『OECD』村田良平(2000年)を読書。
OECDについて以前から知りたかったので選択。「世界最大のシンクタンク」と呼ばれる所以が分かった。
経済/貿易/開発援助について議論し、世界の方向性を決めている機関と云える。
第2章は開発援助、第3章はエネルギー、第4章は環境問題/構造問題/社会問題などについて書かれているが、それぞれで1冊の本になる。
大変詳しく、専門用語が多出する。2000年上梓なのが残念。
お勧め度:☆☆
内容:☆☆☆(大変詳しい)
キーワード:<OECDの成り立ち>マーシャル援助、欧州経済協力機構(OEEC)、経済協力開発機構(OECD)、日本加盟、国際エネルギー機関(IEA)、理事会/執行委員会、事務総長/事務次長、<政策調整の場>クラブ、コンフロンテーション、シンクタンク、経済政策委員会、貿易委員会、<援助政策の調整と非加盟国との関係>開発援助委員会(DAC)、新開発戦略、アウトリーチ活動、<エネルギー問題への対応>石油輸出機構(OPEC)、国際エネルギー機関(IEA)、原子力機関、<先進国のシンクタンク>環境問題/環境政策委員会、構造問題/規制制度改革、雇用問題/高齢化問題、多国籍企業問題/外国投資/資本移動・貿易外取引委員会/多数国間投資協定(MAI)、電子商取引/情報・コンピューター・通信政策委員会、コーポレート・ガバナンス、外国公務員贈賄防止条約、有害な税制/タックス・ヘイブン、農業、教育、<冷戦終了後の世界への対応>旧社会主義国、非加盟国、地域経済統合、グローバリゼーション/市民社会、OECDの改革
<はじめに>
・1994年私(※著者)は外務省を退官し、翌年から青山学院大学で「国際機構論」を講じている。国際機構の概念も必要だが、具体的な国際機構を取り上げる事で、魂が入ると思っている。国際連合を取り上げる大学は幾らでもあるので、私はあえて「経済協力開発機構」(OECD)を取り上げている。またOECDを十分理解できる本は、国際的にも存在しない。そのため大学退職後、OECDの全体像を一冊に纏めた。
・外務省時代は経済に関わる事が多く、常にOECDは注意していた。OECDを主管する経済局国際機関第2課の首席事務官に就き、OECDから送られてくる諸文書を速読し、対応する省庁に配布した。その後第2課長/経済局長を務め、OECDの閣僚理事会に随行したり、OECDの種々の委員会に出席した。
・OECDは先進国のシンクタンクで、担当範囲が余りにも広く、日本の政策にも影響を与えている。しかし担当分野が限定的な「国際通貨基金」(IMF)やGATT/世界貿易機関(WTO)ほど注目されていない。本書で詳述する分野は限られるが、これ以外に統計/行政管理/金融/保険/科学技術/都市政策/地域開発/運輸/水産/造船などの分野でも活動している。
序章 OECDの成り立ち
<OEECからOECDへ>
・パリにシャトー・ド・ラ・ミュエットがある。この建物を、1948年から「欧州経済協力機構」(OEEC)、61年から「経済協力開発機構」(OECD)が本部としている。ここに1550年宮殿が建てられ、ルイ16世/マリー・アントワネットなども過ごした。しかし1919年その宮殿は取り壊され、ロスチャイルド男爵がこのシャトーを建てたのである。第二次世界大戦後、仏国が買い取り、OEECの本部になった。
○マーシャル援助とOEECの発足
・第二次世界大戦により欧州で4千万人が亡くなった。人的被害だけでなく、インフラ/商船/産業施設/住宅などの物的被害も甚大だった。45年5月ドイツが降伏すると、米国は食糧/医療物資/燃料/肥料など140億ドルに及ぶ欧州援助を行った。
・しかしこれは最低限の援助であり、米国は欧州の産業・貿易の復興が重要と考えた。これは西欧だけでなく、欧州全体を対象としていた。また欧州は、米国で生産される機械/資材/肥料の輸出先でもあった。
・47年6月米国国務長官ジョージ・マーシャルは「マーシャル援助」を提唱する(※マーシャル・プランだな)。英仏ソによる外相会談が行われるが、ソ連は条件(価格統制の廃止、為替の安定、財政の均衡)を受け入れられないとして、受益国になるのを拒否する。これによりソ連の支配下にあった中東欧諸国も対象外になる。
・マーシャルの「いかなる援助が必要かは、欧州側が出すべき」との発言から、48年4月「欧州経済協力機構」(OEEC)が発足する。当初は欧州16ヵ国が加盟し、49年西独、58年スペインが加盟している。※OEEC/OECDの発端はマーシャル援助なんだ。
・OEECの目的は、①援助の配分を協議する、②加盟国間の貿易の自由化、③外貨不足における支払制度の確立だった。48~51年で米国から130億ドルが援助される(欧州からの要望は270億ドル)。英国32億ドル、仏国27億ドル、イタリア15億ドル、西独14億ドルなどとなっている。マーシャル援助終了後も、②貿易自由化/③支払制度の確立は続けられ、自由化される。
○OEEC発足後の政治経済の変化
・OEECで注目される点が幾つかある。第1は「コンセンサス・システム」で、援助の配分などは加盟国全員の同意で行われた。第2は「コンフロンテーション方式」である。これは後述するが、この方式で経済調整された。
・第3は「自由化規約」の存在である。50年8月「貿易自由化に関する規約」が採択され、同時に「欧州支払同盟」(EPU)が発足した。その後貿易自由化規約は拡張され、59年「資本移動の自由化に関する規約」が制定される。61年OECDへの移行に伴い、貿易の自由化はGATTの範疇として前者から除かれ、「経常的貿易外取引の自由化に関する規約」となり、後者には若干修正が加えられる。また欧州での支払いは完結したので、58年EPUは廃止され、「国際通貨基金」(IMF)に委ねられた。
・OEECの活動は当初から活発で、米国援助の分配/貿易の自由化/通貨の交換性を達成する。さらに貿易外取引/資本移動の自由化も進めた。
・OEEC発足から10年の間、国際政治・経済は大きく変わった。第1は米国の立場の変化である。当初は援助供与国の立場だったが、貿易収支は逆調する。そのため米国/カナダも正式加盟国になり、調整すべきとの考えが生まれた。
・第2は欧州経済統合の動きである。しかしこれに反対したのが、英国/スカンジナビア諸国/スイスだった。51年「欧州石炭鉄鋼共同体」(ECSC)が発足し、57年ローマ条約により6ヵ国からなる「欧州経済共同体」(EEC)が発足する。これに対抗し、60年英国が主導し、「欧州自由貿易連合」(EFTA)が発足する。※欧州はEECとEFTAに分裂したのか。これは知らなかった。EFTAは今でも存在し、EUに加盟していない4ヵ国が加盟している。
・第3は開発途上国の出現である。アジア/中東の各国は50年代、アフリカは60年代に独立する。米国は先進国から開発途上国への援助が必要と考えた。そして第4が、日本の登場である。
○OECD設立
・これらの状況変化から、59年12月米・英・仏・西独の首脳会談が開かれ、OEECの改組で合意する。60年1月主要13ヵ国とEEC委員会が協議し、「経済協力開発機構」(OECD)の設立が確定する。同時に開発途上国を援助する「開発援助グループ」(DAG)の設立も決定する(※設立はOECD内かな。少し調べたが分からない)。そしてそのDAGへの参加が日本に要請され、日本は直ちに応じた。
・60年7月設立準備委員会が「OECD条約」の起草に取り掛かり、翌年9月30日欧州18ヵ国/米国/カナダで発足する。事務総長はOEECの事務総長ソーキル・クリステンセン(前デンマーク蔵相)が就任する。OECDの「C」(協力)は加盟国間の政策協調、「D」(開発)は開発途上国や開発が遅れている加盟国への資金・技術支援と理解された。
・OECDでも加盟国の平等主義は継続され、国連のように安保理常任理事国は存在しない。分担金が多い米国/日本/ドイツ/仏国の発言力は強いが、小国の活躍が見られる機関である。欧州的性格が残っているが、日本の加盟などで、先進国集団となった。GATTが成長し、欧州ではEECとEFTAの対立もあったが、「貿易」がOECDの重要3分野の1つになった。
<日本の加盟>
・60年1月「開発援助グループ」(DAG)が設立されたが、日本は「コロンボ計画」に参加し、南アジア/東南アジアの経済開発に寄与しており、DAGに直ちに加盟した。OECDが発足するとDAGは「開発援助委員会」(DAC)に改組された。これが日本のOECD加盟の布石になる。
○21番目の加盟国
・62年9月大平正芳外相の訪欧に際し、日本の開発援助の実績/貿易為替自由化の推進/IMFスタンド・バイ・クレジットの拠出(?)などを説明し、OECD加盟の意思を伝える。同年11月OECD閣僚理事会で米英の代表が日本の加盟が必要と表明し、日本の加盟が本格的に検討される。
・翌年3月首席代表者会議(後述)で、日本がOECD加盟に伴う義務に従う用意があるか日本と協議する。5月調査団が相互に訪れ、日本がOECDの基本目的(経済成長、貿易拡大、開発途上国援助)と「経常的貿易外取引の自由化に関する規約」「資本移動の自由化に関する規約」を受諾できるかの調整に入った。そして7月合意となり、了解覚書に署名される。そして翌64年4月正式に加盟する。
○先進国の一員へ
・この時期は、日本が戦後の一時期を画するものだった。55年日本はGATTに加盟したが、大幅入超で外貨は不足し、規制ギリギリの範囲しか輸入しなかった。しかし63年には貿易を制限できないGATT11条国に移行する。また52年日本は「国際通貨基金」(IMF)/「国際復興開発銀行」(IBRD、※世界銀行の中核)に加盟したが、為替取引も制限していた。ところがこちらも64年為替取引を制限できないIMF8条国に移行する。65年貿易黒字になり、以降石油危機を除き、黒字が続いている。
・この様にOECDに加盟した頃、日本は先進国の一員になる。またOECDもアジアの国を迎え、国際的な組織への発展が期待されるようになる。
<OECD設立後の国際情勢>
・次章以降でOECDの特色/活動状況/課題などを述べますが、その前に61年以降の国際情勢の変化を要約します。OECDの基本目的は、経済成長/貿易拡大/開発途上国援助です。しかし時代の変化と共に重点分野は変わり、委員会の新設・廃止が行われました。これらについては後述します。
○60年代
・60年代に多くの植民地が独立する。64年「国連貿易開発会議」(UNCTAD)の第1回会合が開かれる。ここで先進国においては国際収支の調整が主要なテーマになる。また貿易/開発援助/マクロ経済政策もテーマになるが、これらはOECDと一致する。
・この最初の10年はOECDにとって「輝かしい10年」だった。米国はヴェトナム戦争により反戦運動が起き、西側諸国で新左翼/反体制の運動が起きた。しかし英国を除いて、加盟国は着実な経済成長を遂げた。日本は年平均10%を超える高度成長により、69年GDPで西独を抜き、世界2位になる。※60年代はまだ貧乏国のイメージがあるが、世界2位になったのか。
・経済政策委員会はマクロ経済政策/国際収支問題/為替の安定などを議論するが、これらはケインズ式需要管理にある。
○70年代
・71年8月ニクソン・ショックにより、ブレトンウッズ体制が崩壊する。73年10月第4次中東戦争により、第1次石油危機が起こり、74年11月OECD内に「国際エネルギー機関」(IEA)が設立される(※IEAはOECDの下部組織なんだ。Atomicが付いたIAEAと混同しそう)。さらに環境問題への関心が高まり、70年環境委員会が設立される。また75年先進国サミットが開かれる。インフレ/財政赤字/多国籍企業問題/制限的商習慣(?)などが注目された。※問題が今と変わらない。最近「70年代が資本主義の終焉の始まり」とする本を読んだ。
・60年代が「安定と成長の10年」なら、70年代は「動揺と停滞の10年」と云える。その引き金は、ニクソンショックと「石油輸出機構」(OPEC)による石油危機である。
・71年固定相場制の維持のためスミソニアン会議が開かれるが、73年フロート制に移行する。
・71年OECDは欧州加盟国に90日分の石油備蓄などを勧告していたが、73年10月の第4次中東戦争は予見できなかった(※既に勧告していたのは凄い)。74年2月ワシントンで主要消費国会合が開かれ、後にOECDの傘下に「国際エネルギー機関」(IEA)が設立される。ただし当機関はOECDと目的が異なるため、独立の機関となった。70年代末に第2次石油危機が起こるが、IEA加盟国は90日分の石油備蓄を持ち、混乱は起きなかった。
・従ってOECDでの政策課題はスタグフレーション(景気後退と高いインフレ)の克服となった。国によっては、これに国際収支の悪化と失業の増大も起きた。結果的に日米のハイテク分野の発展に対し、欧州は「動脈硬化症」と呼ばれた。
○80年代
・80年代は、資本市場の在り方/労働市場の柔軟性/社会保障/教育などの構造的障害の除去がテーマになる。米国が経常収支を悪化させる一方、日本・西独は黒字を拡大させた。85年プラザ合意がなされ、86年ウルグアイ・ラウンド交渉が始まり、資本移動が自由化される(※ウルグァイと表記しているが、ウルグアイで統一)。86年チェルノブイリ原発事故が起きた。日本は世界最大の債権国になり、日米・日欧の通商摩擦が激化する。情報分野で技術革新が進んだ。東アジア/東南アジアが工業化し、経済成長する。89年東欧でビロード革命が起き、ベルリンの壁が崩壊し、冷戦の終結が始まる。
・80年代に70年代の問題はほぼ解決したが、新しい課題への取り組みが始まった。70年代のスタグフレーションにケインズ的政策は不適合と判明し、シカゴ派などのサプライ・サイドのアプローチが主流になる。レーガン大統領/サッチャー首相は、大幅減税/労働市場の柔軟化/規制削減/福祉政策の修正/技術革新の活用などの新経済政策により、80年代末より経済が再建される。
・韓国/台湾/シンガポール/香港などの新興工業経済群(NIEs)が急速に発展し、中国も「改革開放路線」で前進が始まる。OECD加盟国は財政難になり、資金援助から技術援助の比重が高まる。70年代初期はDACによる「政府開発援助」(ODA)と民間資金はほぼ同額だったが、80年代は民間資金による直接投資/貸出が増大する。しかしこれは82年メキシコ危機に始まり、ラテン・アメリカの巨額累積債務問題になる。
・日本は対米・対欧貿易で大幅な黒字になる。私は80年代前半は経済局長、後半は事務次官として、この対応に追われる(※日本が最強の時に、頂点にいたんだ)。しかしOECDで、この点で日本が批判される事はなかった。それは日本の発言力が増したからだろう。IEAの理事会議長に宮崎弘道が就き、OECDの貿易委員会の議長に溝口道郎が就いている。※「Japan as No.1」と云われた時代だな。
○90年代
・90年10月ドイツが統一され、翌年末ソ連は崩壊する。マーストリヒト条約により、93年ECはEUに深化する。95年オーストリア/フィンランド/スウェーデンが加入し、98年ポーランド以下12ヵ国の加入交渉が始まる。99年単一通貨ユーロが発足する。地域統合は欧州以外でも進展し、「北米自由貿易協定」(NAFTA)/「アジア太平洋経済協力会議」(APEC)/「南米共同市場」(MERCOSUR)などが発足する。
・93年ウルグアイ・ラウンドが纏まり、95年「世界貿易機関」(WTO)が設立される。OPECの石油カルテルが崩れる。94年メキシコ、97年タイ/インドネシア/韓国、98年ロシア/ブラジルで通貨不安/経済危機が起こる。途上国の人口が増大する一方、先進国は少子高齢化した。
・90年代前半私は駐米大使/駐独大使を務めた。OECDは中東欧諸国と崩壊後のソ連への対応や、「グローバリゼーション」により生じる諸現象への対応が課題になる。ウルグアイ・ラウンドは93年に妥結するが、OECDは農業・サービス貿易などの検討で貢献している。なお90年代に日本の分担は米国と匹敵するようになり、ドイツの2倍以上になった。
・96年欧州出身でなく、官僚出身ではなく政治家出身のジョンストンが事務総長に就任する。彼はグローバリゼーションに対し、①諸対策は社会的進歩をもたらし、市民の幸福を増大させなければならない、②OECDの諸改革は市民の支持を受け、社会的正義を実現しなければならない、③グローバリゼーションのマイナス面を見誤ってはいけないと述べ、OECDの作業をマクロ経済政策から社会政策(雇用、高齢化、行政改革)へ変えていった。※やはりOECDは先進的だな。
・以上国際情勢の変化を列挙した。61年には予見できなかった事態にも、OECDは順次取り組んできた。
<OECD加盟国の拡大>
○欧州の連帯感
・OECD条約に加盟条件は記されていない。よってOECD条約を締結すると加盟となる。実際は加盟に伴う義務や2つの「自由化に関する規約」で、加盟希望国とOECDが合意する必要がある。実質は民主主義/市場経済で先進国に達していないと加盟できない。
・原加盟国はアルファベット順で、オーストリア/ベルギー/カナダ/デンマーク/仏国/ドイツ/ギリシャ/アイスランド/アイルランド/イタリア/ルクセンブルグ/オランダ/ノルウェー/ポルトガル/スペイン/スウェーデン/スイス/トルコ/英国/米国の20ヵ国である。64年日本、69年フィンランド、71年豪州、73年ニュージーランドが加盟し、その後21年間24ヵ国だった。94年以降メキシコ/チェコ/ハンガリー/ポーランド/韓国が加盟し、29ヵ国になっている(※2020年で37ヵ国)。欧州が22ヵ国だが、分担金は非欧州7ヵ国(米国、日本、韓国、豪州など)の方が多く、グローバルな組織になりつつある。※ノールウェー/ニュー・ジーランド/チェッコと表記しているが、ノルウェー/ニュージーランド/チェコで統一。
・チェコ/ハンガリー/ポーランドの加盟審査は、同情的・好意的な雰囲気で行われた。ある欧州の代表は、「彼らは我々の一員だったが、スターリンによって引き裂かれた」と述べた。この発言から、欧州の連帯感が感じられる。※EUでも一緒だろうな。
○難航した韓国の加盟
・一方韓国の加盟は難航した。韓国は戦後半世紀も市場経済であり、経済規模も東欧3ヵ国より大きいにも拘らずである。それは異質なものへの警戒感があったのだろう。例えば労働問題は審査対象ではないのに、労働制度慣行が審査された。
・現在スロバキアが加盟交渉中で、ロシア/アルゼンチン/スロベニア/キプロスが加盟を申請している(※スロヴァキア/アルゼンティン/スロヴェニアと表記しているが、スロバキア/アルゼンチン/スロベニアで統一)。OECDには「クラブ的雰囲気」があり、拡大し過ぎるとそれが失われるとの懸念がある。
<理事会と事務総長>
・OECDには多数の委員会があり、個別の作業に当たっている。またその活動を補佐する事務局にも多数の部局が存在する(※巻末に組織図がある。ほとんど名前が一緒だが、委員会と部局の活動内容がどう違うのか。例えば貿易委員会と貿易局がある)。「経済協力開発機構条約」は、理事会と執行委員会しか規定していない。また職員は事務総長と事務次官しか規定していない。
○理事会、執行委員会
・OECDは加盟国が限定されているので国連のような総会はない。最高意思決定機関は、全加盟国代表からなる「理事会」である。理事会には年1回の閣僚理事会と、常駐代表(大使)による理事会がある。
・閣僚理事会には加盟国の閣僚が複数出席するが、その担当は様々である。一般的に外務大臣/大蔵大臣が出席する。日本は外務大臣/経済企画庁長官/通商産業大臣の出席が多い。閣僚理事会は春に開催され、先進国サミットの数週間前に開かれる。それはOECDの意見を先進国サミットに反映させるためである。※これは面白い流れだな。
・常駐代表による理事会は毎月2回開かれる。「全ての加盟国を拘束する決定」「加盟国に対する勧告」などの重要な決定が採択されるが、これには全加盟国の合意が必要である。OECDは理事会以外も、票決ではなくコンセンサスで決定している。※EUの理事会/委員会も同様かな。
・理事会に次いで重要なのが執行委員会である。これは理事会で紛糾すると考えられる事項を、事前に非公式で協議する機関である。当初は10ヵ国だったが、今は25ヵ国に拡大され、秘密性はなくなった。※ざっと数え、執行委員会下に委員会が30以上ある。
・一般的に事務局の長の選出には選挙とコンセンサスがある。前者に国連の諸機関があり、後者にGATTやその後身のWTOがある。WTOの加盟国は135ヵ国になり、事務局長の選出が困難になった。※今回も揉めているな。
・コンセンサスの場合、①ある国の指定席になっている、②万人が認める人物が指名される、③発言力のある国が推す候補が指名されるなどがあるが、時には舞台裏で壮絶な争いが行われる場合もある。
・OECDの初代事務総長はデンマークの前蔵相ソーキル・クリステンセンが就いたが、彼はOECD条約草案を纏めるなど、順当な指名だった。彼が8年間務めた後、オランダの元大蔵次官エミール・ファン・レネップが就く。彼も精力的に3期15年務めた。84年仏国の外務省経済局長ジャン・クロード・ペイユが第3代事務総長に就く(※この時の舞台裏が紹介されているが省略)。彼が3期15年務める事も考えられたが、長すぎるとの批判や欧州以外から選出すべきとの意見から、96年カナダの元法務大臣ドナルド・ジョンストンが第4代事務総長に就く。この時「日本から出せないか」との打診もあったが、適任者がいなかった。
・61年発足当時の事務次長は、実力第一の米国と所在地の仏国の2名だった。84年仏国が事務総長に就いたので、事務次長にスウェーデン人が就いた。
・89年理事会は例外的に日本で開かれた。常駐代表を熊本・大分・大阪・京都に招いた。これを機に、翌年外務省の谷口誠が、非加盟国を担当する3人目の事務次長に就く。その後も重原久美春/近藤誠一が後を継いでいる。また今は事務次長は4名に拡充されている。
第1章 政策調整の場としてのOECD
<広汎な経済・社会問題に取り組む先進国クラブ>
・OECDの国際機関としての特色に、「クラブ的性格」「シンクタンク的性格」がある。61年20ヵ国でスタートし、99年でも29ヵ国に過ぎない。これは圧倒的に加盟国が少ない。また市場原理を尊重する民主主義の先進国であり、これがクラブ的性格を醸している。※G7サミットと似ているな。
・一方活動範囲は広汎で、様々な報告書を発表している。そしてこれらの取り組みは、分野横断的に行われている。そのためOECDは「世界最大のシンクタンク」と呼ばれる。OECDには約200の委員会・作業部会がある。そのため事務局には2千名の職員が勤務している。
・日本の外務省にはOECDの窓口となる経済局国際機関第2課が置かれ、さらに「OECD開発援助委員会」(DAC)/「国際エネルギー機関」(IEA)に関わる2つの課も置かれている。また防衛庁/北海道・沖縄開発庁を除いて全ての省庁に、OECDの窓口となる課がある。
・OECDは条約・協定を作るのが目的ではない点も、他の国際機関と異なる。また世銀/IMFと異なり、融資活動も行っていない。OECDは「政策調整の場」である。
○クラブ的性格
・OECDの目的は政策調整にある。これは加盟国が「市場主義経済」「多元的民主主義」「基本的人権の尊重」「一定の経済水準」の同質性を有しているからである。これは外的な容貌だが、内的にもクラブ的である。まず意思決定は多数決ではなく、コンセンサスで行われる。また会合は基本秘密会である。そのため議事録も作成されない。また権利停止/除名なども規定されていない。
・最もOECDらしいのが、議論が「コンフロンテーション方式」で行われる点である。例えば日本が「開発援助委員会」(DAC)で援助政策を議論する場合、あらかじめ日本政府が資料を提出する。そして議論の場で日本がこれを説明し、2~3の加盟国が審査国になり議論する。これが穏やかな圧力(ピア・プレッシャー)になり、政策が修正される。
・一方理事会には加盟国に義務を課す「決定」があるが、「勧告」で留まる場合が大半である。また国連安保理のような特別なグループは存在せず、小国にも平等に発言権がある。
○最大のシンクタンク
・OECDの第2の特色は、取り組む分野が広汎な点である。「経済協力開発機構条約」(OECD条約)には、3大目的「高度の経済成長、および雇用・生活水準の向上」「発展途上にある国の経済の拡大」「世界貿易の多角的・無差別的な拡大」が記されている(※少し簡略化)。そのため「経済政策委員会」(EPC)、「開発援助委員会」(DAC)、「貿易委員会」(TC)が3大委員会と呼ばれる。しかし安全保障問題と狭義の政治問題以外を対象にするため、経済政策/貿易/金融/投資/租税/競争政策/工業/農業/運輸/開発援助/エネルギー/労働/福祉/環境/科学技術/情報通信/教育/行政管理などが対象になっている。
・日本が加盟した時、私はOECDを担当する国際機関第2課の主席事務官をしていた。当時水俣病などの公害病が発生していたが、社会的には問題になっていなかった。ところがパリから送られてくる文書には、大気汚染・水質汚濁などを議論した文書が多かった。これはOECDの先取性を示している。近年では暗号問題/電子商取引/バイオテクノロジーが議論されている。
・もう1つ重要なのが水平的な点である。例えば貿易と環境に関連する議論をする場合、貿易委員会と環境政策委員会が合同で会合を開く。また高齢化に関しても、雇用/保健/介護/学習/余暇などと共に議論される。
・なおOECDは結論を出す事を一義的な目標にしていない。議論のプロセス自体を重視しており、これにより加盟国の考え方を知り、相互に影響し合う事が期待されている。また発言者は、国の方針に必ずしも従う必要はなく、個人の意見を述べる事も許される。※これは困った事になるかも。
○OECDでの外交交渉
・以上のような性格なので、議論は激しくならない。60年代後半私は造船および公的輸出信用の会合に出席した。造船に関しては、94年公正な競争条件に関する国際協定が採択される。輸出信用に関しては、78年紳士協定「公的支持を受ける輸出信用ガイドラインに関するアレンジメント」が作られる。※円借款とかかな。
・OECDで激しい議論になるのが、閣僚理事会後のコミュニケである。閣僚理事会の裏で、加盟国の事務局代表とOECDの事務局幹部がコミュニケを作成する。このコミュニケは公表されるので、一言一言が熾烈な交渉になる。
・87年閣僚理事会では、日本は巨額の貿易黒字により加盟国から内需主導型成長を求められた。私は経済局長だったためこの交渉を任され、中曽根内閣の経済政策を丁寧に説明した。それでも日本への非難は収まらなかった。そこで私は『不思議の国のアリス』の「無視されるよりも、批判される方が良い」を発言すると、場が和み、交渉の風向きが変わった。※欧米人はウィットが好きかな。
<経済政策調整>
・加盟国のマクロ経済政策の分析と政策調整は、OECDの中核となる作業です。この結果を春と秋に『OECDエコノミック・アウトルック』として公表する。これはIMFの『ワールド・エコノミック・アウトルック』と同様に世界で引用される。この基礎になるのが、事務局の作業と関連する委員会での議論である。
・これはOECDの3大目的の1つ「高度の経済成長、および雇用・生活水準の向上」による。「経済を危うくする事態」に貿易摩擦による保護主義があるが、これを相互監視で防いできた。各地域の経済状況を議論し、共通の問題を議論する「経済政策委員会」(EPC)と、加盟国の経済状況を審査する「経済開発委員会」(EDRC)が設置されている。
○経済政策委員会
・「経済政策委員会」(EPC)は、OEEC時代に設立された。当初はインフレ対策が課題だったが、経済成長と国際収支の均衡が課題になる。委員会は春秋に開かれ、事務局が用意した分析資料で各地域の経済状況を議論する。さらに時宜に適したテーマが議論される。この結果が『OECDエコノミック・アウトルック』で公表される。会合には加盟国の経済・金融・財政の高官が出席する。オブザーバーとして、国際通貨基金(IMF)/世銀/国際決済銀行(BIS)が出席する。
・60年代/70年代は国際収支の不均衡が最大の問題だったが、70年代後半よりスタグフレーションに替わる。80年代は欧州での失業問題や、米国での財政赤字/経常収支赤字が問題になる。90年代は欧州統合のための財政赤字と失業が問題になる。
・日本経済はバブル崩壊以降停滞しており、不良債権問題などの金融システム安定化策が注目されている。米国は90年代に入り景気拡大が持続している。しかし短期的にはインフレ、長期的には民間貯蓄が懸念される。欧州経済も良好だが、統一通貨ユーロ導入のための財政政策や構造改革が注目されている。
・EPCにはマクロ経済を分析する「第1作業部会」、短期的な経済見通しを行う「STEP」、主要10ヵ国が経済・金融問題について議論する「第3作業部会」がある。第3作業部会は年4回開かれ、結果は公表されないが、通貨/資金の移動/経常収支の問題を議論している。
○経済開発検討委員会
・「経済開発検討委員会」(EDRC)では、加盟29ヵ国とスロバキア/ロシアなどの経済状況を個別に審査し、提言を行っている。また共通のテーマだけでなく、近年は構造問題が重要なので、加盟国に個別のテーマも加えている。そしてこの結果は公表される。この国別審査はOECDの特色である。
・この国別審査は国別審査局(※経済総局の中に国別審査局がある)が、被審査国の国民所得/国際収支/金融統計などの資料を基に、被審査国を訪れる。この結果を基にパリで審査国と被審査国が議論し、先の報告書を作成している。日本ではこの会合に、経済企画庁/外務省/大蔵省/日本銀行などが出席している。
<自由貿易、多角的貿易体制の発展>
・OECDの3大目的に「貿易の拡大」がある。これを疑問に思う人がいるだろう。48年GATTが発足し、95年「世界貿易機関」(WTO)が設立されている。WTOではモノだけでなく、サービス/知的所有権も含めるようになった。また自由貿易体制確立のための多角的貿易交渉を推進している(※多角的とは多国間で、包括的が多分野かな)。この様な経緯からOECDでの議論も変化してきた。
・62年「国連貿易開発会議」(UNCTAD)が設立され、開発途上国の要求に対し先進国がいかに対応するかがOECDの「貿易委員会」(TC)の課題だった。68年UNCTADの第2回会合が開かれ、私はこれにOECD担当課長として出席したが、OECD加盟国が開発途上国に、いかなる「特恵関税」を与えるかを協議した。
・現在OECDが貿易問題を議論する意義は以下にある。貿易委員会の責任分野が広汎のため、新しく発生した貿易問題を取り上げている。また競争政策委員会/環境政策委員会などとの横断的な議論も可能である。2つ目は、WTOなどはルール作りが目的のため、膠着しがちである。一方OECDは非公式のため、自由な議論が行われる。そのため何が問題点かを明確にするのに適している。
○貿易委員会
・貿易委員会は、日米半導体取決め/米国包括貿易法案/加盟国の貿易政策の変更/非加盟国との貿易問題などを議論してきた。特に保護貿易に対処してきた。73年石油危機の翌年、1年間保護主義的措置を取らない事を内容とする「貿易プレッジ」を採択する。80年閣僚理事会でこれが強化された「貿易政策に関する宣言」を採択する。※強化内容が説明されているが省略。
・85年保護主義の弊害を報告する「保護主義の功罪に関する報告書」を閣僚理事会に提出する。またこの閣僚理事会で貿易制限措置の緩和・撤廃が重要とされ、加盟国はその計画書を提出し、それを実施している。
・86年GATTウルグアイ・ラウンド交渉では、OECDの分析結果が活かされた。特にサービス/知的所有権/貿易関連投資で貢献した。
○ウルグアイ・ラウンド後の諸問題とOECD
・ウルグアイ・ラウンド後のWTO体制においても課題は多い。例えば、貿易と地域統合/投資/環境/労働基準/競争などがある。
-貿易と地域統合-
・OECD加盟国は日本/韓国を除いて関税同盟/自由貿易地域に属している。近年地域統合に向かう傾向にあり、貿易委員会はこれに関連する諸問題を議論している。95年報告書「地域統合と多角的貿易体制」を出版している。
-貿易と投資-
・ウルグアイ・ラウンドでサービスを含む貿易の枠組みは作られたが、投資に関しては定まっていない。そのため2国間で投資協定/投資保護協定が結ばれる。OECDが「多数国間投資協定」(MAI)交渉を始めたが、第4章で後述する。
-貿易と環境-
・「環境保護のため貿易を制限すべき」、逆に「環境保護が保護貿易の口実にされる」などの問題がある。これらにWTO/UNCTAD/OECDは取り組んできた。71年GATTが報告書「産業汚染の防止と国際貿易」を提出している。72年OECDは「汚染者負担原則」を定めた。しかしその後この問題は注目されなくなる。
・91年イルカの混獲率が高い漁法で取られたメキシコ産のマグロを、米国が輸入禁止にする。これを機に、GATTで「貿易と環境」が活性化する。同年OECDでも「貿易と環境合同専門家会合」が設置され、生産工程および生産方式/ライフサイクル・アセスメント/環境基準の調和などの分析作業を行う。WTOでも貿易と環境に関する委員会が設置され、ルール作りが行われている。
-貿易と労働基準-
・これは労働者の権利保護から貿易が制限される問題である(※これも基本は貿易第一だな)。これもウルグアイ・ラウンドの最終局面で取り上げられた問題で、ポスト・ウルグアイ・ラウンドの問題である。これは古くからの問題で、第二次世界大戦後の「ハバナ憲章」にも存在する。
・この問題の根底に、貿易拡大により先進国の雇用が途上国に奪われるとの懸念があり、先進国での失業が増えると議論が深刻化する(※今は海外移転/空洞化だけでなく、移民流入もある)。これは単に労働者の権利保護だけを考えるのではなく、権利保護と貿易制限による不利益のバランスを考える必要がある。先進国で労働基準を維持すると労働コストが高くなり、競争力は低下する。さらに技術の進歩と拡散により、先進国でしか生産できなかったものが、開発途上国でも生産できるようになった。
・95年貿易委員会と雇用・労働・社会問題委員会の合同会合が開かれ、報告書を提出している。
-貿易と競争-
・WTO設立までの交渉で、関税/数量規制などの従来型の貿易障壁は減少した。貿易紛争は民間の商慣行(※これが制限的商習慣かな)から生じており、これに対応する国内の競争政策が注目される。※具体例がないと、保護貿易なのか、紛争なのか、競争政策(独占禁止)なのか分からない。
・貿易政策と競争政策は、資源配分を効率化し、経済厚生を最大化するのが目的である。しかし両者に密接する問題がある。例えば競争政策が不十分だと、貿易歪曲効果が発生し外国企業の参入が妨げられたり、その国の企業が安値輸出を行う可能性がある。また貿易制限が濫用されると、国内企業と外国企業の競争が減殺される。
・この「貿易と競争」の問題はOECDの「貿易・競争合同会合」(貿易委員会と競争政策委員会の合同会合)でも議論され、96年閣僚理事会に報告書が提出されている。これにより加盟国で、競争法除外の縮小/競争法の収斂などが行われている。また加盟国は競争政策の経験が豊富のため、WTOの「貿易と競争政策作業部会」に有益なインプットをしている。
※功罪は置いといて、OECDはグローバリゼーションの最大の推進役だな。
○輸出信用アレンジメント
・OECDで注目されるのは、春の閣僚理事会のコミュニケと春秋の『OECDエコノミック・アウトルック』だが、地味だが重要なものは多い。例えば「公的支持を受ける輸出信用ガイドラインに関するアレンジメント」がある。
・貿易委員会の下部組織で、輸出信用や貿易保険に関する情報交換を行ってきた。その結果、市場金利に比べ過度に低利な信用供与や保険引受けは、政府による補助金であり、貿易を歪曲させるとの懸念が高まった。78年これを是正する枠組みとして、紳士協定「公的支持を受ける輸出信用ガイドラインに関するアレンジメント」(輸出信用アレンジメント)が締結される。※78年とは古いな。
・日本が開発途上国に資金供与する場合、大別すると「政府開発援助」(ODA)と「その他の政府資金」(OOF)がある。さらにODAは無償資金協力と有償資金協力に分かれる。また資金供与は、日本からの資材購入が前提の「タイド」と、制約がない「アンタイド」に分かれる。
・資金供与は「譲許性の高いタイド輸出信用」「譲許性の低いタイド輸出信用」「市場金利によるタイド輸出信用」に分かれるが、「輸出信用アレンジメント」では中間の「譲許性の低いタイド輸出信用」に厳しい条件を課して、二極化を促している。
・一般的には返済期間や金利などを詳細に定めた「輸出信用アレンジメント」が適用されるが、船舶/原子力発電/民間航空機/軍事物資/農産物は適用されない。ただし船舶/原子力発電/民間航空機については、「セクター了解」で別途規定されている。※輸出信用/信用供与/資金供与、似た言葉が一杯出てきた。信用供与>資金供与≒輸出信用かな。
※本章によりOECDの概要を理解できた。開発援助は次章かな。
第2章 途上国への援助政策の調整、およびOECDと非加盟国との関係
・OECDの3大目的の1つに援助政策の調整がある。当初は加盟国のギリシャなどの貧しい国も対象だったが、今は非加盟国の開発途上国が対象になっている。そのためマクロ経済/貿易とは趣が異なる。本章は「開発援助委員会」(DAC)による援助政策の調整と非加盟国との関係を述べる。
<開発途上国支援とDAC>
・OECDの目的に「発展途上にある国の経済の拡大」があり、「開発援助委員会」(DAC)が援助政策の調整を行っている。本節はDACについて概観し、96年に採択された開発援助の指針「DAC新開発戦略」を解説する。
○DACの役割
・DACのメンバーは加盟国29ヵ国から、ギリシャ/アイスランド/トルコ/メキシコ/チェコ/ハンガリー/ポーランド/韓国が抜け、欧州委員会(※EUかな)が加わっている。
・日本は91年より8年連続で最大の政府開発援助(ODA)供与国である。ただし対GDP比ではDAC諸国では中下位であり、ODAの質の指標である贈与比ではDAC諸国で最下位である(※規模は最大なのにGDP比や質で下位とは?)。しかし谷口誠事務次長が開発援助を担当するなど、日本の発言力は高い。
・DACは開発援助の効率化が目的で、援助に関する様々な問題を議論している。そのため世界銀行/国連開発計画(UNDP)と異なり、援助自体は実施しない。そこでDACの3つの役割を述べる。第1は援助実施国間の協調である。援助政策は各国が決定するので、その調整を行っている。
・第2は、援助実施国の援助政策の審査である。コンフロンテーションにより、ピア・プレッシャーが行われる。この結果もOECDの重要な報告書になっている。
・第3は、国際社会における開発問題/援助政策の方向性を探求している。近年は「参加型開発」「紛争と開発」などを議論している。特に期待されているのが、次に述べる「新開発戦略」です。
○DAC新開発戦略
・近年の最大の開発問題が需給ギャップである。供給量の不足は、旧ソ連・東欧諸国の市場経済化のための支援の増加や、環境/エイズ/食糧/エネルギーなどの地球規模の問題で資金が必要になった事や、アフリカ/南アジアでの貧困の深刻化よる。一方先進国は財政赤字で供給量を増やせなくなった。そのため援助の効率化が最大のテーマになった。
・96年こうした中でDACが採択したのが「21世紀に向けて-開発協力を通じた貢献」(新開発戦略)である。これには3つの柱がある。第1の柱は、オーナーシップ/パートナーシップの重要性である。オーナーシップとは、途上国が援助に主体的に取り組む事を意味する。一方パートナーシップとは、オーナーシップを前提にドナーと途上国が開発に協力する事を意味する意味する。ドナーとは先進国や世界銀行/UNDP/国連児童基金(UNICEF)などの国際機関が含まれる。
・第2の柱は、包括的アプローチと個別的アプローチである。途上国の開発には資金だけでなく、貿易・投資などの民間経済活動が必要になる。また環境・保健・教育問題において非政府機関(NGO)の役割も重要である。当然であるが政治的安定も必要である。この様に経済面・政治面・制度面に配慮するのが包括的アプローチである。
・一方途上国は固有の経済的・社会的背景があり、その事情に適した援助政策を追求するのが個別的アプローチである。
・第3の柱は、従来の量的目標(GDP比0.7%)ではなく、具体的な7つの開発目標を立てている。③は05年まで、それ以外は15年までの目標。※SDGsがこれに類似している気がする。
①貧困人口の割合を半減する。
②初等教育を普遍化する。
③初等・中等教育における男女格差を解消する。
④幼児死亡率を1/3にする。
⑤妊婦死亡率を1/4にする。
⑥性・生殖に関する健康サービスへのアクセスを実現する。
⑦森林・海洋における環境破壊を逆転させる。
・この3本柱は定着しました。国連は「国連開発援助フレームワーク」(UNDAF)の下で、UNDP/UNICEF/国連人口基金(UNFPA)のパートナーシップを強化しているが、これは「新開発戦略」を具現化したものです。
・また98年世界銀行は「包括的な開発の枠組み」を発表したが、これもオーナーシップ/パートナーシップを重視している。また同年「アフリカ開発会議」(TICAD)でも、オーナーシップ/パートナーシップの考え方が基本原則とされた。
○DACの新しい取り組み
・DACは様々な新しいテーマに取り組んでいるが、ここで「貧困」「参加型開発と良い統治」「紛争と開発」について述べる。
-貧困-
・この問題は90年代に入り特に注目されるようになった。世界銀行/IMFは、市場機能を重視する新古典派的アプローチに依拠していた。これはトリクル・ダウンを前提にしている。ところが現実はこれが機能しておらず、従来型の開発政策が疑問視されるようになった。これにより90年UNDPは「人間開発報告」を刊行し、「貧困」に重点的に取り組むようになった。
・DACにおいても96年「新開発戦略」で「貧困の半減」を目標に設定した。さらに98年「貧困削減ネットワーク」が設置され、加盟国が議論している。
-参加型開発と良い統治-
・「参加型開発と良い統治」とは、援助の受益者がプロジェクトに参加し、そのためには法の支配や公的部門の透明性・責任などの「良い統治」が不可欠との考え方である。これは冷戦が終結し、政治的な「戦略援助」が行われなくなった事による変化である。
・89年DACは「90年代の開発協力に関する政策声明」で、開発援助には持続可能な開発/環境問題/参加型開発が重要とした。94年「参加型開発と良い統治アドホック作業部会」を設置し、途上国での立法・司法制度改革/人権の尊重/参加型市民社会/地方分権/ドナー間の調整の5つの分野を本格的に議論する(※結構内政関与だな)。96年作業部会は最終報告書を提出している。
-紛争と開発-
・紛争は貧困問題・地域間格差などの経済的・社会的な要因で起こる(※民族・宗教が最大の要因では)。しかしこれは本来開発に向けられるべき資金を浪費する。紛争によって難民が発生するなど、紛争前/紛争中/紛争後、それぞれにおいて必要な開発援助が異なる。
・この問題意識からDACはタスクフォースを設置し、97年「紛争・平和と開発協力に関するガイドライン」を作成した。これには紛争回避・平和構築のため、各国・国際機関の連携/資源の動員・配分/開かれた対話/成功事例の共有などが記されている。
<非加盟国との関係強化>
・DACのメンバー国は独自に途上国に援助政策を実施ている。これは多対多の関係である。一方OECDも知的支援を中心に援助政策を実施ている。こちらは1対多の関係である。※OECDは知的支援はやっているのか。
○OECDと非加盟国の2つの関係
・OECDと非加盟国が協力し、非加盟国が世界経済に統合されるのは、双方に望ましい。OECDと非加盟国の関係には、2つの形がある。1つは非加盟国がOECDの委員会にオブザーバーとして参加する形である。もう1つはOECDが非加盟国に対し、セミナー/ワークショップを開き、技術協力する形である(アウトリーチ活動)。
・前者のオブザーバーは、加盟条件をほぼ満たしている非加盟国に適用される。具体的にはアルゼンチン(貿易委員会、農業委員会、国際投資・多国籍企業委員会、競争政策委員会)/ブラジル(※以下省略)/チリ/イスラエル/ロシア/スロバキアなどがある。
○アウトリーチ活動
・OECDは20ヵ国からスタートし、73年までに24ヵ国になり、「OECD24ヵ国」と表現された。冷戦終結後の94年以降、5か国が加盟しているが、今は拡大に慎重である。
・80年代アジア新興工業経済群(NIEs)が急速に経済発展し、これとの対話が重要になった。97年7月タイで経済危機が起こり、98年8月ロシア、10月ブラジルと立て続けに金融・経済危機が起こった。
・もう1つが東欧の変化である。多数の旧社会主義国が市場経済に移行するため、90年OECDは「移行経済支援センター」(CCET)を設置する。これは経済/貿易/投資/金融/税制/科学技術/社会政策/環境の領域で技術協力した。
・OECDは合理化/組織改革を行い、以下のアウトリーチ活動を続けてきた。
-対移行経済支援活動-
・90年「欧州移行経済支援センター」(CCEET)を設置し、93年「移行経済支援センター」(CCET)に改名した。対象国はNIS/チェコ/スロバキア/ハンガリー/ポーランド/ブルガリア/ルーマニア/バルト3国だったが、スロベニア/モンゴル/アルバニア/ヴェトナムが加えられた。またチェコ/ハンガリー/ポーランドはOECD加盟で対象国から外れた。
・「共通プログラム」と「国別プログラム」を行っている。「共通プログラム」は、税制/金融/民営化など市場経済への移行に関するセミナー/ワークショップを開催する。しかし国の状況が様々なので、それに応じた「国別プログラム」を行っている。
・これには4つの計画があり。第1は移行期のパートナー・プログラムで、チェコ/スロバキア/ハンガリー/ポーランドに行われた(※詳細省略)。第2は対ロシア・プログラムで、ロシアの経済審査や対話を行っている。第3は対BRSプログラム(ブルガリア、ルーマニア、スロベニア)で、税制/金融セクター/民営化を支援している。第4は対NISプログラムで、NIS諸国にワークショップ/セミナーを開き、軍民転換/原子力安全管理/民営化の技術支援を行っている。
-活力ある域外経済との政策対話-
・80年代後半になると、韓国/シンガポール/台湾/香港などの新興工業経済群(NIEs)が急速に経済発展する。これに伴い日本はNIEsとの「活力あるアジア経済地域との対話」を始める。93年ラテン・アメリカのアルゼンチン/ブラジル/チリ/メキシコも加わり、名称が「活力ある域外経済との政策対話」に変わる。95年中国/インド/インドネシアも加わる。
・日本は中国経済を常に注視していた。OECDでも貿易委員会は対中貿易を、国際投資・多国籍企業委員会は対中投資問題を取り上げていた。95年秋、ペイユ事務総長の訪中が実現する。
-最近の動向-
・アウトリーチ活動は、移行経済支援センター(CCET)/「活力ある域外経済」(DNMEs)との政策対話/新興市場経済フォーラム(EMEF)/その他個別委員会などに分散していた。97年閣僚理事会で合理化が議論され、「非加盟国協力委員会」が設置され、支援プログラムは「非加盟国協力センター」(CCNM)に統合された。
・これまでは国別アプローチだったが、00年よりテーマ別アプローチに変わる。CCNMが行う支援プログラムは、テーマ別プログラム/国別プログラムに分かれている。
・テーマ別プログラムには、3つの類型がある。「新興市場経済フォーラム」(EMEF)は広範囲の非加盟国を対象にする。「経済移行プログラム」はバルカン諸国/中央アジア諸国が対象で、民間部門の発展/金融市場政策/原子力政策の技術支援を行っている。「東南アジア特別計画」は97年タイ・バーツ下落による金融危機により実施される事になった。
・なお通常のアウトリーチ活動とは異なるが、OECDはNATOなどと並び、バルカン地域の平和/民主政治/経済的繁栄を目的とする「南東欧安定協定」の賛助機関になっている。
○99年の閣僚理事会の試み
・99年の閣僚理事会で、非加盟国のロシア/中国/インド/インドネシア/ブラジル/アルゼンチン/南アフリカ/スロバキアが招聘される。なおOECDで域外大国「ビッグ・ファイブ」は、ロシア/中国/インド/インドネシア/ブラジルを指す。※BRICsにインドネシアを加えている。
○新規加盟問題とのからみ
・オブザーバー参加/アウトリーチ活動は加盟のための過渡的な措置と考えられがちである。しかし加盟国の考え方は異なる。現在スロバキアが加盟審査中であり、スロベニア/ロシア/アルゼンチン/キプロスが加盟申請している。
・加盟には、①関連委員会による審査、②新規加盟国の義務の履行が必要になる。①で最も重要なのが、資本移動・貿易外取引委員会による審査で、2つの自由化規約に整合しているかである。また②では、OECD条約の履行、OECDの決定・勧告の履行、OECDとの特権免除条約(?)の締結がある。
・スロバキアは順調に進めば、00年に加盟する。しかし今後の加盟については慎重である。OECDはコンセンサス方式なので、決定が遅れる事が多い。今後さらに加盟国が増えると、それが増々懸念される。
※本章だけで1冊の本になる。OECDは知的支援(オブザーバー参加、アウトリーチ活動)を行っており、アウトリーチ活動は、共通プログラム/国別プログラムに分かれる。
第3章 エネルギー問題への対応
<石油問題と国際エネルギー機関>
・OECDには石油委員会/エネルギー委員会が存在したが、OECD傘下に「国際エネルギー機関」(IEA)が設立され、廃止された。
○OPECの結成
・20世紀は「石油の世紀」と云われるが、その主役は変化している。60年代までは欧米のメジャーが石油市場を支配した。60年産油国5ヵ国(イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラ。※クウェイト/サウディ・アラビア/ヴェネズエラと表記しているが、クウェート/サウジアラビア/ベネズエラで統一)が「石油輸出機構」(OPEC)を結成する。後にカタール/インドネシア/リビア/アルジェリア/ナイジェリアなどが加入する。
・73年「第4次中東戦争」が勃発し、アラブの産油国が生産を削減し、イスラエル支持国への輸出を禁止した。これによりアラビアンライトが、3ドル/バレルから11.7ドルに引き上げられる。78年「イラン革命」が起き、イランの生産量が550万バレル/日から150万バレルに減少する。これを機に産油国はメジャーを介さず、消費国に直接販売するようになり、アラビアンライトは41.8ドルまで引き上がる。
○石油市場の変化
・80年代に入ると、石油需要の減少、北海/メキシコの台頭によりOPECのシェアは低下する。サウジアラビアはスイングプロデューサーになり、生産量を減らす。また原油価格の設定方法を「ネットバック取引」(?)に変更する。これにより石油は市場商品になる。特に83年ニューヨーク・マーカンタイル取引所の原油先物取引が急成長し、石油の市況商品化が進む。※市場が場所で、市況は状況かな。
・97年石油消費は2.8%増え、7380万バレル/日となるが、石油は供給過剰になる。98年末には石油価格が10ドルまで下落する。
・IEAの「世界エネルギー需給見通し」によれば、アジアなどで毎年100万バレル/日の需要増が見込まれる。エネルギー構成は石油40%/石炭27%/天然ガス24%であるが、今後も石油依存は変わらず、価格上昇は避けられない。
<IEAの目的と活動>
・第1次石油危機後の74年2月ニクソン大統領の提案で「エネルギー調整グループ」(ECG)が設置され、緊急時の石油融通/消費国の中長期的協力を検討する。これを基にOECDは「国際エネルギー計画に関する協定案」「同計画の実施機関『国際エネルギー機関』(IEA)設立に関する案」を作成し、同年11月「国際エネルギー機関」(IEA)が設立される。これを機に石油委員会/エネルギー委員会は廃止される。そしてOECD加盟国は「国際エネルギー計画に関する協定」に署名し、76年1月発効する。
○基本目的
・IEAの目的は「エネルギーの需給構造の改善」で、任務は4つある。①緊急時対策として、備蓄水準の確定/需要の抑制/緊急融通システムの設立。②石油市場対策として、情報制度の確立/国際石油会社との協議システムの開発。③長期協力対策として、省エネルギー対策/代替エネルギーの開発・促進。④産油国および、開発途上国を含めた消費国との協力関係の強化である。
・IEAはOECD傘下の国際機関で、OECD加盟国は備蓄基準(90日分の備蓄)を満たすと加盟資格を得る。99年現在24ヵ国が加盟している。ただしノルウェーは純輸出国なので、別の取り決めがある(※米国も純輸出国になったかな)。アイスランド/メキシコ/チェコ/ポーランド/韓国は加盟していない(※理由は何だろう)。※24ヵ国しか加盟していないのに、国際も変だな。
・IEAはOECDの傘下だが独立した機関で、事務局長と最高意思決定機関の理事会を有する。理事会は2年に1回開かれる。なお決定・勧告の採択は、全会一致/特別多数決/単純多数決である。
○IEAによる調整
・IEAの活動の中心は緊急時対策だったが、76年緊急時石油融通システムが確立し、石油需給も緩和した事で、中長期的な国際協力/エネルギーの研究・開発に移る。ところが78年第2次石油危機が起こり、国別石油輸入の上限/需給逼迫時の備蓄政策/国際石油取引の登録制度の短期対応が焦点になる。
・80年代後半からは、エネルギーと環境/非加盟国との関係/エネルギー需給に影響する技術開発も加わる。90年湾岸戦争では、加盟国間の緊密な協議により250万バレル/日の石油を市場に供給する緊急時協調対応計画が実施される。
・この様にIEAは短期/中長期の政策を取ってきた。一方環境問題やエネルギー問題のグローバル化に対し、93年「共通目標」で合意している。※この節は政策の羅列で難しいな。
○99年のIEA閣僚理事会
・99年のIEA閣僚理事会は25周年記念行事と共に行われた。議論において、①近年石油価格は弱含んでいるが緊急時の体制は重要である、②環境問題への対応から再生可能エネルギー/原子力が重要である、③世界経済の変貌で非加盟国との対話が重要である、④97年地球温暖化防止京都会議(※京都議定書)に協力するなどで一致した。「エネルギー分野の自由化を進めるべき」との意見もあったが、これは穏やかな対立で終わった。
<原子力への取り組み>
・原子力に関する国際的な機関に「国際原子力機関」(IAEA)がある。OECD傘下には「経済協力開発機構原子力機関」(NEA)がある。OEEC時代にこの前身が存在したが、72年日本が加わった際にNEAに改組された。現在は27ヵ国が参加している。
・57年国連総会での原子力の平和利用/軍事利用の防止から、IAEAが発足した。一方NEAは、原子力の安全/環境適合/経済性を目的にしている。NEAの主な業務は以下である。
①原子力施設の安全/人間の安全・環境の保全/放射性廃棄物の管理/原子力損害賠償責任と保険などに関する規制の調和。
②全エネルギーにおける原子力の役割の評価/原子力の技術面・経済面での検討/核燃料サイクルの需給の予測。
③科学的・技術的情報の交換。
④国際研究開発計画および共同事業の設立。
・NEAもOECDから独立しており、最高意思決定機関として運営委員会が存在する。ただしOECDの環境局や国際エネルギー機関(IEA)と緊密な関係にある。
第4章 先進国のシンクタンク
・OECDは「世界最大のシンクタンク」と云われるが、それは取り組む分野の幅広さにある。特定の分野を専門とする世銀/IMF(金融)、WTO(貿易)、FAO(農業)、WHO(保健)、ILO(労働)などの国際機関が存在するが、OECDは経済/貿易/開発/労働/農業/産業/環境/教育などを扱っている。さらに分野横断的に取り組み、政策提言を行っている。
・これらの作業は、事務局の700名の職員による。彼らは議論のためのペーパーを作り、最終的に報告書を作っている。本章は幾つかの重要な問題を取り上げる。
<高まる環境問題>
○環境と開発の共存
・大気汚染/水質汚濁は各国で対応してきたが、国際的協調が必要になってきた。OECDでは60年代より「科学研究委員会」で、大気汚染/水質汚濁/化学品による公害について検討していた。しかし事務総長ファン・レネップ(69~84年)が、「現在の問題は、経済成長/環境/福祉」とした事で、技術的研究から資源配分/費用対効果の分析/貿易への影響へと取り組みが広がる。70年環境委員会が設立され、大気汚染/水質汚濁/廃棄物管理の議論が始まる。
・70・80年代は環境改善が叫ばれた時代である。72年ストックホルムでの「国連人間環境会議」で「人間環境宣言」が採択され、「持続的開発」の考え方が生まれる。92年ブラジルで「国連環境開発会議」(UNCED)が開かれ、「環境と開発に関する宣言」「アジェンダ21」が採択され、地球環境問題が注目されるようになる。
○ごみ処理の責任
・92年地球環境問題の対話を深めるため、環境委員会は「環境政策委員会」(EPOC)に改称された。当委員会の主な活動は以下。※大幅に簡略化。
①各国の環境の状況を調査し、相互に審査し、報告書を作成する。
②補助金や生物多様性を環境政策と経済・産業政策の統合の視点から分析する。
③持続可能な資産政策/ライフサイクル管理/拡大製造者責任などを検討する。
④化学物質の有害性を判定する試験ガイドラインを策定する。
・当委員会には、経済と環境政策の統合/環境政策の評価/汚染防止/化学品/廃棄物管理政策の5グループが設けられた。当委員会の活動は貿易/農業とも密接に関係しており、貿易委員会/農業委員会と合同で活動している。
・近年、地球温暖化/有害廃棄物の越境/有害な化学品などが問題になっており、地球規模の協調が必要になってきた。そのため気候変動枠組条約やバーゼル条約の事務局とも協力している。
<構造調整、規制緩和、規制制度改革>
・構造調整/規制緩和/規制制度改革も新しい問題である。いずれの国も構造的な問題があり、経済成長が潜在成長率を下回っている。そのため対外不均衡を是正し、持続的に成長し、雇用を拡大させるには構造調整が必要との認識がある。
○構造調整
・こうした事から、OECDは「積極的調整政策」を検討してきた。これは市場メカニズムの調整作用を促進させるため、効率的な資源配分で持続的成長を達成する政策である。この中心が「規制緩和」で、81年に誕生したレーガン政権やサッチャー政権で行われた。日本でも80年代、通信事業の規制緩和/金融の自由化/土地利用の規制緩和が行われた。
・規制には、「経済的規制」「社会的規制」「行政上の規則・規制」がある。「経済的規制」は参入や競争など、市場に関係する。「社会的規制」は環境・安全など、公共の利益を保護する。「行政上の規則・規制」は、行政上の手続きや文書業務を指す。
・80年代これらの規制が緩和され、経済効率は向上したが、サービスの質や安全性が低下する問題を起こした。85年積極的調整政策をフォローする「構造調整研究」が開始される。調整政策が経済パフォーマンスに与えた影響を調べ、87年総合報告書と10章から成る分野別報告書を作成した。※OECDはグローバリゼーションを後押ししたな。
○規制制度改革
・OECDでの規制制度改革とは、時代にそぐわない規制や競争を不当に妨げる規制の緩和・撤廃だけでなく、より優れた規制の導入も含まれる。私は日本の規制緩和・撤廃を担当したが、欧米にも妥当でない規制はあった。
・製品の安全性/環境保全/消費者保護の規制は欠かせないが、技術革新を遅らせたり、自由競争を妨げる規制が存在した。また規制が、モノやサービスの貿易や投資の阻害要因になっていた。さらに行政手続きの複雑さも技術革新のコストを高めていた。そのため産業委員会/競争委員会などが個別に規制制度改革を行っていたが、分野横断的に行うようになった。
・95年閣僚理事会のコミュニケに規制制度改革の推進が盛り込まれる。これを受け、電気通信/専門職業サービス/電力/金融サービス/農業・食糧/製品基準の分野で、①規制制度改革の経済横断的効果、②競争・消費者と規制制度改革の関係、③作業競争力・技術革新と規制制度改革の関係、④市場開放性と規制制度改革の関係、⑤規制制度改革実施のための公共部門改革の検討を始める。
・この作業により97年閣僚理事会にセクター別・テーマ別の報告書が提出される。報告書には7つの提言が記された。※大幅に簡略化。
①政治レベルで規制制度改革のプログラムを採択し、目的・枠組みを明確にする。
②規制を体系化し、効率的・効果的かを審査する。
③規制が透明・無差別・効率的であるかを審査する。
④競争(公正取引)政策の範囲・効力・施行を審査し、強化する。
⑤規制が公共の利益に資する最善の方法でない限り、自由競争を促進させる。
⑥国際合意・国際原則に基づき、規制障害を撤廃する。
⑦規制改革と他の政策目的が関連する場合、規制改革を促進させる形で、政策目的を達成させる。
・98年この報告書に従い、米国/メキシコ/オランダ/日本の3テーマ(公共部門、競争政策、市場開放)と2分野(電力、電気通信)の規制がレビューされ、99年報告書が公表された。
<雇用問題と高齢化・年金問題>
○雇用問題への取り組み
・経済の良し悪しは、雇用の増減やその裏返しである失業の多寡に現れる。雇用の減少や賃金の低下が見られると、社会不安が増す。OECDは関連委員会で雇用問題を取り上げ、毎年「雇用見通し」を公表している。
・失業には一時的な失業(循環的失業)と恒常的な失業(構造的失業)がある。欧州は10%前後の失業が常態化し、構造的改革が必要である。具体的には税制/最低賃金/失業手当/年金/労働者保護などの社会制度の過剰が就労のインセンティブを弱めているとの説がある。そのため競争性の向上/新しい産業・ベンチャー企業の育成/技術革新の促進が重要になっている。
・92年閣僚理事会が事務局に「雇用失業研究」の開始を要請する。94年この結果が「雇用研究」に纏められ、その後も経済総局/教育・雇用・労働・社会問題局などが作業を続けている。
・「雇用研究」で以下の10項目の「雇用戦略」が提言された。
①適切なマクロ経済政策。
②技術的ノウハウの創造・普及(技術革新の促進)。
③労働時間の柔軟性の拡大。
④起業家精神が発揮できる環境。
⑤賃金と労働コストの弾力化(高い最低賃金は雇用を抑制する)。
⑥雇用保障の改革(雇用保障が高いと解雇が難しく、雇用を抑制する)。
⑦積極的労働市場政策の推進(失業保障より、就職援助に重点)。
⑧労働者の技術・能力の向上。
v ⑨失業保険給付の見直し(高い給付は新規雇用を妨げる)。
⑩市場競争の向上。
・この「雇用戦略」に従い、経済開発検討委員会が国別審査を行い、97年一巡したところで、総括報告書「加盟国の経験に学ぶ」が公表される。
・OECDでは閣僚理事会とは別に特定分野の閣僚が出席する閣僚会合が開かれる事がある。97年労働大臣会合が開かれ、①低賃金労働者・未熟練労働者への対策、②積極的労働市場政策の推進、③雇用維持のための生涯学習について議論した。またOECDは過去4回のG7雇用会議にオブザーバーとして参加している。また98年G8労働大臣会合にも、IMF/ILOと共に参加している。
・99年「雇用戦略」に従った国別審査が二巡すると、閣僚理事会に報告書が提出された。それには以下が記された。
①雇用の状況は国毎に大きく異なる。
②労働市場の周辺(若年者、高齢者、女性)の雇用が重要。
③労働供給を抑制する政策(早期引退、労働時間短縮)は雇用増にならない。
④雇用も重要だが、生活水準も重要である。
⑤マクロ経済政策と構造改革は同時に進めるべき。
・当時加盟国全体の失業率は7%だが、米国は好況で4%、日本は平成不況で5%だった。一方欧州のドイツ/仏国/イタリア/スペインの大国は高く、英国/オランダ/ニュージーランド/アイルランド/デンマークは低かった(※ユーロ導入前だな)。欧州は労働市場の柔軟性が問題で、若年者/高齢者/女性/非組合員が不利になっていた。また失業補償の手厚さも障害になっていた。
・99年より単一通貨ユーロが導入され、一国の経済の悪化に対し金融政策が取れなくなった。財政政策で取るしかないが、「安定成長協定」により、財政赤字はGDPの3%までに制限された。そのため雇用需給を調整するためには、労働移動の柔軟性が必要になった。
○深刻化する高齢化・年金問題
・高齢化問題も重要な社会問題になった。高齢化は平均寿命の伸長と出生率の低下により、人口構造の重心が上方に移動する現象である。これは雇用者比率の低下や社会保障費の増加になる。これも分野横断的に対応する必要がある。
・これは日本/欧州の問題で、年金・医療費の増大や、高齢者の貯蓄引出による資本不足が指摘されている。また将来的には途上国も陥る問題である。
・この25年間OECDにおいて、年金受給者が4500万人増えたが、労働人口も1.2億人増えた。そのため「賦課方式」(現役世代が負担)で問題は起きなかった。しかし今後の25年間は年金受給者が7千万人増えるが、労働人口は500万人しか増えない。そのため「基金方式」(将来のために積み立てる)への転換が必要である。
・若年層の失業問題への対応として早期退職が行われているが、逆に課税基盤を失い、経済は停滞し、被扶養者を増やす事になる。
・OECDはこの高齢化問題を重視しており、88年最初の報告書が作られた。96年第1段階として、年金/医療・介護/労働市場/財政に関する報告書が作られた。第2段階では教育・雇用・労働・社会問題局だけでなく、経済総局/金融財政企業局/科学技術産業局/行政管理部/開発協力局なども携わった。98年閣僚理事会に提出された報告書には、以下の指針・原則が記された。
①公的年金制度/税制/移転所得制度を改革し、早期退職の誘因を除去し、就労の長期化を促進する。
②高齢者に多くの就労機会を与える改革を行う(活力ある高齢化)。
③公的年金を段階的に削減し、負担率を先行して引き上げる。
④退職後の所得は、移転所得制度(賦課方式)/事前積立制度(基金方式)/個人貯蓄/雑収入で確保する。
⑤医療・介護は費用対効果に重点を置く。医療の研究は、物理的依存状態の短縮に向ける。
⑥積立型年金制度(※基金方式かな)は、金融市場基盤の整備と並行して行う。
⑦高齢化に関する政策の調和や国民の理解・支持を得るため、改革戦略を策定する。
<多国籍企業問題と外国投資>
・OECDは「資本移動の自由化に関する規約」を通じ資本移動に関わってきた。これを議論する上で、多国籍企業は避けて通れない。OECDは70年頃より、技術移転/租税/制限的商習慣(?)/労働問題と関連して議論していた。そして75年「国際投資・多国籍企業委員会」(CIME)が設立され、本格的な議論が始まる。
・当委員会は、多国籍企業や国際投資を行う企業の情報交換、統一的行動基準、国際投資の促進、内国民の待遇拡充などを議論し、翌年閣僚理事会で「国際投資および多国籍企業に関する宣言」「多国籍企業の行動指針」が採択される。前者は国際投資環境の改善や、多国籍企業により生じた困難を解決する政治的意図を表明した。後者は、企業に情報公開/競争/財務/租税/雇用・労使関係/環境保護に関する指針を勧告した。
○2つの自由化規約と内国民待遇インストルメント
・OECDには対外経済取引で法的拘束力を有する2つの規約(コード)「資本移動の自由化に関する規約」「経常的貿易外取引の自由化に関する規約」がある。また外国企業に国内企業と同等の待遇を与える「内国民待遇インストルメント」も重要である。
・両規約は付表に自由化の対象を列挙している。資本移動では、直接投資/資本市場での取引/短期金融市場取引/資金の貸付/海外預金などが対象である。経常的貿易外取引では、技術援助/輸送/保険/個人所得と支出(?)/金融サービス/観光などが対象である。各国は段階的に自由化する決まりになっている。また特定の分野の「留保」が認められている。「資本移動・貿易外取引委員会」(CMIT)が国別に審査を行っている。
・「内国民待遇インストルメント」は、76年宣言と91年理事会決定で構成される。76年宣言は政治的なコミットメントです。91年理事会決定は、内国民待遇の例外措置をOECDに通告しなければならず、これをCMITが審査している。
・両規約は対象を拡大している。資本移動では金融市場取引/短期信用・貸付/先物取引、経常的貿易外取引では国境を超える銀行・金融サービス/営業拠点の設立が加えられた。しかしWTOの役割が増大した事でOECDの役割は後退している。特にWTOのサービス貿易に関する一般協定(GATS)により、経常的貿易外取引は後退している。
・一方包括的に投資を扱った多角的な枠組みは存在しない(※包括的と多角的はダブっていない)。例えば直接投資は受け入れ国の経済成長・雇用・技術移転が果たす安定的・実効的な法的枠組みを多角的に実現する必要があり、また全ての受け入れ国が同じルールを適用する必要がある。※難解。多角的とは多項目・多規定などの意味かな。
・しかし資本移動の規定に意義はあるが、紛争解決を担保する規定はありません。また非加盟国による投資も増大しており、これらの国もOECDの法的枠組みに従う必要があります。※中国かな。
○MAI交渉
・投資に関してはGATTウルグアイラウンド交渉でも取り上げられ、「貿易に関連する投資措置に関する協定」(TRIM協定)「サービス貿易に関する一般協定」(GATS)が成立した。TRIM協定ではローカル・コンテント要求(?)を禁止し、GATSでは進出した拠点での海外からのサービス提供を規定している。
・しかしこれらは投資を包括的に扱っていない。一方OECDは「内国民待遇インストルメント」を中心に包括的に検討している。そして95年、投資の保護/自由化/紛争解決手続きを含む協定のための交渉「多数国間投資協定」(MAI)を開始する。
・97年閣僚理事会までの妥結が目標だったが、1年延長される。さらに98年閣僚理事会前でも大きな違いが見られた(※詳しい内容が説明されているが省略)。当時以下の2つの政治的な問題があった。
①「労働と環境」は、国際投資が受け入れ国の労働・環境に与える影響にどう配慮するかである。具体的には「労働・環境基準の引き下げ禁止」「政府による正当な規制の確保」である。
②「協定の義務からの免除」は、免除対象となる例外に関する議論である。具体的には、地域的統合/文化/補助金/政府調達について検討された。
・98年4月閣僚理事会を控え、交渉の継続が合意され、閣僚声明文が作成された。しかし文化政策(?)を重視する保革共存の仏国が、交渉の中断を主張する。結果交渉の透明性を確保するなどで、10月まで交渉が継続される。
・98年10月仏ジョスパン首相がMAI交渉に参加しない事を表明する。「MAI交渉は国家主権に関わる問題を有し、交渉概念自体に問題がある」が理由だった。これによりMAI交渉は挫折し、OECD内で分野横断的な作業を継続する事になった。
○市民社会の問題
・MAI交渉の挫折は、国際約束の締結で多くの事を考えさせた。この挫折の背景に仏国での非政府団体(NGO)と共産党による反対運動があり、これは仏国に限らなかった。これは政府間の交渉に「市民社会」が大きく影響するようになった表れであり、NGOが透明性/反グローバリゼーション/多国籍企業への不満/環境保護/人権問題で共同歩調を取った事による。これは秘密主義のOECDとNGOの闘いでもあった。雑多なNGOはインターネットで連絡を取り合い、MAIに反対した。この挫折に一番失望したのは政府ではなく、多国籍企業であろう。※これは大きな流れだな。
・99年よりWTOで新ラウンド交渉が始まるが、様々なNGO(特に環境保護団体)が影響すると思われる。前OECD代表部大使は「市民社会の台頭は反グローバル化による。しかしこれには弱者救済や文化特性の維持(?)なども含まれる。これはEU15ヵ国中、12ヵ国が中道左派政権である事からも分かる。またサッチャー政権により市場パラダイムが推進されたが、それに対する疲労・反作用もある。さらに市民社会には間接民主主義への失望や、議会不信・政治不信がある。この矛先はOECDだけでなく、WTOにも向かうだろう。米大統領/英首相でさえ、WTOの透明性に言及している」と述べる。※反グローバリズムは新しい話と思っていたが、20年前からあるんだ。
<技術・情報社会と企業活動>
・経済・社会の進歩により、OECDの活動範囲も拡大している。最近では電子商取引(EC)とコーポレート・ガバナンス(企業統治)がある。企業ビジネスに関するものとして、99年「外国公務員贈賄防止条約」がある。他にマネー・ロンダリングと「有害な税の競争」がある。
○電子商取引
・インターネットが普及し、手軽に電子メールを送れるようになり、閲覧ソフトで様々な情報を見れるようになり、そこでの商取引も活発になった。この情報社会は民間主導で作られた。OECDはこの情報社会を如何に有益なものにするかを議論してきた。その中心が「情報・コンピューター・通信政策委員会」(ICCP)である。元々は科学技術政策委員会(CSTP)で行っていたが、82年に独立した。ICCPで政策フレームワーク/情報経済/情報内容/秘密保護/プライバシー・暗号政策などを検討している。
・政策フレームワークにおける成果として、報告書「GII-GIS」がある。これは相互運用性の標準化/新たなサービスの検討/電子商取引/違法・有害な内容への対応などの提言を行っている。
・情報経済では、政策検討に必要な経済データ/調査/解析や、ビジネスのルール作り/電子契約の有効性/認証/プライバシー/支払い/消費者保護/税制/秘密保護などの個別テーマの検討を行っている。※色々書いてあるが省略。
・情報内容(コンテント)では、違法・有害な内容をどう扱うかに対し、発信を規制する方法とフィルター技術を使う方法があるが、今は各国の法制を比較検討している。
・秘密保護・プライバシー・暗号では、97年「暗号政策ガイドライン」を発表している。
・98年電子商取引に関する閣僚級会議を開いた。これにWTO/世界知的所有権機関(WIPO)/民間セクターも参加し、時宜を得たものになった。信頼性の構築(プライバシー保護など)/基本ルールの設定(税のフレームワークなど)/情報インフラの整備/経済・社会に与える利益の最大化などが議論され、経済・社会への影響の調査/国際機関と民間部門との協調が確認された。そして優先度の高い分野は、①プライバシー保護、②安全な情報基盤・技術・認証、③消費者保護、④租税、⑤インフラへのアクセス、⑥社会・経済への影響となった。
○コーポレート・ガバナンス
・コーポレート・ガバナンス(※以下企業統治と表記します)は一言で言えば、「誰が会社を支配するか」である。企業は株主が支配者で、経営者をどう統制監督できるかになる。さらに従業員・債権者などの利害関係者を考えると、社会全体の厚生をどう最大化するかになる。近年金融市場の自由化・国際化で企業の資金調達は容易になった。そのため企業統治は各国で注目されるようになった。
・30年代株式会社改革が行われ、株主による所有と経営者による経営が分離された。60年代になり、年金基金/投資信託/生命保険などの機関投資家が株主になり、「会社は株主のもの」との説が一般化する。
・96年OECDの「経済産業諮問委員会」(BIAC)に「コーポレート・ガバナンス民間部門諮問委員会」(6人委員会)が設置される。ここで①企業の使命、②投資家の役割、③市場における情報ニーズ(?)、④投資家と企業の契約慣行、⑤取締役会の役割が議論された。翌年企業統治に関する民間会議が開かれる。ここで「各国に歴史的・経済的背景があり、単一の企業統治モデルはない。ただし法制度/会計基準では共通の要素がある」と確認された。
・98年「企業が最低限備えるべき事項や企業統治に関する共通原則が必要」との報告書が提出された。そして翌年の官僚理事会に、①株主の権利と責任、②企業統治におけるステークホルダーの役割、③株主の公正な取り扱い、④情報開示と透明性をテーマに報告書を提出する事になった。最終的にこれが「OECDコーポレート・ガバナンス原則」として承認された。
・日本では90年代、株式市場/企業収益の低迷や大企業の不祥事により、企業統治が注目される。93年商法が改正され、社外監査役が導入され、株主代表訴訟を起こし易くなった。また株主は金融機関などの「物言わぬ株主」だったが、バブル崩壊後は金融機関の比率が低下し、外国人投資家の比率が上昇し、企業統治に関与するようになった。
○外国公務員贈賄防止条約
・99年OECDが作成した「外国公務員贈賄防止条約」が発効する。企業活動がグローバル化し、海外での商取引での公正な競争が問題になった。77年米国は「海外腐敗行為防止法」を制定し、外国公務員への贈賄行為を禁止した。しかしこれが「米国企業の活動を委縮させている」との批判から、同様の取り締まりを各国に求め、OECDで議論する事になった。
・89年「国際投資・多国籍企業委員会」(CIME)において、米国が外国公務員に対する贈賄防止条約の締結を提案し、贈賄ワーキンググループが設置される。94年「外国公務員に対する贈賄行為の防止」を目的とする勧告が出される。96年各国が外国公務員への贈賄防止の国内法を整備するため、贈賄行為の犯罪化を容易にする研究を行い、翌年に提案する事で一致する。97年「外国公務員贈賄防止条約」が採択され、各国が署名する。これにOECD28ヵ国(豪州を除く)と、OECD以外のブラジル/アルゼンチン/チリ/ブルガリア/スロバキアが署名した。
・日本は98年「外国公務員贈賄防止条約」に対応すべく、不正競争防止法を改正する。
○マネー・ロンダリング
・マネー・ロンダリング(※以下資金洗浄と表記します)は、犯罪などで得た収益を合法的な資金に見せかける行為です。麻薬だけでなく、公職者の収賄や公的援助の着服なども含まれる。99年ロシアのマフィアがIMFからロシアへの融資を洗浄したとの疑惑が起き、欧米の金融中心地やタックス・ヘイブンで調査が行われた。
・OECDは資金洗浄に対し「金融活動作業部会」(FATF)を設置し、これにOECDが中心の26ヵ国と2国際機関が参加します。ここで金融担当局/司法当局/取締当局が、それぞれの分野を議論している。
・90年「40の勧告」が策定され、刑事司法/金融規制/捜査・法執行/国際協力のガイドラインになる。現代は一瞬で国際決済が行われるため、一国でも抜け穴があると資金洗浄が可能となる。そのため国際協調が欠かせず、非協力的な国を特定する作業を行っている。※大国内にタックス・ヘイブンがあったり、王室などがそれを利用しているので、撲滅は困難かな。パナマ文書は2016年で大分後だな。
○有害な税の競争
・資本移動が自由化され、資本誘致のための税の引下げ競争が行われている。これにより投資・貿易が歪曲され、各国の課税ベースが侵食されている。この「有害な税の競争」に対し、OECDの租税委員会が対抗措置を検討し、98年に報告する事で合意する。
・98年報告書で「タックス・ヘイブン」(租税回避地)と「有害な優遇税制」を「有害な税制」とし、これの特定方法と対応策を示した。例えば特定方法は「金融活動に税を課していない」です。対応策としては、タックス・ヘイブンとの租税条約の見直し、移転価格税制の適正化、「有害な税制」の新規導入の制限、「有害な税制」の縮減・廃止、加盟国による審査などです。
・またこれらの実施状況を見守る「有害な税制慣行フォーラム」が開かれ、①1年以内にタックス・ヘイブンのリストを作成する、②2年以内に有害な優遇税制のリストを作成する、③5年以内に有害な優遇税制の縮減・廃止を監視するを決定する。
<伝統的な重要問題としての農業・教育>
・これまで先進的な経済問題に焦点を当ててきたが、着実に成果を上げてきたのが農業と教育です。
○農業
・農業は人間の根本に関わり、容易に国内政治問題になった。国際的な場においても特別な扱いを受けている。GATTでも輸入制限措置/輸出補助金が許容されている。
・86年ウルグアイ・ラウンドが始まりますが、農産品貿易の規律が必要との認識から、関税/非関税措置の国境措置だけでなく、国内助成/輸出補助金についても交渉する。93年ウルグアイ・ラウンドは関税の引下げ、国内助成/輸出補助金の削減で合意する。
・OECDではウルグアイ・ラウンド以前から農業委員会/貿易委員会が農産品貿易について取り組んでいた。87年報告書が提出される。これは、①農業の特殊性を考慮し、農業保護を漸進的に縮小し、②農業政策立案者の一助となる政策・措置を検討し、③世界農業市場の機能を改善する最適な方法を分析した。またこの報告書で補助のレベルを指標化する「生産者補助金相当額」「消費者補助金相当額」が掲示された。貿易委員会はこの指標を利用し、毎年閣僚理事会にモニタリング結果を報告する。
・92年農業大臣会合/94年ハイレベル会合で、構造調整と環境/農村地域開発が重要とされた。
・98年農業大臣会合では、農業改革の共通の目標が確認され、ウルグアイ・ラウンド農業協定への支持や、以下の農業政策の原則が採択された。※大幅に省略化。
①ウルグアイ・ラウンド農業協定第20条への支持。さらなる交渉の約束。市場シグナルに敏感に反応するための国内的・国際的な改革目標。
②追加的な貿易障壁/新たな貿易課題/輸出制限・輸出信用供与などの規律に取り組む。
③96年世界食糧サミット宣言などを通じて、食糧安全保障を強化する
④農業生産者の市場反応性を助長する政策を促進する。※農業の自由化・グローバル化だな。
⑤農業の構造改革を条件不利地域を考慮し促進する。
⑥労働力の自由化/市場機会の創出/土地の他用途利用/農村生活の改善などの政策で農村経済に貢献する。
⑦環境に良い農業を推進する。
⑧食品安全規制の改善/原産地・品質に関する基準の強化/消費者への情報提供の改善などで消費者に考慮する。
⑨公的・民間による研究開発/知的所有権の尊重/公共インフラストラクチャー・情報・助言・訓練の改善により、農業システムを革新し、経時的効率性・持続性を向上させる。
⑩地域的な不均衡と闘い、自然資源の持続性を管理し、多様な農業の役割を維持・強化する。
・OECDは農業と環境/食品の安全性を重視している。そのため「農業環境指数」の開発に着手している。また日本では、狂牛病/環境ホルモン/ダイオキシン/遺伝子組替作物などが注目され、これらの安全性が議論されるだろう。
○教育
・教育は競争力の強化や失業への対応に深く関わる経済・社会問題である。OECDは67年「教育研究革新センター」(CERI)、70年「教育委員会」を設立した。前者は専門研究家による研究の調整の場で、後者は政府間の政策の調整の場である。
・近年最も注目されているのが「生涯教育」である。これは情報化・グローバル化・高齢化などの急激な状況変化に対する適応力を高めるための知識・技術の習得である。また全ての年齢層への教育体制を意味する。
・OECDでは「教育委員会」「雇用・労働・社会問題委員会」に対応する「教育・雇用・労働・社会問題局」を設置している。各フォーラムに、初等教育/高等教育/学校から職業への移行のテーマ別にグループが置かれている。
・OECDでは教育での指標になる「国際教育インディケーター」を開発しており、生徒の学習到達度を示すPISAを開発した。また高等教育に関し、国の役割/財政/大学の在り方なども議論されている。日本は進学率は高いが、厳しい財政の中でグローバル化に対応する必要があり、これにOECDの出版物が参考になっている。
・OECDでは毎年教育大臣会合を開いている。また各フォーラムの出版物は重要で、教育統計となる「目で見る教育統計インディケーター」や、教育政策を精査した「教育政策分析」は高く評価される。※OECDが作成した資料や指標は度々見る。
・高度経済成長を遂げた日本の教育は注目されている。他方日本は高齢化などの問題があり、OECDの教育分野での活動は重要となる。
第5章 冷戦終了後の世界への対応
・これまではOECDの設立や活動について述べた。最終章では課題と将来について述べる。
<国際情勢と世界経済の根本的変化>
・80年代末までOECDは市場経済体制で民主主義の「西側」と、開発途上国を援助する先進国である「北側」を軸としていた。しかし冷戦の終了で「東西」の視点は消滅し、旧ソ連構成国や中東欧諸国の市場経済への移行を支援した。さらに開発途上国に豊かな産油国が出現したり、東アジア/東南アジア/中南米で工業化に成功する新興国が現れ、単純な「南北」ではなくなった。
・冷戦終了後のOECD加盟国の経済・社会状況も様々である。米国は順調に経済成長しているが、「バブル化」と批判されている。欧州の失業問題は継続しているが、共通通貨ユーロは順調で、欧州連合(EU)の深化・拡大は進んでいる。一方日本はバブル崩壊後、不況に陥っている。
・世界経済のグローバリゼーションは進み、財・サービス・資本・労働・技術・情報は世界を伝播するようになった。これらの変化はOECDにどう影響したのか。
○冷戦終焉の影響
・第1の影響は冷戦終焉である。OECDは西側の立場に立った機構である。しかし冷戦の終焉で活動内容が変化し、新規加盟の問題が生じた。
・それまでは西側諸国の調整が主な任務だったが、旧社会主義国の市場経済体制への移行の任務が加わった。しかしこれは容易ではなく、人的・予算的に相当の負担になった。
・新規加盟では、体制の移行が順調なチェコ/ハンガリー/ポーランドの加盟を認めた。しかし他の旧社会主義国の加盟には慎重である。またロシアに関しては、加盟に必要な諸条件を満たす事はないだろう。
○非加盟国の影響力
・第2の影響は非加盟国の影響力の増大である。メキシコ/韓国の加盟を認めたが、中国/インド/ブラジルなどは加盟していない。これらの諸国との対話を深め、またこれらの諸国の分析を進める必要がある。加盟には慎重だが、一部委員会への参加は柔軟に行われている。
○EU統合と米州での地域経済統合
・第3の影響は、EU/米州での統合の進展である。EUのユーロ導入などの深化は、OECDの新たな作業になる。98年EUは第1グループ6ヵ国の加盟交渉を始めた。さらに第2グループ6ヵ国の加盟交渉を始めるだろう。OECD加盟国29ヵ国中22ヵ国が欧州の国で、OECDの欧州色は強まるだろうが、OECDはあくまでもグローバルな機関である。この動きを抑えるのが日本の役目になる。
・米州でも共同市場/自由貿易地域への動きがある。94年北米で、米国/カナダ/メキシコが「北米自由貿易協定」(NAFTA)を発効させた。91年中南米で、アルゼンチン/ブラジル/パラグアイ/ウルグアイが「南米南部共同市場」(MERCOSUR)を発足させた。これにより97年までに域内貿易が4倍に拡大した。
・豪州/ニュージーランドは82年「関係緊密化協定」(CER)を締結した。従って日本/韓国だけが自由貿易地域に入っていない(APECは自由貿易地域ではない)。
○グローバリゼーションの拡大
・第4の影響はグローバリゼーションの進展である。これはモノ・カネ・ヒト・情報が自由に移動し、経済効率を高めるシステムである。これにより問題が起こるが、これを解決する最良の機構がOECDである。
・ところがMAI(多数国間投資協定)交渉で触れたように、市民はインターネットにより結束し、「市民社会」を作り出した。OECDとしては、彼らとどう付き合っていくかが大きな課題である。また米英はより自由な経済活動を目指すだろうが、欧州もそれを求めるが、弱者への「セーフティー・ネット」が重要であるとする中道左派思想を貫くだろう。
○99年OECD閣僚理事会
・99年5月閣僚理事会が開かれた。この成果について述べたい。第1は日本経済に関する議論である。各国は日本経済の回復を期待するが、補正予算を組んで欲しいとまでは要求しなかった。
・第2は、11月に開かれるWTOの新たなラウンド交渉である。各国がこの重要性を認識し、開発途上国/移行国の参加の必要性を指摘している。開発途上国はこれ以上の自由化は困難と感じ、先進国もこれへの優先度は様々だが、3年で交渉を纏めるとの方針は意義がある。
・第3はOECDは政治問題は対象にしていないが、コソヴォ紛争後の復興を取り上げた点である。OECDは世銀/EUと協議し、知的助言を与えるだろうし、これに適した機構である。
・第4は官僚理事会直前、重要な6ヵ国(ロシア、中国、インド、インドネシア、ブラジル、アルゼンチン)とスロバキアと特別対話した点である。今後加盟国は増えるだろうが、「OECD文化」を壊すべきでない。ただし特定の委員会/分野への参加は認めるべきだ。一方貿易に関してはWTOに譲るが、少子高齢化/人口減少などの先進国特有の問題については加盟国のみで議論すべきだ。OECDの特色は先取性にあるので、IMFより広範囲の分野で総計を作成し、分析すべきだ。
<OECDの課題と日本のOECDの活用>
・国際情勢の変化に対しOECDはどの方向に進み、日本はOECDをどう活用すべきだろうか。ここで重要なのが、①今後OECDが取り組むべき課題、②OECDの組織改革、③日本の利益は何かである。
○OECDに求められる活動
・OECDの活動範囲は広範囲である。しかし限られた資金で最大の効果を得るには、以下の2点が重要である。第1は経済分析と政策提言機能の強化である。これはOECDの中核的な機能だが、分野を拡大した事で、相対的に貢献度が低下したと思う。97年アジア経済危機や98年ロシア経済危機/中南米経済危機で、世銀/IMFの存在感はあったが、OECDはなかった。OECDはロシア/インドネシアなどの非加盟国経済の分析を行う事が重要課題である。
・また加盟国のマクロ・ミクロ経済政策の協調は重視されてきた。日本は長期不況により、税制/競争政策/消費者政策(?)などの構造改革に取り組んでいるが、OECDが唯一の政策協調の場である。OECDは日本の需給ギャップ/不良債権に警鐘を鳴らしてきた。これに耳を傾けなかったと反省する必要がある。
・第2はグローバル化に伴う新たな課題への対応である。電子商取引/コーポレート・ガバナンスなどの新たな課題が発生しているが、これらの調整能力は不可欠である。またMAI交渉で見られたように、「市民社会」との関係も検討すべきである。政府と民間団体との情報・意見交換が重要になる。経団連には「経済産業諮問委員会」(BIAC)、連合には「労働組合諮問委員会」(TUAC)がある。※OECDがグローバリゼーション推進団体なので、影が薄くなったのかな。
○OECDの改革
・OECDも拡大し、肥大化・硬直化した。そのため限りある資源を活用するための組織改革が重要である。まずは財源の安定化と活動の順位付けが必要である。財源の大半は分担金で、米国が25%、日本が23.6%を負担している。この分担率の検討が必要である。また活動の順位付けも必要で、OECDが重視すべき分野に人員・予算を重点的に配分すべきだ。しかし総論賛成・各論反対で進んでいない。
・次に必要なのが意思決定方式の見直しである。OECDはクラブ的でコンセンサス方式で決定している。そのため一部の反対で活動の整理・統合ができなくなる。加盟国が増えると、増々困難になる。そのため一部の組織は多数決方式に変えるべきだ。
・日本が発言力を強めるには、日本人職員の増強が必要である。OECDの職員は2千名で、その内700名が専門家である。この中に日本人は41名しかいない(※たった2%)。欧州中心主義になりがちなので、日本人職員の増強が必要である。そのため中長期で人材を育成し、予備軍を育てるべきだ。また委員会の議長ポストを積極的に取りにいくべきだ。
○非加盟国との関係
・先進国の役割が漸減している。当初は米国の経済規模が50%あったが、今は25%しかない。米国も内向的になり、自身の利害に関係する問題(例えば贈賄防止条約)には真剣に取り組むが、それ以外の問題への熱意が感じられない。一方EU諸国も自身の統合の問題を優先している。
・この両者の間に立てるのが日本である。さらに日本はOECDと中国/東南アジアとの関係も考慮しなけれならない。中国/インドネシアは世界経済に影響を及ぼす国になった。OECDはこれらの国の経済分析も積極的に行うべきだ。※OECDや他国が分析するのは困難では。
<OECDの将来>
・米国は内向的になり、議員から「国際機構への予算・職員を減らし、分担金の増大も認めない」との発言もあった。また自国の利益(特定大企業/ウォール・ストリートの短期的な損益勘定)に関係する問題には積極的に参加するが、それ以外の問題への熱意が見られない。これは「つまみ食い」と表現できる。
・ODA分野では、「開発援助グループ」(DAG)/開発援助委員会(DAC)を創設した頃の米国の熱意は凄いものだった。DAG/DACの議長は米国が占め、パリに公邸を設けていた。OECD代表部大使も、かつては優れた人物が着任していた。米国が「つまみ食い」になり、EU諸国が自身の拡大・深化に精力を傾けるようになり、日本の責任は重大である。
※OECDの存在感が低下した原因は、①OECDの加盟国が限定されている、②OECDに法的強制力がない、③米国の存在が相対的に縮小し、思想・主張の重みも減少した、④WTOなどの専門的な機関が立ち上がったかな。
・OECDが存在感を高めるためには、広報予算も増やす必要がある。特に重要なのが事務総長の活動である。例えば「韓国は加盟時、思い切った自由化をした」「韓国は外国人投資の環境を整備した」「韓国は通貨・金融危機後も、外国人投資に積極的に取り組んでいる」「韓国の外国人投資は98年過去最大の88億ドルになった」「韓国は00年にも危機を完全に克服する」などを事務総長が世界に語れば、OECDへの関心・知識は増大する。
<あとがき>
・日本は64年OECDに加盟して以来、政策調整に努めた。これにより大きな利益をもたらした。またOECDでの日本の地位も向上した。
・OECDが作成した報告書・統計は、国会での立法/省庁での政策立案/大学・研究機関での研究などに欠かせないものになった。OECDは経済・社会問題に取り組む「世界最大のシンクタンク」である。OECDには700名の専門家が常勤しているが、他に加盟国から毎年2万人が出張している。彼らが会合し議論・検討するだけでなく、その成果が本国に持ち帰られ、そこでも議論され、次の会合に備えられる。その結果が、出版物・書籍・冊子・CD-ROMになる。これが「世界最大のシンクタンク」と形容される理由である。