『従順さのどこがいけないのか』将基面貴巳を読書。
服従/不服従を解説し、日本人の無関心・無抵抗を批判する本。
これは日本人が変えなければいけない本質で、日本が発展できない根本原因と思う。
お勧め度:☆☆☆(日本人に欠けている精神を解説)
内容:☆☆
キーワード:<はじめに>政治、<服従>権威の指示、悪の凡庸さ、空気/同調圧力/大人の態度、服従する習慣、安心感、責任回避、<忠誠心>人・組織・常識、諫言、葉隠、<仕方ない>消極的不正、公権力、責任、怒り、<何に従うか>神の命令、自分の良心、信条倫理/責任倫理、共通善、自己責任、国歌、<服従しない方法>市民的不服従、沈黙、秘密裏の不服従、内部告発、自警行為、暴君殺害論、<不服従の覚悟>自分が声を上げる、大勢迎合主義、精神的奴隷/忖度、思慮分別/私自身、真の自分、<あとがき>政治、人生、映画
はじめに
・私(※著者)はニュージーランドに住んでいますが、そこの高校生は毎年、「気候変動学校ストライキ」をやっています。これは世界的な地球温暖化に反対する運動です。大人が異常気象に取り組んでいない事への抗議です。これはニュージーランドの各地で行われます。※こんな方法で抗議の方法を学ぶんだろうな。
・日本だと、「授業を放棄するとは、教師・親は何をやっているんだ」と言われるでしょう。しかしこの抗議デモを学校も親も認め、サポートしています。彼らは、「公正な社会を築くため、政治・社会に強い関心を持ってもらいたい」と考えています(※欧米は市民社会だが、日本はまだなれていない)。そのため環境問題だけでなく、LGBT差別/人種差別/いじめなどの現状を議論する授業があります。
・日本の若者は、「政治は国会・霞が関で偉い大人がやる事」と思っています。しかし「政治」は身近な事です。「運動部の生徒を先生が殴った」「先生が生徒にセクハラした」「理不尽な校則」など幾らでもあります。日本では「生徒は先生に服従するもの」と考えられています。
・先生による生徒へのパワハラを見た時、あなたはどう対処するでしょうか。これが政治なのです。「権威」に対し、服従・従順が求められる状況は、全て政治なのです。先生の行為は間違いと考える場合は、不服従の意思を示すのが当然です。「権威に対する意思表明は政治」と理解するなら、先の抗議デモは政治行動なのです。
・今の日本には従順を要求する心理的圧力が強くなっています。これに息苦しさを感じていないでしょうか。服従/不服従について思案すれば、これが解消されるかもしれません。あなたが従順について疑問を抱いていないのであれば、従順を思案する事で、その落とし穴が見えるかもしれません。日々の生活が「政治」である事を理解して頂ければ幸いです。
第1章 人はなぜ服従しがちか
○世界では様々な抵抗が
・女性への性暴力への抵抗(#MeToo運動)、黒人への人種差別と警察による暴力への抗議(ブラック・ライブズ・マター)、香港での自由後退やミャンマー軍事政権への反政府運動、グレタ・トゥンベリーがリードする環境保護運動など、世界は体制に対する「不服従」に満ちている。
・一方日本での抗議活動は低調で、「抗議しても変わらない」「時代の潮流なので、仕方ない」「政府に対する抗議は許せるのか」などの声が聞こえる。本書は、「服従」「従順さ」が良い事なのかを考える。
○ミルグラムの心理学実験
・1962年心理学者ミルグラムが心理学実験を行った。この実験は「罰が学習に与える影響」を調べる実験で、、先生役と生徒役がいる。生徒は電気椅子に座り、単語を覚えていないと、電気ショックを受ける。この電気ショックは、間違いが増えるに従い、強くなる。しかし生徒は俳優で、電気ショックを受けた演技をする。実験の本当の目的は、公募された先生がどう行動するかである。生徒は、70Vで呻き、150Vで中止を訴え、285Vで絶叫する事になっている。先生は実験を止めようとするが、心理学者は「続けて下さい」と指示する。
・実験の結果、先生の1/3は実験を止めたが、2/3は心理学者の指示(権威)に従い、最後まで実験を続けた。ミルグラムは著書『服従の心理』に、「平凡な人でも、権威からの指示があれば、非人道的行為を行う」と結論付けた。
○悪の凡庸さ
・ミルグラムは、この実験をアドルフ・アイヒマンの裁判を切っ掛けに計画した。アイヒマンはナチス時代にユダヤ人移送局長官を務め、ユダヤ人大量虐殺に加担した。1961年イスラエルで人道に対する罪で裁判に掛けられた。この裁判は映画にもなったが、彼は「大量虐殺をどう思うか」に対し、「命令に従っただけ」と述べた。つまり「悪の権化」などではなく、ただの小役人だった。
・ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントはこの裁判を傍聴し、『イェルサレムのアイヒマン』を書いている。彼女は「アイヒマンは思考する事を知らない凡庸な人物」として批判される。つまり「悪は、凡庸な人物から生まれる」(悪の凡庸さ)としたのだ。彼女は「上司の指示に従う」と云う平凡な信念(?)が、とんでもない事を成すと明らかにした。この彼女の指摘は、ミルグラムの実験からも実証された。
○政治とは
・「悪の凡庸さ」は、実際の「政治」から提唱された言葉です。これに対しミルグラムの実験は政治と無関係と思われるかもしれませんが、政治は日常でも見られるのです。本書での政治は、「何者かが権威になり、人がそれに服従すべきか考える状況」です。そのため政治は国家だけでなく、企業/学校/家庭に存在します。例えばあなたが、「この人は偉い人なので従おう」と思っていたら、それは政治です。
・政治における服従は、社会秩序を保つためのセメントです。社会に服従が満ちていれば、秩序は維持されます。そのため権威者は「服従は良い事」と主張します。日本の親は「先生の言う事をよく聞きなさい」と教えます(※子供の頃、「親と先生の言う事には従え」と教わった)。一方米国の親は、「先生によく質問しなさい」と教えます。これは子供が学校で多くの事を学ぶのを期待するからです。※日本は恥ずかしい国だな。
○空気/同調圧力/大人の態度
・日本には、これ以外にも様々な事情があります。まずは「空気」です。山本七平が『「空気」の研究』を著して以来、「日本は空気が支配する社会」が一般化しました。誰かが意思表明しなくても、そこには支配的な考え方があるのです。
・例えば1941年日本は米国との戦争を開始しますが、それは何となく雰囲気で決まったとの説です。こんな重大な政治決定でなくても、日常に「今日はどこかに食事に行こう」となっても、誰も自分の意見を主張せず、何となく回転寿司に決まったりします。※権威者の意見に、何となく落ち着く気がする。
・他に「同調圧力」もあります。日本には「皆と同じ行動・意見でないといけない」「全員が同じ意見なのが当然」などの考え方があります。本来は全員の意見が一致するのは不自然な事です。しかし「皆と意見が異なると、迷惑を掛ける」となるのです。
・1937年日中戦争が始まります。この時東京大学教授の矢内原忠雄が政府を批判します。すると彼は政府関係者・右翼思想家・大学の同僚に攻撃され、「大学・同僚に迷惑を掛けた」として教授を辞する事になります。日本には同調圧力が存在するのです。この場合、特定の権威者は存在せず、権威は不特定多数の人です。
・もう1つ加えれば、多数派に抵抗すると、「大人気ない」と評されるのです。自己主張し、反抗的だと、子供扱いされるのです。従順で反抗しないのが「大人」とされています。そのため「長いものにまかれろ」の諺もあります。
・しかし従順は良い事でしょうか。ミルグラムの実験で、普通の人でも明らかに間違った行為をする事が証明されました。権威に従う事と、道徳的である事は一致しないのです。日本人が服従しがちなのを、「空気」「同調圧力」で説明しましたが、その理由を検討します。
○習慣としての服従
・16世紀仏国の法律家エティエンヌ・ド・ラ・ボエシが『自発的隷属論』を書きます(※随分古いな)。当書は不服従がテーマで、「なぜ1人の国王に、大勢の者が服従するか」を問題提起しました。確かに「1人対数人」ではなく、「1人対数百~数千人」です。そこで彼は、「大勢は、自発的に1人の国王に隷属している」とします。これが常態化すると習慣になり、当たり前になるのです。
・日本人が箸で、インド人が右手で、欧米人がナイフとフォークで食事するのが習慣で、これに誰も疑問を持ちません。そのため国王が圧政者であっても、抵抗は心理的に憚れるのです。そのため彼は、「戦いの第1歩は国王ではなく、各自の服従する習慣」とします。
・この「服従する習慣」は、思考の惰性です。18世紀米国の思想家トマス・ペインが『コモン・センス』を書きます(※米国を独立に導いた本だな)。冒頭に「間違っている事を考えようとしない習慣により、表面上全てが正しい事になった。これを打破する試みは、恐ろしい叫び声になる」とあります(※簡略化)。彼は英国による権力の濫用に抵抗するよう呼び掛けたのです。
・この「習慣」は「慣れ」でもあります。「チリも積もれば山となる」で、小さな変化でも、大きな変化になっている事が往々にあります(※これは恐ろしい)。「これ位の不正なら」と続けていたら、とんでもない悪事になっていたりします。小さな権力不正を見逃していると、とんでもない不正が横行する社会になるのです。
○安心するための服従
・ミルグラムの実験で、人は容易に権威に服従する事が証明されました。そもそも「権威に服従しない方が難しい」と感じます。それは権威に服従すると、安心できるからです。「信頼・崇拝する権威に従っていれば間違いない」と信じるからです。多くの人がそうしているのなら、安心感はさらに増します。
・あなたは「多数派に寄り添っていれば安心」「政治に多少不満があるが、変化による混乱はイヤだ」「現状を変えようとする少数派は、迷惑だ」と思っているのでは。あるいは「異議はあるが、皆から批判されるのはイやだ」と思っているのでは。
・18世紀ドイツの哲学者カントは「啓蒙とは何か」の議論で、「知る勇気」をモットーとしました。教会が権威を持ち、それに従うのが当然でしたが、「自分の理性で考え、判断せよ」と主張したのです。教会・天皇などの崇高な権威に、人はいとも簡単に服従します。人は多数派や崇高な権威に服従し、安心感を得るのです。
○責任回避としての服従
・また「服従する事で、責任を取らなくて良い」と考えるのです。「命令を実行する際、命令を受けた人は道具で、責任を負うのは命令した人」と考えています。しかしこれは真実でしょうか。
・命令された事をそのまま実行するのは、自分の行動を選択していない事になります。これは日常でも見られます。「親が理系に進めと言ったので、そうした」「親や知人が勧めるので、あの人と結婚した」「あの会社が嫌だったので友人に相談し、助言に従って辞めた」などがあります。その結果「理系に進んだが、面白くない」「あの人が大嫌いになった」「再就職先がない」となったりします。「自分で決定していないので責任はなく、自由で楽だ」と考えているようですが、これは本当の「自由」ではありません。
・大量虐殺の許可を与えたアイヒマンは死刑になりました。俳優ピーター・ユスティノフはナチスの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判について「人類は服従しない事を理由に処罰してきたが、この裁判は服従した事を理由に処罰した」と述べています。第2次世界大戦は、「服従は必ずしも道徳的ではなく、服従であっても責任は逃れられない」を示しました。
○ギリシャ古典に見る不服従
・西洋では、「服従は無条件的に正しい」とは考えられていません。むしろ「服従しない」は思想的伝統の根本テーマです。ユダヤ・キリスト教では、アダムとイヴが木の実を食べ、エデンを追われたのです。これは「神への不服従は罪」と解釈できますが、「人は不服従により、自らの運命を切り開く存在になった」のです。ギリシャ神話も同様です。人はゼウスにより火を取り上げられます。これをプロメテウスが哀れに思い、ゼウスに逆らって人に火を与え、人は文明を築く事ができたのです。※人は神に逆らう存在か。面白い考え方だな。
・これらから20世紀ドイツの思想家エーリッヒ・フロムは「人は不服従により成長した。権威に対しNOと言う事で、精神的に発展した」と述べています。有名な例が、ガリレオの地動説です。権威に従うだけでは、新しい思想は創られないのです。
・ギリシャ古典に『アンティゴネー』があります。20世紀米国の哲学者ジョージ・スタイナーが、これを欧州文化の根底と評価しています。主人公アンティゴネーは王の娘で、2人の兄がいました。その2人が王位を争い、相討ちします。そのため叔父が王位を継ぎますが、兄を反逆者として埋葬を禁止します。彼女はこれに逆らい埋葬し、投獄され、牢で自殺します。叔父は「法に違反する者は容認できない」と発言しますが、彼女は「神の掟こそが絶対」と発言します。19世紀末ドイツの哲学者ヘーゲルは『アンティゴネー』について論じ、「法に従うのも一理、神の掟(道徳)に従うのも一理」としています。
○ウィリアム・テルも従わなかった
・この様に、彼女は支配者ではなく、道徳に従ったのです。ギリシャ古典だけでなく、ユダヤ・キリスト教にも同様の思想があります。聖書の預言者(イザヤ、エレミヤ、アモス、ミカなど)も権力・民衆に逆らっています(※知らない事ばかり)。人々が神の掟に従わなくなると、預言者が耳の痛い事を警告するのです。アンティゴネーも預言者も不服従のモデルになっています。※日本には源義経/石川五右衛門など、権力に屈した者への同情はあるが、不服従のモデルはないかな。足利尊氏は後醍醐天皇に逆らったため、楠木正成の方が評価されているかな。
・親しみ易い例では、スイス建国の英雄ウィリアム・テルがいます。彼は代官に敬礼しなかったため捕らえられます。そして息子の頭上のリンゴを射貫きます。暴言を吐いたため再び投獄されますが、代官を射殺し、スイスを独立させるのです(※簡略化)。これはフィクションですが、不服従・抵抗の物語として語り継がれています。
○学問のすすめ
・この様に欧州には、不服従の伝統が大きな潮流としてあります。西洋の思想を取り込もうとした明治期に、それが見られます。福沢諭吉の『学問のすすめ』です。彼は「他人に頼らず、自分が自分を支配する事が重要」としています。江戸時代のように、「上の者に従うだけ」を「無気無力の鉄面皮」と批判しています。「依頼心が強く、独立心がない人ばかりでは、日本は独立できない」としたのです。当時は欧米列強による植民地時代で、彼は危機感を持っていたのです。
・本章で、私達が服従し易い事を説明しました。一方欧州は服従しない事が伝統になっているのです。ではなぜ不服従が望ましいのでしょうか。次章では服従を生み出す「忠誠心」について説明します。
第2章 忠誠心は美徳か
○忠誠心は正しいか
・学校に忠実なら愛校心、会社なら愛社精神です。プロスポーツのチームを応援するのも、俳優・ミュージシャンのファンなのも忠誠心でしょう。ある会社の商品を買うと「ロイヤルティ・ポイント」が付きますが、ロイヤルティの和訳が忠誠心です。
・愛校心/愛社精神は望ましいと思われるでしょう。しかしファンや特定企業の商品を買う事は道徳とは無関係です。ナチスに忠誠を誓ったり、組に忠実な暴力団員はどうでしょうか。会社の不正を知り、それをひた隠しにする社員はどうでしょうか。この様に忠誠心は、必ずしも道徳的とは言えません。
○「日の名残り」
・英国人作家カズオ・イシグロが『日の名残り』を書いています。主人公スティーブンスは屋敷の執事で、その所有者ダーリントン卿に忠実です。ダーリントン卿は温和で、ナチスと協調できると考えていたため、彼にユダヤ人の家事手伝いの解雇を命じます。戦後屋敷の所有者が米国人ファラディに変わります。彼は「ダーリントン卿はナチスに協力した人だ」と問われても、「私の主人はファラディ」と答えます。彼はダーリントン卿が道徳的に正しくなかった事に気付き、苦悩します。
・ここで注目すべき点は、彼は忠誠心が強く、優れた執事になろうとし、道徳的な判断をしなかった点です。彼は忠誠心から職業的立場を偏重し、人間共通の道徳的判断ができなかったのです。
○忠誠心による思考停止
・忠誠の対象は人に限りません。特定企業の商品を買い続けるのも、その商品・サービスの良し悪しを判断していません。よって忠誠心は、必ずしも最良の商品・サービスを入手できる訳ではなく、合理的とは云えません。しかし思考停止し、比較検討していないので、その面倒がないのはメリットです。
・忠誠心の相手は個人とは限りません。学校・企業などの組織や、政府・自治体かもしれません。しかしその相手が自分の価値・信念に合致しているかを判断しなければいけません。
・忠誠心が強い事が、どれほど愚かであるかを示した小説があります。ジョージ・オーウェルの『動物農場』です。ある農園で、動物達が共和国を築こうとしていました(※擬人化小説か)。ところが豚のナポレオンの独裁政治になります。馬のボクサーは愚直なまでに忠実で、働き続けます。ボクサーは動けなくなり、肉処理場に売られます。ナポレオンはそのお金でウイスキーを買います。
・人・組織に対する忠誠心だけでなく、社会通念・常識への忠誠心もあります(※これは恐ろし事だな)。例えば日本には「目上の人は偉い」があります。これは相手の人格・能力を評価するのを止める愚かな考え方です。
○忠誠心は従順と同じか
・ここまで忠誠心と従順は同じと説明してきましたが、実は忠誠心が強いからこそ、対象に反抗する事もあります。これを理解するのに経済学者アルバート・ハーシュマンの理論が役立ちます。彼は衰退しつつある組織/倒産の危機にある企業を想定し、忠誠心を論じました。上手く行っている組織では、メンバーの裏切りはないとしました。
・倒産の危機にある会社だと、2つの選択肢があります。1つは、会社を止める「離脱」です。もう1つは、会社に残り、体質を改善するのです。彼は後者を「発言」と呼び、これを忠誠心とします。しかしこれはリーダーを批判する事で、従順ではありません。彼の理論だと、リーダーを批判しない従順な人は、忠誠心がない人になるのです。
・なぜ食い違いが生じたのでしょうか。それは忠誠心の対象が微妙に異なるからです。この発言する人が忠誠心の対象にしているのは、リーダーではなく、会社全体なのです。彼は「忠誠心の対象は、会社全体になるべき」と考えているのです。※何を最重要とするかだな。面白い観点だ。
○論語の諫言
・この発言は、東アジアでは「諫言」に相当します。主君が不正に権力を行使した場合、家臣が忠告するのです。これは中国の儒教が起源です。『論語』に、主君に仕える心得として、孔子は「主君を騙してはいけない。主君に逆らって、諫めなくてはいけない」と言っています。親子関係についても「誤りを見付けた時は、まずは遠回しに諫言せよ。聞き入れられない場合は、違背せず従え。しかし怨みを抱いてはいけない」と言っています。
・儒教がこの様な立場なのは、「主君・家臣・親・子供、それぞれに果たすべき義務がある」と考え、無条件の従順を求めていません。親子の場合、「3度諫言しても聞き入れなければ従え」としています。これは「家」の秩序を重視するからです。一方主従関係の場合は、「3度諫言しても聞き入れなければ、主君の下を去れ」としています。それは「主君に服従する義務がなくなる」と考えるからです。
○「葉隠」のねじれた思想
・儒教には「諫言」の思想がありますが、これが日本に入ると変化します。素材として『葉隠』を取り上げます。これは18世紀初頭、佐賀藩士・山本重澄が口述筆記させたものです。当書は主君への無条件の忠誠を説いています。そのため当書は「諫言し聞き入れなくても、主君には忠実であれ」と説いています。さらに「無理難題を突き付ける主君に仕える事で、諫言が増え、忠誠心が証明される」と説いています。
・この様に奇妙な結論になるのは、忠誠の対象が藩全体の利益ではなく、君主だけのためだからです。ハーシュマンは、組織全体の利益を尊重しました。儒教も忠誠の対象を主君としましたが、「3度の諫言を聞き入れなければ去れ」としました。ところが当書は、無限の忠誠心があるとしたのです。ハーシュマンの理論に従えば、「発言」は求めるが、「離脱」は認めないとなります。またここで注意すべきは、諫言の目的が「主君の暴虐非道を改めるため」ではなく、「主君の暴虐非道が天下に明らかになるのを防ぐため」となっています。※家・藩の存続が最優先だな。
○日本人の間違った忠誠
・この『葉隠』の様に、不正を温存させる思想には対峙する必要があります。「この思想は江戸時代のもの」と思われるかもしれませんが、今の日本にも脈々と受け継がれています。例えば「トカゲの尻尾切り」です。不正の責任を最高責任者ではなく、末端の人に負わせ、事態を収拾させるのです。
・これまでに述べた様に、本来諫言はリーダーの過ちを諫めるのが目的ですが、日本では忠誠心が強調され、過ちの糊塗が目的になる事もあるのです。
・本章は、忠誠心は必ずしも正しくない事や、忠誠心と従順は同じではなく、従順でない(苦言を呈する)方が忠誠心の表れである事を論じました。次章では、現実における妥協的な従順の問題点を論じます。
第3章 本当に「仕方ない」か
○放って置けない課題が沢山ある
・今世界には沢山の問題があります。1つ目は環境問題です。海にはプラスチック・ゴミが溢れ、異常気象により大規模な自然災害が起きています。2つ目は富裕層/貧困層の2極化です。3つ目は自由の危機です。ハンガリー/ポーランドでは「言論の自由」「学問の自由」が抑圧されています。香港では、自由・民主主義を守ろうとする運動が粉砕されました。他にも女性への暴力、黒人・アジア人への差別・暴力などの問題があります。これらの問題を、あなたはどう思っていますか。黙認している人が多いのではないでしょうか。この現実に対する妥協も、従順と云えます。
○消極的不正
・環境問題/人種差別問題はスケールが大きいので、スケールが小さい話をします。ベトナム系米国人ダオがシカゴ・オヘア国際空港で飛行機に搭乗していました。この便に航空会社の職員4人を乗せる必要が生じ、アットランダムに乗客4人を降ろす事になりました。それに彼が当たったのです。彼は抵抗し、頭蓋骨などを骨折し、意識を失います。この動画がSNSに載り、大問題になりました(※驚きだが、事実だろうな)。当然人々は航空会社に激怒しましたが、警備員の暴力を制止する乗客は1人もいませんでした。
・古代ローマの哲学者キケロは、『義務論』で「不正には、積極的不正と消極的不正がある」としています。後者は不正が行われているのに、反対や追及をしない事で、その不正に間接的に加担する共犯者です。この「見て見ぬ振り」は許されるのでしょうか。
・19世紀英国の思想家ジョン・スチュアート・ミルは、「悪人が悪企みを実現するのに必要なのは、善人の傍観だけ」と述べています。20世紀アフリカ系米国人で有名な牧師マーティン・ルーサー・キングは、「最大の悲劇は、悪人の叫び声ではなく、善人の沈黙」と述べています。
○不正に目をつぶる理由
・人は、なぜ不正に目をつぶるのでしょうか。米国の心理学者キャサリン・サンダーソンは、その第1の理由を、「誰かが、それを取り締まるだろうと考えるから」としています。これを心理学で「責任の拡散」と呼びます。第2の理由は、「目撃している状況が、本当に不正か分からないから」です。意外と現実は曖昧なのです。自分が不正と思っても、周りが黙認していると、「大した事ではないのか」と思ってしまいます。
・第3の理由は、「不正に抵抗すると、自分が被害を被るから」です。犯人が銃を持っている場合などが該当します。組織ぐるみの犯罪も、裏切ると仕返しが怖いのです。第4の理由は、「集団的な圧力」で、これを大勢迎合主義と呼びます。「空気」「同調圧力」により、不正を指摘し難くなっています。多数派に同調していれば、安心感を得られるのです。
○秩序が保たれている事は、不正がない事を意味しない
・ここで注意しないといけないのは、不正な状態は、平和・秩序と両立する事です(※逆の「平和/秩序がある状態でも、不正は存在します」の方が分かり易い)。それは自分の安全・秩序を維持するより、不正に抵抗する方がリスクが大きいからです。先の航空機の様に、自分に危害が及ばなければ、不正は見逃されるのです。しかしこれは被害者に対する共感が欠けています。自分の平和・秩序は保たれていますが、不正な状態にあるのです。
・先の航空機の場合、1人に対し不正が行われましたが、社会には女性差別のように、複数の人に対し不正が行われています。そして女性差別は秩序の一部になっています。この様に不正が「習慣」になると、それを疑う事もなくなります。そうなるとその不正に抗議する人は、逆に「秩序を乱す迷惑な人」にされます。
・法律自体が不正を容認している場合もあります。法律・規則は社会・集団を運営するための暫定的なルールで、これにより秩序が成り立っています。その法律が非道徳で悪法だと、秩序は不正となります。ルールを守ったアイヒマンが、これに該当します。
・最後に消極的不正に1つを追加します。コロナ危機でも見られましたが、警察に頼らず、自警団で取り締まろうとする行動です。これには「不正を見逃さない」との気概が感じられますが、これは「公権力」の行使で、「公権力は正しい」が前提です。しかし私達が最も警戒すべきは、この公権力を持つ政府です。公権力は法律を盾に、税金を徴収し、刑務所に入れたりします。公権力を象徴するのが警察で、彼らが警棒を振り回しても、それは職務です。この様に公権力は強制力を持ちます。
・そのため私達はこの強制力が合法的・道徳的かをチェックする必要があります。公権力は強制力を持つため、危険なのです。そのため自警団の活動の前に、公権力が不正か否かの問題があるのです。※自警団も実態をよく理解していない。
○不正と不運
・映画『この世界の片隅に』が大ヒットしました。そこで主人公・浦野すずが、空襲を自然災害のように諦めて見る姿に、違和感を感じました。空襲の背後には、それを命令し、爆弾を落とす兵士がいるのです。空襲される側も、政治家・軍人が戦争に関わっています。戦争は自然災害の様に偶発的なものでなく、人為的なものです。人がコントロールできない自然災害は「不運」ですが、人が起こした危害は「不正」です。
・米国の政治哲学者ジュディス・シュクラーは「不運は責任は問えないが、不正は人が責任を負う」と述べています。悪の意図を持った人や怠慢な人によって起こされた災害は、天災ではなく人災です。そしてそれを起こした人の責任を追及しなければいけません。
・ただ近年の自然災害は、化石燃料の大量消費による地球温暖化が原因です。また人が廃棄したプラスチック・ゴミが海洋を汚染し、生物に甚大な被害を与えています。これらも人に責任があります。
○本当に仕方ないのか
・日本人は「仕方ない」「しょうがない」を頻繫に口にします。自然災害に対しては、それを受け入れ、日常を戻していくしかありません。東日本大震災の被災者が現実を受け入れ、秩序を守った事が世界から称賛されました。この「仕方ない」は美徳ですが、不正に対し「仕方ない」では困ります。不正に対しては責任を追及しなければいけません。
・政治の腐敗を不運として黙認するのは、消極的不正です。日本人には、この傾向が見られます。日本人が念頭に置かないといけないのは、「災害にあった時、それが不運なのか不正なのか問う」「直ぐに仕方ないと諦めない」です。
・ドイツの哲学者ギュンター・アンダースが次のように述べています。アイヒマンは中間管理職として命令を受け取り、それを実行するように下の者に命令した。彼はその結果がどうなるかは理解していた。つまりこれが「悪の凡庸さ」の実態である。この様な上下関係は、学校・企業など、どこにも存在します。そのため命令に従えば、どの様な結果になるか、考える事が重要です。
○怒る事の勧め ※物理的な被害に対するのが怒る(おこる)で、精神的な被害に対するのが怒る(いかる)みたい。
・現代社会では、怒るのは好ましく思われません。怒りの感情をコントロールしないと、人間関係も上手く行きません。しかし「アンガー・マネジメント」の本では、怒りは必ずしも抑えなくて良いようです。ノーベル物理学章を受賞した中村修二、野球のイチローは、怒りが原動力になったと言っています。ただしこの2人は、自分に対する怒りです。一方「アンガー・マネジメント」に書かれている怒りは、身近な人に対するものです。
・実際どの様な怒りがあるでしょうか。香港では中国政府の締め付けに対し、デモが起きています。ミャンマーでは軍部に対し、デモが起きています。ブラック・ライブズ・マター運動は世界に広がっています。日本では2011年、原発反対運動が起きています。2015年以来沖縄では、辺野古移転に反対するデモが起きています。一般的に日本では、政治に対するデモは小規模です。※怒りの対象も様々あるな。
○政治に対する価値判断
・日本人は政治に対し怒らないようです。怒りは、各人が持つ価値基準から生じます。横から車が割り込もうとした時、何としても割り込ませないとする人もあれば、すんなり譲る人もいます。ある出来事が起きた時、価値判断が行われ、怒りが生じるのです。「ズルしやがって」と思えば怒りになり、「急いでいるのかな」と思えば、怒りは生じません。※そんなに高尚かな。怒りには、短期的に判断されるものと、長期的に判断されるものがあるかな。
・日本人が政治に怒らないのは、価値判断の基準に関係しています。政治に関心がないと、価値判断できせん。関心があっても、政府を信用していると怒りません。あるいは政府を批判したくても、「自分一人では」と諦める事もあります。
・古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、「適切な時に怒るのは、称賛に値する」「怒るべき時に怒らないのは、深刻な性格の欠陥」と述べています。政治は全ての人に関わるので、その不正に怒るのは、称賛に値する事です。公権力は強制力を持つので、不正をすると、それは幾らでも拡大します。そのため公権力には、常に批判するまなざしを注ぐ必要があります。政治に怒らないのは、深刻な性格の欠陥です。
第4章 私達は何に従うべきか
○何に服従するか
・前章までは従順・服従の問題点を述べてきました。では従順・服従しない根拠(?)は、どこにあるでしょうか。大きく分けて、①神の命令、②自分の良心、③共通善に従うです。従って服従しないのではなく、別のものに服従するのです。ここで重要なのが、これらが何れも人でない点で、要するに自分以外の人や、その人達が決めた習慣・ルール・法律に服従してはいけないのです。※①②③のいずれも、人が歴史的に作ったものと思うが。
○神の命令に従う
・神に従う姿勢は、欧州の伝統です。先のギリシャ悲劇『アンティゴネー』は、国王の法に従うか、神に従うかの対立でした。新約聖書にも、使徒が多くの病んだ人を癒しています。これを大司祭らが嫉妬し、自分達の権力を行使し、使徒を投獄しています。そして天使が表れ、牢の戸を開け、使徒にキリストの福音を広めさせるのです。しかし使徒は再び逮捕されます。そこで使徒は「人間に従うのではなく、神に従う」と宣言しています。
○良心に従ったルター
・欧州の多くの思想家が、『アンティゴネー』を様々に解釈しています。政治的権力(国王の命令)と個人の良心との対立が一般的な解釈です。服従において権力と良心の対立は、代表的な問題です。
・この問題がドラスティックに現れたのが、16世紀ドイツの宗教改革者マルティン・ルターの異端審問です。1517年彼は教会の扉に「95ヵ条の論題」を貼り付け、教会の教えに疑問を投げ掛けます。彼が問題視したのは贖宥状で、信者から集めた資金で大聖堂を改築する事に疑義を呈したのです。彼は審問され、主張を取り下げるように強要されます。しかし彼は「良心に逆らえない」とし、権威に対峙します。
○白バラ抵抗運動
・新しい事例に「白バラ抵抗運動」があります。1943年ゾフィー・ショルがミュンヘン大学でヒトラー政権を批判するビラを撒きます。彼女は取調官に尋問されます。取調官は「法律があり、他方に人がいる。私の仕事は、人の行いが法律と合致しているかを見定める事」と言い、秩序の重要性を語ります。これに彼女は、「言論の自由を発言すれば、牢に入れられる。ユダヤ人は大量虐殺されている。これが秩序なのか」と問い糺します。取調官は「では何に頼るのか」と問い返します。すると彼女は「良心です」と回答します。
・ルターは死刑にはならず、プロテスタント教会の指導者になります。一方ゾフィーは裁判で死刑判決を受け、その日に執行されます。これにより白バラ抵抗運動は鎮静化します。しかし戦後彼女らは、バイエルン州政府/ミュンヘン大学などから顕彰されます。2005年映画『白バラの祈り ゾフィー・ショル 最期の日々』が公開されています。
○良心とは
・良心に従うのは簡単ではありません。ミルグラムの実験でも、教師役になった被験者は実験後、落ち着きがなくなり、神経を擦り減らしました。被験者は実験の継続に、強い心理的抵抗を受けたのです(良心の呵責)。人は過去の行いに対し悔やむ場合があります。一方その場で道徳的判断を下す場合もあります。ミルグラムの実験はこれに該当します。
・「良心」の起源は中国哲学の古典『孟子』にあるようです。孟子は「人は生まれつき善を知り、それを行う能力を持つ」(性善説)とし、これを良心としています。
・一方日本では欧米思想が流入した明治期、コンシエンスを「良心」と訳しています。このコンシエンスはラテン語のコンスキエンティアで、コンは「~と共に」、スキエンティアは「知識」です。つまり「~と共に知る」の意味になります。さらにこれは「神と共に知る」「自分自身と共に知る」の2つに解釈が分かれます。「神と共に知る」としての良心はキリスト教的な解釈で、これに逆らうと罪になります。一方「自分自身と共に知る」としての良心は、古代ギリシャ・ローマ哲学が起源で、自分自身とは「自分の理性」です。
・ここで「自分自身と共に知る」と「一般常識と共に知る」の違いを強調します。後者は自分以外の他者、教会の権威/国家の権力/社会的な習慣・常識に判断を委ねるのです。一方前者は自身の判断なので、人から見ると自己利益の追求であったり偽善的かもしれません。※結局良心の意味が一杯あって、混乱した。
・「良心の権威(?)」によって自分の意見を主張する場合、これは自身の誠実さを自身に証明する事になります(※抽象的で増々混乱してくる)。ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、良心の権威を主張する立場を「信条倫理」としています。これは自分の意図が純粋であり、道徳的であり、それに責任を感じる倫理観です。彼は、「宗教的リーダー/平和主義者はこの傾向にある」と述べています。信条倫理を追求する人は、信念に忠実であろうとするため、その結果には無頓着です。※これは理想主義者だな。
・信条倫理とは反対に、自身の理性で判断し、行動する事に責任を感じる倫理観を「責任倫理」としています。この倫理観の場合、「人間の行動は必ずしも正しくない」と考え、判断が慎重になります。
・ルターは審問で「私はここに立つ。私はこの他に何もできない」と言いましたが、ヴェーバーはこれを信条倫理と責任倫理の結合と見ています。ルターが神に従おうとしている点は信条倫理で、自分の行動による結果を引き受けようとしている点は責任倫理です。
・ヴェーバーは政治家に、信条倫理と責任倫理のバランスを求めています。信条倫理に必要なのは良心で、責任倫理に必要なのは判断力です。この判断に必要なのが共通善です。
○共通善に従う
・「共通善」は聞きなれない言葉でしょうが、「the common good」の翻訳です。「the public good」にも使われます。英語圏では一般的に使われる言葉で、人々が「善いもの」と考えているもので、共同体全体の利益を意味します。これと反対なのが、一部の人、例えば権力者だけの利益です。共通善に従う場合は、自己利益を追求せず、全体の利益を優先させます。
・この具体例が黒澤明の名作『七人の侍』にあります。農民が雇った7人の侍が、村を野武士から守る映画です。侍が農民に戦い方を教えますが、「他人を守ってこそ、自分を守れる。己の事ばかり考えると、己も滅ぼす」と教えます。「自分さえ助かればと行動していると、自分も助からない」と教えたのです。
・軍隊も同様で、お互いが信頼できる部隊は生存率が高くなります(※詳細省略)。職場も同様で、各自が自分の役割を果たし、信頼し助け合えば、共通善は実現します。政治思想で言えば、市民一人ひとりが市民的美徳を果たし、道徳性を発揮すれば、望ましい状態になります。
・しかし政治権力者が自己利益の追求に躍起になる事が往々にあります。これは共通善の破壊で、一般市民が犠牲になります。そうなると市民は一致団結し、権力者に抵抗しようとします。逆に権力者はそれを妨げようとします。
・これに該当するのが、米国の戦後の「マッカーシズム」です。これは政府関係者/マスメディア/映画界などから共産主義者を一掃しようとした運動です。このマッカーシズムを主題にした映画が『真実の瞬間』です。非米活動委員会が共産主義の疑いを掛けられた映画人を取り調べますが、ここで「共産主義者の知人・友人を教えろ」と迫るのです。これにより知人・友人を売る行為が続発し、ハリウッドで信頼関係が失われます。
○自己責任か共通善か
・今の日本でも信頼関係を切り崩す事態が進んでいます。政府が「自己責任」「自助」を唱えています。「自身の安全・衣食住を、人の世話ではなく、自身で責任を負え」としたのです。これにより自己責任は、「政府・国などに迷惑を掛けない」の意味になりました。
・しかしこれは本来の「自己責任」の意味ではありません。1980年代この言葉をメディアが使うようになります。実業家・庭山慶一郎が『自己責任の論理』を著しています。彼は行政改革を求め、「政府の自己責任」を問題にしています。「政府は民間に口出ししたり、消費税を導入したりする前に、政府側の行政改革を進め、政府が自己責任を果たすべきだ」と主張します。ところが今は政府が「国民の自己責任」を問う言葉に転換したのです。
・この「自分の事は自分でやれ。人に頼るな」の自己責任論は正論に見えます。しかしこの考え方が浸透すると、誰も他人を助けない社会になり、社会は崩壊します。隣人・友人・知人を助けるのは、市民の道徳的義務です。また政府は国民に果たすべき責任があります(※憲法第25条かな)。『七人の侍』での、「他人を守ってこそ、自分を守れる。己の事ばかり考えると、己も滅ぼす」が思い出されます。
・2020年以来新型コロナ・ウイルスが席捲しています。日本には「自分が感染しても、それは自己責任で仕方ない」と考える人がいます(※感染する・しないは本人の勝手の意味かな)。しかしこれでは他人に感染させる危険があります。自己責任論には、「他者の利害を尊重する視点」が欠けています。一方ニュージーランドでは、「自分が感染していると思って、行動を控えて下さい」と呼び掛けています。
○共通善の敵
・コロナから私達を守るのは「共通善」です。この責任は政府にあり、また国民はこれに協力する必要があります。この国民の態度を「市民的美徳」と云います。この共通善は、具体的にどの様なものでしょうか。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、「共通善は、自由で平等な市民の一人ひとりが道徳的に優秀な状態」としています。欧州の政治思想には、これを継承する共和主義があり、自由で平等な政治制度を共通善としています。この反対が「暴政」です。※専制主義が続いた日本と違い、欧州は古代ギリシャの存在が強く影響しているな。
・仏国国歌は仏国革命時に制定された「ラ・マルセイエーズ」です。歌詞(※全て記されているが省略)は革命勢力の気概を表し、暴力的です。自由・平等・同胞愛を踏みにじった暴政に対し、決起を促しています。
・一方日本の国家は「君が代」です。この歌詞(※同様に全て記されているが省略)は、天皇の治世が永遠に続くよう祈っています。また第2の国歌に「海行かば」があります。この歌詞(※同様に全て記されているが省略)は、「天皇のために死のう」と歌っています。これは暴政への抵抗を促す仏国国歌と対照的です。
・仏国国歌は人類共通の理念である自由・平等を掲げています。そのため20世紀初頭、英国の女性参政権運動でも演奏されています。仏国国歌には「共通善を実現するために暴政を打倒しよう」との普遍的な政治思想が表現されています。
・「政策・法律が共通善の実現に役立つか」「政府は共通善を実現しているか」などを問えば、政治の善し悪しを判定できます。これは健康診断に似ています。健康診断には血圧/血液検査/尿検査などの指標があります。同様に政治の善し悪しを判定する指標が共通善です。※健康指標は具体的だけど、共通善は抽象的かな。
・様々な論点に対し、「政治が何を実現すべきか」の目安が必要です。「日本の女性差別は、このままで良いのか」「今の年金制度/介護保険制度で老後の生活は保障されるのか」「正規雇用者と非正規雇用者の不公平に、どう対策しているのか」。これらを問うのが、共通善を追求する第一歩です。
・本章は「服従しない根拠」を考察しました。それは「良心」「共通善」です。これに従う事で、不正な人・習慣・法律を拒否する事ができます。次章では、具体的な不服従の方策を考察します。
第5章 服従しない方法
○法律を犯してまで抗議する意味
・今世界では、ブラック・ライブズ・マター運動/#MeToo運動/香港での民主化運動/ミャンマーでの反政府運動/国際的な環境保護運動などの「不服従運動」が起きています。しかし不服従運動は以前からありました。
・例えば18~19世紀、欧米での奴隷制度廃止運動があります。20ドル紙幣に採用されるハリエット・タブマンは、米国南部の奴隷を北部やカナダに亡命させる秘密結社「地下鉄道」の指導者です(※この話は知らなかった)。また20世紀初頭には女性参政権獲得運動がありました。デモ/ハンガーストライキを行い、逮捕・投獄される女性がいましたが、次第に共感・同情され、参政権を獲得したのです。
・この様に法律を犯してまでする行為を、「市民的不服従」と云います。これは「既存の政策・法律が道徳的に正しくなく、共通善を害している」と確信するからです。市民的不服従の元祖が、19世紀米国の思想家ヘンリー・デイヴィッド・ソローです。彼は随筆『ウォールデン』を残しています。これは都会を離れ、大自然に囲まれたウォールデン湖畔の小屋で執筆されています。しかし彼は政治から離れていた訳ではなく、政府が奴隷制を温存させ、メキシコに侵略戦争を仕掛けている事に抗議し、納税を拒否します。
・彼はエッセイ『市民的不服従』を発表していますが、これは市民的不服従運動の原点になっています。彼は、「ある法律・政策が他人に対する不正行為を駆り立てるなら、特定の法律に違反し、市民的不服従を実践すべき」としています(※彼自身の「奴隷制に反対し、納税しない」だな)。彼は「既存の政治体制は否定せず。特定の法律に違反せよ」としたのです。
・今世界の市民的不服従運動は、公然と非暴力で行われます。非暴力なのは、その抗議が正当である事を示すためです。この非暴力の市民的不服従運動の代表が、ガンジーの運動です。第1次世界大戦で英国はインドに「戦争に協力すれば独立を認める」としたのに、独立を認めなかったのです。それまで彼は英国に協調的でしたが、独立運動に転じます。英国製品の不買運動などを展開し、何度も逮捕・投獄されます。この非暴力の抗議に対し、警官隊は発砲などで運動を鎮圧させようとします。
・この様に権力が運動を暴力で制圧する場合、どうすれば良いのでしょうか。香港/ミャンマーはこの状況で、ミャンマーではデモ参加者から死傷者が出たり、政府に批判的なジャーナリストは国外逃亡を余儀なくされています。「日本は心配ない」と思われるかもしれませんが、国家権力は強制力を持つため、私有財産を取り上げ、投獄する事が可能です。
○レジスタンスの沈黙
・集団で公然と抗議する事が難しくなった場合、どうすれば良いのでしょうか。参考になるのが、仏国のナチス占領下での「レジスタンス」です。彼らは武装し、諜報活動・破壊活動などを行いました。戦後この対独レジスタンスは称賛されますが、その効果には疑問符が付けられます(※それでも参考?)。このレジスタンスは悲惨で、多くの闘士を失っています。ジャン=ピエール・メルヴィルの映画『影の軍団』が、このレジスタンスの最前線を描いています(※詳細省略)。
・レジスタンスの効果が限定的だったとしても、市民が不抵抗だったらどうでしょうか。これは第3章で説明した「消極的不正」です。ましてナチスに協力的だと、積極的に不正を犯している事になります。実際安心感を得るため、ナチスに協力した人も多くいました。
・ルイ・マルの映画『ルシアンの青春』は、無学で貧しい仏国人青年ルシアンを描いています。彼はナチスに協力し、裕福な人に拳銃を突き付けたりします。ところが彼が好意を持った女性はユダヤ人でした。そのため彼女は強制収容所送りを免れ、彼に身を委ねます。彼女の名前は「フランス」で、ナチスに従順するしかなかった仏国を表しています。
・この様に仏国人はナチスに妥協するしかありませんでした。それをフランソワ・トリュフォーが映画『終電車』で活写しています。これに登場するベルナールは俳優ですが、夜はレジスタンスに協力しています。最も簡単な不服従は「沈黙」です。先に「沈黙は消極的不正」と説明しましたが、沈黙は不服従の手段です。※沈黙は、どちらにも捉えられるな。
・「抵抗としての沈黙」を表した作品が、ヴェルコールの『海の沈黙』です。舞台は仏国の田舎で、叔父と姪が住む家の2階をドイツ軍が接収し、ドイツ人将校が住みます。将校は仏国文化に憧れ、2人に礼儀正しく接しますが、2人は無視し続けます。将校は「祖国を愛する人に尊敬を感じる」と伝えます。当作品は占領下の仏国で広く読まれ、全土で沈黙が満たされます。※メディアは統制されなかったのかな。
・彼らは、レジスタンス運動について何も語りませんでした。あるいは非合法の出版物を配布したり、占領軍の貼り紙を破ったり、ユダヤ人を密告しませんでした。一方ナチスに協力した仏国人は進んで密告しました。彼らの沈黙には深い意義があります。
○秘密裏の不服従
・沈黙より、やや積極的な不服従の手段が、秘密裏に抵抗する方法です。例えば日本の外交官・杉原千畝です。彼はリトアニアの日本領事館に逃れてきたユダヤ人に、ビザを発給しました。日本は日独伊三国同盟を締結し、発給は訓令に反していました。しかし彼は良心に従い、発給を続けます(※権力に従うか、良心に従うかだな)。戦後、彼は免官され、国賊呼ばわりされ、不遇の日々を送ります。彼はビザが無効になる事を恐れ、様々な芝居を打っています(※単に発給しただけではないのか)。この様に、秘密裏の不服従には、偽装工作が必要です。
・ドイツ映画『善き人のためのソナタ』は、上司に秘密裏に服従しなかった行為を表しています。東ドイツには秘密警察・諜報機関シュタージがありました。シュタージのヴィースラー大尉は、劇作家ゲオルク・ドライマンと、そのパートナーで女優のクリスタ=マリア・ジーラントの監視を命令されます。大尉は彼らが住むアパートに盗聴器を仕掛けます。その彼女を文化大臣が愛人にしようとします。しかし大尉は、彼らに次第に共鳴します。
・劇作家が敬愛する演出塚が活動停止処分を受け、自殺します。彼はこの東ドイツの実情を西ドイツの有力雑誌に公表しようとします。これを盗聴した大尉は、事実と全く異なる報告書を、上司に出し続けるのです。結果、劇作家の記事は掲載され、大反響になります。※これは流石にフィクションだろうな。
・この様に、任務を粛々と遂行しているように見せても、服従しない方法があるのです。しかしこの方法にもリスクがあります。この映画でも、大尉の行為は明らかになり、甚だしい降格になります。
・劇作家は東ドイツの実情を西ドイツの雑誌で発表しました。この様に、ある組織の不正などを暴露する事を「内部告発」と云います。最も有名な内部告発は、エドワード・スノーデンによるものです。2013年彼は米国の監視網の実態を、英国新聞『ガーディアン』に暴露します。米国は同盟国のコンピュータにも侵入しており、彼は米国に反感を抱くようになったのです。
・組織にとって、彼や『善き人のためのソナタ』の劇作家ドライマンは裏切者です。しかし不正の事実を知る者は、それを告発する道徳的義務があります。そうしないと不正に加担した事になります。しかし告発にはリスクが伴います。そのため告発には強い道徳的信念が必要です。
○最終手段としての暴力行使
・2018年仏国で物価高騰から、政府への不満が爆発します。黄色のベストを着た労働者が、抗議活動を始めます。この「黄色いベスト運動」は一部が暴徒化します。催涙弾により死者も出ます。あるワイドナショーでこれを、「暴力は絶対にいけません」とコメントしていました。しかし結果、最低賃金のアップ/課税対象の一部免除などを獲得します。マクロン大統領は「政策変更しない」と明言しており、運動が激化したのです。私は教条的な「暴力に反対」に違和感を持ちます。「正当防衛」の言葉がある様に、危害を加える相手に反撃するのは正当です。
・法治国家の場合、危害を加える加害者を処罰するのは国家の役割です。そのために警察・裁判所があります。しかし警察・裁判所が加害者を放置し、官僚の不正を見逃し、国民を重税で苦しめたらどうでしょうか。この様に権力者が義務を果たさなくなった時、市民が実力行使する事を「自警行為」と呼びます。
・1973年テレビで時代劇『必殺仕置人』が放映されます。これには自警行為の考え方が貫かれています。骨接ぎの「念仏の鉄」と「棺桶の錠」が北町奉行所の中村主水と組み、不正を働く役人・大商人に制裁を加えるのです。※ドラマ冒頭のナレーションを詳しく解説しているが省略。
・彼ら仕置人は、自警行為を行いますが、その正当性を論証するのは困難です。公権力に対し「私達こそが正義」と主張するのは難しく、「やられたから、やり返す」の割り切りが必要です。「お上がワル」なら、自分達は「正義の味方」になりそうですが、彼らは「その上をいくワル」と自称しています(※詳細省略)。自警行為には、その覚悟が必要です。
※私は自警行為を完全に理解していないかな。先のコロナでの自警行為はどんな行動だったのか。
○暴君殺害論
・政府に対し暴力的になるのは時代劇だけではありません。欧州には「暴君殺害論」が存在します(※中国には易姓革命がある)。この「暴君」は暴虐非道の君主ではなく、共通善を破壊する政治的指導者です。自身や取り巻きの利益を追求し、市民の利益を犠牲にする政治的指導者です。市民の利益には自由・平等なども含まれます。欧州の政治思想は、この暴君の殺害を正当化しています。
・古代ローマの哲学者キケロは『義務論』で、「暴君の殺害は正当」としています。この暴君の暴政は、共通善が破壊された政治です。彼は暴君の殺害を「高貴で偉大な行為」とし、共通善の防衛を「最も重要な政治的価値」としています。
・この政治思想は受け継がれます。17世紀英国で国王チャールズ1世と議会が、信仰の自由/課税問題などで対立し、内戦になります(ピューリタン革命)。結果、議会派が勝利し、国王は処刑されます。20世紀神学者デイートリッヒ・ボンヘッファーはドイツに帰国し、ヒトラーの暗殺を試みます。これには国防軍の将校も参加していました(※詳細省略)。これは映画『ワルキューレ』になっています。この様に、共通善を破壊する暴君の殺害は正当化されています。
第6章 不服従の覚悟 ※本章は上手く整理されていない気がする。
○「他人はともかく、自分は」の姿勢
・これまでに不正・多数派・社会習慣・常識などに従順である事の問題を論じてきました。そしてこれを拒否するには、良心・共通善に目を向け、判断すべきとしました。しかしこれに反論があるでしょう。例えば、絶対やってはいけない仕事を命じられた時、「自分が拒否しても、他の人がこれを実行し、結局同じ」と考えるからです。しかし「自分が拒否する事」に大きな意味があります。一人ひとりが判断し実行しないと、それは実行されません。
・哲学者ハンナ・アーレントは、「権力は人が共同で活動する中に生まれる。人が散り散りになると消滅する」と言っています。人が集まり、協力する事で「私達」が形成され、現実を変える力になるのです。
・誰かが声を上げなければ、抵抗する集団は形成されません。その好例が、グレタ・トゥンベリーが始めた環境保護運動です。この運動は彼女が学校を欠席し、一人でストライキする事から始まります。今はそれが世界に広がっています。集団を形成するには、「他人はともあれ、まず自分が声を上げる」が不可欠です。20世紀仏国の小説家アルベール・カミュは「我反抗す、ゆえに我らあり」と述べています。
・誰かが声を上げるのを待っているのは「リーダー待望論」で、これだと責任は問われないし、追従する安心感があります。しかしこれではダメで、自らが行動する事が重要です。20世紀英国の歴史家R・H・トニーは『宗教と資本主義の興隆』で、「民主主義の基礎は、権力に一人で立ち向かう勇気であり、その精神的な独立意識にある」と述べています。
○皆がやっているから
・しかし集団の中で自分の考えを貫くのは容易ではありません(※小学校での経験を記しているが省略)。政治においても、各自が自分の主張を持ち、それが共通な事で集団が形成されるべきです。「ただ一緒にいるだけ」だと、人は他人の挙動を伺うだけになります(大勢迎合主義)。要するに日本の「空気」「同調圧力」です。ビートたけしが「赤信号、皆で渡れば怖くない」を流行させました。本当は「赤信号、皆で渡るから恐ろしい」なのです。
・新自由主義が横暴し、弱肉強食の社会になりました。そのため米国では「ズルする文化」が横行しています。競争に勝つ事だけが優先される社会になり、誠実・公平は失われ、不正がどこでも行われています。しかし「皆が不正をしているが、自分はやらない」が重要です。
・「隗より始めよ」の言葉があり、これは「大きな仕事は、身近なところから始めよ」の意味です。リーダーが現れるのを待つのではなく、自分から行動して下さい。
○従順の果て
・ここまで従順・服従が持つ政治的意義を論じてきました。この権威・多数派に従順なのは、「精神的奴隷状態」です。鎖で縛られなくても、精神的な自由・独立を失っています。これをよく表した歌が、奥村チヨの「恋の奴隷」です(※歌詞が記されているが省略)。これには、「恋する男性が好むような女性になりたい」とあります。
・日本には、この精神的奴隷状態がはびこっています。いわゆる「忖度」で、「上司好みの私になりたい」です。自分の自由を放棄し、権力者の言うがままに行動します。
○不服従の果て
・反対に不服従に徹すると、苦難の道になります。アンティゴネーは悲劇的な最期になり、ゾフィー・ショルは刑死になりました。20世紀仏国の哲学者シモーヌ・ヴェイユはエッセイ『服従と自由についての省察』で、「公共善(共通善)を愛する者は、残酷で救いのない苦悩に苛まれる」と書いています。今は生命に関わる苦難は受けないでしょうが、精神的な葛藤は避けられません。
・良心・共通善に従っているのに、なぜ苦しみ・不条理を受けるのか疑問を持たれるでしょう。これが真実です。それは旧約聖書を見ても分かります。正しい行いをする預言者は、権力者・民衆から迫害されます。ヴェーバーはこれを「苦難の神義論」と呼んでいます。
・人はストレスを受けたくなく、良心・共通善を停止させ、権威・多数派になびき、不正に加担します。しかし服従しない生き方をすれば、人は「思慮分別」を学ぶ事ができます。アイスキュロスのギリシャ悲劇『アガメムノーン』は、苦難により判断力が養えるとしています。そして何よりも「私自身」を得られます。これは自分自身の人生を歩む事です。
・20世紀仏国の哲学者ジャン=ポール・サルトルは「我々とは、我々の選択である」と述べています。「目の前の事柄を自ら選択する事で、自身の人生を生きられる」としています。自分自身で選択する事は、自身のアイデンティティを確立し、守り抜く事です。「空気」「同調圧力」に流されるのは、自分自身を失い、他者の中に埋没して生きる事です。※同様の記述が羅列されているが、全て省略。まあ私の結論は「孤立を恐れるな」かな。
○真の自分への一歩
・最近「自分探し」をよく聞きます。旅に出るなどして、自分のやりたい事を見付けるのです。しかし結局は「何がしたいのか分からない」となります。それはサルトルの言葉にある様に、目の前の事柄を一つひとつ選択する事が重要だからです。「なんでもいいや」「分からない」ではなく、一つひとつ選択する事で「真の自分」が確立されます。
・他者の中への埋没を避けるには、良心・共通善から判断し、その結果を予見し、責任を持つ覚悟が必要です。予期せぬ結果になる事もありますが、努力し続ける必要があります。
あとがき
・私は小学校5~6年の時、教師のいじめに遭い、頻繁にビンタを受けました。この教師は体育ばかりやっていました。彼は映画『天平の甍』を見て感動し、生徒を正座させ、自分は椅子に座り、経典を読んだりしました。この原体験が、不正権力への抵抗を研究させたと思います。
・日本だと政治の話は嫌われます。「政治はマウントの取り合い」「政治は高カロリー」で面倒臭いと考えられています。また「政治は直接関係がない」と考えられています。これは若者だけでなく、大人も同じです。しかしこれは日本だけの「常識」です。一国の政治は他国にも影響を与えるため、世界各国の政治に関心を持つ必要があります。
・先日ニュージーランドの自然公園で、初対面の現地人と米国人が活発に議論していました(※著者はニュージーランド在住)。内容はトランプが敗れバイデン政権が誕生した事やコロナ対策などです。これは珍しい事ではありません。美容院・理髪店などでも政治について議論されます。彼らは「大人であれば、政治について何らかの意見を持っている」と考えています。
・中学・高校生の方は、「政治は霞が関などで展開されるもの」と考えるかもしれませんが、「政治は身の回りで起きている事」と理解して下さい。政治は日常にある服従/不服従の問題です。そこで思い出される事があります。私が学んだ慶応義塾大学に名物教授・内山秀夫がいました。彼は「政治学を学ぶのは、生きる事を学ぶに等しい」と言っていました。政治は国会・霞が関で起こっている事柄ではなく、服従・不服従に絞れば、人生を生き抜く事です。
・本書で多くの映画を紹介しました。映画は真理を視覚的・具体的にします。これらの映画をじっくり鑑賞して下さい。また本書は、処女作『反「暴君」の思想史』(2002年)を若者向けに書いた本です。また『日本国民のための愛国の教科書』(2019年)の姉妹編です。