透した。これらは方法的限定からの乖離である。
・かつて政治システムと経済システムは、税がカップリングしていたが、今や権力と貨幣が結合している。
-政治と法、政治と科学の相互浸透-
・政治システムと経済システムの関係が変化したが、政治システムと法システム/政治システムと科学システムの関係も変化している。「存在と当為の分離」により、当為は実定法になり、存在は主観的・価値的な要素を一切含まない「客観的事実」になり、科学システムの研究対象になった。これは機能分化に必要な領域的限定だった。
・また科学システムは、理論体系の無矛盾性を要請する規範的限定、そして科学理論を誰でも知覚的に確認しうる知覚可能性に基づいて検証する方法的限定の下で成立した。
・しかし「科学技術」の発達で、科学システム/法システムの内部から、存在と当為の分離が揺らぎ始めている。19世紀科学システムが確立した時、科学研究は大学で行われ、技術開発はエジソンなど大学外で行われていた。
・ところが20世紀半ばになると、科学と技術が結合する。知識の生産は、研究センター/政府機関/産業界の研究所/シンクタンクでも行われるようになり、その動機も客観的な事実認識と云う「認知的動機」に、社会的有用性と云う「価値的動機」が加わった。これは事実認識に限定していた領域的限定からの乖離である。
・さらに科学研究にアカウンタビリティが求められるようになり、「真偽」だけでなく、「市場競争力」「有益性」「社会許容性」なども求められるようになった。これは方法的限定からの乖離である。※大学での研究資金の確保に、有用性が大きく影響しているらしい。
・科学と技術の結合は、基礎研究と応用研究の境界や、大学と産業の制度的な区分をなくした。特に情報技術/遺伝子操作技術/原発技術などは産官学連携(企業、政府、大学)で進められ、存在と当為の分離に支えられていた経済/政治/化学の境界は融解した。科学システムでの存在と当為を切り離せない位相(?)の顕在化は、領域的限定からの乖離である。
・同様の現象は法システムの内部でも見られ、デファクト・スタンダードが形成され、ソフトローが出現した。当為=価値としての法が、存在=事実の積み重ねで形成された事は、当為と存在/価値と事実が分離していた領域的限定からの乖離である。また社会規範が企業・業界団体により形成された事は、実定法の形成を国民に限定していた方法的限定からの乖離である。※ルール・規格が存在するのは法の世界だけとは思わないけど。全てを議会で決めていたら大変。
・政治システムと法システムは憲法を介してカップリングしていたが、今や多様な主体/規範/方法で結合した。これは機能システム間の相互浸透である。
-公と私の融解-
・境界の融解は機能システム間だけでなく、公私の境界でも起こっている。近代社会は国民国家と近代的個人の二項対立にあった。ところが多様な主体がグローバルでネットワーク型のガバナンス構造を形成するようになり、国家は国内を統治する特権的な主体ではなくなり、その存在性は揺らいでいる。
・個人においては、ウルリヒ・ベックは「個人化」が進んでいると指摘する。彼は「現代の個人化と近代の個人主義化は異なる」とし、「現代の個人化は選択や責任が集団(家族など)から個人に移行する事で、客観的である。一方近代の個人主義化はアイデンティティに定位し、主観的である」とした。※難解。近代の個人主義化は、アイデンティティに従うもの?
・ジル・リポヴェツキーは、「近代的個人主義は、状況に左右されない個人の自律を目標とした。一方現代的個人主義は、個人を取り巻く諸集団の中で自己を見い出そうとしている」とした(※上記と反対の気がする)。個人も国家と同様に、流動的・重層的なネットワークの中に埋め込まれた。
・国民国家と近代的個人は二項対立であったが、現代社会は公私の中間領域の肥大化で、その境界は融解した。個人も国家も、流動的・重層的なネットワークの中に埋め込まれた。現代社会はインターネットにより、重層的なネットワーク社会になり、個人はその中でアイデンティティを確立しようとしている。
・このアイデンティティの集合化・流動化の現象は、客観的次元における個人化に矛盾しないが、個人は主観的次元において、流動的なネットワーク社会の中で自己を見い出そうとしている。※現代は複数の集団に属するようになったかな。
○近代民主主義の危機
・数百年の歳月を掛けて準備された近代民主主義が、ここ数十年の社会変化で覆されてきた。政治システムの機能分化は、公私の分離による基礎的条件と、追加的条件(領域的限定、規範的限定、方法的限定)による機能集中でなされた。それ以前は、政治/経済/宗教/教育などの諸機能は融合していた。ところが公私の境界の融解などにより、機能は拡散し始めた。※この節はまとめだな。
・近代民主主義には、政治的無関心の増大/政治的要求の多様化/利益誘導型の政治/既成政党の限界/ポピュリストの台頭/権力の濫用などの欠陥・限界があり、議論は代表原理/政党政治などに向けられてきた。しかしこれらが正常に機能しても、民主的な統治は保障されなくなった。それは領域的限定・規範的限定・方法的限定からの乖離により、政治システムの有効性が損なわれたからである。
・国民主権は国家主権が前提だが、領域的限定からの乖離で崩れた。経済的には貨幣の脱領土化により、財政基盤は弱体化し、政治的にはプライベート・レジームの秩序が形成された。
・政治の民主化は実定法によりなされていたが、規範的限定からの乖離も起こる。国内外を問わずソフトローが台頭し、立法に対し司法の役割が増大し、立法の役割は低下した。
・これらに拍車を掛けたのが方法的限定からの乖離です。ガバナンス改革により統治主体は多様化し、構造的・事前的な制御様式から過程的・事後的な制御様式に転換し、正式なルートを迂回する統治様式が生まれ、正式なルートは外部から攪乱された。
・これらの3つの限定からの乖離は、権力主体・規範形態・権力様式を変容させ、機能を拡散させた。
・近代民主主義の危機は3つの様相を帯びている。第一は、「近代民主主義の空洞化」です。「国家財政の弱体化」「立法から司法へのパワーシフト」「立法から行政へのパワーシフト」「公的政策過程のバイパス化」は、政治システムの権力を外部に流出・拡散させた。近代民主主義は、権力主体を国民、規範形態を実定法、権力様式を主権に集中させていたが、これを流出・拡散させた。
・第二は、「近代民主主義の相対化」です。近代民主主義の権力様式である権力循環は、「プライベート・レジーム」「ソフトロー」「ガバナンス改革」により、一権力様式に格下げされます。権力主体・規範形態・権力様式は多様化し、政治システムや国民国家の外部で権力様式が作動するようになった。
・第三は、「近代民主主義の形骸化」です。「行政の遠隔化に伴う統制喪失」「ロビー活動としての貨幣的コントロール」は、正式な政策決定・政策遂行を攪乱させた。空洞化は「内部の外部化」で、形骸化は「外部の内部化」です。権力循環の外部の主体が内部に侵入し、主権の貫徹を阻むようになった。
・近代民主主義の危機は、境界の変容に起因している。これにより空洞化/形骸化が起き、政治システムの外部に新しい権力主体・規範形態・権力様式が作られ、相対化が起こった。
・これらの危機は、2つに分けられる。1つは政治システムの内部が有効に機能せず、主権者の意志が政策過程に反映されない危機で、もう1つは政治システムの外部で民主的過程を経ないで意思決定されている危機である。※物事は何でも内部と外部に分けられる。
・要するに形骸化は「内部的・可視的な危機」で、空洞化・相対化は「外部的・不可視的な危機」です。前者は政治システムの内部に現れますが、後者は外部に現れ、人々が与り知らない所で意思決定されます。※不可視かな。政治システムの内部に現れないだけでは。
・いずれにしても領域的限定・規範的限定・方法的限定からの乖離により、政治システムは危機的な様相を深めています。近代民主主義の空洞化・形骸化・相対化は、「政治システムと他の機能システム」「自国と他国」「公と私」の境界の変容によっており、近代民主主義の危機は現代社会の変容が生み出した問題です。
<エピローグ 情報化時代の民主主義>
○民主主義を巡る理論と実践
-討議民主主義と闘技民主主義-
・近代民主主義には「内部的・可視的な危機」「外部的・不可視的な危機」があり、前者には政治システムの補強・補完が課題で、後者には民主的統制の及ばない政治的決定に民主的統制を及ぼす事が課題である。
・20世紀前半の民主主義論は、ヨーゼフ・シュンペーターの票獲得競争で利益の集約・調整を図る「エリート主義的利害調整型の民主主義論」だった。1970年代になると人々に政治参加を求める「参加民主主義論」(?)が現れる。さらに1990年代になるとユルゲン・ハーバーマスの「討議民主主義論」と、シャンタル・ムフの「闘技民主主義論」が登場する。この両者は対照的な立場にある。
・ハーバーマスは合理的な方法で脱習慣的な社会を創り上げる重要性を説いた。さらに討議倫理学と民主主義原理の関係から、「法的共同体の構成員全員が合法的に合意した法のみが正当性を持つ」とした。
・一方ムフは、これとは対照的に政治的対立を重視し、闘技の継続を目指した。彼は「利害調整型民主主義論/討議民主主義論は中立的であるふりをして、必然的な排除を隠蔽している」と批判し、情動が社会的動員に果たす意義を評価した。※あくまでも戦い続けろかな。
・ハーバーマスの討議民主主義論は、”普遍的な合意”と”理性”を重視した。一方ムフの闘技民主主義論は、”抗争の不可避性(闘技)”と”社会的動員に果たす情動”を強調した。よって両者は対照的である。
-ミニ・パブリックスと社会運動-
・理論面と同様に、実践面でも2つの民主主義的な実践「ミニ・パブリックス」「社会運動」が台頭する。ミニ・パブリックスは無作為抽出・層化抽出によって選ばれた市民が専門家と集中的に討議し、その結果を政治に反映する手法の総称である。討議型世論調査/コンセンサス会議/計画細胞会議/市民陪審などの形態がある。討議型世論調査は調査に留まるが、コンセンサス会議は遺伝子操作/ヒトゲノム/大気汚染/電子監視システム(?)などの科学技術における問題の解決策を提案する。※裁判員裁判は含まれるかな。諮問委員会は専門家主体なので含まれないかな。
・一方社会運動は、1970年代「新しい社会運動」として興隆し、環境運動/人権運動/女性解放運動/平和運動/民族運動/消費者運動などの形態がある。これらには経済的な要求だけでなく、自己決定/自主管理/集合的アイデンティティなどの政治的・文化的な要求が含まれる。
・1990年代以降インターネットが普及し、社会運動は新たな段階を迎える。1999年シアトルで世界貿易機関(WTO)の会議が開かれた時、新自由主義的なグローバリゼーションに反対する7万人が集結した。日本でも2011年福島第一原発事故、2015年安全保障関連法案の採決の際に、数万人のデモが行われた。
・また近年の社会運動は武力闘争的な手段ではなく、祝祭的な色彩を帯びている。エミール・デュルケームは、この集団的熱狂を「集合的沸騰」と呼んだ。近年の集合的アイデンティティに重きを置く社会運動には、この集合的沸騰が見られる。21世紀の「アラブの春」や反格差を訴えた「オキュパイ・ウォールストリート」などにも集合的沸騰が見られ、情動の果たす役割が重視されている。
・ミニ・パブリックスと社会運動を比較すると、二重の対極にある。第一に、代表制の観点で見ると、ミニ・パブリックスは間接民主主義で、社会運動は直接民主主義である。第二に、ミニ・パブリックスは討議により意思決定する。一方社会運動は集合的アイデンティティの形成を目的とする意思表明である。ミニ・パブリックスは代表制・意志決定型実践で、社会運動は非代表制・意志表明型実践である。
-2つの理論・実践・課題-
・こうして見ると、ミニ・パブリックスは理性的な合意を説く討議民主主義論に呼応し、一方社会運動は闘技と情動を評価する闘技民主主義論に共鳴する。さらに「ミニ・パブリックスと討議民主主義論」は、正式な決定に対する代替案を提起したり、政治システムの決定の実効性を高める役割があり、代議制民主主義を補完・補強する。これは近代民主主義の「内部的・可視的な危機」に対応している。
・一方「社会運動と闘技民主主義論」は、政治システムの外部で作用する権力に対抗し、外部の政治的決定を民主的統制に置く事に寄与している(※外部の権力に対抗しているかな、逆では。社会運動の目的は政治への要求と思う)。闘技の継続を目標とする闘技民主主義論は社会運動を正当化する。これは近代民主主義の「外部的・不可視的な危機」に対応している。
・従って、民主主義の2つの理論と実践は、それぞれ2つの近代民主主義の危機に対応している。
○遠隔デモクラシー
-近接化と遠隔化-
・ミニ・パブリックスと社会運動は、間接民主主義/直接民主主義の違いがあるが、それは重要でない。共に情報化に支えられている共通点がある。1990年代インターネットが普及し、情報化が社会に大きな影響を与えた。
・ベネディクト・アンダーソンは、移民の2世/3世が電子メディアを使って、1世の出身国を自分の母国と信じる事を「遠隔地ナショナリズム」と呼んだ。これは電子メディアによる時空的距離の克服である。
・空間的距離の克服は話し言葉でも印刷物でも可能だが、インターネットはそれをグローバルなレベルで克服した。またメディアは時間的距離の克服にも関わり、「過去の現在化」「未来の現在化」を可能にした。特に電子メディアは半永久的に保存され、文字・音声・映像から成り、データベースに蓄積された情報から未来を予測できる。つまり電子メディアは時空的距離を克服した。
・近代社会は直線時間と均質空間で成り立っていたが、情報化はこの時空的秩序の再編を促している。電子メディアは「遠隔作用」として働いている。この遠隔作用には2つの側面がある。1つは今までは離れていた存在を接触可能にする「近接化=直接化」であり、もう1つは今まで近くにあった存在を遠ざけ、間接的に関与させる「遠隔化=間接化」である。※わざわざ遠隔化しなくてもと思うが。2つを合わせて、距離の均等化とか無距離化かな。
・社会運動/ミニ・パブリックスにも、この遠隔作用が働いている。1990年代以降の社会運動は、インターネットの「近接化=直接化」効果により動員力を高めた。1999年シアトルでの社会運動で、インターネットは新自由主義的なグローバリゼーションの動向を把握するのに役立った。インターネットによるモニタリング能力の向上は、社会問題の開示能力/社会運動の異議申し立て能力を高めた。
・ミニ・パブリックスは「社会の縮図」になるよう、代表者を無作為抽出/層化抽出で選出する。これを可能にしたのは、統計学と国民のデータを収集・蓄積・加工する情報技術である。これも時空的距離を克服させる遠隔作用による。社会運動もミニ・パブリックスも、情報化による「近接化=直接化」「遠隔化=間接化」効果による。
・民主主義論では「直接民主主義か間接民主主義か」がよく問われるが、より重要なのは「実践が、いかなる課題に応じようとしているか」である。近代民主主義は内外で侵食されている。政治システム内部で有効な意思決定ができなくなり、外部で政治的な意思決定がなされている。ミニ・パブリックス/社会運動は、それぞれ「代議制民主主義の補完・補強」「非制度的権力に対する対抗的権力の確立」を志向している。
-遠隔デモクラシー-
・ジョン・キーンは民主主義を3段階に分けた。古代ギリシアの「集会デモクラシー」、近代の「代表デモクラシー」、現代の「モニタリング・デモクラシー」である。モニタリング・デモクラシーは、議会外の権力監視メカニズムの発達による「脱議会制政治」です。代表デモクラシーは一人一票で、「一人・一票・一人の代表者」です。しかしモニタリング・デモクラシーは、代表制/説明責任/公的参加などのルールが方法的・領域的に拡充され、「一人・たくさんの利害関係・たくさんの意見・複数の投票・複数の代表者」に転換します。モニタリング・デモクラシーには、ミニ・パブリックスの討議型世論調査/コンセンサス会議/市民陪審や、市民集会/オンライン請願/チャット・ルーム/平和的包囲集会/グローバルな監視組織などが含まれます。※政治の多元化/多層化みたいだな。これで意志決定できるのか。
・遠隔作用に依拠した情報化時代の民主主義を「遠隔デモクラシー」と名付けます。モニタリング・デモクラシーと遠隔デモクラシーは重なり合うが、同じではない。モニタリング・デモクラシーは代表制に基づきますが、遠隔デモクラシーは「近接化=直接化」「遠隔化=間接化」の2つの機能を組み込み、直接民主主義/間接民主主義の実践を含みます。※モニタリング・デモクラシーは代表制で、遠隔デモクラシーは代表制を越える。理解できず。この辺になると、真剣に考えず、流し読み。
・また遠隔デモクラシーは合意と闘技の双方に開かれ、「合意なき闘技」「闘技なき合意」を追求しない。古ゲルマン社会では「全員一致の原理」、古代ローマ帝国では「全体同意原理」、中世キリスト社会では「多数決による合意」が意思決定原理だった。ハーバーマスの「普遍的・合理的な合意」は合意の一形態に過ぎない。彼の解釈に事実的・情念的・擬制的な合意を加えるべきである。
・理性なき情念は人を惑わせ、情念なき理性は人を動かさない。遠隔デモクラシーは理性と情念を必要とし、情報技術を基礎にし、「合意と闘技」「理性と情念」の交差する所で成立する。
○現代的な自己組織化と民主主義
-近代的自律の逆説-
・近代民主主義は自己組織化の形態である。そこで遠隔デモクラシーを自己組織化の観点から述べる(※よく分からなかった自己組織化を、最後に出すか)。近代民主主義の危機も遠隔デモクラシーの出現も、社会の自己組織性の変容が原因である。
・「自己否定的な自己組織化様式」では、人間は聖なる存在に従属する他律的な存在だが、観察者からは聖なる存在も人為的に創造されたものである。そこでは人間の自律性は媒介的な仕方で発揮され、この様式も自己組織化様式の一形態である。
・近代になると、当事者に自覚される形で自己組織化が図られた。つまり他者に対する自己の自律(近代的個人主義)、神に対する自己の自律(近代民主主義)が実現された。
・哲学では、ミシェル・フーコーが監獄「パノプティコン」で近代的主体(近代的個人)を生成する逆説的なロジックを説いた。パノプティコンは「一望監視装置」と訳され、看守が囚人を一方的に監視できる監獄である。看守棟が中心にあり、そこから放射状に収容棟が配置される。収容棟は独房で光が当てられ、監視が容易である。囚人の主体性は、服従を内部に取り込む事で生成される(※気持ちの良い主体性ではないな)。主体性(Subjectivity)も服従(Subjection)も、主体(Subject)の派生語である。※主体性と服従は、逆の意味を持つと思うが。
・服従が主体性に転化する逆説的なメカニズムは、人間と云う集合的レベルでも作動した。マックス・ウェーバーはジャン・カルヴァン(1509~64年)の予定説に注目し、プロテスタンティズムが意図せざる帰結として近代資本主義を立ち上げたとした。カルヴァンは「神は超越的で、人間が救済されるか否かは、あらかじめ決められている」とし、神の至高性・絶対性はプロテスタンティズムで極限に達した。そのため人間は神のみを信じ、孤独化した。※もう少し複雑に説明されているが省略。
・プロテスタンティズムの「信者と信者」「神と信者」の関係と、パノプティコンの「囚人と囚人」「看守と囚人」の関係は酷似している。信者同士の関係も囚人同士の関係も孤独で、信者は神に従属し、囚人は看守に服従している。近代になると神は人間に代わった。ここでも服従が主体性に転化した。※主体性に服従が埋め込まれる話はなかった。あったのは公私の分離の説明だけ。
・キリスト教は絶対的・普遍的な権威を確立し、逆説的に人間の自律的な権力(人民主権)を誕生させた。服従の主体性への転化は、中世西欧で既に作動していた。※人民主権と服従が繋がらない。
・従って近代における人間の自律は、服従と云う他律的な契機を内包している。従うべき原理・基準が内面化すれば、主体は外部からの拘束から解放され、評価は自分自身で行い自律的となる。※この考え方は全くプロテスタンティズムだな。
・つまり他律が自律に転化し、自己は他者から/人間は神から/自国は他国から自律した。この自律性が、近代の自己組織性を特徴付けている。
-2つの共律型自己組織化-
・社会の変容で、自律と他律の関係が変化し、「共律型自己組織化」と云う自己組織化の形態が出現した。これには2種類あり、1つは近代民主主義の危機をもたらす社会の構造に内在する形態(※危機は政治システムの内外にあったが)で、もう一つは遠隔デモクラシーを生み出した形態である。共に自律と他律の性格を有している。
・「本人/代理人」「モニタリング/アカウンタビリティ」「貨幣的コントロール」の要素からなるガバナンス構造は、行政領域だけでなく教育・医療・福祉などの社会領域にも浸透した(※何れも行政領域では)。新公共管理には、他律的な”Making Managers Manage”(させる)と自律的な”Letting Managers Manage”(任せる)の側面があった。
・近代的主体は従うべき原理を内面化したため、自分を自分が評価し、自律性は保障されていた。しかし現代的主体は説明責任を求められ、常に他者から評価される。その評価結果に自己のフィードバックを加える事もできるが、外的なフィードバックも働く。この外的なコントロールが「モニタリング/アカウンタビリティ」「貨幣的コントロール」である。
・現代社会が監査社会/監視社会と云われるのは、評価が自己と他者/内部と外部からなされるからである。評価基準も内外で作成され、フィードバックも内外からなされる。現代社会は構造制御から過程制御に重きを置く社会に移行した。※PDCAなど、常に評価が付きまとう。
・近代民主主義は構造制御の形態である。ところが現代社会は不確実性が高く、状況変化に対応するため、モニタリングや内外からのフィードバックを働かせる過程制御を発達させた。これは他律的、かつ自律的なメカニズムである。
・このメカニズムは自己創造的な作用を及ぼす可能性があるが、自己破壊的な作用を及ぼす危険もある。この自律性と他律性を備えた共律型自己組織化が近代民主主義の機能分化を揺るがせ、近代民主主義の危機を招いている。※何か政治から離れてきた感じ。政治はそのために権力の循環があるのでは。
・現代の自己組織化にはもう1種類ある。自律と他律の中間形式の共律型自己組織化で、ミニ・パブリックスや社会運動に内在する。これは社会的協働性を生み出す自発的な共振性に基づいており、ソーシャル・イノベーションの性格を持つ。※以下のソーシャル・イノベーションの説明は勉強になる。
・現代社会は複雑化し、国家/企業/NPO/ボランティアなどの多様な主体が協力し、問題を解決する方法がソーシャル・イノベーションである。フランシス・ウェストリーは、社会問題には「単純な問題」「煩雑な問題」「複雑な問題」があり、現代社会で複雑な問題が増えたため、ソーシャル・イノベーションが広まったとした。複雑な問題は結果の不確実性が高く、問題の解決には多様な主体の協力が必要になる。
・ソーシャル・イノベーションで行われる評価は、予め定められた「一般的評価」ではない、状況変化に応じて変化する学習型の「発展的評価」となる。
・ソーシャル・イノベーションは「ティッピング・ポイント」に達すると、大きなうねりになる。これはデュルケームの云う「集合的沸騰」に相当する。1990年代ブラジルの「HIV/AIDS制圧運動」は医療機関/教会関係者/慈善団体/政府などの主体の関与で劇的に回復する。
・この様にソーシャル・イノベーションは、説明責任より学習を重視し、主体間の協働を重視する。従ってソーシャル・イノベーションの特徴は、自律と他律の中間的な形式の共律性である。※中間とする理由は上下関係がなく協働的だから?
・ミニ・パブリックス/社会運動は、この共律型自己組織化に相当する。ミニ・パブリックスの成否は、討議者の理性と社会的な共振性に掛かっている。社会的な共振性はミニ・パブリックスにも内在する。※「社会的な共振性」とは、世論への共鳴みたいなものかな。
・コーポレート・ガバナンスをモデルにしたガバナンス構造は、「自律と他律の混在形式としての共律型自己組織化」であり、新しい民主主義的実践(ミニ・パブリックス、社会運動)は、「自律と他律の中間形式としての共律型自己組織化」である。現代社会のガバナンス構造では、「上からのモニタリング」に基づく規制的権力(非統制的な統制、※ガバナンス改革の説明では、脱統制的な統制だった)が作動するが、新しい民主主義的実践では「下からのモニタリング」に基づく対抗的権力が作動する。
・社会の自己組織化には、それぞれの歴史性・特殊性が刻印される。そのため全ての時代・社会に貫通する自己組織化の形態は存在しないが、心情的な共振性・同調性に基づく自己組織化を「原始的コミュニケーションによる自己組織化」と呼ぶなら、これはどの時代・社会にも基層として存在する。
・人は誰しも最初から自己と他者を区別しない。精神的発達により自他を分節するようになるが、それでも自他の一体性は最古層に残る。近年、協働性や利他的な精神の起源の研究が盛んだが、最終的には自他の一体性に由来する情動的な共振性・同調性に行き着く。「原始的コミュニケーションによる自己組織化」「集合的沸騰」は、情動的な共振性・同調性が支えになっている。※結局感情論?
・インターネットは、この潜在していた可能性を解放した。遠隔デモクラシーに内在する共律型自己組織化は、原始的コミュニケーションと情報技術の上に成立した。
・現代社会は、近代的個人と国民国家に象徴される近代の自己組織性から乖離し、2種類の共律型自己組織化が出現した。近代民主主義の内外で発生している可視的・不可視的な危機も、新しい民主主義的実践も、自己組織化様式の変容を物語っている。
・民主主義の議論は政治システムの内部に対して行われてきた。しかし近代民主主義の危機は政治システムの内外で起きている。民主主義は自己組織化の一形態であり、現代社会が変容してきた以上、社会をどう統治するかを問う必要がある。
・ミニ・パブリックス/社会運動などの新しい民主主義的実践が現れてきたが、それで民主主義の危機が克服された訳ではない。民主主義の核心は人間の意志で社会を統治する事にあるが、それができるのはどの様な仕組みだろうか。