『新しい共同体の思想とは』内山節(2021年)を読書。
著者が講師をした4つの講義が元で、第1講は共同体、第2講は仏教、第3講は現代の課題、第4講は変革を解説している。
「共同体は単一ではなく多層」の考えは受け入れ易い。
仏教の改革や華厳経の話も面白かった。
抽象的な記述が多いが、筋は通っている。
また本書は3部冊の3冊目だが、2冊は読み終えた。
お勧め度:☆☆
内容:☆☆
キーワード:<序文>伝統的思想、民俗学、仏教、空/関係、<共同体の思想>普遍思想、お金、虚構、国境、奉仕、自然・死者、共同体、実体、<関係と実体>自然、道、大乗仏教、空、華厳経、<明治以降の日本>鉄、教育、国、言葉、保守/革新、外国人労働者、中央集権、ソーシャル・ビジネス、信仰・宗教、<変革の思想>基盤、人権、矛盾、役割、<あとがき>農業
序文 伝統回帰の思想的課題
○日本的なものが一掃される時代
・明治以降、欧米的なものが取り入れられた。特に戦後、日本的なものが悲惨な戦争を招いたとされ、伝統的なものが一掃された。知識人は日本語廃止論を真剣に議論した。ものの価値を貨幣で捉え、科学が全ての問題を解決すると考えられる様になった。
○伝統思想が甦り始めた
・しかしそれが変ろうとしている。欧州の哲学は19世紀から東洋思想を研究している。そのため人文系の人は、東洋思想を学ぶのは当然になっている。そして東洋思想(例えば儒教)が西洋思想に近い事を理解している。
・日本でも伝統的思想に関心を持つ人が増えた。例えば自然信仰が多くの人を捉えている。また健康のために漢方薬/気功法を取り入れる人もいる。消費の拡大を望まない人、自然や人との結び付きを重視する人、そんな伝統的思想が甦り始めた。
○支配者の思想と民衆の思想
・私(※著者)が関心を持つのは伝統的な民衆思想である。儒教は古代に日本に入り、支配階級に存在した。しかし民衆には江戸時代まで入らなかった。江戸時代になると庄屋などが儒教を学ぶ様になるが、それは武士と交渉するためだった。※民衆は現実的な「読み書きそろばん」かな。
・明治になるまで、支配層と民衆の思想は異なっていた。しかし民衆が書き残した物は、年貢/借金/離縁状などで、民衆の思想を捉えるのは難しい。そのため残された文献から歴史を把握する歴史学ではない民俗学が生まれた。これは地域の慣習/風俗/祭り/物語から民衆史を捉える。
○仏教が民衆の腑に落ちた
・仏教は公式には6世紀に百済から伝わったが、民衆にはそれ以前から存在したと思われる(※キリスト教も国教になるのは大分遅い。しかし民衆は仏教(お経)は理解できないのでは)。6・7世紀、官制寺院が作られる頃には、山林修行が広まっていた(※山林修行は、ほんの一部の裕福な人では)。律令制度を定めた際、山林修行を禁止している。山林修行から修験道が生まれるが、これらが民衆仏教になった(※仏教は鎌倉時代に広まったとの説があるが)。
・民衆の仏教は、教義から生まれる教義仏教ではないし、教団が作る教団仏教でもない(※難しくなってきた)。平安文学には聖(ひじり)の活動が記されている。鎌倉時代になると、民衆は観音堂/阿弥陀堂/地蔵堂などを作り、寺院化する事もあった。民衆が仏教を取り入れたのは、自分達の世界観と仏教の世界観が一致したからだ(※「念仏を唱えれば・・」程度の気がするが)。
○関係論の世界観
・仏教の思想は多様で、釈迦の仏教/上座部系の仏教/大乗仏教などで異なる。仏教は土着し、その土地に固有なものになった。しかし共通する思想は「空」である。例えば「心」は捉える事ができないが、楽しい/悲しい/寂しいなどの形で現れる。これは「空」と同じ現象である。※「本質は捉えられないが、現象は現われる」かな。
・日本人は「空」を関係として捉えた。人は自然・人・宇宙などと直接的・間接的な関係で結ばれている。この世界観と一致するのが、『華厳経』である。民衆がこれを読んで共感したとは思えないが、この思想を民衆は認識していた。欧州人は実体を捉え様としたが、日本人は全てが関係から生まれると考えた。この思想は正しく「空」である。※難解だ。読み切れるかな。
第1講 共同体の思想
<欧州の文明思想が限界を迎えた>
・「これから世界はどうなるのか」、この質問をよく受ける。地震・台風などの災害もあれば、経済・政治・社会もどうなるか分からない。欧州発の近代化が行われてきたが、その限界が見えてきた。本講では、そんな時代の生き方について述べます。
・近代化の元は普遍思想です。1789年フランス革命で「自由・平等・友愛」が掲げられた。政治は議会制民主主義、経済は資本主義が普遍思想になった。それが限界に来ている。
○普遍を追求する事の無理
・そもそも普遍思想は存在するのか。日本にも中国にも、風土に合った思想がある。経済も同じです。特に自然・土地に密接な農業は、それぞれが違って当たり前です。
・普遍(=グローバル)を追求すると、それはお金になる。1万円はどこに行っても1万円、1ドルはどこに行っても1ドルです。生産物には文化的・風土的・自然的・歴史的なものが付加されます。例えば和食には、和食に適した野菜が使われる。逆に西洋の野菜が口に合わない事がある。しかしお金だけは共通で、グローバルです(※これはお金の利点なのでは。しかし時間の視点を加えると、お金も不変ではない)。
・そのためお金が最大権力なのです。お金は国・日銀に支えられ、虚構なのに実体の様に存在しいる。この虚構が世界を支配している。
○経済統計の虚構
・経済統計の不正が問題になっている。しかしそもそも経済統計が虚構です。例えば新車を100万円で買えば、GDPに加算されます。しかし中古車を50万円で買っても、GDPには加算されません(※新古車の話もあるが省略)。メルカリで中古品を買っても、アマゾンで古本を買っても加算されません(※家事もGDPに加算されない)。統計の偽造が疑われていますが、統計自体が何なのか怪しい状況です。
・「戦後最長の経済成長が続いている」と言われます。しかしその実感はありません。安倍政権は都合の良い事だけを言っています。連合の統計から「賃金は上昇している」と言いましたが、連合に加盟しているのは大企業の正社員だけです。非正規雇用は含まれていません。この間に税金も社会保険料も上がり、可処分所得は減っています。
○国境も虚構
・北方四島はどこのものなのか。これは知床岬の直ぐ先にあります。ならば日本のものなのか。しかし元は北方先住民のものです。北方先住民が住んでいた土地を、日本とロシアが分割したのです。そうなると北海道全土もシベリアの東部も北方先住民に返さなければいけません。結局は国境は虚構なのです。
・韓国との間には竹島問題があります。竹島はどこの領土でもありません。ここ上陸するのは困難で、嵐の時に風よけに使ったのです(※海産物は獲っていたみたい)。しかし国際法だと、どこの国が最初に領土としたかで決まります。日本は江戸時代に島根藩が編入しています。しかしこれは島根藩が沖縄と密貿易をやっていて、沖縄本島を竹島と呼んでいたのです(※詳述されているが、この話は知らなかった)。尖閣諸島にも同じ様な問題があります。※中国・朝鮮は基本大陸国なので、海洋を利用したのは海洋国の日本かな。
・韓国でテレビのチャンネルを替えると、その度に竹島の写真が何秒も表示されます。また小学校では、「竹島は韓国のもの」という歌を唄わされます。これに「ハワイは米国のもの」の歌詞があります。ハワイは先住民のもので、米国が無理矢理併合したのです。
○虚構が実体を支配する世界
・世界は虚構が実体を作り、それによって争いが起きている。お金も政府も虚構です。北方四島は「全島返還」と言っていたのに、「二島返還」に変わりました。その内「経済権益があれば良い」などに変わるかもしれません。これも虚構だからです。
・お金も虚構ですが、虚構であるお金が実体を支配しています。カルロス・ゴーンが日産を改革し、「V字回復」と言っていますが、車が売れた訳ではありません。持っていた物を売っただけです。ベルサイユ宮殿での結婚式も恥ずかしいものです。
・世界は虚構が支配する世の中になりました。この原因は普遍を求めたからです。虚構であるお金が、世界を支配する様になったのです。この虚構が崩壊した時、世界を維持できるのでしょうか(※バブルが頻繁に起こっている)。私達は実体に回帰すべきです。風土・歴史などの積み上がってきたもので、足場を固めるべきです。
<日本の伝統的社会観の特徴>
○日本的も虚構
・「日本的」も虚構です。古代だと「青森から鹿児島まで」と云えるでしょう。北海道は松前藩ができるまでは北方先住民の土地です。奄美諸島は薩摩藩が併合したもので、沖縄は1872年(明治5年)に琉球藩を設置し、1879年(明治12年)に合併したものです。台湾は敗戦しなければ、そのまま領有したでしょうが、領有した時期は沖縄と余り変わりません。
・また古くは鹿児島は隼人の地で、熊本は熊襲の地で、東北は蝦夷の地でした。蝦夷は、蝦夷と名乗る民族がいた訳ではなく、都の人が「辺境の人」の意味で付けた名前です。東北の前は岐阜が辺境の境でした。時代によって日本は変わります。
○欧米の社会観-生きている人間だけの社会
・日本と欧米の社会観で大きく異なる点があります。欧米では「社会は生きている人間が作っている」と考えます。欧米の思想はキリスト教の影響で、普遍性を求めます。キリスト教では「キリスト教のみが正しい普遍思想で、これに従えば世界は良くなる」と考えます。近代化されるとキリスト教が外され、「正しい普遍思想に従えば、世界は良くなる」となったのです。人が亡くなると、神が天国か地獄かを決め、別の世界に行くのです。※こんな認識はなかった。後で日本の思想が出てくるが、それを読むと、何となく理解できる。
○奉仕の体系
・またキリスト教は「奉仕」を重視します。これは下位のものが上位のものに奉仕する体系です。一番下に草木があり、それを動物が食べます。上位のものは下位のものを食べる権利があるのです。例えば鳥は昆虫を食べる権利を持ちます。そしてピラミッドの頂点に知性を持つ人間がいて、さらに上位に神/キリスト/聖人がいるのです(※詳述されているが省略)。※この奉仕の概念も認識していなかった。ただし黒人や途上国への差別は、「知性がない」が根拠だったはず。
・近代になり宗教の部分は消えますが、奉仕の体系は強固に残ったのです。自然保護が言われる様になりましたが、これは土台である自然が壊れると、ピラミッドも崩れるからです。
○捕鯨論争の不毛
・牛・馬などの動物には知性があり、それらを食べて良いのか論争になります。そこで中世の教会は「野生の牛馬などは知性があるので食べてはいけない。ただし飼育している牛馬などは人間に奉仕するのが義務なので食べて良い」と裁定します。
・近年イルカ/クジラも知性があるとなり、日本の捕鯨が問題になっています。「捕鯨は日本の食文化」と言われますが、これには疑問があります。それはクジラを食べていたのは三陸/房総/和歌山などの一部だからです。戦後、学校給食に出る時期がありましたが、それは食料危機のため広められたのです(※全国的な食習慣と勘違いしていた)。この捕鯨問題は欧米と日本の論理の違いによるもので、虚構同士の争いです。
○自然と死者と生者の社会
・欧米の社会観は、「生きている人間だけが作っている」です。一方日本では、「自然と人間が平等に社会を作っている」と考えます。そしてこの人間には死者も含んでいるのです(※子孫については記述がないが、どうなんだろう)。例えば家には仏壇があり、外出する時「行ってきます」と挨拶し、頂き物があると真っ先にお供えします。つまり人が亡くなっても、関係が切れるのではなく、関係は存続するのです。
○日本の自治-自然と死者の意見を入れる。
・そのため「自治」の方法にも違いが現れます。日本だと自然と死者の意見も考慮します。生きている人間の意見は様々なので、日本の方が決め易くなります(※そのため日本は保守的・無策的で、欧米は革新的・現実的なのかな)。
・原発推進派の人は現代的と云えます。一方反対派の人は、「原発を作って、自然は喜ぶだろうか」「原発を作って、先祖は許すだろうか」と考えます。最近、放射性廃棄物の最終処分場の候補地に行きました。役所は政府から打診を受けていますが、地域分裂擦を避け、公表していません。しかし賛成派/反対派の意見を聞くと、生きている人間の事しか考えていない様です。もし自然・死者の意見を聞けば、原発を作る事にはならないでしょう(※最終処分?原発建設?)。
○祭りと年中行事は自治の仕組み
・ただし日本でも自然・死者の意見を聞く事はできないので、生きている人間はそれらの意見を反映させて言わなければいけません。そこで重要になるのが、祭り/年中行事です。仏壇を通し、毎日先祖と会話します。これにより先祖の意見が反映されるのです(※そんな感覚はないな)。生きている人間だけだと利害対立になるだけです。
<権力と民衆>
○古代-中央集権的権力の確立に失敗
・権力と民衆の関係を見ますと、卑弥呼の時代は地域豪族の世界で、統一国家はありません。その後大和朝廷ができますが、この時代も豪族連合で、統一国家ではありません。統一国家になるのは6世紀以降で、律令制になってからです。その先鞭になったのが聖徳太子(厩戸皇子)で、「十七条の憲法」「冠位十二階」などを作ります。日本の土地・人は国王(※天皇だな)のものになり、人は1代限りで土地を借り、年貢を納める様になります。その後、3代限りなどに変更されます。
○大和朝廷が支配した日本
・この律令制の日本が支配していた範囲は、畿内から北九州の範囲です(※東海・関東には条里制の跡はないのか)。『古事記』は神話と事実が書かれていますが、神話にも真実が入っています。天照大神の孫・邇邇芸命が天孫降臨した話が書かれていますが、これは天皇一族が土着民でない事を意味します(※神は天津神と国津神に分けられる。津はノの意味)。
・また日本武尊が各地を平定した事が書かれていますが、必ずしも武力で平定した訳ではなく、姫をもらったりしているので、懐柔政策が取られています。彼は伊吹山で亡くなっており、滋賀県の東でさえ、大和朝廷に靡かない勢力がいたのです。平安時代になっても、「丹後に魑魅魍魎がいた」とあり、ここにも朝廷に抵抗する勢力がいたのです。
・結局律令制は修正され、荘園制になります。これは荘園領主が支配を代行します。荘園制に移行した原因は、日本には強力な力を持つ共同体が元々展開されていたからです。※律令制は短期間で狭い範囲だったのか。しかし広島市近郊にも条里制の跡が沢山ある。
○中世-武装した共同体
・中世になると共同体は武装します。武士と農民の区別はなく、普段は百姓をやり、水争い/境界紛争などあると武器を持つのです。こんな状況が鎌倉時代に成立し、室町時代になると、さらに強化されます。
・室町幕府は統制力が弱く、戦国時代に移行します。この時代は気候が悪かった様で、米を十分獲れませんでした(※14~19世紀は小氷期みたいだな)。そのため農村を離れ、商人になる人が増えます。また足軽などの人員募集も頻繁に行われます。この時代、農村を基盤として大きくなった戦国大名はいません。武田信玄は金山、上杉謙信は日本海貿易、織田信長は貿易が基盤です(※信長は濃尾平野の農業が基盤と聞くが)。
○江戸時代-惣村自治の確立
・江戸期になると気候が安定し、農村の時代になります(※飢饉が結構あったと思うが)。ただ徳川幕府は農村から武器を取り上げ(刀狩り)、武士を城下町に住まわせます(兵農分離)。農村は武士がいなくなり、寄合でルールを決める惣村自治が確立します。そしてこのルールを決める際に、自然・生者・死者の意見が考慮されたのです。
○ご先祖様と惣村自治
・「ご先祖様」は自分達の地域社会を作った人達です。元は「地域のご先祖様」で、明治以降に「我が家のご先祖様」になります。江戸期に檀家制度が整ったため、「我が家のご先祖様」が可能になったのです。盆踊りは、お盆に帰ってきた「ご先祖様」に「うちの村も上手くやっています」と見せるためです。これも「我が家のご先祖様」ではなく「地域のご先祖様」です。
・昨年8月、神奈川県の真鶴海岸を訪れました。お盆の行事は、最初にお坊さんがお経を上げ、盆踊りをして、最後は精霊流しです(※詳細省略)。私は「ご先祖様はまだ生きている」と感じ、焼香させてもらいました。つまり「自然と生者と死者の世界」が存在したのです。
○明治以降-国民の形成、国家による民衆支配
・明治になると、国民国家が形成され、共同体的世界に終止符が打たれます。統一国家が作られ、人は国民として一元管理される様になります。そしてこの新しい仕組みが壁にぶつかっているのです。
※時々共同体の言葉を聞くが、かつての共同体を理解できた。
<結び合って暮らす社会へ>
○多層的共同体
・「共同体」の言葉は江戸期には存在しなかったので、英語だと「コミュニティ」の翻訳言語と思われます。江戸期には町・村の他に、講がありました(※里山で講の標識をたまに見る)。葬式は講でやり、庚申講/富士講/伊勢講など、〇〇講が沢山ありました。これが日本の共同体です。
・「わが町」「わが村」も単純ではありません。私は上野村に住んでいますが、江戸期は楢原村で、須郷集落でした。この様に多層になっています。他にも、檀家/氏子/伝統芸能/職業などの共同体があります。この様に共同体社会は、共同体が積み重なっているのです。
○欧州の共同体との違い
・大塚久雄の共同体論は欧州の共同体をモデルにしています。日本の民家は散らばっていますが、欧州は小さな都市に密集しています。欧州は戦いが多かったため、家を密集させ、塀で囲ったのです。そして中心に、領主の館/教会/広場がありました。ただ領主は1年に1回程度しか訪れず、家来が支配していました。広場は命令を下したり、処刑を行う場所でした。
・一方日本の農村に武士はいません。広場がない代わりに、神社でお祭りが行われ、お寺で市が開かれ、辻で旅芸人が芸を披露しました。この違いを認識すべきです。
○一体性を作り直す
・人間が生きる上で、様々な要素が存在します。「自然」が必要ですし、木の実を採るには「労働」が必要です。沢山採れれば贈答・贈与などの「経済」が発生します。「暮らし」があれば「地域」が生まれ、そこには「文化」「信仰」が生まれます。私の村には「山の神信仰」「水の神信仰」がありますが、田んぼが多いと「田の神信仰」もあります。これらの要素は相互性を持ち、それが前近代の伝統社会です。またこれらの要素は一体になっており、切り離す事はできません(※具体例は省略)。
・しかし近代になると「労働」「経済」「暮らし」「地域」などにバラバラになります。そして経済だけが肥大化し、「経済は発展したが、暮らしはメチャクチャ」「経済は発展したが、地域は壊れた」「経済は発展したが、文化がなくなった」となったのです。これらを元の様に一体化させ、虚構でない世界を作ると安心感が得られます。経済(お金)が暴走した社会を実体が伴った社会に再構築する必要があります。実際、共同体に関心を持つ人が増えています。
○共同体的生き方を選ぶ人達
・少し前、南大隅町で講演させてもらいました。そこには多くの移住者がいて、感心しました。「新潟では良い塩が作れない。それでここに来た」と云う人がいて、インターネットでの販売もしていました。また農村なのに、農業希望でない人が多いのです。農業をしながら別の手段(チョコレート作りなど)で収入を得ている人もいます。彼らが目指しているのが共同体のある生活であり、農のある生活であり、実体のある世界です。彼らを見て、お金が支配する虚構の世界は、実体のある世界に転換していると確認しました。
第2講 関係と実体
<本質は関係にある>
○最小実体を探ると
・欧州の考え方は、「最小の実体が組み合わさり、大きな実体が作られる」です。「原子があり、分子になり、様々な物資が作られる」となります。ところが調べていくと原子核、さらに素粒子がある事が分かり、素粒子は最小単位のクォークでできている事が分かりました(※素粒子にはクォーク/レプトンなど4種類ある)。化学物質で石油由来のものは、3千万種類あります。石油は基本的に炭素/酸素/水素の化合物です。これも結局はクォークから成ります。研究が進むと、クォークも何らかの最小物質で構成される事が分かるでしょう。そうなると物質なのかエネルギーなのか区別がつかなくなる(※相対性理論では、質量=エネルギー)。
・光には2つの理論があります。1つは光粒子理論で、光の粒子が飛んでいるとの説です。もう1つは波動説で、電波みたいなものが流れているとの説です。しかし今では「ある関係では粒子、ある関係では波動」と考えられています。
・炭素も炭に過ぎませんが、加熱するとエネルギー体に変容します。これも関係により物質であったり、エネルギーだったりするのです。※これは酸素との化学反応(燃焼、酸化)だな。
・この様に科学では最小単位の存在が怪しくなり、関係により様々に変化する事が分かってきました。そのため欧州の「最小物体が組み合わさり、実体を作る」が成立しなくなったのです。そのため物理学では「どういう関係が、何を作るか」が注目される様になりました。
○日本の考え方-関係が実体を作る
・一方日本は「関係が世界を作る」と考えてきました。例えば、夫と妻になるのは、夫婦の関係があるからです。世の中には大人も子供も大勢いますが、親と子になるのは、親子の関係があるからです(※夫と妻の存在と夫婦関係は同値の気がする)。日本はこの考え方を昔から重視しています。全ての根本は関係で、関係が実体を作るのです。
○自然も関係により様々
・自然も関係により変わります。農民の関係から見る自然と、都市の人の関係から見る自然は異なります。欧州は客観的に自然を見るので同じになりますが、日本だと関係によって千差万別になります。上野村でも、観光客/農民/林業者/釣り人など、皆自然は異なります。
・土佐藩出身でブルジョワジーになった竹内綱がいます。彼は沢山の会社を作りますが、「金融は邪道」と言って、金融機関は作りませんでした。彼は儲けた金を自由民権運動につぎ込みます。板垣退助が暴漢に刺された時、「板垣死すとも、自由は死せず」の言葉を発しますが、これは彼の創作です。彼は鉱山開発と工業生産に注力しました。至る所に出掛けていますが、「あそこは石炭が出そうだ」などの話ばかりしています。彼は自然を鉱物資源として見ていたのです。この様に自然も、関係によって様々な実体になるのです。これが日本の発想です。
○死者と関係を結ぶから、死者がいる
・日本は「自然と生者と死者の社会」と説明しました。近代的な解釈だと、「死者の魂が、その辺にいる」となります。ところが日本の解釈は、「死者と関係を結んでいるから、死者がいる」となるのです。そのため死者と関係を結ばない人には、死者はいないのです。多くの日本人は死者との関係を断ち切らないため、「死者がいる」となるのです。
・「神様・仏様はいますか」と聞かれますが、彼らと関係を結ぶから、存在するのです。西洋で「神様はいません」と発言すると、熱心なクリスチャンから「真実に目覚めなさい」と言われます。日本だと、これは余計なお世話になります。日本では関係が全ての本質で、関係により実体が作られるのです。
○正しい関係とは、「道」の追求
・この発想の人は「正しい関係」を探求します。農民は自然との関係/作物との関係を追求し、これにより良い農産品を作ろうとします。職人も素材との関係を追求し、良い作品を作ろうとします。これにより様々な「道」が作られたのです。剣には「剣の道」が、柔道・空手道も同じです(※剣の正しい使い方の説明があるが省略)。お茶も茶道になったのです。正しい関係の追求により、「道」が作られたのです。
<関係本質論と仏教>
○仏教はバラモン教改革運動から生まれた
・私は立教大学を辞め、その後「寺子屋」を開いています。教え子に真言宗のお坊さんがいて、その寺で月1回程度、開いています。前半は参加者が自身の課題を報告し、後半は私が話をしています。4年間位、仏教の話をしています。
・仏教は改革が繰り返し行われ、大変面白い。紀元前400年頃、釈迦が仏教を開いています。当時インドはバラモン教が広がり、それに批判的なのがジャイナ教でした。その改革運動として起きたのが仏教です。そのため極楽浄土/輪廻転生などは、それらから受け継いでいます。バラモン教はカースト制ですが、仏教はそれを否定します。仏教では「誰でも悟りの世界に行ける」ですが、これはジャイナ教を引き継いでいます。ただしジャイナ教では、そのためには苦行が必要です。しかし仏教は瞑想を重視したのです。※この辺の流れは知らなかった。
○大乗仏教の成立
・その後、仏教自体も改革が行われます。行った土地で独自の進化を遂げ、それぞれの仏教で内容が異なるのです。日本には大乗仏教が入りますが、この大乗仏教も紀元元年頃、インドで起きた仏教改革によるものです。それまでは寺で修行して悟りを開いていましたが、寺に入らなくても悟りを開ける様になったのです(在家仏教)。
○徹底した在家主義
・聖徳太子は『三経義疏』を書き、「維摩経」「勝鬘経」「法華経」を注釈しています。維摩経は、維摩居士が書いています(居士は「立派な人」の意味)。釈迦は維摩の容態が悪いと聞き、弟子に見舞いに行く様に言いますが、いずれの弟子も断ります(※詳細省略)。そこで大勢で見舞いに行きます。彼の部屋には何もなく、「空」を表していました。彼が元気そうなので議論を始めますが、常に彼が勝ちます。最後に「不二の法問」(2つの事は1つの事である)を議論します(※法問ではなく法門みたいだが)。しかし最後に彼に問うても、沈黙したままでした。これで皆は「真実は語る事ができない」と理解したのです(※それなら、その前の議論は虚構だったのか)。この様に維摩経は、出家した人が在家の人に負け続ける内容です。
・勝鬘経の勝鬘夫人は王様の奥さんで、彼女も在家の人です。勝鬘経は、釈迦が彼女を訪れ、彼女の話に釈迦が頷き続ける内容です。これらのお経は「娑婆で苦悩している人(在家)こそ、真実を知っている」を表しており、「聖地などでの修行で悟りを開けない」が仏教の本質としたのです。
・この大乗仏教が最も根付いたのが日本です。インドでは仏教は消滅し、中国には大乗仏教が入りますが、お寺の仏教になります。日本は在家が軸なので仏教の追求はされませんが、暮らし・考え方に仏教が入ります。日本の仏教は大乗仏教の本質に則ったものです。※それで意味が分からないお経を唱えるのか。
○なぜ日本に大乗仏教が根付いた
・大乗仏教は「関係本質論」が軸になっています。これは日本にあった「関係こそが真理」と一致します。そのため日本にアッと言う間に広まったのです。仏教も「自分の本質は関係でしかない。自分は関係の総和である」となっています。「家族/職業/地域社会/友人などの関係の総和が人を作る。その現われが人である」となっています。しかし関係には実体がないため、「世界は空」が仏教の立場です。
○自己も空、真理も空
・上座部仏教も同じ考えですが、大乗仏教と異なり、「真理はある」としています。大乗仏教は「真理も空であり、捉える事も、語る事もできない」(法空)の立場です。そのため維摩は語れなかったのです。
・しかし真理に近い事は語れるとして、お経を書いたのです。その代表が法華経です。法華経は「皆が私(釈迦)に頼っている。それではいけないので、私はこの世から一旦姿を消す。その前に正しい事を教えておく」が内容です。
○真理は語れない
・私が一番気に入っているのが「華厳経」です。東大寺の本尊は華厳経の盧舎那仏で、東大寺は華厳宗です。盧舎那仏は真理を知っていて、盧舎那仏自体が真理とされます。そのため盧舎那仏に真理を問うのですが、それを語る事はできません。盧舎那仏を見て、これが真理と理解するだけです(※色々説明しているが省略)。
・そこでの釈迦は、盧舎那仏の真理を知った人になっています。そのため盧舎那仏の隣に釈迦がいるのです(※キリスト教のイエスもイスラム教とムハンマドも預言者かな)。問を受けても、真理を語る事はできないので、釈迦は光を出すしかないのです。〇〇菩薩/〇〇天などが出てきて、色々な事を語りますが、これらは真理の一歩手前の方便です(※この点は規律的なイスラム教と異なるな。キリスト教の真理は教皇が決めるかな)。
・華厳経の終わりの方は、真理を知っている人に聞いて回るのですが、「ここまでは知っているが、この先はあの人に聞いてくれ」となり、最後は「盧舎那仏に聞いてくれ」で終わる経典です。
○1本の稲穂に全宇宙の体系がある
・華厳経で重要な考え方が「一即一切」です。これは「宇宙の全真理が、埃の中に詰まっている」とする考え方です。今の人には分かり難いが、かつての日本人は理解できました。自然の中で生きていると、1本の稲に全てが詰まっていると理解できます(※詳述されているが省略)。
・小さな世界に真理があるのは、全てが関係で結ばれているからです。目の前で虫が草を食べているが、草は自然が育てたものです(※詳細省略)。この様に関係は全地球的に広がっているのです。人も自分と云う単体があるのではなく、様々な関係により存在するのです。華厳経はこの関係論が軸になっており、盧舎那仏は宇宙全体の真理の現われです。
○利他に徹してこそ、自分も悟れる
・華厳経は「利他」も重視しています。そのため修行は利他行になります。つまり自分のための修行ではなく、全ての生類が悟りを開くための修行です。全ての生き物が悟りを開いた後に、自分も悟りを開くのです。世界は関係で結ばれているので、世界と自分が同時に悟りを開く事ができます(※これだと他を意識しなくて良さそうだ)。「利他」の反対は「自利」で、自利を激しく批判しています。
○あらゆる概念を否定
・華厳経は「差別」を徹底的に批判します。そして差別の原因を、「概念」としています。例えば男性/女性の概念があり、これにより女性差別が起きるのです。同じ様に動物/人間の概念により、動物が差別されるのです(※区別すると差別が生まれる。物事を理解するには区別が重要だが)。そのため「概念は持たない」となり、仏/我々も概念で、これを否定します(※全てを否定する事になる)。
・輪廻転生も否定しています。輪廻転生は、「自分の因(直接の原因)と縁(捕捉する原因)により別のものに生まれ変わる(因果)」との考え方です。因も縁も果も概念であり、これを否定しています。
○現象の奥で結び合う世界に帰る
・教典にはこの様な事が書かれていますが、翻訳もなく、重視されていません(※教典と経典の違いは何だろう)。『口語全訳 華厳経』『現代意訳 華厳経』などの翻訳があり、後に作られた密教の「大日経」「金剛頂経」の翻訳も含まれています(※詳細省略)。
・仏教には昔から「仏性」の考え方があります。これは「釈迦みたいな仏になるための種が皆にある」との考え方です。仏性は「如来蔵」とも云われます。これにより皆が悟りを開き、解脱できるのです。
・これに華厳経は少し違う考え方です。華厳経は「世界は奥で繋がっている」(奥の世界)と考え、この世界が真実の盧舎那仏の世界と考えます。そして自我を捨てれば、この盧舎那仏の世界で生きていけると考えます。そこから即身成仏思想が生まれます。修行は長くなるかもしれませんが、この世界に入れれば、即身成仏になれるのです。そのため即身成仏はミイラになる事ではありません。この即身成仏思想は真言密教に受け継がれています。
○清浄な関係は、自ずからの関係
・華厳経が日本に広まったのは、「全てが関係の上にある」が日本人の考え方と一致したからです。関係が清浄であれば、旨く行くのです。そこに邪が入ると、旨く行かなくなるのです。※節分の話が書かれているが省略。
・修験道では「般若心経」を重視しますが、華厳経の考え方も受け継いでいます。「清浄な関係」を考える際、「自然」(じねん)が出てきます。これは作為的なものが一切入らない状態です。華厳経に「法爾自然」があり、これは「自然のまま、自然の真理」の意味です。日本人の多くは農民で、作為的な事をすると失敗します。「自(おの)ずから」が大事なことを知っているのです。そのためこれらの考え方が短期間で受け入れられたのです。
・今の日本は欧州の近代思想が入り、「私が、私が」になり、「自ずからの関係」を重視しなくなりました。旧来の思想を振り返るのが必要と考えます。
第3講 明治以降の日本
<明治が潰したもの>
○富国強兵のウソ
・最近、明治以降の評価が変わってきています。ペリーが来航した頃のGDPは日米で変わりませんでした。ところが日米開戦の頃(1941年)は10倍に開き、明治以降に何をやっていたのかとなっています(※米国は13州から始まって、広大な国になったから当然かな)。この時期、日本は富国強兵に力を注いでいたのです。あえて擁護すれば、日本は250年間戦争をしていなかったため、近代的な軍事力を整備したからかもしれません(※幕末の日本は、世界的な武器市場だったらしい)。
・江戸期の鉄は、出雲の「たたら鉄」でした。今は、まず高炉で銑鉄を作り、これを転炉・電路で練り直して目的の鉄を作ります。一方「たたら製鉄」は、一気に鋼(はがね)を作ります。それは日本刀・包丁を作るためです(※農具はなかった?)。そして今、たたら製鉄は1ヵ所でしか行われていません。今日本の包丁は、大変人気があります。
・しかし日本の鋼は硬過ぎて、大砲に使えません。戦国時代の大砲は青銅で作っていしましたが、これだと20~30発打つと壊れてしまいます。そんな大砲を戦艦に乗せられません。八幡製鉄所で外国の技術者を抱え、大砲を作ろうとしたができませんでした。しかし出雲の職人が大砲を作るのに成功し、日清戦争ではこれが使われます。※鉄にも複雑な歴史があるな。
○在来技術を徹底的に潰した
・明治30年代になると八幡製鉄所で鉄が作れる様になり、日露戦争では、その鉄が使われます。出雲のたたら製鉄は潰され、八幡の独占体制になり、財閥・藩閥の利権構造が作られます。この在来技術を潰し、輸入技術だけを取り入れたため、GDPが増えなかったと思います(※数字的根拠を示して欲しい)。今はグローバル化が進められていますが、これも本当に経済力を強める方法なのか問い直して欲しい。
○地域の教育力を潰して国の学校に
・江戸期は地域教育が行われ、何通りもコースがあり、先輩が教える若者組みや寺子屋教育がありました。一番上手く行かなかったのが親の教育です。しかし明治になると、これらを潰し、国の学校に一本化したのです。そのため今でも学校とは何かが問われています(※説明が欲しい)。上野村では、Iターンで来た若者には、消防団/青年団に入ってもらっています。それで地域の事を知ってもらいます。
○生命が作る色から三原色へ
・学校の音楽教育では和旋律を教えません。五線譜の西洋式の旋律しか教えません。色も同様で、赤・黄・緑の三原色で色表現します。
・日本には2系統の色表現がありました。1つは染料による色表現です。藍染の藍色、アカネの茜色などです。それぞれに色の濃さがあり、藍色を薄く染めれば空色になり、濃く染めれば黒色に近くなります。もう1つの色表現が生命の色です。空色には白いものがあれば、スカイブルーの様な色もあれば、雨が降る時の灰色もあるのです(※これは困りそうだな)。同様に水色にも、無色透明もあれば、青っぽい色、緑っぽい色もあるのです(※萌黄色/紅葉色も説明しているが省略)。
※日本の色は様々あるだろうが、ピンと来ないな。問題になった肌色(ベージュ)、ミカン色(オレンジ)、コービーなどの茶色(ブラウン)、桃色(ピンク)、深紅、藤色などかな。日本に青はなく、全て緑だったらしい。何か整理できない。
・これを明治政府は三原色に変えてしまったのです。こんな事を徹底的やったので、経済力もダメージを受けたのです。明治以降の歴史を見直す必要があります。※明治政府は存亡の危機感を持ち、近代化・西欧化に突き進んだかな。
<国民の形成、国家への集約>
○国家もまた虚構
・近代は国民国家の時代です。日本は藩が国であり、その中には村がありました。それを中央集権的な日本国にしてしまったのです。これもお金と一緒で虚構です。※国も関係の1つかな。
・私達は国の制度から逃れる事はできません。運転免許証がなければ車に乗れません。海外に行くにはパスポートが必要です。これらの制度を無視する事はできません。別に藩が国でも良かったのです。国は「共同幻想のしろもの」です。お金と同じで、皆が信用するから実体になるのです。※歴史的に統治単位(良い言葉が浮かばない)は拡大してきたかな。
○虚構を支える共同幻想
・国が承認される条件は主に2つある。1つはメリットで、年金がもらえる、社会保険がある、子供を学校に行かせる事ができるなどです。
・もう1つは、「国が発展している」との幻想です。明治以降では、「日清・日露戦争に勝った」「アジアの強国になった」「欧米と肩を並べる列強になった」などです。今の中国は「GDPが世界2位になった」「世界の強国になろうとしている」などです(※侵略されては困るが、国家の事より、自分の生活・満足が重要かな)。国には「発展している」との幻想が必要で、これがないと瓦解します。ベネズエラの様に、失業者が増え、インフレになり、「この国は落ち目だな」となると、「良き国民」になる意欲がなくなります(※これは1つ目のメリットがなくなるからでは)。
・国の承認には、この2つの条件(メリット、幻想)が必要です。結局は軍事力や経済力で他国を屈服させる必要があります(※ハードな帝国主義/ソフトな帝国主義の説明は省略)。そのため過去に富を独占した先進国は、国の基盤を整える事ができたのです。※何か乱暴な理論だな。この理論なら大半の国は承認されない。
○先進国による富の独占の終了
・その先進国の富の独占が終わろうとしています。米国はGDPで1位だが、このGDPも共同幻想です。全部お金に換算するため、古い社会だとお金に換算できない経済が一杯あります。中国は人口が15億人いるので、大きくなるのは当たり前です。ポリネシアの国は人口が10万人しかいないので、常に最下位になります。これで人の幸・不幸を決めれない(※大体GDPは国力で、1人当たりGDPが人の裕福度かな)。
○苛立ちと、国家への期待
・この様な苛立ちの中で、「偉大な米国を再建する」としたトランプが支持されます(※苛立ちの記述はあったかな)。日本も中国に抜かれ、韓国に舐められ、プーチンにコケにされ、日本人も苛立つ。これにより「強い日本を守る」と主張する安倍首相に支持が集まります。結局、中国/北朝鮮/韓国/ロシアが安倍政権を支えています。この状況が世界中で起きており、近代的世界が行き詰っています(※大雑把な国際情勢の解釈だな)。国家主義が強まると、世界は行き詰まるのです。例えば、第1次世界大戦でドイツに多額の賠償金を課した事でナチスが生まれます。
<転換期のせめぎ合い>
・今は転換期にあります。転換期で悪い方に向かえば、ナチズムなどが生まれます。良い方向に向かえば、私達が望んでいる社会に向かいます。
○言葉が変る時
・転換期は言葉も変わります。日本は2度言葉を変えています。1回目は平安時代の終わり頃です。鎌倉時代に書かれた『平家物語』は、古文に慣れた人なら、それ程苦もなく読めます。ところが平安時代に書かれた『源氏物語』を読もうとすると、机に座り、辞書を引かないと読めません(※そんなに違ったかな)。これは古代の王朝時代から、中世の武家時代の転換期です(※末法思想も関係するかな)。
・2回目は明治で、外来語(明治言語)が沢山作られます。社会/共同体/自然/人間などがそうです。日本人は自然と人間を分けていませんでした。自然(じねん)は「おのずから」の意味で使われていました。個人もそうです。人は結び合っているので、個人を重視していません。明治になると個人を軸に、物事を考える様になります。
・転換期は、言葉も考え方も変わるのです。今はインターネットのLINE/電子メールで文章をやり取りする様になりました。これも明治以降の流れと考えます。
○保守と革新
・「保守と革新」の言葉があります。昔の革新は社会党などの社会主義者で、全てを変え様としました。一方保守は、「守りたいものが沢山あるので、多少は変えても、基本は変えない」との考えでした。ところが安倍政権は政治的には保守なのに、変革を試みています。例えば、女性を働かせる働き方改革/規制緩和/TPP/種子法の廃止などです。この変革の果てにグローバルやお金の世界があります。
○村と暮らしを守りたいだけ
・それに抵抗する人達が保守的になっています。昨年隠岐の海土町を訪ねました。そこに大勢の若者がやって来て、自由に地域作りをやっています。そしてそれを支援する島民がいます。見ている人も一緒にやっている人も、「島を守りたい」だけです。
・島には田んぼもありますが、収入は漁業です。島は岩山で、入り江毎に共同体が作られ、神社・寺があります。ただし放牧は自由なので、牛が飼われています。彼らは「島を守りたい」だけなので、保守です。この考え方は、私の上野村も一緒です。
・ところが今は様々なものが潰され、新しい事をやらないと守る事もできません(※変革は必須かな)。そのため海土町も新しい人を入れているのです。しかし根底にあるのは「島を守りたい」で、保守主義です。
○元の姿に
・この様な保守主義の人が、安倍政権の変革に抵抗している形になっています。むしろ政権側が「あれもこれも変える」で、革新になっています。
・大学にいた時も文科省から「変えろ、変えろ」で、「授業の1/3は英語でやれ」と要求してきました。そうなると先生は大変です。留学生から英語でバンバン質問され、答えられるでしょうか。通訳の話がありましたが、そのお金は補助されるのでしょうか。やはり生の声の方が、授業の質は高まります。
・この様に保守の人達が革新になり、本当の保守の心情を持つ人が、これに抵抗する形になっています(※グローバル化により変革が必要な時代かな)。本当の保守の人は、「共同体が大事」「自然が大事」「自然と人間の関係が大事」と考えており、「元の姿に戻ろう」が基本にあります。
○伝統回帰の時代
・この「元の姿に戻ろう」も、完全に元に戻す訳ではありません。江戸時代に戻るとなると、人口を3千万人にしなければいけません(※詳細省略)。「大事なものを残し、現代を再創造しよう」と考えています。今は伝統回帰の時代です。
<近代的世界は行き詰っている>
○国民国家・市民社会・資本主義、どれも限界
・近代は国民国家の時代で、社会は市民社会、経済は資本主義の時代です。しかし国民国家は限界に達し、市民社会は個人主義になり、資本主義で格差が広がっています。
○なぜ外国人労働者か
・「人が足らないので、外国人を入れよう」となっています。「今年は20万人」の話がありますが、家に閉じ籠っている人が60万人います。彼らは社会復帰したいので、それをNPOなどが支援しています(※詳細省略)。外国人を入れるより、彼らの社会復帰を実現すべきです。
・障碍者も同様で、彼らは働きたいのに、働く場所を提供されません。これもNPO/ボランティア組織が支援しているので、政府はこれらに財政支援すべきです(※障碍者を雇用すると、法人税減税などがあったはず)。
・立川の商店街は、彼らを受け入れる事で活性化しました。しかし政府は、手っ取り早く、しかも使い捨てできる政策を実施しています(※外国人受入れには、様々な政策があった)。
○人間の搾取から、道具の使い捨てへ
・1960年代仏国も労働力不足になります(この時期、どの先進国も高度成長した)。そこで欧州各国は外国人労働者を大量導入します。仏国は旧植民地のアルジェリア/モロッコから大量導入します。困ったのは日本で、韓国/中国などから外国人労働者を入れる事ができませんでした。そこで日本は機械化・省力力で乗り切ったのです(※長時間労働は?)。10人必要なのに、8人で回し、徹底的に労働者を搾取したのです。その代わり、社会福祉/忘年会/運動会/飲み会など、人間を丸ごと利用したのです。
・今はそれが非正規雇用になり、道具として使われる様になっています。60~70年代の経営を「嫌だな」と思いますが、今よりマシだった気がします。かつては人間の搾取でしたが、今は使い捨ての道具になっています。非正規雇用の賃金は、会計上は人件費ではなく物品費で、機械油と同じ扱いです。
・日本は60~70年代に生産性の高い工場を作り、70~80年代に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」になります。それなのに、なぜ外国人労働者なのか疑問です(※グローバル化しないと、生産性が高くならないからです)。
○仏国の差別
・私は仏国によく行くのですが、外国人を入れたのは失敗と思います。70年代終わりになると、仏国は不況になります。外国人に帰って下さいとなり、帰国費用の補助などをしますが、帰る人はいません。彼らは母国に経済基盤がないため、帰国しません。
・仏国は革命の国で、人種差別はないとしていますが、実際は行われています。企業は入社試験で名前にアリやマホメットが付いていると、採用しません。
○労働者の世界
・パリにいた時、ロングウィの工場で暴動が起き、それを訪ねました。夕方に行ったのでホテルを探したのですが、カフェにいた労働者は、「今ここには仕事はない」と教えてくれません。「日本から来た」と伝えると、ホテルを紹介してくれました。彼らは「労働者か」と訪ねてくるので、「ウィ」と答えなければいけません。彼らは「自分達の仲間だ」と理解すれば、丁重に扱ってくれます。※何か矛盾がある。最初は労働希望者と判断して拒否している。また労働希望者が増えるのは、彼らの就職をより困難にするのでは。
・この様な時代、私達は前近代から学ぶべきです。労働/経済/昔の共同体(惣村)の在り方などを見直し、「自然と生者と死者の社会」の社会観や多層共同体の考え方を顧みるべきです。
○フランス革命以来の失敗
・最近強く思うのが、フランス革命の失敗です。この時、中央集権の絶対王政が終わるのですが、中央権力の見直しを行っていないのです。中央権力を維持し、民主主義的な共和制に移行したのです。そのため権力を握ると何でもできる様になり、国民が皇帝を選ぶ様になり、ナポレオン1世・3世は選挙で選ばれています。革命直後には、ジャコバン独裁/ロベスピエール独裁も行われています。※この時期、中央集権を見直すのは無理かな。逆に中央集権が強まっていく時代と思うが。
・1930年代ドイツはナチズムの時代になります。この時仏国でもファシストが権力を握る寸前で、人民戦線ができ、阻止しています。この時パリはファシストの拠点になり、その周囲を人民戦線が包囲する形になります(※ドイツ占領前から分裂していたのか。知らなかった)。レジスタンスの時代になると地方が抵抗運動し、パリでゲリラ戦をやったのです(※ドイツ占領期だな)。
・仏国はこの歴史を偽造し、全員がレジスタンス運動した事にしています。この時南部にヴィシー政権ができてナチスに協力しています(※先程の地方が抵抗したのと話が異なる)。しかし仏国の教科書に、このヴィシー政権の記述はありません。
・仏国にも排外主義者がいます。インテリが多いのですが、「アジア人は民主主義を知らない」とチクチク言ってきます(※これは真実かな)。そこで「仏国はヴィシー政権を作りましたね」と返すと、「君とは議論しない」となります。
・フランス革命後も中央集権国家であり、社会主義もそれを踏襲しています(※東側の事かな)。強大な中央権力を行使しますが、良い社会になりませんでした。これは西側と同じです。
○小さな単位が全権を持つ仕組み
・私は「人が自然と寄り添える範囲の自治体が、全権を持つべき」と考えています。日本でそれをやると、市町村が全権を持つ事になります。ただし「今の市町村で良いのか」の見直しが必要です。
・市町村でやる事が難しいのが、外交・防衛です。また道路交通法も無理があります。これらは「市町村の権限を県・国に委託する」となります。そして市町村が納得しなければ、従わなくて良いのです。そうなると沖縄は外交・防衛を国に委託しないでしょう。辺野古基地建設の県民投票が行われますが、国は結果がどうであれ、「建設する」と言っています。これはケンカ腰で礼儀正しくありません。
・小さい所が全権を持ち、出来ない事を大きな所に委託する仕組みにすると、最初は慣れないでしょうが、10年経てばできる様になります。保険制度なども自分達でできないでしょうが、その判断ができる仕組みにした方が良いと考えます。
・今は中央集権のため、権力を握ると、何でもできます。そのためトランプ的扇動/安倍的扇動/プーチン的扇動が行われています。国民を扇動し、危機を演出し、選挙に勝てば何でもできます。これは中央集権体制の失敗です。
○既に動いている人
・こんな世界を嫌い、「関係と共に生きたい」と考え、移住したり、ソーシャル・ビジネスなどの仕事に就いている人がいます。以前はソーシャル・ビジネスは経営が難しかったのですが、今は安定しています。消費者も「フェアトレードのあそこから買おう」となっています。ネットでの購入もできるため、そこら辺の叩き売りより経営は安定します。農産物でも市場価格より高くても購入してくれるお客様がいます(※オーガニックかな)。
<これからの課題-信仰>
○本来の日本の信仰
・宗教/信仰も明治に作られた翻訳語です。日本の宗教は、ご飯の時の「いただきます」「ごちそうさまでした」など、先祖に感謝する気持ちです。しかし「御先祖教」に入っている訳ではありません。自然にも感謝していますが、自然に神を感じ、祀っている程度です。仏教が入ってきても、普通に溶け込んだ感じです。
○仏教も教団化した
・仏教も今は教団化しました。仏教は、〇〇宗の話になっています。キリスト教は複数の教団に分かれており、これを「仏教のキリスト教化」と言う人がいます。これも明治以降の事です(※宗教の商業化かな)。
・江戸期、お寺はいずれかの宗派に入らなくてはいけなくなりました。地域の人には「地域の寺」だったのが、「曹洞宗の寺」「浄土真宗の寺」になったのです。そして明治になり教団化し、本山/末寺の関係が確立されます。
・日本の信仰は、生活/労働/地域/食事などに普通に存在し、地域社会や家族に共有されるものです。共同体の最小単位である家族では、「仏壇を大事にする」「神棚を大事にする」「祭りには参加する」などが共有されていたのです。地域にも「水の神信仰」などがあって、それらが共同体を1つにしていました。今はそれらがなくなり、それなのに「関係性」「共同体」の言葉を使っています。今の宗教・信仰とは違った意味の宗教・信仰を考えなくてはいけません(※よく意味が分からない。かつての信仰の復活?)。
○修験道が人気
・修験道も教団化しましたが、それぞれが独立し、古い形が残っています。京都の聖護院は1千位の寺持っていましたが、明治以降に潰され、100位が残っています。しかし各寺は独立しており、本山は印を押すだけです。
・最近は修験道の山伏修行が人気で、外国人も参加しています。しかし「修行するため、教団に入れ」とは言いません。「自分は曹洞宗ですが、改宗しなくてはいけませんか」などの心配もいりません(※聖護院は本山修験宗)。日本の信仰は、山の神信仰/水の神信仰/田の神信仰などが混在しており、そんな事は問われないのです。ところが明治になり、修験道は修験道禁止令などで弾圧されます。逆にこれにより仏教教団とは違い、明治以前の形が維持されたのです(※弾圧されると、以前の形が維持される?教団化・統制化されなかったかな)。
○信仰の問題
・この信仰の問題(※信仰の形?教団化?)を考えなくてはいけませんが、学問はこれを苦手にしています。宗教学は宗教研究です。民俗学が民衆信仰を扱いますが、地域の信仰は扱いません。近代は「信仰は自由」としているので、学問は宗教を対象にしていません。宗教学は存在しますが、それを教えている大学は幾つもありません。そろそろ、これを問題にすべきです。地域を考える上で、宗教は需要です。
第4講 変革の思想を再検討する
<凌いでいく柔らかい発想>
・今は国の危機/国家間対立/経済の変動など、何が起きるか分かりません。そのため凌いでいくための柔らかい発想が必要です。そのため地方に移住する若者が増えています。
○老化した政治の世界
・2020年大統領選で、予想ではトランプが再選されると考えられています。理由は彼を支持する人が3~4割いるからです。米国の中間選挙の投票率は30%強で高くなく、2016年大統領選でも60%程度でした。米国は州知事の権限が強く、自身が所属する政党に有利な様に、頻繁に選挙区を変更します(※詳細省略)。また選挙の度に選挙人登録が必要になります。その時州によっては顔写真付きの身分証明書が必要になります。これはヒスパニック系/貧困層などを排除するためです。これは憲法違反で訴訟になりました。
○国家や経済に巻き込まれない基盤
・日本の場合、1/3が自公に入れ、1/3が反自公に入れます。残りの1/3は投票しないか、状況を見て、どちらかに入れます。そのため、両陣営が1/3を固められるかが重要になります。民主党政権ができたのは、民主党は1/3を固める事ができたが、自公は1/3で漏れがあったからです。結果、小選挙区制なので民主党が大勝します。
・近頃ニュースでは、アナウンサーも解説者も「民主党政権は酷すぎた」と言います。これが枕詞になっていますが、今の自民党より真面だったと思います。アナウンス効果で国民は洗脳されています。必要なのは、これらの政治・経済に巻き込まれない基盤を持つ事です。そのため最近の若者は「大企業も当てにならない」と考え、社会の変動が起こっています。
○「固有の人権」を超えて
・近代は、自由/平等/民主主義などの普遍的な理念があると信じられてきました。しかしそれらは破綻しています。人権は元々は「神が人間に与えた固有の権利」でした。今は神が消え、「人間の生まれながらの固有の権利」となっています。元々は神への奉仕とセットです。この奉仕は、今は納税です。そのため地方税を払わないと、社会保険に加入できません。
・従って、人権は「生まれながらの固有の権利」ですが、その中身を決めるのは、政治です。女性の権利が問題になりますが、政府の目的は、女性にも働いてもらい、GDPを上げる事です。そのため女性の権利には作為を感じます。一方で選択的夫婦別姓制度は認めていません。夫婦別姓になると、家が崩壊すると考えています。
・この様に、「固有の権利」を決めているのは政府です(※鋭い着眼点だな)。個人の権利から物事を考えるのは適切でなく、「どういう関係を作れば、尊重し合える社会を作れるか」を考えないといけません(関係論)。自然との関係であれば「自然と人間がどういう関係を作れば、尊重し合える仕組みになるか」、人との関係であれば「どういう関係を作れば、差別や不当な扱いがなくなるか」を考えないといけません。人権の発想は良くないと思います。※中々の発想だ。
○矛盾を引き受ける勇気
・しかし現実には、人権侵害が多々見られます。そのため現実に対応するための思考・発言と、本質に基付く思考・発言が必要になります。非正規雇用が40%を占めます。そのため現実的には「ちゃんと雇用し、雇用・待遇を保証しないといけない」と言わざるを得ません。しかし本質には、「雇用されれば、それで問題ないのか」があります。そのため就職しても、数年で辞めてしまうからです。今の雇用制度がベストなのかを問わなければいけません(※近年様々な取り組みが行われている)。これからの時代、この様な矛盾を引き受け、凌いでいかなければいけません。
○対決を悲しさとして引き受ける
・日本と欧米では、批判的行動が異なります。欧米では「正しい意見で批判・行動し、明るい未来を作る。そのため批判・監視が重要」と考えます。一方日本は、「世界は空で、私も真理も空。そのため批判は無意味」と考えます(※こんな人は珍しいのでは)。しかし現実的には問題に対し、発言・批判・行動が必要です。日本的思想は、「明るい未来を作るために必要」と考えておらず。「できればやりたくない」と考えます(※よくある批判すると「空気を読めないやつ」だな)。
・そのため批判的行動は「悲しさ」として引き受けられています。「社会との対決は悲しい事。本当なら空や悟りの世界で生きたい。しかし現実は様々な問題があるので、悲しい事として引き受けざるを得ない」と考えます(仏教の対決理論)(※仏教にこんな理論があるのか)。「本当はやりたくないけど、現実的には問題を批判せざるを得ない」が日本の思想です。※何かこの思想自体が悲しい。
<役割を引き受ける>
○小さな役割、大きな役割
・私達に必要なのは、自分の役割を理解し、それを実行する事です。役割には様々あります。例えば車椅子の人の補助など短時間で終わるものもあります。※トム・ホーバスも役割を重視していた。
・上野村では毎年1月5日に新年会が行われ、人口1200人なのに、200人が集まります。そこで功労者が表彰されますが、その表彰基準は「村に長く住んだ人」です。地域社会では長く住む事が役割なのです。
・農業を続けるのも役割です。一生懸命工夫する人にも、標準的な農業を続ける人にも敬意を払うべきです。地域の農業をどうするか議論になります。「農薬を減らしたい」「こういう農業は止めよう」などの意見が出ますが、これは人への批判になります。しかし農業を続けてきた人に敬意を払う事と、やり方への批判は両方必要です(※これも関係かな)。
○主体的な変革から役割へ
・役割には大小様々なものがあり、それを一つひとつ引き受けるべきです。そのため西欧の「自分が主体になり、変革の思想(?)を作るのが良い」との考えは間違いです。自分から主体的変革プログラムを作った人は失敗します。例えばトランプの「偉大なる米国の再建」です。近代は、この主体的変革プログラムを繰り返してきたと思います。これにより世界が壊れたのです(※余りにも漠然とした評価だな)。
・大小様々な役割をこなしていく。必要ないと感じる役割があっても、それを「悲しい」と感じながらも引き受ける。そうすべきと思います。※著者は悲しいと思いながら、色々な事をやっているのかな。
○関係的世界があるから役割を感じる
・役割は関係の中で見ると、本当の役割が見えます。自分だけで見ると、見えません。本当の役割を見付け、それを上手に凌ぐのが私達の課題です。
・私も山の下の木を伐って、薪にしています。森林組合に電話すれば、軽トラ1台で1万円です。こちらの方が合理的ですが(※詳細省略)、元気な内はそうしたくない。私が所有する森は広くないので、これも役割と思ってやっています。これも村との関係があるからです。もし私が別荘として住んでいるなら、薪を購入するでしょう。役割も関係の中から生まれる。それが基盤の時代を作りたい。
あとがき
・東北農家での勉強会の講師役は、35年に及びます。そこでは、その時に一番関心を持っている事を話し、最後に参加者と議論します。この様な勉強会を九州でも開いています。東北での勉強会の報告は、農文協が書籍化しました(1988・94・97・00・01・14年)。そして2017・18・19年の報告を単行本化しました。
・この30数年で社会は変化し、市場原理が広がり、格差社会になり、先進国の地位は低下しました。国民国家/市民社会/資本主義は綻び始め、人々の考え方も変わり始めています。
・例えば農業・農家・農村に対し、封建的/家父長制/遅れた農業などのマイナスイメージがありました。しかし今は人々は共同体的関係を求める様になり、農村は目標となり、農業は人気産業になり、その暮らしを求める人も増えました。この形(共同体、コミュニティ)は都市でも求められています。利益の最大化を目指すのではなく、共に生きる社会を目指す人に出会います。
・一方で横暴で荒廃した資本主義が展開されています。これにより国家主義的な政治勢力が増加し、国際対立が深刻化しています(※今は国が最強権力の単位だからな)。そのため近代の価値観を検証し、新たな創造の道を歩もうとする人が生まれました。
・この様な変化を感じ、東北/九州で勉強会を続けてきました。しかしこの東北/九州の農家は同じではありません。東北では冬は雪と寒さの中で暮らします。雪の中に野菜を保存し、雪が溶ける頃には素晴らしい山菜が芽を出します(※野菜と山菜は別の話かな)。一方九州は古代から都市が形成されたため商業が基盤にあり、冬でも畑を耕せます。どの農民も自然と共に暮らしていますが、一概に「日本の農民」と云えません。もしかすると「農民」は、いないのかもしれない(※兼業農家は多いし、元々農民は百姓)。そんな事を考えながら勉強会を続けています。