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『生命と谺 川端康成と「特攻」』多胡吉郎を読書。

親族に特攻隊員がいて、その関係で読む。

川端は報道班員として鹿屋基地に1ヵ月間滞在し、特攻隊員と暮らしている。
川端の作品と特攻の関係を詳細に調べた結果を書いている。

『生命の樹』『虹いくたび』などが書かれた背景がよく分かる。
山岡荘八/三島由紀夫についても解説している。

抒情的表現が多く読みづらい。

お勧め度:☆☆(川端/特攻/生命などに関心がある方)
内容:☆☆☆(膨大な調査結果)

キーワード:<はじめに>特攻体験、<海軍少佐>特攻、生と死、<私信が語る>報道班員、神雷部隊、<記録・証言に見る>林大尉、「海の歌声」、メモ、<鹿屋>航空基地、電信室、野里国民学校、<英霊の遺文>遺文集、日本の魂、無言、母なる内地、<出会った特攻隊員1>野里国民学校、封筒、遺書・遺品、生命、スポーツ選手、山岡・川端、<出会った特攻隊員2>安倍能成、花嫁人形、娼家、理容師、親交、<生命の樹>「女の手」「感傷の塔」「再会」、娼家、<特攻体験>れんげ草と星空、娼家、歌、詩、若葉、<虹いくたび>乳房、入院、魔界、舞姫、春、<再びの鹿屋>ハンセン病、洋裁、魔界、宮崎、霞ヶ浦、<三島由紀夫>ノーベル賞、「英霊の声」、遺書、盾の会、<生と死>「鴾色の武勲詩」、生命、乳房、「雪国」、生きる力、<あとがき>自殺

はじめに

・1968年、川端康成(1899~1972年)はノーベル文学賞を受賞し、ストックホルムで「美しい日本の私」を講演する。それは日本の伝統美(※自然美?)や「もののあわれ」を描く彼にふさわしいものだった。彼は鎌倉・京都などで過ごすが、特攻隊の航空基地を1ヵ月程訪れていたのを知る人は少ない。10年前、私(※著者)はそれを知って驚いた。彼も軍部の宣伝工作に駆り出されていた。

・実は私は鹿屋(かのや)と無縁ではない。住んではないが、鹿屋の同人誌『火山地帯』に入っていた。私は彼の主要作品を読み直した。特攻に関しては、『生命の樹』『虹いくたび』などの「特攻体験」に触れるものがあった。学生時代によく読んだが、50代半ばで読み直し、彼が崖っぷちで、哀しみを抱えて書いた事を感じた。

・一方で特攻隊員(※以下多くで隊員)についても調査した。不思議に感じたのが、川端が特攻基地を訪れた事が顧みられていない点だ。逆に言えば、彼を研究する余地が私に残されていると感じた。結論からすれば、彼はこの特攻体験を引きずり、心の傷になっていたようだ。この喪失・哀しみを、前向きな生へ転化させたようだ。彼が没し、50年になる(※詳細省略)。「美しい日本の私」を語った彼の心の内を、本書で知って頂きたい。彼は戦前・戦後の大作家である。

・一つ加えると、特攻論は二極論になりがちである。平和主義者は犠牲者・被害者として捉える。一方祖国に殉じた勇者として美化する見方もある。第3の視覚が必要と思う。

第1章 赤い靴を履いた海軍少佐

・1945年4月24日、40代半ばの川端康成が鹿屋海軍航空基地に降り立った。彼は2年前に世を去った作家・徳田秋声からもらった赤い網靴を履いていた。これに新田潤(40歳)と山岡荘八(38歳)が同行している。彼らは報道班員として徴用され、川端は少佐、新田・山岡は大尉の肩書を与えられた。鹿屋は特攻の最前線で、連日米軍の空襲を受け、既に戦場の様相だった(※詳細省略。サイパンの陥落は前年7月)。1ヵ月後の5月24日、彼は鎌倉の自宅に帰宅している。

・川端は、1955年エッセイ『敗戦のころ』で鹿屋での体験を述べている(※大幅に簡略化)。
 私は報道班員として鹿屋飛行場に行った。「沖縄戦は1週間くらいで終わる」と言われたが、偵察写真などから形勢は判断できた。また艦隊も飛行機もなかった。私は将校服に着替え、出撃を見送った。
 隊員からは「あなたはここに来てはいけない」「あなたは帰った方が良い」などと言われた。出撃直前まで武者小路を読んだり、一高校長に言付けする者がいた。飛行場は連日爆撃され、敗戦は見えていた。特攻隊について書く事はなかった。

・短い言葉だが、情が籠る。彼は隊員を忘れる事ができなかった。1944年10月特攻が始まった。それでも戦況は変わらなかった。1945年3月沖縄戦が始まる。沖縄が奪われると、次は本土が戦場になる。そのため九州各地から特攻が出撃した(※鹿屋/知覧だけではないのか)。鹿屋からも数日毎に出撃した。隊員は10代後半から20前半で、平均は21歳だった。川端らは滑走路で彼らを見送り、無線室で最期の瞬間を確認した(※電信室も併用されているが、無線室で統一)。出撃以外の時間は隊員と会話した。

・「九死に一生」の言葉があるが、彼らは「十死零生」だった。基地では、それが積み重ねられた。終戦までに鹿屋から出撃した隊員は908名である。いかに国防のためと言え、そこには倫理の根本的問題がある。隊員は自身の死を、どの様に納得できたのか、それは当人しか分からない(※「諦め」「家族・日本を守るため」の思いがあったのでは)。そしてそれを見送った川端らには、鉛の重石の様な体験になっただろう。この問いを質す前に隊員は散華してしまうが、遺された者は答えの出ぬ間に、次の散華を見送った。遺された者には時があり、今日があり、明日があり、日を浴し、鳥の囀りを耳にする。※大幅に省略。

・川端の小説は、生に死が寄り添い、ふと亀裂が生じ、奈落の底が覗く。彼は2歳で父、3歳で母、7歳で祖母、10歳で姉を亡くし、15歳で育ててくれた祖父を看取っている。処女作『十六歳の日記』は、その看取りの記録である。男女関係においては、死は官能の間に微笑んだ。しかし鹿屋での死は文学と異なり、巨大な壁になった。それは人の死とは見られず、死が大量生産された。彼は悲嘆したかもしれない、涙を枯れたかもしれない。その生と死が集約された場所に身を置き、彼の文学はどの様な影響を受けたのだろうか。

・しかし彼と鹿屋との関係を取り上げた論考は少ない。僅かに李聖傑『川端康成の「魔界」に関する研究-その生成を中心に』、森本穫『魔界の住人 川端康成 その生涯と文学』に見られる。1961年文化勲章、1968年ノーベル文学賞を受賞しているが、彼の特攻体験はスルーされている。
・彼は訪れた土地を「故郷」として小説を書いている。1926年『伊豆の踊子』を書いているが、鹿屋を舞台にした事はない(※鹿屋訪問は短期間で、自主的に訪れた訳でもない)。鹿屋からも川端の足跡を発信していない。今は陸上自衛隊の歴史史料館があり、平和運動・平和教育が発信されているに過ぎない。もっと彼の特攻体験が顧みられるべきである。

・彼は戦争の影響を余り受けなかった作家である。彼は「私は戦争の影響を余り受けなかった。戦前戦後で断層はないし、作家生活・私生活でも不自由は感じなかった」と述べている。彼の『雪国』は1935年に発表され、1937年に単行本が発行され、今の完結本になったのは1948年である。この本にも、戦前の国粋主義・軍国主義から戦後の民主主義に転換した断絶は見られない。一方で『山の者』の様に、敗戦の世相を反映した本も多い。

・1945年8月17日、彼は文人仲間の島木健作を亡くしている。この告別式で、彼は自身を「死んだ者」と述べている。これは島木の死だけでなく、様々な哀しみから溢れ出たのだろう(※詳細省略)。彼には彼なりの特攻体験があり、それを引きずったに違いない。彼の中では若者の命の重みが梵鐘の様に尾を引き、谺(こだま)していたはずだ。

第2章 私信が語る川端の特攻体験

・川端が鹿屋に立つ前日、知人の石井英之助に書信を送っている(※本文省略)。石井は文藝春秋社の編集者で、同じ会社に勤め、菊池寛の秘書となった佐藤碧子の夫である(※何か複雑な関係みたい)。1938年川端はこの結婚の媒酌をしている。

・川端が特攻作戦の報道班員に選ばれた事情は、主計大尉・高戸顕隆が書いた『海軍主計大尉の太平洋戦争~私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部』から確認できる。1945年2月海軍は報道班員をフィリピンに派遣する事で動き出す。高戸は『台湾公論』を書いた吉川誠一に相談する。まずは志賀直哉を訪ねるが、高齢のため固辞される。4月10日彼は志賀が推薦した鎌倉の川端を訪れる。高戸は「記事は書かなくても良い」と約束し、川端は承諾する(※詳細省略)。4月23日川端/新田潤/山岡荘八は海軍省に出頭する。そこで高戸は「直ぐに書かなくても良いが、戦さの実体を、日本の戦いを、若者の戦いを書いて頂きたい」と述べている。

・文人仲間・高見順も、出立前の川端を日記に残している。「4月23日久米、川端、中山、私で貸本屋の相談。明朝川端が出発となり、壮行会になる」。これは鎌倉在住の作家が蔵書を持ちより貸本屋「鎌倉文庫」を開業する構想である(※詳細省略)。

・翌24日午前、川端は厚木飛行場から離陸するが、米軍による攻撃の可能性があるとして引き返し、午後に再び離陸する。この状況は、山岡荘八が朝日新聞に連載した『最後の従軍』(1962年8月)からも分かる(※大幅に省略)。
 鹿屋は既に戦場だった。格納庫には落弾・掃射の跡があり、滑走路は穴だらけだった。
 第5航空艦隊付になり、敵機を迎え撃つ雷電部隊か、神雷部隊に行くように言われた。
・結局、神雷部隊の配属になる。これは「桜花」という特攻用の重量爆弾付き有人ロケットの部隊である。

・28日川端は秀子夫人に書信を送っている。「安着、安眠、安全。隊員も書物を熱望しており、鎌倉文庫から三四十冊を寄贈して貰えないか。厚木から送ってもらえば好都合」。当時は物資が欠乏し、出版事情は悪化しており、鎌倉文庫は出立前日に話が纏まった。鹿屋で本が不足している事を知り、夫人に依頼をした(※当時は娯楽もなかっただろうが、流石文学者)。これに関し高見も、「鎌倉文庫は繁盛した」「川端からの依頼で本を選んだ」との記事を残している。

・5月2日川端は養女・政子に書信している。「時限爆弾は愛嬌者です。防空壕で隊員から菓子を貰いました。彼らは義彦さん・潤太郎さん(?)の様な人達です。元気で敵艦を沈めるために飛び立ちます。あなたは女学生なので勉学に励んで下さい」。米軍の時限爆弾はいつ爆発するか分からず、夜中などに突然爆発する。ここで注目すべきは、防空壕で菓子を貰った事です。彼は隊員と身近に接していたのです。そしてそこには生と死の大きな落差があった。

・続いて秀子への書信になっている。「深田(?)から九州の地図を借り、家に置いておいて欲しい(※小説を書くつもりだったのかな。今は地図なら幾らでもあるが)。八郎君(?)の名前は今夜考える」(※他にも言付けが色々書かれているが省略。今なら電話だけど、大変だな)。「隊に三泊した」とあり、その後宿泊地の中名上谷の水泉閣に戻り、投函したと思われる。

・5月7日彼は秀子に速達葉書を出している。「八郎君の子供の名前は、男なら元春、女なら元子。安全、健康、太ってきた」。彼は生まれてくる子供の名前を考える一方で、死に向かって飛び立つ若者を見ていた。
・彼が家族に送った書信はこれが最後になる。当初は「時限爆弾は愛嬌者」と強がっていたが、特攻基地のシステムに抵抗できない事を悟ったのだろう。この日までが14日間、その後17日間で彼は何を考えていたのか。焦燥を重ねたのだろうか。

・夫人・秀子は『川端康成とともに』(1983年)を書いている。それに「表紙の裏に『3号報道班 川端 焼却の事』と書かれた川端のメモがある」と書いている。しかし夫人でも難読なので、読んでいないとある。彼の特攻体験の最も重要な資料が未公開なのは残念だが、この乱筆は彼の混乱・狼狽・疲弊を表しているのだろう(※当時は機密だろうし)。

第3章 記録・証言に見る報道班員

・鹿屋での川端の行動の記録・証言はないのか。戦友会が『海軍神雷部隊』(1996年)を纏めており、その「追悼賦」に川端が登場する(※簡略化)。
 山岡荘八/川端康成は4月末から終戦まで桜花隊と生活を共にした。山岡は隊員の所を歩き回り、誰がどこで何をしているか分かっていた。一方川端は隊員と付き合わなかった。しかし彼は鳥居少尉に「特攻隊員の事を必ず書きます」と約束した。ところが彼は書かず、女性の悲しみを描いて、ノーベル賞を受賞した。
・当書は1996年に書かれたため、正確ではない。川端は5月に鹿屋を去っているし、山岡も6月下旬に去っている。また川端は、『生命の樹』(1946年)/『虹いくたび』(1950年)で特攻隊の若者を描いている。しかし彼と山岡の行動には差があったようで、山岡が「動の人」なら、彼は「静の人」だったようだ。

・当文は林大尉が書いている。彼は海軍兵学校を首席で卒業し、大尉として神雷部隊に所属する。1945年鹿屋に赴任し、出撃する隊員を選ぶ任に着く。2004年彼は電話取材で川端について、「痩せて無口で、こちらから話し掛けれなかった」と述べている。また彼はドキュメンタリー映画『人間爆弾「桜花」~特攻を命じた兵士の遺言』(2014年)の主人公である。彼は桜花志願兵だったが、特攻要員を選ぶ任務に着いた。

・川端について多くを語っているのが杉山少尉である。彼は1945年3月に鹿屋に配属されるが、5月に谷田部航空隊に帰隊している。彼は『海の歌声~神風特別攻撃隊昭和隊への挽歌』(1972年。※以下『海の歌声』)の中で川端について述べている(※簡略化)。
 私は毎日が死ぬ思いだったが谷田部に戻る事になり、狐につままれた感じなった。夕食を取ろうとしたが、皆外出していた。川端さんがいて、一緒に食事をした。私が「帰隊する事になりました」と伝えると、彼は「私も体調が悪いので帰りたいが、飛行機の都合がないんだ」と言う。それでは「一緒に」と思い、司令部に交渉した。その夜、寝ようとしていると、川端さんが飛び込んできた。彼は「一緒にお願いします」と言った。
 飛行機は補給のため鈴鹿航空基地に降りた。補給の間に食事する事にしたが、川端は顔面蒼白で、歩くのがやっとだった。カレーライスを2つ頼んだが、そこに黄色の沢庵が2切れ乗っていた。彼はカレーライスを平らげ、「特攻の非人間性」を熱く語った。

・隊員と積極的に交わった山岡荘八と違い、川端は隊員を尊く思うが、二の足を踏んでいたようだ。その苦渋・孤独が感じられる(※あんな時代だが、不条理を感じていたみたいだな)。彼は「特攻の非人間性」を感じながらも、報道班員として言葉を残さないといけなかった。6月1日朝日新聞の『霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ 川端康成氏”神雷兵器”語る』に、彼の弁が載っている。神雷部隊は3月21日から桜花による作戦を実施していたが、この日に箝口令が解かれた事になる。彼は「神雷は恐るべき兵器である。沖縄周辺の敵艦は、全て海の藻屑になる。神雷特攻隊の意気は高い」と書いている(※簡略化)。
・これは報道班員として従軍した川端康成の発言である。さらに彼は「神雷は親飛行機に抱かれ可愛いが、いざ敵艦を見付けると、猛然と突進し、敵艦を撃沈する」「敵がこの神雷を恐れるのは当然である。これぞ神風の再現である」「今必要なのは、これらの増産である。飛行機を作れば必勝となる。出撃する勇士に恥ずかしくない心で生産戦に勝とう。私は心からこれを伝えたい」と書いている(※国策見え見えだな)。
・これは軍のプロパガンダのオウム返しである。虚しい言葉が続く。国民の気を引締め、戦場と国民を繋ぐ使命を果たした発言である。ただしこの発言のどこまで川端のものかは分からない。

・先の杉山少尉による川端の鈴鹿での憔悴は、単に乗り物酔いだけではなかっただろう。ただカレーライスをペロリと平らげる辺りは、死の淵から生還した気持ちだったのだろう(※「特攻の非人間性」も語っているし)。杉山少尉の文章には、川端への「棘」が感じられる。1972年時点、彼は隊員の悲劇を作品にしない川端に不満を持っていた。続きを見よう(※簡略化)。
 その後、彼と会う事はなかった。ノーベル賞を受賞するなど有名になり、すっかり会えない人になった。他の報道班員は、特攻隊の事を紹介し、「信じられない気持」と評し、魂を慰め、称賛している。しかし隊員の心情を伝えてはいない。川端も何かを書くかと期待していたが、一切書いていない。「寂」である。
・この思いから杉山少尉は、この節のタイトルに「寂」を付けたのだろう。この評価は『海軍神雷部隊』も同様である。これは元隊員の、文豪になりノーベル賞まで受賞した川端への批判だろう。しかしこれは間違いで、川端は『生命の樹』(1946年)『虹いくたび』(1950年)を書いている。

・1979年杉山少尉は川端への反発を露わにしている。「隊員に接する時と違い、上官の前では特攻を賛美する様子を見せた」「彼ほど小心で卑屈な人間を見た事がない」「相手によって態度を改める彼に、隊員は不信を抱いていた」などと述べている。彼への期待が大きかっただけに、この様な手厳しい批判になったのだろう。
・杉山少尉は『海の歌声』で他の報道班員でさえ「うわべの1/100の観察に過ぎず、隊員の心情に何ら掴むところがない」と書いている。これは山岡荘八の『最後の従軍』(1962年)を意識したのだろう。その分川端への期待が大きかったのかもしれない。生き残った隊員には生き残った負い目があったが、かつては「英霊」「軍神」ともてはやされていたのに社会が変貌し、酷い時には「戦犯」と批判された。これも川端への期待を高めた要因であろう。

・杉山少尉には謎の様な著書『ノンフィクション小説 恋をして』(1988年)もある。この主人公・徹は特攻隊員である。第7章「終戦」に川端が実名で登場する(※簡略化)。
 徹は怪我により搭乗が見送られた。彼は己の不運から連夜、酒を酌み交わした。そこに川端が来て会話した。「助かったのは幸運です。荒れては駄目です」「あなた達には分からない。死にたくなかったのに、助かると恥ずかしい」「予備学生も洗脳されて来たんです」「先生は特攻隊を納得できますか」「大きな声では話せません」。川端は目をぎょろぎょろさせて笑った。
 徹は酒を進めると、漂流した海で思った英子を思い出した。「死ぬ時は天皇陛下か両親を思うと考えていたが、情けない。お袋に反対され諦めていたが、最後に思ったのは彼女で、彼女が”死なないで”と叫ぶんです」「それが人間です」。
・『ノンフィクション小説 恋をして』は『海の歌声』から16年後の1988年の出版である。そのため会話が真実かは分からない。ただ『海の歌声』では川端に対する不満が伺われたが、当書ではメンター然としている。女性を忘れる必要はないとし、「それが人間です」と励ます川端は、人生の師の様だ。彼の変化は、川端の『生命の樹』『虹いくたび』を読んだためかもしれない。川端と彼の思考は似ており、これは『生命の樹』の所で後述する。

・戦友会の『海軍神雷部隊』には見落としてはならない証言がある。終戦時、川端が鳥居少尉に「隊員の事を必ず書きます」と約束している。そして「生と死の狭間で揺れた隊員の心のきらめきを書きたい」と述べている。これこそが作家の本質であり、隊員を尊しとする精神から「心のきらめき」と表現したのだろう。この約束は1年後、短編小説『生命の樹』として果たされた。しかしその主役は、隊員に思慕の情を抱く女性である。隊員の心を遺された者から描いたのは、川端らしい。彼女は鹿屋に1ヵ月いて、故郷に帰り、父母に戦況を伝える。
 日本に連合艦隊はいない。九州の陸上基地の特攻隊が海軍である。その部隊は菊水部隊と名乗っている。そして幾ら出撃しても、沖縄を取り巻く敵艦は減らない。出撃する飛行機はなく、隊員は手を空しくしている。※不利な戦況が延々と続くので省略。
・これらは川端が鹿屋で得た情報が下敷きだろう。終戦になった事で、これらを公表したのだろう。彼は場違いな場に置かれながら、これらを凝視していたのだろう。しかし彼の真の関心事は隊員の心の真実だっただろう。例えば父母への感謝、兄弟姉妹への家族愛、女性への私的な愛、生の証しとしての性の疼きなど。彼は作家的臭覚から、それらを嗅ぎ取ってしまったのでは。『生命の樹』は、その様な意志から生まれた詩の様な作品である。彼の鹿屋体験から作品に至るプロセスを照射するため、鹿屋の現場を訪ねる。

第4章 特攻の町、鹿屋

・鹿屋は軍都として発展した。1936年海軍航空基地が置かれたのが始まりだ。1941年12月開戦後は南西方面の前線基地になる。1945年2月戦況が悪化し、特攻作戦を指揮する第5航空艦隊が編成され、鹿屋に司令部が置かれる(※船ではないのに艦隊なんだ。海軍なので艦隊になるのかな)。ここから最初に出撃したのは3月11日で、特に沖縄防衛のため、3月下旬から6月下旬に多く出撃した(※フィリピン戦ではフィリピン内から出撃している。詳細は後日調査しよう)。映画『ホタル』は知覧を舞台にしている。ただ特攻作戦は鹿屋が指揮し、各基地から出撃し、空中で合流した。鹿屋から出撃した特攻隊員は908名である。
・鹿屋周辺には、鹿屋/串良(くしら)/笠野原の航空基地があった。今の小塚公園に特攻隊戦没者慰霊塔が聳える。塔の基台に散華した隊員の名前が刻まれている。川端が滞在した期間では、4月28日・29日・5月4日・11日・14日・24日に出撃している。

・川端が宿泊した海軍俱楽部の水交社は、今の城山公園にあった。中世の鹿屋城があった場所である。そこに水泉閣があり、川端ら報道班員が宿泊した。神雷部隊の隊員は野里国民学校に宿泊しており、そのどちらかに宿泊したようだ。ただ司令部には水交社からの方が行き易かった。下谷町(現新生町)まで歩くと、地下にある司令部への入口があり、歩いて15~20分だった。基地の地下には無数のトンネルがあり、地下壕があった。

・川端が過ごしたのが、司令部/無線室である。特攻機が敵艦を発見すると隊員はモールス信号を送る。川端は滑走路で出撃を見送り、無線室で電信を待った(※著者が串良航空基地の無線室を訪れ、詳細を説明しているが省略)。鹿屋を出撃すると、3~4時間で沖縄に着く。敵艦を見付ければ、即突撃する。特攻機は機銃を外しており、雨あられと敵弾を受ける。戦艦を発見すると、「セタセタセタツー」とモールス信号を送る。直ぐに電信は切れる。隊員が絶命した瞬間である。攻撃が終わると、直掩機からの報告や米軍の無線から戦果を確定する(※直掩機は帰還するのかな)。
・特攻作戦の最高責任者・宇垣中将は玉音放送後に特攻機に乗り、海に散った。しかし文学者の川端はどの様な想いだったのか。短い間でも起居を共にした若者達である。肌が粟立つ思いをしたであろうが、それを現場で言葉にするのは憚れた。彼は非人間性を認めながらも、幹部には追従する笑みを送ったとされる。それはコンクリート迷路の中で生まれたピエロの仮面なのだろう。

・基地は25mほど土を盛り上げており、東側に司令部があり、反対の西側に野里国民学校があり、神雷部隊の隊員はそこを宿舎とした。神雷部隊は第721航空隊の別称で、特攻兵器「桜花」を主戦兵器とした(※詳細省略)。
・鹿屋が特攻作戦の中心基地になり、野里国民学校は軍に召し上げられた。今は校舎はないが、国旗掲揚台が残る。校舎はL字型で、東側の南北に伸びる棟が士官室で、西側の東西に伸びる棟で隊員が寝泊りした。川端が帰宅する切っ掛けになった食堂は士官室にあった。※詳細省略。
・国民学校の東側に道路があり、それを挟んで広場があり、「桜花の碑」が立つ。碑の題字は山岡荘八による。崖には幾つかの防空壕があった。川端が隊員から菓子を貰ったのは、この防空壕である。出撃者はこの広場で「別れの水盃」をし、急勾配の坂道を登り、崖の上でトラックの荷台に乗り、滑走路に向かった(※詳細省略)。

・山岡の『最後の従軍』(1962年)から川端らが野里に来た日が分かる(簡略化)。
 私達は4月29日、初めて野里に行った。朝、数度警戒警報が鳴る中、野里に向かった。しかし恐ろしかったのは敵機ではなく、神雷部隊だった。私は陸戦/海戦/空中戦/潜水戦を経験していたが、死を決定された部隊を訪れるのは初めてだった。普通、報道班員は慰問が目的だが、この場合何を言葉にすれば良いのか苦しかった(※死刑囚を訪れるような感じだな)。
・川端の書信に「三晩泊った」とあったので、4月29日から5月2日までの三泊四日であろう。先の引用から山岡でさえ逡巡していた事が分かる。川端も同様だろうが、彼は1942年以来、開戦記念日の12月8日に『英霊の遺文』を書いていた。これは戦死者の遺文集を読み、感想を綴った物で、3年目の1944年12月になると特攻隊員が含まれるようになる(※鹿屋訪問の4ヵ月前)。最初の特攻は1944年10月レイテ沖海戦に始まる。

第5章 『英霊の遺文』

・1942年12月8日川端は東京新聞に『英霊の遺文』(※以下当書)の連載を始める。その書き始めを引く。
 戦死者の遺文集を読み、感想を書く。あわただしく書くのは、英霊への慎みを失するようで心静かでない。しかしこの様な遺文集の存在を人に伝える事に意味はあろう。

・真珠湾攻撃により戦争が始まった時、彼は「軍部を抑え切れず、勝てない戦争を始めたか」と慨嘆したそうだ。彼は適任かは疑わしいが、作家の務めとして、当書を書いた。彼の文章に進軍ラッパの様な軽薄さはないし、戦争反対などの抵抗精神も見られない。特徴的なのは、戦死者個人に留まらず、亡くなった者と遺された者との間の情愛に着目している点である。その谺を読者に伝えようとしている。それを西洋の個人主義と異なる日本人の愛の姿として、悲しみ/美しさとして描いている。
 遺文集から教えられるのは、戦死者の死生観/家族思想/戦友愛などで、これが彼らの精神の下地になっている。遺文集には遺族・遺友の追悼文が添えられているため、両者の愛の交流を知る事ができる。そのため遺文集は英霊を偲だけでない、日本の心の結晶である。

・1942年の当書は、戦死者の妻の便りと戦死者の歌で閉めている。これは遺文集『散華』(1939年。※日中戦争だな)に載っていたもので、帰還の望みがない夫(棚橋大尉)からの遺書に、妻が返信したものだ。
 「顧みますと、一緒した5年間は幸福でした。私と坊やが残っても、楽しかった生活を思い出し、坊やの世話をします。帰還されましたら、命懸けで御恩報じます」。棚橋大尉はこの手紙を肌身に着け、「我が進む後ろにありて妻子らの拝みてあるをつゆも忘れず」と歌った(※一部漢字化)。

・東京新聞の瀬尊記者が『ある文芸記者の回想~戦中戦後の作家たち』(1981年)で川端を回想している。これは川端研究家・森本穫『魔界の住人 川端康成 その生涯と文学』による(※また聞きか)。
 出て来た川端の目は、真っ赤に充血していた。戦死者の手記を夜通し読み、思いひめていたのだろう(※時々難しい言葉が出てくる)。

・翌1943年12月の当書は、体当たりを覚悟した少年飛行兵(星野一兵曹)が叔父に述べた言葉を冒頭に載せている(※特攻作戦の開始前だな)。
 戦闘機に乗る僕が死ぬのは、3つの場合だけです。戦闘中に頭か心臓を被弾した場合、戦闘中に敵機に体当たりした場合、敵艦か地上の目標に突っ込んで自爆した場合だけです。
・彼は1942年11月ソロモン海戦で戦死している。彼の死後、級友がバイトし、遺文集『南星』を出した(※遺文集は無数にあるんだ)。川端はこの事にも触れており、戦死者と家族だけでなく、様々な情愛に着目している。この時点、特攻作戦は行われていない。それなのに特攻に通じる精神・覚悟を持っていた。川端は戦時下の日本人の生き死にに「もののあわれ」に似た哀しみ・美を見ていたようだ。

・1943年4月連合艦隊司令長官・山本五十六が戦死する。川端は彼の歌も紹介している。
 帰り来ぬ空の愛子の幾人か今日も敵艦に体当りせし(※一部漢字化)。
・彼の死のためか、この年の当書は(※中間の1943年12月版だな)、部下を思いやる上官の心に重きを置いている(※様々な関係に着目しているな)。川端が信じる上に立つ者は、下の者に寛容で、責任感の強い者である。この美しい魂のあり様から、「軍人の精神」を納得しようとした。※納得できない事を書くのは、苦痛かな。
 全ての遺文は、戦争により浄化され、発光した日本の魂である。数学者でキリスト教徒だった大井中尉は「俺の前では兵隊は死なせぬ」と真っ先に立ち、戦死した。その遺文集『愛と信仰の手紙』にも「俺の必生の修養を見守って下さい」とある。

・山本の死が契機になったのか、宗教の信仰者が続いている。
 米井大尉はギルバアト諸島方面で戦死する。「常に飛行服に聖書を入れ、途中で読んでいます。戦闘時も訓練時も変わりありません。”生は死より難し”を痛感します。死は訳ないです。少しでも見張りを怠ると撃墜されます。疲れた部下を励まさなくてはいけません。この時自己の生死は頭にありません」。これは彼が兄に書いた手紙です。訓練中の日記には、「将たる者は部下に先んじて憂い、部下に遅れて楽しむ。隊員以上の楽をすべからず。・・部下の過失は己のものなり」と書いている。

・1944年12月(3年目)の当書は、川端の所感で始まる。
 今年も開戦記念日を英霊の遺文を読みながら迎えた。言葉を綴る前に黙禱したが、遺文が生まれた心の境まで、所詮は俄に澄み高まれる事でない。※難解。以下の解説の逆の「心境に達する事ができない」に感じるが。
・これを書かなければ、次に進めなかったのだろう。それは最初の遺文が、これまでにない特攻で散華した兵士の遺文だからだ。
 神風特攻隊大和隊の植村少尉が1歳の子に残した手紙。「素子。あなたは私の顔を見てよく笑いました。腕の中で眠りもしたし、風呂に一緒に入りました。私の事が知りたくなったら、あなたの母か叔母さんに聞いて下さい。素子の名前は私が付けました。素直で優しい人になってもらいたかったからです。悲しんではいけません。私に合いたくなったら、九段に来て下さい。必ず合えます。・・あなたが生まれた時に持っていた人形は、今は私がお守りとして持っています。なので常にあなたと一緒です」。※こちらも涙してしまう。これだと反戦に向かうのでは。
・彼がこの手紙を書いた時は、「十死零生」の運命だった。その中で25歳の青年が、この手紙を綴った。1944年10月彼はセブ島から出撃し、帰らぬ人になる。
 彼の手紙からも銃後への信頼が読み取れる。「素直で優しい人に・・」と言えるのは、その様な人の存在を信じているからだ。彼はその様な人を憧憬とし、事実とし、我が子の将来としたのだ。彼は母国を信頼し、明るい文章になっている。

・川端は特攻だからと云って、特に痛ましく、粛然と接してはおらず、一般の戦死者と変わらない。彼は作家として、英霊の遺文から、古来から受け継がれる日本人の精神・美意識を探ろうとした。彼は戦時中に『源氏物語湖月抄』(江戸時代に書かれた『源氏物語』の注釈書)を精読している。これは日本人の精神・美意識を知ろうとした行為と重なる。彼は軍国主義が跋扈しているが、「日本人とは何か」を確かめようとしていた。
 植村少尉の手紙は、家族に送る軍服と一緒に入れられていた。他に夫人宛ての手紙などはなかった。私が遺文を読んで感じるのは「無言」である。大きい無言/強い無言/出征兵士の無言/国民の無言である。私達の声なき無言であり、信仰・信頼の敬虔な無言である。※これは反戦かな。
 西洋に比べると、日本の英霊は自己の事を書いていない。植村少尉の手紙は浄簡平澄であり、夫人に対しては無言の愛情である。自己の手紙を書けば、地獄の錯乱になるだろう。
 出征兵士にとって銃後は何だろうか。それは「母なる内地」である。

・川端は隊員の「母なる内地」に思いを馳せる(※難解になってきた)。それは隊員にとって美しくあらねばならないと説く。
 特別攻撃隊員達。「5分だけ内地帰還を許す。絶対に目を開けてはいけない」と目を閉じ、内地を思い描く、ひと時の様も報道班員が伝えてきた(※難解。報道班員が要求した?)。この時浮かぶのは、父母の面影/家郷の山河/人情風俗/日本の心である。この時の幻ほど、神聖・純粋な内地はない。英霊が美しいとした内地を、私達は美しく保たなければいけない。そうしないと美しい心情・風景・国土は失われる。
 隊員は感想を聞かれても語らない(※全体主義だからな)。「母なる内地」への無言の凱旋があるだけだ。前線と銃後との間にある無言に、日本の言葉の泉がある。

・この最後(3年目)の当書は特攻で始まり、特攻で結ばれる。しかし彼の筆に、「神鷲の忠烈」「銀翼の神々」などの軍国調の常套句は見られない。彼は以下の文で結んだ。
 多くの遺文にある「母」は、英霊に唯一の人である。絶対無二であり、「母なる内地」である。今年は「母なる内地」の言葉で現し、紙数を費し尽くした。それは戦局が厳しくなり、内地も空襲が頻となり、日本の心情を大事に思うからだ。隊員は「母なる内地」から生まれ、これからも生まれ続ける。銃後は「母なる内地」であり続けないといけないし、英霊もそれを願っている。※何か悲しい思想だな。

・当書は彼の戦争に対する思いを述べれる場所ではないし、強行する軍に物申せる場所でもない。後世からすれば、彼の思想は弱い・甘いと批判したくなるかもしれない。しかしここでは彼の「戦争協力」について論じない。私が当書に目を通した目的は、彼が鹿屋を訪れる前の「特攻観」を確認するためだ。1つ補足すると、愛娘に遺書を遺した植村小尉はキリスト教徒である。当書の大事な部分にキリスト教徒が登場するが、これが故意であるかは分からない。

・時を前章に戻す。1945年4月29日川端らは水交社を出て、4Kmの距離にある野里の神雷部隊の宿舎に向かう。山岡は隊員との出会いに緊張し、川端は「母なる内地」について感慨を揺らしていた(※これだと川端の方が余裕がありそうだな)。真心を込めて書き上げたが、所詮机上で書いた美しい解釈に過ぎない。コンクリートで覆われた司令部には上官が部下を思う情愛などない。川端はそれを悟ることになる。隊に行けば、死を前にし、肉体を持て余した若者がいる。彼らとの邂逅によって「母なる内地」は、どの様に肉体化されるのか。

第6章 川端が出会った特攻隊員 その1

・4月29日川端ら報道班員は野里国民学校に向かう。その状況を山岡が『最後の従軍』(1962年)に書いている(※簡略化)。
 校庭には30人足らずの飛行服の若者が整列していた。訓練部隊ではなく突入部隊で、24機が出撃するところだった。一人が私の所に駆け寄り、「報道班員、これをお願いします。あなたが思う方法で処理して下さい。さようなら」と言い、封筒を渡された。後で調べると、封筒には1ヵ月分の給料に相当する113円が入っていた。写真で調べると彼は筑波隊の市島少尉だった。彼には底抜けの明るさがあった。

・予想外の隊員との出会いになった。この日鹿屋からは、第4筑波隊/第57生隊/第5昭和隊/第9建武隊が沖縄に出撃し、27名が散華していた。この日は特攻機「桜花」の出撃はなく、爆撃戦闘機のみの出撃だった(※爆撃戦闘機でも特攻するのか)。この日、市島少尉は最後の文章を綴っている。「1215搭乗員整列。進撃1300より1330」。
・彼らはつづら折の小道を登り、飛行場に向かった。報道班員は後を追い、離陸を見送った。市島少尉の文章には「我が最後は4月29日1530より1630」とある。

・山岡の文章から、報道班員は出撃を見送り、豪内の無線室で散華を見届けた。爽やかな笑顔が瞼から消えぬうちに、彼らの命が消えた。市島少尉は早稲田大学商学部で学び、文学を愛していた。谷田部航空隊から4月23日に鹿屋に転出している(※1週間も滞在していない)。

・市島少尉は封筒を山岡に渡したが、その時川端を認識していたのだろうか。彼は文学好きなので、大作家の川端は認識できたはずである(※大変詳しく考察しているが省略)。そもそもなぜ彼は、お金を報道班員に渡したのか。報道班員が来る事を知っていたのでは(※整列まで所持していたので、その可能性が高い)。普通、遺品は一式を箱に収める。現金なので持ち歩いたのだろうか。渡す時に名前を告げていないので、売名行為でもない。「あなたが思う方法」は何を意図したのか。それは川端にも向けられていたのか。彼は川端の『英霊の遺文』を読んでいたのでは。

・川端の側から推測しよう。これは肉体を持った隊員との初めての接触である。彼は『英霊の遺文』で、隊員が上官に「どうせ死ぬので、電信機は外しましょう」と問い、上官が「隊員が持っていくなら、銃後は徹夜でもして作る」と応えている。そして「隊員は所持金を全部国防献金した」と書いている。野里では特攻が終わった後、川端は山岡から封筒は所持金だったと聞かされる。その時、5ヵ月前に書いた事を思い出しただろう。さらに市島少尉が『英霊の遺文』を読んだのではと思ったかもしれない(※推測し過ぎかな)。

・報道班員は遺物を確認する事になっている。市島少尉の日記は才能に溢れ、川端も目を瞠っただろう。また彼がキリスト教徒である事にも驚いたに違いない。川端は『英霊の遺文』でキリスト教徒の事も多く取り上げたが、それが最初の出会いで体現された。市島少尉は出撃を、4月27日に告げられた(28日は順延)。その日の日記に聖書の一節を記している(※本文省略)。

・本章のタイトルは「出会った特攻隊員」であるが、これは川端の特攻体験が文学にどう影響したかを考察する上で、鹿屋での人との出会いを最重要と考えたからだ。しかしこの研究が余りされていない。作家研究は普通、戸籍・家族・知人・友人関係などが調査される。川端の場合も、孤児の様な生い立ちや初恋の悲劇は執拗に研究されている。しかし特攻体験の研究はされていない。

・鹿屋航空基地史料館(※以下史料館)には、散華した隊員の遺影が並んでいる。そして遺影には記録(出撃日、散華場所など)や遺品(遺書など)が添えられている。その中から、川端が滞在した4月24日から5月24日までに出撃した隊員を確認した。遺書は公開が前提なので、本音が書かれているとは限らない。そのため国・国家への忠誠や両親への感謝などが綴られる。しかしそこにも心に刺さるものがある。第5神剣隊の茂木二飛曹は遺書に「僕はお母さんの顔を見られなくなります。形見を残すとお母さんが悲しむので、残しません。僕が郡山を去る時、家の上空を飛びます。それが別れの挨拶です」と書いている(※大幅に省略)。これは3月に書かれ、彼は5月4日に出撃している。

・牧野少尉は第6神剣隊に所属し、5月11日に出撃していいる。彼は明治大学で学び、出撃の前夜と当日の遺書がある(※大幅に省略)。
 前日-人生50年の言葉がありますが、我々は人生20年と言っています。それから3年も生きた事になります。笑って散る。また楽しからずや。金沢の備中町、材木町の小学校・・(※多数書かれているが省略)、色々思い出します。ただ両親の健康を祈るだけです。一緒に死ぬのは斎藤一兵曹です。
 当日-散歩・遠足に行くような気持ちです。0300寿司を食べました。後数時間で死ぬと思えぬ。皆元気です。
・「また楽しからずや」と書いているが、これは多くの隊員が書き、流行っていたのかもしれない。金沢の思い出は個人的で、人生があった事を痛感する。山岡の『最後の従軍』にも彼が登場する。一緒に釣りをして、飛行機を壊したなどの話をしている。また快活な人物だったようだ。

・私は隊員の鹿屋以前の人となりを知りたいと思い、史料館で得た情報を基に、隊員に関する本を読み漁った。川端は茂木二飛曹や牧野少尉を間違いなく目にしている。そして彼らは川端文学に影響を与えているはずだ。

・4月29日に出撃した隊員の遺品に異質な物がある。第57生隊の森丘少尉の抹茶茶碗だ。彼は東京農大で学び、茶を嗜み、ラグビー選手だった。茶碗は元山航空隊にいた時に購入し、1944年10月29日の日記に「楽浪焼茶碗を50円で購入」とある。これは給料3ヵ月分である(先に113円が給料1ヵ月分とあったが)。茶碗はひしゃげており、彼はラグビーボールに似ていると気に入っていた。また唐草文様は戦闘機に見えた。彼は出撃前に一服喫したようだ。彼は4月6日に出撃するが、奄美大島に不時着し、29日に再出撃した。目的を果たせないと落伍した気になり、苦悩するが、その動揺を茶で鎮めていたのだろう。
・川端は『千羽鶴』(1949年)で志野茶碗(※美濃焼の一種)を主役にし、使い手の人格・人生を映し込んでいる。彼の茶碗を見て、心に留めるところが多々あったのだろう。その茶碗は史料館に置かれ、彼の生命そのものを表している。なお裏千家の鵬雲斎千玄室は森丘少尉の戦友で、土浦航空隊まで一緒で、茶をたしなむ同士だった。その縁で、千は鹿屋を度々訪れ、彼の茶碗で献茶式を行っている。

・高野中尉と小林中尉は神雷部隊の桜花隊に属し、5月11日に出撃した。彼らはアキオという戦災孤児を留め置き、家族の様に可愛がった(※そんなわがままが許されるんだ)。山岡が『最後の従軍』に書いている。
 高野中尉は温和なエンジニア、小林中尉は皆を笑わせるユーモリストで、戦災孤児のアキオを泊めていた。叔父が熊本から迎えに来たが、「中尉と一緒に飛行機に乗って戦う」とダダをこねた。「飛行機から敵艦の上に落としてやる」と告げると、納得した。皆が集つめた小金と羊羹を背負わされ、熊本に去った。
・筑波隊の西田中尉も日記にこの少年を記している。
 神雷部隊に昭男という11歳の少年が寝泊りしている。防空壕には一緒に入る。算数は不得意だが、絵は上手い。人気者で神雷モンキーと呼ばれている。
・川端も孤児同然で育ったため、少年には気づいていただろう。両隊員は死を前にして、生命に対する慈しみが強まったのだろうか。川端は8月、朝日新聞に神雷部隊の桜花攻撃を讃えるプロパガンダ記事を書いたが、その隊員が戦災孤児を可愛がっていた事を忘れていなかっただろう。また山岡によれば、小林中尉は「結婚式場の用意がよろしいようで」と山岡の肩を叩き、出撃したそうだ。

・同じ5月11日に出撃した菊池一飛曹は犬を飼っていた。どこからか来た野良犬で、餌をパクパク食べるので、パクと名付けた。彼は出撃の時、自分の匂いが付いたマフラーを犬に残した。川端も犬好きで、5匹の子犬を抱いた写真もある。多い時で6匹の犬を飼い、増え過ぎて困ったらしい。『わが犬の記』『愛犬家心得』なども書いている。『山の音』では犬が微妙なニュアンスを加味している。そんな川端なので、パクに餌をあげていたかもしれない。そして生きる事を拒否された若者が、小さな生命を大切にしている事に不思議さを感じただろう。

・隊員にはスポーツ選手もいた。森少尉は明治大学在籍中に全日本ジャンプ大会で優勝している。5月11日に出撃している。彼の遺品はスキー板で、先端に「魁 大空」と書かれている。ただし先端以外は、乱暴に折られている。鹿屋に移る前に、野沢温泉に里帰りしている。川端がこのスキー板を見たかは分からないが、有名な選手なので知ってはいただろう。
・川端の『雪国』は野沢温泉が舞台である(※『雪国』は1935年から書き継がれている)。主人公・島村の部屋からはスキー場が見える。芸者・駒子はスキー板を干したりしている。雪国ではスキーが暮らしに溶け込んでいる事を知っていた。鹿屋にスキーに長けた隊員がいる事を知って、何を感じただろうか。白銀の世界が暴力によって地獄絵になる事を想像しただろう。

・野球で活躍した隊員もいた。石丸少尉は名古屋軍(中日ドラゴンズ)で活躍し、1942年17勝/1943年20勝している。徴兵を逃れるため日本大学の夜学に通うが、学徒動員となる(※学徒動員が多いな)。山岡が彼について『最後の従軍』で書いている。
 石丸少尉は名古屋軍で活躍していた。彼はよく本田少尉とキャッチボールをしていた。訓示が済むと、2人は校庭に出て、投球を始めた。「ストライク!」、その声は大きく響いた。「これで思い残す事はない。報道班員さようなら」と言い残した。
・石丸少尉は5月11日に出撃しているが、本田少尉は5月14日に出撃している。本田少尉は法政大学で学び、学生野球で活躍していた。山岡は石丸少尉を勇ましく描いたが、「死にたくない」と漏らしたり、陰で泣いていたらしい。
・川端が野球に関心があったかは分からない。ただ鎌倉文士には久米正雄/里見弴などの野球好きがいた。川端は2人の日頃のキャッチボールも見ていただろう。速球がミットに吸い込まれる音は相当なもので、そこから石丸少尉の思いを感じただろう。山岡が2人を描いた事で、これが映画『人間の翼 最後のキャッチボール』になっている。

・山岡は隊員の間を歩き回った。先の昭男少年を日記に綴った西田中尉と腹を割った話をしている。5月11日の出撃2日前、彼が片桐一飛曹に新しい飛行靴を与えているのを見ている。彼は「出撃するので新しい飛行靴は必要ない」と言い、パクパクの靴を履いていた部下に交換を命じている。そんな彼に、山岡が禁句と云える質問をしている。これは『最後の従軍』のクライマックスでもある。
 彼に何を訊ねても動揺する気配はなかった。教え子(国民学校の教員だった)に最後の手紙を書いている彼に、矢継ぎ早に禁句の質問をした。「この戦いに勝てるのか」「負けても悔いはないのか」「戦いに勝てると思っているのか」。彼は「隊員は皆志願しており、動揺していない」と言い、「隊員はインテリで、簡単に勝てるとは思っていません。負けた後はどうなりますか。私達の生命は講和条件であり、その後の日本の運命に繋がっています。民族の誇りです」と付け加えた。ぶしつけな質問をした事に悔いはなかった。彼はパクパクの靴を履き、飛び立った。私は見送る列を離れ、声を上げて泣いた。

・山岡の記述はここまでだが、牛島英彦の『消えた春』(1981年)に続きが書かれている。牛島英彦は西田中尉の従弟で、山岡から詳しく聞いていた。
 皆それなりに自身を納得させています。親兄弟などを守るためです。死ぬのは恐いというよりイヤです。泣いて醜態を晒したくないし、脱走はできないし。教え子には特攻になって欲しくないです。でも検閲があるので、これは書けません。
・山岡の『最後の従軍』より、こちらの方が軍への批判が強くなっており、本音が披露されている。ここまで明かすのは、山岡への信頼があったからだろう。実は彼は2通の遺書を書いており、2通目の宛名に山岡の名前がある。
 1通目-大空に雲は行き、雲は流れり。星は永遠に輝き、久遠きらめく。空、空。
 2通目-5月11日の朝は来た。今より5時間後は必中する。総ての人よさらば、後を頼む。お父さん、お母さん、征って参ります。

・彼にとって。山岡との会話は癒しになったのだろう。この2人の交流を、川端はどう見ていたのか。彼は1年半ほど国民学校の教師をしており、指導的立場にある自覚・自負があったようだ。また第5筑波隊の隊長であった。5月1日の日記には「朝より梅雨の如き雨なり、夜ビールを10本入手、大いに飲みて歌えば空晴れて星出づ。明日は出撃の事ならん」とあり、彼らしい。これらから、『徳川家康』を書いた山岡とは馬が合ったのだろう。山岡はそんな彼に惚れ、感動しただろう。
・山岡に対し、川端の反応は違ったと思う。川端は水面下の水鳥の足の様な、苦渋・陰影にリアリティを感じたのではないか。1972年山岡は川端の死去後、故人との思い出を『眼』に書いている。「鹿屋で一緒になり、私が硫黄島玉砕の栗林大将の伝記を書いていると、背後から覗き込んだ」とあり、「止めてくれと頼んでも、ニヤリとするだけだった」と書いている。また「防空壕で一緒になり、空襲が止むと彼は直ぐ、『山岡さん、小鳥が鳴き出しましたよ』と告げた」と書いている。山岡は見透かされた気分になっていたようだ。また川端の訃報を聞いて、「ホッとした」とまで言っている。これは鹿屋での齟齬が原因かもしれない。水と油の様な決定的な差があったのかもしれない。

第7章 川端が出会った特攻隊員 その2

・川端が特攻隊員について述べたのは『敗戦のころ』(1955年)だけである。
 私は隊員を忘れる事ができない。「あなたはこんな所に来てはいけない」と言う隊員や、「早く帰った方が良い」と言う隊員がいた。出撃直前まで武者小路を読んでいたり、安倍先生(一高校長)によろしく」と言付けする隊員がいた。

・この文章を私達は表面的にしか理解していないのでは。例えば武者小路は『友情』『愛と死』『その妹』など書いているが、隊員はどの著作を読んでいたのか。宮崎県木城村に彼が始めた理想郷「新しき村」がある。それを今でも一人で守っている松田氏に聞くと、『人生論』と即答された。『人生論』を読むと、多くが死について書かれ、それをどう乗り越えるかに重きが置かれている(※簡略化)。
 健全な死は安らかだが、無理な死は恐ろしいものだ。恐ろしいのは、まだやらなければいけない仕事をしていないからだ。仕事を終えていたら、死は許される。あるいは一生を犠牲にする仕事に出会えていないからだ。
 その人の死で他人が助かるとか、その人の死が義務を果たすとかであれば、死は生以上に美しく、その人は賛美される。
 私達が死を恐れるのは、成すべき事をしていないからだ。成すべき事を成していたら、それは親しみを見せ、超越できる。名を惜しみ、死を惜しまない人は昔からいる。

・隊員は死をどう納得させたのか。当然『人生論』は特攻を意識したものではないし、自死を勧めた訳でもなく、生の充実を求めたものだ。しかし隊員たちは「藁をも」の心境で読み、恐怖を克服しようとしただろう。

・では「安倍先生によろしく」は、どう解釈すべきなのか。普通に考えれば、教え子から恩師への挨拶になる。安倍は京城帝国大学で教鞭を取り、1940年から一高の校長に就いている。隊員は川端も一高出身である事を知って、言付けた事になる。川端の滞在中に出撃した隊員に一高出身者がいないか探したが、容易でなかった。史料館に依頼し数ヵ月後、連絡があった。吉田少尉は一高から東大に進み、海軍航空兵に転じ、5月1日に第5筑波隊に転じていた。その後調査が進み、一高出身の鈴木一郎が書いたノンフィクション小説『死の日まで天を仰ぎ』に出会う。遺稿だったが、一高同窓会により纏められた(※経緯省略)。『死の日まで天を仰ぎ』に川端に関する記述がある(※簡略化)。
 ある朝、川端は出撃する隊員から「先輩。安倍先生に会われたら、よろしくお伝え下さい」と言われ、隊員は走り去った。安倍能成は一高校長から文部大臣になり、学習院院長になっている。この話を川端から聞いた。また別の会合でそれは山男の佐々木と分かった。最初は佐々木と思ていたが、吉田の日記を読み、吉田と思うようになった。

・この佐々木は膨大な手記を残し、『きけ わだつみのこえ』(※わだつみは海神)の主人公になった人物で、手記は『青春の遺書』(1981年)に出版されている。反戦思想を持ちながら、4月14日に出撃している。川端は4月24日に鹿屋に到着しており、佐々木に会っていない。そこから鈴木も、4月29日に鹿屋に入り5月11日に出撃した吉田少尉と確信するようになった。鈴木はこの話を川端から直接ではなく、安倍から間接的に聞いている。※ならば川端は吉田少尉の言付けを安倍先生に伝えていたのか。

・ではなぜ、吉田少尉は「安倍先生によろしく」と言い残したのか。安倍はリベラルな自由主義者だった。彼は軍にもひるまず、高校の年限短縮(1943年、3年から2年に短縮)に反対し、近衛に和平を進言し、憲兵に睨まれている。1943年10月学徒動員が始まるが、翌月彼は学生に向けメッセージ『諸君を送る』を残している。「生死の程は、国家と歴史と動きゆく大いなる命に任せ、生に拘する事も死を急ぐ事も避けてもらいたい。日本・東亜が必要とする人を神は死なせないだろう」。これは軍への精一杯の抵抗である。吉田少尉の胸には、この言葉があり、「命令に従うが、軍の方針には異議がある」との意志を示したのだろう。川端はこの重い責務を背負わされたのだ。吉田少尉は戦争に否定的だった。出撃前の寄せ書きに、他の隊員は「不惜身命」「死即生」「爆戦」などを書いたが、彼は「望」を書いた。彼の日記に川端は出てこない。そのためどの程度、川端と交流があったかは分からない。

・ここまで理解した上で『敗戦のころ』の記述に戻ろう。川端の記述は抑制的だが、彼から見た隊員は以下となる。
 ①川端はここにいるべきではなく、別の仕事があると忠告する者。
 ②武者小路の『人生論』を読み、自らの死を納得させようとしている者。
 ③軍に批判的で、安倍能成にエールを送る者。
・③については吉田少尉と判明したが、①②については誰か分からない。いずれにしても軍に批判的で、理不尽な死を納得しようとしている者である。これは山岡が描いた、清々しい隊員ではない。作家としての「動」と「静」の違いがある。

・史料館の一角に花嫁人形が飾られている。これは思いを寄せる女性と添い遂げられなかった中島少尉に捧げられた物だ。彼は神雷部隊の708隊に属し、5月11日に出撃している。彼には愛する女性がいた。彼女は台湾での空襲で亡くなっている。しかし彼女の家族は彼にそれを伝えなかった。その後家族が史料館に花嫁人形を寄贈した。

・藤田少尉は、女性への熱き恋情を綴っている。彼は第6筑波隊に属し、5月14日に出撃している。彼は徳島県の農家の出身で、東京農業大学で学んでいる。彼は睦重と思いを寄せ合うようになる。彼は彼女との結婚を望むが、彼女の両親が反対していた。しかし出撃3日前に承諾の手紙が彼に届く。彼は熱い思いで手紙を書く(※大幅に省略化)。
 父上母上から承諾の手紙をもらった。俺は本当に幸福な男だ。俺は誰よりも睦重を愛する。俺の代わりに親に孝養を尽くしてくれ。睦重!睦重!お願いします。
 5月14日薄暮、特攻隊の最先鋒を征く。男子の本懐である。睦重も祝福してくれ。之から如何なる事があろうと、俺は睦重を守り通さん事を誓う。俺に知らせたい事があれば、作物に述べるべし。睦重が畑におらば、俺は作物の中におらん。
 体に気を付け、土になり切ってくれ。両親・祖父母の世話をよろしく。睦重の幸福と頑張りを祈る。優しい愛妻睦重よ。さようなら。睦重、睦重、睦重!

・この手紙は5月11日に書き、5月14日に書き足している。女性への至純の愛と特攻による死の栄誉が併存する。当時はこれは矛盾せず、男子の本懐だった。しかし心の奥底には、後ろ髪引かれる思いがあっただろう。彼が最期に叫んだ言葉は「天皇陛下万歳」ではなく「睦重!」だろう。
・川端はこの遺書を見て、残酷さに唇を嚙み締めただろう。この思いは遺された妻も同様だった。彼女は士官服を着た藤田少尉の写真に並んで、結婚式を挙げた。養父の説得により徳島には留まらず帰京し、一人の人生を終えている。※農家の娘ではないんだ。
・山岡は藤田少尉について触れていない。彼の視点は男性原理で、女性が絡むと筆が鈍る。藤田少尉を語るには、竹を割ったような清々しさだけでは語れない。

・女性の事になると、性の問題があるが、表に出てこない。しかし杉山少尉が書いた『海の歌声』は隊員の内部に迫り、性に関しても隠していない。章「出撃の前夜」に2人の隊員のエピソードがある。彼を兄と慕う、Y二飛曹とS二飛曹である。
・2人は彼に「死ぬ前に、女性に触れたい」と相談する。彼は2人を娼家(※娼家と遊郭が併用されているが、娼家で統一)に連れ出す。2人を残し、再び娼家に戻ると、女性が泣いていた。2人は5分しかないと断り、事に及んだようだ。彼女は「一生忘れません。Yさん、Sさん、お達者で。明日は朝早くから空を拝みます」と言う。3人は帰路につく。杉山少尉が「どうだった」と尋ねると、「つまんないものですね。でも安心しました。思い残す事はありません」と応えた。杉山少尉は「良かった」と思った。翌日2人は飛び立った。
・正確にはY二飛曹は4月29日に出撃し、S二飛曹は5月11日に出撃している。Y二飛曹は鹿児島県出身で、夕方になると汽車で実家に顔を出していた(※毎日?)。杉山少尉は禁止されていた「脱」を敢行したように見えるが、実際は緩く、抜け出す者は多かった。彼がこのエピソードを書いたのは、世に出る表面的な修辞に耐えられなかったからだろう。

・彼自身の恋についても書いている。基地は男所帯で、賄いも隊員が行う。ただ司令部の無線室などに、100人の女学生が女子挺身隊として入っている。野里には連日訪れる2人の女性がいた。理髪店を営むHさんと、助手のCちゃんである。Hさんは30歳手前で、Cちゃんは16歳だった。Hさんは隊員の頭を刈り、「これを家に送りなさい」と涙した(※元々坊主頭なのでは)。しかし隊員が惹かれたのは、Hさんの豊満な体形だった。頭を刈る時に見える胸は、隊員を恍惚にさせた。彼女らの訪れを見張る番がいて、近づいて来ると、皆が集まった。杉山少尉もHさんに恋心を抱き、「脱」をして、町の理髪店に行っている。
・Cちゃんは小柄で痩せていて、少女の風だった。隊で誰が彼女の心を射止めたか話題になり、Cちゃんは出向く度に、それで揶揄された。HさんはHさんなりに、CちゃんはCちゃんなりに、男女間の引力があったのだろう。

・杉山少尉がこれらのエピソードを書くのは、隊員の懊脳の深さを示したかったのだろう。川端も同様の気持ちになっただろう。彼は短編小説『生命の樹』(1946年。次章で詳述)を書くが、ヒロインは特攻隊員と相思相愛の女性である。長編小説『虹いくたび』(1950年)も、亡くなった特攻隊員との心の傷から立ち直れない女性がヒロインである。隊員にとって異性の存在は大きかったのだ。これこそが生きている証である。

・川端が出撃を見送っていないが、親交を持った隊員もいる。『海の歌声』を書いた杉山少尉や鳥居少尉がそうである。戦友会が纏めた『海軍神雷部隊』(1996年)に、川端が鳥居少尉に「生と死の狭間に揺れた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず私は書きます」と約束したとある。彼は川端の信奉者だったので、彼についても調べてみた(※吉田少尉に次ぐ信奉者だな)。
・1945年6月沖縄戦は終わり、彼は鹿屋から小松航空基地に転出する。1974年52歳で亡くなるが、その4年後、友人が『鳥居達也遺稿集』を出す。これに彼の友人の回想文があり、「1945年秋、鳥居が川端に詩を送ったが、何の返事もなかった」とある。『鳥居達也遺稿集』にこれ以外、川端に関する記述はない。彼は日本織物出版社の代表になり、戦後9年に『エミーよ、愛の遺書』(金子和代著)を出版している。その序文を川端が書いている。詳細は後述するが、戦後も親交は続いていた。

・搭乗機の故障で帰還し、川端と親交を持った隊員もいる。金子少尉は第1昭和隊に来て、4月14日に出撃予定だったが、搭乗機が整備不良で離陸できなかった。4月16日の出撃は、米軍の空襲で搭乗機が損傷する。5月11日に出撃となるが、またも整備不良で飛べなかった。整備不良は担当者の怠慢ではなく、オンボロ飛行機しかなかった。しかし6月22日には飛び立ち、散華している。
・神山圭介(本名金子鉄磨)が『鴾色の武勲詩』(1977年)を書いている。彼は金子少尉の弟で、兄の実相を知りたいと鹿屋などを訪ねた内容を書いている。偽名が使われているが、内容は事実である。川端は実名ではないが、『伊豆の踊子』『浅草紅団』の作者とあるので明白である。『鴾色の武勲詩』によると、金子少尉は文学青年で、学生時代から川端作品を愛読していた。自宅には『川端康成選集』を揃えていた。早稲田高等学院で学ぶが、川端の『浅草紅団』『浅草の灯』などに夢中になり、浅草に入り浸っている。
・1945年6月鹿屋から遺髪/身の回りの物/手紙が実家に届けられる。その手紙で川端に触れている。『鴾色の武勲詩』から引く。
 兄は『伊豆の踊子』の作者に会い、「先生と色々話をしました」と嬉しそうに手紙に書いた。兄は「この作家と話ができて嬉しい」「ラジオ放送されるので注意して欲しい」などを手紙に書き、最後の荷物に入れた。

・杉山少尉の『海の歌声』にも、金子少尉が繰り返し出撃不能になり、苦悩した事は書かれている。しかし不思議と彼と川端の関係については全く書かれていない。しかし『鴾色の武勲詩』から金子少尉が川端と色々話をした事が分かる。文芸談義をしたのか、浅草の話をしたのか。金子少尉が苦悩を抱えていたので、それについても話をしたのでは。2人の関係は山岡と西田中尉の信頼関係と同様だったのでは。ただし西田中尉は報道班員として接しているが、金子少尉はそれ以前に川端の作品を読み、作家・川端として接している。
・川端は『敗戦のころ』に、「あなたはこんな所に来てはいけない」「早く帰った方が良い」と隊員に言われたと書いている。そのどちらかが金子少尉だったのでは。なぜなら金子少尉の遺品が届けられたのは6月で、川端が帰宅した後である。それなのに手紙に川端の離脱を嘆く様子はなく、川端との会話を嬉しく思っている。

・前章・本章は川端が鹿屋で出会った隊員を紹介した。次章からは特攻体験が川端作品にどう影響したかを述べる。

第8章 『生命の樹』

・川端は玉音放送を鎌倉の自宅で聞いた。そこから翌年まで、日本は混乱する。為政者・軍幹部は裁判に掛けられた。天皇に命を捧げる事は美徳でなくなり、民主主義が絶対的価値になった。メディアも手のひらを返し、自由・平和を称揚し始め、教科書の不都合な部分は黒塗りされた。散華した隊員は軍神として献じられていたのに、「軍国主義の尖兵」と嘲られる事もあった。

・川端は小説に手を染めなかった。文芸雑誌が再スタートできておらず、貸本屋「鎌倉文庫」が出版社になり、東京に事務所を構え、忙しかったからだ。佐藤碧子『瀧の音 懐旧の川端康成』(1980年)に、彼が「天災の後と違って、人の心の棲家が安定しないので、小説など書けない」と言ったとある(※大転換の時期なので、難しいだろうな)。終戦直後に島木健作が亡くなり、彼は追悼文で「私はもう死んだ者として、あわれな日本の美しさの他の事は、これから1行も書こうとは思わない」と述べている。他所でも「敗戦後の私は日本古来の悲しみに帰った。戦後の世相も風俗も現実も信じない」と同じ悲しみを述べている。

・1946年が明けると、彼は復活する(※早いな)。この年の前半、3編の短編小説を書く。最初の小説『女の手』は鎌倉文庫の文芸雑誌『人間』で発表された。国文学者の北川が、疎開先から東京に戻った恩師の未亡人に挨拶に行く。戦中から戦後に至る時の移ろいを、女の手から描いている。戦争が意識された小説である(※詳細説明は省略)。

・2月『世界文化』に『感傷の塔』を発表する。『感傷の塔』は5人の女性読者との手紙のやり取りである(※彼の小説にはヒロインが多いな)。その内4人の女性は、戦争で夫・恋人を亡くしている。遺された女性の魂の「復員」がなされていない。小説の最後に彼の感慨が述べられている(※簡略化)。
 戦争の時間は長かったのか、短かったのか。戦争が終わると、私の生涯も終わったと感じました。今もその感じから起き上がれません。※戦後の虚無感だな。
 私は日本の古いあわれに沈みました。戦う事ができなかった私は、戦う同胞をあわれと思い生きてきました。私の心の上も戦いが過ぎていきました。藍子(※読者)にもお詫びしなければいけませんが(※お詫びは戦えなかった事?)、全てが破壊されても山河がある様に、私を洗いたいと思います。
・彼は若者の死を、「もののあわれ」と思うしかなかった。若者は「あわれ」の極みに達し、自分は遺った。

・同月『世界』に『再会』を発表する(※大幅に簡略)。
 祐三の過去と現在の間に戦争があった。殺戮と破壊の怒涛が。しかし男女間の瑣事は消滅しなかった。
 祐三は戦争中、家族と必死に生き抜いたが、消息が分からなくなっていた富士子に、鶴岡八幡宮で偶然再会する。戦争で断ち切られていた時間が形を取り始める。何かしら自己を取り戻した気になった。何か肉体的な温かさ、自分の一部に出会ったような親しみがこみ上げてきた。
 女は自立の援助をして欲しいと請う。2人は町を歩き続けた。
・祐三はラストで女との心地良さに屈服する。
 温かく柔らかく、何とも言えぬ親しさで、余りに素直な安息に驚き、しびれた。長い間女っ気から離れていた荒立ちより、病後に会う女の甘い回復があった。生き生きと復活するものがあった。
・終戦2ヵ月後の心の「復員」の実相と云えるだろうか。しかし川端は、ロマンティシズムに酔いも溺れもしない。

・そして特攻隊の記憶に正対する作品を発表する。1946年7月、鎌倉文庫の雑誌『婦人文庫』に短編小説『生命の樹』(※以下当書)を発表する。物語の牽引役・啓子は特攻隊員・植木と思いを寄せ合うが、彼は出撃し、彼女は遺される(※大幅に省略。以下同様)。
 去年は戦争のせいで、季節は狂っていると思っていた。しかし戦争が終わっても、あの日本の春は返ってこない。植木さん達が返って来ないように。私の愛の日が返って来ないように。
・彼女は近江から、水交社を経営していた姉夫婦を手伝うため鹿屋に行った。翌年の春、特攻隊員で生き残った寺村と共に列車で東上している。彼女は死ぬつもりでいた。ここで植木との回想シーンになる。
 「星が出てるな。見納めとは思えん」。植木さんには、これが本当に見納めになる。「死ぬ気がしないな。星がたんと光ている」。「そうよ、そうよ」。手荒くしなさいよと言いたいのが「そうよ、そうよ」の声になった。私は抱きすくめられるのを待っていたようだ。
 短い人生を終えなければいけない者は、星の輝く夜空に溶け、宇宙と和する事で整理を付けなければいけないのか。愛する女性を得て、生命は盛りときめくが、その幕引きは明瞭に定められている。夜が明けると、特攻機は飛び立たなければいけない。
 植木さんには定まった死だった。強いられた死、作られた死、演じられた死だが、あれは死ではなかった気がする。行為の結果が死で、死は目的ではなく、自殺ではない。植木さんは死を望んでいなかったし、それを考えたくなかった。明日死ぬお方だったので、星空が美しく見えたのでは。私も怪しい火が燃えたのでは。植木さんは星空の様に私を美しいと感じていらしたのだろうか。その様な私は、一生に二度となかったと思う。

・植木は戦死し、啓子は5月末には近江に戻る。翌年の春、寺村が訪ねて来た。東京の植木の親への挨拶に、彼女を伴いたいというのだ。寺村は本人には告げていないが、彼女の両親には知らせていた。彼女はその思いを食事の支度中に知らされる。
 わさびを洗うと、みずみずしい青さだった。涙が留どなく落ちた。その時死のうと思った。植木さんがお慕わしく、おいたわしかった。これは出来心かもしれない、気まぐれかもしれない。あるいは閉ざされていた悲嘆の扉が、寺村さんによって開かれたのかもしれない。
 基地ではあの様な死は複数あり、私は悲しまなかった。前線の刺激と戦場の興奮に揺すぶられ、異常な躍動と麻痺で一人の死を見つめる事はなかった。しかし近江に戻ると、基地の自然は背景に退き、植木さんだけが浮かび上がる。
 一人の面影が消えないのは不思議な事なのか。例えば私が近江に戻った時、母から寺村さんの意向を聞いた時、何かの区切りの度に植木さんを思い出し、驚きに打たれる。そしてそれは深まって行く。

・植木の家を訪ね、寺村は彼と啓子が相思相愛の純愛だったと強調するが、母親は彼女に心を開かない。寺村の言葉によって、彼女は植木との仲が、形がなく、はかなく消える事に気づく。
 私は植木さんのおなじみではなかった。道理も機会もないし、隊員が水交社に泊まる事はなく、飲み食いもしなかった。私は水交社からほとんど出なかったし、植木さんの基地には奉公で数度行っただけ。植木さんに岩波文庫を貸していたので、水交社の裏の道を通るのをよく見かけた。
・彼女は植木との思い出が去来する。植木に連れられ、娼家に入った奇異な体験も思い出す。彼女は帳場で作業していて、植木に誘われる。植木/寺村などに連れ出された先は娼家だった。2階の部屋に入ると、料理が出された。酒は隊から持って来ていた。
 寺村さんは植木さんと並び、ドイツの歌を歌い始めた。寺村さんが太い声、植木さんが高い声で歌った。自由で快活な歌だった。2人は歌い慣れた感じで、同じ学校なのだろうか。私の心もほぐれ、愛情が潤い、若い生命が溢れた。しかしこれは2人の歌い納めで、数日後にはいなくなるお方。私はお慕わしく、おいたわしくなった。
 歌は20分程で終わった。2人の女が入って来た。女が「いらっしゃいよ」と誘った。私と植村さんが残された。植木さんは「ごめん、ごめん」とふるえる声で言った。私は「そんな事ない。そんな事ない」と訳も分からず、かぶりを振った。※これが夜空の場面かな。

・植木は彼女に「京都出身か」と尋ね、近江と知る。「京都は今頃、祇園円山夜桜だね」とつぶやく。植木は「いのちひさしきを知っている」と尋ねると、長い詩を暗唱し始める。
 いのちひさしき花の木も おとろふる日のなからめや ふるきみやこの春の夜に かがり火たきてたたへたる 薄墨ざくら枝はかれ 幹はむしばみ根はくちぬ ・・ ひのもとのいちとたたへし はなのきをかるるにまかす せんすべしらに。※翻訳がいる。
・花の木を枯れるにまかせる。それも仕方ない・・。彼女は、植木はこれが日本の運命と知りながら飛び立つのだと思った。植木は言葉を続ける。
 「君はここの女を軽蔑するかい」。「いいえ。罪なき者石を持て・・」。「俺は幼稚な感傷家で、虫のいい夢想家だ。飛び立つ僕らが汚していく度に、女は浄化され、昇天しやせんかと思ったりする」。私は呆れたが、後でそんな事をおっしゃったお方のために、私一人くらい跡を慕っても良い気がした。
 その夜、私は朝まで眠れなかった。なぜ私を殺しておしまいにならなかったのかと、恨みもした。植木さんも潔白でなかったかもしれない。誘惑に燃えていたかもしれない。そうでないと娼家に連れ出したりはしない。しかし途中で反省し、躊躇したのだろうか。自己嫌悪の懊悩で、身の処置が決まらぬ所に、光明の様に私が浮かんだのでは。私はそう信じる。植木さんの突発事件で、前後の考えはなかった。愛の噴火にしておこう。私にも、基地の星の下でも、近江の台所でも、そんな噴火はあった。そんな私なので、植木さんのお母様に、いたずらな娘と見られても仕方ない。

・山手線で思念に沈んでいる彼女に寺村が声を掛ける。「あの木を見ろよ」。戦災で焼けた木に若葉が芽吹いていた。
 街路樹の枝はことごとく焼けて尖っている。しかしその幹のあちこちから若葉が噴出している。そんな木が整列している。自然の生命の噴火である。「御使また水晶のごとく透徹れる生命の水の河を我に見せたり・・。その樹の葉は諸国の民を医(いや)すなり・・」。私はヨハネ黙示録の一節が心に浮かんだ。「我また新しき天と地を見たり。これ前の天と地は過ぎ去り、海もまたなきなり」。私達は寺村さんの友達の家へ帰った。※一応ハッピーエンドかな。

・当書はこうして閉じられる。補足すると、「いのちひさしき」は三好達治の詩集『花筐』(1944年)に収められ、祇園の円山公園の枝垂れ桜の古木を詠んでいる。当書はGHQにより検閲され、2ヵ所が削除されている(※詳細省略)。また短編小説のため文庫化されなかたが、1992年講談社文芸文庫『反橋、しぐれ、たまゆら』で読めるようになった。『反橋、しぐれ、たまゆら』は絶版になるが、2019年集英社文庫『セレクション 戦争と文学2 アジア太平洋戦争』に当書が収載されている。

第9章 特攻体験から『生命の樹』へ

・川端は『私の七箇条』(1929年)で自身の創作ポイントを挙げている。
 風景-風景からヒントを得る。
 旅行-一人旅は創作の家。
 姿-電車などで見かける人の姿から短編が生まれる。
 主題と筋-主題があれば粗筋が書ける。
 モデル-モデル小説は嫌いで、余り書かない。
 材料-自分に近い人の事件は書かず、空想の事件に移して書く。
・ここでは「モデル」「材料」が関係する。「材料」で「事件」としているが、ここでは体験に置き換えられ、鹿屋体験での印象・感想・怨念・インスピレーションから物語が創作された。『生命の樹』(※以下当書)は鹿屋体験が飛翔した小説である。

・当書の冒頭は「春」から始まる。彼は4月24日から5月24日まで、鹿屋に滞在している。啓子と寺村が植木の母を訪ねたのが、終戦翌年4月24日である。この春は異常で狂った春である。遺された者は、空洞をどう埋め、何をよすがに生きるのか。価値観はひっくり返り、逝きし者を忘れ、蔑みさえしかねない春である。

・当書のヒロインは啓子である。「行く春を惜しむのは近江の人と芭蕉も詠んだ。私はその近江で育ち、京都の女学校に通った」。芭蕉が詠んだのは「行く春を近江の人と惜しみける」の有名な俳句である。鹿屋と近江を繋げる春のシンボルが存在する。春の野を紫に染めるれんげ草である。鹿屋も近江もれんげ草が有名だ。彼は鹿屋の自然に触れ、「野道の溝に垂れ連なる野いばらの花」「学校の庭の栴檀の花」と綴っている。当書にれんげ草が出てこないのは、舞台が5月に設定されているからだ。4月はれんげ草だが、5月になると野いばらが咲く。

・そのれんげ草の美を書き綴った隊員がいる。川端が野里の宿舎を訪れた初日に、「これをお願いします」と封筒を手渡したあの市島少尉である。実は彼が当書のメインストーリーになっている。彼はこまめに日記を付けていた。彼は4月23日に鹿屋に移り、4月29日に出撃しているが、その間の心模様も綴っている。4月23日の日記を見る。
 宿舎の天井は爆弾で穴が開いている。教室には机と竹のベッドがあり、その机にはバラ/かたばみ/矢車草などが飾ってある。ベッドに横になり、朧月を眺めると、先に逝った戦友の幻が出てくる。
 我が25年の人生も最後に近づいたようだ。明日は対空砲火を冒し、敵艦に突入するとは思えない。畦道を歩くと、虫や蛙が鳴き、幼い頃を思い出す。れんげの花が月光に浮き出て美しい。川崎で家族と散歩した事を思い出す。室には電燈がないので、パイナップル缶に油を注ぎ、明りにしている。

・れんげ草が印象的だったのか、翌日の日記にも綴っている。
 敵の機動部隊が見えず、11時から2時間待期する。チャートにコースを入れ、何時でも出撃できる準備をなす。命を待つ軽い気持である。
 隣室では『誰か故郷を思わざる』をオルガンで弾いている。俺はれんげ摘みに出掛けたが、今は捧げる人はいない。梨の花と包み、思い出を偲ぶ。
 隣室では酒を飲み、騒いでいる。俺は死するまで静かな気持ちでいたい。人間は死するまで精進すべきだ(※クリスチャンだな)。ましてや大和魂を代表する特攻隊員だ。(※中略)美しい祖国に我が清き生命を捧げる事に、誇りと喜びを感じる(※本音だろうか)。

・彼が摘んだれんげ草は遺品として伝わっている。4月29日彼は川端らと衝撃的な出会いをし、出撃する。川端は彼の死を無線室で見とる。その後、川端は合掌し、彼の遺品を見たに違いない。彼がクリスチャンだと知ったのも、その時だろう。彼は25年の人生を終えたが、遺品の中でその生命は息をしている。れんげ草はその象徴であろう。そのれんげ草は、ただの一輪の植物ではない。人生の様々な出会いが、その一輪に託され、輝き、薫っている。※抽象的な表現が出始めた。

・生命の反射鏡、生命の共鳴板。私に言わせれば、これこそ「生命の谺」である。当書で啓子が「どうして自然がこんなに美しいのか。若いお方が飛び立つ土地で・・」と言っている。野里の自然で市島少尉と川端は「生命の谺」を交わしたのだ。れんげ草の美しさが、生命の精華となり、谺し、啓子の思いを脈動させたのだ。これはコンクリートに覆われた地下壕と対極にある。川端は狂った春に、れんげ草を登場させなかった。それは設定が5月だったからだけでなく、この対立構造を把握していたからだ(※ならば余計登場させそうだが)。こうしてれんげ草は春の精華になり、生命の輝きの象徴になった。この考え方は市島少尉から川端に受け継がれ、当書の伏流水になり、舞台は鹿屋から近江に移された。

・市島少尉と当書の谺の響き合いを、さらに見よう。4月23日の日記に「我が25年の人生も最後に近づいたようだ。明日は対空砲火を冒し、敵艦に突入するとは思えない」とある。この感慨は植木の「星が出てるな。見納めとは思えん。死ぬ気がしないな。星がたんと光ている」と似ている。これは全ての隊員が思った感慨だろう。

・4月23日市島少尉はまずベッドに横たわり、朧月を眺め、次に風呂に向かい、帰りに月光を浴びたれんげ草を見て、「死ぬ気がしない」との感慨を得ている。一方当書では、植木は星空を見て、「死ぬ気がしない」との思いを得ている。れんげ草と星空では、星空の方が文学的で、鮮烈・豊穣である。ただ末期の目に映じた生命の息づきに、自身の生命が共振共鳴している事は、両者に通底している(※大幅に省略)。だが生命の発光を見つめている点で、市島少尉の筆も劣らない。しかし当書では、その生命が共振共鳴が啓子に及び、女としての焔が煽られ、燃え上っている。

・市島少尉にも思いを寄せる女性がいた。4月23日の日記に「マスコットを抱きつつ」とある。マスコットは小さな人形で、隊員はお守りとして操縦席に飾ったりもした。通常は、基地周辺の女性が寄贈する。彼が出撃前に人形を抱いていたのは、銃後への感謝だろう。また思慕の情を寄せる女性への思いがあっただろう。翌日「今は捧げる人はいない」と綴っており、その女性への思いが離れないのだろう。
・入隊前の1943年11月21日、その女性との再会が日記に綴られている。彼は既に学徒動員が決まっていた。
 3年前と変わっていなかった。叡智に満ちた、西洋人形を思わせる顔だった。視線が合うと、いたずらそうな眼をする。楽しかった思い出が、車輪の如く脳裏を駆け巡る。
 梢を通し、星がきらめいている。月はなく、道は暗い。先生とM君は先に行き、5人の足取りは思い出で鈍る。後ろにいた彼女が並んできて、肩がぶつかり息苦しい。過ぎ去りし日の思い出は。余りに楽しい。

・その後電車に皆で乗る。彼と彼女は並んで話を続ける。彼は男っぽくなく、「女形」と陰口をたたかれているのを気にしていた。以前Hちゃんから、それについて彼女と話した事があると聞いており、彼はそれを直接彼女に問う。
 「それは、その頃苦しい事があって、私の気持ちがあなたに傾いていたの」。俺は驚愕した。今征かんとする時に、永久の謎が解かれたのだ。ああ、互いに愛していたのに、相手の心を知り得なかったのか。
 別れの時が来た。永遠の別れになるかもしれない。私は混乱した。2人は互いの瞳に見入り、相手の面影を脳裏に焼き付けた。彼女の幻を見失わないため、全霊で凝視した。※客観的で、まるで作家だな。
 電車は走り出した。現世で相見る事はないだろう。さらば愛人よ。これが人生かな。会えば別れなければならぬ。夢、そして虹の如く美しい愛の記録。しかし全てを去り、己を捨て、祖国に捧げ、煩悩を絶ち、心静かに征くべきである。

・彼は「全てを去り、己を捨て・・」、鹿屋に来て、散華を待っている。残された僅かな時間だからこそ、愛した女性が去来したのだろう。この彼女との最後の思い出は、梢から星がきらめく夜だった。市島少尉は何度、この日を思い出しただろうか。過去の泉から、新たな清水を汲み出すように、記憶の中を逍遥した。これこそが彼が生きた証である。
・この市島少尉と女性の関係は、当書の植木と啓子の関係に恩寵(※めぐみ)を与えている。しかし川端は事実そのままを筆にするのではなく、「空想の事件に移して書く」からだ。事実の泉から澄んだ真水を汲み上げ、それで稲を育て、穂を実らす(※色々書かれているが省略)。末期の目に映じた自然は美しさを放ち、死を前に愛の記憶は虹のように輝く。生命は燃え、その谺は随所に響き渡る。自然と人間、市島少尉とその人、植木と啓子、市島少尉と川端。谺は乱反射し、響き合う。

・当書では植木らが啓子を誘い出し、娼家に向かう。これは生真面目な市島少尉では考えられない。川端はこの発想をどこから得たのか。隊員が基地を抜け出し、色町に出入りする事は少なくなかったようだ。神雷部隊の岡村司令は、その辺りを大目に見ていた。
・水交社は基地の北東にあり、そこから南下すると鹿屋駅(今は廃駅)があり、その裏に娼家が軒を連ねていた。当書で啓子を連れ出すが、位置関係は合っている。特攻隊員の悪事を晒すので、作家として覚悟がいっただろう。ただしそれを性欲処理として描かないのが、彼のユニークさである。想いを寄せる女性を娼家に誘うのは奇怪である。しかし死が迫る若者であれば、愛の形が歪んでも仕方ない。
・川端は長編小説『舞姫』(1950年)で、一休禅師の「仏界入り易く、魔界入り難し」を芸術の至言としている。これは当書にも片鱗が見られる。川端研究家の森本穣は、彼を「魔界の住人」とし、「魔界である特攻基地の清冽な場も、酒や脂粉の匂いが佇む紅灯の巷も、等しく乱反射を重ね合わせている」とした。啓子の言葉を借りれば「汚い場所」でさえ、爽やかで、人間的で、哀しくも美しい情景を展開させた。

・植木と寺村が合唱した歌はドイツ語である。曲名は分からなかった。学生時代、合唱団に所属していた隊員がいないか調べたが、分からなかった。言える事は、青春の歌だった事と、軍歌でない事だ。これは川端のアンチテーゼだろう。
・実際は基地で頻繁に歌が歌われた。待機する時間に酒盛りしたり、高歌放吟していた。圧倒的に歌われたのが「貴様と俺とは・・」で始まる『同期の桜』で、華々しく散る身を桜に譬(たと)え、美化している。杉山少尉の『海の歌声』には「予科練生は”七ツボタン”ばかり唄い、よく飽きないものだ」と書かれ、軍歌が繰り返し歌われた事が分かる。「七ツボタン」とは『若鷲の歌』である(※説明省略)。神雷部隊で生まれた曲もある。昭和隊の指揮官・森田大尉が作詞作曲した『ああ神風昭和特攻隊の歌』である(※説明省略)。川端は特攻精神を宣揚する軍歌が響き渡ったのに、それを小説に登場させなかった。

・市島少尉の4月24日の日記にオルガンが出てくる。演奏されていたのは1940年大ヒットした戦時歌謡『誰か故郷を思わざる』だ。隊員にとって、望郷の念は一般市民以上に切実だった。加藤浩の『神雷部隊始末記~人間爆弾「桜花」特攻全記録』(2009年)に、「宿舎にはオルガンがあり、『影を慕いて』『誰か故郷を思わざる』などの流行歌、『あめふり』、文部省唱歌、各国の国家、敵性曲まで歌われた」(※簡略化)とある。これも岡村司令の放任主義によるのだろう。
・そして川端は、これらの歌が個としての生命をかぐわす青春の歌であると悟った(※簡略化)。ドイツ語の歌が歌われる事は少なかったであろう。しかし彼は、娼家という「解放区」で隊員に思いっきり歌わせたのだ。そして頬を輝かせ熱唱する植木に、啓子の愛情が潤い、若い生命が溢れる。生と死が縒り込まれた時間に、啓子は歓び、哀しんだ(※この場面になると抽象語の羅列になる。色々解説しているが省略)。

・その後寺村らは女と消え、2人だけが残される。植木は自分を「卑怯」と悔い、詩「いのちひさしき」を暗誦する。この詩もドイツ語の歌と同様に彼が愛読したものだろう。彼の音楽/詩/異性への思いなどから、若人の夢が炙り出される。隊員はこれらを捨て去って、出撃するしかない。これは市島少尉の日記にも見られ、隊員全てに共通する思いだった。

・なぜ川端は三好達治の詩「いのちひさしき」を引いたのか。これは春→近江→京都→八坂神社(枝垂れ桜)→三好達治の詩の連想が推測される。しかし最も重要なのは、それが桜の詩だからだ。神雷部隊の別名は桜花部隊で、特攻専用ロケット「桜花」を主目的とする部隊だ。そして散華する彼らは桜に譬えられた。華やかに咲いて、パッと散る。その見事さから、麻薬のように注入された。
・しかし彼は先祖代々の都人を楽しませてきた老樹を登場させた。これもドイツ語の歌と同様にアンチテーゼなのだ(※反意を含めているのか)。「ひのもとのいちとたたへし はなのきをかるるにまかす せんすべしらに」。巨大な桜の老樹の生命も、若き隊員の生命も終えようとしている。巨大な滅びが押し寄せている。古語と平仮名を多用し、七五調のこの詩の「もののあわれ」は比類するものがない。

・小説を少し戻るが、星を仰ぐ夜になる。読者の思いも星空に戻される。「せんすべしらに」(仕方ない、どうする事もできない)の調べが底奏を響かせ、死のリアリティはない。永遠の生命が星に刻まれ、2人の生命は解放され、昇華する。隊員の死が定められているのと同じく、残された女性も死に殉じるしかないのか。そこで思念は破られる。「啓子さん、啓子さん」と寺村に呼び覚まされる。焼けてボロボロになった街路樹から、春の若葉が噴き出している。啓子は聖書の一節が閃く。
 御使また水晶のごとく透徹れる生命の水の河を我に見せたり・・。その樹の葉は諸国の民を医すなり・・。
 我また新しき天と地を見たり。これ前の天と地は過ぎ去り、海もまたなきなり。
・啓子は豁然と開ける新しい道を得たのだ。突然の聖書の一節に読者を戸惑うかもしれない。川端は仏教の流れである「もののあわれ」を美学とするが、当書のラストにキリスト教の聖書を出してくる。啓子がクリスチャンとも書いていない。ただ植木に娼婦を軽蔑するかと訊かれ、「罪なき者石を持て・・」と応えている。しかしラストでの引用は、簡勁(かんけつ、※かんけいでは)かつストレートである。

・実は当書の絶頂部は、別の大事な生命の谺が交わされている。それは市島少尉の日記のラストの「人もし我に従わんと思はば、己を捨て己が十字架を負いて我に従え」である。彼は聖書のマタイ伝から引き、日記を閉じ散華した。彼はイエスの至言を遺された者にリレーのように渡し、逝った。当書の地下水脈に、彼の日記が流れており、小説のラストで彼との谺が爆発的に顕在化する。

・市島少尉は日記の随所に「己を捨て」と綴っている。キリストが受難な道を自ら進んだように、彼も率先して国・国民の犠牲になる信念があった(※それでクリスチャンが多いのかな)。啓子も死ぬ気で東上した。しかし天は新しい道を啓示した(※啓子に啓示か)。それは死ぬ事ではなく、生きる事だった。生きよ、生きよ、それに恥じる必要はない。生命の谺と和し、自然なる生命の道を生きよ。これは大切な人を喪った人、とりわけ女性へのメッセージである。これは『感傷の塔』から続く思いである。「生きよ、生きよ」。これは植木の市島少尉の地下からの声であり、それを受けた川端の声である。

・当書は鹿屋での体験からの縦糸と横糸から成る。メインは市島少尉の日記で、それに杉山少尉から聞いたエピソードが縒り合されている。娼家の発想がどこから得たかを答えていなかった。それは杉山少尉の『海の歌声』に書かれた、Y二飛曹とS一飛曹の事件からだ(前々章で紹介)。この事件も3人で娼家を訪れており、当書と似ている。

・川端は多くの事を杉山少尉から聞いていたようだ。彼は『別冊1億人の昭和史 特別攻撃隊 日本の戦史別巻4』に、「予備士官は彼と文学の話に花を咲かせた。私も士官食堂で何度か語り合った」と寄せている。川端は彼からあの事件を聞いたのだろう。世間では特攻が美化され、「高潔の士が潔く、迷いなく、決然と散華している」とされたが、現実はそうでない事を彼は作家の川端に伝えたのだろう。隊員も愛・欲望・苦悩を負い、憤激・懊悩・煩悶などを抱えていると説いた。そして川端はそれらを共有したのだろう。彼は熱心に真実を伝え、大作家に期待したからこそ、誤解だが「川端は特攻について何も書いていない」と怒りを募らせたのだろう。

・当書の寺村は、どこか杉山少尉を思わせる。3人で娼家を訪れるが、そのリードの仕方や、口上手な点や、生き残った点が似ている。これは実像を超えた小説の世界であり、鹿屋体験が素材になり、文学に昇華されたのだ。
・杉山少尉は最後の著書『ノンフィクション小説 恋そして』(1988年)では、一転して川端はメンター然として登場させる。もしかして当書を読み、誤解が氷解したのかもしれない。

・当書はヨハネ黙示録の後、「本郷にある、寺村さんのお友達のおうちへ、私達は帰るのだった」で閉じられる。具体的な結論を明かさない、川端独自の終わり方である。霧の中に立ち去る人の様であり、能の終わりの様である。寺村との結婚を暗示するとの研究者もいる。
・いずれにせよ「生きよ」の声が満ち、生命の谺が響いている。無論生きる事と平易である事は同意でない。ただ死ぬ事を考え、それに束縛されていた季節は終わり、再生の季節が訪れた事は確かである。当書の意義はここにある。兵士は復員し、肉体として再生する。しかし遺された者の「心の復員」は容易でない。当書は特攻という暗く重たいテーマだが、澄んだ清らかな響きをたてる。数多くの若者の死が行間に哀しみを奏でている。川端の特攻体験から、この短編小説が誕生した。

第10章 特攻体験の揺曳-『虹いくたび』など

・川端は短編小説『生命の樹』発表の4年後、『婦人公論』に長編小説『虹いくたび』(※以下当書)の連載を始める。その書き出しを記す。京都から東京に戻る麻子が、赤ん坊を連れた男性に掛けられた言葉だ(※大幅に簡略化。以下同様)。
 麻子は琵琶湖に虹が立つのを見た。年の暮れの汽車はすいてた。虹は湖水にほっと浮き出た。琵琶湖湖畔も鹿屋と同様に、れんげ草に蔽われる。
 「この辺りはれんげ草が多い所。春に虹が出たら幸福でしょうね。(中略)しかし冬の虹は不気味ですね。魔王の恋みたい」。

・『生命の樹』は狂った春から始まるが、当書は「魔王の恋」のような冬の虹から始まる。この物語は建築家が父(水原)の3姉妹の話で、それぞれ母が違う。長女・百子の母は自殺し、次女・麻子は正妻の子だが、母は亡くなっている。三女・若子は京都芸者の子である。父はその芸者と既に分かれており、東京にいる2人の姉は、その2人(※芸者と若子だな)の行方を捜している。当書も戦前と戦後の分断を乗り越えようとする人が描かれている。構造的には麻子が中央に描かれているが、核になるのは百子で、奔放・凄惨で異常な生き方をしている。

・戦時中、百子は啓太を愛していた。しかし彼は特攻隊員で、鹿屋から出撃する。彼女は彼に身を任せるが、行為の後に残酷な仕打ちを受け、深い心の傷を負っている。彼女は『生命の樹』の啓子の変形と云える。彼女が啓太と関係を結んだのは関東の航空基地と思われる。

・当書も川端の鹿屋体験から生まれた小説である。時の設定が1950年で、現在進行形になっている。小説は戦後を強く意識している。未だに「戦時中」を生きるしかない哀しみの人がおり、自傷行為のような傷を再生産している。特攻は堕天使を生んだ。それが百子である。彼女は愛の傷の反動で若い男を食い荒らす。捨てられた青年は、彼女を「悪魔」「妖婦」と言う。彼女は自殺を試みるが、失敗する。彼女は若い男に復讐し、人生の坂道を転げ落ちる。

・啓太との愛は初めから歪んでいた。彼は特攻隊員であり百子との別れは既視化されていた。彼の奇怪さはグロテスクでさえあった。
 啓太は百子と会う前に娼婦とたわむれる事が多かった。しかもそれを百子に話した。なぜ別の女が必要なのか。なぜそれを打ち明けるのか。啓太は飛行場近くの農家の娘が隊員に身を捧げる事も話した。
 啓太は愛情と欲望が分離し、二律背反のまま仕分けようとする。啓太は百子の肉体を渇望した。初めて百子の乳房に触れた時、啓太は何度も「お母さん」と言った。
 啓太は百子の胸に額を寄せ、「僕はお母さんと言いましたね。本当にそう思ったんです。安心して死ねそうな気持ちです」。百子の愛情の堰が切れた。乳房に母性を感じてくれた事に、羞恥を緩めた。啓太には母がいなかった。「どうしてこんなに安心できるのか」「やはり死に脅えていたんです。こうしていると、よく分かる」。

・平和な時代だと、男性が女性の肉体に触れ、「お母さん」と言う事はない。しかし死を前にした特攻隊員は別のようだ。この例は三木鶏郎『三木鶏郎回想① 青春と戦争と恋と』(1994年)にも見られる(※引いているが省略)。特攻隊員が女を抱き(女に抱かれ)、「お母さん」と口にするのは、生命の根幹から絞り出される叫びのようだ。

・話を当書に戻す。啓太は百子の乳房に顔をうずめながら、ある事を懇願する。
 「乳房の型を取って、銀の碗を作ろう(※慶事は金で、弔事は銀かな)。それを盃にして、最後の生を飲み干そう」。「昔から水盃というのがあって、特攻隊員が出撃する時、冷酒を飲むんだ。その盃を作らせてくれ。その盃で人生に分かれたい」。
・啓太は彼女の乳房のデスマスクを石膏で作る(※よく石膏があったな)。この奇怪さは『生命の樹』を超えている。しかしこれも「生命の谺」である。百子は生命も抜き取られた感じになる。寂しさもあり、物足りなさもあった。彼は彼女を抱き上げ、寝室に向かった。彼女は拒まなかった。
 百子は、啓太は自分の純潔を尊んでいると思った。自分の前に娼婦とたわむれるのは、欲望を解決するためだろう。しかし明日死ぬかもしれない人が望むものを与えられない事に罪を感じた。啓太は望むものを、なぜ私に求めないのか。娼婦との汚れを、私の所で洗い流したいのか。自分の放縦を、百子の純潔で、自己を瞞着しているのでは。そのためか純潔を奪う啓太の力に、日の照るような喜びがあった。

・しかしここから予想外の展開になる。男が衝撃的な言動をする。これは当書の核となる。
 啓太は百子を直ぐに離し、「ああ、つまらない。しまった」と言い、寝台から降り、「なんだ、だめな人だな。あんたは」と言う。百子は血が凍り、「その石膏壊してちょうだい」と叫んだ。「いやだ」。これが啓太との最後になった。
・啓太の「つまらない・・」で、彼女はどん底に突き落とされる。これは当書の最大の謎でもある。これは男を知らない彼女が淡白で、彼が失望したのかもしれない。だが彼は人間性が破壊されている。原因は彼にある。彼は自ら描いた自己完結の物語があった。死ぬ宿命を背負い、死出の旅路を飾り立てる女性との愛の物語である。

・散華に終わる愛の神聖劇では、女は母でないといけない。しかし女の肌が持つ柔らかさ・温もり・優しさ・美しさを欠く事はできない。それなくして生を死に還元できない。ややこしい事に、この神聖劇では、乳房は女の性が宿るが、性が女体として愛の焔を噴き上げるのは禁句である。そうなると男女の愛に溺れ、現世の執着に変わる。彼の理屈では、彼が欲望に駆られたら、彼女は拒まなければいけなかった。精神の愛のみで、彼を見送るべきだった。しかし結果的に女の肌は男にとって生命そのものになり、女の生命にもなった。彼の神聖劇は崩壊するが、彼は「乳碗」で水盃し、飛び立つ。

・啓太は逝き、百子は遺されるが、心の傷を引きずる。5年後、彼の遺族から百子に「乳碗」が届けられる。
 百子は銀の碗を胸にあてがい、乳が大きくなったのに驚く。百子は正常な男女の愛に対する恐怖・反逆をぬぐい取れていなかった。

・啓太の弟・夏二が妹の麻子と交際を始める(※何で、こんな起こりそうにない関係が始まるのか)。百子は夏二を見て、啓太の姿を感じ動揺する。「都をどり」を見た後、百子は2人を円山の花見に誘う(※「をどり」なんだ)。「都をどり」の終曲が「円山の夜桜」だったからだ。そこには『生命の樹』に出てきた三好達治が詠んだ詩の八坂神社の桜の2代目がある。
 都をどりの歌にもあるように、あの枝垂桜は枯れ、若木が植えられている。(中略)百子は夏二の首筋を見て、啓太を感じた。百子は切なく、目を閉じると、涙が出た。
 百子は夏二を2度抱いた。「なんだつまらない。だめな人ね。あなたは」と突っ放すと、夏二は取りすがってきた。兄から受けた事への復讐に戦慄を感じた。
・彼女に刻まれた修羅が桜の花で炙り出される。『生命の樹』から当書への流れがよく分かる。当書での啓太と『生命の樹』の植木が重なっている。

・当書にミレーの印象的な絵画『春』が登場する。「冬が過ぎ春が来た野に、緑の草が萌え・・、黒い雨雲に大きい虹がかかっている」とされる絵を、麻子の母が愛していた。麻子が急性肋膜炎で入院し、その絵が病室に掛けられた。見舞いに来た百子がそれを目にする。
 「ミレーの絵には強い喜びがあるね。田舎からお父様の家に移り(※京都から東京?)、この絵を見て、華やかな生活に入ると思ったわ。小さい私は、心に虹を描いていたんでしょうね。麻子も虹の絵を見たくなるの。赤ちゃんの時に、この絵を見ていたからでしょうね」。「違うわ、琵琶湖の冬の虹を思い出したからよ」。「冬の虹は麻子に似合わないわ。麻子には春の虹よ」。
 死者に傷はなく、心の傷は生者だけのもの。

・冒頭で冬の虹を「魔王の恋」に譬え、谺が交わされている。百子を駆り立てる怪しい炎は、修羅の闇を深くする。すべてが特攻隊員に由来する。男は愛を歪め、女は打ちのめされ、男は散華した。女には歯車が狂った人生が残された。百子は男を食い尽くす夜叉になった。

・当書の後半に啓太の父・青木が登場する。青木は百子の心情を察し、救いの手を差し伸べる。百子は父・水原に連れられ、京都の青木の茶室を訪ねる(※共に富裕層だな)。2人の父は啓太と百子の愛を認める。青木は百子にしばらく京都にいる事を勧める。
 「百子さん、御心配がおありでないですか」。百子は見抜かれていると思った。「人の身に起こる事は、大抵は相談に乗れます。僕はもう物事には驚きません」。
 百子は若いツバメの竹宮少年の子を宿していた(※夏二との関係が解決した後かな)。その竹宮は自殺していた。百子との関係に耐えられなくなり、自殺した。その子も生まなかった。入院の手配は青木が行なった。入院中の衣類は、啓太の母のものを借りた。
 退院し、百子は青木に伴われ、嵐山を歩く。川の水はすっかり冬色である。「啓太が死んだのがいけなかった。死んだ者が悪かった事にしましょう。死人の罪は消さないで、生き残った者同士で、お礼を言い合いましょう」。百子は癒しを覚えた。
 料亭に入ると妹の若子とその母が待っていた。百子は彼女らの所在を気にしていた。青木は「姉妹の盃を交わしましょう」と言うが、若子は拒んだ。百子は彼女に、清く激しいものを感じた。百子は「お父様が見ていないから、だめね」と言い(※父がいると盃を交わせる?)、「嵐山も暮れたでしょうね」と言い、障子を開けた。冬枯れの木の間から、川音が聞こえた。

・当書は冬の余韻の中で閉じられる。百子の再生は平坦ではなさそうだ。川の流れに任せるしかない。百子は若子のかたくなさに共感し、悟るものがあったかもしれない。これは三姉妹の父への反発など、男性への反発かもしれない。女を御し、組み敷き、置き去りにする男への抜き指しならぬ抵抗かもしれない。隊員の散華で遺された者の心の傷である縦糸と、放蕩する父を起因とする妹探しの横糸が、ラストで統合された。

・長編小説『虹いくたび』の要所を見てきた。川端の特攻体験が下敷きになっているのは自明である。啓太が百子の乳房から「乳碗」を作ったが、これはどこから来ているのか。結論から言うと、森丘少尉の遺品の沓形茶碗と考える(第6章で解説)。ラグビーボールの形で戦闘機の模様があり、彼が大枚をはたいて買い、出撃前に茶を喫した茶碗である。彼はこれを自身と感じていたのではないか。当書でも啓太は「僕には死の盃になるが、それを盃にして、最後の生を飲み干そう」と言っている。これは森丘少尉の胸中と同じである。
・川端は茶道・茶器に関心があり、森丘少尉の遺品に強烈な印象を受けたのだろう。茶碗としての即物的な意味を超え、分身としての役割を認識し、茶碗に託された生の証/生命の息づきを認識したのだろう。川端は茶碗に込められた気迫・魂魄を自己の小説で異なる次元に飛翔させ、茶碗を「乳碗」に変じ、愛と性を司る神器に転じた。驚くべき換骨奪胎である。これは生命の谺である。特攻隊員の生が、川端作品に谺した。
・それにしても乳房で碗を作り、それで生を飲み干す発想は変態的である。人の心に宿る魔性が毒蛇の舌のように焔を噴き上げ、見る者を怖気させる。川端が生んだ昇華に他ならない。彼が「魔界」の言葉を初めて使ったのが、1950年『朝日新聞』に連載された『舞姫』である。この執筆期間は当書と重なる。当書に「魔界」の言葉は登場しないが、同じ意識を感じる。彼はそこまで踏み込まないと、戦争で被った人間の悲劇を描けないと覚悟したのだろう。
・彼は隊員の生きざま死にざまを見て、人間の宿業への鋭い・深い眼差しは、独自に飛翔し、比類なき「特攻小説」を生んだ。※こんな事がずっと書かれているが、大幅に省略。こんなため小説は読みたくない。

・もう1つ、鹿屋での見聞が物語に発展したと思われる例を挙げる。啓太は百子を抱き、「ああ、つまらない。しまった」と言い、「なんだ、だめな人だな。あんたは」と侮辱的な悪口を浴びせ、彼女に癒す事ができない心の傷を与えた。これは極めて衝撃的で、謎として絶対的な牽引力がある。
・これは杉山少尉の『海の歌声』で紹介されるY二飛曹とS一飛曹の逸話を淵源と考える。杉山少尉が出撃を前に女を知りたいと願う隊員を娼家に連れて行き、2人が「つまらないものですね」と答えた逸話である。2人は「5分だけ」とあらかじめ交渉しており、その段階から、逡巡・躊躇・後悔が感じられる。「そんな事を考えるべきではない」と思いながら、杉山少尉に相談し、背中を押されたのかもしれない。その女性に恋が芽生える訳でもないし、死ぬ運命も変わらない。逆に女性に魅せられ、特攻隊員としての使命・矜持がぐらついては困る。結局は味気なさを感じるしかなかった。そう理解すると啓太の「つまらない・・」も理解できる。どちらも女生との間に恋愛は成就しない(※啓太と百子の関係は少し違ったのでは)。
・川端は杉山少尉からY二飛曹とS一飛曹の逸話を聞かされていたはずだ。そしてその引っ掛かりを動物的な勘で嗅ぎ取り、作品に含めたのだ。この言葉は予想外でネガティブだが、これこそ特攻隊員の内面から絞り出された言葉である。女性を介してだからこそ、若桜・荒鷲と称揚される彼らから吐かれたのだ。川端はその言葉を刻み、特攻隊員の複雑な心境を象徴する匕首として当書の中心核にした。

・長編小説『舞姫』(1950年。※以下当書)についても触れておこう。これは『虹いくたび』と同時期に書かれ、川端の特攻体験が谺している。当書の主役はバレリーナの波子である。夫は国文学者の矢木で、同じくバレエの道に進んだ娘・品子、東大に通う息子・高男がいる。そして波子の結婚前の恋人・竹原が登場する。当書も戦前と戦後の断絶と継続がテーマである。

・冒頭で彼女と竹原が同席したタクシーが故障で停まる。そこは皇居のお堀端で占領軍(GHQ)の司令部の前である。2人の恋が復活するかで幕が切られる。矢木は戦争の恐怖に怯え、腑抜けになっていた。この家族も戦争の影響を受けている。当書に1ヵ所だけ「特攻隊」が出てくる。品子が戦時中を語る(※以下大幅に省略)。
 「品子は慰問旅行していた頃も懐かしいわ。六郷川の鉄橋を生きて帰れるかと思ったわ。特攻隊に行って、そこで死んでもいいと思ったわ。トラックで運ばれる事もあったが、牛車で運ばれる事もあったわ(※牛車での話は省略)。でも今より幸せだったと思う。迷いも、疑いもなかった。隊員を励ますために、命懸けで踊ったわ」。
・この基地は東京近郊なので、筑波航空隊か谷田部航空隊であろう。しかし両基地から鹿屋基地に転出し、出撃した者は多い。川端は鹿屋でそれを聞いていたのだろう。しかしこれ以上特攻に触れておらず、特攻隊員の心の内などは出てこない。

・「学徒出陣」「戦没学生」の言葉も出てくる。高男が矢木に語っている。
 「東大に戦没学生の記念像を立てる件を大学が許さないんですよ。除幕式を12月8日に行う予定なんですが」。「戦没学生の手記『遥かなる山河に』『きけ わだつみのこえ』が出ていますよね。記念像の名前はわだつみになるはずです。これを繰り返すなの意図で、平和の象徴です」。
・『はるかなる山河に』『きけ わだつみのこえ』まで語られている(※詳細説明省略)。当初には鹿屋体験が散りばめられているが、直接特攻隊員を語る事はない。高男は「安倍先生によろしく」と川端に言付けした吉田少尉の後輩になる(※高男は架空の人物だけど)。

・もう1つ波子と竹原の関係で見落とせないのが、ベートーヴェンの『スプリング・ソナタ』である。
 帰りの電車で波子にはベートヴェンの「スプリング・ソナタ」が聞こえていた(※誰かがラジオを鳴らしていた?)。この曲には竹原との思い出があった。昔の思い出も、音楽を通すと遠くの夢になり、近くの現(うつつ)になる。
・『スプリング・ソナタ』は愛称で、正規は第5番である。川端は春をイメージさせたかったのだろう。しかしこの曲を発展させてはおらず、小道具に留めている。しかしこの曲が選ばれた意味は大きい。『虹いくたび』ではミレーの絵画『春』が登場し、『生命の樹』の冒頭では「あの春の日は、日本から失われてしまったのだろうか」と問うている。この3作品で「春」が谺している。
・川端はノーベル賞授賞式でのスピーチ『美しい日本の私』の冒頭で、道元の和歌「春は花 夏はほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり」を引いている。これは彼に終生流れた自然観だろう。しかし彼には別の「春」があった、鹿屋を始めとする戦争に曝された春である。

・当書は波子の娘の品子が、引退して伊豆に住む師の香山を訪ねる決心をしたところで終わる。彼女が乗る列車に、傷痍軍人が現れる。
 大磯あたりで傷痍軍人が寄付を求めてきた。品子は刺々しい演説口調を、ぼんやり聞いていた。「皆さん寄付しないで下さい。寄付は禁じられています」。入口に車掌が立っていた。傷痍軍人は金属の足音を立て、品子の横を通った。片手も金属の骨だった。品子は伊東駅からバスに乗り、下田に向かった。
・当書のラストで強引に傷痍軍人を登場させている。華麗に舞うバレリーナの横を、手足が金属の男が通過した。この「春」が背景の3作品は、何れもヒロインが新たな人生を歩もうとするところで終わる。戦争の傷痕から、再生の歩みを踏み出すところで終わる。

・本章は1950年前後の川端作品を、特攻体験による揺曳から見てきた。これらの作品に生命の息吹や谺が交わされている。川端は特攻体験を色々の作品に散りばめている。川端は鳥居少尉に「いつか必ず書きます」と約し、鹿屋体験を根として作品を書いている。しかし彼は人の宿業を見つめ、哀しみの内に描く川端流を貫いた。彼は特攻をルポルタージュとして描かなかった。その点が大岡昇平/山岡荘八らと異なる。確実に言えるのは、彼は戦争の傷跡が色濃く反映した小説を書いている。これは『美しい日本の私』に代表される美の文脈とは異なる。彼は戦争の最前線である鹿屋に身を置き、それを戦後小説の出発点にした。多くの若い生命の思いを背負い、戦後文学に船出した。

第11章 再びの鹿屋、忍び寄る特攻

・川端は1945年に鹿屋を訪れ、それ以降行っていない。特攻隊の生き残りとの交流もないようだ。しかし別の方向から鹿屋が近づいて来た。鹿屋にあるハンセン病施設にいた松山くにの遺稿集『春を待つ心』(1950年)に、川端が序文を寄せている。彼女は1927年に生まれ、10歳で発病し、12歳で施設に入り、1945年1月17歳で亡くなっている。彼女は綴方帳を残しており、それを看護師が遺稿集にした。川端の序文の冒頭を引く。
 広島からの帰り、京都で朝日新聞の坂本さんと尾崎書房の尾崎さんから、松山くにさんの「春を待つ心」を読ませてもらった。

・尾崎が川端に依頼したのは、かつて川端がハンセン病患者の北條民雄(1914~37年。※共に早世だな)を作家として世に送り出していたからだ。彼は東京の全生園で『間木老人』を書き、面識がない川端にそれを送っていた。川端は彼の才能を見抜き、文芸誌に掲載させた。彼の代表作『いのち初夜』(1936年)も川端により世に出て、ハンセン病患者の作品として広く認められた。川端は彼の死後、彼の全集を刊行している。また自身全生園を基に、『寒風』などを書いている。

・もう1つの理由は、川端が『模範綴方全集』の選者になったり、「少年文芸懇話会」を結成するなど、少年少女の綴り方運動に関わった事だろう。『子供の作品』に「私は子供の作文を愛読する。不細工であるが、生命を感じる。彼らは広大で複雑なものを与えてくれる。天地の生命に通じる近道である」とまで書いている。『春を待つ心』の序文に戻る。
 読後の印象は、生命のありがたさに尽きる。この書にハンセン病の苦痛・悩悶は書かれていない(※懊悩煩悶という言葉もあるな)。この子は自然も人間も明るい愛情で見ている。そこに、この子とこの書の意味がある。
・序文にも「生命」の言葉があり、生が谺している。川端は『春を待つ心』を渡された時、当然彼女が鹿屋のハンセン病施設にいたと知らされただろう。そして自分の特攻体験を重ねただろう。それなのに、序文では特攻に全く触れていない。意識的に避けたのだろう。

・川端は『春を待つ心』の出版に尽力したが、鹿屋を訪れる事はなかった。沖縄を訪れた時は、あえて主催者に依頼し、沖縄愛楽園を訪れ、作文が達者な少年と面会している。他の人が防護服を着ても、彼はワイシャツ姿で接している。また「本が欲しい」と言われ、児童図書を送っている。北條民雄との出会いが1935年、この沖縄訪問は1958年で、その間もハンセン病への熱い思いは変わっていない。

・川端は序文で「この子は自然も人間も・・」と書いている。彼女も川端も同じ鹿屋の自然を見たのだ。彼女は「好きな花」の章で、「夏の花ではバラが最も好き」と書いている。川端は『生命の樹』で、野いばら/栴檀の花が目を見張ると啓子に言わしている。それなのに序文で鹿屋に一切触れていない。鹿屋での体験は余りに重く、日常的なレベルで語れないのだろう。フィクションでは特攻隊員の愛・性を大胆に描いているのに、ノンフィクションでは一部の例外を除き、鹿屋に沈黙している。戦後社会を立ち回ろうとするなら、「悲劇の現場に立ち会い、平和の大切さを痛感した」とアピールすれば、新時代に相応しい良心ある作家として評価されただろう。

・しかし彼は政治から一切手を引いた訳ではない。1948~65年彼は日本ペンクラブの会長を務め、広島・長崎の原水爆禁止/世界平和の活動を積極的にしている。『春を待つ心』の序文に「広島からの帰り・・」とあったのも、原爆の跡を訪ねての帰りである。この訪問が機で、1950年夏の日本ペンクラブの会は広島で開かれた。同時に英国で開かれた国際ペンクラブ大会で川端が起草した「平和宣言」が読み上げられる(※本文が引かれているが省略)。
・1962年川端は湯川秀樹/茅誠司らとベトナム戦争での北爆に反対する声明を出している。1967年中国の文化大革命に対しても、石川淳/安倍公房/三島由紀夫らと抗議声明を出している。この様に「行動する作家」なのに、特攻に関しては行動・発言を慎んでいる。

・終戦から5年後に突如として「鹿屋の春」が現れ、彼は驚いただろう。この時期は、「鹿屋の春」に拘った『生命の樹』『虹いくたび』に取り掛かろうとしていた時期である。この衝撃が彼を余計に沈黙させ、「奇妙な二面性」を確立させたのかもしれない。

・『虹いくたび』は乳碗に代表され様に狂気と紙一重の作品で、「魔界」に飛躍発展する。しかし直接的には特攻から離れている。『舞姫』で掠めはするが、特攻を直に登場させていない。これに社会情勢も関係している。終戦後、連合国に占領され、1952年サンフランシスコ条約で主権を回復する。翌年朝鮮戦争は休戦し、1956年経済白書に「もはや戦後ではない」と謳われる。この波に合わせ、彼も特攻・戦争に対しオンアンドオフする。『虹いくたび』『舞姫』『生命の樹』の3作品は、何れも1950年頃の作品である。

・このトンネルから抜けたのが、1954年の『みずうみ』である。当書は「魔界」に積極的に足を踏み入れており、主人公は美しい女性のストーカーで、これを「意識の流れ」で描出している(※説明が欲しい)。この主人公が元学徒兵で、1950年頃の作品とブリッジしている(※ブリッジしているのに抜けた?)。『古都』(1961年)では日本古来の美を綴り、『眠れる美女』(1960年)/『片腕』(1963年)では、デカダンス/シュールレアリスムな作品を綴っている。

・川端は1950年頃を境に特攻から離れる。しかし特攻の方から近づいて来る。特攻隊員の生き残り鳥居との縁が復活する(※戦後なので鳥居とします)。彼は上智大学出身で、終戦を小松基地で迎える。文学青年で、鹿屋で川端に「生と死の狭間で揺れた隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と約束させている。戦後彼は川端に詩を送ったが、連絡はなかったとされる。しかし2人の縁は続いたようである。

・1954年彼が代表の日本織物出版社が『エミーよ、愛の遺書』(金子和代)を出版するが、それに川端が序文を寄せている。当書は日本人女性が駐留米軍の黒人軍曹と結ばれるが、男は帰国する。彼女は女児を出産するが、結核で亡くなる。当書は、彼女が愛児エミーに遺した手記を纏めている。川端の序文を引く(※大幅に省略)。
 国境も民族・人種もなくなるのが理想で、今は過渡期にある。鳥や魚に国境はないのに、人にはある。(中略)私は人類の滅亡を信じない。この筆者のような愛がある限り。(中略)当書の出版者の鳥居達也に求められ序文を書いた。私は右の思いを新たにした。ここに書かれた事は例外でない。この手記には魂の叫びがある。この人はこの手記を書く事で生きられた。私達は素直な真を書けないために生きられている。1954年4月23日。

・この序文で川端は、鳥居との縁が鹿屋である事に触れていない。これは『春を待つ心』の序文に次ぐ、鹿屋の無視である。当書での日本人女性と黒人軍曹との関係や、黒人軍曹が朝鮮戦争に駆り出された事や、依頼者が鳥居である事を考えれば、川端が特攻に触れないのは不思議である。
・しかしこの序文でドキリとする箇所がある。序文を書いた日付が、9年前に鹿屋に入った日の前日なのだ(※偶然近接したかな)。『川端康成全集』(新潮社)に「序跋文」に63編の序文・跋文が収録されている。この執筆日を確認すると、記入がない:36例、年月のみ:16例、年と季節:5例、年月日:6例だった。これからすると当書の序文は例外的で、それは依頼者が元特攻隊員のためであろう。4月24日前後は川端にとって「運命の日」なのだ。

・川端は序文に「この人はこの手記を書く事で生きられた。私達は素直な真を書けないために生きられている」と反省めいた言をしている。これは悲苦を伴う愛の真実だけを言っているのか。それとも鳥居と約した「書く事」も含まれているのか。

・鳥居は、しばらく石川県にいたが、1945年日本織物出版社(日本ヴォーグ前身)を設立し、服飾の型の写真・イラストを示した『アメリカンスタイル全集』を発行し大成功し、出版界の風雲児になる。特攻の生き残りで最も成功した人物だろう。彼は特攻に白い目を向ける様になった風潮を嘆き、1952年『神雷部隊 桜花隊』を発行する(※結構早い時期だな)。これには遺族や生き残りから手記を集め、纏めた書である。彼の手記を引く(※大幅に省略)。
 戦後特攻隊はヒューマニズムに逆行すると批判された。彼らが学問・芸術・文化的な仕事に就いていれば、立派な仕事ができただろう。彼らの心底に日本人固有の封建的な忠義感がある。これは生命愛から深く反省しなければならない。しかし彼らの行為をヒューマニズムに反すると言い切れるだろうか。戦争を防止する先見の明かりし者が全力を尽くしていたら、多くの命は失われなかった。この言葉を当時の政治家・軍人に叩きつける。

・彼の思いが迫る文章である。では彼は、どの様に川端と接触したのか。『川端康成全集』に、これを示す文章はない。ヒントになるのが、『神雷部隊 桜花隊』とその発行元の「羽衣会」である。
・終戦により神雷部隊は解散するが、残った隊員は3年後の3月21日に靖国神社で会う約束をする。3年後40人が集まり、戦友会を結成する。ただし占領下だったので、羽衣会と名乗る。その頃『アメリカンスタイル全集』が絶頂期だったので、彼は『神雷部隊 桜花隊』の編纂に尽力したようだ。編集・印刷・発行を行った羽衣会は、日本織物出版社内にある。彼は『神雷部隊 桜花隊』や『アメリカンスタイル全集』を川端に送っただろう。そして2年後『エミーよ、愛の遺書』を発行する際、序文を川端に依頼したのだろう。

・もう1つのヒントが、川端の長編小説『山の音』である。当書は老主人公・信吾と息子の妻・菊子との関係がメイン・ストリームだが、サイド・ストリームにヒントがある。息子・修一の浮気相手・絹子の職業が洋裁なのだ。それが説明されるのが中ほどの章「朝の水」である。当書も雑誌発表で、1949~54年までの発表で、「朝の水」は1951年10月号から発表される。
・これから考えると、1950年春頃に鳥居との縁が復活し、洋裁がヒントになり、浮気相手の職業が洋裁になったのだろう。ただし当時、女性が身を立てるのに洋裁が多く、社会現象でもあった(※私の祖母も同様)。

・『山の音』の後半の章「蚊の群」で、信吾が絹子の家を訪ねる。そこに絹子はいなかったが、同じく戦争未亡人の池田がいた。信吾は池田に導かれ、座敷に上がる(※大幅に省略)。
 床の間にはスタイルブックが積み重ねてあった。横には衣装で飾られたフランス人形が飾られてあった。ミシンから縫いかけの絹が垂れ下がっていた。
・このスタイルブックは鳥居が出版した『アメリカンスタイル全集』で間違いないだろう。洋裁で生計を立てている絹子には、奇跡の生還をした鳥居の人生が秘められている(※そんな見方はできなかった)。また息子・修一も、戦争で心を負傷した一人である。2人が生きる事に前向きなのか後ろ向きなのか容易には分からないが、特攻の影が声なき声を立てている(※この情報だけでは分からないが、小説を読めば分かるかな)。

・鳥居と川端の関係を年表にする。
 1945年春-両者は出会う。川端は鹿屋を離れる時、「いつか必ず書きます」と約束する。
 1945年8月-鳥居は書き留めた詩を川端に送る。
 1946年春-川端は『生命の樹』を執筆。
 1949年-鳥居は上京し、日本織物出版社から『アメリカンスタイル全集』を出版し、大ヒットする。
 1950年1月-川端は松山くにの遺稿集『春を待つ心』に序文を寄せる。
 1951年秋-川端は『山の音』に、洋裁で生計を立てる戦争未亡人を登場させる。
 1952年2月-羽衣会から『神雷部隊 桜花隊』が出版される。
 1953年春-『山の音』に、「スタイルブック」が登場する。
 1954年4月-川端は『エミーよ、愛の遺書』に序文を寄せる。

・これ以降、鳥居と川端の関係は見られない。1957年鳥居は負債を抱え、日本織物出版社を閉じる。その後アドセンターの社長、東急エージェンシーの専務を務めるが、1974年52歳で亡くなる。東急エージェンシーの専務に就いた時の挨拶文が『鳥居達也遺稿集』にあり、そこからは特攻で死ぬはずであり、今は余生を生かされているとの意識が伺われる。

・一方川端は、鹿屋・特攻との再会を歓迎した節がない。『春を待つ心』『エミーよ、愛の遺書』に序文を寄せているが義務的であり、特攻体験に深入りしていない。同じく報道班員となった山岡荘八は戦後も特攻隊員と交わっている。1978年野里国民学校に「桜花の碑」が立てられるが、それに揮毫している。川端は『敗戦のころ』(1955年)以降は、特攻との関わりを拒んだように思える。
・なぜかくも彼は特攻を拒んだのか。第一義的には重過ぎたのだろう。余りにも多くの理不尽な死に立ち合い、繊細な彼は心の傷を負ったのだろう(※基本彼は生の心理を描き、死自体はそれに反する)。川端らを報道班員として鹿屋に送った高戸は『海軍主計大尉の太平洋戦争~私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部』に、「川端は繊細な神経から押し潰され、筆を執る事ができなかったのだろう」と書いている。

・戦後17年、山岡は『最後の従軍』で「特攻隊員は予想とはおよそ正反対の底抜けの明るさである」と書いている。一方川端の『生命の樹』などでは、「明るさ」は全く感じられない。彼は特攻隊員を祖国のために見事に命を散らしたと断定できなかった。逆に『きけ わだつみのこえ』のように、軍国主義の犠牲になり、涙をこらえ、嫌々ながら出撃命令に従ったとの解釈にも同調していない。隊員にはクリスチャン/後輩/文学青年など様々の個性・生命があり、表層だけで理解されたくなかったのだろう。
・彼に出撃を止める事はできなかったし、故障や天候不順で帰還した隊員の再出撃も止める事はできなかった。彼は命の放棄を傍観するしかなかった。その哀しみに胸を痛め、孤立し、澱みを重ねるしかなかった(※そんな話はあったかな)。

・1954年川端は『山の音』を完結させる。以降彼の作品は転回する。同年1月より『みずうみ』(※以下当書)の連載が始まる。主人公は高校教師の銀平で、彼は教え子の久子を付け回す。久子と破綻した後は、別の女性を付け回すようになる。この魔界の住人の心理・行動を追う作品である。作品の後半で彼と悪友が共に学徒動員である事が分かるが、特に詳細は説明されていない。

・(※本文を引き、主人公の奇癖を解説しているが省略)この犯罪すれすれの奇癖に至ったのは、特攻基地で多くの死に触れたためかもしれない。うつし世(※現世)を生きる人間の哀しさの詩に迫ろうとする時、川端は特攻隊員の悲劇を漉した清水のような純粋さに到達する(※こんな文章はうんざりだが、まだまだ続きそう)。
・当書は男性を主人公にしている。一方『生命の樹』『虹いくたび』『舞姫』は女性を主人公にし、戦争による喪失からの再生を描いた。ところが当書や『みずうみ』『眠れる美女』などの魔界作品は男性を主人公にしている。

・川端から戦争体験は遠のいたのか。そうではない、鹿屋での特攻体験は宿業になり、胸深くに沈殿し、結晶となった。それが眠れるマグマになり、小噴火を起こしている(※比喩が多いな)。1964年11月、彼はNHK連続テレビ小説『たまゆら』の原作の執筆を始める。NHKは旧作のドラマ化を考えていたが、彼の提案で新作になる。また舞台は宮崎になり、彼は宮崎を訪問する。その様子を案内した宮崎交通の渡辺が『夕日に魅せられた川端康成と日向路』(2011年)に記している(※大幅に省略)。
 川端には宮崎に行きたい理由があった。敗戦の年、彼は鹿屋基地に向かった。その時搭乗機が故障し、宮崎空港に不時着している。その時見た空の青さ、紺碧の海岸、緑の山を彼は忘れなかった。
・これは初耳の情報である。川端は『古事記』1冊を携え、宮崎空港に降りた。彼は舞台を宮崎にした理由を「私は日本の美しさを描きたい。地方の風物・民俗・歴史・伝説などに触れ、筋を運びたいと思っている」と述べている。そのため『古事記』を携えたのだろう。彼は空路で鹿屋の「狂った春」を思い起こしただろう。そして空港に着陸するや、不時着した件を渡辺に話したのだろう。

・川端は空港からホテルに向かう途中、タクシーを止めさせている。そして「こんなに美しい夕日は初めてだ。素晴らしい」と言っている。彼は夕日に特別な感性が働く。1972年彼は「万葉歌碑」の建立地を決めるため桜井市を訪れた。その時夕日を凝視し、黙り込み、同行者を戸惑わせた。これは3ヵ月後の自死の予兆だったのかもしれない。彼にとって夕日は、生から死に移行する際の最後の輝きなのかもしれない。
・宮崎の旅には途中から養女・政子が加わり、17日間にもなる。帰路は元鹿児島航空隊があった鴨池空港から発っている。その途中大隅半島にある鹿屋を望み、特攻体験に引き戻されたはずである。

・1965年6月、川端は再び鹿屋と再会する。彼は『水郷』を『週刊朝日』に発表するが、そのため利根川水域を訪れる。当書で彼は初恋の人・伊藤初代を追想している。彼女と婚約するが、先方に一方的に破棄される。また水郷に続く霞ヶ浦には特攻隊の訓練場があり、鹿屋での特攻体験にも触れている(※大幅に省略)。
 霞ヶ浦にも胸が痛む思い出がある。私は終戦の年、報道班員として鹿屋の特攻隊基地に従軍した。海軍に軍艦はなく、飛行機を航空艦隊とした。沖縄戦の最前線となり、隊員は爆弾を抱いて敵艦に突入した。
 隊員には学徒動員と少年航空兵(予科練)がいた。学徒は大学・高校からの志願者で、少年航空兵と違い、派手なマフラーなどをしていた。私達は彼らの出撃を見送った。その訓練場が霞ヶ浦にもあった。
・『敗戦のころ』から10年の沈黙を破り、特攻について書いている。彼が少年航空兵に注目するのは、霞ヶ浦がその訓練場だったからだ(※詳細省略)。予科練の訓練場は全国に19ヵ所あった。彼が少年航空兵に拘るのは、婚約が彼22歳/初代15歳の時で、少年航空兵と年齢が近かったからだろう(※学徒兵も近いのでは)。うら若い初恋の人と少年飛行兵が共に死に包まれている(※初恋の人に死のイメージはなかったと思うが)。
・実際鹿屋では学徒兵、特に大学出身の隊員が話し相手だった。そして彼らは何れも文学青年だった。ところが『水郷』では少年飛行兵を追想している。鹿屋では少年飛行兵との交わりは少なかったので、個々の隊員は想起できなかったかもしれない。しかし学徒兵より少年航空兵の方が死にストレートであった。彼はそれを遺書などから感得していただろう。

・この様に1964年晩秋/1965年初夏に鹿屋が再接近してきた。歳月が移る中、生死の源の淵に和むように静かな調和を見せ始めた特攻は、今度は次なる衝撃のパンチを繰り出してきた。川端が文壇に引き出し、弟の様に接し、自分より遥かな才能の持ち主と認める三島由紀夫が襲い掛かって来た。川端の特攻体験は、彼により攪拌される。

第12章 特攻に死す。三島由紀夫との葛藤

・1941年三島由紀夫は17歳の時、『文藝文化』に『花ざかりの森』を連載しデビューする。1944年これが単行本になり、翌年3月川端はこれを『文藝』の編集長・野田宇太郎から受け取る。川端は三島に手紙を書いている(※簡略化。以下同様)。
 野田君より『花ざかりの森』を拝受した。あなたの作風にかねてより興味があり、拝読を楽しみにしています。
 疎開の荷造りの物を見に行き、宗達/光琳/乾山/高野切石山切/天平推古まで沢山見せてもらい(※川端の所有?)、空模様をすっかり忘れました(※天気?普通忘れるか)。取り敢えず御礼を(※三島に御礼?)。

・以降25年に亘って、三島との間で書簡が交わされる。これは川端が鹿屋に赴く、直前である。戦争で多くの命が失われ、彼も敗戦直後に島木健作を失う。これに対比し、若き天才が現れたのだ。彼は北條民雄などの新人を発掘したが、三島もその一人である。1946年三島の短編小説『煙草』を『人間』に掲載させている。三島は1949年長編小説『仮面の告白』、1954年『潮騒』などを書き、1956年『金閣寺』で読売文学賞を受賞し、文壇の寵児となる。

・川端と三島には25歳の年齢差があり、両者は師弟あるいは親子の絆になる。1958年三島は結婚するが、その仲人を川端夫妻が務めている。三島は盆暮れの付け届けなども欠かさなかった。三島は小説だけでなく、戯曲/評論などでも活躍した。川端はこれに瞠目していた(※マルチの才能を有していたのか)。川端から三島への手紙を引く。『地獄変』は芥川龍之介が原作を書き、それを三島が歌舞伎に脚色した。
 見事な巻鮭、有り難う。『地獄変』は愉快でした。あなたの才華を羨望し、感歎します。

・米国で川端の『雪国』が出版され、作者のプロファイルに「三島由紀夫のような若手作家を見出し、支援した」とあり、それを川端が見て、自嘲する手紙を三島に送っている(※本文省略)。
・1964年晩秋川端は宮崎を訪れた。『夕日に魅せられた川端康成と日向路』によると、その時川端は「ノーベル賞を受賞するのは三島由紀夫です。他は考えられない」と述べている。川端がノーベル賞を受賞するのは1968年で4年前の事だ。もっとも彼は1961年からノミネートされていて、その時の推薦文は川端が三島に依頼している(※推薦文を依頼する手紙が引かれているが省略)。三島は依頼され、3日後には推薦文を川端に送っている。その後も川端はノーベル賞候補の常連になるが、彼の胸中は分からない。一方の三島もノーベル賞の候補になるが、外面的には川端を立てた。

・川端のノーベル賞受賞で2人の関係は冷却化したとされる。しかしその2年前、2人の間に溝が生まれていた。それは「特攻」であり、川端が「師友」とする三島から突き付けられたテロリストの刃であり、晩年の彼を苦しめる。1966年三島は『文藝』で短編小説『英霊の声』を発表する(※以下当書)。当書は三島のターニングポイントと云える。

・物語は「私」が「帰神の会」を訪れ、霊媒師から英霊の語りを聞く内容になっている。(※本文が引かれているが省略)平和があるだけで、真実・誠がなく、金銭第一主義になった世の中を呪詛する嘆きが続く。その呪詛の結びは「なぜ天皇は人間に成られたのか」の疑義で閉められる。

・続いて最初の御霊が降りて来る。その御霊は2.26事件で大君に捧げる一心で義兵した青年将校で、大御心から理解されなかった無念を語る。現人神でありながら、人として対処した天皇を批判までする。三島は事件の首謀者・磯部浅一を設定したと考えられる。ここでは第1の御霊については深く追わない。

・続いて第2の御霊が降りて来る。特攻隊員である。第1の御霊が彼を、「我らに続いて裏切られた霊である」と紹介する。飛行服を召し、日本刀を携えた御霊の集団が現れる(※簡略化。以下同様)。
 「我々は比島で、空母1隻/巡洋艦1隻を撃沈した者である。(中略)我らが生ける神なら、陛下こそ神であらねばならぬ。そこに我らの不滅の根源がある。それが我らの歴史を繋ぐ唯一の意図である。そのため陛下は情や涙で我々の死を救ってはならぬ。神のみが我々の不合理の死、生粋の悲劇を成就させる。そうでなければ、我々の死は愚かな犠牲になる。神の死ではなく、奴隷の死になる」。

・弟神は兄神と同じ信義の御旗を掲げる。現人神との相思相愛の絆である。2.26事件の兄神は、ひたすら天皇との精神的絆を問う。一方特攻隊員の弟神は、敵艦に食らいつく最初から最後までの一心を語る。
 「我が目標は敵空母のリフトのみ。機首を下げ、目標に突入するのみ。勇気とは、見る事だけ。(中略)リフトまで少しだ。機体と我が身は一体だ。痛みはないが、白光の中で意識が遠ざかる。見るのみだ。リフトは何と遠いのか。加速度は何と遅いのか」。
 「銃弾が胸を貫いた。衝撃は感じたが、痛みはない。衝撃があるので、これは幻ではない。リフトに人が見える。しかし命中の瞬間を意識する事はなかった」。

・降臨した英霊は、突撃の瞬間までを語り続ける。その後、両英霊の声が響き渡る。
 日本が敗れたるは良し。農地が改革されたるは良し。社会主義的改革も良し。敗れたる負目を肩に負うは良し。屈辱を嘗めるは良し。しかしいかなる強制・弾圧・脅迫があろうと、陛下は人間と仰るべきでない(※国体護持だな)。
・英霊の語りは「なぜ天皇は人間になられたか」の問いで結ばれる。戦後の矛盾を「天皇の人間宣言」とし、2つの裏切られた霊に慨嘆させたのだ。

・三島は自著を出す度、それを川端に送っていた。1966年当書は『文藝』に掲載されるが、同年に単行本として刊行される。川端は1950年に長編小説『虹いくたび』を書き、1955年随筆『敗戦のころ』で特攻隊に触れるが、「特攻」を避けてきた。ところが1964年宮崎を訪問し、翌年水郷を訪問し、そして決定打になったのが1966年の当書である。三島の記述は、鹿屋の地下室を無理矢理蘇らせ、そしてその記述が、現実と異なる事に気づく。

・当書の特攻はフィリピンで行われた特攻で、鹿屋の沖縄戦の前である。史実から三島は、1944年10月25日の特攻第1号・関大尉をモデルにしたと考えられる。彼は海軍兵学校出身の職業軍人で、敷島隊を編成している。25日の特攻で空母1隻/巡洋艦1隻を撃沈している。この特攻は沖縄戦と異なり、能動的・主体的だった。関大尉も2.26事件の青年将校も国を思い、我が命を犠牲にした。そのため三島は彼らを兄神・弟神とした。
・一方学徒動員され、形式的に志願とされた鹿屋の特攻隊員は彼らと異なり、複雑な心境だった。それが『生命の樹』にも表れる。「強いられた死、作られた死、演じられた死だが、あれは死ではなかった気がする。行為の結果が死で、死は目的ではなく、自殺ではない」。また三好達治の詩から「仕方がないではないか・・」を引き、隊員の諦念を暗示させている。

・川端は三島の『英霊の声』が力作であると認めながらも、特攻観の違いを感じる。当然三島は当書を川端に送っている。当書に201空飛行長が出撃を訓令する場面がある(※引かれているが省略)。三島は猪口力平・中島正の『神風特別攻撃隊』を参考にしており、飛行長が中島中佐と考えられる。彼は1945年4月上旬、鹿屋に訓練・指導のため着任し、6月まで滞在している。そのため川端は中島中佐と対面している。

・川端の当書への感想は残っていない。しかし1966年7月、不思議な手紙を三島に送っている(※本文が引かれているが省略)。三島の『反貞女大学』は1965年に産経新聞に連載され、翌年3月単行本が刊行されている。『英霊の声』は1966年6月に刊行されている。川端は「『反貞女大学』以降は全て読んだ」と書いているので、当然『英霊の声』を読んでいる。しかし感想については「なまけ癖のせいで・・」と口を閉ざしている。松山くにの『春を待つ心』と鳥居達也が出版した『エミーよ、愛の遺書』に序文を寄せたが、それ以降は特攻体験を忌避している。

・手紙に「文春の橋川文三の評論を読み、『仮面の告白』の所々を読み返している」(※簡略化)とある。これは橋川が『三島由紀夫』を書いており、それを川端が読み、『仮面の告白』を読み返したのだ。川端は『英霊の声』も読んだが、手が届かぬ存在になったと思ったのだろう。この溝は、他でもない「特攻」である。手紙に「お話を伺える折があると有難いと思います」とあるのは、その寂しさからだろう。もし三島が駆け出しの作家なら、彼は「三島君、違うんだよ。文学・観念論としては同意できるが、実際は単純ではないんだ」と伝えただろう。しかし彼が三島に語る事はなかった。

・1967年3月三島は、2.26事件を敷衍した『道義的革命の論理-磯部一等主計の遺稿について』を『文藝』に掲載する。当書は事件の首謀者・磯部が天皇を敬慕し、それゆえに天皇に諫言した思想・行動を論じている。川端は当書については三島に感想を送っている。
 拝見し、瞠目しました。見事な文章で、感歎久しく、呆然としました。私は2.26事件についての考えはありませんが、感動が伝わりました。
・1969年当書や『反革命宣言』『文化防衛論』が、『文化防衛論』として出版される。川端はこれを娘婿にも勧めている。川端は三島の2.26事件に対する言説は認めるが、特攻に関してだけは同意できなかった。

・三島は『英霊の声』発表の3ヵ月後、江田島の海軍兵学校を訪ね、特攻隊員の遺書に触れる。これは『豊穣の海』4部作の内、第2部『奔馬』の取材が目的だった。広島には学習院時代の恩師・清水文雄がいた。彼は1938年より学習院で国語の教鞭を執っていた。1941年、5年生・平岡公威が書いた小説『花ざかりの森』を認め、同人誌『文藝文化』に掲載させる。この時、平岡公威にペンネーム三島由紀夫を与えている(※三島由紀夫はペンネームなんだ)。文壇に登場させたのは川端だが、最初に才能を認めたのが清水である。

・三島は8月25~27日に広島に滞在し、26日に海上自衛隊の教育参考館を訪れる。この時広島大学に奉職していた清水が案内する。『中国新聞』がこの様子を記事にしている(※大幅に簡略化)。
 三島由紀夫は江田島を訪れ、特攻隊員の遺書を見て、深い感銘を受ける。彼は術科学校で剣道の試合をして、4段の腕前を見せた。広島大学の学生との懇談会で文学論を戦わせた。彼は『英霊の声』を発表しており、ファシズム/天皇制が話題になった。

・この時三島を迎えた竹川哲生が、『英霊の声』を批判した特攻隊員の母親の言葉を三島に伝えている。この顛末を宇野憲治が竹川から聞き、『広島での三島由紀夫-広島の一夜』に書いている(※簡略化)。
 「竹川さん、これではいけませんよ、三島さんのこれでは。英霊が浮かばれません」となった(※母の言葉?)。そこで私が「これが小説の限界でしょう。ここまで思いがある作家はいません。三島さんは一番大事な事に取り組まれ、一番大事な事を気にされているんです」と言った。これは訪問前の話です。これを三島さんに話すと、三島さんは「竹川さん、言い事を言ってくれた。小説の限界なんです。何もかも書こうとするが無理です。あれは思っている事の一部です」と言った。
・これからは母の批判の内容は分からない。川端はその批判を小説の限界とすげ替えた。しかし母は、2.26事件の首謀者は「蹶起」したが、特攻隊員も同じ様に扱われた事に違和感を覚えたのだろう。これと同じ感情を川端も感じたが、それを三島に伝える事はなかった。

・この頃、三島は同人誌『批判』に『太陽と鉄』を連載中だった。そしてその冒頭に「私は小説で表現が難しい、もろもろなものを感じている。これから告白と批評との中間の『秘められた批判』と云うべき領域を発見した」と書いている。これに母親の批判が関係しているかもしれない。

・三島は新しい試みである『太陽と鉄』に特攻隊員の遺書を見た体験を書いている。当書には、精神と肉体、文学と行動をめぐる自己分析、肉体改造、文武両道による知行合一、望ましき死なども書かれいる。『批判』には、1965年11月号から1968年6月号に連載された。特攻隊員の遺書については後半で書かれている(※大幅に要約)。
 精神が「終り」を認識する時、言葉はどう作用するのか。その雛型が特攻隊員の遺書である。最も心に残るのは、殴り書きの遺書で、唐突に終わる。「俺は元気一杯だ。若さと力が溢れている。3時間後に死んでいるとは思えない。しかし」。真実を語ろうとすると、口ごもる。真実は言葉を口ごもらせる(※滅私奉公の時代では、真実を書けない)。彼には「絶対」を待つ空白は残されていなかった。言葉で緩慢に終わらせる暇もなかった(※こんな文章が続くが省略)。
 一方、七生報国/必敵撃滅/死生一如/悠久の大義の様な簡潔な遺書は、既成概念の中から壮大・高貴な言葉を選び、心理に類するものは抹殺し、自分をその壮麗な言葉に同一化させる誇り・決心を言葉にしている(※これは書かされた遺書だな)。これらの四字成句は格別な言葉だが、今は失われている。
 英雄の言葉は天才の言葉と違い、壮大高貴な言葉であるべきで、これこそ肉体の言葉である。かくて私は、精神が「終り」を認識した時の2種の言葉を見た。

・この2種類の遺書の存在は、川端も鹿屋で確認している。彼は遺書だけでなく、日記・手記にも接している。そこには表の顔とは異なる内なる顔があり、それを認識していた川端は、遺書を書く隊員に痛ましさを感じただろう。その隊員の内なる声が、『生命の樹』の植木、『虹いくたび』の青木啓太を創造し、魔界へ跳躍させた。彼らの胸に湛えられた思いは、遺書に綴られた硬質の「晴れ姿」とは異なる生命の輝きを発した。川端の特攻小説は、この生命の谺から書き上げられている。彼は特攻に対し寡黙を貫くが、彼が綴った言葉は、隊員と共に過ごし、その最期を見届けた痛みから絞り出されている。
・これに対し三島の思考は観念論に過ぎない。彼は特攻機の翼を凛々しく想い、黎明に輝く特攻機に恍惚した。彼にとって特攻機は神だった。しかし彼らには明らかに出撃までに暮らしがあった。俗臭にもまみれ、異性に煩悩し、命を捨てる事への懐疑・恐怖があった。それを川端は見たが、三島はスキップした。

・三島に宛てた手紙から、川端が『太陽と鉄』を読んだのは明らかである。三島の特攻に対するオマージュに、毒気に当てられた思いになっただろう。共に過ごした隊員の「強いられた死、作られた死、演じられた死」を称揚する事はできなかった。三島との余りの違いに彼は沈黙したのだ。

・1966年の『英霊の声』の発表は、三島の転換点になる。作品だけでなく、人生も変わる。民族主義的になり、政治・改革の領域にまで進み始める。1968年10月5日彼は「盾の会」を結成する。

・1969年1月、雑誌『新潮』に連載した三島の『豊穣の海』4部作の第1部『春の雪』/第2部『奔馬』が単行本になる。川端はこれを読み、三島に無上の感動/至福/幸い/誇りと伝えている。この単行本に川端は推薦文も寄せている。
 『春の雪』『奔馬』を通読し、私は奇蹟に打たれた様に感動した。古今を貫く名作を成した三島君と同時代の人である事を幸福に思う。これは西洋古典の骨脈にも通じ、しかも深切な日本の作品で、日本語文の美彩も極致である。三島君の才能は、危険なまでの激情に純粋昇華している。この新しい運命的な古典は、国と時代の論評を超えて生きる。※何か異常なまでの称賛だな。
・川端は三島を「師友」としたが、どちらが師なのか分からない程の絶賛である。川端が短編小説『煙草』で文壇に引き上げた三島は、今や文学史に残る傑作を創出する大家になった。推薦文に「ああ、良かった」とあり、これは『英霊の声』『太陽と鉄』での特攻隊の登場に対し、文学世界で精進して欲しいとの願いがあったのだろう。川端はこの願いをしたためた便りを、10月16日に送っている。

・しかしその翌日、天下を揺るがす事が起こる。川端のノーベル文学賞の受賞である。これにより埋まると思われた両者の溝は埋め難くなる。三島は受賞を喜んだ。当日夜、三島は花束を携え、川端邸に駆けつけた。翌日NHKが川端へのインタビューを収録するが、川端の左右を三島と伊藤整が囲った。三島は川端の訥弁を補い、師の文学の尊さを語った。一方で三島は川端邸に向かう時、「これで10年は日本人の受賞はない」とこぼしている。
・その直後に三島は川端の願いが書かれた便りを受け取る。しかも便りは『春の雪』を『春の海』と誤記していた。三島には師の受賞を祝う気持ちと、自分が受賞すべきとの思いがあったのではないだろうか。これが三島を「盾の会」に邁進させたのではないだろうか。

・受賞の1年後、亀裂を決定的にする出来事が起こる。1969年10月三島は川端に、「盾の会」1周年を祝うパレードへの参列を依頼する。しかし川端は「いや。だめ。駄目なものは駄目なのです」と言い、沈黙する。川端は帰宅すると、家族/教育評論家・伊澤甲子麿/文芸評論家・村松剛に愚痴っている。村松の『三島の死と川端康成』を引く。
 夜10時頃、三島から電話が着た。川端に祝辞を依頼すると「いやです。ええ、いやです」と応え、沈黙したらしい。電話口の三島は悲憤に満ちていた。川端は報道班員として鹿屋に滞在したのに、1行の記事も残していない。三島が川端に「鹿屋での暮らしはどうでしたか」と尋ねても、「楽しかったですよ。食事が美味しくて」と応えただけだったそうだ。
・三島が鹿屋について尋ねたのは、彼が2.26事件/特攻隊に関心を向け、神風連の影響から『奔馬』の構想を固めていた頃だろう。それにしても川端の返答はけんもほろろの拒絶である。この時三島は川端の鹿屋体験への心情に、老作家の触れれば血が噴き出るほどの痛みに気づくべきだった。
・1969年11月三島は「盾の会」1周年行事を迎える。彼は川端の痛みの深さに気づかず、パレードに招こうとした。おそらく彼は1年後の自死を覚悟していたのでは。彼は川端の拒否を、尽くした師の裏切りと感じただろう。愚痴られた村松が鹿屋の話を出したのは、事の本質を理解していたからだ。それなのに三島はそれを理解できなかった。

・1970年6月13日川端は久し振りに最後になる便りを三島に出す。書き出しは「『太陽と鉄』は感銘を受け、衝撃が心から離れません。重要な御文と存じます」で始まり、翌日から台湾・韓国を訪れる事や、前月京都で体調を崩し、1週間寝込んだ事を書いている。この手紙はノーベル賞受賞の前日に出した手紙以来である(※8ヵ月振り)。『太陽と鉄』は2年近く前に出版された本である。やはり川端は三島の「盾の会」への傾注を憂いていたのだろう。またパレード参列を拒否した事を悩んでいたのだろう。
・この手紙に三島は返信している。これも三島から川端への最後の手紙になる。「御健康を心配しております。しかし肥らぬ体質が最上です。『一番タフなのは川端さん』の信仰は崩れません」「一時も葡萄酒の様に尊く感じます。空間的事物には興味がなくなりました。夏には一家で下田にまいります。美しい夏になればと思います」。挽歌の響きがする手紙である。『太陽と鉄』に対しては全く触れていない。自死を決心し、最後の夏を過ごす気持ちだったのだろうか。

・1970年11月25日三島ら「盾の会」の5人が自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪ね、東部方面総監を人質にする。彼は自衛官の前で憲法改正の蹶起を促す演説をし、切腹して果てる。鉢巻には「七生報国」と書かれていた。
・川端はその時上京していて、市ヶ谷に駆けつけている。翌日の新聞に「ただ驚いた。もったいない死に方をした」とコメントしている。そして川端による追悼文『三島由紀夫』が、翌年の『新潮』1月号に掲載される。1月号の締切りは11月末なので、数日で書かれたと思われる。またこの号には、三島の『豊穣の海』第4部『天人五衰』の最終回も掲載されている。
・追悼文には「私は三島君の『盾の会』に同情できなかった。しかし彼の死を止めるには、市ヶ谷にも付いて行くべきだったかもしれない」と書いている。さらに「私は三島君の死から、横光君の死を思い出す。それは2人の思想が似ているからではなく、共に師友だったからだ。三島君の『豊饒の海』は、『源氏物語』以来の名作と思っている。三島君の死の行動については無言でいたい」と書いている。

・新藤純孝は『伝記 川端康成』(1976年)に、「川端の戦後は、三島を得、横光を失った所から始まる」と書いている。横光利一は新感覚派を牽引するが、戦後2年に亡くなる。川端は特攻体験により心の空洞が生まれ、戦後直ぐに島木健作を失い、さらに横光を失った。そこに師友となる三島が現れ、交遊を深めるが、戦後四半世紀で特攻の如く散華した。川端は「特攻」で呻吟するが、四半世紀後に再び「特攻」に打ちのめされる(※しかし死の内容は大きく異なる)。これは川端の戦中・戦後に亘る哀しみの道である。逝く者の哀しみは死によって閉じられるが、遺された者の哀しみは限りなく続く。三島の自死から1年半後、川端も自死する。

第13章 生と死の坩堝

・川端が死去して4年後(1976年)、神山圭介の小説『鴾色の武勲詩』が発表される(※以下当書)。神山圭介はペンネームで本名は金子鉄麿で、鹿屋から出撃した金子照男少尉の弟である。彼は兄の足跡を調べ、その過程を小説にした。第7章「特攻隊員 その2」でも紹介したが、金子少尉は出撃機の故障などで、何度か出撃できなかった。そんな時、報道班員の川端に出会い、「先生と色々お話ししました」と家族への手紙に書いている。川端の鹿屋での行動が記されているので、最終章で紹介する。
・当書は「シイちゃんを尋ねて来たのだ」で始まる。シイちゃんは、鹿屋基地で散髪の奉仕活動をする理容師・花田テルさんのアシスタントの少女である。花田テルもシイちゃんも小説上の仮名である。彼女らは、隊員の憧れだった。

・当書の主人公・山根恭輔(金子鉄麿本人の仮名)は、鹿屋を訪れ、前年に花田テルが亡くなっている事を知る。シイちゃんが対岸でスナックを営んでいると知り、それを訪ねる。痩せていた彼女も40代半ばである。山根は彼女から多くの事を聞くが、その中に川端に関する記述が1つだけある(※大幅に簡略化)。
 彼女は、赤い靴を履き、痩せて眼がギョロっとした小説家を覚えていた。隊員の散髪が終わると傍に来て、「私も刈ってもらえますか。私もいつい死ぬか分かりませんから」と言う。それからはお辞儀すると、少しずれて「やぁ」と返してくれる。「いくつですか」と訊くので、「16です」と答えた。
・川端の滞在は1ヵ月なのに髪を切っている。これには何かの精神があったのでは。鹿屋は夥しい死を見送るだけの坩堝である。彼も心情的に死に染まっていたのだろう。ただし自己の具体的な死ではなく、隊員に寄り添う気持ちだろう。彼女に髪を切ってもらったのに、儀式の意味があったかもしれない。彼はそこで何を希求していたのか。それを見極めたい。

・視点を変える。川端が最も特攻を表した作品は『生命の樹』(1946年春)である。彼の作品には「生命」の言葉が多く出てくる。北條民雄の『いのちの初夜』を解説したが、このタイトルは元々は『最初の一夜』だったのを、彼が『いのちの初夜』に変えさせている。

・彼には「生命」「いのち」などで意味が異なったようだ。双子の姉妹の運命を描いた長編小説『古都』(1961年)では、僅か1・2ページの間で「命」「生命」「いのち」が書き分けられている。帯問屋の主人・太吉郎が家族と植物園を訪ねる。チューリップに飽きた頃、機織り職人の宗助/秀男親子に出会う。太吉郎は自分がデザインした帯を秀男に拒否されたいきさつがあった(※原文が引かれているが、余りに長いのでその部分だけ)。
 花は生きている。短い命だが、明らかに生きる。
 偉い画家が描かはったら、チューリップかて、永遠の生命がある絵になりまっしゃろ。
 短い花どきだけ、いのち一杯咲いておやはる。
・花は短い「命」を生き。花どきに「いのち」一杯咲く。それを画家が描けば永遠の「生命」になる(※時間の長さは、いのち<命<生命だな)。「いのち」は瞬間的な力で、熱・光の放射のエネルギーになる。これに対し「生命」は寿命も超え、枯れる事のない輝きや不滅の個性である。彼はこの「Life」の三段階を常に意識し、様々に「生」を書き分けた。これは彼が死に親炙した事による。

・三島は小説家・劇作家だけでなく、文芸評論家でもあり、川端の作品を「生命」の観点から言及している(※幾つか引かれているが省略)。特攻においては対立するが、川端の起承転結を結ばず、捉えどころがない作品にも拘らず、本質を捉え批評している。川端の短編小説『イタリアの歌』は1936年の作品である。実験中に博士と助手が爆発に遭い、博士は亡くなるが、恋人である助手は生き残る。イタリアに留学し、結婚する約束をしており、彼女はイタリアの歌を歌い始める。最後は「何とはなしにイタリアの歌を歌い始めた。涙は流れるが、声は高まった。明日は力一杯歌おうと思った」で結ばれる(※このパターンが多いな)。イタリアの風情が浮かんでくる。生と死が絡み合い、死を乗り越え、生への希求が激しく燃える。これが川端文学の芯である。川端文学の本質は「生命の讃歌」であり、それに身が凍る死と自然が同居している。

・1941年川端は短編小説『朝雲』を書く。女学生・宮子の「あの方」への思慕が綴られている。「あの方」は、新任の女性国語教師である(※この話は省略します)。いずれにしても、彼が描く「生命」は真実の光を浴び、新たな光に包まれ、積極的・肯定的な人生に向かう。

・彼の「生命」を考える上で欠かせないのが、『散りぬるを』(1933年)である。動機なき殺人が題材で、「私」の下で文学修行していた若い滝子・鳶子が寝室で殺される。「私」は被害者の確認のために警察に行く。そこで胸を刺された胸部の写真を見せられる。「私」はそれに歓喜の「生命」を感じる(※本文が引かれているが省略)。
・当書はこの死によって始まるが、何度も「生命」の言葉が登場する。(※本文が引かれているが省略)彼はまっとうな死より、予期せぬ死の方が「生命」が生き生きとし、輝き続けるとした。
・三島は当書の娘の遺骸の写真を見て「生命」が溢れると感じた件を引用し、「死体に生命の言葉を使っている。生命は生きていても死んでいても関係ないのだ。彼の文学では自己の行動原理ではない。生命は精神に対抗して屹立している」(※難解)と述べている。
・三島は川端文学の本質を「生命に対する讃仰」と看破し、さらに川端文学における「生命」の在り様を進めて論じている。三島は「生命を1つの対象としている」とした。私なりに言い換えれば、情熱のエネルギー源ではなく、風・雨・雪のように相手から向かって来る「気」であり、闇の中できらめく光であり、自身の生が許される気持ちになる神々しい力である(※難解)。

・川端文学の抒情を私と同じような観点から、しかし遥かに鮮やかに語った論調がある。小林秀雄の『雪国』に対する論調である。
 川端の胸底は「がらんどう」である。彼は自分で生きていない。他人の生命が「がらんどう」の中を光として通過する。彼の生々しい抒情はそれゆえ生まれる。作家の虚無感は、そこまで達しないと本物になれない。
・小林は「彼に虚無の影があるからこそ、光に感得して止まない。それが彼の源泉である」とした。「がらんどう」の言葉は学術用語ではなく日常の言葉である。それゆえドキリとする。作家の虚無感は生半可ではダメで、「がらんどう」にまで至らないといけないのだ。

・川端の「生命」は「死」を超越している。それゆえ永遠に輝く。短編小説『反橋』(1948年)は冒頭と最後が「あなたはどこにおいでなのでしょうか」となっている。川端作品は当書から魔界に転じたとされる。同時期の『しぐれ』『住吉』にも同じ問いかけがされており、『反橋』3部作と呼ばれる。(※本文が引かれているが省略)古美術の不滅の美を語っているが、「過去へ失った人間の生命が甦り、自分に流れる」とある。死者と川端との間に「生命」の交感・共鳴が見られる。
・『反橋』は主人公が5歳の時、住吉神社の反橋の上で、母から「本当の母ではない」と告げられた記憶の回顧から始まる。50年振りに住吉神社に訪れ、「私の生涯はこの時に狂った」と確認する。冒頭と最後の「あなた」が何かは論議が尽きない。母のみでなく、おしなべて死んだ者を指すのではないか。彼方から招来される「生命」が、朽ちない死者の魂を甦らせるなら、大戦で命を失った者も含まれる。彼らも短い「命」を「いのち」一杯に生きたのだ。肉体は南洋に散っても、「生命」は朽ちず、光芒を放っている。

・川端は特攻体験から『生命の樹』を書いた。「生命」にはルビを振り、「いのち」と読ませた。「命」では良しとされなかったのだ。これは川端を研究すると分かる。当書のメッセージは自殺を考える啓子への「生きよ、生きよ」と解説した。戦争未亡人などを「死」から「生」に引き戻し、戦後の「生」の道を歩ませるのに、特攻隊員の朽ちる事がない「生命」が鼓舞激励の谺を響かせている。川端は隊員の出撃を止める事はできず、見送るしかなかった。隊員の死をため込むしかなかった。彼は重責を宿業である文学によって、無念の「死」を永遠の「生」に昇華させた。

・話を『鴾色の武勲詩』に戻す。シイちゃんは酒場のママになっていた。初めは口が重たかったが、やがて変化し、声まで艶を帯びてきた。川端に続き、山根恭輔の兄・小弥太少尉(金子少尉)について語られる。「少尉は『ねこ』と呼ばれ、不機嫌で暗い顔をしていました。寄り付きにくいが、気になる人でした」。彼が不機嫌なのは、何度も出撃ができなかったからだ。そして鹿屋で古狸になっていた。彼は孤独が嵩じたが、その傷を埋めたのが報道班員の川端と理髪店のテルさん/シイちゃんだった。

・当書のメインは、シイちゃんの告白である。1945年4月下旬、シイちゃんが理髪店に戻ると、男の呻る声とそれを慰めるテルさんの囁きが聞こえる。
 電燈の光は布の筒で絞られていたが、テルさんが正座しているのが見える。「さあ、母さんだと思って」。着物の襟は開かれ、球形の乳房が揺れている。「力いっぺ、握ってみて、少尉」。乳房を匿す前、少女の躰に痛みが刺した。潤んだ声がした。「これで大丈夫じゃ。立派に敵艦に当たれる。私がおまじないをかけたから」。
 シイちゃんは男を山根少尉と悟った。暗い道を感動と共に駆けた。

・それからシイちゃんは、山根少尉に女の感情が芽吹く。シイちゃんは、母性愛で包み込むテルさんを羨望していたが、その感情も変化する。あの「おまじない」を山根少尉だけでなく、幾人かにも施していたのだ。これは許せなかった。その後、この感情が爆発する。彼女は草むらで、山根少尉と2人だけの時間を持つ。
 「僕は日本を滅ぼそうとする連中のために死ぬんじゃない。僕より若い人のために死ぬんだ。日本の大人はダメだ。これからはシイちゃん達がしっかりするんだ」。少女に「すっぱいうずき」が沁み渡った。
・少尉は童話「あわて床屋」を歌い始めた。蟹が兎の耳を切るところで、少尉は指を鋏にして、少女の耳を摘まんだ。
 私は少尉に縋りつきました。「おばちゃんにしたようにして下さい」と胸を開き言ったんです。「何言ってんだよ、シイちゃん」と言い、両掌で私の頬を押さえました。私は「いや、いや」と頸を振りました。その時、理髪店で見たのはこの人でなかった気がして、嬉しくて、泣きじゃくりました。

・山根恭輔はシイちゃんに「有り難う」と言うと、シイちゃんは「あなたなんか、何も知りはしない」と怒りをぶつけました。「私がその時何を思ったか教えてあげるわ」と言い、話を続けた。
 山根少尉がじきに死ぬと思うと倖せだった。直ぐに命令が下り、死んでと願った。「山根少尉、死んで下さい、直ぐに死んで」と言うと、「シイちゃんまで、俺が死ねない卑怯者と思っているのか」と怖い顔になった、私は「違うの、少尉さんが好きだから」と伝えた。この人がなくなると、私も死のうと心に決め、また泣きました。
 生きて帰って欲しいとは微塵も思いませんでした。こんな痩せっぽちな床屋の娘でも、明日にでも死ぬ少尉だからこそ得られる倖せだと、16歳の娘でも分かっていたのです。死ぬ、だからこそ好きだったの。それなのに私は死ななかった。

・シイちゃんの告白が、当書のクライマックスになる。山根恭輔は兄が飛び立った時の鴾色のマフラーに付いても聞いている。普通は白いマフラーなのに、鴾色(ピンク色)のマフラーをしていたとの証言があるからだ。シイちゃんによると、テルさんが1枚の大きな布から4枚のマフラーを作り、隊員に与えたらしい。

・ここで論考しないといけないのが、中村少尉(山根少尉)が川端に、どこまで話していたかである。当書では理髪店での「儀式」は4月下旬、「少女の爆発」は5月下旬としている。従って「儀式」の話は川端に話した可能性があるが、「少女の爆発」は話していない可能性が高い。しかし彼は川端を敬愛しており、苦悩する胸の内を話していたと考える。それは彼が家族に送った最後の手紙に「先生と色々お話ししました」と嬉しそうに書いているからだ。最初は浅草の話だったかもしれないが、次第に距離が縮まり、傷心・鬱屈まで吐露したのではないか。逝き遅れた恥辱、理髪店を訪ねた事なども話しただろう。川端は男だけの密室集団に、女性が介在する事を不思議には思わず、母性を持つ女性が光を授ける事も必然と思っていたはずだ。

・私が理髪店での「儀式」を川端に話しただろうと推測する理由は、『虹いくたび』で啓太が百子の「乳碗」を作り、水盃し、出撃したからだ。第10章「特攻体験の揺曳」で、このヒントは森丘少尉の沓形茶碗がヒントとしたが、金子少尉の「儀式」の話を聞くと、こちらもヒントになったと考えられる。
・神山は鴾色のマフラーに話を進める。彼は鴾色のマフラーを兄の苦悩や救いや、特攻隊員の散華するしかなかった生きざま死にざまの象徴にした。これに対し、川端は理髪店の「儀式」から女性の乳房を象徴にした(※川端の場合は娼家との併用かな)。乳房は「生命」の象徴であり、生を死に還元する際に必要とされたのだ(※簡略化)。これが鹿屋体験が川端文学に転生される際に、乳房が必要とされた理由である。
・特攻基地は男性原理に支配されているようだが、女性原理も沁み入っている。それはそこが人間の生の場であるからだ。男は女性的な物がなければ、生きれず、死ぬ事もできないのだ。死を前に男は乳房を求め、女は乳房を触れさせながら「○○さん」ではなく「少尉」と呼びかけた。これは男女の密事ではないし、性欲のはけ口でもない。シイちゃんが感動したのも理解できる。これも紛れもない「生命」の輝きである。

・もう1つ課題がある。草むらでの少女の爆発を、川端が知ったかである。時期的には微妙だが、川端は察知していたのではないか。シイちゃんは「一旦キィと見つめた後、少しずれて『やぁ』と声を返してくる」と言っている。彼は、いたいけない蕾の中に、女の激しい炎を感じていたのでは。「この少女が・・」の意外性が、彼にそうさせたのでは(※考えすぎかな)。最も彼の無言の眼差しは伝説化していたのだが(※事例は省略)。
・彼はシイちゃんに質問をしている。「いくつですか?」「16です」。この年齢は曲者である。彼が初恋の伊藤初代に出会ったのが、彼女が13歳の時で、婚約を破棄されたのが15歳の時である。伊豆山中で出会った踊子は14歳である(※『伊豆の踊子』だな)。彼には、この頃の少女に惹かれる傾向がある。
・彼は、隊員からからかわれる少女の硬く折れやすい鉛筆の様な危うさを見逃さなかった。この少女は『生命の樹』のヒロイン啓子に影響を与えている。植木の横で噴き上がる炎にたじろぐ啓子は、理髪店の少女の激しさそのものである。

・そしてこの影響は彼の代表作『雪国』(※以下当書)にも及んでいるのでは。理髪店のテルさんとシイちゃんの関係は、当書の駒子と影の様な娘・葉子との関係に重なる。駒子の年齢は20歳前後で、葉子は幾つか下である。駒子にはモデルがいたが、葉子は彼の想像であり、哀しみを秘めた美しい声の娘である。ただし当書は1935年に発表され、1937年「夕景色の鏡」から「手鞠歌」までが単行本になる。そのため鹿屋体験は影響していない。ところが当書は、その後2度にわたって改訂される。最初は1940年「雪中火事」「天の河」が書き足される。さらに戦後1946年「雪中火事」は「雪国抄」に書き改められ、翌年「天の河」が改稿される。
・戦後の改訂は、戦前・戦後で変わらない物語を書きたかったためだろう。しかしこの改訂が『生命の樹』と同時期なのが気になる。この改訂に鹿屋体験、特にCちゃん(シイちゃん)が影響しているのでは。当書で大きく改訂されたのが、ラストシーンの繭倉が燃えるシーンである。物語は静謐に進んでいたのに、最後で村がひっくり返る程の大騒ぎになる。そこで落下するのが葉子で、彼女は駒子を超えるヒロインになる。川端はCちゃんの影響を受け、戦後に改訂したのでは。※考え過ぎかな。

・葉子は落下後、「失心」したとある。これは亡くなったと考えられる。島村と駒子の情愛が描かれてきたが、葉子を生贄として殉じさせた。(※葉子が繭倉の2階から落下する場面が引かれているが省略)。ここでも川端は「生命」と「命」を使い分けている。「生命」は「内生命」として表現しているが、これを同様に『散りぬるを』でも使っている(※残念だが、解説はない)。
・葉子の落下は華が散るようであり、これは特攻隊員の二重写しに見える。炎に包まれ落下し、これは正に特攻隊員の悲劇である。葉子と隊員の死が谺し、哀しみが谺している。「命」は尽きるとも、「生命」は谺する。そして夜空に星が降る。(※当書のラストシーンが引かれているが省略)当書はこれで閉じられる。この「天の河」の下りは、『生命の樹』で植木と啓子が夜空を見上げるシーンと重なる。そしてその淵源は、市島少尉がレンゲ畑で見上げた月夜である

・川端の鹿屋体験は、彼の生涯72年の1ヵ月に過ぎない。当書のラストシーンをCちゃんとするのは、余りにも身勝手な屁理屈かもしれない。しかし私には確信がある。川端が報道班員であった事を多くの人は知らず、驚く。しかし彼は死の坩堝に身を置き、得難い体験をした。彼は死に親炙した作家と言われる。幼少期からの肉親の死、島木健作/横光利一などの同志の死がある。そして戦争による、特攻も含めた夥しい死がある。彼はこれに鋭敏に反応し、生命の文学を紡いだ。これらを引き取り、無念を熟し、濾し、哀しくも美しい旋律を奏でた。

・彼は自伝的小説『天授の子』(1950年)に敗戦前の心境を綴っている(本文が引かれているが省略)。1944年8月彼は隣組の防犯群長に任じられる。「夜寒」の言葉があり、これには鹿屋体験が反映されているのだろう(※夜空は毎日訪れ、日本中にあるが)。また「自分の生命は自分一人のものでない」の言葉もあり、これも散華した生命との谺であろう。
・『敗戦のころ』(1955年)に「私は特攻隊員を忘れる事ができない。『あなたはこんな所に来てはいけない』『早く帰った方が良い』と言う隊員がいた。出撃直前まで武者小路を読んでいる隊員もいた。出撃直前に『安倍先生によろしく』と言付ける隊員もいた」と書いている。彼は折に触れ、思い出し、生と死について問い、作品のヒントになっただろう。

・再び金子少尉に戻る。彼は度々出撃の機会を失い、屈辱に束縛された。しかし川端と話し、憂鬱から解放される。川端は何を語ったのか。「散華を逃れた事を恥じる必要はない」と説いただろうし、原隊に復帰する選択も良しとしただろう。いずれにしてもベールを脱ぎ捨てた真剣勝負であったはずだ。彼は「自分は多くの死に立ち会った。そして死を超えた生命に思いを馳せ、描いてきた。特攻隊員にも朽ちる事がない生命が宿ると信じている。その生命を遺された者が受け継ぐ事になる」と吐露しただろう。これに金子少尉は「先生は帰られた方が良い。私は敵艦に突っ込むしか役立てないが、先生は作品で世界の人を感動させられる。日本人は生き続けます。先生は日本人の心を書き続けて下さい」と進言しただろう。

・金子少尉が家族に送った最後の手紙を見たいと思った。『鴾色の武勲詩』に書かれた金子少尉と川端の会話も、他になかったか知りたいと思った。1985年神山圭介(仮名)は亡くなっていたが、妹の美奈子(仮名)さんと連絡が散れた。彼女は長兄が散華した時、中学1年生で、手紙の事をよく覚えていた。しかしその手紙は次兄・圭介が受け継いだが、今は不明になっている。彼女の記憶では、家族には「金子家からは、軍人は私一人で良い」、彼女には「これからは若い人が日本を守れ」などが書かれていたらしい。また「川端と話し嬉しかった」と綴られ、晴れ晴れとした様子が伝わったそうだ。彼女に「なぜ嬉しかったのでしょう」と訊くと、自分の気持ちが晴れた、先生の言葉が身に沁みた、自分の思いを先生に聞いてもらえたを挙げた。
・そして電話の最後で、「兄は先生に生きる力をもらったのだと思います」と述べた。畢竟川端と特攻の関係は、この「生きる力」に極まると感じた。死を前提にした隊員にも、それが必要だった。「十死零生」の身にそれを求めるのは脱腸の思いだが、自暴自棄に陥る事はなく出撃に臨むには「生きる力」を奮う必要があった。川端は真剣に向き合い、それを隊員に与え続けたのだ。川端は長い文学人生で、常に「生命」を謳い上げた。彼は鹿屋でも川端であった。

あとがき

・1972年4月16日川端は仕事場としている逗子のマンションでガス自殺する。その理由は分かっていない。彼の作品の翻訳などを行ったサイデンステッカーは「彼は自殺する人ではない。諦めている人は自殺しない」と述べている。最も睡眠薬の過度の服用による衰弱は激しかったらしい。彼と親交が深かった佐藤碧子は「彼は実体を欠いていた。それでいて消滅のない世界に強く心を惹かれていた。その世界に旅立ちたい誘惑が跳ね返されている様で、罪もないのに拷問を受けている人の様だった」と述べている(※実体を欠くとは、意識朦朧の感じかな)。

・編集者であった伊吹和子は『川端康成 瞳の伝説』に、当日の状況を書いている。
 会社の人が「不思議な経験をした。驚くほど晴れた青空だった」と話をした。それは私が立原の庭から眺めた空だった。
 彼は「七里ヶ浜から江の島を見ていると、凄く綺麗な夕焼けになった。そしたら急に雲が茜色になり、風がざあっと吹き、何百の千鳥が飛び立った。川端先生が亡くなったのが、その時だったのだろう」と言った。
 先生は夕焼けが好きだった。あの輝いた雲が先生を導いたのだろう。そして無数の千鳥がお供したのだろう。
・川端が亡くなったのは午後6時頃で、その頃美しい夕焼けの中で、浜千鳥が飛び立ったのだ。彼は『千羽鶴』の続編を『浜千鳥』(1953年)として書くが、取材ノートが盗まれ、中断された。彼のマンションから海が見え、夕焼けも浜千鳥も見えただろう。浜千鳥を見たとしたら、何が去来したのか。伊吹は浜千鳥の飛び立ちに、彼の旅立ちを重ねた。
・川端は茜色に染まる空の浜千鳥を見て、朝焼けの空に飛び立つ特攻機を思い出したのでは。隊員は短い人生を彩った思い出を胸に、十死零生の道を進んだ。彼も27年後に同じ道を進んだ。彼は多くの人の死に出会い、「私はもう死んだ者として、あわれな日本の美しさの他の事は、これから1行も書こうとは思わない」と述べた。此岸と彼岸の境は限りなく曖昧で、茜色の夕日に溶けた。その最期も、自身が見送った生命とおのれの生命が谺を交わした。浜千鳥の舞いと共に天翔した。

・本書は鹿屋の同人誌『火山地帯』に5回に亘り連載した。それに、はじめに/あとがきを加え、単行本にした。川端の作品は旧字旧仮名遣いなので、極力現代表記にした。取材・調査は、特に鹿屋航空基地史料館の久保田広美に世話になった(※以下省略)。

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