『大大阪の時代を歩く』橋爪紳也を読書。
明治から戦前の大阪を紹介している。
大阪について疎いので、地図を頻繁に見ながら読んだ。
大阪発展の変遷を知れて良かった。
3章に分かれているが、第3章は苦手の文化だった。
お勧め度:☆☆(大阪について余り知らない人)
内容:☆☆☆
キーワード:<大大阪の時代>愛市精神、生産の都、都市美、都市格、<堀の開削で発展した「水都」>堀川、<大阪を首都にする計画があった>遷都、居留地、<貨幣鋳造機関>造幣寮、<東洋最大の兵器工場>砲兵工廠、<第5回内国勧業博覧会>新世界/天王寺公園、<東洋一の大桟橋>大阪築港、<都市ガスの供給が始まる>大阪瓦斯、<大阪で一番有名な橋>心斎橋、<遊園地ルナパーク>新世界、通天閣、<砂地がリバーフロントに>中之島、<米騒動がきっかけ>中央卸売市場、<五代友厚><誰でも使える中央公会堂>岩本栄之助、<大阪経済の中心地>北浜/大阪株式取引所、<関一>都市計画、<大大阪時代始まる>市庁舎、市域拡張、<大阪城天守閣><日本初の公営地下鉄>御堂筋線、<大阪最初の美術館>市立美術館、<商業施設と融合した大阪駅>駅ナカ、<大阪の大動脈の完成>御堂筋、受益者負担、<日本初のプラネタリウム>市立電気科学館、<司令部は市民の寄付で>第4師団司令部、<美しき浪華三大橋>難波橋/天神橋/天満橋/淀屋橋、<関西の私鉄は独自路線>大阪電気軌道、阪神急行電鉄、京阪電気鉄道、南海電気鉄道、阪神電気鉄道、<小林一三>阪急、宝塚、<市電、青バス、銀バス、円タク><電車に乗って郊外へ>レジャー、<大新聞は大阪から>朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、<あきんどが大阪経済を支える>船場、丁稚、<大海へ、大空へ>造船所、飛行場、<近代紡績工業>沖縄、大正区、<大阪のコリアタウン>鶴橋市場/御幸通商店街、生野区、<天下の台所、食い倒れの街><素人興行師が三流の寄席から急成長>吉本興業、文芸館<吉本せい><ミナミへの進出で大阪を制する>南地花月、通天閣、<横山エンタツ、花菱アチャコ>漫才、<活動写真/ジャズ/カフェが芝居通りを席捲>道頓堀、松竹、<中村鴈治郎、片岡仁左衛門><人形浄瑠璃専門劇場>文楽、<日本映画興行発祥の地>上映館、映画撮影所、<織田作之助が愛した街ブラ>法善寺、<巨大遊園地>市岡パラダイス、<両国国技館の2倍以上を動員した大阪相撲><遊郭は200万人の心をつかんだ>松島遊郭、<大正近代アート>飛田遊郭、<波乱の幕開けを遂げたJOBK>日本放送協会、<御堂筋に先行して商業を支えた>堺筋、百貨店、<吉本興業とNMB48の総本山>千日前、楽天地、大阪歌舞伎座、<商店街は時代と共に変化>心斎橋筋、<呉服系百貨店の先駆>三越、<ネオ・ゴシック+アールデコ様式>大丸心斎橋店、<心斎橋から長堀橋へ>高島屋長堀橋店
<はじめに 大大阪の時代-愛市精神/都市美/都市格>
○大大阪の時代の誕生
・1925年(大正14年)4月、大阪市は鶴橋町/生野村/天王寺村/住吉村/今宮町/中津町/豊里村/伝法町など、44町村を合併する。旧市域を8区、合併した市域を5区に再編する。人口は139万人から203万人になり、東京を凌ぎ、世界第6位の都市になる。大阪は「大大阪」となり、市民の愛市精神を刺激した。
○愛市精神が生み出す「生産の都」
・この大合併を主導したのが関一である。彼は『大阪毎日新聞』に「初年度は緊急を要する施設の改善に留めるが、翌年からは新事業を始める」と語る。この新事業に、農地・未利用地の住宅地転用が含まれていた。
・彼は大阪を「生産の都」にする構想があり、「旧東成郡/旧西成郡/新淀川以北は工場建設に最適である。大阪を工業都市化し、『生産の都』にする」と語った。大阪は商業都市だったが、これを工業化するのが、市の幹部/市民の理想となった。
○都市美、都市格
・大大阪の骨格を作ったのが都市計画である。40路線の整備/80橋梁の架け替え/公園の整備/運河の開削が行われた。特に注目されたのが幅24間の「廣路」(御堂筋)の拡張である。工費の一部は近隣住民が負担した。大阪駅前/御堂筋/中之島は「美観地区」に指定され。「都市美」が創出された。また煤煙防止/都市緑化も「都市美」とされた。「都市格」も求められ、文化面での充実も図られた。
○大大阪を歩く
・本書は「大大阪の時代」の熱気を伝えるために刊行した。各項目は専門のライターが分担している。愛市精神/都市美/都市格を感じて欲しい。※本書は建設に多少詳しい。
第1章 「大大阪」誕生物語-1868~1945年
<堀の開削で発展した「水都」>
○徳川幕府が整備した水路と八百八橋
・豊臣秀吉は大坂を首都にし、堀の掘削を始めた。徳川幕府も大坂を直轄領にし、それを引き継いだ。堀で排水を行い、掘削した土砂で土地を造成した。当然堀は水路となった。こうして南北に流れる東横堀川/西横堀川、東西に流れる江戸堀川/長堀川/堀江川/道頓堀川などが掘削された。この水路により、「天下の台所」は支えられた。
○新旧の様子が入り混じる明治初期
・明治維新により大阪の勢いは止まるが、伊藤忠兵衛による新規事業などで盛り返す。1882年(明治15年)の地図が残っている。その頃は住吉大社のそばまで海がきていた。秀吉が立ち寄った天下茶屋も観光地だった。西横堀川と長堀川が交差する地点が「四ツ橋」で、当時は四つの橋が架かっていた。1870年東横堀川に架かる高麗橋が架け替えられる。これは大阪で最初の鉄橋だった。※東横堀川の上に高速が走っているので、日本橋と同じ様子だな。橋の東側に里程原標もある。
<大阪を首都にする計画があった>
○大久保利通は大阪都構想を提案した
・1868年(慶応4年)1月「鳥羽伏見の戦い」で官軍が幕府軍を破る。その直後、大久保利通が閉鎖的な京都から大阪への遷都を提案する。しかし公家の反対で、西本願寺津村別院への行幸だけになる。
・同年7月江戸は東京に改名され、9月天皇は東京に出発する。これも遷都ではなく行幸として行われた。しかしそのまま東京に居着き、首都と周知される。
○2.6万㎡の大阪の出島
・米国は大阪の開港を強く要望していた。1868年(明治元年)7月大阪は開港される。それに合わせ西区川口に2.6万㎡の外国人居留地が作られる(※長崎の出島だな)。街灯が立てられ、洋館が立ち並び、ここから洋服・洋食などの欧米文化が大阪に広まる。1874年木津川の対岸に洋風の大阪府庁舎が作られ、一帯は西洋都市そのものになる。
・しかし大阪港は河川による堆積で大型船の着岸が困難になり、取引は神戸港に移る(※堺と一緒だな)。居留地も神戸に移るが、川口は大阪女学院/プール学院などキリスト教系学校の発祥地になる。
<世界最大規模の貨幣鋳造機関>
・大阪市造幣局は、1883年(明治16年)より「桜の通り抜け」として親しまれている。1868年(明治元年)淀川の水運を利用できる北区天満に「造幣寮」を作る事が決定する。1870年竣工し、広さは現在の2倍の18万㎡だった。洋式の近代工場で、硫酸/ソーダなどを作る設備も作られた。これが大阪近代化の礎となる。
<東洋最大の兵器工場>
・造幣寮と同様に明治政府により作られた施設に砲兵工廠がある。1870年(明治3年)大阪城三の丸(現大阪ビジネスパーク)に設置された。1916年(大正5年)約3万人の工員が働いており、東洋最大だった。
・砲兵工廠から、桑田権平(日本スピンドル製造)/山田晁(ダイキン工業)などの優秀な技術者が生まれている。終戦前日の空襲により建物は残っていない。
<第5回内国勧業博覧会>
○博覧会は殖産興業の場
・1877年(明治10年)政府の勧業政策により、第1回内国勧業博覧会が上野公園で開かれる。この時、美術本館/農業館/園芸館/動物館/機械館が建てられる。第2回/第3回は同じく上野公園で開かれ、第4回は京都の岡崎公園で開かれる。1895年京都の博覧会は広さ17万㎡で、113万人が訪れた。※順序は博覧会が開かれた後、岡崎公園/平安神宮になったのかな。
○面積は2倍、来場者は4倍
・1903年第5回内国勧業博覧会が大阪で開かれる。この頃日清戦争の勝利で、産業革命が進行していた(※賠償金を得たからな)。第1会場が天王寺公園/第2会場が大浜公園(堺)で、面積は2倍、来場者は430万人で4倍になった。これは万国博覧会の誘致が目的にあった。
・農業館/林業館/水産館/工業館/機械館/美術館/通運館/動物館/台湾館/参考館などが建てられた。米国の自動車など、これまで認められなかった外国の産品も陳列された。建物全体が冷蔵庫となったものや水族館も建てられた。
・政府はこれまで、博覧会の娯楽性を否定しており、時代祭/花火/奏楽/イルミネーション程度だった。ところが第5回では、河内音頭/相撲興行/能楽会などの余興、動物園、メリーゴーランド、エレベーターのある展望台などが設置された。中でも人気だったのが、茶臼山に設置されたウォーターシュート「飛艇戯」だった。会場の跡地は新世界/天王寺公園になっている。
<東洋一の大桟橋>
・大阪湾は安治川/木津川から土砂が流れ込んだ。そのため1831年(天保2年)河底の土砂を取り除き、天保山を作った(※それで天保なのか。初めて知った)。これらの問題から、1903年(明治29年)オランダ人技師により、幅27m/長さ454mの大桟橋が竣工する。当初は大型船の来航は少なく、魚釣り/納涼の観光地だったが、第1次世界大戦の頃になると貿易が盛んになり、1938年(昭和13年)に貨物取扱量が日本一になる。※築港って地名なんだ。
<都市ガスの供給が始まる>
・1897年(明治30年)大阪瓦斯株式会社が設立され、木津川と尻無川に挟まれた九条村字寺島(西区千代崎)にガス工場が作られる。1905年ガスの供給が始まり、近隣のガス灯が点された。当時はガスに抵抗があり、ガスの8割がガス灯に使われた。巨大なガスタンクはランドマークになった。
<大阪で一番有名な橋>
○最初は幅4mだった
・「大坂の陣」の時、商人・岡田心斎らが徳川方に味方する。しかし彼らは武器の調達に財産を使い過ぎ困窮する。そこで徳川秀忠は彼らに大阪の復興を任せる。彼らは6年を掛け、長堀川を掘削し、そこに架けられたのが、長さ35m/幅4mの心斎橋だった。当然木橋で、その後何回も架け替えられている。
○近代的な眼鏡橋に
・明治になると新町/道頓堀が栄え、1873年(明治6年)心斎橋が大阪で2つ目の鉄橋に架け替えられる。1909年市電敷設のため鉄橋は石造りのアーチ橋に架け替えられる。形状から「眼鏡橋」と愛称され、付近を散策する事は「心ブラ」と呼ばれた。
・1962年長堀川が埋め立てられ、心斎橋も撤去される。ただし欄干/ガス灯などが歩道に残されている。また元の鉄橋は、鶴見緑地公園に「緑地西橋」として残る。※150年使われ続けているのか。
<遊園地ルナパーク>
○内国勧業博覧会を機に生まれ変わる
・1903年(明治36年)第5回内国勧業博覧会が天王寺公園で開催される。その一部が通天閣を中心とする新世界と云う繁華街になている。市は博覧会のために買い上げた土地を、民間に売却する。それは、①市街化を促進する、②売却で得たお金で公園を整備するなどの目的があった。
○パリとニューヨークの融合
・1912年(明治45年)通天閣は完成する。通天閣はパリのエッフェル塔をモチーフにしており、下部は凱旋門のようになっている。最初の通天閣は戦争により軍部に供出され、今の通天閣は1956年(昭和31年)に再建されたものである。
・新世界は通天閣を境に南北に分かれている。北半分は通天閣から3本の道(恵比寿通、玉水通、合邦通)が放射状に伸びている。南半分は米国ルナパークを模して遊園地が作られた。そこに様々なアトラクション設備(サークリングウェーブ、ホワイトタワーなど)が作られた。
<砂地がリバーフロントに>
○蔵屋敷の半分が存在
・堂島川/土佐堀川に挟まれた中州が中之島である。ここには日本銀行大阪支店/大阪市立科学館/中央公会堂/中之島公園など、様々なものがある。この中之島を開拓したのが淀屋常安である。彼は「大坂の陣」で徳川に味方し、米市場の開設と中之島の開拓を許される。大阪には蔵屋敷が89あったが、36が中之島にあった。
・明治になると豊国神社の別社が作られ、西洋風のレストランや日本料理店などが開業する。※他に様々な施設が紹介されているが省略。
○日本初の水上公園
・1899年(明治32年)中之島公園が開園する。この頃には公会堂や住友吉左衛門が寄付した大阪図書館があった。中之島東端の中之島公園には、グラウンド/バレーボールコート/バスケットボールコート/相撲場が作られ、桜/ツツジなども植えられた。今は3700株のバラが植えられている。
<中央卸売市場は米騒動がきっかけ>
・大阪中央卸売市場は福島区にあり、水産物/野菜/果実などの食を流通させている。明治時代は天満青物市場/江戸堀・京町堀雑喉場市場(※雑魚と同意みたい)など40の卸売市場があった。ところが第1次世界大戦で物価が高騰し、1918年に全国で米騒動が起きる。その4ヵ月前、大阪市は天王寺/谷町/境川/堂島に公設市場を設置し、小売価格を適正化しようとするが、機能しなかった。そこで近代化した卸売市場を開設する事になり、1931年(昭和6年)福島区野田に中央卸売市場が完成する。
<コラム 五代友厚>
・1838年(天保7年)五代友厚は薩摩に生まれる。彼の父は島津斉彬から世界地図の複写を任され、彼がその作業を行った。彼は2枚複写し、1枚を自分の部屋に置いた。1865年(慶応元年)英国に留学するが、そこで武器/紡績機械を買い付けている。※面白い話だな。
・1867年新政府は総裁/議定/参与を置くが、彼は西郷隆盛/大久保利通/小松帯刀などと共に参与に選ばれる。外国への見識から、外国官権判事/大阪府判事に就く。大阪港開港/造幣寮誘致・建設を手掛ける。1869年会計官権判事/横浜転勤を命じられるが、それを断り退官する。
・彼は実業家になり、鉱山経営/活版印刷所などを始める。阪堺鉄道(南海鉄道)/大阪商船などを起業し、大阪株式取引所/大阪商法会議所(大阪商工会議所)/大阪商業講習所(大阪市立大学)を開設する。※「西の五代、東の渋沢」だな。
<誰でも使える中央公会堂>
○中之島のシンボル
・北区中之島の中央公会堂は赤レンガの洋風建築物で、大阪を代表する建物だ。大集会室ではヘレン・ケラー/ガガーリンなども講演している。
○50億円を寄付
・これを建てたのが「義侠の相場師」と呼ばれた岩本栄之助である。1877年(明治10年)彼は両替商岩本商店の次男に生まれる。1906年家督を継ぎ、大阪株式取引所の仲買人になる。
・彼は「利益は周りに還元する」と考えており、株価暴騰の中でも、知り合いに頼まれると、売りに回った(※詳しく紹介されているが省略)。1909年渋沢栄一の実業視察団で渡米し、富豪の慈善事業を見て、この考え方はさらに強まる。帰国すると大阪市に100万円(今の50億円)を寄付する。これにより中央公会堂の建設が始まり、1918年竣工する。
・しかし岩本商店は経営不振になり、相場師に復帰するが、それも失敗する。1916年39歳の時、拳銃自殺する。※悲しい話だな。
<大阪経済の中心地>
・江戸時代、堂島に米会所があり先物取引が行われた。投機目的で取引する者が現れ、彼らは相場師と呼ばれた。北浜には金相場会所があったが、ここも相場師で賑わった。1883年(明治16年)ここに大阪株式取引所が建設される。2004年(平成16年)建て替えられるが、正面玄関などが残されている。※堂島川の北に堂島、南に北浜がある。
<コラム 関一>
・大大阪を語る上で、第7代大阪市長・関一を忘れてはならない。1873年(明治6年)彼は静岡県に生まれる。1893年高等商業学校(一橋大学)を総代で卒業し、大蔵省に入省するが、翌年には教職に就き、1897年母校の教授に就く。翌年ベルギー/ドイツに留学し、都市政策/社会政策を学ぶ。
・大阪は都市化が進んだが、住宅問題・環境問題があった。1914年(大正3年)彼は大阪市助役に招かれ、1923年第7代市長に就く。彼は都市計画に力を注ぎ、御堂筋/地下鉄/公園などを整備した。
<人口・面積で東京を抜き、大大阪時代始まる>
○当時最も高かった新市庁舎
・最初の大阪市庁舎は江之子島の府庁舎内にあり、府知事は市長を、府の職員は市の職員を兼任した(※そんな事があり得るの?)。1898年(明治31年)この状態が解消され、初代市長が誕生し、市庁舎は別棟として建てられる。1912年堂島浜に市庁舎が建てられるが、手狭になり、1921年(大正10年)中之島に3代目の市庁舎が建てられる。この建物はルネサンス様式で、塔屋の高さは52mあり、大阪市で最も高かった。
○225万人の日本一の都市
・当時大阪は工業化で人口が増大した。そのため市長・関(1923年就任)は、第2次市域拡張を目指す。1925年4月1日第2次市域拡張が始まり、西成郡/東成郡の44町村を合併する(※第1次市域拡張の説明はなかった)。面積は15㎢から181㎢(約13倍)に拡張され、人口は225万人で214万人の東京を抜き、世界第6位になる(※「はじめに」では203万人)。これが大大阪時代の始まりである。※大大阪時代は昭和と共に始まった感じだな。
<大阪城天守閣は市民の寄付による>
○2代目大阪城は徳川家康が築いた
・1583年豊臣秀吉は石山本願寺の跡地に大阪城を築き始める。面積は420万㎡で、現在の大阪城公園の4倍だった。しかし1615年「大坂夏の陣」で落城する。1620年徳川家がその大阪城に盛り土し、2代目大阪城を築き始める。しかしこの天守閣も、1665年落雷によって焼失する。それ以降天守閣は再建されなかった。※当時避雷針はあったのかな。
○半年で750億円の寄付
・1928年(昭和3年)大阪市長・関は昭和天皇即位記念事業として大阪城公園の設立を提案し、150万円(今の750億円)の寄付を募る。当時景気は良くなかったが、市民はそれに応じた(1929年世界恐慌、1931年満州事変)。大口寄付者に住友財閥3代目・住友吉左衛門(25万円)、三菱財閥4代目・岩崎弥太郎(5万円)などがいる。大阪城には陸軍第4師団司令部があったため、寄付金の半分を天守閣の建設、半分を司令部の新庁舎の建設に充てた。
・1931年3代目天守閣は竣工する。高さ54.8mで、街のどこからも見えた。また天守閣内部は博物館になっている。1959年豊臣秀吉時代の石垣が発見され、今はサイト「豊臣石垣公開プロジェクト」が運営されている。
<日本初の公営地下鉄>
○高架か地下鉄か
・1882年(明治15年)東京で馬が牽引する路面電車が開業する(※これは電車かな)。1903年大阪でも路面電車の建設が始まる。しかし交通需要に追い付いて行けず、1920年高速鉄道の敷設が計画される。ここで議論になったのが、「高架か、地下鉄か」である。当初は安価な高架が優位だったが、1923年関東大震災で「地下鉄の方が被害が少ない」となり、地下鉄案が可決される。
○梅田-心斎橋間が開通
・1930年(昭和5年)地下鉄の工事が始まる。しかし当時はシールドマシンはなく、鋼矢板を打ち込み、露天掘りした。鋼矢板の打ち込みで家屋は傾き、地下水は枯れた。この地下鉄は堂島川/土佐堀川/長堀川/道頓堀川の下を潜るため、川をそれぞれ堰き止め工事した。1931年土佐堀川を堰き止めていた鋼矢板が決壊する事故があった。また鉄筋工のストライキもあった。※大変な工事だな。鋼矢板の長さは相当いるのでは。
・1933年仮の梅田駅-心斎橋駅間が開通する。開業式典には2千人が招待され、初乗りには6.5万人が詰め掛けた。
・当時の電車は1両だったが、各駅のホームは8車両分もあった。1935年正式の梅田駅が開業し、難波駅まで南進する。こうして地下鉄御堂筋線は大阪の大動脈になる。
<大阪最初の美術館>
・1919年(大正8年)陸軍演習に天皇が行幸し、大阪市に3千円が下賜される。市長・池上四郎はこれに100万円を加え、美術館の建設を提案する。問題は用地だったが、住友家15代・住友吉左衛門(※さっきは住友財閥3代目)が旧本邸や庭園「慶沢園」など1万坪の寄付を申し出る。世界恐慌などにより工事は度々中断し、1936年(昭和11年)大阪市立美術館が開館する。1979年大改修されるが、慶沢園はそのまま残されている。
<商業施設と融合した大阪駅>
○2792万人を受け入れる玄関口
・梅田にある大阪駅は現在1日で42万人の利用がある。南北の駅舎は商業施設が入った駅ビルになっている。1872年(明治5年)日本最初の鉄道(新橋-横浜)が開通する。関西では1874年大阪-神戸間が開通する(※たったの2年遅れか)。初代の大阪駅は田園であった曽根崎村(現大阪中央郵便局、※現大阪駅の少し南かな)に作られる。レンガ作りの2階建てで、「梅田ステーション」と呼ばれた。
・1877年大阪-京都間も開通し、1889年東海道線が全線開通し、大阪駅は関西の玄関口になる。旅客数は、1887年597万人から、10年後には2792万人に増大する。輸送貨物も、58万トンから158万トンに増える。そのため拡張する必要から、1899年初代大阪駅の東200mの場所に2代目大阪駅が作られる。駅舎は洋風建築で、日本銀行大阪支店/泉布観(造幣寮の応接室)と共に大阪三大名所となった。
○駅の高架化で駅ナカが誕生
・1914年第1次世界大戦により輸送量はさらに増え、駅を拡張する必要が出てくる。1928年都市計画「大阪駅付近都市計画事業」として纏められ、上淀川橋梁-下淀川橋梁間を高架化する計画だった(※実際は?)。1940年仮営業を始めた3代目駅舎には、荷物預かり所/旅行用品店/みやげ物店などの商店が作られた(駅ナカ)。また駅前広場は自動車を意識して設計された。※正式な3代目駅舎は作られたのか?
<大阪の大動脈の完成>
○道幅を7倍に
・御堂筋は梅田-難波を結ぶメインストリートで、イチョウ並木が美しく、冬はイルミネーションされる。その御堂筋は、幅広い道路ではなかった。1923年(大正12年)関一が大阪市長に就任する。彼は都市計画を進め、道路・運河・鉄道・公園などを整備する。当時の御堂筋は全長1.3Km/幅6mだったが、全長4.3Km/幅43.6mへの拡張を提案する。
○御堂筋以外の名称は許さない
・用地の買収に3千万円(今の100億円)が使われる。これは工事予算の90%に当たる(※総予算の90%が用地買収費で10%が工事費なのか。それとも工事費が3.3千万円で、用地買収費が3千万円なのか)。ところが景気が悪く、国の支援が得られなかった。そこで関は、開通により利益を得る沿道の地主に「受益者負担金」を求めた。1930年用地買収が終わり工事に取り掛かり、1935年地下鉄御堂筋線が開通し、2年後御堂筋が開通する。※地下が先で地上が後になる。
・この御堂筋は天皇の行幸を記念しているため、「御幸通り」となる可能性があった。ところが彼が「大阪の道路は、南北が『筋』で、東西が『通り』である」「西本願寺津村別院(北御堂)と東本願寺難波別院(南御堂)から土地を譲渡されている」とし、御堂筋となった。
・御堂筋はイチョウ並木が美しい。また建物の高さは100尺(30m)に制限され、電線は地中化され、歩道には街灯が設置された。※それで7~8階のビルが多いのかな。
<日本初のプラネタリウム>
・北区中之島に大阪市立科学館があり、科学を身近に感じさせるサイエンスショーなどが行われている。1923年(大正12年)大阪市は大阪電灯株式会社を買収し、市が電気供給を管理する。市は電気普及のため、九条の局所に「電気普及館」を設置し、適正価格で電気器具を販売する。1937年(昭和12年)天象館/電力電熱館/照明館などからなる電気科学館が完成する。また世界に24台しかなかったプラネタリウムも導入される。※電気科学館の場所は九条ではなく中之島かな。
<司令部は市民の寄付で>
・大阪城天守閣の前にあった第4師団司令部は戦後占領軍に接収され、大阪市警視庁(?)になり、大阪市立博物館になり、2001年(平成13年)大阪歴史博物館になるが、2017年閉館する。今後はレストラン/ショップなどの複合施設になる予定である。※商業重視だな。
・明治になり大阪城は軍が占有していたが、1928年(昭和3年)昭和天皇記念事業として天守閣の復興が提案される。市民の寄付金により、第4師団司令部が建設される。1940年第4師団司令部は二の丸に移り、中部軍が司令部を使用する(※師団とは別に中部軍が編成されたみたい)。1945年3月13日大阪は大空襲を受け、焼け野原になる。これを機に大大阪時代も終焉に向かう。
<こぼれ話 「なにわ」の意味>
・大阪は「なにわ」と呼ばれ、「難波」「浪速」などと書かれる。かつて大阪平野は河内湾で、そこに上町台地が伸びていた。上町台地周辺は波が速く、浪速になったと云われている。他に魚が多く獲れたため、「魚(な)庭」となったとの説もある。
・淀川/大和川が海にそそぐ場所に多くの砂州が作られ、「難波八十洲」と呼ばれた。そこの港は「難波津」と呼ばれた。※上町台地の先端にあった難波津は、古代の国際貿易港だった。
※大大阪が始まるまでの経緯が理解できた。主要な建物は淀川(大川、堂島川、土佐堀川、安治川、木津川)に隣接し、メインストリートは御堂筋かな。
第2章 現代に残る「大大阪」の息吹
<美しき浪華三大橋>
○浪華の八百八橋
・大阪は「浪華の八百八橋」と呼ばれる。しかし現在橋の数では、東京3800、京都2300、大阪800である。ただし橋の総面積は東京の7割もあり、京都は大阪の1/3しかない(※大阪の橋1本の面積は東京の約3倍、京都の約9倍ある)。江戸の橋は半分が「公儀橋」だが、大阪は難波橋/天神橋/天満橋など12しかない。要するに他の橋は、商人が架けた「町橋」なのだ。それが「浪華の八百八橋」の由縁だろう。
※浪華の八百八橋は以下が参考になる。
国土交通省:https://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/commu/road_dat/bridge.html
○三大橋と淀屋橋
・大川(旧淀川)に架かる難波橋/天神橋/天満橋は「浪華三大橋」と呼ばれる。大阪の夏は暑く、昔から人々は大川で夕涼みしました。
・難波橋は難波橋筋(堺筋の一つ西)に架かっていたが、1915年(大正4年)都市計画により堺筋に架け替えられる。美観を高めるため特別な意匠が施され、親柱にはライオンの像が鎮座している。
・1885年(明治18年)大阪を大洪水が襲い、天神橋/天満橋など多くの橋が流された。そのため1888年天神橋/天満橋などは鉄橋で架け替えられる。さらに大正後期から始まる第1次都市計画により、天満橋は1934年(昭和9年)、天神橋はその翌年に架け替えられる。天神橋を北上すると「日本一長い商店街」とされる天神橋筋商店街に至る。天満橋は上に車道橋がある二重構造になっている。
・また御堂筋には淀屋橋が架けられている。これも1935年に架け替えられた近代橋です。周囲に市役所などがあり、ビジネスマンが闊歩している。
<関西の私鉄は独自路線>
○時代に先駆けた2つのターミナルデパート
・大阪の私鉄は、国鉄や他の私鉄に対抗心を燃やした。1910年(明治43年)大阪電気軌道(大軌、近畿日本鉄道)は大阪と奈良を結び開業する。1926年(大正15年)大阪側の起点・上本町に7階建ての「大軌ビルディング」を建てる。地下1階から地上3階に三笠屋百貨店が入った。
・1920年阪急(阪神急行電鉄)の創始者・小林一三は、白木屋と提携し、梅田駅の阪急ビルの1階にマーケットを開業する。1925年これに成功したため、直営の「阪急マーケット」を開店する。さらに1929年5階建てを8階に改装し、「阪急百貨店」を開店する。
○京阪/南海/阪神が巨大ターミナルを建設
・1906年京阪電気鉄道が設立される。1925年その傘下の新京阪鉄道が大阪側のターミナル・天神橋駅を設置する。ここは天神橋筋商店街の北端で、天六と呼ばれる場所だ。翌年ここに7階建ての「新京阪ビルディング」を建てる。2階がホームで、5階以上はオフィスであった。
・1885年阪堺鉄道(南海電気鉄道)が開業する。その起点は難波駅で、1932年8階建てのターミナルビル「南海ビルディング」を建てる。テナントには「高島屋」が入り、東洋で最大級の百貨店になった。※日本の百貨店は上海生まれで、大丸が開業している。
・1899年摂津電気鉄道(阪神電気鉄道)が設立される。今は阪急阪神ホールディングスになったが、戦前両社は激しく競っていた。1937年阪神が「大阪駅前に百貨店を建設する」と発表し、阪急が猛反対する。結局戦争で規模は縮小される。そして1963年念願の「大阪神ビル」が完成する。
<コラム 小林一三>
・小林一三は「箕面動物園唱歌」「箕面電車唱歌」などを作り、小学校に配った。斬新なプロモーションである。1873年(明治6年)彼は山梨県に生まれる。慶応義塾を卒業し、三井銀行に入社する。彼は文学青年で、小説家/新聞記者になりたかった。1907年三井銀行を退社し、「箕面有馬電気軌道」の設立に参画する。当時は田園で「電車を通しても誰も乗らない」と不安視された。しかし彼は「この郊外に住宅地を作り、居住者を大阪に運ぶ」との信念を持っていた。
・1910年彼は箕面に動物園を開園する。翌年「宝塚新温泉」(宝塚ファミリーランド)を開設する。屋内にプールを設けるが、温水でないため直ぐに閉鎖された。それが劇場になり、「宝塚歌劇」を生んだ。※有名な話だな。
<市電、青バス、銀バス、円タク>
・大阪には路面電車の市電(大阪市営電気鉄道)が走っていた。1903年9月全国初となる市電、花園橋-築港桟橋間(5Km)が開業する。同年第5回内国勧業博覧会が開催されたが、それには間に合わなかった。その後延伸され、1957年最後の開通により総路線114Km/車両555両になる。
・バス/タクシーも台頭する。1924年(大正13年)大阪乗合自動車が「青バス」の運行を始め、1927年大阪市営バスが「銀バス」の運行を始める。この頃市内1円均一の「円タク」も登場した。
<電車に乗って郊外へ>
○南海/京阪が作った賑わい
・電車に乗って郊外へ遊びに行くレジャーが生まれる。その代表が堺市の浜寺だ。1906年(明治39年)南海鉄道(南海電気鉄道)/大阪毎日新聞が「浜寺海水浴場」を開設する。海上ブランコ・シーソー/海上ステージなどが整備され、年60~70万人が訪れた。
・枚方市に京阪電気鉄道が運営する「枚方遊園地」(ひらかたパーク)がある。これは1910年に開園した寝屋川市の「香里遊園地」が前身である。枚方遊園地では菊人形展が開かれた。
○阪急/阪神/近鉄による娯楽施設
・沿線開発のモデルが箕面有馬電気鉄道(阪急電鉄)である。1911年「宝塚新温泉」を開き、多くの人出をもたらした。その後劇場/遊園地/動物園を拡充し、1960年(昭和35年)「宝塚ファミリーランド」と改称する。
・阪急・宝塚に対抗したのが阪神・甲子園だ。1932年阪神電気鉄道が、動物園/遊園地/演芸場からなる「浜甲子園阪神パーク」を開業する。しかし宝塚ファミリーランドも浜甲子園阪神パークも2003年閉園する。
・近鉄沿線には大阪電気軌道(近畿日本鉄道)が開園した「あやめ池遊園地」(奈良市)/「生駒山上遊園地」(生駒市)がある。前者は1926年(大正15年)、後者は1929年に開園している。あやめ池一帯は花菖蒲の名所で、大軌は菖蒲池駅を新設した(※アヤメ、花菖蒲、菖蒲は別の草木のはず)。生駒山の標高は642mで、その頂上に「飛行塔」がある。※軌道はどこを通っていたのか。こちらが気になる。
<大新聞は大阪から>
○朝日/毎日/産経
・現在、読売新聞/朝日新聞(朝日)/毎日新聞(毎日)が三大紙である。朝日/毎日、さらに産経新聞(産経)が大阪で誕生している。1879年(明治12年)朝日新聞は創刊される。数年後、通俗・雑報から「公平無私」の報道に転換する。1888年「めさまし新聞」を買収し、東京朝日新聞を創刊する。翌年朝日新聞を大阪朝日新聞と改題する。1916年中之島に鉄筋コンクリート造り4階建ての新社屋を竣工する。1926年6階建ての朝日会館が完成し、文化の発展に貢献する。1931年アイススケート場などを備える大阪朝日ビルが完成する。これらの建物で中之島はモダンなオフィス街になった。※存在感あるな。
・1888年大阪毎日新聞が創刊される。その前身は「日本立憲政党新聞」「大阪日報」である。1922年堂島に5階建ての自社ビルを建設する。その2年後、朝日を抜いて111万部を発行している。
○夏の甲子園、大大阪記念博覧会
・新聞社は文化活動に積極的だった。朝日は中等学校野球(夏の甲子園)に注力した。1915年豊中市の豊中グラウンドで開催されたのが始まりである。1925年毎日は「大大阪記念博覧会」を開催している。47日間で、189万人の入場者があった。これは当時の大阪市の人口に相当する。※博覧会の内容については説明なし。
<あきんどが大阪経済を支える>
・豊臣秀吉は伏見/堺/平野などから商人を集め、船場に住まわせた。現在も問屋/商社/銀行などが集中し、大阪経済を支えている。船場は四方を川に囲まれているが、地名の由来は「戦場」「洗馬」「千波」などがある。
・船場の商いを支えたのは丁稚奉公である。どの商家にも10~17歳の丁稚がいた。彼らは朝早くから雑用し、店が終わると「読み書きそろばん」を習った。休みは盆と正月だけだった。
・大大阪時代、船場は繊維業・紡績業の街だった。大手企業は「関西5綿、船場8社」と呼ばれ、伊藤忠商事/丸紅/東洋綿花(豊田通商)/日本綿花(日双)/江商(兼松)が関西5綿で、今は総合商社になっている。※いずれも有名な総合商社だな。船場8社はどこだろう。
<大海へ、大空へ>
○木津川の造船所
・木津川は淀川水系の1つで、江戸時代は廻船の船着き場だった。1689年日本最古の造船所「藤永田造船所」が船の建造を始めている。大大阪時代には多くの駆逐艦を造った。1911年「名村造船所」「佐野安造船所」(サノヤスホールディングス)も創業している。安治川には「大阪鉄工所」もあった。
・1950年代、住之江区から西成区の造船通りで2万人の労働者が通勤した。造船には造船技術だけでなく進水技術も必要だった。木津川の川幅が200mしかなく、進水は慎重を要した。1964年川幅に近い178mの「Tokyo Olympics号」を進水させている。その後船舶の大型化で造船所は木津川から移転する。※長崎での武蔵の進水も問題が起こったはず。
○日本初の飛行場
・大阪は民間航空事業の発祥の地で、1922年(大正11年)日本航空輸送研究所が堺市と徳島/高松を結ぶ定期航路を開業している。
・その翌年木津川尻に木津川尻飛行場が開場する。当初は水上飛行場だったが、ほどなく陸上飛行場も開港する。1929年日本航空が使用していた木津川河口の発着場が日本初の公共飛行場「木津川飛行場」(大阪飛行場)となり、東京/福岡への定期旅客便を発着させる。八尾空港/大阪国際空港の開港により、1939年閉鎖される。※たった10年か。
<近代紡績工業>
○渋沢栄一が設立した日本一の工場
・大正区には沖縄出身者が多く、子・孫を含めると区民の1/4を占める。1882年(明治13年)渋沢栄一の主導で設立された大阪紡績会社(東洋紡)が操業する(※東の渋沢だったのでは)。ほどなく夜間操業になり、不夜城となった。
・その後次々と紡績工場が作られ、「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになる。大大阪時代、日本は英国を追い越し、世界最大の綿布輸出国になる。※産業革命の最初は繊維工業かな。
○大阪の発展を支えたウチナーンチュ
・第1次世界大戦後、沖縄経済は疲弊し、「ソテツ地獄」と云われた。ソテツは毒を含み、調理を誤ると死に至る。ところが米・芋が手に入らないため、ソテツを食べるしかなかった。1890年代から終戦までに15万人以上が本土に渡った。※これは移住?出稼ぎ?
・大正区は埋め立て事業が活発に行われ、働き口は幾らでもあった。女性は工場で、男性は港や木工所・鉄工所で働いた。大阪の紡績工業の発展に沖縄の人は欠かせなかった。沖縄の文化は「チャンプルー文化」(ごちゃ混ぜ)と云われる。これは琉球時代から多国と貿易し、様々な文化を融合してきたからだ。実際大正区を歩いて見ると、それを感じる。※大正区を調べると、大正運河/昭和山などあって、面白い。
<大阪のコリアタウン>
○観光名所となった鶴橋市場と御幸通商店街
・天王寺区/東成区/生野区にまたがる鶴橋市場は、戦後の闇市から始まり、約800店の店が集結している。コリアン色が強く、大阪人は焼き肉が食べたくなると、ここに来る。また鶴橋駅と桃谷駅の間にある御幸通商店街も在日韓国人・朝鮮人が多く住む。※鶴橋市場は東京上野の御徒町みたいに店が密集している。火事になると消火活動できない。
・生野区の1/4はコリアンで、古来から渡来人が多かった。彼らは土木技術に優れ、干拓/耕地化/架橋に尽力した。近代は豚を飼ったため、「猪飼野」と呼ばれた。
○君が代丸に乗って朝鮮から
・1910年韓国併合以来、多くのコリアンが日本に来た。大正後期に行われた平野川の改修工事は過酷だった。1922~1945年大阪と済州島の間を定期船「君が代丸」が就航し、ピークの1933年頃は年間3万人が渡海した。戦後大阪のコリアンは45万人になり、その中心が生野区だった。1993年(平成5年)御幸通商店街の東西にコリアンゲートが建てられる。
<こぼれ話 天下の台所、食い倒れの街>
・大阪の「粉もん」は人気だが、大阪発祥の食は多い。うどんすき/オムライス/レトルトカレー/インスタントラーメン/回転ずし/屋上ビアガーデン/アメリカンコーヒー/ミックスジュースなどがそうである。また大阪発祥ではないが、「自由軒」のカレー/「はり重」のすき焼き/「今井」のうどん/新世界の串カツなども有名である。※食通でないので分からない。
第3章 「大大阪」を彩る芸能・文化
<素人興行師が三流の寄席から急成長>
○木戸銭7銭と色物
・吉本興業の発祥地は天満宮の三流の寄席「第2文芸館」で、1912年(明治45年)吉本吉次郎・せい夫婦がこの経営権を買い取った事に始まる。天満天神は大阪天満宮の門前町として古くから栄え、その名残が天神橋筋商店街である。
・当時天満界隈には8つの寄席があった。吉本夫婦は「第2文芸館」を200円で買い取り、「文芸館」と改名し、落語や色物(万歳、手品、曲芸)を上演した。価格を半分の7銭とした事で多くの観客を集めた。館内では喉が渇く煎餅/焼きイカを売り、ラムネの売上をアップさせた。またミカンを売り、残った皮を漢方の材料として薬屋に売った。
・1913年「吉本興行部」を南区笠屋町に立ち上げ、「都座」「龍虎館」「芦辺館」「松井館」を配下に置く。1917年南区東清水町に移転する。
○工場労働者に愛される街
・当時天満には寄席「老松座」や歌舞伎「大阪座」「天満八千代座」などがあった。大大阪時代、娯楽は人形浄瑠璃/歌舞伎に活動写真/漫才が加わり、娯楽は多様化する。
<コラム 吉本せい>
・1889年(明治22年)吉本せい(旧姓林)は米穀商の12人兄弟の三女に生まれる。17歳から相場師・島徳蔵や鴻池家に奉公に出る。彼女は後に「女今太閤」「女小林一三」と呼ばれるが、そこで商魂を学んだのだろう。1907年上町の荒物屋「箸吉」の二男・吉本吉次郎(泰三)に嫁ぐ。※奉公はたった1年?
・夫は芸事が好きで家業をほったらかし、剣舞の旅回りをするようになる。せいは夫に「それなら自分でやりなさい」と言い、それが吉本興業の始まりとなる。しかし夫は吉本興業が大阪を制した頃に(1924年)、脳梗塞で39歳で他界する。
<ミナミへの進出で大阪を制する>
○法善寺横丁の金沢亭を買収
・1915年(大正4年)吉本夫婦は、法善寺横丁の「金沢亭」を1万5千円で買い取り、名前を「南地花月」に変える。花月は「花は散っても翌年咲く。月は欠けてもやがて満月になる。商売も浮き沈みがある」から来ている。これに倣い、「文芸館」を「天満花月」、「都座」を「天神橋花月」、「龍虎館」を「福島花月」、「芦辺館」を「松島花月」に変えている。「南地花月」に桂小文枝(桂派)/笑福亭松鶴(三友派)が出演するが、三友派の「紅梅亭」に苦戦し、木戸銭は紅梅亭の半額10銭で始める。
・しかし吉本の勢いは止まらず、1916年北新地の「永楽館」を買い取り、名前を「花月倶楽部」に変える。1920年「南地花月」の木戸銭は紅梅亭を超える60銭になり、大阪で一番になる。1922年紅梅亭を買い取り、大阪の演芸界を統一する。落語家73人/色物14人/漫才など20組が所属し、直営寄席/提携演芸場は28館になった。1924年泰三は亡くなるが、1932年「吉本興行部」を「吉本興業合名会社」に改組する。
○通天閣から吉本を眺める
・せいは通天閣を買い取る事を目標にしていた。それは通天閣の完成と文芸館の買収が同じ年だったからかもしれない。1938年吉本は通天閣を25万円で買い取る。しかし1943年通天閣は火災で全焼する。鉄クズ300tは軍に供出となるが、明石の海岸に放置され、再利用されなかった。
<コラム 横山エンタツ、花菱アチャコ>
・横山エンタツ/花菱アチャコは漫才の原点である。当時は「万歳」と呼ばれ、衣装は羽織・袴で、三味線で音頭を取っていた。しかし彼らは洋服で、演奏もなく、しゃべりだけで笑いを取った。
・1930年(昭和5年)4月彼らは玉造の「玉造三光館」で初めて「しゃべり漫才」を披露した。当初は不評だったが、半年後位から「インテリ万歳」として大ブレイクする。結果お笑いの主流だった落語を衰退させる。
・1933年1月彼らは「早慶戦」を発表する。1934年東京での万歳大会で全国的な人気になる。同年吉本興業は「万歳」の表記を「漫才」に変える。しかし同年9月アチャコの中耳炎により、コンビは解散する。※中耳炎なんだ。
<活動写真/ジャズ/カフェが芝居通りを席捲>
○松竹5座の近代化
・道頓堀で思い付くのは「グリコサイン」「動くカニ」「巨大フグ」だろう。しかし道頓堀は「娯楽の街」だった。江戸初期、成安道頓らにより道頓堀が開削された。その後通りの南側に歌舞伎/人形浄瑠璃の芝居小屋、北側に芝居茶屋が建ち並んだ。当時の観劇は一日掛りで、芝居小屋での観劇と芝居茶屋での食事を繰り返した。また「回り舞台」「セリ」は道頓堀から始まった。
・人気の芝居小屋は、角座/中座/浪花座/朝日座/弁天座で「道頓堀五座」と呼ばれた。しかし大正後期になると変容する。1919年(大正8年)松竹合名会社が、五座を買い取ったのだ。松竹は客席を桟敷から座席に改装する。さらに角座/弁天座を新派劇/活動写真、中座を歌舞伎、弁天座を新派劇、朝日座を活動写真に特化する。これにより道頓堀は「芝居の街」から「娯楽の街」に変貌する。
・これに伴い芝居茶屋は閉店し、「カフェ・バウリスタ」などのカフェに代わる。1923年関西初の洋式劇場「松竹座」がオープンし、ドイツ映画『ファラオの恋』などを上演している。※洋式と和式(?)の違いは何だろう。舞台/座席などが異なるのかな。
○道頓堀ジャズは最先端
・カフェが増えた事で、「道頓堀ジャズ」がブームになる。また西洋楽器店「今井楽器店」も話題になる。服部良一がこの店に入り浸っている。1927年黒人ジャズバンドで話題になったキャバレー「南地赤玉」や「道頓堀赤玉」がオープンする(※赤玉って何?ウイスキー?ワイン?)。大阪空襲で五座は焼失し、浪花座/角座/中座を復活させるが消滅し、今は「食い倒れの街」となっている。
<中村鴈治郎、片岡仁左衛門>
・「十八番」「差し金」「三枚目」などは歌舞伎に由来する。歌舞伎は大人しい上方歌舞伎(和事)と派手な江戸歌舞伎(荒事)に分かれる。明治中期以降、上方歌舞伎で圧倒的人気だったのが初代・中村鴈治郎である。当時歌舞伎は庶民の娯楽だった。彼は12歳でデビューし、1874年(明治8年)14歳で道頓堀の「筑後芝居」(浪花座)で初舞台を踏んでいる(※デビューと初舞台は異なるのか)。容姿端麗で女形も二枚目もこなし、18歳で座長・中村鴈治郎を襲名する(※初代でも襲名?)。その後も出世街道をひた走り、松竹と提携し、松竹の劇場で名演技を披露している。
・彼のライバルが3代目・片岡我當(11代目・片岡仁左衛門)である。彼は江戸生まれで、1858年(安政5年)2歳で初舞台を踏み、7歳から大阪に移り、17歳で道頓堀の「角の芝居」(角座)に出演している。1903年上方に居づらくなり東京に戻り、1908年片岡仁左衛門を襲名する。
<人形浄瑠璃専門劇場>
・「文楽」(人形浄瑠璃)には時代物と世話物(現代劇)がある。世話物の元祖が、近松門左衛門が書き、竹本義太夫が語った『曾根崎心中』である。このコンビでヒットを連発した。18世紀後半になると衰退するが、幕末に初代・植村文楽軒の道頓堀興行が当たり、1872年(明治5年)3代目・植村文楽軒の松島遊郭文楽座のこけら落としも成功する。この頃から文楽が人形浄瑠璃の代名詞になる。1909年松竹が文楽座を買収している。
・1926年(大正15年)唯一の文楽劇場だった「御霊文楽座」が焼失し、人形も焼ける。1930年松竹が「四ツ橋文楽座」を開場し、踏み止まるが、これも空襲で焼失する。戦後復興されるが、文楽人気は低落し、松竹は撤退する。今は「無形文化財」となり、「国立文楽座」で伝統が引き継がれている。
<日本映画興行発祥の地>
○世界初上映から2年後にミナミで
・2015年(平成27年)吹田市の万博記念公園に映画館「109シネマズ大阪エキスポシティ」が誕生した。4K次世代IMAXシアターが設置され、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を日本で唯一見れる映画館である。
・1897年(明治30年)日本で最初の映画興行が、南地演舞場(TOHOシネマズなんば)で上映される。映写システムは「シネマトグラフ」で、フランスでの世界初の上映から2年後だった。その後千日前には多くの上映館ができるが、1912年「ミナミの大火」で焼失する。その後「敷島倶楽部」などが復興する。
○東洋一の映画撮影所
・1913年(大正2年)東洋商会(天然色活動写真)の山川吉太郎らが鶴橋に映画撮影所を開設する。しかし手狭になり、1916年東大阪市菱谷に小阪撮影所を開設する。1920年彼は帝国キネマ演芸を立ち上げ、兵庫県芦屋に撮影所を開設する。さらに1928年東大阪市に「東洋のハリウッド」と呼ばれる長瀬撮影所を開設する。ここで月15本の映画を撮影した。しかし1年半後に全焼し、スタッフは京都の太秦撮影所に移る。
<織田作之助が愛した街ブラ>
○オダサクが案内する”大阪の顔”
・ミナミの中心にあるが、線香の香りが漂う異空間が「法善寺横丁」だ。ここが知られるようになったのは、2つの小説『夫婦善哉』(織田作之助)/『法善寺横丁』(長谷川幸延)による。織田作之助(オダサク)は、中学の時、この辺りをブラブラしていた。彼は「”東京の顔”が浅草寺なら、”大阪の顔”は法善寺」と言っている。「夫婦善哉」は実在するぜんざい屋の名前である。
・1913年彼は生まれ、第三高等学校(京都大学教養部)に合格するが、街ブラ/演劇に夢中になり退学する。上京し小説を書くが、1939年大阪に戻り、日本工業に新聞記者として入社する(※1933年日本工業新聞が創刊されている。これかな)。その頃『俗臭』『夫婦善哉』『白鷺舞台』などを書いている。1947年33歳で他界する。
○文化人が愛した横丁
・1637年法善寺は京都伏見より現在地に移った。開基から千日後に「千日念仏」法要を始めたため、「千日前」の地名になった(※今でも千日念仏を行っているんだろうな)。敷地は広く、三友派の「紅梅亭」/桂派の「金沢亭」などの寄席があった。また割烹「正弁丹吾亭」/「浅草おでん・お多福」などの飲食店もあった。しかし1945年大空襲で不動明王を残し、焼失する。
<巨大遊園地>
○歓楽施設が全て勢揃い
・港区夕凪に市岡パラダイスがあった。1925年(大正14年)市岡土地開発は遊園地を中心とした宅地を開発する。遊園地の面積は1.2万坪で、新世界ルナパーク4万坪よりは小さいが、大きな人工池や岩山があった。巨大浴場「千人風呂」、小鳥舎、動物舎、野外劇場、映画館、農園、飛行塔などもあり、評判を呼んだ。1927年1千人収容の大劇場「桂座」を新設した。また日本初の室内アイススケート場も新設した。
○パラダイス通りは残る
・しかし移動手段が市電だけで、集客は芳しくなく、1930年閉園する。映画館/大劇場は単独営業するが、空襲で焼失する。しかし飲食店・映画館などが建ち並び、「パラダイス通り」として残った。
<両国国技館の2倍以上を動員した大阪相撲>
・大阪には新世界に大阪国技館、城東区関目に大阪大国技館の2つの国技館があった。相撲の後援者を「タニマチ」と呼ぶが、これは谷町の歯科医に由来する。
・1919年(大正8年)新世界に収容人数1万人の大阪国技館が建築される。大変な人気があったが、1927年東西にあった相撲協会が合併され、大阪は衰退する。国技館は映画館として使われ、戦前に解体される。
・1937年双葉山による相撲ブームに乗じ、収容人数2.5万人の大阪大国技館が竣工する。しかし太平洋戦争の勃発で4年間(7場所)で終わり、その後工場/倉庫として使われ、1951年解体される。※両館とも短い命だな。
<遊郭は200万人の心をつかんだ>
○大阪開港・川口居留地と共に開設
・遊郭とは公認の遊所で、非公認のものは岡場所と呼ばれた。また遊郭で働く娼妓が公娼で、それ以外が私娼だった。大阪の遊郭の代表が西区千代崎にあった松島遊郭で、1869年(明治2年)大阪開港により「川口居留地」と共に開設された。
○3500人を超える娼妓
・1871年松島遊郭に松島文楽座/松島大劇場が開業し、1875年天満宮御旅所(?)が移転してくる。1877年西南戦争の慰安所になり、大繁盛する。しかし心中/自殺/障害/殺人など様々な問題があった。1884年陸軍兵士1400人と警察官600人の乱闘事件が発生している。また1926年松島遊郭の築港移転で首相・若槻礼次郎が告訴されている。
・それでも松島は日本一の遊郭だった。大阪には他に南地五花街/新町/堀江/曽根崎/飛田に遊郭があったが、公娼の半分以上が松島に在籍していた。年間200万人が訪れ、ビリヤードなどがある「東京楼」が一番人気だった。また松島は西大阪の盛り場になり、映画館「松島八千代座」/寄席「松島花月」/牛肉すき焼き屋「いろは総本店」などが建ち並んだ。しかし空襲で焼失し、西区九条に移転する。さらに1958年「売春防止法」により幕を閉じる。
<大正近代アート>
・「最後の色街」と呼ばれるのが、新世界の南にある飛田遊郭である。空襲を逃れた「鯛よし百番」(飛田百番)は登録有形文化財に登録され、衝撃的な空間である。1912年(明治45年)「ミナミの大火」により遊郭「難波新地」が焼失し、それが飛田(西成区山王)に移転する(※難波より2Km位南にある)。大大阪時代に全盛期になり、阿部定も飛田で働いている。1930年約3千人の娼妓がいた。
<波乱の幕開けを遂げたJOBK>
○三越百貨店からスタート
・1924年(大正13年)新聞社など24団体がラジオの実験放送を始める。大阪毎日新聞社は堂島の本社から送信し、堺筋の三越呉服屋で受信した(※三越呉服店では)。大阪朝日新聞は中之島の本社から送信し、長堀橋の高島屋で受信した。実験放送では演芸/講演/相場/選挙速報などを流した。しかし逓信省が「1地方1放送局」としたため、24団体が協議し、1925年大阪中央放送局(JOBK)に一本化される。
・JOBKの放送局は、高麗橋の三越呉服店に設置される。これは出資者の多くが市場関係者で、北浜の株式取引所に近かったからである。最初の試験放送は、神官の祝詞25分と相場情報4時間で不評だった。
○人気になった番組を独自に企画
・1926年政府の方針で東京・名古屋・大阪の放送局が統合され、日本放送協会(NHK)になり、JOBKはその関西支部になる。その拠点になったのが「上町演奏所」だった。
・ここでは様々な伝説が生まれた。1927年「全国中等学校優勝野球大会」を新人アナウンサーが8日間、全試合を生放送した。翌年には「ラジオ体操」の放送を開始した。1930年「街頭テレビ」のラジオ版「ラジオ塔」を天王寺公園に設置する。これは74ヵ所に拡大される(※ラジオも貴重だったのかな)。また子供向けニュース番組「コドモの新聞」/音楽番組「国民歌謡」などの全国的な人気番組を企画・制作している。
・1936年今の中央区馬場町の「大阪放送会館」に移転する。これは大阪のランドマークになった。また日本初の声優「大阪放送劇団」を設立している。
<御堂筋に先行して商業を支えた>
○参勤交代や朝鮮使節も通った
・堺筋は明治後半から大阪のメインストリートとして大阪の商業を支えた。堺筋は北浜から船場を通り、日本橋を抜け、和歌山に繋がっていた(紀州街道)。そのため高麗橋/長堀橋/日本橋は公儀橋で、堺筋は大阪の大動脈だった。
・道修町には薬問屋が集まった。金融では、1972年(明治5年)野村徳七が両替商・野村商店を開業し、1948年大和銀行(りそな銀行)に改称している。1926年北浜に住友銀行の本店が建てられている。
○百貨店の進出
・堺筋の近代化の第一歩は明治末の道路拡張と市電の開通にある。1917年三井呉服店(※三越呉服店では)が高麗橋に大阪支店を建設し、1921年白木屋呉服店が備後町に大阪支店を建設する。1922年高島屋が心斎橋から長堀橋に移転する。1925年松坂屋が日本橋に進出する。他の商店も近代化され、1930年アールデコ調に再建された「生駒ビルヂング」などは登録有形文化財に登録されている。
・堺筋に進出した呉服店は、百貨店化する。白木屋は「下足預かり制度」を廃止し、土足での入店を可能にする。三越は「正札販売」「陳列販売」を定着させる。
・しかし御堂筋の拡張により百貨店は姿を消す。1928年高島屋は難波に移転する(※たった6年)。1932年白木屋は撤退する(※こちらは11年)。1966年松阪屋は天満橋に移転する。2005年三越は閉店している。
<吉本興業とNMB48の総本山>
○不人気の土地が複合的娯楽施設「楽天地」に
・道頓堀と難波の間が千日前で、吉本興業の「なんばグランド花月」「NMB48劇場」などがある。江戸時代千日前は処刑場で、墓場・火葬場があった。明治になると処刑場は廃止され、墓場・火葬場は天王寺に移転した。これを盛り場に変えたのが、奥田弁次郎・フミ夫婦である。※この内容は書かれていない。
・1912年(明治45年)千日前を「ミナミの大火」が襲う。これを復興させたのが映画製作に乗り出した山川吉太郎で、1914年3階建ての複合的娯楽施設「楽天地」をオープンさせる。これには展望台/上映館/小劇場/水族館/メリーゴーランドなどがあった。昭和の大女優・田中絹代は、9歳でこの舞台を踏み、才能を培っている。
・1916年上映館「敷島倶楽部」が開館し、盛り場として発展する。しかし「新天地」の経営は振るわず、1930年撤退する(※これは16年か)。この跡地を買ったのが松竹である。※奥田/山川(楽天地)/松竹の3段階か。吉本興業は道頓堀なので関係ないのかな。
○複合遊戯施設「大阪歌舞伎座」 ※ここだけ遊戯にしている。
・1932年松竹は7階建ての「大阪歌舞伎座」を建設する。1~4階が大劇場で、3千人を収容した。これは今でも驚く規模である。他に飲食店/アイススケート場/ビリヤード場/卓球場などもある娯楽施設だった。
・しかし上方歌舞伎の衰退で、1958年「新歌舞伎座」に縮小・移転する。大阪歌舞伎座は「千日デパート」に改装されるが、1972年焼失する(※焼失が多い)。今は「ビックカメラなんば店」になっている。
<商店街は時代と共に変化>
○明治時代は本の町
・心斎橋筋は新町遊郭と道頓堀の芝居小屋を結ぶ道だった。江戸初期には琴三味線屋/書籍商/古道具屋/塗物屋が並び、線香の仁寿堂/書籍の河内屋佐助(三木楽器)/呉服の松屋(大丸)/石原時計司などがあった(※江戸時代に時計?)。心斎橋筋の南端は戎橋で、これは今宮戎神社の参道だったからだ。
・1900年(明治33年)の記録では、書籍商20軒/時計商18軒/舶来商15軒/洋傘商11軒となっており、心斎橋筋は「本の町」だった。
○モボ・モガで「心ブラ」がブームに
・大正後半になり心斎橋は変わる。1922年(大正11年)大丸心斎橋店の新館が完成する。「モボ・モガ」(モダンボーイ・モダンガール。※略し過ぎ。モダボ・モダガにしろ)が人気になり、「心ブラ」がブームになる。
・同時に若者向けの店が増え、子供服店「ヨネツ子供服装店」/均一価格ショップ「高島屋10銭20銭ストア」/呉服店「くるめや」/タレントショップ「フルーツパーラー蝶屋」などができる。1924年薬/化粧品/洋菓子/洋酒/写真機材などを売る複合ビル「丹下ハウス」も開業する。1935年「そごう」が8階建ての新館を建てる。
・1622年長堀を開削した岡田心斎により、心斎橋は架橋される。明治初期に鉄橋になり、1909年石橋になる。1964年長堀川が埋め立てられるが、陸橋として再活用されている。
<呉服系百貨店の先駆>
・三越は日本初の百貨店で、大丸/高島屋/十合/松阪屋/伊勢丹と同じく呉服屋からの転身である。1905年(明治38年)三越呉服店として「デパートメント・ストア宣言」し、1908年東京日本橋に3階建ての三越本店を開業している。その後、バーゲンセール/女性店員採用/少年音楽隊設立などを行っている。
・大阪では、1911年高麗橋に2階建ての木造洋館を開業し、その6年後に7階建ての新館を完成させる。「下足預かり」制度を廃止し、1日3.5万人の客を呼び、従業員は1500人もいた。
・三越は外商の走りである得意先専用窓口「十番売場」を設ける。他の百貨店が堺筋から御堂筋に流れる中、これによる高級志向の常連客により三越だけが残った。
<ネオ・ゴシック+アールデコ様式>
・大丸心斎橋店はネオ・ゴシック+アールデコ様式の大正モダン建築の代表格である。玄関は屋上まで吹き抜けで、星形や植物モチーフの装飾に太陽光が差し込んだ(※建築に詳しくないが、ゴシック様式の定義は難しく、アールデコ様式は幾何学的)。2003年「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」(※正式名はもっと長い)に選ばれる。2019年新館が完成する予定である。
・京都創業の大丸は、1726年心斎橋に店舗を構える。1918年4階建ての呉服店を建てるが、2年後に焼失し、新たに店舗を建てる。その後増築を続け、1933年7階建てになる。標語は「古い大丸、新しい品」で、流行の最先端の品を売った。オモチャ博覧会/浴衣会など利益度外視のセールを随時開催し、人気を維持した。
<心斎橋から長堀橋へ>
・1930年(昭和5年)に開業した大阪高島屋は有形文化財登録されている(※登録有形文化財かな)。1898年(明治31年)京都創業の高島屋飯田呉服店は大阪の心斎橋に進出する。しかし1919年焼失し、1922年堺筋の長堀橋に移転する。1924年御堂筋を整備する都市計画により、難波店を開店する。長堀橋店は呉服屋のイメージ、難波店は「皆様の高島屋」のイメージとなる。1939年難波店に統合される。