『高卒でも大使になれた』藤田順三(2014年)を読書。
商業高校を卒業して大使になるまでを記した自伝です。
様々な苦労の連続の中にチャンスがあり、それを掴んだ事を「その一瞬を逃さず」としているが、それが連続的にあった気がする。
彼が成功できたのは、何事にも真剣に取り組む姿勢だと思う。
外務省の内情、ウガンダ難民問題、デンマークの特著なども知れて良かった。デンマークは本当に成熟した社会だな。
お勧め度:☆☆☆(こんな成功談は面白い)
内容:☆☆
キーワード:<はじめに>学歴、<私を変えた人生の最初の一瞬>ウガンダ大使、認証式、あしなが育英会、父、卒業アルバム、英語、<神戸銀行新宿支店>窓口業務、紀伊國屋書店、レ・ミゼラブル、退職、<語学武者修行>教会、日ソ学院、職探し、足立林田法律事務所、<本の虫>読書、常識、自然、<外務省入省>外交官試験、研修、下痢、<外務省人生>儀典官室、デンマーク、ロジスティクス、ジュネーブ代表部、<条約局条約課>妻、サケ・マス交渉、キャリア、<国際約束締結>湾岸戦争、四ヵ国条約、租税条約、即位の礼、債務繰延、<ジュネーブ日本政府代表団>ルワンダ難民問題、ジェノサイド、庇護国、国連、<デンマークと云う国>高負担高福祉、結婚、同質性、愛国心、血の通った民主主義
<はじめに>
○諦めなければ、運から近寄ってくる
・学歴は商業高校卒、家柄は普通で、人脈がある訳でもない。そんな私がどうしてここまでこれたのか。それは何事にも真摯に対応してきた事に尽きる。キャリアではないので、人より2~3倍努力するしかなかった。条約課に5年間いたが、キャリアは物凄いスピードで出世していった。
・争いは体力を消耗する。私は省エネで、彼らの主張や希望をできるだけ叶え、仕事を進めた。彼らは省益のために無駄なエネルギーを使っている。これがなくなれば、日本はずっと良くなる。
・霞ヶ関には気概に満ちた人も多くいるが、教育制度の弊害と思われる人も多かった。こう云う点数を取る事に長けた連中は、上に媚び、下に横柄に当たる。常識がなく、バランスに欠けた形容し難い人達である。しかし大多数は仕事に真摯に取り組んでいる。私の上司もそんな人が多く、感謝している。
・「その一瞬」は誰にも訪れる。それに気付き、行動に移せるかにある。若い内は、柔軟でエネルギーを持っている。それを使う事ができれば、誰だって、かなりの事ができる。
・頑張れば、自信が付き、運が近寄ってくる。人間の能力には差があるが、それ程でもない。問題は、諦めず、集中する事だ。
第1章 私を変えた人生の最初の一瞬
<猛暑と認証式>
○思いがけないウガンダ大使の拝命
・2013年5月ウガンダ大使への就任を本省から知らされる。当時はオーストラリアのクイーンズランド州の州都ブリスベンの総領事に着任して1年10ヵ月で、これからの時期だった。しかもこれまでの勤務地は全て先進国で、発展途上国は初めてだった。
○皇居で行われた認証式
・6月30日帰朝し辞令が出る。それからバタバタとする。7月23日成田に降り立ち、人事課を訪れ、認証式の準備に入った。皇居には何回か訪れている。80年代皇太子(※現上皇)が北欧を訪問された時は同行した。また「即位の礼」では英連邦ドミニカ国(※ドミニカ共和国とは別)大統領の接伴連絡員を務めた。8月1日皇居の「松の間」で認証式を受け、陛下から官記を頂いた。※国を代表するので、天皇の承認がいるのか。
・それからも猛暑で大変だった。安倍首相/菅官房長官への表敬。天皇陛下/皇太子への謁見などが続いた(※これらは必要なのか)。さらに各界の要人に挨拶した。そこで「あしなが育英会」の玉井会長と出会った。※本書のテーマはウガンダ大使と「あしなが育英会」の2つかな。
<卒業アルバムとの再会>
○あっという間に過ぎ去った就任1ヵ月
・9月22日ウガンダの首都カンパラに到着する。カンパラはビクトリア湖に接しており、日本の猛暑が嘘のようだった。
・早速「あしなが育英会」の唯一の海外拠点「あしながウガンダ」を訪れた。これは2001年エイズ遺児支援のために設立されたNGOで、2003年には「ウガンダ・レインボーハウス」が竣工している。ウガンダ・レインボーハウスはアフリカ遺児救済の拠点になっている。このレインボーハウスから19人のウガンダ青年が日本に留学している(※ウガンダ留学生をたまに聞くが、これが関係しているのかな)。この人材育成支援活動をアフリカ全土に拡大するのが、玉井会長の「あしながアフリカ百年構想」である。ウガンダ大使として、この活動に協力しようと思った。
・同時に玉井会長から預かった宿題に逡巡した。「私を変えた人生のその瞬間」と言われても、何を書いたら良いのか。
○父との3週間の懐かしい思い出
・そんな中、荷物の中から「東京都立第五商業高校」の卒業アルバムを見付けた。これは今年の春、父が93歳で亡くなり、その形見として受け取ったものだ。不思議と哀しみはなかったが、その前年に父と八王子のアパートで過ごした3週間が思い出された。
・父は寡黙だったが、その時はよく喋ってくれた。東京大空襲の時、父が玄関脇に穴を掘り、そのお陰で夫婦が助かった話を初めて聞いた。母は13年前に亡くなり、それから父は写経・写仏などをして、このアパートで一人で暮らしていた。
○自分で井戸を掘るほど好奇心が強かった父
・父は好奇心が強く、宇宙・科学にも関心を持ち、私が担当した国際熱核融合実験炉にも興味を持った(※人口太陽かな)。杉並の富士見ヶ丘の家は自分で増築し、井戸も自分で掘った。子供の時、その土を上げるのを手伝った。水は美味しく、近所で評判になった。
・父の名は「正道」で、その名の通り正直者で、肉親からも利用された。そのため母が、三鷹の大沢に引っ越しさせた。父は40代で体を壊し、家で内職するようになる。そのため母も苦労するが、孫にも恵まれ、旅行を楽しむようになった。デンマーク/ジュネーブにもやってきた。父は老後になると元気になり、90を過ぎて、高尾山に登った。※人生の終盤は楽しめたみたい。
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○偶然見つけた高校の卒業アルバム
・私は父のアパートに数日いた。母が整理した幾つものアルバムを見ながら、小学校4年生までいた富士見ヶ丘や、24歳までいた大沢での日々を思い出した。
・ウガンダで高校の卒業アルバムを見て、この中に「私を変えた人生のその一瞬」がここにあるのかもしれない。見返しに「大好きな、足長のジュンゾウ君、世界旅行が実現でき、良いお嫁さん・・」とある(※省略したけど、足長、世界、なんか暗示しているメッセージだ)。黒柳さんは覚えているが、なぜこのメッセージが書かれたか記憶にない。
・ページをめくると教師陣の写真がある。2年3年の担任だった体育の高野先生も載っている。私は悪い生徒で、バイクで登校したり、学校を休み東京競馬場でアルバイトをした。
○卒業と同時に頭から抜けていた五商
・「五商と私」とのアンケートに答えた事がある。それを記す。※大幅に省略。
最も印象深かった事-皆大学受験を考えないので、至って長閑だった。
役に立った事-自由気ままに過ごし、非常に役に立った。
v 自慢話-剣道部を退部し、再度入部した。先輩・後輩や先生は大らかだった。
失敗談-土曜の最後の授業を抜け出し、東京競馬場でアルバイトしていて、先生に叱責された。
v 在校生への助言-五商での生活を楽しんで下さい。それと本を沢山読んで下さい。そこから常識が得られます。
その他-部活は楽しかった。
・クラスの写真もある。黒柳さんも載っている。他のクラスの写真には、一緒にアルバイトした木村が載っている。アルバイト代の支給日には彼と駅前で天ぷらソバを食べて、夢を語った。彼と思いを寄せる女性が一緒だった。彼女と一度か二度、相合傘で帰った事もある。※割と普通の高校生活だな。
・先輩面をして母校に顔を出す人もいるが、私の場合は全く離れてしまった。そこに「私を変えた人生のその一瞬」があるかあも知れないと思った。※何でこのテーマが頻繁に出るんだ?「努力しなかった人間が、急に努力するようになった」って事?
<私を変えた人生の最初の一瞬>
○初めて勉強を面白いと思った瞬間
・1969年私は五商を卒業した。当時、日本はGNPでドイツを抜き世界2位となった。その頃私と兄は世界旅行の事ばかり考えていた。私は神戸銀行への就職が決まっていたが、語学学習に熱中していた。卒業間近になると授業がなくなり、生徒は最後の自由に浮かれるが、私は朝から晩まで英作文を練習していた。卒業式の日も、皆が別れを惜しんでいるのに、あたふたと家に帰った。学習には、お金の掛らないNHKのラジオ講座を利用した。
○人生を変える一瞬とは何か?
・これが私が初めて勉強に熱中し、面白いと感じた一瞬だった(※これを言いたかったのか)。誰の人生にも「人生を変える一瞬」は何度も訪れる。それを掴み、生かせるかが重要である。私の場合、その最初の「その一瞬」は英語学習だった。私はこれを人生に組み込む事ができた。これは集中力とも云える。その対象は勉強でも、運動でも、趣味でも何でも良い。熱中する事が大事である。
第2章 神戸銀行新宿支店
<神戸銀行新宿支店>
○三井銀行に落とされ、神戸銀行に入行
・1969年4月神戸銀行に入行した。当時の神戸銀行は、横浜銀行/太陽銀行などと共に最後尾を争っていた。私は三井銀行に五商の三人で受験したが、全員不合格だった。それは試験会場に試験官がおらず、回答を見せ合ったからだろう。
・入行式は大手町の東京支店で行われ、直ぐに新宿支店に配属された。
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○やる気を挫かれた経歴による待遇の違い
・新宿支店で挨拶をした後、神戸三宮の本店での研修に向かった。この研修は高卒と大卒で違いがあった。高卒組は算盤/札勘が中心で、普通預金・当座預金・定期預金・外国為替などの窓口業務に留まった。当然将来に亘って業務内容や給料が異なる。私は算盤をやっていたし、器用なので札勘もこなした。しかし真剣に研修しなかった。
○新宿支店は紀伊國屋書店の裏手にあった
・新宿支店は紀伊國屋書店の裏手にあり、4階建てのビルだった。隣の朝鮮料理店が失火し、新宿支店の外壁を焦がした事がある。
○一夜にしてポストを失った次長
・新宿支店に初めて出勤した。支店長/次長/2人の支店長代理がロビーに入ると朝礼が始まった。そこで3人の新入行員が紹介された。その後支店長室で、次長から色々な話を聞いた。しかしその半年後、次長は20万円を着服し、退職した。
○最初は窓口の普通預金に配属
・最初は窓口の普通預金を担当した。指導役は30歳の魅力的な女性の和田さんで、1階のロビーでの存在感は圧倒的だった。研修は真剣になれなかったが、仕事は別だった。それが認められたのか、窓口が閉まると、手形交換所の仕事や、売店での売上金の回収などに行った。18歳の若造が鞄に数千万円を入れ、歌舞伎町界隈を歩き回っているのだ。幹部の度胸も大したものである。
○当座預金の3人の相方
・3ヵ月後には当座預金に回された。最初は高卒の田中さんと一緒に働いた。この半年が、銀行勤務で一番楽しかった。彼は司馬遼太郎のファンで、『国盗り物語』を絶賛していた。彼は当座預金の帳尻合わせ(?)は素早かった。
・当座預金の帳尻合わせは、ドイツ製の計算機に小切手の数字を打ち込むのだが、成蹊大学卒の真田さんに替わると間違いが多く、帰宅時間が遅くなった。幸い真田さんは直ぐ交替になり、高卒の新人の山本さんに替わった。すると前のように早く帰れるようになった。彼は「寅さん」のファンで、「映画を観て下さい」と勧めるが、当時は洋画しか関心がなかった。
<紀伊國屋書店との出合い>
○記憶に残る4つの出来事
・神戸銀行新宿支店に2年間いたが、記憶に残る出来事が幾つかある。1つ目は、19697月のアポロ11号の月面着陸である。2つ目は1970年3月からの大阪万博である。この頃から新宿支店にも外国人が現れるようになり、彼らが来ると女性職員から「藤田さーん」と呼ばれた。それは店内で私が唯一英語を話せたからだ(※語学が役に立った)。3つ目が1970年11月の三島由紀夫の割腹自殺である。4つ目が新宿支店前の靖国通りで繰り広げられた全学連と警察機動隊との衝突である。新宿支店前は丈夫なシャッターで締め切られたので被害はなかったが、多くの店舗が被害を受けた。※4つ目は記憶にないな。
○紀伊國屋書店との出合い ※この場合、出会いではなく、出合いなんだ。
・そして5つ目の出来事が、紀伊國屋書店との出合いである。これは2回目の「私を変えた人生のその一瞬」である。それは新宿支店に勤め始めてから半年後、それまでは同僚とランチ/コーヒーしていたが、それをピタリと止め、新宿界隈を歩き始めた(※当座預金の頃だな)。紀伊國屋書店の3階に上がると、夥しい洋書があった。
・私はNHKのラジオ講座で、仏語/独語/露語/スペイン語/中国語の学習を始めた(※5ヵ国語も!)。朝の放送を録音し、帰宅後に学習した。参考書は大学書林の「外国語学習の4週間シリーズ」を使った。勉強時間は深夜の2時・3時に及んだ(※自分のためだから良いよね)。そのため遅刻の常習犯になったが、開店時間には遅れなかった。※これはまずいのでは。
<対訳書『レ・ミゼラブル』との格闘>
○昼休みの別世界
・私の遅刻は常習化しており、8時半からの朝礼には出ず、9時開店にかろうじて間に合っていた。これを高橋支店長代理は苦々しく思っていたが、宮島支店長代理は仕事の方を認めていた。
・新人が入る頃、私は紀伊國屋書店通いを止め、ランチ後には新宿支店の屋上に行くようになった。この別世界で英語の暗唱を行った。この切っ掛けが、紀伊國屋書店で見付けた考古学者ハインリッヒ・シュリーマンの自伝『古代への情熱』である。これが3回目の「私を変えた人生のその一瞬」となった。
・考古学/ギリシャ神話には興味がなかったが、彼の外国語の学習方法に感動した。彼は貿易会社の使い走りだったが、外国語で一人前の商人になり、トロイの遺跡を発掘したのだ。彼の学習方法が原書の丸ごと暗記だった。
○『レ・ミゼラブル』150ページの丸暗記
・『レ・ミゼラブル』の英語学習用のコンパクトな対訳書で丸暗記を始めた。訓練には「サイレント・トーキング」を利用した。これは複数の人物を仮想し、彼らに論議させるのだ。※日本語でもやった事がないので、ピンとこない。レ・ミゼラブルの文章を仮想した人物が語るように分割するのかな?
・暗唱ページが増えると、すでに暗唱したページの復習が必要になる。帰宅してからは英語以外の学習をしていたため、暗唱は昼の別世界と通勤の途上で行った。暗唱は長い貨物列車が動き出す時と一緒で、最初はゆっくりだが、次第に速度が上がった。※特に目的がある訳でもないのに、こう云った事を地道に続けられるのは、自分と少し似ているかな。でも結果は全然違う。
・何時頃暗唱を終えたか思い出せないが、1971年3月神戸銀行を退社するまでは続けていた。しかし小説1冊を暗記できた事は自信になり、これが4回目の「私を変えた人生のその一瞬」となった。
<神戸銀行退職>
○突然引き継がれたオンライン化の仕事
・1970年終わり頃、オンライン化に担当が変わった。どの銀行も支店毎に電算機を持っていたが、オンライン化するようになった(※第一次オンライン・システムかな)。そのためには全ての預金取引のパンチカードを作成する必要があり、それが仕事になった。宮島支店長代理から期待されての任命だが、年が明けると退職の話をしたいと思っていた。※単純作業は苦痛だよな。
○休みも気にならない目一杯の日々
・銀行の師走は忙しく、31日まで仕事がある。しかも休みは三ヵ日だけである。しかし私は、昼夜も休日も語学学習していたので、休暇も頭になかった。
○退職を後押ししてくれた宮島さん
・1月になるとオンライン化の目途が立ち、仕事の峠も超えた。そんな時、宮島支店長代理に「3月一杯で退職したいのですが。語学が生かせる仕事を、どうしてもしたいのです」と話した。そうすると「よく決心をした。偉い。人間は自分のやりたい仕事ができるのが、一番の幸福だ」と答えられた。
○神戸銀行よ、さらば
・支店長と次長は引き留めたが、私の決心は変わらなかった。3月初めに辞表は受理された。この頃には『レ・ミゼラブル』のどこからでも復唱する事ができた。
・1971年3月31日、20歳で神戸銀行を退職した。銀行の裏口から出て、歌舞伎町界隈を歩いたが、何時もと違って見えた。※複雑な気持ちだろうな。
第3章 語学武者修行
<語学武者修行の1年>
○24時間を最大限に使いたかった
・退職した翌日、通勤する必要もなく、1円足りないと騒ぐ必要もなく、印鑑が登録したものと符合しているのかと悩む必要もなく、単純に嬉しかった。しかし銀行員であれば、それなりに豊かな生涯を得られただろう。しかし自分には、24時間を如何に有効に使うかしか頭になかった。
・給料の多くを家に入れていたが、幾らかは預金通帳にあって、それで生活するしかない。その通帳は卒業アルバムにメッセージを書いてくれた黒柳さんが勤める富士銀行三鷹支店のものだった。
○新たな自信を与えてくれた教会
・退職後は朝9時に机に着き、英語学習/『レ・ミゼラブル』の復唱/英作文をし、昼からは仏語・独語、晩には露語・スペイン語を学習した。しかし半月もすると、これは精神的に良くないのではと感じるようになった。
・ある日弟が国立にある教会のチラシを持って帰った。それには月水金の4時から英語の勉強会を開くとあった。キリスト教に興味はなかったが、無料なので参加する事にした。私は4時前に行って、牧師さん家族と卓球をした。月曜がコーヒー・アワー、水曜が聖書の勉強、金曜が小説による勉強だった。コーヒー・アワーは政治・経済について議論した。そのため私は府中図書館で英字紙『ジャパン・タイムズ』を読むようになった。※どんどん領域が広がる。
・その教会は評判になり、一橋大学/音楽大学/津田塾大学の学生や、桐朋高校の英語教師まで参加するようになった。わたしの語学力は大学生と遜色がなく、自信となった。
○日ソ学院での集中露語学習
・7月になると、教会の勉強会は1ヶ月半の夏季休暇になった。この期間に代々木にある日ソ学院で露語を学ぶ事にした。レベルは中級で、月水金の週3回の夏季講座である。日ソ学院はソ連との関係もあり不人気で、ほとんど私一人が先生を独占した。先生はモスクワ大学で5年間学んだ人だった。
・日ソ学院で文化祭が開かれ、ドストエフスキーの小説などが売られていたが、当時はロシア文学には興味がなかった。
○教会での勉強も一段落した頃
・日ソ学院での講座が終わると、教会に通った。そこには青年ジョン・アウインガーが加わっていた。彼とは行動を一緒にするようになる。映画『イージー・ライダー』を見たのも、女学生を誘って鎌倉に行ったのも、彼と一緒だった。教会に通ってくる大学生とは一定の距離を保った。彼らとは住む世界が違う。また語学への熱意も違っていた。そのため私は別の教会にも顔を出した。
・年を越し1月終わりになると教会に行かなくなった。そんな時母から「そろそろ働いてくれないかな」と言われた。
<世の中甘くない>
○中身より表面的なものを重視する世の中
・私は職探しに奔走するようになる。3年間語学の武者修行をしたため、外資系の会社に就きたかった。そのため府中図書館で英字新聞の求人広告を見に行くようになった。
・ドイツの会社の求人を見付け、ドイツ語で履歴書を書き送った。「直ぐに面接に来て欲しい」と言われたので訪ねたが、担当者はドイツ語が読めず、私の履歴を理解していなかった。しかし採用はならなかった。銀行を2年で辞める人間は、信用されないようだ。外資系の石油会社などにも応募した。しかし会社は面接さえ応じてくれなかった。
○職業安定所で打ち砕かれた自信
・「自分のような有能な人材は、世間が放っておかない」と思っていたが、大きな間違いだった。次第に自信を失っていった。※まだ終身雇用の時代だから、風当たりは相当強いだろうな。
・三鷹の職業安定所に初めて行った。語学学習が続けられるため、学校の用務員を希望したが、係官に「希望の職種はありません」と言われた。立川の職業安定所にも行ったが、同様だった。そこを出ると自衛官への就職を勧誘された。
・邦字紙の求人欄も見るようになった。その中に学校の事務職員の求人があった。
○武蔵野美術大学への就職失敗で、絶望は頂点に
・武蔵野美術大学の図書館の求人に応募した。試験の日、鷹の台駅で下車した。多くの学生と思われる人が美大の方に向かった。大学に入り受付番号をもらったが、あの百人以上の一群も、受付番号をもらった。私たちは講堂に集められ、20分程求職内容を聴いた。その後国語・数学・英語・作文の試験を受けた。これで8割方が落とされるらしい。2時間後にその発表があったが、私は残れなかった。
・日大二高/法政大学の事務職員にも応募したが、ダメだった。お寺の寺男もダメだった。2ヵ月間で20近く応募したが、いずれもダメだった。少しくらい語学ができても意味はなく、絶望は頂点に達した。
○足立林田法律事務所との出会い
・3月31日兄が『毎日新聞』で、足立林田法律事務所の求人広告を見付けた。電話すると、「面接する」との事で、大手町に出掛けた。事務所は15階建てのタイムライフ・ビルの10階にあった。
○あっという間の採用
・面接だけと思ったら、試験もあった。試験は英文の手紙の和訳と、その返事を英文で書く試験だった。商業英語が使われていたため、難しかった。最後は足立先生との面接だったが、不在なので後日となった。
・家に帰ると電話があり、「足立先生が直ぐに会いたいから」と、また大手町に向かった。5分程面接し、「明日から来て下さい」となった。給料は4万5千円で、神戸銀行より上がった。これも「私を変えた人生のその一瞬」だが、これまでとは大きく違い、大きな意義があるものになった。※これは現実的な一瞬かな。それにしても良い機会を掴んだ。
<ジェームス・S・足立との出会い>
○粒揃いの一流弁護士事務所
・事務所のオーナーである足立さんが著名な弁護士である事は、働き始めて直ぐに知った。彼は日本の米国商工会議所の会頭も務めていた。米国人だが、戦後の東京裁判のために日本に来て、日本の弁護士会の準会員になっていた。パートナーの林田さんは、当時海外に出張しており、航空機事故の訴訟を担当していた。他に日本人と米国人の雇われ弁護士が、それぞれ3人いた。ここに2年10ヵ月いたが、弁護士は頻繁に替わった。
・この事務所を支えていたのは秘書兼経理の柴田さんだと思う。さらに事務面では弁理士志望の桜井さんが支えていた気がする。他に秘書やタイピストが数名いた。事務所は中規模だが、大規模に比肩する収入を得ていたと思う。
○阿部さんの仕事振りに触発された
・私は桜井さんのお手伝いとして、特許と会社登記を担当した。仕事も楽しかったし、出勤は9時半で、5時半に退社し、昼休憩は1時間半あった。私は仕事に励み、空いた時間には特許や登記の法律書を読んだ。※それなのに3年足らずで退職したのか。
・特許は商標が主で、クライアントには有名な人が多くいた。アーノルド・パーマー/ジャック・ニクラウス/ゲーリー・プレイヤー/ジャネット・リンなどで、他にサッカー選手/テニスプレーヤー/オートレーサー/スキーヤーなどがいた(※スポーツ選手ばかりだな)。クライアントとのやり取りは英文で行った。意匠・実用新案の仕事もあり、特許庁には毎日足を運んだ。
・半年先輩の阿部さんは登記を任されていた。彼は石油会社に勤めていたが、5年すると覚える事がなくなったので、辞めたそうだ。彼は法務局や日銀に出向いていた。彼は完全に独り立ちしており、羨ましかった。その内私も登記/渉外/養子縁組/不動産売買などの仕事もするようになった。※こんなに変化があると、面白そうだな。
○外資系特有の破格の待遇
・この事務所で一番驚いたのは、午前と午後にコーラが出る事だった(※時代だな)。しかしその後このコーラで体調を壊してしまった。
・勤め始めて3ヵ月後、足立先生に呼ばれ、「藤田さん、よく頑張っている。明日から給料を2倍にします」と言われた。それから数ヶ月にも給料がアップし、手取りが12万円になった。大卒の初任給が5万2千円の頃である。※日米の物価違いもあったかな。
○外資系で働く女性のタイプ
・この事務所も外資系と云える。そこで働く女性には2タイプある。1つは自分に自信を持ち、給料に強い関心があるタイプである。彼女たちは躊躇なく転職する。もう1つは野心のないタイプでる。事務所の大半の女性は前者のタイプで、半年もしないうちに辞めていった。和文タイピストで50代の原さんだけは後者だった。
・私は受付嬢の佐々木直さんに惹かれた。彼女は東京外国語大学卒で、私より2歳年上だった。他の女性とは話さなかったが、彼女とはよく話をした。また和文タイピストの原さんの補佐に和田さんも入ってきたが、彼女も2歳年上でよく話をした。1年後の9月に佐々木直さんは退職した。その後オーストラリアに日本語教師として向かう途上、飛行機事故で亡くなったそうだ。
・この事務所では、上司の桜井さん、半年先輩の阿部さん、和文タイピストの和田さんとは仲良くなった。一緒に雲取山に行ったり、志賀高原でスキーをした。
第4章 本の虫
<読書との出会い>
○日比谷図書館で知った読書の醍醐味
・足立林田法律事務所での勤務は「私を変えた人生のその一瞬」になったが、他にもあった。まずは日比谷図書館との出会いだ。もしここに「利用頻度最高賞」があるなら、私は受賞しただろう。ここには事務所に勤務している間も、外務省に入省してからも通っている。借りた本も多様である。
・初めて行ったのは、事務所に勤務し始めた頃で、特許庁の帰りに寄ったのが始まりだ。最初は法律関係の本を借りた。さらに山岳関係/民俗学/動植物と発展していった。山登りと野鳥観察は趣味で、「日本野鳥の会」に入会した。司馬遼太郎『国盗り物語』などの小説も読むようになった。読む範囲は、時代小説・現代小説・恋愛小説・推理小説・冒険小説・純文学・大衆文学・中間小説から、紀行・エッセイ・シナリオ・伝記・戦争・歴史・音楽・詩・昔話・天文・仏教にまで広がった。
○全集に手を出す
・本は不思議なもので、面白い本は手に入れたくなる。新刊は買えば良いが、古い本は古本屋で手に入れるしかない。そのため古本屋通いも始まった。『柳田国男全集』『大町桂月全集』『定本・野鳥記』(中西悟堂)などを購入した(※入手した経緯などが詳しく説明されているが省略)。日本山岳会の小島鳥水/小暮理太郎や、植物学者の武田久吉/牧野富太郎や、純文学作家の丸山健二などの本も入手した。
○語学より読書の方が面白い
・古本屋通いが忙しくなると、事務所の仕事が疎かになってきた。事務所に帰る時には、沢山の本を買って帰るようになった。しかし仕事はきちんとやっていたので、誰にも文句は言われなかった。
・語学学習への興味は失せ、読書だけになった。しかしこれを知った事で、私は常識を身に付けていった。「考える力」「判断する力」を身に付け、これがなければ、外交官試験に受かる事はなかった。この読書との出会いも「私を変えた人生のその一瞬」である。※読書から得たものは知識ではなく、常識としている。
<読書は自然の素晴らしさを教えてくれた>
○ほろ苦い初登山
・読書によって自然の素晴らしさを知った。私は小学校低学年の頃から昆虫が好きで、暇さえあれば昆虫図鑑を眺めていた。鳥にも関心があり、兄に誘われ、霞網やレンガの罠を作った。神戸銀行に就職した頃、兄に誘われ、奥多摩の山(川乗山、雲取山など)に登るようになった。雲取山は大変な山行になったが、その後病み付きになる。※雲取山での苦難が書かれているが省略。
○山・鳥・植物・・、自然の素晴らしさを知る
・法律事務所に就職し、中西悟堂『定本・野鳥記』に触発され、本格的に登山するようになる。最初は奥多摩の高尾山/御岳山を登っていたが(※どちらも登った事がある)、次第に奥秩父/丹沢/北アルプス/南アルプスと広がっていった。鳥と植物は関係が深く、購入する本は、山岳から民俗学/動植物にも広がった。自然関係の勉強は、語学学習とは違い、温もりがあった。
・そこには様々な出会いもあった。鳥に会うと、「野鳥観察ノート」に記録した。そのためには鳥の名前を覚えるのが王道である。人間関係も同様だが、まず名前を知る事で、関心度・親近感はずっと増す。カラスだけでも、ハシブトガラス/ハシボソガラス/ワタリガラス/コクマルガラス/ミヤマガラス/ホシガラスがいる。またカササギ/オナガ/カケス/ミヤマカケス/ルリカケスにカラスは付かないが、カラスの仲間だ(※こんなに種類があるのか。カラスの話が続くが省略)。カササギは豊臣秀吉が朝鮮から持ち帰った鳥で、北九州にしかいない。※名前はサギだが、シロサギ/アオサギのサギとは別みたい。
○自然観察は世界観を広げてくれる
・こんな話をするとキリがない。要は名前ありきなのだ。とにかく観察と読書が重要である。鳥には様々な特徴/個性がある。外見/飛び方/歩き方/止まり方/鳴き方の違いが分かってくると、少し囀っただけでも、何の鳥か分かるようになる。この観察眼は実社会でも役に立つ。その人の胸の内まで見えるようになる。
・また自然監察は、仕事のストレスの解放になる。仕事での発想も多様になり、結果は向上する。自然に接する事で、心の豊かさ、心の温もりを感じられるようになる。※この辺り曖昧だな。
・自然を知る事は、人間を知る事である。多くの人間は、自然より人間の方が優れていると思っている。そのため環境を破壊し、公害を起こし、自然の脅威が高まっている。私は自然を知り、人の内面を読むようになった。これはその後の人生を大きく支えた。世の中には、嫌な人間/高慢な人間/非常識な人間/自分勝手な人間がいる。そういう人にも対応できる能力を身に付けた。
※著者とは共通点が多いが、結果は大いに違う。
第5章 外務省入省
<運は自ら呼び寄せるもの>
○外交官試験受験の決意
・1974年4月木曽駒ケ岳に登った。兄が東京女子大学に勤めており、その社会学教授・山本先生らと登った。前年には剣岳にも一緒に登った。この頃、ヒマラヤに登る事を本気で考えていたが、9月に外交官試験があるので、山から遠ざかる事にした。
・この外交官試験を教えてくれたのも兄だ。この試験には外務公務員上級試験/外務公務員中級試験/語学研修員試験があるが、中級試験と語学研修員試験は学歴不問だった。これは大卒以上を条件とする司法試験とは異なった(※これも職種を司法から外交に変えた遠因かな)。本屋で『外交官試験必携』を購入し、試験の内容を吟味した。
○雑音を閉ざし、試験に一球入魂
・周りに関係者がいないので、頼れるのは『外交官試験必携』だけだったが、参考書は十数冊購入した。私の勉強法は、まず森全体を見て、全体をしっかり把握してから樹々を見る方法である。この方法で、家では経済学/西洋史/東洋史を勉強した。事務所では英語を勉強するため、『ジャパン・タイムズ』を読み、邦字紙の政治欄/経済欄を読んだ。通勤時間には国際法の参考書を何度も読み直した。
○願書提出、気持ちばかりが焦る日々
・6月初め願書を提出し、受験票など一式が送られてきた。第1次試験は9月8日が一般教養/作文/東洋史・西洋史で、翌日が国際法/経済学/外国語和訳・和文外国語訳だった。
<外務省語学研修員採用試験>
○緊張にやられた第1次試験
・代々木の試験会場には1時間半前に着いた。最初の一般教養は55問で、大変難しかった。一般教養で合格点に達しない者は失格となるので、疲れがどっと出た(※筆記試験を2時間位すると、ホント疲れる)。午後は作文で、題目は「世界における日本人」だった。これは日頃から思っている事を遠慮なく書いた。※20歳半ばで、難しいだろうな。
・東洋史は「中国共産党政権の確立とその革命」「中国史における茶・絹・陶器などの歴史的役割」、西洋史は「カリブ政策」「古代オリエントの民族の役割」からの二者択一だった。共に後者選択した。※共に古い方を選択した感じだな。それにしても難解だな。
・1日目の結果が芳しくなかったので、2日目は行く気がしなかった。最初は国際法の試験だが、受験者は昨日より少なくなっていた。国際法は「国連憲章における武力行使」「内政不干渉の原則」の両問に答える必要があるが、独自の論理を展開できた。経済学の試験は「変動為替相場制度」「総需要政策」「間接税」などで、いずれも思っている事を書けた。最後が英作文/英訳で、これは一気に書き上げ、試験終了の1時間以上前に退室した。※結果的には一般教養だけが心配かな。
・第1次試験が終わると試験の事は忘れ、弟と北アルプスの裏銀座を縦走し、自然を満喫した。
○第2次試験に臨む
・10月8日(※1ヶ月後だな)、第1次試験の合格通知を受ける。事務所に母から電話があったが、期待していなかったので、何の事かと思った。第2次試験は直ぐで、10月21日から5日間となっていた。第2次試験は42人に絞られていた。
・第2次試験は5日間で、事務所には適当な理由で休んだ。第2次試験は、国際法/経済学/外国語/面接があったが、記憶がほとんどない。長かった事と、寒くて風邪を引いた事位しか記憶にない。金曜日の夜に半年先輩の阿部さんから「心配しているけど」との電話があったが、事務所には黙っていたので、言葉を濁すだけだった。
・11月15日第2次試験の合格通知が届く。12月初め、私は事務所に外交官試験に受かった事、来年1月一杯で事務所を辞める事を告げる。
○瞬間を掴むかで、人生は決まる
・私は小学校時代から学校の成績は悪かった。勉学に関心が湧かなかった理由は、お古の教科書を使っていたからだ。これは大変な引け目になった(※教科書は無償提供では?)。ところが中学生になると、「もしかしたら自分は勉強ができるのでは」と思うようになった。それは姉が小学校の6年間、学級委員を務めていたし、私の友達には勉強のできる子が多かった。しかし3年生になると勉強しなくなった。それは高校は商業高校で、その次は就職と決まっていたからだ。高校では先生から「お前のような奴は、学校を辞めろ」とまで言われた。
・それを変えたのが世界一周の夢だった。これを言い出したのは、好奇心の強い兄だった。兄がいなければ、平凡な銀行員で終わっていたと思う。また兄から法律事務所の求人や、外交官試験の募集を教えてもらっている。これらの「その一瞬」を逃さない事が重要である。
<外務省入省と初めての試練>
○外務省に入省
・1975年4月1日私は外務省に入省した。入省式は、上級職/中級職/語学研修員/初級職の合同で行われた。それから私達(※語学研修員?)は、外務省研修所に向かった。私はその頃は上級職(キャリア)が特別なのを知らなかった。彼らの出世が特急電車なら、それ以外は普通電車で、最終駅に到着できないのも知らなかった。
○充実した3ヵ月の研修プログラム
・この研修所から広田弘毅や吉田茂が育っている。その研修内容は素晴らしかった。各界の著名人による講義があった。江藤淳(文学)/林大(教育)/下田武三(最高裁)/千宗室(裏千家)や、NHK会長/富士銀行会長/華道会理事などである。※金が掛かるな。
・私はデンマーク語が担当になったが、教授が3人着いた(※生徒1人に教授3人!?)。東海大学の岡崎教授の下では『Teach yourself』シリーズを教材にした。しかしこれを1ヵ月余りで丸暗記したので、教授は驚かれた。そのためデンマーク語の教材で学ぶ事になった。また研修には自衛艦への乗船や、京都・奈良・大阪で文化に接する研修旅行もあった。
<下痢との戦い>
○突然の下痢に四苦八苦
・研修が終わる頃(※6月末かな)下痢が止まらなくなった。病院に行ったが、悪いところはなかった。別の病院に行っても同じだった。元々胃腸は弱かったが、この5年間の無理のためか、それとも事務所でコーラを飲み続けたためか(※外務省に入ってからなので、コーラは関係ないのでは。まあ食中毒かな)。それでも山登りは続け、富士山/至仏山/雲取山などに登った。
・3ヵ月の研修が終わると儀典官室に配属され、実務研修が始まった。しかし日に10回もトイレに駆け込む状況だった。その頃は中央線のトイレも山のトイレも、涙が出るほど汚かった。
○西洋医学も漢方も駄目
・「下痢の原因は胃下垂」とする医師もあった。心臓移植/肝臓移植などができるのに、何で下痢を止められないのか。現代医学に不信感を持った。身長は186Cmあり、体重は70Kgあったが、50Kg台に減った。来年夏からのデンマーク留学はできるのだろうか。漢方や鍼灸もやってみたがダメだった。
○温灸療法に懸けた最後の希望
・11月になり温灸物理療法を知り、「東京温灸院」のドアを叩いた。院長から、「この療法は不妊治療が始まり」などの説明を受けた。また「この療法は温灸を毎日受け、ご飯を1日5回3膳食べる。そうすれば体重はメキメキ増える。運動も望ましい」などの説明を受けた。温灸が終わると、さっそくそこで「のり巻き」「いなり寿司」を買って食べた。
○握り飯との格闘
・それから私は温灸院に毎日通い、1日5回の食事も欠かさなかった(※色々苦労話が書かれているが省略)。2~3週間すると、下痢は収まらなかったが、体重は増え始めた。運動のため、大沢の自宅から三鷹駅まで6Kmを毎日歩いて往復した。私は奇跡的に元気になり、百日の治療を終えた。私は地獄から生還した思いだった。体重は80Kgに達した。今度は治療から遠ざかるための百日の治療を始めた。そして5月中旬、温灸院から卒業した。※病も経験したか。一病息災かな。
第6章 外務省人生
<高卒と云う学歴がもたらす最初の試練>
○留学拒否の報せ
・デンマークへの出発は、1976年7月5日と決まった。しかし留学先のオーフス大学が高卒の受け入れを拒否した。こんなところで学歴が障害になるとは思わなかった。欧州は日本より保守的で、学歴社会と感じた(※英国とかも階層社会だからな)。勤めながら夜学に通う方法もあったが、それをしなかったのは自分の責任である。
○儀典官室での勤務が幸い
・儀典官室での実務研修は前半は下痢で、後半は温灸院通いになった。そのため大きな成果はなかった。他の課室に配属された者は、電報の書き方/報告書の作り方/国会質問の対応/省内決裁の仕方/他省との合議の仕方などを徹底的に仕込まれていた(※霞ヶ関文化だな)。その点、儀典官室はのんびりしてた。
・しかし人生で一番大事な健康を取り戻せた。若い内は暴飲暴食をしがちだが、それもしなかった。日比谷図書館には通い続け、皇居周りの野鳥観察も続けた。また温灸院で様々な人と出会った。タクシー運転手/魚屋さん/スーパーの店員/サラリーマンの主婦/お相撲さんの弟子などである。外交官には特権意識が強いが、私は弱者の立場だと実感した。
○デンマーク出発の前に
・出発前に富士銀行三鷹支店に訪れ、黒柳さんにデンマーク行きを伝えた。その後手紙のやり取りもあったが、次第に疎かになった。三鷹支店の通帳は母に託した。また仕送りも、母が断るまでは続けた。
<外務省人生は試練の連続>
○最悪の雰囲気のデンマーク大使館
・2年間デンマークに留学し、その後在デンマーク日本大使館(※以下デンマーク大使館)に2年半勤務した(※留学って学校はどこ。学校に通わなくても留学って云うのかな)。デンマークは社民党の単独政権から、社民党・自由党の連立政権に代わった時期だった。デンマークは政党が乱立しているため、議会は長い時間を掛けて議論し、民主的だった。また社会は弱者に優しく、感心するばかりだった。※北欧4ヵ国は、フィンランドを除いて王国だな。
・しかし大使館内の雰囲気は最悪だった。大使と次席の2つに分裂し、争っていた。大使と年期の入った独身の女性が組み、それに次席と会計担当が組んで争った(※詳細省略)。私はどちらにも付かず、淡々と仕事をこなした。
・帰朝すると、西欧二課の北欧班に配属され、スカンジナビア諸国(※北欧4ヵ国+アイスランドかな)を担当した。この5年間にデンマーク女王/ノルウェー国王などの訪日が相次ぎ、私はロジ担当(後方支援担当、※ロジスティクスだな)のエキスパートになった。またこの期間に、東海大学の北欧文学部の非常勤講師を2年間務めた。※大学を出ていない彼が大学で教えるのは、変な感じだな。
○2回目のデンマーク勤務
・1986年2月~1990年4月、私は2回目のデンマーク勤務となった(※4~5年勤務で異動が基本みたいだな)。当時は保守党による中道右派連立政権になっていた。この時も大使館の雰囲気は改善されてい入なかった。それでも「他の中小公館よりまし」と言われていた。
・この時、中曽根首相のフィンランド訪問があり、私はロジで力を発揮した。ロジは軍事用語の兵站を意味する。参勤交代を思い描いて欲しいが、宿の手配、弁当・籠・馬・ワラジ・人足の準備などの裏方作業が必要である(※それで参勤交代はぶつからないようになっていたのか)。この仕事は成功して当たり前で、失敗すると非難される、損な仕事である。西欧二課に勤務していた時は、多い時には北欧4ヵ国とアイスランド/オーストリア/スイス/リヒテンシュタイン/アイルランドの9か国を担当し、大変だった。※安倍外交も困ったものだな。
○条約局条約課への配属後
・2回目のデンマーク勤務から帰朝すると、条約局条約課に配属され、ここも5年間勤務した。私は法学部卒でないため、試練の毎日だった。※条約局条約課は、7章・8章で詳述。
・その後、ジュネーブ代表部に異動し、4年間、難民問題に携わった。それは緒方貞子さんが難民高等弁務官をされている時で、ルワンダ難民問題/旧ユーゴ難民問題が最大の案件だった。※ジュネーブ代表部は、9章で詳述。
・1999年3月NATOによるユーゴ爆撃が始まった日、3回目のデーンマーク勤務に向かった。この間にASEM(アジア欧州会合)首脳会議が開かれ、小泉首相がコペンハーゲンを訪れている。私は三席だったが、次席が頼りないので、私が総括ロジを担当した。
・2003年春3回目のデンマーク勤務から帰朝し、外交総合政策局国際科学協力室に首席事務官として配属される。ここで国際熱核融合実験炉(ITER)の誘致に取り組み、フランス(EU)に負けるが、結果的には評価された。
・2006年4月からは国連政策課に異動し、企画官となる。この時は、日本が安保理の非常任理事国で、イランの核制裁決議や北朝鮮の制裁決議が相次いで採択された時期だ。「安保理は機能している」と認識した。
・2008年4月4回目のデーンマーク勤務で次席になる。この3年間は大変な勤務となり、大型ロジが2度あった。1度目は2009年10月でオリンピック総会がコペンハーゲンで開かれた。この時日本は2016年開催に立候補し、リオデジャネイロに敗れた。2度目はその2ヵ月後にCOP15(気候変動枠組条約締結国会議)が開かれた。これは200近い国の代表が集まり、首脳の数も半端なかった。そのため宿舎の争奪戦になった。私は事前に空港前のホテルの100室を予約していたが、それでも足りず、大型クルーズ船を借りた。
・2つの大型ロジが終わると、大使館の引っ越しがあった。最後は会計検査院の会計検査があった。
・4回目のデーンマーク勤務が終わると、オーストラリアのブリスベン総領事に就いた。これは2年弱の短い期間で、2013年夏ウガンダ大使を拝命する。
○条約課まで「その一瞬」はなかった
・「外務省人生は楽だった」と思われかも知れないが、試練の連続だった。若いキャリアは常識がなくてもドンドン出世し、我々ノンキャリはそれを眺めるしかなかった。私は愚痴るノンキャリにも加わらず、逆にキャリアに近付く事もなく、相変わらず皇居周りの野鳥観察と日比谷図書館通いを続けた。
・この間に「その一瞬」があったのかは分からない。あったとしたら2回目のデンマーク勤務を終えた後の条約局条約課の配属だと思う。
第7章 条約局条約課
<条約局条約課>
○条約局条約課への配属
・1990年4月私は2回目のデンマーク勤務を終え、条約局条約課に配属された。当時はバブル全盛期だった。私が勤めていた神戸銀行は太陽神戸銀行になり、さらに太陽神戸三井銀行に変わっていた。
・帰朝した翌日、人事課で辞令をもらった。次に条約課に向かい、課長室に入った。課長からは「少なくとも3年はいてもらいます。1年目は見習、2年目で自立、3年目で一人前です」「条約課で最も大切な仕事は、国際約束の締結です。次はリーガル・アドバイザーです。最後が政策の立案です」と言われた。※外から見て外務省の中核は条約局に思える。条約局は財務省の主税局の感じかな。
○前任者からの引き継ぎ
・担当は漁業/海洋法/無償資金協力となった(※無償資金協力は少し別に思える)。次に2日間に亘って、前任者からの引き継ぎを行った。前任者は「条約課は、他局が決裁したものを直す事ができる。条約課は偉いが、責任は重く、勉強を強いられる」「分厚い主要条約集と漁業六法は常に読む必要がある。先例集には条約課の苦闘が刻まれている」と言った。次に「日ソ漁業協力協定」を説明したが、理解できなかった。
○チンプンカンプンの業務
・翌日も引き継ぎを行った。私は森の全体像を知りたかったが、彼は樹木の枝先しか説明しなかった(※条約の全体像は当然理解しているが前提かな)。結局彼は「日ソ漁業協力協定」「日ソ地先沖合協定」「INPFC(北太平洋漁業国際委員会)」の3つの条約しか説明しなかった。私は大海原に放り出された。
・この4月下旬、「日ソ漁業協力協定」「INPFC」に基づき、モスクワでサケ・マス交渉が行われていたが、私は分かっていなかった(※酷いな)。机の上には決裁書が積まれた。中には「急」もあり、催促の電話も掛かってきた。私は何もできず、首席事務官に上げるしかなかった(※前任者は逃げたのかな)。首席事務官から指摘があっても、答えられなかった。
・条約課の大半は有名大学の法学部卒である。今の課長は、条約課の担当官も首席事務官も務めていた。これまでの課長も条約局の他の課長を務めたりしている。また条約課課長の経験者が事務次官になる事は多い。課の雰囲気は重苦しく、課長は納得できないと、絶対にサインしなかった。※正に国益に直結するからな。
<私に付いてきてくれた妻>
○外務省で泊まり込む
・翌日はモスクワでのサケ・マス交渉が最終局面に至っていた。そのため私の机は、書類が山のように積まれた。昼になると、ソ連課の担当が持ち回りで電報案を持ってきた。私は分からないまま上司に上げるしかなかったし、上司からの質問にも答えられなかった。それが交渉の議事録と知ったのは、少し後になってからだ。お粗末な条約課担当官であった。※まるで訓練なしで戦場に送られた兵士だな。
※具体的な内容なら農林水産省が関係していそう。以前農林水産省のジュネーブ代表部に関する本を読んだが、農林水産省と外務省では、外務省の方が相当レベルが高いらしい。
・その内深夜になった。首席事務官は寝てしまい、私も椅子を並べて寝てしまった。私は「藤田さん」の声を聞いて、起き上がった。妻からの電話で、彼女は泣いているようで、怒った声で「何時だと思っているの」と言った。精神的苦痛を受けていたのは、私だけではなかったのだ。当時は引っ越したばかりで、宿舎に電話は置いていなかった。
○家内との出会い
・私の妻はデンマーク人だ。西船橋の宿舎は酷い状態で、前使用者は倉庫として使っていたらしい(※惨状が書かれているが省略)。他にも問題があった。私が外務省で勤務を続けるには、配偶者は日本国籍でなければならない。彼女はデンマーク外務省に勤めていたが、日本国籍に替わる事で、それも辞めなければならなかった。
・彼女を母に紹介した事がある。その時私は本省の西欧二課に勤めており、彼女は在東京デンマーク大使館に勤めていた。彼女は私より8歳年上で、しかも離婚歴があった。そのため母は大変驚いた。
・妻と結婚したのは、2回目のデンマーク勤務の1988年2月1日である。私は昼休み、デンマーク大使館からコペンハーゲン市庁舎に向かい、妻はデンマーク外務省からそこに向かい、式を挙げた。※市役所婚と云うのがあるんだ。
・私を慕って付いてきてくれた妻である。そんな彼女を安心させたく、徹夜勤務した朝、私は帰宅する事にした。
<繁忙期を乗り切り、理論武装へ>
○一体何を閣議に掛けるのですか
・サケ・マス交渉の仕事は、それからも大変だった。サケ・マス交渉とINPFC条約交渉の合意を、国際約束として閣議に掛ける仕事があった(閣議請議)。私は閣議請議の書類を前例に従い作成した。首席事務官/課長に上げたが修正され、しかしも質問にも答える事ができなかった。閣議請議の書類が整うと、法制局への説明が必要だった。INPFC条約については前任者が行っていたため、サケ・マス交渉について説明する必要があった。※条約なら国会承認が必要と思うが。
・この2週間で、私は全く自信を失ってしまった。初めてキャリアの凄さを感じ、劣等感に苛まれた(※エリートの出世競争も、それなりに厳しい)。デンマーク大使館にはキャリアは2名しかおらず、西欧二課でも3名しかいなかった。ところが条約課は5名もいて、ノンキャリの方がマイノリティである。しかも他局と交渉する相手も大概キャリアである。
・また条約課の課長/主席事務官は他局で決裁されたものでも平気で修正する。それを担当官は他局に説明しなくてはいけない。このように説得する相手は省内の他局だけでなく、省内の幹部、関係省庁、法制局、国会にまで及ぶ。サケ・マス交渉での法制局への説明で、「一体何を閣議に掛けるのですか?」と問われ説明できず、退散となった。
○家内の官舎快適化大作戦
・こうして条約課勤務が始まったが、前任者が指定した参考資料を徹夜してでも読むべきだった。しかしこれまでに残業する事はなく、それだけで精一杯だった。
・妻は完璧主義者で、ペンキ道具・大工道具を買ってきて、官舎の掃除・手入れをするようになった(※レンガ造りと木造の違いのためか、西欧では家は修繕しながら使い続ける)。居間には絨毯が敷かれ、台所の流しはピカピカになった。風呂桶/風呂釜(※バスタブ?)は交換してもらった。家具も彼女が買い揃えた。
○繁忙期を乗り切る
・6月になると「無償資金協力」の仕事が加わった。この仕事も膨大にあった。無償資金協力にも、一般無償/水産無償/食糧援助無償/食糧増産援助無償/ノンプロ無償/UNCTAD無償/債務救済無償/小規模無償がある。しかもこの文書は英語・仏語・スペイン語で書かれている(※国連の公用語から露語・中国語を除いたものだな)。私の机の上は書類の山になり、この仕事もまた理解しないまま、進めてしまった。さらにそこに条約交渉への出席要請かきた。これは2つ目の仕事である「リーガル・アドバイザー」である。※出世競争として試されていたのかも。
・私が平然に戻れたのは7月に入ってからである。7月になると休みモードに入いり、書類の量も減り、課員も交替で休むようになった(※グローバルだな)。私は夜に参考資料を読むようになった(※勤務中かな)。私の頭は鮮明になり、集中力が増し、常識も蘇ってきた。
○課長の言葉を理解できた
・8月2日イラクのフセイン大統領がクウェートに侵攻した。省内も騒がしくなり始めた。その頃になって初めて課長が言った「条約課で最も大切な仕事は、国際約束の締結。次はリーガル・アドバイザー。最後が政策の立案」が理解できた。参考資料は難しい条約言葉が使われているが、私はそれを庶民の言葉に置き換えて理解を深めていった(※司法用語も難しい)。国際約束は「国と国との契約」と考えれば良い。私の心は明るくなっていった。
・家のベランダ側の窓ガラスは透明ガラスになり、ベランダの花が観賞できるようになった。
第8章 国際約束締結
<四ヵ国条約締結に奔走>
○嵐のような国際約束の締結を乗り切る
・国際約束には2種類ある。「行政取極」「国会承認条約」である。前者は行政府で締結できるもので、閣僚手続きだけで完了する。後者は法律事項/財政事項が含まれため、国会承認が必要である。通商条約/漁業条約/租税条約(?)/投資保護条約(?)などが該当する。財政事項とは、新たに予算を組む必要がある場合などである。無償資金協力は前者になる。
・当時は理解していなかったが、サケ・マス交渉は日ソ漁業協定に即し、法律事項/財政事項を含んでいなかったため、行政取極となったのだ。
・湾岸戦争により、日本は多国籍軍に10億ドルを資金提供する事になった(※あの件か。90億ドルだったのでは)。これは一般的な無償資金協力と同じ手法で、湾岸協力理事会(GCC)に10億ドルが拠出された。私はこれを担当し、GCCの締結機能/資金管理機能を調べ、「交換公文」を作成した。これらが整うと、安全保証課の担当官と法制局に説明に行った(※法制局は「法の番人」だからな)。さらに大蔵省に説明に行った。私が本件の担当になり、GCCと交換公文を交換するまで、わずか2週間だった。
○初めて担当した国会承認条約「四ヵ国条約」
・同じ頃、北太平洋での「遡河性魚種保存条約」(四ヵ国条約)の締結の仕事があった。この頃には公海での漁業も規制されるようになっていた。日本は米国/カナダ/ソ連との交渉を拒否していた。しかし日本に不利な規制を押し付けられては困るので、1990年10月下旬、交渉に参加する事が決定した。
・これは私にとって最初の「国会承認条約」となった。私は2番目のリーガル・アドバイザーとして、ワシントン/オタワに何度も出張した。これは1年近い仕事になる。
○徹夜続きの四ヵ国条約の仕事
・1991年11月20日、私/漁業室の担当官/水産庁の担当官の3人は、法制局での第1読会に向かった。採択された英文の条約から邦語の条約を作り、それを一言一句審査した(※詳細が記されているが省略)。「拿捕がいかなる権限においてなされるか」なども議論された。法的担保(?)についても深く議論された。法制局で夜7時まで審査し、本省に戻り、四ヵ国条約の宿題や通常業務を行った。
・第1読会は6日間で終わり、12月に入ると第2読会が始まった。法制局は「遡河性資源」の言葉に拘った。結局「系群」を使う事になった。12月中旬第3読会が終わり、法制局審査は終了する。1992年4月14日四ヵ国条約が衆議院で採択される。その日の深夜大きな地震があったが、私は熟睡し、目が覚めなかった。
<条約課は過酷な仕事が続く>
○理解するまで難しい租税条約
・四ヵ国条約の交渉中にソ連が崩壊したが、ロシア連邦がソ連を継続するとなったので、閣議でロシア連邦を承認するだけで済んだ。条約課に5年いたが、結局、漁業/海洋法/無償資金協力/有償資金協力/技術協力/租税条約/債務繰延(リスケ)を担当した。租税条約は大変難しく、日仏租税条約の改定でパリに4度も出張した。これが特に難しかったのは、配当条項に親子間配当の源泉地国での免除規定が入ったからである(※ルノーと日産の関係かな)。この免除規定を悪用されないために、この配当条項が大変複雑になった。
・参議院の外務委員会の審議中に居眠りをしてしまった事もあった。共産党は厳しい質問をしてくるし、採決も反対したが、他の野党は賛成してくれた。
○突如決まったドミニカ担当の接伴連絡員
・1990年11月12日「即位の礼」が催され、私はデンマーク女王の応接を頼まれたが、四ヵ国条約に忙殺されていたので断った。ところがオタワでの条約交渉から帰国すると、机の上の夥しい書類の中にドミニカの書類がある。何とドミニカ大統領の接伴連絡員に決まっていたのだ。
・「即位の礼」は各国の要人が集まるため、全省体制での対応になる。空港での到着、ホテルでの出入りなど、分単位での行動が要求される(※詳しい対応内容が書かれているが省略)。ブリーフィングが何度か行われたが、私は「正殿の儀」「饗宴の儀」「園遊会」「晩餐会」の重要と思われる打ち合わせしか出席しなかった。
○ドミニカは滞在経費を考えていなかった
・この時までドミニカが2つあるのを知らなかった。1つはスペイン語圏のドミニカ共和国、もう1つは英連邦のドミニカで、私はこちらを担当した。ドミニカは人口7~8万人の小さな国だ。※ドミニカ共和国は世界最初の黒人国家のはず。
・大統領が成田空港に到着すると、私はヘリコプターに同乗し、赤坂迎賓館に向かった。そこから赤坂プリンスホテルに向かった。大統領の部屋はスイートで、私はその隣だった(※儀礼以外は常に随伴するのかな)。そこで大統領の補佐官/秘書官と打ち合わせると大変な事が分かった。日本政府はホテル代・食事代しか負担しないのに、彼らは日本滞在の全額を負担すると思っていた。
○家内と一緒に夕食会
・もう一つ困った事は、大統領は1週間滞在するが、夜の予定が全く入っていないのだ。そのため家内と共にフルアテンドの夕食会を開いた。外交官をしていると、夫婦で出席する事が多々あり、配偶者の負担が増えるのだ。一番大変だったのが、自宅設宴である。食材の買い出し/料理の準備/配膳/お客の相手/後片づけなど、大変な労力を要する(※今回も自宅設宴?)。しかし私はこんな仕事が好きで、この間生き生きしていた。
○ひたすら堪えるリスケ地獄
・租税条約同様、債務繰延(リスケ)も難解である。これは元本と利子が複雑に入り交じり、文章にするのも難しい(※金銭に絡むものは、専門の人がやらないと難しいのでは)。リスケで思い出すのは、ロシアとブラジルとの交渉である。ロシアは、交渉をお雇いの弁護士に任せるので、手強かった。一方で弁護士に任せた代表団は、観光したり、中古車を買い漁っていた。
・ブラジルとの問題は調停条項/事情変更条項の受け入れにあった。しかしこれを受け入れると国会承認条約として対応する必要があり、妥協できなかった。日本政府団の中からも、「何で受け入れないんだ」との批判があったが、これに堪え、結局ブラジルの方が折れてくれた。
○辛い日を共に乗り切った同僚
・条約課に5年勤務したが、経済/原子力/科学技術/環境の副担当もした。これらの国際約束でも、沢山の法律的問題が発生した。行政取極は無数に担当し、国会承認条約は8本ほど担当した。各国に出張し、徹夜も多かった。法制局での審査も国会での審議も辛いものだった。しかしこれらを乗り切れたのは条約課だけでなく、水産庁/大蔵省/通産省などの仲間が素晴らしかったからだ。彼らには感謝している。
○ストレスに押し潰されそうだった日々
・マルチの条約を扱う国際協定課の同僚は突然辞職した。ノンキャリアの彼は人一倍頑張っていたが、先が見えたのかもしれない。彼は「条約局に在籍すると、必ず9級(管理職)まで行ける」と説得されたが、決意は変わらなかった。
・1991年晩秋、条約局が揺れ動いた。「条約局はうるさい」「条約局ばかり出世する」などから、条約局の解体論が起きたのだ。これを著名なジャーナリストも煽った。
・こんな日々に私が堪えれたのは、上手に息抜きができたからだ。日比谷図書館通いや皇居一周の散歩ができたからだ。また谷津干潟に何度も訪れた(※船橋から近いな)。最大の息抜きは、郵政省/検察庁/裁判所の剣道道場に出稽古に通った事だ。空いている時は昼も夜も剣道をやった。※民間では考えられない。
第9章 ジュネーブ日本政府代表部
<ジュネーブ日本政府代表部>
○ジュネーブへの異動
・1995年3月25日私はジュネーブ日本政府代表部に異動となった。内示を受けた時、笑みが出た。妻も喜んでくれた。通常は異動が発令されると、引き継ぎを行うが、この時は日仏租税条約/日ベトナム租税条約の国会審議が残ていた。
・当時はオウム真理教による地下鉄サリン事件の直後で、世の中は喧噪としていた。その頃私はひばりヶ丘の宿舎に住み、丸ノ内線を利用していた。当日電車は事件のあった霞ヶ関駅に停車しなかった。国会審議が終わり、ジュネーブに発つたのは4月下旬だった。
○世界観を変えたジュネーブ勤務
・条約課の勤務は「その一瞬」と云える。ジュネーブ勤務は「その一瞬」と云えないかもしれないが、私は世界観を大きく変えた。ジュネーブには欧州国連本部「パレ・デ・ナシオン」があり、国際政治の最前線である。私は政務班に配属され、「国連難民高等弁務官事務所」(UNHCR)/「国際移住機関」(IOM)/「国連人道問題局」(DHA、現OCHA)/「国際防災十年事務所」(IDNDR、現UNDRR)を担当した。ジュネーブは世界の人権問題を扱っており、毎年春には1ヵ月半に及ぶ「人権委員会」などが開かれる。
・毎日のように会議があり、1日に2~3回出席する事もある。何れも事前準備が不可欠で、事前に本省と摺り合わせる場合もある。会議では国益を守るための発言が要求される。会議後は報告書を作成し、本省に送る必要がある。また電文が無数に来るので、それを読むだけでも大変である。
○豪華なゲストスピーカーが並ぶHLWG
・日本が「人道問題ワーキング・グループ」(HLWG)の議長になり、その事務局長を私が務めた。この時毎月開かれる会合で、緒方貞子(難民高等弁務官)/明石康(国連人道問題局長)/パレスチナ難民問題を扱う団体の代表などに講演してもらった。
<ルワンダ難民問題>
○ルワンダ難民問題とは
・4年間のジュネーブ勤務での最大案件は、ルワンダ難民問題/旧ユーゴ難民問題だった。ルワンダ難民問題は未曾有の難民問題だった。着任早々これを担当し、何とか難民の帰還に漕ぎ着けた。
・2014年4月「ジェノサイド(民族浄化)追悼20周年式典」が開かれた。それまでに『ルワンダ・ホテル』『ルワンダの涙』などの映画が作られ、曾野綾子は小説『哀歌』を著している。
・1994年春ルワンダで、少数民族だが支配者のフツ族強硬派がジェノサイドを行い、ツチ族/フツ族穏健派100万人近くを虐殺する(※シリアのシーア派とスンニ派の関係に似ているな)。これにより難民問題が起きる。追うのはツチ族が中心の先鋭部隊「ルワンダ愛国戦線」、追われるのはジェノサイドの首謀者/フツ族農民である(※立場が逆転したのか)。難民数百万人が周辺国(ザイール⦅コンゴ⦆、ブルンディ、タンザニア、ウガンダ)に向かった(※ルワンダの北にウガンダがある。後に彼はウガンダ大使となる)。彼らは長く難民キャンプで生活するようになる。
・難民キャンプのある庇護国には支援疲れが見られるようになる。庇護国は難民を帰還させないUNHCRに不満を持つようになる。1996年夏ブルンディ/ザイールからの帰還が俄に始まり、12月にはタンザニアからの帰還も行われる。
○ジェノサイドを実行したのは誰か
・ジェノサイド発生前、首都キガリに駐在する「国際連合ルワンダ支援団」(UNAMIR)は不穏な空気を察していた。60年代にルワンダ中央銀行総裁に派遣された服部正也は「ルワンダの人々は貧しくとも、健全な考えを持っている」と記している。しかし当時からツチ族が主体の難民(オールド・ケースロード)を発生させていた。そのためジェノサイドが発生すると、フツ族が主体の難民(ニュー・ケースロード)が発生し、それと入れ違いにオールド・ケースロードが帰還した。そのためニュー・ケースロードの帰還が始まると、オールド・ケースロードとの間で農地の所有権などの争いが生じた。
・ジェノサイド発生前の1993年8月、フツ系大統領とツチ系指導者との間で「アルーシャ合意」がなされていた。これは法治国家の確立/権力の分割/難民の帰還と再統合/統一軍の創設で合意していた。しかしフツ族保守派(※強硬派?)が、これに反対していたため、合意内容が実施されないまま、大統領が暗殺される。この流れでフツ族強硬派がジェノサイドを実行し、ツチ族/フツ族穏健派を虐殺した。そのためツチ族の逆種を恐れたフツ族の農民と、それに紛れてジェノサイドの首謀者(政治家、軍人、教育者、宗教者、マスメディア、知識人)が難民となった。
※ジェノサイドを実行して逃げるって変だな。そのまま政権を奪取すれば良いのに。少数民族の一部なので、それはできなかったのかな。
○常に後手に回る国連
・このフツ族強硬派によるジェノサイドは凄惨だった。老若男女の区別なく虐殺した。この国際社会を震撼させたジェノサイドにより、UNAMIRは5千5百人に増員され、ルワンダへの武器供給は禁止された(1994年5月17日安保理決議)。しかしUNAMIRの兵員は容易に増員されなかった(※UNAMIRは軍隊?)。そのため6月22日、平和維持軍(多国籍軍)を派遣する安保理決議が採択される。これには難民に対し必要な措置を何でも取れる強制力が認められた。
・これにより仏軍2500人が派兵される。しかし彼らはジェノサイドの首謀者を取り逃がしてしまう。ザイールだけでも44の難民キャンプが設営され、収容人数が20万人を超えるものもあった。
<何がルワンダ難民問題を複雑にしたか>
○本当に苦しんだのは庇護国?
・90年代は世界各地で国内紛争が起き、難民は国内難民を含め、数千万人に及んでいた。特にルワンダ難民問題/旧ユーゴ難民問題は注目を集めた。CNNの女性レポーターによるジェノサイドの現場報道などで、人道支援金は100億ドルを超えた。
・しかしこの難民問題で一番迷惑を受けているのは、難民キャンプ周辺の住民だった。援助物資を運ぶトラックは道路を荒らした。難民は周辺の森林を伐採し、燃料にした。食糧を得るため野生動物を密猟し、畑から作物を盗み、家畜を盗んだ。難民キャンプには水が十分あったが、周辺住民は水を得るために何キロも歩いた。難民は教育も医療も受けられたが、周辺住民は教育を受けられず、村には医者もいなかった。巨額の人道支援金が集まったが、それが庇護国に流れる事はなかった。※これは重要な視点だな。
○難民キャンプに逃げ込んだ首謀者
・ルワンダ難民問題の最大の問題は、難民キャンプがジェノサイド首謀者の軍事拠点になった点だ。これは国連の報告書からも分かる。報告書には軍事訓練が行われていた難民キャンプが列挙されている。「ルワンダをザイール/タンザニアの東西から攻撃する『殺虫剤作戦』が存在した」とある。また武器の供給国や輸送ルートまで記され、「受取人は、元ルワンダ政府軍/民兵組織インタラハムウェだった」としている。「購入資金は世界のフツ族のコミュニティからと、支援物資の売却による」とし、さらに「NGOで働くフツ族から徴税し、タンザニアに住むフツ族からも徴税していた」としている。ジェノサイド首謀者は、様々な方法で資金を集めていたのだ。
・UHCRは難民キャンプにジェノサイド首謀者が紛れ込んでいる事を知りながら、支援を続けるしかなかった。そのためルワンダ新政府もUHCRを激しく非難した。
※ルワンダ難民問題は2冊本を読み、奇麗事に思えたが、様々な問題を抱えていたんだ。
○難民キャンプをことごとく破壊した反政府軍 ※ザイールの反政府軍みたいだ。
・1996年10月ルワンダ難民問題が大きく動く。ザイール東部の難民キャンプが、ザイールの反政府軍「コンゴ・ザイール解放民主勢力同盟」(ADFL)により攻撃されたのだ。またこの背後にルワンダ軍がいた(※こちらはルワンダ新政府の軍だな。ザイールの反政府軍とルワンダ新政府が組んだのか)。それは難民キャンプに潜む元ルワンダ政府軍/民兵組織インタラハムウェが、頻繁にルワンダを越境攻撃していたからだ。
・新政府はこの反政府軍(ADFL)を動かし、難民キャンプをことごとく破壊する(※ADFLにはそれほどメリットはないと思うが。拠点を作るためかな)。難民は四散し、一部はルワンダに帰還するが、一部はさらにザイール奥地に逃れた。
<国連は、なぜ柔軟性を失ったか>
○ルワンダ難民問題から学んだ事
・ルワンダ難民問題は穿った見方をすれば、仏語圏と英語圏との戦いで、英語圏が勝ち、英語圏になった。米国はアフリカ中央部での影響力拡大を画策していたが、それがなされたのだ。※外務省なので、こんな見方ができるんだろな。ところで平和維持軍として仏軍が派遣されたのに、英語圏になった?その後に米軍が派遣されたのかな。
・また国連安保理の動きから、国際政治の非情さを学んだ。ジェノサイドが発生するまでの対応は、余りにも緩慢だ。映画『ホテル・ルワンダ』を見れば分かるが、UNAMIRの無能さに驚愕する。それはUNAMIRは兵員が少なく、強制力も与えられていなかったからだ。
・これらは国際政治の非情さ故である。またルワンダ難民問題が一気に解決したのも、この非情さ故である。国連の組織は、パラサイトのように増殖する。UNHCRは十数名で始まったが、当時は5千人に膨れ上がっていた。それは国際社会の要請と支援があったからだ。※WHOとは別にUNAIDSが設立されたのも、同じ理由かな。結局資金次第って事だな。
○CNN効果で肥大化したDHA
・当時国連で「CNN効果」の言葉が流行った。CNNが報道すると、膨大な資金が国連/NGOに集まった。DHAは、90年に設立された時は数十人だったが、90年代中には数百人に増え、世界各地にフィールド事務所を持つようになった(※人道問題は世界で一番注目される問題かな)。しかし組織は一度拡大すると、簡単には縮小できない。そうなると本来は調整役なのに、お金が集まりやすいオペレーショナルな活動に重点を置くようになる。※具体例が欲しい。
○肥大化し、柔軟性を失う国連
・「国連統一アピール」が生まれた。それまでは各組織が独自にアピールを出していたが、それをDHAが一括で行い、集まった資金も戦略的に各組織に配分する方式である(※国家的にしたんだ)。この方式を北欧/英国が推し進めた。※もう少し詳しく説明されているが省略。
・一方でUNHCRは独自にアピールしていたが、英字紙がUNHCRの杜撰な会計処理を報道した。「幹部が小型機をチャーターし、予算を湯水のように使っている」「管理費が不正に操作されている」などが報道された。どの機関でも職員は真剣に働いているが、どんな組織でも大きくなると柔軟性を失い、歪が出てくるのだ。
・ジュネーブ勤務は私的面でも忘れ難い。モンブランでスキーしたり、知り合った老婦人から城に誘われた。しかしそこは廃墟に近かった。※城の維持は大変だろうな。
第10章 デンマークと云う国
<デンマーク専門家として>
○綻び始めた福祉国家デンマーク
・デンマークに4回、15年勤務した。最初は1976年から4年半、2回目は1986年から4年、3回目は2003年から3年半、最後は2008年から3年強である。この間に付加価値税は15%から25%に上がった。
・70年代デンマークは難民・移民に寛容だったが、最後の勤務では不寛容の空気が漂っていた。また70年代は治安に問題はなかったが、最後は泥棒が蔓延るようになった。「素晴らしい国」と信じてやってきた日本人観光客も犠牲になっている。80年代後半(※結婚した頃だな)、私の妻はコペンハーゲンのあるシェラン島に別荘を持っていたが、泥棒が入るので売ってしまった。コペンハーゲンの街が汚くなったのも80年代後半だった。
・福祉もこの間に大きく変わった。特に変わったのが医療制度だ。総合病院の救急病棟が消えていった。一方で私立病院が作られていった。政府は医療に関し「選択肢の自由」と言うようになった。
※治安/医療への予算が減らされたんだ。ドイツ統一(1990年)や90年代のグローバル化とは直結していないようだ。シェンゲン協定の成立が1985年なので、こちらかな。
・1987年『もう一つのデンマーク』が出版された。これには「デンマーク女性の5人に1人は、精神安定剤を服用している」「デンマーク人の10人に1人は、この半年で危害・脅迫を受けた」などが書かれ、犯罪/飲酒/薬・麻薬の乱用/自殺/精神病/外国人嫌いなどの社会問題が書かれた。※自殺の問題はあるみたいだな。
○デンマークは私に多大な影響を与えた
・ここまでは否定的な点を述べた。しかしデンマークは素晴らしい国である。「年に6週間の休暇がある」「失職しても心配ない」「言論の自由が保障されている」「失敗しても、何度でも挑戦できる」「汚職は限りなく少ない」「経済格差が少ない」「身障者に優しい」など、幾らでもある。しかしこの背景に高負担がある事を忘れてはいけない。
・デンマークは私にも大きな影響を与えた。一番は1988年の妻との結婚である。結婚式は慎ましかったが、週末には別荘で身内だけで「すき焼きパーティ」を開いた(※日本は家の建前があるので、冠婚葬祭が一大産業になっている)。その後バルト海のボルンホルム島に新婚旅行に出かけた。この島は周囲140Kmあるが、それを2人で4日間で歩いた(※これはユニークだな)。妻は読書家で、私以上に本を読む。その妻から多くの事を学んだ。
<デンマークの19の特徴>
○幸福度の高い国
・デンマーク人に「デンマークはどんな国ですか」と訊ねると、「小さな国です」が返ってくる。しかしそこには「でも素晴らしい国ですよ」が含意されている思う。そこで「どんな点が素晴らしいですか」と訊ねると、「同質性と云うか、皆が幸せを享受している」と答える。デンマーク人の8割が「デンマークは幸福の国」と感じている。
○北欧での位置付け
・スカンジナビアとはデンマーク/スウェーデン/ノルウェーの3ヵ国を指す。これらの国の言語は似ている。スウェーデン語とノルウェー語は発音が似ている。文字的にはデンマーク語とノルウェー語が似ている。これはデンマークが長くノルウェーを支配していたためだろう。
・スカンジナビアにフィンランド/アイスランドを加えたのが北欧である。フィンランドは民族的にも言語学的にもスカンジナビアとは異なる(※フィン族はモンゴル系だったかな)。アイスランドはスカンジナビアに近い。
・「スウェーデン人が作り、デンマーク人が売り、ノルウェー人が運ぶ」と云われる。スウェーデン人は技術開発に優れ(※ボルボ/エリクソンがあるな)、デンマーク人は商売に優れ(※交通の要衝かな)、ノルウェー人は質実剛健である(※海賊かな)。
○同質な社会
・デンマークの幸福度を高めているのは、同質な社会である。国会議員/サラリーマン/大工でも、皆同じような生活をしている。国会議員でも自転車で通勤している。バスやタクシーの運転手でも別荘を持ち、海外旅行している(※経済格差を解消した成熟社会だな)。これを支えているのが高負担高福祉である。これにより「安心して子供が産める」「失業しても心配はない」「医療も心配はない」「老後も心配はない」「何度もチャレンジできる」「汚職がない」などが実現している。
○同質な社会を支える思想
・デンマーク人に浸透している「ヤンテの掟」がある。
「自分は他人より特別だ」と思うな。
「自分も他人と同じように良い」と思うな。
「自分は他人より賢い」と思うな。
「自分は他人より良くできている」と思うな。
「自分は他人より物事を知っている」と思うな。
「自分は他人より偉い」と思うな。
「自分は何でも良くできる」と思うな。
「他人を笑うな」。
「誰もが自分を気に入っている」と思うな。
「自分は他人に教える事ができる」と思うな。
・これは日本の「出る杭は打たれる」である。彼らは平等を重視し、これが根幹にある。※凄い謙虚だな。
○名前まで同一
・デンマークでは同じ名前が多い。男性ではマーティン/イエスパー/オーレ/ピーター/ハンス/イエンスなどである。苗字もニールセン/ピーターセン/アナセン/ハンセンと「セン」が付。※ピーターセン・ピーターが一杯いるのかな。
・これは使える名前が、2006年まで限られていたからだ(※何か中世的だな)。しかし「名前に関する法律」が改正され大きく変わった。苗字イエンセンは、1994年33万人から2007年29万人に減少した(※良くないイメージがあるのかな)。男性の名前は、2006年5千しかなかったが、2009年8千に増えた。同じ期間に女性の名前も、7千から1万に増えた。今は男性1万、女性1万2千に名前が増えている。
○生活習慣まで同質
・デンマーク人は生活も同質である。着る物は同じ、食べ物も同じである。専業主婦はおらず、皆共働きだ。これにより立派な家に住み、別荘を持ち、海外旅行をする。夫婦共働きなので、子供は赤ちゃんの頃から施設で過ごす。そこで同じ生活をするため、差別意識も生まれない。
・デンマーク人は朝が早い。そして若い内は自転車で通勤する(※欧州は起伏が少ないからな)。残業をしないため、午後3時には帰宅ラッシュが始まる。※朝方なのは、白夜とかあるし、夜は寒いので早めに活動を止めるのかな。
・彼らは昼食には、必ず黒パンにレバーペーストを塗って食べる(※効率的な食産業だな。他の産業に注力できる。食中毒の原因究明も楽だな)。服装/食事は質素だが、一戸建てでもアパートでも家は立派である。また家の中は、しっかり暖房している。※やはり日光が少なく寒いので、服装/食事は質素になり、家を重視するようになるかな。逆に南のイタリアは、家はどうか知らないが、服装は派手で、食事も多様な気がする。フランス料理の元はイタリア料理だし。
○衣食住ではなく住食衣
・デンマーク人の家は立派である。若い頃は子育てがあるので一戸建てに住み、歳を取るとアパートに住む。また家の中は大変奇麗にしている。カーテン/家具/置物/絵画/飾り物、いずれも素晴らしい。まるで博物館だ。※やはり家に居る時間が長いのかな。
○黒パンにレバーペースト
・日本人が海外にいると茶漬けが欲しくなるように、デンマーク人は黒パンとレバーペーストが欲しくなる。黒パンはライ麦一杯で、大変固い。これにレバーペーストをたっぷり付けて食べる。そこに酢漬けのビート(赤カブ)があれば最高である。※パンと麺は小麦で、ビールは大麦だったかな。麦も勉強したい。レバーペーストは鶏レバーを使うんだ。
・彼らの食事は質素である。これほど食に拘らない民族はいない。しかし近年はグルメブームも入ってきている。
○DNAに染み込んだ別荘への愛着1
・この国では別荘は日常生活の延長線にある。共働きであれば、普通に所有できる。ただし投機を避けるため、外国人の購入は許されていない。価格も高くなく、20万クローネ(400万円)位だ。
・イースター休暇(※4月4日)が近付くと別荘熱が高まる。この頃はまだ残雪が残るが、別荘地は活気づく。※イースター休暇は何日位取るのか?
○DNAに染み込んだ別荘への愛着2
・コペンハーゲンのあるシェラン島の北の海岸は別荘地である。海岸に近くなるほど、価格は高くなる。別荘に1年中住みたくなるが、それは許されていない。1年で一番季節の良い初夏は別荘で過ごす。※こちらは夏季休暇かな。
○酒とタバコを愛する
・デンマークは酒税/タバコ税が驚くほど高いが、酒とタバコが大好きだ。私が最初にデンマークを訪れた時、20本入りタバコが千円した。その当時私はギムナジウム(高等学校)で語学を学んでいたが、高校生もタバコを吸っていた。酒/タバコはデンマーク人の寿命を縮めているが、改善は見られない。※やはり寒い国は、お酒をよく飲むかな。それにデンマークは他に息抜きがないようだし。
○愛国心のある国民
・デンマーク人は心から国を愛し、国歌/国旗を愛している。国歌は「高きマストの傍に立つクリスチャン王」「素晴らしき国」がある。公的な場では前者を、スポーツの祭典などでは後者を歌う。国旗も何種類かあり、国家しか使用できない旗、国民が使用する旗、簡易な旗などがある。
・彼らは自国が好きなので、EUにおいてもアイデンティティを守ろうとし、ユーロを使っていない。また人口550万人ながら、デンマーク語を死守している。
○デンマーク人の気質
・デンマーク人はオープンだが、冷静です。また批判精神が旺盛で、国政選挙の投票率は90%近くある。彼らは「血の通った民主主義」を実現している。彼らは平等精神が強いのです。
・彼らは逞しく、雨が降ろうが、雪が降ろうが自転車で通勤する。この逞しさは幼稚園の頃から身に付けます。幼稚園児は森の中で一日中遊びます。そこで木に登ったり、ナイフで木を削ったりします(森の幼稚園)。※デンマーク皇太子の生活を録画したものを見たが、かなりストイックだった。自転車で走ったり、ランニングしたり、子供と森に入って過ごしたりしていた。
○血の通った民主主義
・デンマークの議会は少数政党が乱立しています。ただし政権は10年位続き、70年代ヨーエンセン首相(社会民主党)、80年代シュルター首相(保守党)、90年代ラスムセン首相(社民党)、2000年代ラスムセン首相(自由党)となっています。彼らは冷静に交渉して、法案を通します。この点がデンマークが世界から信頼される理由です。
○成熟した民主主義
・成熟した社会では、行政は余計なサービスをせず、国民も余計なサービスを求めません。人は何でも発言し、何にでも挑戦します。この国では失敗した人ではなく、挑戦しない人を批判します。言葉尻を責める事もありません。社会は風通しが良く、柔軟で、寛容で、活気に満ち、創造的です。※何か理想の国だな。
○宗教
・デンマークの国教はルーテル教会です(※プロテスタントのルター派)。そのため滅多に教会に行かず、行くのは洗礼・堅信礼/結婚/葬式だけです。これは日本とも似ています。お墓も墓石などなく、更地になっています。
○ダンスケヘーゼン
・世界はグローバル化し、国のアイデンティティが失われています。しかしデンマークには「ダンスケヘーゼン」(デンマーク的なもの、Danskheden)と呼ばれるナショナリズムがあります。国旗・国家/デンマーク語/デンマーク王室/クローネ(貨幣)/フリカデラー(肉団子)/フレスケスタイ(豚の丸焼き)などが、これに該当します。これらにより同質の社会が成立しているのです。
○国民投票で国鳥を決めた
・デンマークは代表民主主義なので、国会議員が政治的決定をします。しかし国民投票も過去に17回行われています。領土の売却/憲法の改正/選挙権年齢の改正/欧州共同体への加入/EU関係条約への加入/ユーロ加入/王位継承などです。ユーロ加入は政府は賛成したが、国民が反対しました。デンマークの国鳥はヒバリでしたが、国民投票によりコブハクチョウになりました。
○半分病気の言葉
・デンマーク語は大変難しい。そのため「半分病気の言葉」と云われます。息を吸いながら言葉を発する人もいる。デンマーク語は文字と発音の関連性が薄いので、単語の発音は一つずつ覚えるしかありません。
<おわりに>
○出会いに感謝
・「あしなが育英会」の玉井会長との出会いがなければ、自分の人生を他人に話す事はありませんでした。私は高卒で、外務省人生は肩身が狭く、憚れるものでした。ところがウガンダ大使に任命され、玉井会長が私に注目するようになりました。
・ウガンダに赴任する際、玉井会長に壮行会を開いて頂きました。その時玉井会長に「母子家庭の子の学力低下は著しい。しかし人生の早い段階で勉強や仕事の面白さを見出してくれたら、幸福な人生が送れる。藤田さんが何に触発され、勉強に熱中するようになったのか、その辺りをドラマチックに語ってくれたらと思っています」(※大幅に省略)と言われた。それから間もなく「あしなが育英会」の始業式に招待され、自分の半生を学生に話した。玉井会長に「これほど学生が強い反応を示した事はない」と言われた。これで私は、玉井会長に名付けられた『高卒でも大使になれた』を書く決心が付いたのです。※最初に「あしなが育英会」が出てきたが、これだったのか。