『令和をダメにする18人の亡国政治家』乾正人(2019年)を読書。
著者は30年間政治記者を務め、その経験から政治家を評価している。
イデオロギー色が強いが、政治の流れが良く分かる。
平成衰退の主犯を、小沢一郎/河野洋平としている。また自身が属したメディアも批判している。
内政だけでなく中国との外交や、安倍前首相についも詳しい。
お勧め度:☆☆
内容:☆☆(簡潔で読み易い)
キーワード:<はじめに>ハマコー、平成、<プロローグ なぜ平成で敗北したか>中国/米国、<平成日本を敗北に導いた大戦犯・小沢一郎>金権政治、田中角栄、55年体制、自自連立、民主党、竹下登、皇民党事件、東京佐川急便事件、海部俊樹、小沢面接、宮澤喜一、<バブルのような政治家>河野洋平、選挙制度、村山談話、河野談話、鳩山由紀夫、友愛、菅直人、東日本大震災、小池百合子、ガラスの天井、<巨悪中国を作った戦犯>天安門事件、平成天皇訪中、中国利権、二階俊博、<安倍一強の功罪>第1次内閣、消えた年金、第2次内閣、アベノミクス、外交、消費増税、戦後レジーム/憲法改正、<政治不信を加速させたメディア>小泉チルドレン/魔の2回生、選挙制度改革、丸山穂高、メディア、<平成日本を脱却する令和に>歴史観、少子高齢化
<はじめに>
・30年前私(※著者)は海部首相の番記者だった。ある日記事を書いていたが、デスクのOKが中々出ない。午後10時ようやく解放され、外堀通りの赤坂ラーメンに入った。そこに黒づくめの男が入ってきた。
・政治部記者になると、まず首相番をやる。首相の公的ストーカーである。首相が誰と会ったかが分かれば、それぞれ平河クラブ(自民党担当)/財界クラブ/霞クラブ(外交担当)に電話を入れる。そのため首相官邸1階の黒電話は奪い合いになった。※緑ではなく黒なんだ。
・話を赤坂ラーメンに戻す。私はラーメン屋で「早く自民党担当になり、料亭で・・」などと考えていた。するとその男は「悪い政治家や先輩と蔓まず、読者/日本のために頑張ってくれ」と私に声を掛け、そのまま出て行った。彼はハマコーだった。後日名刺を差し出し挨拶すると、「記者バッジを付けていたじゃないか。悩める若者を励ますのは大人の務め」と返された。
・彼は衆院予算委員長に任命されるが、「宮本顕治人殺し発言」でクビになる。暇になった彼は、赤坂パトロールをやり、政治家/記者の観察をしていたのだ。しかし1993年細川内閣誕生前に政界を引退する。その年『日本をダメにした9人の政治家』を出版する。これは現役の政治家を批判し、世間を驚かせた。
・その後日本は良くなったか。スケールの大きな政治家はいなくなった。30年前日本のGDPは世界の15%を占めていたが、6%にまで減少した。平成は「日本敗北の時代」となった。「皆頑張ったけど、どうしようもなかった」では済まされない。政治が悪いだけではない、それを蔓延らせたメディアも悪い。企業家/財務官僚/日銀/外交官も悪い。その主犯である永田町を見てきた私が、罪滅ぼしで本書を書いた。
<プロローグ なぜ平成で敗北したか>
・私は平成最後の元旦(2019年)に、「さらば、敗北の時代よ」と題する以下の記事を書いた。
平成は敗北の時代だった。昨年末ある財界人が「平成は”平”和で、”成”熟した時代だった。しかし数字は日本の敗北を示している。平成元年日本のGDPは15%を占め、ジャパン・アズ・ナンバーワンで、米国の背中も見えた。しかし米国は日米構造協議で日本に圧力を掛け、ITで復活し世界GDP25%を維持している。30年前時価総額上位50社に日本企業が32社あったが、今はトヨタしかない」と述べた。
○最大の敗因は?
・その財界人は「危機感の欠如」としたが、私は「高度経済成長で慢心した」「首相が18人出るなど、政治が混迷した」「中国共産党体制を支援した」を敗因と考える(※書名の18人は、平成の首相の事かな)。特に3つ目は重大で、天安門事件後海部内閣はいち早く円借款を再開し、宮沢内閣は天皇訪中を実現させた。この対応が、中国を世界2位の大国に育てた。
○トランプで良かった
・3年前トランプが当選し、私は「トランプでいいじゃないか」との記事を書いたが、今は「トランプで良かった」に変わっている。彼は自身の激情を速やかにツイートし、米国の本音を知る事ができる。彼は安倍首相に「俺を取るか、習近平を取るか」と迫るだろう。日米安保で思考停止していた時代は終わる。その時日本人は厳しい選択を迫られる。
・以上の元旦に書いた記事は反響を呼んだ。財界人は経済同友会代表幹事の小林氏である。その反響の中に、「平成敗北の責任は、昭和世代にある」もあった。本書は平成敗北の要因を突き詰める。
<第1章 平成日本を敗北に導いた大戦犯・小沢一郎>
○国民に政治不信を植え付けた張本人
・私は最大の戦犯を小沢一郎と思っている。彼は1969年岩手2区で当選し、以降半世紀議員を務めている。しかし「昭和の政治」と云うべき金権政治を引きずっている。彼の経歴を正しく言えるメディア人はいないと思う。それ程彼の経歴は紆余曲折している。
・その最新状況が2019年1月の国民民主党との合流で、国民民主党57人と自由党6人の合流です。大義名分は安倍独裁への対抗ですが、国民民主党のリーダー不在がある。
○大変節を恥じない
・小沢の狙いは国民民主党が民進党から引き継いだ100億円超える政治資金です。このカネで政権交代を狙っているのです。田中角栄の政治の源はカネで、それと表裏一体なのが「情」です。
・国民民主党との合流で、小沢構想の第1段階はなされたが、待ったを掛けたのが立憲民主党の枝野幸男/岡田克也/安住淳などで、彼らは国民民主党議員の引き剝がしを始めます。小沢は「人間性」から、多くの側近・部下から裏切られています。中西啓介/中村喜四郎/小池百合子/船田元/二階俊博などです。
・彼は政治理念に一貫性がなく、考え方が180度変わっても恥じません。1993年『日本改造計画』を執筆しています。当時は憲法改正を主張していたのに、今では護憲派に変わっています。原発でも一時反原発を唱えていたのに、今は拘らなくなっています。彼に政治理念はないのです。
○権力争いの渦中に必ずいた
・小沢は田中角栄の薫陶を受けました。田中派は膨張し、生え抜きの竹下登らと、外様の二階堂進らが対立します。その後非自民細川内閣の誕生や民主党への政権交代などがあったが、全てに彼が関係しています。
・1976年2月ロッキード事件が発覚します。この復讐に燃えた田中派は、国会議員140人の最大派閥になります(※発覚後に勢力を増した?)。田中派には幹部の二階堂進/金丸信/竹下登や、7奉行の梶山清六/橋本龍太郎/小渕恵三/羽田孜/渡部恒三/奥田敬和/小沢一郎や、野中広務/綿貫民輔などがいました。
・1983年10月田中は1審で懲役4年/追徴金5億円の判決を受けますが、控訴します。翌11月「田中判決解散」し、自民党は大敗します(※中曽根内閣だな)。翌年10月総裁選で田中派は分裂します。田中は中曽根再選を支持しますが、田中派会長二階堂を擁立する構想が起こったのです。その翌年2月竹下を中心とした「創政会」が設立され、同月末田中は脳梗塞で倒れます。
・1986年7月田中派の大半が参加し、竹下を中心とする「経世会」が設立されます。二階堂は木曜くクラブに残り、田中派は分裂します(※生え抜きが去り、外様が残ったのか)。この時小沢も田中を裏切り、経世会に参加します。11月自民党総裁選で竹下が勝利しますが、彼はそれに奔走し、竹下内閣で内閣官房副長官に抜擢されます。このポストは首相への登竜門とされるポストです。しかし竹下内閣も「リクルート事件」で倒れます。
・しかし彼の快進撃は止まらず、海部俊樹内閣(1989年8月~1991年11月)で47歳で自民党幹事長に就きます。1990年衆院選では「神輿は軽くてパーがいい」と言ったとされます。1991年10月ポスト海部の一番手に挙げられるが、健康を理由に固辞します。一方総裁候補を事務所に呼び、宮沢喜一を選びます(小沢面接)。
・もしここで彼が首相になっていれば、経世会による「権力による2重支配」(※説明が欲しい。派閥政治の事かな)や「政治改革」の混乱は和らいでいたと思います。彼の旬はこの時で、以降混迷のタネになります。
・その後彼が中心になり、羽田孜/渡部恒三/奥田敬和が「改革フォーラム21」(羽田派)を立ち上げ、竹下派も分裂します。1993年6月羽田派は自民党を離党し、新生党を結成します。翌月の総選挙で55議席を獲得し、連立工作の中心になります。新生党/日本新党(細川護熙)/さきがけ(武村正義)などによる8党派による細川内閣が誕生し、自民党単独政権を終わらせます。
○小渕を殺したのは小沢
・細川首相は消費税に替わる「国民福祉税」を突然発表し、武村/小沢との関係が悪化し、首相を辞任します。そこで羽田が首相に就くが、戦後2番目に最短(64日)の内閣になります。小沢は自民党から海部を離党させ首相候補とするが、自民党/社会党が擁立した村山富市に敗れ、彼は初めて野党に転じます。
・1994年9月共産党を除く野党による新党結成が始まり、12月海部を党首とする「新進党」が結成され、彼は党幹事長に就く。2大政党制を目指すものだったが、内輪もめが続きます。1998年1月小沢批判から、彼は自由党を結成します。世間は「小沢は終わった」と見たが、翌年1月小渕恵三内閣で連立を組み、世間を驚かせます。しかし10月公明党が連立に加わり、彼の影響力は低下します。2000年4月彼は小渕と話し、連立を離脱します。これについて彼は多くを語っていません。翌日小渕は脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人になります。
○それでも蘇った小沢
・その後「自民党をぶっ壊す」と殴り込みを掛けた小泉純一郎が首相になり、小沢の出る幕はなくなる。2003年9月小泉人気に危機感を感じた民主党・菅直人は小沢率いる自由党と合併します。11月総選挙で40議席増やし、177議席になる。2006年4月小沢は民主党代表に就く。7月参院選で勝利し、「衆参ねじれ」となります。
・次の総選挙で民主党が勝利し、小沢が首相に就くと思われていたが、2009年3月「西松建設事件」が起き、公設秘書が逮捕されます。8月総選挙で民主党は大勝し、鳩山由紀夫内閣が誕生します。小沢は党の中心人物だったが、代表選で菅直人/野田佳彦に敗れます。
・2011年1月私は産経新聞に以下の記事を書いています。※大幅に省略。
小沢は虚飾に彩られている。それは彼が首相になっていないからだ。しかし彼が首相になると、この神話は消える。彼は自己正当化のため嘘を付く。彼は「旧体制を変えようとする者は、既得権を奪う者として叩かれる」と、「政治とカネ」の問題をすり替える。
・2012年彼は民主党を出て、「国民の生活が第一」党を創設するが、往年の力は失います。その彼に国民民主党・玉木雄一郎がすがるのは驚きです。
○政界を覆い続けた田中角栄の怨念
・平成の前中期は、田中角栄の怨念が政界を覆い尽くしていた。特に注目したいのが、田中を裏切って派閥を立ち上げた竹下登である。しかし彼の予期しない形で「皇民党事件」が起こる。
・1987年中曽根康弘の後継を、宮澤喜一/安倍晋太郎/竹下が争っていた。皇民党が「日本一金儲けが上手い竹下を総理にしよう」と褒め殺しを始めます。5月21日総裁選の決起集会が行われるが、増々激しくなる。この街宣活動を止めさせようと浜田幸一(ハマコー)が稲川会に向かうが、相手にされなかった。
・焦った金丸信/小沢一郎は、東京佐川急便の渡辺広康社長に仲介を依頼した。渡辺社長と稲川会会長との話し合いで、「竹下が田中邸に謝罪に行けば、街宣活動を止める」と決着します。ところが竹下は田中邸で眞紀子に門前払いされ、これが全国に放映されます。しかしこれにより街宣活動は止まります。
・平成政治の混乱の源流はこの事件です。ハマコーは『日本をダメにした9人の政治家』で、「この事件は1人の政治家への単純な嫌がらせではない。竹下が狼狽したのは、もっと深い所に彼が関与していたからだ」と書いている。平和相互銀行事件もその全容は解明されていない。
○東京佐川急便事件で時代が変わる
・東京佐川急便事件で金丸への5億円のヤミ献金が発覚し、1992年10月彼は議員辞職します。この事件は政権交代を起こさせた原因であり、ロッキード事件/リクルート事件を凌駕する事件です。※中曽根内閣を竹下内閣(1987年11月~89年6月)が継いでいる。
・東京佐川急便は皇民党事件で稲川会に借りを作り、総額5200億円を稲川会系企業に融資/債務保証し、大半が回収不能になっていた。1992年2月東京地検は渡辺社長を特別背任罪で起訴し、5億円のヤミ献金を受け取った金丸副総裁を政治資金規正法で起訴します。
・竹下内閣の誕生に暴力団が関与し、さらに東京佐川急便事件で金丸がヤミ献金を受け取った事で、竹下は責任を問われますが、議員辞職を拒みます。しかし竹下派の支配は揺らぎます。1993年6月羽田孜/渡部恒三/奥田敬和/小沢一郎は自民党を離党し、8月細川連立内閣が誕生します。
○竹下の罪深さは、傀儡政権を作った事
・田中角栄はロッキード事件を期に自民党を離党しますが、田中派を通じて政界に影響力を与え、大平内閣/鈴木内閣/中曽根内閣を誕生させ、「闇将軍」と呼ばれます。竹下も同様に首相退陣後、宇野/海部/宮沢の傀儡政権を作ります。その後の村山内閣/橋本内閣/小渕内閣の誕生にも関係しています。
・私が政治部に配属されたのが1989年6月で、竹下内閣が総辞職し、宇野宗佑内閣が誕生します。しかしその宇野内閣は女性問題で69日間で退陣します。この内閣が傀儡である事は新人にも分かり、人事は金丸、政策は竹下が決めていました。
・次に海部俊樹内閣が誕生するが、これも傀儡でした。彼は早朝に起きると、新聞の政治面/経済面を隈なく読み、知らない事があると首相秘書官に確認していた。それは竹下/金丸からの問い合わせに答えるためでした。彼は弁が立ち、1990年の総選挙では自民党が勝利します。1991年10月三塚博/渡辺美智雄/宮沢喜一の海部降ろしが活発化し、彼は衆院解散を決めるが、金丸に反対されます。これは「総選挙で大勝すると、海部内閣が経世会離れする」と小沢が考えたからとされています。※翌月海部内閣は総辞職している。
○ミッチー首相を潰した金丸夫人
・海部内閣が倒れると、前代未聞の事が起こる。経世会の代表代行だった小沢が、総裁候補3人(宮澤喜一、三塚博、渡辺美智雄)を事務所に呼んで、経世会が推す候補を決めたのです(小沢面接)。
・最終的に宮沢が選ばれるが、ミッチー首相の可能性もあった。小沢/竹下/金丸が経世会に距離を置く宮沢ではなく、ミッチーで了承していました。ところが金丸がそれを悦子夫人に漏らし、彼女は猛反対し、宮沢に変わったらしいのです。※第14代将軍を決めた大奥みたいだな。
○宮沢に首相は不向き
・宮沢も平成衰退の戦犯の1人です。宮沢内閣も宇野/海部に続く竹下派の傀儡政権でした。彼は東京帝国大学の出身で、大蔵省のエリート官僚から池田勇人の秘書官になり、政界に転じています。そのため彼は保守本流の宏池会のプライドがあった。
・彼の功績に「PKO協力法」の成立がある(1991年11月成立、1992年6月公布)。同法は1990年海部内閣の時、自衛隊をペルシャ湾に派遣するため提出されたが廃案になっている。
・彼の最大の罪科は、バブル崩壊後の処理の誤りです。1992年夏、彼は銀行への公的資金投入を発言するが、財界の反対で流れます。この時公的資金が投入されていれば、「失われた20年」はなかった。彼は問題を的確に指摘できる評論家だったが、政治家ではなかった。
・彼のもう一つの罪科は、天皇訪中です。彼が中国を訪れた時、江沢民から天皇訪中を要請されたが、回答しなかった。しかし中国にパイプを持つ竹下派の金丸に叱責され、これが決まった。1993年衆院選で敗れ、さきがけなどと連立すれば政権を維持できたが、退陣します。
○政治を変えた政党助成法
・政権が長く続くほど腐敗が起きます。この腐敗により政治不信になり、軍部が台頭し、戦争に突入したのです。1948年「政治資金規正法」が成立し、腐敗防止の形はできたが、腐敗は続きます。画期となったのが、1974年立花隆『田中角栄研究~その金脈と人脈』です。※同書は昔読んだ。土地登記などを詳しく調べていた。
・1994年4月細川護熙内閣で、「政治家個人への政治献金は1つの資金管理団体に限定する」「政治資金収支報告の義務化」などが改正されます。同時に「政党助成法」が制定され、政治の在り方が大きく変わります。さらに1999年12月政治資金規正法は「企業団体から政治家個人への献金」を禁止します。
・政治資金規正法が行き届かなかった時代は、企業団体からの献金が潤沢で、「権力=カネ」「清濁併せ呑む」が常識でした。ところが政党助成法により、政治家は「政党助成金」(政党交付金)を当てにするようになり、政党の体を成す事が重要になります。政党の条件は、「国会議員が5人以上」「国政選挙の得票数が2%以上」です。政党になると政党交付金を受け取れ、ポスターの枚数などの選挙活動も有利になります。
○それでも絶えない不祥事
・政治資金規正法/政党助成法により政治はクリーンになるはずでしたが、不倫騒動/金銭トラブル/暴言などが起こっています。中川郁子/門博文/武藤貴也/宮崎謙介/務台俊介/中川俊直/大西英夫/豊田真由子などは「魔の2回生」と呼ばれます。これは派閥が若手議員を教育しなくなった事によります。※政治家も官僚も劣化となると、日本はお終いだな。
・「政治活動費」は、組織活動費(交際費など)/選挙関係費(公認推薦料など)/パーティー開催事業費などが含まれます。この支払いが5万円以上だと領収証の添付が必要になります。これがいい加減で、ベビー用品/化粧品/服飾品など購入し、経産相を辞任したのが小渕優子です。地方では舛添要一・都知事や野々村竜太郎・兵庫県議会議員などの事例があります。
○世襲政党になった自民党
・自民党には2世・3世議員が多く、安倍晋太郎・晋三/麻生太郎/小泉純一郎・進次郎/福田赳夫・康夫/石原慎太郎/河野洋平・太郎など切りがありません。これは小選挙区制が新規参入を妨げているからです。世襲候補は代々の票田を受け継ぐ事ができます。有権者も新人より既知の名前に投票します。政党にしても議員を1から育てるより、近親者を育てる方が容易です。「弔い合戦」ほど有効な戦術はありません。そのため「風」によって当選する「非世襲議員」と「世襲議員」の二極化が進んでいます。
・2005年「郵政選挙」で、「小泉チルドレン」と呼ばれる83人の新人議員が当選します。しかし次の2009年衆院選の小選挙区で再選したのは、稲田朋美/赤沢亮正/小里泰弘の3人だけです(※これが小選挙区制の目的だから仕方ない)。この状況から世襲議員が増殖し、世襲家でないと首相になれなくなっています。
<第2章 バブルのような政治家>
○「平成の戦犯」西の横綱・河野洋平
・平成衰退の東の横綱が小沢一郎なら、西の横綱は河野洋平である。彼は新自由クラブを立ち上げたが、それを別にすると、宮沢喜一内閣での官房長官(1992年12月)から、森喜朗内閣での外務大臣(2001年4月)までと最盛期は短い。1993年7月~1995年9月は自民党総裁を務め、首相になるチャンスはあった。1994年6月羽田孜内閣の総辞職後と、1995年7月衆院選で社会党が敗北し、村山富市が辞意を漏らした時である。1995年9月の総裁選では、同じ宏池会の加藤紘一が経世会の橋本龍太郎を支持したため、出馬を断念している。
○雪降りしきる深夜の妥協
・彼の実績も切りがない。野党時代に政治改革が行われるが、細川護熙首相とのトップ会談で小選挙区比例代表並立制を呑んでいる。この会談は1994年1月28日夕刻に始まるが、合意できなければ若手議員が離党する状況だった。※小選挙区/比例代表区が250/250にならず、自民党有利になったとの話もある。
・並立制には問題がある。小選挙区制は死票を多く出すが安定政権を作り易い制度で、逆に比例代表制は政権を不安定にさせる制度で、並立制はそれを足し合わせた制度である。中選挙区制はカネが掛かるが、新規参入も可能で、同じ党でも競争原理が働く。選挙制度審議会は30年近く開かれていないが、国民的議論を始めるべきだ。
○北朝鮮に1200億円
・彼は村山/小渕/森内閣で外相を務めている。この外相時代に平成衰退の実績を積み重ねている。2000年には拉致被害者を差し置いて、北朝鮮に50万トンの米を差し出している。この時世界食糧計画(WFP)が各国に要請した総量は19.5万トンである。それなのに国交正常化は一歩も進まなかった。
○自社さ政権の汚点
・村山内閣は自虐史観の「戦後50年談話」(村山談話)を発表している。「我が国は国策を誤り、国民を危機に陥れ、多くの国に多大な損害と苦痛を与えた」(※大幅に省略)と総括している。首相官邸詰め記者だった私は、「国策を誤りとあるが、どの内閣のどの政策が誤りだったかを、明確に示して欲しい」と質問します。この談話は史実を検証した結果ではなく、首相の歴史認識に基づいた謝罪に過ぎなかった。河野はこの談話を「極めて貴重で政治的な宝」と自画自賛している。
○実に甘い
・日本外交で消し去れない傷となった談話がある。宮沢内閣総辞職(1993年8月9日)の5日前に出された慰安婦問題に関する「河野官房長官談話」である。この河野談話について解説する。昭和30年代まで売春を認めていた。戦地の慰安所で働く女性は家が貧しく、売られてきた婦女子だった。これを軍が強制的に行った証拠は全くない。
・これを問題に作り上げたのが朝日新聞である。1982年同社は吉田清治の「済州島で200人の女性を狩り出した」を記事にする。同社はその後もこの吉田証言を掲載し続けた。この吉田証言は世界に拡散し、慰安婦問題が事実になった。
・1991年元慰安婦が東京地裁に提訴し、さらに韓国政府も慰安婦問題の実態究明を日本政府に求めてきた。その時首相は優柔不断の宮沢で、官房長官・加藤紘一は「従軍慰安婦にお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と談話する。その官房長官を継いだのが河野で、「『解決済み』で門前払いしてはいけない。それでは国際社会が納得しない」との姿勢で臨む。※彼は婦人問題担当になっている。
・普通総辞職前に新しい課題に取り組まないのがエチケットである。しかも談話の内容が最悪である。軍による強制連行があった表現になっている。当然韓国側はそうと認識する。しかも元慰安婦の証言を検証していない。
・2014年予算委員会で当時の副官房長官・石原信雄が山田宏議員の質問に答えている(※質疑応答の内容が記されているが省略)。日本は韓国側の意向を尊重し、日韓関係が改善するのを望んだ。ヒアリングも韓国が選んだ16人に対し行った。この韓国に対する甘い考え方は宮沢/河野で一致していた。この甘い考え方は国際社会では通用しない。実際韓国は事ある毎に慰安婦問題を持ち出している。※河野の釈明も記しているが省略。
・連合国軍総司令部(GHQ)は「戦前の日本は全てが悪い」と指導し、朝日新聞/岩波書店がこれを日本人に刷り込ませた。その結果が河野談話である。また憲法の「諸国民の公正・信義を信頼し、我が国の安全・生存を保持する」(※簡略化)も甘い考え方で、この談話を後押しした。韓国は政権が替わる度に慰安婦問題を迫るようになった。この根源を作ったのが河野である。
○河野家3代の確執
・現行憲法を重視する姿勢は、終戦時に小中学生だった世代に強い。河野洋平はその昭和12年生まれである。彼の父一郎は党人派で、首相の座を争う実力者だった。そして物心両面で児玉誉士夫の支援を受け、反社会的勢力と関係が深い。
・父の急死を受け、1967年総選挙で議員になる。日本経済新聞の『私の履歴書』には「政治家になりたい気持ちと、なりたくない気持ちがあった」と記している。当初は河野派の後継・中曽根派に籍を置いていたが、保守色が強く改憲派になじめず、1976年離党し新自由クラブを結成する。
・彼は護憲派で、ちゃぶ台をひっくり返すタイプだが、息子太郎は護憲派に育たなかった。息子は英語が堪能で、日米安保重視派である。ポスト安倍の1人だが、父の影を払拭できるか。
○村山内閣総理大臣談話(村山談話)
※全文が記されているが省略
○慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(河野談話)
※全文が記されているが省略
○天は二物を与えなかった鳩山由紀夫
・平成衰退の横綱を紹介したが、大関陣も錚々たるメンバーである。民主党の鳩山由紀夫/菅直人は横綱に匹敵する。鳩山は「友愛」を絵に描いたような人物で、誰隔てなく付き合った。彼は東京大学工学部の卒業で、スタンフォード大学でも学んだ。そのまま学問の道を進んでいたら、ノーベル賞を受賞したかもしれない。弟は「総理大臣を目指す」と宣言していたが、彼も突然政治家に転換する。しかし政治家は彼の天職ではなく、今でも害毒を流し続けている。
○噴飯物の「命を守りたい」
・彼は演説が上手で、2009年衆院選前日の池袋西口での演説は聴衆を熱狂させた。同時刻の池袋東口での小池百合子を応援する麻生太郎の演説は、西口に及ばなかった。選挙結果の予想は世論調査で可能だが、街頭演説の反応でも分かる。これまでに何度も街頭演説を見てきたが、2005年の「郵政解散」は地鳴りのような拍手が起こった。この時期が鳩山の絶頂期だった。民主党は政権交代し、多くのメディアが絶賛した。当時私は政治部長で、『民主党解剖』を連載し、出版もし、そこそこ売れた。
・彼は「腐敗政治/官僚主導政治の打破」を信念にしていた。しかし民主党政権は序盤から躓いた。2010年1月施政方針演説で「命を守りたい」と述べたが、噴飯物である。翌年の東日本大震災では多くの命が失われた。
○見苦しい言動と自分勝手な振る舞い
・彼には確固たる国家観や現実的な安全保障観に欠けていた。彼は「友愛で接すれば、相手もそれで返す」と信じていた。普天間基地の移設問題がこじれた原因は、彼の「県外移設宣言」にある。沖縄県人は裏切られ、政治不信を一層強めた。
・彼の友愛精神は退任後に増々加速する。2015年戦前に朝鮮の独立運動家が収監されていたソウルの西大門刑務所跡地で、靴を脱ぎ跪き、謝罪している。彼はこうした行動を繰り返している(※元首相として色々行動しているみたいだが、メディアは全く取り上げていない)。「一帯一路・国際協力サミットフォーラム」に出席し、習近平を礼賛している(※戦中、日本も大東亜会議を開いている)。彼はIQが高いだけの、本物のバカである。
○中国漁船衝突事件で馬脚を現した菅直人
・鳩山内閣は9ヵ月で崩壊し、菅直人が小沢一郎を破り代表になる。しかし2010年9月中国漁船衝突事件が起き、馬脚を現す。この事件は、違法操業していた中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当りした事件である。しかし那覇地方検察庁は船長を釈放する。この超法規的措置は、中国からの報復を恐れた菅の指示による。
○最悪の福島第1原発視察
・その半年後、東日本大震災が起こる。彼は大津波による被害と福島第1原発の惨状に我を忘れ、迷走する。首相補佐官だった寺田学が、首相官邸の混乱振りを書き残している。東京電力の社長は東京不在で、原子力行政を担う保安庁の首脳は原発に無知だった。「イラ菅」と呼ばれる彼は、判断を誤り、見当違いの指示を連発する。
・最悪は震災発生翌朝の福島第1原発の視察である。この視察でやった事は、吉田所長への「なぜベントができないんだ」の怒鳴りだけだった。この重要な時に時間を無駄に使った罪は重い。彼は原子力の専門家を片っ端から集めたが、役に立たなかった。
○地震発生時、東電の会長/社長は東京不在
・地震発生時、東京電力の最高実力者である会長は中国を視察旅行していた。また社長も行く必要はないのに、平城京遷都1300年の記念行事に出席していた。彼は東京に戻ろうとしたが、新幹線も高速道も不通だった。そこで機転を利かせ、自衛隊の小牧基地から入間基地への輸送機に便乗させてもらう。ところが防衛相が「被災者優先」と激怒し、着陸前に小牧基地にUターンする(※引き返したので、便乗ではなく専用では)。そのため翌日の昼、車で東京に帰着した。
○失態を反省しない枝野幸男の罪も大関級
・官房長官の枝野幸男は、この防衛相の失態をかばった。さらに彼は、文部科学省が保有する放射性物質の拡散を予測する「SPEEDI」のデータを公表しなかった。「SPEEDIの存在は後で知った」と釈明したが、そんな事はない。SPEEDIは防災訓練で使用されており、多くの人がその存在を知っていた。
・また米国は地震発生直後から米軍の協力を申し入れていたが、官邸は米国にほとんど情報を知らせなかった。彼は立憲民主党の党首として息を吹き返したが、震災の初動を反省し、謝罪して欲しい。
○「ガラスの天井」を突き破れなかった小池百合子
・「平成の大戦犯」に女性はいない。しかし小池百合子は首相になり、「ガラスの天井」を打ち破るチャンスがあった。彼女の判断ミスがなければ、政界は大きく変わっていた。
○女性議員には「大戦犯」すらいない
・「ガラスの天井」とは、女性が社会進出しても、最後の一歩で男性優位社会に阻まれる事を指す。2016年ヒラリー・クリントンがトランプに敗れるが、その翌年日本でも同様の事が起こる。2017年9月北朝鮮のミサイル発射が強行される中、安倍首相と麻生財務省は衆院の解散・総選挙を決断する。自公が圧倒的に有利な状況だったが、彼女が「希望の党」を立ち上げ、状況が一変する。
・2016年彼女は都知事選で圧勝し、さらに翌年都議選で「都民ファースト」を立ち上げ、「小池旋風」を起こし、圧勝していた。彼女はこの衆院選で国政への進出を決断し、さらに「希望の党」と野党第1党・民進党との合流を決める。
・1992年7月参院選の時、福島県郡山市で日本新党の街頭演説が行われ、彼女は細川護熙の前座を務めた。その時多くの人が集まり、私は日本新党の躍進を確信した。その後彼女は細川から小沢さらに小泉純一郎と、タイプも政党も異なる権力者の側近になった。
○公明党は下野を覚悟した
・事態の急変で安倍首相は青くなった。しかし彼女は最後で2つの重大なミスをする。1つは「民進党の全員を受け入れるつもりはない」と発言したのだ。これは筋論としては間違っていない。民進党には彼女と憲法改正/安全保障で考え方が異なる議員がいた。しかし世間は「排除の論理」と解釈した。その「排除組」の枝野幸男は「立憲民主党」を立ち上げ、野党第1党を勝ち取る。※これが前回の衆院選。随分前に感じる。
・もう1つが小池自身の出馬断念である。彼女らは「都議選がホップ、今回の衆院選がステップ、次がジャンプ」と考えていたが、この衆院選が天下取りの最後のチャンスとなった。衆院選は政権選択選挙である。誰が首相候補になるか分からない党に、有権者は投票しない。
○野田聖子も小渕優子も
・彼女の挫折で「ガラスの天井」は増々高くなった。今後10年で女性首相は誕生しそうにない。まず女性の議員が少な過ぎる。衆議院の女性議員は47人で1割しかいない。これは世界193ヵ国中165位、G7では断トツの最下位である。しかも自民党に限れば22人しかいない。
・野田聖子は優秀だが、パートナー選びに問題がある。小渕優子は残念な首相候補となった。2014年「政治資金規正法違反事件」への対応が最悪だった。これはチンケ事件だが、対応の拙さで経産相を辞任する。
○「ガラスの天井」を破るには
・蓮舫は「ナンバー2ではダメなんですか」と揶揄されるだろう。福島瑞穂はスジが通っているが参院議員である。共産党に女性議員は多いが、不破哲三/志位和夫のラインが不変である。
・また二階俊博のように地方議員から国会議員にステップアップした「叩き上げ型」女性議員がいない。政治家は「幅広い知識・技術を持つ専門職」と考える。そのためには役人を納得させる人心掌握術が必要である。各党は政治家を地方議会から育てるプログラムを実践すべきだ。官僚/新聞社/アナウンサー出身などは、使えない議員が多い。
※橋下徹も同様の事を言っていた。「地方の首長は調整能力が重要」との本も読んだ。しかし票を取れるのは、優秀な政治家ではなく有名人で、変わりそうにない。
<第3章 巨悪中国を作った戦犯>
○中国に媚びる議員
・日本が衰退した原因の1つは、対中政策の失敗である。平成の初め、北京から上海まではディーゼル機関車が引く夜行列車で2日掛かっていた。ところが今は新幹線そっくりの高速鉄道で数時間で行ける。「中国経済が発展すれば日本はおこぼれをもらえ、民主化も進む」。日本はその甘い考えで覆われていた。政界も田中角栄の親中派が全盛だった。ソ連が崩壊し、世界でも「民主主義が勝った」と浮かれていた。
○独裁政権を誰が助けた
・1989年6月民主化を求める市民を虐殺する天安門事件が起こる。欧米諸国は中国に経済政策を科し、日本も円借款を中断する。ところが翌年には円借款を再開し、さらにその翌年には海部俊樹首相は訪中し、対中制裁は崩壊する。宮沢喜一内閣では天皇訪中も実現させる。この時経済制裁を続けていれば、「一帯一路」はなかった。その意味で海部/宮沢はA級戦犯である。
・しかし彼らは、竹下登/金丸信の「パペット」(操り人形)である。1992年秋、海部首相は政治改革法案を通そうとしたが廃案にされる。怒った彼は衆院解散を決断するが、金丸に拒否され、退陣する。話を天安門事件に戻すと、1990年7月彼は先進国首脳会議で「中国を孤立させてはいけない」と訴えている。
○能天気に「いずれ民主化」
・海部は「中国はいずれ民主化すると考えていた。李鵬首相に『20世紀でやるべき事は』と訊かれ、義務教育を説いた。これにより民主化に進むと考えていた」と述懐している。
・しかしこの後ろ盾は竹下だけでなく、米国もあった。ブッシュ政権は依然ソ連を恐れ、中国を味方に引き入れたかったのだ。またウォール街も中国を放したくなかった。実際事件17日後、ブッシュは鄧小平に親書を送り、北京に大統領補佐官を送っている。しかし議会の反対で米中交渉は頓挫する。
○仕組まれた平成天皇訪中
・米中交渉が失敗すると、中国は対日工作に出た。海部首相を訪中させ、対中包囲網突破の総仕上げを平成天皇訪中とした。そのため田中角栄の流れを組む竹下派の小沢一郎/橋本龍太郎などに、盛んにアプローチした。そのため「竹下事務所には人民解放軍の研修生がいる」と云われた。
・1992年10月平成天皇は訪中する。天皇は各地で大歓迎され、中国側から歴史問題などは表明されなかった。この訪中は対中制裁打破に作用した。宮沢首相は流れを引き継いだだけだが、その罪は重い。※今でも日本政府は親中派(東洋主義?)が支配している気がする。最近は習近平訪日の話があった。日米密約があるように、日中密約もあるのかな。
・中国は対中制裁は解除され、その後民主化なき経済発展を遂げる。江沢民政権(1989~2002年)は日本に感謝するどころか、各地に抗日戦争記念館を建設する。さらに日本軍を悪者にする「愛国ドラマ」を放送し、「愛国主義教育大綱」を作り、反日教育を強化している。そのため2000年以降反日デモが続発する。
○野中広務の妄言に驚く
・自民党幹事長を務めた野中広務も、中国に関しては目が曇っていた。2012年尖閣諸島が国有化された時、彼は中国に対し「こんな不幸な事件が起きるとは、申し訳ない」と謝罪している。さらに「若い人は歴史を知らず、対等な国としているが、間違っている」と述べている。※「日本は謝罪の意味で、中国を優遇すべき」の意味かな。韓国に対してはどうなんだろう。
・田中が訪中した頃は「バスに乗り遅れるな」で、中国に親しみを感じる人が8割いた。日本軍は中国本土で国民党軍と泥沼の戦いをしたため、戦中派には「迷惑を掛けた」の思いがある。当時の中国は貧しかったが、これは毛沢東の経済政策の失敗が原因である。心優しい日本人は、「日中戦争による」と信じている。
○習近平応援団となった二階幹事長
・「日中友好」は戦中派の贖罪意識から始まったが、今は政府開発援助(ODA)での利権の臭いがプンプンする。ODAで中国利権を得たい企業が、中国と関係が深い議員のパーティー券を大量に買う構図である。
・「遺棄化学兵器処理事業」はブラックボックスになった。この件で内閣府に電話しても、常に「担当者がいません」とされる。それで処理業者を訪問したが、胡散臭い会社だった。
・中国利権を竹下派が仕切っていたが、小沢が自民党を去り、橋本/小渕が亡くなった事で雲散霧消すると思われたが、二階俊博が自民党に戻り、シッカリ引き継いでいる。「安倍一強」と云われるが、彼は安倍首相でも気を遣う人物だ。
・2000年彼は「日中文化交流使節団」5200人を北京に送り込んでいる。習近平と会える数少ない人物でもある。彼が中国の軍拡や天安門事件に言及する事はない。苦言どころか、「一帯一路には最大限協力する」と述べている。「一帯一路」は中国企業を潤すだけで、途上国が借金を返せないと接収する「中華帝国主義」である。
・彼は行き場のない政治家を集め二階派を形成している。田中の「列島改造論」を「国土強靭化」と名を変え、進めているが、中国に対する目は曇っている。今の自民党は「二階一強」で、彼に諫言できる政治家はいない。
・ニクソン以降の米政権は「対中宥和策」を取っていた。これを反転させたのがトランプである。彼は民主化を待つ「関与政策」(?)から、「封じ込め政策」に転じた。
・かつて日本には首相/外相以外に外国の要人と渡り合える国際派の議員がいた。古井喜実/椎名悦三郎/椎名素夫/矢野哲朗などである。しかし外交は票にならないので、そんな議員がいなくなった。「青嵐会」の石原慎太郎/渡辺美智雄のような活きの良い若手議員がいなくなった。
<第4章 安倍一強の功罪>
○安倍晋三は戦犯か救世主か
・2019年6月安倍首相の任期は伊藤博文を抜き3位になり、8月佐藤栄作を抜き、11月には桂太郎を抜き、歴代1位になる。何れも山口県の大先輩だ。しかしこの「安倍一強」は、すんなり進んできた訳ではない。2006年9月彼は小泉純一郎の後継として内閣を発足させる。しかしこれは異例だった。
・以前は当選回数を重ね、自民党の部会長や衆院の委員長を務め、当選回数が5・6回になると大臣に就き、それから党三役や花形大臣(財務相、外務相)に就き、そこで初めて総裁候補として認知されていた。ところが竹下登がリクルート事件で失脚した頃から崩れ始め、小泉首相の登場で完全に過去のものになった。
・2003年幹事長・山崎拓にスキャンダルが出て、彼は幹事長に大抜擢されます。それまで内閣官房副長官を務めただけで、党の要職も務めた経験がなかった。小泉の「サプライ人事」だ。
・2006年9月彼は総裁選に立候補し、憲法改正/教育改革/財政健全化/構造改革の継続などを方針とし、圧勝する。小泉の靖国参拝で冷えた日中関係を改善するなど上々のスタートだったが、第1次内閣は1年しか持たなかった。「論功行賞内閣」「お友達内閣」と揶揄されるが、経験のなさが主因である。小泉改革で離党した議員を復党させたのも不興を買った。2007年5月年金問題も発生し、支持率は下がる。
○お友達内閣は思わぬ悲劇に
・2007年5月農林水産相・松岡利勝が自殺します。資金管理団体が家賃・水道光熱費などを政治資金収支報告書に正しく計上しておらず、国会で追求されていたのです。彼は叩き上げの政治家で資金集めに苦労し、「身体検査」に甘さがあったのです。他に後任の赤城徳彦、防衛相・久間章生も辞任しています。
○唐突だった幕切れ
・農水相自殺の前に社会保険庁の年金の杜撰な管理が発覚していた。自民党総務会などで「安倍降ろし」が起きるが、小泉前首相/麻生外相の反対で鎮静化する。
・2007年7月参院選で惨敗し、民主党が参院の第1党になる。しかし安倍は続投を表明します。しかし9月衆院での代表質問の前日、首相辞任を表明する。余りにも唐突だったが、健康問題が理由だった。55年体制以降首相に再任した人はいないので、私は彼を「政治的死者」として記事を書いた。
・「衆参ねじれ」になり、与野党が対立する法案は通らなくなり、国政は停滞する。2009年衆院選で民主党が大勝し、政権交代が起こる。これにより「悪夢のような民主党政権」が始まる。これを起こさせた彼は「戦犯」と云えるが、その後「救世主」として復活する。
○救世主となる
・第1次安倍内閣後、短命な内閣が続く。誰も彼の復活を考えていなかったが、彼は山梨県の別荘に学者/ジャーナリスト/経営者などを呼び、勉強を重ねた。特にリフレ派の元日銀副総裁・岩田規久男などから学び、「アベノミクス」に繋がる。彼は打たれて強くなったのだ。
・野田佳彦首相が衆院解散を宣言した時は日経平均株価は8千円台、円相場も80円を割っていたが、今は株価は2万円を越え、円安に転じ、失業率も低下している。彼は「救世主」になった。しかし長期政権になると、役人も政治家も上に忖度するようになる。これは2001年「1府21省庁」から「1府12省庁」に再編され、官僚の首脳人事を官邸が握るようになった事による。
○令和も救世主でいられるか
・安倍内閣のこれまでを振り返ると、「アベノミクス」の成功が大きい。黒田東彦・日銀総裁による「第1の矢」(異次元の量的金融緩和)により、日経平均株価は一気に1.7万円台に上昇した(※今は質的/金利操作が加わり、3万円台)。しかし「第2の矢」「第3の矢」の効果は見られない。
・外交では「世界の嫌われ者」トランプに可愛がられ、日米関係を盤石にしたが、他では成果は見られない。北方領土では、ロシアは「2島+アルファ」どころか、全島返す気がない。中国では日本人が拘束され、実刑判決を受けている(※詳しく解説しているが省略)。日本の政財界は中国への厳しい発言を控える傾向にある。逮捕・起訴・投獄に目をつぶってはいけない。保守層はもっと追及すべきだ。※安倍外交は絶賛されてきたと思うが、これはメディアの忖度だったのか。
○「令和の戦犯」となる悪夢
・消費税10%へのカウントダウンが始まった。当初は2015年10月の予定が、2017年4月に延長され、さらに2019年10月に再延長されていた。延長理由は世界経済・日本経済の低迷による。しかし今回の引き上げも間違いと思う。消費は冷え込み、回復に時間が掛かるだろう。ノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマンは「5%に減税すべき」と主張しているし、自民党若手議員による「日本の未来を考える勉強会」も、増税凍結/20兆円の景気対策を提案している。消費増税により経済が失速するようであれば、彼は「令和の戦犯」になる。
・財務省は米中貿易戦争を過小に見積もっている。これは単に関税だけでなく、香港/チベット/ウイグルの人権問題、南シナ海問題など全面対決になる。これによる中国恐慌がいつ起きても不思議ではない。
○予測がつかないポスト安倍
・彼が憲政史上最長の首相になるのは確実だ。2021年彼の自民党総裁の任期が満了する。彼は続投を否定しているが、二階幹事長を中心に党内には4選容認の意見もある。
・安倍の対抗馬に石破茂がいる。彼は3回総裁選に出馬しているが、前回は逆に票差を広げられた。宏池会の岸田文雄もいるが、迫力不足である。河野太郎/小泉進次郎は経験不足だ。他に茂木敏充/加藤勝信がいるが、力量・人望不足である。最有力は官房長官の菅義偉である(※当たっている。さすが記者)。「安倍一強」により後継者が育っていない。これは日本の不幸だ。
○戦後レジームからの脱却
・安倍が救世主になる道は険しい。それは「戦後レジームからの脱却」の中心である憲法改正が進まないからだ。リベラルな外国人学者はこれを不審に思っている。それはGHQが作ったにせよ、教育システム/男女平等などの価値観が日本人に浸透しているからだ。しかし改憲派は、議会の2/3を占めている間の改正を望んでいる。最大の障壁は、公明党の説得である。
○与野党が対米依存症
・多くの国民は駐留米軍への支出を不快に思っている。首都東京に米軍基地が存在するのは異常だが、多くの国民は基地問題=沖縄問題と考えている。これは安全保障について自ら考えてこなかった事による。
・憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼し・・」とある。これは世界で殺戮を繰り返す米国を指すのか、それとも日ソ中立条約を破り満州に侵入し、遺留民を殺戮やシベリアに抑留したソ連を指すのか。憲法9条を金科玉条とする護憲派は、植民地根性が抜けていない。
・野党は、改憲反対、海外派遣反対、日米安保条約は不平等、米軍は沖縄から出て行けなどを唱えるが、対案がない。彼らこそ自らが国を守る「日本軍」を唱えるべきだ。この米国依存は吉田茂以来の与野党で共通する認識である。
○吉田ドクトリンの呪縛
・1945~52年日本は連合国に占領され、GHQに従うしかなかった。この時生まれた「吉田ドクトリン」が今も引き継がれている。これは安全保障は米国に委ね、経済復興を最優先する原則である。
・1952年4月日本は「サンフランシスコ平和条約」「日米安全保障条約」を結ぶ。1954年12月吉田内閣が鳩山一郎内閣が替わり、翌年11月自由党と日本民主党が合同し、55年体制が始まる。1956年10月鳩山はソ連を訪れ、平和条約締結後に2島を返還する「日ソ共同宣言」に合意する。これはソ連が日米の分離を狙ったものだが、以降日ソ関係は国交回復しただけで、進展はない。
・岸信介は東条内閣で商工相だったためA級戦犯になるが、1948年無罪放免となる。1953年政界に復帰し、1957年石橋湛山の後を継ぎ、首相になる。彼は鳩山/石橋と異なり、反共路線を推進し、1960年日米安保条約を強行採決する。この際「60年安保闘争」が起き、彼は死を覚悟している。この約60年後、彼と鳩山一郎の双方の孫が政権を争う事になる。
○同じ敗戦国でもドイツと異なる。
・護憲派は「ドイツは謝罪しているが、日本は謝罪していない」と非難する。しかしこれは短絡的な考え方だ。ドイツはオーストリア出身のヒトラーに責任を押し付けた。一方日本は天皇を訴追せず、首相・外相・軍幹部の責任とした。
・また東西ドイツは、それぞれ国家人民軍/ドイツ連邦軍を設置した。一方日本は憲法9条に「戦力放棄」を盛り込んだため、1950年警察予備隊を設置するのに留まった(※西ドイツの基本法に戦力放棄がないのは、東が軍を保有したからかな)。その後、警察予備隊は専守防衛を旨とする自衛隊になり、防衛庁/防衛省と格上げされる。ドイツはNATOに加盟し、アフガニスタンに派遣し、そこで55人の戦死者を出しているが、国民から問題視される事はない。
・吉田には「吉田ドクトリン」があったが、独立後は「普通の国」にしようと考えていた。ところが昭和の終わり頃には、保守主流派でも自主独立の気概を失った。これは「所得倍増」「福祉充実」などの方が票になったからである。
・安全保障は覚悟の問題である。覚悟があれば、手段は幾らでもある。福島原発事故で自衛隊のヘリが放水を行った。これは微々たる水であったが、これにより国民も米軍も奮い立った。「日米安保は大丈夫」では思考停止している。この国自体が厳しい選択をした時、日本は戦後レジームからの脱却となる。
<第5章 政治不信を加速させたメディア>
○「魔の2回生」は政治離れの戦犯
・今はポピュリズムの時代である。理屈を語る政治家は疎んじられ、短い言葉で大衆の感性に刺さる言葉を発する政治家が票を得る。2005年小泉純一郎は「郵政選挙」で「小泉チルドレン」を生んだ。彼らは政治の基本を知らず、杉村太蔵は「早く料亭に行きたい」「BMWが買える」などを口走った。また自民党が民主党から政権を奪回し、その後「魔の2回生」を生んだ。
・彼らを量産した原因は、1994年選挙制度改革の「小選挙区比例代表並立制」にある。同年1月細川護熙首相と河野洋平・自民党総裁のトップ会談で、自民党案を丸呑みし、修正合意した。※丸呑みで修正って変な表現。
・国民の政治不信は投票率に表れる。特に注目する選挙が小選挙区制が導入された1996年衆院選と、選挙権が18歳以上になった2017年衆院選だ。前者は橋本龍太郎首相が消費増税(3%から5%)/行政改革/財政構造改革を掲げ、新進党との2大政党制や民主党が注目された(※争点は一杯あったんだ)。後者は選挙年齢の引き下げがあったが、投票率は54%に留まった。
※2017年の前の2014年衆院選が投票率53%で戦後最低かな。1996年衆院選/2014年衆院選は共に政権交代・復帰後で、国民は「政権交代しても何も変わらなかった」と失望したのでは。国政選挙を分析した本には、生まれた年代で投票率は生涯不変とあった。例えば1950年代生まれは生涯60%、1960年代生まれは生涯50%、1970年代生まれは生涯40%で、若い世代ほど投票率が低くなっており、政治教育に問題があったとしていた。
・小選挙区制は選挙費用の縮小/政権交代の可能性を目的に導入された。ところが選挙前の政策論争が行われなくなり、失言の揚げ足取りや下半身スキャンダルなどに終始するようになった(※政策論争が皆無になったとは思わないが)。自民党/公明党/共産党以外の政党は、集合離散を繰り返すようになった。また比例代表は知名度に頼る数合わせの選挙になった。
○丸山穂高が象徴する「国会の危機」
・政治家の劣化は目を覆うばかりだ。丸山穂高は国後島を訪問中に「この島を取り返すのに戦争しますか」などと発言している。彼は日本維新の会を除名され、与野党から糾弾決議案が提出される。これに対し彼は「言論の自由が危ぶまれる」「議員辞職勧告が可決されても応じない」などを示す。
・彼は松下政経塾に学んでいる。ここは小野寺五典/原口一博/前原誠司/野田佳彦など、多くの国会議員・地方首長・地方議員を輩出している。しかし彼はそれだけでなく、東大卒/経産省出身のエリートである。
・作家・佐藤優は、「ロシアでは戦争を扇動する発言が禁止されており、もし彼が逮捕・起訴されていたら北方領土交渉が止まっていた」「彼は東大出身なので、教育体制まで問われる」と述べている。
・なぜこのような状況が起こったのか。彼の酒癖の悪さは事件前から知られていた。以前であれば所属政党が矯正していたはずだ。小選挙区制に替わり、疑似家族であった派閥が事実上解体した。日本維新の会も育成機能を持たず、彼を簡単に切り捨てた。かつては先輩議員が訪れ、涙ながら説得し、涙ながらに辞職に応じる浪花節の世界だった。
○政治家を志す者がいない
・近年地方では村議・町議/村長・町長の立候補者がおらず、首長は輪番制になっている。衆院選でも新人の挑戦が減っている。党からの公認料は微々たるもので、選挙には電話回線/事務所設置/人件費/ポスター・チラシ/選挙カーなど何千万円も掛かる。選挙資金の確保にパーティーがあるが、新人が開くのは難しい。
・また近年は政策論争がなく、街宣車は候補者の名前を連呼するだけだ(※走行中に演説しても意味がない)。日本の選挙運動は依然「ドブ板選挙」で、有権者の通勤時間に駅前に立ち、挨拶したり、握手するしかない。当選後もダルマに目を入れるなど、お決まりの行動である。これでは政治家になろうと思わない。選挙制度だけでなく、政党や国会のあり方を見直す必要がある。※これは別書で詳しくだな。
○メディアも戦犯
・これまで政治家を取り上げてきたが、新聞/テレビ/ネットのメディアも「平成衰退の戦犯」である。寅さんは「今はただ、後悔と反省の日々を過ごしています」と言うが、私も同じだ。大半の記者は現実の世界を早く、分かり易く伝え、さらに隠された真実を伝えようとしている。しかしこれが行き過ぎると、権力の監視を通り過ぎ、倒閣運動に陥る。※「行き過ぎる」は「度を超す」と同じかな。
○竹下登に利用される
・朝日新聞の「安倍批判」が正にそうだが、逆に権力者に利用されるケースも多い。1989年竹下首相の時、第8次選挙制度審議会が発足する。彼はこれに在京新聞社の代表者を参加させた(※5紙かな)。翌年審議会が小選挙区比例代表並立制/政治資金規正法改正の答申を出し、各社がこれを好意的に評価する。国会に政治改革法案が出されると、テレビも新聞も政治改革を礼賛し、小選挙区制に反対する守旧派を批判した。※まるで小沢叩きだな。郵政民営化もそうかな。
○中選挙区制は「五当四落」
・中選挙区制は「五当四落」(5億円使えば当選するが、4億円では落選する)と云われた。首相を3人輩出した群馬3区は福田赳夫/中曾根康弘/小渕恵三がいて、事務所は「料亭福田、レストラン中曽根」と云われ、小渕は自ら「ビルの谷間のラーメン屋」と言った。
・総理総裁を目指すなら、派閥の領袖にならざるを得ず、国会近くに議員一同が集える会議室を持つ事務所を構え、火事・盗難に耐えれる金庫を備える必要があった。派閥全盛の頃の選挙では、新人候補に1千万円を渡し、激戦区には「実弾」と称されるゲンナマが投下された。「陣中見舞い」すると300万円を手渡した。さらに平時には「暮れの餅代」「お盆の氷代」を配った。
・当時でも企業の政治献金は難しくなっており、株式の売買(インサイダー取引)で売却益を得た。これに兜町の仕手筋も協力した。中選挙区制は多額のカネが必要で、ロッキード事件など様々な疑獄事件の温床になった。
・小選挙区制になり疑獄事件は影を潜めた。しかし「カネの切れ目が縁の切れ目」で派閥の教育機能が失われ、政治家の劣化は想像を遥かに超えた。小選挙区で落選したのに、比例代表で当選するのも奇妙な仕組みである。
・リクルート事件で宮沢喜一/渡辺美智雄は1回休みになり(※リクルート事件の説明はない)、竹下は政治改革を行うが、これは細川内閣の誕生に向かう。その細川内閣は小選挙区制を導入するが、他に成果はない。この時に政策論争の場を作っていれば、政治は変わっていただろう。
○活かせなかった教訓
・メディアは政治改革の教訓をその後の報道に活かせなかった。「news」は「new」の複数形で、新聞記者は新しいものが好きだ。細川の日本新党の名前に踊らされ、2005年には日本中が小泉の「改革を止めるな」に踊らされた。新聞は控えたが、テレビのワイドショーは郵政民営化に反対する議員を悪玉にし、反対派に対し立てた候補を「刺客」と呼んだ。この劇場型選挙で、自民党は圧勝する。※郵政民営化はウォール街の要望との話を聞いた事がある。
・その後この反動が出る。第1次安倍内閣が後を継ぐが、「消えた年金」などの問題が起こる。麻生内閣ではリーマンショックが起こり、政権交代が語られるようになる。
・2009年「マニフェスト」(選挙公約)が脚光を浴びる。メディアも民主党もこれに飛び付き、民主党は「子ども手当」などの政策を盛り込む。産経新聞は控えたが、大半のメディアは「政権交代すると、バラ色になる」と礼賛した。しかし民主党が政権奪取すると、これらの政策は実行不可能と分かり、マニフェストは廃れる。
・ムーヴメントには様々なのがあったが、政治改革は評価できると思う。郵政民営化の評価は定まっていない。2009年メディアが政権交代を煽った事は、万死に値すると思う。この3年間の民主党政権により、今後の政権交代は夢になった。従ってメディアも「平成衰退の戦犯」である。
<おわりに 平成日本を脱却する令和に>
・人間の記憶はいい加減で、「あの時あの政治家は、こう言った」と記憶していても、その証拠が見つからない。関係者に聞いても、「そんな事言ったかな」となり、原稿が進まない。一方で無関係と思っていた事が、繋がっていたりする。30年は長い様で短く、短い様で長い。
○歴史観の欠如が衰退を招いた
・中国は世界2位の経済大国になったが、天安門事件の頃は日本より遥かに小さかった。あの事件後中国を真っ先に助けたのが日本だ。日本が経済制裁を続けていれば、中国はソ連のように民主化していただろう。これは真珠湾攻撃直前の宣戦布告と同程度の失態である。
・外務省の中国専門家は、日本の利益以上に中国の利益を優先する(※それで中国に対し甘いのかな)。北京大使となった中江要介は「胡錦涛は『中国は覇権を唱えない』と言っている。日中友好条約の反覇権条項は有効である」と書いている(※日中友好条約とは1978年日中平和友好条約かな)。また同書の中で、天皇の戦争責任や米国の覇権主義も書いている。
・中国から恩を仇で返されたのは、政治家・官僚に確固たる歴史観がなかった事が原因である。安倍晋三を除けば、中曾根康弘以降の首相は歴史観を持っていない。その原因は戦後の教育にある。日本に必要なのは青年期からのエリート教育である。
○人口減から逃げた「亡国の怠慢」
・今年は現役世代(20~64歳)が58万人減少する。「団塊の世代」が高齢者になる6年後は、112万人減となる。12年前この少子高齢化を産経新聞の論説委員・岩淵が指摘しているが、国民的ムーヴメントにならなかった。これは「亡国の怠慢」である。※それは日本政治の常。
・岩淵の後継である論説委員・河合が少子高齢化問題に関する『未来の年表』を出版し、増刷を続けている。この対策は緒に就いたばかりだが、与野党関係なく「令和の大議論」にすべきだ。