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『ヨーロッパ繁栄の19世紀史』玉木俊明を読書。

英国がヘゲモニー国家となった19世紀を解説している。
その要因は産業革命と習ったが、海運/金融としている。こちらが真実で、その過程・内容が分かった。

中盤(第3・4章)で労働/余暇について書かれているが、曖昧な論述が多い。しかし英国のジェントルマン思想については多少理解できた。
終盤(第5章)はウィーン体制/植民地との関係などで、分かり易い。

お勧め度:☆☆(英国覇権の内容が分かる)
内容:☆☆

キーワード:<ベルエポックの光と闇>欧州と植民地、第1次世界大戦、<世界はこうして縮まった>グローバリゼーション、蒸気船、電信、<進出する欧州、後退する中国>南米、朝貢貿易、蒸気船、<欧州の世界支配>電信、流通、<工業化を巡って>ヘゲモニー国家、綿製品、<各国の工業化>ベルギー、仏国、ドイツ、ロシア、スウェーデン、イタリア、移民、<欧州の変貌と他地域との関係>コロンブスの交換、賃金格差、<英国のヘゲモニー>海外投資、ジェントルマン資本主義、<反転労働供給と勤勉革命>労働時間、市場、<消費社会の誕生>サトウキビ/黒人奴隷、綿織物、<工場と労働制度>労働時間、<市場での労働の増加>都市化、女性の労働、ジェントルマン資本主義、<余暇の意味>見せびらかし、<ツーリズムの発展>トーマス・クック、3C政策、<海を渡る>海水浴、<世界の一体化、余暇、経済成長>、<ウィーン会議からメッテルニヒ体制崩壊まで>仏国革命/ナポレオン戦争、ウィーン体制、ラテンアメリカ、経済成長、<国家の統一>イタリア、ドイツ、国民国家/複合国家、帝国主義、<米国とドイツの挑戦>第2次産業革命、<欧州の民主化と植民地>普通選挙、文明化の使命、<手数料資本主義>海上保険/ロイズ、<長き歴史の中で>欧州の世紀、第1次世界大戦

序章 ベルエポックの光と闇

○昨日の世界
・第1次世界大戦前の100年間(1815~1914年)は欧州の全盛期で、「ベルエポック」と呼ばれる。1881年ウィーン生まれのシュテファン・ツヴァイクが、この様子を『昨日の世界』(1940年)に書いている。この時代は安定の時代だったが、戦争により破壊された。

○ベルエポックとは
・ベルエポックは1815年ナポレオン戦争終結から、1914年第1次世界大戦勃発までである。この時代は欧州が世界を植民地にし、世界を支配した時代である。他に次のような特徴がある。①民主主義の発展。②イタリア/ドイツも統一され、国民国家が当然になる。③生活水準が向上し、余暇が増大した。④社会が安定した。

○植民地人にとってのベルエポック
・ベルエポックは欧州には「良き時代」だったが、植民地には「悪しき時代」だった。欧州人は自分達の価値観を普遍的とし、植民地を文明化するのを使命とした。しかし彼らは議会制民主主義や工業を発展させるが、それらを植民地に導入せず、収奪の対象にした。

○欧州が圧倒的に優位な関係
・この欧州が圧倒的に優位な関係は、英国のヘゲモニーを拡大させた。1840年英国はアヘン戦争に勝利し、貿易港を広州だけから、福州/厦門/寧波/上海を加えさせた。1853年米国は浦賀に来航して日本を脅し、1858年不平等条約を結ばせる。彼らはこれを「自主的」と言うが、実際は「脅迫」である。
・本書は、この欧州全盛期を扱うが、他地域では収奪を行った時代で、この光と闇を論じる。

○第1次世界大戦と落ちぶれた欧州
・この欧州の繁栄も第1次世界大戦で終焉する。1914年6月オーストリア皇太子が暗殺され、オーストリアがセルビアに宣戦布告する。この戦争はクリスマスまでに終わると思われていたが、4年も続き、欧州に甚大な被害を及ぼす。
・日本はこれを「欧州大戦」と呼んだ。もし米国が参戦しなければ、連合国は敗れていたかもしれない。米国は債務国だったが、この大戦で債権国に変わり、立場が逆転する。また植民地も立場を変える。英国はインドの独立を約束し、インド人を兵士として使うが、英国は約束を反故にする。これにより独立運動が激しくなる。

○本書の構成
・19世紀はグローバリゼーションが進展した時代でもある。これは蒸気船と電信による。

・本書は以下の構成とする。
 第1章 一体化する世界-英国のグローバリゼーションを解説する。
 第2章 工業化と世界経済-欧州の工業化や世界経済を解説する。
 第3章 労働する人々-欧州人は労働時間を増やし、砂糖・コーヒーなどの消費財を消費するようになる。
 第4章 余暇の誕生-労働時間/非労働時間が明確になり、旅行などの余暇を楽しむようになる。
 第5章 世界支配の在り方-ナショナリズムは高揚し、ラテンアメリカは独立し、欧州の国民国家は成長した。欧州経済は一体化し、宗主国と植民地の紐帯は強化された。

第1章 一体化する世界

・19世紀グローバリゼーションが進むが、それは英国が蒸気船を世界に送ったからである。アジア/アフリカの植民地は第1次産品を欧州に送った。この物流を支配したのが英国だった。また英国は電信(海底ケーブル)でも世界を縮めた。

<1.1 世界はこうして縮まった>
○19世紀のグローバリゼーション
・過去よりグローバリゼーションは行われていた。『グローバリゼーションと歴史』(1999年)を見ると、「世界の一体化は1820年代に始まった」「19世紀後半、商品/生産要素(労働、土地、資本)の市場は世界で統合された」「その要因は貿易と移民」としている。
・賃金の差は、1873~1914年で大きく縮小した。1869年スエズ運河の開通や蒸気船により商品の価格差も縮小する。1857年リヴァプールとボンベイの価格差は57%あったが、1913年には30%に縮まっている。
・資本のフローも増加している。それは生産関数(労働・土地・資本と財・サービスの供給量の関係)が一定なら、豊かな国より貧しい国の方が収益率が高くなるからだ。※一定なのに収益が違う?
・「グローバリゼーションは英国が世界に船舶を送り、鉄道を敷設した事による」としている。

○欧州の帝国化と大英帝国
・欧州の帝国化は、1415年ポルトガルがセウタを植民地にした時に始まる。欧州人が最初にアジアに到達したのは、1498年ヴァスコ・ダ・ガマのカリカット到着である(※大航海時代を詳しく説明しているが省略)。1788年英国はオーストラリア、1840年ニュージーランドを植民地にする。この様に欧州は長い時間を掛けて、植民地を拡大した。※1700年/1800年/1914年の地図で植民地の拡大を説明しているが省略。
・19世紀欧州は蒸気船により植民地を拡大した。オーストラリア/ニュージーランドや上海までの定期航路を設けたのが大きな要因である。またアジアではジャンク船(木造帆船)が活躍していたが、安定して航行できる蒸気船が大きな要因である。

○縮まった世界
・世界は縮まり、情報の伝達が早くなった。世界各地からロンドンに情報が伝わる1820年の時間を100とすると、1870年は平均29になっている。インドは4になっている。これはスエズ運河の開通による。※物流から、電信に変わったためでは。
・同じく電信による情報伝達の日数を見ると、1860~70年で飛躍的に縮小している。これはこの時期に電信が整備されたからで、1870年には世界どこからでも4日以内で伝達できるようになった。それまでは腕木通信を行っていた。※詳しく説明されているが省略。こんなのがあったのか。

○世界はどの程度縮まったか
・ブラジル-英国間の情報伝達日数を見る。1850年帆船の航海が定時になり、10日短縮する。翌年帆船から蒸気船に変わり、20日以上短縮し30日を切る。1875年電信に変わり、1日で伝わるようになる。
・遠洋航海では蒸気船の使用が高まる。蒸気船の使用は、1860年30.1%/1870年53.2%/1880年74.9%/1890年90.8%と急激に上昇している。これにより航海日数も短縮する。

<1.2 進出する欧州、後退する中国>
○非公式帝国
・欧州は植民地を有し、植民地との経済的な紐帯は強かった。植民地は宗主国(本国)に第1次産品を輸出し、工業製品を輸入した。それには本国の船舶が使われた。
・ただし英国だけは植民地以外にも同様な地域を持っていた。それは「非公式帝国」と呼ばれている(※聞いた事がない。具体的にどこだろう)。それは英国の海運業が発展していたからである。

○南米と英国
・例えば南米がそうである。南米はブラジルはポルトガル領で、他はスペイン領だった。ナポレオン戦争以前は宗主国に輸出していたが、以降はロンドンが輸出先の中心で、次がハンブルクになる。宗主国との紐帯が弱まった事により、南米諸国が独立する。※南米の独立は、スペインの弱体化なんだ。

・同時に英国の南米への投資が増大する。1826年2456万ポンド/1865年8086万ポンド/1895年5憶5520万ポンド/1913年11憶7746万ポンドと増大する。その対象は公債と鉄道だった。
・有価証券への投資は、1865年総投資額の80%から、1913年55%に低下している。一方直接投資(企業や工場への投資)は、1865年1700万ポンド(※21%)から、1913年5億4600万ポンド(※46%)増加している。これは鉄道が中心と考えられる。

○中国の朝貢貿易
・中国は唐代から朝貢貿易を行っていた。周辺国が貢物を差し上げ、その見返りに下賜品を受け取る制度である。これは安全保障の目的もあった。宋代から民間貿易が発展するが、明代/清代で朝貢貿易が復活する。明の永楽帝(位1402~24年)は、鄭和の遠征など、活発に貿易する。しかし1757年清の乾隆帝(位1735~96年)は、貿易港を広州に限定する。朝貢貿易は朝貢国の船が使われたため、海運業は衰退した。

○ガレオン船と銀輸入
・明代の税制は「一条鞭法」であったが、清代は「地丁銀制」に変わる。「一条鞭法」は租税と徭役を一括して銀納する制度で、「地丁銀制」は土地税に人頭税を含め一括して銀納する制度である(※これだけでは、違いがよく分からない。清は征服王朝なので、人頭税があるのかな)。そのため中国は銀が重要で、銀を輸入する必要があった。

・輸入先は日本もあったが、多くはメキシコから輸入された。銀はスペインのガレオン船でマカオに運ばれ、そこから中国のジャンク船で運ばれた。1571年マニラが建設され、アカプルコからマニラまで銀が運ばれた。
※よく見る西洋の帆船はガレオン船だな。ガレオン船もジャンク船も帆船で似ているが、ガレオン船は喫水が深く、ジャンク船は喫水が浅いようだ。ガレオン船は遠洋航海向きで、ジャンク船は沿岸航海向きかな。性能はジャンク船が優れているみたい。

○中国の貿易を担う英国船
・中国でも英国の海運業が大きな影響を持った。中国の主力はジャンク船だったが、19世紀末から蒸気船に変わる。1898年ドイツは山東半島の青島を租借しアジアでの拠点とし、青島-上海/青島-天津との間で蒸気船を運行する。船舶数の多い上海-寧波/上海-漢口は英米の会社が、蒸気船を運行させた。※上海は最初、英米が租借した。

・遠洋航海/沿岸航海で中国の港に入港する蒸気船のトン数(1872~1912年)を見ると、遠洋航海では英国船の比率が高い事が分かる(※他にも色々評価しているが省略)。一方沿岸航海では1872年は米国船が一番多かったが、1882年に英国船に逆転される。また1898年中国人が蒸気船を経営するのが認められ、以降中国船も増加する。
・全体的に見て、中国の海運は英米の蒸気船の影響を大きく受けた。この状況は中国に限らず、世界共通だったと考えられる。

<1.3 欧州の世界支配>
○英国と電信ネットワーク
・英国は電信ケーブルの敷設でも抜きんでていた。海底ケーブルの敷設は巨額の資金と巨大な蒸気船が必要だった。また鉄道で情報をやり取りするには、電信を使った電報によるしかなかった(※意味不明。線路と並行して電信ケーブルを敷設すれば、良いのでは)。そのため蒸気船/鉄道/電信の発展がパラレルに起こった。

・ドーバー海峡に海底ケーブルを敷設しようとした。銅線に麻を巻きタールを染み込ませたが、直ぐに使えなくなった。ゴムに似たガタパーチャで覆うと、海底ケーブルとして使えた。ガタパーチャはシンガポールから輸入された。
・1851年ドーバーに海底ケーブルが敷設され、1857年にはオランダ/ドイツ/オーストリア/サンクト・ペテルブルクと繋がった。その後仏国/イタリアとも繋がった。しかし大西洋を横断する海底ケーブルの敷設は難航した。しかし1866年敷設に成功する。

・1864年インドにはバグダード経由で繋がる。1872年4つの会社が合併し「イースタン・テレグラフ」が創設される。当社はシンガポール/香港/オーストリア/ニュージーランドまで電信網を広げる。
・1869年北欧では3社が合併し、「大北方電信会社」が設立される。1871年当社はサンクト・ペテルブルクからウラジオストック/上海/長崎/厦門/香港まで電信網を広げる。※日本まで来たんだ。
・1902年「太平洋ケーブルボード」がオーストラリアとニュージーランドを海底ケーブルで結ぶ。翌年には、サンフランシスコ-ホノルル-マニラを海底ケーブルで繋げる。

・電信は貿易決済にも使われた。大半の貿易決済はロンドンで行われるようになる。ロンドンは金融の中心になる。

○世界の流通を押さえた欧州
・欧州は海上ルートでアジアに進出した。一方アジアは欧州に進出したが、それは陸上ルートだった。これは重要なポイントである。欧州は海上の流通を支配し、アジアを支配した(※海上輸送の方が安価で、大量に運べる)。一方大西洋の流通は、最初から欧州が形成した。世界の流通は欧州が押さえ、19世紀になると特に英国が支配した。※ペルシャ商人/インド商人/華僑もいたけど、19世紀になると蒸気船を持つ欧州が支配したかな。

○支配=従属関係
・この支配=従属関係は、国際分業体制が前提になっている。南米/アフリカ/アジアは植民地になり、第1次産品を本国に送り、本国で作られた工業製品の市場になった。そしてこの流通を独占したのが英国だった。※支配=従属関係だと「支配関係と従属関係は等しい」と云っている感じ。少しスッキリしない。
・19世紀以前の帆船の時代は航海に時間が掛り、支配=従属関係を形成するのは難しかった。第1次産品が欧州に運ばれる事もあったが、そこではアジア商人も能動的に活動できた。しかし蒸気船の時代になると欧州が圧倒的に優位になり、流通を支配する。もしアジアの流通をアジア商人が支配し続けていれば、支配=従属関係は生まれなかった。

○豊かになる欧州、貧しいままのアジア/アフリカ
・19世紀欧州は豊かになり、市民社会/民主主義/ナショナリズムが台頭する。これらは全て関連している。これまでに「欧州の発展は、植民地の低開発による」(低開発の開発)とする見方があった。しかしこれは経済中心の見方で、先進国が工業化し、発展途上国がモノカルチャー化する事を強調し過ぎている(※よく分からない)。これは「従属理論」と呼ばれるが、本書はこの様な一画的(?)な見方をしない。本書はより広い文脈で捉え、支配=従属関係があったから「欧州の世紀」になったと考える。

第2章 工業化と世界経済

・19世紀欧州は経済成長した。各国は工業化し、その製品が世界で販売された。欧州の貧しい人は米大陸に移住した。蒸気船/郵便の発展は欧州と他地域を密接にした。
・英国の工業化は相対的に低下するが、海運/金融によりヘゲモニー国家になった。英国の資本主義の担い手は、産業革命を成した産業資本家ではなく、不労所得で収入を得ている地主(ジェントルマン)であった。※今の米国に似ている。製造業より、金融/ICTが産業の中心。

<2.1 工業化を巡って>
○欧州の経済成長
・英国の経済学者アンガス・マディソンが世界の経済成長率を推計している。これによると西欧は19世紀に経済成長している。一方アジア/アフリカは1913年においても、ほとんど経済成長していない。それ以外のラテンアメリカ/東欧・ソ連は19世紀後半に経済成長が見られる。※アジアは20世紀後半に経済成長したので、残るはアフリカかな。

○工業化と国家(英国)
・17世紀経済の中心はオランダだった。オランダは、宗教的寛容/非中央集権/自由主義経済だった。
・一方英国は、1651年航海法を発布し海運業を発展させ、18世紀末に世界最大の海運国家になる。また中央政府は金融・財政を管理下に置いた。また工業化を促進する法律を制定し、工業化に成功する。
・英国政府は経済に介入しなかったと思われているが、実際は工業化で大きな役割を演じていた。英国はオランダに追い付くため保護主義政策を取り、世界最初の工業国になった。

○英国の工業化
・また英国は他国と異なる大西洋貿易を行った。英国は奴隷を西アフリカから新世界に送り、そこでサトウキビを栽培させた。さらに綿花を栽培させ、それを本国で綿織物に変えた。※三角貿易かな。
・英国の綿製品の輸出は、18世紀末に急増し、19世紀初めに毛織物を抜き、最大の輸出品になる。19世紀前半は綿製品の半分が輸出されたが、19世紀後半には7・8割が輸出された。これにより英国は「世界の工場」と呼ばれる。

○ガーシェンクロン・モデル
・これを見倣い、欧州各国も保護政策で工業化を試みる。この「後進国の工業化」について、経済学者アレグザンダー・ガーシェンクロンが要点を述べている。※以下簡略化。
 ①遅れて工業化する方が、そのスピードが速い。それは先進国の技術/資本が利用できるため。
 ②後進国は重化学工業化し易い。それは後進国では巨大な投資が行われ、巨大な設備が建設できるため。
 ③そのため独占・カルテルが起き易い。
 ④後進国では大規模経営の要請が強く、投資銀行/政府などにより、企業は上から形成される。

<2.2 各国の工業化>
○欧州大陸諸国の工業化
・英国の工業化は18世紀後半に行われたが、大陸諸国の工業化はさらに遅れる。それは英国の工業化がスロースピードであった事と、フランス革命/ナポレオン戦争などの騒乱が続き、政府に余裕がなかったからである。

○ベルギー
・ベルギーは工業化が早く進んだ国である。1830年ベルギーはオランダから独立する。ベルギーは小国のため、企業は国外市場に依存しており、仏国/ドイツなどへの直接投資も行っていた。ベルギーは鉄鋼/石炭/機械/重化学(※重化学は早いのでは)などが機軸で、投資銀行=企業会社=特殊支配会社が連携し国内外で活動した。※もう少し説明が欲しい。
・1885年コンゴを植民地とし、銅/ラジウム/ウランなどの第1次産品を輸入し、本国で加工する。これは欧州の工業化の典型的な形態である。

・ベルギーの工業化に鉄道が役割を果たした。ドイツ-仏国を結ぶ鉄道が建設され、これが資材の需要を生んだ。この建設をバックアップしたのが巨大銀行ソシエテ・ジェネラルだった。当銀行に対抗するベルギー銀行が設立され、両銀行は競って、製鉄/石炭/機械/ガラス/亜麻紡績/鉄道/運河などの会社を新設・改組した。
・1860年代からは、ロシア/中国/日本などへの直接投資を行った。また鉄道/兵器などの資本財の輸出市場を拡大させた。

○仏国
・仏国は、1781年より農業から工業にシフトする(※ルイ16世期だが、この年に何かあったかな)。仏国の工業化も綿業から始まり、1830年代から重工業も発展する。
・綿業は英国に対抗するため、ノルマンディーからアルザスに移り大規模化された。アルザスでは紡績/職布の両工程が統合された。
・19世紀中頃鋼生産が増大する。製鉄所はノール県/中部地方/ロレーヌなどに集中した。
・1842年鉄道法が成立し、1852年ナポレオン3世が皇帝になった頃から鉄道が発展する。1851年3627営業キロあったが、1870年1万7933営業キロに急増している、

・仏国の対外投資は、当初は8割が公債購入だった。しかしナポレオン3世が皇帝になった頃から、運輸企業への投資が増える。それは英国と異なり、地中海諸国(スペイン、イタリア、ポルトガル)/中欧諸国(オーストリア、ハンガリー、スイス)など、欧州に向けられた。

○ドイツ
・1834年「ドイツ関税同盟」が結ばれ、ドイツ統一の基盤が作られる。しかしこれに、ハンブルク/ブレーメン/リューベックの「ハンザ都市」は含まれていなかった。
・ドイツの工業化は1840年代に進展するが、これは鉄道による。ドイツの鉄道は1835年に始まり、1872年営業キロで英国を超える。ドイツの河川は南北に流れるため、東西に走る鉄道が重要だった。
・19世紀中頃ルール地方で鉱山が発見され、大発展し西欧最大の工業地帯になる。製鉄業/石炭業の発展は、機械/工作機械/金属工業の発展も促した。製鉄業は鉄から鉄鋼にシフトした。ドイツの鉄鋼業の発展は目覚ましく、1910年には粗鉄・粗鋼の生産で英国を圧倒的に上回る。
※超基本だろうが、製鉄と鉄鋼の違いを良く理解していない。銑鉄を作る前工程が製鉄で、粗鋼を作る後工程が鉄鋼かな。それとも粗鋼を作るまでが製鉄で、鋼材を作るのが鉄鋼かな。
・ドイツでは化学工業/電機工業も発展した。これは「第2次産業革命」と呼ばれる。

・ドイツでは高等工業専門学校/工科大学が隆盛を極め、専門的な知識を持つ技術者が尊敬された。一方英国人の理想は有閑階級のジェントルマンで、素人が専門的知識を持つ事で尊敬された(アマチュアリズム)。そのため英国は工業面でドイツに追い越された。※そんな根本的な違いがあったのか。同じアングロサクソン系なのに。

・ドイツの証券投資は、第1次世界大戦前には220~250憶マルクに達し、直接投資もその半額に達する。これによりドイツの資本輸出は、英国/仏国に次ぐ3位になる。
・ドイツの資本輸出には以下の特徴がある。①1/3が直接投資で、証券投資は企業が多い。②先進国への投資が多い。これは植民地を持たなかった事による。③資本輸出の担い手は、産業資本/大銀行資本だった。一方英国はマーチャント・バンカーだった。※英国は小規模なのかな。

○ロシア
・ロシアは社会的に大きく遅れていた。それが明確になったのが「ナポレオン戦争」だった。具体的には皇帝による専制政治/農奴制などである。1853年クリミア戦争が起こるが、英国/仏国に歯が立たず、工業の後進性/機械産業の脆弱性/運輸条件の劣悪性/国家財政の脆弱性などが明らかになる。
・1861年農奴解放が行われるが、上からの改革のため、領主の利益は保証された。1906年ストルイピンの改革で、ようやくミール共同体が解体され、自作農となる。

・1830年代、外国人貿易商/技術者/進歩的貴族により三大紡績会社が設立され、紡績業が始まる。当初は英国の綿糸が使われたが、1840年代には国内の綿糸が使われるようになった。
・また鉄道は重工業の発展を促した。1890年代仏国/ベルギー/ドイツから膨大な資本が流入し、重工業の諸部門(機械工業、製鉄業、石炭業)が飛躍的に発展した。1891年仏国などの資本でシベリア鉄道が着工される。1900年には総延長5万3千キロに達する。

○スウェーデン
・18世紀スウェーデンは農業面で大きく変化する。ジャガイモの生産が増大し、オート麦(※オーツ麦?)の輸出が可能になる。これにより工業化の資金が生まれ、人口も増大した。
・1870年代工業製品の輸出は増加し、1890年代には国内の需要で経済成長する。1860年代工業労働者は6万~6万5千人になり、その内1万4千人が鉄工業、1万1千人が織物業、1万人が製材業となった。1870年代鉄道は毎年14%伸び、10年で3倍に伸び、5千キロになった。

・1890年代の経済成長には幾つか要因がある。①1888年農業保護関税を復活させた。②1870年代に鉄道が建設され、1890年代には水力発電所が建設され、電力が普及する。③都市化が進み、労働者の消費財の需要が増え、繊維・織物業/仕立業/製靴業/食料品工業が勃興した。④農業の集約化・合理化が、工業を発展させた。農業機械は国産化され、輸出されるようになる。※鉄道/電力などのインフラは重要だな。スウェーデンは外国資本に頼らなかったのかな。

○イタリア
・欧州の工業化はイタリアにも影響を与える。①イタリア北部の絹が仏国/英国/ドイツ/スイスに輸出された。②既に工業化された国を模倣した。※それだけ?
・イタリアは繊維工業が発展する。これには3つの要因があった。①アルプスから流れる豊富な水があった。②労働力が豊富。③関税(※保護関税?)。これにより質の悪い繊維製品を貧民に供給した(※要するに国内の非効率の繊維工業の保護かな)。イタリアでは低賃金と関税障壁が利用され、最新の機械が入らなかった。※閉鎖的だな。北部は工業地帯のイメージがあるが。

・イタリアでも鉄道が建設されたが、1859年総延長は1798キロしかなく、しかも機関車は輸入されていた(※山岳国家だからかな)。1870年代以降も鉄道建設は進められるが、その波及効果はなかった。それは外国の会社が鉄道を建設し、レール/エンジン/列車/鉄橋などは輸入されたからである。

・イタリアは農業生産物を輸出し、工業生産物を輸入するため、自由貿易を行った(※保護貿易と言っていたのに)。イタリアは農業国で、1881年国民生産の57%が農業によった。絹/オリーブオイル/チーズが輸出品で、それを産出する地主に利益をもたらした。
・国家統一後の1880年頃から工業化が進められる。保護関税政策が取られ、鉄・鋼鉄の生産が促進される。1876年農業危機(?)が起こり、穀物の輸入が増える。投資先は農業から工業に移り始める。工業で最も発展したのは綿業だった。

○イタリア移民
・イタリアの工業化に、イタリア移民の送金が大きく貢献した。イタリアは、1901~13年123億リラの貿易外収支があったが、その半分が外国からの送金で、その1/3が観光業だった。
・イタリア移民は。1880年代より急増し、1900年代は年60万人が移住した。『母をたずねて三千里』は、アルゼンチンに移民した母の下へ、13歳の息子が旅をする内容である。当時大西洋航路は整備され、またアルゼンチンは広大なパンパを開発するため、移民を必要としていた。※米大陸は、どこも一緒だな。

・彼らは母国と手紙のやり取りをした。1874年「万国郵便連合」が成立する。それ以前は二国間で条約を結び、料金などはマチマチだった。また料金を払うのは受取側だった。万国郵便連合により、料金は安価になり、それを支払うのは送り手になった。人々は手紙により情報交換するようになった。

・19世紀欧州は工業化された。工業製品は鉄道で港に運ばれ、蒸気船で輸出された。貿易都市ハンブルクは、1600年人口は4万人だったが、1800年13万人、1871年24万人、1900年70万人と増加した。1847年海運会社「ハンブルク・アメリカライン」が、米大陸とドイツを結ぶ航路を開業している。こうして欧州と他地域は身近なものになった。

<2.3 欧州の変貌と他地域との関係>
○欧州が輸入する食料
・欧州は他地域との商品交換を増やした。これは「コロンブスの交換」と云われ、植物/動物/食物/人間/病原体などが交換された。
・トウモロコシは家畜の飼料として輸入された。アンデス山脈のジャガイモはドイツで広まり、食用にされた。砂糖の生産は熱帯産のサトウキビより、欧州産のテンサイ(?)が増大した。砂糖/コーヒー/茶/ココアが輸入され、欧州人の栄養を改善させた。※栄養かな、嗜好品に近い。サツマイモ/カボチャ/トマト/ピーマン/パイナップルなどはアンデス原産かな。
・また鉄道の普及で、欧州が1つの市場になった。欧州の内陸でも新鮮な海産物が入手できるようになった。

○大西洋を渡る人々
・15世紀末の米大陸発見がなければ、欧州の工業化はなく、アジアより貧しかっただろう(歴史のアメリカ的解釈)。米大陸は天然資源が豊富だったが、人口が希少だった。そのため賃金が高く、蒸気船が利用されるようになると、欧州人は海を渡った。

○米大陸に渡った欧州人
・1820~1914年で6千万人が新世界に渡った(※年60万人位)。19世紀初頭は輸送費用が高く、黒人奴隷の移動が多かった。1820年代、年1万5千人の自由な労働者が移動したが、奴隷は年6万人だった。1840年代になると年17万8千人が移動するようになり、30年後には年30万人になる。また移住先は米国が圧倒的に多い。※アジアに比べ人口希少/気候温暖/近距離などが要因かな。

・米国とアイルランド/ノルウェー/イタリアの賃金を比較すると、アイルランドは米国の5割、ノルウェーは米国の4割、イタリアは米国の2割しかない。※アイルランドは英国に近いけど、それでも半分か。イタリアは随分低いな。
・1845年アイルランドで大飢饉が起こり、100万人以上が餓死し、多くの人が移住する。欧州は労働力過多だったが、移民により賃金の低下を免れた。1870年新世界と欧州の賃金格差は108%だったが(※欧州100に対し、新世界208かな)、移民により1910年には85%に縮小する。※欧州より新世界が2倍なのは、不思議な気がする。

・欧州は工業化されたが、その利益は欧州人全員に及んではいなかった。イタリアには南北格差があり、また北欧の生活水準が欧州並みになるのは、20世紀後半になってからである。※欧州って、意外と貧しかったんだ。今でも東西格差/南北格差がある。

<2.4 英国のヘゲモニー>
○英国の資本輸出
・労働者の移動に続いて、資本の移動を見る。1873~1913年は資本が輸出され、世界が資本主義に移行する。その中心は英国で、英国は「世界の工場」から「世界の銀行」に変貌した。

・英国の利子配当/海運料/貿易・保険サービスの収入は、大幅な貿易赤字を補填した。第1次世界大戦前、英国の海外投資の47%が植民地で、その70%がドミニオン(自治領)だった(※英国の植民地はホント多かった)。1900年代英国の投資額は、北米4憶1900万ポンド/アフリカ2憶700万ポンド/アジア2憶ポンド/南米1憶9800万ポンド/欧州8100万ポンドなどで、欧州大陸に投資していない。

○社会構造を変えなかった工業化-ジェントルマン資本主義
・英国の支配層は土地から収入を得るジェントルマンだった。これは1688年名誉革命から変わらなかった(※それ以前は?)。19世紀中頃になると専門職/内科医が新しい支配層(ジェントルマン)になる(※彼らもジェントルマン?)。特にシティで金融業を営む金融関係者が支配層になる。英国では、「不労所得」を稼ぐ事が理想とされた。英国では、この社会構造が変わらず、ジェントルマン資本主義と云われる。

・1710~1900年で英国が貿易黒字となった年はほとんどなく、工業立国ではない。19世紀後半以降、海運業/保険・貿易/サービスによる収入が増えている。※この貿易は何だろう。運賃なら海運業に含まれる。
・英国は世界最大の海運国家になった。それに伴い海上保険が発展した。またサービス部門では、英国は保険/金融/電信で他国を圧倒した。
・英国の経済力の強さは、産業革命期(18世紀後半~19世紀初頭)にあるのではなく、グローバリゼーションが進んだ19世紀後半にある。この時期、欧州の工業製品を欧州外に輸出し、大きな利益を得た。※以前「英国の覇権は19世紀中頃まで」とする本を読んだが、本書は逆だな。

・英国の支配層は地主と金融業を営む者になった。地主は国内に依拠していたが、金融業を営む者は世界と不可分だった。※どこの国も工業の後は金融に転換する。

第3章 労働する人々

・18世紀以降、欧州人は輸入された消費財を購入するため、市場で労働した。その消費財は例えば砂糖で、それを摂取しカロリーを上昇させた。一方黒人奴隷はサトウキビ畑での労働で寿命を縮めた。
・工場労働は農業労働と異なり、「労働時間」を把握できる。英国は「工場制度」が発展した事で、労働時間を可視化できるようになった。そして労働時間以外は「余暇」となった。※工場制度とは何だろう。家内工業/事務労働などは含まれるのかな。

<3.1 反転労働供給と勤勉革命>
○反転労働供給からの離脱
・経済学に「反転労働供給」がある。前近代では給料が2倍になると、労働時間を半分にしていた。それは生活維持のため働いていたからである(※具体的な例が欲しい。日雇い労働かな)。この状態を「反転労働供給」と云う(※この言葉から、その内容が想像できない)。そのため17世紀の重商主義者は、労働者を低賃金で長時間働かせていた。※全然労働時間が半分になっていない。

・ところが18世紀後半になると高賃金に変わる。それは高賃金になっても、労働者が労働時間を減らさなくなったからだ。この状態になると人々は家庭での労働より、市場での労働を選択するようになる。この現象を「勤勉」と云う。
・この状況に最初に至ったのが、市場経済/工業化を成した英国で、英国は世界経済の中心になる。※欧州の玄関口であったオランダも市場経済が発展していただろうけど。

○勤勉革命
・1976年速水融が「勤勉革命」を提唱する。さらに1993年ヤン・ド・フリースが内容を少し変えた「勤勉革命」を提唱している。まず速水の説を見る。江戸時代初め水田耕作に家畜を利用していたが、18世紀になると家畜を利用しなくなる(※逆かと思った。人口が増えて、労働力が余ったのかな)。これにより農民の労働時間が増え、これを勤勉革命とした。この説は、ある程度認められている。
・百姓は幾つもの生業を持っていた。経済学では1つの職業に専念する方が効率的だが、現実は幾つもの生業を持った(※特殊技能を必要としないからだろうね)。しかし百姓の労働時間が増えたかは、実証されていない。

・例えば、ある百姓が農業と漁業を生業としていた。ところが農業に専念するようになった。これを歴史家が農業の観点から見ると労働時間が増え、勤勉になったと結論する。従って勤勉革命を論じるには「総労働時間」の把握が必要である。これは容易ではなく、また歴史家にその意欲も見られない。※農民が日記を残していれば可能だろうが。

○ド・フリースの勤勉革命
・1993年ヤン・ド・フリースが「勤勉革命」を提唱する。彼はG・ベッカーの家計時間配当理論を用いている。これは労働を「市場での労働供給」と「家庭内生産」に分けている。彼は従来は後者の割合が高かったが、市場経済の発展により前者の割合が高くなったとした。
・しかしこの説も説得力を欠く。勤勉とは労働時間が増える事だが、彼の説は「市場での労働供給」が増えると云っているだけで、総労働時間が増えた訳ではない。所詮「家庭内生産」の労働時間を把握する方法はないのである。※それなら勤勉革命は全て空論。

○勤勉革命は何だったのか
・農業労働での労働時間は把握できない。また当時は今より家事・炊事に多くの時間が掛ったはずである。彼らはこれを捨象している。「工場制度」が確立した事で、労働時間が「見える化」された。彼らは家庭内での労働を軽視している。
・日本は洗濯機の普及などで家庭内での労働が減少し、主婦はパートに出るようになった。彼らの理論では、これは「勤勉になった」となる。果たしてそうだろうか。

・ド・フリースが言うように、市場労働が増えたのは真実である。これに関するのが「経済成長は、禁欲によるものか、欲望によるものか」である。前者の説がマックス・ヴェーバーで、「神から救済されるかは、世俗での成功による」ため、人は禁欲し、勤勉になったとした。一方川北稔は後者の「より良い生活を求めて、勤勉になった」とした。しかしヴェーバーの説では、消費が拡大しないため、経済成長は起きない。
・彼らは何れも「家庭内労働」を考慮していない。またその「家庭内労働」を減らし、「市場労働」を増やしたのは真実である。
※計測不可能/判断不可能なものを議論するのは意味のない事だ。また工場制度の説明が一切ないのも残念。

○市場で取引される商品
・欧州で生産される商品は物々交換されていた可能性が高い。一方輸入された商品は市場で取引された可能性が高い(※また推測での話か)。市場が発展したのは、輸入商品の購入が重要になったからと考えられる。※これには異論がある。市場で取引される商品の大半が、輸入商品だったとは考えられない。逆に食品/衣類/皮革類/鉄製品などの大半の欧州産は市場で取引されたのでは。
・欧州では市場経済が発展し、人々は市場での労働を増やした。従って輸入消費財の流入と、勤勉革命は密接に関係している。すなわち欧州での勤勉革命とは、家庭での労働を減らし、市場での労働を増やした事を意味する。
・人々は賃金を得て、それでコーヒー/紅茶/砂糖/タバコなどの輸入消費財を購入した。18~19世紀消費財の輸入が増加した。この期間は農業社会から工業社会への移行期で、工業化した時代である。
※前提となる貨幣経済の発展について一切書かれていない。小作農は地主に小作料を納めていたと思う。

・工業化/消費社会/勤勉革命の3つの関係を論じる。人々は市場での労働を増やし、可処分所得を増やした。これによりマスマーケット(大衆消費市場)が誕生し、消費社会が生まれた。その後に「工場労働」が生まれた。重要なのは最後に「工場制度」(工業化)が生まれた事である。※では初期の市場での労働は、工場ではないって事だな。どこだろう。この辺り根拠のない推論が多い。

<3.2 消費社会の誕生>
○織物と砂糖の消費量の増大
・消費社会は歴史学で長年研究されてきた。ここで重要な消費財は、砂糖と織物である。砂糖はカロリーが高く、コーヒー/紅茶に入れられ、消費は増大した。欧州最大の輸入国は仏国で、アンティル諸島(※西インド諸島の大半)から輸入された。サン・ドマング(ハイチ)の生産量は、1714年7千トン/1750年4万トン/1789年8万トンと増大した。砂糖はボルドーに輸入され、その後仏国外に輸出された。
・17~18世紀シュレジェン(ポーランド南部)などでリネン(亜麻織物)が生産され、英国に輸出された。またインドの綿織物キャラコも欧州に輸出された。この両者の争いに終止符を打ったのが、英国の産業革命による綿織物だった。

○砂糖の生産システム
・実はサトウキビの原産地は東南アジアで、それが地中海の島々で生産されるようになる。それがポルトガル領ブラジルで黒人奴隷を使い、大規模化に成功する。この栽培法を伝えたのが、イベリア半島を追放されたユダヤ人のセファルディムだった(※初めて知った)。さらに彼らはカリブ海に移住し、そこでも黒人奴隷を使いサトウキビを栽培した(砂糖革命)。

○欧州の消費水準の上昇と収奪される黒人奴隷
・西インド諸島の黒人は増加した。英国領ジャマイカでは、1700~89年で6倍に増えた。サン・ドマングでは、1686年3400人から1791年48万人に増えた。しかし英国領バルバドスでは、1700年4万人が1800年6万人に増えているが、その間に26万3千人の黒人奴隷を輸入している(※同数の子孫を残していたら、30万人位になる)。黒人奴隷は奴隷船でも新世界でも死亡率が高かった。
・砂糖は高カロリーなので、欧州人の重要な食料になった。欧州人は砂糖で寿命を延ばし、黒人は寿命を縮めた。19世紀中頃、各国は奴隷制を廃止するが、キューバ/ブラジルでは存続した。

○綿織物
・欧州の最大の工業製品は毛織物だったが、温暖なアジアでは売れず、銀を輸出するしかなかった。しかし綿織物を機械生産するようになり、貿易収支は黒字化した。綿織物は何度も洗濯でき、暑い地域でも寒い地域でも着れた。

○欧州外との結び付き
・欧州は高緯度のため植生は貧しい。そのため多くの消費財を輸入した。コーヒーは北緯25度~南緯25度の間で栽培される。コーヒーの生産量1位はブラジルで、2位はベトナムである(※知らなかった)。砂糖は1位ブラジル/2位インドで、茶は1位中国である。※テンサイの話はどうなった。

・欧州人は市場でこれらの消費財を購入した。この市場には「ブラック・マーケット」も含まれる。茶の関税は、1784年まで100%だったため、多くは密輸された。欧州人は市場での労働を増やし、労働が可視化された。工場で働く事が増え、労働問題が発生した。

<3.3 工場と労働制度>
○工場労働者を生んだ英国
・1688年名誉革命以降、英国と仏国は何度も戦争をした。仏国は英国の2~4倍の人口を擁したが、大半の戦争で英国が勝ち、英国は工業化し、ヘゲモニー国家になった。その要因に1つに農業制度がある。英国の農業は規模が大きく、人数が少なく、生産性が高かった。英国では余剰労働者が生まれ、それが工場労働者として雇用され、工業化が促進された

○英国の労働者階級
・フリードリヒ・エンゲルスは当時の労働状態を問題視し、『英国における労働者階級の状態』を書いた。工業化により都市の衛生は悪く、平均寿命は短く、給料は少なく、長時間労働になった。労働者は貧しかった。雇用は不安定で、最低限の必需品でさえ、得られる保証はなかった。工業労働者の方が、工業化以前の農民より、生活水準が低かった。※これでも消費を増やすためなの。前述の勤勉革命は奇麗事かな。

○子供の労働環境は悪化したか
・この疑問を持ったのがクラーク・ナーディネリだった。彼は以下を論じた。1835年13未満の子供5万6千人が、織物工場で働いていた。これが全労働者の16%だった。一方それ以上の子供が、農業/奉公に従事していた。そのため工業化は子供を親の搾取から解放した。
・彼は工場労働は家庭内労働より過酷ではないと判断した。しかし農業労働は労働時間を自由に選べるが、工場労働は時間に拘束される。これは苦痛であったと思われる。※抽象論ばかり。

○可視化される労働
・工場労働は過酷だったが、それ以外の労働も同様に過酷だたっと思われる。エンゲルスが『英国における労働者階級の状態』を書いたのは1845年で、当時はまだ農民の方が多く、農業経済から工業経済への緩やかな移行期だった。※マルクスもこの頃の人。
・エンゲルスは工場労働を過酷としたが、ナーディネリはそう認識していない。労働が可視化された事で、1833年工場法が成立し、成人男性・少年・女性の労働時間は短縮される。一方で農業労働の労働時間は規制されなかった。※結局今回も曖昧な結論。

<3.4 市場での労働の増加>
○工業化により変わる社会
・工業化が進展すると、物々交換から市場で取引されるようになり、輸入した商品も市場で取引されるようになる。都市化は近代化のメルクマールだが、欧州は近世に都市化が進み、19世紀にさらに進む。人口5千人以上を都市とすると都市の比率は、1800年12.1%/1850年18.9%/1880年29.3%/1900年37.9%/1910年40.8%と高くなる。
・都市化は農業の生産性にも大きく影響している。また鉄道の発展も影響している(※これはどうかな)。都市労働者には工場労働者も含まれ、労働時間を可視化できる。労働時間以外は「余暇」で、それはマーケット活動(※消費だな)に当てられた。

○英国の女性労働者
・農業社会でも女性は労働したが、都市でも女性は重要な労働力になった。1851年センサス(人口調査)に15~24歳の女性の職業が記録されているが、中流階級の職業(仕立屋など)は8.9%しかない。しかしその後、中流階級の職業は、医師/看護婦/薬剤師/教師/図書館員/官吏/タイピスト/書記/ヘアドレッサー/店員など多様になる。※英国の職業は7階級に分かれているらしい。中流階級の職業とは、その幾つかかな。

○ガヴァネスの世界
・個人向けサービスにガヴァネス(住み込みの家庭教師)がある。これは軽蔑されない職業だった(※家政婦も家族と同等に扱われたらしい)。1851年2万1千人、1865年2万5千人のガヴァネスがいた。1848・1853年女子中等教育機関が新設され、ガヴァネスの基準が上がる。そのため本国で働けない人は、オーストラリア/ニュージーランドに渡った。※転職しないで、わざわざ移住するのか。

○彼らは働きたかったのか
・本章の冒頭で「反転労働供給」について論じたが、彼らは本当に働きたかったのか。そこでジョージ・オーウェルのチャールズ・ディケンズ論を見る。ディケンズは大衆小説家で、労働者階級に好まれた作家である。ディケンズの小説に出てくる主人公は労働者階級ではなく中流階級である。しかも主人公が働いている場面はなく、何を職業にしているか分からない。さらに主人公は知らない内に金持ちになっている。つまりディケンズのサクセスストーリーは、ジェントルマン資本主義と一致している。

○ジェントルマン資本主義とディケンズ
・19世紀英国はジェントルマン資本主義の国で、その中核は金融関係者だった。これを唱えたのがピーター・ケイン/アンソニー・ホプキンスだった。ディケンズが労働を書かなかったのは、不労所得で生活するジェントルマンが理想だったからだ。この点で英国は凝集性がある。※やはり世界を植民地にした国は、思想もそうなんだ。
・人々は働き、貯金をして、債券を購入し、利子を得て、それで生活する。これが英国人の理想であり、ディケンズの小説の主人公だった。

○工業化による長時間労働
・工業化により労働が可視化され、市場での労働が増えた。人々が家庭での労働を減らし、市場での労働を選んだことで、経済成長できた。彼らは市場で働き、市場で取引される砂糖/コーヒー/茶などの消費財を購入した(※しつこいけど根拠を示して欲しい)。彼らは、やがて訪れる工業化による長時間労働に耐えられるメンタリティを持つようになる。

第4章 余暇の誕生

・余暇は富の象徴である。19世紀多くの人が余暇を持てる社会になった。余暇は労働者が自由にできる時間で、彼らはツアー会社が企画するツアーに参加した。鉄道/蒸気船に乗り、欧州外へも出掛けた。このツーリズムは帝国主義と大きく関係していた。※ツアー(tour)と類似する英語に、trip/travel/journey/vacansがある。

<4.1 余暇の意味>
○余暇とは
・工場労働により労働が可視化され、企業により勤務時間が決められるようになった。この影響で、商店/食堂の勤務時間も決められるようになった。この勤務時間以外は自由な時間で、睡眠/食事などに使われ、「余暇」と呼ばれるようになる。
・オランダの歴史家は、人間は「ホモ・ルーデンス」(遊戯人)や「ホモ・ファーベル」(作る人)とした。人は余暇を、遊びや日曜大工に利用した。
・19世紀初頭、労働者は労働時間に飲酒/喫煙/雑談をした。19世紀後半になっても、自分の土地の草刈りをしたりした。しかし仏国/英国では月曜日を「聖月曜日」として休んだ(※月曜日が休み?)。この様に労働と余暇は分離していった。

○余暇時間の増加
・西欧は工業化され、多くの人が豊かになり、余暇を享受するようになった。本章は余暇の過ごし方としてツーリズムを取り上げるが、人々は蒸気船/鉄道により遠くに行けるようになった。
・1833年工場法により繊維工場で9歳未満の雇用が禁止される。9~13歳の労働時間は9時間に、14~18歳の労働時間は12時間に制限された。その後も工場法(1844年)/10時間法(1847年)などで子供の労働時間は短縮された。1850年工場法により繊維産業に「土曜日の半日制」が適用され、1867年全ての工場に「土曜日の半日制」が適用される。※書かれていないが、元々日曜日は休みかな。

○見せびらかしのための消費
・本来余暇は上流階級のものだったが、工業化により多くの人が余暇を持てるようになった。これは「ステイタスの上昇」を意識させた。ソースタイン・ヴェブレンはこれを「見せびらかしのための消費」とし、「時間を非生産的に消費している」とした。その理由を、①生産的な労働を卑しいと考える、②怠惰な生活ができる事を誇示するとした。※プロテスタントは勤勉だが、カトリックは逆なのかな。

○見せびらかしのための消費の広がり
・ヴェブレンの議論に従えば、上流階級以外の人が「自分は有閑階級だ」と誇示した事になる。彼らは欧州外の消費財(中国の陶器/茶、インドの綿織物、ブラジルのコーヒーなど)を消費した。彼らは消費財を消費する事で、「自分は有閑階級だ」と誇示しようとした。※どうでも良い。見栄っ張りだな。

・また余暇と蒸気船/鉄道の発展は大きく関係している。ツアーも「見せびらかしのための消費」だった。なおツアーとは「定住地から、海浜/リゾート地などを訪れ、再び定住地に戻る事」と定義される。

<4.2 ツーリズムの発展>
○鉄道の役割
・鉄道により上流階級以外の人も旅行できるようになる。英国では南部のブライトン/ヘースティングス/ラムズゲート/マーゲート、東部のカーボロー/ウィットビー、西部のサウスポートが旅行先になる。鉄道により、日帰りも可能になった。

○トーマス・クックと英国のツーリズム
・旅行を大衆化したのがトーマス・クック(1808~92年)である。彼は禁酒主義者で、飲酒で自堕落になりかねない人々をツアーに参加させた(※旅行すると、逆に飲みそうだけど)。1841年11マイルのツアーを計画した。1845年にはレスター-リヴァプールのツアーを行い、鉄道会社と交渉し、5%の手数料を得た。
・翌年スコットランドへのツアーを行う。これには鉄道と蒸気船を利用した。1849年には北ウェールズ/マン島/アイルランドへのツアーを行い、1千人を参加させている。1851年ロンドンハイドパークで万国博覧会が開かれ、これに15万人以上(全入場者の3%)を連れて行った。この万国博覧会は、人々にツーリズムを意識させる切っ掛けになる。

○トーマス・クックと欧州のツーリズム
・1855年彼は海外へのツアーを行う。エセックス(ロンドンの東)から、ブリュッセル/ケルン/フランクフルト/ストラスブール/万国博覧会が開かれていたパリへのツアーを行った。
・スイスが注目されるようになり、1862年パリ/スイスのツアーを行う。翌年パリ-スイス周遊券を発行したり、スイス周遊旅行を行い、大成功する(※英国には山がないからな)。彼は1865年からサセックスのニューヘイヴンからパリに、7万人のツアー客を送り込んだ。

○トーマス・クックと中東のツーリズム
・19世紀中東が欧州の支配下になる。その支配は、アルジェリア/エジプト/パレスチナ/レバノン/シリア/イラクに及んだ。トーマス・クックは英国の帝国主義の後を追い、中東へのツアーを行う。
・1871年彼は息子と「トーマス・クック&サン」を設立する。彼の会社は評判を得て、チャールズ・ディケンズなどの小説家も取り上げている。1869年パレスチナ/シリアへのツアーを行う。さらにエジプトのアレクサンドリアへの連絡切符を発行する。英国人にエジプトは身近なものになった。

・英国の会社は中東での旅行で特権があり、危険を免れる事ができた。エジプト総督と政府(※英国?)による保護/特恵的待遇で、ツアーは安全・快適に行われた(※具体的な説明がない。護衛が付くとかかな)。1872年彼はエジプトに事務所を開設している。当時エジプトは巨額の負債があり、外国人旅行客を受け入れた。エジプトにはホテル/ペンション/教会/レストラン/銀行が作られた。
・彼のツアーは英国の政策と表裏一体だった。当時英国にはケープタウン/カイロ/カルカッタを鉄道で結ぶ計画「3C政策」があり、1880年代彼もカルカッタ/ボンベイ/ケープタウンに事務所を開設している。

○80日間世界一周
・蒸気船/鉄道により世界は縮まった。19世紀後半、作家ジュール・ヴェルヌが『80日間世界一周』を書いている(※その行程や移動手段が書かれているが省略)。海上での移動は郵船になっており、郵船が発展していた事が分かる。また通信手段に電信を使っていた事も分かる。

<4.3 海を渡る>
○恐ろしい海
・『80日間世界一周』では、アジアの海で嵐に襲われる。しかし蒸気船の発展で、海は以前ほど恐ろしい存在ではなかった。海はツアーやリゾートに利用されるようになる。人間が海を支配するようになり、植民地を持ち、帝国主義政策を行った。

○海とツーリズム
・19世紀後半、北欧の人は地中海の陽に当たる事を重要と考えるようになる(※今は紫外線で敬遠される)。これは裕福な人に限られるだろうが、浜辺リゾートの存在があった。英国でも海岸での療養が、王室/貴族から富裕階級/ブルジョワジーに広がった。ドイツ/オランダ/ベルギーでも海水浴施設が建設されている。※具体的な内容が書かれているが省略。

○海水浴の広がり
・海水浴は富裕階級が独占していたが、一般の人々も行うようになる。英国にはブライトン/スカーボロー、ベルギーにはオーステンデ、仏国にはブローニュなどの海水浴場が整備される。バルト海/北海沿岸でも、海水浴場/保養地が点在するようになる。交通手段が発展し、労働者階級の可処分所得が増え、誰もが海水浴を楽しむようになる。

○仏国の海水浴場
・仏国のディエップは、1822年副知事により整備され、宮廷の保養地になる。※他にトゥルーヴィル/ピアリッツ/アルカション/ニースが紹介されているが省略。

○安らぎを与える海へ
・19世紀になっても海難事故はあったが、減少した。蒸気船は帆船に比べ風に強く、航海は安全になり、ツーリズムを促進した。※ここも根拠が示されていない。

<4.4 世界の一体化、余暇、経済成長>
○余暇から見た世界
・蒸気船/鉄道/電信により、世界は一体化した。また蒸気船により、安全に定期航行できるようになった。移動に海洋では蒸気船、大陸では鉄道が利用され、急ぎの連絡には電報が利用された。これらの交通機関はツーリズムにも利用され、ツーリズムは余暇の有効な手段になった。19世紀後半、豪華客船が登場するようになる。※タイタニック号の事故は1912年。

○余暇と経済成長
・欧州では可処分所得が上昇し、上流階級のものだった余暇を労働者が真似るようになる。彼らが余暇で経済活動する事で、経済はさらに成長した。彼らの行先は国内から欧州、欧州からアジア/アフリカ/アメリカに広がった。欧州各国が植民地を持つようになると、そこにツアーで向かった。

第5章 世界支配の在り方

・1815年ウィーン条約が結ばれ、フランス革命(※以降仏国革命と記します)以前の状態に戻す反動的体制になる。これはオーストリアのメッテルニヒ外相が進めた(ウィーン体制、メッテルニヒ体制)。しかしラテンアメリカ諸国(※以降南米諸国と記します)の独立/欧州の経済成長/諸革命により、1848年崩壊する。
・仏国革命により自由主義がもたらされ、ナポレオン戦争によりナショナリズムが促進された。この両者により「国民国家」や「市民社会」が形成され、イタリア/ドイツは統一される。しかし植民地では市民社会を形成させなかった。
・ウィーン体制崩壊後、英国と欧州諸国/米国の工業力の差は縮まる。19世紀末、ドイツ/米国は重化学工業が基軸の第2次産業革命で、英国を追い越す。しかし世界最大の海運国・英国は、海上保険/貿易決済などで、それを補う収入があった。

<5.1 ウィーン会議からメッテルニヒ体制崩壊まで>
○仏国革命・ナポレオン戦争の影響
・仏国革命/ナポレオン戦争は、1688年から続いた英仏戦争の最終戦となった。この戦争に英国は勝利し、ヘゲモニー国家となる。仏国革命は「自由、平等、友愛」をスローガンにし、市民社会の実現を目指した。
・一方ナポレオン戦争はナショナリズムを喚起した。ナポレオンは国民軍を編制し、欧州各国と戦った。当時は鉄道/蒸気船/電信はなく、補給は重要だったが、ロシア遠征に68万人の軍隊を送った。

・仏国革命/ナポレオン戦争は、30年戦争(1618~1638年)と異なるインパクトを与えた。30年戦争は、国が主権を有する主権国家体制をもたらした。一方仏国革命/ナポレオン戦争は、第1次世界大戦までの体制を決めた。

○ウィーン体制
・1814~15年ウィーン会議が開かれる。議長はメッテルニヒ外相が務めた。「会議は踊る、されど進まず」と云われたように、議事は進まなかった。しかし1815年2月ナポレオンがエルバ島を脱出した事で進展する。
・ウィーン条約の内容は以下であるが、これは正統主義と云われる。
 ①仏国/スペイン/ポルトガル/ナポリなどの君主を復位させる。
 ②ポーランドを立憲王国とするが、ロシアに併合させる。ポーランド王はロシア皇帝が兼ねる。
 ③ロシアは、フィンランド/ベッサラビアを獲得する。
 ④プロイセンはザクセンの北半分とラインラント、及びポーランドの一部を獲得する(プロイセンは東西に拡張)。
 ⑤オーストリアはネーデルランド/ポーランドの所領を放棄する。代償として、北イタリア(ヴェネツィア、ロンバルディア)を獲得する。
 ⑥英国はスリランカ(旧オランダ領)/ケープ植民地/マルタ島/イオニア諸島を領有する。※英国はさらに海外に拡張だな。
 ⑦スイスは永世中立国となる。
 ⑧ドイツは35邦4自由都市のドイツ連邦となる。議会はフランクフルトに置き、オーストリアが議長になる。※当然プロイセンも含まれるかな。
 ⑨スウェーデンは、フィンランドをロシアに、ポンメルン(ポメラニア)をプロイセンに譲る。代償にデンマークからノルウェーを獲得する。
 ⑩オランダはオーストリア領ネーデルランドを併合し、ネーデルラント連合王国となる。

・原則は「仏国革命前の状態に戻す」だが、実際はそうなっていない。ポートランドは、1772/93/95年に3国により分割され、1807年ワルシャワ公国として独立したが、これが第4次分割となった。しかしこの後に工業化され、経済成長する。またフィンランドの公用語はスウェーデン語で、ロシア語になった事は一度もなかった。
・イタリアは北イタリアを失った事で、統一が遅れる。ドイツ連邦の盟主がオーストリアになり、ドイツ統一はオーストリアが成すとの意思の表れである。
・英国の領有拡大は、帝国の発展にプラスとなった。スリランカはアジア/オーストラリアへの重要な中継点になった。ケープ植民地の領有がなければ、3C政策はなかった。マルタ島は電信システムの拠点になった。※混迷の欧州大陸に対し、英国は伸び伸びだな。

○ウィーン体制の意味
・ウィーン体制はメッテルニヒ体制とも呼ばれる。それは後に宰相になるメッテルニヒ外相が主導したからだ。オーストリアは大国だったが、既に昔日の力はなかった。またオーストリアは多民族国家で、高揚したナショナリズムで基盤が揺らいでいた。結果的に英国が最大の利益を得た。

・スイスが永世中立になった事は注目される。それは戦争を前提とする世界だった事を意味する。近世で最大の戦争は30年戦争で、その講和条約(ウェストファリア条約)から主権国家体制となり、今に続いている。国際連合でさえ、ある国に制度の改正を要求しても、強制できない。ウィーン体制も、この戦争を肯定するウェストファリア体制の延長である。スイスの永世中立は、その証しである。

・ウィーン体制の根底に、ロシア皇帝が提唱し、欧州各国(英国、ローマ教皇庁、オスマン帝国を除く)が参加した「神聖同盟」と、英国/ロシア/オーストリア/プロイセンの「四国同盟」がある。これらの国にはそれぞれ思惑があり、崩壊は時間の問題だった。

○南米諸国の独立とウィーン体制の動揺
・ウィーン体制は政治体制なので、経済が論じられる事がなかった。ここで経済との関係を見る。ウィーン体制は欧州の体制だが、欧州各国が植民地を持っていたため、欧州外とも関係している。

・南米諸国で最初に独立したのは、1804年ハイチで、世界最初の黒人共和国になる。1816年ホセ・デ・サン=マルティン(1778~1850年)がアルゼンチンを独立させる。さらに彼は、1818年チリを独立させる。本国スペインでは、1820~23年立憲革命が起きるが、鎮圧される。1821年彼は立憲君主制のペルーを独立させるが、1824年共和制のペルーが独立する。1821年メキシコは立憲君主国として独立するが、1824年共和制に変わる。1822年ブラジルは独立する。※ナポレオンの影響は欧州大陸だけと思いがちだが、南米にも大きな影響があったんだ。

・南米諸国の独立は、スペイン/ポルトガル経済の打撃になる。しかしナポレオン戦争期には、既に宗主国と植民地の経済的紐帯は希薄になっていた(※これは重要なポイントだな)。仏国革命以前、スペイン領の輸出品はカカオで、ブラジルの輸出品は砂糖で、それぞれ本国に送られていた。ところがナポレオン戦争が終わる頃には、ロンドン/ハンブルクに送られるようになった。また貿易港を持たないオーストリアは、この点でも不利で、ウィーン体制は崩壊に向かった。
・さらに1823年米国大統領モンローが「モンロー教書」を発表する。これは海運業で世界2位となった米国が、米大陸から英国を排除する意思の表明だった。※この時点で実際に効果があったのかな。

○ウィーン体制の崩壊
・ウィーン体制は仏国革命以前に戻す試みだが、仏国革命で高揚した自由主義と、ナポレオン戦争で高揚したナショナリズムが、そうさせなかった。
・1817年ドイツのブルシェンシャフトで学生が蜂起するが、鎮圧される。1820年イタリアのナポリで「カルボナリの乱」が起き、1821年ピエモンテでも起きるが、鎮圧される。1820年スペインで立憲革命が起きるが、鎮圧される。1825年ロシアで「デカプリストの反乱」が起きるが、鎮圧される。※こんなに一杯あったのか。
・1830年仏国で7月革命が起き、シャルル10世は退位し、ルイ=フィリップが王位を継ぐ。これはウィーン体制に大きく影響を与え、ポーランド/ドイツ/イタリアでも反乱が起きる。1848年仏国で2月革命が起き(※王制から共和制に移行)、これがオーストリアに飛び火し、メッテルニヒは亡命し、ウィーン体制は崩壊する。

○ウィーン体制への経済成長の影響
・ナポレオン戦争を終えると、①地域横断型と②国家依存型の2つのタイプの経済成長が見られた。経済史家シドニー・ポラードは前者を強調した。産業革命による革新は、平和的に伝播し、欧州全域に広がった。
・一方経済史家ラース・マグヌソンは国家の役割が重要だったとし、これを「国家の見える手」とした。例えばネーデルラント連合王国では、国王がモンス-シャロワ間の運河を建設した(※モンス-シャルルロワ間のサントル運河かな)。これによりブリュッセルとアントウェルペンが繋がれ、アントウェルペンはフランスとドイツを結ぶ重要な中継港になった(※ブリュッセル-アントウェルペン間にモンスはないけど。サントル運河は南北に流れる河川を東西に繋いでいる。これを調べるだけでも面白そう)。また1830年オランダから独立したベルギーは、国が鉄道建設を主導した。また1834年「ドイツ関税同盟」が結成され、これはドイツ統一の基盤になる。

・ウィーン体制は現状維持を目的にしていますが、現実は常に変化しており、この体制が30年以上続いたのは奇妙です。この時期は、まだ国民市場は形成されておらず、沢山の地域市場が存在した時代です。我々は「英国産業革命」と呼んでいますが、それはマンチェスター付近で起こった出来事に過ぎません。
・欧州各国は、18世紀末から産業革命で優位に立った英国に産業スパイを送っています。また英国の鉄道技師を招聘したり、英国の工業製品(綿織物など)に高関税を掛けています(※何時の時代も一緒だな)。これらはマグヌソンの「国家の見える手」と云えます。
・ドイツは、1871年プロイセン-フランス戦争(普仏戦争)で勝利し、アルザス・ロレーヌ地方を自国領とします。それ以前は鉄道で石炭を輸入していました。この様に国家は工業化に邁進します。これらの経済成長により、仏国革命以前の状態を正統とするウィーン体制の根底は揺らぎました。

<5.2 国家の統一>
○残された国家統一
・1848年ウェストファリア条約で主権国家体制になったが、イタリア/ドイツは国家が誕生していなかった。イタリアは都市国家が形成されていた。ドイツは諸邦が乱立していたが、ブランデンブルク=プロイセンにより統一される。

○イタリアの統一
・15世紀末から16世紀中頃まで、イタリア戦争が行われた。これはハプスブルク家とヴァロワ家の争いで、以降イタリアは大国に蹂躙される。※都市国家では軍事力が弱い。
・1796年仏国革命軍がイタリアに遠征し、オーストリアに勝利する(※ナポレオンが活躍した戦争かな)。これによりイタリアに自由の理念がもたらされ、独立運動「リソルジメント」が活発になる。しかし「カルボナリの乱」などは鎮圧される。1848年ミラノ/ヴェネツィアが青年イタリアにより共和制を宣言するが、これを支援したサルデーニャ王国がオーストリアに敗れたため、失敗する。
・その後サルデーニャ王国が統一の支柱になる。1960年首相カヴールはサヴォイア/ニースを仏国に割譲する代わり、中部イタリアを併合する。同年ガリバルディがシチリア/ナポリを占領し、統治権をサルデーニャ王国に献上する。これによりリソルジメントは完成し、翌年イタリア王国が成立する。首都はトリノに置かれた。
・ヴェネツィア/教皇領は未回収だったが、1866年フランス-プロイセン戦争(※普墺戦争の誤り)でヴェネツィアを回復する。1870年仏軍が撤退した事で、教皇領を併合する。さらに第1次世界大戦後、南チロル/トリエステを編入する。

○ドイツの統一
・ドイツ語を話す諸邦では、神聖ローマ帝国皇帝を代々務めたオーストリアの地位が高かったが、統一の機運はなかった。1701年プロイセン王国が成立すると統一に向かうようになる。プロイセンは、オーストリア継承戦争(1704~48年)/7年戦争(1756~63年)に勝利し、ケーニヒスベルクも貿易港として発展する。
・ドイツはナポレオンに占領され、民族意識が高まる。ドイツ統一にはオーストリアを含む「大ドイツ主義」と、それを含めない「小ドイツ主義」があったが、「小ドイツ主義」で進められる。1848年フランクフルト国民議会でドイツ統一と憲法が審議され、プロイセンを中心に統合される事になる。
・プロイセンは宰相ビスマルク(1815~98年)の指揮で、プロイセン-オーストリア戦争(1866年)/プロイセン-フランス戦争(1870~71年)に勝利し、統一に成功する。

○国民国家の形成と帝国主義
・1つの民族が1つの国家を作る「国民国家」が形成され、それは今も続いている。しかしこれは帝国主義により作られたものでもある。欧州外から獲得される利益を国家内で享受した。※帝国主義により教育制度が整備された。
・近世の国家を「複合国家」と呼ぶこともある。英国はイングランド/ウェールズ/スコットランドなどから成る。当時の欧州諸国は複合的な民族で形成された(※国民国家の定義と異なる)。これは今日も続いており、ブレグジット後にスコットランドは英国から、カタルーニャもスペインから独立しようとしている。
・複合国家である欧州各国が国民国家と意識できたのは、帝国主義で利益を享受できたからである。欧州諸国は植民地とのき紐帯が薄れ、欧州各国同士が紐帯を強めるしかなかった(※これは何が言いたいのか?)。今日でも、この複合国家は少数民族問題/宗教問題から独立に向かうだろう。

<5.3 米国とドイツの挑戦>
○第2次産業革命
・英国は産業革命により世界最大の工業国になるが、1870年代ドイツ/米国が第2次産業革命で英国に挑む。鈴木成高は第2次産業革命の特徴を、①軽工業から重工業への移行、②電気エネルギーの工業化(※電気エネルギーによる工業化?)、③化学工業の登場としている。
・1830年代まで英国の工業製品は毛織物だった。ところが羊毛は同じ量を生産するのに綿の12倍の土地を必要とする。そのため第1次産業革命により、人々は土地に束縛されなくなった(※毛織物業が衰退し、労働力が余剰したかな)。化学繊維は土地が不要なので、第2次産業革命は、これをさらに推し進めた。
・第2次産業革命の中軸はドイツ/米国だが、両国は大きく異なった。ドイツは領土が少なく、植民地も少なかった。一方米国は工業化のための資源を豊富に有していた。そのため両国の第2次産業革命の要因も大きく異なる。※どう異なるのか。それはこれから解説かな。

○米国の特徴
・米国は南北戦争後に急速に経済成長し、1894年工業生産力で世界一になる。米国は巨大企業が特徴で、例えばスタンダード石油は、米国の石油精製能力の90%を占めた。しかし1911年シャーマン法(独占禁止法)により34社に分割される。この中にエクソンモービル/シェブロンなどが含まれている。米国企業は巨大なので、多国籍化するのが容易である。
・一方で民衆は貧しかった。黒人は奴隷解放されたが、プランテーションに留まるか、小作人になるしかなかった。

○ビッグビジネスの誕生
・第1次産業革命は小規模だったが、第2次産業革命になると大規模になり、巨額の資金を必要とした。そのため米国ではトラスト(独占的な企業結合)、ドイツではカルテル(企業連合)が形成された。ドイツでは「金融資本」と云われる銀行主導により工業化が行われた。
・英国は以前は植民地であった米国南部と結び付き、またインドを領有していたが、ドイツは植民地を持たないため、ナイロンなどの化学繊維を製造した。

<5.4 欧州の民主化と植民地>
○選挙権の拡大
・19世紀欧州は豊かになり、政治への関心は下層にまで広がった。また仏国革命の自由主義も根付き、「自由の増加」「権利の拡大」を求めるようになる。
・英国では選挙制度が5度変わっている。1832年中流階級に選挙権が与えられる。1867年には労働者に、1884年には農村の労働者に拡大される。1918年には21歳以上の男性/30歳以上の女性となり、1928年21歳以上の男女となる。
・仏国では1792年男子普通選挙が行われるが、一旦廃止になり、1848年男子普通選挙に戻る(※2月革命だな)。ドイツでは、1871年男子普通選挙が行われ、第1次世界大戦後、男女普通選挙が認められる。※ワイマール憲法かな。

○不平等に扱われる被植民地人
・欧州社会は平等化に向かったが、植民地は民主化されなかった。欧州人は植民地を文明化する事を「文明化の使命」としたが、それを見てみよう。英国の小説家キプリングは、ボンベイで生まれた。そのため彼は人種的な白人ではなく、文明社会で高い倫理的規範を共有する白人である(※意味不明。混血?)。彼の南アフリカに関する言動は、英国人官吏が植民地を支配し、鉄道・道路を建設し、衛生を改善し、帝国に反対する勢力を抑圧するセシル・ローズの考え方「白人の責務」を支持している。
・ノーベル平和賞を受賞したドイツ人医師シュヴァイツァーも白人優位思想である。彼はアフリカ西岸ガボンで医療活動するが、人種差別主義者だった。彼は「哀れな黒人に、奇跡的な治療をしてやる。自分は神だ」「我々は兄弟だが、私が兄と教えた」と言っている。
・仏国では、ナポレオン遠征でオスマン帝国が植民地の対象になったため、「アジア的専制」が使われるようになる。仏国の作家ジュール・フェリーは、「優れた人種は劣った人種に対し権利を持つ。彼らは劣った人種を文明化する義務を負う」と言っている。

・この様に欧州人は「文明化の使命」を都合よく利用し、被植民地人から搾取・収奪した。「欧州の世紀」はこの上に成り立っていた。

<5.5 手数料資本主義>
○英国経済の強み
・この不平等な支配=従属関係は、ヘゲモニー国家英国とどの様に結び付いていたのか。英国は工業生産で米国/ドイツに追い越されるが、工業以外で強い分野があった。19世紀後半、英国は世界中に海底ケーブルを敷設し、ロンドンは世界金融の中心になり、貿易はロンドンで決済されるようになり、電信で巨額の手数料を得るようになる。また電信だけでなく、船舶/海上保険も独占した。

○海上保険の発展
・海上保険は古代ギリシャやローマでもあったが、一般的には、14世紀ジェノヴァで始まったとされる。しかし中世は「大数の法則」は知られておらず、また事業形態も1回限りで、事業に永続性はなかった。しかし近代になり事業が永続的になり、海上保険が合理的になった。19世紀に蒸気船の定期航路が形成され、「大数の法則」が適用可能になり、海上保険が成り立つようになった。その中心が英国だった。

○海上保険におけるロイズの重要性
・ロイズは、1688年エドワード・ロイドがコーヒー・ハウスを開店した事に始まる。そこに貿易商/船員が集まり、海事ニュースも発行するようになる。そこに有価証券を発行元から引き受け、投資家に販売する「アンダーライター」も集うようになる。これがロイズ保険の起源である。
・1720年南海泡沫事件により、保険引受業務は王立取引保険/ロンドン保険会社の2社に限定される。18世紀海上保険はロイズが独占していた(※3社?)。王立取引保険/ロンドン保険会社は火災保険に注力したため、海上保険は再びロイズの独占になる。

・ロイズは個人のアンダーライターの集団だが、保険は所属するシンジケートで引き受けた。米国では会社組織の保険会社が発展したが、電信による情報に勝てなかった。1844年株式会社法により登記だけで法人が設置されるようになり、多数の保険会社が創設されるが、それでもロイズには勝てなかった。
・ロイズは世界最大の保険会社になり、再保険も扱うようになる。ロイズ以外の保険会社がロイズに再保険を掛けるようになり、保険市場の利率をロイズが決定するようになる。※独占禁止に引っ掛からないのかな。

○手数料資本主義の完成
・英国は工業生産でドイツ/米国に抜かれるが、世界最大の海運国家だった。そのため両国の貿易も英国船を利用した。またその海上保険も英国の保険会社に掛けた。従って世界の経済成長と英国の経済成長は連動した。これが英国の手数料資本主義で、今も続いている。

○「欧州の世紀」と植民地
・ナポレオン戦争によりナショナリズムが強化され、世界は分割された。また19世紀、欧州で民主主義が進む。これは植民地から第1次産品が送られ、それを加工し、世界各地で売り、大きな余剰を得たからである。そしてこの欧州が搾取する構造は、ロンドンでの貿易決済で維持された。
・この欧州が経済成長し、民主主義が発展する「欧州の世紀」は、植民地の犠牲の上で成立していた。これを正当化する言葉が「文明化の使命」だった。しかしこの「文明化」に、植民地の民主化/議会制民主主義の進展は含まれていなかった。※最近になって「Black Lives Matter」とか起きている。
・植民地は第1次産品を輸出し、植民地は原材料を輸出するだけの地域になった。植民地は工業化も、識字率を上昇させる教育も許されなかった。植民地には不平等条約が押し付けられた。これは「自発的なもの」として有効だった。これが「文明化の使命」の実態である。※この辺りが著者が一番訴えたい事かな。

・この「文明化の使命」が英国のヘゲモニーとも大きく結び付いていた。欧州各国は帝国主義で競ったが、英国船で貿易し、ロイズに海上保険を掛け、ロンドンで貿易決済した。輸入も輸出もこの枠組みを利用した。どの国の経済成長も、その利益の一部が英国に流れた。この枠組みが壊れるのが第1次世界大戦である。

終章 長き歴史の中で

○「欧州の世紀」の実相
・本書は「ベルエポック」を扱った。これは後世に大きな影響を与えたが、歴史の一部に過ぎない。1415年ポルトガルがセウタを植民地にし、植民地の歴史が始まる。特に1815年ウィーン条約締結後は、植民地を増大させた。この19世紀(1815~1914年)が「欧州の世紀」「ベルエポック」である。
・欧州は高緯度のため植生が貧しかった。そのため植民地から砂糖/コーヒー/茶/カカオ/綿を輸入した。またジャガイモ/トマトなどを欧州で栽培するようになる。ジャガイモ/砂糖が重要になり、カロリーベースが生まれた。
・欧州と植民地は支配=従属関係になり、欧州は「文明化の使命」を掲げた。欧州は原材料を得るため、植民地を政治的に支配した。これが「欧州の世紀」の実相である。

○市場の発展と生活水準の上昇
・第3章で「勤勉革命」を取り上げたが、実際に労働時間が増えたかは不明である。家庭内での労働時間は計測できない。また農業社会では、労働時間と非労働時間の区別が困難である。
・工業社会になり労働時間の可視化が可能になった。エンゲルスは「労働者は過酷な状態にある」としたが、それは以前からと考えられる。
・欧州には消費財が流入し、生活水準が上昇した。これにより市民は政治に参加するようになる。また余暇を持つようになり、ツーリズムが発展する。

○グローバリゼーションと英国
・19世紀世界は蒸気船/鉄道によりグローバル化する。その中心が英国の海運業だった。また欧州の貧民は、賃金が高い米大陸に移住した。
・19世紀欧州は工業化し、1890年頃ドイツ/米国は工業生産で英国を追い越す。しかし貿易を支配する英国は手数料収入を得ていた。この英国の「手数料資本主義」が、英国をヘゲモニー国家とした。帝国主義時代は各国が競争したが、それはロンドンの金融市場に依存していた。

○19世紀の「負の遺産」
・頑健に見えた欧州だが、第1次世界大戦で崩壊する。英国はインド人兵士の力を借りて、戦争を遂行した。独立の約束を与えたが、約束を守らなかった。そのため戦後、インドとの関係は悪化する。同様に欧州各国は、植民地との関係を悪化させる。一方アジアでは、日本が進出を始めた。
・また重要なのは米国の台頭である。1917年連合国に加わり、戦争を終結させる。ニューヨークはロンドンに並ぶ金融市場になり、英国のヘゲモニーは失われる。これにより「ベルエポック」は「昨日の世界」になった。
・問題はそれに留まらなかった。植民地は政治制度を整備していなかったため、不安定になった。さらに民族などを考慮せず分割していたため、様々な問題が生じた。今中東で起こっている問題は、帝国主義の「負の遺産」と云える。

・東南アジアは第2次世界大戦後も騒乱が続く。これも欧州が植民地の民主主義を発展させなかったためである。20世紀は、欧州が遺した「正の遺産」「負の遺産」を解決する世紀になった。スコットランド/カタルーニャの独立問題もこれに含まれる。19世紀の欧州の帝国主義は、今なお大きな影響を与えている。

あとがき

・著者の専門は欧州の近世史です。従って近代について書いたのは初めてです。2015年『ヨーロッパ覇権史』で大航海時代を書いた(※彼の著書は数冊読んでいるが、これは未読と思う)。しかし大航海時代と帝国時代では今日への影響力が大きく違い、帝国時代「ベルエポック」を書きたいと思うようになった。

・19世紀の欧州の研究は無数にあり、帝国主義や市民社会の誕生などについて叙述されている。多くの場合両者が別々に叙述されるが、本書はこれを一体化させた。欧州は植民地から富を収奪する事で豊かになり、市民社会を誕生させたのだ。

・ウォーラースティンの「近代世界システム」が人口に膾炙している。このシステムは16世紀北西欧州で生まれた。工業/商業/金融で秀でた国をヘゲモニー国家とした。それはオランダ/英国/米国と変遷した。
・しかしこの考え方は現実的でない。世界は常に経済成長しているため、ヘゲモニー国家はそれで利益を得る国でなければいけない。それが19世紀後半の英国である。この評価が正鵠であるかは読者に委ねるしかない。

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