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『近代日本の構造』坂野潤治を読書。

国会開設から日中戦争まで、約50年の外交/内政を解説している。

外交では条約改正から中国進出に向かった流れが、よく分かる。
内政では政府/議会(政党)/民衆の立場や、民力休養/格差是正の流れが分かる。

省略している部分が多くあるが、大まかな流れが理解できる。

お勧め度:☆☆☆(もう一度読みたい)
内容:☆☆

キーワード:<はじめに>日米同盟/日英同盟、日中関係、政費節減・民力休養、<欧化主義と日本主義>脱亜論、鹿鳴館、谷干城、大同団結運動、民党、条約改正、日清戦争、<中国の分割か保全か>支那保全/支那分割、義和団事件、アジア主義、陸羯南、<日英同盟の後退と日中親善の登場>満州権益、山県有朋、同人種同盟論/21ヵ条要求、米国、脱亜主義、日米親善/中国内政不干渉、参謀本部、<日英の再接近と日中親善の終焉>張郭戦争、幣原外交/田中外交、自在外交、<中国と戦争、英国と対決>南京、小川平吉/宇垣一成、大アジア主義、<民力休養論の登場>世界恐慌/失業問題、社会主義政党、地租軽減、大同団結運動/三大事件、責任内閣/民力休養、<民力休養の弱み、政費節減の強み>予算、富国強兵、和協の詔勅、<大衆課税か地主課税か>地租増徴、戦後経営計画、政党内閣、<地主も細民も軍拡負担を>地租増徴、酒税、<民衆騒擾-持たざる者の反乱>日比谷焼打ち事件、<持たざる者に権利を>第1次憲政擁護運動、吉野作造、政友会、普通選挙制/二大政党制、社会政策、<持たざる者に福利を>普通選挙制、デモクラシー、社会主義政党、労働組合法、<団体主義から議会主義へ>社会大衆党/蠟山政道、団体主義、広義国防、ファッショ、格差是正

<はじめに 近代日本の対立軸>
○日英同盟と日中親善
・本書は近代日本の対立を、「日英同盟と日中親善」「民力休養(地租軽減)と格差是正」に絞ります。これは今の政治を意識したものです。
・第2次安倍政権は、中国との対立を「日米同盟」で切り抜けようとし、集団的自衛権を認めました。これは1915年「日英同盟」を頼りに、「21ヵ条要求」をした日本を想起させます。しかし1937年日中戦争により、日本外交は崩壊します。中国と英国は結び付き、1941年対米戦争に至ります。
・日米同盟と日英同盟を比べると、日米同盟の方が遥かに強固ですが、日中関係は大きく違い、戦前は日本に主導権がありましたが、今は中国にあります。この様に、今の状況は過去に比較対象が存在します。※日本の歴史は対中関係と云える。

○民力休養と格差是正
・第2の対立「民力休養と格差是正」も、今の政治を批判するためである。1890年議会開設に向けて自由民権運動は「政費節減・民力休養」を掲げた。このスローガンは長年に亘って、政治に影響を与えています。「民力休養」は当初は減税要求だったが、その後、地租増徴反対や都市商工業者の営業税軽減に変わります。※何時の時代も減税要求はある。

・もう一つの政費節減は、一貫して保守党に対するリベラル政党の財政方針となっています。リベラル派の「政費節減・民力休養」に対立したのが、保守党の「富国強兵」「積極主義」(※積極財政?)でした。その代表が政友会の公共事業拡充政策です。
・第1次世界大戦までは、薩長閥の「富国強兵」と民党の「政費節減・民力休養」が対立しました。その後政党政治になると、保守党の「積極財政」とリベラル政党の「健全財政」が対立します。1930年代世界恐慌が起こると、欧米ではリベラル派が「大きな政府」を目指し、保守派が「小さな政府」を目指すようになります。しかし日本のリベラル派の民政党は「健全財政」を固持し、労働者・小作農に冷淡でした。一方政友会は「積極財政」を唱え続け、高橋財政により不況を脱出します。ただし労働者・小作農への分配には無関心でした。

○持てる者と持たざる者
・第1議会から第54議会(1890~1928年)までは、有権者は50~300万人しかいませんでした。従って「民力休養」とは、「減税」もしくは「増税反対」でした。小作農は地主に小作料を納め、労働者は低賃金で働き、所得税は掛かりませんでした。「民力休養」は、成年男子の1/4の持てる者の要求でした。
・1925年男子普通選挙制になりますが、これは政治的不平等が解消されただけで、社会的不平等が解消された訳ではなく、格差問題は継承されます。保守派もリベラル派も再分配に冷淡でした。
・私(著者)は2つの対立の「日中親善」「格差是正」を支持しますが、その上で「日英同盟」「民力休養」を分析・叙述します。

第1章 日英同盟か日中親善か

○はじめに
・本書は近代日本の外交と内政での対立を扱いますが、第1章では外交を見ます。日本の外交の主流は「欧化主義」でしたが、それは日英同盟(1902年)に関わらず、常に英国がその対象でした。第1次世界大戦後は米国の影響が高まりますが、中国に権益を持つ英国には及びませんでした。※そうなんだ。まあ中国に権益があるのは英国だったからな。

・主流の「欧化主義」に対し、日本の文化・伝統を守ろうとする「日本主義」が存在しました。しかし日本は日清戦争で勝利し、日英同盟を結ぶに至り、日本主義はその根拠を失いました。そこで日本主義は、「日本は列強に侵略されるアジアを守る」と云う「アジア主義」に転じます。しかし1905年日露戦争で勝利し、南満州に権益を持つようになると、アジア主義の様相は変わります。そして1937年日中戦争により、アジア主義は挫折します。本章はこの欧化主義と日本主義・アジア主義の対立を追います。

<1.1 欧化主義と日本主義>
○福沢の脱亜論
・「脱亜」は1885年福沢諭吉が発案したものだが、これはペリー来航以降の指導者が共有するものだ。しかし幕末・維新の「欧化」と福沢の「脱亜」には少し違いがある。「欧化」は中国を反面教師とするものだが、「脱亜」は中国を意識している。1882~84年朝鮮で中国と局地戦が行われたが、中国の方が優勢だった。まず中国より近代化しないと欧米に認められないからである。※「脱亜」は「卒亜」かな。
・日清戦争は軍を拡張し、清に勝てば良いだけではなかった。中国に権益を持つ英国からの干渉を避けるため、「欧米文明の吸収者」として認められる必要があった。※欧米と同等の文明を持つ国かな。もう少し良い言葉がありそう。

○鹿鳴館外交への反発
・福沢が「脱亜」を唱えた頃、井上馨は「欧化」を唱えた。1883年彼は鹿鳴館を開設し、毎週舞踏会を開くようになる。「脱亜」は日本人を奮い立たせたが、「欧化」は日本人の自尊心を傷つけた。「欧化主義」への反発から生まれたのが「国粋主義」で、「攘夷」は諦めたが、欧米文明を心から受け入れていなかった。

・この反発は条約改正案への批判に表れた。外国人の領事裁判権の撤廃の代償は、①民法/商法/民事・刑事訴訟法の制定、②外国人が関係する裁判には、過半数の外国人判事を採用する、③外国人の居住・通商の全国化だった。特に①は日本人の自尊心を傷つけた。※②も領事裁判権の撤廃にならないのでは。

○谷干城の日本主義
・この井上の条約改正案に、最初に反対したのが谷干城で、1887年彼は農商務大臣を辞任する。彼は意見書に、鎖国を思わせるような「日本主義」を記している(※本文省略)。これは「建国歴史」「習慣風俗」を守ろうとする意見書だった。
・この意見書は旧自由党の左右勢力に支持され、1890年民権運動の「三大事件建白運動」の、①地租軽減、②言論・集会・出版の自由、③外交刷新(条約改正反対)の3番目のスローガンになる。

○富士山賛美と国民運動
・また彼の辞職・意見書は「日本主義」「国粋主義」を台頭させた。1888年志賀重昂らが雑誌『日本人』を創刊し、翌年には陸羯南が新聞『日本』を創刊した。志賀は『日本人』の中で、富士山を賛美している。彼は欧米流の諸法典や鹿鳴館外交を批判した(※詳細省略)。彼の思想は国民に受け入れられ、国民運動が起こる。※どんな運動が起こったのか?

○対等条約のスローガン
・1887年保安条例が公布され、「三大事件建白運動」は鎮圧される。しかし翌年「大同団結運動」が起こる。この時「言論・集会・出版の自由」は「責任内閣」に変わり、第3スローガンになる。
・「大同団結運動」の第1スローガン「対等条約の締結」は、外務大臣が井上から大隈に代わり、欧米流の諸法典の制定と外国人判事の採用が取り消されたため、形だけのものになる。しかし1889年4月外国人判事の採用が告知文で承認されていた事が発覚し、第1スローガンへの注目が高まる(※密約かな)。同年8月、旧自由党系2団体/国権派系2団体/日本・日本人社交の5団体の連合組織が結成される。

・1890年7月最初の衆議院選挙が行われる。選挙で勝った政党は、有権者の最大関心事である第2スローガン「地租の軽減」と第3スローガン「責任内閣」を重視し、第1スローガン「対等条約」には向けられなかった。ちなみに当時の内閣は元勲が握る「超然内閣」である。

○欧米に向けられたナショナリズム
・1888年後藤象二郎が復活させた「大同団結運動」は、外交/内政/政治体制がセットだったが、条約改正/地租微増反対は状況に応じて取り上げられ、責任内閣制は「官民調和」(藩閥と政党の妥協体制)と「憲政の常道」(二大政党制)の大前提として恒常的に要求された。※二大政党制が先で、責任内閣制が後か。

・「日本主義」は条約が改正されるまで火種となるが、それは2つの点で厄介だった。第1は、日本政府が条約改正を求めているのに、日本国民が反対している。第2は、条約改正の目的は欧米から日中戦争の理解を得るためである。しかし自由党/改進党などの「民党」は「地租の軽減」を求め、軍拡を予算先決権で否決し続けていた。民党が「左翼」なら、「日本主義」は「右翼」と云える。しかし彼らは1894年日清戦争が勃発するまで、軍拡に反対していた。彼らは純粋なナショナリストで、対中戦争/対欧米戦争は考えていなかった。

○陸奥外相の名演説
・この対立から1893年12月/1894年6月、政府は国会を解散させている。前者の解散の時、陸奥外相が明治維新の成功を賞賛する演説を行っているが、それに議員からの拍手はなかった。※詳細省略。

○対中開戦の条件
・陸奥の名演説は「現行条約励行建議案」(※条約改正反対みたい)に対抗して行われた。これは大日本協会が提出したもので、これに与党自由党以外の野党4党が加わった。※責任内閣でないのに、与党/野党に意味があるかな。
・藩閥政府は、議会開設前は「民力休養」「日本主義」に苛まれたが、開設後は自由党/改進党の「民力休養」だけに絞られた。1893年第4議会で海軍軍拡ができない政府は、天皇の詔勅により議会を妥協させる。そして一方の条約改正にも取り掛かった。
・大日本協会は外国人が全国に居住し、商工業に従事する「内地雑居」に反対していたが、これは攘夷と同じで時代錯誤だった。第5議会で提出されたのは「内地雑居反対建議案」ではなく、「現行条約励行建議案」だった。しかし政府が提案した条約改正案に反対する点で変わりはない。そのため英国は国内が沈静化するまで、交渉を行わないと通告してきた。従って、対中戦争の第1要件「海軍軍拡」は第4議会で同意されたが、第2要件「条約改正」は第5議会で妨害された。

○励行派の優勢
・戦前の議会の権限は弱かったが、「建議権」は認められていた。1894年3月総選挙が行われ、300議席中与党自由党が120議席で、励行派諸党がそれを若干上回った。5月議会で「内閣弾劾上奏案」が可決された。その上奏案で「条約改正の軟弱外交」が批判されていた。

○朝鮮内乱
・1884年日本は朝鮮での「甲申事変」で中国に譲歩を強いられ、政府は対中戦争を目指した。1993年の第4議会で海軍軍拡を承認させたが、一方の条約改正は、議会が反欧化で反対し、対中戦争など眼中になかった。しかし朝鮮で内乱が起き、「日本主義」が転換する。※東学党の乱だな。

・1994年5月議会で「内閣弾劾上奏案」が可決された日、朝鮮で欧米主義/中国主義の排斥を訴える「東学党」が朝鮮南部で反乱を起こす。朝鮮政府は中国公使・袁世凱に出兵を要請し、中国政府は承認する。日本政府も出兵要請を受け、閣議決定し、「日清戦争」が始まる。これを機に「日本主義」は「脱亜主義」に転換する。変わり身が早いものである。※国難になると団結する。

○日本主義の放棄
・日清戦争が始まると「日本主義」の理論家・陸羯南は主張を変え、7月新聞『日本』の社説で「日本はその進歩を東洋に普及させる任務がある」と主張している(※本文省略)。この前後にも同様の主張が見られる。そしてその6日後、英国との間で条約改正がなされる。※意外とすんなりだな。
※重厚な本だな。一文も見逃せない。今後が大変だ。

<1.2 中国の分割か保全か>
○日本主義者と植民地
・日本は日清戦争で得た遼東半島を三国干渉で返還し、この時「臥薪嘗胆」が使われた。「欧化主義者」や「脱亜論者」には、植民地は最初の一歩だったが、「日本主義者」には新たな理論が求められた。それが「支那保全論」である。

○中国独立の保全
・1898年新聞『日本』に社説「対清問題は如何」が載った。日本は三国干渉で遼東半島を返還させらただけでなく、ドイツは膠州湾を、ロシアは旅順・大連を租借していた。社説はこれに対し、「日本は列強に抗議できない以上、中国を分割する『脱亜論』を放棄し、支那を保全する路線を取るべきだ」と主張した(※本文省略)。これは日本だけでなく、中国の独立・文化を保全する主張である。

○ロシアの満蒙占領c
・本来であれば「支那保全論」は、政府の「支那分割論」と対立する。ところがロシアが満蒙を占領した事で、両者の協調が図られる状況となる。1900年義和団が蜂起し、中国政府もこの動きに押され、西洋列強に宣戦布告する(※西太后の頃だな)。事変後、列強は撤兵するが、ロシアだけが満州に兵を留めた。これを黙認すると「支那分割」を目指し、軍拡を行ってきた意味がなくなる。またこの行動は「支那保全論」にも反する。結局この両者は結び付き、日露戦争に向かう事になる。※常に軍事が先行し、思想が後を追っている。

○にわか作りの議論
・この両者が結び付くのに、2つの大前提がある。第1は「分割論」「保全論」は、何れもにわか作りの議論だった。日清戦争前までは外交問題は「条約改正」しかなかった。すなわち「欧化主義」と「日本主義」の対立だった。「日本主義者」は、日清戦争後に「支那保全」論者に変わったのだ。

・「支那保全論」の中心人物である公爵・近衛篤麿(※近衛文麿の父)は新聞談話で、「外交政策に方針がない」と述べている。※この時期、急展開が多いからな。
・1871年岩倉使節団が欧米を訪問し、1894年「日英通商航海条約」が成立するまでの20数年間、外交とは条約改正だった。その相手は英国で、日本がする事は西洋基準の国家である事を証明するだけだった(※外交ではなく、内政だな)。これは今の日米安保しかない外交と同じである。※そんな見方をするのか。

・一方ナショナリストも、列強の外交政策や中国の内情について知識を持っていなかった。彼らは「日本の習慣・文化を欧米から守れ」が立場だった。すなわち1900年義和団事件により、欧化主義者も日本主義者も、何も分からないまま列強による中国分割に巻き込まれた。

○コップの中の争い
・第2の大前提は、「分割論」「保全論」の争いはコップの中の争いだった。議会の第1党・政友会はそれに関心はなく、「民力休養」(第2章で解説)にしか関心がなかった。政友会の基盤は農村地主で、彼らが「国民」だった。※では誰が争っていたのか。
・ロシアに宣戦布告した翌日(1904年2月)、後に首相になる原敬は、対ロ強硬路線の「主戦論7博士」(当初は6博士)について述べている(※本文省略)。「主戦論7博士」はよく知られているが、原型は1900年ロシアの満州占領に抗議して書かれた『諸大家対外意見筆記』である(※初耳)。政友会は、「分割論」「保全論」など中国問題に関心はなかった。この状況で「分割論者」と「保全論者」は結合する。

○アジア主義
・1900年9月ロシアが満州に駐兵すると、「支那保全論」の中心である新聞『日本』の陸羯南は、「支那分割論」の急先鋒「主戦論7博士」に接近する。「国民同盟会」を結成しようとしていた近衛篤麿が、彼らの会合を開く。これが「アジア主義」である。各国の皇族同士は緊密なのかな。
・しかし先述のように原敬はこれを、国民の心を揺さぶるものではないとし、御用学者・御用団体扱いした。しかしロシアの満州占領は日本の朝鮮支配を危うくし、「アジア主義」の両義性ゆえに増大する。
・ロシアに対し「支那保全」を掲げ対峙すると、最強の陸軍を持つロシアとの戦争になる。もしこれに勝って満州を中国に返還して、国民は満足するだろうか。陸羯南はこれに気付き、「支那分割論」に接近したと思われる。※支那保全論の破綻だな。

○日英同盟と日中親善の結合
・両者の接近は1900年9月28日、6博士の建議書を陸羯南が書き、山県有朋首相に提出した事に始まる(※本文省略。これが『諸大家対外意見筆記』?)。この内容は、「帝国と利害を一致する国と提携し(日英同盟)、戦いに勝つと雄飛(?)しよう」と述べている。

○6博士の不安
・このロシアとの戦争を忌避しない建議書は、一部の元老と政友会からは反対されたが、多くから支持された(※臥薪嘗胆の時期だからな)。この建議書は「国民同盟」(※国民同盟会?)が熱心な支持者で、憲政本党/帝国党/三四倶楽部が「国民同盟会」に加わる。
・しかし彼らに外交戦略・外交思想があった訳ではない。ロシアに勝って満州を取ると、中国の反発を受ける。しかし日本に満州を支配する能力があるだろうか。6博士の1人・中村進牛でさえ、それを懸念していた(※本文省略)。

○ジリ貧を避けるための賭け
・中村の論点を3つ挙げると、第1は、「支那分割論者」でさえ満州維持の見通しは立っていない。第2は、日本に残された分割地域は満州しかない。そのため「分割論」はジリ貧を避けるための賭けである。第3は、日清戦争以前は日露戦争などは考えられなかった。これを裏返せば、日本の南満州権益は中国の軍事力・経済力の発展で危うくなる(次節で解説)。※第3は難解。

<1.3 日英同盟の後退と日中親善の登場>
○期限付きの南満州権益
・1905年日本はロシアに勝利し、南満州の権益を譲渡される(北京条約)。ただし旅順・大連は1923年までの期限付きの租借だった。これが1915年第2次大隈内閣での「21ヵ条要求」に繋がる。※南満州だけで、しかも期限付きだったのか。こんな重要な事を初めて知った。

○山県有朋の警鐘
・南満州の権益が期限付きの租借である事に警鐘を鳴らし続けたのが、元老の山県有朋だった。第1次世界大戦前、彼は以下の3点を考えていた。第1に、ロシアと南北で分有している満州権益をロシアと協力し、中国に返還しない。第2に、南満州の鉄道・鉱山などを、中国が買い取れないほど高価にする。第3に、中国の返還要求を抑え込む軍事力を付ける。

○日本陸軍の仮想敵
・1907年「帝国国防方針」では、陸軍の仮想敵はロシア、海軍は米国を想定していた。しかしこれを上奏した山県は、陸軍の仮想敵に中国も挙げていた。
・そして2年後の意見書には、ロシアを同盟国とし、陸軍の仮想敵は中国だけになっていた(※本文省略)。彼は「帝国国防方針」ではロシアが仮想敵だが、それを中国一国に絞っていた。当時の彼には当然「日中親善論」も、その後に抱く「同人種同盟論」もなく、「脱亜論」だった。ただし彼の「脱亜論」は「日英同盟」だけに頼るのではなく、「日露協商」(1907~17年)にも頼っている。彼はその後、米国などを含めた列強の多様性を強調している。

○山県の同人種同盟論
・1914年7月第1次世界大戦が勃発する。英ロがドイツ/オーストラリアと戦う事で、中国での日本の地位は高まった。そこで山県が新しく考えた対中国政策が「同人種同盟論」である(※8月首相・大隈重信/外相・加藤高明/蔵相・若槻礼次郎に宛てた意見書があるが省略)。彼の「同人種同盟論」は「日中親善」だが、日本が主、中国が従の関係である。
・そしてこの翌年に突き付けたのが「21ヵ条要求」で、その中には中国を保護化する条項も含まれていた。しかしこれは中国政府だけでなく、欧米諸国からも強い反発を受けた。これを作成したのは「脱亜主義」の参謀本部/外務省で、彼らには「日中親善」などなかった。

○米中接近への警戒
・大戦勃発直後の山県の対中国政策で以下の2点も注意する必要がある。第1は、彼は中国の現政権を尊重していた。1911年中国革命(辛亥革命)以前は清朝の存続を願い、革命後は帝政を敷いた袁世凱を支持した。彼は安定した中国政府と主従的同盟を結びたかったのだろう。

・第2は、米国の台頭を重視していた。英ロが勝つにしても米国の存在感が増す事を認識し、中国に特殊権益を持たない米国が中国と緊密になると予測している(※本文省略)。※山県って慧眼だったかな。
・日露戦争前に同盟した英国、日露戦争後に日露協商を結んだロシアが日中関係に介入できなくなり、その後の国防・外交が重要だったが、彼は日本がフリーハンドを得たとは考えていなかった。日本が満州権益の返還要求を簡単に抑えられるとは考えていなかった。「同人種同盟」の構想の背景に、戦後国際秩序の大転換への透徹した予測があった。

○脱亜主義の国防・外交
・この山県の危惧は参謀本部/外務省に伝わらなかった。外務省にとっての列強は英国であり、参謀本部にとって中国は無力な存在だった。これが「21ヵ条要求」を突き付けた後の参謀次長・明石元二郎の手紙に表れている(※本文省略)。そこにはロシア/英国、当然米国の反発はないと書かれている。この国防・外交政策は、山県の硬軟取り混ぜる「アジア主義」「日中親善」ではなく、「脱亜主義」だった。

○日本外交の基調
・山県の中国政策も明石のものも役に立たなかった。山県は「同人種同盟」を考えていたが、袁世凱の死後、中国は軍閥が割拠した。また中国を軍事力で押さえ付けようとした明石路線も、1921年からのワシントン会議で全否定された。「21ヵ条要求」は無謀な中国政策の代名詞になった。もう1つの米国の重視/軽視については、1920年代を通じての対立点になる。
・1921年12月「4ヵ国条約」(英米仏日)、翌年2月「9ヵ国条約」が結ばれる。「日英同盟」は消滅し、新たな中国での特殊権益は認められなくなる。政友会内閣(原敬/高橋是清、1918~22年)の日米親善/中国内政不干渉は、続く憲政会内閣(加藤高明/若槻礼次郎、1924~27年)、民政党内閣(浜口雄幸/若槻礼次郎、1929~31年)に受け継がれる。※1928年不戦条約とかもある。

○日本に対する低い関心
・しかし米国は日本に関心はなく、日本を同盟国扱いする気はなかった。以前私は論文『東アジアにおけるアメリカ外交官』を和訳した。そこに東京勤務から北京公使になった外交官の話があり、「東京勤務となり悲観した」「東京には魅了する神社・寺院はなかった」「日比谷公園は何もなく、散歩するしかなかった」「大使館は倒れそうなあばら家の寄せ集めだった」などが記されている。東京は北京とは比べものにならなかった。※そうだろうね。
・米国の駐日外交官は欧米帰りの日本人と付き合った。ある外交官は日本の陸軍・海軍の報告をしなかった。日本は田中義一内閣(1927~29年)を除き、日米親善/中国内政不干渉を守った。外交官は日本の親米性を確信していた。

○高橋是清の参謀本部廃止論
・日本の中国政策は、外務省と陸軍の「二重外交」だった。陸軍の出先機関は参謀本部に属し、陸軍省の下になかった。さらに厄介な事に、関東軍司令官/朝鮮軍司令官は参謀総長の下ではなく、天皇に直属していた。そのため参謀総長は出先機関を完全には統御できなかった。※外務省/陸軍省/陸軍(参謀本部、出先機関)/関東軍かな。複雑だな。

・「21ヵ条要求」は中国/欧米だけでなく日本でも悪評を浴びる。そのため政友会内閣(原、高橋)は、公然と参謀本部を批判する。1920年高橋は『内外国策私見』で、「21ヵ条要求」の緩和/参謀本部廃止を論じている(※本文省略)。彼はこの見解から、ワシントン会議で中国の領土・主権を尊重する「4ヵ国条約」「9ヵ国条約」を結ぶ。しかし参謀本部の海外駐在員は、中国各地での活動を止める事はなかった。※結局1923年期限の満州権益はどうなったんだ。中国が買い取れなかったのかな。

<1.4 日英の再接近と日中親善の終焉>
○参謀本部と外務省の関係
・1926年末までは参謀本部は、政府の日米親善/中国内政不干渉を受け入れていた。それは1925年1月北京公使館で開かれた「在支諜報武官会議」での、参謀本部から派遣された佐藤三郎の発言からも分かる(※本文省略)。この時参謀本部が提出した原案には、中国内政不干渉やワシントン会議の重視が書かれている。この時は首相・加藤/外相・幣原喜重郎の護憲三派内閣だった。

○出先機関の統帥権の独立
・ただしこの参謀本部の提案を出先機関が素直に受け入れた訳ではなく、この会議を主催した北京公使館付武官・林弥三吉少将は、出先機関の統帥権独立を述べている。※出先機関とは駐在武官みたいだな。駐在武官ってそんなに権限があったかな。
・1926年7月蒋介石が「北伐」を開始するが、ここにおいても「統帥権の独立」は問題にならなかった。例えば関東軍の中国内政干渉として有名な「郭松齢事件」でも、出先機関には張作霖ではなく、反乱を起こした郭松齢を支援する北京公使館付武官・鈴木貞一もいた。彼は関東軍が張作霖を援助しないよう、陸相に伝えている。しかし関東軍は「張郭戦争」に介入し、郭は射殺される。
・この様に陸軍の出先機関は参謀本部にも関東軍にも統一されておらず、中国内政不干渉(幣原外交)を唱える者がいた。

○中国政策転換の期待
・しかし1926年7月「北伐」の開始で一変する。1925年末陸軍省軍務局長は英外交官に「日本は日英同盟の再構築を望んでいる」と伝えている。しかし英国の外務事務次官は「日本は反軍国主義・民主主義的精神により、軍事力で満州を手中にする事はない」と断じている。
・この「幣原外交」への失望(※日米親善/中国内政不干渉?)は、1927年4月田中義一内閣の成立で解消されるが、この「田中外交」も以前の「日英同盟」とは異なる方向に向かう。

○3つの外交路線
・田中内閣の成立で、外交路線は3つに分かれた。第1は、原内閣以降の対米協調/中国内政不干渉(幣原外交)は憲政会の内閣でも引き継がれた。その後民政党が幣原外交を堅持した。1928年2月最初の男子普通選挙で、野党民政党は与党政友会と拮抗する議席を得て、次は民政党内閣になり、幣原外交が復活するのは明らかだった。
・第2の路線は田中外交で、ワシントン体制に消極的で、蒙満権益の擁護にあった。ただし「北伐」の標的となった英国の漢口・南京などを、英国と協力して守る気はなかった。しかしこれは英国の期待に一番近かった。
・英国は「日本が英国と協力して中国権益を守る気がない」と知り、「田中の強硬外交が中国国民の怒りを買い、批判の目が英国から日本に向けられる」のを期待する傍観策に切り替えた。※英国は、まだ大戦から立ち直っていないのかな。

○自在外交路線
・この頃、幣原外交/田中外交とも異なる「自在外交」が登場する。陸軍/参謀本部を横断する中堅将校が、「蒙満領有」を目的とし、「木曜会」を組織する。1928年12月時点の名簿に18名(佐官15、尉官3)が記されている。※永山鉄山、東条英機、石原莞爾などが参加している。
・彼らの「蒙満領有計画」は、米国/英国/中国に左右されず、日本だけの判断で遂行するものだった。それは東條の提案からも分かる(※本文省略)。これは英米ソ中を分析しているが、あくまでも「日本自在」で、国際協調の「幣原外交」/対英協調の「田中外交」とも異なる第3の「自在外交」だった。

○日本帝国第一主義
・「自在」は「自衛」と反対の概念である。蒙満の「自在」(領有)はソ連との戦争になる。英国とは地域が異なるので、互いが「自在」を満たせばよい。「自在」が条件にならない米国には配慮が必要で、戦争への備えが必要である。
・この「自在外交」の特徴は、協定・条約に拘束されない点にある(※軍人が考えたからな)。一方「幣原外交」は多国間主義のワシントン体制を前提とし、「田中外交」は二国間主義の「21ヵ条要求」を前提とした。一方「自在外交」は無国間主義で、「日本に抵抗する弱者は侵略し、強者とは戦争する」が前提だった。※彼らが中国戦線を拡大したんだな。

○貧強日本
・幣原外交/田中外交は、「日本はアジアで最大の富国」としていた。一方「自在外交」はそれを前提にしていなかった。彼らはスローガンを作ろうとしたが、それは「貧国日本」「貧強日本」「貧健日本」などだった。

○満州事変と日中戦争
・満州事変(1931年)と日中戦争(1937年)で、「自在外交」の見方に大きな相違がある。彼らは蒙満を領有する代わり、英国には長江沿岸を与える考えだった。これは陸軍上層部/外務省強硬派とも一致していた。中国公使館付武官は英国に、「日本が蒙満、英国が南京・上海・漢口、米国が中国南部を領有する」と提案をしている。しかし1937年7月日本は日中全面戦争で、英国の中国権益の中枢に侵攻し、世界から孤立する。※自在なので変質したのかな。

<1.5 中国と戦争、英国と対決>
○2つの外交思想の否定
・1937年12月日本は国民政府の首都南京を占領し、多数の非戦闘員や捕虜を虐殺したとされる(南京虐殺)。40万人説や零人説があるが、秦邦彦は4万人と推測している。本書での問題は虐殺の有無ではなく、国民政府の首都や英国の勢力範囲をなぜ侵略したかである。翌年1月近衛文麿首相は「国民政府を対手とせず」と声明している。これはそれまでの2つの思想を否定している。

○成り立たないアジア主義
・日本の伝統を守ろうとする「日本主義」は、台湾/朝鮮/満州を領有する事で消滅した。日本がアジアの盟主になり列強から守る自己欺瞞の「アジア主義」は、1931年満州事変までは存続できた。孫文による辛亥革命(1911年)は「排満興漢」をスローガンにしたため、これは許された。しかし蒋介石の国民政府の首都南京を占領するのは、「アジア主義」に反していた。

○小川平吉と宇垣一成
・アジア主義者の小川平吉にとって、中国と戦争する事も蒋介石政権を否認する事も考えられなかった。国民同盟会の会頭・近衛篤麿を支えた彼にとって、その子文麿の行動は想定外だった。彼は華北5省の侵攻は認めるが、上海派遣軍の南京侵攻を抑えようと、近衛首相/宇垣一成朝鮮総監に働きかけた。※小川平吉は有名な人なの?
・宇垣一成は幣原外交を支えたが、彼は幣原のような「親米主義」ではなく、「日英同盟派」だった。一方小川は孫文/蒋介石を支持する「日中親善論者」だったが、日英対立を避けたい宇垣と蒋介石の存続を願う小川は結び付く。

○南京占領と戦争目的
・1937年8月(開戦1ヵ月後)、政府は戦争目的を「居留民の自営と中国軍への膺懲」(※本文省略)と発表していた。同年11月小川は意見書『支那交渉開始卑見』を書き、①南京を占領すれば戦争目的は達成される、②講和の相手は蒋介石しかいないとした。

○講和の相手
・まず②だが、近衛と意見交換していた小川は、陸軍にその様な意見(※蒋介石と講和しない)があるのを知っていたのだろう(※蒋介石が交渉に応じなかったため、近衛があの声明をしたとする説がある)。もし南京占領で止めておけば、官民挙げての抗日戦争に引き込まれる事も、対英米中戦争に拡大する事もなかった。※やはり軍の暴走だな。

○大アジア主義者・松井石根
・「アジア主義」を壊したのが「大アジア主義」「汎アジア主義」と呼ばれる新しいナショナリズムだ。その中心人物が中支那方面軍(※上海派遣軍が再編制された)の司令官・松井石根だった。これは「帝国自在主義」に近いものだった(※木曜会はどうなったんだろう。あれは北支那限定かな)。「大アジア主義」には英国支配からの解放が含まれており、日中戦争は日英戦争でもあった。※実際に英軍と交戦したのだろうか。

○解放のための聖戦
・南京陥落から1年後、松井は日比谷公園で演説しているが、「非アジア」を連呼している。彼は蒋介石政権を英国の傀儡とし、南京・漢口などを占領した軍事行動を、帝国主義から解放する「聖戦」とした。※日本は日中戦争から、明らかにおかしくなった。

○大東亜共栄圏の核へ
・この松井の主張は夢想であり、非現実的だった。それゆえ逆に挫折しなかった。1933年松井は「亜細亜協会」を創立しているが、帝国主義からの解放を東南アジア/インド/中東まで拡大している。そしてこの思想は「大東亜共栄圏」の核となる。

○勝ち目のない戦争
・日本は1853年開国以降、「日英同盟」と「日中親善」の対立だったが、1937年から始まる「大アジア主義」はこれらとは異質のものだ。「大アジア主義」も欧米列強から守る点では過去の思想と共通する。しかし1937年以降、日本の為政者は「大アジア主義」に追い立てられ、英国との対立、さらに米国との対立を深め、勝ち目のない戦争に突入する。※やはり天皇を頂点とし、以下を全て縦割りにした帝国憲法の欠陥が、軍の独走を招いた。

第2章 民力休養か格差是正か

○緊縮財政が失業者を増大させた
・1929年10月米国発の世界恐慌が起こる。民政党の浜口内閣は翌年1月「金解禁」し金本位制に戻す。金本位制に戻すために財政緊縮を行っていた時に世界恐慌が起き、失業が社会問題になる。それは経済の健全化のためだった。1930年7月失業問題の座談会が開かれるが、当の井上準之助蔵相は、財政緊縮/世界恐慌が失業を増大させた事を淡々と説明している。

○リベラル政党は失業問題に関心がない
・井上の発言の背景に、同年2月総選挙での民政党の圧勝があった。この選挙は男子普通選挙になって2度目の選挙で、民政党は1045万票の内、547万票を獲得した。他方、無産政党(社会民衆党、日本大衆党、労農党)は52万票しか獲得できなかった。

・民政党は戦前で最も平和的・民主的な内閣で、満州事変の抑制を図っている。またその前身の憲政会内閣で男子普通選挙を制度化した。この民政党が失業問題に無関心なのは、なぜだろうか。私は男子普通選挙制を実現した事で「平等化」を忘れた憲政会・民政党を批判してきた。他方ソ連は社会主義革命を成功させ、英国では労働党が二大政党の一翼になっている。

○合法社会主義政党の微力
・次の1931年2月の総選挙で、社会主義政党はさらに微力化する。労働者/小作農は460万人いるのに、得票数は半減(26万票)する。この選挙で勝利したのは「積極財政」を訴えた政友会で568万票を獲得した(※時期が時期だからな)。今で言うなら、「格差是正」には関心が向けられず、財政問題に目が向けられていた。
・その後の1936年/37年の選挙ではリベラル政党/社会主義政党が躍進するが、1932年「5.15事件」で政党内閣は終わっている。「格差是正」の先頭に立つ社会主義政党は微力だった。

○なぜリベラルは「小さな政府」に拘ったか
・本書は第1章で扱った時代の内政を、「積極財政」「健全財政」「格差是正」の対立で見る。日本では、なぜリベラル政党が「小さな政府」に拘ったのだろうか。政友会の積極財政は「富国強兵」を引き継ぎ、民政党の「緊縮財政」は「経費節減・民力休養」を引き継いでいる。

<2.1 民力休養論の登場>
○国会開設と地租軽減
・「民力休養」の具体的内容である「地租軽減」が統一要求となったのは、1887年「大同団結運動」である。1874年に始まる「自由民権運動」は国会開設が要求だった。この時農民(自作農、農村地主)は、「税金を納めるのだから、国政に参加させろ」と主張した。彼らは地租の負担が高いとは思っていなかった。

・1873年条例で地租が法定地価の3%となる。しかし1877年西郷隆盛による反乱の波及を怖れ、2.5%に軽減する。しかし政府が4200万円の不換紙幣を発行したためインフレになり、米価は2倍になる。これにより地租は定額なので、実質地租は半減となった。政府はインフレ対策に乗り出したため、1884年地租軽減が問題に成り始める。

○にわか仕込みの地租軽減論
・1887年10月、3年後の国会開設を控え、「大同団結運動」が起こる。この共通要求が「三大事件」で、①対等な条約改正、②言論・集会の自由、③地租の軽減である。この3年半前、板垣退助は地租問題を取り上げるのを拒んでいた。しかしこの地租軽減論は、官庁の経費削減/官吏の減棒/軍事費削減などの財源論を求めたが、現実的でなかった。

○大同団結運動の急進派と穏健派
・実は星亨が建白運動を起こした時は、「条約改正反対」だけに絞られていた。大同団結運動は現実主義勢力に旧自由党勢力が加わる形で始まった。現実主義勢力は後藤象二郎を最高指導者に迎え、責任内閣制と豪農中心主義を主張した。内政に関心を持たない三大事件建白派が急進派で、大同団結派が穏健派だった。※大同団結運動が三大事件建白派(急進派)と大同団結派(穏健派、現実主義)に分かれていたのか。
・急進派は三大事件建白を携えて上京する。しかし1887年12月保安条例が公布され、皇居から遠避けられる。これにより穏健派が大同団結運動を主導する。

○豪農豪商の運動
・1880年全盛期の自由民権運動は、貧乏士族と豪農豪商が一緒になって国会開設を要求した。しかし大同団結運動は豪農豪商による「地租軽減」に絞られ、1888年7月後藤らは日本海側(富山から青森)、さらに太平洋側(青森から福島)を遊説している。※高校で日本史を習ったが、この辺りは自習だな。残念。

○地租軽減と責任内閣
・大同団結運動では両派の相違に注目したい。後藤は7月の演説で「地租軽減」を強く訴えているが、そこに新たに「責任内閣」を加えている。

○民力休養を謀る
・「富国強兵」を国是とする政府は、政党の要求を超える「超然内閣」だった。スローガン「地租軽減」はスローガン「富国強兵」に劣っていた。しかし1890年5月大同団結運動の後継者である「大同倶楽部」が五大政綱に「民力休養」を加える。農民限りだった「地租軽減」が、より広範囲の「民力休養」に拡大され、リベラル派の伝統的政策になる。※これが緊縮財政・健全財政に繋がるのか。
・この1890年の「超然内閣」と「責任内閣」、「富国強兵」と「民力休養」の対立が、1930年代の対立軸になっている。

<2.2 民力休養の弱み、政費節減の強み>
○細民のみ益々重税に苦しむ
・大同団結運動では、「地租軽減」は中心的な要求になり、さらに「財政を整理して、民力の休養を謀る」となった。しかし1890年末に議会が開かれると、問題が明らかになる。藩閥政府を支持する少数与党・国民協会が「地租軽減」は土地持ち農民の利益になるだけで、「民力休養」にならないとの批判を起こした。「細民のみ益々重税に苦しむ」としたのである。最左派の植木枝盛もこれに同調し、自由党/改進党を批判した(※本文省略)。

○地租軽減は実現しない仕組み
・そもそも政府は衆議院の「地租軽減」を怖れる必要はなかった。立法府には貴族院/衆議院があり、貴族院が「地租軽減法案」を通さなかった。

○政費節減と云う武器
・一方の「政費節減」は、政府批判の有効な武器になった。憲法には「行政費・軍事費の削減は、政府の同意が必要」とあり、政府はこれも怖れる必要はなかった。しかし「経費削減」を「政費節減」と言い換えると、「合憲」だけでは世論が許さず、受け入れざるを得なかった。

○富国強兵の国是
・この議会に臨んだ山県首相は、「富国強兵」が国是とし、これに同意しなかった(※本文省略)。彼の「富国強兵」は「強兵」を重視した。彼は民党(自由党、改進党)の要求が「政費節減」である事を理解していた。
・予算は軍事費・事業費・行政費からなる。衆義院が決めた予算案は行政費を削減(政費節減)していたが、軍事費・事業費は削減されていなかった。これを「富国強兵」を理由に同意しないのは筋違いだった。※議論が咬み合わずだな。

○井上毅の手厳しい批判
・この山県の演説原稿を読んだ法制局長官・井上毅は、「天下後世の非難になる」「開国と政費節減は関係しない」など、意見書で手厳しい批判を行っている。彼は「鎖国の巨魁・中国が冗官冗吏で、ドイツ/米国が節倹主義」なのを知っていた。
・井上は予算案に、どう不同意するかも論じている。①大権を侵す、②行政機関の運転を妨げる、③採用には調査・準備が必要である。これらは、何れも意味がない(※では何で書いたんだろう)。この意見書は、政府内部にも「政費節減」を求める声があった事を示唆している。

○「土佐派の裏切り」の敗者
・山県は「国是」の演説を断行する。しかし一方で議会の解散を回避する交渉が行われ、民党の800万円の削減要求に、650万円で合意となった(土佐派の裏切り)。
・しかしこの結果は第1次山県内閣の敗北と云える。行政費が650万円削減されたが、地租軽減法案が貴族院で否決されたため、それが丸々剰余金として繰り越された。次の第1次松方正義内閣は、これを軍事費に当てようとしたが、政府は抵抗する議会を解散するしかなかった。そのため前年度予算が施行され、またも「海軍軍拡」「地租軽減」はされないが、「政費節減」だけがなされた。

○和協の詔勅-強兵の勝利
・軍事費・事業費を削減できず、地租軽減もできないため、民党は行き詰った。一方の政府も「政費節減」で浮いた財源を海軍軍拡に使えない。1893年2月困った両者は「和協の詔勅」で妥協を図る。この中で天皇は、行政各般の整理/宮廷費30万円削減/官吏給与の1割減を確約し、海軍軍拡を認めている。この結果「政費節減」「強兵」はなされたが、「地租軽減」はなされなかった。そのため「民力休養」の失敗となる。

<2.3 大衆課税か地主課税か>
○10年弱で3億円の富国強兵費
・1894年からの日清戦争で日本は勝利し、国家歳出の4倍の賠償金を得る。経済界は、運輸・交通・情報通信の拡充のための公債に積極的に募集した(※賠償金があるのに、公債を発行するの?)。「富国」の財源も確保された。10年で軍拡費2億7千万円、公共事業費4千万円が費消された。
・これらの富国強兵費により、物価は高騰し、米の値段も2倍に跳ね上がった。これにより「地租軽減」の必要はなくなった。

○増税案の決定権を握る衆議院
・政府歳出の臨時部が増大するが、経常部がそのままではいけなかった(※経常部/臨時部?一般会計/特別会計かな)。租税の減税法案に対しては貴族院が否決すれば良かったが、増税法案に対しは立場が逆転し、衆議院が決定権を持つようになった。

○戦後経営計画の財源
・衆議院で増税案の合意を取るのは容易でなかった。一旦増徴すると軽減は容易でないため、衆議院の二大勢力(自由党、進歩党)は反対した。1895年12月自由党は第2次伊藤内閣の与党になり、日清戦争後の「戦後経営計画」を支持した。翌年3月の自由党党首・板垣の演説は、政府の「富国強兵」を全面的に支持した。
・7年以上に及ぶ「戦後経営計画」には、3千万円の経常費の増加があるが、それは酒税の増加と煙草の専売化による営業税で賄われた。

○板垣退助は農村地主の代弁者
・土地持ち農民は米価の上昇で所得を増やす一方、小作農/労働者は酒税の増税や煙草の専売化による営業税で税負担は増えた。板垣の演説は農村地主のエゴを代弁したものだった(※本文省略)。この演説で「増税新税は止むを得ないが、それは酒税と煙草の専売化でやってくれ」と言っている。※日本は何時の時代も同じだ。

○初の政党内閣の財政政策
・政府は地租増徴を計るが、その度に政府と議会の提携は行き詰った。1898年1月提携なしで第3次伊藤内閣が成立する。政府の地租増徴法案に対し、自由党と進歩党が「憲政党」を結成する。これにより同年6月、憲政党党首・大隈重信による初めての政党内閣(隈板内閣)が成立する。※政党内閣(責任内閣)は大同団結運動からの要望だったな。1898年は3つの内閣が成立している。
・この内閣は10月に内部分裂するが、財政政策は引き継がれた。その財政政策も、軍拡を容認し、地租増徴を回避し、代わりに酒税増徴/煙草専売価格の引き上げ/砂糖消費税の新設に頼っていた(※結局変わらずか)。この財政政策では、地租は「生産者への負担」であり、酒・煙草・砂糖の課税は「不生産的消費への課税」だった。※何か変な理屈だな。生産者には課税せず、消費者には課税する。

○細民負担増での民主化
・この憲政党内閣に対し、自由主義経済学者・田口卯吉は、「政党内閣はなったが、細民の幸福は益々削減された」と批判している(※本文省略)。
・1895~98年の戦後経営は、農産物価格の高騰で裕福な農民は増税を逃れ、大衆は酒・煙草などで増税された(※農民は「増税を逃れた」のではなく、「実質減税された」だけど)。また藩閥は独力で政権を維持できなくなり、第2次伊藤内閣(1892~96年)は内相に板垣を、第2次松方内閣(1896~98年)は外相に大隈を迎えている。そして1898年首相を大隈、内相を板垣とする最初の政党内閣が出現した。

<2.4 地主も細民も軍拡負担を>
○地租増徴に賛成した理由
・1898年10月最初の政党内閣は内部分裂する。その後1904年2月日露戦争まで、「富国強兵」が全盛になる。1899年地租は2.5%から3.3%に引上げられ、「強兵」に当てられた。「積極主義」を掲げる星亨の憲政党は、第2次山県内閣の閣外与党になる。

・「地租増徴」がなされたのは、2つの事情がある。第1は、米価は10年で3倍になっており、増税は問題にならなかった。第2は、公共事業の増額はなかったが、与党になる事で、公共事業を東北地方に重点的に配分できた。
・1899年星は東北での憲政党協議会で、築港/鉄道の完成/東北帝国大学の設立を決議している。「地租増徴」は軍拡に当てられるが、東北では公共事業が期待された。※積極主義は、田中角栄の日本列島改造論に近いかな。
※1900年伊藤により立憲政友会(政友会)が結成され、以降多数の内閣の与党になる。1901~13年は桂園時代になる。

○上がり続ける酒税
・軍拡は酒税などの間接税の増徴でも賄われた。租税収入の多くが酒税などの大衆課税で賄われた(※税収の推移が表になっているが、日清戦争後は地租と酒税で余り差がない。これは驚き)。ざっと見ると、政友会内閣(西園寺公望など)では酒税が急増し、藩閥内閣(桂太郎など)では地租が増加している(※自勢力の増税を避け、他勢力の増税をしている)。また1904・05年は非常時特別税が課税されている。

<2.5 民衆騒擾-持たざる者の反乱>
○都市住民を直撃する物価の高騰
・日露戦争を支えたのは地租/酒税だけではない。直接税では所得税/営業税が倍増され、間接税では葉煙草専売益金/砂糖消費税/織物消費税なども急増した。
・全国民の負担が増えたように思えるが、農村部は地租微増の代わりにインフラの拡充を受けたが、都市部に見返りはなかった。都市の住民は酒税/葉煙草専売益金/砂糖消費税/織物消費税が物価の高騰として表れた。

・ロシアに勝利するが賠償金は得られず、講和条約調印の日(1905年9月5日)、東京で民衆騒擾が起こる。彼らは物価高に苦しんだが、戦争に勝っても生活難が変わらないと知り、内政に対し示威運動を起こした。

○日比谷焼打ち事件
・その日、日比谷公園に3万人が集った。公園の6つの門を警官が守り、群衆と衝突する。これが東京都内の交番の焼打ちに拡大した(※二重橋前や築地新富座での行動が、詳しく説明されているが省略)。日比谷公園にいた3万人は内務大臣官邸に押し寄せ、警官と衝突する。群衆600人が負傷し、7人が死亡した。その後近衛師団が出動し、鎮圧される。しかし200を超える警察署/交番が焼打ちに遭った。

○運動の広がり
・松尾尊兊が「日比谷焼打ち事件」を研究しているが、その真価は参加者の構成と全国の都市部への広がりの分析にある。後者は全国の53地方都市の内、市民集会が確認されなかったのは金沢市/佐賀市だけである。前者について、彼の『大正デモクラシー』を引用する。※本文省略。都市の貧困層/職人層/労働者/サラリーマン/中小商工業者/急進政治グループなどが記され、これが新時代の起点になったとしている。

・日露戦争以前は「民力休養」(地租軽減、増徴反対)で、藩閥勢力と自由党(憲政党→政友会)/改進党(進歩党→憲政本党)が対立した。やがて政友会は「積極主義」を掲げ、「強兵」を主張する藩閥勢力と妥協した。しかし講和に反対した都市中下層民は、既存勢力(藩閥勢力、政友会、憲政本党)の政策から得るものは何もなかった。
※これは重要なポイントだな。ここから日比谷焼打ち事件(1905年)/第1次憲政擁護運動(1912年)/第2次憲政擁護運動(1924年)などの大正デモクラシーが始まるのかな。

○権利はなく義務のみ
・1925年男子普通選挙制ができるまで、彼らは政治に参加できなかった。当時の有権者は150万人で、男子普通選挙時の1/8だった。彼らは「国民」として扱われなかったが、日露戦争には100万人の兵士を送り出している。
・権利がないのに義務が課せられる歪んだ状態を、まだファシストでなく社会主義者だった北一輝が批判し、普通選挙論を要求している。※本文省略。普通選挙制は20年後だな。

<2.6 持たざる者に権利を>
○喜ぶべき現象-吉野作造
・1912年末第3次桂内閣に対し「第1次憲政擁護運動」が起こる。これはスローガンが「講和反対」から「閥族打破」に変わったが、民衆は交番に放火し、御用新聞社に投石し、「日比谷焼打ち事件」と似ていた。これは藩閥勢力/既成政党による「政治」から疎外された民衆の運動だった。

・普通選挙制の理論を現実に反映させたのが吉野作造だった。1914年4月シーメンス事件で3度目の民衆運動が起こった直後、彼は『中央公論』に論文『民衆的示威運動を論ず』を発表し、翌月には『太陽』に論文『山本内閣の倒壊と大隈内閣の成立』を発表する。
・これらは「政治」と「社会」の乖離を普通選挙制で埋めようとする提言だった。また欧州の示威運動を見てきた彼は、日本の示威運動を「喜ぶべき現象」と評価している。

○原敬の妥協政治
・1905年日露戦争の終結から、1914年第1次山本権兵衛内閣の退陣までの8年半、政友会は与党になるが、有権者150万人の支持を固め、それより下層の社会に関心を持たなかった。講和条約反対においても、政友会は桂太郎首相に政友会総裁・西園寺公望への政権譲渡を迫っただけだった。
・1913年2月政友会は第3次桂内閣への不信任案の時だけは憲政擁護運動側に付くが、続く山本内閣では原敬が内務大臣に就き、与党になる。当時の内務省は警察力を握るだけでなく、「積極主義」の中心だった。
・1914年2月第1次山本内閣で起きた海軍汚職を糾弾する3度目の民衆運動では、原は民衆運動に敵対する。彼は内閣不信任案を否決し、警察力で民衆運動を抑え込んだ。彼は有権者150万人の地盤を守るため、普通選挙に反対し続けた。※彼は平民宰相のイメージがあったが、そんな首相だったのか。

○普通選挙の実現
・吉野に与えられた課題は2つあった。第1は民衆運動に明確な目的を与える事で、第2は政友会に代わる政党の創出だった。前者の答えが論文『民衆的示威運動を論ず』で、後者の答えが論文『山本内閣の倒壊と大隈内閣の成立』だった。
・彼は論文『民衆的示威運動を論ず』で、「欧州での民衆的示威運動には明確な目的があり、単に現政府への反対ではなかった」とした。彼は民衆運動に普通選挙の実現を目標に掲げるよう提案した。

○党勢拡張の方法を知らぬ
・彼は翌月の論文『山本内閣の倒壊と大隈内閣の成立』で、反政友会諸党の結束と普通選挙の提唱を求めている。彼は論文で、「日本と欧州は反対で、日本では政権を握る事で党勢を拡張できる。そのため政党は政権の維持に固執する」と述べている。

○二大政党制と普通選挙制
・1914年4月海軍収賄事件で山本内閣は倒壊し、同志会(加藤高明)/中正会(尾崎行雄)/国民党(犬養毅)が与党の第2次大隈内閣が成立する。これに対し吉野は論文で、「三党が結成し普通選挙制を導入し、新しい有権者で支持基盤を構築しなければ、二大政党制は実現しない」と述べた。これは10年余り後に実現する。

・彼は政党内閣の制度を完全にするには、二大政党制が条件としていた。そこで彼は与党3党に2点要望している。第1は3党の結束で、「もし3党が分裂すると、政友会と官僚の妥協に戻る」と忠告した。第2は「政友会に勝利するためには、新しい地盤を開拓する必要がある」とし、そのために普通選挙制の導入が必要とした。※余程政友会が嫌いなんだ。

○社会的な格差是正
・この頃の吉野の主張に、もう1つの特徴がある。それは「持たざる者に福利を」である。下層民に選挙権を与えるだけでなく、「彼らの生活を改善させる政策を打ち出せ」と要求した。彼は「政治的」な格差是正だけでなく、「社会的」な格差是正も唱えていた。
・彼は論文『民衆的示威運動を論ず』で、「政府が工場法の実施を拒むのは、資本家から圧迫を受けているため」と指摘している。1911年「工場法」は成立するが、政友会内閣(第2次西園寺内閣、第1次山本内閣)が実施を見送っていたからである。「工場法」は、子女の労働時間の制限/児童の雇用禁止/子女の夜業禁止/労災保障など、基本的な労働条件の改善だった。政友会はそれ程保守的だった。

○金持ちのための減税か、社会政策か
・また吉野は、政友会の減税政策が下層民の生活を考慮していない点を指摘している。彼は論文で、「減税は富者・資本家に偏し、下層民に不公平である。相続税も同様である。外国米輸入税廃止案の否決は地主のためで、貧民のためにならない。この様に社会政策が顧みられず、憂慮する」と述べている。※吉野作造は、こんな人か。これが民本主義かな。名前が、田中正造と少し似ている。

<2.7 持たざる者に福利を>
○護憲三派内閣の成立
・1924年1月政友会から普通選挙制に反対の政友本党が分裂する。護憲三派(政友会⦅高橋是清⦆、憲政会⦅加藤高明⦆、革新倶楽部⦅犬養毅⦆)が「第2次憲政擁護運動」を起こす。5月総選挙で護憲三派が大勝し、翌月加藤を首相とする護憲三派内閣が成立する。1925年3月男子普通選挙法が成立する。

○吉野人気の失速
・ここまでは吉野の時代だったが、いざ「持たざる者に福利を」となると、彼の人気が失速する。それは青年・学生などがデモクラシー論を捨て、ソ連型の社会主義論に走ったからである(※若者は理論・理想に走り易いかな)。彼の信奉者・蠟山政道は、労働組合運動をデモクラシー思想から引き裂いた思想家を批判している。※行き成り出てきた労働組合運動とデモクラシー思想の関係が分からない。

○デモクラシーに対する「誤解せる蔑視感」
・蠟山は「世界では労働者階級においてデモクラシーが体得されている。この自己組織原理を一般社会の政治組織でも、産業組織でも実現されるのを期待する」と論じている。※こんな感じかな。「あらゆる組織を民主化しろ」かな。たかが100年前の文章でも苦労する。
・彼は「日本の労働組合運動はデモクラシーに背を向け、階級闘争だけを強調した。これは思想家の責任である」とした。彼は「ある思想家が、デモクラシーを誤解させる蔑視感を労働者階級に植え付けた」と批判している。
・彼はデモクラシーの要求の1つに「諸制度の厚生的機能の能率の増進」(?)を掲げている。「厚生」とは「福祉」の事である。※難解になってきた。

○社会民主主義政権による国家運営の大変革
・吉野のデモクラシー論にも「社会政策」は含まれていた。しかし地主/ブルジョアの「福利」だけを考えていた政府が行える「社会政策」は限られた。そこで行政学者の蠟山は、中央・地方の行政改革で「厚生的機能の能率の増進」を実現する方法を述べている。彼は「デモクラシーの要求する所は、『諸制度の厚生的機能の能率の増進』にある。しかしこれが最も困難で、重要な問題である。特権階級の利益ではなく、一般民衆の利益を図る必要がある。そのためには行政官庁/地方行政/植民地行政の根本的な改革が必要である」とした。
・彼はこの大改革を「無産政党」(社会主義政党)に期待していた。また彼は、「この改革がなされるのは、無産階級による政府が樹立され、貧弱な産業生活を立て直す政策の立案に掛かっている」と述べている。これは普通選挙の数ヵ月前に書かれた論文『日本政治動向論』である。

・彼は社会主義政党が単なる反対政党ではなく、官僚組織/産業組織を改革し、分配の平等/富の増進がなされる事を期待していた。今で言えば、経済成長を伴った福祉国家の実現である。

○5%以下の得票数
・しかし普通選挙が始まっても、それは実現されなかった。1926年左派の「労働農民党」(労農党)、中間派の「日本労農党」(日労党)、右派の「社会民衆党」が結成される(※社会主義政党の右派って何だ。穏やかな社会主義かな)。
・1928年2月最初の普通選挙が行われるが、3党は有効投票数987万票の内、49万票しか獲得できなかった。前回の投票数から690万票増え、これらは労働者/小作農などの中下層民なのに、49万票しか獲得できなかった。

○労働組合法の制定を優先
・1930年2月に行われた総選挙でも52万票、その次に行われた1931年2月総選挙では26万票と半減している。この原因は労働組合/農民組合が総選挙より、労働争議/小作争議を重視したからと考えられる。彼らは激しい労働争議/小作争議を指導している。労働運動(※労働争議?)は満州事変(1931年)頃まで行われ、農民運動(※小作争議?)は日中戦争(1937年)頃まで行われた。
・右派の社会民衆党/日本労働総同盟(※以下総同盟)の松岡駒吉/西尾末広は、労働組合法の制定より、労働組合の組織化に軸足を置いた。1928年総選挙前、松岡は「労働組合法が制定されても、確固たる労働組合が組織されていないと、利益はもたらせない」と述べている。

○総同盟の民政党への期待
・1928年2月の総選挙で、右派の社会民衆党は4議席しか獲得できず、社会政策の実現は絶たれる。そこで松岡や総同盟は、労働組合法の制定を立憲民政党(民政党、※1927年憲政会と政友本党が合併して成立)に委ねる。1929年7月民政党の浜口雄幸内閣が成立する。その翌月の機関誌『労働』に、「加藤内閣(実際は清浦内閣)で、労働組合が合法となった。健康保険法/改正工場法も憲政会の若槻内閣で実施された。治安警察法17条の撤廃/労働争議調停法の制定も評価できる。民政党は政友会に比べ、労働政策に対し進歩的である」とある。
・1930年2月の総選挙で右派の社会民衆党は、4議席から2議席になる。左派/中間派も労働争議/小作争議を重視し、4議席を1議席に減らした。※全く議会に関わろうとしていない。

○大いなる進歩
・総同盟は民政党内閣に期待するが、1931年2月提出の労働組合法案は団体交渉権も認められていない名ばかりの法案だった。しかも衆議院では可決されるが、貴族院で廃案となる。それでも総同盟主事の松岡は『労働』で、これを評価している。
・時の内務大臣は安達謙蔵で、彼は企業のトップに労働運動の合法化を説得するが、反対運動の連盟が作られるほどだった。しかし彼は決心し、法案を議会に提出する。松岡はこれは「大いなる進歩」と評価したのだ。※日本らしい話だ。

○迫られる方向転換
・リベラル派政党への期待もこれが限界となる。1931年12月政友党の犬養内閣に代わり、翌年2月の総選挙で政友会が圧勝する(※当時は今と逆で、政権が代わると、少数だった与党が総選挙で多数になった)。これについて『労働』に、「政友会は社会政策に関心がない。犬養内閣に労働組合法/失業保険法の制定を要求するのは無駄である」とある。
・犬養内閣は最後の政党内閣になるが、総同盟にとっては悪評高いものだ。1932年2月総選挙(総議席数466)で、社会主義政党3党で5議席、民政党146議席となり、方向転換を迫られる。

○総同盟の挫折
・1932年7月社会主義政党右派の「社会民衆党」と中間派の「全国労働大衆党」(旧日労党)を統一し、「社会大衆党」が結成される。最近この経緯が詳しく研究され、この統一の原因が、総選挙での惨敗や労働組合法の挫折だった事が分かってきた。労働組合法を巡って、「社会民衆党」の支持母体の「総同盟」と、「全国労働大衆党」の支持母体の「組合同盟」が対立していた。しかし民政党内閣の退陣で同法の成立が絶望的になり、両党の統一がなされた。

<2.8 団体主義から議会主義へ>
○昭和デモクラシー
・1932年7月社会大衆党が成立するが、翌年3月吉野作造は死去する。その前月彼の意志を受け継いだ行政学者・蠟山政道は、社会大衆党に期待し『日本政治動向論』を刊行する。そこに「無産政党の左右の指導者がデモクラシー思想を認識していなかったが、10年の経験・苦節でその意義・価値を認識し、その旗の下に集うようになった。この先10年その実践・展開に期待する」と記した。前年の5.15事件で政党内閣は終焉していたが、彼は「デモクラシーの実践と展開」を期待している。

○社会大衆党の団体主義
・1932年7月社会大衆党が成立するが、前年の斎藤実の挙国一致内閣の誕生で、総選挙が行われる可能性はなくなった。そのため社会大衆党とその支持母体の労働組合は、「団体主義」で凌ぐしかなかった。社会大衆党の「職能代表制」と、労働総同盟(※以下総同盟)の「企業内民主主義」がそれである。

○美濃部の円卓巨頭会議構想
・1934年7月頃、国策研究会(大蔵公望)/陸軍統制派(永田鉄山)/内務官僚/社会大衆党などで、「職能代表制的な機関」の設立の動きが活発になる(※二大政党抜きだな)。これに「天皇機関説」の美濃部達吉も協力していた。彼は前年、『中央公論』に「政党の首領/軍部の首脳/実業界の代表/勤労階級の代表で構成される円卓巨頭会議」の構想を発表している。

○社会大衆党の構想
・1933年社会大衆党も「国民経済会議」の設立を提唱している。この会議は、労働団体/農民団体/技術者団体/資本家/地主団体/同業組合/商工業組合など職能団体代表100名、地域代表100名、専門委員/政府代表/陸海軍代表/植民地代表など100名で構成され、政府が作成した法案を議会に提出する前にチェックする常設国家機関である。
・1935年5月美濃部の構想から「内閣審議会」が作られ、社会大衆党の構想から「内閣調査局」が作られた。内閣調査局は陸軍の総力戦体制の立案機関として存続し、1937年7月日中戦争が始まると企画院に改組された。

○松岡駒吉の企業内民主主義
・1936年2月総選挙が行われ、「政治の季節」(?)が到来する。社会大衆党の支持母体の総同盟の指導者・松岡駒吉も党とは別の「団体主義」である「企業内民主主義」を実践していた。普通選挙が行われる1年前(1927年2月)、彼は論文で「労働組合法の制定は社会民衆党に任せ、労働組合はその設立・拡大に努めるべきだ」としていた。

・またこの論文で注目されたのが「産業民主主義」で、「労働条件の維持・改善だけでなく、労働者の発言権の伸長も重要」とした。翌年には、論文に「産業民主主義とは、労使協力して生産能率を上げる事」としている。
・これに対し左派の山川均は「組合は団体協約で労働力を売り渡すが、工場就業規則以上に作業能力を増進させる必要はない」と反論している。何時の時代も「労使協調主義」と「労使対決主義」があった。

○産業協力運動
・松岡の「生産能率増進」の考え方は労働運動の生き残りに繋がった。社会大衆党が「職能代表制」に存続の途を求めていた時、総同盟は「産業協力運動」を模索していた。これは経営者に団体協約(労働協約)を結ばせる代わり、組合員は生産性向上に協力する。
・1935年5月岡田啓介内閣で内閣審議会/内閣調査局が作られ、その3ヵ月後、総同盟は組合代表による座談会を開くが、そこで「産業協力運動」の成果を述べている。

○大衆の生活と云う判断基準
・これらから1935年頃は社会大衆党/総同盟、共に自信を深めていたように思える。しかし翌年2月総選挙への始動は、1月党大会で初めて見られる。宣言で「諸悪の権限は既成政党(政友会、民政党)で、軍部/官僚/ファッショ(?)ではない」としている(※本文省略)。そして判断基準を「大衆の生活」(平等、格差是正)としている。ちなみに民政党の判断基準は「自由と平和」だった。

○反ファッショ人民戦線への言論人の関心
・1936年2月総選挙で、社会大衆党は5議席から22議席(総数466議席)に躍進する。既成政党では民政党が大勝し205議席、政友会が174議席となった。しかし言論人はソ連の「反ファッショ人民戦線」に注目した(※こんなのあった?)。ソ連のコミンテルンで働いていた野坂参三が送ってきた「日本の共産主義者へのてがみ」(※以下手紙)に関心を寄せた。
・1928年日本共産党は非合法化され、治安維持法により大弾圧を受けた。しかし全国農民組合(全農)などで活動を続けていた。この手紙には「反ファッショ人民戦線樹立のため、農民/中小ブルジョアの不平分子/民政党の進歩的分子で統一戦線を組め」と指令されていた。社会大衆党の二大支持母体は反共の総同盟と容共の全農だが、全農でさえこの指令に従わなかった。

○広義国防-軍拡と生活向上
・社会大衆党は、「人民戦線」に対し「広義国防」を提唱する。これは軍部/官僚が求める軍備だけの拡張(狭義国防)ではなく、下層民の生活向上を両立させた「広義国防」である。社会大衆党は1935年の「内閣調査局」の設立、翌年の総選挙での22議席獲得で、ボトムアップの「広義国防」に期待した。

○下から見た社会
・1936年5月総選挙後の特別議会で、社会大衆党の麻生久は「農民/労働者/中小商工業者が見る社会と、支配階級が見る社会は違う」と述べている。

○既成政党への攻撃と、陸軍への失望
・これに続いて麻生は既成政党を攻撃し、陸軍への失望を表明している。「高橋蔵相は自力更生せよと言うが、既成政党は生活を圧迫している社会的な原因を取り去ろうとしなかった」。
・一方軍部には「陸軍省は国防は軍備と考えているが、国民生活を安定させる経済組織を構築しなければいけない」と批判している(※大幅に省略)。これは「今の陸軍の方針は、1934年に作成したパンフレットに沿っていない」とする批判である。「永田鉄山がなくなり石原莞爾らが『重要産業5ヵ年計画』を目指しているが、それが社会大衆党より財閥の支持を重視している」とした(※ピンと来ない批判)。彼は既成政党だけでなく、「狭義国防」の陸軍も批判した。

○社会改良のための制度改革は不要-粛軍演説
・一方総選挙で大勝した民政党は斎藤隆夫が「粛軍演説」を行い、陸軍のファッショ化を批判している(※総選挙は2月20日で、その直後に2.26事件が起こっている)。それができたのは戦前の憲法でも立法府での発言は妨げられなかったからだ(※暗殺が横行した時代だけど)。そこで彼は「日本の制度は完備しているので、それを運用する側に問題がある」と述べる。要するに「労働組合法/小作法などの法的保障は必要ない」とした。さらに陸軍/右翼/社会大衆党の「革新論」を切り捨てている(※本文省略)。

○1937年4月総選挙
・1937年4月総選挙が行われ、社会大衆党の「国民生活改善論」、民政党の「現状維持論」、野坂参三の「反ファッショ人民戦線論」の帰趨が明らかになる。これは日中戦争が始まる前で、平和の内に行われた選挙である。

○社会大衆党の勢い
・この選挙について2点述べたい。第1は、社会大衆党の躍進で、議席を37に伸ばす。民政党は179議席、政友会は175議席となる。林銃十郎内閣が突然議会を解散し、前回から1年2ヵ月後の選挙で、地盤を持たない社会大衆党には不利だった。もし日中戦争が起こらなければ、次の総選挙でも躍進する可能性があった。

○ファシズムか社会民主主義勢力か
・第2は、社会大衆党の躍進はファシズムか社会民主主義かである。当時は前者とする意見が多かった。

○政府のファッショ的傾向
・総選挙の翌月、評論家など8人で次期政権に関する座談会が開かれる。ここで自由主義者・馬場恒吾が社会大衆党の三輪寿壮に、「今の政府のファッショ的傾向は問題である。既成政党と一緒にこれを潰してくれ」と問うている。同じく自由主義者の清沢冽も三浦に「既成政党が斎藤隆夫を立て、ファッショと闘わせたが、社会大衆党がそれに石をぶつけた。それでは後援できない」と迫っている。※「社会大衆党の立場はどっちなんだ」だな。

○とにかく旧い
・これに対し社会民主主義者の蠟山政道は、「既成政党の社会大衆党に対する態度が酷いので、社会大衆党の態度に賛成する」と援護している。これを受けて三輪は、「既成政党はいかんせん旧い。それなのに二大政党の立場でいる」と述べている。

○社会大衆党躍進の理由
・社会大衆党が「広義国防」を掲げ、躍進してきた以上、下層民を顧みない既成政党からファッショ呼ばわりされないため、反ファッショである事を示す必要があった。
・この座談会で元九州帝大教授・石浜知行が、社会大衆党への期待を述べている。「社会大衆党の躍進には理由がある。既成政党はファッショ的傾向に反発するどころか、迎合が見られる。それが社会大衆党を躍進させた。社会大衆党にはファッショに対抗してもらうしかない。選挙民は社会大衆党を監視し、社会大衆党はこの期待に応えるしかない」。軍ファシズムによる物価騰貴で、国民生活は悪化していた。

○生活防衛のための選挙権行使
・一般的な昭和史像は、「既成政党が腐敗し、それに反発した青年将校が5.15事件/2.26事件を起こした」であるが、石浜はこれを否定し、社会大衆党に期待している。この2ヵ月後、日中戦争が起きる。総力戦が始まらなければ、社会民主主義政党が格差是正に努めたかもしれない。※戦前の議会が幾らか理解できた。

○おわりに-総力戦体制下の格差是正
・本章は日中戦争開始までの「民力休養」と「格差是正」を解説した。その後8年は総力戦に突入する。この期間、「民力休養」は論外だが、「格差是正」は実現した。それは働き手を失い、労働力不足になり、資本家/地主は労働者/小作の待遇を上げざるを得なかったからだ。※トマ・ピケティの「21世紀の資本論」だな。
・詳しくは雨宮昭一『戦時戦後体制論』にある。1938年4月悪名高い「国家総動員法」が公布され、軽工業から重化学工業への転換が行われ、農民/労働者/女性の経済的・社会的格差が是正された。この労働力不足は「軍需」ではなく「徴兵」による。1945年男子総人口は3400万人で、働き手は1900万人である。この内780万人(4割)が軍人だった。

<あとがき>
・本書は外交と内政に分けて解説してきた。外交の基軸は「日英同盟」だった。「欧化主義」「アジア主義」「日本主義」などの多様な外交思想があったが、1902年「日英同盟」が結ばれ一旦解消するが、1923年その消滅により再び姿を変えて復活する。
・内政は「富国強兵」「民力休養」「格差是正」の3つが展開されるが、1900年頃から前2者は「積極財政」「健全財政」の対立に変わる。その後に登場したのが、政治的・社会的・経済的な不平等の是正である(格差是正)。

・当時の「日英同盟」「格差是正」の問題が、今の「日米同盟」「格差是正」の問題と同様だと分かる。「日米同盟」の脆さが露呈しつつある。また総力戦の時代を除いて、「格差是正」はされなかった。「日米同盟」弱体後の安全保障、多様化・深刻化する「格差是正」について、政治家/オピニオンリーダーは真剣に考える必要がある。
・戦後の政治は「民力休養」に専念され、その後は消費税が課題になったが、「格差是正」には目が向けられていない。この構造は戦前と一致するが、戦前の野党(※社会大衆党?)の方が「格差是正」に真剣だった。

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