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『江戸の大事件』森田健司を読書。

かわら版を題材にして、江戸時代の慣習/怪異/天災/幕末を解説している。
これらの文化・風習は今にも通じていると思う。

日本で産業革命などは起きなかったが、日本は高い文化を持っていたと思う。

お勧め度:☆☆☆(楽しく読めた)
内容:☆☆

キーワード:<はじめに>かわら版、<瓦版の始まりは大坂夏の陣>読売、大坂夏の陣、飛脚、<現実を忘れる大金が転がり込む>埋蔵金、孝行息子、<江戸にも息づく霊異記>閻魔様、観音様、<出産という難事に教訓を添えて>妊娠・出産、<怖すぎる記事>継母、本妻・愛人、<笑ってはいけないが笑える珍事件>犬、隕石、<商売上手な人面妖怪>人魚、くたべ、アマビエ、<夢の合体怪獣が幼子を襲う>創作意欲、<興味津々、巨大生物>大ムカデ、大ネズミ、<怪異と騒ぐが、単なる動物>アザラシ、オオサンショウウオ、<江戸最大のミステリーは馬琴の創作か>うつろ舟、<甲賀流忍者が伝えた真実>甲賀流忍者、<発端は若い娘の怨念か>明暦の大火、振袖、<襲い来る土石流と降り注ぐ火山灰>浅間山大噴火、<天に代わって不義を討つ>天保の飢饉/大塩の乱、<瓦版に刻まれた日食観察>、<激震する江戸>安政三大地震、<疫病で大混乱、それを笑い飛ばす>麻疹、見立番付、<個人が死ぬ自由>曾根崎心中、<江戸の庶民は歌舞伎俳優に大注目>市川團十郎、<公認された敵討>赤穂事件、研辰の討たれ、<敵討の現実>妻敵討、<女性による敵討>護持院原の敵討、御蔵前女仇討、<大混乱の幕府と楽しむ庶民>黒船来航、<日米贈物合戦の結末>蒸気機関車/電信機、力士、<首をもたげた攘夷思想>富士登山、<開港の副産物・見世物興行>虎、象<絶えていた戦乱が始まる>四国連合艦隊、第二次長州征伐、<出版統制が解除された世界>鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争

<はじめに>
・日本史で武士・貴族などの偉人について学ぶ。しかし社会は多くの民衆から成り立っており、彼らの言行を知るのは重要である。そこで登場するのが「かわら版」(※以下瓦版)である。これは情報伝達媒体で、絵と文字が摺られ、当時の民衆が興味を持った事が書かれている。瓦版には妖怪/敵討/埋蔵金/天災などが書かれており、当時の民衆だけでなく、我々も興味を惹かれる。そこから当時の民衆がユーモラスで打たれ強かった事が分かる。

第1章 瓦版は江戸のタブロイド紙

<瓦版の始まりは大坂夏の陣>
○瓦版という呼称の登場は江戸末期
・瓦版は新聞/号外と似た物だ。瓦版は幕府の規制を強く受け、幕府の批判や風紀を乱すものは禁じられた。しかし庶民はその規制をすり抜けた。
・瓦版の由来は不明である。瓦版(粘土版)ではなく、木版である。京都の「河原」が由来との説もあるが、これも怪しい。「かわら版」と呼ばれるようになったのは江戸末期で、それまでは「読売」と呼ばれ、他に「一枚摺」「絵草子」などと呼ばれた。

○最古の瓦版は大坂夏の陣
・最古の瓦版と思われるのは「大坂卯年図」(以下卯年図)と「大坂安部之合戦之図」(以下合戦之図)である。これらは1615年の「大坂夏の陣」について書かれている。「卯年図」は71×33Cm、「合戦之図」は46×33Cmで大判である。共に大坂城落城の絵が描かれている。これらは徳川方の圧勝が描かれており、江戸幕府の強固さを示す「官製瓦版」だった。

○江戸の最速通信機関
・瓦版に欠かせないのが飛脚である。飛脚は中世からあったが、江戸時代に急速に整備された。「継飛脚」は江戸と京都を60時間(2日余り)で走破した。民間には「町飛脚」があり、手紙・荷物を運んだ。こちらは江戸と大坂を6日程度で運んだ。町飛脚には民間や藩の情報が集まり、その情報を選別して瓦版にしたのが「かわら版屋」(※以下瓦版屋)である。
・瓦版が一気に増えたのは文化文政年間(1804~30年)である。この頃瓦版1枚が4文(40円)で売られており、気軽に変える値段だった。瓦版屋は売れる瓦版を作るため、才気ある文筆家/絵師/木彫職人を集めた。

<現実を忘れる大金が転がり込む>
○人生逆転ツールのお金
・平凡な人生を逆転させる筆頭は、お金である。そのため私達は年末ジャンボ宝くじを買う。江戸の庶民も感性は同じだった。

○伝説の結城家埋蔵金
・1859年(安政6年)の瓦版に腰が抜けそうな事が書かれている。下総国結城の百姓が井戸の普請をしていて、金の延棒を掘り当てた。この金の延棒は周囲8寸(24Cm)×長さ25寸(75Cm)あり、小判3600両に相当する。これを9千本(3240万両)発掘したのだ。今の金額にすると1.6兆円に相当する。この場所は結城城跡で、結城家17代の結城晴朝(1534~1614年)が埋めた物だった。※この頃結城家は越前に移封されている。
・瓦版によると、この百姓は領主に届け出て、5千石の土地を賜る。瓦版の最後には、幕府への賛辞が記されている。これは出版を妨げられないためである。この瓦版のサイズは23×30Cmと小振りである。

○孝行息子に銀貨5枚
・次は1841年(天保12年)の瓦版である。麹町に伊助/金弥の親子が住んでいた。38歳の金弥は盲目になるが、整体師として家計を支えた。また寺での祈願や、毎朝の冷水浴びを欠かさなかった。その彼に町奉行より褒章(※褒賞?)として白銀5枚が与えられた(※町奉行の仕事は多様で、相当忙しかったらしい)。この表彰式には名主/五人組なども出席し、大変畏まったものになった。銀貨5枚は15~20万円である。この瓦版は21×30Cmの2枚になっている。※これも幕府の宣伝かな。

<江戸にも息づく霊異記>
○神仏が監視する江戸の町
・悪い事をするとなぜいけないのか。「それは罰が当たるから」と江戸の人は考えていた。瓦版に神仏関連が多いのは、彼らが神仏を強く意識していたからだ。

○盗人に下された閻魔様の一撃
・1847年(弘化4年)新宿の太宗寺で酩酊した盗人が捕まった。彼は鳶で、役人ではなく、親方に返された。彼の息子が病で、その治癒を願ってこの寺で念仏を唱えていたが、息子は亡くなった。その仕返しに、この寺にある閻魔様の彫像の目(直径24Cmの水晶。※でかい!)を盗もうとしたのだ。しかし彼が片目を抜き取った瞬間、そこから閃光が発せられ、彼は転落し、気を失ってしまった。この瓦版のサイズは31×24Cmである。最後に「この訓話を広めたいと思う」(※以下同様に現代文に直す)とあり、幕府への配慮が見られる。

○酒屋の珍客は観音様の使者
・1854年(嘉永7年)浅草の酒屋に老僧が入った。彼は「この徳利に3升の酒を入れてくれ」と頼む。店員は一旦断るが、再度要求するので酒を注ぐと、3升の酒が入ったのだ。若い店員が跡をつけると浅草寺に向かった。そこで彼は振り返り、「私は観音様の使いである。来月伝染病が流行る。牡丹餅を食べていれば罹らない。それを皆に伝えなさい」と言う。※大幅に簡略化。
・なぜ牡丹餅なのか。それはこの瓦版が菓子屋の宣伝だからだ。この手の瓦版は多い。すなわち瓦版屋は商人から広告を募っていたのだ。この話は完成度も高く、憎らしい。この瓦版のサイズは23×30Cmである。※購買意欲をそそる広告だな。今も昔も広告だらけ。

<出産という難事に教訓を添えて>
○明るいニュースの筆頭は子供の誕生
・明るいニュースの筆頭は、やはり赤子の誕生である。間引きなどの習慣もあったが、それは飢饉や異常な貧困に限られる。

○三つ子出産にご褒美
・当時出産は難事で、双子やそれ以上の出産は奇跡に近かった。1854年(嘉永7年)芝井町(新橋)で「さと」が三つ子を出産した。これに幕府が50貫文(40万円)の褒美を出している(※双子は嫌われたそうだが、三つ子は大丈夫なのかな)。この瓦版のサイズは23×29Cmである。ところがこの瓦版は絵は三つ子の出産だが、記事は別の「お豆」の出産が書かれている。彼女に妊娠の様子はなかったが、「突然玉のような男子を産んだ」とある。※意図が分からない瓦版だな。
・「宗門改帳」から当時の出産事情が分かる。当時の初婚年齢は男性24.9歳/女性19歳で、合計特殊出生率は5.81で今の4倍である。ある婚姻関係の研究では、10年未満の婚姻解消が104件あり、その内42件が「妻の死亡」だった。出産による死亡が多かったのだろう。

○脅威の8歳児「神童奇産物語」
・1812年(文化9年)の瓦版は「神童奇産物語」との題名が付いている。実直な夫婦に8歳の娘がいたが、この娘が赤子を産んだとある。これに領主が褒美を与えただけでなく、近隣から多くの見物客が訪れ、当家が潤ったとある。この瓦版は25×34Cmの2枚になっている。瓦版屋は売れると思い、この話を作ったのだろう。当時は妊娠・出産は神秘であり、神仏との繋がりを確認するものだった。

<怖すぎる記事>
○許しがたい悪への好奇心
・ワイドナショーなどで凶悪犯罪が取り上げられるが、これは江戸時代も同じだ。江戸の庶民も「悪」に好奇心を持った。

○7歳児を茹で殺した継母
・1854年(嘉永7年)武蔵国小金井で起きた事件が瓦版に書かれている。ある百姓が「おかん」を後妻に迎えた。しかし彼女は7歳の娘と反りが合わなった。娘は何時もの様に継母が作った弁当を持ち、寺子屋に行った。しかしその弁当には毒が入れられていた。娘は昼食を取るため弁当を開けるが、異変に気付く。先生は食べるのを止めさせ、娘は腹が減ったので帰宅した。継母は帰宅した娘を湯が沸いた大釜に入れてしまう。数日後、先生は娘が寺子屋に来なくなり、庄屋に届け出る。継母は凶行を自白する。この話は実話のようである。この瓦版のサイズは24×30Cmである。

○妻と愛人の霊に殺された男
・次は1857年(安政4年)の瓦版である。小田原に裕福な百姓がいた。彼は女好きで、ある娘を愛人にした。気分を害した本妻が愛人を絞め殺してしまう。それを見た彼は、本妻を切り殺してしまう。欲望に溺れ、自分本位な彼に鉄槌を下すのは役人ではなく、愛人と本妻の幽霊だった。彼は2人の幽霊に追われ、座敷口から飛び降りる。その後のクライマックスは判読が難しくなっている。どうも幽霊に首を閉められ、絶命したようである。この瓦版のサイズは22×29Cmである。

<笑ってはいけないが笑える珍事件>
○添えられた絵と調和していない記事
・瓦版には絵と文字が書かれているが、それがズレているものがある。これもまた面白い。

○悲喜劇「犬之霊ふしぎの次第」
・1839年(天保9年)大坂に不思議な男が来た。彼は出羽国出身だが、そこで子を身籠った犬を竹槍で突き殺してしまった。その後高熱になり、顔は犬の様になり、耳は聞こえなくなり、「わんわん」としか言えなくなった。彼の父は罰が当たったとして、彼を伊勢神宮と四国霊場に向かわせる。そして彼は大坂に辿り着いた。彼は魚の頭を犬の様に喰らうそうだ。
・この瓦版の絵は滑稽である。彼は籠に乗り、犬の顔をしているが、腹はでっぷりして、楽しそうにしている。この瓦版は見世物小屋の宣伝で、小屋には犬がいるだけだろう(※見世物小屋の話は時々聞く)。この瓦版のサイズは23×32Cmである。

○達磨型隕石で屋根が崩壊
・次の瓦版は実話だろうが、ユーモラスな瓦版である。1854年(寛永7年)谷中の瑞倫寺で事件が起きた。丑三つ時に宝蔵院辺りで轟音が響いた。寺の者が見に行くと、蔵の屋根に穴が開き、近くに達磨型の石が落ちていた。当時も隕石は人を不安にさせたのだろう。
・この瓦版がユーモラスなのは、その絵である。何とも拙い絵で、蔵はパースが歪み、その横に大きなダルマの絵が描かれている。これは貴重な記録なのに、売れなかっただろう。この時代になると絵師や文筆家は協力し、瓦版の品質は相当高い。これは瓦版屋自身が書いたのだろう。※寺の僧が宣伝のため、自分で書いたのでは。

第2章 日本は怪異が一杯

<商売上手な人面妖怪>
○怪異という大人気コンテンツ
・今も昔も日本人は妖怪・化物が好きだ。この背景は「八百万の神々」であろう。日本人は西洋と違い、これらに親しみを持った。

○人面妖怪は予言する
・瓦版には多くの怪異が登場する。断トツに多いのが人面妖怪である。そしてそこには予言や利益(りやく)が記されている。
・1805年越中国に人魚が現れる。この様相は凄まじい。頭部は若い女性で角が生え、体の横に目が3つあり、全長は10mある。この人魚を仕留めるのに、鉄砲450挺が掛ったとある。そして最後に「この人魚を見ると寿命は延び、幸福が訪れる」とある。この瓦版のサイズは24×31Cmである。

・別の瓦版に同じく越中国に「くたべ」が現れたとある。これは頭は禿げた男性で、体は牛のようで、横に目が付いている。これには「数年内に疫病が流行る。私を見た者は病にならず、天寿を全うする」とある。この瓦版は17×23Cmと小さい。なおこの「くたべ」と同一と思われる「件」(くだん)について書かれた瓦版も存在する。

・肥後国では「アマビエが海中に住んでいる」とある(※あのアマビエだな)。これにも「疫病が流行ると、私を護符とせよ」とある。またこのアマビエにも同種が存在し、「尼彦」などを記したものがある。
・これらの瓦版のサイズは小さく、お札・護符として使用されたと思われる。これらも金儲けが目的だった。さらに見世物興行を開けば多くの人が集まり、土産として人魚の肉を売れば、さらに収入になった。

○エンターテインメントとしての人面妖怪
・ところで庶民は予言・利益などを信じていたのだろうか。最も恐ろしかったのが疫病で、そのため人面妖怪の瓦版を購入し、大切に保管した。しかし彼らの大半が文字が読め、文化水準は高かった。

・ここで「くたべ」騒動のあった越中国の別の瓦版を見てみる。そこには「スカ屁」と呼ばれる妖怪が現れたとある。こちらは老婆である。こちらにも「数年内に『おなら病』が流行る。私を描いた絵を持っていれば感染しないし、家内安全・健康長寿が叶う」とある。この妖怪は激しく放屁し、「『くたべ』の話題でうんざりし、腹もくたべ(下っ)てしまった」とある。この瓦版のサイズは17×23Cmである。
・この様に、彼らは「くたべ」の瓦版のパロディを作って楽しんだのだ。瓦版の利益への信心は、人様々だったようだ。また放屁しているのが老婆なのには訳がある。当時良家の娘には「屁の身代わりをする老婆」(屁負比丘尼)が付き添っていた。

<夢の合体怪獣が幼子を襲う>
○商売と無関係の怪異
・怪異関連の瓦版は商売と結び付いているのが普通である。ところが中には商売性がないものがある。これらはどう云った経緯で作られたのか。本当に怪異が出現したのだろうか。

○会津藩の怪獣
・1782年(天明2年)会津藩で怪獣が撃ち取られた。磐梯山では昨年から子供が失踪していた。役人が調べると山に怪獣がおり、子供を喰っているらしい。そこで砲撃の名手が大砲で、その怪獣を仕留めた(※大砲?)。民は歓喜し、彼には領主から感謝状が送られた。

○燃え上がる創作意欲
・この瓦版には予言・利益が記されておらず、商売性がない。しかもこの瓦版は15×23Cmと、標準のサイズと異なる。これでは費用が嵩む。さらにこの怪獣は大変な創作である。顔は天狗で、髪は伸び放題で、手には水掻きがあり河童の様で、尾は大蛇の様に5.1mある。この絵師/文筆家は、怪異を異常に好む者だったのでは。彼らは「予言・利益がなくても、この瓦版は売れる」と確信し、発行したのだろう。

<興味津々、巨大生物>
○大きい事は良い事
・人間は大きい物への関心が強く、憧れを持つ。そのため瓦版屋はそれへの情報収集に怠りがなく、瓦版に度々巨大生物が登場する。

○飛騨国の大ムカデ
・千葉周作は北辰一刀流の創始者で、多くの門人を持った。1848年(嘉永1年)の瓦版に、門人・陽遊斎広光が登場する。彼は飛騨高山で道場を開いていた。そこで立て続けに人が失踪する事件が起こる。彼は弟子と現地に向かうが、そこには全長4.5m/幅55Cm/重量105Kgの大ムカデがいた。彼はこれを一太刀で打ち殺す。この瓦版のサイズは30×40Cmである。
・この瓦版は、回向院での見世物興行の広告である。瓦版には、鹿を喰らう大ムカデが描かれている。回向院に向かった人は、薄暗い小屋の中で、何と対面したのだろうか。

○大ネズミの大群
・1854年石見国浜田で海に見慣れない動物が泳いでいた。漁師が捕まえると、それは大ネズミだった。しかしこれが日増しに増えた。そのため藩主自ら駆除に乗り出す。そしてその数は55万匹に及んだ。この瓦版のサイズは27×40Cmである。この大ネズミは何だったのか。ドブネズミの大発生だったのか。

<怪異と騒ぐが、単なる動物>
○博物学の知識が乏しかった
・今は動物園・水族館や図鑑がある。しかし当時の庶民は普段に出合う動物しか知らなかった。そのため知らない動物に出合うと、怪異と捉えた。

○人語を解する「海のお化け」
・1838年(天保9年)相模国江の島に不思議な生物が現れる。それは弁財天を拝みに来た。漁師が捕まえるが、日光を好み、満腹になると元気になった。そして驚く事に人語を解した。この瓦版のサイズは48×35Cmである。
・この瓦版の絵は詳細に描かれているが、正しくゼニガタアザラシである。文章には「一見すれば無病息災・延命長寿が叶う」とあり、これも見世物興行の宣伝なのだ。アザラシは日本沿岸に定住している。しかし生活圏が人と異なり、目にする事はない。因みにアザラシは手を合わせる習性がある。

○手足のある魚
・1801年(享和1年)の瓦版には全長154Cm/胴囲75Cmの手足が付いた魚が描かれている。手には4本の指、足には5本の指がある。この魚は板橋宿の水車の下にいたとある。これはオオサンショウウオである。江戸の河川にオオサンショウウオは棲んでいなかったので、どこかから連れて来られたのだろう。この瓦版のサイズは28×38Cmである。
・百科事典『訓蒙図彙』(1666年)/『随観写真』(1757年)では、オオサンショウウオの指の数は正しく描かれていない。この瓦版の作者に敬意を表す。

<江戸最大のミステリーは馬琴の創作か>
○江戸最大の怪事件
・瓦版の怪異情報はフィクションが多い。しかしこれから語る「うつろ舟の怪」は、未だ結論が出ていない。

○うつろ舟の蛮女
・曲亭馬琴(1767~1848年)は長編『南総里見八犬伝』を著した。1825年(文政8年)彼は珍談・奇談集『兎園小説』を編纂している。これに以下の「うつろ舟の蛮女」の話がある。
 1803年(享和3年)常陸国「はらやどり浜」で舟らしきものが発見された。漁民がそれを捕捉すると、直径5.5mの円形で、下半分は鉄板で作られ、上半分にはガラスが使われていた。舟の中には髪が赤く、肌が桃色の女性が乗っており、箱/水/敷物/菓子などを積んでいた。漁民は役人に届けるか話し合うが、沖に流してしまう。
・ここに描かれているのがUFOに似た舟である(※これは見た事がある。これは瓦版ではないんだ)。この話はフィクションなのか。

○うつろ舟を報じた瓦版
・この「うつろ舟の蛮女」に、他に資料が存在したとある。それに該当すると思われる瓦版が1952年発見される。これは事件発生の数年後に書かれ(※何時かは記されていない)、しかもかなり詳細に記されている。ところが「うつろ舟の蛮女」とは異なる記述があり、それを簡単に纏めると以下となる。
 ①「うつろ舟」は2月ではなく、8月に嵐によって漂着した。
 ②漂着地は「はらやどり浜」ではなく「京舎ヶ浜」。
 ③女性に関し、年齢/身長/服装など、詳細が記されている。
 ④船に関しても詳細が記されている。
・この瓦版は詳述しているので、実話と期待できる。ただし漂着地「京舎ヶ浜」も、「うつろ舟の蛮女」に記された「はらやどり浜」も実在しない。

<甲賀流忍者が伝えた真実>
○各地に伝わる類似の伝説
・「うつろ舟」の意味は、「中が空洞の舟」である。この話は各地に伝わっている。その多くは「舟の中に女性がおり、彼女は不義を働いた」としている。柳田国男は、「うつろ舟の蛮女」はこれらの伝説を元にしたフィクションと断言している。

○瓦版の作者は誰か
・加門正一『江戸「うつろ舟」ミステリー』(2008年)は大胆な推論をしている。それは「瓦版は馬琴が書いたもので、その後『兎園小説』を編纂した」としている。しかし瓦版屋の立場からすると、1803年当時は外国船の出没が相次いでおり、これに関連する報道は厳しく取り締まれていた。そのためフィクションを加え、漂着地も存在しない場所にしたのではないか。瓦版屋はある程度の危険を冒し、瓦版を発行したのでは。

○公開される文書/公開されない文書
・実際の出来事を記録した『漂流記集』にも、この「うつろ舟」事件は記されている。ただしここでの漂着地「原舎ヶ浜」も存在しない。ところが2014年実在する「陸奥原舎利浜」を漂着地とする資料が発見された。これは甲賀流伴党の宗家・川上氏が保管していた資料で、これは「公開されない文書」で信憑性が高い。※この資料の内容については解説がない。まだ非公開なのか。

第3章 天災地変で大騒ぎ

<発端は若い娘の怨念か>
○人口集中と火事の多発
・江戸の人口は開幕した頃は15万人だったが、その100年後には100万人を超える。これは驚異的である。人が増えると家が必要になり、家屋が密集した。こうして火事が深刻化した。江戸では大火が87回発生し、これは3年に1度に相当する。※大火の基準はどれ位なのか。数十軒とか、数百軒とかかな。

○江戸最悪の火災「明暦の大火」
・1657年(明暦3年)「明暦の大火」が起きる。これにより千代田区/中央区は全焼、文京区は6割が焼失する。江戸城も西の丸を除いて全焼する。死者は10.8万人とされる。この大火を報じた瓦版は残っていない。しかしその100年後に、これを報じた被害記録がある。

○「明暦の大火百年忌」と振袖火事
・この瓦版の題名は「百年忌 梵焼溺死十万八千人」で、1757年(宝暦7年)に発行されたと思われる。ただしこの瓦版は文字のみで、絵がない。地域毎の死者数など、詳しく記されている。また大火から4年後に発行された『むさしあぶみ』には、火災から逃れようとする人々が描かれている。

・この大火の発端について語り継がれる以下の話がある。
 麻布で繁盛している質屋があった。そこに16歳の娘がいた。娘は母と本妙寺に墓参りする。そこで娘は寺の小姓に一目惚れする。その後彼女は病に臥す。そこで母は小姓が着ていた紫縮緬を菊染めした振袖を彼女に与える。彼女は喜ぶが、亡くなってしまう。両親は棺にその振袖を掛け、本妙寺に送り出す。
 ところがその振袖は転売され、別の16歳の娘に渡る。そしてその振袖は、また本妙寺に戻り、また転売された。そしてまた本妙寺に戻って来た。さすがに住職は気味悪くなり、その振袖を焼いて供養しようとすると、振袖は空に舞い上がり、寺を焼き尽くしてしまった。これが大火の発端とされ、「振袖火事」と呼ばれる。※知らなかった。

<襲い来る土石流と降り注ぐ火山灰>
○瓦版の速報性
・瓦版を売る読売は2人で行動した。それは1人が、役人がいないかを監視するためだ。しかし役人は速報性などの意義を認識し、瓦版は消滅しなかった。

○最古の災害速報瓦版
・災害に関する最古の瓦版は、1783年(天明3年)の浅間山大噴火である。浅間山の噴火は4月に始まり、7月まで続いた。7月8日大噴火で溶岩・火山灰を噴出し、大規模の火砕流・土石流を起こした。これにより鎌原村483名/長野原村210名/川島村128名などの死者を出した。火山灰は江戸でも3Cm積もった。総死者数は1600名で、内1400名が群馬県内である。
・1979年被害が激しかった鎌原村で発掘調査が行われる。鎌原観音堂は50段の階段があったが、その内35段が埋まっていた。そこから老いた母親を背負ったと思われる親子の骨が発掘される。※この話は知っている。

○朝間山大やけの次第
・「朝間山大やけの次第」と題された瓦版がある。これは実際に見た者が書いたと思われる。「新しい噴火口が北東にできた」「灰が降り続いて、止まない」「付近の町村は、まつりごと(祈祷)をなした」などが記されている。この瓦版のサイズは24×32Cmである。

<天に代わって不義を討つ>
○江戸の三大飢饉
・江戸時代には「享保の飢饉」(1732年)/「天明の飢饉」(1782~88年)/「天保の飢饉」(1833~38年)の「三大飢饉」があった(※50年毎だな)。米の不作により多くの死者を出したが、その背後には汚い私欲もあった。

○天保の飢饉と大塩の乱
・最後の「天保の飢饉」は大塩平八郎(1793~1837年)の乱と共に語られる。それは役人が飢饉を利用し私腹を肥やしている事を幕府に訴えるために、彼が立ち上がったからだ。飢饉の多くは冷害によるが、「天保の飢饉」で東北地方では10万人が亡くなった。この時米は良い所で70%、悪い所では30%しか収穫できなかった。しかしこの時大坂東町奉行所の跡部良弼は、徳川家重の就任儀式のため、江戸に「廻米」を送った。さらに豪商達は、米価の高騰を睨み、米を買い占めた。

・大塩は38歳まで大坂東町奉行所の与力をしており、その後私塾「洗心洞」で陽明学を教えている。彼は飢饉に際し、跡部に民衆救済を提言している。さらに膨大な蔵書を売り、近隣への施行(せぎょう)に充てている。そして1837年(天保8年)弟子20人と共に立ち上がった。

○大塩焼之画図
・彼らと集まった農民100人は、大砲などを商人の邸宅に撃ち込みながら進んだ。しかし半日で幕府軍に鎮圧される。彼らが放った火で、大坂の1/5が焼ける(大塩焼け)。
・ここで紹介する瓦版には、「大坂市中火災焼失図」「大塩焼之画図」の2つの題名が付いている。日付は蜂起3日後で、速報である。大坂の街路図が描かれ、焼失箇所が赤く染められている。ところが大塩については全く記されていない。それは政治的な記述を避けたためだろう。題名も最初「大塩焼之画図」としていたが、後で「大坂市中火災焼失図」を加筆したのだろう。

・「大塩の乱」で大坂の町は焼けるが、彼を悪く言う者はいなかった。それは庶民が、役人がしている事を知っていたからだ。この瓦版を摺った者も、それを知っていただろう。彼と養子の格之助は、その後1ヵ月以上も逃げ延びている。それは彼らに協力者がいたからだ。この乱に共鳴し、「備後三原の一揆」「越後柏崎の生田万の乱」「摂津能勢の山田屋大助一揆」などが起きている。※この辺は知らなかった。

<瓦版に刻まれた日食観察>
○自然科学と神話の相克
・現代の人は、太陽は銀河系の1恒星である事を知っている。しかし江戸の人には、太陽は天照大神であり、我々を律する「お天道様」だった。江戸時代は西洋から流入した自然科学と神話が相克する時代だった。

○日食の観察記録
・今回の瓦版は、出羽国庄内藩での日食の観察記録である。1848年4月の正午頃太陽に虹が架かり、やがて白紫の輪が太陽を覆った。その後2つの白い球になり、5時過ぎに一連の現象は終わった。※もっと詳しいが省略。
・この瓦版は中央に日食の絵があり、絵の右には上記の観察記録が記されている。時刻も明確に記されている(※24時間制があった?)。絵の左には、「これは天眼鏡で観察した」「天文図・天文学で見たが、どうして起こるのか分からない」などが記されている。この瓦版のサイズは31×38Cmである。
※大航海時代があり、当然地球が球体である事は知っていただろが。まして知識者なら太陽と地球の間に月が割り込む事も分かっていたと思うが。

○日食は凶兆か
・この日食は金環日食だったと思われる。また「天眼鏡」とは日食・月食を観察する「測食定分儀」の事で、伊能忠敬も持参していた。一方日食は凶兆と考えられており、庶民はこの天体現象をどう捉えたのだろうか。

<激震する江戸>
○最も種類が多い瓦版
・安政江戸地震に関する瓦版は600種類以上あり、最も種類が多い。因みに前年に安政東海地震/安政南海地震が起こっており、併せて「安政三大地震」と呼ばれる。

○安政東海地震/安政南海地震
・嘉永年間(1848~54年)は激動の時代となった。1853年(嘉永6年)黒船が来航し、1854年(嘉永7年)安政東海地震/安政南海地震が起こる。これらを受けて、11月27日に安政に改元された。
・安政東海地震は11月4日に起きた。震央は東海道沖、震度7程度で、関東から近畿までが激しく揺れた。家屋の倒壊・火災、さらに津波も発生した(※ロシア船が被害に遭った地震かな)。さらに翌日安政南海地震が起こる。震央は南海道沖、震度6~7程度で、中部から九州までが激しく揺れた。この地震でも津波が発生し、和歌山県串本で15m、高知県久礼は16.1mの津波が襲った。大坂の橋も崩壊した。

・瓦版「十箇国大地震之図」に被害状況が記されているが、これは両地震による被害と考えられる。この瓦版のサイズは48×71Cmで、所狭しと文字が記され、情報量は多い。※瓦版自体が巨大だな。

○安政江戸地震
・その1年後の1855年(安政2年)10月2日、江戸で震度6程度の直下型大地震が起こる。家屋が倒壊し、火災が起き、死者は7千人を超える。水戸藩の儒学者・藤田東湖も圧死している。そしてこの大地震が、600種類以上の瓦版を作らせた。

・瓦版「関東大鯰類焼付」(36×46Cm)には、火災の状況が詳述されている。この瓦版にも商売っ気はない。1行目に「陰陽相たたかふ」とあり、自然現象を陰陽五行説から理解していた事が分かる。また「神仏の擁護も是を納ることかたし」とあり、「神仏の加護でも地震を止められなかった」との思いが感じられる。

<疫病で大混乱、それを笑い飛ばす>
○愉快な見立番付
・瓦版の一種に「見立番付」がある。これは相撲の番付のパロディである。これには不謹慎と思わせる物もあるが、彼らはこれでネガティブな事を笑い飛ばした。

○鯰絵・麻疹絵・見立番付
・疫病も天災地変と同様、突然発生し、人々の命を奪った。「麻疹」は「命定めの病」と呼ばれ、15~20年の周期で流行った。1862年(文久2年)麻疹が大流行し、江戸で24万人が亡くなっている。※この数は安政江戸地震(7千人)を遥かに超える。
・そんな苦境の時代、不思議な瓦版が売れた。地震の際は「鯰絵」が売れた。これは神様や人間が鯰を懲らしめる絵で、単に滑稽である。麻疹が流行ると、「麻疹絵」が売れた。これには養生法などの実用面も記されているが、どちらかと言うと楽しむための瓦版である。

○麻疹大流行の見立番付
・ここで紹介する瓦版「為麻疹」は見立番付である。上中下の3段になっており、上段が見立番付になっており、その右が「あたりの方」、左が「はづれの方」となっている。「あたりの方」は麻疹大流行で儲けた者や需要が高まった物で、薬屋・医者/籠屋/沢庵・黒豆・干瓢などが記されている。一方「はづれの方」はその逆で、女郎屋/芸者/舟宿/天ぷら屋・蕎麦屋・寿司屋などが記されている(※今のコロナ禍と一緒だな。医薬業が忙しくなり、旅行・宿泊業/飲食・接待業が暇になっている)。これを今の人はどう感じるだろうか。※当時の人は意外と冷静だったのかな。

・そして中段は、麻疹大流行を茶化す唄が記されている。「今度の麻疹は逃れられない、しかし命に別状はない、どこのお主も暇がない、どくだて(※毒立て?毒断?)多くて食べ物ない・・」と、「ない」で終わる「ないもの尽くし」になっている(※今のラッパーだな)。下段は絵になっており、読売が「ないもの尽くし」を唄いながら、瓦版を売っている。その傍らで俸手振り(鮮魚売り)が嘆いている。生魚は売れなかったのだろう。この瓦版は、非常事態なのに瓦版屋は繁盛するシニカルな状況を表している。瓦版のサイズは37×25Cmである。

第4章 瓦版から読み解く江戸庶民の嗜好

<個人が死ぬ自由>
○日常を忘れさせるニュース
・瓦版で人気なのは娯楽だが、心中/歌舞伎/敵討も人気があった。これらに共通するのは、日常からかけ離れている点である。辛い毎日であったが、これらに触れ、日常の平穏を再認識したのだろう。

○曾根崎心中による心中ブーム
・1703年近松門左衛門による浄瑠璃「曾根崎心中」が上演される。これは同じ年に起きた実話を元にしている。これは以下の内容である。
 平野屋に手代・徳兵衛がいた。店主は彼の叔父で、娘と彼を結婚させ、店を継がせようとしていた。しかし彼には決めた遊女がいて、断っていた。そこで叔父は彼の母と話を進め、結納金も納めてしまう。それでも首を縦に振らないため、彼を勘当する。そして彼と遊女は神社の森で命を絶つ。
・これが話題になり、心中ブームが起きる。心中がブームになったのは、日頃の社会的束縛から逃れられるからだ。

○娘3人心中事件
・通常心中は男女2人だが、この瓦版は娘3人が心中している。1847年(弘化4年)隅田川で娘3人の溺死体が発見される。八百屋の「おひさ」(17歳)、魚屋の「おちか」(19歳)、酒屋の「おてつ」(18歳)だった。彼女らは常盤津節を習っており、親しかった。そこで質屋の徳兵衛も習っていた。そして彼女ら3人が彼を慕うようになる。事件前日、彼らは芝居を観て、帰りに茶屋に寄る。そこで彼女らは思い切った行動に出て、彼に告白する。しかし彼は誰も選択しなかった。その夜、恋破れた彼女らは永代橋から身を投げた。

・この瓦版は23×30Cmの2枚摺である。共に文字がビッシリ書かれている。ところでこれは事実なのか。男性の名前は徳兵衛である。また彼らが習っていた常盤津節は豊後節の一派で、その豊後節は心中物が多く、禁止されていた。これらから、この瓦版は「曾根崎心中」へのオマージュ(※敬意)と考えられる。

<江戸の庶民は歌舞伎俳優に大注目>
○歌舞伎の怪しい魅力
・歌舞伎は「傾く」(かぶく)に由来し、「常態を逸する」を意味する。これは出雲阿国の風流踊りに始まり、若衆歌舞伎/野郎歌舞伎/元禄歌舞伎と発展した。江戸では1714年(正徳4年)以降、中村座・市村座・森田座の3座体制になる。今は芸能ニュースは欠かせないが、江戸時代はそれが歌舞伎俳優のニュースだった。

○市川團十郎という名跡
・歌舞伎には市川團十郎/中村歌右衛門/尾上菊五郎などの名跡がある。市川團十郎の場合、新之助/海老蔵を経て襲名する。そして最も権威があるのが、その市川團十郎である。初代は元禄歌舞伎を代表するだけでなく、脚本まで書き、絶大な人気を誇った。
・この市川團十郎には非業の死を遂げた者が多い。初代(1660~1704年)は舞台で刺殺される(享年44)。3代目(1721~42年)は病気で早世(享年21)。6代目(1778~99年)も病気で早世(享年22)。8代目(1823~54年)は公演先で自殺している(享年32)。江戸時代に8名が亡くなったが、その内4名が非業の死を遂げている。

○7代目團十郎の逝去
・次は7代目市川團十郎(1791~1859年、寛政3~安政6年)の逝去後に発行された瓦版である。彼は68歳まで生きた。彼は5代目の孫に生まれるが、6代目が早世したため、10歳で團十郎を襲名する(※空位とかないのかな)。1832年息子に8代目團十郎を継がせ、自身は5代目海老蔵となる。
・彼を語る上で欠かせないのが、1842年(天保13年)の奢侈禁止令である。彼は改革の「見せしめ」として、江戸から追放される。1849年(嘉永2年)赦され江戸に戻るが、1854年(嘉永7年)8代目團十郎が自殺する。

・この瓦版のサイズは37×26Cmである。右下に彼が描かれ、文章は顔見世の口上のような調子である。最後に辞世の句「ごくらくの 道へいちづの 花見かな」が記されている。彼のファンは涙なしに読めなかっただろう。歌舞伎が日本の美学に与えた影響を雄弁に語る瓦版である。

<公認された敵討>
○敵討が認められる条件
・敵討は、仇討/意趣返しともる。幕府はこれを認めていたが条件があった。①尊属か年長の血族のため。②主君から免状を得る。③他藩を探索する場合、寺社奉行所/町奉行所/勘定奉行所に届け出る(※これは他藩の?)。④敵討の敵討は禁止。武士にとって、敵討しない事は儒教倫理に反した。

○庶民も夢中の敵討番付
・次は敵討の見立番付の瓦版である。庶民は敵討にも強い関心を持った。ここに87の敵討が記されている。中央下部には太く「山崎主仇討」とあるが、これは1582年(天正10.年)豊臣秀吉が明智光秀を討った「山崎の戦い」を指す。

・西の大関には「忠臣蔵仇討」とある。これは1702年(元禄15年)赤穂事件を指し、赤穂浪士47人が吉良上野介義央を襲撃した事件である。この数ヵ月後に歌舞伎『曙曾我夜討』として上演されるが、3日後に中止にされる。赤穂事件では浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が有名である。これは事件から46年後に上演している。また時代も『太平記』の時代と変えている。この様に赤穂事件は何度も題材にされ、それ程庶民が興味を持った事件だった。※それは近年まで続いたかな。

○研辰の討たれ
・「山崎の戦い」「赤穂事件」は主君の仇を討つものだが、多くは血族に関するものだった。次は兄の仇を討った弟2人の瓦版である。1823年(文政6年)近江国膳所に辰蔵という研師がいた。彼は讃岐国の生まれだが、悪行により故郷を出奔していた。彼は馬廻の平井市次郎の屋敷に出入りしており、その妾を気に入り、言い寄るようになる。しかし断るので彼女を殺害し、さらに市次郎も殺害する。
・これを知った弟2人は激怒し、敵討の手続きを取る。しかし辰蔵は既に江戸に逃げていた。弟2人が彼を探していると、江戸で彼と親しくしていた黒杭才次郎に合う。そして才次郎が助太刀として加わる(※親しくしていたのに、助太刀に)。弟ら3人は備前国の蓮台寺で「辰蔵は故郷に戻っている」とお告げを受ける。1827年(文政10年)彼の生家を訪れると彼がおり、弟ら3人が斬り伏せる。
・この瓦版のサイズは25×35Cmである。この敵討は、1926年(大正15年)歌舞伎『研辰の討たれ』として上演される。※大正(昭和元年)だな。

<敵討の現実>
○敵討の困難さ
・庶民が敵討に熱狂したのは道徳性だけではなく、それが著しく困難だったからだ。まず仇敵を探すのが難しい。そして見付けても、斬り伏せれるとも限らない。また路銀の問題もある。途中で諦め町人になる者や、病に倒れる者がいた。

○名誉回復へ妻敵討
・血族の殺害も不名誉だが、妻が別の人間に奪われるのも不名誉だった。中世より「妻敵討」の習慣があり、密通の現場を押さえると「お咎めなし」で、姦夫と妻を殺害できた。これは『公事方御定書』(※徳川吉宗だな)に明記されている。
・1838年(天保9年)伊予国松山藩の家臣に善男某(※善男は姓)がいた。妻が家来の土岐十平と駆け落ちしてしまう。彼は手続きして敵討の旅に出る。1839年(天保10年)大坂中之島で2人を見付け、2人を討ち取る。彼45歳、十平22歳、妻26歳だった。この瓦版のサイズは22×32Cmである。

○81歳の仇敵を斬る
・仇敵が見付からない時、一番の不安は「敵は既に、この世にいないのでは」である。次の瓦版は、それを完遂した事例である。
・1857年(安政4年)奥州牡鹿で果し合いがあった。片方は壮年の武士・久米孝太郎(47歳)、一方は高齢の僧だった。事の発端は1817年(文化14年)である。越後国新発田藩で中小姓・久米弥五兵衛が馬廻・滝沢休右衛門に殺害される。斬られた弥五兵衛には、孝太郎7歳と盛次郎4歳の息子がいたが、断絶となる。
・1828年(文政11年)孝太郎は18歳になり、敵討を願い出る。藩主はこれを認め、刀一腰/旅費20両を与える。孝太郎に、盛次郎/叔父・板倉留六郎/中間・藤吉が随行する。彼らは南は九州、北は択捉島まで、全国を探し回る。盛次郎は病死し、留六郎/藤吉は脱落する。孝太郎が仇敵と出会ったのは、出発から29年、父殺害から40年経っていた。

・この瓦版のサイズは22×29Cmである。この瓦版には、休右衛門が弥五兵衛を殺害したのは囲碁での諍いとある。敵討後、孝太郎は新発田藩に務めた。また敵討現場には孝太郎碑と休右衛門の供養碑が建てられている。

<女性による敵討>
○以外に多かった女性の敵討
・敵討は男性によると思われがちだが、女性による敵討も多かった。女性の敵討は瓦版の最高の素材で、紙面も華やかにできた。

○武家の娘りよ、仇敵を斬る
・1913年(大正2年)森鴎外が『護持院原の敵討』を発表する。これには敵討に出る武家の娘りよが描かれている。これはノンフィクションで、次の瓦版にそれが記されている。

・1833年(天保4年)播磨国姫路の上屋敷が大名小路神田橋にあり、そこに不審な男が訪れる。対応したのは金奉行の山本三右衛門だった。男は中間・亀蔵だった。三右衛門は彼から書状を受け取るが、斬られてしまう。彼の目的はお金だった。
・三右衛門には、娘りよと息子・宇兵衛がおり、彼らは敵討を誓う。彼らは敵討を願い出て認められる。りよは情報収集で江戸に残り、宇兵衛は叔父・山本九郎右衛門/部下・文吉を連れ、敵討の旅に出る。
・長い旅になり、九郎右衛門は岡山で病に倒れる。彼は長く留まり、文吉もそれに付き添う。その間、宇兵衛は諸国を巡った。1835年(天保6年)九郎右衛門の下に、「亀蔵が江戸に現れた」との便りが届き、2人は江戸に戻る。2人は亀蔵を見付け、護持院ヶ原で拘束する。2人はりよを呼び、縄を解く。りよは彼を何度も斬り裂いた。りよ24歳、亀蔵23歳だった。

・この敵討は大評判になり、11種の瓦版が発行された。ところで宇兵衛だが、女郎にのめり込み、脱落していたらしい。※殺害から2年後の敵討だな。

○江戸浅草 御蔵前女仇討
・次に紹介するのは、女性が単独で行った仇討である。1847年(弘化4年)常陸国で組頭・幸七が毒殺される。犯人は名主の与右衛門だった。彼は年貢を横領し、それを代官に訴えたのが幸七だった。妹たかは幸七の死の床でこれを聞き、仇討を誓う。そこでまず彼女は、北辰一刀流・千葉周作の玄武館に住み込み、剣術を習う。
・6年後の1853年(嘉永6年)彼女は浅草蔵前で仇敵を目にする。双方が刀を抜き戦うが、女神は彼女に微笑む。たか26歳、与右衛門57歳だった。彼女は武士でないため、牢に入れられ、短い生涯を終えている。この瓦版のサイズは22×29Cmである。

第5章 異国人と異国文化 そして崩れゆく幕府

<大混乱の幕府と楽しむ庶民>
○安政三大地震と黒船来航
・幕府が倒壊した要因は様々だが、その契機は1853年(嘉永6年)黒船来航と、1854・55年(嘉永7年/安政1・2年)安政三大地震と云える。外国船は船体がタールで塗られていたため、黒船と呼ばれた。ただし黒船来航とは、ペリー提督が率いた米国艦隊の来航のみを指す。

○圧倒的な科学技術力
・ペリーの態度は当初から威圧的で、幕閣はこれへの対応に苦労する(※捕鯨船への補給などで、開港を急いでいたかな)。それで「泰平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」(※上喜撰は緑茶)との狂歌が詠まれた。一方庶民は黒船を好奇心の対象にした。彼らは小船を出し、黒船を見物した。中には乗務員からボタンをもらった者までいた。

・この瓦版には2隻の米国艦船が描かれている。一方は「フレガット」(フリゲート、実際はミシシッピ号)、もう一方は「シュケハンナ」(サスケハナ号)と記されている。船に関する記述は詳しく、「長さ48間、巾15間、帆柱3本、石火矢6挺、大筒18挺、煙出長1丈8尺」などが記されている。この瓦版のサイズは37×47Cmである。※普通の倍位の大きさだな。

○米国人という未知の存在
・庶民は黒船だけでなく、乗務員にも興味を持った。この瓦版には「北亜墨理利加大合衆国人上官肖像之写」の題名が付いており、ペリー艦隊の副官(参謀長)ヘンリー・アダムスの肖像が大きく描かれている。ペリーの肖像画は厳しい表情が多いが、こちらは穏やかで間の抜けた表情になっている。文章は彼の肩書などが記されている。さらに英語と日本語の対訳が記されているが、「父 ヲランペー」「母 メランペー」「夫婦 パカンパア」など、デタラメである(※当時はオランダ語だけしか知らなかったかな)。この瓦版のサイズは34×25Cmである。
・別の瓦版には、「米国人は喜ぶと、さんちょろと言う」とある。また2013年に広島県福山で発見された資料に、「アダムスはいつも笑い、軽率に見える」とあった(※当時は阿部正弘が老中首座かな)。この辺りも肖像画の描き方に影響したのだろう。

<日米贈物合戦の結末>
○将軍の死と日米和親条約
・黒船が来航した1853年(嘉永6年)6月、12代将軍家慶は病床にあり、その10日後に亡くなる。その翌年ペリーは再来航し、3月に日米和親条約を締結する。これにより幕府の権威は失墜する。

○ミニ蒸気機関車に仰天
・日米和親条約を結ぶ際、両国は贈物を交換している。これは自国が優れているのを見せつけるためである。米国から贈られた物で、特に注目を集めたのが蒸気機関車の模型と電信機だった。次に紹介する瓦版には、その蒸気機関車の模型が描かれている。これは実物の1/4のサイズだったが、時速32Kmで走行した。ある役人はこれに跨った。
・電信機は送信機が応接室に置かれ、受信機が8町(900m)離れた場所に置かれた。これはモールス符合を送る機械で、受信機で紙テープにエンボスが打たれた。※電信機の方は知らなかった。

○借りは力士で返す
・当時の日本人の身長は160Cmに足していなかったが、米国人は180Cmを超える者もいた。そこで幕府は大相撲の力士を呼んだ。白真弓肥太右衛門は身長208Cm/体重150Kmもあった。そして彼らに米俵を運ばせた。
・瓦版「力士力競」に、この様子が描かれている。水兵が米俵を艦船に運び入れるのに苦労する一方、力士が涼しい顔で運び入れている。この瓦版のサイズは23×35Cmである。これには続きがあって、水兵が力士に勝負を申し出た。これに大関・小柳常吉が応じ、3人で掛かってくるように指示する。そしてその3人を投げ飛ばす(※簡略化)。彼の身長170Cm/体重150Kgだったが、流石である。

<首をもたげた攘夷思想>
○庶民にも不安が広がる
・江戸時代の庶民は楽天的だったが、異国人が増え、幕府や日本への信頼が揺らぎ、不安が高まった。次に紹介する2枚の瓦版が、それを表している。

○蒸気船との戦闘
・この瓦版は黒船来航の2ヵ月後の事件を記している。「肥前国五島藩に米国船が上陸する」との情報が寄せられた。そのため藩主は1500人の兵を手配した。その夜米国船が表れ、一部の者が小船に乗り上陸し、米・酒・味噌・薪などを奪った。城から出た1500人の兵は、米国船を攻め、上陸した者を捕えた。その総数は3800人を超えた。この瓦版のサイズは22×30Cmである。

・ところでこれは実話なのか。当時五島藩に城はなく、また米国人が味噌を奪う事は考えられない。したがって、これはフィクションである。この瓦版から攘夷思想が感じられる。庶民の大いなる不安が、この虚報を作らせた。

○英国公使に富士の怒り
・次の瓦版にも攘夷思想が感じられる。絵は、山で発生した雲に天狗が乗り、登ろうとしていた3人の異国人を吹き飛ばしている。そして文章には異国人が登頂できなかったと記している。1860年(万延1年)は庚申の年で、この年は女性でも富士登山が許される(※60年に一度かな)。同年の英国公使オールコックも富士登山しており、その瓦版である。
・文章には「異人が7合目付近に達した時、黒雲が発生し、『富士山は霊山である。異人の登山は許さぬ』との声があった」とある。しかし実際はオールコックは登頂している。富士山は浅間大社の神体山であり、日本人には特別の山で、畏敬されるべき山である。当時の庶民は「欧米人は日本を見下している」との不安を持っていた。この瓦版のサイズは23×29Cmである。

・1858年(安政5年)幕府は日米修好通商条約を結び、オランダ/ロシア/英国/仏国とも同様の条約を結ぶ(安政五ヵ国条約)。これにより日本の主権は大きく侵害された。庶民には日本の文化が尊重されないとの不満があった。そしてその不満は弱腰の幕府に向けられた。

<開港の副産物・見世物興行>
○好機と捉えた興行師
・安政五ヵ国条約により、箱館/横浜/新潟/神戸/長崎が開港される。貿易が活発になり、異国人が増え、これにより攘夷運動が高まった。その結果、1860年(安政7年)「桜田門外の変」、1862年(文久2年)「生麦事件」などが続発する。しかしこの状況を、見世物興行師は好機と捉えた。

○虎の見世物興行
・「引札」と呼ばれる印刷物がある。これは開店のお知らせや商品の広告で、今のチラシに相当する。これは瓦版と酷似しているが、引札は無料である。ここで虎の見世物興行に関する引札を紹介する。サイズは30×42Cmの大型で、虎(※豹)の絵が大きく描かれ迫力がある。虎が日本に初めて上陸したのは、1861年(文久1年)である。日本人に馴染みの虎だが、初上陸は幕末である。※加藤清正の虎退治は朝鮮での話かな。
・この引札の題名は「虎解省略」である。7月中旬、両国広小路で虎の見世物があるとの広告である。しかしここに描かれているのは、虎ではなく豹なのだ。この引札が作られたのが1860年(万延1年)で、豹を描いている。この豹は1859年(安政6年)横浜港から陸揚げされている(※既に陸揚げされていた豹を書いたのかな。この豹も見世物だったのかな)。本物の虎は翌年に同じく横浜港から陸揚げされる(※1860年引札が作られ、見世物興行も行われたのかな。先に「1861年虎が初上陸」とあったが、話が食い違う)。以前は長崎だったが、江戸に近い横浜が利用できるようになった。これは苦悩する幕府と対照的である。

○インド象に誰もが夢中
・1863年(文久3年)インド象が日本に来る。象は1729年(享保14年)にも日本に来ている。幕末に両国広小路に来た象は、大変な人気となった。見世物小屋を訪れた客は、10数組の象の錦絵を買って帰った。
・この像が描かれた一枚摺(33×48Cm)は瓦版ではなく、引札だろう。これが江戸中にばら撒かれ、象の見世物興行が知れ渡ったのだろう。文章には「象は大きくて力強いが、人語を理解する」「象の骨・象牙は珍重される」などが記されている。

<絶えていた戦乱が始まる>
○泰平の世の終わり
・1937年(寛永14年)「島原の乱」が起き。それ以降は戦乱がなく、泰平の世が続いていた。異国に対し最も恐怖を抱いたのが孝明天皇(1831~66年、天保2~慶応2年)で、公武合体策を採った。異母妹・和宮を徳川家茂(1846~66年、弘化3~慶応2年)に降嫁させ、幕府と協力し、日本を立て直そうとした。

○下関海峡に襲来した四国連合艦隊
・孝明天皇は幕府に攘夷を強要し、その期日が1863年(文久3年)5月10日となる。幕府は行動を起こさなかったが、長州藩(※以下長州)は下関海峡に砲台・軍艦・兵を配備し、行動に出た。6月1日米国、6月5日仏国の艦船が報復に来て、その砲台は破壊される(下関事件)。さらに翌年8月5日、英国・仏国・オランダ・米国の軍艦17隻が下関海峡に集結し、下関を破壊する。
・この瓦版の題名は「長門の国大火」とあり、四国連合艦隊により下関が火の海になった事を伝えている。これは小倉に滞在していた商人からの情報であるが、詳細である。この瓦版のサイズは34×50Cmである。

○第二次長州征伐の失敗
・幕末の長州は活発に活動した。1863年(文久3年)長州は京都を追い出される(8月18日の政変)。この失地回復を目指したのが、1864年(元治1年)7月19日「蛤御門の変」だが、会津・薩摩などに破れる。この変を受け、7月23日長州征伐の勅令が下る。徳川慶勝が総督となり(※尾張だな)、11月18日決行と決まる。しかし8月の四国連合艦隊による攻撃もあり、長州に余力はなく、「蛤御門の変」の責任者を自主的に処罰し、幕府に恭順する(第一次長州征伐)。この恭順派に対し高杉晋助などの主戦派が反乱を起こし、1865年(慶応1年)3月には藩の実権を握る。これに対し幕府は第二次長州征伐を決める。

・この瓦版の題名は「御進発御供奉御役人」で、第二次長州征伐を報じている。文章には1865年(慶応1年)5月、徳川家茂は長州征伐のために上洛するが、その時の幕臣が列記されている。老中の欄には、阿部正外/諏訪忠誠/松前崇広が記されている。諏訪は上洛前に老中を解かれているので、間違いである。また阿部/松前は神戸開港で孝明天皇の怒りを買い、同年に老中を解かれている。家茂はこれに反発し、将軍を辞すると申し出るが、「今後は幕府人事に口を出さない」と約束させ撤回する。この瓦版のサイズは32×41Cmである。

・一方で長州は薩長同盟を結び、英国から最新鋭の兵器を購入していた。結果的に紀州藩主・徳川茂承を総督とする幕府軍は、長州に惨敗する。同年(1866年、慶応2年)7月家茂は大坂で病死し、12月孝明天皇も病で崩御する。

<出版統制が解除された世界>
○追い詰められる徳川家
・第15代将軍・徳川慶喜(1837~1913年、天保8~大正2年)は、水戸藩主・徳川斉昭の7男に生まれる。彼は大政奉還するが、その狙いは諸侯会議にあった。しかし討幕派が王政復古した事で、徳川幕府に終止符が打たれる。

○鳥羽伏見の戦いの戯画
・瓦版屋は政治に関する物は作らなかった。この瓦版の題名は「節分」だが、「鳥羽伏見の戦い」を表している。1868年(慶応4年)「鳥羽伏見の戦い」が起こるが、これは新政府が慶喜の辞官納地を決めたからだ。旧幕府軍はこれに怒り、会津・桑名が加わり、1.5万の兵となった。これに対抗したのが薩摩5千の兵である。
・この瓦版は「鳥羽伏見の戦い」を戯画化している。描かれた人物の頭は、葵紋(徳川)、丸に十字(薩摩藩)、橘紋(彦根藩)、一に三ツ星(長州藩)、土佐柏、梅鉢紋(加賀藩)などの家紋になっている。そして頭が鬼の「絵ろうそく」になっている人物は会津藩と想像できる。この様な瓦版は、幕府が崩壊したため作れるようになったのだ。この瓦版のサイズは23×33Cmである。

・「鳥羽伏見の戦い」は数で勝る旧幕府軍が敗北する。大坂城にいた慶喜は、戦の最中に江戸に逃げる。しかし旧幕府軍と新政府軍の戦いは、その後16ヵ月に及ぶ(戊辰戦争)。

○ありのままの戊辰戦争
・1869年(明治2年)5月、箱館で榎本武揚が降伏し、戊辰戦争は終わる。前年8月彼は軍艦の引き渡しを拒み、開陽丸など8隻で江戸を脱出し、箱館に向かう。次の瓦版は1868年(明治1年)11月、榎本の軍艦と松前藩との戦闘が記されている。戦闘の詳細が記されており、幕府が権威を持っていた頃には考えられない内容である。また旧幕府軍を「賊」と表現している。この瓦版には多数の人名が記されているが、これらは死傷者である。この瓦版のサイズは31×40Cm。

・この3年後の1871年(明治4年)日本で最初の日刊紙「横浜毎日新聞」が発行される。1879年(明治12年)警視庁令により読売行為は禁止され、瓦版は新聞に置き換わっていく(※言論統制だな)。しかし20年後でも瓦版は発行されている。庶民は瓦版を愛し続けたのだ。

<おわりに>
・本書を執筆中に多くの人に「今、瓦版に関する本を書いているんです」と伝えた。そうするとほぼ「面白そうですね」と返ってきた。それ程瓦版は興味を持たれているのだ。資料を調べていて、知らない話もあったが、楽しかった。
・皆様には、実物の瓦版を見てもらいたい。瓦版屋がこれを作り、深い編み笠を被った読売が売り、庶民が金を払って買ったのだ。それに感動する。私は歴史学者ではなく思想史学者なので、これは珍しい事かもしれない。

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