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『当てはずれの面々』杉浦明平を読書。

江戸時代の徳川慶勝/近藤重蔵/菅江真澄/水谷豊文/寺門静軒/土方歳三/中江兆民の伝記。
何れも大業を成したが、何らかの理由で不遇に終わっている。

様々な主人公がいて、面白かった。
土方歳三の篇では、浪士組/新撰組の変遷が分かって良かった。

難しい単語が出るので注意。

お勧め度:☆☆☆
内容:☆☆☆

キーワード:<徳川慶勝>徳川斉朝/斉温/斉荘、成瀬家、金鉄党、徳川斉昭、井伊大老、長州征伐、大政奉還/王政復古、青松葉事件、<近藤重蔵>化政の三蔵、最上徳内、大日本恵登呂府、高田屋嘉兵衛、書物奉行・旗奉行、<菅江真澄>歌人、松前藩、津軽藩、秋田藩、真澄遊覧記、地誌、<水谷豊文>博物学、採薬記、<寺門静軒>儒学/漢文、天保改革、大角力・芝居小屋・吉原、<土方歳三>浪士組、新撰組、局中法度書、芹沢鴨、池田屋騒動、山南敬助、伊東甲子太郎、鳥羽・伏見の戦い、甲陽鎮撫隊、<中江兆民>土佐藩、仏語、留学、元老院、西園寺公望、自由民権運動、帝国議会、一年有半

<徳川慶勝-維新のピエロ尾張大納言>
○押し付け藩主
・徳川慶勝は尾張藩の第14代藩主である。尾張は約62万石で御三家の筆頭である。これを超えるのは、加賀前田藩102万石/薩摩島津藩72万石/奥州伊達藩62万石しかない。
・徳川家康は「関ケ原の戦い」に勝ち、東海道を徳川一門と譜代大名で固めた。福島正則を尾張から安芸に移し、4男忠吉に与えた。その忠吉がなくなると、9男義直に与え、国府を清州から名古屋に変えさせた。その名古屋城を豊臣恩顧大名に築城させた。

・しかし尾張は、その豊かさから家光に忌避された。8代将軍の襲職で紀州に敗れてからは、幕府に監視・掣肘されるようになり、江戸後期には幕府から藩主を押し付けられるようになる。
・尾張には義直の血を絶やさないように、高須松平家/大久保松平家/川田久保松平家が興された。しかし第10代藩主は、第11代将軍家斉の甥・一橋斉朝が継ぐ。※家斉も一橋家第2代治済の子。
・この頃幕府は、将軍家斉の子女50数人の養子口/嫁ぎ先に苦慮していた。第10代尾張藩主斉朝に子がいないため、19男斉温を第11代藩主に就けた。彼の13年の治世に「天保大飢饉」があるが、領国には足を踏み入れていない。
・斉温が亡くなると、将軍家斉の11男・田安斉荘を第12代藩主に就ける。この時尾張は、高須藩主の次男・秀之助(後の慶勝)の相続を熱望するが、幕府から押し付けられる。尾張には田安家の家老/側用人などが入国するが、藩主斉荘は入国しなかった。

○御付家老成瀬の野望
・第12代藩主斉荘は、異例の人物だった。彼は蛇を飼い、近習に巻かせるなどして楽しんだ。※当時の長い本文が引用されているが省略。
・天保9年(1838年)水野忠邦が老中首座に就くが、大御所家斉のご機嫌を取るしかなく、蛇狂い斉荘を尾張に押し付けた。そのため尾張には、「忠邦の居城浜松城を焼討ちにせよ」との声もあった。
・しかし尾張側で、押し付けを承諾したのが江戸詰御付家老・成瀬正住だった。先の斉温の時は、成瀬正寿が承諾している。かつてから犬山城主成瀬家は幕府の言いなりになり、尾張藩士から疑われてきた。この成瀬家は、慶勝を最後まで逆境に引きずり込む。

・藩祖徳川義直は駿府で育ち、7歳で尾張に封じられた。その時お傅役に任じられたのが、老中格で3万5千石の成瀬正成だった。正成以外に、義直の異父兄・竹腰正信(3万石)などが仕えている。美濃/尾張/三河で成瀬家の石高を超える大名は少ない。尾張の支藩・高須松平家でも3万石で、城を持たなかった。
・しかし家光の頃になると、成瀬家は尾張の家老として扱われるようになる。将軍の直臣から大名の家来、すなわち陪臣にされた。譜代大名は単独で登城できたが、藩主の披露でのみ登城を許された。また江戸城内に大名としての詰席も持たなかった。

・そのため御三家御付衆の「五家」(成瀬/竹腰⦅以上尾張⦆、安藤/水野⦅以上紀州⦆、中山⦅水戸⦆)は、江戸中期から譜代大名に昇格する運動を始める。特に第11代将軍家斉の時代になると賄賂が横行し、「五家」の昇格運動が盛んになる。
・津軽候が「侍従」の肩書をもらうだけで5万両を贈るなど、昇格運動は容易でなかった。しかし成瀬正住は、文化6年(1809年)から天保9年(1838年)まで江戸に滞在し、昇格運動に励んだ(※正住の父・正寿が正しい)。文政7年(1824年)八朔・五節句に藩主なしで登城できるようになり、その後月次登城も許される。

・天保9年(1838年)正寿が亡くなり正住が継ぎ、翌年蛇狂い田安斉荘の相続に同意している。この尾張乗っ取りに藩士から「水野忠邦の居城浜松城を焼討ちせよ」「御付家老成瀬正住に詰腹切らせろ」などが主張された。
・当時の尾張は財政赤字だったが、藩政改革の声はなかった。「藩主斉荘が吉原で家老に刺殺された」と噂が立つほど、斉荘は嫌われたようである。

○閉鎖的藩風
・弘化2年(1845年)斉荘が亡くなるが、田安斉匡の7男慶臧が第13代藩主に就く(※田安斉匡も徳川家斉の兄弟で、4人の藩主は従兄弟)。嘉永2年(1849年)慶臧が14歳で亡くなり、やっと高須松平家の秀之助(慶恕、後の慶勝)が36歳で第14代尾張藩主を継ぐ。彼の母は水戸の徳川斉昭の姉なので、徳川慶喜とは従兄弟になる。また彼の異母弟・義比は第15代尾張藩主・茂徳、異母弟・容保は会津松平藩主、異母弟・定敬は桑名松平藩主となっている(高須4兄弟)。

・慶勝は藩主に就くが、藩政は筆頭家老・成瀬と次席家老・竹腰が仕切った。成瀬は江戸表に腰を据え、竹腰は名古屋で自分の息のかかった家臣を引き上げ、実権を握り続けていた。そのため藩政改革の気運は起きなかった。
・一方で水谷豊文/大河内存真/伊藤圭介などの本草学者を生んでいる(※シーボルトとの関係などを詳しく紹介しているが省略)。また蘭学者は国防に危機感を持っていたが、政治的な活動に向かわなかった(※大藩は保守的になる)。国許の藩士は参勤交代と馬術修行を除いて、江戸に出る事はなかった。尾張には「熱田の宿」があったが、そこに出向き、他国の状況を知ろうとする者もいなかった。

・慶勝は優秀だったが、待ちぼうけを食った間に、辛抱と自重を身に付けたようだ。しかし「金鉄党」なる一部の藩士(茜部相嘉、田宮如雲篤輝など)が、慶勝による藩政改革を望んだ。嘉永5年(1852年)田宮が御用人格に登用される。田宮家は町奉行・勘定奉行に就ける家柄だったが、彼は押し付け藩主に反対し、左遷21回/解職6回/幽閉3回を受けている。彼に続き、丹羽淳太郎/林左門などが登用され、財政再建/禄制改革/藩校改革に着手する。
・さらに国許で根を張っていた竹腰正諟を江戸に移し、筆頭家老成瀬正住を尾張に呼び戻した。成瀬は名古屋には人脈もなく、犬山城に籠るようになる。しかし金鉄党は実務に疎く、竹腰体制は維持された。また慶勝が藩主となった嘉永2年(1849年)は、英国軍艦・米国軍艦が来航し、対外危機が焦眉の急となった。

○雌伏の時
・慶勝は叔父である水戸の徳川斉昭と親しかたった。彼も30歳で藩主を継ぎ、慶勝に同情的だったようだ。ただし慶勝と違い、猛烈に藩政改革した(※斉昭は烈公と呼ばれた)。彼は寺社の大改革を断行するなどして、幕府から藩政を禁止された。第13代将軍家定が病弱のため、彼は一橋慶喜に将軍を継がせたいと考えていた。

・嘉永6年(1853年)ペリーが来航する。幕府は狼狽し、隠居させた斉昭を海防顧問に起用し、諸大名/旗本にまで意見を求めた。「一橋慶喜を将軍後継者に」と考える者もいたが、江戸城の保守的な大奥は、斉昭・慶喜父子を歓迎しなかった。大奥には「斉昭が水戸家を継いだ慶篤の正夫人を犯した」との噂もあった。
・外交問題に関しては、「進んで開港すべし」は少数で、「取り敢えず開港し、国力を付けたら、祖法の鎖国に戻そう」とするのが多数だった。開明派の慶喜を支持する者もいたが、譜代大名・旗本や京の天皇・公卿は様々な変化に対し保守的だった。
・斉昭は開港すると封建体制が崩壊すると考えており、保身のために徹底した攘夷論者だった。そのため朝廷の力を借りてでも、攘夷を決行しようとした。水戸家は『大日本史』を編纂したように尊王論が強かった。彼が幕末に、自分のエゴから政治に公卿を招き入れ、徳川幕府を滅亡させたと云える。

・慶勝は江戸にも国許にも信頼すべき家臣を持っていなかった。藩士は「尾張モンロー主義」(※尾張孤立主義かな)に貫かれ、自己満足し、外部から情報を蒐集する事はなかった。
・慶勝の最初の躓きは、安政5年(1858年)井伊大老が日米修好通商条約を調印し、斉昭に誘われ不時登城し、井伊を違勅として面責した事に始まる。しかし翌日井伊は、紀州慶福の継承を公表し、さらに数日後、斉昭/慶篤/慶喜/慶勝/松平春嶽に、それぞれ隠居/登城禁止などを命じる。

○慶勝復活
・慶勝は隠居になり、金鉄党は総崩れになった。第15第藩主は異母弟・義比(茂徳)が継ぐ。彼は竹腰派の「ふいご党」に従うしかなかった。尾張は「尾張モンロー主義」で、幕府に追随する佐幕開国派が多数になる。これは尊王攘夷派が衰えなかった水戸藩と大いに異なる。

・この頃、筆頭家老・成瀬は何をしていたのか。嘉永2年(1849年)慶勝が藩主を継ぐと、筆頭家老・成瀬と次席家老・竹腰の1年交代制になる。しかし成瀬正住は名古屋に手足はおらず、犬山城で過ごした。その正住は安政4年(1857年)没し、養子・正肥が後を継ぐが、正住が「譜代大名への昇格」を遺言したため、正肥も先祖代々の宿望に燃える。
・一方金鉄党は竹腰派から排除され、左遷・閉門を受けるが、切腹・斬罪される事はなかった。また尊王攘夷に燃え上がり、京に躍り出す烈士もいなかった。

・安政7年(1860年)桜田門外で井伊大老が討たれ、文久2年(1862年)老中安藤信正が襲われると、天下の形勢が一転する。松平春嶽は総裁になり、慶勝も謹慎を解かれ、尾張を独裁するようになる。
・「ふいご党」に不満を持つ藩士は、成瀬正肥の屋敷に押し掛け、藩の要職から奸人を退け、尊王に力を尽くすよう請願する。正肥は江戸城で藩情を訴え、江戸および名古屋の竹腰派は処分される(※幕府に訴えるとは、強行だな)。しかしこの自主性のなさが、「青松葉事件」に繋がる。
・金鉄党の田宮如雲/長谷川惣蔵/尾崎八右衛門らは幽閉蟄居を解かれ、登用された。「ふいご党」には辞職する者もいた。開明派の渡辺新左衛門/榊原勘解由/石川内蔵允らは藩政に居座った。

・しかし歴史は急速に変化していた。お坊ちゃまの将軍家茂は朝廷との話し合いのため上洛する。薩摩藩が起こした「生麦事件」の賠償を求め英国軍艦が江戸に来航する。江戸城で留守役をしていた茂徳は、その一部を支払う。朝廷はこれを責め、茂徳は隠居する(※これは知らなかった。将軍は征夷大将軍だからな)。第16代藩主に、慶勝の3男義宜6歳が襲封し、慶勝は独裁を強める。

○慶勝のいらだち
・桜田門外の変後、一橋慶喜は大赦され、文久2年(1862年)後見職として幕政改革の中心になる。慶勝も幕府参与として参加する。翌年には兵を率いて入京し、将軍補佐役を命じられる。異母弟の会津藩主松平容保は京都守護職、同じく異母弟の桑名藩主松平定敬は京都所司代に命じられる。ウルトラ攘夷(?)の新撰組は松平容保の下にあった。

・元治元年(1864年)攘夷派の長州毛利藩は、「禁門の変」(蛤御門の変)で一敗地に塗れる。慶喜に長州征伐の宣旨が下る。征長総督に慶勝が任じられる。3家老の斬首/山口城の取毀しなどの条件で無血停戦になる。
・しかし長州は下関における4国連合艦隊との交戦を経験し、軍隊を近代化させ、藩政大改革に成功し、幕府に従わなくなる。慶応2年(1866年)幕府は安芸藩・薩摩藩の出兵拒否にも拘わらず、紀州徳川茂承を先鋒総督とし、第2次長州征伐を開始する。ところが石見浜田城/豊前小倉城が陥落させられ、大坂城にいた将軍家茂が病没し、これを機に休戦する(※家茂が亡くなったのは7月)。同年12月慶喜が第15代将軍を継ぐ。
・ところが20日後、公武合体を熱望していた孝明天皇も急逝する。公武の代表が変わったのである。公卿・岩倉具視と薩長により討幕が進められる。

・尾張藩は家老成瀬/京都留守役・田宮如雲/京都御用達役などを京に留め、慶勝は名古屋に戻っていた。それは長州征伐などにより財政が苦しくなったからだ。また物価が高騰し、攘夷派の金鉄党の前衛は、「それは夷狄と貿易したため」とし、洋物を販売する商人を襲撃した。※幕末の物価高騰は藩札の乱発が理由かな。
・慶勝は賢明・慎重・寛大な殿様だったが、日本全体を見ていなかった。「尾張モンロー主義」のため、日本でどの様な変化が起きているのか、西南雄藩がどの様な行動を起こしたのか理解していなかった。ましてや譜代昇格を生き甲斐とする家老成瀬や、「ふいご党」の根絶やしに意気込む金鉄党の前衛も理解できていなかった。

・しかし日本全体を見ていた将軍慶喜は、慶応3年(1867年)10月15日大政奉還する。朝廷が10万石以上の大名を招集するが、越前/薩摩/安芸など10余りが入京するだけだった。慶勝も兵を率いず入京する。慶勝は兵を望んだが、「兵馬の権」を握る、ことなかれ主義の「ふいご党」がそうせなかった。
・11月8日激派公卿と薩長の大元締であった岩倉の蟄居が解かれる。当日岩倉は尾張の京都御用達役・林左門を呼び出し、藩内の事情を聴収している。林が隠す事なく報告したため、討幕派から「誠実尊王」と評価される。

・当日、薩芸土尾越の五藩連合が成立し、翌日王政復古が号令される。これにより摂政・関白・征夷大将軍・京都守護職・京都所司代の職は廃止され、総裁・議定・参与の三職が置かれる。五藩連合の藩主は議定に就いた。参与には岩倉ら公卿5人/尾張3人/越前3人/安芸3人/土佐3人/薩摩3人が就いた。尾張は丹羽淳太郎/田中国之輔/荒川甚作が就いたが、田宮如雲/林左門が追加される。
・しかしこの議定・参与は時間稼ぎだった。慶勝は数千の兵を要望するが、藩は護衛隊以外は送らなかった。会津・桑名の兵が大坂に退いたため、もし大兵を送っていれば慶勝の発言力は強まり、慶喜の辞官納地を有利に進められただろう。しかし京は薩長の軍隊で埋め尽くされる。※こんな話があったのか。
・慶応4年(1868年)正月、旧幕軍が京に攻め上がる。3日夜「鳥羽・伏見の戦い」で大敗し、慶喜は松平容保/松平定敬と共に江戸に逃走する。

○痛恨「青松葉事件」
・4日新政府は嘉彰親王(小松宮彰仁)を軍事総裁に任じ、翌日に征討大将軍に任じ、慶喜追討令を発する。徳川慶喜は250余年武家の棟梁であり、徹底抗戦の命令を出せば、親藩・譜代/外様の大名も味方したかもしれない。その鍵を握っていたのが尾張の徳川慶勝だった。
・これを認識していたのが岩倉や薩長の指導者だった。金鉄党は参与で籠絡したが、「ふいご党」をどう料理するかだった。慶勝が日本全体の流れを調べさせた形跡はない。彼の周りには譜代昇格を夢見ている成瀬正肥や、参与に任命されて有頂天の金鉄党しかいなかった。

・12日岩倉は家老成瀬/田宮如雲ら7人を呼び出す。そこで岩倉は「尾張に逆徒慶喜に通じる者がいる。東征を邪魔する者は、ことごとく誅殺しろ」と伝える。岩倉は尾張の決定が鍵となる事を認識し、その内部を十二分に探索していた。
・慶勝は尊王の心が篤かったが、親藩筆頭である事を自覚していた。そのため公武合体を強く進めた。参与に任じられた尾張の「修正勤王家」達は、慶勝に「ふいご党」粛清を強く訴えたに相違ない。

・15日慶勝は京を発ち、成瀬正肥は1日遅れて京を発つ。それは犬山藩の独立を、桂小五郎(木戸孝允)/大久保一蔵(利通)に陳情するためだった。そこで彼は快諾を受ける。19日彼は清州城で慶勝と合流する。成瀬は、佐幕派重臣を斬る事にためらう慶勝に朝廷から示されたリストを示し、決行を迫った。そこには家老2500石・渡辺新左衛門/大番頭1500石・榊原勘解由/大番頭待遇1000石・石川内蔵允らの名前があった。
・翌日慶勝が名古屋に入ると、3人は呼び出され、馬場に敷かれた畳の上で斬首される。その後14人が死刑に処され、20数人が家名断絶/永蟄居などに処される。これが青松葉事件である。

○不本意な生涯
・尾張が勤王に転換した事は効果絶大だった。幕府に同情的だった土佐/宇和島/越前は、それを示せなくなった。東征の経路の譜代諸藩も勤王倒幕に靡いた。桑名藩も一戦交える事もなく、開城する。
・24日政府に佐幕派重役の処刑が伝えられると、成瀬家の犬山藩、竹腰家の今尾藩が誕生する。

・2月7日尾張藩主義宜が御親征東海道先鋒に任じられる(※家康が東海道の守勢のために尾張藩を置いたのに、反対になった)。尾張は田宮如雲を司令官とし、千人の藩士を送るが、戦う気力はなかった。
・4月11日東征大総督・有栖川宮熾仁親王は江戸城に無血入城する。それと同時に田宮/参与成瀬は免官される。閏4月21日官制改革で三職が廃止され、議定慶勝、参与田中/丹羽/林も失職し、尾張からの参議は一人もいなくなった。

・その後義宜/慶勝が名古屋藩知事に就くが、実権は大参事・田宮如雲にあった。しかし彼も明治4年に亡くなる。犬山藩成瀬正肥は犬山藩知事に就くが、明治4年7月廃藩置県となる。11月犬山県は名古屋県に吸収される。明治16年8月慶勝も没する。彼は尾張藩の因循に引っ張られ、不本意な生涯だったかもしれない。※高須4兄弟の1人慶勝を、幾らか知れて良かった。

<近藤重蔵-千島探検と大日本恵登呂府>
○北の三蔵
・江戸時代の人は三が好きで、「寛政の三蔵」とか「化政の三蔵」がある。ここでは「化政の三蔵」を紹介する。江戸時代後期、ロシアがカムチャッカ半島に基地を置き、南下する様相を示していた。これに反応したのが「化政の三蔵」である。文化・文政(1804~31年)は、第11代将軍徳川家斉(1773~1842年)の治世で、江戸時代で最も退廃した時期である。その天下泰平の時代に、外国人の侵略を憂慮したのが、間宮林蔵/近藤重蔵/平山行蔵だった。
・間宮林蔵はよく知られている。カラフト(樺太)を探検し、カラフトが島である事を発見した。さらに黒龍江を遡り、満州に達している。平山行蔵は御家人で、蝦夷に足を踏み入れていないが、蝦夷の防護を幕府に上書した人物である。近藤重蔵は再三蝦夷に渡り、さらに千島列島のクナシリ(国後)/エトロフ(択捉)に渡り、千島を開発した先駆者である。従って三人共、蝦夷と関係が深い。当時は海外渡航すると死刑であり、三人共変人であった。

・間宮林蔵は勘定所の隠密で、寒中でも一枚で平気だった。家には武器/地図/地球儀しかなかった(※伊能忠敬は1818年没)。しかしワインとウォッカを飲み、カステラを好んだ。独身だったが、飯炊き婆さんと同居していた。平山行蔵も独身で、食べ物は玄米/塩/味噌/水しか食さなかった。冬も夏もむしろの上で寝た。
・二人共禁欲主義で、出世・金儲けなどの欲を持たなかった。一方近藤重蔵は出世欲/権力欲/物欲/性欲が人並み以上だった。また自信満々・傲岸不遜で、同僚や下の者を無視したり、上の者にも自分の意見を通そうとした。これが彼の破滅を招いたと云える。

○出世への道
・幕府は鎖国していたが、第9・10代将軍の頃になると、ロシアがカムチャッカ半島に拠点を置き、千島列島を南下してくる。田沼時代(1767~86年)になると松前に通商を求めに来る。天明5年(1785年)幕府は「蝦夷地巡検使」を送っている。この時竿取りとして従った最上徳内は千島のウルップ島まで巡航している。さらに彼は近藤重蔵の探検に従うまでに、蝦夷5回/ウルップ島2回/カラフト1回渡海している。
・田沼政権を打倒し、「寛政の改革」を実施した松平定信(1758~1829年)は北方問題に悩まされる。ロシアの使節ラックスマンが通商を求め、根室港/松前港に入港する。その後も幕府は北方問題に悩まされる。

・明和8年(1771年)近藤重蔵守重は与力(200俵取りの御家人)の次男に生まれる。彼は幼少から秀才だった。20歳で父の後を継ぎ、与力になる。当時松平定信が「学問吟味」を行っており、彼は第2回学問吟味(寛政6年、1794年)に応募し、御家人の部で十数番になる。これにより彼は長崎奉行に出張を命じられる。長崎でオランダ人/中国人から情報を集め、『清俗紀聞』『安南紀聞』などを著している。江戸に戻り、支配勘定・関東郡代付出役に登用されるが、対外関係の勉強を怠らなかった。
・寛政7年ロシアがウルップ島に入植し、英国船がエトモ(絵鞆、※室蘭かな)に入港するなどし、彼は蝦夷の取り締まりを上申する。寛政10年(1798年)幕府は蝦夷地を巡察する。総監督は勘定奉行・石川忠房で、総員188名だった。しかし多くは赤鬼の住む蝦夷に行きたがらなかった。

・近藤重蔵は「松前蝦夷地御用取扱」に任命される。彼は東蝦夷・千島が担当の大河内善兵衛政寿の配下に入るが、最上徳内(1755~1836年)を推薦し、一行に加える。徳内は蝦夷は6回目、千島は4回目の渡海だった。この時重蔵24歳、徳内43歳だった。
・重蔵は4月1日に江戸を発つ。普請役に長嶋新左衛門、雇に村上島之丞、下僕に下野源助ら、56名を配下に置いた。村上島之丞は「祖先が中国侵略で明の王女を連れ帰り、自分はその子孫なので、秦の始皇帝の血が流れている」と自称していた。そんな連中が多かった。

○クナシリ海峡横断
・重蔵は5月松前に入る。彼は大河内に先行し、サマニ(様似、※襟裳岬の手前)/釧路/厚岸/根室を経て、クナシリ島/エトロフ島に渡る。しかし大河内はサマニまで来て、松前に引き返す。御目付・渡辺久蔵は松前から巡察にも出ず、冬前に江戸に戻っている。
・徳内は1ヶ月遅れて出立したため、遅れてクナシリ島のトマリ(※クナシリ島の南端)に着くが、重蔵は既に強引にエトロフ島に向かっていた。徳内は後を追い、7月25日クナシリ島北端のアトイヤで重蔵に追い付く。これが二人の初体面で、重蔵は鉄砲を撃ち、徳内は薙刀で踊って祝った。

・重蔵が「2・3日後、エトロフ島に渡る」と発表すると、江戸の者だけでなくアイヌも顔色を変えた。それは7月を過ぎれば、クナシリ海峡は5m以上の波が立つからだ。しかもこれまでに日本人がクナシリ海峡を渡ったのは、3度しかなかった(その内2度は徳内)。重蔵と徳内は意見が一致していたが、随員には来年の春を待つべきとの意見もあった。
・しかし7月27日重蔵は、30余人のアイヌ人と3隻のアイヌ舟でクナシリ海峡に乗り出す。重蔵は泳げなかったが、「武士が一命を捨てた時、褌1枚では」と、甲冑を身に着け、大刀を振った。難航の末、25Kmの海峡を10時間掛けて渡り、リコップに上陸する。

○大日本恵登呂府
・エトロフ島の住民は原始的だった(※服装や生業が記されているが省略)。上陸翌日重蔵は、領土宣言である「大日本恵登呂府」と揮毫した標柱を立てる。そこには重蔵/徳内/源助とアイヌ12人の名前を書いた(※30余人?)。
・島民からロシア人の情報を集めるが、エトロフ島にロシア人は住んでいないようだった。ウルップ島に渡る事も考えたが、三晩宿泊し、クナシリ島に戻る。

・クナシリ島アトイヤに戻ると、遠見山に源義経の祠を建てた。そこで徳内が剣を振る舞うが、重蔵と徳内に反感を持っていた源助は、それを批判してる。重蔵暗殺計画があり、随員がそれを源助に話すと、源助が「きみらが重蔵を殺すと、わしがきみらを誅殺する。そうなればわしは有名になる」と答えたので、中止になった。※どんな世界!
・重蔵はクナシリ島に1ヶ月近く滞在し、8月26日トマリを発ち、標津に到着する。徳内は江戸に呼び戻されるが、重蔵は蝦夷で冬を越す。

○蝦夷地の冬
・重蔵はロシアから千島を守るには、アッケシ(厚岸)に拠点を置くのが望ましいと考えた。しかし陸の交通路がなく、日高海岸に道路を拓く事が重要と考えた。そこでアッケシからの帰途、ルベシベツ-ビダーヌンゲ間(※ビタタヌンケ、襟裳岬の東)に道路を新設する。11月ムカワ(鵡川)を遡り、12月27日エトモ(絵鞆)まで戻り、翌年(1799年)正月ウス(※有珠?)に移っている。幕府の命令があり、江戸に戻る。

○エトロフ島開発
・2月26日重蔵は江戸に帰着する。お勘定役に栄転し、将軍から時服2領/お暇金2両を頂戴する。さらに蝦夷での活動を保証した御朱印を拝受する。江戸に23日間滞在するだけで、再び蝦夷に向かった。5月9日ウラカワ(※浦河?)に入り、6月19日クナシリ島北端のアトイヤに着く(※前年より1ヶ月早い)。エトロフ島/ウルップ島に渡るには期間が短いので、サマニに戻った。
・彼はこの5年間で長崎から千島まで25ヵ国/1700里(6800Km)を歩き、自宅にいたのは10ヶ月しかなかった。しかしこの後の5年間で、その数倍を歩く。

・重蔵がどんな構想を持っていたかは分からないが、それには輸送能力の向上が不可欠だった。しかし運命は重蔵と高田屋嘉兵衛を巡り合わせる。彼は兵庫の船頭だったが、早くから蝦夷貿易を行っていた。松前/箱館に米・塩・雑貨を送り、塩(?)・鮭・昆布を持ち帰り、莫大な利益を上げていた。
・たまたま重蔵がアッケシにいた時、彼もアッケシに寄港しており、対面となった。重蔵がクナシリ海峡の危険を伝えると、彼は図合船であれば危険は少ないと答えた。そこで重蔵は彼にエトロフ島への航路開拓や調査を命じた。
・7月彼は70石積みの船でアトイヤを出港し、エトロフ島のタンネモイに着く。浅深・潮流などを調べ、事務所を建てる。内保に至り、地形などを調べ、10日程でアトイヤに戻る。
・彼は根室まで戻り、重蔵に結果を報告する。さらに箱館の蝦夷奉行所で報告し、賞金を賜る。さらに江戸に戻り、蝦夷警備の担当者・松平忠明に謁する。彼は来年、エトロフ島に官物を輸送する大仕事を命じられる。彼は兵庫に戻り、手船辰悦丸と大船5隻に米・塩・木綿・タバコ・種子・漁具などを乗せ、箱館に回航させる。これは重蔵と嘉兵衛の意図したものだった。

・寛政12年(1800年)嘉兵衛とその弟は、辰悦丸/図合船1隻/捕鯨船4隻で物資を満載し、サマニに入る。重蔵もこれに乗船し、エトロフ島タンネモイに向かう。これらの船は日の丸を旗を掲げるなど、大仰に艤装し、重蔵は甲冑を身に着けた。これを見た島のアイヌは軍勢と勘違いした。
・重蔵は島に17ヵ所の漁場を開き、漁網・漁具を与えるなど漁業を教えた。さらに風俗の日本化(髪、名前など)を行った。また郷村制を敷き、7郷25村を置いた。当時の調査では現地民1118人、アイヌ舟63隻となっている。
・享和元年(1801年)嘉兵衛はウルップ島に渡って、木標を立てる。重蔵はエトロフ島に滞在し島民を指導し、11月江戸に戻る。※ここまで読むと、全然当て外れに感じないけど。

・江戸に戻ると重蔵は、蝦夷経営で権力を振るった。文化3年(1806年)ロシアの使節レザノフの通商要求を拒否すると、ロシアはカラフト/千島/蝦夷を寇掠する(※たまに難しい単語が出てくる)。エトロフ島でも津軽・南部藩兵700人が惨敗した。
・文化4年彼は箱館に出張する。利尻島を調査し、宗谷に至る。そこでカラフトアイヌを集め、カラフトの事情を聴収する。宗谷からの帰路は、天塩川を遡り、石狩川を下り、小樽に至る。この間700Kmを10日で跋渉した。石狩川では舟が転覆し、食糧などを失い、数日間生魚を食った。この踏査から、「奉行所は箱館ではなく、樺戸・札幌・小樽に置くべき」と上申する。
・12月江戸に戻り、将軍家斉に御目見得を許され、質問を受ける。下役人がこうなるのは特別である。

○不遇な晩年
・彼は旗本に列せられ、書物奉行に栄転する。これは左遷で、蝦夷に関わる機会を与えられなかった。しかし彼は歴代の秘密文書から外交関係を抜き出し、『外蕃通書』を献上する。すると今度は大坂の旗奉行に転出される。
・松浦静山は「重蔵は蝦夷に行く前は好青年だったが、帰ってくると人間が変わっていた」と書いている。彼は蝦夷で、権力・金・女を覚えたのだろう。彼は傲岸な性格なので、至る所で敵を作った。また大坂では大邸宅に住み、公卿の娘を娶った。そのため「勤め方不相応」として免職される。
・彼はお金がいるので、目黒の別荘に富士山を作った。これが原因で地主と喧嘩になり、重蔵・富蔵父子はその家族を殺傷する(※平賀源内もこんなのがあった)。重蔵は大溝藩に預けられ、富蔵は八丈島に流刑になる。文政12年(1829年)重蔵は亡くなる。富蔵は明治維新で罪を解かれるが、八丈島に住み着き、『八丈実記』を残している。

<菅江真澄-常冠り頭巾のさすらい>
○謎の過去
・江戸時代に旅行の自由はなかった。村では他国人を宿泊させるのが禁じられていた。山伏/行商人は地蔵堂などに寝泊まりした。そのため武士/商人/船頭/行商人/旅芸人/遊行僧/山伏などを別にすれば、自分の村を出る事はなかった。
・しかしどの時代も旅をしたい本能があるようで、芭蕉/貝原益軒などが旅に出ている。ところが江戸半ばを過ぎると、古川古松軒/最上徳内/近藤重蔵/橘南谿/司馬江漢などが長い旅を行っている。もっとも彼らは旅が終わると日常生活に戻っている。ところが東北・蝦夷を歩き、自分の行程を書き残し、旅の途中で亡くなった者がいる。菅江真澄である。昭和10年代まで余り知られていなかったが、紀行の全集が出版され研究が進んでいる。

・彼は常に黒頭巾をかぶっていたため、「常冠り」と云われた。だがその理由は分かっていない。彼が死んだ時、脱がせようととの意見もあったが、そのまま埋葬された。また彼の出自も定かでなく、三河渥美郡の出身らしい。

○出生の地
・菅江真澄の墓は秋田市にある。彼を慕った飛脚屋卯助の鳥屋長秋が、墓に三河渥美郡小国と彫らせたが、小国村は存在しない。彼の本名は白井英二かもしれないが、吉田(豊橋)に白井姓は多い。しかし最新の研究では、浜松とされている。彼の死後、秋田の知人が生家を訪れたが、相当な旧家で、何日も宿泊したらしい。彼は宝暦4年(1754年)の生まれで、本名は白井英二だが、何度も名前を変えた。彼が菅江真澄と名乗ったのは、50歳を過ぎ、秋田藩に入ってからである。

・真澄は青年の頃、尾張藩の薬草園に勤めた。伊吹山/大台ケ原を訪れ、遠江/駿河/甲斐も踏破している。一方で和歌も詠んでいる。また吉田に戻ると、植田義方の下で国学を学んでいる。彼は賀茂真淵から漢学・国学・儒学・和歌・俳諧・詩文を学んでいる。当時『都名所図会』『遠江国風土記伝』『木曾路名所図会』などが編まれているが、彼は『木曾路名所図会』に関係していたと思われる。また『みちのくの名所図会』を出版したいと願っていたと思われ、真澄が出立する時、奥州の名所の写生を送る約束をしたと思われる。

○みちのくに発つ
・当時長い旅の費用はどうしたのだろうか。いくら豪農でも送金し続けるのは困難である。まして彼の場合、滞在先も決まっていない。幸いにも彼には本草学の知識があり、薬の製造や病気治療ができた。それで旅費を調達したのだろう。橘南谿も医者だった。さらに彼は和歌ができた。芭蕉は俳諧の会を催し、大旅行を成し遂げた。ただし和歌は俳句ほど大衆性がない。
・天明3年(1783年)彼は三河を発つ。まず信濃に入ると、以前からの知人と歌会を催し、そこで読まれた歌を編集し、小冊子を人数分作り、出席者に配った。1年余り信濃で過ごし、名所/風俗/季節の移り変わりを日記に書いた。『真澄遊覧記』の第1巻は『委寧(伊那)の中路』となっている。※当時はまだ白井英二かな。

・天明4年6月真澄は、みちのくに出発する(※みちのくに出羽は含まれるのかな。以下奥州)。洗馬(塩尻)の曹洞宗長興寺の和尚洞月から『和歌秘伝書』を授けられる。彼はこれを入手したいため、1年余りも信濃に滞在した。ただし彼は奥州では、歌人ではなく医者と称した。
・古川古松軒/橘南谿/最上徳内/近藤重蔵などは具体的な目的を持っていたが、彼はそれがなかった。奥州(秋田藩、津軽藩、南部藩)で歌の会を催し、和歌の作り方教え、ぶらぶらと2年間を過ごす。
※この頃、天明大飢饉で大変だったと思うが、被害は主に陸奥側で出羽側はそうでもなかったのかな。

○松前藩の歓待
・その頃ロシアが千島だけでなく、蝦夷でも出没するようになる。幕府は海防厳戒令を出したり、蝦夷地巡検使を派遣した。真澄も蝦夷に関心を持っていたが、占うと「3年待て」と出たので、そうする。
・ところが天明8年6月、盛岡で旅芸人・鬼吉に会い、一緒に松前に渡る事。7月津軽半島から船で福山港に到着する。ところが内地からの怪しい人物を蝦夷に入れないよう禁令が布かれていた。松前藩は蝦夷の支配を任されていたのではない。アイヌとの貿易で巨利を得ていたため、不審者がアイヌと直接貿易するのを警戒していた。

・天明6年、田沼意次は政変で失脚し、松平定信が政権を把握する。彼は保守的なので、蝦夷開発を葬り去った。これは松前藩には喜ばしい事で、福山港では厳しい入国チェックが行われていた。真澄は松前に住む沢田利八の紹介状を持っていたため、そこに泊って、次の便で津軽に帰るように申し渡される。
・利八は松前藩主の侍医・吉田一元に出入りしていた。そこで彼は真澄の事情を話し、真澄の和歌を見せると、吉田はこの和歌に感動する。吉田が藩主・松前道広に真澄の和歌を見せると、藩主も感動し、松前の逗留が許される。※嘘みたいな話だな。「芸は身を助く」だな。

・真澄は城にも呼ばれるようになる。城中で彼を特に歓迎したのが、藩主の継母で未亡人の文子だった。話し上手な彼は彼女を魅了し、詠歌の相手を務めるようになる。また大奥で歌会が催されるようになり、彼は宗匠になった。
・真澄は侍医・加藤肩吾とも親しくなる。彼はロシアへの関心が強く、地図を作ったり、アイヌからロシア語を聞き覚えた。松平定信は蝦夷開発に反対で、最上徳内などを投獄したりした。しかし寛政4年(1792年)ロシアの使節ラックスマンが根室にやって来る(この時肩吾が通訳をしている)。これに松前はパニックになり、真澄は下北半島に辿り着く。※面白い話だな。

○薬草狩り
・真澄は下北半島に上陸すると、そのまま南部藩を徘徊した。主に胆沢郡前沢の鈴木常雄の所を根城にして、和歌を教え、山に薬草を採りに行った。

・寛政7年3月頃南部藩から津軽藩に移る。津軽では、なじみの医者に山野で採った薬草を売り、生活の質にした。津軽藩医に小山内玄貞がいた。寛政9年6月彼は玄貞に同行し、薬用植物を掘り取って、薬草園に植えた。寛政10年小山内玄貞が松前に派遣されたため、山崎清朴に代わる。しかし多くの藩医が彼の素性を疑っていた。そこで彼が蒐集した薬草を、当時日本一の本草学者と云われた小野蘭山に送り、鑑定してもらったが、誤りはなかった。しかし寛政11年4月南部に戻る。この時津軽藩から賞与500疋/旅費金5両を下賜されている。

○津軽人の情
・真澄は南部下北の大間村に赴いた。ここは松前から逃げ出した時、最初に着いた港で、夥しい草稿/写生図/民芸品を預けていた。その後津軽に戻るが、藩当局は彼を歓迎しなかった。彼は金山を探し、地形や産物に詳しいので、それらの情報を藩外に持ち出されるのを忌み嫌ったのだろう。この年の冬、彼は取調べを受け、記録を没収される。そのため藩医も知識人も寄り付かなくなった。ただ俳諧(※和歌?)をやっている庶民だけが出入りした。

・彼は1年近い拘束から解放され、深浦の小浜屋竹腰理右衛門の所に身を寄せる。ここで1年近く静養する。下北に預けていた記録を、ここに運んでもらったのだろう。
・享和元年(1801年)11月彼は深浦から秋田藩に移る。この時深浦の人達に「またおいで」「馬から落ちないように」「寒さに気を付けて」などと言われ、彼は涙を流した。荷物は船で送ってもらい、小浜屋に付き添ってもらい能代に着いた。

○望郷
・真澄は無事に津軽藩から秋田藩に移る事ができた。これから文政12年(1829年)に没するまで秋田に過ごす。彼は望郷の歌を詠んでいるが、三河を訪れていないようだ。『真澄遊覧記』には故郷に文通した事が1度だけ出てくる。三河を出て4年目、平泉毛越寺の衆徒に植田義方への手紙を託している。その3ヶ月後に返信が届き、彼はいたく感動している。しかし『真澄遊覧記』には、その1度しか記されていない。
・しかし戦後の研究で、植田家の古文書から彼が送ったと思われる贈り物が4つ見付かった。①陸奥真野萱原の尾花(天明7年)、②松前鶴の思ひ羽(天明8年)、③西蝦夷ヲタルナヰ夷人のマキリ(寛政11年)、④呂斯委夜(ロシーヤ)の世珥である。①尾花はススキの穂で、真野萱原は名所である。③マキリはアイヌの小刀である。④世珥はロシアの25カペイカ銀貨である(※鎖国なのに?)。また『外浜奇勝』の稿本も残されていた。
・彼は稀に植田へ手紙を送っていたと思われる。しかし植田は文化3年(1806年)に亡くなり、彼と故郷の繋がりは、断ち切られてしまったのだろう。

○秋田藩侯の庇護
・真澄が秋田藩に入った時、藩主は佐竹義和だった。ところが久保田城下の大火災や天明3年の大飢饉で、藩の人口は41万人から32万人に激減していた。参勤交代はできず、藩士の食禄は6割カットされていた。そのため鉱山・林業を推進し、桑・楮などの栽培を助成し、蚕糸・織物・製紙・醸造・陶漆器・製薬などを育成した。そのため商品貨幣経済が活発だった。これは津軽藩と対照的である。

・その頃幕府の奥祐筆・屋代弘賢が各藩に『諸国風俗問状』を送り、百科事典『古今要覧稿』を著している。孔孟学や権力の争奪史だけでなく、庶民の生活・行事にも関心が持たれ始めていた。これには正月の門松に始まり、12月の除夜までの行事の質問や、婚礼・葬祭/非部落民の職業にまで質問があった。この答書が十数藩残っており、秋田藩の『出羽国秋田領答書』(文化11年)が残っている。

・この答書の作成に真澄は関わり、高階平吉貞房に知り合う。貞房は藩主義和の小姓になり、常に側近にあった。また開明的藩主の影響で、国学・和歌を学んでいる。
・文化8年(1811年)貞房は蝦夷をさすらったり、藩内の民俗行事/奇物を冊子に書き留めている老人(真澄)がいると聞き、彼と何度も面会する。貞房は彼を気に入り、城下に住まいを手配し、藩主との面会も許されるようになる。藩主が卑しい旅人と会い、御納戸で秘蔵品を見せるなど、異例中の異例であった。
※松前藩/津軽藩/秋田藩で藩主などに厚遇されるとは、凄い人だ。しかもその理由が和歌/薬学/地誌で、それぞれ異なるのも凄い。

・また彼は地誌を書くため、藩内を自由に歩き回る事を許される。彼は神社仏刹/名所旧跡の取調方を命じられる。それで雄勝に向かっていた時、藩主から「真澄の日記を全て見たい」と伝えられ、久保田に戻り、26冊の副本を作り、藩校明徳館に提出する。その後久保田郊外の薬草園での朝鮮人参の栽培を命じられる。
・文化12年藩主義和が亡くなる。彼は家老梅津の中屋敷に滞在していたが、落胆し重篤に陥る。

○地誌作成命令
・真澄は重病から回復すると、町に移り住む。藩主のサポートを失ったため、自主的に退き、町で暮らす道を選ぶ。彼は町の人に和歌を教えた。しかし以前のように『和歌秘伝書』を振りかざさなかった。それは藩内に本居派や平田篤胤の国学を学んだ者がおり、冷泉流では勝負にならないからだ。また薬草を調合して売り、生計を立てた。当時薬は貴重で、彼一人が生きていける収入は得られただろう。

・この7・8年間で真澄が親しくした人に、真宗本誓寺の是観上人がいる。彼は茶の湯/香道/絵画/天文/蹴鞠に通じ、『和訓考』の国学の著書もある。真澄は彼が上京するので、遊覧記50余冊を東本願寺に献納したいと思った。ところが藩の要職に就き、平田篤胤に学んだ岡見順平が、真澄の考古学/民俗学の知識に関心を持ち、何度も面会し、秋田藩の地誌民俗志を書くように口説いた。

・一方重役となった高階貞房は「真澄が自身の遊覧記を、東本願寺に献納したいと思っている」と知り、彼も真澄を再評価するようになる。彼は真澄に『真澄遊覧記』51冊を藩校明徳館に献納させる。その後に書いた地誌類も明徳館に納めている。
・藩全体が真澄に藩志を作成させる方向に向かい、文政7年(1824年)真澄に地誌作成の命令が下る。※『芸藩通志』は文政8年(1825年)に完成している。

○出羽路に逝く
・文政7年8月真澄はまず平鹿郡に向かう。旅費銀100匁/筆墨紙代銭16貫が渡されている(※従者はいたのかな)。公用なので野宿やお堂に泊る必要はなく、村役人の家などに宿泊できた。また聴き取りも、相手方が積極的に協力した。彼は旅先で和歌や俳句を作った。また絵を描いたり、三味線を弾いた。

・文政9年4月彼は平鹿郡の地誌を完成させ、翌月仙北郡に移る。村役人の家や寺社に宿泊し、付近の寺社・祠などを調査した。1つの村に20日程度滞在した。奥北浦荘雲然(※仙北市角館町雲然)では庄屋後藤家に滞在し、後家として戻っていた女性と仲良くなった。
・彼は後藤家で『月の出羽路仙北郡』25巻を書き、神代村(※仙北市田沢湖神代)に移るが、文政12年7月(1829年)発病し亡くなる。遺体を湯灌する際、頭巾を脱がせようとする者もいたが、鳥屋長秋がそれを制した。※頭巾が彼の青少年期を表しているかな。菅江真澄については、ウィキペディアにも詳しく書かれている(まだ読んでいない)。

<水谷豊文-江戸博物学の濫觴>
○シーボルトが称賛した大学者
・文政9年(1826年)シーボルト(1796~1883年)が江戸参府する時、宮駅(熱田)で本草学者・伊藤圭介(1803~1901年)に会っている。伊藤やその兄・大河内存真(1796~1883年)の先生が、水谷豊文(1779~1833年)である。
・シーボルトの日記に宮駅での事が書かれている。※大幅に簡略。
 豊文らが訪ねてきた。彼とは出島の時から文通していた。彼は乾燥した植物/果実/化石/フグやタツノオトシゴを乾燥した標本などを持ってきた。・・甲虫類/蝶類の数種類をくれた。珍しい動植物を細かに描いた絵もあった。
・シーボルトは帰途の5月27日も宮駅に寄り、豊文ら3人に会い、夜3時まで天産物を検分鑑定している。この翌年伊藤圭介はシーボルトに就いて博物学を学んでいる。

・豊文は自分の植物園に2千余種の植物を植えていた。安永8年(1779年)彼は尾張藩士家禄200石の子に生まれる。これは尾張藩では中級に属した。父も本草学を学んでいた。また尾張藩は延享元年(1744年)に薬草園を開いている。ここで働いていたのが白井英二(菅江真澄、※前章の主人公)で、松平君山などから本草学を学んでいる。
・豊文は名古屋で医学(※漢方?)を学び、京都で小野蘭山から本草学を学んでいる。さらに名古屋で野村立栄から蘭学を学んでいる。さらに彼は、槍/組み打ち/兵法/馬術/弓術/砲術/居合術も習得していた。一方で画/茶湯/ひちりき・鼓/書道も身に付けていた。彼は終生、薬草園係を務めた。※多才なエリート坊ちゃんかな。

○甞百社の盟主
・この頃江戸で博物同好会「赭鞭会」が生まれた。越中富山藩主を中心に、筑前福岡藩主も参加したが、大半は旗本だった。同会は植物/ホトトギス/昆虫類/貝殻などの図説を残している。

・名古屋にはそれ以前から博物学の会があった。文化2年(1805年)豊文が伊勢・近江で薬狩をして『勢江採薬記』を著し、御薬園御用となったのが切っ掛けだろう。これに大河内存真/伊藤圭介も参加している。
・この会は天保2年(1831年)になり「甞百社」と命名される。その研究は「草木金石虫魚禽獣の類、その産地、方言並びに形状の説あるいは図または培養の法学」(※難解)としており、博物学そのものだった。薬品会・博物会を4回開いており、草薬/虎頭/象皮/象歯/犀皮(※サイ?)/鱧魚などを陳列している。

○豊かなフィールドワーク
・豊文の強みは明治までベストセラーになった『物品識名』(文化6年)だけでなく、フィールドワークの豊かさにあった。享和元年(1801年)知多半島に赴き、文化2年(1805年)伊勢・近江を回り『勢江採薬記』を著し、文化3年美濃七山を回り、文化4年木曾を回り、文化5年伊吹山を回り、文化6年知多半島と北美濃を回り『濃州採薬記』を著し、文化7年木曾・東美濃を回り『木曾採薬記』を著し、文化8年南紀伊を回り『南紀採薬記』を著している。さらに文化13年伊勢・志摩・熊野を回り『勢志紀・熊野採薬記』を著している。文政年代になると40歳を超え、遠出は控えたようである。
・彼の採薬記は、目撃した植物を隈なく記しているため、今日その道を辿ると、その植生が変わった事が分かる。また魚類・鳥類・野獣・蛇・蛙なども記している。ライチョウについても詳しく記され(※本文省略)、図も2・3枚描いている。『勢志紀・熊野採薬記』では、真珠・ナマコ・サメ/漁籠/土器/スルメイカの漁法/養蜂などについても記されている(※本文省略)。

・彼の著作で公刊されたのは『物品識名』だけだが、他に1万種の植物を記載した『本草網目紀聞』60冊、鳥類503種の彩色図譜『水谷氏禽譜』8冊、『虫譜』5冊、海魚類84種の着色『熱海魚譜』(※多分これは見た事がある)などがある。彼の鳥類・虫類の原色図譜は真実そのままである。
・天保4年(1833年)彼は没する。その3回忌に開かれた本草会には、植物学の伊藤圭介、昆虫学の大河内存真/大窪昌章/吉田雀巣庵など錚々たる門人が参加した。彼らにより専門化され、近代科学に接続される。

<寺門静軒と『江戸繁昌記』-儒者と風俗文化>
○化政天保の町人生活を活写
・江戸時代、8代将軍吉宗の頃から江戸文化が咲き始め、文化文政で真っ盛りになる。しかし天保になると大飢饉/大塩平八郎の乱/大改革で大打撃になる。この「花のお江戸」を表す浮世絵はあっても文学には乏しい。小説・詩歌に天下泰平を楽しむ江戸が書かれているが、江戸庶民の喜怒哀楽を主題とする作品はない。例外として寺門静軒『江戸繁昌記』(※以下当書)と、それを模した成島柳北『柳橋新詩』がある。

・当書6巻を読み終えると、江戸八百八町の景状が頭に浮かんでくる。また風刺/笑いも欠いていない。それなのに当書は広く愛読されていない。それは漢文で綴られているからだ。江戸時代、日本文より漢文の方が格が高く、文化人は漢文を読み書きできた。また寺門静軒は儒学の師匠だった。一方『膝栗毛』『南総里見八犬伝』『春色梅児誉美』『偐紫田舎源氏』などは士大夫(※支配階級の中下層)から女子供までに読まれた。当書は出版間もなく禁書になり、明治になると漢文体は廃れていった。

○士籍を解かれて町儒者に
・静軒は著作を多く残しているが、大半は正統的な漢詩文で、戯文は当書くらいである。寛政8年(1796年)彼は江戸で水戸藩下級藩士の次男に生まれる。兄が家督を継ぐが、藩に届け出ないで出奔し、寺門家は士籍から除かれる。
・静軒は町儒者・山本緑陰に入門し、儒学を学ぶ。町儒者になるが、生活は不安定だった。彼は水戸藩に任官しようとするが、出奔者の弟を引き受ける者はいなかった(※浪人と考えれば良いのか)。しかし水戸の裕福な宿屋の娘を嫁にもらった。

○春水/種彦と共に弾圧される
・静軒は谷中に私塾を開くが、浅草に移る。天保3年(1832年)暇つぶしに当書の初篇を書き上げ、自費出板する。この年に唯一生き残った娘マチが生まれている。克己堂が出板し、『八犬伝』を出板した丁字屋が売った。
・彼は期待していなかったが、よく売れた。江戸見物に来た文化人が買って帰り、地方でも名が広まった。彼は取材のため江戸や郊外だけでなく、江ノ島などにも出掛けた。風刺や笑いも含め、1年1篇のペースで第5篇まで出板した。

・ところが天保6年、出板届を受けた南町奉行・井筒政憲が学問思想取締りの大学頭・林述斎に伺い、林は当書の絶板・発売禁止を命じる。ところが井筒は注意だけに留めた。そのため翌年第5篇は出板され、他の篇も増刷された。そのため今でも古本屋で安く入手できる。

・5年後の天保12年(1841年)彼は第6篇を偽名で上梓する。ところがこの年より水野忠邦による大改革が始まる。今度は大学頭から江戸町奉行へ「当書を全て押収・焼却し、関係者一同を処罰するよう」との申し入れがあった。この時南町奉行を務めていたのが林述斎の三男・鳥居忠輝で、天保改革で大弾圧を行い、「妖怪」と恐れられた人物だった。
・江戸時代の裁判は儒教の「仁」に基礎を置いていた。そのため罪を自認するまで判決は下りず、拷問が行われた(※仁とは、そういうものなの?)。静軒は当書に「孔孟の道」があるかを問われ、罪を自認するしかなかった。
・彼は書物/板木を没収され、100日の押込み(禁固)を受け、武家奉公禁止の処分を受けた。さらに妻を失い(※離縁?)、一人娘を連れ、北関東/越後/京/大坂などを回る。それができたのは当書で名前が知れていた余慶による。※正しく時代に翻弄された人生だな。

○大角力、芝居小屋、吉原
・ここで当書の内容に触れる(※大幅に簡略化)。大角力は寅時(午前4時)に櫓太鼓が打ち出され、辰時(午前8時)に打ち止む。力士の奮闘に熱狂し、勝負が決まるとハナ(?)や着物が投げられる。
・芝居も芝居小屋が卯時(午前6時)に開き、酉時(午後6時)に閉まる。満員の見物人の前で『忠臣蔵』7段目の幕が開く。桟敷席で喧嘩が起こる。芝居が中絶されるが、再開される。

・黄昏行灯が燈る頃、3千の娼妓を擁する数十の妓楼に燭が入る。暗夜でもこの廓だけは明るい。客はぞろぞろ歩き、格子に食らい付き、女の品定めをする。伽羅の匂いに満ちた薄暗い部屋に入ろう。おしどり1組が三枚重ね蒲団の上に座っている。妓「あんた、何かお話ししてよ」、男「わっちゃ何と言って良いのか知りゃせん」、(※以下省略)。客と敵娼との口説(※言い争い?)と手練手管が詳しく書かれている。これでは「孔孟の道」があるとは主張できない。

○5篇で全てを書き尽くす
・他にトミ(宝くじ)、書画会、火事、花火、縁日・お開帳、女髪結、魚市場、銭湯、お祭、店裏、妾宅、軽業・見世物が書かれている。場所も浅草・上野、本所・深川、愛宕山、馬喰町、麹町、市谷八幡、千住などがある。江戸町人のあらゆる生活が取材されている。ただし大奥や大名・旗本については触れられていない。しかし大奥の秘事より、吉原が焼け、各所に散らばった仮店で、花魁の手管の巧妙さを見とれ聞き惚れたい。
・当書の5篇で全てが描き尽くされている。5篇に入ると、題材が不足し、鳶・鳥・雀・犬・鶴などが出てくる。最後には「静軒先生卒す」となり、棺中から「静軒は死んだ、罪を重ね、借金を重ねたが、皆諦めてくれ」と叫んでいる。

○地方の富裕人を頼る晩年
・日の目を見なかった第6篇では、静軒が地獄を巡る内容だったらしい。その地獄では、天保8年大塩平八郎が武装反乱を起こし、天保10年渡辺崋山が「蛮社の獄」で陥れられる構想だったらしい。

・天保12年(1841年)渡辺崋山は切腹する。その翌年静軒も当書が絶板となり、士官禁止の処分を受ける。彼は慶応4年(1868年)3月娘夫婦に看取られ亡くなるが、それまで30年近く関東地方などを放浪する。
・当時の関東には、裕福な商人や名主/庄屋/村役人などの豪農が、江戸で溢れた儒者/俳人/画家などを滞在させていた。彼らを頼りに北関東/信州/越後/京/大坂まで遊んでいる。越後では1年以上過ごし、『越後繁昌記』を書いている。娘マチは門人で名主の根岸友山の弟に嫁したので、安心して流離う事ができたのだろう。
・彼は儒学者を自任し、漢文の詩文集は『江頭百詠』など数冊ある。しかし当書に比べ、影が薄い。

<土方歳三-組織維持に賭けたリアリスト>
○合理主義者・土方歳三
・天保6年(1835年)土方歳三は武蔵国日野宿の富農の家に生まれる。11歳の時に上野広小路の松坂屋に丁稚奉公に出るが、女性関係で問題を起こし、姉の嫁ぎ先の名主・佐藤五郎に寄食する。新撰組幹部は郷農/下級武士/浪人の出身だったが、彼は奉公や行商に出て、合理性や変り身の早さを身に付けていた。
・彼が育った多摩は天領のため、貢租の取り立てが緩やかで、豪農商が成立した。そのため俳諧/和歌/書画をたしなむ者が多かったが、多摩は剣術に励む者が多かった。

・新撰組に徹底的な打撃を与えた大村益次郎も田舎に生まれた。彼は日田に出て漢学を学ぶ。次に大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、塾頭になり、これが転機になる。彼は郷里に戻り医院を開業するが、夜逃げ寸前だった。ところが伊予宇和島藩に蘭学教授として迎えられる。※こちらの方が転機では。
・彼が才能を発揮できたのは毛利藩に生まれながら松下村塾に関係がないため、松陰イデオロギーに囚われず、蘭学を通しての合理主義で兵学を実践したからだ。彼は宇和島藩主・伊達宗城に従って江戸に出て、幕府の講武所教授に抜擢される。その後長州藩の実力者・桂小五郎(木戸孝允)と意気投合し、下級侍である準馬廻士に任官する。これにより東征軍の実質的な参謀総長になり、彰義隊を粉砕し、東北諸藩に勝利し、五稜郭を攻略した。
・土方は彼と似た才能を持っていたが、鳥羽・伏見で惨敗して気付いた時は、既に遅かった。※幕府内の人間が、そんな革新的な事はできない。ましてや土方は倒幕直前に幕府の末端に加わった人間。

○歴史の表舞台への登場
・文久3年(1863年)幕府は荘内藩浪士・清河八郎の献策を受け入れ、浪士を募集する。これに牛込柳町の天然理心流道場・試衛館から、道場主近藤勇/土方歳三/山南敬助/沖田総司/井上源三郎や、道場に出入りしていた藤堂平助/永倉新八/原田左之助が参加した。募集者は250人で、ごろつき/博徒も混じっていた。
・2月この浪士組が京都に着くと、「我々は尊王攘夷を貫く。皇命を妨げ私意を企てる者は、たとえ幕府の高官でも懲罰する」との朝廷への建白書に署名血判する。幕府はこれに慌て、浪士組の大半を江戸に戻す(建白書事件)。

・ところがこれに反対し、当時在京中の将軍家茂の警固を目的に、浪士13人が京都守護職・会津藩主松平容保に残留を願い出る。それが芹沢鴨(水戸浪士、、※水戸脱藩と同じでは?)、新見錦/野口健司/平山五郎/平間重助(水戸脱藩)、近藤勇/土方歳三/藤堂平助/井上源三郎(江戸御府内浪士)、山南敬助(仙台脱藩)、沖田総司(白河脱藩)、永倉新八(松前脱藩)、原田左之助(伊予松山脱藩)だった。前者5人が水戸天狗党崩れ、後者8人が試衛館関係である。
・この13人が核になり、募集を行い、70余人の新撰組が結成される(その後200余人に増員)。これにより近藤/土方を権力の中枢とする組織ができあがった。なお局長は芹沢/近藤/新見、副長は山南/土方、助勤は沖田など残留組8人と新加入者5人となり、残留組13人は全て役職に就いた。

○オルガナイザーとしての力量
・近藤は道場主で統制する能力があった。一方沖田/永倉/原田/藤堂などは一騎当千の剣戟で、同志愛はあるが一匹狼である。そのためこの組織は、崩壊の危険性を強く内包した組織だった。それをさせなかったのが、近藤の親分肌と土方の規律に対する厳しさだった。

・ここで「三等重役」について述べる。敗戦により大企業の重役は戦犯としてパージされた。そのため課長・係長だった者が重役に納まった。これが「三等重役」である。
・彼らは旧重役や占領軍/米経済顧問に相談し、戦時下の経営方針・方法が役に立たないのを知る。彼らが勉強し、努力したお陰で、日本は経済大国になった。彼らは、それまでの習慣・順序・手続きを知らないまま体当たりし、新しい方法を身に付け、新しい経営方針を立てた。※三等重役と新撰組は似てるかな。

・新撰組は13人から再スタートした。新撰組は以下の「局中法度書」を掲示した。①士道に背くな、②局を脱するな、③勝手に金策をするな、④勝手に訴訟をするな、⑤私闘をするな。これに背く者は切腹を命じる。他の内規で、「少しでも疑いがあれば、全て切腹」とあり、後ろ傷を負っても切腹となった。

○合理主義精神の誤算
・この規律で集団を統制したのが土方だった。彼のような鋭鋒が現れるのは、ゆっくりとかではなく、朝目を覚ますと突然現れるのが歴史の常である。大老井伊直弼が、将軍継嗣問題/対米和親条約/安政の大獄で大鉈を振るうと誰が予想しただろうか。土方/近藤が、ごろつき集団に活性を吹き込むと、誰が予想しただろうか。

・「局中法度書」を生きた掟にするには、無法の暴力を実践する必要があった。新撰組は大阪で角力取りを斬殺し、与力内山彦次郎を暗殺しても処罰されず、自信を持たようだ。いつ内乱が起きてもおかしくない非常時なので、超法規的な暴力が容認されたのだ。大体鎮圧対象の尊王攘夷の志士は、江戸で井伊大老を暗殺し、老中阿部を襲い、京でも佐幕派の公卿侍(※公卿に雇われた侍?)や町人を襲撃している。これに対抗するには、超法規的な暴力を容認するしかなかった。

・酒乱の局長芹沢が角屋で気に入らぬ事があり、乱暴狼藉を働いても(※詳しく記されているが省略)、京都守護職は大目に見た。さらに借金を断った大和屋に大砲を打ち込んだ。さらに借金の取り立てに来た菱屋の女房・お梅を強姦し、妾にした。
・芹沢は武芸・弁舌・押しで秀で、局長の筆頭に就いた。しかし水戸浪人らは酒の奴隷に陥ったように見える。芹沢の片腕・新見も遊蕩に耽り、金がなくなれば商家を襲った。土方は、新見が遊女屋「山の緒」で遊んでいる所に押し掛け、証拠を並べ、詰腹を切らせた。
・文久3年(1863年)9月芹沢は角屋でへべれけに酔い、壬生の屯所に戻る。その夜土方/沖田は、お梅と同衾している芹沢と平山を惨殺する。
・元々試衛館派と水戸脱藩派は肌が合わなかった。天狗党崩れの水戸脱藩派は、狂信的な尊王攘夷派だった。一方天領出身の試衛館派は佐幕派であり、京都守護職・会津藩主松平容保を篤く信頼していた。その意味で、彼らが尊王攘夷の正統派だった。

・彼らが古い武術を身に付けていた事は、マイナスにならなかったのだろうか。例えば千葉周作道場の塾頭・桂小五郎は、池田屋騒動に巻き込まれなかった。彼の参謀となった大村益次郎は蘭学/西洋兵学に通暁するが、日本の武術については無知であった。大村は戦争の勝敗は個人の武技に拠るのではなく、武器の優越や集団的熟練に拠ると確信していた。
・大村と同じ資質を持つ土方が、五稜郭で戦死するのは、彼が剣術の極意を身に付けていたからに他ならない。彼が京都で剣術で成功した事が不幸を招いた。※土方の資質を常に称賛しているが、イマイチ伝わらない。

・土方らが傍若無人に振る舞う芹沢を惨殺した事は、新撰組を強化する上で止む終えない事だった。しかしこれに土方自身が参加した事は、その後の新撰組の運命に大きく関係する。この剣によって安易に解決する方法を過信するようになる。
※以前居合の実演を見たが、凄い迫力だった。戦いは殺すか殺されるかなので、あんな感じになるのだろう。それにしても動物的で超単純な解決法である。

○権力奪取・粛清による組織掌握
・このクーデターで水戸派の平間は逃走する。残る野口は理由は不明だが、年末に切腹している。これにより尊王思想が強い水戸派は全員消される。この粛清を主導したのは、人情家の近藤ではなく、土方であろう。
・新撰組は局長は近藤だけになり、副長は山南/土方となる。多くの隊士が加わったが、「局中法度書」に厳重に従わせたため、隊の統一は強化された。ところが3月に新撰組が結成されて以降、無法振りで人々を震え上がらせたが、「8月18日のクーデター」などでも大した働きはしていない。

○情報戦の勝利、池田屋の変
・元治元年(1864年)7月19日「禁門の変」で勤王激派は敗退するが、一部は京に残り、流言蜚語を流したり、佐幕派を暗殺していた。(※少し時が遡る)会津藩は諸国脱藩浪士の動きを探索していたが、新撰組も土方の指導で探索していた。彼は四条寺町の桝屋喜右衛門が怪しいと見当を付ける。彼は桝屋を壬生に引き立て、拷問を加える。桝屋は「安政の大獄」で処刑された梅田雲浜の親友で、倒幕勤王の志士だった。さらに6月20日前後に御所に放火し、京都守護職を討ち、天皇を長州に移す大密謀を自白する。
・倒幕勤王の志士には、高島秋帆に学んだ宮部鼎蔵/松田重助や、吉田松陰に学んだ吉田稔麿などの優秀な志士もいたが、情熱はあるが地下活動に専念しているため、纏まりがなかった。桝屋の拘束を受け、彼らは急遽、三条小橋の池田屋に全員集合する。

・一方の新撰組は手ぬかりがなかった。隊士の山崎蒸を池田屋に忍ばせていた。そして池田屋の軒下に京都所司代の足軽を乞食に変装させ、山崎からの情報を壬生に伝えていた。新撰組はこれを会津藩に伝え、幕府勢5千人の兵を出動させる。しかし午後10時になっても幕府勢が現れないため、新撰組30人が二手に分かれ、近藤が池田屋、土方が四国屋に向かう。

・池田屋では志士が「壬生屯所を焼打ちにしよう」「クーデターを起こし、一橋慶喜/松平容保を退け、毛利侯を京都守護職にして、攘夷を実行しよう」(※先の自白は嘘らしい)などを決議するが、酒を飲み始める。そこに近藤の手勢が踏み込み、志士は殺されるか逃げた。逃げた志士は、土方の手勢や幕府勢により逮捕される。
・近藤の手紙によれば、新撰組が討ち取り7人/手傷4人/召し捕り23人、会津藩が討ち取り1人/召し捕り4人、桑名藩が召し捕り1人であった。志士で無事だったのは欠席していた桂小五郎だけとされる。

・この6月5日の大捕物は大成功だった。この探査・調査力/決断力/実行力を備えさせたのは、土方だった。この成功に幕府は満悦し、近藤には金30両、土方には金23両など、恩賞を与えている。しかし何故か山南は恩賞を受けていない。

○非情の組織論
・この1ヶ月後、新撰組は「禁門の変」(7月19日)、真木和泉守攻撃(7月21日)でも活動するが、花々しい手柄はなかった。近藤は江戸に戻るが、そこで水戸郷士・伊東甲子太郎、その実弟・鈴木三樹三郎ら8人を採用する。彼らは勤王派だったが、近藤は京の文化に触れ、それに憧れ始めていた。そのため和歌に明るい伊東に惚れ込んだようだ。

・この影響を受けたのが山南敬助だった。同じ副長の土方が実権を握り、床の間の置物にされているのに耐えられなかったのか、脱走する。彼は大津で発見され、壬生に連れ戻される。彼に同情論・宥和論はあったろうが、「局中法度書」に則り、沖田の介錯で切腹する。この後数日、沖田は土方と口を利かなかった。

○恐怖支配の代償
・その直後、新撰組本陣を壬生から西本願寺に移した。また編成を変え、総長・近藤/副長・土方/参謀・伊東甲子太郎とし、以下組長/伍長それぞれ10人とした。土方にしては山南を整理したのに、今度は伊東が現れた。伊東は同じ水戸でも性格破壊者の芹沢と違って、穏やかで弱い者を助け、信望を得た。

・慶応3年(1867年)6月、新撰組は功績が認められ、京都守護職お預かりから幕府直参になる。近藤は600石の旗本、土方は70俵/役料5人扶持となる。近藤は馬に乗り、二条城に出仕するようになる。金回りも良くなって、私邸に住み、妾を数人持つようになった。

・土方も女断ちした訳ではなかったろうが、違反者への情け容赦ない懲罰にエネルギーを注いだ。そんな中伊東一派が、孝明天皇の御陵守りを志願し、新撰組からの分離を図った。これに土方は伊東を酔わせ、惨殺した。死体を引き取りに来た高台寺党(※孝明天皇の御陵守り)4人も殺戮した。
・彼は他にも、スパイ容疑者/あるまじき行動を取った者など20人以上を斬殺している。新撰組の成立過程から、組織の崩壊を避けるには、「局中法度書」を徹底するしかなかった。また敵対する尊王攘夷派が殺人/暴力/陰謀/クーデターを遂行し、現政権を転覆させようとする以上、同様の手段を取るしかなかった。彼らは変革期における戦闘集団であり、また社会情勢は刻々と体制側に不利に向かっており、規律を峻厳するしかなかった。※著者が土方を合理主義と称賛するのは、この点なのかな。

・この規律の厳しさを日本帝国軍と比べて見る。皇軍も徴兵制で集められたバラバラの集団で、それを上司の命令への絶対服従で統制するしかなかった。そこでは平和時(※非戦闘地かな)でも非合理的な規律が強制されたため、小説『真空地帯』のような矛盾が露呈した。新撰組は常に戦闘態勢にあり、強い統制が不可欠だった。そのため違反者には死刑を適用するしかなかった。それは皇軍の第一線でも同様だっただろう。※ノモンハン事件でソ連は、退却する味方の兵を後方から撃ったらしい。
・新撰組も皇軍も規律の厳しさで不純物を排除し、勝利を続けた。しかしそれは狭い範囲でしかなかった。土方は「鳥羽・伏見の戦い」で一敗地に塗れ、「武器は砲でなくてはダメだ。剣・槍は何の役にも立たぬ」と述懐する。

・土方は池田屋騒動でも高台寺党覆滅でも、スパイを活用し情報を集め、一挙に行動していた。ところがこれは狭い範囲での情報に過ぎなかった。既に日本は世界に開かれ、時局は日本の事情だけで判断できるものではなかった。彼は剣技に自信を持ち、これで敵を倒してきた。そのため日本刀を盲信し、西洋近代兵器について知ろうともしなかった。新撰組にも大砲が割り与えられていたが、それを知ろうとしなかった。ところが彼はこれを機に、鎧を西洋のダンブクロに着替え、新しい武器/戦法に切り替える。

○組織に殉じた近代人の悲劇
・江戸に逃げ帰ると、幕府は甲府城を押さえるため、幕臣若干と被差別民200人で「甲陽鎮撫隊」を編成する。隊長は若年寄格の近藤、副隊長は寄合席格の土方であった。若年寄は3万石前後の大名旗本で、寄合席格は3千石以上の大旗本である。甲州を制すれば隊長に10万石、副隊長に5万石が内約されていた。しかし非抗戦を決めた幕府の目的は、彼らを江戸から甲州へ追い出すためと考えられる。
・慶応3年(1867年)3月甲陽鎮撫隊は江戸を発つ。1日目は新宿、2日目は府中、3日目は近藤・土方の故郷日野に泊る。4日目に笹子峠を越えるが、この頃には官軍が甲府城を占領していた。土方は援兵を求め神奈川に向かい、近藤は勝沼で戦うが敗れ、江戸に逃げ戻る。近藤はその後捕らえられ亡くなる。

・土方は新隊員を加え、奥羽でダンブクロ姿で戦うが、負け続け、五稜郭に辿り着く。明治元年(1868年)12月「北海道共和国」が発足し、彼は陸軍奉行並に選出される。翌年5月戦闘中に敵弾を受け、戦死する。生き残れば、榎本武揚/大鳥圭介より大きな事業を成し遂げたかもしれないが、「局中法度書」によって処分した同志に殉じる道を選んだ。

<中江兆民-自由民権の本義を唱えた思想家>
○近代日本の洞察者
・現代社会は明治人をいたく褒める。鎖国政策を取った江戸幕府に対し、明治政府は西欧文明を取り入れ、近代化に全力投球した。しかし彼らは成功するや、封建社会の独裁的な権力者と変わらぬ思想や道徳行動の持ち主になった。それは政界・財界から学門芸術の世界でも同様である。
・それは政界の伊藤博文/山県有朋、財界の渋沢栄一らの伝記を少し覗くだけで察せられる。彼らは日本を軍事的近代化させたが、精神的には絶対天皇制を国民に強制し、自分達は将軍・大名に匹敵する栄耀栄華を尽くし、恥じなかった。学問の世界でも近代科学技術を輸入し確立した学者は、学閥のボスになり、法外の権力を振るった。これらは封建時代と変わらなかった。自由・平等・博愛を叫んだ自由民権主義者でさえ、欽定憲法が定められ議会政治が始まると、権力欲・名誉欲に浮かされ、恥じるところがなかった。※表向きは近代化されたが、内実は封建社会そのままだった。

・議会政治が開始された頃、仏国・英国の議会民主主義をひたすら根付かせようとしたのは、中江兆民だけである。彼は早くから仏国に留学し、仏国大革命の精神を知っていたため、自由党代議士の無能・破廉恥ぶりに落胆し、毒舌で罵倒するしかなかった。そのため彼は奇人・毒舌家とされた。

○幕末の流れの中で
・弘化4年(1847年)中江兆民は土佐藩の足軽の家に生まれる。彼の曾祖父が2人扶持/御切米4石の足軽になり、武士になった。2人扶持は3石6斗余りで、合計7石6斗余りなので藩士では最低クラスである(※郷士かな)。父は江戸藩邸に詰めていたので、母と過ごした。彼は温順謹厚で女児のようで、読書に熱心だった(※省略したが、文字に関心が強かった)。一方弟などがいじめられていると、いたずら坊主をやっつけた。彼が15歳の時父が病死し、足軽を相続する。

・この頃土佐藩では、開国開明派の執政・吉田東洋と尊王攘夷派の武市半兵衛が対立していたが、藩主・山内容堂は吉田を高く評価していた。文久2年(1862年)藩校文武館が創立され、国学・漢学だけでなく洋学も教えた。
・兆民は開校と同時に入学し、蘭学・洋学を細川潤次郎に学ぶ。慶応元年(1865年)彼は細川に推薦され、長崎へ英学修業に出る。当時長崎では坂本龍馬/後藤象二郎/岩崎弥太郎らが活躍していた。彼は龍馬に惚れ込むが、勤王の志士として命を懸けるつもりはなく、平井義十郎に入門し、仏語に熱中した。※これが彼の運命を決めた。でも何で仏語なのか。
・しかしそれに満足せず、江戸出府を岩崎に願うが、拒否される。後藤に願うと金25両を貸してもらえた。後に彼は後藤の葬式に、4人で運ぶほどの生花を送っている。一方晩年彼が生計に苦しんだ時、岩崎に巨額の金銭を送られるが、断っている。

・慶応3年(1867年)彼は江戸に出奔する。この年の12月、徳川慶喜は将軍職を辞し、王政復古する。しかし彼は政治に関心はなく、村上英俊に入門し、仏語を学ぶ。ところが村上塾の語学力を見くびり、深川に流連するようになり、破門される。しかし彼の語学力は十分で、仏国公使ロッシュに随行している。明治2年(1869年)福地源一郎が日新社で英語・仏語を教えるが、彼はその塾頭に就いている。さらに翌年大学南校(東京大学)の大得業主(助教)になり、仏語を教えている。
・ところが彼の望みは、岩倉具視を全権大使とする使節団の海外留学生50余人に選ばれる事だった。そこで彼は最大の政治家と尊敬する大久保利通に接近する。大久保の馬丁と懇意になり、大久保が退庁する時、馬車に忍ばせてもらう。これで大久保邸内に入り、大久保に直談判する。それで彼は司法省出仕になり、留学生に加えられる。※奇跡みたいな事があるもんだ。

○洋行と役人
・明治4年(1871年)兆民は横浜港を出帆し、米国経由で仏国に入る。仏国のリヨン/パリに、1年7ヶ月滞在する。当時パリはナポレオン3世が退位し、パリ=コミューンが崩壊した後で、ティエール/ガンベックの共和政治時代だった。彼は終生、ティエール/ガンベックを理想とする。またパリは享楽主義/デカダンスで、数年前に留学していた西園寺公望と知己になり、酒と女に溺れる。西園寺はルソーに共感し、生涯エピキュリアン(※快楽主義者)になる。
・しかし兆民は放蕩だけでなかった。彼は司法留学生だったが、法律はそっちのけで、歴史・文学・哲学に関心を向けた。最も傾倒したのがジャン=ジャック・ルソーの『民約論』だった。

・明治7年緊縮財政から帰国を命じられる。彼は教師から「優秀な新聞記者になれる」と引き留められるが、帰国する。幸徳秋水によれば、この留学で彼は、「民主共和を崇奉し、支配階級を蛇蝎のごとく忌む」となった。

○兆民の役人ぶり
・彼が帰国したのは、征韓論で西郷隆盛/板垣退助が廟堂から去った後だった。彼は「仏蘭西学舎」を開く(※役人は辞めた?)。板垣が下野し、「民撰議員設立建白書」を提出したため、塾は反藩閥/自由民権の政治的なクラブになった。
・彼は東京外国語学校校長に登用されるが、すぐ辞める。それは彼が漢学・儒学に憧れがあったからだ。彼は後に『民約論』を漢文に翻訳し、『民約訳解』として著述している。

・校長を辞めると、元老院の権少書記官に任命される。世論が二分され、政府の大久保/伊藤と下野した木戸/板垣が大阪で協議し、立憲政体・議会政治を志向する事が決まる。これにより元老院が設立されたのだ。彼の仕事は、諸外国の法制の調査、英仏の憲法・法律の翻訳となった。一方で彼は仏語塾を続けており、『民約論』の漢字片仮名まじりの和文訳が作られると、引っ張り凧になる。
・しかしこの二股を続けるのは難しく、元老院を退職する。ただしその後も、英仏の法律を翻訳し、元老院/司法省に売っていた。

○民権思想の普及と政府攻撃
・彼の反体制は強くなかったが、明治14年(1881年)大隈重信などの自由主義者が排除され、政府が薩長閥政府に変わった事で、反政府側に身を投じる。
・その前年、西園寺公望が帰国している。西園寺は「第1インターナショナル」「パリ=コミューン」などに関心を持ち、急進派のクレマンソーなどとも交際し、急進的自由主義者になっていた。※これは驚き。彼は2度首相に就いている。
・西園寺は帰国すると『東洋自由新聞』の社長に就く。明治14年3月、その第1号を創刊している。兆民はこれに「社説」「祝詞」を執筆し、自由を論説している。その後も寄稿し、自由について論説している。

・政府はその西園寺に対し攻撃を加える。まず「新聞から手を引けば、1等官にする」と餌を見せるが、乗らなかった。次に宮内卿で実兄の徳大寺実則に説得させようとするが、宮内卿が辞退する。次に太政大臣・三条実美が彼に「天皇が心配している。新聞社を辞めるように」と伝える。すると彼は「自由を論じるのは正しい。華族が新聞に関わるのを禁止するのであれば、全市民を対象にしろ」とする抗議文を上奏する。ところが宮内卿より「東洋自由新聞を退社するように」との内勅を受け、退社する。

○東京追放
・明治14年(1881年)10月12日、政変により大隈重信は罷免され、「10年後に国会を開設する」との詔書が発布される。これにより自由民権運動が燃え上がる。10月29日大同団結し、板垣退助を総理とする自由党が結成される。
・しかし兆民はこれに同調せず、『民約訳解』などの翻訳に従事している。彼がなぜ漢文に翻訳したかは疑問が多い。翌年自由党は『自由新聞』を創刊するが、彼は社説掛に就いている。

・しかし政府は直ぐに魔の手伸ばす。板垣退助/後藤象二郎に欧州立憲制視察の外遊を推挙する。板垣はこれに乗り、11月11日外遊に出る。多くの自由党員はあきれて脱党する。板垣/後藤が外遊に出ると、政府は自由党の活動を弾圧する(加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、大阪事件)。これにより自由党は解散する。※笑い話だな。
・兆民は文筆によって啓蒙活動を行い、『三酔人経綸問答』を刊行している。明治19年結婚し、翌年長女が生まれている。この期間は彼にとって穏やかな期間だった。一方で「政府国」などで藩閥国家を罵っている(※本文省略)。

・明治20年、憲法発布を2年後に控え、自由民権運動が再燃する。言論の自由/不平等条約の即時改正/地租軽減の3大問題を建白するため、多くの自由民権の壮士が東京に集まる。12月政府は「保安条例」を公布し、570名を皇城から追放する。これに兆民も含まれ、彼は大阪に移る。

○『東雲新聞』の主筆
・兆民は創刊されて間もない『東雲新聞』の主筆になる。ここでも文明論/国家論/銭湯不潔論などを放言する。彼の月給は50円で、4部屋の居宅に住んだ。そこに政客/商人/壮士/書生が頻繁に訪れた。それには借金を申し込む者も多くいた。
・また彼は非差別部落民(新平民)に接触し、「公道会」を組織している。「身分制度から解放された平民が新平民を差別するようでは、真の平等でない」とする論説「新民世界」を執筆している。

○代議士に当選
・明治22年(1889年)2月大日本憲法が発布される。これと同時に投獄されていた自由民権運動家が解放される。新しい身分制度である華族制が成立し、板垣/後藤は共に伯爵になる。しかも後藤は黒田清隆内閣に入閣する。
・兆民は上京し、自由党の大同団結を試みるが、立憲自由党の成立で終わる。その翌年第1回総選挙で、彼は大阪4区(西成、東成、住吉)で当選する。彼は立候補するつもりはなかったが、大阪のファンが彼を当選させた。国税15円も彼らにより納められた。

○議会に幻滅
・明治23年(1890年)11月第1回帝国議会が開かれる。彼は欽定憲法を点検・改正する考えで、また野党の統一を図ろうとしたが、大隈重信の立憲改進党との合流はならなかった。彼は代議士の演説を聞いて呆れ、3日で出るのを止めた。

・議会では政府が提出した24年度予算(総額8307万円)が審議され、「民力休養」「経費削減」から788万円が減額され、可決する。政府が修正案を出すが、それは否決した(※一旦可決したのに、修正案が提出されるの?)。政府は板垣/林有造/竹内綱/大江卓/片岡健吉/植木枝盛など買収し、立憲自由党員40人を離党させ、3回目の修正案を承認させる。
・兆民は、たまたまこの表決に出たが、党の機関紙に「無血蟲の陳列場」を書き、政府の顔色を窺う議会を批判した。彼は辞職願いを提出し、代議士を辞する。

○実業の失敗と晩年の大著
・彼は「鉄面厚顔の藩閥と論議しても効果はない。政党員は貧困なので、権力者富豪に従うしかない」と失望する。彼は北海道に行き、『北門新聞』の主筆になったり、紙問屋を開業するが潰れる。明治26年(1893年)から2年間で、北海道山林組/毛武鉄道/川越鉄道/京都パノラマ/中央清潔会社/吾妻鉄道/某鉄工所/東亜石油などを興すが、儲けが出れば人に譲り、損失だけを背負った。そのため衣類・蔵書を売り払う事になる。

・明治34年3月大阪で倒れる。診察の結果、喉頭癌とされ、余命1年半と宣告される。彼は『一年有半』を刊行し、伊藤博文/大隈重信/山県有朋など政界の名士を痛烈に批判する。さらに無神論を展開した『続一年有半』を刊行する。この正編が20万部、続編が十数万部と売れ、福沢諭吉の『学問のすゝめ』と並ぶものになった。この著書がなかったら、彼は山師で終わっただろうが、これにより、自由民権主義者/近代合理主義者/無神論者として名を馳せる事になった。

・余命宣告から8ヶ月後、彼は喉頭癌ではなく食道癌で亡くなる。告別式が青山斎場で行われ、板垣退助/林有造/片岡健吉/大井憲太郎/頭山満など500人が集まるが、その大半は彼を裏切り、彼に苦汁を飲ませた人達だった。
・彼の跡を継いだのは、土佐出身で書生として住み込んでいた幸徳秋水である。兆民が自暴自棄に実業界をうろついていた時、幸徳は社会民主党を立ち上げている。
※中江兆民については、ほとんど知らなかったので良かった。

<あとがき>
・私(著者)は幕末維新に興味を持っていたが、西郷隆盛/山県有朋/坂本龍馬などは避け、「翳に入った人」に注目してきた。本書ではその様な、大舞台に立ったがパットせず、消え去った人物を書いた。
・本書を書く時、他の伝記などを読んだが、自分の推察・想像で文学的な作品に仕上げた。一旦書き下ろしたものを加筆訂正し、本書に編集した。

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