『崩れる政治を立て直す』牧原出を読書。
様々な制度改革の作動を、政治家と官僚の政官関係から解説。内容は総論的・抽象的・専門的のため難解。
第1章は制度改革の概要、第2章は第2次安倍政権以降、第3~5章は自民党長期政権/小泉政権/民主党政権を解説。第6章は政官関係の進むべき方向を示している。
政権が替わっても、政策課題の多くは継続されている。
今の政治主導は、官邸と政務三役の2つの指揮・命令経路が存在し、それが問題の根源と思う。また独立機関の弱体化も問題。
お勧め度:☆☆(難解な文章が多い。政治に関心が強い方)
内容:☆☆
キーワード:<はじめに>政治改革、官僚制、行政改革、作動、<読めない制度>、<第3の改革>、<改革学から作動学へ>地方分権改革、省庁再編/公務員制度改革、作動学、円滑な移行、<全体として作動>行為主体/組織/法制度、<同時代史として見た改革の作動>成功学/失敗学、小泉政権、<作動学から見た政治の時代区分>制度作動、<崩れかけた行政>行政崩壊、脱官僚依存、<組織類型から見る政権の限界>内政・経済・外交、独立機関、内閣法制局/検察庁/日銀、森友・加計学園問題、<公文書管理>公文書管理委員会、<政権の容易ならざる到達点>意思決定、<官僚主導の自民党長期政権>小泉政権、日本型多元主義、<省組織の編成原理>古典的5省、憲法/憲法附属法、<政官関係の省組織/独立機関>大蔵省・財務省、事務次官等会議、官房副長官、通産省・経産省、法務省・外務省・防衛庁、内閣法制局、独立機関、<政治と省組織・独立機関との安定的な関係>、<1990年代の改革による内閣強化と省間バランス>全面的な改革、官邸主導、省庁再編、<政権中枢の再編>小泉政権、経済財政諮問会議、特命担当相、<外務省改革>変える会、自己改革、<首相公選制の提言>郵政民営化、<第1次安倍政権の混乱>安全保障、<福田康夫・麻生太郎による制度作動の再建>社会保障制度、公文書管理制度、税制改革、<小泉政権の制度の動かし方>、<それまでのルールの作動を止める>政権交代、<政権発足と透明性の確保>情報公開、行政刷新会議、事業仕分け、密約、外交文書、機密費、<100日プランと政治主導>マニフェスト、政務三役、<省庁再編と各省を巡る政官関係>消費税増税、原子力規制委員会、内閣法制局長官、内閣人事局、<政策の継承と転換>政策フィードバック効果<小泉政権以降の政官関係>、<政権交代によって選び取られた官僚制>、<制度の原則と改革の原則>政治主導、<内閣官房と内閣府における機密性・公開性>首相秘書官/内閣総務官、特命事項、<省組織>、<独立機関と文書・会計・人事>公文書管理委員会、会計検査院、人事院、<原則と改革の作動>、<おわりに>原則、憲法改正、<あとがき>制度改革
はじめに
○改革の難しさ
・1980年代、日本は「経済一流、政治三流」と言われた。政治家はロッキード事件などで低く評価されたが、それを企業や官僚が補った。リクルート事件で首相/官僚/企業経営者が疑惑の対象になり、1994年選挙制度改革/政治資金改革を柱とする政治改革が始まる。
・その頂点が民主党政権だったが、惨憺たる結果に終わる。続く第2次安倍政権は官邸主導で自民党/官僚を押さえつけたが、南スーダンでの日報問題や森友・加計学園問題などを起こし、再び政と官の仕切り直しが始まった(※始まった?)。ところが特定の制度を変えるだけで確定する訳ではなく、運用が積み重ねられ、誰もが疑わない慣行となる必要がある。制度が変わっても、関係者の行動は直ぐには変わらない。
・しかしこうした改革は重荷になっている。小選挙区比例代表並立制により、政治家は小粒になり、短期の事しか考えなくなった。それが民主党政権であり、安倍政権である(※単に安倍政権とした場合、第2次安倍政権以降を指す)。省庁再編の結果も、公文書改竄や官邸官僚の専横となった。この結果は、制度が動き出すと、どうなるか考えていなかったからである(※辛辣だな)。21世紀の世界は、20世紀末に作った制度と付き合い、調整していく必要がある。
○政党が壊す官僚制
・そもそも官僚制は容易に変わらない。社会学者マックス・ウェーバーは官僚制の「永続性」を主張している。日本は戦後自民党が政権を持ち続け、官僚制の「永続性」に乗じ、「二重の支配」(※国会と行政かな)が継続され、この中で政と官の関係が形成された。ところが1990年代の政治改革以降、理解を越える事態が起こっている。森友・加計学園問題では官僚は政権に「忖度」し、公文書は廃棄され、この傾向は一層強まりそうである。
・しかもグローバル化/情報化による複雑化で、改善は難しくなっている。そこに出現したのが、「政党による官僚制の破壊」である。民主党政権は「脱官僚依存」で政策形成を混乱させた。続く安倍政権は官僚人事を握り、官邸と官僚幹部を一体化させたが、各省での亀裂は深まった。このままでは新規政策の立案や安定的な事務処理が望めず、正常化が必要である。
・今の安倍政権は5年を経過したが、地方創生/1億総活躍/人づくり改革など、看板政策が切り替わり、必ずしも安定政権と云えず、官僚制の再建は望めない。※安倍政権は、今の官僚制を統制している気がするが。
○憲法改正と民主主義
・こうした政と官の関係から生じた問題を、「政治家と官僚の話」と片付けてはいけない。本書はこれを制度面から検討する。政と官の接点は「内閣」である。一方は国会/与党と繋がり、他方は官僚制(省庁)へと繋がる。従って政と官の関係は、国会制度/選挙制度と内閣制度/官僚制度が関係している。またこれには「理念」があり、政には政党政治/民主主義の理念があり、官には「法の支配」の理念がある。これを規定しているのが憲法である。
・政と官は性格が異なる。政党はルールを破っても生き残ろうとするが(※具体例が欲しい)、官はルールを守り秩序を維持しようとする。そこで本書は、政が官の制度を変える試み(行政改革)に着目する。※法や秩序を維持するのが官で、その修正を試みるのが政かな。
○自己改革能力の改革
・本書は、社会学者ニクラス・ルーマンの「行政改革は、行政の自己改革能力の改革」を基礎に置く。これは「行政を全面的に変えるのは困難で、行政が自ら変わる論理(?)を認識し、それを外部から後押しすべき」との理論である。そのため本書は制度の設計より、制度がどう作動しているかに注目する。また戦後の自民党長期政権や冷戦終結後の政治改革を振り返るが、そこでの政治改革は成立が重視され、作動は軽視された。※当然、作動を考慮した改革だと思うが。
・現在はその後始末が不可欠で、制度がどう作動したかを検証する必要がある。スムーズに作動した改革もあれば、そうならなかった改革もある。マイナンバーカード/裁判員制度などはスムーズに作動していない。
・本書は改革案の作動を検証するのに、観察記録を用いる。政党は政党自身から改革する必要があり、国会も両院の合意で改革するしかない。そのため改革は容易ではなく、諸勢力の「妥協の産物」となる。一方官の改革は政から起動され、改革は官より容易である。そのため政による官の改革が、どう作動したかに着目する。
・本書は第1章で、制度が作動しない問題を説明する。第2章は公文書改竄/官僚の忖度などの問題を、「何が作動し、何が作動していないか」の問いに代えて説明する。第3~5章では、それぞれ自民党長期政権/小泉政権/民主党政権での制度の作動状況を説明する。第6章では、安定的な制度設計の在り方を説明する。
・なお本書は2001年省庁再編前の中央省庁を「省庁」と呼び、それ以後を「府省」と呼ぶ。これは庁の長官に政治家が任命されなくなったからだ。また再編前の内閣は「内閣」とするが、それ以後は「官邸主導」が強化されたため、「政権」と呼ぶ。※面白い区別だな。
第1章 変わる改革、動く制度
<1.読めない制度の動き>
・制度改革が実現すると、その制度は作動する。しかしその制度には成功もあれば、失敗もある。1994年小選挙区比例代表並立制が導入され、政党交付金が支給されるようになった。これにより汚職は減ったが、派閥政治は衰え、集めた政治資金を配下に渡す政治エネルギーも衰えた。政治家は「政治主導」で官僚制に介入し始め、2001年省庁再編を行った。内閣に出向した官僚が、各省の幹部に着くようになり、省益より政治家の意思に従うようになった。この中で自民党から民主党、民主党から自民党の2回の政権交代が起きた。政治家は小粒になり、官僚も「霞が関シンクタンク」の機能を失い掛けている。
<2.明治維新/戦後改革に次ぐ第3の改革>
○3つの改革
・1990年代の改革は「明治維新/戦後改革に次ぐ第3の改革」と高揚された。しかし過去の大改革と同様、失敗も多かった。1890年大日本帝国憲法/1947年日本国憲法が施行され、それに合わせ、諸制度も整備された。しかし憲法・制度がすんなり作動した訳ではなく、混乱・調整を経て、運用ルールが共有された。以下に幾つか事例を紹介する。
○前年度予算の執行権
・大日本帝国憲法・第71条で政府に「前年度予算の執行権」が与えられている。これは議会と政府が対立した場合を配慮している。1980年帝国議会が開会するが、「民力休養」を掲げる政党と、「富国強兵」を考える政府が対立したためだ。結局政府は地租増税・歳出増に反対する議会に屈し、1898年憲政党による第1次大隈内閣が成立する。しかしこの内閣は歳出削減と富国強兵の間で苦しみ、短期に崩壊する。こうして憲法の想定と異なり、政府と議会の対立は政治的交渉で収束する。
○議員立法の要件
・戦後改革では当初は議員1名での立法提案が可能だった。日本がサンフランシスコ講和条約で独立すると、議員が突如立法活動を始める。これに大蔵省から抑制する法案が出され、1955年国会法が改正され、議員立法には衆議院20人以上/参議院10人以上(予算を伴う場合は、それぞれ50人以上/20人以上)の賛成が必要になった。
○機関委任事務の廃止
・1990年代政治改革/地方分権改革/司法制度改革などの抜本的改革が進められる。地方自治体法には、国が首長に事務を委任する「機関委任事務制度」が規定されていた。そのため国が電話で指示するなど、非公式の関与が日常的に行われていた。地方分権改革でこれが廃止される。※この辺り詳しくないな。地方への権限移譲は聞いた事があるが。
・この時地方自治法だけでなく、憲法の解釈も「官治」から「市民自治」に転換すべきとの主張があった。これにより機関委任事務を自治事務/法定受託事務に振り分け、運用ルールを定めた(※これは聞いた気がする)。これにより地方自治は深化した。
<3.改革学から作動学へ>
○人事の弊害・公務員制度改革
・1990年代の地方分権改革から、「改革を省察し、実践に資する学が必要」とされた。行政学者クリストファー・フッドは、政策形成を微調整/転用/模倣/開発に類型し、開発以外を通例とした。ところが1990年代の改革は、新しい手法で「開発」された。首相が法案を作成した内閣立法、地方分権推進法の「タイムリミット設定方式」「具体的指針の勧告方式」「グループ・ヒアリング方式」などである。※難解。これは立法の手法みたいだな。
・もっとも内容面では、機関委任事務の廃止と新制度の創設、関与の基本類型(?)の設定は「開発」であるが、関与のルールの創設は行政手続法からの「転用」であり、国地方係争処理制度は住民監査請求から住民訴訟までの手続きの「模倣」である。※専門的だな。
・改革は成功したと思われていたが、20年経過し、問題が深刻になり始めている。省庁が再編され、それに「魂を入れる」公務員制度改革が小泉政権で行われた。「能力等級制度」の導入で揉めたが、安倍政権での内閣人事局の設置で改革は終了する。結果「弾力的な昇進」「キャリア制度の廃止」は成らなかった。それは「ポストと無関係の等級制度は考えられない」「現行の職務等級から移行できない」「争議権/協約締結権を与えると、行政が麻痺する」などの議論による。
○大規模な改革における円滑な移行
・一方規制緩和/地方分権改革/省庁再編の「円滑な移行」はそれ程難しくなかった。地方分権改革では法律・政令・省令・告示などの法令を守らなければならない点は変わっていない。ただ政府が示した法令の解釈が絶対でなくなり、自治体が独自に解釈できるように変わった。省庁再編も大きな変化を与えなかった。「省間調整システム」(?)は、相互に介入できる手続きだが、運用される事はなかった。
・つまり地方分権改革/省庁再編などの1990年代の大改革は、行政活動の急激な変化ではなく、緩やかな変化を期待するものだった。そして20年経過し、官僚の意識/行動様式は大きく変わった。これに対し公務員制度改革は憲法付随法を変える点で違いはないと思われていたが、似て非なる改革である。改革の前後で官僚の行動が大きく変わるため、「円滑な移行」のための仕組みが必要だった。※漸進的な移行と急激な移行の違いか。
・これらから改革学の制度設計には「円滑な移行」のための準備が必要である。地方分権推進委員会の『中間報告』には、これが記されている(※内容省略)。制度を変える場合、どう作動するかを事前に予想し、作動状況のコントロールも設計する必要がある。これを改革学に対し「作動学」と呼ぶ。
・過去に国会法/地方自治法が改革されたが、時間を掛けて解決した。これらの改革では、①過去の失敗事例が認知されていた、②問題の原因も認識されていた。そのため政権が政治課題を認知していたため適切な設計が可能で、作動学の問題は起こらなかった。※小泉政権での公務員制度改革は認識が曖昧だった?
・公務員制度改革では、過去の失敗事例は共有されず、「当初の目的を達成できるのか」「副次的作用をもたらさないのか」「円滑な移行が可能なのか」などについて答えを持っていなかった。
○シームレスな改革は世界的現象
・「円滑な移行」を目指すのは日本だけでない。2010年英国では労働党政権から保守・自由連立内閣に交代する際、急速な制度変更を伴わない政策課題から着手すべきとの提言がされた。
・またオランダでも「持続可能な発展のための移行管理」を理論化する動きがある。これは政府/アクター/市民社会の三者が対応可能となる枠組を設定する。長期戦略/中期戦略/短期的な研究開発に区分し、社会構造/規制制度/研究開発のレヴェルで全体を誘導する。※もっと詳しく解説しているが簡略化。
・米国では行動経済学に「ナッジ」(後押し)の理論がある。キャス・サンスティーンは行政管理予算局情報・規制問題局長に就き、「本能に沿った制度設計が必要であり、事後検証も必要」とする作動学的思考を実践した。
・また米国の政治学では、「『経路依存』(?)と云う制度化の過程が過去の決定を制約した」との考え方が受け入れられ、制度の定着過程を国際比較する研究が生まれた。制度の転換・革新以外に、レイヤー型/浮遊型/置換型の類型が掲示された。※専門的・学問的だな。
○天皇退位と新天皇即位
・大量の情報の基で瞬時に意思決定する事が要求されている。この例として天皇退位の議論があった。天皇のビデオメッセージは「崩御による突如の退位より、新天皇の円滑な即位」を伺わせた。ここで問題だったのが、特例法にするか恒久法にするかだったが、これを先例とする特例法となった(※特例法と特措法の違いは何だろう)。抜本的な改革は慎重にならざるを得ず、先例を適切に蓄積する方法を選んだのだ。これは作動学の視点である。
・かつては文書・電話でコミュニケーションを取った。そのため制度の開始・停止も容易だった。ところがインターネットなどの電子空間により高速かつ大容量に情報交換されるようになると、制度の開始・停止はリスクとなった。制度変更による混乱を事前に予測・検証する作動学が求められるようになった。※情報化と制度の開始・停止が関係するかな?
<4.全体として作動する制度>
○比較政治学のテーマとしての政官関係
・大日本帝国憲法前に内閣制度が発足し、日本国憲法制定時は議員内閣制の下で法整備されていた。そして冷戦終結後に内閣再編が行われ、政権交代による諸問題の起源となる。本書は戦後政治の作動に特に注目する。
・政党政治では政党政治家と官僚の関係が密接になる。彼ら「行為主体」(※政治家と官僚?)が交渉する際、制度全体を視野に入れないといけない。彼らを分析次元とする場合、これを支える組織/制度を確定する必要がある。※組織も制度も確定しているのでは?
・「政官関係」は4層からなる。最上層は「行為主体」で官僚と政治家で、そこには「統制・協力・対立の相互作用」がある。第2層は「組織」で、官には官僚制、政には政党がある。そこには「予算・人事・権限・情報の配分をめぐる競合」がある(※これは官僚制かな)。官僚制は各国固有で、米国では上層部が政治任用され、仏国では高級官僚が出身大学で緩やかな集団を形成し(※国立行政学院「ENA」かな)、日本ではキャリアとノンキャリアに区別される。
・第3層は「法制度」で、官には内閣制度/省庁制度/公務員制度があり、政には国会制度/選挙制度がある。官の制度は裁判所/地方自治体にも広がり、全体として憲法が作動している。第4層は「理念」で、官には「法の支配」「立憲主義」があり、政には「政党政治」「民主主義」がある。政官の間に憲法改正論がある。※立憲政治はあると思うが、憲法改正論があるかな?
○制度改革の政治家・官僚への影響
・この「政官関係」から、制度改革の作動による政治家・官僚への影響が理解できる。1990年代の政治改革により政党や政治家の行動は変わった。結果政権交代し、民主党は「政治主導」の強圧的姿勢で臨んだ。官の側では内閣機能が強化された。これに対しては2種類の選択肢があった。1つは小泉政権での、政治家に協力するが自律性を保つ選択肢である。もう1つは、安倍政権での政治家に従属する選択肢である。この様に政治家と官僚の関係は平面的でなく、制度の層/組織の層で行動様式は変容する。
・次の問題は「制度の範囲」である。統治機構では官僚(公務員)が活動している。すなわち内閣・各省になるが、これに対抗する独立性のある機関に、原子力行政での「原子力規制委員会」、地方分権改革での「国地方係争処理委員会」などがある。彼らは内閣・各省を監督・統制する。彼らの存在も考慮する必要がある。
<5.同時代史として見た改革の作動>
○問題解決の鍵としての成功事例
・改革には成功もあれば失敗もある。工学には実験/プロジェクトの失敗に目を向ける「失敗学」がある。政治にも作動学に「改革の失敗学」があって良い。成功事例は少ないため、成功した原因を発見する事が重要である(※それなら成功学では)。成功学と失敗学の双方の視点を持つのが作動学である。
・ポール・ライトは「改革の評価は、以前の蓄積が関与する」とし、「改革には蓄積性/包括性/矛盾内包性/加速性の特徴がある」とした。そのため本書でも改革を評価する際、直近の歴史を振り返る。※過去の歴史を振り返ったジャーナリスト三宅雪嶺を詳しく紹介しているが省略。
○小泉政権の成功事例
・平成の政治史は、後藤兼次『ドキュメント平成政治史』/清水真人『平成デモクラシー史』などで評価されている。これらの本はインサイダーの情報を用いるが、本書は政治家・官僚の回想録/オーラル・ヒストリー、研究者の分析、ジャーナリストの批評などを用いる。また制度理論は国際的な動向に同調するため、諸外国の制度理論も踏まえる。
・1990年代までは、「改革は原案から後退するもの」と考えられていた。ところが小泉政権が郵政民営化を実現させた事で、「改革は実現するもの」と考えられるようになり、「官邸主導で打破できる」と変わった。ところが第1次安倍内閣で改革に失敗し、その不満から政権交代が起こる。ところが「政治主導」を掲げた民主党政権も、惨憺たる結果に終わる。
・なぜ小泉政権は成功したのか。小泉政権の課題は前政権が掲げた省庁再編/司法制度改革であったが、それをすんなり作動させた。混乱を挙げるとすれば、「自民党をぶっ壊す」と叫んだように、与党との闘争である。
・改革の成否を評価する場合、2つの過程に区別する必要がある。1つは法案を作成する過程で、もう1つはこれを実施する過程だ。これまでは前者は議論されてきたが、後者は議論されてこなかった。これこそが作動学の対象である。小泉政権は改革の実施に成功し、その余勢で自身の郵政民営化などの改革を成功させた。
○改革に際しての5つの選択肢
・民主党政権の失敗は、制度の導入と作動を政権発足当初から一斉に始めた事による。しかし政治主導を根付かせ、情報公開によって自民党政権時代の問題点を浮き彫りにした。政権交代した際、新政権は新制度を作動させるか、旧来の制度を運用しつつ作動させるかの選択となる。しかし新政権はアピールのため新制度を作動させる傾向にある。
・以上より改革には、①改革の提案(課題設定)、②改革案の成立(政策決定)、③改革案の実施・作動の局面がある。②改革案の成立が不要な場合、④運用の保守、⑤運用の転換がある(※②までは立法で、以降は行政かな)。本書はこれらの組み合わせでの成否を同時代史として検討する。※同時代史とは現代史よりさらに直近の歴史かな。
<6.作動学から見た21世紀日本政治の時代区分>
・同時代の制度を見るには小泉政権から振り返る必要がある。これまでは「安定した官邸主導:小泉政権」→「不安定な政権:第1次安倍・福田・麻生政権」→「第1の政権交代:民主党政権」→「第2の政権交代:第2次安倍政権以降」と捉えられてきた。これは民主党政権をターニングポイントとする見方である。
・ところが制度の作動の観点から見ると、作動に失敗したのは第1次安倍政権である。続く福田・麻生政権は制度の作動を復帰させた。そこでの主要施策は公文書管理制度/消費税増税のための財政改革/社会的包摂などで、これらは民主党政権に引き継がれた。制度の作動から見ると、第2次安倍政権への政権交代は民主党政権が進めた制度の作動を、より現実的に深化させた。その意味で民主党政権を継承している。
・これらより断絶は、小泉政権と第1次安倍政権の間、第1次安倍政権と福田・麻生政権との間にある(※鳩山政権だけが異質だったとする本は読んだ事がある)。従って時代区分は、「安定した官邸主導:小泉政権」→「制度作動の失敗:第1次安倍政権」→「制度作動の再建と透明性確保:福田・麻生政権」→「制度作動の抜本的変更と透明性進展:民主党政権」→「制度作動のさらなる変更:第2次安倍政権以降」となる。※これは覚えておこう。
第2章 行き詰まる第2次以降の安倍政権
<1.崩れかけた行政>
○第2次安倍政権発足後の特徴
・2度の政権交代を経た第2次以降の安倍政権(※単に安倍政権とした場合、この政権を指す場合が多い)は長期政権になったが、「行政崩壊」をもたらした。防衛省の日報問題、厚労省の裁量労働制法案のデータ不正、文科省の加計学園獣医学部設置問題、財務省の森友学園問題などである。これらは各省に内部分裂があり、リークにより事件が発覚した。これは日本政治が新たな局面に入りつつある事を示している。
・安倍政権は安定的な政権を目指してきた。第1に、改革は断行せず、アベノミクスの経済政策に留めた。第2に、2014年総選挙/2016年参院選/2017年総選挙で勝利し、官邸の各省への影響力を高めた。第3に、首相・総裁経験者や政策能力の高い政治家を大臣・党幹部に任用した。第3に官房長官に菅氏を指名し、危機管理に強い政権となった。
・第1次安倍政権以降は短命の政権が続いた。特に民主党政権は政治への不信感を高めた。安倍政権はこれに歯止めを掛けたが、政権の行き詰まりが窺われる。
○官邸崩壊と行政崩壊
・「行政崩壊」と同様の現象が、第1次安倍政権末期の「官邸崩壊」で、以前とは明らかに異なる局面になった。第1に、野党民主党は「消えた年金問題」で自民党政権を批判し、自民党の構造的欠陥が表面化した(※具体的な説明がない)。第2に、以降の政権は通常国会が始まると内閣支持率を急落させる様になる。例外は2016年だが、北朝鮮によるミサイル危機が深刻化した時期である。第3に「官邸崩壊」と云われたように、政権は肥大化した官邸を管理できなくなった。この現象は今も続いている。
○持続する脱官僚依存
・第1次安倍政権以降、官僚の統制の困難性、内閣支持率の低下、肥大化した官邸の崩壊リスクの3つが継続されている。この理由に、政策の官僚依存、2001年省庁再編後の官邸運営の困難さ、小泉首相のリーダーシップ・モデル(首相への信頼を高める)の呪縛の3つがある。※小泉政権は国民的支持が絶大だったかな。
・これへの対応が2つ考えられる。1つは「政治主導」「脱官僚依存」であり、内閣人事局による人事統制で貫徹されつつある。2つ目は選挙に勝ち続ける事である。第2次安倍政権以降は、これを克服している。※克服したのに行政崩壊を起こした?
・ところが2017年2月国有地の不当な払い下げ(森友学園問題)が「行政崩壊」の端緒となり、その後崩壊は深刻化する。ところが選挙で勝利するため、問題解決しなかった。
・では「脱官僚依存」は何を生み出したのか。民主党は政務三役での意思決定を性急に進め、崩壊した。一方第2次安倍政権以降は内閣人事局による幹部人事で過剰に介入し、「行政崩壊」を招いた。そこで本書は、以下の3つの観点で捉える。①政権による官邸の把握と、官邸と各省の関係、②政権から独立した機関の動向、③政策決定手続きの変容である。
<2.組織類型から見る政権の限界>
○政権中枢と各省
・まず政権中枢の内閣官房を見る。第1次安倍政権で作動不全となったが、それ以前にも政策能力はあるが調整能力に欠ける「政策新人類」を指名して作動不全となった事がある(※例が欲しい)。民主党政権も同様である。これに対し第2次安倍政権は、忍耐力・調整能力のある菅義偉を指名した。さらに内閣人事局が設置され、各省の人事統制も強固になった。また官房副長官には加藤勝信/西村康稔などの官僚出身を置いた。他方、内閣参事官約10名を府省から選任し、官邸スタッフを拡充した。
・安倍政権の大きな特徴は、財務省出向者優位からの転換である。経産省出身の今井尚哉を首相秘書官に任命し、秘書官を組織化した。さらに官房副長官に警察庁出身の杉田和博を任命した。また民主党政権で事務次官等会議は廃止されたが、次官連絡会議として復活させ、議長に杉田氏を任命した。ただ彼は次官の経験がなく、調整能力は不十分だった。これらにより官房長官が官僚を統制する体制が整えられた。※調整能力が重要か。
・しかし重要なのは、この統制が政権全体に及んでいない点である。官房長官・官房副長官・事務次官等会議は内政上の課題に対応するのが主眼である。経済面では経済財政諮問会議が置かれ、これを財務省が遠隔操作していたが、「アベノミクス」を主要政策にするため、経産省出身者を陣頭に立たせた。
・政権は、内政・危機管理を扱う系統、経済政策を扱う系統、対外政策を扱う国家安全保障局と外務省から成る系統の3つに分立した。問題を孕んでいたのが今井秘書官を中心とする経済政策の系統である(※アベノミクスを実施したのに)。また対外政策の系統にも、今井秘書官と国家安全保障局長・谷内正太郎との間に対立があった。
・特に深刻だったのが各省/日銀/経済団体など関係者が多数の経済政策である。内閣官房は肥大化したが、それでも定員は財務本省の半分で、これで経済/安全保障/人事をこなした。官邸と官僚は指揮命令系統が異なるため、政策論争は互譲になる(※大臣を通せば)。専門知識が不足する官邸の意見を無理に通すには、首相案件として「特区」などでの対応になる。これに失敗すると、責任の所在も曖昧になった。※アベノミクスを始め、安倍政権は官僚を牛耳っていたと思っていたが、結構脆弱だったのかな。
○独立機関と政治の関係
・政官関係に独立機関も重要である。これが専門家から成る委員会となれば、政権に強い影響を及ぼす(※名称で影響力も違うのか。具体例が欲しい)。過去の例では最高裁判所事務総局の矢口洪一と内閣官房副長官・後藤田正晴との関係がある。この様に政官で見解が異なる場合、連絡調整が重要な意義を持つ。そのため政官関係を見る場合、独立機関を含めて見渡す必要がある。
・まず宮内庁を取り上げる。2009年習近平副主席が来日し、天皇との会見が行われた。30日前までに宮内庁に申し入れるルールがあったが、小沢一郎・民主党幹事長の要請で「特例会見」となった。2016年8月には突如退位のメッセージが出され、天皇・宮内庁と政権との対抗関係が浮き彫りになった。
・次に内閣法制局を取り上げる。これは内閣に属するが、独自の解釈を行う。55年体制では、安全保障における憲法解釈を国会で答弁し、両党の合意を補佐した。
・第1次安倍政権は、集団的自衛権の解釈で内閣法制局と激しく対立する。そのため第2次安倍政権は、これまでの慣行を破り、内閣法制局長官に外務省出身の小松一郎を任命し、憲法解釈を変更させた。安倍政権になり内閣法制局長官の国会での発言は増えたが、それは政権への従属だった。
・近年メディアが指摘しているのが法務省(検察)への介入である。「検察官独立」の原則があり、法相の指揮命令は個々の事件に及ばず、検察庁のトップ検事総長に委ねられる。しかし検事総長の登竜門である法務省事務次官に官邸が人事介入し、事務次官が省内を把握できなくなっている。これは民主党政権からあり、小沢一郎事件で法相は「指揮権発動」に度々言及した。※古くは造船疑獄事件があった。
・安倍政権による人事介入は日銀でも見られ、日銀総裁に黒田東彦を据えてアベノミクスを進めた。これにより政策委員会審議委員にリフレ派が抜擢され、政権に統制されている。
○森友学園問題と独立機関
・こうした介入への反作用が森友・加計学園問題である。森友学園問題では国有地売却で財務省の公文書が改竄された。これにより政権の影響力は液状化し、メディア(朝日新聞)vs政権の構図になった。しかし選挙では自民党が圧勝し、政権の影響力は大きいままだ。
・これらの決定(?)に独立機関が深く関わっていた。公文書改竄では会計検査と公文書管理委員会、特定秘密保護法では情報保全諮問会議、辺野古基地移転では裁判所と国地方係争処理委員会が関わっていた。これらの独立機関は、徐々に政権に対するコントロールを強めた。※米国での対トランプの事例が紹介されているが省略。
○政権vs独立機関
・「政権vs独立機関」の構図で、内閣法制局が政権に屈したとされる。政権は長官に外務省出身の小松氏を指名し、憲法解釈を変更させた。その後任の横畠裕介も政権に寄り添っている。この内閣法制局への介入は、民主党政権からあった。
・一方会計検査院は改竄前後の決裁文書を得ていたが、報告書でこれを指摘しなかった。これは政権の報復を恐れたからだろう。会計検査院の報告書を受け、財務省は「文書は廃棄した」と述べてきたが、該当の文書を公開する。2018年3月朝日新聞がこれをスクープし、メディアにバトンタッチされた。独立機関はスーパーパワーを持たないが、時には政権に甘く、時には政権に厳しく迫っている。
○独立機関は振り子のように
・独立機関が踏み込み過ぎると政権から介入されたり、法改正される。しかし国民から賛同される案件であれば、政権に厳しく迫る事ができる。
・辺野古移転問題は私(※著者)も関係していたが、国と沖縄県の対立が国地方係争処理委員会に付託された。国地方係争処理委員会は「違法でも適法でもない」と判断を下し、これにより裁判所は国を勝たせた。しかし令状のないGPS捜査は違法としている。
・現代政治はスピード化しているが、独立機関がそれを抑制し、熟考する時間を与えている。加計学園問題では申請書が煮詰められておらず、大学設置・学校法人審議会は認可を遅らせたが、それは独立機関としての最低限の抵抗だった。
・森友学園問題では会計検査院は決裁文書を再検査する方針を打ち出した。55年体制では独立機関は微温的だったが、この様に振り子の振り幅を大きくし、政権を監督すべきだ。1990年代の政治改革で政権交代が可能になり、国民が選択した政権(官邸)が強力になるのは望ましい。同時に独立機関も強力になる必要がある。
○政策決定過程の変容
・2016年頃から安倍政権の政策決定過程が変容した。その手掛かりが、経済財政諮問会議/日本経済再生本部/産業競争力会議で、後2者に注目する。2015年安倍政権は安保関連の課題を終えると、「1億総活躍社会」を打ち出し、2017年「人づくり改革」を発表する。それまでに「地方創生」「女性活躍推進」などを発表していたが、これは実態が伴っていなかった。
・この2016年は特異な時期だった。北朝鮮のミサイル危機やトランプの当選があった。そのため政権は政策論争をせず、非公開・少数・短期で政策決定した。秘書官を中心とするグループが政策を決定し、各省の官僚に介入した。これは大臣経由の指揮命令系統ではないので、責任の所在が曖昧になった。それで決裁文書の改竄/公文書の廃棄などが行われ、公文書管理制度が犠牲になった。各省の現場では本省・幹部への不信感が鬱積した。南スーダン問題では「廃棄された」とされる日報は現場で発見された。森友学園問題では近畿財務局からのリークが続いた。※2016年頃が転機なんだ。
・官邸と各省幹部の一体化は3つの状況を生んだ。1つは大臣が省内を把握できなくなった。麻生財相でさえ決裁文書の改竄を知らされなかった。副大臣/大臣政務官はなおさらである。2つ目は、内政は官房長官、外交は国家安全保障局長、経済は今井秘書官が意思決定するようになった。3つ目は、各省の幹部人事の失敗である。内閣人事局による情実人事・報復人事により、省内で支持されない人物が幹部になった。※強すぎる官邸だな。
・官邸は決定の負荷に追われるようになり、政官関係の整理(?)は不可能になった。政策決定は官邸と各省幹部が秘密裏に行い、公開性は失われた。問題が起これば外部者に強圧・報復で対応した。※これが官邸主導の結果か。
<3.公文書管理>
○公文書改竄の衝撃
・森友学園問題での公文書改竄は衝撃を与えた。公文書の一部の抜き取りや、語句の数ヵ所の削除ではなく、全編に亘って削除が行われた。2009年公文書管理法が制定され、メモ類は保存対象から外れた。これは規制の緩い制度である。公文書を研究してきた私は、これに不満を持っていた。※公文書研究について少し書かれているが省略。
・55年体制では国民は政治を自民党/官僚に委ね、公文書に関心を持たなかった。当時は各省に文書管理規則があった。その規則の公開を要求したが、外務省は拒否した。当時は文書管理の内部規則でさえ秘密にできた。
○復元可能な電子記録
・1999年「情報公開法」/2009年公文書管理法が制定され、事態が変わり始める。しかし性善説に立ち、公文書の管理は各省に委ねられている。文書の改竄は言語道断だが、加計学園問題の今治市でも官邸への出張復命書で複数のバージョンが出ている。これは常軌を逸する状況である。
・今回の問題で電子記録は復元可能で、廃棄は通用しない事が分かった。そのため「全ての公文書が保存され、一部が非公開」がこれからの前提になる。安倍政権での廃棄による隠蔽は厳しく批判されるべきだ。
・現行法では公文書管理委員会が勧告する制度だが、公文書管理委員会は内閣府に置かれた諮問機関で、委員は首相が任命する。そのため今回のように第三者性が保たれない。そのため人事院のように内閣から独立し、委員も国家での同意を必要とする制度に転換すべきだ。※人事院と内閣人事局は、どう棲み分けているのか。
<4.政権の容易ならざる到達点>
・この様に安倍政権は強みが弱みに変わった。政権の維持・強化のため、政権中枢が意思決定し、それを任命した各省幹部に伝える仕組みになった。そのため各省で幹部と現場の亀裂が生まれ、公文書の改竄まで起こった。これが内閣人事局/国家安全保障局を内閣官房に置いた帰結である。
・制度作動の特徴を、現政権/従来/理想で比較する(※表あり)。まず従来は、意思決定=省益/組織の関係=互譲/時間=長期/文書=廃棄/人事=各省/合理性=所管領域だった(※官僚主導かな)。それが安倍政権では、意思決定=政権維持/組織の関係=強圧・報復/時間=短期/文書=非保持(※そもそも残さないかな)/人事=官邸/合理性=局所的となった(※官邸主導かな)。これに対し理想は、意思決定=政策論争/組織の関係=期限付き協議/時間=中期/文書=的確/人事=各省が行い官邸がチェック/合理性=国益である。
・一旦迅速な意思決定になると、以前の透明性が高く、多角的な意思決定に戻れない。これを変えるには政権中枢を変えるしかないが、政権中枢に変化は見られない。これを起こすために、どんなルールが必要かは、これまでの変化を見る必要がある。良好な政官関係を作るには、官僚・大臣間に役割分担のルール(?)が必要である。
第3章 自民党長期政権と自らを動かす官僚制
<1.官僚主導の自民党長期政権>
・この様に第1次安倍政権以降になると、制度の作動の失敗があからさまになってくる。一方で2001年4月に発足した小泉政権は、省庁再編や地方分権一括法の施行や司法制度改革を行い、制度の作動に成功し、例外と云える。当時は文書保存と適切な公開は政府の課題ではなかったが、ウェブサイト/メールマガジンなどで適切に公開する。ではなぜ小泉政権は成功し、後の政権は失敗したのか。そこで本章は自民党長期政権の政官関係を見る。
・この時代制度の作動は円滑だった。戦後当初は「官僚主導」で、官僚制は政治の介入を遮断し、自律していた。ただし法案は自民党の総務会/政務調査会(※以下政調会)で了承された後、国会に提出された(事前審査制)。これにより政調会部会の議員が次第に影響力を持つようになり、「政高官低」に変化した。社会の多元的な政治主体が政策過程に影響するようになる(日本型多元主義)。※経済団体?
・この日本型多元主義は、政策案の制定過程を分析する際、省レベルではなく、局・課レベルの政策過程を特色付けた(※難解)。省は官僚制の基礎単位で、人事でも凝集性が高い。各省は他省との関係を制御しながら、政治に作用した。その対象は与党であり、国会だった。この省の発展過程を見る事で、小泉政権以降の政官関係の根幹を理解できる。
・現在1府12省あり、業務は多様である。そこには編成原理があり、分担管理原則(権限と責任を負う)がある。各省は他省に介入せず、同等である。ただし経験的に重要な省とそうでない省があり、それが「古典的5省」である。
<2.省組織の編成原理>
○古典的5省の理論史
・戦後の分担管理原則により、各省は他省に介入しなかった。また優秀な人材は省外に出向させず、省内のポストを歴任させ、官僚幹部に就けた。この割拠性のため、省間の調整は厳しくなった。衆参両院には、省毎の常任委員会が設置され、自民党政調会の部会も省毎に設けられた。
・日本国憲法は国会法/公職選挙法/裁判所法/内閣法/国家行政組織法/国家公務員法/地方自治法/財政法などの憲法附属法と共に整備された。
・政治学者シャルプと社会学者マインツは、欧州大陸の省庁編成を「古典的5省」とし、3つの特徴を掲示した。①内務/外務/財務/法務/軍務を基本とする。②現在は内務省が分化した。③5省の事務を一元化する事で政府内を横断的に調整する(※解説が欲しい。同様の理論が複数紹介されているが省略)。英国/米国は制度の伝統が異なり、5省の原理は発展しなかった。一方日本は仏国/ドイツの制度を継承したため、この原理に従っている。
・憲法学者・行政法学者の美濃部達吉も5領域を基礎にしている。『行政法撮要』では、外政は国際法学の対象とし、警察/保育/法政/財政/軍政の5領域としている。警察は権力を行使するが、保育は権力を行使しない内政である(※この保育は経済の保育だな)。『日本行政法』(1940年)では、警察法/保護および統制の法/公企業および公物の法/公用負担法/財政法/軍政法に区分している。保育の法と公企業および公物の法/公用負担法が独立している。経済統制関連法が保護に収められた。これに法政法が含まれるため、法政法は保護に吸収された。※専門的。
・美濃部は統制法を導入した。これを新領域とする見方もあるが、内政の拡大とする見方もある。いずれにしても、5領域は行政の中核になっている。
○憲法/憲法附属法と古典的5省
・日本は戦前は軍務が陸軍省/海軍省に分かれ6省だった。戦後は軍務は防衛庁になり、内務省が幾つかに分かれた。しかしこれらの省組織の改正は小規模に留まっている。
・大日本帝国憲法では軍務/司法は独立して規定している。財務は予算の議決を詳細に規定している。外務は「天皇の下に条約を締結する」と規定している。内務では地方団体について規定されていないが、臣民の権利・義務と警察行政を規定している。
・日本国憲法では軍は9条で禁止にした。司法/財政/地方自治は、それぞれ1章とした。外交は「国会が事前事後に承認し、条約を締結する」とし、条約/国際法規の遵守を明記した。戦後古典的5省は安定的となった。ただし陸海軍は解体され、警察予備隊/保安隊/自衛隊となり、戦前とは大きく異なる構成になった。法務では、戦前は官僚が裁判所を監督していたが、裁判所の独立が認められる。内政では、内務省から厚生省/労働省が分化し、地方団体を監督する自治省も分化する。警察機構は警察庁になった。土木行政は建設省となる。大きな変更がなかったのが大蔵省で、予算の査定から、大きな影響力を持つようになる。
○占領後の省庁再編
・1960年自治庁が自治省に昇格するが、それ以降は2001年省庁再編まで省の新設・廃止は行われなかった。この自治省は日米安全保障条約改定反対の最中に新設された。岸信介首相は憲法改正を目指していたが、以降の首相はこれを否定した。政官関係は安定し、ルールが作られていった。
・この組織編成には幾つかの特徴がある。第1に、第3次鳩山一郎内閣(1954年12月~56年12月。第3次は1955年11月~56年12月)で第3次行政審議会が設置され、トップマネージメントで改革を進められた。岸内閣(1957年2月~60年7月)で大蔵・農林・通産省の政務次官が増員される。内閣官房に内閣審議室/内閣参事官室/内閣調査室が設置される。総理府に総務長官/総務副長官が設けられる。各省に官房長が設けられる。これにより政治家・官僚が各省幹部に就くようになり、「議院内閣制下での責任体制」が構築された。
・第2は、国家行政組織法が組織の型を定め、内閣法制局がその設置を厳格に審査した。これにより組織は規格化・同型化した。大蔵省/外務省は伝統を継承し、内務省は多くの省に分化し、司法省は法務省になった。局・課の編成は形式的に同規格になり、水平的な人事交流も行われた。これにより2001年省庁再編で、省間バランスの原理(?)が提唱された。
・第3は、この同型化は、国会の常任委員会/自民党政調会部会の組織編成に波及した。保守合同後の最初の内閣(第3次鳩山内閣)は「保守合同は政策実行のため」とした。防衛庁などの総理府の外局の長官に政治家を充て、省と同格になった。
・憲法附属法の内閣法/国家行政組織法/各省設置法が再編されたのがこの時期の特徴である。またこの時期、議員立法を制限する国会法改正も行われた。
○政党間対立と官僚制へのインパクト
・この時期、社会党を中心とする野党の対抗軸は、第1は防衛庁・自衛隊だった。しかし日米同盟が基軸であるため、自衛隊批判は与党を批判する理論的根拠に動員されるだけだった。第2は経済計画ないしは産業国有化による経済政策の転換だった。これは戦前に「統制法」として着目され、片山哲内閣で炭鉱国家管理問題で模索され、高度経済成長までは有力な対抗軸だった(※こんなのあった?)。第3は公害問題に伴う環境運動で、第4は社会保障の充実だった。
・そして第5が、美濃部亮吉時代の東京都のように、社会党・共産党に支持された革新自治体による国への対抗である。政治学者・松下圭一は「シビル・ミニマム」を掲げ、革新自治体の政策作成を支援した(※この辺り無知だな)。1975年彼は『市民自治の憲法理論』を発表し、地方自治体の自治強化、三権分立の徹底、国会の優位性の強化、地方自治体と国の紛争解決のための司法手続き改革を唱えた。
・そこで彼は、「憲法は国民主権の活性化に基づいて、現行法制の『規則準則』として、市民主権・分節主権の視点から位置付けられる。さらに憲法は、法律/命令/行政行為を点検する『規則準則』である。そのため憲法附属法も安易に憲法附属法の性格を付与されるのではなく、憲法による点検を必要とする」と述べている。彼は新しい憲法解釈をするが、石油危機による財政危機で、革新自治体は終焉する。※難解。法学や地方自治の知識に乏しい。
・当時はインターネットもなく、官僚の活動の対外発信は、広報誌/業界紙などに限られた。官僚人事は2年で交代が慣行だが、政治家は族議員として、自民党政調会の部会に長く所属し、政策知識を蓄積した。これにより族議員が官僚より上位に立ち、政官関係は「政高官低」となった。しかし法令の立案は官僚側で、党部会や野党への説明が官僚の用務となった。
・その中で各省は特質を持った。大蔵省は総合的制度設計者となり、内務省系省庁(※以下内務省系と省略)は官僚制内の自立的調整者になり、法務省/外務省/防衛庁は自己抑制者となった。さらに通産省は政治の牽引者になり、内閣法制局は与野党間の調停者となった。※簡潔な表現だな。
・日本の省組織は、古典的5省に商工省・通産省・経産省と内閣法制局のセットになった。経産省などは新しい分野に業務範囲を広げ、内閣法制局は組織の法制を厳格に固めた(※内閣法制局は法律の整合性ではなく、組織の整合性?)。経産省などは政策革新型の発展モデルになり、内閣法制局は組織の形態保存モデルになった(※アクセルとブレーキかな)。結果として官僚制の適応能力を高めた。
<3.政官関係の省組織/独立機関>
○総合的制度設計者としての大蔵省・財務省
・この時代の政官関係は政策立案を巡って展開された。これは予算措置を伴うため、首相・官房長官の秘書官や省間調整を担う審議室長に大蔵省出身者が就き、大蔵省の影響力が強まった。ただし重要な公共事業は「マルセイ」(政を○で囲む)と呼ばれ、党幹部と大臣が決定した(※陳情案件かな)。この様に大蔵省が制度設計し、与党が予算額を固める役割分担が成立した。
・予算編成の概算要求を大蔵省主計局が査定するため、各省は党幹部と大臣が決定する「マルセイ」にするように働き掛けた。租税政策/税制改革も大蔵省が制度設計し、党税制調査会が賛同する枠組だが、個別業界の利益調整に政治家が深く関わった。
・この様に大蔵省は強い影響力を持ったが、1990年代になると不良債権問題や金融業界との癒着で批判されるようになり、金融部門は金融庁として分化する。さらに省庁再編で財務省と名称を変え、経済財政諮問会議が経済政策の司令塔になる。これに対し財務省は、民主党政権で財相経験者を首相にする。しかし第2次安倍政権は財務省の影響力を削ごうとしている。
○自律的調整システムとしての旧内務省系
・予算編成における枠組とは別に、日常的な調整は閣議前の事務次官等会議で行われた。この会議は内閣官房副長官が議事を進めた。この会議で国会に提出される法案が協議されるが、政治家に提出する前の事前調整の場となった。すなわち政治の枠組である大臣による閣議と、官僚制の枠組である事務次官等会議が対になっている。閣議は官房長官が仕切り、事務次官等会議は官房副長官が仕切るが、官房副長官は官房長官の指揮に従い、官僚制の政策志向を官房長官に伝達した。その意味で政官関係は官房長官と官房副長官の関係と云える。
※政官の接点はここに集約されるのか。官房副長官は1998年までは政務1人/事務1人で、以降は政務2人/事務1人。
・小泉政権以前、官房副長官は自治・厚生・労働・警察などの旧内務省系から輩出された。事務次官等会議は分かれた後も職員名簿を共有するなど、旧内務省系のネットワークを維持した。ここでの調整は死活的に重要ではないが、割拠性の高い官僚制を統合する役割を担った。※後藤田正晴が官房副長官を評しているが省略。
・この様に旧内務省系の出身者が官房副長官に就任し、官僚制の問題を自律的に処理した。1990年代になると、この任期が長期化する。1993年自民党が下野し、政権に復帰するが、この時自治省出身の石原信雄が7年4ヵ月務めた。次に厚生省出身の古川貞二郎が、小泉政権誕生まで8年7ヵ月務めている。※以前、官房副長官補が政治を動かしているとの本を読んだ。
○アイデアの政治の牽引車としての通産省
・これまでに述べた大蔵省/内務省は伝統を継承する省である。一方通産省/経産省は、継続性よりも適応性を重視し、能動的に変革を試みる省である。日中戦争が始まり総力戦になり、そこに登場したのが岸信介などの「革新官僚」だった。彼は満州国の重工業化を推進し、東条英機内閣では商工相に就いた。
・通産省は、1960年代にはIMF8条国への移行、1970年代は石油危機への対応、1980~90年代は貿易摩擦の前面に立った。彼らは高度経済成長/石油危機への対応から強烈な自負心を持ち、多くの改革者が生まれた。改革官僚は政策評価技法の開発・普及/省庁再編/公務員制度改革などを主張するようになる。しかし通産省は省庁再編でも内閣官房に多くのポストを得られず、公務員制度改革でも能力等級制度への改革はできなかった。改革では財務省/旧内務省の継続性・安定性が重視された。
・しかし第2次安倍政権では、今井尚哉秘書官などの経産省出身者が大きな発言力を持ち、地方創生/女性活躍/一億総活躍/人づくり改革などを牽引している。この様に通産省は「アイデアの政治」を推進しているが、省がそれで一丸となっている訳ではない。
○自己抑制者としての法務省・外務省・防衛庁
・法務省/外務省/防衛庁は重要な機能を担う。戦前、司法省は政治家の汚職を摘発した。軍は政治介入を辞さず、政府の外交方針を公然と批判し、太平洋戦争に突入した。しかし戦後は、これら3省は政治に介入する事なく、専門性を高めている。
・法務省は検察庁を抱え、検察官が主導する。1954年造船疑獄があり、法相が指揮権を発動し捜査を終了させ、池田勇人/佐藤栄作などの政治家を守った。しかしその後は政界と距離を置いている。
・外務省は日米関係を基軸とし、条約の法技術的解釈を担う条約局が主流である。1991年「臨時行政改革推進審議会」が「対外政策推進体制の整備」を提言し、総合外交政策局が設置される。これに伴い職員数/所轄事務は増大された。そのため省庁再編で大きな変化はなかったが、別途改革が進められている。
・防衛庁は憲法第9条より専守防衛を方針とし、文民統制/文官統制の仕組みとなった。しかし冷戦終結後はPKOなどの集団安全保障への関与を求められるようになり、防衛庁も政治との関係が強まり、2007年防衛省に昇格する。こうした中、内閣法制局による憲法解釈が政治化した。
○与野党間の調停者としての法制局
・内閣法制局は内閣に属するが独立性を保ち、法令・条約を徹底審査し、憲法解釈を国会で確定する。長官は閣議に陪席する。職員は法務/総務/財務/経産/農水などの各省から出向している。第2次安倍政権で外務省出身者が長官に就き、これまでの慣行が破られた。
・内閣法制局長官は国会で憲法解釈を答弁した。そのため事前に閣内で調整し、野党の質疑に応じた。これにより憲法解釈が明確になった。このように内閣法制局は法令を審査するだけでなく、与野党間の調停者となった。しかし冷戦が終結し、PKOなどの自衛隊派遣を求められるようになると、政治は内閣法制局の改組や役割の縮小を求めるようになる。
○独立機関
・省組織以外に、裁判所/会計検査院/人事院などの独立機関も存在する。初期の自民党内閣は、人事院/公正取引委員会の廃止を求めた。しかし1960年代に対立を表面化させなくなった。
・裁判所が違憲立法審査権を行使したのは1970年代に入ってからだ。嘱託殺人を厳格に規定した刑法を違憲とする事案、娘に子供を生ませた実父を殺害した娘の事案で最高裁判所が違憲立法審査権を行使した。これは司法が慎重な対応を取り続けた事を意味する。
・これらの安定的な関係は1990年代に変化する。米国が非関税障壁の打破を求めた事で、公正取引委員会の権限は強化された(※縮小では?)。日銀は日銀法改革で独立性を高めた。地方分権改革により、国の関与が縮小された。司法制度改革も行われ、裁判員制度の導入、法科大学院の設置、裁判外紛争解決の導入(※和解かな)などが行われた。民主化/グローバル化から、独立機関の権限は強化された。※冷戦終結/バブル崩壊は多大な変化を起こしたかな。
<4.政治と省組織・独立機関との安定的な関係>
・この様に官僚制は主体的に政策形成に対応し、独立機関は消極的に事務を遂行した。古典的5省は安定的に行政活動を行う一方、通産省・経産省が変化を起こした。「政高官低」の指摘もあったが、官僚制は自律的に政治に対峙した。
・小泉政権は経済財政諮問会議を中心に改革を進め、総合的制度設計/自律的調整/アイデアの牽引/自己抑制/与野党間調整などを機能させた。ところが第1次安倍政権/民主党政権はこれに失敗する。
第4章 小泉政権以降の自民党と官僚制
<1.1990年代の改革による内閣強化と省間バランス>
○国家の減失
・1990年代に政治機構の全面的な改革が行われ、独立機関は強化された。2001年1月省庁再編が実施され、4月に小泉政権が誕生し、実質的に新しい省組織を動かした。小泉政権は数多の改革を作動させたが、本章はそれを解説する。
・1990年代は、政治改革/地方分権改革/省庁再編/司法制度改革などの憲法上の機関の改革が進められ、憲法附属法の公職選挙法/地方自治法/内閣法/国家行政組織法/裁判所法などの法律が改正された。これにより地方自治体/司法権/日銀などの独立機関の権限は強化された。逆に言えば、国家は国際機関に対し、中央政府は地方自治体に対し、行政機関は司法・立法機関に対し権限が縮小された。これは「国家の減失」「統治からガヴァナンスへ」と称された(※こんな表現があったかな)。日本国憲法は本来この方向に適合しており、自民党長期政権がこれを妨げていたが、自民党が一旦下野する事で、一連の改革が成された。
○内閣機能の強化と省間バランス
・しかし今ではこの想定(※行政機能の縮小?国家の減失?)は楽観的とされ、改革は逆方向に向かっている。第1に、「内閣機能の強化」として内閣官房の権限が強化された。省庁再編は「セクショナリズムの打破」が目的だったが、首相と補佐部局の強化は、「国家の減失」の反対になった。それが小泉政権の「官邸主導」である。
・第2に、「大括り編成」となったが、「省間バランス」は維持され、各省同格の規格化(?)も維持された。一方で内閣による各省の統制・調整は強化された。一方民営化/構造改革などを除いて、政策形成は官僚主導で行われた。
・そもそも政権交代は強い省と強い党との連合により政策革新される。他方「省間バランス」の強化は、既存政策を微調整する長期政権に適合する。この典型が小泉政権で検討が始まり、第1次安倍政権で実現した防衛省への昇格である。これにより省庁再編は完成し、それを円滑に作動させるための組織原理(※古典的5省?)は維持された。
・以上から第1に、政治改革で政権交代の可能性が追求され、独立機関は強化された。第2に、首相と補佐集団による政策形成が可能になった。第3に、自民党長期政権の基盤である「省間バランス」は維持された。つまり狭い領域は「官邸主導」で政策形成されたが、他の領域では以前同様、与党と官僚が政策形成を主導した。当時「シングル・イシュー」と批判されたが、それは1990年代の改革後の政権の宿命となる。※「官邸主導による政策形成が可能になった」って事かな。
・政官関係から見ると、当時は官僚バッシングが激しかった。衆議院は小選挙区比例代表並立制に替わるが、政権交代は見出せなかった。そのため選挙で信任された政権が課題を整理し、セクショナリズムを克服して省間調整される政策形成が、「官僚バッシング」に応える方向性になった。※政権交代の可能性が高いと、例えば「自民党は経産省と連合し改革を進め、民主党は厚労省と連合し改革を進める」となるのかな。
○滞りなく作動する省庁再編
・滞りなく省庁再編が作動したのは、周到な準備による。1997年に最終報告が出され、それから3年間の準備後に実施された。※官房副長官・古川貞二郎の回想が記されているが省略。人事での対応などが記されている。
・省庁再編で財務省/外務省/法務省/防衛庁/経産省/内閣法制局などは大きな変化がなかった。一方内務省系では、厚生省/労働省が厚生労働省となり、建設省/運輸省/国土庁などが国土交通省になり、自治省/郵政省/総務庁などが総務省になった。官僚制の中核的な省は温存された。
・これに対し「政策調整システム」は作動しなかった。従来は所管省が他省に政策案を説明し、了解を得る所管省が主導する方式だった。これが他省が所管省に能動的に意見する仕組みに替わったが、これは今でも作動していない。
<2.政権中枢の再編>
○新しい府省庁の発足
・省庁再編により内閣の機能が強化された。従来の内閣官房と総理府の関係は、内閣官房の定員が少なく、総理府に内閣官房と同じ室を設け、そこに職員を配置し、上位職員が内閣官房を兼務する方式だった。ところが省庁再編により内閣官房が首相を補佐し、内閣府は「知恵の場」となり、経済財政諮問会議/総合科学技術会議/男女共同参画会議/中央防災会議などが設置された。しかし森喜朗内閣はこの斬新な発想で政権運営に臨まなかったため、官僚や大臣の行動は変わらなかった。
・ところが4月に就任した小泉首相は「自民党をぶっ壊す」として、派閥に捉われず組閣し、経済財政政策担当相の竹中平蔵に経済財政諮問会議を運営させた。小泉政権は民間議員と調整し、6月予算編成の基本方針「骨太の方針」を打ち出す。財務省もこの手続きに従った。
・竹中・経済財政政策担当相は「年の前半に政策を議論し、後半に『骨太の方針』に沿い、マクロ経済との関係で予算を編成する」と述べている。さらに「2つのポイントで改革を進める考えだった。1つは、『骨太の方針』の政策を確実に担当省に実施させ、予算に反映させる。もう1つは、予算編成はマクロ経済と財政を明示的に関係付け、その仕組みを作る」と述べている。この「マクロ経済と財政を明示的に関係付ける」は財務省の協力が必須となる。
・さらに彼には2つの独自性があった。1つは「政策実施のスケジュール」である。もう1つは、会議後の情報公開である。その頃からウェブサイトに情報が公開されるようになり、メディアの関心を高めさせた。また彼は「改革なくして成長なし」を発信し続けた(※これは小泉首相の言葉と思っていた)。彼は経済財政諮問会議を作動させるため、多くの工夫を凝らした。
・彼と財務省との緊張関係は続くが、民間議員と協力し、改革を進めた。目標を達成するため、少ない人的資源を徹底活用した。この省庁単位の「最大動員」により、省庁セクショナリズムが克服され、内閣府の会議体を中心に動員された。※少ない人員なのに最大動員?
○特命担当相の意味 ※担当相の仕組みは、以前から知りたかった。
・小泉政権は特命事項に対し特命担当相を任命し、それを補佐する本部を多数設置した。本来は政策担当官が補佐する会議体が予定されていたが、内閣官房に郵政民営化などの政策を担当する本部を設け、特命担当相に任せた。大臣の数は制限があるため、特命担当相は兼任となった。本部の人員は状況に応じた。小泉政権は徐々に特命事項を定め、円滑に政策形成した。
・郵政民営化では内閣官房に準備室が置かれた。これは総務省に任せず、首相直轄で行うためで、その後郵政民営化担当相に任せた。小泉政権で内閣官房は300人から700人に拡大した。内閣官房/内閣府は「最大動員」され、内閣官房長官・副長官がこれを監督した。
・小泉政権は官房長官・福田康夫を留任させた。外相に田中真紀子を任命するが、辞職し川口順子に代わる。当時外務省は混乱していたが、福田は「変える会」を通じ、外務省を改革する。省庁再編を全般的に見た古川・官房副長官がこれを補佐した。
<3.省間バランスの中の外務省改革>
○最大動員される省
・小泉政権で各省は従来通りの役割を果たした。財務省は経済財政諮問会議で妥協したが、財務省出身で首相秘書官となった丹呉泰健は、同じく財務省出身の官房副長官補・竹島一彦/伏屋和彦と共に政策調整を支えた。経産省は公務員制度改革に失敗するが、産業再生機構の設立、構造改革特区制度などの政策アイデアを牽引した。総務省は三位一体改革を行い、厚労省は社会保障費を抑制し、文科省は大学への予算配分「遠山プラン」を掲げた。
・経済危機/グローバル化の中で、「最大動員」が機能し、内閣府は政策発案とその調整を行った。省庁再編では主要省に大きな変更はなく、省間バランスは維持され、円滑に移行された。※この頃は改革の機運が高かったのかな。
○外務省改革
・しかし例外が外務省である。外務省は省庁再編の影響を受けなかったが、田中真紀子外相と影響力を持った鈴木宗男が激しく対立する。内閣は田中を更迭し、鈴木は衆議院議員運営委員長から退任させられ、後任の川口順子外相に外務省改革を委ねた。
・当時外務省には公金流用/内部機密費横領などの不祥事が続き、危機的状況にあった。2002年7月「変える会」が人事制度/組織運営/政官関係などの改革案を提言する。結果、領事局の設置、条約局から国際法局への名称変更、総合外交政策局の権限強化などの改革が行われる。職員からの提言もある「自己改革」となった。
・内閣も各省もメールマガジンなどの情報発信に努めた。官邸は組織を活用したが、それは限定的だった。内閣府に設置された会議体で、官房副長官を中心に調整された。大臣と官僚は政策イニシアティブの発揮に務め、政官が協働した。小泉政権は与党と対立したが、政府では政治家と官僚の対立は鎮静化した。
<4.首相公選制の提唱>
・小泉首相は総裁選で橋本元首相に圧勝し、内閣支持率も高かった。派閥順送りの人事を拒み、族議員に抗じ構造改革を推進した。首相公選制を検討する懇談会を設置した。しかしこれは憲法に抵触するため、憲法改正が必要になる。小泉政権では憲法を超える改革も検討対象になった。この姿勢の帰結が、2005年郵政解散である。郵政民営化法案は衆議院で通過するが、参議院で否決されると、衆議院を解散した。これにより政権の正当性を問うた。
・小泉政権には常に郵政民営化の宿願が伏在した。政権発足後の2001年6月、郵政3事業の在り方を考える懇談会を設置する。2002年9月報告書を提出している。これと並行して日本道路公団の民営化も検討している。道路族議員の激しい反発に遭うが、民営化の方針を堅持する。郵政民営化の基盤になったのが、経済財政諮問会議である。これと並行して首相公選制も検討している。
・小泉政権は、①目的の明確化、②省庁再編の果実を作動させた、③国民の支持に依拠し官邸主導を進めたが成功要因である。2005年10月内閣改造で竹中氏を総務大臣に転任させ、郵政民営化を委ね、官邸主導/構造改革のすべてを郵政民営化に集中させた。
<5.第1次安倍政権の混乱>
○官僚機構に対する敵愾心
・あるマスメディアは、「第1次安倍政権は、政治主導/システムの改変/官僚機構への敵愾心が強く、霞が関と衝突した」と批評した。この政権は、制度改革を止める方向に進み、政権は弱体化した。※具体例が欲しい。
・この政権は当初から心配された。第1に、内閣官房副長官に長く官界を離れていた元大蔵官僚・的場順三を任命した。彼は省庁再編後の実情を知悉しておらず、適切な指示ができなかった。第2に、首相秘書官にノンキャリアを抜擢したが、彼は秘書官全体を統括できなかった。※何れも重要としたポストだな。
・運用の保守でも失敗した。安倍首相は構造改革に消極的で、経済財政諮問会議はペーパーを読むだけの形式的な会議になった。そのため財務省が財政政策を主導する小泉政権以前の体制に回帰した(※秀吉には竹中/黒田、家康には四天王がいた)。また閣僚の不祥事も続いた。官房長官と閣僚の対立があり、大臣が省を掌握する能力も不十分だった。結果、内閣は機能しなくなった。
・安倍政権は道州制改革/公務員制度改革を打ち出すが、政権批判は高まった。この政権は「戦後レジームからの脱却」を掲げ、憲法解釈の変更も辞さない姿勢を示した。2007年5月「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)を設置する。しかしこの懇談会は安倍政権で5回開催されただけで終わる。また内閣法制局との対立は次の民主党政権に引き継がれた。
○制度の作動に関心を持たない政権
・2007年9月安倍政権は崩壊するが、しなかったとしても改革の準備を周到に進め、改革案を成立させる事は困難だった。これは安倍首相のスタイルではない。イレギュラーな人事により、閣僚/会議体/官房副長官/秘書官は機能しなくなり、政権は短期で崩壊した。安倍首相は制度の作動に関心がなかった。これは制度の作動に2年間を費やした小泉政権との決定的な違いである。
<6.福田康夫・麻生太郎による制度作動の再建>
○小泉政権への軌道復帰
・2007年9月自民党は参議院選挙で惨敗し、安倍首相は辞任する。小泉政権で官房長官を務めた福田康夫が首相に就く。官房副長官には元自治省の二橋正弘を再任し、小泉政権への回帰を図った。彼の関心は、①社会保障制度の充実と財政再建、②公文書管理制度の設計、③消費者問題に関する組織の新設だった。
・2008年1月「社会保障国民会議」を設置する。これは異例の規模の有識者会議で、総会と3つの分科会が置かれた。同時に社会保障担当の内閣補佐官を新設した。
・3月公文書管理に関する有識者会議を設置する。7月公文書管理法案の作成を命じる。首相退任後の11月、公文書管理の基準が策定される。内閣府に公文書管理委員会を設置し、公文書管理の一元管理を提言する。
・福田首相は年頭会見で「生活者・消費者が主役になる社会」を述べる。1月「冷凍ギョーザ事件」を機に消費者行政担当大臣を置き、消費者行政推進会議を設置する。4月消費者庁設置の方針を打ち出し、9月消費者庁関連法案を閣議決定する。
○福田政権を継承する麻生政権
・これらの作業は麻生政権が継承した。消費者庁/消費者委員会は設置され、公文書管理法も制定された。第1次安倍政権で作動不能となっていたが、回復する。公文書管理問題は民主党政権でも役割を発揮する。第2次安倍政権以降では森友学園問題で公文書改竄が発覚し、一層の整備が求められる。これは制度が作動したからこそ、充実が求められたのだ。
・福田首相は、年金/雇用/医療/介護/子育てなど社会保障を幅広く検討した。並行して消費税の引き上げの検討も滲ませた。福田退陣後の11月、社会保障国民会議は最終報告書を提出する。
・麻生首相は福田政権に続き、経済財政政策担当相に消費税引き上げに積極的な与謝野馨を任命する。12月彼は「中期プログラム」を作成し、そこに2011年度より消費税を含む税制抜本改革を実施する事を記載した。これを受けて、2009年度税制改正法附則104条に「2011年度までに法制上の必要な措置を取る」と規定された。
・福田・麻生政権は、民主党政権における「社会保障と税の一体改革」の準備を進めた。これは「安心社会実現会議」にも表れている。座長代理に社会保障国民会議の座長を就かせ、委員に野党系の宮本太郎を起用し、報告書の原案を作成させた。※この頃は挙国一致だな。
<7.小泉政権の制度の動かし方>
○拒否する安倍と継承する福田・麻生
・小泉政権は経済財政諮問会議を軸に制度改革を断行した。与党とは対立したが、組織再編/政策革新/制度運用の改革を行った。第1次安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を掲げ、道州制改革/公務員制度改革などの政策革新を進めようとするが及ばなかった。福田・麻生政権で小泉政権以前の安定的な仕組みに修正される。これに続く民主党政権は、組織再編/政策革新/制度運用を個別に進め、虫食いの変革となる。
第5章 民主党政権の混乱から学ぶ
<1.それまでのルールの作動を止める>
○政権交代が生み出す混乱
・「民主党は途方もない失敗だった」との認識があり、民進党などの後継政党の支持率は圧倒的に低い。福島原発事故を始め、多くの「失敗の検証」が行われているが、政策の結果としての不完全以上に、プロセスの混乱が失敗とされている。
・どの国でも政権交代で混乱は生じているが、2009年政権交代は衆議院での議席逆転によるもので、新しい時代への転換点になった。この混乱は、①転換期に生じた混乱、②政権交代による混乱(※転換期と政権交代は違うみたい)、③戦略の失敗による混乱に分けられる。鳩山由紀夫政権の発足当初、閣僚の多くが「白紙に戻す」「見直す」と表明した。政権交代により旧来のルールが停止された。
○制度を再ぶ動かす事の難しさ
・しかし「脱官僚依存」「政治主導」で停止した官僚制を再び作動させるのは困難だった(※民主党が停止させて、民主党が再作動させようとした?具体例が欲しい)。政治家が作成した法案は多くの欠陥を抱えた。また政務三役に就かない議員の不満も積もった。そのため菅直人政権で政策調査会を復活させ、野田佳彦政権でそれに事前審査権を与えた。ここから導かれるのが、新しいマニフェストを掲げる政治家が、前政権の政策に固執する官僚とどう協力し、新しい政策を作動できるかである。
・そこで本章は第1に、政と官のルールの転換期固有の混乱として、民主党政権発足時に着目する。民主党政権は従来の政策を見直すとして、情報公開を通じて透明化を図った。行政刷新会議による事業仕分けは成功例と云える。後の第2次安倍政権以降での公文書の廃棄・改竄は、そのために強く批判された。第2に、マニフェストに掲げた政治主導を当初の100日間で、どの様に作動させたかを考察する。第3に、古典的5省/経産省/内閣法制局などを巡る政官関係の改善を考察する。最後に、成立した法律の意義を考察する。これには意図が反映されたものもあれば、意図せざる変化を生んだものもある。また野田政権では、マニフェストにない「社会保障と税の一体改革」を基本施策とした。三党合意で消費税増税となり、これは安倍政権を拘束した。
<2.政権発足と透明性の確保>
○行政刷新会議による事業仕分け
・民主党政権は「国民が第一」「国民目線」をキャッチフレーズに使ったが、「情報公開」は優先的課題にしていなかった。2009年マニフェストでは「随意契約/指名競争入札は、情報公開を義務付ける」「政治家と官僚の接触は、情報公開で透明性を高める」「税金の使い道を明らかにする」など、情報公開はツールだった。鳩山政権の「5策」の5番目は、「国民的な観点から行政全般を見直す『行政刷新会議』を設け、予算・制度を精査し、無駄・不正を排除する」となっている。
・行政刷新会議の事務局長にシンクタンク「構想日本」の加藤秀樹を迎えた。彼の提案により「事業仕分け」が実施される。これは財務省の予算編成と連動しており、財務省も協力した。これは「立ち見」が出るほど関心を集めた。蓮舫参議院による「一番じゃなきゃダメですか」も注目された。世論調査では「ムダ削減」の評価が76%に達した。予算編成でも、藤井裕久財務相の指示で、概算要求の関係書類や事業概要がインターネットで公開されるようになる。
○公文書公開
・並行して外務省での文書公開も進められる。岡田克也外務相は、①1960年日米安保改定時の核持ち込みに関する密約、②朝鮮半島有事の戦闘作戦行動に関する密約、③1972年沖縄返還時の核持ち込みに関する密約、④原状回復補償費の肩代わりに関する密約の調査を命じる。2009年11月これらに関する35文書が確認される。有識者委員会がこれを検討し、2010年3月③の存在は確認されないが、①②は英文の写しが存在し、④は米国の国立図書館で確認された。これらから公開の機運が高まり、(2010年?)12月佐藤栄作元首相邸から③の密約本文が発見され、佐藤信二・元通産相から外務省に写しが提出される。
・もう1つが外交公文書の公開方針が定まった事である。従来は保存期間は最長30年で、その後選別された物が外交史料館に移管される決まりだったが、選別審査が滞っていた。岡田外相は、外交文書は30年後に公開する「外交記録公開に関する規則」を発する。さらに未公開文書を整理するため、政務三役/官僚/有識者からなる「外交記録公開推進委員会」を設置する。これは民主党政権後も継続している。
・11月鳩山政権は官房機密費の存在を認め、2004~09年度の官房機密費の支出記録を公開する。その後2012年11月野田政権は民主党政権が発足した当初の機密費を、2013年1月第2次安倍政権は民主党政権での機密費を公開している。
・これらの情報公開の流れは政権交代による。一方で政権に不満を抱く内部からの情報流出も起こっている。2010年9月尖閣諸島沖で、海上保安庁の巡視船と中国漁船が衝突した。これに政権は漁船を返還し、船長も釈放する。これに怒りを感じた保安庁職員が、衝突現場の動画を流出させる。この様なリークは第2次安倍政権以降も頻発している。
○公文書管理法と政務三役会議の議事録問題
・公文書管理法は2009年麻生政権で制定され、2011年4月施行される。2010年4月枝野幸男行政刷新担当相は、政務三役会議の議事録を公開する方針を各省に伝える。そこで東日本大震災での諸会議の議事録が作成されていなかった事が問題になる。これは公文書管理委員会の調査事項になり、2012年4月報告書を提出し、7月閣議・閣僚会議の議事録の作成・公開の制度化を提案する。10月野田政権は政務三役会議の議事録の作成義務はないとするが、閣議議事録は作成・公開を原則とする。2014年4月安倍政権で閣議議事録の公開が開始される。
・この様に民主党政権は政権内の情報開示を決定付けた。以後情報公開が基調となる。その典型が官房機密費である。第2次安倍政権は民主党政権の機密費の総額を公開するが、自身の機密費は公開しなかった。これに対し訴訟が起こり、2018年1月最高裁判所は、一部文書の開示を命じている。情報公開が原則になり、これに政権が消極的な場合、リークや訴訟が起きるようになった。
<3.100日プランと政治主導>
○政権獲得のスケジュール
・2003年民主党は菅代表の下で初めて「マニフェスト」を作成する。これは政権獲得後を4つのステージに分け、改革を断行する構想になっている。2005年岡田代表の下で、これは「500日プラン」として修正される。両者とも「政権獲得30日以内に重要政策を確認し、『100日改革プラン』を作成する。100日までに所信表明演説と予算編成を行う。300日までに重点政策を実行し、中長期的な改革を進める」としている。その方向性は、「財政面で無駄を排除し、予算編成を透明化する」「各省の幹部人事で政権に協力する人を任命し、外部人材も登用する」「省庁編成を柔軟にするため、編成権を法律から削除する」としている。
・しかしその両者に違いもある。2003年マニフェストには、「政権運営基本方針の策定」「事務次官会議の廃止と副大臣会議の創設」「主要閣僚の官邸常駐化」があったが、2005年「500日プラン」にはない。またマニフェストでは、「政権獲得5日間で首相・官房長官などの『官邸・内閣チーム』が方針を策定し、30日以内に大臣・副大臣を決定する」としていたが、「500日プラン」では、「30日以内に『政権移行委員会』が、党・国会・省庁のポストを内定するが、慎重に行う」としている。
・この様に代表によって政権獲得後のプランに違いがあった。2009年鳩山政権が成立すると、基本方針となる「5原則」「5策」を示す。「政務三役による政策決定」「閣僚委員会(?)の活用」「官邸機能の強化」「各省幹部人事の制度改革」「省庁再編の機動的決定」を打ち出す。また重点政策については、2010~13年度の「マニフェストの工程表」を発表する。
・9月16日鳩山代表が首相に指名されると、『基本方針』『政官の在り方』を発表する。17日組閣を終え、18日副大臣・大臣政務官を決定する。この時「政権移行委員会」は設置されず、早急に人事が行われた。
○政務三役会議と官僚の役割
・『基本方針』では「政務三役会議を設置し、国民の視点で政策を立案・調整する」とし、「『政』が政策を立案・調整・決定し、『官』がそれを補佐する」とした。民主党政権はマニフェストを政務三役で実現しようとした。
・民主党はマニフェストの項目数を絞り込んでいた。民主党は2009年182項目を挙げていたが、2012年168項目に絞っている。一方自民党は2009年113項目から、2012年328項目に具体化・詳細化している。ただし『民主党政策集』には、2009年衆院選で350項目、2013年参院選で406項目で、その中から絞ってマニュフェストに掲載している。
・政務三役はマニュフェストに記載された政策に取り組むのは当然だが、環境変化によるニーズにも応える必要がある。こちらに関しては政務三役と官僚が協議し、判断を下す事になる。
○突発的な危機への対応
・民主党政権でも第2次安倍政権以降でも、マニフェストに不測の事態の記載はない。そこで民主党政権に直撃したのが東日本大震災/福島原発事故だった。政務三役は大臣経験がなく、マニフェストに危機管理の記載もないため混乱した。
・官僚から政務三役に「情報の提供」「複数の選択肢の提供」だけで済むはずはない。政務三役が関係者の利害を把握し、国会/与党と調整する事になるが、そうであれば官僚制と密に接触しておく必要がある。「政治主導」で意思決定するには、選択肢から拾い上げる閉じた関係(?)になるが、そうなると官僚は働かなくなる。「100日プラン」は、政権が官僚の人事権を把握すれば、官僚は政権に協力すると考えており、官僚が働かなくなる事を想定していない。民主党は、このサボタージュを想定していなかった。
○官僚の側から見た政治主導
・「100日プラン」に政治の役割は書かれているが、官僚の役割が書かれていなかった。そのため混乱が生じた。2018年立憲民主党の逢坂誠二議員が、「公文書管理では廃棄・保管が論点になるが、記録の概念が抜け落ちている」と述べている。この様な思考に至ったのは、政権を追われ5年以上経ってからである。
・そのため第2次安倍政権では、省の主導権を政務三役に持たせず、「官僚主導」に戻した(※官邸主導と感じるが)。中核的な省の大臣には経験豊富な政治家を任命し、他の省では官邸に終結した政治家・官僚がその大臣を指導した。これが政府を作動させる簡便な方法だった。しかし5年も経過すると、失敗した政策に対し、官邸も各省も責任を取らなくなった。
・自民党長期政権時代の官僚を表した『お役人操縦法』と云う本がある。そこには「大臣・局長・課長補佐、全てに拒否権があり、役所は下意上達である」と書かれている(※本文省略)。これが政治主導になると、官僚が「面従腹背」の手段に出る事が起こる。それが文科省の事務次官を辞した前川喜平である。
<4.省庁再編と各省を巡る政官関係>
○省間バランス打破の果て
・民主党のプランには、省庁再編を国会の法律事項ではなく、首相が決定するように変更する項目があった。これは省間バランスの打破が目的だった。しかし2010年参院選で破れ、実現不可能となる。可能なのは重要性の高い局・課の人員を増やし、重要性の低い省の人員を減らす方法である。しかしこれは官僚からの積極的な協力が得られなくなる可能性がある。そこで本章では各省と民主党政権の関係を見ていく。
○財務相
・民主党政権が最も依拠したのが財務省である。それは菅/野田が財務相から首相になった事からも分かる。また政権発足前、財務省と外務省とは非公式に交渉していた。民主党政権は経済財政諮問会議の議員を任命せず、財務省を牽制する組織はなくなった。片や財務省は事業仕分けで政権に協力した。菅首相の時、財務危機になると消費税増税の方向に向かい、野田政権での「社会保障と税の一体改革」で消費税増税が決定する。これは小泉政権での「官邸主導」に代わる「政治主導」の仕組みが作れなかったため、予算での統制力を保っていた財務省と協力関係になった。
・菅首相は財務相時代にG7に出席し、財政破綻の危機を認識し、経済財政政策担当大臣に自民党を離党した与謝野馨を任命する。野田首相も代表選で財政再建を公約にしたため、これに邁進する。
○内務省系の省
・民主党政権は事務次官等会議を廃止する。しかし官房副長官に事務次官経験者を起用したためネットワークは破壊されなかった(※でも事務担当の官房副長官は1人だけど)。民主党政権は「政治主導」を官僚人事ではなく、制度変更で対応しようとした。
・そこに起きたのが東日本大震災だった。菅首相は事務次官等会議の廃止を唱えていたため、被災者生活支援各府省連絡会議/東日本大震災各府省連絡会議を設置し、さらに各府省連絡会議に拡大する。
・厚生労働省関係では「子ども手当」、国土交通省関係では公共事業の削減/高速道路の無料化などがあり、民主党は内務省系の政策を最も転換させようとした。総務相に片山善博を任命し、地方自治法の改正が結実する。これらは民主党政権で成功した制度である。※作動も成功したって事かな。
○経済産業省
・民主党政権は労働問題・環境問題には熱心だったが、経済に関しては消極的だった。そのため経産省との関係は冷淡で、経済界との連携も難しかった。福島原発事故で経産省との関係はさらに冷え込む。しかし電力自由化では電力業界の統制を強められるため、経産省の協力を得られた。
・最大の対立点は原子力安全・保安院の改組だった。結果として環境省の外局として「原子力規制委員会」が設置され、その事務局が原子力規制庁となった。原子力規制委員会は原発再稼働の規制基準を纏めた。これは民主党政権で成功した組織となった。
○外務省・法務省・防衛省
・岡田外相により密約の調査と外交文書の公開原則が作られた。後任の外相も無難にこなしたが、問題は首脳外交である。鳩山首相の普天間基地移設での「最低でも県外」は、米国の信頼を失墜させた。また尖閣諸島の国有化は、日中関係を決定的に悪化させた。
・政権発足前に小沢一郎代表が追い落とされた事で、民主党政権は法務省とりわけ検察庁を敵視した。鳩山首相は小沢を激励し、「検察と闘って欲しい」と述べた。また捜査の可視化と死刑廃止については有識者会議を設置した。2010年9月大阪地検の証拠改竄事件が発覚すると、「検察の在り方検討会議」を設置する。しかし野田首相がこれを冷淡に扱い、検察改革は成らなかった。
・福田政権で「防衛省改革会議」が設置されていたが、民主党政権で「防衛省改革推進会議」が設置され、「防衛省改革に関する防衛大臣指示」が策定される。前政権で文官と武官が対等に大臣を補佐する体制が打ち出されていたが、民主党政権もその方針に従った。
・普天間基地移設問題により省内から政権への不満が高まる。野田政権は防衛相を北澤俊美から一川保夫/田中直紀に代えるが、何れも問責決議が可決される。民間の森本敏を任命し、やっと安定する。
○内閣法制局
・民主党政権は政治主導から、国会での官僚の答弁を原則禁止した。平野博文・官房長官は「憲法解釈は内閣法制局長官の過去の発言に縛られない」と発言している。2010年1月国会開会前に内閣法制局長官を交代させている(※民主党もやっていたのか)。その上で民主党政権は答弁担当大臣を置き、これに枝野幸男/仙谷由人/平岡秀夫を就かせた。内閣法制局長官は答弁担当大臣を補足する立場になった。※各省の大臣が答弁すれば良いのに。それとも内閣法制局限定かな。正式な担当大臣かな。
・自民党・公明党は内閣法制局長官の出席・答弁を求めた。答弁担当大臣を兼務していた仙谷官房長官が「暴力装置」と発言し、問責決議を受け退任する。そのため野田政権は内閣法制局長官の答弁を復活させる。
・第2次安倍政権でも内閣法制局長官に外務省から任命される。この様に政権交代により内閣法制局は与野党の調停の役割を終えた。
○独立機関
・民主党政権は地方自治に関しては、「地域主権回復」を唱えた。しかし大阪府知事・市長の橋下徹や阿久根市長・竹原信一の対応に苦慮する。
・裁判所に関しては、紛争解決を司法に委ねる改革を目指した。独占禁止法を改正し、公正取引委員会の審査制度を廃止し、行政処分を司法に委ねようとした(※こんなのあったかな。簡潔なので深く理解できないが、司法にその能力があるかな)。これは民主党政権では成立せず、第2次安倍政権で制度化される。
・公務員制度改革では、福田政権と民主党が協議し、国家公務員制度改革基本法が成立した。これには事務次官・局長などの人事を内閣人事局が一元管理する、政官接触の記録・管理・情報公開の措置の導入、労働基本法の付与などが規定された。
・2010年2月民主党政権は国家公務員法改正案を提出するが、成立しなかった(※両党が協議したのに)。第2次安倍政権は内閣人事局設置に絞り継承する。「今後の公務員制度改革の在り方に関する意見交換会」を設置し、2013年6月「今後の公務員制度改革について」を発表する。2014年国家公務員改正法が成立するが、これは内閣人事局の設置に絞られた。内閣人事局の職員は、内閣府人事局/総務省行政管理局/人事院から派遣された。
・例外となったのが原子力規制委員会で、環境省に国会主導で設置された。民主党政権は行政府内の独立性は尊重しないが、三権分立/地方自治は抑制・均衡を意識した。
○与野党協力による官僚制の改革
・この様に民主党政権は財務省とは協力的、外務省とは是々非々、旧内務省系には徐々に自律性を認め、経産省/法務省/防衛省/内閣法制局とは冷たい関係になった。民間から片山総務相/森本防衛相を任命するが、総務省/防衛省との関係を再構築できなかった。財務省/外務省を除いて協力関係を築けず、政策形成に戸惑った。
・ただし自民党・公明党と合意した「社会保障と税の一体改革」、原子力規制庁の設置、内閣人事局の設置は実現する。また以前の政権と異なり、民間からの起用が多く、有識者会議が多く設置された。この典型が野田政権での「国家戦略室フロンティア分科会」で、繁栄・幸福・叡智・平和をテーマにした。
・しかし民主党政権は与党事前審査制を廃止したため、小沢幹事長が政権に介入するようになる。そのため行政機関だけでなく、党からの協力も得られなくなる。※自民党と比べると、団結力が低かったかな。
・民主党は地方自治法/国家公務員法などの憲法附属法に及ぶ改革を掲げていたが、現行憲法の範囲内での改革を目指した。
<5.政策の継承と転換>
・2012年10月民主党の政策調査会が、2009年マニフェストの結果を分析する。対象は166項目で、実現51項目/一部実施63項目/着手26項目となり、実現は3割となった。政権崩壊後の12月、「失敗の検証」を作成している。そこには診療報酬のプラス改定、公立高校の授業料無償化、求職者支援制度、雇用保険の非正規労働者への拡大、生活保護の母子加算などの成果が記され、それは「コンクリートから人へ」「チルドレン・ファースト」による成果としている。※本文は省略。
・また一般的に「児童手当・子ども手当などの優先順位を上げ、マニフェストの半分の額しか実現しなかったが、総額は倍増した」「地方自主戦略交付金制度、国と地方の協議の場、義務付け・枠付けの見直しなど、地方分権で成果を上げた」と評価されている。研究会「二つの政権交代」でも分析したが、民主党政権で実現された政策の多くが定着している。マニフェストの一部しか実現できなかったが、変化をもたらした点は「成功」と云える。
・エリック・パタシュニクが米連邦政府の改革を、改革案が成立する局面と作動する局面に分けて分析している。これによると作動局面で、適切な利益・制度・構想を再配置(?)しないと、原案を維持できない。持続性は、①政策変化を促進する制度、②既存の社会構造を改変する創造的破壊、③変化した構造を保持する「政策フィードバック効果」による(※制度設計が重要かな)。
・ここで最も重要なのが「政策フィードバック効果」である。改革の帰趨は、社会集団との協力関係/利益の強弱によって決まる。民主党政権はこれが不足していた。続く第2次安倍政権でも農協であれ労働組合であれ、協力関係を持続できているとは言えない。
<6.小泉政権以降の政官関係>
・小泉政権以降の政権の政官関係を見る。小泉政権は経済財政諮問会議を基礎に、大臣議員と民間議員が議論し、各省に立案・調整を指示した。会議後に議事録などを公開し、国民の関心を集め、それを背景に官僚制を統制した。これにより党内の守旧派を打破した。
・第1次安倍政権は官邸に官僚を集め、官僚制と敵対した。しかし官邸では、閣僚/首相補佐官/官僚が反目し、組織化に失敗する(※組織化?)。そのため福田・麻生政権では安倍政権以前への復帰を目標とし、内閣官房副長官を中心に官僚制を束ねた。
・民主党政権は第1次安倍政権と同様に官僚制と敵対した。政務三役を中心に官僚制を統制し、マニフェストの実現を図った。政務三役は官僚と良好な関係を構築しようと、新たに有識者会議を立ち上げたが、混乱のまま政権は崩壊した。
・第2次安倍政権も「政治主導は不可逆」と考え、内閣人事局を制度化する。ただし政務三役ではなく、一部の大臣と官邸の政治家・官僚で官僚制を統制した。官邸の官僚の組織化に成功し、従来にない方法で官僚制を統制した。これにより危機管理/マクロ経済政策(アベノミクス)/外交・安全保障の政策領域で成功した。外交・安全保障では、国家安全保障会議とその事務局・国家安全保障局を内閣官房に設置した。
・一方で透明性は低下した。国家戦略特別区域諮問会議の議事録は公開されていない。森友・加計学園問題では公文書の廃棄・改竄が横行した。結果として政策決定の多角的検討を放棄し、成果の検証も十分行われていない。これは民主党政権と同様に「政策フィードバック効果」に欠ける。
・問題が発生しても政治家も官僚も責任を取らない事態となった。政治家は官僚制に責任を転嫁し、官僚制は公文書を廃棄し、「知らなかった」と責任を逃れている。その結果、各省幹部とノンキャリアを中心とする官僚との関係は冷めた。
第6章 政権交代後の官僚制を立て直すには
<1.政権交代によって選び取られた官僚制>
・小泉政権の「官邸主導」、民主党政権の「政治主導」を見てきた。そして第2次安倍政権以降では制度改革しても、それが崩れかねない状況にある。それは政治主導に欠陥があるからだ。本来なら官邸の政治家・官僚の交代で正されるが、安倍政権が強固であるため、それは望めない。
・政権は国民から預託されたもので、官僚制はその政権の下にある。公文書管理もこの図式の下にある。そのため政権中枢を忖度した公文書の廃棄・改竄に、国民の怒りが爆発した。公文書管理は国民が官僚制を造成する基軸であり、これが徹底される事で、特定の政治家に便宜を図る事はなくなる。政権交代によって公文書の秘匿が困難になれば、政治家は望まないだろうが、国民が望む官僚制に進み、政治を立て直せるだろう。
・本章では、そのために官僚制をどうすべきかを考える。まずは制度の原則を整理し、次にそのための方向性を掲示する。最終的に政権交代を経ても安定的に運営される段階となる。
<2.制度の原則と改革の原則>
○復活すべき制度原則
・現在の問題は、「政治主導」の運用の蓄積による。第1に、政治主導は捨てる事ができない。第2に、政治主導は政権幹部/官邸官僚/政務三役が担うが、これを国民が監視する必要がある(透明性)。第3に、第2次安倍政権以降で問題になったが、政権幹部が責任を取らなくなった。これに政権と独立機関が問題解決に取り組む必要がある。第4に、今後も政権交代は起こるので、短期的な課題と長期的な課題の双方を確認する必要がある。
・政治主導を強めつつ正す原則を掲示する。第1に、公約を実行するため官僚制を統制する政治的リーダーシップが必要となる。選挙で勝利しても、政権の組織化は途上で、制度も脆弱である。政権交代した際、官僚は新政権に協力すべきである。
・第2は、政治責任と行政への指揮命令系統の明確化である。行政の不祥事の責任は政治家にある。官邸の首相/官房長官/官房副長官が政務三役に指示する形にしなければいけない。政治責任から、官房長官が全体を把握する必要がある。
・第3は、政策論争の透明化である。加計学園問題の混乱は、内閣府の審議官、内閣官房の秘書官/首相補佐官が、機密や文書の不存在を盾に各省に高圧的に指示し、責任を押し付けた点にある。2001年の省庁再編では、官邸と各省の政策論争は経済財政諮問会議で行われ、公開された。ところが現政権は、政策論争は行わず、各種会議の議事録は公開せず、政権の目指す方向で纏められている。政策論争の透明化が必要である。さらにこれを独立機関が監督する制度が取られるべきだ。
○改革の原則
・次に改革の作動の原則を4つ掲示する。第1に、官僚制の刷新を急激に進めない事である。第2に、官僚の業務量を増やすのではなく、削減する事である。第3に、官僚制の上意下達を維持する。また政治から行政への指示は、これが適切かを政治が識別する必要がある(※官僚幹部人事への介入は行き過ぎかな。あくまでも官僚に任せるべきと思う。その上での政治主導かな)。第4に、国民から信頼されるため情報公開し、公文書を適切に管理し、透明性を確保する必要がある。
<3.内閣官房と内閣府における機密性・公開性>
○内閣官房における機密性
・公開性も必要だが、国家としては機密性も不可欠である。各省の組織令や官邸についての内閣法/内閣官房組織令に、機密に関する規定がある(※引用されているが省略)。首相に最も近い秘書官と閣議事務を担う内閣総務官に「機密」が要請されている。内閣総務官の上司である内閣官房副長官にも機密が求められる。文書を作成したとしても、数十年先で評価されるべきだ。同様の機密性は、内閣情報調査室/国家安全保障局/内閣人事局にも求められる。一方、首相補佐官/内閣官房副長官補には、機密性は求められない。
※秘書官と補佐官で違うんだ。飯島勲は秘書官だな。秘書官は7名、補佐官は5名以内。
○内閣府の公開性
・内閣官房に対し、「知恵の場」である内閣府には公開性が要求される。加計学園問題では、この両者で齟齬が起きた。柳瀬唯夫秘書官は先方と面会した事を否定していたが、愛媛県の公文書が公開され、面会を肯定する。許認可案件で秘書官が面会するのは不適切で、内閣府の担当者が対応すべきだった。
・これらの記録保持には2つの局面がある。第1に、官僚が政治家と接触した場合、何らかの記録が残る。従ってこれは公文書とし公開されるべきだ。陳情も公開されるべきで、独立機関はこれを調査・判断・勧告しなければならない。
・第2に、府省間の調整は、政策論争の中で行われるべきだ。行政改革会議で省庁再編を担った官僚・藤井直樹は、「省庁間調整システムは省庁間の政策論議を促し、政策形成を活性化し、透明化を実現する」と述べている(※調整システムは色々出てきたな。事務次官等会議の事かな)。さらに「第1に、内閣発意による調整方式(?)を具現化するため、各省大臣への特命事項を徹底する」(※組閣直後に各大臣が会見し、特命事項を発表するな。これは関係ないか)、「第2に、特命を受けた省庁の調整力を具現化するため、内閣の支援と内閣での調整システムを充実させる」、「第3に、調整の透明性を向上させる『インターエージェンシー』を活性化させる」と提唱している。しかしその後、この方向に進まず、内閣の調整システムは明確化・透明化しなかった。
○内閣官房と内閣府の関係の整理が必要
・特命担当大臣は政策統括官の組織を担当するだけでなく、本部・事務局を設け、それを担当する(※本部は内閣官房に置かれるみたい)。そこで特命担当大臣/政策統括官/本部・事務局と内閣府事務次官/官房長官との関係が複雑になる。省庁再編前は経済企画局/沖縄開発庁など、それぞれに事務次官/官房長官が置かれていたが、内閣府事務次官/官房長官に統合される。しかし彼らが多岐の組織を監督するのは困難である。
・例えば地方創生では、内閣府に「地方創生推進事務局」が置かれ、内閣官房に「まち・ひと・しごと創生本部事務局」が置かれる。前者は法律・予算・制度の運用を担当し、特命担当大臣が統制し、後者は企画・立案・総合調整を担当し、官房長官が統制している。本来は一元化されるべきだが、機密性・公開性の問題がある。また本部は一時的な場合もあるが、文書管理は確実に行われるべきだ。
・この様に内閣官房と内閣府の区分けが必要である。また内閣府内部の整理も必要である。本部を内閣府に移管する事が考えられるが、そうなると内閣府事務次官/官房長官が監督するのは困難で、審議官が多数配置される。そうなると内閣府幹部の在り方が問われるようになる。※在り方を具体的に説明して欲しい。
<4.省組織>
・現状は政務三役と官僚の関係が適切な指揮・命令関係にない。自民党長期政権では、大臣は事務次官を頂点とする官僚に指揮・命令関係を委ねていた。民主党政権は政務三役に取らせようとするが失敗する。第2次安倍政権以降では、官邸主導と官僚主導が折り重なっている。官邸の政治家・官僚が主導する仕組みである。政治主導は全府省に及ぶべきだが、今は政務三役がマニフェストで公約した事項を官僚と協力して法案にする過渡期と云える。
・第1に、官邸からの指示により府省間及び官僚間で政策論争を行い、これを公文書として公開すべきだ。これには政治家の専門知識が必要である。また内閣官房は論争に加わるべきでない。第2に、官僚が野党対策などの調整を行い、政治家が最終的な判断をする必要がある。さらに政治家が政治的調整を行うようになれば、政治主導の時代になったと云える。
・この段階になると官僚制の政治的中立を制度にする必要が生じる。政務三役以外の政治家との接触を厳格にし、官僚が政治家に政策を具申する英国型の公務員制に向かう。これに一足飛びに向かうのは難しい。公文書管理を徹底し、官僚の幹部と末端の協力を維持しながら徐々に進める必要がある。
・政治改革に期待したのは政権交代により与野党が執務に関する知識を習得し、官僚が「政治的調整」の能力を習得する事だった。ところが民主党の閣僚経験者が引退するなどしたため、それが継承されていない。第2次安倍政権以降でも、それが成されているか疑わしい。政治家が選挙区での支持に注力する以上、政治家が政権担当能力を身に付けるのは難しい。政党/国会制度の課題は、今後も継続される。
<5.独立機関と文書・会計・人事>
・政務三役による政治主導が適切に行われているかを監視するのが独立機関である。これは文書・会計・人事機能に分類される。文書・会計・人事は、府省の大臣官房で「官房三課」とされる根幹的な組織管理業務である。しかし政治主導になると、官邸の意向が及んでくる。財務省による公文書改竄、防衛省の日報問題などが起こっており、官邸の不適切な組織管理が官僚制の基盤を損ねている。
・これに対処するのが文書・会計・人事に専門的な知識を持つ独立機関である。政権は自ら改革し難く、独立機関から指摘を受けて、改善すべきである。既に文書では公文書管理委員会、会計では会計検査院、人事では人事院が制度化されており、改革の方向を急転させる事はない。独立機関の長・委員は専門能力・状況判断力・政治センスが不可欠で、政権に対し強い勧告権限を持つ。
・公文書管理委員会は内閣府に設置され、首相の諮問機関になっている。これでは独立性は保たれない。民主党政権からの流れから、これを強化する必要がある。また委員の選任は国会承認とすべきである。会計検査院は憲法で保障された機関である。しかし森友学園問題のように会計の不備は指摘できるが、不当な行政活動の指摘は難しい。この点は改善が望まれる。人事院は公務員制度改革で廃止が検討されたが、内閣人事局の設置で、今は安定している。しかし有識者会議を設置し、人事院/内閣人事局の双方を評価すべきである。
・有識者会議などの第三者機関を設置したら、直ぐに権限が強化される訳ではない。また委員などの成り手を長期的に育成する必要がある。財務省から主計局を切り離す案が検討がされているが、むしろ経済財政諮問会議を活性化する方が有効だろう。
・公文書管理制度は2011年に施行されたため、まだ日が浅い。今日ではサーバーで一括管理が可能である。逆に言えば「機密性」は脅威になる。廃棄などを起こさないため、情報公開制度より歴史的文書の公開の慣行を官僚制に浸透させる必要がある。
<6.原則と改革の作動>
・本書が検討した制度改革は最低限の制度改革である。制度改革は初動が重要で、導入時に政治家・官僚の行動がどう変化したかを確認するのが出発点になる。原則は、①政治家のリーダーシップ、②政策論争の公開、③行政活動の記録と公文書の保存、④独立機関の強化である。これらは大胆な改革ではなく、現行制度の拡充である。
・独立機関の強化は新しい試みである。しかし日本は政権交代を2度しか経験していない。今後も政権交代が繰り返される中で、本章の原則に基づき改革を進めるべきだ。また制度が混乱に陥った時、この原則に立ち戻る必要がある。
おわりに
・本書は「透明性と機密性の制度原則の境界設定」「政治的リーダーシップと独立機関による監視」「公文書保存による政官関係の事後的な透明化」などの原則から制度改革の必要性を述べた。
・第2章の末尾で、意思決定の型を示した。官邸と各省の協議は期限付きとし、文書保存を的確に行い、適切に公開する。各省人事は順当人事を基本とするが、官邸がチェックする。これを作動させるためには、第6章で提案した制度原則が必要で、そのためには官邸に集結した政治家・官僚に、それに足る資質が必要である。
・第2次安倍政権以降でも、その資質が不足している。1つに、不祥事の原因となった首相/首相秘書官/官房長官/官房副長官/財務相などを資質のある政治家・官僚に交代させる必要がある。しかし未経験の政治家・官僚だと、制度は動かせなくなる。
・2つに、政権は国民の支持を意識せざるを得ない。そのため民主党政権も安倍政権も官僚制を統制し、政策を転換させようとした。国民は選び取った政権を監視し、その政権による制度・政策も国民の選び取ったものである。政策の転換は容易だが、官僚制を変えるのは容易でない。政も官も未だ自民党長期政権の慣行が根強い。原則に立ち戻り、様々な制度改革が順次移行する事を期待する。
・良質な改革としては「憲法改正」が自覚される。しかし円滑な改革を前提とするなら、憲法改正ではなく憲法附属法の改正が課題となる。しかし小泉政権が憲法改正を掲げた事で、憲法附属法の改正が容易になった。また安倍政権も憲法改正を掲げた事で、集団的自衛権の解釈が変更された。
・憲法改正は政治運動のシンボルになる。しかしポピュリズムに近く、経済危機・政治危機の混乱で憲法改正される可能性が高い。平時に憲法改正を唱えても、憲法附属法の改正で実現する。しかし混乱時には憲法は歯止めにはならず、根本から覆されるだろう。これを避けるため、原則の理解が重要である(※簡略化)。この様な成熟した段階に至って初めて、憲法改正が提案されるべきだ。政権交代が成され、政官関係の制度が徐々に作られ、その知恵を政治家・官僚・国民が身に付けた時、憲法改正を含め制度が転換されるべきだ。今はまだ準備期間である。
あとがき
・最近インターネットで様々なロボットの動画を見るが、これは官僚制の改革と同じと感じる。1990年代に様々な改革が行われたが、これは動かない模型を作っただけで、動く事を想定していなかった。その代表が民主党のマニフェストである。改革は、制度の作動を予測しなければいけない。
・1997年行政改革会議が最終報告を提出し、2001年省庁再編が実施された。この間、官僚が「自己改革能力」を発揮し、実効性のある改革に変換させた。しかし近年は拙速な改革を迫られ、政治が提出した案が国会で決まってしまう状況にある。市民が制度の作動を知り、官僚制の在り方を考える時が来ている。そのためには政治の透明性と成熟した政権交代が必要である。
・ITなどの技術革新により制度との付き合い方も変わり、エビデンスベースの政策決定も行えるようになった。本書は、こうした未来を見越した改革論を展開した。読者にそんな制度との付き合い方を感じて欲しい。