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『文字世界で読む文明論』鈴木薫を読書。

文字/民族の区分については多少関心があるので、興味を持って読めた。
世界を文字で区分して俯瞰する視点はユニークである。

世界の文明・文化に触れているので、解説範囲は大変広い。そのため詳述されていない。
また文章が抽象的・冗長的な箇所もある。

お勧め度:☆☆(面白いが、何せ広範囲)
内容:☆☆

キーワード:<文明が成熟するために>新型コロナ・ウイルス、行け行けドンドン/フィードバック、民主主義、資本主義、格差、文化、<文明/文化とは>文明と未開、外の世界、フィードバック、心の世界/内的世界、多様性、文化変容、<言葉と文字>民族、印欧語族、大和語/沖縄語、楔形文字、ヒエログリフ/フェニキア文字/ラテン文字/キリル文字、ブラーフミー文字/サンスクリット/ヒンドゥー語/梵字、漢字、アラビア文字、文字世界、<知の体系の分化>神官、自然的世界/超自然的世界、暦/占い/精霊、ギリシア/アラビア、政教分離、哲学、<文明としての組織、文化としての組織>家族/養子/相続、東洋的専制、空間固定型/空間拡張型、民主政、科挙、西洋化、カトリック教会、財閥、<衣食住の比較文化>都市、衣服/洋装、食の作法/禁忌/調味料/食材/西洋化、<グローバリゼーションと文化変容>大航海、西洋化改革、法律、文化/文学/絵画・彫刻・書道/音楽、交通/情報伝達、斉一化、文化摩擦、<文明・文化の興亡>中国/科挙、インド、モンゴル帝国、アレクサンダーの東征、アラブの大征服/イスラム教、ローマ帝国/市民権、西欧キリスト教世界、東欧正教世界、米国/多様性、イノヴェーション、<現代文明と日本>日本文化、積極的発信、人材、フィードバック機能

<プロローグ 文明が成熟するために>
○風雲急な21世紀の始まり
・20世紀は2つの世界大戦があり、冷戦になるが、ソ連が崩壊し、「歴史の終焉」と云われた。しかし2020年想定外の新型コロナ・ウイルスによるパンデミックが起こった。これは21世紀の覇権国とされる中国から起こり、今の覇権国である米国で最多の感染者・死者を出し、米国の文明の無防備さを露呈した。グローバリゼーションの進展により、感染症は数ヶ月で世界に広まり、1929年「大恐慌」に匹敵する経済危機をもたらした。

・人類の文明は「行け行けドンドン」だけで「フィードバック」にも力を注ぐべきだった。共産主義は過去のものになり、民主主義が世界中に広がると期待されたが、上手く行っていない。経済の資本主義は、ロシア/中国においても浸透しつつある。しかし湾岸戦争/アフガニスタン戦争/イラク戦争など、宣戦布告されない武力行使が頻発している。民主主義についても、定着したと云えず、日本では「民主主義の危機」、欧米では「デモクラシーが生き延び得るか」が議論になっている。

○民主主義と民主政
・デモクラシーの起源はギリシアのデモスクラティアで「民衆による支配」を意味する。政体には3つあり、「王政」「貴族政」「民主政」である。王政の変種が、1人が支配する「僭主政」である。貴族政の変種が、限られた人が支配する「寡頭政」である。民主政は、堕落すると「衆愚政治」になる。
・王政は、ヒトラーのような狂信者を生む。貴族性は、「皆はそっちのけ」で自分達の利害に走ってしまう。これに対し民主政/デモクラシーは、多くの人が是とする方向に進むので、最良の政体と云える。

○フィードバック機能
・民主政/デモクラシーには、指導者が誤った場合、議会/選挙/世論などで是正するフィードバック機能が期待できる。米国がヴェトナム戦争から抜け出したのは、この機能が働いたからである。一方日本が日中戦争/太平洋戦争に進んだのは、制度上の欠陥から、この機能が働かなかったからである。現代は格差が拡大している。これに迎合し、過大な期待/誤った期待を持たせ、権力を握ろうとするデマゴーグ扇動家が出現している。
・”皆で決める”民主政、それを支える民主主義は、長い歴史的過程から生み出された。そしてそこにはフィードバック機能が備えられた。本書はこれらの視点で文明・文化を考え直す。

○格差と差別-資本主義の暴走
・東西冷戦の終結(歴史の終焉)で民主主義と自由主義の時代が来ると期待された。自由主義には政治的・思想的な自由主義だけでなく、資本主義による自由市場も含まれた。確かに中国は共産党の看板を下ろさないものの、資本主義経済を推進し、時価総額のトップ10には中国の企業が並ぶようになった。

・経済は「モノ・サービスの生産と流通」で、資本主義はその効率を高め、文明の進展に貢献した。しかしこの経済システムは「元手」(資本)を持つものが利潤を無制限に拡大する一方、労働により生きていくだけの報酬しか得られない人々を生んだ。近年この格差が増々拡大し、これは「行け行けドンドン」の悪弊である。
・近代資本主義が発展する過程で、労働者の待遇は改善され、彼らは消費者になった。日本も戦後改革により、「一億中産階級」と豪語するようになった。しかし近年格差が拡大し、中間層が解体し始めている。
・イタリアでは新型コロナによる感染者が急増し、異例の致死率になっている。これは財政難による医療費削減の結果であり、「行け行けドンドン」の結果で、将来を見つめるフィードバック機能が働かなかったからだ。

○文明成熟のためのキーワード
・近年、文明に対し悲観論がある。私(著者)は「今はまだ文明は未熟な第1段階にある」と思っている。「行け行けドンドン」だけのため、公害/薬害などの想定外が起きた。原発事故/地球温暖化も然りである。人類が第2段階に進むためには、フィードバック機能が必要である。これを働かせるためには、民主主義を正常化する必要がある。

○グローバリゼーションと文化
・日本は文化的同質性が高く、文化的差別はほとんど見られない。しかし人口減少対策として移民が必要のため、多文化共生社会を目指す動きがある。
・一方文化的多様性が拡がった欧米では、それが社会的格差を生み、移民排撃などの排外主義が起きている。異質なものへの許容性、異文化を理解する感受性などのフィードバック機能が損なわれている。

・人類は原人の時代に東アフリカを発し、「旧大陸」(アフリカ、欧州、アジア)に拡がり、新人類(ホモ・サピエンス)になると「新大陸」(北米、南米)に拡がった(※原人/旧人/新人とかあったな。それと移動の関係を理解していない)。これが第1段階のグローバリゼーションである。15世紀末「大航海時代」になると西欧人が地球規模のグローバル・システムを生み出す。この1つのシステムに纏め上げる過程が、第2段階のグローバリゼーションである。※文明にもグローバリゼーションにも、第1段階/第2段階があるので混同しないように。
・このグローバリゼーションの中核になったのが米国だった。米国のコーラ/ジーンズ/マクドナルドは、世界で受容された。文明のグローバリゼーションだけでなく、文化のグローバリゼーションも進展したのだ。
・しかし文化では、伝統が生き残っている。米国発のハンバーガーを食べても、中国/日本では箸を使い、インドでは右手指食が行われている。グローバリゼーションにより文化と文化が触れ合う。インドのカレーは英国に渡り、さらに日本の海軍に受容された。日本の江戸前寿司は欧米だけでなく、イスラム圏にも受容されている。一方文化と文化の触れ合いは摩擦も起こす。その典型が「イスラム国」である。この異文化との摩擦は、移民・難民排除などの大問題を起こしている。

○5つの文化圏
・プロローグでは、パンデミック/民主主義の危機/文化の多様性と摩擦をテーマにして、文明/文化について触れた。第1章では文明/文化が何かを考える。
・文明/文化では、言語が決定的な意味を持つ。現代社会には5つの文化圏が存在する。これは、①ラテン文字圏の西欧キリスト圏、②ギリシア・キリル文字圏の東欧正教圏、③アラビア文字圏のイスラム圏、④梵字圏の南アジア・東南アジア・ヒンドゥー教・仏教圏、⑤漢字圏の東アジア・儒教・仏教圏である(※文字-地域-宗教となっている)。第2章では、この形成を述べる。
・第3章では、文化の最重要分野である宗教と文明の最重要分野である科学の誕生、および両者の相克を述べる。第4章では、文化の最重要要素(※ここは要素)である組織について述べる。
・第5章では、衣食住などの身近な生活文化から各文化圏を解き明かす。第6章では、文学・芸術とグローバリゼーションの関係を述べる。第7章では、文明/文化の発展・衰退の条件を概観する。エピローグでは、日本の文明/文化について振り返る。
※何か凄そうな本だな。フィードバックは注目される言葉だが、本論には出て来そうにない。

<第1章 文明/文化とは>
○文明/文化と云うけど
・文明/文化をよく耳にするが、それが何なのかは論じられてない。文明/文化はものではなく、人間の活動の側面である。まず文明/文化についての論議を振り返る。

○文明と文化は同じか
・文明/文化は新しい言葉で、西洋語の翻訳語として作られた。文明は英語であればcivilization、文化は英語であればcultureの翻訳語である。その西洋でさえ、文明/文化が使われるようになったのは18世紀頃からで、もっぱら「文明」が使われた。彼らは自分達の暮らしを文明、彼ら以外の暮らしを「未開」とし、未開人に不平等条約を押し付けた。そんな中、少し遅れたドイツで「文化」の概念が生まれた。「文明は科学・技術を中心とする普遍的・物質的なもの、文化は集団特有の特殊的・精神的なもの」とした。

・他にも様々な考え方があるが、「人類はまずは文化を持ち、それが発展すると文明になる」「創造的なものが文化で、それが都市化・固定化したものが文明」などの考え方もある。しかし大別すると、「文化と文明は同一、あるいは文化と文明は同一線上にある」とする一元論と、「文化と文明は別物」とする二元論に分かれる。私は二元論を取っている。

○人間の営みとしての文明
・文明は、科学・技術/都市・社会の秩序/安全で豊かな暮らしなどの側面の概念と考えられる。※側面の概念?難解になってきた。
・人は樹上にいた頃は、木の実や葉を食べた。地上に降りてからは、草や小動物・魚・貝などを食べた。しかし人間は石器などの道具を使うようになり、さらに火を使うようになる。食糧も狩猟採集から農耕を始める。芋類は保存に適さないが、穀物は保存が可能である。これにより集住するようになる(※本書では「都市が生まれる」としている)。そうなると分業化が行われ、水のコントロールなども可能になる。学習したものは、次世代に受け継がれるようになる。これが文明と考える。

・以上より、「文明は、外の世界の利用・制御・開発の能力と結果」と定義できる(※簡略化した。以下の定義も同様に簡略化)。そしてこの「外の世界」を「マクロ・コスモス」(大宇宙)と名付ける。

○行け行けドンドンからフィードバックへ
・近年、文明への不安が論じられる。原発は暴走した。原発の廃棄物は何万年も経たないと安全にならない。人工知能(AI)が浸透すれば、多くの職業が奪われる。
・しかし私は悲観的ではない。今の文明は第1段階で、フィードバック機能が働いていないからだ。第2段階に進むためには、「想定外」をなくす必要がある。福島原発事故では、専門家が「貞観地震」を基に、大津波が起こると忠告していた。しかし「行け行けドンドン」「コストカット」で、それは無視された。文明が両刃の剣になり、想定外の事態が起こらないよう、フィードバックに力を注ぐ必要がある。
・ファラオの時代、ナイル河で洪水と耕作が繰り返された。ところがナセル大統領はソ連にすり寄り、アスワン・ハイ・ダムを造り、洪水を起こらないようにした。これにより塩害が発生している。
・以上より「文明は、外的世界の利用・制御・開発の能力と結果、及びそれに対するフィードバック能力と結果」と定義する。フィードバック能力を十分備えた時、次の段階に進める。※今までにフィードバック機能がなかった訳ではない。

○心の文明化-暴力の抑制
・私は文明論は、外の世界だけでなく、心の世界/内なる世界も考慮する必要があると考える。それはユダヤ系ドイツ人で社会学者のノルベルト・エリアス(1897~1990年)の説に触れた事に始まる。彼の母は強制収容所で亡くなっている。彼も40代前後に亡命生活を送り、戦後は正規の教授職に就けなかった。

・彼は『文明化の過程』を著し、「文明化の過程は、攻撃的衝動を規制する内的メカニズムを形成する過程」とした。「例えば『隣の人が美味しい物を食べていれば、殺傷して奪う』などを善くない事として控えるのが文明化」とした。西欧では絶対王政になり、国家が暴力を独占し、貴族の決闘が禁止され、暴力によって「自力救済」する手段が制限された。これを文明化の画期の1つとした。
・日本でも、江戸時代は公開処刑/獄門などが行われたが、明治維新で決闘は禁止され、まさに文明開化となった。※親の仇は江戸初期に禁止されなかったかな。※暴力の否定は文明の1要素かな。

・因みに彼は西欧と中国を比べ、「西欧では武器を本気で使うつもりで携帯した。一方中国では市中を丸腰で歩いた。従って中国の方が文明化していた」とした。また「西欧では食事でナイフを使うが、中国では箸を使う。この点でも中国の方が文明化していた」とした。
・私は彼の観点に触発され、「文明は、心の世界/内的世界の在り方にも関わる」と考えるようになった。そしてこの「心の世界/内的世界」を「ミクロ・コスモス」(小宇宙)と名付ける。

・ここにおいて文明を定義すれば、「文明は、外的世界の利用・制御・開発の能力と結果、及びそれに対するフィードバック能力と結果。さらに内的世界の制御・開発の能力と結果、及びそれに対するフィードバック能力」となる。これは第2段階も視野に入れたものである。

○人間活動のくせ
・私は文明/文化の二元論を取るが、「物質的・外面的な文明より、精神的・内面的な文化が優れている」とは考えない。では「文化」はどう定義すれば良いのか。米国の人類学者のクローバーとクラックホーンは『文化』の中で、「文化の定義は、164~300種ある」としている。
・歴史を振り返れば、時と場所により人々は様々な暮らしをしてきた。今でも様々な言葉や文字がある。ヒンドゥー教徒は神聖とされる牛を食べない。イスラム教/ユダヤ教では不浄の豚はタブーである。多様性は食だけではない。日本に洋服が入る前は、様々な伝統衣装があった。洋式建築が入る前は、様々な建物があった。文学・芸術では、中国の漢詩/日本の和歌俳句/沖縄の琉歌/アラビア語・ペルシア語・トルコ語の古典定型詩があり、絵画には中国の南画/日本の大和絵・浮世絵/イスラムのミニアチュール(細密画)がある。西欧の挨拶は握手だが、漢字圏の挨拶はお辞儀である。

・では文化の定義はどうなるのか。「人間が後天的に習得し、共有する行動の仕方/ものの考え方/ものの感じ方とその所産」と考える。この定義からすれば、文化は人間の特殊的な活動と捉える事ができる。文明は普遍的なもので、これを担うのは文化の刻印を帯びた人間集団である(※こんな表現があるんだ)。よって、ある時点/ある場所/ある人々に担われている個別文明は、必ず文化の刻印を帯びる事になる。この観点から、西欧文明/中国文明などの表現が残される事になる。※難解。

○文化も変化する
・文化も変化する。それは集団の内在的発展による場合もあれば、外在するモデルの受容・刺激による場合もある。これを「文化変容」と呼ぶ。この文化変容で顕著なのが、この2~3世紀で起きたグローバリゼーションによる変容である。地球規模で、西欧の文学・音楽・絵画が受容された。伝統の服装は特殊となり、洋服が通常服になった。
・この様な文化変容は、日本が中国から漢字や様々な文化的要素を受容した時にも起こっている。あるいはローマ帝国が、ラテン語・ラテン文字、ローマの服装や生活様式を拡げた時にも起きている。※ローマの服装はスッポリ被るトガで、ゲルマンの服装はパンツだったらしい。

○文化に優越はない
・文明は、生産力/運輸力などで優越を論じる事ができる。しかし文化に対しては、比較優位/比較劣位を論じる事ができない。この文化の拡がり(文化圏)は、どう捉えられるのか。次章では「文字」に着目し、これを述べる。

<第2章 言葉と文字>
○画期としての言語の誕生
・人類の外的世界に関わる画期は幾つかある。道具の使用/火の利用/農耕の開始などである。本章で論じるのは「言語」の誕生である。「言語は、音声/身振りによるコミュニケーション」と定義できる。
・赤ちゃんも不快/不満/飢えなどを訴えるが、これは本能に基づくものなので世界共通である。しかし言語を後天的に習得すると、その表現方法は異なるようになる。
・人類は音声による言語を習得し、それを記憶・口承する事で、情報の伝達・共有を可能にした。これは人類が保有する情報を拡大し、文明の発展に大きく貢献した。また言語は記憶や思考を手助けしている。
・言語は長い歴史の中で枝分かれし、多様化した。その多様化した言語は、コミュニケーションの媒体であるに留まらず、言語を共有する集団のアイデンティティーになっている。※民族だな。

○民族統合の基軸としての言語
・前章で文化を「人間が後天的に習得し、共有する行動の仕方/ものの考え方/ものの感じ方とその所産」とした。言語はものを感じ、考える時の内的世界の媒体になるが、それを表現する時の外的世界の媒体にもなる。※内も外もだな。さらに言語は文化の一翼である。また近代西欧においては、国家の重要な担い手であり、民族の基軸は共有する言語に求められる。
・ドイツは中世以来、領邦に分裂していたが、ドイツ語を共有する人々がドイツ民族とされ、統一された。ここで民族の心性を明らかにするため著作されたのが『グリム童話』である。そのためこれには恐ろしい話/残酷な話も多く含まれている。※そうだったかな。

・自分達の集団の位置を確かめる動きはグリム兄弟に限らない。自分達の言語の先祖探し、親類の言語探しにも見られる(※ここでの親類は、言語上の親類だな)。ムガル帝国が衰退した頃、英国人ウイリアム・ジョーンズがやってきて、サンスクリット語を勉強し、ペルシア語/ギリシア語/ラテン語が親戚関係である事を発見する。そして彼はこの言語一群を、インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)とした。
・その後ドイツの学者などが印欧語族を話す人々をアーリア人とした。そしてその中で最も優秀なのがドイツ民族とした(※行き過ぎ)。ヒトラーはドイツ民族が最優秀民族とし、第2次世界大戦を起こす。彼はアーリア人でないユダヤ人を最劣等民族として抹殺した。一方で同じアーリア人のスラヴ民族も劣等民族とした。さらに同じゲルマン民族の英国人/WASPも劣等民族とした。彼は「仏国/英国などの文化より、ドイツの文化が優れている」と言いたかったのだろう。

○日本語と沖縄語
・印欧語族の概念が作られた後、サンスクリット/ペルシア語/ギリシア語/ラテン語は、基本的語彙の類似/規則的な音と語形の変化から同じ語族と証明された(※後に書かれるが、サンスクリットは梵字系では)。それはこれらが文字として残されていたからである。
・中国の新疆ウイグル自治区からトルコ共和国に至る範囲は、トルコ系の言語が使われている。しかしそれぞれウイグル語/キルギス語/アゼルバイジャン語/タタール語/トルコ語で別言語である。
・注意しないといけないのは日本語で、陸奥から薩摩・大隅まで様々な方言があるが、日本語が話されていた。ところが沖縄の場合、別の沖縄語と云える。沖縄が本土と繋がったのは、1609年島津家による征服からである。そして1872年琉球処分として併合された。大和語と沖縄語は基本的語彙は圧倒的に共通するが、沖縄語の母音は「あいう」の3つしかない。

・人間が言語を持った事は文明の発展、文化の分化の画期になった。さらに文字が現れた事は、決定的な画期になった。

○可視化・定着化しうる媒体
・人類は言語を持った事で、情報の伝達・蓄積が可能になった。原人が言語を発していたかは明確ではないが、旧人類のネアンデルタール人は死者を葬る習慣を持ち、言語を有していたと考えられる。新人類のホモ・サピエンスになると言語を有し、旧大陸/新大陸に拡がる中で、言語は多様化したと考えられる。
・しかし音声による言語では情報の伝達・蓄積能力に限界がある。これを可視化・定着化する媒体を得た事は画期となった(※文字だな)。これが画期なのは、文字を持つ人々が支配的である事から分かる。ただしこの可視化・定着化させる文字を生み出した人々は限られる。

・しかし文字を持たなくても、音声としての言語だけで、ある程度に達せられる。教育システムが未完備の国では、文字を読めない人が多くいる。インカ帝国はキープ(結縄)を持っていたが、これは数量を表すだけだった。遊牧民は文字を持たない場合が多い。匈奴は文字を持たなかったし、突厥も最初は文字を持たなかった。モンゴル人も文字を持たなかったが、大征服を始めて半世紀後から文字を持つようになった。日本も文字を待たず、『魏志倭人伝』がなければ、邪馬台国の存在は知られなかった。一般的に四大文明で文字が発明されたとされている。※ひらがなは何時生まれたんだ?

○メソポタミア楔形文字
・最も古いのがメソポタミア文明の楔形文字である。この地域の南端に住むシュメール人は粘土板に楔形文字を刻んだ。※以前シュメールの本を読んだが、図書館とかもあったらしい。罰則なども残っていたと思う。また都市国家で、それぞれが別の神を祀っていた。
・シュメール語は他言語との併記が残っており、解読されている。シュメール語は単語の前後に接頭辞/接尾辞を付ける「膠着語」である。シュメール語は、その北西に住んでいたセム語系のアッカド人/バビロニア人/アッシリア人に受け継がれた。さらに北方イラン高原のアケメネス朝ペルシア、アナトリア東部のヒッタイト人にも受容された。

・楔形文字は粘土板に刻まれたため、多くの文書が残された。ところが1世紀頃、死文字になる。理由は、使いやすい羊皮やパピルスに書ける文字に移行したと考えられる。
※常に粘土板を携帯するのは不便だからな。アレクサンダー大王の遠征により、フェニキア文字(ギリシア文字、シリア文字など)に置き換わったのかな。なおアケメネス朝ペルシア(前550~前330年)では楔形文字が使用されたが、アルサケス朝ペルシア(前247~224年)では楔形文字/ギリシア文字/アラム文字などが使用され、ササン朝ペルシア(226~651年)ではフェニキア文字に近いパフレヴィー文字が使用されている。
・しかしこの楔形文字世界は、バビロニア/アッシリア/アケメネス朝ペルシアなどの大帝国生み、この統治システムはローマ帝国/イスラム世界に影響を与えている。天文では太陰暦を発達させ、時間が60進法なのもこれによる。※シュメール文化は本当に凄かったと思う。

○エジプトのヒエログリフ
・世界で2番目に生まれたのが、エジプトのヒエログリフ(神聖文字)である。ヒエログリフは象形文字で、ナイルに茂る葦で作られたパピルスに書かれた。メソポタミアは四方が開けていたが、エジプトは三方が砂漠で、北は地中海に守られた。そのため比較的平穏で、多くのパピルスが残った。
・エジプト文明はオリエントの西南にあり、楔形文字世界とは大きく異なる。ヒエログリフは今では云われないがハム語の言語である(※今はハム語は使われず、古代エジプト語/ベルベル語に分かれる)。ヒエログリフ世界では太陽暦が用いられ、10進法を発達させた。この太陽暦はローマでユリウス暦/グレゴリオ暦になり、今の暦になっている。

・ヒエログリフは外に拡がらず、3~4世紀頃に死文字になる。しかし簡略化され、表意文字から表音文字のシナイ文字になり、さらにセム系のフェニキア人のフェニキア文字になる。※こんな変化があったの!

○フェニキア文字から東西へ
・フェニキア文字は東西に拡がった。ギリシア人がフェニキア文字からギリシア文字を作り、エトルリア人がギリシア文字からエトルリア文字を作り、ローマ人がギリシア文字/エトルリア文字からラテン文字を作った。西ローマ帝国は滅ぶが、それを引き継いだ西欧キリスト教世界は大航海時代に、南北アメリカ/オーストラリア大陸/サハラ以南をラテン文字世界にした。

・東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の公用語はギリシア語だった。ギリシア文字からキリル文字が作られ、スラヴ人/ブルガリア人の教化に使われた(※キリル文字が生まれたのは10世紀で新しい)。さらに北方のキエフ公国/モスクワ公国に伝わりギリシア・キリル文字世界を形成した。1453年ビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされ、ギリシア・キリル文字世界の重心は北方に移動し、東欧正教世界になる。

○インダス文字からブラーフミー文字へ
・3番目に文字が生まれたのはインダスである。インダスには独自の表意文字・インダス文字があったが、紀元前1500年頃に死文字になった。この文字は長文が残されておらず、対訳文書も残されていないため、未解読である。
・インダス文明が滅んで数世紀後、印欧系のアーリア人がインドに入り、『ヴェーダ』を聖典とするバラモン教を奉じて独自の文化を形成する。紀元前4世紀頃、マウリア朝はインド亜大陸の大半を統一する。この頃最初の文字・カロシュティー文字が作られが、まもなく廃れる。これはフェニキア文字から派生したアラム文字から作られていた。

・次に生まれたのがブラーフミー文字で、この起源については議論が続いている。この文字は、サンスクリット/プラクリット/パーリ語・ヒンドゥー語のデーヴァナーガリー文字に使われている。さらにインド北方のネパール/ブータン、南方のスリランカ、東南アジアのビルマ/タイ/ラオス/カンボジアの文字に用いられている。本書ではブラーフミー文字系の文字を梵字系とする。※ブラーフミー文字はフェニキア文字と似ているが、梵字系のクネクネしたサンスクリット/ヒンドゥー語とは似ていない気がする。
・この梵字(ブラーフミー文字)はヒンドゥー教のインド、上座部仏教のスリランカ/東南アジア。密教のチベットで受容された。インドではバラモン教が発展したヒンドゥー教が信じられている。バラモン教の改革派である仏教は日本に伝わり、圧倒的な信者を集めている。また零はアラビア数字として西欧に伝わったが、その起源は梵字世界である。

○漢字と漢字世界
・最後に登場したのが黄河流域の漢字である。源流は甲骨文字で、次に金文になる。墨と筆で書かれるようになり、篆書/隷書/楷書と引き継がれた。ヴェトナム/朝鮮/日本/琉球は漢字を受容した。これにより東アジア・儒教・仏教世界(漢字世界)が形成された。漢字世界は科挙や箸を生み、これらが周辺に受容されている。
・四大文明の文字で楔形文字/インダス文字は死文字となった。ヒエログリフはそれ自体は死文字になるが、フェニキア文字になりギリシア文字/ラテン文字になった。唯一漢字は本来の姿を留めている。

○新しいアラビア文字世界
・今日は四大文字圏(字ラテン文字圏、ギリシア・キリル文字圏、梵字圏、漢字圏)に覆われているが、それに加えアラビア文字圏が存在する。これは新たに成立した文字圏である。7世紀初頭アラビア半島のメッカでイスラム教が創始されるが、その「アラブの大征服」により、ローマ帝国の南半/パルティア/ササン朝ペルシアで包摂された全く新しい文字である。※全く新しい文字かな?アラビア文字もフェニキア文字から派生したとある。アラビア文字とデーヴァナーガリー文字(ヒンドゥー語)も似ている。しかし筆記方向が違うかな。

○文字と文字世界
・文字は文明発展の最重要要素である。その文字は限られた地域で生まれた。そしてその中心をなす人間集団の母語が文明について語る文明語になり、文化について語る文化語になった(※一部で母国語が使われているが母語で統一。※文明語・文化語って何だ?)。文化・文明語の受容は、語彙の受容であり、思考・表現の受容である。これにより文化的に共通の特性を持つ文字世界を創出した。
・大航海時代以降、西欧人を原動力とするグローバリゼーションが始まる。これにより各文字世界が帯びていた相対的自己完結性は解消されるが、文化圏/文字圏としての相対的差異性は保たれている。それは宗教の分立に表れている。※自己完結性って何?説明して欲しい。

・人類は「経験知」を積み重ね、「何故か」「何をすべきか」を思考するようになり、「体系知」を創出し始めた。次章では、人類が「体系知」を「宗教」と「科学」に分離させた過程を見る。「宗教」は文化の核心になり、「科学」は文明の発展に貢献した。
※文字の系統は面白かった。フェニキアは商人だったかな、もう少し知りたい。

<第3章 知の体系の分化-宗教と科学と>
○言語・文字と知の体系
・動物にも経験と学習による経験知はあるかもしれない。これは研究を進めないと分からない。とはいえ、人間は言語を持ち、それに加え文字を持ち、人間の知の集積能力は動物を遥かに超える。

○個別的経験知と体系的な知と
・個別的な体験を通じて得られる個別的経験知は動物も持っている。「この草は危ない」「この実は赤くなると甘い」などは動物も持っている。しかし「この草は、あの症状に効く」となると民間医療になる。さらに個別的経験知が集積すると漢方薬の世界になる。さらに「何故あの草が、あの症状に効くのか」を証明しようとすると、個別的分野の知の体系としての漢方医学になる。※冗長的。最後は学問かな。
・もっとも薬草/薬効の知識は漢方医学になったが、そうならないものもある。例えば職人の技がある。寿司職人の「しゃり」の処理はコツが必要だが、最近ではロボットでも可能になってきた。これらは個別的経験知の世界である。

・人類は知を体系的に捉えようとするに至った。それを担ったのが「神官」だった。

○自然的世界と超自然的世界の混然一体
・我々は経験的に観測し得る世界を「自然的世界」、それを超えた世界を「超自然的世界」とし、前者が体系化されたものを「科学」、後者を「宗教」としている。※何これ?前者は現実で、後者は空想的なので非現実かな。
・しかし両者が分離したのは、17~19世紀の西欧においてであり、過去においては両者が混然一体となっていた。その世界において体系知を待ったのが神官で、天体の運行/暦/吉兆凶兆は「神官」が司っていた。要するに今の天文学と占星術が一体だった。※超自然的世界の具体例がもっと欲しい。例えば人に関して最も重要なのは疾病・生死などで、農耕で最も重要なのは降雨などの気象かな。

・エジプトは正確な天体観測で太陽暦を生んだ。これはローマで「ユリウス暦」になり、16世紀「グレゴリオ暦」になった。東欧正教世界のロシアでは、ロシア革命後になってグレゴリオ暦が受容された。オスマン帝国では太陰暦の「ヒジュラ歴」(イスラム暦)が採用され、1年は354日または355日だった。そのため財政運営には不便で、ユリウス暦を「ローマ暦」と呼んで用いた。
・中国では精緻な太陰太陽暦が生み出され、周辺の朝貢国でも受容された。一方で神羅万象が天子の責とされ、天変地異も天子の責とされた。「自然的世界」の秩序も、超自然的なものとされていた。※難解。天子も神官の1つかな。
・世の浮沈/人の運命は特殊な技を用いる者のみ知り得るとされた。その典型が甲骨文字である。それは「易」を生み、「四書五経」の『易経』になった。

○星占いの伝播
・メソポタミアの「星占い」は東西に伝播した。オスマン帝国の天文官は天文学者であり、占星術師でもあった。そのため19世紀エジプト総督ムハンマド・アリーがアナトリアを目指した時、占星術師が「即戦は避けよ」としたため、アリー軍に休養を与え、オスマン帝国軍は敗れる。
・日本でも占いが盛んで、皇族貴族は外出するにも吉凶を占った。「陰陽道」は学問になり、安倍晴明は名声を博した陰陽家だった。
・西欧ではカトリック教会が星占いを異端としたため、公式の制度にはならなかったが、民間では盛行した。「手相術」などの「観相術」も東西に存在する。

・この様に「超自然的世界」と「自然的世界」が混然一体となっていたため(※正しくは自然的世界が小さく、超自然的世界が大半だったのでは)、「凶を祓い、吉を招く」事が神官の重要な任務だった。これが神社の「お祓い」であり、現代の新興宗教もこれを継承している。カトリック教会にも「悪魔祓い」が存在する。

・「超自然的世界」と「自然的世界」の混在は、アニミズムにも通じる。丸山眞男の「成る世界」も日本のアニミズム的自然観を表している(※以前古事記の「成る」と「生む」の違いを読んだ。「成る」は「無から成り」、「生む」は「有から生まれる」だったかな)。精霊は上座部仏教にもイスラム教にもある。

・この様に「超自然的世界」と「自然的世界」が混然一体となった世界では、神官が体系知を司っていた。それは「宗教」そのものだった。しかし「超自然的世界」を許容しつつ、「自然的世界」の個別的体験知が集約されるようになる。これを「科学」と呼ぶ。

○ギリシア、アラビア、近代科学
・「科学は、自然的世界についての経験的に観察・検証し得る知識の体系」と定義できる。この淵源がギリシア・ラテン文字世界のギリシアだ。ギリシアはエジプトで蓄積された知識を整理し、アレクサンダー大王後の「ヘレニズム時代」にそれを一層進めた。ピタゴラスの定理が生まれ、ユークリッドの『原論』が著され、幾何学が発展した。アルキメデスは比重の原理を生んだ。医学ではヒポクラテス/ガレノスが個別的経験知を体系化した。ガレノスは人体は「四体液」から成るとし、疾病は神や悪魔に依らないとした。これは「科学」(知の体系)の分化の始まりである。
・体系知の探究は、アラビア文字世界(イスラム世界)でさらに進展する。ギリシア語古典はアラビア語に翻訳された。これらのアラビア語文献がラテン語に翻訳され、西欧世界にも拡がった。代数学はアラビア語のアルジェブラになった。インドで発明された零がアラビア数字になり、西欧はそれを受容した。
・天文学も発達するが、イスラム世界では、「太陽が東から登り、西に沈む」のはアッラーの御意思とされた。医学も発展し、11世紀イブン・スィーナーは『医学典範』を著した。西欧ではこれを、17世紀まで大学医学部の教科書とした。物質の探究も進み、アラビア語のケミストリーが「化学」になった。ただし当時の化学は、「銅も金に変えられる」(錬金術)とするものだった。17~18世紀に生きたニュートンでさえ、錬金術に多大な時間を費やしている。

・「近代科学」を生み出した西欧でも、カトリック教会の教養が絶対的大前提で、ガリレオ・ガリレイ(1564~1642年)は地動説を唱え、告発された。※逆にこれらが教会の権威を失墜させたかな。
・16~18世紀、宗教革命が起き、世俗的権力が合理化され、絶対王政が形成される。そんな中、「神の天地創造は認めるが、その後は神は干渉しない」とする「理神論」が生まれる(※幾らか譲ったんだ)。これは「科学の宗教からの分離」を決定付けた。

○内面的信仰としての宗教へ
・「超自然的世界」と「自然的世界」の混然一体から、「超自然的世界」と「自然的世界」が分離し始める。「超自然的世界」の知の体系は「宗教」、「自然的世界」の知の体系は「科学」と呼ばれるようになる。※前者にも知の体系があるのか。前者は宗教とは限らず、単に非科学では。
・「宗教」は、人間の内面に関わるものになり、人間存在の意味を説き、人間の行うべき規範を示し、人々に平安/癒し/救いをもたらすものになった。これはミクロ・コスモスに深く関わっている。

・しかし宗教のその在り方は様々である。唯一絶対神の創造神を持つユダヤ教/キリスト教/イスラム教と、それを持たないヒンドゥー教/仏教では、世界と人間の意味が異なる。
・ユダヤ教/イスラム教の「戒律」は厳しい。ユダヤ教のトーラー、イスラム教のシャリーアは法律的部分を含んでいる。一方ユダヤ教の改革派であるキリスト教に法律的部分は含まれていない。一神教でないバラモン教/ヒンドゥー教はダルマと呼ばれる戒律を有し、そこには法律的部分が含まれる。一方仏教は法律的部を含む戒律はない。※キリスト教/仏教は甘いのか。

・イスラム教/ユダヤ教は政教一元である。しかしユダヤ教はユダヤ王国が滅亡し、イスラエル共和国が建国されるまで、ハザールを除き国を持たなかた(※ハザールと云う国があったのか)。またイスラエル共和国も正式には「ユダヤ教国家」ではない(※これは憲法の規定かな)。イスラム教は預言者ムハンマドが政治権力を握って以来、政教一元である。今日ではサウディ・アラビア/イランなどが実在する。

・中世西欧は政教が不分離だった。キリスト教は「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」だったが、ローマ帝国とキリスト教が接近し、国教化し、一体化した。イスラム教は政教は融合したガラスで、キリスト教は政教は撚った糸だった(※一元と一体だな)。この政教一体は近世になるとほころび始め、市民革命後は政教分離が原則になる。
・この様な状態になると、宗教は個人の内面の信仰だけの位置づけになる。西欧がイノヴェーションの源泉になってくると、この政教分離がグローバル・スタンダードになる。これに伴いトルコ共和国のように世俗的民族国家が生まれた。日本は明治維新で神道を「国家神道」とするが、第2次世界大戦で敗れ、世俗的国民国家になる。

○科学による反証
・人類唯一の体系知だった宗教から科学が分離し始める。これは外的世界(マクロ・コスモス)で様々なイノヴェーションを起こした西欧世界で進行した。キリスト教においても天動説が地動説に代わり、宇宙の起源は「創世記」でないとされ、「人間は神により創られた」のではないとなり、「疾病は細菌/ウイルスなどによる」となった。これらの宗教上の言説は科学により反証された。
・心の平静/癒しも心理学・精神医学により超自然ベースでない方策が示されてきた。「超自然的世界」の存在を前提とする「宗教」はその領域を狭められている。人間が行うべき規範も「倫理学」により代替が進んでいる。

・しかし科学は、宇宙・人間が存在する意味を答えられない。倫理学も、絶対的な「人倫の基い」(?)を与えられない。また科学・文明は、「死後の世界における救い」などの「心の救い」を与えられない。※死後の世界はない。あるのは現世での苦悩。

○個別科学と体系知としての哲学と ※何で「と」で終わるんだ。
・科学は分離独立したため、かつて人間の唯一の体系知だった宗教のような体系性はない。その役目を期待されていたのが「哲学」だった。ところが西欧世界では「哲学は神学の婢女」とされ、イスラム世界では「哲学は人間のさかしら(※出過ぎた振る舞い)」とされた。
・しかし近世になると「哲学」と「神学」が逆転する。まず認識の主体である「個」が限定される。カントがこれを認識論で体系化した。そしてヘーゲルが歴史を理性の展開とし、近代西欧をその最高段階とした。哲学的認識論は人間特有の理性を前提にしている。しかし人間の理性は、人間特有なものなのだろうか。「人間の理性」は、人間が到達している「認知能力」の段階と捉えるべきであり、進化の過程で育まれた連続性を持つ。※この辺り難解なので簡略化。

・認識論については個別科学としての認知科学によって分離される。また存在論も物理学の領域になりつつある。歴史哲学者イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』は巨視的世界史/歴史社会学で、哲学に当たらない。第1次世界大戦後に衝撃を与えたオズワルド・シュペングラー『西洋の没落』も巨視的世界史/比較文化論に過ぎない。※これも理解できず。
・「歴史は何か」を問う歴史哲学は哲学ではなく、歴史認識論/史学方法論の範疇に入ると考える。※「大仰に哲学に含めるな」と云う事か。

・こうして見ていくと、「宗教」がその領域を狭められたように、哲学も個別的科学/個別的学問によりその領域を狭められている。とはいえ、個別的科学は個別的であり、これらを総合的に位置づける学問も必要であろう。

・本章では、「自然的世界」の検証可能な体系知である科学の誕生・発展を見てきた。科学が「外的世界」のハードの文明の発展に重要だった事は明らかである。次章では、ソフトの文明の典型である「組織」について述べる。

<第4章 文明としての組織、文化としての組織>
○メガ・マシーンとしての支配組織
・人類が生物界で覇権を握った要因に、道具の使用、思考力の発達などがある(※覇権は握っていないと思うが)。また本章の「組織の構築」もこれに当たる。人間もグループで狩りをしていたが、農耕を始めると、本能に基づく組織とは異なるものを作り始める。人間は集住するようになり、その秩序を保つシステムが必要になる。外部からの攻撃に対抗する手段も必要になる。また生産を維持・拡大するための開発に、大型の組織が必要になる(※インフラの事かな)。チグリス・ユーフラテス/ナイル/黄河の治水・灌漑に組織は必要だった。
・文明評論家ルイス・マンフォードは、これをメガ・マシーン(巨大組織)とした。また社会学者カール・ウィットフォーゲルは、このデスポット(専制君主)を頂点とする組織を「オリエンタル・デスポティズム」(東洋的専制)とした。

○家族と云う組織-血統の貴さ、家門の誉れ
・組織に要員を提供するのは「家族」だった。家族には文化に規定された様々な形があり、成立する組織は文化の強い刻印を帯びた(※難しい表現)。家族は血縁を基にしたが、人類が地球上に拡がり、独自の文化が形成され、家族の在り方も文化に大きく影響された。

・内藤湖南(1866~1934年)は、「西洋/中国の家族は血の繋がりを重んじ、その誇りは『血統の貴さ』にある。一方日本の家は、『家門の誉れ』にある」とした。西欧でも養子を取るが、血の繋がりが求められる。1688年英国の名誉革命でジェームズ2世が廃され、オレンジ公ウィリアムが招かれるが、彼はチャールズ1世の外孫であり、妃のメアリはジェームズ2世の娘だった。
・日本では、皇室/将軍は血縁者が必須だったが、大名家/武家/庶民は、血縁のない者でも養子にした。将棋所の大橋家/伊藤家では、棋力の優れた者を婿養子にした。商家でも腕の利く番頭などに跡を継がせた。日本の「家」は血縁集団ではなく経営体で、西欧のファミリー、中国の宗族とは性質が異なった。

○長子相続か均分相続か
・日本では鎌倉時代頃から、長子が総領になり、長子が全財産を相続するようになる。これは江戸時代に行き渡り、明治時代に民法で決められる。中国/イスラムでは均分相続である。中国では「科挙」が行われ、一家から合格者が出るかが大変重要だった(※「全国でたった100人」と後述されているが)。イスラムでは養子が禁止されている。しかし婿養子は取れないが、婿は取れる。この場合、「偉い人の家」(バイト、カブ)の権威・富は保たれた。※それなら養子に近いのでは。
・日本は養子が盛んだったが、家柄が釣り合う家か、あるいは経済的に困っている時は金持ちから養子を取った(※勝海舟の父の話が説明されている)。他方イスラムでは子供の奴隷を買い入れ、育て、優秀であれば娘婿にした。※イスラムは一夫多妻/女性の財産を認めるなど、過酷な自然環境なので、人や財産に関する規律が柔軟なのかな。

・中国/イスラムは均分相続だった。清の康熙帝は皇太子を建てるが廃嫡している。結局雍正帝が跡継ぎになるが、これは成功だった。雍正帝は意中の跡継ぎを宮中の額の裏に封じた。
・イスラムでも皇位継承の順位は定まらなかった。14世紀末から16世紀末までは、君主が亡くなると、王子達が争い、生き残った者が君主に就いた。逆にこのため、第10代スレイマン大帝(位1522~66年)まで愚帝はいない(※面白い話だな)。ところが「兄弟殺し」が過ぎるようになったため、17世紀皇位継嗣者を2人とし、彼らを後宮に押し込め、年長順に継承させる制度になる。彼らは黒人宦官と女奴隷にかしずかれ、教育も受けられず、頼りない君主が続く。しかしこの頃には大臣が実務を行っており、親政の必要はなかった。

・江戸幕府は「とにかく長男」だったが、ここでも幕府は老中、諸大名は家老が実権を握っていた。そのため都合が悪い殿様は座敷牢に「押し込め」られ、新しい殿様が立てられた。※たまに存命しているのに、短い期間で藩主を終える人がいる。
・明治の財閥(三井財閥、住友財閥など)も実権は番頭らが握り、当主は「統合の象徴」だった。近代化が進むと、大学で学んだ團琢磨/小倉正恒などの専門家が経営を仕切った。ただし三菱財閥などの新興財閥は、岩崎弥太郎などの親族が陣頭指揮を取った。しかし終戦で財閥は解体され系列になり、親族は経営から身を引いた。これにより同族経営者から専門経営者への移行がスムーズに行われた。※三等重役の言葉もあるが。

○東洋的専制
・話を巨大組織に戻す。四大文字世界で文明が発展したのは、大河をコントロールし、農地を開発し、多くの人を養えるようになったからだ。これを維持するために巨大な組織が生まれ、それは君主専制的・中央集権的な組織になった。これが前述したウィットフォーゲルの東洋的専制である。漢字世界の中国では、秦の始皇帝により、これが成立した。
・ヒエログリフ世界では、ヒエログリフが現れた頃には上エジプトと下エジプトが統一され、全国はノモスに分かれた。ファラオの下に君主専制的・中央集権的な組織が成立した。これは3千年も続く。
・楔形文字世界では、シュメール人後のアッカド人の時代から組織が生まれ、バビロニア帝国/アッシリア帝国/アケメネス朝ペルシアなどの君主専制的・中央集権的な組織が成立する。アケメネス朝では、全国は属州に分かれ、サトラップ(総督)が派遣された。アレクサンダーに滅ぼされた後は、アレクサンダー帝国/ヘレニズム諸王朝/ローマ帝国/ビザンツ帝国が成立する。※アレクサンダー後の帝国は楔形文字ではなく、ギリシア文字/ラテン文字かな。

○空間固定型の帝国、エジプトと中国
・ウィットフォーゲルの東洋的専制には2種類ある。空間固定型の帝国と空間拡張型の帝国である。ヒエログリフ世界のエジプトの版図は、原初からプトレマイオス朝までナイルに限定された。
・漢字世界の中国は、黄河流域に発し、その版図を徐々に拡大した。しかし東のシナ海/北のゴビ砂漠/西北のタリム盆地/西のチベット・ヒマラヤを超えなかった。唯一サマルカンドまで勢力を伸ばしたのが、鮮卑と関係があった唐だけである。その周辺の朝鮮/日本/ヴェトナムの拡大も限られた。

○空間拡張型の楔形文字世界
・一方楔形文字世界の支配組織は「四通八達」の地理的環境から、版図を可能な限り拡張した。アッシリア帝国はエジプトを一時期支配した。アケメネス朝ペルシアはエジプト/アナトリア/バルカン半島まで支配した。そのため彼らの軍隊は機動力・瞬発力を持った。※鉄器/戦車などはメソポタミアで生まれたと思う。
・漢字世界の中国は、機動力・瞬発力に欠けたが、凝集力・耐久力を有した。征服王朝・清では、満州が「東三省」として漢化された。※元も同様に漢化したかな。
・一方楔形文字世界の諸帝国は興亡を繰り返した。最後のササン朝ペルシア(226~651年)はイスラム世界に包摂され、消滅した。※ササン朝ペルシアは既に楔形文字を使っていない。楔形文字はアレクサンダー後は衰退した。

○空間拡張型の典型、ローマ帝国
・ギリシア文字世界のギリシアは統一されず、スパルタ/アテネ/スパルタ/テーベと覇権が移った。これに対しローマは、イタリア半島を収め、カルタゴを滅ぼし、北アフリカ/イベリアを支配した。東方では、バルカン半島/アナトリア/シリア/エジプトを支配下に置いた。北方では、ガリア/ゲルマニア南部/ブリタニアを包摂した。この拡大は「五賢帝」の時代に完了した。
・ローマ帝国の拡大は機動力・瞬発力に富む軍隊による。君主専制的・中央集権的な支配組織は、284年即位したディオクレティアヌス帝により整備された。しかし395年ローマ帝国は東西に分裂し、476年西ローマ帝国は滅亡する。
・存続した東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は空間固定型の帝国になる。それは西方の征服は困難になり、東方にはササン朝ペルシアが存在したためである。7世紀になるとイスラム世界が台頭し、版図はバルカン/アナトリアに限定された。
・「組織のローマ帝国」と云われるが、機動力・瞬発力には優れていたが、凝集力・耐久力・同化力は中華帝国に及ばない。※群雄割拠の西洋と一強の東洋では地政学が異なるかな。

○ギリシア・ローマの支配組織とリクルートメント
・支配組織の強弱は、人員補充(リクルートメント)に深く関わる。ギリシアでは市民全員が重装歩兵として軍務に就いた。スパルタでは女子にも軍役義務があった。それは隷属民となった先住民が多数を占めていたからである。これは今のイスラエルがそうである。ただしスパルタでは、市民は貴族と平民に分かれ、政策決定に関われるのは貴族だけだった。
・一方アテネでは平民が力を持ち、「民主政」が実現していた(※ギリシアの全てではなく、一部が民主政だったのか)。民主政にはフィードバック機能があるが、扇動家により衆愚政治に陥る恐れがある。アテネはそれでスパルタに敗れた。
・ギリシアでは専門の役人が育たず、素人が支配組織を運営した。ローマは市民全員が軍役の義務を負ったが、市民は貴族と平民に分かれ、貴族でも元老院議員になれる/なれないがあった。実際の人事は、家柄と親分子分関係で決まった。

○科挙が決めた凝集力
・漢字世界の中国では、支配組織の幹部要員を能力試験「科挙」で採用した。春秋戦国時代、有力者は人材を「食客」(居候)として抱えた。その内、地方の有能人材を吸い上げる「郷挙里選」「九品中正」が行われる。随代で、能力試験が行われるようになり、唐代に科挙となる。大貴族もいたが五代十国になると没落し、宋代になると、高官になるには科挙しかなくなった。
・科挙は厳格で、カンニングがあれば、本人・親族だけでなく、試験官も死刑になった。そして試験に受かるのは100人前後だった。しかしこの試験は儒学/詩文のため役に立たず、後世の評判は悪い(※暗記なので、文章を書く能力は高いかな)。しかし問題処理能力の高い者がキャリア官僚になり、支配階級の中核になった事で、統一を保ち、外敵の侵入を防ぎ、アイデンティティーを保持した。
・この受験世界は朝鮮/ヴェトナムでも受容され、近代まで続いた。ところが日本/琉球では採用されず、家柄が重視された。これは日本/琉球が中国本土から離れていたからだろう。ただし琉球には国費留学制度があり、これに選ばれるには試験があった。そして留学し漢文/儒学/技芸を学んだ者が、実際出世した。

○近代官僚制と非西欧諸社会
・西欧が能力試験を採用するようになったのは19世紀である。とはいっても絶対王政の17世紀から「近代官僚制」が出来上がっていた。これは各組織の権限が法律で定められていたため、効率が良かった。非西欧諸社会は「西洋の衝撃」により、「西洋化」「近代化」に努めた。※西洋化と西欧化が混在しているが、西洋化に統一。

・これにいち早く取り組んだのがロシアのピョートル大帝(位1682~1725年)だった。日本は明治維新から、西洋化を進めたが、中国は遅れを取った。
・オスマン帝国も早くから「西洋化」を進めた。1683年第2次ウィーン包囲で大敗し、1699年ハンガリーの大部分を失い、1718年ハンガリーを完全に失う。しかし守旧派の常備歩兵団イェニチェリが西洋化を妨害する。そのため「本格的に改革が進められたのは、マフムート2世(位1808~39年)からである。1839年タンズィマート改革が始まり、1876年オスマン帝国憲法が発布されている。しかし露土戦争(1877~78年)で大敗し、第1次世界大戦で敗れ、1922年オスマン帝国は消滅する。

・このオスマン帝国の西洋化と日本の明治維新は、国際環境と統合の在り方(※政府?宗教?)が異なった。しかしもう1つ重要なのは、日本は「富国強兵」「殖産興業」から経済改革が行われたが、トルコでは次のムスタファ・ケマル・パシャ(アタチュルク)のトルコ共和国になってから、経済改革が行われた。※イスラム教の戒律が妨げになったのかな。

○ヒエラルキー型組織としてのカトリック教会
・人間の組織は「家族」から始まり、巨大な支配組織(メガ・マシーン)を作るようになった。それに匹敵するのが「宗教」である。もっともイスラム教は信者が直接神と相対するため、メガ・マシーンは生まれなかった。これに対し、カトリックは「教会」を生んだ。教会はローマ教皇を頂点とし、膨大な信者を包摂し、地域/国境/民族/人種を超えた普遍的組織となった。※これこそ超巨大組織だな。

○家から企業へ
・日本の経済組織は商家で、「家」の原理に則り、「のれん分け」により拡大した。三井家/住友家などは明治になると「財閥」にまで成長する。しかし戦後、財閥は解体され、「系列」となった。新興国では財閥が経済発展の原動力になり、第2世代/第3世代に移行している。ところがこれが今問題になっている。※独占とか汚職かな。

・資本主義においては、近代西欧モデルがグローバル・モデルとして受容されるようになった。しかし文豪ディケンズ『クリスマス・キャロル』にあったような小規模の組織もある。実際、化学会社デュポン/自動車会社GMも、最初は家族経営の会社だった(※スタートアップかな)。これらの会社は当初は中央集権的なヒエラルキー組織だが、巨大化すると事業部制に移行している。

○ソフトの文明としての組織
・機械はハードな文明の代表だが、組織はソフトな文明の代表である。組織は文化の担い手であるヒトを成素とするため、文化の刻印を色濃く帯びる(※難しい表現。「文化の影響を強く受ける」かな)。そのため環境が変われば、比較優位の組織も変わる。
・1980年代は日本型組織がもてはやされた。しかし90年代になると日本は「失われた時代」に入り、米国型組織がグローバル・モデルになり、グローバリゼーションが始まる(※単に円安が日本経済を支えたのでは)。終身雇用/年功序列から実績主義が叫ばれるようになった。

・ここまで「行け行けドンドン」を解説したが、それに伴う負の要素に対し、フィードバック機能が必要と思う。

<第5章 衣食住の比較文化>
○住まいの形-遊牧民、狩猟民、定住民
・これまでは宗教/科学/組織など日々の暮らしとは離れた事項を見てきた。本章では衣食住について述べる。そもそも文明は楽に生活するために発展した。雨露を防ぐため住居が生まれ、暑さ寒さに備えるため衣服を纏い、より食べ易くするため煮炊きを始めた。まずは住から述べる。

・日本人からすると定住が当然だが、世界には遊牧民/狩猟民がいる。中国の最後の「前近代」の清朝は狩猟民の女真人が立てた。世界最大の帝国は遊牧民のモンゴル人が立てている。遊牧民のモンゴル人はパオ、トルコ人はチャドルで暮らす。彼らは必要最小限の物を携え、移動する。一方農民は定住するが、家の形は入手しやすい建材や地勢により、同じ文字世界でも様々である。アラビア文字世界では木造/石造/泥煉瓦などの家がある。
・なお文明(civilization)は、ローマのキヴィタス(都市)が語源である。これは多くの考古学者・人類学者が、「都市の誕生が文明の始まり」としている点にも表れている。

○都市を囲む城壁
・世界の都市の多くは城壁で囲まれている。ビザンツ帝国のコンスタンティノポリスは三重の城壁に囲まれている。ハプスブルク帝国のウィーンは17世紀、大砲に備えた城壁が造られ、1683年オスマン帝国の包囲に持ちこたえた。しかし最新の大砲には無力になり、19世紀中葉に取り壊され、今は環状道路になっている。※江戸城の堀と同じだな。
・漢字世界の中国/朝鮮の都市は城壁に囲まれたが、日本の都市は城壁に囲まれなかった。それは異民族への脅威が存在しなかったからである。唯一あるのが戦国時代の小田原である。※大野城や元寇防塁もある。

○宗教の刻印
・都市には宗教の刻印が色濃く表れる。キリスト教世界では教会のドーム/鐘楼、イスラム世界ではモスクのドーム/尖塔ミナレットが見られる。またイスラム世界では礼拝の時を告げるアザーンが聞こえる。※ムスリムはこれに感動するらしい。

・宗教は人々の暮らしの秩序も支配した。両キリスト教世界では日曜日が安息日になり、就労せず、教会に赴く。イスラム世界では安息日はないが、金曜日の昼は共同礼拝に参加する。ユダヤ教は土曜日が安息日で労働が禁じられている。そのため土曜日のテレビ放送が許されるか問題になった。ユダヤ教/イスラム教では日没で日にちが変わる。そのため歴史研究では苦労する。※これは知らなかった。日本の不定時法と少し似ている。日にちは日没より、日の出で変えた方が良いと感じるが。

○後宮とハレム
・漢字世界の大陸部では、宮殿の女性の居所は後宮と呼ばれ、宦官もいた。君主の私的空間は内朝、公的空間は外朝と呼ばれた。日本の江戸時代では、女性の居所は大奥、男性の私的空間は中奥、公的空間は表と呼ばれた。大奥に宦官はいなかった。
・イスラム世界では、女性の居所はハレム(後宮)、男性の居所はエンデルン(内廷)と呼ばれた。その外に公的空間のビルン(外廷)が置かれた。ハレムには黒人宦官、エンデルンには白人宦官/小姓がかしずいた(※宦官は東洋だけと思っていた)。民家でも女性の居所はハレム、男性の居所はセラームルクとして分けられた(※そうなの?男女が一緒にいるのを見た気もするが)。これに対し、キリスト教世界では男女は分けられず、社交世界が生まれた。

・ギリシア・ローマ世界/両キリスト教世界では、家屋ではテーブル/椅子が基本で、寝所はベッドである。イスラム世界では、床に絨毯を敷き座する。寝所は布団戸棚から布団を上げ下げする(※木材が豊富にあるかの違いかな)。漢字世界の中国では床に座していたが、卓/椅子を使うようになる。日本は床に座す方式が続いた。

○独自の衣文化
・「衣」の世界は、「住」の世界以上に文化を象徴化する。しかしその「衣」も時代により変化する。漢字世界の中国では、前合わせで帯を締めるスタイルだった。このスタイルは漢字世界に拡がり、独自に発展をする。
・朝鮮では男性はパジ・チョゴリ、女性はチマ・チョゴリとなった。日本では、飛鳥時代の支配層は唐風で、冕冠を被った。しかし奈良時代になると国風化され、束帯となり、被り物も独特の冠になった。※詳述されているが省略。
・武士は男性は狩衣、女性は小袖・帯だった。江戸時代になると上級者は狩衣/布衣、下級者は紋付上下/紋付羽織・袴となった(※与力について詳述されているが省略)。町人は紋付羽織・袴/着流しとなり、女性は今に伝わる和服・帯になった。くつろぎ着は浴衣だった。

○旗袍は中国服ではない
・征服王朝の元朝はモンゴルの風習を強制しなかった。しかし女真人の清朝は、満州服/辮髪/纏足など様々なものを強制した。これにより前合わせで帯を締める伝統服は衰えた。それが「支那服」「中国旗袍」(※チャイナドレス)となった。辮髪は強制されたもので、「太平天国の乱」の参加者は長髪になった。辛亥革命により清朝が廃されると、辮髪狩りが始まった。

○ターバンとヒジャーブと ※時々最後に「と」を付けるが、もう1つあるみたい。
・アラビア文字世界のイスラム世界は、宗教に基づく衣服を創り出した。預言者ムハンマドは商人だったが、その数代前は遊牧民だった。そのため遊牧民の風俗が色濃く残っている。髪は洗髪が難しいため、剃り上げる習いがある。そのため礼儀として、男性はターバンを被る。女性は顔/髪/体の線を晒す事ができないため、ブルカ(アラビア語)/チャドル(トルコ語)を着て、ヒジャーブ(アラビア語)/チャルシャフ(トルコ語)を被る。※アラビア語とトルコ語で随分違う。
・イスラム世界も「近代化」「西洋化」により「世俗化」が進められたが、原理主義ワッハーブ派のサウディ・アラビアでは、頭を覆わぬ女性は取り締まりに合う。イランもイラン・イスラーム革命により、女性は頭を覆わなければいけなくなった。

○ギリシア・ローマ風から西欧風へ
・ギリシア/ローマでは裸体の上に布(トガ)を纏った。これはビザンツ世界(東欧正教世界)にも引き継がれた。ところがピョートル大帝(位1682~1725年)は「西洋化」を進め、長いあごひげを切り、上着に半ズボンでマントを羽織った。※ゲルマン人は騎馬するので、この服装になったらしい。
・西欧世界の衣服も変遷している。16世紀頃まで、上着に半ズボンでマントを羽織るのが支配層の正装だった(※そういえば西洋人はやたらと半ズボンを履くな)。一方庶民は半ズボンを履かなかった。ところが1789年フランス革命で「サン・キュロット」(キュロットを履かない人)が主導権を握ると、上着と長ズボンが定番になる。国王/軍人は軍服になり、官僚の正装は大礼服、普段はフロック・コートになった(※詳細省略)。これが「洋装」として、非西欧諸世界に受容された。※洋装も市民革命で生まれたのか。

○西洋化としての洋装
・「西洋化」は軍隊から始まる。17世紀末ロシアのピョートル大帝は、軍隊に洋装を強制する。1826年オスマン帝国のマフムート2世は、軍隊・官僚のターバン/トルコ装を禁止する。ただ洋帽ではなく、フェス(モロッコ帽、トルコ帽)を採用した。ただし宗教関係者/一般人への強制はなかった。トルコ共和国のムスタファ・ケマル・パシャ(アタチュルク)は、ターバン/トルコ装を全面的に禁止し、女性のチャドル/チャルシャフも禁止する。※トルコは、古くから世俗化に努めている。

・日本では、1871年散髪脱刀令、1876年廃刀令が出る。男性の「ちょんまげ」は廃されたが、女性の「まげ」は許された(※相撲などの伝統的なものは許されたのか)。高官の正装は大礼服になった。※皇室については省略。
・梵字世界のタイでは、国王/軍人は洋装したが、儀式では国王は伝統装を纏った。漢字世界の中国では、洋務運動後も皇帝/官僚/軍人は伝統装を纏い続けた。辛亥革命(1911~12年)後、辮髪は廃されるが、女性の旗袍はファッションとして今に盛行している。

○第1次グローバリゼーションの中の食文化
・衣食住の「衣」は、なくても暮らせる。「住」も気候が良く、洞窟などがあれば、なくてもよい(※これはどうかな)。しかし「食」はないと生きていけないので、人類は火や土器を利用し、着々と発展させた。さらに農耕・牧畜を始めた。農業の誕生は、人類史上最大の画期で、「農業革命」と呼ばれる。

・しかし「食」文明は、その生態的環境/文化により多様化している。人類は小集団から自己完結的な「文化世界」になり、文字を持つ「文字世界」になり、さらに大航海により唯一のグローバル・システムに統合されつつある。そんな中でも、食材/料理/好みと禁忌/作法などの「食」文化は多様性を存続させている。

○箸食、右手指食、フォーク・ナイフ食-食の作法
・漢字世界の日本/中国/朝鮮/ヴェトナムは箸食である。近年では中国料理、日本のすき焼き/寿司などにより、非漢字世界でも箸食する人が増えつつある(※麺類もあるのかな)。梵字世界/アラビア文字世界は右手指食だが、これは宗教的戒律による。

○西欧に入ったフォークとナイフ
・同じ箸食圏でも作法が異なり、箸の置き方や飯茶碗を持ち上げるかなどが異なる。右手指食圏でカレーを食べる場合でも、米飯とカレーを混ぜたり/混ぜなかったり、あるいは米飯を団子にしたりする。アラビア文字世界でも、アラブ圏ではピラフを右手指食するが、トルコ圏では匙で食べる。※水が貴重な地域では、洗う食器を極力減らしたいので、指食するのかな。
・古きギリシア・ラテン文字世界でもビザンツ世界/キリスト教世界でも、元来指食だった。ところがビザンツ帝国で高貴な人がフォークとナイフで食事するようになり、15~16世紀西欧に拡がった。16世紀後半の英国エリザベス1世も指食していたのかもしれない。※フォーク・ナイフは肉食のゲルマン人が広めたと思ていた。

○文化としての食の禁忌
・イスラム教では食べてはいけないものがある(ハラール食)。不浄な豚肉や豚由来の物は食べられない。さらに食べても良い羊・牛でも、アッラーに感謝を述べ、喉を掻き切り、血を抜く必要がある。ユダヤ教でも豚肉は食せないが、ユダヤ教の改革派キリスト教では食せる。
・梵字世界のヒンドゥー教では、逆に神聖な牛を食せない(※町に牛がたむろしているのは、そのため)。バラモン教の改革派ジャイナ教では一切の殺生が禁じられている。一方同じくバラモン教の改革派・上座部仏教に食のタブーはない。

○机と椅子以外は何でも食べる-漢字圏 ※何で圏にしたのか。
・漢字圏に食のタブーはなく、「四本足のものは、机と椅子以外は何でも食べる」と云われる。ヴェトナムでも牛・豚・鳥、何でも食べる。韓国でソウル・オリンピックが行われた時、犬のスープ「補身湯」が野蛮だと騒ぎになった。犬に超小型犬チワワがいるが、これはメキシコが原産で、食するため飼っていた。日本では奈良時代頃から四本足の獣肉が忌まれるようになった。
・海産物にはタブーは少ない。西欧人はタコを食べない。イスラム圏では、うろこがない魚は食せないので、エビ・カニ・イカ・タコは食べない。

○酒と宗教
・東西キリスト教世界は、酒をタブーとしていない。ところがプロテスタントの中には、酒をタブーとする宗派がある。そのため戦間期に米国で禁酒法が成立した。トランプも酒を口にしない。ユダヤ教では、ブドウ酒が「過ぎこしの祭」(?)に不可欠だが、ユダヤ教徒が醸したものでなければならない。イスラム教ではシャーリアで酒が禁じられている。ただしその解釈に差がある。オスマン帝国で、「啓典の民」(一神教のキリスト教徒など)が営む居酒屋にムスリムが出入りし、何度も居酒屋禁止令が出されている。※禁酒令ではなく居酒屋禁止令?

○醤油、魚醤、唐辛子-漢字世界の調味料
・食のタブーは文化で異なるが、調味料も文化で異なる。漢字世界では蛋白質を発酵させ調味料としている。中国では、大豆・小麦から味噌・醤油を作った。これが朝鮮/日本に入った。ヴェトナムでは魚醤が基本になっている。スパイス/ハーブは使わないが、中国では山椒がよく使われる。中国の四川料理/湖南料理や韓国料理では唐辛子が使われるが、唐辛子は新大陸が原産である。韓国のキムチは、当初はムル・キムチ(水キムチ)で、白いキムチだった。

○米食と麦食
・中国北部は麦食で、粉食しない頃は麦を炊いていた。やがて粉食の饅頭になり、米食に代わった。中国の大半は米食だが、庶民は雑穀を食べていた。朝鮮は中国文化の影響を受けたが、食は独自に発展した。日本では肉食は鳥だけになり、海産物と野菜が主食材になる。日本の料理が発展したのは、18世紀以降である。沖縄の宮廷料理は中国料理をアレンジしたもので、18世紀に出来上がった。※食は地域性が強く、食材が豊富になったのは、近代になってからかな。

・梵字世界のインド北部/東南アジアなどは米食である。インドが源流のカレーは、アラビア文字世界/東南アジア大陸部/マレー半島/インドネシアに根付いている。
・アラビア文字世界は麦食で、米のピラフは副食である。料理の原型はイラクのアッバース朝(750~1258年、その後再興)で作られ、四方に拡がった。焼き肉料理カバブは、新疆ウイグル自治区/中央アジア/イラン/トルコ圏/アラブ圏に拡がっている。※他にも様々な料理が紹介されているが省略。食通であれば興味を持てそう。

○西洋料理を変えた新大陸の食材
・西欧世界は麦食である。中国北部は饅頭(蒸しパン)を食すが、西欧はかまどで焼いたパンを食す。中世末期/ルネサンス期にイタリアで料理が洗練された。メディチ家のカトリーヌがヴァロア朝に嫁ぎ、フランス料理の基礎になった。17世紀ブルボン朝ルイ14世の頃、それが最先端の料理になる。19世紀グローバリゼーションにより、それが「西洋料理」として世界に拡がった。
・ここで忘れてならないのが、新大陸からもたらされた新奇な食材・嗜好品である。タバコ/カカオ/唐辛子/ピーマン/トマト/ジャガイモ/サツマイモ/隠元豆などである。以前ルネサンス・イタリア料理を供された事があるが、全てがベージュ色なので驚いた。

○舌のグローバリゼーション
・食の世界でもグローバリゼーションが起きている。あらゆる世界で西欧世界の食文化が受容されている。イスラム世界は西欧世界に隣接し、非ムスリムが住み、西欧との往来も激しい。そのため閉鎖的な漢字世界とは環境が異なる。しかしイスラムには戒律があり、西欧の食文化を容易に受け入れてはいない(※結局どっちなんだ)。オスマン帝国の使節が西欧に入る時は、コックを帯同し、食材も持ち込んだ。
・しかし19世紀、帝都イスタンブルに西欧式のカフェ/レストランができ、ムスリムも出入りするようになる。1880年代の料理本『主婦』は、トルコ風と西洋風の項に分けられている。外国の使節を宮廷に招いた時は、トルコ料理を供したようである(※迎賓館/延遼館では洋食を振る舞ったはず)。しかし庶民は、トルコ共和国になってもトルコ食を食した。

○根強い食の伝統
・漢字世界の中国は、香港/上海を除き食の西洋化は遅れた。政府が外国の賓客をもてなす時も中国料理を供した。※中国は食材が豊富で、外国の料理を受け入れる必要がない。
・日本の江戸時代も西欧人との接触は、長崎などに限られた。それでも長崎のカステラ/平戸のカスドースなどの南蛮菓子は定着した。しかし開国後は肉食するようになり、徳川慶喜は「豚一橋」と呼ばれ(※これは知らなかった)、牛鍋が流行った。精養軒/凮月堂などの西洋料理店ができ、村上開進堂が西洋菓子を献上するようになる。豚カツ/カレーライスなどの西洋料理が次第に広まる。しかし庶民に浸透したのは第2次世界大戦後である。
・食のグローバリゼーションは遅々として進まないが、グローバリゼーションの第2段階の画期「大航海」が決定的な影響を与えた。

<第6章 グローバリゼーションと文化変容>
○大航海時代と云う画期
・グローバリゼーションとは、「近年の諸社会の経済的・科学技術的・情報的な急速の密接化」と考えられ、これは比較優位のアメリカ化と捉えがちである。しかし本書は、これを「人類の歴史を貫通する流れ」と考える。

・グローバリゼーションの第2段階が一挙に進んだのは、15世紀末の大航海による。1498年ポルトガルはアフリカ南端を回り、インド洋に達する航路を発見する。1492年コロンブスはスペインの支援で、新大陸を発見する。1522年マゼランの船隊は、世界周航に成功する。これにより「旧世界」(アジア、アフリカ、ヨーロッパ)と「新世界」(南北アメリカ)が結び付けられる。
・16世紀西欧は船舶建造技術/航海術を発展させ、三大洋を航海し、三大洋五大陸のネットワークを作る。圧倒的な火砲で中南米を植民地にした(※中南米だけ?)。18世紀世界を包摂する唯一のグローバル・システムを創り、これが「近代世界体系」である。※大航海時代以前は、西欧は様々な面でイスラムに従属していたが。

・同時に西欧世界は軍事力/科学技術/経済システムを革新し、支配組織/経済組織を革新する。支配組織は分権的な封建制から、君主専制的・中央集権的な絶対王政になり、官僚制/常備軍を発展させた(※君主専制的・中央集権的は東洋的と云っていなかった)。経済組織では株式会社が生まれ、生産システムは問屋制手工業からマニファクチュア(工場制手工業)、さらに工場制生産システムに発展させた。そんな中で非西欧諸世界は「近代世界体系」に包摂され、西欧世界に対抗すべく、自己変革をせざるを得なかった。

○非西欧諸世界の西洋化改革 ※西欧と西洋が混在して、ややこしい。
・最初に自己変革を試みたのは東欧正教世界のロシアだった。17世紀末ピョートル大帝が「西洋化改革」を進め、銃兵隊を解体する。これは16世紀イヴァン4世(雷帝)が創設し、大貴族を打倒し、ツァーリ専制を築いた軍隊である。

・これに続いたのがアラビア文字世界のオスマン帝国である。オスマン帝国は、1683年第2次ウィーン包囲に失敗し、17世紀西洋化改革に着手する。しかし守旧派勢力が強く改革は進まなかった。
・1798年ナポレオンのエジプト侵攻に対し、オスマン帝国は非正規部隊を派遣するが、その副隊長がムハンマド・アリーだった。彼はナポレオン撤退後にエジプト総督になり、守旧勢力のマムルーク勢力を一掃し、西洋化改革に着手し、オスマン中央に対抗し得る勢力になる。※ムハンマド・アリー朝(1805~1953年)を興したみたい。
・オスマン帝国のセリム3世(位1789~1807年)は西洋化改革を試みるが、失敗する。その後マフムート2世(位1808~39年)が、常備歩兵軍団イェニチェリを潰滅させる。マフムート2世没後、オスマン帝国はタンズィマート改革を行い、西洋化改革が定着する。その総決算が、1876年オスマン帝国憲法の発布である。※日本の明治改革にやや先行だな。

・梵字世界だがムスリムのムガル帝国は、18世紀末に英国東インド会社が実権を握る。1858年「セポイの反乱」によりムガル帝国は廃され、1877年英領インド帝国となる。
・梵字世界で独立を保ったのはタイのチャクリー朝(1782年~)だけである。ラーマ4世/ラーマ5世により西洋化改革が進められた。※詳細省略。

・漢字世界の中国は、1860年アロー号戦争の敗北から西洋化改革に着手する。科挙官僚・曽国藩/李鴻章は「太平天国の乱」を平定し、権力中枢に入り、「洋務運動」を始める。
・日本では黒船来航後、西南雄藩(長州、佐賀、薩摩など)が新式軍隊を創設する。長州は第2次長州戦争で幕府を破り、薩摩は薩英戦争で英国と戦う。幕府も仏国の協力で、歩兵/騎兵/新式海軍を創設する。しかし大政奉還/王政復古により明治維新が成り、本格的な西洋化改革は「明治改革」で推進される。
・漢字世界のヴェトナムは、1885年仏国の保護国になり、西洋化改革は遅れる。朝鮮は、1910年日本に併合され、西洋化改革は植民地支配体制の下で進められる。

○グローバル・システムのサブ・システム
・西洋化改革は、諸文化世界が比較優位の近代西欧モデルを受容する試みで、西欧の「近代性」を取得する試みで、「近代化」と同義である。この試みにより、諸文化世界はグローバル・システム「近代世界体系」のサブ・システムと化した。一方比較優位の西欧世界は自己完結性を失い(※相互依存?)、イノヴェーションの源泉になり、その所産はグローバル・モデルになった。

○法の近代化-日本とオスマン帝国の民法典論争
・非西欧諸世界でまず近代化されたのは軍事組織/軍事技術/軍事分野の教育システムで、それに続いたのが支配組織/文民分野の教育システムだった。法律については伝統的法規範/伝統的文化との関係により、受容の程度は様々だった。
・日本は不平等条約改正の条件として、近代西欧法が受容された。しかし「お雇い外国人」ボアソナードが編纂した民法典は、「忠孝滅ぶ」として廃案になる。ただ日本は伝統法が宗教的戒律と無関係だった事から、比較的に受容が進む。

・一方オスマン帝国も近代化が進められるが、イスラムには戒律シャリーアが存在するため、「民法典論争」が起きる。この論争の見解は3つあった。最も保守的なものは「民法典は編纂せず、シャリーアに委ねる」であり、中間的なものは「シャリーアの関連規定を成文化する」であり、革新的なものは「近代西欧法を受容し、諸法典を編纂する」だった。激しい議論の末、シャリーアの関連規定が成文化され、『メジェッレ』が作られる。これはトルコ共和国になり、トルコ民法典が発布されるまで有効だった。

・近代西欧モデルの受容は、産業・経済の株式会社/機械制工業生産システム/科学技術や、人文社会の学問にまで及ぶ。その受容の程度は様々で、日本は「明治改革」で「富国強兵」「殖産興業」を進める。一方オスマン帝国は、遅々と進まなかった。

○斉一化と多様化-文化のグローバリゼーション ※斉一化は一様化と同義で、多様化の反対語。
・文化の面でも近代西欧モデルが受容された。これにより文字圏・文化圏を超えて、グローバル文化が生まれた。他方、一文化圏内においては「近代的vs伝統的」「外来的vs土着的・在来的」の分立を生んだ。日本では「洋風vs和風」であり、トルコでは「ア・ラ・フランガvsア・ラ・テュルカ」である。グローバリゼーションは文化において「斉一化」をもたらしたが、同時に「二分化」や交流の頻繁化・密接化による「多様化」をもたらした。

○ロシアとイスラム世界の近代文学
・文化の西洋化は生活文化に留まらず、文学・芸術・音楽にも及ぶ。特に重要なのが文学である。本書では文学を「言語を媒体として感興を起こさせる営為、およびその所産」と定義する。

・最も早く近代西欧文学の影響を受けたのはギリシア・キリル文字世界のロシアである。ロシアで受容の媒体になったのは仏語だった。エテカリーナ2世(位1762~96年)は仏国の啓蒙思想家と交遊していた。19世紀中葉には詩人プーシキン、後半には長編作家ドストエフスキー/トルストイ、戯曲のチェーホフが現れている。これらは西欧と遜色がなかった。

・次に影響を受けたのがイスラム世界だった。ここでも媒体は仏語だった。イスラム世界は『千夜一夜物語』に代表されるように、文学の中心は韻文/古典定型詩で、長編物語はなかった。戯曲もイランの殉教劇、オスマン帝国の影絵劇「カラギョズ」を除いてなかった。
・まずは1870年代、仏語の『テレマックの冒険』が翻訳され、政治指南の書となる。これに続いて仏語の大衆小説が翻訳される。ただし最初はアルメニア文字で刊行され、その後アラビア文字で刊行された。劇作としては、立憲主義運動の先駆者ナームク・ケマルの『祖国、あるいはシルシトラ』がある。これは自由詩だが、オスマン的で古風である。
・1880年代より長編小説が現れる。これらはエリート/エリート候補/新中間層が書いたが、日本に比べ大変水準が高かった。それは彼らの語学力が高く、仏語を自由に読めたからだ。※詩に関する解説もあるが省略。

○漢詩と和歌の伝統-漢字圏の近代文学
・一方漢字圏の中国はジャンルは豊富で、長編物語/短編物語/古典定型詩(漢詩)/戯曲(元曲、歌劇)があった。そのためこれらの伝統を踏まえ、近代西欧文学が受容された。
・日本も同様で、11世紀にすでに『源氏物語』が著され、その上で受容された。ただ日本の近代詩の受容は限定された。それは漢詩と異なる日本独特の七五調の和歌や、それから派生した俳句・川柳・狂歌・詩吟があったからだ。※詳しく説明されているが省略。

○絵画、彫刻、書道
・イスラム世界では、彫刻は禁じられ、絵画も忌まれ、タブロー画(※普通の絵画かな)は存在しない。そのためトルコ/イランでは、彫刻はイスラム的伝統への政治的挑戦で、文化革命の文脈を持つ。
・逆に漢字世界では、仏教は仏教建築・仏像・仏画などで絵画・彫刻を支えた。特に日本では伝統を踏まえ、近代西欧絵画・彫刻を受容し、近代絵画・近代彫刻・洋画を生んだ。日本では浮世絵が衰えるが、西洋では逆に近代西洋絵画に大きな刺激を与えた。

・書道は漢字世界では絵画と深い関係があり、イスラム世界でもミニアチュールを収めるのが写本であり、絵画と深い関係がある(※ミニアチュールは書道に分類されるのか?)。イスラム世界では聖典『コーラン』の写経が発達し、世界二大書道世界になっている(※こちらは理解できる)。
・漢字圏の中国/日本では書道は盛行しているが、朝鮮はハングル化、ヴェトナムはラテン文字化し廃れた。同様にイスラム世界でアラビア文字が使われているアラブ圏/イラン圏では書道は力を保っている。一方ラテン文字化したトルコ圏では廃れた。
・日本について付言すれば、建築/調度/絵画・書道/陶磁器/工芸品/料理・菓子などの伝統文化が保持されている。これは茶道など富裕層に愛好家がいるためだろう。※和風家具/工芸品/和菓子など、そうでもないのでは。

○イスラム独自の音の世界
・文化のグローバリゼーションにおいて、音楽も重要である。「クラシック」が最重要だが、サブ・カルチャーとしてジャズ/ロック/ホップスも登場した。さらにカントリー(民謡)/ハワイアンもある。

・音楽に対し好意的でないのがイスラム世界である。アフガニスタンではソ連軍の撤退後、タリバーンはレコード・カセット・CDの販売を禁じ、聖典『コーラン』の読誦のみを許した。※バーミアンの仏像が破壊されたのも、この時かな。
・しかしイスラム世界でも『コーラン』の読誦があり、礼拝の時を告げるアザーンがある。また神秘主義スーフィズムでは音楽が重要である。スーフィズムのメヴィレヴィー教団は旋舞教団とも呼ばれる。オスマン帝国で西洋化改革を試みたセリム3世(位1789~1807年)はその一員で、伝統楽器のマルチ・プレーヤーで、作詞・作曲・歌が得意な古典音楽の音楽家だった。※凄過ぎ。
・イスラム世界の古典音楽はアラブ/イランで創られ、オスマン帝国でもアラブ語・ペルシャ語の韻を踏む古典定型詩だった。しかし民謡・俗謡は、中央アジアのトルコ民族の語調だった。

○メフテル軍楽隊と「トルコ行進曲」
・イスラム世界は集団戦法だったため、軍楽隊が生まれた。オスマン帝国の常備歩兵軍団イェニチェリは、300人に達する大規模の軍楽隊を伴った。彼らが奏でたのがメフテルである。西欧はこの影響を受け、大太鼓ダウルはティンパニーになり、ジルはシンバルになった。モーツァルトの『トルコ行進曲』は、これに倣って作られた。※軍楽隊はイスラム起源なんだ。

○軍楽の西洋化
・しかしイスラム世界で音楽の西洋化が最初に進められたのは軍楽だった。オスマン帝国のマフムート2世(位1808~39年)はイェニチェリを廃止し、新式軍隊を創設するが、同時に近代西欧モデルの軍楽隊を創設する。
・日本でも江戸幕府が仏国の指導で新式軍隊を創設するが、同時に長崎に御家人を派遣し、軍楽を学ばせ、築地の講武所で練習させている。

○クラシックの受容
・非西欧諸世界で最初に近代西欧音楽を受容したのはロシアである(※どの分野もロシアから始まる)。ロシアは19世紀中頃には、クラシック音楽/クラシック・バレエで西欧に匹敵していた。ロシアは、20世紀に入っても「革命いまだ成らず」の観があり、これは不思議である。※20世紀前半ロシア・ソ連には前衛芸術(アバンギャルド)があった。

・非西欧諸世界で近代西欧音楽が受容されると、近代的・外来的・西洋的な音楽と伝統的・土着的な音楽が並立した。これは政治・経済・科学技術の分野で、「反体制」として近代西欧モデルが一辺倒に受容されたのと対照的である。
・近代西欧音楽の受容は、まずクラシック音楽とその教育機関の受容から始まった。日本では「お雇い外国人」が先生として招かれ、東京音楽学校が開かれ、滝廉太郎/山田耕筰などの作曲家が生まれた。その後、サブ・カルチャーのジャズ/ラテン/ハワイアン/フォーク/ロックが受容された。

○近代音楽と在来音楽の相克と混淆
・在来音楽は古典/民謡/俗謡と分かれて残存している。アラブ圏/イラン圏では伝統音楽は健在だが、トルコ共和国では伝統音楽は文化遺産となった。
・日本では雅楽/箏曲/長唄/民謡は残るが、小唄/都々逸は激減している。近代西欧音楽と在来音楽のはざまの歌謡曲/演歌が生じている。これらは大和の七五調/沖縄の八八八六調が主流になっている。
・「音楽は国境・民族を超える」と云われる。これはグローバリゼーションの過程で近代西欧モデルが受容され、共通の基盤ができた事による。また西欧人においても異文化との接触が増し、異文化を「エスニック」として受け入れている。

○解消される障壁
・15世紀末から始まる大航海により、グローバリゼーションの第2段階が始まった。この第2段階は交通/情報伝達技術の発展で加速された。交通においては、ジャンク船(中国)/ダウ船(イスラム)/ガレー船(地中海)に代わってガレオン船が発達し、19世紀に帆船は蒸気船になった。スエズ運河が開通し、大西洋・地中海とインド洋が結ばれた。20世紀初頭にパナマ運河が開通し、太平洋と大西洋が結ばれた。20世紀中葉には蒸気船がディーゼル船になり、さらに高速化した。
・陸路の発展は遅れるが、19世紀に鉄道が誕生し、20世紀に蒸気機関車から電車に代わる。交通での決定的な発展は、20世紀の航空機である。これもプロペラ機からジェット機になり、東京とパリ/ロンドンは半日で行けるようになった。

・当初、情報伝達は交通手段によったが、19世紀電信が発明され、伝達速度は急速に速まった。20世紀後半にはインターネットで瞬時に情報交換できるようになった。

○近代国際体系への参加
・これらの交通手段/情報伝達手段も西欧世界で生み出されている。文明の他の分野でも、大半が西欧世界で生み出されている。経済システム「近代資本制」も同様である。これにおいて資本を集積する手段が「株式会社」である。※経済はこれだけ?

・また西欧世界は、圧倒的比較優位を背景に諸政治体間の秩序「近代国際体系」を創出した。これは西欧世界と非西欧諸世界との二元的システムとして出発し、発展した(※最初、国家主権と思ったが、植民地主義みたいだな)。しかし非西欧諸世界は自立を保つため西洋化し、近代化した国家から徐々に「近代国際体系」への参入を許容されるようになった。
・その先駆けになったのが日本で、日本は「条約改正」に努力した(※完了したのは日清戦争直前かな)。オスマン帝国は「キャピチュレーション」(通商特権)の撤廃を要求した。第1次世界大戦参戦でこの廃止を宣言するが、全面的に撤廃されたのは、オスマン帝国の消滅後である。半植民地化していた中国の不平等条約撤廃は、第2次世界大戦後になる。西欧と非西欧の二重構造が全面的に解消されたのは、第2次世界大戦後である。※ラテンアメリカの独立は1820年頃で、アジア・アフリカに比べ早い。ただし不平等条約があったかは知らない。

・こうして社会間/社会層間/地域間の格差は存在するも、グローバル・システム内の諸社会の斉一化が進む(※何で国家にしないのか)。それは世界の多数が洋服をまとい、西欧起源の自動車・自転車に乗り、ナイフ・フォークを用い、ジーンズを履き、ビートルズを聴き、マクドナルドを食している事で分かる。他方、異文化の接触が増えた事により、西欧世界で浮世絵が評価され、『源氏物語』が翻訳され、中国料理・日本料理が受容されている。
・さらに非西欧諸世界同士の受容も進んでいる。日本では梵字世界/アラビア文字世界の食が受容され始めている。日本は異文化の諸社会から移民を受け入れなかったが、異文化出身の観光客/留学生/労働者が流入する中で、文化的多様性が生まれつつある。
・西欧世界では異文化圏からの人の流入が見られる。英国/仏国/オランダでは旧植民地から、ドイツは労働力としての流入が見られる。元来国民でない人は、仏国で10%、ドイツで15%を超え、文化的多様性が進んでいる。※色々摩擦が起きているけど。

○グローバリゼーション下での文化摩擦
・1つの社会に複数の文化集団があると差別や文化摩擦が生じる。中世西欧世界におけるユダヤ教徒、米国における黒人などである。イスラム世界では、一神教徒の「啓典の民」はズィンマ(保護)/ズィンミー(非保護民)として緩やかに許容された。※人頭税かな。

・今日の米国は法的には平等だが、黒人への差別が存在する(※法的にも微妙に差別が残っている。例えば「祖父が投票していないと投票できない」「黒人の居住地に投票所を置かない」などがある)。そのため何らかの事件を切っ掛けに抗議デモ/暴動が起きている。
・仏国でも旧植民地からの移住者が仏国国籍を持っていても、イスラム原理主義者と結び付き、テロを起こしている。人種・民族の違いだけでなく、宗教・宗派の違いによる文化摩擦が生じている。対する白人キリスト教徒も「自らが脅かされている」と感じ、分断が生じている。これらは直接接触の増加による。※動物は、本来は衝突を避け棲み分ける。

・日本は言語・文化で同質性が高い。明治維新により身分制度は廃止され、「四民平等」となったが、士族/平民の族籍は残った。またアイヌ/沖縄の人も差別を受け続けた。第2次世界大戦後、法的には平等になったが、アイヌや在日韓国・朝鮮の人々への差別が見られる(※在日特権の問題もあるらしい)。また留学/就労目的で来日する人々との文化摩擦も生じている。

<第7章 文明・文化の興亡-文明の生き残る道>
○個別文明の興亡
・人類としての文明は前進を続けたが、文化の刻印を帯びた個別文明は興亡を繰り広げてきた。インダス文明はドラヴィダ系言語を残し、消滅した。楔形文字文明はパフレヴィー文字文明に引き継がれるが、楔形文字は死文字となった(※文字世界としていたのに文字文明となった。これは個別文明を意識してか)。さらにパフレヴィー文字はパルティア(アルサケス朝ペルシア、前247~224年)/ササン朝ペルシア(226~651年)で使用されるが、「アラブの大征服」によりアラビア文字世界に包摂される(※イランのパフレヴィー朝は最後の王朝)。ヒエログリフ文明もローマ帝国支配下で死文字になり。ローマ帝国支配下で創られたコプト文字もアラビア文字世界に包摂される。
・新大陸で象形文字を持ったマヤ文明・アステカ文明と、キープ(結縄)を持ったインカ文明は、ラテン文字世界の「コンキスタドール」(征服者)による征服で、話者を残すだけになった。

・古来の文字を保っているのは漢字文明だけである。また梵字文明とギリシア・ラテン文字世界を引き継ぐ西欧キリスト教文明/東欧正教文明、および新しく生まれたアラビア文字世界のイスラム文明の3文明も存続している。
・大航海以来、西欧キリスト教文明がグローバリゼーションの原動力になったが、その覇権は傾きつつある。それに代わるのが漢字文明の中国と梵字文明のインドである。

○長命の中国とエジプトのヒエログリフ世界
・四大文字文明で、3500年も文字を維持し続けたのは漢字世界の中国だけである。この要因は閉鎖的な地理環境にある。これは3千年に亘ってヒエログリフを維持したエジプトと似ている。
・中国は「地広く物豊か」であり、外に物産を求める必要がなかった。「七つの海」を制した英国でさえ、19世紀初めまで、中国に売る物がなかった。そのため銀で中国の茶/絹を買い続けた。これは「ナイルの恵み」により「ローマ市民の胃袋」になり、オスマン宮廷の食卓を支えたエジプトと似ている。※エジプトの農業生産力は高かったんだ。

・楔形文字世界はメソポタミアからイラン高原/アナトリアに拡がり、空間拡張型だった。一方エジプトのヒエログリフ世界は、シリアに進出した事はあったが、空間固定型だった。同様に中国も、漢/拓跋氏系の隋・唐/半猟半農の清を除いて空間固定型である。

○内的凝集力と同化力
・中国は、機動力・瞬発力に優れた遊牧民・狩猟民の匈奴/突厥に脅かされ続け、遊牧民の元/狩猟民の清には征服された。それにも関わらず、独自の文化を保った。中国は隋を立ち上げた拓跋氏、清を立ち上げた満州人を同化した。満州は漢化され、満州語を話す人は極少になった。これは中国文明が強力な内的凝集力、異質文化に対する同化力を有するからである。※機動力/瞬発力/凝集力/同化力、抽象的な言葉を頻繁に使う。
・中国は戦後時代、異民族の秦/楚を漢化した。その後広東も漢化している。しかしこの過程は緩やかだった。これはエリート層/サブ・エリート層が共通のアイデンティティーを持っていたからで、それは万人に開かれた科挙試験による。彼らは共通の言語を学び、共通の秩序を共有した。また彼らの大半は地方の地主で、地方の秩序の担い手だった。※そのため平面的にも歴史的にもアイデンティティーが揺るがないのか。逆にそれが西洋化を妨げたかな。

○4つの帝国の運命
・中国は強い文化的凝集力/同化力を持ち、「一乱一治」を繰り返すが、アイデンティティーを保持し続けた。もし次の「一乱」で失うものがあれば、それはチベット/新疆ウイグル自治区/内モンゴルに留まるだろう。

・今日、文化的多元性/多様性が賞揚されるが、濃い文化的同質性/アイデンティティーは崩壊の危機を救う。それは4つの帝国の第1次世界大戦前後の運命から分かる。オスマン帝国/ハプスブルク帝国は敗戦により解体され、トルコ共和国/オーストラリア共和国となった。
・ロシア帝国は十月革命により共産主義国に変わる。しかしソ連崩壊により、文化的に近いベラルーシ/ウクライナ、キリスト教国のバルト三国/グルジア(ジョージア)/アルメニア、異文化のアゼルバイジャン/キルギスを失い、版図の半分を失った。
・中国の清朝は崩壊するが、凝集力/同質性により版図を失う事はなく、再興した。

・海に囲まれた日本は、人口の98%が古典語「古文」/文章語「候文」を持ち、エリート/サブ・エリートは「武家言葉」を有し、共通の文化・伝統を象徴する天皇の下にあった。統合コストが極少ゆえに、急速に西洋化を進める事ができた。※旧習に固執しなかったからでは。これは日本の特徴だと思う。

○ダルマとジャーティと云う共通基盤-インド
・梵字世界の淵源のインド亜大陸は中国と異なる。言語的には北部・中部は印欧系、南部はドラヴィダ系である(※インドは沢山の公用語があったと思う)。文字は北部ではアラビア文字、他は梵字系文字が使われている。また梵字系文字には多くのヴァリエーションがある。
・英国から独立する時、ムスリムが多く住む北部は西パキスタンになり、以南の梵字文字世界がインド共和国になった。彼らはサンスクリットの聖典やヒンドゥー教の規範「ダルマ」を共有している。ダルマによる儀礼の司祭者であり、農村の秩序の護持者であるバラモンが遍在する。ダルマによる社会秩序「ヴァルナ・システム」「ジャーティ・システム」(カースト制度)が共有されている。これらがインドのアイデンティティーの基盤になっている。※この辺り(ヒンドゥー教)は無知だな。
・インドは北西部を除き空間は閉鎖的である。これが文化的凝集力/同化力を育んだと考えられる。

・以上より、文化の刻印を帯びた個別文明の存続に、凝集力/同化力は重要である。

○開放空間と機動力・瞬発力
・中国と対照的に、遊牧民は機動力・瞬発力に富む。彼らは冬営地と夏営地を周遊している。そのため機動力に富み、様々な外敵への防御がないので瞬発力も必要になる。また結束が必要で集団力も高い。
・遊牧民は農産物を必要とし、逆に定住民は畜産物を必要としたため、交換交易が行われた。しかし遊牧民が略奪などを行う場合があり、定住民は城壁などで守る必要があった。その典型が「万里の長城」である。
・遊牧民は通常は部族単位で行動するが、時に部族連合となり、空間拡張型に変質する場合がある。漢を脅かした匈奴、唐を脅かした突厥などである。そしてこれが強大化したのが、13世紀のモンゴル帝国である。

○モンゴルの大征服、モンゴル帝国の瓦解
・「モンゴルの大征服」は「新大陸」の5つの文字世界に及んだ。ギリシア・キリル文字世界(ビザンツ世界)では、キエフ公国(1132~1270年)を壊滅させ、モスクワ公国(1263~1547年)をくびきにした。ラテン文字世界(西欧キリスト教世界)では、ドイツ/ハンガリーに進攻した。
・アラビア文字世界(イスラム世界)では、中央アジアのホレズム・シャー朝(1077~1231年)を席捲し、アナトリアのルーム・セルジューク朝(1077~1308年)を属国とした。1258年アッバース朝(750~1258年、その後再興)のカリフを処刑し、シリアに進攻する。1260年エジプトのマムルーク朝(1250~1517年)に敗れ、エジプト進攻は阻止される。
・梵字世界では、ムスリムの奴隷王朝(1206~90年)に阻止され、ヒンドゥー圏に進攻できなかった。東南アジアではビルマを征服し、ジャワに進攻している。※どのルート?中国→ビルマ→マレー→ジャワ?
・漢字世界では、金を滅ぼし、高麗を属国とし、1279年南宋を滅ぼし、「大元」が中国を支配した。さらにヴェトナム/日本に進攻を試みている。

・この「モンゴルの大征服」は、遊牧民の機動力・瞬発力を基盤とする空間拡張型の傾向を示している。しかし遊牧民が建てた匈奴/突厥などの帝国は、2~3世紀で滅亡している。モンゴル帝国も1世紀も経たず分裂し、その後滅亡している。短期間で組成された政治体は凝集力がなく、短期間で分裂・崩壊するようである。
・また同化力でも、モンゴル語/モンゴル文字は漢字世界に全く浸透しなかった。アラビア文字世界では、チャガタイ汗国/イル汗国/キプチャク汗国は逆にムスリム化/アラビア文字化した。※支配層のモンゴル人が圧倒的少数なので当然かな。

○アレクサンダーの東征に欠けていた核
q・ギリシア人は自身をヘレネス、住地をヘラスと呼んだ。彼らは黒海などに植民都市を創ったが、陸上での拡大はなく、空間固定型の文明である。またポリスの統一もなかった。これを打ち破ったのはギリシア人ではなく、マケドニア人のアレクサンダー大王である。彼はアケメネス朝ペルシア(前550~前330年)を征服する。
・この東征で各地にギリシア風都市が築かれ、ギリシア文化は東漸し、ギリシア文字で刻印された貨幣が造られた。しかし彼の短い治世の後、版図は武将により分割され、セレウコス朝シリア(前312~前63年)が支配し、さらにアルサケス朝ペルシア(パルティア、前247~224年)が支配する。パルティアでは、前半はギリシア文字が使われたが、後半はパフレヴィー語に代わり、次のササン朝ペルシア(226~651年)ではパフレヴィー語一色になる。

・結局、「アレクサンダーの東征」の遺物が残るのは、セレウコス朝シリアとアナトリアだけになる。エジプトではアレクサンダーの武将がプトレマイオス朝(前305~前30年)を興すが、エジプト化する。要するに「ヘレニズム文明」は機動力・瞬発力はあったが、凝集力/同化力はなかった。

○アラブの大征服
・「アレクサンダーの東征」と対照的なのが「アラブの大征服」である。セム語系のアラビア語を話すアラビア人は、閉鎖的なアラビア半島の遊牧民だった。ところが7世紀初頭、そのアラブ人が預言者ムハンマドにより一神教のイスラム教を奉じるようになる。7世紀前半、正統カリフの第2代ウマルが「アラブ・ムスリム戦士団」を結成し、「アラブの大征服」を始める。※4人の正統カリフはいずれも10年位で病没/暗殺されている。
・東方ではパフレヴィー文字世界のササン朝ペルシアを滅ぼし、さらに東進し、751年唐とタラス河畔で戦っている。西方ではビザンツ帝国と戦い、シリア/エジプト/北アフリカを征服する。711年イベリアに上陸し、西ゴート王国を滅ぼし、732年メロヴィング朝フランクに敗れ、ピレネーまで後退している。ビザンツ帝国の帝都コンスタンティノポリスを包囲するが、陥落できなかった。ビザンツ帝国の版図はバルカン/アナトリアだけになる。

・「アラブの大征服」は「モンゴルの大征服」の1.5倍(約1世紀)の時間を要した。しかも「モンゴルの大征服」に比べ、中国以東/ロシア平原/アナトリアを欠いている。「アレクサンダーの東征」と比べると、アナトリアを欠いている。※時系列は、アレクサンダーの東征/アラブの大征服/モンゴルの大征服。
・しかし結果は大きく異なる。アレクサンダー/モンゴルの帝国は1世紀も経たず分裂し、消滅している。ギリシア語/モンゴル語も定着しなかった。しかしイスラム世界は「レコンキスタ」(再征服)によりイベリアを失うが、それを除き版図を維持した。またイスラム教は根付き、アラビア語/アラビア文字は定着した。
※やはり宗教は心の拠り所で強力だな。これからすれば「中世は宗教で分割されていた」と云える。欧州(キリスト教)/中東(イスラム教)/インド(ヒンドゥー教)/中国(儒教・仏教)。

○多言語・多民族のイスラム世界
・こうしてイスラム世界(アラビア文字世界)は、他の4つの文字世界と接するようになる。その後も北のロシア平原、西のアナトリア/バルカン、東のインド/東南アジア、南のアフリカに進出し、空間拡張型の個別文明となり、17世紀まで活力を発揮した。
・イスラム世界は多言語・多民族だが、イスラム教の戒律シャーリア、その専門家ウラマーにより、文化的凝集力は保たれた。母語は各地域にペルシャ語/トルコ語/印欧系言語などが残った。さらに「一神教徒」への許容から、その母語も残った。※ユダヤ教のヘブライ語?

・一方漢字世界は強力な同化力を有し、周辺諸社会は漢文/漢字/漢語語彙を共有したが、母語を保った(※難解。漢文/漢字/漢語語彙について説明が欲しい)。中国では、口語的には大きく異なるが、中国語が母語となった。※中国語には、北京語/上海語/広東語などの方言がある。それぞれが文明(黄河、揚子江、広東)を持っていた感じだな。

・イスラム世界は多言語・多文字・多民族だった。18世紀後半、西欧では国民主義・民族主義のナショナリズムが発展し、イスラム世界でもバルカンなどで分離独立運動が起こる。19世紀末になると、イスラム教徒間での民族対立が表面化する。空間拡張型の個別文明として発展拡大したイスラム世界の凝集力/同化力は中国/インドに比べると弱く、イスラム世界の諸社会は混乱している。

○インペリウム・ロマヌム
・近代世界体系を形成する原動力となった西欧キリスト教世界、および第2次世界大戦後「東」となったソ連・東欧の東欧正教世界は共にキリスト教世界で、その淵源はギリシア・ラテン文字世界である。そのギリシアは空間固定型だったが、後半のローマは空間拡張型だった。
・ローマはイタリア半島を統一し、ポエニ戦争でカルタゴ/イベリアを征服した。その後北のガリア(仏国など)/ゲルマニア南部/ブリタニアに進出し、東のギリシア/アナトリア/シリア/エジプトを征服し、地中海全域を支配した(インペリウム・ロマヌム)。

○ローマの文化的同化力
・西欧キリスト教世界/東欧正教世界の淵源は、「組織のローマ帝国」と呼ばれたローマにある。たしかにイタリア半島を統一した頃は、ラテン語を母語とし、強力な軍事組織を持った。そして強力な同化力を持ち、エトルリア人のエトルリア語や、南部のギリシア植民地のギリシア語は消え失せた。しかしこれは破壊的同化と考えられる。※ローマは征服民を奴隷にしたらしい。
・ローマはカルタゴを徹底的に破壊しているが、これはその延長線上にある。ただし『神国論』を著したアウグスティヌスの姉妹はラテン語を解せなかった。カルタゴにはフェニキア語が残っていたと思われる。※アウグスティヌスは北アフリカ出身で、カルタゴで学んだ。
・ローマはガリアに進攻するが、この地がロマンス諸語(※イタリア語、仏語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語など)を母語としている事から、文化的同化力が発揮されたと考えられる。※南方と北方での違いは、北方が未開だったからかな。

○法的概念としてのローマ市民
・その後もローマは拡張するが、文化的多元社会となった。ギリシア/バルカン/アナトリアと拡がるが、母語のギリシア語は保たれた。シリア/パレスチナにも拡がるが、イエスの母語はアラム語で、ここでもアラム語/シリア語は母語として保たれた。その後エジプトのプトレマイオス朝を倒すが、ここでもラテン語は公用語と文化・文明語に留まった。

・文化的多元社会のローマ帝国の統合の基軸は、法的概念である「ローマ市民」だった。212年カラカラ帝は全自由民男子に「ローマ市民権」を与えている。※自由民でもローマ市民権を持たないのか。ローマ市民権って何だ?
・イタリアを中心とするイベリア/仏国/ルーマニアでロマンス諸語が母語とされている事から、かなりの文化的同化力を有していたと思われる。それはローマ的都市遺構/ローマ的建築遺構からも分かる。※それらはローマが統治のために造った都市なのでは。
・4世紀末ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国は滅亡する。ビザンツ帝国は文化・文明語をラテン語からギリシア語に代え、ギリシア・キリル文字世界に変わる。また全自由民にローマ市民権が与えられたが、彼らがどれだけ「ローマ人」としてのアイデンティティーを持っていただろうか。その後「一乱一治」のように、ローマが復活する事はなかった。

○拡張する西欧世界
・西ローマ帝国は滅亡するが、西ローマ帝国の公用語はラテン語であり、カトリック教会はラテン語の『聖書』のみを聖典とし、宗教行事もラテン語で行った。これが西欧キリスト教世界となる。西欧キリスト教世界は多言語・多民族だが、宗教はキリスト教に限定され、異教徒は隔離されたユダヤ教徒だけだった。
・11世紀この西欧は空間的拡張を始める。北への「北の十字軍」、南東への「十字軍」、南西への「レコンキスタ」である。「北の十字軍」により、ポーランド/リトアニアがカトリックになる。「十字軍」は失敗するが、イスラム世界との交易が始まる。「レコンキスタ」は完成に向かいながら、15世紀後半に大航海を始める。

・ポルトガルはアフリカ南端を廻るインド航路を開拓し、各地に拠点を置く。しかしブラジルを除いて、ポルトガル語化は行われなかった。※これもブラジルが未開だったからかな。
・スペインは新大陸に到達し、メキシコを横断し、南米大陸南端から太平洋に入る。これにより中南米大陸/フィリピンを植民地にする。中南米の文明は新石器時代で留まっていたため、カトリック化/スペイン語化する。フィリピンも同様となる。
・17世紀以降、オランダ/英国が東南アジアを植民地にし、ラテン文字化するが、イスラムは残った。英国の植民地になったインドは、宗教も文字(梵字系諸文字、アラビア文字)も残った。
・西欧人により伝統文化が根本的に破壊されたのは南北米大陸に留まった。西欧人の同化力にも限界があった。※これも新大陸が未開だったからかな。

○拡大する東欧正教世界
・大航海が始まって約1世紀後、モスクワ公国のイヴァン4世(雷帝、位1533~47年)は、カザン汗国/アストラハン汗国を征服し、シベリアの征服も始める。19世紀後半には中央アジアに進出する(※随分時間が飛ぶな)。ロシア帝国ではイスラム教/アラビア文字は許容された。ソ連はキリル文字化したが、ソ連崩壊後はラテン文字化されつつある。
・ロシア帝国・ソ連による東方の正教化/ロシア語化は、ロシア人入植者などに限定された。今のロシア連邦はキリル文字化されたが、イスラム教は力を持っている。またロシア連邦内のタタルスタン共和国/シベリなどは先住民とロシア人の人口比によるが、不安を抱えている。

○宗教から民族へ
・西欧世界は多言語・多民族だったが、カトリック教を信仰していた。しかし15世紀プロテスタントが現れ、16世紀に対立が激しくなる。「30年戦争」(1618~48年)後のウェストファリア条約により、共存が実現している。
・しかし18世紀、民族主義からナショナリズムが生まれ、西欧世界に亀裂が入る。これに国民主義が加わり、統合の基軸は宗教から、言語に基づく民族に移り、亀裂は決定的になる。
・20世紀、西欧世界は民族国家としての国民国家が並立し、2度の世界大戦を起こす。この惨状からEUが成立するが、これを支えるアイデンティティーや統合の基軸は未成熟で、今後の予測は難しい。

○個別文明の繁栄と多様性-米国
・近年、社会の繁栄・発展に多様性が重要とされる。たしかに異なる発想・考えを持ち寄れば、社会は活力を得られる。また異なる人々が許容・尊重し合えば、社会の統合が可能になる。

・今日、最も多様な人々を包摂しているのは、米国である。米国は様々な人種が溶け合い、「人種のるつぼ」と呼ばれた。実際、原子爆弾を開発したのは、ユダヤ人フォン・ノイマンやイタリア人エンリコ・フェルミだった。大統領でもジョン・F・ケネディはアイルランド系移民の子孫である。バラク・オバマはケニア出身の父とアイルランド系の母の子である。トランプはドイツ系移民の子孫である。

○人種のサラダ・ボウル
・しかし米国は、当初は多様性の国ではなかった。16世紀WASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)の人々が入植し始める。ここに黒人奴隷が連れて来られる。19世紀にはアイルランドで大飢饉があり、ケルト系言語を話し、カトリック教徒のアイルランド人が流入する。さらに東欧からスラブ系で正教徒のロシア人、北欧からスラブ系でカトリック教徒のポーランド人なども流入する。
・これらのWASP以外の人々は差別された。黄色人種の中国人/日本人も差別を受けた(※高橋是清の話が紹介されているが省略)。ネイティブ・アメリカンは居留地に押し込められた。1865年奴隷制度が廃止されるが黒人への差別は残り、1964年公民権法により法律上の差別は全面的に撤廃される。

・法的には差別がないため、人種・民族・宗教・出身国を問わず、能力を発揮する人もいる。それが米国の多様性として見られている。彼らは米国での生活を享受している。しかし近年は「人種のサラダ・ボウル」と呼ばれる。これは個々の人間集団が、自身の文化的特色を保っている事を意味する。米国的文化の同化力にも限界があるようだ。
・時にこの限界が表面化し、黒人への暴行事件や、それに対する抗議運動・暴動が起きている。9.11事件により、イスラム教徒排撃運動が起き、ヒスパニックの急増により、移民排撃運動が起きている。米国は近い内に有色人種が半数を超える。そうなれば内的凝集力や統合が保たれるだろうか。

○異文化共存の困難さ
・同じ事は西欧にも言える。西欧世界はカトリック/プロテスタントの世界だったが、ムスリムが流入し始めている。仏国では人口の1割が新移民である。移民・難民の流入は人口減少の歯止めになるが、紛争を拡大させる可能性もある。宗教が異なる全く異文化の人々との共存は容易でない。
・米国/EUは統合のコストを抱えている。一方空間固定型だった中国は、「一帯一路」と称し、空間拡張型に変わろうとしている。未来の世界秩序、個別的文明の比較優位が注目される。※中国も統合のコストを抱えていると思う。

○文明発展のためのイノヴェーション能力
・「行け行けドンドン」にせよ、フィードバックにせよ、文明の発展には革新(イノヴェーション能力)が必要である。文化世界の中にイノヴェーションの中心となる地域・人間集団が生じると、周辺諸社会はその文化を比較優位と認め、受容を始める。中国で漢字が生まれると、漢字/紙だけでなく、書風や詩文のスタイル、さらに帯で締める衣装や食の作法などを受容した。18世紀以降、ラテン文字世界が比較優位になると、周辺諸社会は武器・戦術・築城術/洋装/建築などを受容した。
・日本は明治改革での西洋化においては、伝統的な漢詩和歌に加え「新体詩」(?)を生んだ。西洋近代小説に倣って、森鴎外/夏目漱石などの「近代小説」の先駆者が現れた。

・多文化世界でのイノヴェーションの中心は、ワールド・モデル/ワールド・スタンダードを提供した。西欧キリスト教世界は、ガレオン船・蒸気船/近世城郭/近代国際法/領域的主権国家モデル(※説明が欲しい)などを提供した。20世紀後半になると、米国がグローバルなモデル/スタンダードを提供した。
・日本は「何が何でもアメリカン・システム」となり、日本的経営を捨て、雇用システムを壊し、今日の低迷になった。これは自称先進的経営者が大局観に欠けていたからだ。

○内発的・創造型イノヴェーションへ
・イノヴェーションには内発的イノヴェーションと外発的イノヴェーションがある。日本は中国や西欧を追い掛る外発的イノヴェーションだった。またイノヴェーションは全く新しいモデルを創造する創造型イノヴェーションと、既存のモデルを改良する改善型イノヴェーションがある。日本は紙の製法を改良したり、自動車の製法を改善するなど、改善型イノヴェーションを得意とする。これからの日本は、内発的・創造型イノヴェーションを行えるかに掛かっている。

・いずれにせよ人類の文明の発展にはイノヴェーション能力が必要である。特に今日の負の結果に対しフィードバック機能による創造型イノヴェーションが不可欠である。例えば地球温暖化が問題になっているが、これに対し二酸化炭素の密閉貯蔵などの消極的対策ではなく、二酸化炭素を原料とする二酸化炭素産業の創出が望まれる。イノヴェーションの出現は、自然環境の変化への適応に掛かっている。※最後の文がよく分からない。

<エピローグ 現代文明と日本>
○漢字文化圏の周辺だった
・日本は「追いつけ、追い越せ」の目標を達成し、経済大国になった。しかし20世紀末以来、経済は停滞し、国民は老齢化し、少子化により人口減少している。そのため日本、ひいては人類の文明に悲観論がある。
・日本を振り返ると、漢字/漢文/漢語語彙を受容し、漢字世界に参入した。一方で母語は日本語で、平仮名/片仮名の表音文字を持ち、中国の押韻による漢詩ではなく、七五調の詩形を生んだ。朝鮮/ヴェトナムは科挙を受容したが、その点でも日本は朝鮮/ヴェトナムと異なる。
・文字については朝鮮はハングル(※広めたのは併合時の日本らしい)、ヴェトナムはチュノム(※見た目は漢字)を創り出した。3国の伝統服は、いずれも前合わせで帯で締める。これは中国の伝統服と同じである。3国の語彙は、いずれも6~7割が漢語である。3国の料理は異なるが、食の作法の箸食は共通している。※料理は食材に依存するので、地域性が高いと思う。中国内でさえ地域差があるのでは。
・日本は西洋化を進めたが、漢字世界にあると云える。また近年の反中国論は、中国優位になった状況への焦りだろう。

○日本文化の発信
・日本は西洋化を強力に進め、英国を追い越し、米国にも肉迫した。それにも関わらず、日本独自の文化を保った(※失ったものもある)。出会いの儀礼は握手ではなく、「おじぎ」である。通常は洋装だが、和服も着る。洋食もあるが、和食もある。
・グローバル化により異文化への感受性が拡大している。日本への観光客が増え、すき焼き/寿司/日本酒などが海外に進出している。西欧での音楽祭/バレエ・コンクールでなどで日本人が受賞している。
・日本は文化面で悲観する必要はない。「追いつけ、追い越せ」で来たため、発信/アピールする能力が欠けている。これからは消極的受容ではなく、積極的発信に変わるべきだ。日本には言語の壁があるため、日本文学/人文学/社会科学の翻訳に努めるべきだ。

○異才を拾い上げる人材育成
・これは科学技術/経営組織についても同様である。これは日本人がノーベル賞受賞者を輩出している事からも分かる。「追いつけ、追い越せ」は達成されたのだ、これからは先頭を走る人材の養成・登用が必要だ。
・日本は受容・模倣・改善の能力と、その結果の維持・運営の能力を重視してきた。これは東京大学法学部のエリートのようなルーティンをこなすのに適した人材に過ぎない。これからは創造的人材を育てなければならない。
※人材を育てられるかの一番の要因は、国が豊であるかだと思う(今の中国のように)。そうであれば、差別もなく、自由な研究もできる。

・天才アインシュタインは好きな事しかやらないため、高校卒業・大学入学に必要なアビトゥーア資格に合格できなかった。そのためその資格が不要なスイスの名門・チューリッヒ工科大学を受験する。ここでも不出来の科目があったが、数学/物理の解答が驚愕するほど優れていたので入学を許された(※この話は知らなかった)。もし日本であれば、幼稚園か小学校で敗者になっていただろう。日本には異才を拾い上げるシステムが必要である。※南方熊楠の話も記されているが省略。

○フィードバックとイノヴェーション
・今必要なのは近代西洋化した文明の利害得失を見直す事だ。この近代文明は「行け行けドンドン」で前進のみ重視し、不都合なものに目をくれなかった。原子力を開発したが、広島・長崎で大惨禍を生み、チェルノブイリ・福島で原発事故を起こした。エネルギーを無制限に浪費し、地球温暖化の危機にある。人工知能AIは、労働の機会を奪うだろう。これらから将来への悲観論が支配的になっている。

・私の文明の言説は、「それは今の文明発展が第1段階だからだ」である。不都合なものに対処するフィードバック機能が備われば、文明は第2段階に入る。これを備えるには、創造型イノヴェーションが必要になる。日本は科学技術で追いついた。日本が文明の第2段階を推し進めれば、モデルの模倣・改善を超え、史上初めて他者から模倣される立場になる。※最後は抽象的。

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