『歪められた江戸時代』古川愛哲を読書。
江戸時代の現実を紹介している。江戸時代のイメージを多少転換させる本。
武士は魅力的な階級でなく、そのため幕藩体制は崩壊したと感じた。
大変詳しいので、ある程度の事前知識が必要。また普段使わない単語が出てくるので苦労。
第5章の歳時記は概要説明なので、詳しく知りたい方は別書を読む必要がある。
お勧め度:☆☆(江戸時代に関心が強い人向け)
内容:☆☆☆
キーワード:<はじめに>時代劇、金銭、<江戸の町>浪人、武家、糞尿、髪結、吉原、長屋、売春、浮世絵、不倫、江戸語、古着、<江戸の生活>町年寄/町名主、大家、人宿/日傭座、相続、言葉、肥、<ブラックな江戸ルール>火事/町火消、生類憐みの令、家紋、斬捨御免、敵討、切腹、学問、寺子屋、<金さん・黄門様>武家地・町人地、旗本・御家人、江戸町奉行、与力・同心、大奥、代官、農民、<江戸歳時記の虚実>正月、節分・節句、年度、天下祭、七夕・中元・藪入、酉の市、煤払い、内職、<江戸の暗部>キリシタン、藩、博徒、移民/浄土真宗、洋妾、<おわりに>歴史
はじめに
・「チャンバラ」の語源を訊かれた。これは明治末から大正頃(1910年代)、「活動写真」(無声映画)で見せ場の「剣戟」になると三味線が演奏された。子供達が剣術で遊ぶ時、この音を「チャンチャンバラバラ」と口真似したのが由来である。※結構新しいんだ。
・この活動写真は「新時代劇」と呼ばれ、後に「時代劇」と呼ばれるようになる。一方歌舞伎風の物は「旧劇」と呼ばれた。この頃「時代小説」も生まれる。岡本綺堂の『半七捕物帳』などがある。彼は明治5年生まれなので、江戸時代は知らない。この『半七捕物帳』は、名探偵シャーロック・ホームズを意識して書かれている。
・時代劇も同じで、西部劇を真似ている。『鞍馬天狗』は『怪傑ゾロ』、『奇傑卍太郎』は義賊ロビン・フッドを真似ている。しかしこれらが江戸の生活を正しく活写している訳ではない。善人の浪人などが、悪人をバッタバッタと斬り倒すなど、あり得ない話だ。
・最初の時代劇は『雄呂血』(1925年)だが、これは検閲で題名は変えられ、「権力を恐れない不埒な行為」として一部カットされている。政府は、反逆・反抗・革命・刀・剣戟に過敏だった。それは自分達が成した明治維新の再来を恐れたからだ。
・政府は「散髪脱刀令」(明治4年)、「廃刀令」(明治9年)を発し、帯刀を禁止した。江戸時代を一掃する国民教化は、歌舞伎・文芸・落語にも及んだ(※詳細省略)。「江戸が懐かしい」と言う者は、危険視された。江戸生まれの者は、やがて生を終えた。
・昭和になると武士道が鼓舞されるようになり、時代劇/時代小説が発表されるようになる(※日清・日露により変質して行ったかな。米国の映画も同様かな)。市中馬上禁止なのに鞍馬天狗が洛中を馬で駆け回っても咎められない。丹下左膳は異様な服装でも咎められない。※色々例を挙げているが省略。
・江戸時代は多くの偉大な文化を作り出した。それを潰した政府は、77年で日本を滅亡させた(※面白い評価だな)。本書はその江戸時代の実像を紹介します。
・江戸時代は物価・賃金の変動が激しく、金銭の換算が困難です。本書は1両=20万円として換算します。因みに日銀は1両=27万円として換算しています。当時は人件費は安く、物価は高かったと思われます(※物は貴重だろうな)。※銭・銀の換算についても書かれているが省略。日本では金・銀・銭の3通貨が使用され、日々そのレートが変わったらしい。
第1章 汚くて浮気好きな江戸の町
○時代劇とは違う江戸の身なり
・時代劇の主役は浪人だが、浪人は江戸前期まで「牢人」と書かれ、「追い払い」の対象だった。月代を伸ばした浪人を見るが、これは御法度(禁制)である。人別帳に入っていれば髪結床で剃ってもらえる。「懐紙」を持っている浪人も怪しい(※これについても大変詳しく解説されているが省略)。
・実は江戸郊外の方が浪人が多かった。それは郊外は奉行所がなく、市中巡回もないからだ。宝暦12年(1762年)相州三浦郡で「浪人1人につき16文まで。それ以上ねだる者は隣村の百姓も駆けつけ、捕える」が決められた。16文とは蕎麦1杯位である。三浦郡は58村あり、全部廻れば900文(2万円)以上になる。※デジタル化されている訳ではないので、正確に把握するのは難しいかな。
・下野にこれを稼業にした親分がいた。自分の手下以外を入村させない契約を村毎に契約した。その契約金は、年で金3分2朱(17.5万円)~銭600文(3万円)だった。天保4年(1833年)幕府は一味を捕縛するが、その親分は逃散した農民だった。
・武家は一目で分かった。刀2本を腰に差すので、左足が太くなった。江戸時代は頭の天辺から足の先まで規則があった。武家が手拭いを懐に入れて歩いている時は、道を譲るしかない(※詳しい話は省略)。手拭は便利で、これを被ると身分が分からなくなる。※扇子の話も書かれているが省略。ルールが沢山あったようだ。
○御侍は中央通行
・黒羽織は御徒(徒歩の御家人)で、羽織紐も黒であれば御小人(足軽)である。彼らは見世物/茶屋にたかるので嫌われた(※武士は気品があったのでは)。羽織が浅葱色(薄い藍色)なら諸国からの勤番者で、茶屋娘からも馬鹿にされた。
・江戸の道路は右通行でも左通行でもなく、「武家のみ中央通行」である。武家が1人で歩く事はなく、挟箱を持つ従者を連れた。武家が上司に出会うと、片膝を付いて挨拶した(※詳細省略)。御目付は、曲がり角で直角に方向を変えた。
○糞尿の悪臭漂う町内
・江戸は乗馬禁止/喫煙禁止だった。ブラブラ歩くのは物売り位である。それに混じって天秤を担ぐ肥取り(糞取り)がいた。江戸を出ると喫煙も立ち話を許される。道端でゆっくりしていると、肥取りが「ハイ糞だ、ハイ糞だ」と通り過ぎた。しかしこの風景は時代劇には出てこない。
・享保年間(1716~36年)に江戸の人口は100万人を超えた。江戸人の排泄物が1人1日8合とすると、年間で約300石(5億リットル)になる。これが近郊農村の肥料になった(※排泄物の運送と眼病の関係が記されているが省略)。オランダの商館員フィッセルが、畑からの悪臭と農家の傍の肥溜めの悪臭を不愉快としてている。※肥を肥料に使うのは日本だけかな。
○床屋はスパイ
・武家も町人も月代を剃った。基本、月代は自分で剃った。町方与力・同心は髪結床に剃ってもらった(日髪日剃)。町に1軒の髪結床を置く事が定められていた。髪結は町の様々な事を知り、スパイでもあった。旅行者は檀那寺が発行した旅行手形を見せれば、髪結床を利用できた。式亭三馬『浮世床』は客の会話だが、髪結が何でも知っている事を表している。
・江戸普請で多くの人が集まり、遊女屋も作られる。徳川秀忠は娼婦を箱根以西に追放するが、家康が娼婦を江戸に置くように指示した。この時小田原北条家の浪人が、治安維持のため公許の遊郭の設置を提案している(※浪人なのに提案できるの?)。これが吉原になる(※三浦屋高尾の話が書かれているが省略)。吉原では廓言葉が使われた。「太夫」は女性として最高に洗練された者で、流行の最先端だった。「三つ指」はここに起源がある。
○家計を支えた「つゆ稼ぎ」と「ジゴク」
・江戸は人の出入が激しかった。天保14年(1843年)町方の3割は江戸以外で生まれていた。芝神谷町の裏店(裏長屋)は17世帯あったが、5年後には14世帯が転居していた。長屋には「表店」「裏店」があり、さらに裏店には入口が表裏にある「割長屋」と、裏にしかない「棟割長屋」があった(※裏店なのに、両方に入口がある?)。棟割長屋の家賃は300文(1.5万円)、割長屋の家賃は400文(2万円)、表店はその10倍もした。裏長屋(※裏店?)の広さは6畳で土間があり、寝起きする広さは4.5畳だった。
・裏長屋の住民は天候次第のその日暮らしで、日当は1万円程度だが、食費・家賃で数千円しか残らない。雨が続くと収入が亡くなり、女房は「つゆ稼ぎ」に出た。当時の「夜鷹」は1回30文(1500円)前後で、それよりは高かった。微禄の御家人も同じで、つゆ稼ぎに出た。彼女達は「ジゴク」(地女の極上)と呼ばれた。※フリーセックスの時代だな。
・幕末の江戸は売春の大市場だった。ペリーの随行員は「江戸には娼婦が10万人いる。そのため女性の半分は性病で、子供の1/4は生まれた時に罹っている」と報告している。英公使館員も「遊女の1/3は期限前に病死する。都市の男性の1/3が性病に罹っている」と報告している。しかし英国も同様だった。
○江戸のビックリDNA鑑定法
・江戸の男女比は3対1だった。そのため結婚するのは難しかった。米・味噌は掛け売りしないため、近所で借りた。しかし借りを返せないので、「カカアを貸せ」となった。女性は共有物だった。子供が生まれ、父親の判定が必要になるが、「胞衣に父親の家紋が現れる」として判定された。しかし複数の家紋が現れるので、見覚えのある男が協力して養育した。
○男は浮世絵好きだった
・江戸の男女比は3対1だったが、幕末には同率になる。「女日照り」のため遊郭が繁盛したが、その金がない男のために「浮世絵」が生まれた。浮世絵は江戸絵とも呼ばれ、遊郭/芝居などの享楽の世界を描いている。これは菱川師宣(1661~94年)が春画を描いたのが始まりとされる。彼には『見返り美人図』の名画がある。これはポルノグラフィーである。勤番侍も江戸土産として買って帰った。
・女性の着物は様々なエロチシズムを表現した(※詳細省略)。武市半兵平太には女性の着物を着る趣味があった。最下級の御家人の家にも衣紋掛けがあり、そこに掛けてある女性の着物は、なまめかしインテリアだった(※今であれば、女性の下着が干してある感じかな)。幕末になると春画/春本が溢れた。※外国人の報告が幾つか紹介されているが省略。
○江戸の町は不倫三昧
・江戸の性感覚は今日と異なる。男にとって妻は子孫を残す相手で、遊女が恋愛相手だった。吉原の太夫だと、初回は盃を交わすだけで30両余り、2回目は少し近寄って盃を交わし30両余り、3回目で床に入って30両余り、合計で約100両(2千万円)を払った。
・吉原は恋愛情緒や性の遊びをする場所で、それは家庭ではできなかった。しかし江戸後期になると、家庭にも性の遊びが持ち込まれるようになる。これに対抗するため、吉原は値段を下げ、太夫を廃し花魁に変えたりした。※吉原放火事件とかあったな。
・狂歌・随筆を残した太田南畝は花魁を落籍し、妻妾同居していた。しかし女性が一方的に忍従していた訳ではない。物見遊山/信心/芝居を口実に、陰間(男娼)茶屋に通ったりした。今の不倫は、江戸時代は不倫にならなかった。※大和の「雑魚寝」の風習を紹介しているが省略。
○江戸語
・江戸の言葉には、今と発音・意味が異なるものがある。※十手/髪結床/真っすぐ/雪/接吻/ふんばり/山水/小便/ヒラメ/栗より美味い13里/味噌な/ワケあり/松の葉/ちょっくら/つぼい/鮨な人/このタコ/夜鷹/越前/船饅頭/須利を紹介しているが省略。
○古着が当たり前
・江戸時代は一般的に古着を着た。江戸初期、滅ぼされた小田原北条氏の富沢陣内が大泥棒となった。彼は捕まるが、盗人が盗んだ着物を市場に流通させる条件で、家康に許される。そして彼は古着の流通に励む。古着の仕入れ先は寺である。寺は亡くなった人の衣装を古着屋に売った。赤穂47士が切腹した後、遺族が高輪泉岳寺に武具の返還を求めたが、全て売り払われていた。
第2章 リアルな江戸の生活
○武家と町人は接触できない
・江戸城の「天下普請」は慶長11年(1606年)に始まり、家光の寛永14年(1637年)に終わる。幕府は治安維持のため、町に「町年寄」を置いた(※農村の村役人と同様かな)。これを奈良屋/樽屋/喜多村家が世襲する。奈良屋の本姓は小笠原で、家康の「伊賀越え」の功労者だ。これにより近江商人/伊勢商人が江戸に店を構えた。※樽屋/喜多村家の由来も説明しているが省略。
・町年寄の仕事は忙しい。政令の伝達、町奉行所からの調査依頼、土地の地割(?)、地代・運上金の徴収・上納、名主の任免(※町に名主?)、水道の維持、職人・商人の統制などを行った。
○正式な町人は僅か
・町年寄は正月三日に登城し、将軍に謁見した。よって御目見以下の御家人や外様大名より地位は高い。町年寄の下に「町名主」がいた。日本橋大伝馬町の町名主・馬込勘解由の娘が、ウイリアム・アダムス(三浦按針)に嫁いでいる。町名主の役料は212両で4千万円を超え、大旗本並みである。一方板倉六本木辺りの町名主・与右衛門は、役料3両2分(70万円)だった(※これでは生活できないのでは)。
・町名主は264人いて、草創名主/古町名主/平名主/門前名主に分けられた。彼らは問題を解決する権限「手限」を持ち、証文「沽券」への奥書、街触(法令)の伝達、訴訟の付き添いなどを行った。町名主は町内に屋敷を持つか(家持)、町外に居住した(地主)。彼らが「正式な町人」で、幕府への奉公(国役)/人足役(公役)を分担した。また町の運営費(町入用費)を負担した。※それ以外は正式な町人でない!
○大家は役所と交番を兼ねる
・貸家・裏店に住む商人・職人は「正式な町人」ではない。町屋敷の売買が活発になり、地主・家持の下に土地を管理する「差配人」(家守、大家、家主)が置かれるようになる。この「大家さん」が地代・店賃を徴収した。また番屋に詰め、欠落人の探索、盗人の届け、捨て子の養育、倒者の処理、義絶・勘当の証明などの警察業務を行った。※服装などの記述があるが省略。
・大家は江戸に2万人余りいた。欠員が出ると、株を買って大家になった。規模によるが20~200両(400~4000万円)だった。大家は地主から給金を受け取り、引っ越しの礼金や糞尿の代金が収入で、2年目から利益が出た。
※地主/大家の仕組みは知らなかった。豪商・商人などの店舗も地主/大家から借りていたのかな。
○派遣社員
・江戸時代にも派遣社員がいた。その派遣会社が「人宿」である。武家の台所は厳しく、リストラしたため、派遣社員が必要になった(※武家の家に、農民・職人・商人が入って問題ないのかな)。江戸に親戚・知人がない者は、人宿が身元保証人になった。奉公先が決まるまで、人宿に保証料を払った。宝永7年(1710年)人宿が約390あり、幕府はこれを13組に分けた。
・人宿が斡旋する奉公には、期限が3ヵ月の「一季居」と1年の「年季」があった。一季居の代表格が「信濃者」「越後者」で、集団でやって来た。奉公の稼ぎは月5万円程度だった。嘉永4年(1851年)人宿は408に増え、奉公人は3.5万人余りになっている。
○大名行列にも日雇い
・日雇いを派遣する「日傭座」もあった。大名・旗本は格式に定められた中間・人足が必要だった。有名なのが新門辰五郎で、得意屋敷が数十軒あり、子分が数百人いた。彼の娘は慶喜の側室になっている。
・日雇いの中間・人足を希望する者も「人宿」の札を買った。この札は5代将軍綱吉の頃は月22文(1100円)だったが、8代将軍吉宗の頃に30文(1500円)、その後48文(2400円)と高騰している。(※殿様の登城について詳しく解説しているが省略)。天保年間、普代大名の行列80人の内、25人が日雇いだった。大老井伊直弼が襲撃された時、乗り物を放り出して逃げたのは、日雇いだからだろう。
○バカ息子は跡取りになれない
・年季を終えると「一人前」になり、同業から認知され、「おひろめ」を行う(※年季は1年なので、契約継続かな)。途中で辞めると、食い扶持/衣料代などを弁償する(年季崩れ)。商家の場合、丁稚・手代・番頭と進み、一人前になる。飛び抜けて優秀だと、商家の婿になる。三井/高島屋/住友などは優秀な婿によって存続された。これらの老舗は、家訓・遺訓を大切にした。
・バカ旦那が出現すると、座敷牢に入れたり、勘当した(※武家も同じかな)。これはその商家を守るだけでなく、連帯責任なので株仲間に塁を及ぼさないためだった(※連帯責任の内容説明が欲しい)。三井の大坂別家を調べると、相続51件の内、39件が養子だった。
○老舗は女系相続
・これは江戸でも徹底していた。日本橋馬喰町の紙問屋には「男子は別家または養子に出し、男子相続は禁止する。相続は養子に限定する」の遺訓があった。神田/日本橋/京橋の老舗40店を調べると、全て婿養子だった。※娘が生まれないと困るな。
・商家では丁稚・手代・番頭と昇進した。筆頭番頭は暖簾分けし、別家を興した。相続する婿養子は親族・別家だけでなく、株仲間の認知も必要だった。この伝統は昭和初期まで残り、金融機関は「当主が息子なら融資しない」が普通だった(※三菱は親族が相続しているが)。現代の「後継者は息子」は愚行なのかもしれない。婿選びは慎重で、母親が婿候補を床で試したり、初夜に「介添人」を入れた。明治になると男尊女卑が徹底され、商家も男子相続になる。
・女系相続でも商家の存続は厳しかった。貞享元年(1684年)~明治5年(1872年)を調べると、100年以上存続した商家は17軒(1%)しかなかった。半数が他人に金銭譲渡している。
○商人の「もののふの矜持」
・大商人には武士だった者が多い。そのため教養・矜持を持ち、地元への寄付を惜しまなかった。伊勢松阪の豪商・竹川家は、地元で蔵書を「射和文庫」として開放した。竹川家は浅井家の家臣だった(※話が江戸から全国に広がった)。日本地図を作った伊能忠敬や、関東の大河を改修した田中丘隅も帰農者である。
・武州播羅郡の市右衛門は、利根川の治水に50両を寄付し、また木橋を石橋に架け替え、天明の浅間山噴火や飢饉で援助している。彼は忍城主・成田氏の家臣だった。彼は「家産の1/3を公益に供すべし」と遺言している。
○江戸の経営指南業
・江戸時代にも経営コンサルタントがいた。松波勘十郎は備後三次の浅野家に招かれる。彼は紙/鉄を藩の専売にし、負債を完済した。一時は京都に事務所を構え、諸家の財政改革を指導した。その後水戸藩に招かれ、江戸へ通じる水路に着工するが、これに失敗し獄死する。※戦国・江戸初期は盛衰が激しいので、藩士の出入りが多そう。しかしこの話は1700年頃の話だ。
・この工事は、その後田沼意次なども失敗している。水戸藩は貧窮しており、家臣は蒲焼の串作りに精を出した。幕末には藩が三つ巴になり、血を血で洗う争いになる。※尊王攘夷は水戸藩が一番進んでいたが、内部分裂により指導的立場に立てなかった。一方薩摩/長州は藩が統制され、指導的立場に立てた。
○売上アップの秘策はバイリンガル
・藩主が参勤交代で上京するので、商人も江戸に店を出した。江戸で繁盛する条件はバイリンガルである。関東は「~べい」の「べーべー語」である。常陸・下総は「だっぺい」、陸奥は「だっちゃ」、駿河は「だら」、三河は「けろ」、尾張は「みゃー」、近江・大坂・京都は「ニャケた言葉」を使った(※狭い日本でも様々だな。何か詳しく知りたくなった)。これらが混然一体になったのが江戸弁である。
・天和3年(1683年)関東の武家が京都を訪れた際の会話を残している(※引用されているが省略)。武家は豊臣時代は上方語を使っていた。江戸時代になると公家の「おじゃる」を真似て、「ござる」を使うようになる。その後漢文調に変わる。公用文は和製漢文の「御家流」で、「ござ候」となった。
・商家はこの両方の言葉をマスターする必要があった。(※武家の儒者と魚屋の会話があるが省略)。江戸では、江戸弁と武家との会話ができなければ儲けられない。
○野菜と糞尿のリサイクル
・葛飾郡葛西は江戸城の汲み取りの権利を持っていた。正式には葛西権四郎で、鎌倉時代からの名門で、家康の江戸入国で帰農した。毎日、和田倉門「辰口」まで船でやってきて、ゴミ芥を積んで帰った。大奥の長局の下肥の汲み取りの権利も持った。これは高く売れたかもしれないが、化粧により鉛・水銀で汚染されていただろう。葛西は城外の汲み取りも行った。朝領内の野菜を積んで青果市場に運び、帰りに肥を積んで帰った。
・江戸後期になると、「肥会所」が生まれた。肥には特上「きんばん」、上等「辻肥」、中等「町肥」、下等「たれこみ」「お屋敷」のランクがあった(※詳細省略)。「きんばん」は1樽25文(1250円)した。「町肥」は長屋100軒で8両(160万円)で、大家の収入になった(※これは年かな)。
・当然、練馬/川崎などからも汲み取りに来た。赤穂浪士の大石内蔵助は討ち入り前、川崎の平間村の名主の家に寄っている。同家は吉良家の下掃除で出入りしていた。今の目白通りは「清戸道」と呼ばれ、江戸と武州多摩郡清戸(清瀬市)を結んでいた。これも下肥道だった。※五街道が出てこないのは、肥取りの通行が禁止されていたのかな。
・神田和泉町に100軒の店子を抱え、寺子屋の師匠も兼ねる「竜水」なる者がいた。彼は葛西の者が汲み取りに来ても、8両の代金を受け取らなかった。逆に滝沢馬琴も大家だったが、彼は息子の嫁に「下掃除代」を交渉させている。
第3章 ブラックな江戸ルール
○江戸の華が多い真相
・江戸では大工が高収入で、人気が高かった。日当は1.7万円前後だった。年収500万円以上になるが、衣食住などで利益は1両(20万円)程度にしかならない。日本橋/京橋だと間口1間/奥行20間で1千両(2億円)で、大店の商人しか住めない。この落差のためか、江戸は定期的に火事になった(※大工の仕事を作るため?)。越後屋は開業から195年で12回焼けている。平均すると16年に1回である。そのため長屋は3年で元が取れる「安普請」で建てた。
・火事になると経済は活気付いた。大工の年収は倍(52両、1040万円)に上がった。そのため不景気になると火事が起きた。南町奉行の大岡忠相は、鳶に48組の「町火消」を組織させたが、彼らは不景気になると放火し、本職の普請作業を増やした。※驚愕。
・幕府の法令集『御触書集成』を研究した鈴木理生は、「公儀が町奉行に火事を起こさせ、町火消が火事を制御した」としている。実際、江戸城明け渡しの会談で勝海舟が「48人の火付け役がいるから、江戸を火の海にできる」と啖呵を切っている。明暦3年(1657年)「明暦の大火」では10万人以上が亡くなり、大名屋敷160棟が焼けたが、火元の寺は処罰を受けていない。また町火消の人足は「臥煙」と呼ばれ、蛇蝎のごとく嫌われた。
○「生類憐みの令」は悪法?
・綱吉の出した「生類憐みの令」(※以下この法令)は悪法とされる。これは天和2年(1682年)「犬の虐殺者を死刑」/貞享2年(1685年)「馬の愛護令」などの総称である。これらに先行して出されたのが「捨て馬禁止令」だった。旗本は騎馬で出陣するため、馬を飼う必要があったが、財力がなくなり、馬を捨てるようになった。
・犬を飼うのは猟犬が目的だった。元禄8年(1695年)加賀前田家の上中下屋敷で飼われている犬は241匹だった。犬は放し飼いで、野犬化もした(※野犬による被害が幾つか記されているが省略)。綱吉は犬小屋「お囲い」を作り、4万匹の犬を収容した。これは全てメスである。この法令は飼育者の責任を問う法律だったのだ。※犬公害の排除が目的か。
○「生類憐みの令」の人生観
・一連の法令は人間も対象にしており、「捨て子・捨て病人の禁止」「道中保護令」などがある。これは江戸初期の「命をなんとも思わない風潮」を止めたのだ。寛文12年(1672年)尾張藩で9歳の少年が11歳の少年を斬り、自身は自害している。また14歳の少年同士が、絶命するまで斬り合った記録もある。元禄4年(1691年)花嫁が隣家の前で下馬させられたとして、婿の家がその家を襲撃し、複数人を斬殺している(※白無垢の話は省略)。この法令はこの様な風潮を変えようとしたのだ。
・この法令は幕府領が対象で、処分されたのは69件しかない。内訳は、武士46件/町人15件/農民6件/寺2件である。綱吉は武断政治から文治政治に舵を切ったのだ。武士が刀を抜く事が少なくなり、仇討も奨励されなくなる。
・綱吉を名君にしたのは、家光の側室となった母・玉である。彼女は八百屋の娘で、家光の死後は桂昌院と号す。武士の横暴を知っており、綱吉に勉学に励むように仕向けた。綱吉は儒学に精通し、家臣に講義するまでになる。彼女は荻生徂徠の講義を聞き、漢字も学んでいる。※これは知らなかった説だ。
○老中は座布団に座れない
・映画・テレビでは武家が座布団や脇息を使っているが、これは検証が必要である。小笠原流/伊勢流などの礼法は、座布団に触れていない。これは座布団は正式な物でなく、使っていたのは将軍・御三家位である。一方、縛りのない町人は使っていた。
○葵の家紋
・葵の家紋は知られている。しかし将軍家と御三家でも微妙に異なっている(※違いが詳しく解説されているが省略)。徳川家の家紋は、正式には「三葉左葵巴」である。吉宗の時代に厳格になり、紋服の使用は妻子までしか認められなかった。※明治19年(1885年)慶喜の弟と名乗った詐欺事件を解説しているが省略。
○御紋の威力 ※面白い話だが、大幅に省略。
・13代将軍家定は病弱だった。彼が「鶴御成」に出掛け、途中で気分が悪くなり、上州屋に駆け込み、医者の手当てを受ける。主人は頭を上げられず、欠けた湯呑茶碗を差し出すだけだった。翌日、町年寄から呼び出され、提灯「御成先御用」と銭5貫文(25万円)を賜る。店に帰ると、、皆が集まるので、披露宴を開き、赤字になった。提灯も店の隅に放っておいた。
・慶応元年(1865年)上州屋近くで火事が起きる。町役人が飛んで来て、「提灯を出せ」と言うので、店に掲げた。すると町奉行・駿河守/与力/火消が大挙して集まり、火の粉を払った。お陰で上州屋だけが焼失を免れた。将軍は代わっていたが、披露宴を開いた事で、皆が周知していたのだ。
○斬捨御免は命と引き換え
・武士には「斬捨御免」(無礼打)が認められていた。武士が面目を潰されれば、抜刀し面目を施さなければいけない。享保12年(1727年)幕臣の松崎十右衛門/浦野藤右衛門と町人の与兵衛が喧嘩になる。松崎が与兵衛を斬り、路上に倒れた。彼らは仕留める事もなく、報告もしなかった。これを咎められ、松崎は召放、浦野は改易となる。与兵衛にお咎めはなかった。これとは反対に名古屋城下で武士と町人が喧嘩になり、武士が斬り殺される。これも武士の面目が立たないとなり、町人にお咎めはなかった。
・岡山城下で藩士・浜田七左衛門と新妻が帰宅している途中、酔った藩士の南部彦兵衛に絡まれる。浜田は怒り、南部を斬り殺す。浜田は町奉行に報告するが、「同僚を殺したのは大罪である」と裁定され、自身で切腹する。
・江戸後期になると遊郭では「二本差しは野暮」と言われた。そのため武士は刀を脇差まがいにし、髷を町人風にした。武士は尊敬されていたが、庶民は武士に対し物怖じしなかった。※「武士は食わねど高楊枝」とかあるけど、武士は魅力ある階層ではなくなったかな。なので幕府は自壊したのか。
○斬捨御免は金で解決できた
・大名行列を横切ると斬捨御免だった。文久2年(1862年)これが「生麦事件」になる。英国の貿易商人リチャードソンら4人が島津久光の行列に出会い、彼は斬り殺される(※詳細省略)。外国人でも、この評価はマチマチだった。
・江戸では大名が頻繁に往来した。10歳の娘が行列を横切った。後日娘の家に侍がきたが10両(200万円)を払い、引き取ってもらった。
○斬捨御免で復讐されたバカ殿 ※この話も面白い。
・11代将軍家斉の25男は明石藩松平家(※以下当家)の養子になり、殿様になった。参勤交代中の中山道で3歳の幼児が行列を横切った。家臣が幼児を取り押さえ、本陣に拘束した。宿役人/僧侶/神主などが赦免を請うが、幼児を斬り捨てる。
・これに怒ったのが、当地が領地の尾張徳川家である。当家に使者を出し、「当家の領土の通行御無用」と宣告する。これにより当家は東海道/中山道の通行ができなくなり、参勤交代ができなくなる。既に父家斉は亡くなっていた。そのため当家は農民の服装をし、手拭いを被り、刀は革袋で隠し、中山道をコソコソ通行した。
・また幼児を殺された親の恨みは消えなかった。弘化元年(1844年)当家が参勤交代で中山道を通行中、猟師の銃弾が殿様を打ち抜く。これは映画『十三人の刺客』になっている。
○日本刀の切れ味
・映画『十三人の刺客』のクライマックスはチャンバラである。ところで日本刀の切れ味はどうだったのか。元治元年(1864年)「鎌倉英人殺害事件」が起きている。馬に乗った英陸軍の2人を、武士が「袈裟懸け」にした。1人はその場で亡くなった。1人を住宅に引き入れ、薬を飲まそうとすると絶命した。頸動脈を斬られていたため、動かした事で出血性ショックで亡くなったのだ。※詳しく説明しているが省略。
・刃を交わすと日本刀は曲がり、刃はこぼれ、斬れなくなる。4~5人斬ると、打撲傷を与えるだけになる。※心は柔らかく、外側は硬いので、曲がり難いと聞いた事があるが。
○女性の敵討はなかった
・時代劇に姉弟が「敵討」する場面がある(※詳細省略)。一応殺人事件なので町奉行が乗り出す。姉弟と助太刀の関係も詮索される。助太刀が縁者でないと江戸追放になる。まず女性による敵討は皆無だった。
・寛永18年(1641年)「大炊殿橋前の敵討」が起きる。この事件は越前敦賀の家臣・多賀孫兵衛が、箕浦与四郎/内藤八右衛門に騙し討ちされた事に始まる。多賀の次弟・孫左衛門(13歳)と三弟・忠太(11歳)が、敵討のため脱藩する。
・21年後箕浦は亡くなるが、内藤は豊前中津の小笠原家に召し抱えられていた。多賀兄弟の話は有名になり、内藤の動静を兄弟に伝える者もいた。多賀兄弟と助太刀2人が内藤を待ち伏せし、激戦になるが本懐を遂げる。兄弟は町奉行に連行されるが、兄・孫左衛門は怪我が重く亡くなる。助太刀2人との縁が問われるが、1人は亡き孫兵衛の甥であり、1人は孫兵衛に世話になった者で許される。
・敵討は慣習で、法度はなかった(※細かいルールは聞いた事はあるが)。家康は「父兄の敵を討っても、誉にならない」と遺訓している。この遺訓は偽書とされるが、旗本・御家人の敵討の例はほとんどない。
○敵討は命懸けで面倒
・敵討の手続きは煩雑である。①藩に届け出て、免状を得る。②藩は幕府3奉行に届け出て、江戸町奉行所は「敵討帳」に記載し、その写しを当人が所持する。③敵を発見したら、その土地を支配する役所に届け出る。即座に実行した場合は、結果も届け出る。④役所は敵を捕縛し、江戸町奉行所に伺いを立てる。敵討実行が発せられると、役所は敵討の場所を設定する。※④は知らなかった。
・平山鏗二郎『敵討』によると、江戸前半(150年間)に51件、後半に53件の敵討があった。武士によるものは前半42件(82%)、後半24件(45%)と減り、庶民によるものが増えた。これは敵討の待遇が悪くなったからだ。江戸初期は当座金を賜ったり、帰参が許された。しかし元禄頃になると、これらがなくなり、親族による支援しか得られなくなる。また敵に会うまでに数年掛かり、53年掛った例もある。安政4年(1857年)仙台で越後新発田の藩士が敵討で本懐を遂げた。事件から41年後で、藩士は59歳になっており、敵は70歳を超えていたと思われる。
○無作法だった時代劇の切腹シーン
・仇敵を屠る究極の方法があった。相手を名指しして切腹すると、相手も腹を切らないといけないのだ(指腹)(※知らなかった)。時代劇の切腹シーンでは腰に三方をあてる。しかしこれは不作法である。※切腹の作法について詳しく説明されているが省略。
○世間を渡るのに学問は不要
・江戸後期の伴蒿蹊『近世畸人伝』に富豪の話が載っている。彼は儒学に長じ、隠居後はそれを実践し、徳を施した。彼が亡くなると、多くの者が弔問に訪れた。そこで老婆が「学問をなさっても善い人だった。学問をなさらなければ、どれほど善い人だったか」と言っている。
・江戸初期は、学問は善人になる妨げと考えられていた。中江藤樹『翁問答』(1649年)には「学問は坊主・出家のする事で、武士のする事ではないと思われている。しかし学問は心を清め、行いを善くし、身を修める道具である」と記している(※大幅に省略)。武士・商人・職人・農民に学問は愛されたが、傍から見ると道楽だった。
○学問で生活を断たれた侍
・三河田原藩の蘭学者・渡辺崋山は、生活の足しに画術を学び、学問好きは洋学に及んだ。彼は武蔵の田舎で書画会が開かれると聞いて、それを訪ねた。それはかなり山奥で、家屋は傾き、障子はボロボロだった。しかし人は集まり、書画は飛ぶように売れた。※飛ぶように売れるなら、山村に籠らなくてもと思うが。
・彼は蘭学が高じ、幕政を批判し、国元蟄居になる。生活の道を断たれ、49歳で自刃している。これらの道楽者達が、日本の近代化を準備した。時代が下がると、学問は道楽から、出世が目的になる。※明治の事かな?
○受験ノイローゼは江戸時代にも
・出世したいなら幕臣が有利だが、その学力はどうだったのか(※幕藩体制で藩と幕府は別組織と思うが)。幕府の学問所「昌平黌」(聖堂)は、林家の塾が起源である。貞享元年(1684年)から享保17年(1732年)に500人が入門しているが、幕臣は14人しかいない(※3%か。知らなかった)。幕臣は「勉学せずとも」と慢心していたのだ。※幕臣は藩士より裕福だったのかな。
・天明年間(1781~89年)ある小普請組(非役で仕事がない)の話がある。その組の旗本が役に就くため組頭に願書を届け出ているが、ミスが多かった。普通は組頭が突き返すが、彼は自身で修正していた。そのため他の組からも願書が来るようになった。旗本のリテラシーは低かった。※どの程度の間違いなのか、他の組からの願書を受けられるのかなど、疑問がある。
・日本はリテラシーが高かったとされるが、それは平仮名で考えているからだ。幕府の公用語である御家流の漢字で考えれば、幕臣でもリテラシーは下がる。※御家流がどんなものか説明がない。
・江戸時代は漢字を駆使できなければ、文盲とされた。西欧はラテン語/仏語が公用語だったが、市民に必要なかった。※日本は識字率が高かったとされるが、西洋もロマンス語を含めれば日本と同じ位高くなるのかな。
・それでも商人などに道楽で学問する者がいた。尊王攘夷の「天狗党」の頭首になる武田耕雲斎は、ある商人を弘道館に誘うが、「立派な商人になるためで、侍になるためではない」と断られている。
・やがて各藩が藩校を開設するようになる。その教授には昌平黌出身者が就いた。岡山池田家のある藩士はノイローゼになり、座敷牢に閉じ込められる。彼は座敷牢を抜け出し、城下を素っ裸で走り回る。別の藩士が「若者に学問ばかりさせるので、色欲が鬱積し、爆発するのだ」と記している。
・学問は発明・発見を生み、新分野を開拓する。それは学問を道楽にした者による。江戸時代の多くの随筆も道楽による。※人間は余剰・余裕により、社会を発展させた。
○数字は武士より庶民が優秀
・寺子屋は江戸中期に盛んになり、幕末にさらに盛んになる。7~13歳の子供が手習い・読書を学んだが、「計数」を教える寺子屋もあった(※読み・書き・ソロバンだな)。武士は計数を軽んじていたので、幕府勘定方の書類には計算間違いが多い。
・駿河田中藩は大井川の洪水に悩まされ、算術に優れた農民を教授にしている。また加賀藩の飯山家は、算術により下級武士から150石取りに出世している。幕末は算術に明るいものが出世している。
・寺子屋の授業は、午前7時頃から午後3時頃までだった。授業料はなく、教える者はボランティアだった。座席は今の様に対面ではなく、師匠を中心にコの字に囲った。
・「女子は文盲に限る」と云われたが、平仮名は女性の文字で、当時の草紙は平仮名で書かれている。しかし公用語は後家流だった。※後家流についても知りたいな。
・寺子屋では「四書五経」を教えた。儒学は「全員が聖人になれば、世は治まる」との思想である。幕府の官学は朱子学だが、その『大学章句』には「小学では掃除(さい掃)・応対・進退の節、礼・学・射・御・書・数を文章で教える」とある。そのため今でも教室の掃除をする。※御って何だ。
第4章 金さん・黄門様の正体
○武家地が町人地になる
・江戸の町は、武家地と町人地で呼び名が異なる。武家地は「麹町」「御徒町」など「まち」と読み、町人地は「馬喰町」「大伝馬町」「小田原町」など「ちょう」と読む(※知らなかった)。享保年間(1716~36年)に人口は100万人を超え、町人が半分なのに、面積は武家地60%/町人地20%/寺社20%だった。武家地は基本は将軍から、大名・旗本・御家人が拝領しているが、その半分が又貸しされていた。
・一般的な御家人は75俵5人扶持で年収400万円位である。同心は50俵2人扶持で年収260万円位で、これで家族・中間・小者などを養うのは無理である。拝領屋敷は130~300坪あるが、家族が住むには100坪で十分である。そのため街路に面した土地を町人に貸し、生活の足しにした。※これにも大家は関係するのかな。
・これは違法だが幕府は黙認した(※社会はヤミ経済で成り立っているかな)。同心は組毎に屋敷地を与えられた。麻布御箪笥町は鉄砲組同心に与えられたが、いつしか町人地扱いに変わった。
○不正役人は即刻処分された
・旗本・井上左太夫は御持筒組組頭だった。今で云えば砲兵隊長で、定期的に鎌倉で射撃演習していた。鎌倉との往復には公用手形が出ており、人足120人/馬38頭を使用できた。文政9年(1826年)彼は大筒1台を減らし、その人足6人分(40万円)を各宿場役人(川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、原宿、藤沢)から受け取った。しかしこれが道中奉行の耳に入り、彼は返金するが組頭を罷免される。
○鬼平は借金まみれ
・旗本の200石以下は生活が苦しい。そのため旗本は猟官運動が仕事だった。老中の屋敷を訪問し、知人を訪ねる。午後2時には下城するので、午後も訪問した。そのため老中の屋敷前は混雑した。
・森山孝盛は小普請組組頭になるのに毎年20両(40万円)を贈答した。これは収入の1割分である。さらに組頭になると、世話になった者に250両(5千万円)を払っている(※驚愕)。彼は伊勢屋に180両の借金していたが、新たな借入を断られる。しかし和泉屋が訪ねてきたので250両を借金し、伊勢屋の180両を返済した。さらに「おひろめ」で45両を散在したので、25両しか残らなかった。
・池波正太郎『鬼平犯科帳』に火付盗賊改・長谷川平蔵が登場する。彼は授産施設「石川島人足寄場」を実現するが、2年で退役している。これは金に苦しんだからである。人足寄場に様々な職人を招いているが、これは自前でやっている。火付盗賊改の役高は1500石(3億円)だが、これも目明しを雇うのに消えている。彼は費用を補うため米相場・銭相場に手を出した。これが老中・松平定信の耳に入り、悪人の記録である『よしの冊子』に記される。彼はお役御免となり、間もなく51歳で亡くなる。
○旗本は借金で身分を捨てる
・大旗本は広い屋敷を持つ。町人はその屋敷を高い家賃を払って借りた。それは博打場として利用するためで、町奉行の与力・同心が踏み込めないからだ。旗本は生活が贅沢で、それでも領地の村から借金をした(※農民から!)。情けないのは、中間のサンピン(3両1人扶持)からも借金し、それを踏み倒した。中間も家臣なので、「返せ」と強く言えなかった(※ブラック企業だな)。そのため旗本屋敷で切腹した中間がいる。その女房が亡骸を引き取らなかったので問題になり、旗本は町奉行の取り調べを受ける。結局、借金16両と慰謝料を払っている。
・この様な状況なので、旗本の株を売り、市井の人になる者もいた。元尾張藩の同心が同藩を研究し、「高い禄高の者が足軽になったり、庶民になったりしている。一方で足軽が給人(領地を持つ武士)になった者もいる」と記している。大名・旗本の系譜集『寛政重修諸家譜』には6354家の旗本が記載されているが、寛政10年(1798年)までに御家人から旗本に家格を上げた家が1457家ある。
・御家人株が売買されるようになり、農民・町人が侍になれる時代になる。4千石の旗本の場合、「5公5民」で2千両(4億円)、与力は80石だが1千両(2億円)、同心は30俵2人扶持で200両(4千万円)、御徒衆は70俵5人扶持で500両(1億円)が相場となった。幕末維新で活躍した勝海舟/榎本武揚/川路聖謨は、いずれも先祖が御家人の株を買っている。徳川幕府は常に人材が入れ替わっていた。
○大岡越前のブラック残業
・江戸町奉行(※以下町奉行)は激務だった。早朝に登城し、夜に奉行所で山積する公事訴訟を処理する。歴代の町奉行90数人中、16人が在職中に亡くなっている。
・大岡越前守忠相は41歳で南町奉行に就いている。これは異例の出世である。彼は関東の農政を管理する「関東地方御用掛」にも就いている。これは勘定奉行の職務である。これにより武蔵野新田開発や小金川・酒匂川の治水などを指揮している。彼はエリートで関東で名が知れたので、物語『大岡政談』が作られたのだろう。
・彼が町奉行に就いた翌年(享保3年、1718年)、訴訟(刑事訴訟)が約4.8万件、公事(民事訴訟)が3.6万件あり、1日200件以上になる。下調べ・処分は「内与力」が行うが、彼は人材不足に悩んだ。そのため前任者に、目安方・小林勘蔵の譲り受けを懇請している。当時は「吟味方与力」の制度がなく、内与力が訴訟を処理していた。
・さらに火事に出馬する必要があった。また吉宗が医療施設「小石川養生所」を設立したが、その管轄も町奉行だった。さらに地方巧者(農政役人)が治水・新田開発の報告・相談に訪れた。
○リアルの遠山の金さん
・大岡越前守の奮闘などで、江戸町奉行は花形の役職になる。天保年間(1830~44年)、遠山金四郎景元(遠山の金さん)が町奉行に就く。町奉行の仕事は与力に任せたが、さらに同心/手先(岡っ引)に丸投げされた。手先は400人で、手先の子分「下っ引」を加えると1500人いた。
・水野忠邦が「天保の改革」で芝居小屋を閉鎖しようとしたが、これに反対したのが北町奉行の彼だった。そのため歌舞伎界が彼をヒーローにした。歌舞伎では二枚目役者が彼を演じるが、実際は毛太く、丸顔で、声高く、刺青をしていた。※詳しく紹介しているが省略。刺青は犯罪者が入れるのでは。
・江戸の噂を記した『藤岡屋日記』は、彼を狸と評している。彼は人情を知り尽くした南町奉行・矢部定謙の罷免に加担している。矢部は老中・松平定信から罷免・投獄され、絶食し餓死している。遠山金四郎は北町奉行を3年務め、大目付に転じる。その後南町奉行を7年務めるが、分家が事件を起こし、56歳で引退する。
○捕物帳の現実
・江戸町奉行は南町と北町が月交代で門を開き、訴訟を受けた。時代劇で、御用提灯/六尺棒を持った捕り方が登場するが、そんな人はいない。与力50人/同心240人/中間290人いたが、彼らは青い絣/股引を着てはいない。捕り方に動員されるのは、無宿・浮浪者を預かっている頭の配下の者だ。犯罪の捜査をするのは、手先とその子分だった。
○与力・同心の秘密の懐事情
・与力・同心は武士でも町人でもなく、町奉行に雇われた役人です(※そんな階層があった?)。与力の俸禄は200石前後だが、同じ俸禄の旗本と比較しても、生活には余裕があった。理由の1つは、八丁堀の拝領屋敷を貸し、収入を得ていた。
・また与力・同心は大名屋敷/大店に出入りしていたが、与力には2千両(4億円)、同心には1千両(2億円)の付け届けがあった(※公的機関なのに、みかじめ料みたいだな)。また各大名家から家紋入りの羽織を賜り、それで大名屋敷に自由に出入りできた。同じように職人・商人からは屋号入りの法被を授けられ、店に自由に出入りできた。
○同心が犯罪をでっち上げる
・与力・同心の手先(岡っ引)は400人おり、同心から年100万円の報酬を受けた。この報酬は幕府からではなく、吉原からの上納金「ちり紙代」から出ていた。この癒着は明治20年代まで続いており、警視庁の捜査費は密売春の罰金が充てられている。
・町奉行が情報を入手する公的ルートは「町年寄→名主→大家」だが、それ以外に株仲間/手先・下っ引(約千人)/紙屑拾いなど40万人が情報源となった。当時の町人の人口は50~60万人なので、警察国家だった。そのため与力・同心は仕事をしなかった。
・しかし与力・同心は年に1人の高台者(重罪人)を捕える必要があった。それは白銀3枚(15万円)が出るからだ。そのため手先は無実の田舎者などを捕まえ、拷問により自白させ高台者にした(※詳細省略)。※ブラック過ぎる。
○将軍の退屈な1日
・江戸城本丸は3.45万坪(東京ドーム25個分)あり、御殿は1.14万坪あった。御殿は、表(役所)/中奥(公邸)/大奥に分かれる。将軍は朝6時頃に起床し、1時間程で着替えなどをする。大奥の仏壇を礼拝し、中奥に戻り朝食を取り、その後居間に相当する「御座の間」に出る。宿直の御側衆が挨拶する(※礼法が記されているが省略)。10時なると太鼓が鳴り始め、老中が登城し、御用部屋で執務を始める。将軍は「御座の間」で、学問か武術を受ける。間もなく「御休息の間」で昼食を取る。
・その後「御座の間」に戻り、執務の時間になる。膨大な書類に目を通すが、大概は小姓に読ませる。熱心な将軍であれば老中に確認する。通常は午後2時に老中は下城する。
・大奥に泊まる場合、午後6時までに伝える。大奥に泊まるのは月の半分位である。泊まる場合、6時から大奥で御台所/上臈と食事する。小姓の手伝いで風呂に入り、10時には就寝する。
○大奥の年間維持費は600億円
・春日局など、「局」が付くが、これは部屋を持つ事を意味する。大奥は御殿の半分(6.3千坪)を占める。その最高位は「御年寄」(老女)で、御台所が皇室の出であれば、それに着いてきた娘が就く。老女は、御台所付き/大御所付き/世子付きと複数いて、御殿女中を率いた(※それぞれ本丸/西の丸/三の丸など御殿は別かな)。「江島生島事件」を起こした江島は33歳だった。※彼女は老女だったのか。
・老女と老中では、老女の方が上だった。しかし松平定信は、これに逆らった(※詳細省略)。そのため彼は大奥に嫌われ、「寛政の改革」の半ばで失脚する。大奥の年間経費は20万両(400億円)掛った。老中首座・水野忠邦は大奥に倹約令を発するが、老女から叱責される。彼の「天保の改革」(1841~43年)も、3年で終わる。
○大奥で見聞きした事は墓場まで
・大奥女中の俸給は最高位の「御年寄」(老女)で、切米50石・合力金50両・10人扶持・薪20束・炭15俵しかない。一方老中は役金1万両である。しかし200坪の拝領地からの収入8両や大名・商人からの付け届けで、生涯で7千両(14億円)程度の貯蓄ができた。春日局が15万両の運用を細川家に依頼した手紙が残っている。※基本大奥から出られないので、「幾らお金があっても」と思うが。
・「御中臈」の俸給は切米20石・合力金40両・4人扶持・薪10束・炭10俵で、1千両位は貯蓄できた。奥女中は御中臈から「たもん」まで、27階層に分かれた。13代将軍・家定には185人の奥女中がいた。他に御台所付き/隠居付きの奥女中が、将軍付きの半数程度いた。江島生島事件で連座した奥女中は1500人いた。※将軍付き奥女中が185人しかいないのに?
・「乳母」は誤解されている。これは最下層の「御乳」と呼ばれる女中で、臨時に雇われた。赤子を抱くのは「御守」と呼ばれる女中で、乳母は乳を与えるだけで、覆面までもした。当然春日局は「三代将軍の乳母」ではない。
・大奥で働いた者は、大奥の内情を口外できなかった。将軍が亡くなると、将軍付きの御殿女中は桜田屋敷に一周忌が終わるまで監禁された。その後将軍の寵愛を受けた御中臈以上は出家し、実家に戻れなかった。※余り楽しくない人生かな。
○黄門様は悪代官を成敗できない
・時代劇の敵役は「悪代官」である。悪代官が商人から賄賂を取るシーンは、大正時代の講談本『水戸黄門漫遊記』に始まる。水戸黄門(徳川光圀)は2代水戸藩主のため「江戸定府」で、諸国漫遊はできない。彼は綱吉の「生類憐みの令」を批判し、江戸で評価を得て、十返舎一九『東海道中膝栗毛』の講談になった。この講談は嘉永2年(1849年)作なので、尊王攘夷の水戸学が盛んな頃である。
・大正時代はラジオがなく、講談師が大勢の前で講談本を読んだ。悪代官を懲らしめる黄門様に、庶民は拍手喝采した。しかし江戸幕府260年を支えたのは紛れもなく代官である。先祖が旗本・御家人の人には会うが、代官と言う人に会う事は少ない。
○代官所はどこに
・時代劇で「天領」が使われるが、江戸時代にその言葉はなかった。これは幕府直轄領の事だが、幕府が倒れ、幕府直轄領が天皇の領地になったため、天領と呼ばれるようになった。江戸時代は「御料」(御料地)や「公料」(公儀料地)と呼ばれ、法令には「御料所」「代官所」と書かれている。
・従って時代劇の「代官所」の意味も違っている。時代劇で代官所は「代官の役所」を意味するが、当時は「直轄領そのもの」を意味した。「代官の役所」は「代官陣屋」「代官役所」(※以下陣屋)と呼ばれた。
・幕府領の農民に取って、代官は殿様である。そのため黄門様でも勝手に陣屋に踏み込めない。陣屋は威厳があり、参勤交代時、大名は陣屋に挨拶に寄った。もし黄門様が陣屋に踏み込めば、「桜田門外の変」に相当する大事件になる。
○代官に命を捧げる義理はない
・全国の代官の数は、40~50人だった(※そんなに少ないのか。旗本の多くが領地を持っていると思っていた)。その半数は、家族と共に陣屋に引っ越した。自宅は元締/手代などが住む役宅になった。
・代官の部下は、元締2人/手代・手付8人/書役2人/侍3人/勝手賄1人/足軽1人/中間1人である。赤穂浅野藩(5.3万石)の家中は300人で、中間を含めれば1千人を超える。一方代官は同規模の幕領を20人前後で支配した。元締は手代の中から選ばれ、手代は陣屋近傍の農家の次男や町人が抜擢された。※代官達とは別に村役人もいたかな。
・代官の役高は150~200俵(1280~1700万円)である(※殿様がこれでは。報酬は少ないのに、悪役にされるとは)。当然家来も低く、3両2分1人扶持(三ピン侍)しかない。『水戸黄門』で陣屋に乗り込む乱闘シーンがあるが、代官側で刀を持つのは3人だけで、しかも命を掛けて戦う者はいない。
○代官で財は成せない
・代官に拝命されると、旅費200両(4千万円)と自宅を改築するための建築費60両(1.2千万円)が支給されるが、これは年賦で返金する。他に「諸入用」550両(1.1億円)と70人扶持が支給される。しかし人件費で274両2分と70人扶持は消え、さらに派出費/巡回費/運送費/連絡費などで赤字になる。※詳細に説明しているが省略。
・非役の旗本・御家人が役に就くための賄賂の相場がある。御目付200両(4千万円)/御使番100両(2千万円)などだが、代官に相場はない。それは借金を抱えてしまうからだ。
○代官と豪商は悪のタッグ?
・幕府に願い出れば、開墾・灌漑の費用として1~3万両(20~60億円)を借りる事ができた。しかし代官はこれを商人に貸し付け、その利息で開墾・灌漑を行った。しかし資金運用が上手くゆく保証はなく、返済できないと処罰された。
・そのため代官と地元の豪商は昵懇になった。これが時代劇で「悪のタッグ」となった。彼らは真剣で、「お主も悪よのう」ではなく、「お主にも苦労を掛けるのう」だったのだ。返済不可能となれば罷免され、子々孫々まで返済を強制された。代官になって財を成した人物はいない。
・西沢淳男の研究によれば、悪代官とされて罷免された代官は12%いる。その中には災害時に貯蔵米を配った者や、税を肩代わりした者も含まれている。
○農民は虐げられていた?
・全国の農民が虐げられていた訳ではない。税金は年貢が基本なので、米以外の作物・商品で収入を増やそうとした。相州高座郡秦野は煙草作りが盛んだった。彼らはその生産を増やすため、煙草の葉を屋内で乾燥させた。そのため火事が増え、代官は煙草作りを禁止したが、彼らは止めなかった。
・この様に農民は年貢率が低い作物を作ったので、江戸後期には「二公八民」にまで下がったとされる。領主が農民に掛け合い、お金を工面できたのも理解できる。※商人だけでなく、農民からも借りていたのか。
・代官の手代が検見(年貢の調査)で村を訪れると、20~30両(400~600万円)の「袖の下」を渡すのが常識だった。ある代官はそれをさせないため、手代に5両(100万円)を出したが、それでも「袖の下」を受け取っていた。※時代劇での代官と農民の立場は、現実と大きく乖離しているな。まあ搾取側が嫌わられるのは必然かな。
第5章 江戸歳時記の虚実
○超不味い将軍の雑煮
・元日朝7時、将軍は大奥の「御座の間」に御台所と共に座り、「新年おめでとうござる。幾久しく」と挨拶する(※御座の間は、大奥/中奥の両方にある)。これを受けて御台所は「新年の御祝儀めでとう申し上げます。相変わりませず」と応じる。それから朝食になるが、大根だけの、味も付かず、餅も入っていない雑煮を「美味い、美味い」と食べる。※「大晦日は寝ない」はないみたいだな。
・朝食を終えると中奥で「直垂」に着替え、表の「白書院」に座す。そこで大名から「新年、おめでとうございます」の賀詞を受ける(※詳細省略)。一方大奥でも、御台所が1千人以上の奥女中から拝賀を受ける。
○大名のラッシュアワー
・江戸の正月は登城する大名の行列などでごった返す。その道筋は通行禁止になるため、町人は初詣どころでない。2日には御三家の嫡子/国持大名などが登城する。3日は無官の御三家嫡子/無官の大名/銀座役人(?)/町年寄などが登城する。正月3が日は大名行列が行き交い、その隙を武家が供を連れ、上役宅を年賀に訪れる。
・旗本で代官の日記に、「元日に登城前の老中7人に挨拶し、午後1時に帰宅すると、87人が来客していた」とある。2日は「32人に挨拶回りし、午後7時に帰宅すると、60人が来客していた」とある。この様な状況が6日間位続く。
・町人はその年の縁起の良い方向の寺に、大名行列を避け、お参りした(恵方参)。当時は神社に参拝しなかった。神社での初詣は、昭和に始まった。※そんなに最近か。日本が海外進出を始めてからだな。
○2日の夜は姫始め
・2日大奥では、御台所のお書き初め/お読み初め/お裁ち初めがあり、夜は「姫初め」がある。奥女中は、染め初め/掃き初めがある。御台所を姫は不自然なので、「秘め事初め」が転じたとされる(※その儀礼は省略)。
○将軍の凧揚げ
・正月の凧揚げは将軍家でも重要な行事で、3日将軍自らが大凧を揚げた。凧揚げは、天上と天下を繋げる意味があった。将軍の凧は縦8mもあった。天明4年(1784年)の凧揚げは強風に煽られ、家臣4人が巻き上げられ大怪我をする。その年に天明の大飢饉が起こる。
○初めての外出
・正月4日は「坊主の年賀日」と呼ばれ、僧侶が檀家を訪問する。将軍は特に行事はなく、浜御殿/葛西/小松川/亀有に出掛ける。道中は砂が撒かれる。江戸市中は乗馬禁止なのでポックリポックリと歩いた。※将軍は徒歩?駕籠?馬上?
○七草がゆ
・城内でも「七草の祝い」があった。大奥では壺に七草を盛り、御台所がそれを順次手に取り、自分の爪を露で濡らした。七草は「一陽来復」(後述)を願う行事で、正月の最後の行事だった。
・正月11日には「御具足開き」がある。黒書院に家康の「歯朶の御具足」と鏡餅を飾る。この具足は家康が長久手の合戦で勝利した時のものだ。将軍・家臣が平伏した後、鏡餅を割って、口にする。
○節分と桃の節句
・江戸城でも節分は重要な儀式だ。「年男」は老中が務めた。「年」は稲作の周期(※田植えとか稲刈り?)を意味し、石高制度の江戸幕府では重要だった。
・大奥では年老いた武士「御留守居」が年男を務めた。「鬼は外、福は内」の鬼は寒気を指す。寒気の象徴は牛で、その角から鬼に変わった。また「福は内」は「一陽来復」を意味し、春の到来を願っている(※豆まきの目的は、気候なんだ)。豆まきが終わると年男は胴上げされ、落とされた。※これは当初から?
・3月3日は「上巳の節句」で、大名が総登城し、表御殿で将軍に祝辞を述べる。万延元年(1860年)大老井伊直弼が暗殺されたのは、この日である。
・大奥は大騒ぎの日になる。前月末から雛飾りを準備する。「御座の間」「御休憩の間」に12段の雛壇を設ける。西の丸/三の丸にも雛壇が設けられ、奥女中達は各部屋を訪れ、白酒・五目ずしを御馳走になる。
○年度初めの参勤交代
・奉公人の契約は3月晦日に終わる。4月1日から新しい年度になる(※江戸時代からそうだったのか)。江戸時代は米が基本で、前年10月から3月までに年貢を納める。ただし幕府では会計年度は3月5日で終わり、武家奉公人・商家奉公人・職方奉公人などの契約も終わった。延宝7年(1679年)これが3月晦日に切り替えられる(※こちらの方が長い)。
・朝廷は「日光例幣使」が派遣する。4月1日に出発し、中山道/例幣使道を下り、家康の命日の祭礼(17日)に向かう。帰路は日光街道/東海道で戻る。この行列に偽公家が交じった。駕籠からパタリと落ちて、お金をせびるのだ。
・下級以上の公家は貧乏ではなかった。幕府からの俸給や免許発行などの収入があった。300諸侯/旗本からは官位発行の斡旋料を得た。※公家が貧乏だったのは、室町時代かな。この辺り無知だな。
○天下祭
・6月は譜代大名が参勤交代する月である(※梅雨時だな)。街道はごった返し、通行困難になる。
・15日には「天下祭」が行われる。日枝神社(日吉山王大権現社)は将軍家の産土神であり、江戸城西半分の総鎮守だった(東半分の総鎮守は神田明神)。日枝神社の「山王祭」と神田明神の「神田祭」は将軍が上覧し、天下祭と呼ばれた。※山王祭の詳細が紹介されているが省略。関係ないけど、祭りは地域的特徴が強い。
・祭りの費用は、1軒が27文(1350円)を拠出した。不足すると神輿の担ぎ手が出し合った。彼らは衣装も自前で準備した。これを仕切ったのが大家で、2ヵ月位これに忙殺された。(※神輿の巡回について書かれているが省略)。祭りは基本的に町人のもので、この祭りに参加する武家は将軍のみ。※収穫祭とかもあるし、祭りは庶民のものかな。
○七夕・中元・藪入
・7月7日は大奥では「七夕」だが、5節句の1つで大名が総登城した。家臣は江戸城門外の「腰掛」で待機する。※腰掛で家臣が弁当を食べる話があるが省略。
・7月15日は「中元」で、大名・旗本が登城して宴会を開いた。これは半年間生き延びた事を祝うのだ(※中元は元旦と元旦の中間の意味かな)。どの大名も家計は火の車で、年貢収入の半分は家臣への俸禄、残りの半分は参勤交代と江戸での交際費で消えた。中元で大名は挨拶と返礼で贈物するが、多い大名ではそれが200家に達する(※大名間に上下関係はあるのかな)。大名・旗本・御家人は猟官運動も兼ね、借金してまで贈物をした。年貢の1/4はこれに消費され、商人は大儲けした。
・奉公人には年2回「藪入」があった。正月16日と7月16日である。一人前と認められると、小遣い・着物・下駄が与えられた。7月7日七夕、13日「盆の迎え火」、15日中元、16日「盆の送り火」と行事が目白押しとなる。そのため藪入前の忙しい期間を「盆が間」と呼び、それが「盆釜」(盆は地獄の釜が開く)となった。またこれらの行事は陰陽師「野巫」が行い、「野巫入り」と呼ばれた(※盆釜も野巫入りも聞き慣れない言葉だ)。因みに「野巫医者」が転じ、「藪医者」となった。
○盆踊り
・江戸に盆踊りはないが、地方の城下にはあった。徳島では「阿波踊り」があった(※詳細省略)。しかしこれに武士は参加できなかった。藩主の実子が参加し、座敷牢に入れられている。手拭いを被り、怪しげな足取りで踊るのは、蜂須賀小六が夜盗だったからかも。
・立春から210日過ぎると「二百十日」になる。これは台風の襲来時期で、農村漁村は厄日になる。濃尾平野は木曽川・長良川・揖斐川が乱流し、度々洪水になった。宝暦3年(1753年)薩摩藩は幕府から木曽三川の分流を命じられる(宝暦治水)。幕府は工事費を10万両と試算し、1万両を与え、参勤交代を免除した。財政が苦しかった薩摩藩は現地の農民を雇わず、藩内から1千人近くの農民を派遣した。難工事で病死33人を出し、割腹自殺52人を出した。工事費は40万両(80億円、※800億円では)になり、現地の総奉行・平田靱負は切腹する。薩摩藩はこれを国辱(軍事的敗北)とし、公表しなかった。※薩摩藩は幕末には潤ったはずだが。
○酉の市、煤払い
・11月酉の日に、「酉の市」が開かれる。これは鷲宮神社の市が起源である。中世では関東に市場はなく、神社の境内などで定期的に市が開かれた。これは「斎場」(いつきば)と呼ばれ、後に「市場」に転じた(※楽市楽座の高札は、既に市場と記されていたと思うが)。江戸では大鷲神社で酉の市が開かれ、公正な取引が行われた(和市、※詳細省略)。
・江戸城では12月13日に「煤払い」が行われた。これは儀式であり、主婦・女中は正装の鉢巻き/襷掛けをした(※詳細省略)。
○武士の内職
・7月6日から3日間、入谷の鬼子母神で「朝顔市」が開かれる。文化5年(1808年)大番与力・谷七左衛門が朝顔の変種を作った。その後配下の同心が変種作りを競うようになり、組屋敷は見物人で賑わった。これが発展して、鬼子母神の朝顔市になった。
・大久保百人町の組屋敷では、御家人がツツジを栽培した。今のJR中央線新宿駅から大久保駅一帯がツツジで埋まった。このツツジは江戸でよく売れた。※紅荒獅子などが、ここで生まれたのかな。
・新宿弁天町の根来百人組の組屋敷では提灯が作られた。甲賀百人組の組屋敷は神宮球場辺りにあり、「春慶塗」を内職とした(※詳細省略)。青山の御家人は「傘作り」をし、代々木・千駄ヶ谷の御家人は「季節の虫」を卸した。下谷の御家人は「金魚」を育てた。巣鴨では「羽根作り」、四谷鮫ヶ橋では「絵馬作り」、山の手では「凧張り」「小鳥」を育てた。青山薬研坂の御家人・和田庄五郎は庭土を作った(土売り)。自身の邸の土がなくなったので、隣の邸の地下を掘り、落盤し圧死した。これが太田南畝『半日閑話』に記されている。
・彼も御家人で、「貧すれば鈍する世をいかんせん、食うや食はずの吾が口過ぎ、君聞かずや地獄の沙汰も金次第、稼ぐに追ひつく貧乏多し」と詠んでいる。彼は昌平黌の首席で裕福だった。狂歌・戯作をたしなみ、文学界で活躍している。浮世絵師・安藤広重は同心の子である。内職で絵を描き、『東海道五十三次』などを残している。
第6章 関東平野に残る江戸の暗部
○関東平野の開拓者は誰?
・関東平野は利根川/荒川/鬼怒川が乱流し、荒蕪地だった(※荒蕪地は後でも出てくる)。そのため関東郡代・伊奈半十郎忠治は大規模な土木工事を行った。しかしキリシタンを使ったため、記録を残さなかった。※この話は初耳だ。
・大名にもキリシタンはいた。京極家/福岡黒田家/岡山池田家/青森の津軽家などである。旗本・能勢頼宗や家康6男・松平忠輝などもキリシタンだったとされる。浅草/浦賀には教会があった。慶長17年(1612年)キリシタン禁制となる。
○キリシタンは北関東に
・群馬県太田市に備前島町があり、関東には備前堀などがある。これは関東郡代・伊奈備前守忠次(忠治の子)がキリシタンを呼び寄せ、土木工事を行ったからだ。譜代大名が赴任した古河領には、藩が許可したキリシタンがいた。領内には祝日「オリゴリ」があるが、これは先祖を意味する。北関東にはキリシタンに関係する地名が多い。「バテレン山」「ばてれん橋」などがある。
・館林領には「柳生」「越中沼」「恵下野」「篠山」などの西国の地名がある。館林領主・榊原康政の一族にはキリシタンがいた。12月24日屋敷神「オナダラ様」を祀るが、これはキリストの生誕祭である。
・茨城県茨城町には「野曽」の地名があるが、これはキリスト教を意味する。聖母マリアを意味する「丸谷」「丸屋」や、デウスを意味する「出牛」などの地名もある。「長良(なだら)」の地名はクリスマスを意味する。江戸初期の人口は1200万人で、その内キリシタンが300万人で、1/4がキリシタンだった。※これは驚き。
○藩領/藩収入は誤解だらけ
・江戸時代は大名の領国を「・・藩」とは言わず、「・・家領」である。例えば「姫路藩領」ではなく、「姫路酒井家領」である。明治維新で府県を置いた時、旧大名領を藩とした。
・石高についても誤解がある。例えば岡山池田家は51万石だが、池田家はこの出来高の6割の30万石を徴収した(六公四民)(※これはそう思っていた)。この内6割は家臣の知行に消え、12万石が池田家に残る。隔年の参勤交代が15万石で、火の車だった。資金が不足すると豪商から借りた。家老7人で14万石で、残り4万石を家臣486人で分けた。100石取りでも、実収は40石もなかった。
○地方と中央の格差
・江戸時代の大名は頻繁に移動させられ、「鉢植大名」と嘲笑された。しかしこれにより人流が盛んになった。肥前鍋島家に幕府の国目付が巡見に来た。昼食時、鍋島家の接待掛は敷物の使い方が分からず、膝に掛け、弁当を食べた。
・弘前藩の津軽家は急速に拡大したため、関ヶ原の戦い/大坂の陣の後に多くの浪人を召し抱えた。これに西国の武士も多かった。近江出身の栗村対玄は寛永年間(1624~44年)に弘前に来る。彼は嫡子と共に水田開発したが、水車で米をつく方法を最初に津軽に伝えた。4代藩主・津軽信政は民生技術の遅れを憂慮し、200家を越える達人・職人を移住させた。
・城下と農村の格差も大きかった。寛文元年(1661年)南信濃で殺人事件があった。老女が容疑者として拘束され、飯田城下に勾引される。彼女は釈放されるが、拘束中の生活が生涯忘れられない贅沢となり、その場所を「花のお江戸」と勘違いしていた。
・宮崎県延岡に奥州磐城平から内藤氏が移封された。そのため延岡に東北弁が残っている。逆に有馬氏は延岡から越前丸岡に移封されたため、丸岡には日向訛りが残っている。これは諸家が方言を維持したためである。
・将軍に替わり巡検使(※巡検と巡見は同じかな)が諸国を廻ったが、地元の農民と言葉が通じなかった。※会津若松での記録『東遊雑記』が紹介されているが省略。
○関東には名博徒が多い
・堀田正俊は綱吉擁立の功で下総古河の城主になる。彼は初めて領国入りする時、広大な風景に興味を持つ。家臣が、関東には武家から郷士になった者が多い事を説明する。実際農民が脇差姿で野良仕事をしていた。これを家臣は「風儀が良い土地柄」と説明する。※大幅に簡略化。
○博徒は地元では評判が良い
・博徒の代表格が国定村の忠治(長岡忠次郎)である。彼は農業用水を整備している。笹川繁蔵なども有名だが、彼らは強盗・強請・殺人を厭わないが、地元では悪事をやらず、評判が良い。
・関東は幕領と大名領が入り組み、警察権の発揮が難しかった。そのため幕府は「関八州取締出役」を創った。博徒には2つの共通点がある。1つは彼らは庄屋や有力者などの子供で、ある程度の知識を持っていた。もう1つは、地元での暴力を厳禁し、むしろ善行を施した。
・彼らは地元を味方に付けたため、逃亡が容易だった。下総国香取郡の勢力富五郎の最期は凄まじい。関八州取締出役の手先1千余人と人足1500人が動員された。鉄砲は数百挺が使われた。これは10万石の大名に相当する。
○博徒は武士より強い
・尾張徳川家は柳生流の剣術師範を有した。幕末、徳川慶勝は朝廷から実戦部隊の編成を命じられる。家中の侍に実戦経験はなく、厭戦気分だった。そこで大目付・渡辺鉞次郎が博徒の実戦投入を提案する。彼は博徒の親分・近藤実左衛門に、「前科黙認、姓名帯刀勝手」を条件に相談する。博徒達はこれを受け、「集義隊」「草莽隊」が結成される。※大幅に簡略化。幕府の新選組も長州の奇兵隊なども庶民の部隊だな。
・草莽隊士・榎木才蔵に尾張藩士が罵声を浴びせ、喧嘩になる。榎木は抜刀し、3人を斬り倒し、自刃する(※草莽隊士・三浦左市の事件も記されているが省略)。剣術指南役・柳生忠次郎は草莽隊士と喧嘩になり、組み打ちにされ、下駄で脳天を叩かれる。一方集義隊は、この様な事件を起こしていない。
・尾張徳川家には1万人以上の兵力があったが、戊辰戦争に出陣したのは1500人に過ぎず、戦死したのは4人に過ぎない。一方草莽隊は439人で9人が戦死している。戦後集義隊は藩の常備軍になり、近藤実左衛門は藩校「明倫堂」の剣術世話役になる。
・しかし明治4年(1871年)廃藩置県と同時に集義隊は解散になり、翌年草莽隊も解散する。集義隊は兵隊稼業の間に縄張りを奪われ、博徒に戻れなくなった。やがて彼らは自由民権運動に参加していく。
○領民逃亡
・「欠落ち」「逃散」は領主には不名誉で、「宗門改め」「檀家制度」で移動を制限したが、多くの領民が領地から逃げた。能登の漁村・大念寺新村には「若狭小浜の漁民が流れ着き、定着した」との伝承がある。小浜から逃げ出した者がいたが、若狭藩がそれを漂流伝説に置き換えたのだろう。能登輪島の海士町には、筑前鐘崎の漁民が定着したとの伝承がある。越中射水郡脇村の漁民が、越後蒲原郡脇町に移住したとの伝承もある。
○浄土真宗の寺は移民の足跡
・北関東の土地は瘦せていたため、欠落ちする者が多く、荒蕪地が増えた(潰れ百姓)。後世の教科書は「人口減は間引きによる」としているが、実際は農民が村を出て、都会に移ったからだ。
・この荒蕪地を再興させるため常陸笠間牧野家は移民を採用した。寛政5年(1793年)浄土真宗・西念寺の良水は藩から相談され、加賀前田藩で移民を募集する(浄土真宗は間引きを否定していた)。加賀は人口過剰で悩んでおり、60戸余りが応じた。8年後に前田藩に発覚し、彼は責任を背負い切腹する(※僧侶は切腹するのかな)。しかし慶応4年(1868年)には彼の孫が、北陸から650戸を移住させている。※この話は知らなかった。
・同じ常陸の徳川領は3割が荒蕪地だったが、北陸の浄土真宗門徒により再興された(※公領は年貢が甘いと聞いていたが)。
・下野真岡代官・竹垣直温の前任地は越後で、人口過剰・農地不足を見ていた。そこで越後の代官と交渉し、下野芳賀郡500戸/常陸新治郡100戸余/結城郡200戸余/茨城郡200戸余を誘致させた。相馬中村家は加賀・能登・越中・越後のみならず、但馬・因幡・伊予・日向・薩摩から3千戸を呼び寄せた(※北日本は飢饉の影響もあっただろうな)。これらの再興は浄土真宗の組織的援助で行われた。そのため北関東には浄土真宗の寺院が多い。
○幕末の慰安婦外交とハーフ
・米駐日公使タウンゼント・ハリスは「日本は、やたら女を勧めてくる」と記している。彼らはそれを「女ご馳走」と呼んだ。横浜は埋め立てられ、開港された。幕府は遊郭設置にうるさいのに、太田屋新田8千坪を遊郭に提供し、奨励金1.5万両も提供し、安政6年(1859年)遊郭が完成する。当時横浜の人口は3万人で、3千人が異人だった。※横浜は漁村だったはず。共に大層な人数だな。
・遊郭は20数軒あり、娼妓は「洋妾」「ラシャメン」と呼ばれた。禁止されていたが、異人と結ばれる素人娘もいた(娘ラシャメン)。公娼の月給は20両(400万円)/15両(300万円)/10両(200万円)の3等級あった。当然揚代も高かったため、プロより素人となった。そのため遊郭は衰退した。
・医者の記録にラシャメンが生んだ混血児は数百人とあるが、実際はその数倍だろう。彼らは暗闇坂の囚人として使役された。明治6年(1873年)大岡川の弁天橋で人柱として埋められる。今はここから人気スポット「みなとみらい」を望める。
おわりに
・本書は時代劇と現実との落差を見てきた。時代劇と現実を混同すると、妄想に至ってしまう。美剣士が白刃をきらめかせ、悪役が鉄砲を突き付け、彼は「飛び道具、卑怯なり」と叫ぶ。しかし弓は「弓箭の道」で武士の嗜みだった。
・最近時代劇を見て驚愕したのは「誕生日祝い」。江戸時代は正月に1歳加齢する「数え年」。また時代劇で江戸城が映されるが、それは姫路城の天守です。大体吉宗の頃には天守は焼失してない。※素直に信じると不味いな。
・武器を持つ「農民一揆」が映されるが、農民が鎌・竹槍を携行する事はなかった。その様になるのは明治時代。江戸時代は、「騒動」「強訴」「越訴」「小前騒動」「打ち壊し」と呼ばれるもです。本書を書き、新たな発見もあった。若狭から能登への欠落ちを、為政者は漂流に置き換えたのだ。
・今は公文書が改竄される時代で、歴史の真実は考古学的・気候的視点からも探求する必要がある。歴史の語源はギリシャ語の「イストワール」で、探求を意味する。※私も邪馬台国に関心があるが、魏志倭人伝などからよく推測されるが、出雲/吉備などの考古学的な発掘は随分進んでいる。