『近代政治哲学』國分功一郎を読書。
最近本を読んでいて、政治・経済学者の理論がよく出て来る。その基礎知識の習得のため本書を選択。
ボダン/ホッブズ/スピノザ/ロック/ルソー/ヒューム/カントの理論の要点を解説しています。
自然状態/社会契約論/主権/民主主義などが解説の中心です。
私などの政治音痴には適度の内容で、政治の理論を知れて良かった。
お勧め度:☆☆☆(政治哲学は面白そう)
キーワード:<近代政治哲学の原点>封建国家、契約、宗教、宗教戦争、近代国家、ジャン・ボダン、主権、立法権、領土、<近代政治哲学の夜明け>トマス・ホッブズ、自然状態、自然権、社会契約、コモン・ウェルス、主権、<近代政治哲学の先鋭化>スピノザ、法則・規則、反復的社会契約、自由/隷属、認識、民主制/貴族制/君主制、<近代政治哲学の建前>ジョン・ロック、主張、所有、主権、立法/行政、抵抗、<近代政治哲学の完成>ジャン=ジャック・ルソー、社会状態、一般意思、立法者、執行権、<近代政治哲学への批判>デイビッド・ヒューム、経験論、共感、黙約、一般規則、忠誠、<近代政治哲学と歴史>イマヌエル・カント、進歩、平和論、民主制/共和的、民主主義、<結論に代えて>行政
<はじめに>
○政治哲学は存在するか
・「近代」とは?「政治」とは?「哲学」とは?、これらは極めて重要な問いである。様々な問いがあるが、結局のところ、限定された条件の下で議論を進める。
○本書にとっての近代政治哲学
・ありふれた定義は、「近代」は16世紀以降で、国家体制が模索された時代である。よって「政治」は国家に関わる諸事象となり、「哲学」はそれらの事象を論じた書物となる。そのため本書はただの反復になる可能性があるが、それに意義があると思っている。
・その理由は、私達はその「近代政治哲学」が構想した政治体制の中で生きているが、それが余りにも多くの問題があるからである。これらの諸問題は、メディア環境の変化(メディアの多様化、世論の流動化)、経済環境の変化(グローバル化による国家的規制の弱体化)と切り離せない。諸問題に応えるためには、現代社会を分析する必要がある。
・また現代政治が「近代政治哲学」により構想されたものである以上、その概念を詳しく検討する必要がある。
<第1章 近代政治哲学の原点>-封建国家、ジャン・ボダン
○近代国家と封建国家
・「政治」は近代国家の事象である。それ以前は「封建国家」だった。これには3つのポイントがある。①封建国家は9~13世紀の典型的な形である。従って13~16世紀は、その維持が困難になった期間であり、封建国家の問題に何らかの期待があった期間でもある。②封建国家には多数の独立権力が存在し、「網の目状」に組織化されていた。③国王と独立権力の関係である。
○封建国家における主権
・歴史家マルク・ブロックが『封建国家』を著している。当書は封建国家の生成から、その詳細までを論じている。彼は「王権などの上位権力は実効性に乏しかった」とした。王権は「権力」と云うより「権威」だった。例えば「王に触れると病気が治る」(王の奇跡)とされ、王は各地を巡幸した。
○封建国家という地方分権社会
・王権は権威であり、実際の統治は封建領主が行っていた。頂点は神聖ローマ帝国/王国だが、下はバロン領/城主領だった。要するに「網の目状」の地方分権社会だった。
・これを作り出していたのが「契約」だった。主君(封主)は家臣(封臣)に土地/官職/金銭/徴税権などの封を授与し、その保護と養育(?)を約束する。これに対し家臣は主君を裏切らない事(消極的な義務)と軍事的な奉仕(積極的な義務)を約束した。
・これは双務的な契約で、封主と封臣は対等だった。さらに家臣は複数の主君と契約する事もあり、12世紀のバイエルンの伯は20人の主君を持っていた。※主君同士が争うと、どちらに着くか迷うな。
○領土なき人的結合
・そのため封臣の支配地が、どの国に属するのか断定できない。要するに封建国家には「領土」の概念がなかった。あるのは契約による人的結合だけであった。
・近代国家は立法権を持ち、法が通用するが、封建国家には立法権の概念すらなく、契約と慣習が法源だった。
○日本の封建国家体制
・ブロックは日本の封建国家体制についても述べている。日本では天皇に超越的な権威があり、明治新政府はこれを政治的正統性に利用した。また日本の封建性は厳格で、複数の封主に仕えるのを許さなかった。いずれにしても封建国家には普遍性があった。
○宗教的秩序の問題
・ここまで政治的側面を見てきたが、宗教的側面も重要である。現代では宗教にはプロテスタント的信仰(人間の内面を重視)とキリスト教原理主義(盲信、狂信)のイメージがある。ところが中世は善悪の規範であった。要するに宗教は社会の建前で、社会の流動性(革命)を抑制していた。
○封建国家を揺るがした宗教革命
・そのため宗教革命により封建的秩序が崩壊する。ユグノー戦争/30年戦争などの反省から、近代国家体制が生まれた。近代国家は30年戦争後のウェストファリア条約(1648年)から始まるとされる。
・宗教戦争は、封建国家の複雑で繊細なネットワークにおける内戦だった。宗教戦争により正統性(何が正しい)の根拠が失われ、政治秩序が混乱した。※頂点の宗教が分裂したので、影響は大きいだろうな。
○新しい国家体制の構想
・宗教戦争により新しい政治体制が構想される。それが仏国の公法学者ジャン・ボダン(1530~96年)である。1576年『国家六論』を著す。彼はユグノー戦争(1562~98年)に巻き込まれ、ユグノーを標的にし、強力な君主制が必要とした。彼は「絶対主義国家」の擁護者となった。
○主権概念の誕生
・「絶対主義国家」は16~18世紀に欧州で現れた。名前に絶対が付いているが、初期においては脆弱な権力だった。そのためボダンは「君主に対する不服従・抵抗は、非合法である」とした。また「君主を冒涜してやろう」と思い付いただけでも「死に値する」とした。彼がどれだけユグノーを憎んだかが推し量れる。※中立の立場からは、顕著な理論は生まれないのかな。
・彼は重要な概念を生んだ。「主権」である。彼は「君主は絶対不可侵の主権者である」とした。
○主権とは何か
・主権には対外的な主張と対内的な主張がある。対外的には国家はいかなる権威からも独立している。またそれが主張されると戦争となる。一方対内的には超越性を意味し、被治者の支配・拘束である。彼が最も主張したのが対内的な主張だった。
・対内的な手段は立法である。彼は「主権者は臣民の同意なしに法律を与えられる」とした。彼の考え方は新しかった。当時は支配者は「裁き手」「司法権の担い手」と考えられていた。この立法権は近代に生まれた概念である。※当時は統治=裁判権だったのか。
○疑われなかった主権の概念
・現代では主権は「国民主権」「人民主権」など、”清潔”なイメージがある。この主権はあらゆる反抗を押さえつける機能で、戦争と立法の権利である。この主権を行使するために「領土」の確定が必要になった。これも近代国家で生まれた概念である。
・近代国家は絶対主義から民主制に移行するが、主権の概念は存続する。
※本章は基本かな。封建制は何となく理解している。問題はこれからだな。
<第2章 近代政治哲学の夜明け>-ホッブズ
・封建国家が崩壊し、絶対君主制(ウェストファリア体制)が必要になりました。これを支えたのが主権の概念です。主権の対外的な主張は自立性で、具体的には戦争の権利です。対内的な主張は超越性で、具体的には立法の権利です。
・本章は、近代政治理論を打ち立てたトマス・ホッブズ(1588~1679年)を取り上げます。彼は『リヴァイアサン』を著しています。
○自然状態の理論
・彼は「社会契約論」で有名だが、その基礎となる「自然状態」が重要である。自然状態とは、「いかなる権威も存在しない状態」である。17世紀社会秩序が崩壊した事により、この原点からの議論が盛んになった。
・彼が自然状態で最初に指摘するのが、「人間の平等」である。これは今日の平等と異なり、「人間に大差はない」「能力の平等」「どんぐりの背比べ」と考えれば良い。
○能力の平等から希望の平等へ
・彼はこの「能力の平等」から「希望の平等」が生じるとした。「あいつがあれを持っているので、俺もあれを持ちたい」などである。この「希望の平等」の第一段階は、他人に対する妬みや権利要求になる。第二段階になると、逆に「他人は自分に対し妬みを持っているかもしれない」となる。「他人に狙われるかもしれない」と疑心暗鬼になり、この相互不信が常態化する。※極端な思考だな。融和すれば良いのに。
○希望の平等は戦争状態を生む
・「他人に狙われるかもしれない」となると徒党を組み、先手を打って攻撃するしかない。そのため彼は自然状態を戦争状態とした。この状態は相互不信から、戦闘がいつ起こってもおかしくない状態である。彼は戦争を出発点に置いた哲学者である。
○自然権の登場
・この自然状態において重要なのが「自然権」である。自然状態は権威が存在しないので、これは「自分の好き勝手にする自由」となる。「自然権=自然な権利」は奇妙な概念である。権利となるには、それを認める上位機関が必要である。しかし自然状態にはそれが存在しない。従って「自然権」は権利とは云えず、あくまでも「何でもできる自由」である。
○2つの自然法と自然権の放棄
・自然権が必要になったのは、これを規制する国家の正当性を理論付けるためである。
・彼は「自然状態には2つの法則(自然法)がある」とした。1つは、「人は平和・安全を望み、そのために努力し、自然権を行使する」とし、「そのため必ず戦争状態に陥る」とした。2つ目の法則は、「平和・安全を望むなら、自然権を放棄するしかない」である。※自然法って、こんな概念だったかな。自然法は倫理みたいだけど。
○ホッブズは何を擁護しようとしたか
・彼は「自然権を放棄するには、それを譲渡するしかなく、その対象は一人の人間か合議体になる」とした。これが「社会契約」であり、その対象が「コモン・ウェルス」である。「リヴァイアサン」は聖書に出てくる怪物だが、これを主権者とし、他の者を臣民とした。この主権者に英国王やクロムウェルを想定していたと思われる。
・彼は自然権の放棄と主権の絶対性を理論化した。それは彼が内乱・内戦を嫌悪したからだ。
○「設立によるコモン・ウェルス」と「獲得によるコモン・ウェルス」
・彼は契約論による自然権の譲渡先に「設立によるコモン・ウェルス」を想定しているが、別の仕方で生成される「獲得によるコモン・ウェルス」も想定している。このコモン・ウェルスは「強力」(主権者が恐怖・脅しで従わせる)による契約である。自然状態であれば、当然成り立つ契約である。
※ならば「設立によるコモン・ウェルス」は「契約によるコモン・ウェルス」に、「獲得によるコモン・ウェルス」は「強力(または恐怖や暴力)によるコモン・ウェルス」にすれば良いのに。
○「獲得によるコモン・ウェルス」というリアル
・自然状態であれば「やられる前にやる」の理論から、「獲得によるコモン・ウェルス」が生成される。ならば「設立によるコモン・ウェルス」を、どう考えれば良いのか。
・実は彼の理論は、当初から欠陥が指摘されていた。全員一致で自然権を放棄する事があるだろうか。そのため社会契約によらない現実的な「獲得によるコモン・ウェルス」を展開したのでは。もっと正確に言えば、自然状態で最初に「獲得によるコモン・ウェルス」が作られ、その結果「既に自然権は放棄されているのだから、臣民は主権者に従え」となり、「設立によるコモン・ウェルス」となるのでは。
※人間は生まれてから大人になってから契約する訳ではない。親が勝手に契約している。通常「設立によるコモン・ウェルス」になる。「獲得によるコモン・ウェルス」は戦争の結果、他国を併合した時などかな。これは余り深く考えたくない疑問だ。
○自然権は放棄できるのか
・彼の国家論の核心が、自然状態が前提の「獲得によるコモン・ウェルス」にあるなら、自然状態は克服されていない事になる。「自然権の放棄」と簡単に述べられているが、正確に言うと、「何でもする自由を持っているが、それをやらない」だけである。
○自然状態から逃れられない
・「自然権の放棄」は、実際は自制である。罰せられるから、やらないだけである。やろうと思えばできる。つまり人間は常に自然権を保持しており、自然状態から逃れられないのだ。これらは『リヴァイアサン』に述べられていない。
○「設立によるコモン・ウェルス」という建国神話
・「設立によるコモン・ウェルス」は自然状態論と矛盾するが、「設立によるコモン・ウェルス」が政治哲学のメインストリームになる。
・自然状態で併合が進むと、相対的に安定した「平和」が訪れる。この状態に必要とされるのが建国神話であり、「皆でこの主権者に従おう」とする「設立によるコモン・ウェルス」である。
・世界は相対的な安定状態(平和)にある。これらの国々を上から統治する権力は存在しない。戦争がいつ起こっても不思議ではない。※自然状態・自然権は個人に対する言葉なのに、国に対しても使うのか。
・彼は正直な理論家である。「設立によるコモン・ウェルス」だけ論じれば良かったのだが、自然状態論を打ち上げた以上、「獲得によるコモン・ウェルス」も論じなければいけなくなった。
○ホッブズの主権の定義
・コモン・ウェルスは主権を有する。主権には対外的には自立性の主張で、対内的には超越性の主張である。彼は12の主権を明記している(※以下大幅に簡略化)。①統治形態を変えない、②主権者は権力を剥奪されない、③多数派である主権に対する抗議は不正義、④臣民は主権者の行為を非難できない、⑤臣民は主権者の行為を処罰できない。以上は主権の不可侵性を規定している。※絶対的だな。
・⑥主権者は平和・防衛の判定者、⑨主権者は和戦の判定者、⑩主権者は和戦の忠告者・代行者を選べる。以上は対外的な主張の規定である。
○統治の手段
・⑦臣民に対する諸規定を作る権利、⑧争論に関する司法と決定(※裁定?)の権利、⑪報酬・処罰する権利、⑫称号・地位・位階を与える権利。以上は対内的な超越性の主張の規定である。
・彼もボダンと同様に立法権を定義している(⑦)。また所有権の保護を重視している。また司法の決定は、市民法と自然法に従って下されるとした。また法律だけでなく、功名心・名誉欲・恥などの感情も統治の手段とした。
○統治が抱く欲望
・また「⑥平和・防衛の判定」において、「主権者は、どの学説が臣民に教えられるかの判定者である」としている。これは世論・イデオロギーの統制であり、情念を重視する彼らしい洞察である。※メディア統制だな。
・対外的な権利は現在と変わらないが、対内的な権利は現在と大きく変わり、情念の統治を認めており、範囲は広大である。彼は統治の維持を強く意識していた。※主権が絶対的である以上、思想のコントロールが不可欠になる。
<第3章 近代政治哲学の先鋭化>-スピノザ
・ホッブズは自然状態論により近代政治哲学を立ち上げた。しかしパイオニア故に、不完全な理論だった。それを補ったのが、スピノザ(1632~77年)などである。彼はホッブズの政治哲学に全面的に依拠しているが、論理を徹底した事でホッブズと異なる結論となった。
※スピノザはユダヤ人で不遇な人生を送っている。『神学・政治論』は生前に刊行されているが、『国家論』『エチカ』は遺稿集である。
○法則・規則としての自然権
・彼も自然権を論じている。ホッブズは自然権を「自分の思うがままにする自由」としたが、彼は法則・規則としている。『神学・政治論』で、「自然権は思うがままにする自由であるが、そこには条件がある。魚は海を泳げるが、陸を歩けない。人間は陸を歩けるが、その速度には限界がある」とした。要するに「自由だが、そこには法則・規則・制約がある」とした。
○『エチカ』の構想
・彼は自然権を「自然の法則・規則」とした。さらに『エチカ』(倫理学)で、「人間であれば、細かい手作業に向いている人もいれば、数学が得意な人もいる。その個性を活用する事で、最大の結果が得られる」とした。
○スピノザ的自然権の具体性
・彼の自然権の定義はホッブズを逸脱していない。しかし力の行使に規則・法則などの条件があるとした。これは彼が、より具体的に考えていた事による。
○恐怖による信約からは逃げれば良い
・ホッブズは「恐怖によって結ばれた信約は義務的である」とした。これに対し彼は『神学・政治論』で、「強盗に脅され、何でも差し出すと約束しても、そこから脱せられるのなら、強盗を騙しても良い」とした。自然権は自分の力を自由に用いる事ができるので、そうするだけである。そもそも自然状態は義務など存在しない状態である。ホッブズの理論には矛盾が含まれていた。
○自然権の保持
・同様の指摘を「自然権の放棄」でも行っている。彼は「自然権を放棄する事はできない。規則・法則により力の行使を自制しているだけである」とした。
・自然権と国家の関係を、『国家論』から見る。ここでも「人は社会や国家の中で、自然権を放棄できないが、それを適度に自制している」とした。また「それは規制されるのは不快だが、自制した方が利益が大きいからだ」とした。※人間は損得で動く。経済的な考え方に進歩した。
・彼は4種類の社会契約を述べている。①理性の指図に従う、②他人に害を与えたくても我慢する、③自分がされたくない事は、他人にしない、④他人の権利も自分の権利と同等に尊重する。※この解説はない。
○反復的契約論
・彼は社会契約を、「より大きな利得のため、各人が反復し、再確認している約束事」とした。彼は社会契約を一回性の契約ではなく、反復的とした。「臣民は自然権を放棄する事なく、国家の規制を受け入れる。それはより大きな利得のためである」とした。ここには国家と臣民の緊張関係が収められている。彼は革命を否定したが、この緊張関係が社会を健全に保つと考えている。
○民衆の隷属
・彼は国家と臣民の緊張関係を述べているが、これは国家と臣民の両方の横暴を警戒したからである。彼は『国家論』で君主制/貴族制/民主制について詳細に述べている。彼は民主制を望んだが、それが直ぐに実現されるとは考えていない。当時は宗教内戦があり、情念に駆られる民衆を見ており、知識人は民衆を強く警戒していた。※暴力が常態化していたのかな。
・彼は「なぜ民衆は迷信を信じ、隷属に向かうのか(?)。隷属は自由ではない。重要なのは自由を勝ち取る事ではなく、自由を担う事だ」「人生・社会・自然は人間の思う様にならない。そのため人間は恐怖に駆られ、自由にものを考えず、宗教や幻想などの迷信を信じる。人間は恐怖・不安から逃れるため隷属する」とした。※彼の隷属/自由の意味が分かった。
○認識がもたらす自由
・彼は『エチカ』で自由の問題を詳細に検討している。彼は「人間は自由より、隷属を求める」とし、さらに「恐怖・不安に立ち向かえるのは認識」とした。彼は認識を「例えば数学の法則を理解した時、同時に理解するとは何かを理解する」とした(※意味不明)。言い換えれば、認識は自然権の定義が言及していた規則・法則を理解する事である。※これも意味不明。法則を理解す事と、もう一つは何だ?
・人間は自分の精神や身体の力を知らない。駆けっこを教えていない子供は、駆けっこの仕方を知らない。駆けっこの仕方を教えると、それなりに速く走れるようになる。※走る方法は習わなくても習得している。
・理解する事は、我々の心身・法則・規則を理解する事になる(※もう一つの理解は何?)。これによって不安・恐怖の原因も理解できる。※結局、「能力・法則・規則を理解すれば、不安・恐怖の原因も理解される」かな。
○貴族制と議会制民主主義
・国家理論に話を戻す。『国家論』で「最高権力」(主権)は対内的には立法権・司法権、対外的には戦争の権利としている。また政治体制に関しては、会議体が全民衆で構成されれば「民主制」、選ばれた人で構成されれば「貴族制」、一人の手中にあれば「君主制」としている。よっていずれの政体も民主的になる可能性がある。
・ここで注意しないといけないのは、貴族制の「貴族」は選ばれた人で、今の議会制民主主義/代議制に相当する。従って今の社会は、貴族制を民主制/民主主義と呼んでいる。※民主制本来はは直接民主主義かな。
・彼は民主制を「絶対統治」としているが、彼が亡くなったため、その詳細は不明である。また貴族制を「絶対統治」に最も近い統治としている。※彼が民主制を定義していたら、今の世界は違ったかも。
○君主制
・君主制も、私達が考える絶対君主制と大きく異なる。彼は「絶対的な権力で押さえつけると反抗は起こらない。しかしこれは奴隷の状態で、これを平和と勘違いしてはいけない」とした。
・さらに「各人が自然権を自制するには、相応の利得が必要である。これを一人の君主が負うのは困難で、彼は執政官・顧問官を集め、彼らに権限を委ねる。これは貴族制に近いが、内密の貴族制で、最悪の体制である」とした。※当時は大半の国がこの宮廷国家だったのでは。それを批判したのかな。ボダンと異なり、反体制派かな。
○権力集中は、むしろ統治を害する
・そのため「君主の権限が強まれば強まるほど、統治は不幸になる」とした。これは鋭い分析で、絶対君主制国家は途方もない権限(主権)を君主に与えた。彼はこの対策として「そのためには多数の顧問官を国民の中から選ぶ必要がある」とした。これにより君主制も民主的性格を確保できるとした。
・彼はホッブズの政治哲学を基礎にしているが、結論は正反対になった。ホッブズは「恐怖こそが社会秩序をもたらす」としたが、彼は「人が恐怖・不安で自由を放棄し、隷属する様では国家は破綻する」とした。また「権力を集中させると統治は上手くいかない。民衆の自由を保障し、民衆が統治を監視できる体制が必要だ」とした。これは今の政治思想と一致している。
○立憲主義への道
・主権の対内的・対外的な規定の他に、主権の不可侵性も重要である。彼は『神学・政治論』で主権侵害を厳しく弾劾している。彼は「最高権力(主権)を奪取したり、譲渡するだけでなく、企てるだけでも罪になる」とした。ただし「最高権力は何でもできるが、無理難題を強制すると最高権力自体が破綻する」とした。
・彼は「最高権力は法に拘束されるか」についても問うている。彼は「国家が法を決定するため、国家は法に拘束されない」とした。しかし国家も万物と同様に法則・規則に拘束されるはずである。この点から彼の議論も十分に練られていなかった。18世紀になると国家の統治を制限するための最高法規(憲法)の考え方が主流になるが、彼は「万物に普遍の規則」を先取し考案した。※考案しただけか。
<第4章 近代政治哲学の建前>-ジョン・ロック
・ジョン・ロック(1632~1704年)は生前から名声を博し、体制にも参加している。彼の政治哲学は、勤勉で合理的で自己判断する個人を前提にするが、これは近代の中心的なイデオロギーになっている。
・しかし彼の政治哲学(特に自然状態論)に一貫性はない。後の政治哲学者は『政治二論』を、「彼は哲学者として哲学者に語ったのではなく、英国人として英国人に語った」と酷評している。
○一貫性を欠く自然状態論
・哲学は概念を用いて根拠を問う。新しい哲学が生まれるのは、それまでの根拠が問われる時である。ホッブズ/スピノザには、それがあった。根拠を問わない理論は哲学ではなく、単なる主張である。彼の自然状態論は主張に過ぎない。
・ホッブズは「希望の平等」を根拠に自然状態論を説いたが、彼の自然状態論に根拠は見られない。「自由な状態だが、放縦の状態ではない」と述べているが、その根拠は示されていない。
・また彼は「自然法は『人は平等かつ独立しており、他人の生命・健康・自由・財産を傷付けるべきではない』と教える」としているが、自然状態に、そのような権威・強制力は存在しない。
・また彼の論述には、「~すべき」「~してはならない」などの文章が多く、これは哲学ではなく、主張である。
※著者の彼に対する評価は厳しい。彼の理論が各所で転記されているが、正に結果の記述だけで、「~だから、~である」になっていない。
○所有とは
・彼は「所有権」を認めたとして有名である。かれの主張は所有権が既定のものとして始まっている。森で採ったドングリやリンゴが人の所有物になるのは、所有制度が保証されているからである。
・人は土地を所有できるだろうか。土地の所有者はその土地を作った訳ではない。土地が所有できるのは、その所有制度があり、その法の執行を国家が暴力装置(警察、軍隊)で保証しているからである。
・この所有制度だと、人の身体も所有できる事になる(奴隷制)。所有は自然に真っ向から対立す制度である。従ってこの所有制度への警戒を怠ってはいけない。※最近「米国の自由は、土地の所有に始まる」とし、これを批判する本を読んだ。
○立法権としての主権
・彼は「何を正当化するか」ばかり考え、根拠を考えていない。当時「労働が所有権を保証する」との考えがあり、彼はその要請に応えた。
・彼は事実的な権力(?)には言及せず、「法が国家を権威付ける」とした。これは英国の絶対主義は敗北し、国王の委任問題は「権利章典」で既に解決していたからだ。※1688年名誉革命が起き、翌年「権利章典」が宣言されている。
・彼の主張は後世に大きく影響した。特に照準を合わせないといけないのが「主権」である。彼は主権を「最高権」として表現しているが、これを立法権と同一視している。主権を立法権とするのはボダン以来で問題にはならないが、問題は立法権と行政権の関係である。
○行政は単なる執行機関か
・彼は立法権を最高の権力とし、行政権をそれに従う権力としている。これは今も通用する建前である。しかし実際は執行機関は様々な決定を行っている。
・そもそも法律は、その対象を全て予測する事は難しく、一般的なルールを定めるが、個別の対応を定める事はできない。例えば公共施設を作る際の手順は決められるが、その設計はできない。また外交権を外交官に与えても、個別の対応を決める事はできない。この様に法律の運用は、制定以上に重要である。
○立法の限界と強大な行政権
・この様に多くの部分が行政の裁量に委ねられている。彼は「立法で予見できない事は、行政の裁量に委ねるべきだ」と主張している。これは現代にも通じる。
・また彼は「行政権と連合権(戦争・条約締結などの外交権)を統合すべき」としている。これも現代に通じる。※条約締結などは国会の採決が必要では。
・また彼は「立法府は常設される必要はない」「立法府を招集・解散する権利は、行政府にある」としている。この様に彼が構想する国家体制は、今の国家体制と相当一致している。
※建前上は生まれたばかりの議会に信を置きたいが、行政機関の絶対的な権力から逃れられなかったのでは。
○建前論と近代国家の欺瞞
・彼の国家体制と現代の国家体制は驚くほど一致している。行政機関は法の執行により、事実上の法の決定機関になっている。
・彼は行政府に連合権/行政権を与えている。さらに立法府を招集・解散する権利も与えている。それなのに「行政府は立法府に優越しない」としている。これは建前としか思えない。さらに彼は行政府に法によらない「大権」(※緊急事態法?)を認めている。これは独裁的な権力である。
・この彼の建前論が、「近代国家の欺瞞」を支えていると考えられる。これがもたらした害悪の一つが、行政組織に対する視点の欠如である。近代国家は主権(立法権)により国家を統治するのを最大の課題とした。絶対君主制の初期は立憲体制が確立していなかったため、行政権力による独裁が甚だしかった。それなのに「立法権が行政権に優越する」と主張し続けた。※現実は行政権が優越しているため、民衆に希望を持たせ、自論を受け入れてもらうために建前論を主張したのでは。この建前論が今も続いているのは悲しいが。
○行政国家の問題
・スピノザは「権力が過大になると代理人(※顧問官?)が必要になり、立法だけでなく行政も重要になる」とした。ホッブズの「リヴァイアサン」は主権を頭脳とし、各機能を担うパーツから成る機械装置である。ここでも主権(立法?)と行政の緊張感が述べられている。行政権力が主権(立法)の支配を逃れ、自立的に国家を動かす問題は、古くて新しい問題である。
○ロックの描いたリアリティー
・彼は建前論を続けるが、『市民政府論』(※『政府二論』など様々な呼称がある)の最後の4章(第16章「征服」、第17章「簒奪」、第18章「専制」、第19章「政府の解体」)は迫真の理論になっている。
・彼は「征服」で、ホッブズの「恐怖によって結ばれた信約は義務的である」と同様な理論を展開している。さらに「大盗人(※国家?)は小盗人を処罰し、服従させる。しかも大盗人は月桂冠や凱旋式で報いられる」とした。さらに「侵略と犯罪は同じ性質と云える。大国が小国を侵略すると正当化され、称賛される。それは正義が余りにも小さいからだ」とした。※国家の行為と個人の行為を同レベルで扱わない方が良いと思う。
・彼はこの征服が自分の身に起こる事を、真剣に考えている。「もしこうした侵害を受けても、法に訴える事はできない。忍耐以外ないだろう」。子・孫の世代まで出し、「息子達が訴えを繰り返し、権利を回復させるだろう」と述べている。※他国の侵略に怯える時代だな。
○抵抗権を認める
・「抵抗権」は侵略者や、不当な統治を行う国王・政府に対し抵抗する権利である(※ここも国と個人の権利を同レベルで扱っている。そんな事、不可能と思う)。「ロックは抵抗権を認めた」とされるが、その解釈は混乱している。※彼の解釈と周囲の解釈、どっちが混乱しているのか?
・「民衆の抵抗は否応無しに起こり、認める/認めないの問題ではない」と述べている(※自然権だな)。彼は強盗に対する抵抗(正当防衛)を例に挙げている(※これは犯罪に対する抵抗なので別問題。ここで論じない方が良い)。政治体制に対する抵抗では、法に反する統治に合法的に抵抗するのは抗議活動である。
・「抵抗権を合法と認める」、これは矛盾する。抵抗される権力側は、自分達を転覆される権利を認める事はしない。認めるのは、あくまでも合法の範囲の抵抗だけである。
・抵抗権を自然権とする理論もあるが、「何々権を自然権として認める」のはおかしい。自然権は何でもできるので、許可される権利ではない(※「自然権に抵抗も含まれる」で良いのでは)。抵抗権を自然状態の自然権として「認める」のはおかしい。自然権は、認める/認めないの話ではない。※しつこいな。
○合法ではないが正当な抵抗
・「合法ではないが正当な抵抗」は存在する。圧政への抵抗、徴兵の拒否などがある。これらは非合法だが、正当と云える。これらを自然権で片付けるのは虚無である。ならば自然権の中の非合法なものを、正当/不当に分ける規範があってもおかしくない。※これは著者の意見だな。
・しかしその正当の範囲を定めるのは困難である(※色々説明があるが省略)。また「非合法だが正当」と認めるのは、その行為を助長する恐れがある。抵抗権が認められるのは事後的な事である。
○野生動物としての自然状態/自然権
・彼は『市民政府論』の最終賞「政府の解体」で、「人民の所有権を奪ったり、人民を奴隷に陥れる場合、彼らに与えた権力を人民に戻せる」としている。これは自然権について語っているに過ぎない。
・自然状態での規範性や所有権を認めたり、抵抗権を認めたりする態度は、まがまがしい事実から目を背ける態度であり、自然権(野生動物)が飼い慣らされた人の態度である。
・彼の時代は野生動物が既に飼い慣らされた時代のため、彼の政体論は大半が建前である。しかし末尾の「征服」「簒奪」「専制」「政府の解体」に限り、自然状態/自然権を呼び戻し、それを語っている。
<第5章 近代政治哲学の完成>-ジャン=ジャック・ルソー
・欧州の17世紀は宗教戦争などでズタズタになり、世界観を作り直そうとした世紀である。そのため根源を問う哲学が多く、それは「土木の哲学」と云われる。次の18世紀は、整い始めたインフラの上に建築物を建てる世紀で、その哲学は「建築の哲学」と云われる。その後市民革命が起こるが、この哲学(※どっち?)がその素地を提供している。
・政治哲学で一定の完成をもたらしたのがジャン=ジャック・ルソー(1712~78年)である。彼は、自然状態論/社会契約論/主権論を整った形にした。また彼の哲学は後世に絶大な影響を与え、民主主義の基礎になった。
○人が穏やかに自由に生きる自然状態
・彼も自然状態を、政治哲学の出発点にしている。ただ今まで論じてきたものとは大きく異なる。彼は自然状態を「人は穏やかに自由に生き、概ね平和である」とした。一方ホッブズは自然状態を戦争状態としている。
・なぜ正反対なのか。それは彼が「自然状態では、人はバラバラに生きている」としたからである。※ヒトは最初から集団で生きているので、この状態は無意味では。まあ現実と対比させるためであれば、無駄ではないが。
○自然状態には支配がない
・人が孤立して生きているため、支配・服従は存在しない。所有の制度がないため、支配・服従も生まれない。しかし現実は社会状態となり、邪悪な者が得をする状況になっている。
○自己愛と利己愛
・彼は自然状態と社会状態を説明するのに、「自己愛」「利己愛」を使用した。自己愛は自分を守ろうとする気持である。これは孤立して生きている自然状態でも存在する。一方利己愛は自分と他人を比較し、他人より上位に立とうとする気持である。これは社会状態で発生する感情である。
・自然状態だと動物に食べ物を奪われても、「自然の出来事」として片付けられる。ところが社会状態で他人に物を奪われると、「自然の出来事」として済まされず、恨みの感情を抱き、復讐するかもしれない。そこには平等の意識があるからである。人は利己愛/平等の意識により、憎悪・復讐心を持つ。※最近「平等を認識するため、格差を感じる」とする本を読んだ。
○なぜホッブズとルソーで自然状態の記述が正反対なのか
・ホッブズと彼の自然状態が正反対なのは、「ホッブズの自然状態=彼の社会状態≠彼の自然状態」だからである。彼の自然状態は、ホッブズの自然状態からさらに遡った状態なのだ。彼は権力・権威/支配などが全く存在しない状態を自然状態とし、何らかの社会的な拘束力が働く社会を社会状態とした。ホッブズの自然状態(=戦争状態)は、彼に言わせれば社会状態なのだ。
・ただし彼は「自然状態は存在した事はないし、将来も存在しないだろう」とした。一方ホッブズは「自然状態は戦争状態で、自制が解かれれば、いつでも戦争となる」とした。
○ルソーにおける社会契約
・次に社会契約について考える。ホッブズの社会契約論は、「契約したのだから、主権者に従わなければならない」(設立によるコモン・ウェルス)とする義務論だった。スピノザの社会契約論は、「各人が法を遵守する限り、契約を反復している」とし、国家と個人の間に緊張感があった。
・一方彼は社会契約を「正式に契約する事はないが、至る所で同一で、至る所で暗黙の内に是認されていた」とした(※難解。「契約は存在せず、暗黙の了承である」かな)。これには国家が明記されていない。彼は契約の意味を問い直しており、「現実を変革すべきだ」と述べている。※なぜ現実の変革に飛躍するのか。
○自分自身と結ぶ契約
・彼の社会契約は「人民が人民全体と結ぶもの」「自分で自分達と結ぶもの」である。これが人民主権に発展する。従って個人は主権者でもあり、国家の構成員でもある(二重の関係)。彼は「民主主義の祖」とされるが、むしろ政治体の基礎を問うたのだ。そしてそれを「民衆の力の集合」とした。※国家の起源は集団かな。
・ホッブズは服従的な契約を論じ、スピノザは反復的な契約を論じた。彼は「契約はどこにでもなされていると考えて良い」とした。※空気的契約かな。
○一般意思という謎
・彼は「各人は自分の全てを与え、その先は自分が一員である全体である」とした。そしてその主権者の意志を「一般意思」とし、その一般意思の行使を「主権」とした。※一般意思は新しい言葉だな。適切な言葉と思うが、総体意思/普遍意思とかもありかな。民意でもあるな。
・ただし、「一般意思は誤る事はないが、それを決議で正しく導き出せるとは限らない」とした。※世の中に様々な意見・利害があって、一意な答えを導き出すのは難しい。
○立法者という謎めいた人物
・彼は「民衆は幸福を求めるが、それを分かってない。そのために立法者が必要になる。立法者は優れた知性の持ち主だが、立法権は持たないし、行政機関でもなく、主権者でもない」とした。彼はギリシャのポリスが立法を外国人に委ねていた事や、イタリアの諸国がこれを真似ていた事に言及している。※日本だと官僚や諮問機関かな。
・一般意思/立法者は独裁を肯定し、民主主義を否定しているように思える。もう少し検討する。
○重大な誤解
・彼は「一般意思は個別的な対象に対し、判断を下せない」と繰り返し述べている(※幾つか本文を転記しているが省略)。社会には個別的な問題(いつ増税するか、条約に調印すべきか、ここに発電所を作るべきかなど)があるが、一般意思はこれに答えを出せない。
・彼は「一般意思の行使は、主権の行使」とした。彼は主権を明確に立法権としたので、これは「立法権の行使」となる。法律は一般的であり、個別的でない。法律に個別的な対象は含まれていない。
・「経済活動を行ったら、これだけ税金を納めなければならない」「盗みを働いたら罰せられる」などの法律は、個別的・個人的な対象を含んでおらず、一般的である。憲法も「基本的人権は侵せない」「国会は国権の最高機関」など一般的なルールでしかない。※何か一般意思に感じた重みが、軽くなってきた。
○一般意思の実現=法の制定
・そのため一般意思の実現は、法律・憲法となる。現に彼は一般意思と法律を同一視している。一般意思が正しいのは、憲法が正しいのと同一である。憲法には民主的手続きによっても侵してはならない原則が定められている。そのため立憲主義と民主主義は対立していると云える。彼は法律と憲法を区別していないが、「一般意思(法律、憲法)と民主主義が対立している」と考えられても不思議ではない。
・人は幸福を望むが、例えば熱狂によって誤った判断を下す事もある。そのため憲法に原則が規定されているのだ。またそのために立法者のような専門家が法律を確定したり、違憲立法審査を専門家が行っている。近代国家は下からの民主主義と、上からの立憲主義的な監視とのバランスで成立している。
・この複雑さ(両者の存在)から、彼の一般意思は誤解されている。
○一般意思はあらかじめ確定できない
・一般意思は一般的なルールに対してのみ有効である。また一般意思は法律が制定された後に、それが一般意思だったと確認される。すなわち一般意思は過去のものである。
・法律の成立により、一般意思が行使される。民衆は選挙により間接的に立法に関わっているが、そこには専門家である立法者が必要になる。
○主権と統治の関係
・彼は主権を立法権と定義した。これまで主権は、力・意志(?)/立法権・行政権/課税権/司法権/交戦権/条約締結権などに分割されてきたが、彼はこれらを主権(※立法権かな)から派生したものとした。行政機関による宣戦・講和や法律の適用などを主権と区別した。
・彼は「執行権は個別的行為であり、主権に属さない」とした。彼は立法(一般意思)と執行(個別的行為)との緊張関係を理解していたのである。
○ルソー=直接民主主義論者という俗説
・彼は市民より行政官が多い政体を「民主制」とし、逆に行政官より市民が多い政体を「貴族制」とした。そのため「民主制」は存在した事がない政体である。さらに政府を一人の行政官に委ねる政体を「君主制」とした。
・彼は一般意思の実現者でない政府が、統治の中心にならざるを得ないため、一般意思の担い手である主権者が政府に介入・管理できるよう、民会の定期的な開催を提案した。そしてこの民会で、第一議案「主権者は今の政府の形態を保持したいと思うか」、第二議案「人民(※主権者?)は今の政府に任せたいと思うか」を必ず提出させるとした。
・立法権として行使される一般意思は、個別的な事柄である執行権(特殊意思)の成否を判断できない。そのために執行権を定期的に監視する必要がある。※三権分立の源流かな。
・ボダン以来、主権は立法権とされてきた。彼もそれを引き継いでいる。彼は個別的な事柄を担う執行権を主権(立法権)が統制できない現実を、一般意思/特殊意思で明確に説き、その対応策を提案した。
・彼は近代政治学をほぼ完成させた人物であり、また主権=立法権への過度の期待に警鐘を鳴らした。
※ロック/ルソーが近代政治の基礎を作ったと習ったと思うが、二人は随分違うな。ロックは現実的で、ルソーは哲学的かな。
<第6章 近代政治哲学への批判>-ヒューム
・ルソーによって近代政治哲学は一定の完成をみる。その基礎は社会契約論にあるが、これを批判したのがデイビッド・ヒューム(1711~76年)である。
○ヒュームの社会契約論批判
・彼の批判の出発点は、「人間は、それ程エゴイストではない」「人間は、それ程利己的ではない」である。社会契約論は、エゴイストの集まりである自然状態で、自然権を上からの圧力(法)で放棄・自制させる理論である。
・彼は「人間の利己心はそれ程強くない」と考えた。彼は日常を見て、例えば家長は自分の楽しみを差し置いて、妻や子供に支出を当てる。これらを見て「人間は利己心だけに支配されていない」とした。
○社会契約論が忘れていたもの
・彼は社会契約論が日常を無視している事に気付き、人間は利己心だけでなく、愛情を持っていると感じたのだ。彼は「経験論」の哲学者として知られている。彼は「様々な体験から得られた観念が体系を成し、そこから認識が生まれる」とした。
・彼は社会・政治を経験論的に考え、社会契約論を「人間をエゴイストとして断定した抽象」として批判した。※乱世から平穏の時代の流れもあるのかな。
○人間は共感し合う存在
・彼は人間をエゴイストではなく、「共感」と定義した。この考え方は哲学には朗報に思えるが、彼は逆に「これが社会的な結び付きの障害になる」とした。それは先の妻子への愛情に見られるように、「共感は自分と関係ある者に限定される」(偏りがある)からである。「さらにこの偏りが、積極的に評価される」からである。共感は社会的な結び付きを、複雑化したと云える。
○黙約による共感の拡張
・彼は、共感の偏りを救済するのは「黙約」と考えた。黙約は、人間の営みにより作られた慣習などである。例えば二人乗りのボートで、二人がバラバラに漕ぐと、上手く進まない。そこに暗黙の約束が、自然に作られる。この黙約を社会で共有する事で、社会的な結び付きが形成される。※ところで「社会的な結び付き」とは何だ。形成ではなく、保たれるでは。
・彼は「人が金を返すのは、それを正義とする黙約が人為的に作られたから」とした。黙約は「自分に身近な人間だけでなく、遠い人間に対しても正義を遵守すべき」とする「共感の拡張」により醸成された。※黙約は賛成できる議論だけど、抽象的だな。
○社会の起源に禁止を置かない
・黙約と契約は性質が異なる。契約は黙約をベースにしていると云える。それは黙約が正義を打ち立てているからである。彼は黙約の成立を、言語の成立になぞらえている(※詳細は省略)。※黙約は暗黙のルールかな。
・社会を契約から見るのと、黙約から見るのでは、大きく変わる。前者から見ると、「法により自然権を自制している」となる。前者は社会の起源を禁止(否定的)とするが、後者は積極的である。
・功利性から規則(※黙約?)が作られ、秩序が作られ、その後法が作られる。
○自然権概念への概念
・彼は自然状態の概念を批判している。それまでの哲学者は、「自然状態は、社会に先行する未開な状態」としたが、そこにも社会性が見られるからだ。社会契約論は、「自然状態には自然権があり、それを放棄する事で国家が形成される」とした。彼は「黙約が形成・拡張され、そして社会が形成され、正義がもたらされ、始めて権利も可能になる」とした。
・そもそも自然権は上位機関が存在しないので、権利として認められない(※権利ではなく自由では)。そのためホッブズは自然権を資格・力とした。これに対し彼は社会を黙約で再定義した。
○一般規則と個別化
・彼は黙約から正義の観念(?)を打ち立てた。これから様々なルールが成立するが、それを「一般規則」とした。
・彼が考えていた一般規則に所有制度がある。そして「所有制度は、占有/先占/時効/従物取得/相続などの一般規則から成る」とした。しかし「これらの規則は一般的なものに留まる限り、役に立たない。これを利用可能にするためには、利用・実践するための根拠が必要」とした。彼は「規則は想像力と云う『比較的つまらぬ特性』によって規定されている」と指摘した。※規則があるのに、その利用に根拠が必要?その根拠はつまらぬ特性?難解になってきた。
○不正義をめぐる感覚、規則をめぐる空想
・これに関し、彼が例を挙げている。「ある猟師がウサギを追い詰め、疲労困憊にさせたが、そこで別の猟師にウサギを奪われた。猟師はこれを不正義とするだろう。ところが木に生っているリンゴを取ろうとして、別の者に奪われても、不正義としないだろう」。この程度の「つまらぬ事」が一般規則の適用に幅を利かせている。※規則の適用には様々な条件が考慮されると思うが。何が言いたいのか。
・また別の例として、ギリシャを例に挙げている。「ある都市が放棄され、その都市を領有しようと、2人の使者が向かった。遅れていた使者が後ろから槍を投げ、都市の門に刺さり、領有を宣言した」。彼はこの問題に、「ここには空想があるため、裁断を下せない」とした。※「門の先占が都市の領有」が空想?難解。
○制度の功利性は、その存在理由を説明しない
・彼は「社会の根底には黙約があり、それが様々な一般規則を形成し、所有制度のような制度を確立する」とした。制度に功利性はあるが、「つまらぬ事」で決定された可能性がある。そのため制度に正当性があるとは限らない。
・経験論者は保守的になる傾向があるが、彼は既成のものを疑いの目で見ている。彼の視点に従えば、功利性のある制度でも、「実は限られた人に寄与する制度なのでは」との「変革の思想」が現れてくる。
○服従と忠誠の違い
・黙約と一般規則が、彼の統治行為の基礎となっている。「統治組織は、人々が利益と保証のために作った組織で、それらが守られなければ、その存在意義はなくなる」とし、黙約を基礎とした社会での修正・変更を肯定した。
・彼は主権者と統治組織との関係を利益を媒介した「服従」ではなく、正義を媒介した「忠誠」とした。そこには黙約による共感の拡大がある。共感は近くの者に対しては強く、遠くの者に対しては弱くなる。遠い者への正義を補強するためには、忠誠が必要とした。※忠誠はピンとこない。積極的な参加かな。米国などでは、よく忠誠を誓うな。
・彼は主権者への忠誠(※主権者の統治組織への忠誠?)の源泉を、統治組織の永きに亘る占有/現在行われている占有/征服/継承/立法としている。最後の立法は、先の4つが根拠であり、異質なものである。
・社会契約論は自分達が社会を作っているとの発想だが、彼の発想は「黙約の形成」と云う長い時間の経過が必要になる。従って彼の社会契約論への批判は、近代政治哲学への批判でもある。
※ヒュームの理論は抽象的で難解だな。別の本を読まないと深く理解できない。
<第7章 近代政治哲学と歴史>-カント
・ヒュームの政治哲学が大きく異なった点の一つは、時間の概念を導入した点で、黙約が成立するまでの時間である。ヒュームは過去を考慮したが、これを未来に広げたのがイマヌエル・カント(1724~1804年)である。彼は「批判哲学」「歴史哲学」などで論文を書いている。
○進歩の強制
・彼の政治哲学は進歩主義である。しかしその進歩は、やむを得ず/仕方なく/イヤイヤながらの進歩である。彼は「人間は『法の支配』を目的とし、それは強制されている」とした。
○自然の目的と文化の目的
・自然界には目的があり、動物はそれを「本能」で達成している。ところが人間は「本能」以外に「理性」を与えられた。彼は、その「理性」が与えられた理由を、「文化の目的」とした。
・彼はこれを、例を挙げて説明している。人は16・17歳になると大人の体になる。ところが社会では成人として認められない。この様に人間には自然に属するものと、文明に属するものがあり、それが対立している。
○人類に強制された目標
・人間が「文化の目的」として与えられたのが、「普遍的に法を司る市民社会の実現」とした。ではその「法の支配の確立」は、どんな状態だろうか。それが一国で確立しても、国際社会が戦争状態では確立したと云えない。従ってそれは諸国家間で法の支配が確立して完全となる。※何か変な思想。哲学と云うより、要望・願望かな。
○個々人は進歩しない
・一方人間自体は寿命が短く、進歩しないとしているが、人類全体は進歩しているとした。※人間は規則・社会・思想・文化などの環境を残すからな。
○なぜ人間の寿命は短いのか
・「なぜ人間の寿命は短いのか」、彼はこの問いにも答えている。「人間の寿命が延びると、辛労と絶えず格闘する事になる」「もし800歳以上生きると、親子/兄弟/友人同士でさえ、生命を保障できなくなる。また長命が作り出す悪徳が世界を覆い尽くし、人間自体が掃討されるべき存在になるだろう」。
○カントの平和論
・彼の政治哲学は「平和論」に至る。『永遠平和のために』から、具体的に見てみよう。当書には6つの「予備条項」と3つの「確定条項」がある。
・まず予備条項である(※以下簡略化)。①平和条約は戦争の種を残しているので、平和条約と云えない。②国家は、相続・交換・買収・贈与によって他国に所有されるべきではない。③常備軍は全廃されるべきである。④対外的な紛争に関し、国債を発行すべきでない。⑤他国の体制・統治に、暴力で干渉してはいけない。⑥戦争においても、信頼関係を不可能にする行為をしてはいけない。例えば暗殺者・毒殺者の雇用、降伏協定の破棄、相手国内での扇動などである。
・予備条項②を取り上げる。「国家を相続・交換・買収・贈与の対象にすべきではない」とし、「この行為は、民族に関する根源的契約に矛盾する」としている(※民族主義かな)。彼は社会契約論者である。彼は「社会契約は歴史的な事実ではなく『理性の純粋な理念』(?)で、実在性を持つ」とした。「法律は全員の平等を基本とする。社会契約が実際に締結されていないのに、締結されているように運営される。そのため社会契約と云う理念は実在性を持つ」とした。※難解。実在性がないものが概念にならないでしょう。
・彼は「法の支配」を終着点にしていた。そのため緊急事態における「緊急権」を絶対に認めなかった。彼は国家の不正に対しては、「言論の自由」で対応すべきと考えていた。彼は「法の支配」への反抗を認めず、国家がゆっくり前進するのを期待した。
○常備軍の問題
・次に予備条項③を取り上げる。彼は軍事力全体の廃棄を言っているのではなく、常備軍だけの廃棄を言っている。国民国家となる前は、軍隊は傭兵で構成されたが、国民国家となり、徴兵による常備軍が常態化する。
・彼は「この常備軍は他国を刺激し、軍事費の増大を招く。この平和時の軍事費の増大を逃れるために、逆に戦争が促される」とした。
○共和的であるとは
・予備条項は「永遠平和」のための禁止条項である。一方確定条項はそれが実現された際の状態を定義している。①国家の体制は、共和的でなければならない。②国際法は国家連合の上に基礎を置く。③世界市民法は普遍的な友好を促す諸条件に制限される。
・ここでは確定条項①を取り上げる。共和的とは、①自由である、②法に従属している、③平等であるの条件を満たす(※何か緩くない)。彼は共和的と民主的を明確に区別し、「目指すべき体制は民主的ではなく共和的」としている。
・彼は政治体制を2つの基準で分類する。「支配の形態」(最高権力の所有者)と「統治方式」(国家権力の行使方式)である。「支配の形態」は君主制/貴族制/民主制に分かれる。「統治方式」は立法権・執行権が一体の「専制的な統治」と、それが分かれた「共和的な統治」である。そのため3×2の6つの政治体制が存在する。ところが彼は「民主制は必ず専制的になり、共和的な民主制は存在しない」とした。
○「全員ではない全員」による決定
・これをゆっくり検討する。彼は民主制を「全員の支配」としている。例えば議会だと全員が参加しないといけない。ところが彼は「執行権は、『全員ではない全員』が決定を下している」(民主制の欺瞞)と批判した。
※立法では代議制が認められるが、行政では代表制が認められないのは理解できない。また立法は多様な意志を集約し法を作る作業で、行政はその法に基づいた個別的な作業である。そのため行政は立法に追従しており、立法が民主的であれば行政も民主的と云える可能性が高い。
○民主制の欺瞞
・彼は「立法は多数決や立法者により成され、これは一般意思に矛盾しない」とした。一方「執行における全員ではない全員による決定」を、「一般意思が自分自身と矛盾する事と同様である」とした。
・ルソーは「執行は個別的な行為であり、一般意志の実現ではあり得ない」とし、そのため「民会が政府(行政)を定期的に監視する必要がある」とした。ところが彼は「個別的な行政に全員が関わる事は不可能」とし、「言葉の元来の意味」から、「共和的な民主制」の存在を否定した。
○再び三段論について
・彼は三段論法で大前提に立法、小前提に行政をなぞらえる事に対し、「大前提の普遍が、小前提の特殊の普遍の包摂になり得ない」とした。
・ここで三段論法を確認する。例えば大前提「人間は必ず死ぬ」、小前提「ソクラテスは人間である」から、結論「ソクラテスは死ぬ」を導き出す推論法である。
・彼はこの考え方を間違いとした。「大前提は原理、小前提は事実である。大前提は普遍、小前提は特殊である。後者は前者に関連付けされているだけで、包摂されていない」とした。※難解。
・彼は「大前提に立法、小前提に行政をなぞらえるが、行政は立法に基づいて執行するが、包摂されていない」とした。※当然。立法と行政は別組織による別機能。
○政治体制は代表制でなければならない
・多数決などにより立法を全員で行う事は可能である。ところが個別的な行政を全員で行う事は不可能である。彼はこれを『一般意思の実現』『全員による決定』としてはならないとした(民主制の欺瞞)。彼は民主制を厳格に理解したのである。
・彼がそこから導き出したのが「代表制以外の統治方式は、真面でない」である。支配者を一人または複数人とし、立法権と行政権を分離する事が大切とした。特に国民にとっては統治方式(立法権と行政権の分離)が最も重要とした。※共和的だな。
○現在の民主主義の問題
・彼の考え方からすると、今日の「民主主義」「民主制」「民主的」をどう考えれば良いのか。私達は「議会制民主主義」を、貴族制なのに「民主制」「民主主義」と呼んでいる。貴族制は、単に複数人による支配を意味する。
・私達は、貴族制を民主主義の名前で利用し続けている。そのため「全員でない全員」による執行権の決定を、民主主義の名前でかき消している。
・だとすると民主主義は何なのか。彼はその厳密な考察を強いている。私達が民主主義を掲げている以上、この作業は必須である。※主権(立法)の民主化と、行政の民主化を別に考える必要があるのでは。
<結論に代えて>-自然・主権・行政
・近代初期の宗教内戦は、人間は容易に情念に扇動され、社会秩序は簡単に崩壊する事を知らしめた。そのため哲学者は人間社会を真剣に見つめ、「自然状態」を導き出した。そこには自由と云う「自然権」が存在した。この自然権は、上位機関により認められる許可・資格とは別の権利である。
・近代国家はこの自然権を、野生動物のように飼い慣らした。これに使ったのが「立法」である。この立法を正当化したのが「主権の概念」である。18世紀になると野生動物は飼い慣らされ、自然状態/自然権は言及されなくなる。
・これに対し「主権の概念」は政治哲学の中心になり、「国民主権」「人民主権」の言葉が生まれる。そこで抱え込んだ問題が「行政」だった。
・主権者は議会に代議士を送り、立法を行い、「民主主義」を実現した。ところが法を個別的な事柄に適用する際、必ず判断を伴う。そのため行政は強い権限を担う事になった。それにも拘わらず、「主権の概念」ではこれに触れる事はできない。また「行政は法を粛々と実行する機関」として見逃されてきた。
・近代政治哲学は行政に鋭敏な感覚を持ちつつも、立法を中心としてきた。だが実際は行政が強大な権限を有している。ならば主権は立法だけでなく、行政をいかにコントロールするかを考察しなければならない。そうしなけれな「国民主権」は絵に描いた餅になる。近代政治哲学はこの改良を必要とされている。