『TIMEが選ぶ20世紀の100人 上巻』(1999年)を読書。
20世紀(主に前半)の指導者・革命家/科学者・思想家/起業家50人を、各分野の専門家が紹介している。
各記述量は少ないが、その業績を的確に紹介している。
業績は知っているが、それを発明した人物は知らない事が多い。
20世紀は科学の世紀であり、庶民の世紀だったと感じる。
日本版を作ると、製造業の人物に限られそう。
お勧め度:☆☆☆
内容:☆☆(一部難読、それ程詳しくない)
キーワード:<我々の世紀 そして次の世紀>自由、民主主義/資本主義、電子、グローバル、米国、デジタル、バイオテクノロジー、民族主義/原理主義/環境保護主義、<指導者・革命家>セオドア・ルーズベルト/パナマ運河/環境保護、マーガレット・サンガー/産児制限、レーニン/レーニン主義、フランクリン・ルーズベルト/ニューディール政策/大西洋憲章、ヒトラー/第三帝国、チャーチル/民主主義者、エレノア・ルーズベルト/改革運動、ガンジー/独立運動、ベン=グリオン/シオニズム、毛沢東/秦、ホー・チ・ミン/民族自決、キング牧師/公民権、ホメイニ/イラン革命、サッチャー/サッチャリズム、ヨハネ・パウロ2世/カトリック教会、レーガン/冷戦、ワレサ/連帯、ゴルバチョフ/改革、ネルソン・マンデラ/人種隔離、無名の反逆者/天安門事件/名もなき人、<科学者・思想家>フロイト/精神分析、ライト兄弟/有人動力飛行、アインシュタイン/相対性理論、リーオ・ベークランド/プラスチック、ジャン・ピアジェ/児童心理学、ロバート・ゴダード/ロケット、ルートビッヒ・ビトゲンシュタイン/論理学、フィロ・ファーンズワース/テレビ、アレキサンダー・フレミング/ペニシリン、エドウィン・ハッブル/宇宙の膨張、クルト・ゲーデル/不完全性定理、ケインズ/ケインズ理論、エンリコ・フェルミ/原子炉、アラン・チューリング/チューリング機械、ウィリアム・ショックレー/トランジスタ、ジョナス・ソーク/ポリオ・ワクチン、ジェームズ・ワトソン/フランシス・クリック/DNA、レイチェル・カーソン/環境保護、リーキー一家/古人類学、ティム・バーナーズリー/WWW、<起業家>ルイス・B・メイヤー/映画、A・P・ジアニーニ/銀行、デービッド・サーノフ/テレビ放送、ウィリス・キャリアー/空調、チャールズ・メリル/株式市場、レオ・バーネット/広告、レイ・クロック/マクドナルド、エスティ・ローダー/化粧品、盛田昭夫/ソニー、サム・ウォルトン/ウォルマート
<我々の世紀 そして次の世紀>
・今世紀は驚嘆すべき世紀になった。航海時代が始まる15世紀、ソクラテス/プラトンが生きた紀元前5世紀もそうだったかもしれないが、今世紀は五指に入る世紀だろう。今世紀は様々な事があった。原子を分裂させ。ジャズ/ロックを発明し、飛行機が飛び、月面に降り立った。トランジスタが考案され、マイクロチップが作られ、ペニシリン/DNAの構造が解明された。ファシズム/共産主義が倒された。※延々と続くので省略。
・そんな中、様々な人物が登場した。フィンランド駅に到着したレーニン、塩税に抗議するガンジー、葉巻をくわえたチャーチル、トランペットを持ったアームストロング、ステッキを持ったチャップリン(※これも以下省略)。本書で影響力のあった100人を紹介する。上巻では指導者・革命家(20人)、科学者・思想家(20人)、起業家(10人)を紹介する。
・今世紀は明るく始まった。1900年フロイトは『夢判断』を出版し、ビクトリア朝に終止符を打った。この帝国は世界人口の25%を抱えた。しかし「ボーア戦争」は植民地時代の終焉の前触れとなった。中国では「義和団事件」が起き、巨人が目覚める。米国では馬が自動車に代わり始めた。農業従事者が42%を占め、平均寿命は50歳だった(今は農業従事者は2%、平均寿命は75歳)。
・1900年パリ万博が開かれた。人々はロダンの彫刻に呆れた。コダックは「ブローニー」を披露した。誰もがテクノロジーを手にできるようになった。米国で大学入学標準テストが生まれ、貴族社会から実力社会への移行が始まった。※ライト兄弟/レーニン/チャーチル/J・P・モルガン/マックス・ブランクなどの業績が記されているが省略。
○自由の世紀
・今世紀を2語で表すと「自由は勝利した」となる。全体主義/ファシズムは撃退された。様々な哲学者が発展させた理想である個人の権利/市民的自由/個人の自由/民主主義が、世界の半分以上を占めるようになった。
○資本主義の世紀
・民主主義と資本主義は自由を基盤に共に歩んでいくだろう。今世紀初頭、セオドア・ルーズベルトは自由市場の基礎を築き、起業家精神を推奨し、人々をカルテルなどから守った。彼の親戚フランクリンは大恐慌に立ち向かった。地球の反対側でレーニン/スターリンが計画経済を築くが、残酷な結果になった。
○電子の世紀
・今世紀が始まる3年前、J・J・トムソンが電子を発見する。1900年ブランクが量子物理学理論を打ち立て、これが大量破壊兵器に繋がる。5世紀前グーテンベルクが印刷機を作り、人々が聖書を持てるようになり、宗教改革が起き、個人の自由に発展した。今世紀はトランジスタ/マイクロチップが作られ、産業の時代は情報の時代に移った。
○グローバルな世紀
・人間社会は、村→都市国家→帝国→国民国家と進化し、今世紀にグローバルになった。前半には国民国家の断末魔により、2度の世界大戦が起きる。今は軍事の問題だけでなく、経済/文化などの問題もグローバルになった。
○大量市場の世紀
・1913年ヘンリー・フォードが自動車をラインで生産するようになり、庶民が自動車を買えるようになる。テレビ/練り歯磨き/雑誌/映画/ショー/靴などが大量生産・大量販売され、中央集中化/同化が伴った。この反動でアナキズムが生まれた。
○大量殺戮の世紀
・一方で暗い側面もある。スターリンの集団化(?)/ヒトラーのホロコースト/毛沢東の文化大革命/ポル・ポトのキリング・フィールド/イーディ・アミンの蛮行(?)などだ。これは個人の責任ではなく、人々が全体主義的な解決を受け入れたのだ。
○米国の世紀
・1941年『タイム』の創始者ヘンリー・ルースは今世紀を「米国の世紀」と呼び、自由を求める闘いに加わるよう、同胞に呼びかけた。そして米国は勝利した。他国は米国の外交を現実主義とした。米国は権益を求めるだけでなく、理想主義である。それはファシズム/共産主義との戦いだけでなく、ベトナムへの誤った介入も同じだ。米国の影響力の源は軍事力だけでなく、その価値観にある、
・では次の世紀はどうなるのか。デジタル領域では音声認識が進化し、コンピュータと会話できるようになる。それはコンピュータだけでなく、カーナビ/電話/ブラウザ/サーモスタット/ビデオカセット/電子レンジなど、全てがそうなる。これらの機械はAIを備え、自分の好みを認識し、代理人になる(※これは着実に進んでいるな)。ビル・ゲイツが支配的な立場にあるのは、彼がマイクロプロセッサ/メモリチップが、タダ同然になるのを想定していたからだ。※今はソフトウェアがタダになる方向かな。
・これらに様々な進化が加わると、コンテンツ(映画、音楽、ショー、本、新聞、データ、レシピなど)の入手も容易になる。さらに誰もがこれらを作成し、発信できるようになる。市場は小品種量販市場から多品種個人向け市場に変わる。人々は自分の好みに合ったニュースソースを選択するようになる。靴から鋼板まで、要望に応じた個別注文となる。
・このデジタル革命もバイオテクノロジー革命と比べると影は薄くなる。1998年スティーブン・ホーキングは、「過去1万年、人間のDNAに変化はなかったが、今後100年でDNAを操作するようになる」と語った。人間は自身のクローンを作り、我が子を注文するようになるだろう。※生殖が人工的になるかな。
・政治領域では民主主義的資本主義は3つの敵に直面する。第1は民族主義である。民主主義は少数派の扱いが苦手だ。第2は原理主義である。資本主義は冷酷で消費志向で精神性に欠ける。これにイスラム教などの宗教が反発するだろう(※テロの時代だな)。第3は環境保護主義である。資本主義が地球環境を壊し続ければ、これは受け入れられ、人類は自己を抑制するだろう。
・次世紀で確かな事が幾つかある。それは世界が密接になり、情報や革新の受け入れは拒めなくなり、それを受け入れた国が繁栄する。これに我が米国は該当する。米国は自由から生じる不協和音に悪戦苦闘してきたが、分裂する事はなく、平和的に解決してきた。それを憲法が保障している。
・しかし米国は新たな世紀に順応する必要がある。教育の不平等は許されない。米国は個人の率先的な行動と地域社会への近隣愛が纏まった時に力を発揮する。民主主義と自由の目標は、物質的な豊かさの追求ではなく、個々の人間の尊厳と価値観を育む事にある。※たまに抽象的な文章がある。
第1章 指導者・革命家
<セオドア・ルーズベルト> 1858~1919年
・彼には、ノーベル賞受賞/自然文化研究家/海軍史研究家/作家/古生物学者/剥製技師/自然研究家/大地主/騎兵隊大佐/元ニューヨーク州知事/米国大統領などの肩書がある。彼は「テディ」と呼ばれるが、変貌自在で熱狂的で、20世紀の米国を代表する人物である。
・彼のクロスカントリーのモットーは「越え、潜り、通り抜ける」のため、ホワイトハウスの散歩の最後は、何時もポトマック川を裸で泳ぐ事になった。彼は地質学でも政治でも直進的だったが、知性を持っていた。彼は15万通の手紙を書いたが、大統領の仕事をこなしながら、1日に2・3冊の本を読んだ。
・彼の「回り道をしない」姿勢が表れたのが、1903年パナマ運河の建設である。彼はパナマ州のコロンビアからの独立を促した。パナマ運河は今日まで完璧に機能している。彼は米海軍を創設した。1905年日露戦争を調停した。1906年純正食品・薬事法を成立させ、議会に消費者を保護する責任を持たせた。
・彼が成立させた法律は、当時は注目されなかったが、今では大きな意味を持つものが沢山ある。彼が今を見ると、低俗さ/感傷的な行動/瑣事に捉われる様子/役人・教師に対する尊敬のなさ/生まれる前の生命への無関心/あり余る富/健康への無関心に驚くだろう。
・外交面では、独裁者への挑戦/貧困国への経済支援は褒めるだろう。内政面では、マイクロソフトを何とかしようと思うだろう。彼は反トラスト法の適用に熱心に取り組んだ。1901年シカゴから中国までの通商を支配するノーザン・セキュリティーズが設立されるが、彼はこれを破壊し、個人企業を擁護した。
・彼は10歳の時に書いた手紙で、森林伐採を嘆いている。彼は大統領になると、国立公園を5つ指定し、国定記念物を18件指定した。彼が今大統領になると環境保護に取り組むだろう。
<マーガレット・サンガー> 1879~1966年
・女性の広くて深い運動を一人の手柄にするとしたら、彼女が最もふさわしい。彼女の「子供を産む産まないの」の産児制限合法化の運動は、今でも学ぶ事が多い。
・彼女はアイルランド系の労働者の家庭に生まれた。母は18回妊娠し、11回出産するが、消耗し死に近付いて行った。彼女は助産婦となるが、女性が健康/性の喜び/育児能力を奪われるのを目にした。避妊は厳しく抑制されたが、教育のある人は避妊用品を入手する事ができた。彼女はこの不正義に憤怒し、教会・国家に反抗する。彼女は新聞『女性の反逆者』を発行し、女性に情報と力を与えた。診療所では女性の側からの産児制限を実践した。
・彼女は「郵便わいせつ法」から逃れるため欧州に滞在する。そこで避妊・性に関する知識を深める。提訴が取り下げられ彼女は帰国し、米国産児制限連盟(1942年米国家族計画連盟)を設立する。これは日本/インドなどにも広まり、今でも活動している。
・法律面での変化は遅かった。彼女が開発を助けた経口避妊薬は、1972年憲法で認められる。しかしこれは彼女の逝去後である。さらに翌年中絶も女性の権利として認められる。現代でも中絶に反対する団体・議員が存在する。彼らは中絶に様々な条件を付けようとする。彼らに取って、誰が決定権を持つかが重要なのだ。※詳述されているが省略。日本の夫婦別姓と同じ感じだな。
・中絶反対者により、診療所が爆発され、死傷者が出続けた。また「彼女の産児制限は優生学」と批判する者もいた。彼女は「知性発達の遅れは、貧困/人口過剰/子供への無関心が原因」と考え、南部の各地に診療所を開設した。
・彼女は最初は「貧しい人は、安い労働力になるように操作されている」などの過激な表現を用いていたが、「家族計画」などの柔らかい表現を用いるようになる。また優生学者に産児制限に反対する者が多くいたため、あえて優生学の言葉を使うようにした。
・彼女にはカリスマ性があったが、率先垂範する人だった。彼女は「誰もが自分をコントロールする権利がある」と主張し、自身もそう振る舞った。彼女は急進的で人間的で、世界を変える力のある政治運動の草分けとなった。
※彼女は知らなかった。20世紀前半は、女性と有色人種の権利が認められた時代かな。
<ウラジーミル・イリイチ・レーニン> 1870~1924年
・彼は全体主義国家の導入者だが、読書家で、学者のように生活し、将軍のような戦術家だった。彼は体系的イデオロギーを受け入れ、これを社会に容赦なく導入した。これは後継者スターリン/毛沢東/ヒトラー/ポル・ポトの見本となった。
・1887年彼の兄は皇帝暗殺の謀議に連座し、絞首刑に処される。これを機に、彼は急進化する。弁護士になった彼も流刑に処されるが、刑を終えると、共産主義理論家/戦術家/党の組織者として頭角を表す。
・多くの圧政者と異なり、彼は寛大で、富を欲しがらなかった。彼はくたびれたチョッキを着て、16時間働き、大量の本を読む地味な人物だった(※しかし毛沢東と同じく、組織で尊重される人物かな)。彼は「社会はどうあるべきか」を説くペダンチック(※衒学的)なジャーナリスト兼学者だった。
・しかし彼は反体制派の思想家・芸術家を追放・投獄・処刑する。1917年十月革命頃、彼は急進的知識人の中心になる。某作家は「ボルシェビズムは人類が蓄積した知恵を一蹴しようとした。これは科学を人間の営みに適用させる試みで、彼らはこれが抵抗を受けるのは、これが正しいからだとした」と書いている。
・レーニン主義により何千万もの殺人が行われた。スターリンの数は彼を遥かに上回るが、そのモデルを作ったのは彼である。西側諸国の一部では、「スターリンはレーニン主義を歪めた暴君」とした。しかし彼の残虐行為が明らかになるにつれ、「善良なレーニン、邪悪なスターリン」はジョークになった。彼は最初に強制収容所を作り、人為的に飢饉を起こし、憲法制定会議を解散して共産党独裁体制にし、最初に知識人・宗教信奉者と闘争を始め、市民と報道の自由を奪った。1918年ロシア革命後、彼はボルシェビキの指導者に、「富農・金持ち・搾取者を絞首刑にし、それを晒せ」と命じている。
・ブレジネフ時代、夢の国は腐敗し没落した独裁国家になる。しかしレーニン崇拝は残存した。教科書・切手・貨幣など、様々な場所で彼を目にするようになった。某詩人は「この肖像を冷めた目で見れるようになるのが最初のレッスンで、物事に距離を置く最初の試みになった」と記している。
・1980年代後半、ミハイル・ゴルバチョフはグラスノスチ政策を始める。この目標は1950年代後半のフルシチョフの自由化政策であり、非スターリン化だったが、結局はレーニン像に行き着いた。※「結局は変わらなかった」の意味かな。
<フランクリン・デラノ・ルーズベルト> 1882~1945年
・民主主義の力を引き出すには、指導者が必要だ。20世紀は民主主義が試験された世紀です。今世紀が始まった頃は、民主主義が世界に広まると考えられていた。しかし第一次世界大戦が起き、大戦後にはファシズム/共産主義が活性化する。1930年代は大恐慌になり、全体主義に傾いて行った。1941年民主主義国家は12ヵ国になり、第二次世界大戦は民主主義の存続を賭ける戦いになった。
・そこに登場したのが彼だ。未来の歴史家は彼を、20世紀で経済的崩壊/軍事的脅威に対し、民主主義のエネルギー・信条を最も動員した立役者にするだろう。
・彼は最も愛され、最も憎まれる米国大統領である。彼が愛されるのは、貴族的でありながら庶民を信頼し、庶民のために闘ったからだ。彼は魅力的で、仕事に熱心で、未来への見通しを持っていた。
・だが彼を憎む者もいた。それは秩序の中で恩恵を受けていた人の権力・地位・収入・自尊心を低下させたからだ。しかし社交クラブで彼を罵っていた人は、既にこの世にいない。そして彼らの子孫は、「ニューディール政策は有益だった」と言っている。
・彼は完璧ではなかった。彼はずる賢く、巧妙で、秘密主義で、冷酷でもあった。しかし彼は権力を堪能し、部下が対立した時は自分が決断するようにした。彼は小児麻痺(ポリオ)から復帰し、国家に自信と希望を与えた。
・20世紀はイデオロギー対立の世紀である。民主主義の論客は「あれかこれか」しかないと思い込んでいた。そのため自由放任主義を捨てる者は国家主義者とし、部分的な統制管理は失敗すると確信していた。
・1933年彼が大統領に就任した時、自由放任主義は資本主義を弱体化させ、失業率は25%を越え、国民総生産は半分に減じていた。「資本主義は内包する矛盾によって崩壊する」とのマルクスの予言の信奉者である共産主義者だけが喜んでいた。
・そこで現れたのが彼だ。彼は社会的な保護・規制・管理のための施策(ニューディール政策)を速やかに導入した。そのため自由放任主義者は「彼は国を共産主義に向かわせている」と批判した。しかし社会保障/失業補償/公共事業/証券取引規制/村落の電化/農産物価格の調整/互恵通商協定/最低賃金/労働時間の制限/団体交渉権などは資本主義を守る施策となった。雇用促進局(WAP)により雇用は改善した。資本主義への反対票は、1932年100万票あったが、1940年には15万票に減少した(※大統領選かな)。米国は20年毎に不況になった。資本家はニューディール政策を非難したが、それは資本主義を救った。
・彼は外交を2人の大統領から学んだ。親類のセオドア・ルーズベルトから、国益/勢力均衡/地政学を学び、ウッドロー・ウィルソンから、勢力均衡を越えた世界観/集団安全保障に基づく国際秩序を学んだ。従って彼の国際主義は、セオドアの現実主義にウィルソンの理想主義を肉付けしたものである。※現実と理想は反語かな。
・第一次世界大戦に懲りた国民は孤立主義を選択し、侵略国/被侵略国への介入は不可能だった。そのため彼は教育キャンペーンを行って、国民を目覚めさせようとした。孤立主義と干渉主義の論争が起こるが、真珠湾攻撃で論争は終結する。
・彼はチャーチルと共に戦争の指導者になった。また戦後は恒久的な世界平和のための枠組みが必要と考えていた。彼はロシア/中国の台頭、植民地支配の終焉を目にした。英国のインド支配、仏国のインドシナ支配を止めるように説得した。チャーチルと共同して「大西洋憲章」を発表した。これは今でも世界の願望になっている。
・彼は米国が国際的な枠組みに復帰するように努めた。1944年に開かれた金融と貿易/救済と再興/食糧と農業/民間航空などの様々な会議に米国を参加させた。戦争終結前に国連設立の会議をサンフランシスコで開くように段取りをした。しかし彼はその前に亡くなる。
・難題はソ連だった。西側にとって東部戦線は重要で、彼はスターリンとヒトラーの和平を望んでいなかった。終戦前、彼とチャーチルはヤルタでスターリンと会談する。そこで戦後のソ連の東欧支配を約束したとされるが、これは間違いで、彼らは自由選挙による政府の設立を約束させた(※これは初耳の気がする。実際は様々な事が話し合われたかな。これも宿題だな)。スターリンは自分の目的達成のため、これを破ったのだ。
・今の世界はヒトラーの世界ではない。この千年帝国は十数年で滅んだ。スターリンの世界でもない。この恐ろしい世界は自己解体した。チャーチルの世界でもない。大英帝国は歴史に消えた。今は彼(フランクリン・ルーズベルト)の世界である。※これからは、民主資本主義の米国と国家資本主義の中国が対峙する時代かな。
<アドルフ・ヒトラー> 1889~1945年
・彼は第三帝国の権力を一身に集めた。彼に比べればムッソリーニ/フランコは可愛いものだ。敵対する者には威嚇したが、味方に付けたい者には、どうやって喜ばせるか、感動させるか、魅惑させるかに努めた。彼は国民を自分の狂気に引きずり込み、屈辱的な敗戦に導いた。彼は混乱した今世紀の分岐点を作った。つまり彼以前/彼以降の言い方を作った。彼はそれ以前の名だたる者を凌いでいる。彼により、人間は非人間的になれると定義されるようになった。※この様な評価が列挙されているが、大幅に省略。
・ゲーテ/カントなどの天才を誇りに思う彼らが、なぜ彼を指導者に選んだのか。彼に反対する者もいたが、それは弱く、彼を抑え込む機を逸した。国民は団結し、法曹界/教育界/産業界/経済界のエリート層も彼を支持した。
・彼の死後、歴史的・心理学的考察がなされた。彼に関する書物は、今でもベストセラーになる。我々は彼のあらゆる事を知っていると思っている。様々な作家が、不幸な少年期、芸術での挫折、第一次世界大戦での負傷、特権階級への軽蔑、エバ・ブラウンとの関係、仲間だったナチス突撃隊の暗殺、ユダヤ人への憎悪などを綴っている。
・しかし我々が見過ごしている事がある。この偏執者は、不変の理想、そしてそれを国民に押し付ける発想をどこから得たのか。ドイツが経済危機になっていなかったら、第一次世界大戦の戦勝国がドイツを侮辱し、ドイツ人の愛国心を刺激していなかったら、彼は権力の座に就けたのだろうか。
・1933年彼は合法的に権力を握った。ドイツ国家社会主義労働者党は議会の過半数を獲得し、ヒンデンブルグ元帥は彼の組閣を認める。これにより第三帝国が始まる。帝国議会は火災に遭い、最初の強制収容所が作られる。優れた作家・音楽家・画家は亡命する。ユダヤ人もパレスチナに移住した。
・彼は愛された人物であり、憎まれた人物である。彼は親愛・慈悲・忠誠を捧げた国民に愛された。国民は彼を喝采し、女性は魅了され、若者は恍惚し、偶像崇拝となった。国民は彼の内に秘められた破滅を予知できなかったのか。
・彼はベルサイユ条約を無視し、再軍備に乗り出す。彼は失った領土を取り戻し、さらに領土を拡大し、地球規模になるのを目標とした。1936年ドイツはライン地方に侵攻する。これを仏国/英国は許容した。彼は民主主義の「臆病さ」を知っていたのだ。この「臆病さ」はミュンヘン協定で確定する。ここで英仏はチェコスロバキアを見捨てる。彼はドイツの将軍の大胆さをあざけた。※詳細説明はないが、関東軍が邁進した日本と逆だな。
・1939年彼はスターリンのソ連と不可侵条約を結び、ポーランドを分割する。スターリンは彼に全幅の信頼を置いていた。スターリンは政府・党からユダヤ人を追放した。またドイツがソ連に侵攻した日、ソ連の貨物列車はドイツに向かって原材料を運んでいた。
・彼は英国とドイツが世界を分割するため、英国とは仲良くできると考え、ポーランド/ロシア/ウクライナ/バルト諸国を併合しようと考えていた(※今の米中に近いな)。そのため英国がなぜ抵抗するのか理解できなかった。それなのになぜロンドンを空襲し、米国に宣戦布告したのか。なぜ執拗にユダヤ人を憎んだのか。彼の邪悪な強迫観念は、人々の心に残る。アウシュビッツ/トレブリンカ/ベルゼックなどの地名は、人々の心を凍り付かせる。
・ドイツ軍が北アフリカやスターリングラードで大敗し、連合軍がノルマンディーに上陸する段になっても、彼は「最終的な解決」を模索していた。ベルリンの地下壕で書かれた遺書にも、ユダヤ人への憎しみが書かれている。
・この遺書には、国民への恨みも書かれている。「お前達は役立たずで、私に栄光を手にさせなかった。お前達も打ちのめされ、破壊され、屈辱の中に落ちぶれてしまえ」と書いている。※これは知らなかった。
・残忍な帝国は、12年で滅びた。この戦争でアイゼンハワー/ドゴール/モントゴメリー/ジューコフ/パットンらが伝説になった(※将軍が英雄になる感覚は、今の日本にないかな)。しかし20世紀を振り返ると、国民の魂を増悪と死の悪魔に売り渡した狂信者の名前が最初に浮かぶ。
<ウィンストン・チャーチル> 1874~1965年
・20世紀の政治は、6人の伝記として書ける。全体主義者のレーニン/スターリン/ヒトラー/毛沢東と、民主主義者のルーズベルト/チャーチルである。彼は名門貴族の出身である。彼の祖先がスペイン継承戦争で功績を上げ、1702年にマルバラ公爵の地位を授けられた。
・彼の学業成績はパッとしなかった。3度の試験で陸軍士官学校に合格し、騎兵隊将校になる。そして反スペイン騒乱(1895年、※第二次キューバ独立戦争)/インド北西州での戦闘(1897年)/スーダン戦争(1898年)を経験している。彼は前線特派員として、ものを書いた。彼が書いた『マルバラ公伝』は傑作であり、『第二次世界大戦回顧録』はノーベル文学賞を受賞している。
・彼は政治にも夢中になった。彼の父ランドルフ・チャーチルは政治的に無能で、彼はそれを回復しようと決意する。1901年彼は26歳で議員になる。1910年彼は保守党から自由党に移る。1910年内務大臣/1911年海軍大臣に就く。1914年第一次世界大戦が勃発するが、その時海軍の最高司令官だった。西部戦線での膠着状態を出し抜くため、ダーダネルス海峡に英仏連合軍を送るが失敗する。これにより彼は辞職する。
・この状態は実質25年間続く事になる(※1915年海軍大臣辞任~1939年海軍大臣就任だな)。1924年彼は保守党に復帰し、大蔵大臣(※1924~29年)に任命される。ところが金本位制復帰による失敗と、インドへの自治権付与への反対で政治的地位を弱め、1931年政界を退く(※1924~64年議員は続けている)。
・彼は「夢見る人」だった。金本位制の復帰も、インドへの自治権付与への反対も、大英帝国の地位を保ちたいと考えたからだ。また彼は民主主義者として全体主義に敢然と立ち向かった(※ぶれない信念は重要だな)。1933~39年彼は野に下っていたが(※1929~35年労働党マクドナルド首相、1935~37年保守党ボールドウィン首相、1937~40年保守党チェンバレン首相)、1935年欧州で広がる全体主義に我慢ができず、反ナチスを宣言する。彼は保守党の指導者ボールドウィン/チェンバレンの対独宥和政策を非難し、1940年英国を背負う首相に就く。※彼は保守党内の対独強硬派かな。
・この時仏国は完敗しており、英国は孤軍奮闘していた。ダンケルクから撤退した英陸軍を、ムッソリーニに対抗させるため中東に送る。ムッソリーニに勝利し、ギリシャへの介入も成功させ、これはヒトラーを激怒させた。
・しかし彼の戦略は衝動的で、補佐官を怒らせた。彼は共産主義のソ連を嫌っていたが、ヒトラーに対抗するためソ連と同盟した。楽観的な彼は米国が参戦すると勝利できると確信していた。1941年日本が真珠湾を攻撃した事で、これが実現する。
・英国は人口/産業/財力でソ連/米国に劣っていた。しかしヒトラーに唯一対峙した国として、ソ連/米国と対等の指導的地位を維持できた。1944年ノルマンディー上陸作戦が実行される。1945年2月三巨頭会談が開かれるが、そこでの中心は米ソとなった。※ヤルタ会談だな。
・間もなくの総選挙で敗れ、首相の座を失う。1951年政権を奪回し首相に就くが、1955年には辞任する。彼は戦争の指導者として確固たる地位を得るが、平和時では有能と云えなかった。しかし戦時下の彼の演説は、世界の自由主義者を鼓舞し続けた。さらに冷戦下の彼の「鉄のカーテン」演説は、民主主義の道徳的優越性と勝利の必然性の信念を強固にした。
<エレノア・ルーズベルト> 1884~1962年
・彼女はフランクリン・ルーズベルトの妻だが、今でも公民権運動/女性運動の指導者に影響を与えている(※今でもなのかな)。ファーストレディの役割は儀式的だったが、彼女は社会改革に関心を持ち、全国で演説し、新聞に寄稿し、ラジオ解説者になり、定期的に記者会見を開いた。※当時はラジオかな。
・彼女の父はアルコール中毒だった。母は彼女が美人でないと失望した。そんな両親の一人娘として生まれる。不安と内気な彼女は縁戚のルーズベルトと結婚する。これを機に、自信としていた福祉施設の仕事を辞める。
・結婚して13年、彼女は6人の子供を育てる。1918年彼女は自分のアイデンティティを探し始める。そのきっかけとなったのが夫の浮気だった。彼女は夫の要求に沿うのではなく、自分で生き方を決める事にした。
・彼女は様々な改革運動に力を注いだ。参政権運動、児童労働の廃止、最低賃金の制定、労働者を保護する法律の制定に参加した。そこで彼女は、演説/組織作り/社会問題を明確にする能力などに気付く。1921年夫がポリオに罹ると、彼女は活動を活発にし、夫の目や耳になり、2人は強力なコンビになる。彼女は直ぐに行動し、道徳的に妥協しなかった。夫は政治的才能があり、国民を理解する感覚にも優れた。2人は国民を動かし、永続的な政治的・社会的変化をもたらした。※第一次世界大戦後は社会変革の時代かな。
・彼女は公民権に大きな影響を与えた。南部を視察した時、いたる所で黒人が差別されているのを知る。そのため彼女は夫に、これを始終訴えた。そのため夫はニューディール政策で差別を禁止する大統領令に署名した。
・アラバマ州の会議に参加した時、彼女は人種隔離条例に従って黒人と分かれて着席するのを拒否した。米国革命婦人会が黒人歌手を締め出すと、同会を脱退した。第二次世界大戦中も彼女は公民権を主張し続けた。これにより工場/軍隊などで黒人が活躍する機会が増えた。10年後に最高裁判所が「分離するが平等」の原則を却下するが、彼女はそれ以前から人種隔離政策は差別と主張していた。
・彼女は女性の不平等に対しても本能的に立ち向かった。彼女は女性記者に限定した記者会見を何百回と開き、報道機関の女性雇用を促した。また女性に工場での雇用を促し、技術を習得し、視野を広めるように呼びかけた。政府に保育所建設の資金を確保させた。終戦により女性労働者が解雇されるのを食い止めるために闘った。
・彼女は批判されてもひるまなかった。「性別、宗教、人種などで判断すべきではない」と主張し続けた。彼女は今世紀で最も有効な社会正義の唱道者となり、フェミニストのお手本になった。
<モハンダス・ガンジー> 1869~1948年
・安っぽい眼鏡を掛けたインド人が床の上に座り、メモを熱心に読んでいる。この白黒写真の左上に、虹色の筋が入ったリンゴが印刷され、その下には「違った考え方をしろ」とのキャッチコピーがある。この男性は半世紀前に歴史を作った彼である。
・この広告は分析する価値がある。彼は現代的なものや科学技術に異を唱えた。タイプライターより鉛筆、スーツより下帯、工場より畑を好んだ。彼が若い時、西欧的な弁護士だった。それがある時を境に過激に転換する。彼の考え方は、革新的なアップルと異なる。
・今日では彼を自由に使える。しかしそれは史実と異なる。映画『ガンジー』(※1982年)は彼の聖人伝説となった。そこで他人のために死ぬキリストとして描かれた。抑圧者より道徳的である事で、抑圧者を退かせた(※映画を観ないから困る)。この象徴的なガンジーは、南アフリカの反アパルトヘイト活動家、南米の民主主義擁護者など自由のために闘っている人を勇気づけた。※南米についても詳しくないので困る。
・彼は退屈な人間で、説教を垂れては万能薬を処方した。「西欧文化をどう思うか」と聞かれ、「考えとしては素晴らしい」と答えている。理想化された彼に対し、本物の彼は興味深く、今世紀でもっとも複雑で矛盾した人物である。※彼は反近代かな。
・彼はインドの統一を願っていたが、イスラム教の指導者ムハマド・アリ・ジンナーを党に留められず、国家の分割を招いた。ジンナーに首相の座を与えようとしたが、ジャワハルラル・ネール/バッラブハーイ・パテルの圧力でできなかった。
・彼は苦行者となる決意をしたが、その費用は国民が負担した。また財閥ビルラなどの億万長者に支援された。彼がハンガーストライキをすると、暴動・虐殺や労働者のストライキは止んだ。彼はその雇用主に支援されていた。※彼はどっちの味方なんだ?
・彼は被差別階級(ダリト、※カースト4階層のさらに下)の地位向上も努めた。しかしダリトが彼のライバルであるビムラオ・ラムジ・アンベードカルの下に結集したため、彼の威信は低下した。
・彼は消極的な抵抗、建設的な非暴力の政治哲学を創造した(※普通なら抵抗は積極的行動で、非暴力は消極的行動かな)。しかし彼は政治と離れ、菜食主義/排便・排泄物などの理論を磨いた(※これは苦行時代なのでは)。16歳の時父が亡くなるが、その時妻とセックスしていたため、彼は後に性交渉を絶つ。
・彼は独立運動を全国規模に広げ、あらゆる階級を動員させ、帝国主義に抵抗させた。これは彼一人の功績である。しかし独立インドは分断され、近代化・工業化に邁進している(※この分断はカーストの事かな)。これは彼が望んだものではなく、ネールが望んだものだ。そして国民はそれを支持した。※彼は西郷的だな。
・彼は後に「独立できたのは非暴力ではなく、英国民の国民性による」と述べている。「独立は非暴力で得られた」と広く考えられているが、実際は暴力的に行われた。また1930年代より、英国の官僚主義的支配は揺らいでいた。彼のやり方は外面的なもので、それはより深い歴史的要因で独立は成された。
・近年では彼の性格・業績や、独立の真の要因を探る事はない。そのため彼を「父」とするインドでさえ、彼を重視しなくなった(※最近彼の活動拠点を改修する話があった)。彼の世界観は宗教が本質である。彼はヒンズー至上主義にはひるんだが、古代からの物語に解を求めた。しかし今日ではインド人民党(ヒンズー至上主義)が荒れ狂っている(※インドには多数の党があったと思うが)。科学技術/お金/権力の魅力に抗える者はおらず、今のガンジー主義者は変わり者しかいない。
・ジャワハルラル・ネールの彼の印象は、「真実を追求する巡礼者」である。その娘インディラ・ガンジーは、「彼の言葉より、彼の生き方がメッセージである」と述べている。アルバート・アインシュタイン/マーチン・ルーサー・キング・ジュニア/ダライ・ラマなどの平和運動家が彼を称え、彼に倣っている。彼は世界主義を諦めたが、死後に世界市民となった(※世界的価値になったの意味かな)。彼の魂は回復力に富み、賢く、強く、ひそやかで、倫理的である。マクドナルド文化/マッキントッシュ文化には、ガンジー主義者の敬虔さより、ガンジー主義者の知性が武器となる。※最後に難解な文章。ガンジー主義者の知性って何だ。※彼について詳しく知らなかったので、良かった。
<ダビッド・ベン=グリオン> 1886~1973年
・彼は知識人になりたかった。そのため指導者になっても、哲学書を読み漁り、聖書を講釈し、仏教を学んだ。プラトンの原書を読むため、古代ギリシア語を学んだ。彼のコミュニケーションは対話でなく、論戦だった。彼の風貌は聖者を思わせる銀髪で、他を圧倒する意志と火山の様な気性で論戦した。※小泉首相みたいだな。
・彼はポーランド系ユダヤ人として生まれる。東欧での反ユダヤ主義による虐殺行為に衝撃を受け、1906年シオニズムに倣いトルコ支配下のパレスチナに向かう。彼はシオニスト社会主義者と共に、農場労働に従事した。19歳にして一生を貫く道筋を確立した。それはメシアを待望するユダヤ教の世界観であり、社会主義と結び付いたユダヤ民族主義だった。
・1915年彼はパレスチナを追放され、米国に移る。彼は英語を学び、オニスト社会主義運動に参加する。彼の性格は横暴で、レーニンを憧憬していたが、民主政治の影響でそれが弱められる。
・第一次世界大戦後、彼は英国支配となったパレスチナに戻る。彼はそこでシオニスト社会主義運動の指導者になる。欧州で反ユダヤ主義が激化し、多くのユダヤ人が押し寄せるようになる。アラブ人は英国/ユダヤ人に対し聖戦を始める。彼はユダヤ人のための独立国家が必要と確信する。アラブ側の要求も受け入れる覚悟だったが、ユダヤ人のために影の国家・軍隊が必要と考えた。
・1936~47年ユダヤ人は多くの国で保護されず、無数のユダヤ人が迫害された。彼はユダヤの若者を英国軍に入隊させ、ナチスと戦わせた。次第に世界の論調はユダヤ人に共感するようになり、1947年国連でパレスチナをユダヤ人とアラブ人で分割する決議がなされる。
・1948年彼はイスラエルの独立を宣言する。この数時間後、アラブ5ヵ国がイスラエルに侵攻する。この戦いは中東戦争の中で最悪で、ユダヤ人の1%が亡くなった(※第一次中東戦争)。彼はこの戦争で共産主義のリーダーからダビデ王に変わった。イスラエル人は彼に畏怖/怒り/称賛/恨みの念を抱いた。
・停戦期(1949~56年)にはゲリラ攻撃と報復攻撃の悪循環になる。1956年彼はシナイ半島を襲撃し、対立が激化する(※第二次中東戦争)。これは英仏によるエジプト襲撃と協調して行われた。そのためアラブ諸国はイスラエルを帝国主義の先兵と捉えた。
・1967年彼は「六日戦争」(※第三次中東戦争)で電撃的勝利を収める。80代の彼は「エルサレムは分断させるな」と叫んだが、それ以外の地域は、「平和のためには固執するな」と述べた。1973年「十月戦争」(※第四次中東戦争。8年間隔で起きた感じだな)では天罰を食らう。この戦争の数週間後、彼は亡くなる。
・彼は聖書に憧れ、ナショナリズム/社会主義/ユダヤ教の信念から、約束された土地にユダヤ民族国家を作ろうとした。しかしこれは現実になろうとしている。彼はイスラエルが最高の道徳を規範とする模範国家になる事を求めた。イスラエルはそうならなかったが、彼はこの偉業でリーダーシップを発揮した。※彼について知らなかったので、随分参考になった。
<毛沢東> 1893~1976年
・彼は水泳が好きだった。最高幹部の専用プールでも、警備に見守られ泳いだ。中国南部では、排泄物が流れる川で泳いだ。溺れる事を恐れる人に、「考えなければ沈まない。考えるから沈む」と述べた。※水泳の逸話が多数書かれているが省略。
・彼には多くの敵がいたが沈まなかった。彼に無能を批判された軍国主義者、党内のライバル、彼を憎んだ地主、彼の拠点を攻撃した蒋介石、彼の北の基地を攻撃した日本軍、朝鮮戦争で戦った米国、反スターリン政策のフルシチョフのソ連などである。
・1893年彼は生まれる。清朝は衰え、中国分割が差し迫っていた。19歳の時、論文を書いている。これはシニシズム(※冷笑主義)と紀元前4世紀の恐怖官吏・商鞅に関するものだった。商鞅は人民を守るため、悪人・反逆者を罰する法律を作り、冷酷に執行した。
・1949年彼は蒋介石を退け、中華人民共和国を建国する。1950年代終盤、彼は「大躍進」政策を実行する。この必要性を説得するのは、彼には難しくなかった。この政策で中国人民を社会主義の楽園に導くはずだった。1957年彼は『人民の間の矛盾の正しい扱い方』を纏めている。これには彼の人格の奇妙な混在が見られる(※説明が欲しい)。また人民の15%以上が飢え、マルクス主義に嫌悪感を抱く者がいる事も認めている。
・「大躍進」の5年後、文化大革命が始まる。彼は軍と学生を味方に付け、敵と対峙した。ここでも何百万人もの人が苦しみ、亡くなった。
・1976年彼は亡くなる。年を追うごとに、「毛の言うとおりだ」と言わなくなった。彼に訓練された鄧小平らは、人民に起業家としての機会を与え、驚くべき成長を達成する。この変化は彼の遺産なのか。彼は理想家だったが、現実主義でもあった。彼は商鞅を学び、その厳しさが中央集権国家・秦の基盤を築いた事を知っていた。また秦の為政者が憎まれ、恐れられていた事も知っていた。そして秦がアッサリ打倒された事も知っていた。しかし彼も秦の為政者もバラバラだった群衆の心を一つにした。この基盤により開放政策は成功したのではないだろうか。彼は「考えなければ沈まない」と述べている。※秦は中国史上初の統一王朝で、中華人民共和国と共通点があるかも。中々面白い話だった。
<ホー・チ・ミン> 1890~1969年
・彼は革命家であり、民族主義者である。彼と思いを共有するゲリラ兵は、インドシナを支配しようとする仏国を打ち砕いた。そして彼らは正規軍となり、共産主義を許そうとしない米国を破った。この戦争は米国に取って、最も長い戦争になり、初めての敗戦になった。
・1890年彼はベトナム中部の村に生まれる。彼の父は官吏をしていたが、仏国支配に反対し、巡回教師になる。彼はその傾向を受け継ぎ、納税拒否闘争に参加し、ブラックリストに載せられる。1911年彼は「自由、平等、友愛」を信条とする仏国を知ろうと、仏国に渡る。彼はパリで写真の修整技師となる。彼はタバコを好み、モーリス・シュバリエを聞いた。
・民族自決主義から仏国共産党に入党する(※帝国主義からの独立には、共産主義あるいは開発独裁が必要だったのかな)。彼はモスクワの秘密工作員になり、広州/ラングーン/カルカッタなどを巡る。1929年香港でインドシナ共産党を結成する。1940年日本軍がインドシナに侵攻する。ベトナムの植民地政府はこれと手を結ぶ。しかし彼は仏国も日本も同じと考えた。彼はベトナムに入り、ベトナム独立同盟(ベトミン)を立ち上げる。
・この抵抗は最初は仏国、後に米国に向けられる。1965年米国大統領ジョンソンは和解案を提出するが、彼は統一に拘り、拒否する。しかしこの戦争で数百万のベトナム人が亡くなった。
・1969年彼は亡くなる。その6年後彼の軍隊がサイゴン(現ホーチミン)に押し寄せる。彼の遺体は防腐処理され、巨大な霊廟に安置された。統一の願いは叶ったが、火葬し、山に埋葬して欲しとの願いは叶わなかった。
<マーチン・ルーサー・キング> 1929~1968年
・米国の大半の都市に、彼の名前の通りがある。しかしこれは黒人居住区にある。彼は人種的平等を求めた指導者とされるが、これは矮小した見方である。彼によって米国は自由主義のリーダーになれた。彼らの運動が失敗していたら、米国は南アフリカのアパルトヘイトと同じ状況だった。
・1954年最高裁は人種差別を違法とするが、この差別は存続していた。アラバマ州ではバスの座席を譲らなかった黒人が投獄された。6歳の黒人少女が「白人と同じ学校に行きたい」と言うと、唾を吐き掛けられた。14歳の黒人少年は白人女性に野卑な言葉を掛け、殺された。※同様の事件が書き綴られているが省略。
・彼の運動は、これらを一掃した(※今でも類似の事件が起きていると思う)。この問題は200年に亘って世論を喚起してきたが、その頂点に立ったのが彼だった。彼は聖書のような文章で語り、民衆の先頭に立った。彼は黒人教会を基盤にした。これは今でも黒人組織の中で最も強固で独立している。※もっと説明が欲しい。
・彼は非暴力を貫いた。1955年バス・ボイコット事件から、1968年暗殺されるまで、何百回も暗殺の脅迫を受けている。1964年ノーベル平和賞を受賞するが、自殺に追い込もうとする者もいた。
・彼の「私には夢がある。私の幼い子供が、肌の色ではなく・・」の言葉が、近年アファーマティブ・アクション(※積極的格差是正)に反対する人々のスローガンに使われている(※彼の言葉が格差是正の反対になるかな)。彼らは彼の言葉を恣意的に歪めている。彼は多くの要求をした。「我々は小切手を現金にするため、この国の首都にやって来た。この国の創始者は、憲法と独立宣言に気高い言葉を並べ、全ての米国人に小切手を渡した。しかし黒人には『残高不足』の小切手を突き返した」(※要するに十分な権利を与えなかったの意味かな)。これは兄弟愛のユートピアを説く言葉ではなく、正義の現実を求める言葉である。
<アヤトラ・ルホラ・ホメイニ> 1902~1989年
・彼は欧米諸国が1世紀以上イスラム教徒を侮辱した事に対する復讐者で、イスラム革命を指導した。ケマル・アタチュルクはトルコに欧米式の世俗主義を導入した。1950年代ナセルはエジプトから植民地主義を絶やすべく、アラブ・ナショナリズム運動を展開した。この3国は、かつては帝国だったが、今は三流国になっている(※イスラムを象徴するイラン、トルコ、エジプトだな)。アタチュルクとナセルは欧米式を取り入れたが、彼は欧米式を拒否し、イスラムを基本とした。
・政治に信仰を取り入れた国は他にもある。米国はキリスト教、イスラエルはユダヤ教、インドはヒンズー教を取り入れた。しかし彼はシャー(※王に相当)が支配する政権だけでなく、非宗教的な世界観までも崩そうとした(※この辺りの比較は面白いな)。彼は容赦なく、狡猾で、ナショナリズムを熟知し、シャーが支配する政権を転覆させた。
・1902年彼はシーア派の学者の家に生まれる。彼も神学を学び、イスラム教の法理学者になる。彼は若くして神学校教師に就くが、当初は活動家ではなかった。最高権力者レザ・シャー(位1925~41年)は非宗教化を推進し、聖職者を弱体化させたが、彼はそれを黙認した。レザ・シャーの息子モハメド・パーレビ(位1941~79年)は民主化を求めるデモから身を守るため、米国に救いを求めた。
・当時彼はアヤトラ・マホメット・ボロウジェリディに師事していたため、それに従い権力に敬意を払っていた。ところが1962年師が亡くなると、シャーを辛辣に批判するようになる。彼はポピュリズムに精通し、イスラエルとシャーの関係を批判したり、女性の参政権に反対した。米軍の駐留に対しても、「イランを奴隷にする」と批判した。
・1964年彼はトルコに追放されるが、間もなくイラクの聖地アンナジャフ(※アン=ナジャフ)に移る。彼はここで多くのイラン人と会い、自分の説教を録音したテープを渡し、イランで販売させた。これにより彼は反対派の指導者になる。※革命の指導者の一般的なパターンだな。
・彼はここで革命の教義も確立する。シーア派では国家は聖職者に従う事を要求している(※これはシーア派の特徴かな)。しかしこれまでは明らかに敵対する事はなかった。ところが彼はパーレビ国王の米国に対する奴隷的態度や世俗主義を非難し、聖職者により国家統治を提唱する。
・1978年シャーの退位を求めるデモが起き、学生/中流階級/商人/労働者/軍隊など社会を支える人々が政権を見放す。翌年シャーは亡命し、その2週間後彼は凱旋し、聖職者による国家統治の基礎を築く。革命防衛隊などによりシャーの残党は殺害される(※アフガニスタンと同じだな)。同年12月、米国大使館占拠事件が起きる。
・彼は生涯最後の10年間で支配を確固たるものにした。非宗教左派(※共産主義かな)の反乱を踏みつぶし、忠実な聖職者を官僚に据え、学校/マスメディアを彼の教義漬けにし、軍・治安部隊を聖職者に忠誠な組織に再編した。
・また彼は革命の「輸出」を行った(※ヒズボラ/ハマス/フーシー派の事かな)。1980年イラクを挑発し、8年に及ぶ戦争となり、100万人の犠牲を出した。米国がイラン軍艦を撃沈した事で終戦する。
・この敗戦から支持者を奮起させるため、彼は著作『悪魔の詩』の関係者を死刑にするファトワーを発する。これで全イスラム教徒への権威を示したが、間もなく彼が亡くなり、このファトワーを取り消させなくなり、欧米とトラブルになった。
・また彼により、イスラム国家は欧米の国家体制を模範としなくて良くなった。また彼は「自身の教義とイスラム教反体制派の原理主義(※ISなどかな)は異なる」としている。そして「イスラム教は14世紀以前のアラブのものではなく、あらゆる時代のもの」としている。※宗教的な話は難しい。
・彼が亡くなり、原理主義への関心は薄らいでいるが、思想家は議論し、戦士は戦い続けている(※具体的な説明が欲しい)。しかし彼を真似て革命を起こそうとするカリスマ指導者は現れていない。※中東には独裁国家が多いけど。
<マーガレット・サッチャー> 1925~2013年
・彼女は触媒だった。彼女により、希望と自信に満ちた千年紀を迎える事ができた(※20年前と今では、評価が違う気がする)。ソ連が崩壊し、資本主義が勝利し、世界が市場経済を受け入れた。そして国家はスリム化された。※新自由主義だな。
・1925年彼女は小売商の娘に生まれる。彼女は勤勉で、オックスフォード大学に入学し、化学と法学の学位を取得する(※化学もか。少しメルケル似だな)。彼女は政治に情熱を燃やし、34歳で保守党の下院議員になる。頭も口も回転が速く、44歳で女性指定の教育相に就く。1975年保守党党首の争いで、右派の候補者が土壇場で放棄し、彼女が代役になる。ライバルはエドワード・ヒースだったが、多くの保守党員は「断続的拡大」(国家の介入が拡大し続けている事)にうんざりしていた。
・彼女は首相に就くと、傍若無人の労働組合に挑む。議会で反組合感情に訴え、組合の特権を制限する法律を制定する。組合を攻略すると、国営企業の民営化に取り組む。ブリティッシュ・エアウェイズは世界一の航空会社になり、ブリティッシュ・スチールは欧州最大の製鉄会社になる。
・1980年代半ばは民営化の言葉はなじみがなかったが、1980年代終わりには多くの国が民営化に取り組み、行政・法律の専門家を英国に派遣した。これはアダム・スミスの『国富論』/ケインズの『ケインズ理論』以来の経済学への貢献になった。
・彼女の功績はそれだけではない。1982年アルゼンチンとの戦争で勝利する。彼女は誠実を勇気・忠誠・忍耐と並ぶ美徳とし、それを身に付けていた。※政治と誠実が繋がらない。
・彼女を称賛したのが、レーガン大統領である。彼も規制緩和/減税/市場開放で「断続的拡大」を逆転させる。彼は彼女の話を聴くのが好きだった。2人は外交においても強力なパートナーシップとなり、ソ連にプレッシャーを掛け、崩壊させる。これにより20世紀の暴力的な理想主義(全体主義、巨大国家、自由への弾圧)が打倒された。彼女の自由な市場/自由な心が世界の価値になった。賢明な21世紀、3度目の千年紀を迎えられたのは、彼女によるところが大きい。
<ヨハネ・パウロ2世> 1920~2005年
・彼は古くから修養に努めた。それはナチス支配下でのポーランドから始まる。共産主義下でクラクフ司教区に勤め、1963年大司教に昇格する。1989年ソ連共産党書記長ゴルバチョフが彼と面会するが、気の毒なのはゴルバチョフである。ソ連は72年間強制収容所を作り、神の存在を否定するが、国民の4割が神を信じている。※ソ連はギリシャ正教だが。
・この面会の数週間前にベルリンの壁が崩壊した。ゴルバチョフは議論好きで、イデオロギーに凝り固まった発想から抜け出すのは大変である(※意味不明)。ソ連外務省の報道局長はソ連の新路線を説明し、「共産主義もキリスト教も進化している。また初期のキリスト教と共産主義の価値観は同じだ」と述べる。この新路線は巧妙だった。法王(※そのまま使います)は西側経済を批判しており、報道局長はそのご都合主義に目を付けた。報道局長は「初期のキリスト教は貧困の廃絶を求め、共同所有・共有財産に関心を持っていた。共産主義も同じだ」と述べる。
・この5ヵ月後、彼はメキシコで演説する。それはパンチョ・ビラ(※革命家パンチョ・ビリャかな)顔負けだった。彼は「共産主義を批判して来たのは、その非人道的な所による。また資本主義が勝った訳でもない」と語る(※両イデオロギーに批判的なんだ)。これと同じ内容を、カナダでの演説、ハバナ訪問でも語っている。
・1891年レオ13世がリベラリズムと唯物論を批判する回勅を発した(※回勅を初めて知った)。1991年それを記念して、2500語から成る回勅が発せられる。唯物論に関しては当時も今も変わらない。しかし当時のリベラリズムは、教会・家族への因習的な帰属からの解放を意味した。それを念頭に彼は回勅を発する。そこで「労働者・経営者が良い製品を作りたい、もっと商品を売りたいと思い出勤するのは結構である。しかし年長者への尊敬、家族への愛、人間的な生活・帰属に無関心のまま帰宅するのは問題である」とした。彼は社会主義と同様に資本主義を批判した。
・彼は博識で、8ヵ国語に堪能で、学術書・論文も著している。彼は新聞スタンドで売られる読み物や深夜番組は見ないと思われるが、何を見ても驚かないだろう。それは神が作る善良な物にも、堕落した物にも囲まれて生きてきたからだ。彼は「常に神がご覧になっている」と信じている。1981年彼は銃撃され、回復するが、これも「主の手助け」とした。
・また彼は2000年まで法王を務め、新たな千年紀に導く運命にあると信じている(※キリスト教ならではの重みだな)。その時彼は何を語るのか。彼は肉体労働しながら学び、450年ぶりに非イタリア人の法王となった。今世紀は人間的な生活に対する考え方を改革する世紀だった。その精神的世界に最も影響を与えたのが彼である。
・しかし彼を批判する者もいる。それは彼が、女性が聖職に就く権利/中絶する権利/避妊する権利を頑なに否定し、意見を異にする神学者を破門したからである。
・某神学者が『法王達の生涯』を著し、そこで「傑出した法王達」「善または平均以上の法王達」をランク付けしている。しかし彼はどちらにも入っておらず、「歴史的に重要な人物」に留まっている。
・次の千年紀になり、女性が聖職に就く権利などが論争されるようになっても、彼は「歴史的に重要な人物」として評価されるだろう。1993年デンバーに集まった若者は、彼が亡くなっても、生身の人間として、彼を思い出すだろう。※デンバーで有名な演説があったのかな。
・1998年1月私(※著者)は100万人の人と共に法王にお目にかかった。そこにはフィデル・カストロもいた。日曜のミサでは、ハバナの枢機卿が彼を紹介した。その後彼は淡々とした口調で演説した。そこからは人並外れた温かさが感じられた(※称賛する言葉が続くが省略)。その存在は堂々としており、そのカリスマ的人格を自身で作られたと誰もが感じた。
<ロナウド・レーガン> 1911~2004年
・大統領は1つのキャッチフレーズで記憶される。「奴隷を解放した大統領」「ルイジアナを買い取った大統領」などである。彼は冷戦で勝利し、正義が勝った。※「冷戦に勝った大統領」かな。
・彼の戦い方を見ると、人柄がよく分かる。彼は「ソ連を封じ込める」ではなく、「体制を打ち負かす」を信念とした。これは1960~80年代の外交エリートの考え方と異なる。彼は拡大する共産主義を世界から引きずり降ろすのは正しく、神の加護があると信じていた。
・彼が政界入りした1964年、フルシチョフは「米国を葬り去る」と誓っており、スプートニクを打ち上げ、キューバにミサイルを配備した。彼が大統領選に臨んだ1976年には、ソ連が米国に侵攻する恐れもあった。1981年大統領に就くと、ソ連に対抗し軍事支出を急増させる。
・彼は戦略的防衛構想(SDI)を強硬に推進する。ソ連はこれを「開発費をどこまで負担できるかの競争であり、科学的革新力を見せつける威嚇」と正しく理解する。彼は「悪の帝国」「ゴルバチョフ、この壁を取り壊したまえ」など、人々を奮い立たせる言葉を使い、ソ連を攻撃した。サッチャーは「彼は言葉を選び、説得した。民主主義と共産主義が何かを考えさせ、平和を脅かしているのがどちらかを考えさせた」と述べている。彼が鼓舞したのは米国民だけでなかった。ソ連の強制収容所から釈放された某氏は、ホワイトハウスで彼にタカ派の発言を止めないように求めた。
・彼の尽力で、ソ連は崩壊した。これらの驚くべき出来事を、今は当然の事実として認識している。第一次世界大戦前日、女性が昼食を食べていると空飛ぶ機械が降りて来た。珍しかったので、そこで残りの昼食を食べた。今世界はそれと同じ事をしている。驚くべき出来事があったが、我々は中に入って昼食を終わらせたのだ(※「庶民は歴史的出来事を認識できない」の意味かな)。我々は資金を提供し、飛行機を作り、多くの犠牲を出したが、それを操縦していたのは彼である。※彼は米国大統領なので、当然米国の指導者である。
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・彼は内政面でも「起こり得ない事」を起こした。彼はフランクリン・ルーズベルトを崇拝していた。ルーズベルトは国民を癒せるのは、連邦政府の恩恵と権力である事を国民に納得させた。一方彼は「権力は個人から地域社会、そこから州政府、そこから連邦政府へ行使される」と考えていた(※国家の権力より、個人の権力を重視する自由主義だな)。これは自由論的で、古い米国の考え方である。彼は統治しない政府を良とし、減税を望んだ。彼は中絶を殺人と批判した。彼はこれらを行動で示した。これによりルーズベルト以来の成功した大統領になった。
・彼の業績は何だろうか。彼にこれを直接尋ねた。彼はこれについて余り考えていなかったが、「平和な世界で、自由の領域を広げようとした」と答えた。
・彼はイリノイ州の名もない町に生まれた。故郷を出て、ハリウッドで成功する。彼は幸運だっただけでなく、気骨があった。1950~60年代ハリウッドでは誰もが左寄りになった。しかし彼は右寄りを貫いた。1976年大統領選でフォードに敗れるが、自身の信条を勇ましく語った。
・1954年彼は仕事が減っていたためバラエティー・ショーの司会をする。誰でも失敗するが、失敗を利用できるのは、偉大な人物に限られる。※この仕事は失敗だったみたい。
・偉大な時代が偉大な指導者を生む。1920年代はハーディング、1930年代はルーズベルト、1980年代は彼を生んだ。彼が大統領になったのは自己中心的感覚/虚栄心/権力のためではない、大きな事をするためだった。彼は米国政治における最後の紳士で、優雅さ/気品/威厳/重み/温かみ/ウィットがあった。彼は超然としていたが、それは自分の気持ちを考えず、世界平和と自由の信条が全てだったからだ。
・彼の演説はベントリー・エリオットが書いた。エリオットには20代の女性秘書がいて、彼女は彼を敬愛していた。彼が長い旅から帰ると、「パパがお帰りよ!」と彼女が叫ぶのを皆が待った。※もう少し詳しく書かれているが省略。
・1984年彼は中国を訪問し、各所で演説を行った。中国の若者はこれに魅了され、それが1989年天安門事件の要因になった。中国の若者は「彼は偉大な米国人だ」と言った。
※この節は抽象的かな。また米国人らしく、白黒が極端。
<レフ・ワレサ> 1943年~
・彼は「連帯」の指導者になり、ポーランドを共産主義から脱退させた。彼は欧州での共産主義の終焉、ひいては冷戦の終結に貢献した。
・1943年彼は小作農の家に生まれる。成人すると、バルト海の造船所に勤める。複数の抗議グループに参加するようになり、クビになる。1980年職場選挙に加わる。彼は機転・話術などに優れ、指導者になる。彼は単なる賃上げ要求だけでなく、「自由な労働組合の結成」と云う政治的要求を行った。
・共産党はこの自主管理労組を認め、これは「連帯」と呼ばれるようになる。直ぐに組合員は1千万人を超えた。これにソ連は介入した。彼は抜け目なく、怒りっぽいが、政治の才があり、人をなだめるのが上手だった。しかし戒厳令が出され、彼は逮捕され、11ヵ月間拘束される。
・それでも「連帯」は消滅せず、彼は象徴であり続けた。1983年ノーベル平和賞を受賞する。1988年グダニスクの造船所でストライキが起き、彼は長老として参加する。翌年円卓会議が開かれ、自由選挙を勝ち取る。選挙で「連帯」が勝利し、40数年ぶりに非共産党員の首相が誕生した。同じ道を中欧諸国も歩むようになる。
・その後の彼の評価は二分される。彼は共に闘った知識人と元共産党主義者が協力して統治している事に憤慨する。そこで「連帯における指導部の戦争」を宣言する。彼はポーランド初の非共産党員の大統領に選出され、5年間務める。
・彼は民衆の指導者としては秀逸だったが、大統領職は居心地が悪かった。彼の発言は突飛だった。NATOの加盟を目指している時、第二NATOを提唱した。彼は「斧を持った大統領」と称された。1995年彼は大統領選で元共産主義者に敗れる。しかし彼は自分が歴史上の人物になった事を受け入れなかった。
・彼は愛国心が強く、カトリック的世界観・家族観、西欧の保守的価値観を持つ。彼は自由を求めて闘っている時代では偉大だったが、その自由を得て、民主主義体制に転換する時代では偉大ではなくなった。しかし彼は歴史上、重要な位置を占める。彼がいたので造船所での職場占拠が起き、「連帯」が結成され、共産主義から民主主義への移行が行われ、東欧は共産主義から解放されたのだ。※東欧革命の起点は彼だな。
<ミハイル・ゴルバチョフ> 1931年~
・彼の額には印がある。皆は指導者にそのような印を探してきた。レーニンの言語障害、スターリンの口ひげ、ブレジネフの眉毛、フルシチョフの禿げ頭である。しかし彼のあざは神秘的で、ロシアの行く末と同様に興味をそそった。ところが多くの指導者と違って、彼は国家元首の地位を退くと、忘れ去られた。彼は辞職を予見できたはずである。それはその原因を自身が作ったからで、彼はことごとく失敗している。
・彼は徹底的に調べられた。家系図/付き合った女性/妻/学歴/同僚・友人などが調べられたが、彼はゴルバチョフとしての地位を得る人物ではなかった(※「共産党書記長にふさわしくない」の意味かな)。その彼にロシアを変革する7年の月日が与えられた。
・1991年クーデター後、辞職すると、彼はあざけりの対象になった。彼の政権での不幸・悲劇は、全て彼のせいにされた。皆は大量殺戮より個人の死に心を痛める。彼はグルジア/リトアニアの独立運動を弾圧し、数十名の命を奪った。皆はこれに心を痛めた。エリツィン政権はチェチェンで大虐殺し、タジキスタンで流血事件を起こすなどしたが、見過ごされた。汚職は彼以降に熱病のように広まった。貧困は彼以降の政権で、餓死の域に達した。彼の政権での居住許可制度は人々を拘束したが、彼以降の政権で何十万の人が国内をさまようようになった。
・彼は全体主義から民主主義に移行しようとしたが、不適切な人を信用して話を聞き、判断を誤り、多くの過ちを重ねた。しかし本当にそうだったのか。独裁的な国では、シチューが焦げても指導者のせいにされる。彼が失脚した時、何らかの理由を付け、彼の失脚を正当化した。保守派も過激派もこれを喜んだ。彼は祖国の維持と再建を同時になそうとした。この両方を成し遂げた人間は過去にいない。※最後のソ連共産党書記長なので、軽蔑されるかな。
・誰も「彼は正直である」とか「彼は公正である」とか思っていなかった。しかし彼が去ると、汚職・詐欺・山賊行為などが溢れる世の中になった。彼以前は取るに足らなかった連中は近親者を政府の要職に就かせ、公然と彼を侮辱し始めた。その批判内容はくだらない。彼の南部訛りさえ批判された。一方彼はポップ・カルチャーで人気者になる。彼らは政治に無関心で、それを歌い、踊った。※西側の1960年代みたいだな。
・1996年選挙で(※大統領選だな)、彼に150万人(1.5%)が投票した。普通の人は死にかけているエリツィンを信用していないし、共産主義者のジュガーノフを恐れていた。マスコミは「究極の選択」「共産主義より死がまし」と報道した。私(※著者)の友人達は渋々エリツィンに投票するか、棄権した。150万人の人が、明るい時代を覚えていたのだ。彼らは徐々に鎖が解かれ、自由・希望がもたらされ、互いが愛し合い、和解する時代の到来を抱き続けていたのだ。
<ネルソン・マンデラ> 1918~2013年
・彼は人種隔離の典型である国を民主主義に変える活動を行ったが、彼の資質が表に現れたのは活動の時代が終わってからだ。1918年彼はホームランド(黒人部族別居住地域)の奥地に生まれる。彼は牛飼いなどを手伝っていたが、部族の実力者に預けられる。ミッション系の大学に入学し、植民地支配に反対する抗議運動に参加するようになる。
・ヨハネスブルクの法律事務所に就職するが、人種隔離政策の非人間性を目の当たりにし、世界を変えようと決意する。何世紀にも亘る植民地支配で、政治/軍事/教育/経済など、あらゆる権力が白人に集中していた。そのため革命が成功する見込みは皆無だった。
・彼は非暴力を戦略に選んだ。1944年「アフリカ民族会議」(ANC、※政党みたい)に加入し、黒人を奴隷状態に押し込める法律に抵抗するプログラムに参画する。政府は彼を含む運動の主要メンバーを裁判に掛ける。1961年、5年に及ぶ裁判で156人全員が無罪になる。しかし政府は反政府運動を力でねじ伏せ、ANCも非合法とされる。
・彼はANCへの支持を取り付けるため、海外を回る。帰国すると彼は逮捕され、ローベン島に収監される。彼は裁判所で陳情するが、それが世界の人の良心に火を点ける。「私は白人支配/黒人支配でもない、全ての人が仲良くし、平等の機会を与えられる社会を夢見て闘ってきた。この理念のためなら死を恐れない」と述べる。彼は全責任を引き受けた。これは彼の指導力に道徳的高潔さを加えた。
・ローベン島の港に着いた時、彼は担当の看守に「刑務所まで走れ」と命令されるが拒否する。看守は「命令に従わないなら殺してやる」と言うと、彼は「お前が私に触れれば、お前を最高裁判所に連れて行く。お前は罰金を取られ、ネズミの様に貧乏になる」と伝えた。※この話は聞き覚えがある。
・彼は刑務所での被害者的な立場を否定した。労働のために房から出る時、チーム毎に歴史/経済学/政治学/哲学などの講師が割り当てられた。この自己教育システムにより刑務所は「アイランド大学」と呼ばれた。※収監者が講師をするのかな。講義は何時どこでするのか。
・収監が20年を超えると、彼は指導者としての決断をする。1990年秘密裏に大統領と交渉し、ANCの非合法化を解除させ、自身を釈放させる。本当の試練はここから始まる。部下の支持を取り付け、かつ白人の恐怖心を鎮める必要があった。しかし彼は忍耐/知恵/構想力/道徳的高潔さにより、分断した民衆を統合し、民主的選挙を実現し、自身が大統領に選出される。
・しかしそこからも平坦でなかった。妻との離婚、部下の汚職、雇用の創出、住宅の供給などの難題が襲い掛かった。彼は間違いも犯したが、信念・希望・思いやりが実現可能な事を示した。
<無名の反逆者>
・世界中にその映像は流れたが、その人物の名前を知る人はいない。1989年6月5日彼は天安門広場で戦車の前に立ちはだかった。あの瞬間の意味は、言語・時代を問わず、誰でも理解できる。そして彼は戦車に上がり、運転者に何かを言った。
・天安門広場は中国の中枢にある。1919年学生デモが行われ、1949年毛沢東が建国を宣言した。恒例の人民解放軍の閲兵もここで行われる。西に人民大会堂、東に革命歴史博物館、南に毛沢東記念会堂がある。
・しかし1989年は人民が7週間に亘ってここを占拠した(※そんなに長かったのか)。初めは数人の労働者・学生・教員・兵士だったが、やがて100万人を超える(※天安門広場の状況が書かれているが省略。私は詳細を知らないが、それは中国が隠蔽しているからかな)。この時ゴルバチョフが30年ぶりに訪中するが、人民大会堂に裏口から入っている。
・6月4日未明、政府は四方八方から戦車を投入し、何百人もの労働者・学生・医師・子供を殺害する。そして静寂になった広場に、あの戦士が現れたのだ。彼は戦車から降りると、見物人により安全な場所に移される。彼の名前はワン・ウェイリン、工場労働者の息子、北京に到着したばかりの地方の人間などの噂があるが、定かでない。
・デモの先導者は常に平和を愛していた訳ではなく、内輪もめも絶えなかった。自由などの高尚な要求ではない目的で参加した者もいた。デモを弾圧した兵士達も若く、混乱し、攻撃に心から賛成していた訳ではない。あの瞬間、戦車に立ちはだかった者と、同じ中国人をなぎ倒すのを拒否した2人の英雄がいたのだ。
・その後どれだけ民主化が進んだかは分からない。ただあの事件を指揮した李鵬は今も権力者の一人だ。そして天安門広場で記念写真を撮る人は絶えていない。
・彼の行動は私達の勇気を鼓舞した。また「歴史は偉大な人物が作る」の説に立ち向かった。中国では皇帝を取り巻く連中、共産党支配下では委員会が統治している様に見える。個人は抽象化され、労働単位としてしか見られない。毛は7万人の死(※文化大革命かな)を若干と形容し、大躍進運動では2千万人が犠牲になった。彼は毛と対極にある。彼は敢然と具体的な行動に出たのだ。この事は、他の指導者・革命家への戒め、少なくとも脚注になる。※解釈が難しい。
・テレビ・ニュース/ビデオ/WWWなどがない時代、ブーアスティンが『幻影の時代』(1962年)で未来を的確に予想している。「科学技術によるグラフィック革命で、個人の存在が卑小化される」「アイデア・理想・信念は映像化され、信じやすさになる」「200年前は偉大な人物が現れると、人はそこに神の目的を見付けようとした。今は彼の広報担当者を見付けようとする」とした(※難解)。かつて指導者は偉大と思われたが、今は普通の人間になった。現職大統領の留守番電話が記事にされ、次の国王が愛人にささやいた言葉も記事にされた(※米英だな)。科学技術は対象を非人間化し、非神秘化する。
・だが彼は別の面を見せた。映像は等身大の人間を映すのではなく、人間の価値を高め、民主主義/正義の道具として貢献した(※称賛の言葉が続くが省略。当然だが映像には善悪両方がある)。歴史は勝者によって修正され、科学技術は暴力・抑圧の手段になる。しかし天安門の反乱では、人々は政府に従わず、境界も無視したが、それは科学技術(ファックス、テレビ)に支えられた。人々はファックスで海外と通信し、国営テレビで流されない映像は外国人用衛星放送テレビで流された。
・20世紀後半は、1人の人間により地球の一部が破壊される原子爆弾の脅威に晒された。しかし彼の行動は世界中を明るくした。一方何世紀もの間、宮殿や城の中は、将来はこうあって欲しいと願う貴族やかつらを付けた女性の肖像画で一杯だった(※難解)。しかし記録には多くの名もなき人が映っている。歴史はその名もなき人々によって作られる。彼はワン・ウェイリンであろうとなかろうと、映像共和国の名もなき兵士であり、名もなき人々の力を象徴している。
※本節は婉曲で難解。また本節以外は著名人物、本節は無名人物なのには趣意が感じられる。
第2章 科学者・思想家
<ジークムント・フロイト> 1856~1939年
・彼に関する議論で中立はない。彼に対しては称賛・追従か懐疑・軽蔑しかない。ただし彼が20世紀の精神を形作った点で、両者は一致する。彼を軽蔑する苛烈さや執拗さは、彼の思想の耐久性を示している。※そんな思想なのか。詳細を知りたいな。
・この激しさは、彼が「精神分析」との理論を立ち上げてからである。それは「全ての人が無意識の内に、強力で性的・攻撃的な衝動と、それを抑制しようとする力が水面下で争っている」とする理論である。これは空想的で科学的に証明できない。彼は性欲は幼児期に生まれるとし、紳士淑女に猥褻と批判された。その代表が「男の子は母を愛し、父を憎む」とするエディプス・コンプレックス論で、これは小説家の発想と批判された。
・1896年彼が40歳の時、初めて「精神分析」を使う。1856年彼はチェコの小村で、ユダヤ人の長男として生まれ、やがてウィーンに引っ越す。彼は母親に溺愛され、学業も優秀で、ウィーン大学に入学し、哲学/医学を学ぶ。
・彼は精神の神秘に憑りつかれる。精神薄弱者から辛抱強く話しを聞き学ぶ。同時に自分の夢を記録し始める(※寝ている時の夢だな)。それは無意識が重要と考えていたからだ。1890年代彼は前人未到の自己分析を始める。
・1900年彼は『夢判断』を著す。これは自伝的でもあり、精神の理論も展開され、ウィーンの歴史も記されていた。当書の原理は、「精神的な経験と精神の構成は、肉体と同様に自然の一部」とするものだ。すなわち精神の働きに偶然はなく、どんな考え・失言・夢も意味があるとした。※精神の働きは、経験を反映していると思う。
・1903年彼は『性欲論第三篇』を著す。これにより精神医学の主流から、増々遠避けられる。しかし仲間ができ、ウィーン精神分科学会に発展する。ところがそこから有名な2人が離脱する。アルフレッド・アドラーとカール・ユングである。アドラーは医師であり社会主義者で、心理学では不満による攻撃性を強調し、劣等感の言葉を生んだ。一方ユングはプロテスタントだが、彼の後継者と云えた。ところが宗教/神秘主義に関与を深め、決別する。※ユングは聞いた事がある。
・彼は精神の機能の包括的な理論の作成だけに熱心だった訳ではない。精神分析療法の作成を望み、また文化全体(?)の把握も望んでいた。前者では彼は聞き手に徹し、患者にどんな事でも話させた。この治療結果は今も論争されているが、精神分析と薬の併用は効果的とされている。
・後者の文化(歴史、人類学、文学、芸術、社会学、宗教)への冒険に対しても評価は様々である。彼は実証主義だったが、宗教的信仰心と科学的調査ははっきり区別していた。そのため宗教の真理値(※真理的価値かな)を否定していた。
・政治に関しては『文化への不満』(1930年)で、「人間は悪なき欲望を持つため、組織化された社会は人の性的・攻撃的欲望を抑え込むために存在する」と述べている。従って文明化された社会は欲望と妥協の産物になり、心休まる説ではない。
<ライト兄弟> 兄1867~1912年、弟1871~1948年 ※本節はビル・ゲイツが書いている。
・1892年彼らはオハイオ州デイトンに自転車商会を設立し、1903年ノースカロライナ州キティホークで有人動力飛行を実現する(※会社と飛行場所は異なるんだ)。彼らにより世界は縮小された。彼らは幼少の頃から空を飛ぶ夢を持っていた。兄ウィルバーは飛行に関する全ての論文を読んだ。キティホークの4年前、彼らは翼幅1.5mの無人タコを作り、有人飛行を確信する(※タコと飛行機の原理は違う気がするが)。彼らは確信があった故に苦しんだ。しかし革新には、この苦悩が必要なのだ。
・彼らは風洞を作り、多くの翼をテストした。彼らは細長い翼状が飛行に適している事や、上昇下降させるための昇降舵を発見した。他に方向舵/プロペラなどの実験も行った(※今の基本技術は、全て彼らが発見したみたいだな)。そしてたった69Kgで12馬力のエンジンを作った(※エンジンはあっただろうが、軽量化したのかな)。そして翼幅12m/重量270Kgのフライヤー号を作成する。1903年キティホークで弟オービルがフライヤー号に乗り、初飛行に成功する。この距離は37mだった。これを報道したのは4紙のみだった。
・飛行機をどう使うかは、個人・国家の問題である。かつては移住すると永遠の別れになったが、今では大西洋を6時間で横断できるようになった。飛行機の発明は、今で云えばWWWに相当し、人々の交流が可能になった(※過去には大航海時代があるな)。飛行機によりグローバリゼーションが始まり、空のスーパーハイウェイは世界経済を一変させた。そして政治的障壁を壊し、民主主義を行き渡らせた。※褒め過ぎ。
・彼らの発明は、産業革命/情報革命に比肩する。そしてこの背景に、彼らのビジョン/闘志/科学的な方法論がある。偉業には努力が必須なのだ。次の革新を、どこの誰が起こすか分からない。そのためには環境の整備が必要である。またその発明を科学・工学に限定してはいけない。重要なのは人を自由にする力である。20世紀は「米国の世紀」と呼ばれるが、それは彼らを生んだからだ。
<アルバート・アインシュタイン> 1879~1955年
・彼は知性の代表とされ、「この問題にアインシュタインは必要ない」「彼はアインシュタインじゃない」などで使われる。彼は思考のみで、宇宙の基本的な仕組みを発見した。原子爆弾/宇宙旅行/エレクトロニクス/量子力学など、全てに彼が関わっている。
・1905年彼はスイスの特許事務所で働いていたが、この時に世界を揺るがす3つの論文を発表している(※研究者ではなかった!)。いずれも『物理学年報』に掲載されているが、第1の論文は、「光は波動であり粒子である」との理論である。これにより、この論争が延々と始まる。第2の論文は、「液体中で分子がミクロな動きをする」との論文である。これにより分子の大きさが求められ、分子の存在が明らかになった。第3の論文が相対性理論で、彼は後に「空間と時間の概念を修正させた」と述べている。
・19世紀「宇宙はエーテルで満たされている」と考えられていた。しかしそれが証明される事はなく、限界に達していた。そこで彼は空間・時間を抽象的枠組みで考え、「空間と時間は不可分」とした。またエネルギーと物質の関係も一緒で、「E=mc²」とした。これらに科学者だけでなく、大衆も魅了された。
・1919年日食により相対性理論が証明される。太陽の重力で、光が曲げられ、質量がある事が証明された。相対性理論に関する本が100冊以上出版された。相対性理論を3千語以内で要約するコンテストが行われ、彼の周辺の科学者も応募した。相対性理論の名称も熱意をかき立てた。当時は第一次世界大戦後で、絶対性は嫌われ、独創性/斬新性/近代性が好まれた。当時「思考実験」の言葉は既にあったが、彼はそれを芸術の域に高めた。
・彼はドイツで生まれが、ユダヤ人/リベラル/人道主義/コスモポリタンだったため、民族主義者・反ユダヤ主義者の恨みを買う。彼は米国に移住し、シオニズム/平和主義を推進する。ルーズベルト大統領にはウラニウム爆弾の製造を勧めている。
・彼は神格化された。「数学で落第した」「しおりに1500ドルの小切手が使われていた」「靴下/襟などはお構いなしだった」「バス代が計算できなかった」「住所を覚えられなかった」などがある。そしてそのプリンストンに落ち着き、一生を終える。
・彼は量子力学のパラドックスを受け入れなかったが、統一理論を完成させなかった。彼は発展する物理学を、離れた場所から眺めた。※私は理系だけど、この辺は疎い。
・彼の脳はホルマリンに漬けられ、保存されている。細胞の一部を調べたが、普通の脳と違いはなかった。彼は昔ながらの神の世界から決別させた。しかしこの新しい神は優しく、ぼんやりしていて、我々をコントロールしたり、裁いたりしない。そしてこの新しい世界は、より自由になった。※本書は伝記なのに、意外と抽象的。
<リーオ・ベークランド> 1863~1944年
・彼は金になる技術に目を付ける才能があった。1980年代には「べロックス」を発明している。これは写真の印画紙を改良したもので、日光以外の光で感光できるようになった。この権利を破格の100万ドルで売り、豪邸を得た。その実験室で絶縁体の開発に取り組む。当時絶縁体にセラックが使われていたが、電化が急速に進んだため高騰していた。
・1872年化学者フォン・バイヤーは、フェノールとホルムアルデヒドを反応させると残留物ができる事を知っていた。しかしバイヤーは絶縁体ではなく、合成染料を求めていた。しかし多くの化学者が成分/熱/圧力を変え、セラックに似た物質を作ろうとしていた。
・1904年彼も研究を始め、3年後に合成に成功し、「ベークライト」と名付ける。これはプラスチックの一種で、絶縁体/バルブ/パイプ/ビリヤードの球/ドアノブ/ボタン/ナイフの柄など様々な物に利用される。他に「セルロイド」は何十年も前からあり、べっ甲/角/骨などを代用していた。こちらは植物性のセルロースを使用していたが、ベークライトは化学反応だけで作られている。
・彼はゼネラル・ベークライト社を設立し、製造やライセンス供与を始める。他社が模造品を作るようになったため、本物のベークライトには「本物の印」(インテル入ってる)が付けられた。ベークライトは、葉巻ホルダー/数珠玉/ラジオのケース/ディストリビュータのキャップ(※点火装置?)/電話機など様々な物に使われている。
・これを機に化学者は様々な素材を作り出す。ベークライトの化学名は無水ポリオキシベンジルメチレングリコールだが、ポリメタクリル酸メチル(プレキシガラス)、ポリエステル、ポリエチレン、ポリ塩化ビニル、ポリヘキサエチレンアジアミド(ナイロン)などが作られた。※他にも書かれているが省略。
・1945年(彼の死の1年後)、プラスチックの総生産量は40万トンだったが、1998年には4700万トンになっている(※約120倍)。今日では自由に曲げられるプラスチック製の半導体が作られようとしている。一方で食料品店では「紙袋(自然素材)にしますか、ビニール袋(合成素材)にしますか」と尋ねられ、好き嫌いが激しい物質でもある。
<ジャン・ピアジェ> 1896~1980年
・彼は子供の話を聞き、大人からは支離滅裂だが、彼らは独特の思考プロセスを持っていると考えるようになる(※思考は自身の体験や知識から組み立てるので、大人でも子供でもそれは一緒かな)。彼の10歳から85歳までの研究により、新たな分野(発達心理学、認知理論、遺伝子認識論)が開拓された。彼は教育の改革者には成らなかったが、その基礎を作った。彼は「子供は容器のように知識を注がれるのを待っているのではなく、自身の知識から独自の理論で実験している科学者」とした。これは多くの教育者を感動させた。
・彼はスイスに生まれた。父は中世学の大学教授で、母は厳格なカルビン主義者だった。彼は10歳の時、子供扱いされるのを嫌い、白子のスズメの論文を書く(※色素異常かな)。彼は「何かを理解するためには、それがどの様に展開するかを理解する必要がある」(※難解)とし、それが終生の信念になった。
・第一次世界大戦後、彼は精神分析に興味を持ち、パリに行き、論理学/異常心理学を学ぶ。子供の思考プロセスへの関心が高まり、子供の発達過程から人間の知能が解き明かされると考えるようになった。
・彼はスイスに戻り、子供の言語と行動を記録する。例えば彼が「風はどうして吹くの」と子供に尋ねると、「木が作るの。腕を振っているのを見た」と答えた。「海では誰が作るの」と訊ねると、「波よ」と答えた。大人からすれば間違いだが、彼らは自身が持っている理論で筋が通る説明をしているのだ。気象学の知識を押し付けるより、理論を組み立てる練習の方が重要と考えた。子供にとって月・太陽は自分に従う物であり、大きな物は浮かび、小さな物は沈むのだ。
・教職課程で彼が提唱した「幼児期の4つの発育段階」を学ぶ。しかし彼は自分を児童心理学者と考えていない。それは彼が認識論に興味を持っていたからだ(※認識論ってどんな学問なのか)。そのため認識論的相対主義を探求している。そこで複数の認識方法を認めている。彼以後、女性の認識方法、アフリカ中心主義的な認識方法、コンピュータの認識方法などが加わっている。従って人口知能/脳の情報処理などは彼に負うところが大きい。
・彼は「子供の発達過程から、知能の性質が解明される」を信念としていたが、その知見に対する評価は分かれる。「子供は優れた実験により知識を構築する」と考えたが、その幾つかは新生児の内に備えている事が立証された(※確かに乳を呑むのは不思議だ)。私(※著者)は彼を認知理論(※認識論との違いは)の巨人と考えるが、赤ん坊と大人が持っている知識に余りに差があるので、この発見の謎は深まるばかりだ。
<ロバート・ゴダード> 1882~1945年
・1920年彼は『超高高度に到達するための方法』との短い論文を発表する。これは「強力なエンジンがあれば、月に到達できる」とした。しかし『ニューヨーク・タイムズ』は、「彼は物理の基礎さえ知らない」とこき下ろした。彼は不機嫌になり沈黙するが、その後輝かしい業績を残し、ロケット技術の父になる。
・1882年生まれの彼は、子供の頃からロケットに夢中で、爆竹/TNTなどの火薬に興味を持った。ウースター工科大学/クラーク大学で学び、研究員になる。彼は推進力の数式や実験から、ロケットが真空中で飛べる事を発見する。そして黒色火薬ではなく、灯油/液体水素と液体酸素であれば推進力を得られると確信する。
・1926年彼は3mのロケット「ネル」を作り、おばの農場で飛行させる。高さ12.5mに上昇し、世界初の液体燃料による飛行となる。しかし秘密主義の彼は、これを隠蔽した。彼は実験を繰り返し、警察が出動する騒動も起こした。
・1930年東海岸では居心地が悪くなり、支援者がいるニューメキシコ州に移住する。そこは広大な土地があり、好天に恵まれ、住人は彼に干渉しなかった。彼はロケットを大型化し、到達高度は2743mに達するようになる(※どうやって測ったのか)。垂直安定板/ジャイロスコープによる誘導/多段ロケットなどの特許を申請する。
・1930年代後半になると心配事が起こる。外部からの技術的な質問に答えていたが、特にドイツが熱心に質問してきた。彼は米陸軍を訪れるが、興味は示さなかった。5年後ドイツはV2ロケットを開発し、ロンドンに向けて発射するようになり、終戦までに1100基以上が発射された。接収したV2ロケットを調べると「ネル」に酷似していた。捕虜となったドイツ人科学者は、「どこから着想を得たのか」の質問に、「我々の誰より、ゴダード博士が詳しい」と答えた。
・1945年彼は亡くなる。しかし彼の後輩達がロケット「レッドストーン」を作り、さらに「サターン」となる。マスコミを嫌った彼の業績は認められ、『ニューヨーク・タイムズ』は「ニュートンの正当性が実証された」とし、半世紀前の記事を謝罪した。
<ルートビッヒ・ビトゲンシュタイン> 1889~1951年
・哲学者を苦悩させたければ、①哲学上の大問題を完全に解決する、②内容が複雑な論争に関する必読書となる本を書く、のいずれかを選択させれば良い。普通の哲学者は渋々②を選択するが、彼は①に挑戦し、結果として②を成し遂げた。
・19世紀初頭、記号論理学は「意味に関する厳密な科学」と云う分野を開拓した。これは物理学の原子の様に、あらゆるテキスト/言葉(哲学、幾何学、歴史、立法)を論理的原子に分解し、それらを組み立てる事で、どんな意味が作られるかを明らかにできると思われた。※何となく分かるが、具体例が欲しい。
・彼は記号論理学に希望を見い出し、バートランド・ラッセルの弟子になるためケンブリッジに向かった。1913年彼は『数学原理』を著した。これは数学を論理学で記述する試みだった(※内容を知りたい)。1922年彼は『論理哲学論考』を著す。これは哲学の根幹的諸問題を解決し、哲学に終止符を打とうとする物で、哲学的命題は彼のシステムによって簡潔に記述され、真偽が判定された。判定できない命題は、命題の意味をなさなかった。
・彼はオーストリアに戻り、教師になる。しかし疑義が湧き起こり、1929年英国に戻り、「自分は間違っていた」と宣言する。それから18年間、学生との問答に苦悩する(後期ビトゲンシュタイン)。彼は『哲学探求』を著す。これは彼の死後1953年に出版される。
・1889年彼は素封家に生まれる。彼は大戦中にオーストリア砲兵隊で戦っていた時に『論理哲学論考』を書いている(※従軍中に書いて、1922年英国で出版)。彼は相続した遺産を寄付し、英国で清貧な生涯を送っている。
・『論理哲学論考』の左のページはドイツ語で書かれ、右のページはその英訳が書かれている。そして全文章に番号が振られている。最初は「1.世界とは、その場で起こる全ての事」で、最後は「7.語り得ない事には沈黙すべし」となっている。彼は「言葉で言い表せる事」と「掲示(?)するしかない事」を区別している。最後から2つ目は、有名な「6.54 私を理解する者は、私の諸命題(?)を登り詰め、乗り越え、それに意味がない事を認めるだろう。この方法により私の諸命題は解明的になる(※乗り越えた=解明かな)。人はこれらの命題(※私の諸命題?)を克服しなければいけない。その時人は世界を正視する」である。※これに至るまで、人は世界を正視できないのか。超難解。
・1929年哲学の道に戻った時、彼は「哲学には論理学的な方法は適用できない」と考えていた。「我々は摩擦のない理想的な状態にいる。しかし歩きたいなら摩擦が必要で、でこぼこの道に戻らないといけない」と述べる。以前の彼は論理性を好んだが、暗黙の相互理解に従って行動し、集合論で用いられる境界を家族的類似関係と呼ぶように提案している。「哲学は、知性が言語による呪いを受けないようにするための闘い」とし、「言語は、言語が見ていない所で発生した哲学の問題を、理論ででっち上げる誘惑をする」とした。※難解。哲学と言語は相性が悪いかな。
・彼は思考と意識に関するデカルト以来の蠱惑的な諸理論を滅ぼそうとした。彼は『哲学探求』で、「相手が言っている事を自分は理解していると思っている。また頭の中で考えている事を説明しようとする。その自信過剰さに我慢できず、相手を論駁する」と述べている(※自然の行為に思えるが、我慢できないのかな)。しかし彼が諸理論に対し掲示した解毒剤も、意識に関する理論になっているのでは(※意味不明。解毒剤の例が欲しい)。これは彼が残した謎/パラドックスである。
・1939年彼は数学の基礎に関するゼミを行っている。これに数学者アラン・チューリングが参加している。チューリングも記号論理学に魅せられ、数学を論理で置き換えようとしていた。ところが限界を感じていた中で、概念的な機械「チューリング・マシン」を発明する。これは計算可能な全ての関数を計算でき、コンピュータの基礎になった。※ノイマン型とかあるが、それと関係があるのかな。
・彼の弟子が師の言葉を記録していたため、偉大な2人が正反対の方向から論じている事が分かる。チューリングの問題は具体的で、矛盾するシステム(※理論?)で造られた橋は崩落した。一方彼は「人間が数学体系のルールに従うのは、どの様な社会的文脈か」を問題とした。チューリングに見えて、彼に見えなかったのは、「コンピュータがルールに従う時、その内容を理解する必要はない」だった。チューリングはコンピュータを残したが、彼はチューリングを残した。※何か面白い話だな。
・彼が残した遺産の方が価値があるだろう。言葉の究極的な意味について他人が主張すれば、これに反対する熱狂的な信奉者を生み続けている。彼らは彼にしがみ付き、彼以外の存在に気付いておらず、「思考の謎に立ち向かう時、疑うための方法を彼しか示してくれない」と信じている。※ここで評価する彼が残した遺産は、チューリングではなさそうだ。
・『論理哲学論考』『哲学探求』を読むと解放感・高揚感を味わう。これらには厳密に、純粋に、自己検証的に考える事の真髄が示されている。これらには間違いもあるが、それにも価値がある。
※重要な人物みたいだが、初めて聞いた気がする。関心が薄い哲学なので、難解だった。
<フィロ・ファーンズワース> 1906~1971年
・「20世紀は、普通の男の時代だった」と思っている人に、今世紀最大の技術的発明をした彼を紹介する。彼は丸太小屋で生まれ、高校に馬で通い、大学の資格も持っていない。それなのに14歳の時、テレビの原理を思い付いた。
・1906年彼はユタ州に生まれる。そこは祖父が開拓したコミュニティだった。それからアイダホ州の牧場に引っ越す。高校まで4マイルあったため、馬で通った。彼は電気・電子に興味があり、化学教師から個別に教えてもらったり、上級の授業を受けるのを許可された。彼は優秀で、高校に2年通っただけで、大学への入学を許可される。しかし父が亡くなったため、2年で退学する。
・その大学に彼のテレビの原理を理解するウラディミア・ズウォリキンがいた。ズウォリキンはテレビを作成する夢を抱き、ウェスティングハウス社に就職する。※原発のウェスティングハウスだな。
・一方彼はサンフランシスコに引っ越し、妻や協力者と共に実験を行い、1927年電子式のテレビを完成させる(※その状況が詳述されているが省略)。そこで彼は「ほら、できた。テレビだ」と言っている。出資者の1人は「これはモノになる」と電報を打っている。
・この話は、これから醜い話になる。科学者は背後に退き、弁護士が前面に立つようになる。ズウォリキンは1923年特許申請し、1933年テレビ「アイコノスコープ」を開発し、ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ社(RCA)と契約する。そのため当社の社長は「ファーンズワースから特許使用料を徴収する」と言っていた。
・RCAは「1923年ズウォリキンの特許が全てに優先する」と主張したが、1923年の製作を証明できなかった(※今は原理だけで特許を取得できるかな)。これに対し彼は、高校の化学教師の証言などで、1934年勝訴する。
・ところが彼は特許使用料を余りもらえなかった。RCAの支払いは遅れ、第二次世界大戦になるとテレビの販売は停止され、戦争が終わると、特許の期限切れが近付いていた。特許が切れると、RCAは大量にテレビを作り、自分達が「テレビの父」と宣伝した。そのため彼は鬱病になる。
・息子によると、彼は「テレビは人生の多くの時間を無駄にしてしまう」と後悔し、「バカになりたくなかったら、見るな」と子供に言っていた。※面白い話だな。火薬/核分裂なども同様かな。
<アレキサンダー・フレミング> 1881~1955年
・1928年彼は偶然にペニシリンを発見する。ブドウ球菌の培養皿を放置し、2週間後に戻ると、その一部に何も育たない領域があったのだ。彼は知らなかったが、これはペニシリウム・ノタトゥムと云うカビによった。これは歴史を変えた。彼はこれをペニシリンと名付けたが、感染症に対する恐るべき潜在能力を持つ物質だった。ペニシリンは細菌感染症の治療法を変え、人類は梅毒/壊疽/結核などに打ち勝った。
・1881年彼は牧羊農家に生まれる。彼は学業に秀で、医学を学ぶ。しかしペニシリンを発見していなかったら、地味な細菌学者で終わっただろう。
・ペニシリウム菌の抗菌効果は他の学者も発見していた。1929年彼は『英国実験病理学雑誌』に論文を寄稿するが、注目を集めなかった。また1932年彼はペニシリンの研究を止めてしまう。それはペニシリンを精製する知識の不足や、ペニシリンの抗菌効果に確信が持てなかったためと考えられる。しかし彼はその株を維持した。
・1939年その株がオックスフォード大学の研究チームに渡される。当チームは化学的知識が豊富で、ロックフェラー財団の支援も受けていた。1930年代末期は誰もが抗菌効果がある化合物を探していた(※北里柴三郎は1890年代、野口英世は1910年代の活躍かな)。彼らは十分なペニシリンを精製し、マウス実験を行った。この結果は『ランセット』に発表された。様々な感染症患者に注射し、実証して見せた。第二次世界大戦が起きると生産体制が作られ、負傷兵など何百万人もの命を救った。
・それまでは、肺炎/梅毒/淋病/ジフテリア/猩紅熱/外傷/分娩などで命が奪われていたが、治療可能になった。世間はこれに対する英雄を欲し、彼が選ばれた。1944年ナイトの称号を得て、翌年ノーベル医学賞を受賞する。しかし彼は「投与が少ないと耐性菌が出現する」事を知っており、これは今でも問題になっている。彼は医療を変えた抗生物質の開発に携わった化学者の1人に過ぎない。
<エドウィン・ハッブル> 1889~1953年
・過去100年で天文学者はクエイサー/パルサー/ブラックホールなどを発見した。しかし彼の1920年代の数々の発見に比べると見劣りする。それまで宇宙は銀河系だけと思われていたが、彼は銀河系は星雲の1つでしかない事を発見した。さらにこの宇宙が膨張している事も発見した。これによりアインシュタインは「自説は間違っていた」と、撤回する。
・彼はシカゴ大学で科学を専攻する。バスケットボール/ボクシングに秀で、文武両道だった。オックスフォード大学に留学するが、そこでは父との約束から法学を専攻する。帰国すると高校のスペイン語教師になるが、女生徒から人気があった。
・1年後にウィスコンシン州のヤンキーズ天文台に入り、星雲の研究を始める。ウィルソン天文台に招かれ、第一次世界大戦で除隊後、そちらに移る。口径100インチのフッカー望遠鏡は世界で最も性能が高かった。ここに彼のライバルとなるハーロウ・シェープリーがいた。シェープリーは銀河系の大きさを30万光年とした。
・シェープリーがハーバード天文台に移って3年後(1924年)、ハッブルはアンドロメダ星雲が100万光年先にある事を解明する。これにより彼の名声は高まる。
・しかし彼は直ぐに次の課題に取り掛かる。天文学者の多くが、星雲の光が赤方偏移している事を知っていた。彼はそこから離れた星程、速い速度で遠ざかっている事を発見する(ハッブルの法則)。アインシュタインは宇宙は膨張か収縮していると考えていたが、天文学者が「そんな事実はない」と主張していたため、アインシュタインは相対性理論に仕方なく宇宙項を追加していた。しかしハッブルの法則により、宇宙項は不要になった。
・1936年彼は『星雲の領域』を発表する。これにより彼の名声は不動になり、上流階級に迎え入れられる。彼は最後の功績として、パロマ山のヘール望遠鏡の設計・建設に携わる。この望遠鏡は40年間世界最大の望遠鏡だった。ところが第二次世界大戦により建設が遅れ、1949年に運転を始めるが、この頃には彼は心臓発作などで体力が衰えていた。彼が唯一逃したのがノーベル賞である。「天文学はノーベル物理学賞に含まれる」と判断されるのが遅すぎた。
<クルト・ゲーデル> 1906~1978年
・1906年彼は今のチェコに生まれる。父は織物工場を経営し、母は「子供は早期から教育した方が良い」と考えていた。そのため彼は10歳で、数学/宗教学/外国語を勉強していた。そして25歳の時、20世紀最大の成果とされる『不完全性定理』を発表する。これにより100年に及ぶ偉大な数学者の研究が無になった。
・彼の定理を理解するには、まず同時の数学を理解する必要がある。それは「公理」が出発点で、そこから「定理」が枝別れしていた。一般的に、数字/符号/括弧などの記号が使用されるが、それはプラム/バナナなどでも良かった。つまり数学的論述は、恣意的な記号を精密に組み立てたパターンでしかなかった。
・彼はこれが超数学に結び付くと考え、「数学的分析方法は、形式的体系の根幹を成すパターン生成のプロセスに適用できる」と考えた(※意味不明の言葉の連続)。そして数学は、形式的体系の第1の例証でなければならなかった(※形式的体系って公理かな)。これは蛇が自分自身を飲み込むように、数学が自分自身を飲み込む事になる。※「公理を証明できない」って事かな。
・彼は奇妙な結論を示した。例えば火星で使われている数字がアラビア数字にそっくりだとすると、「素数は無限に存在する」(ユークリッドの証明)は、火星では「8445・・・7111」(46桁の数字)になる。私達にはこれは数字だが、火星人には論述で、素数の無限性を見出す。※難解。この46桁の数字は、火星人の言語なのかな。
・数学の全定理について語ろう。私達には火星人の教科書は、ただの数字に見えるが、この数字に関する理論を作ろう。これは記号の羅列の検討になるが、火星人にどんな意味があるのかより、ただの数字として見た方が分かり易い。※超難解。言語の翻訳と数字の理論を混同しているのでは。
・この視点の変換により、彼は魔法を編み出した。これは「8030974は火星人生産可能数(MP)か」と問いかける事になる。これは「8030974は火星人の教科書に出てくるのか」と同義である。※依然理解不能。
・彼はこの超現実的シナリオについて注意深く考察した。そしてこの「MP数なのか」の問いは、「素数なのか」「奇数なのか」の問いと変わらない事に気付く。従って地球の整数論の学者は「どれがMP数なのか」の問いに挑む事になる。※私達には素数/奇数などに対し、明確あるいは暗黙の定義があると思うが。
・そこで彼は鋭い洞察力で、簡潔で素晴らしい論述を作り上げた。「『XはMP数でない』が火星人の概念に翻訳された時、私達は数字として読める」である。つまり火星人の概念に翻訳された「XはMP数でない」の論述により、私達にはXが桁数の多い数字になる。これが彼が得意とする、「時空構造のねじれ」「推論のねじれ」「あらゆる種類のねじれ」である。※結局理解できなかった。
・彼は定理を記号のパターンと見る事で、形式的体系における命題は自分自身(?)を言及できるが、その定理性も否定できる事を発見した。数学が矛盾を内部に控えている事は貴重で、信じられない事実であり、火星人には悲しい結末だった。※悲しい理由が長々と書かれているが、難解なので省略。
・つまり「形式化は実現不可能で、形式的体系は不完全である」となった。これが彼の「数学の不完全性」である。これは数学者に衝撃を与え、数学は以前とは異なるものになった。またこれによって帰納的関数の概念が作られ、コンピュータ理論の基礎になる。
・生身の彼もエキセントリックだった。1939年ナチスから逃れ、プリンストンの高等研究所に落ち着き、アインシュタインの同僚になる。晩年は細菌に脅えるようになり、食器を執拗に洗うようになり、常に目出し帽を被るようになる。彼は72歳で亡くなるが、死因は食事の拒否とされる。
<ジョン・メイナード・ケインズ> 1883~1946年
・彼は上流家庭の子弟が通うプレパラトリー・スクールの出身で、金儲けの才能に恵まれたケンブリッジ大学の出身である。生命保険会社の会長やイングランド銀行の役員を務めている。彼は労働階級のための革命には向かないが、陰気な経済学を社会が進歩するための学問に変えた。それまで経済学は否定論的で、「打つ手はない」などだったが、楽観的な彼は「失業は克服できる。景気後退/不況を甘受すべきではない」と主張した。
・彼の父はケンブリッジ大学の経済学者で、母はケンブリッジ市長になっている(※経済学で繋がっている)。彼は鉄道会社を経営するのが夢だったが、公務員試験に受かり、インド省に配属される。しかし行政事務に魅力を感じず、ケンブリッジ大学で教鞭を執り、ブルームズベリーの友人と交際するようになる。※ケンブリッジとブルームズベリー(ロンドン)は80Km位離れている。
・第一次世界大戦が始まると、大蔵省の対外財務管理に従事する。1918年からパリ講和会議が開かれ、ウィルソン米大統領/ロイド・ジョージ英首相/クレマンソー仏首相がドイツに懲罰的な賠償金を科す。彼はこれに反対し、小冊子『平和の経済的帰結』を発表し、「ドイツの疲弊は放置され、やがて欧州全体が脅かされる」とした。この小冊子は売れたが、実際に受け止められたのは第二次世界大戦後である。米英は敗戦国(ドイツ、イタリア、日本)の再建に手を差し伸べ、貿易のパートナーとして育て、民主主義を根付かせようとした。
・しかし彼が最も影響力を持ったのは、1936年大恐慌時に出版した『雇用・利子および貨幣の一般理論』である。彼は「景気後退局面では、政府が財政赤字を計上すべき」とした。「民間投資の減少は悪循環になる。そのため政府が投資を増やし、失業や社会不安を回避すべき」とした。
・1960・70年代は過剰な需要によるインフレが問題だったが、60年前(※1930年代)は4人に1人が失業し、需要不足が問題だった。しかし当時の経済学者は均衡予算を好み、彼の説を理解する者はいなかった。
・1932年大統領選でルーズベルトは、フーバーを「赤字を出した」と激しく攻撃し、「自分が選出されたら、予算を均衡させる」と約束する。2年後彼はルーズベルトに自説を伝えるが、「ただの数学者」とされた。ルーズベルトは公共事業/農業補助金などを実施するが、均衡予算を放棄しなかった。1938年大恐慌は深刻化する。そのためルーズベルトは数学者の案を採用するようになる。しかし経済に影響を与えるほど大規模になるのは第二次世界大戦が始まってからになる。
・1939~44年米国の生産高は2倍になり、失業率は17%から1%に激減する(※これは劇的な成長だな)。1946年彼は亡くなるが、同年制定された雇用法には「政府の責務は、最大限の雇用・生産・購買の促進にある」と成文化された。
・その後40年間、政府は財政政策と金融政策で経済を調整するようになる。1964年にはジョンソン大統領が減税を行い、購買力/雇用を促進する。今では経済の舵取りは、政府/FRBの役割になっている。
・もし彼が今生きていたら、米国経済を称賛するだろう。一方で世界の40%が不況にある事も注目するだろう。日本は病気になり、東南アジアは貧しくなり(※アジア通貨危機かな)、ブラジルはぐらつき、ドイツは失業率が2桁に達している(※ユーロ導入前だな)。彼は、IMFが第三世界の国に増税/歳出削減を要求している事、ユーロ加盟国に緊縮予算を要求している事、米大統領が財政黒字を維持しようとしている事に困惑するだろう。
<エンリコ・フェルミ> 1901~1954年
・19世紀は化学の世紀で、20世紀は物理学の世紀である。これにより画像技術/原子炉/原子爆弾/水素爆弾/ラジオ/テレビ/トランジスタ/コンピュータ/レーザーなどが登場した。物理学は急速な発展で理論と実験に分かれたが、彼はその両方の分野で活躍した最後の物理学者と云える。彼のベータ崩壊に関する理論は、4つの力(重力、電磁気力、原子核内の強い力/弱い力)の4番目の力の発見になった。またシカゴ大学の世界初の原子炉を設計・開発し、1942年火を入れた。
・1901年イタリアで鉄道省部長を務める父の息子に生まれる。彼が14歳の時、物理学に出会う。1920年頃にはピサ大学で教わった教師に講義するまで進歩する。25歳でローマ大学の理論物理学の教授に就く。そこでイタリア物理学を再興させるため、高い才能を持つ若者のグループを作り、そこで「法王」と呼ばれた。
・そこで核分裂を発見する直前まで行き着く。様々な元素に中性子を照射し核分裂を起こさせたが、ウランをフォイルで包んでいたため、測定機器で検知できなかった。しかしパラフィンで中性子を減速させると、効果が増大する事を発見する(※防虫剤のパラフィンだな。速度を減速した方が核分裂が誘因されるのか)。これにより原子炉での核エネルギー利用が見えてきた。もしドイツがユダヤ人科学者を追い出さなければ、ドイツが先に原子爆弾を開発していただろう。
・1939年妻がユダヤ人だった彼は米国に逃れ、コロンビア大学で原子炉を設計する。減速材の黒鉛に穴を開け、そこにウラニウムを落とし込み、カドミウムの制御棒で連鎖反応を調整する仕組みである。このプロジェクトはシカゴ大学に移され、マンハッタン計画が始まる。そして1942年12月原子炉に火が入れられる。この最初の稼働は28分間で停止させる。
・この原子炉は原子爆弾のためのプルトニウム作成に使われる(※ウランは原子番号92、プルトニウムは原子番号94。核分裂で陽子が増えるのは不思議だ。これも宿題)。1944年彼はロスアラモスに移る。1945年7月ニューメキシコ州で原子爆弾の実験が行われ、彼も立ち会う。1954年彼は胃癌で亡くなる。当時水素爆弾の開発計画があったが、彼は反対している。
<アラン・チューリング> 1912~1954年
・記号論理学の難解な問題に否定的な答えをしただけなら、彼は人の記憶に残らなかった。彼は仮想的な機械を作った(チューリング機械)。それは記号化された命令が記されたテープを読み取り、それを実行した(※これは仮想なのかな)。1937年彼はこの理論を『ロンドン数学会紀要』に掲載するが、理解できる者はいなかった。現代のコンピュータは様々な技術によるため、1人の栄誉に帰されないが、チューリング機械である事に変わりはない。しかし最後は悲劇的な結末になる。
・1912年彼はロンドンに生まれる。父はインド総督府に勤めていたが、彼はロンドンの里親の下で育つ。13歳でドーセットのシャーボーン校に入学する。彼はホモセクシュアルだと自覚し、同性の生徒に気持ちを打ち明けるが、直ぐに牛結核で亡くなる。これにより彼は無神論者になる。ケンブリッジ大学のキングズ・カレッジから声が掛かり入学し、成功を収める(※どんな成功なのか)。第二次世界大戦が起こり、国立暗号学校に召集される。数学者/チェスの名人などが招集されるが、ドイツのエニグマ暗号の解読が任務だった。
・戦後ケンブリッジ大学に戻るが、国立物理学研究所(NPL)から「チューリング機械を作らないか」との誘いで、そちらに移る。ところがそこは活気もなく、官僚主義で手続きは煩雑で、計画は繰り返し延長されるため、彼は去る。
・ケンブリッジ大学に戻るが、コンピュータを作っているマンチェスター大学に招かれる。彼は「コンピュータは学習して、自身の命令を書き換える」と考え、「婦人がコンピュータをペットの様に連れて歩く」事まで想像していた。そのため現代の人工知能学者の英雄になっている。
・彼の家に泥棒が入る。彼は「犯人と顔見知りの男性と関係を持った」と漏らす。同性愛は重罪だったため、裁判に掛けられ、執行猶予になる。1954年青酸カリで命を絶つ。
<ウィリアム・ショックレー> 1910~1989年 ※著者はインテルの共同設立者ゴードン・ムーアで、「ムーアの法則」の提唱者。
・1947年ベル電話研究所で彼の助手がトランジスタを発明する。しかしこの時、彼は留守にしていた。彼は競争心が強く、この発明に自分の足跡を残そうとした。彼は半導体素材に関する理解を深め、安定した増幅素子の基礎的理論を完成させる(※実証が先で、理論が後かな)。以後20年間トランジスタ技術は発達し、各社が様々な形状のトランジスタを開発した。
・1910年彼は両親が派遣されていたロンドンで生まれる。父は鉱山技師、母は鉱石鑑定人だった(※鉱物で繋がっている)。小学校には行かず、カリフォルニア州バロアルトの自宅で教育を受け、バロアルト士官学校/ハリウッド高校で学ぶ。カリフォルニア工科大学で学士号、マサチューセッツ工科大学で博士号を取得する。
・ベル研究所員になるが、真空管のコストや信頼性に疑問を持ち、それを克服するのは固体物理学と考えるようになる。1947年彼が発明したトランジスタは、瞬く間に理解され、1956年ノーベル物理学賞を受賞する。
・彼はベル研究所の待遇に満足せず、1956年サンフランシスコのバロアルト近郊に、ショックレー半導体研究所を設立する。当時はゲルマニウムを使って半導体が作られていた。それはシリコンの方が入手し易かったが、融点が高く、結晶を作るのが難しかったからだ。
・彼は競争心が強く、それを職場にも持ち込んだ。また「部下がわざと計画を遅らせている」と疑った。新しい実験結果が出ても、それを外部の者に検証させた。私達はこの研究所を辞め、シリコン・トランジスタを実用化するための会社を設立する。この会社はシリコンバレーの多くの企業の母体になる。※著者はここで働いていた。そのため「8人の裏切者」と呼ばれる。
・『タイム』の補足-1963年彼はスタンフォード大学に招かれ、エレクトロニクス産業を離れる。そこで知性の起源について興味を持ち、米陸軍のIQテストの結果から「アフリカ系米国人は白人より知能が劣る」とした。彼は非難されるも、これを主張し続けた。彼は1300億ドルの半導体産業を創出したが、自分の業績は遺伝学にあると考えていた。
<ジョナス・ソーク> 1914~1995年
・1940・50年代米国でポリオ(小児麻痺)が大流行するが、死亡率は5千人に1人だけだった。しかし国中がパニックになり、多くの家族が山/砂漠/欧州に逃げた。これは全米小児麻痺財団が、松葉杖を突いた子供や、装具を付けた子供の写真を至る場所に掲げ、寄付を募った事による。こんな状況なので、それを鎮めた人物が英雄になるのは自明だった。
・ポリオは2人の科学者により制圧される。彼ジョナス・ソーク博士とアルバート・サビン博士である。彼らは互いに自分に有利な証拠や、相手に不利な証拠を掲示した。しかし彼が先に世に出たため、彼が英雄になった。、
・彼はスピードで勝っていた。しかし彼は科学者仲間に嫌われ、ノーベル賞を受賞できなかった。彼はポーランド系のユダヤ教徒の息子に生まれる。学業は優秀で、医学部をあっと言う間に卒業した。ミシガン大学のトーマス・フランシス博士の下で、ウイルス学の特別研究員になる(フランシス博士は終始、彼を支持する)。ここではフランシス博士だけでなく、陸軍の支援も受ける。それは陸軍がインフルエンザ・ワクチンを求めていたからだ。
・彼はピッツバーグ大学で自分の研究室を持ち、ポリオ・ワクチンの研究に取り組む。これを小児麻痺財団が支援したため、彼は莫大な予算や過去の研究成果を自由に使えた。この数年前、ジョン・エンダーズがポリオ・ウイルスの増殖に成功していた。そのためポリオ・ワクチンの開発は目に見えていた。
・彼とサビンは異なる学説を信奉していた。サビンは「免疫を作るには、弱ったウイルスに感染させる必要がある」と考えていた。一方彼は「免疫は、非活性化あるいは死んだウイルスで活性化される」と考えていた。※前者が生ワクチンで後者が不活化ワクチンかな。
・ポリオ撲滅運動(?)には彼のワクチンの方が効果的だった。普通は医学雑誌に発表し、手柄を分かち合い、感謝の意を表明するのが通例だが、彼はそれをしなかった。ラジオに出演するが、エンダーズや研究室の同僚の功績にも触れなかった。そのため彼の全ての行動が売名行為と思われるようになった。
・ポリオ・ワクチンの真の功労者はエンダーズだが、エンダーズやサビンが彼の様に各種行事をこなし、インタビューにそつなく答え、予防接種の必要性を説き広められたかは疑問である。サビンのワクチンが登場するまで彼のワクチンが接種され、人々は彼に感謝した(※エドワード・ジェンナーの天然痘ワクチンは18世紀末)。因みに今では彼のワクチンとサビンのワクチンが交互に接種されている。
<ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック> ワトソン:1928年~、クリック:1916~2004年
・1953年彼らはデオキシリボ核酸(DNA)の構造を突き止め、遺伝情報を伝える物質である事を確認する。この発見が遺伝子工学の先駆けとなる。しかしワトソンの回想録『二重らせん』にあるように、彼らには野望、権力に対するいらだち、反響に対する軽蔑があった。
・2人は不釣り合いだった。1951年共同研究を始めるが、35歳の英国人クリックは博士号を持っていなかった。一方23歳の米国人ワトソンはシカゴ大学を卒業し、博士号を持っていた。しかし2人は共に放浪癖があり、クリックは生物と無生物の境界に魅せられ、物理学から化学・生物学に移っていた。一方ワトソンは鳥類学を学んだが、ウイルス学に移っていた。さらにDNAのぼんやりした写真を見て、「これが遺伝物質」との考えが頭から離れなかった。そして彼は自説を唱える有名な学者になりたかった。DNAに魅せられた彼らはケンブリッジ大学の研究室で出会い、チームを組む。
・ロンドン大学のキングズ・カレッジ(※キングズ・カレッジはケンブリッジ大学にもある)にロザリンド・フランクリンがいた。彼女はDNAのX線回析写真を撮っていた。そこにDNAを研究するモーリス・ウィルキンスもいたが、2人は険悪だった。2人の仲が違っていれば、運命は変わっていただろう。彼女がワトソンに写真を見せた事で、運命は決まった。
・1958年彼女は亡くなる。そのため1962年彼ら2人とウィルキンスがノーベル賞を受賞する。彼女の研究のお陰で、2人は研究を進められた(※詳細省略)。しかし2人は、彼女が持っていない巨大な3次元分子モデルを持っていた。2人はこのモデルで、4つの塩基(A-アデニン、T-チミン、G-グアニン、C-シトシン)の二重らせん構造を完成させる。
・二重らせんはCATで始まる紐と、それを補完するGTAで始まる紐で構成される。これがほどけ、それぞれに補完する紐が作られ、新しい二重らせんが作られる。AとT/CとGの補完関係に注目したのはクリックだった。そして「DNAは、AとT/CとGを同量含む」(チャーガフの法則)に注目したのはワトソンだった。彼女にはこの共同作業が欠けていた。彼女は女性のため教官用休憩室に入れず、仲間を作れなかった。※半世紀前のキューリー夫人も苦労している。
・彼らはこの発見を『ネイチャー』に発表する(※少し詳しく説明しているが省略)。またワトソンの回想録『二重らせん』は科学者を非神格化し、科学的な著作物にシニシズムも持ち込んだ(※そんな本なんだ。研究室の現実を書いたのかな)。不可知論者の彼は生気論をやっつけるのを好んだ。※不可知論も生気論も理解していない。宿題が残った。
・ワトソンはDNAがどうやってっ生物を作るのかの解明に明け暮れる(※遺伝子はDNAの数パーセントで、残りの部分も何らかの役割があるらしい)。彼はニューヨーク州コールド・スプリング・ハーバーの分子生物学研究所の所長に就き、その研究所を科学研究の牙城に変える。
・二重らせんが口火を切り、政治/哲学/宗教が巻き込まれるようになる。しかしそこには「生命の秘密は相補性」の真理がある。※難解な結論だ。
<レイチェル・カーソン> 1907~1964年
・彼女は作家と自覚している。1907年彼女はペンシルベニア州に生まれる。10歳の時、文芸雑誌『セント・ニコラス』で作品を発表している。彼女は読書好きで、孤独癖があり、鳥などの自然を愛した。ペンシルベニア女子大学では英語を専攻する。大学3年の時、生物学の授業を受け、専攻を動物学に変える。ジョンズ・ホプキンス大学で動物学の修士号を取得する(※聞いた大学と思ったら、医学が有名で、36名以上のノーベル賞受賞者を出している)。その後メリーランド大学で動物学を教える。夏季はマサチューセッツ州の海洋生物研究所で研究するが、そこで海の神秘に魅せられる。
・彼女は収入を補うため、ラジオの科学番組の脚本を書いたり、『ボルティモア・サン』紙に海洋生物に関する特集を書いた。1936年その縁で漁業局(現魚類・野生動物局)に就職する。彼女の記事は叙情的で優雅で独創的で、作品「海底」は全国規模の雑誌に掲載される。1941年「海の三部作」の1冊目『潮風の下で』(※Under the Sea Wind)を出版するが、注目されなかった。一方で漁業局の仕事は増え、1946年広報責任者、1949年出版部編集長に就く。
・1951年彼女は海の起源と地質学的な側面を探る作品「海のプロフィール」を書き、『ニューヨーカー』に連載される。これは「海の三部作」の2冊目『我らを巡る海』(※The Sea Around Us。『海辺』かな)として出版され、ジョン・バローズ賞/全米図書賞を受賞し、20万部以上売れる。1952年彼女は漁業局を辞め、メーン州の海岸にコテージを建て、執筆に専念する。
・有名になると自然破壊について意見を述べる機会が増える。1945年彼女は化学殺虫剤を危険視し、それに関する記事を『リーダーズ・ダイジェスト』に寄稿する。しかし当誌が関心を示さなかったため、政府の仕事に戻る。※1936~52年彼女は漁業局に勤めている。1945年頃辞めていたのかな。
・当時DDTより何倍も毒性が強い化学殺虫剤が製造されており、農務省はこれを流通させようとしていた。彼女はこれに驚愕する。1957年マサチューセッツ州の「蚊撲滅キャンペーン」で夥しい数の野生生物が死ぬ事件が起こる(※他にDDTによるマイマイガの駆除、ファイア・アントの駆除、クランベリーへのアミノトリアゾールの散布が書かれている)。彼女は適切な言葉で、これらを非難する(※本文省略)。
・1962年彼女の「沈黙の春」(※Silent Spring)が『ニューヨーカー』に連載される。出版される前、彼女は様々な脅しを受ける。これに化学業界/農務省/マスコミも同調する。しかしこの年の終わりには、利害関係者以外は彼女への攻撃を控えるようになる。「海の三部作」の3冊目『沈黙の春』はベストセラーになり、世界でも反響を呼んだ。
・彼女は運動家ではない。難局に勇敢に立ち向かい、知的で自信を持っていた。仲間に守られ、非難されても冷静でいた。1964年彼女は他界する。その2年前友人に手紙を書いている。「私はこの世界の美しさを救おうとしたのです。この美しさに対する粗野な行いへの怒りです。私はすべき使命を背負わされていた気がします。それに何らかの役に立てたと信じています。しかし1冊の本で状況が変わるとは思っていません」(※大幅に省略)。
・今日の化学的有害物質による被害は深刻である。彼女が『沈黙の春』で警鐘を鳴らさなかったら、もっと酷い事になっていたと思うとぞっとする。彼女は技巧的で、勇敢で、簡潔なこの本を書いた。しかし人の記憶に残るのは、海を題材にした素晴らしいエッセーの方かもしれない。環境保護で有名にならなくても、自然派作家として輝き続けるだろう。※そんな素晴らしい本なんだ。読もうかな。
<リーキー一家> ルイス:1903~1972年、メアリ:1913~1996年、リチャード:1944年~
・リーキー一家は人類学の頂点に君臨する家族だ。ルイス/妻メアリ/次男リチャードは決定的な発見をし、多くの研究者に影響を与えている。1970年私(※著者)はナイロビを訪れる。ルイスは人類進化の証しが並ぶ部屋を案内し、情熱・知識・洞察力をさらけ出した。彼は開けっ広げで、彼流の方法・解釈を明かした。
・1903年彼はケニアで英国人宣教師の家に生まれる。彼らはキクユ族の部族社会に受け入れられた。彼はケンブリッジ大学を卒業すると、ダーウィンの「人類の起源はアフリカにある」を信念とし、その研究を始める。1933年彼はメアリと出会う。彼は家庭を持っていたが、離婚する。
・2人には相乗効果があった。彼は社交的・外交的だったが、彼女は恥ずかしがり屋で、人と接するのが苦手だった。彼は自説を発表する時は、直情的で尊大な態度に出た。一方彼女は科学的な証拠をじっくり検討した。彼女のオルドバイ渓谷の論文は、アフリカの先史人類学の方向を決めた。
・1959年彼女はオルドバイ渓谷でジンジャントロプスの頭骨を発見する(※オルドバイはタンザニアの大地溝帯にある)。これは世界の注目を集め、多くの研究チームをオルドバイに引き付けた。そして人類の起源を研究する古人類学が作られた。米国地理学研究会が彼らを支援するようになり、『ナショナル・ジオグラフィック』も彼らに注目するようになる。この発見で彼は講演や資金集めで世界を飛び回るようになる。一方オルドバイは彼女の仕事場になる。彼は1972年に亡くなる。
・1978年彼女はラエトリで最大の発見(360万年前のヒト科の足跡)をする(※ラエトリはオルドバイの南にある)。ヒト科の化石はルーシーと同種の新種とされた。私はこれをアウストラロピテクス・アファレンシスとして彼女との共著論文を書く。しかし彼女が「人の祖先はヒト属で、アウストラロピテクス属ではない」として、共著者から外すよう要求したため、外した。※ヒト科には、オランウータン属/ゴリラ属/チンパンジー属/アウストラロピテクス属/ヒト属(ネアンデルタール人、ホモ・サピエンスなど)が含まれる。
・1970年私は彼女と息子リチャードに、シカゴ大学で初めて会った。彼はトゥルカナ湖での発見を講演する予定だった。その時私は「来年ナイロビに行くので、案内して欲しい」と頼んでおいた。彼はナイロビで沢山の標本を見せてくれた。彼とは打ち解けあったが、互いに張り合っているところもあった。結局1981年に仲違いする。
・彼も父ルイスと似てせっかちだったが、父と反目していた。1972年彼はあるヒト属の化石を290万年前と発表する。これは発見されたどのアウストラロピテクス属より古く、「ヒト属は古くからいた」とする父の説と一致していた。しかしその後、その化石は180万年前に修正される。
・彼は160万年前のホモ・エレクトゥスの全身骨格の発見などで、出世階段を登り続ける。本はベストセラーになり、テレビ番組/講演会は人気になった。
・しかしケニアでは、彼は反政府政党を作った男として有名である。それで鞭打たれたり、腎臓移植したり、飛行機事故に遭うが、彼は自信に満ちている。彼はケニア大統領にケニア野生生物公社の総裁に任命される。一旦解任されるが、再任される(※詳細省略)。彼の妻ミーブは動物学者で、長女ルイーズはケニアで発掘している。リーキー一家は人類学の名門であり続ける。※世襲だな。
<ティム・バーナーズリー> 1955年~
・この10年間の世界の変化は、インターネットで検索すると分かる。「enquire」(問い合わせ)で検索すると、オーストラリアで売られているハーレー・ダビッドソン、インドのコンピュータ講座など様々なものが検索される(※沢山書かれているが省略)。今ではコンピュータとインターネットがあれば、世界のどこにでも行ける。
・その中に「Enquire Within Upon Everything」(知りたい事はなんでもこちらに)がある。これは彼が書いたコンピュータ・プログラムである。これが文明を変え、億万長者を生み、情報を吸い込む「ワールド・ワイド・ウェブ」(WWW)である。多くの発明は複数の人によるが、これは彼一人による。彼は所有権/使用料を放棄し、オープンに保つために闘った。
・全てはジュネーブの欧州原子核共同研究機関(CERN)で始まる。1980年ソフトウェア技術者の彼は、散らばった研究資料を整理するプログラムを書き始める。そしてこれを「Enquire」と命名する。彼は自分のコンピュータで番号を打つと、リンクされたファイルを呼び出せるようにした。※当時マウスはなかった。
・彼は他人のコンピュータのファイルも呼び出せるようにしたくなった。中央にデータベースを構築すれば可能だったが、彼は各コンピュータがファイルを開放し、それをどこまでも広げようとした。これはインターネットとも相性が良かった。※分散型システムだな。
・彼は比較的簡単なコーディング・システム「ハイパーテキスト・マークアップ言語」(HTML)を纏める。また個々のページのアドレスである「ユニバーサル・リソース・ロケータ」(URL)も纏める。そしてリンクするためのルールの「ハイパーテキスト転送プロトコル」(HTTP)も纏めた。さらに彼は世界初のWWWブラウザを開発した。1991年彼はこれらの発明を公開し、インターネットとWWWは一体になった。これによりインターネットは指数関数的に成長し、インターネット・ユーザーは53日で倍増した。
・彼は1960年代のロンドンで育った。虚数で遊んだり、おもちゃのコンピュータを作ったりした。オックスフォード大学に入学すると、部品を集めてコンピュータを作った。
・彼の発明は幾ら評価しても足りない。グーテンベルクの印刷術に肩を並べる。もし彼の発明が既存の科学分野であれば、ノーベル賞を受賞していた(※今でも該当する分野はないのでは)。彼は金持ちになれたのに、その道を選ばなかった。彼と一緒にWWWブラウザ「モザイク」を作ったマーク・アンドレーセンはネットスケープ社を設立し、最初の億万長者になった。一方彼は1994年マサチューセッツ工科大学で研究を始める(※本書は英米の大学が混在するので惑わす)。彼はWWWを指導する「W3コンソーシアム」で指揮を執った。
第3章 企業家
<ルイス・B・メイヤー> 1885~1957年
・彼には「家族の価値」の言葉が最適で、母性・星条旗・神を戦略とした。彼が発足させたメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)は、無声映画からトーキー映画の時代に最大の映画制作会社になる。彼は道徳的に正しいと考える事を見せようとする夢想家だった。
・1885年彼はベラルーシのミンスクに生まれる。コサックに追われ、1880年代末にカナダのニューブランズウィック州に落ち着く(※ベラルーシからカナダとは)。家は貧しく、父の鉄屑屋を手伝った。10代終わりに家を出て、ボストンに向かう。そこで生まれたての映画産業のニッケルオデオン(5セント劇場)に出会う。
・最初の大作『国民の創生』で50万ドルを稼ぐが、この内45万ドルは自腹だった。人気女優アニタ・スチュワートを引き抜き、涙頂戴映画に出演させる。転機になったのが1924年で、メトロ/ゴールドウィン/メイヤーを合併し、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)を発足させ、責任者になる。虚弱で献身的なアービング・サルバーグを従え、スター/監督/プロデューサーから成る大家族になる。※1918年にロサンゼルスに移ったようだが、記述はない。
・彼は多くのスターを生んだ。ジュディ・ガーランド/クラーク・ゲーブル/ジョーン・クローフォード/エリザベス・テーラー/キャサリン・ヘップバーン/ラナ・ターナー/マルクス兄弟/エバ・ガードナー/グレタ・ガルボなどである。
・彼は人を操る名人で、スター達を手なずけていた。ロバート・テイラーが昇給を要求した時、「一生懸命働き、目上を尊敬すれば、望むものは全て手に入る時が来る」と助言し、テイラーを抱きしめた。「アンディー・ハーディー」シリーズに出演していたアン・ラザフォードが預金通帳を見せ、「母に家を買ってあげたい」と申し出た時は、彼女を抱きしめ、昇給を認めた。ゲーブルが昇給を要求した時は、「妻に浮気を暴露する」と脅した。一方彼の権力は行政にまで及んだ。ゲーブルが交通事故で人を轢き殺すが、別の幹部社員に罪をかぶせ、その社員に昇給と終身雇用を約束した。最大のスターであるジャック・ギルバートが彼の母を「老いぼれ」とこき下ろすと、ギルバートを張り倒した。
・彼は洗練(?)され、ハーバート・フーバーが勝利し(大統領:1929~33年)、自分が駐英大使に選ばれると期待した。トルコ大使を提案されるが、初のトーキー映画の製作に専念する。彼はフーバーに、ホワイトハウスの最初のゲストになる様に求めた。※米国映画は政策と深く結び付いている気がする。これも軍産複合体かな。
・彼は道徳を売り物にして儲けた。「アンディー・ハーディー」シリーズで理想の米国を描いた。主役のミッキー・ルーニーが手に負えなくなると、「お前はアンディー・ハーディーだ!お前は米国だ!・・」と怒鳴りつけた。
・製作責任者サルバーグは『ビッグ・パレード』『ベン・ハー』『アンナ・クリスティ』『グランド・ホテル』『戦艦バウンティ』『オズの魔法使い』などの記録破りのヒット作品を製作する。サルバーグは米国一の高給取りになった彼と対立するようになり、彼と対等の報酬を求めるようになる。MGMは彼の忠臣とサルバーグ派に分裂する。サルバーグは復帰するが、37歳で亡くなる。
・その後も15年間、彼はMGMに君臨し、高収益の映画を作り続けた。しかし第二次世界大戦後、彼の涙頂戴映画は見向きされなくなる。政府は映画業界から高収益の劇場を取り上げた(※独占禁止?)。トップスター/監督も利益分配を要求する様になる。サルバーグのポストに就いたドーア・シャリーも彼と対立する様になる。1951年親会社の経営者により、彼はMGMを去る。
・1957年彼は他界するが、遺書で一部の一族の相続権を奪った。そこには娘のエディスも含まれた。彼は自惚れ屋で、無情で、うんざりする専制君主だった。しかし彼は、米国の現実ではないが希望を抱かせる古典映画を残した。
<A・P・ジアニーニ> 1870~1949年
・1906年サンフランシスコで大地震が起こる。彼は2年前にバンク・オブ・イタリーを設立しており、崩壊した銀行から、金・貨幣・有価証券200万ドルを運び出す。多くの銀行は業務を停止したが、彼はノースビーチの埠頭で小規模事業主や個人への信用貸しを再開する。彼の会社は強固な意志(?)と庶民を重視する経営哲学で発展し、彼が他界した時には米国最大のバンク・オブ・アメリカになった。
・今では当たり前の住宅ローン/自動車ローンなどは、彼が考え出したものだ。彼が登場する前は銀行は労働者のものでなかった(※今はマイクロファイナンスとかもある)。銀行業務が全米を網羅するようになったのは1990年代で、これは彼のビジョンで、1地域が困難になっても、全体として健全でいられた。今年バンク・オブ・アメリカがノースカロライナ州のネーションズバンクを買収した事で達成された。今はこれが国際的になっている。
・1870年彼はカリフォルニア州で生まれる。両親はイタリア移民だったが、7歳の時父が亡くなる。母は御者と再婚し、農産物の卸業を始める。彼は19歳でこの共同経営者になる。会社は繁盛するが、31歳で引退する。
・翌年銀行の役員会に加わって欲しいと頼まれる。彼は移民への貸付拡大を訴えたが、受け入れられなかった。当時貸付は実業家に対して行われるもので、労働者へは考えられなかった(※ホールセールだけで、リテールはなかった)。そこで彼は、1904年バンク・オブ・イタリーを設立する。彼は酒場を改装して店舗とし、小口融資を始める。路上で銀行業務を説明し、客を勧誘し、預金・貸付を増やしていった(※イノベーションだな)。これに他行は驚いた。彼はカリフォルニア・ワイン事業やハリウッドの映画事業(※チャップリン、ディズニーなどの名前が挙がっているが省略)などへの貸付も行い成功する。
・1928年後継のトランスアメリカ・コープは各種金融サービスを行う国際的な持ち株会社になる。さらにニューヨークの老舗銀行バンク・オブ・アメリカを買収する(※小が大を呑むかな)。1930年彼は引退する。しかしトランスアメリカが彼の方針を変更したため、経営権を取り戻すため帰国する。1932年委任状を集め、経営権を取り戻す。
・1949年彼は亡くなるが、資産は50万ドルしかなかった。彼は巨万の富を得るのを嫌がった。何年間も給料を受け取らなかったし、150万ドルの臨時ボーナスを受け取ると、即座にカリフォルニア大学に寄付した。彼は「金銭はつまらないものだ。私は一度もお金に煩わされた事がない」と述べている。※彼は聖人だな。
<デービッド・サーノフ> 1891~1971年
・番組の内容は批判される事があっても、テレビ自体を批判する人はいない。これを通し現実を見れるし、逃避もできる。米国家庭は、週に50時間以上テレビを見ている。※1日7時間なら、点けっ放しだな。
・彼が「これから音に映像を付けます」と語ったのが1939年で60年前である。そして「この工業技術の奇跡は、新たな産業を生み出し、人類に物質的幸福をもたらす」と語っている(※大幅に省略)。当時は米国が大不況から立ち直り、欧州では戦争が始まった時代だが、彼は千里眼を持ち、テレビの発展を予見し、白黒テレビはカラーテレビの過渡期とし、後のビデオまで予見していた。彼を雇ったラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)は有力企業に成長する。※テレビ自体を発明したフィロ・ファーンズワースは、別の節で紹介している。
・1891年彼はロシアに生まれ、9歳の時に家族と共にニューヨークに渡る(※映画のルイス・B・メイヤーもロシア生まれだな。ロシア人は映像関係に強いのかな。ロシアにはアヴァンギャルド⦅前衛芸術⦆があった)。彼は英語ができなかったため、低賃金の仕事に就いた。15歳の時、電信機のキーを買いモールス信号を覚え、マルコーニ・アメリカ無線電信社に雇われる。
・1912年彼はマルコーニ社の無線局にいて、タイタニック号からのメッセージ「氷山に衝突し、沈没中」を受信している。その時彼は職場に留まり、タイタニック号と72時間通信した。彼は技術的才能により出世する。当時無線通信は船舶やアマチュア無線で使われていたが、彼は音楽を流す事を提案する。彼は無線通信が「家庭の道具」になると信じていた。
・1919年ゼネラル・エレクトリック社(GE)がマルコーニ社を買収し、RCAを設立する(※RCAはGEの子会社か)。彼はラジオを売るためには、音楽/ニュース/スポーツの放送が重要と考える。1921年プロボクシングの試合を放送する。ラジオ・ジュークボックスはレディオラと改名され、75ドルと高価で売れた。※ラジオの方が馴染みがある。
・彼は成功の階段を登り始める。彼は全米の放送局を繋げ、収益を増やす事を考える。1926年RCAのゼネラル・マネジャーとして、子会社ナショナル・ブロードキャスティング・カンパニー(NBC)を設立する。
・彼が次に注目したのが、1923年ウラジミール・ツウォリキンが特許を取ったテレビの原型「アイコノスコープ」である(※フィロ・ファーンズワースの節でウラディミア・ズウォリキンとして紹介されている)。1941年NBCがニューヨークで商業放送を開始するが、戦争で中断する。彼は通信顧問に就き、アイゼンハワー司令官に准将に任命される。戦争が終わるとメディア技術を発展させる特許・権利のために闘う。彼はライバルから無慈悲と評された。※技術者の闘いから、弁護士の闘いになった話だな。
・コロンビア・ブロードキャスティング・システムにより大スターの引き抜きに合うが、乗り切る。さらに彼は録画放送やテレビ用映画を実現する。1970年彼は引退し、翌年亡くなる。1986年RCAは事業拡大に失敗し、親会社GEに吸収される。
・私達(※著者2人)がアメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABC)でコンビを組んだ1970年代半ば、テレビは活況があった。尊敬する経営者フレッド・シルバーマン/マイケル・アイズナー(※人物説明はない)から、「優れた番組は視聴者を大事にする」「リスクを恐れず、直感を大切にし、輝く才能(?)を人々に伝える」を学んだ。以来放送業界は様変わりし、技術革新の影響を受けている。
・しかし放送に携わる者はケーブルテレビ/インターネットを受け入れ、進歩する技術に押しつぶされてはいけない。そのため私達はキャリン・マンタバッハらとオキシジェン社を設立し、ケーブルテレビ/インターネットを融合した女性のための番組を作るつもりだ。※最後は自身の宣伝?
・彼の「テレビは有益で、創造的な力を持つ」は今でも通用する。彼なら、垂直統合の動き/視聴率競争/新メディアの躍進/インターネット企業の躍進を新しい波と捉え、新しいデジタル時代に備えるだろう。彼はチャネルを常に未来に合わせていた。※テレビは20世紀最大のメディアかな。
<ウィリス・キャリアー> 1876~1950年
・彼は人類に多大な貢献をし、かつ素晴らしい人物だった。彼は大恐慌で叩きのめされるが再起し、彼が作ったコンツェルンは空調・暖房・換気システムのメーカーとして世界をリードする。彼の業績のお陰で、人々は快適に過ごせる。彼の業績がなければ、アルコール中毒・離婚・蛮行・殺人は増え、世界の生産効率は40%低下し、遠洋漁業は不可能で、ミケランジェロのフレスコ画は劣化し、金属の採鉱は不可能で、多くの子供は勉強できず、シリコンバレーのコンピュータはクラッシュしただろう。
・彼が天才か否かを判定するのは難しいが、彼は忍耐強く、トップエンジニアだった事に間違いはない。彼は先見性がある経営者で、チームワークとベテラン社員による若手社員の教育を重視した。
・彼はニューイングランドの旧家に生まれる。祖父母や大おばがいて、彼だけが子供だった。高校を出た後、3年間の教職を経て、コーネル大学に進学する。
・彼「空調の父」が最初に勤めたのは、暖房器具のバッファロー・フォージ社だった。彼の研究により、当社は年間4万ドルを節約する。そこでキャリアー株式会社の共同経営者になるアーバン・ライルに出会う。1914年当社がエンジニアリング部門を廃止したため、彼は会社を興す。
・空調は冷却システムが発端ではない。1902年彼の最初の顧客は印刷業者で、湿度・温度の変化による色むらに悩んでいた。1906年今度は紡績工場が熱に悩まされていた。これにより彼は自社の加湿器が小さ過ぎる事を知った。彼は次々持ち上がる難題を解決していった。※マカロニ製造工場の話もあるが省略。
・空調の最初の20年間は、人間の冷却ではなく、機械の冷却だった。その内、豪華ホテル/劇場が彼に助けを求めるようになった。第二次世界大戦前は空調は贅沢品だった。
・彼は73歳で亡くなるまで、知識を求め続けた。3度結婚し、2人を養子にしたが、既に2人共亡くなっている。彼は実業家らしく長老教会の信者で共和党員である。
・彼の冷却システムにはフロンが使われ、オゾン層を破壊し、皮膚癌・白内障・免疫系疾患などの原因になっている。彼の会社を吸収したユナイテッド・テクノロジーズ社は、1994年塩素不使用・オゾン非破壊の空調システムを作っている。これは創設者の問題を必ず解決する流儀に乗っ取っている。
<チャールズ・メリル> 1885~1956年
・彼はフロリダの田舎で育ったが、貧しかったため大学は中退した。しかし31歳の時には、ウォール街で稼ぐまでになった。1940年54歳でメリル・リンチ社を設立するが、その時には八面六臂の活躍をしていた。
・彼は小売業ではチェーンストアが制すると確信し、融資により富を手にする。そして本社と支社をテレタイプで繋げた証券会社を設立する。また彼は1929年大恐慌を予言していた。彼は大統領に投機を止めさせる演説をして欲しいと要求している。彼は大恐慌前に有価証券を換金した。
・彼は金融欄だけでなく、ゴシップ欄も賑わした。3度結婚した。彼はプライドが高く、「自分は常に中央にいる」と思い込んでいた。
・彼を「運良く金持ちになった」で片付けてはいけない。彼の第2の人生に注目すべきである。共同経営者となったエドムンド・C・リンチは、アイスクリーム店の機器のセールスマンだった。彼らは後々まで機能する組織を作っただけでなく、国を後々まで機能する方向に導いた。つまり株式市場をウォール街の人のためでなく、全ての国民に開いた。彼はメリル・リンチを設立する前から「ウォール・ストリートをメイン・ストリートに」を掲げていた。重要な金融家にJ・P・モルガン/ウォーレン・バフェットなどが挙げられるが、彼の足元にも及ばない。
・金融界のこの50年で最も意味を持つのは、株式市場の民主化である。統計では、1945年株に投資している世帯は16%だったが、今は50%に達している。投資信託が保有する金融資産は銀行を超える。株式市場を支えているのはトレーダーではなく一般投資家となった。私達は株価の変動に一喜一憂する。老後の資金を積み立て、子供を大学に通わせ、快適な生活を送っている。株式市場への信頼は宗教めいている。彼がこの普遍的価値を作るまでは、株式市場は内部の人間による八百長試合だった。
・1920年代の狂乱と大恐慌は、「無節操な投機を促す大ぼら吹きではなく、彼に耳を傾けるべきだ」となった。彼は「平均株価が60%も下落する腐り切った株式市場の信頼を回復させないといけない」と結論した。
・メリル・リンチは彼の説教壇になった。彼はそこで株式市場の素晴らしさを説いた。彼は「株式市場の仕組みを一般投資家に理解してもらおう」と考え、リポート/雑誌/パンフレット『投資の方法』などを発行し続けた。セミナーでは託児設備も整えた。農産品会/家畜の品評会でテントを張り、移動窓口を開設した。株をコンテストの賞品で提供した。
・1956年彼は亡くなり、メリル・リンチは米国最大の証券会社になるが、彼の望みは叶わなかった。しかしその後の40年間で「ウォール・ストリートをメイン・ストリートに」が実現する。これに貢献した人は多くいるが、2人を挙げるとすると、ネッド・ジョンソンとチャールズ・シュワップだろう。彼らは革新的だが彼の後継者で、「投資は長期で」「投資する企業を十分理解する」「急激な変動はあるが、どんな投資より株は優れる」「株式市場は利益を皆で分かち合うものだ」などを奥義としている。
※日本はこのレベルに達していないな。ただ株式市場は金融緩和によりバブルを繰り返すようになった。
<レオ・バーネット> 1891~1971年
・彼は根っからの広告人ではない。情報通でもなく、合理主義者でもなく、働いた場所も広告業界の中心であるマディソン街でもなくシカゴのビジネス街だ。しかし彼は視覚イメージに訴える天才だった。彼は感性に訴え、コーポレート・アイデンティティを創作する天才だった。ジョリー・グリーン・ジャイアント/マルボロ・マン/ピルズベリー・ドゥボーイなどのシンボルを生んだ。
・彼は1950年代末には頭角を現していた。彼の創造的革命はテレビの夜明けと共にあった。彼の顧客は指数関数的に増え、彼が逝った時には年間4億ドルを売り上げた。
・彼の創造性は同時代の広告代理店の人とは対照的だった。彼は「市場のシェアは心のシェア」と考えていた。言い換えれば「消費者の願望や信念を刺激する」事が重要と考えた。当時の広告は商品の品質を主張する内容だった。※以前ハズキルーペの広告の作成に関する本を読んだ。
・彼は新聞記者をした後、1919年インディアナ州の広告代理店に入社する。当時の広告は、よく練られたナレーション(製品の購入者が成功する)が使われていた(※「これを買えば必ず成功します」みたいな広告をよく見る)。一方彼はイメージを前面に打ち出した。冗長な理屈や空虚な約束より、その方が説得力があると確信していた。※食肉協会のキャンペーンで、男性的/赤などを強調した広告を行ったみたいだが、複雑なので省略。
・彼はエンドウ豆を売るため、地球の恵みを象徴する豊穣の神「ジョリー・グリーン・ジャイアント」を蘇らせた。フィルターが付かないタバコを売るため、タフで寡黙なカウボーイ「マルボロ・マン」を生んだ。彼は視聴者の批判をかわす、視覚的な刺激を見付けようとした。
・彼の評価に迷うが、かすかに同性愛的な部分は流行遅れと感じるが、そこには永遠の何かがある。大声で吠える「トニー・ザ・タイガー」/優しい「ジョリー・グリーン・ジャイアント」は、シリアルが完璧な朝食とされた時代/エンドウ豆を添えた牛肉がヘルシーとされた時代への先祖返りである。MTV世代(※ケーブルテレビかな)のマーケッターは、彼の普遍的シンボルを求める手法を否定している。※色々書かれているが、難解なので省略。
・一方彼を導いた原則は将来を予見する。彼の非直線的な広告は視覚的無意識にビジュアル的に訴えるが、これは今でも成人文化(?)に影響を与える。これは広告コピーにおいて、文章より体裁、説明文よりキャッチフレーズの力関係を示している。大衆には慎重に論じられる主張より、視覚に訴える方が説得力がある。これが彼の手法である。※記憶に残るCMは「ウォークマン」「JR」などかな。
・かれの思考は広告のジャンルを超え、精神環境にも影響を与えている。彼の英知が生み出した歴史を超える影響力は気がかりである。それぞれ社会的・政治的・商業的目標のために感情を奮い起こすイメージが溢れる社会で、「知識を持った民衆」という民主主義の要が忘却されるように感じられる。※修飾語がもっと沢山付いていたが省略。この節は抽象語が多く、最も難解だった。
<レイ・クロック> 1902~1984年
・1960年代シェフである私(※著者)は、ハワード・ジョンソン社で修業をしていた。当社の売上は、バーガーキング/ケンタッキー・フライドチキン/マクドナルドの売上合計を凌いでいた。ホージョー・レストランは千軒以上、モーテルは500軒以上所有していた。しかしジョンソンが亡くなると、会社は傾き、解体される。
・一方彼のマクドナルドは勢いを増した。彼は「旧世界の人は自宅で食べるが、米国人は外食する」事に気付いた。さらに格式張ったレストランより、気さくなサービス、安い値段、予約不要、シンプル、気軽さなどが好まれる事に気付いた。これにピッタリなのがサンドイッチだった(※最初はサンドイッチ?)。彼が人に与えたのは、大衆が求めたものであり、自分が求めたものでもあった。1968年彼はマクドナルド・コープの会長に就くが、1984年他界するまで究極のセールスマンであろうとした。
・1917年彼は赤十字社の運転手になる。戦争が終わるとそこを辞め、昼は紙コップの販売、夜はピアノの演奏をする。そこで彼は5本のマルチミキサーを発明したアール・プリンスと出会う(※ジュース用かな)。彼はその独占販売権を得て、17年間全国で売り歩く。
・1954年彼はマクドナルド兄弟が営業するハンバーガー・レストランに出会う(※既に52歳)。その店は、購入した8台のミキサーを回し続けていた。商品はハンバーガー/チーズバーガー/フレンチフライ/ソフトドリンク/シェイクに限定し、効率が良かった。彼はマクドナルド店を全国に広める事を考え始める。彼は2人と相談し、自身も開店する。※全国を行商した経験で、洞察力が養われたかな。
・1962年彼はマクドナルド兄弟から270万ドルで事業を買い取る。彼は2人の方針を変えなかった。彼は清潔の鬼で、外観/駐車場/キッチン/ユニフォームまで徹底させた。1963年ピエロのロナルド・マクドナルドがデビューする。これは子供に人気で、子供が外食先に口を挟むようになる。
・マクドナルドはベビーブーマーと共に成長したため、メニューを変更していない。当社は資産を拡大させたが、それが重荷になってきた。彼が亡くなった1984年以降、その傾向は強まる。人々も当社が提供する均一性に退屈し、無味乾燥・支配を感じるようになった。フランチャイズのオーナーも最高経営陣との距離を感じるようになった。
・彼なら、良いアイデアが浮かんだかもしれない。彼は常に先を見ていた。彼は高級ハンバーガーレストラン/ドイツ風居酒屋/テーマパークなども検討していた。手軽な食事を提供するレストランは既にあり、彼は創造者ではない。しかし彼は複雑さを理解し、その中で最も可能な方法を実行する狡猾さを持っていた。※50歳まで全国を歩いた経験かな。
<エスティ・ローダー> 1906~2004年
・彼女の会社は、デパートの化粧品市場の45%を販売し、118ヵ国で販売され、売上は36億ドルある。彼女の物語は、米国ビジネスの1章になっている。
・彼女はニューヨーク市の金物屋に生まれる。彼女は、化学好きのおじが作ったスキンクリームを売り始める。彼女の商品は優れていたが、それ以上に彼女も優れていた。彼女はニューヨークでカウンタースペースを手に入れると、独特の販売方法を始める。※どう優れていたのか解説はない。
・彼女には「野心」があった。40年の現役を終えても、世界全ての開店式に出席した。彼女は著名人に自社製品をプレゼントした。これにより自分のブランドを広めようとした。彼女は「アイデアは地球規模、行動は足元から」を経営哲学とした。彼女は突然店を訪れ、販売スタッフにノウハウを教えた。今日では全ての販売スタッフが、そのブランドにふさわしい応対をしてくれる。
・マンハッタンのGMビルに彼女のオフィスがある。ここは女性実業家兼母親のオフィスで、何十年にも亘って仕事と家族が混じり合った場所である(彼女の孫達が重要なポジションにいる)。彼女はもてなすのが好きだった。彼女は上流階級(名士、金持ち、有名人)を招き、極上の料理とワインを振る舞った。
・彼女は「着眼」にも優れ、自分を取り巻く世界や全ての女性に着目した。彼女はトレンドには関心を持たなかった。彼女が提供するのは、究極の質だった。当社の広告に登場する女性は、女性のシンボルだった。今の女性は、彼女の普遍的な新しさ(?)を知っている。
・当社は、エスティ・ローダー/プリスクリプティブ/クリニーク/オリジンズ/アラミス/M・A・C/ボビー・ブラウン/エッセンシャルズ/トミー・ヒルフィガーなどのブランドを持つ。当社はトレンドは生まないが、取り残される事はない。
<盛田昭夫> 1921~1999年
・彼が72歳の時、テニスをしていて倒れ、以降車イスの生活になる。彼はテニスで、相手が幾ら若くても挑戦を挑んだ。彼は「世界は狭くなり、国境を物理的・心理的に越える企業にこそチャンスがある」と信じていた。そしてそれを世界、とりわけ米国で追求し、ソニーは米国でコカ・コーラ/ゼネラル・エレクトリックを抜き、認識度NO.1のブランドになった。
・彼は倒れる前の2ヵ月、世界を飛び回った。東京/ニュージャージー/ワシントン/シカゴ/サンフランシスコ/ロサンゼルス/サンアントニオ/ダラス/英国/バルセロナ/パリに出向き、エリザベス女王/ジャック・ウェルチ/ジャック・シラクなどの政治家・実業家と会っている。コンサートに2度、映画に1度、国内旅行を4度し、レセプションに8回出席し、ゴルフを9ラウンドし、17日間は出社している。彼のスケジュールは1年以上決まっていて、空きができると知人などに会った。※タフだな。
・彼の家は14代続く造り酒屋だったが、彼は起業家精神から家業を継がず、東京通信工業に入社する(※ソニーの前身)。彼はブランドに拘ったが、当時の企業は、例えばペンタックスはハネウェル向け、リコーはセイビン向け、サンヨーはシアーズ向けの製品を作っていた。彼の考えを補完したのが共同設立者の井深大で、ソニーの技術面を支えた。
・ソニーの初期の製品が、1955年トランジスタ・ラジオであり、1957年小型ポケット・ラジオをである。このトランジスタでの成功が、8インチ・テレビ/ビデオ・テープレコーダーに繋がる。これらにより、ソニーはエレクトロニクス分野でトップブランドになる。
・因みにソニーは、「sonus」(音)と「sonny」(若造)を合成して作られた(※詳細省略)。
・1963年彼は一家で米国に移住し、米国の市場/習慣/ルールを学び、成功に導いた。彼はマンハッタンのアパートに移ったが、平日にパーティーを開き、人付き合いを大切にした。生涯この習慣を守った。
・彼は仕事中毒だったが、美術・音楽にも関心を持った。またスポーツ狂で、60代でウィンドサーフィン/スキューバダイビングを始めた。水上スキーに夢中になり、耐水性マイクを作った。これで船上の妻に命令した。
・ウォークマンも、家族や知人が始終音楽を聴いている事から発案した。当時録音機能のないカセットプレーヤーは考えられなかった。英語としておかしかったので、米国ではサウンドアバウト、スウェーデンではフリースタイル、英国ではストウアウェイと名前を変えた。最終的にはウォークマンに変え、辞書に載るまでになった。
・彼は企業戦略に反し、愛国主義者だった。戦後の壊滅状態を経験していたため、ジャパン・ファーストの考えを持ち続けた。だが1960年代には、自由貿易の促進を語り始める。1989年『NOと言える日本』を共著する。そこで「諸外国は日本製品の輸入に文句を付けるのを止め、自国企業を改善せよ」と述べ、議論を起こす。しかし彼の意図は、「日本人が意見の不一致を恐れ、外国のパートナーと議論しない」事への忠告だった。
・彼はビジョンをグローバルに変えていった。つまり「国境を越えて共通の価値を持ち、国際的に消費者・株主・従業員に奉仕する事」である。私(※著者)はこの言葉が好きで、使わせてもらっている。
・1993年彼は誰もが憧れる経団連会長の座を要請される。それまでは鉄鋼業/公益事業/重工業などが対象で、ソニーは小規模でもあり、対象外だった。しかしこれが発表される当日に、彼は倒れる。1993年は日本が景気後退していたが、彼なら改革をやってくれただろう。彼は政治家・経営者・官僚から成る討論グループを組織していた。企業が政府に救済を求める事には成らなかっただろう。
・彼はソニーが消費者向けブランドでトップになった事を知らない。彼はこれを聞けば、「当然だよ、ソニーは米国で作ったんだから」と言うだろう。
<サム・ウォルトン> 1918~1992年
・彼ほどアメリカンドリームのバイタリティを体現する人物はいない。彼は大恐慌の時代に草原地帯で育ち、野心の片鱗を示した。高校時代にはミズーリ州のフットボール・チャンピオン・チームのQBを務めた。ミズーリ大学卒業後、陸軍に従軍し、帰国後は家族を養った。
・戦後、生活スタイルは大きく変化したが、彼はその中心にいた。彼は予測能力が高く、人口統計を理解し、その意味を理解していた。彼はアーカンソー州で雑貨店を始めるが、それは世界最大の小売業者になり、彼は米国一の金持ちになった。1992年彼は他界するが、その時一族の資産は250億ドルあった。またウォルマート・ストアーズの売上は1200億ドルで、GM/フォード/エクソンに次ぐ4位だった。
・ディスカウント販売は彼が発明したものではない。しかしフォードが工業で革命を起こしたように、彼のディスカウントの追及はサービス経済で革命を起こした。そしてこの流れは他の業界へ広がった。1950年代アン&ホープがディスカウントを始めるが、それは受け入れられなかった。大半の州で、それは規制された。1960年代ウォルトンは15軒の雑貨店を経営していたが、そこの価格は高目だった。
・彼は小売業を意欲的に研究した。家族旅行にはストア訪問が含まれていた。1962年彼はアーカンソー州にウォルマート1号店をオープンする。同じ時期に、Kマート/ウールコ/ターゲットも事業を始めている。ディスカウントは衝撃を与えるが、当時はまだ当社は無名だった。彼はメーカー/仲介業者/店舗の利ザヤを、下げて下げまくった。これにより売上を拡大した。
・チェーンが拡大すると彼は新たな手を打つ。1966年彼はIBMスクールに通った。目的は最も優秀な学生を雇うためだった。そして雇い入れると商品管理などをコンピュータ化させた。これにより当社は、ジャスト・イン・タイムの在庫管理、高度なロジスティクスを実現する。今や当社のデータベースは国防省に次ぐ規模になっている。
・彼は有名になるのを嫌っていた。そのため1985年『フォーブス』が当社の株を評価するまで、彼の名前は知られていなかった。彼はリムジンより小型トラック、投資銀行家より顧客が連れてくる猟犬を優先した。当社の従業員は彼の非凡さを信じ、自社株を買った。
・しかし当社が拡大するにつれ、田舎町の商人やマスコミが彼を批判するようになる。かつては彼自身が田舎町の商人だった。結局、消費者の支持で彼は勝利する。
・彼は田舎町の変化のスピードを速めた。また彼の情報技術を活用した経費削減技術はあらゆる分野に広まる。また彼の小売業のコンセプトは、ホームデポ/バーンズ・アンド・ノーブル/ブロックバスターズなどのカテゴリー・キラーを生んだ。※カテゴリー・キラーはニッチに近いかな。